Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, September 30, 2008

*Short Essays on Oct 1st

●不愉快な手紙

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兄の49日の法要も無事すみ、葬儀に
参列してくれた人たちに、一品を添えて、
あいさつの手紙を出した。
「香典返し」というのである。
それについて、Fさんという女性(85歳
くらいか?)から、手紙が届いた。

++++++++++++++++++

Fさんという女性は、母の親しい友人であったらしい。
名前だけは、ときどき耳にした。
1、 2度、会った記憶はあるが、顔までは思い浮かばない。
その女性から、香典返しに対して、返事が届いた。
が、その手紙を読んで、言いようのない不快感に包まれた。

いわく、
「お母さんを大切にしてあげてください」
「毎日でも、見舞いに行ってやってください」
「甘いものが好きだったようなので、~~を買ってあげてください」
「私は見舞いに行けませんので、かわりに行ってあげてください」
「くれぐれもよろしくお伝えください」
「私も介護で苦労したので、経験がありますが、あなたの姉さんは
たいへん苦労されましたよ」などなど。

一読すると、母のことを心配して、そう書いてきたようにもみえる。
姉のことをほめたたえているようにもみえる。
しかしその一方で、あたかも私が何もしていないかのようにも読める。
Fさんという女性は、私が地元にいないというだけで、そう思っているのだろう。
それはわかるが、親しい人からならともかくも、私はFさんという人を、ほとんど
知らない。
こういうのを、私たちの世界では、「内政干渉」という。
もう少し端的に言えば、「いらぬ節介」。

岐阜のあの地方では、こうした権威主義がいまだにのさばっている。
たった1~2歳年上というだけで、年長風を吹かす人は、いくらでもいる。
相手が年下というだけで、平気で説教をしてくる。
Fさんにしても、友人の息子というだけで、「子分」か何かのように思っているのだろう。
が、どうもそれだけではないようだ。
私はその手紙を読んで、「ベタベタの依存性」を感じた。
反対に言えば、独立心の旺盛な人は、こういう手紙を書かない。
たとえ親しくても、こういう内政干渉はしない。

というのも、(依存性)や(独立心)には、双方向性がある。

よくある例が、依存性の強い子ども。
親は、「甘えん坊で困ります」とこぼすが、そういう甘えん坊にしているのは、親自身。
さらに言えば、自分自身が(甘えん坊)だから、子どもの依存性に気がつかない。
子どもの依存性に、どうしても甘くなる。
甘えてくる子どもに対して、表面的には、「いやね」「困っています」と言いながら、
そういう子どもを「いい子」「かわいい子」と許してしまう。
だから子どもはますます依存性をもつようになる。

さてFさんという女性。
私なりの返事を書こうと思ったが、やめた。
そういう女性を相手にしたところで、得るものは何もない。
それに母の友人は友人。
いろいろ世話になったのかもしれない。

が、一方、独立心の旺盛な人は、相手を、同じように独立した人とみる。
相手の立場を、独立した人として、尊重する。
たとえばこういうケースでも、「それぞれの家庭には、それぞれの事情があるのだろう」
とか、「それぞれの家の人は、それぞれにがんばっているのだろう」と考えて、それで
すます。

相手から相談でもあれば話は別だが、内政干渉など、もってのほか!

そうそう先日、ある冠婚葬祭についての本を読んでいたら、こんなことが書いて
あった。
「冠婚葬祭には、横ヤリはつきもの。
あれこれうるさく言ってくる人が、かならず1人や2人はいる。
しかし金(マネー)を出さない人の意見は、無視すればいい」と。

まったく、同感である。

だれだって口を出すことくらいなら、できる。
しかし金(マネー)を出す人は少ない。
ほとんど、いない。
だから私たちの世界では、こう言う。
『口を出すなら、金を出せ』と。
独立心の旺盛な人ほど、そう言う。
言い換えると、『金を出さないなら、黙っていろ』となる。

で、私は母に万が一のことがあっても、葬儀は質素なものにするつもりでいる。
「質素」ということは、「質素」。
費用を安くすますという意味ではない。
無駄な見えや体裁は、とりつくろわないという意味。
が、そういう葬儀をすると、干渉してくる人たちがいるはず。
すでに「親の葬儀は、借金をしてでも、(派手に)やれ」と言ってきた人がいる。
しかし私は、私。
喪主になるのは、私。
私は私のやり方でやる。

僧侶による読経については、すでに郷里の寺の住職に、こちらへ来てしてもらうよう、
頼んである。
住職も、こころよく承諾してくれた。
が、それ以上に、葬儀に、何が必要なのか。

「形」だけの人間関係には、もう、うんざり。
「形」だけの葬儀にも、もう、うんざり。
形だけ整えて、それをすませば、それでよいというのか。
人間の命は、もっと厳粛なもの。
日本の葬儀には、その(厳粛さ)そのものが、欠けている。
よく誤解されるが、派手な葬儀であればあるほどよいと考えるのは、バカげている。

Fさんという女性がどんな人か、実際のところ、私は知らない。
郷里では、たいへんな哲学者なのかもしれない。
しかし一片でも良識のある人なら、見知らぬ相手に対して、こんな手紙は書かない。
書けない。

私はワイフにこう言って、手紙を手紙入れにしまった。
「まあ、いいほうに解釈しよう。Fさんという女性は、心のやさしい人と」と。

もしFさん、あなたが、このエッセーを読んで不愉快に思ったら、こう思ってほしい。
あなたが不愉快に思った以上に、はやし浩司は、不愉快に思った、と。

(今日のこのエッセーは、少しきびしいかな?)


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●10月1日

今日から10月1日。
しかし数日前から、急に寒くなった。
で、さっそく私は長袖のシャツにセーターを着た。
それを見て、一人の女子中学生がこう言った。
「先生、もう、冬服を着ているの?」と。

見ると当人は、半そでのシャツ一枚で、ガタガタと震えているではないか。

私「あのなあ、寒かったら、セーターを着ればいいの」
女「でも、冬になったら、どうするの?」
私「この上に、革ジャンでも着ればいい」と。

実は、私は寒いのが苦手。
(最近は、暑いのも苦手になったが……。)
気温に応じて、季節にかまわず、衣服で体温を調整している。
「夏だから夏服」「冬だから冬服」と決めてかかるほうが、おかしい。

とは言っても、今日から10月1日。
日本では、「衣替えの日」と呼んでいる。
堂々と冬服が着られるのがうれしい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●大恐慌

今朝の新聞の一面に、「(世界的な)大恐慌」という文字が並んでいた(中日新聞)。
銀行の連鎖倒産が始まり、つづいて企業の連鎖倒産、縮小、失業者の増大が始まる
という。
すでに不動産業界は、どしゃ降りの不景気。
しかし「待ったア!」。

「日本はだいじょうぶ」とまでは書けないが、「日本は、波はかぶるかもしれないが、
ズブ濡れにはならない」。
20年前にバブル経済が崩壊したときから、日本は、賢くなった。
昨年までアメリカや中国がバブル経済に踊ったときでも、日本だけは、「ミニ・バブル」
の範囲で、それを収めた。
現に今、ヨーロッパやロシアでも、大銀行がつぎつぎと国有化される中、いまだ、日本の
銀行で国有化の話が出ているのは、一行もない。

日本の借金も高額だが、しかし日本は、外国からは、金を借りていない。
借金といっても、親が息子や娘に借りるような、いわば身内の借金。
しかも政府には、1000兆円近い国有財産がある。
国民も1000兆円近い、金融財産をもっている。

では、なぜ今、アメリカの経済が、ころんだのか?
むずかしい話はさておき、そんなことは、アメリカの家を見ればすぐわかる。

アメリカでは銀行の中堅サラリーマンですら、日本では考えられないような大豪邸に
住んでいる。
映画『ホーム・アローン』に出てくるような、大豪邸である。
私もアメリカでそれを見たとき、こう思った。

「アメリカ人がこんないい生活できるのは、日本のような国が、せっこらせっこらと、
アメリカのドルを買い支えているからだ」と。

すでに10年近くも前から、アメリカのドル札は、紙くず同然になりつつあった。

一方、産業はどうか?
基本的には、アメリカの産業構造は、ブラジルの産業構造と同じとみてよい。
そのことも、アメリカのホテルに泊まってみると、よくわかる。
由緒ある、一流ホテルでもよい。

広い部屋に、豪華な調度品。
しかしよく見ると、アメリカ製のものは、何もない。
テレビは台湾製、電気器具類は中国製、毛布、シーツも中国製などなど。
かろうじて家具だけはアメリカ製だが、裏から見て、びっくり!
クロゼットにしても、表には豪華な彫刻(?)などがほどこしてあるが、裏から見ると、
ベニヤ板をたたきつけたよう。

それを見て私は、ワイフにこう言った。
「こんな家具は、日本だったら、売れないね」と。

アメリカがアメリカなのは、軍需産業(=軍事力)と映画産業、それにコンピュータの
ソフト産業があるからである。
それをのぞけば、ただの農業国。
そういう国が、基軸通貨であることをよいことに、双子の赤字をものともせず、ドル
紙幣を世界中にバラまいてきた。
その結果が今である。

ドルの価値が半減、もしくはそれ以下になるかもしれない。
その分だけ、日本の海外資産も半減、もしくはそれ以下になるかもしれない。
が、恐慌には巻き込まれない。
というのも、日本の銀行には、不良債権は、ほとんど残っていない。
個人負債もほとんどない。
心配なのは、証券会社などを通して海外投資をしてきた個人投資家たちである。
こういった人たちは、今年末までに、数10兆円近い損失を出すかもしれない。
しかしそれとて、少し言葉はきついが、自業自得。

ではどうするか?

この世界には、「ふんばり勝ち」という言葉がある。
最後までふんばったほうが、勝ち。
とりあえず、韓国には、自由主義貿易圏から退散してもらう。
つづいて中国にも、退散してもらう。
日本は最後の最後まで、手持ちの金融資産をしっかりと握り、ふんばる。
あとの結果は、世界に任せればよい。

日本は今回の「大恐慌」をきっかけに、世界の金融王国として、躍り出ればよい。
日本があえて手を出さなくても、そうなる。
(この意見は、少し過激かな?)

*E is coming back home, Oct.1st

●鍋料理

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私は若いころ、鍋料理が嫌いだった。
ああいうのは、老人食と思っていた。
が、ここ10年(あるいは20年かな?)、
鍋料理が好きになった。
とくに今夜のように肌寒い夜は、ありがたい。

ワイフと私が鍋をつつき始めていると、
息子が仕事から帰ってきて、そのまま合流。
3人で、ああでもない、こうでもないと言って、
鍋料理を楽しむ。

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●三男が帰ってくる

10月x日に、三男がアメリカから帰ってくる。
訓練を終え、1か月半の休暇がもらえるという。
「いいなあ~!」。
が、それが終わると、今度は実機(777)での訓練が
待っている。
その訓練にあと1年。
それが終わって、やっと副操縦士。
訓練だけで、すでに5年になる。
あと1年。
よくがんばったと思う。
航空大学校でもそうだったが、チェックテストで
不合格になると、そのつど、そのまま退学もしくは、
配置転換。
パイロットの世界には、再試験とか追試とかいうのは
ない。
そのまま、おしまい。

資格試験だけでも、無線士、気象予報士に始まって、
20~30種類は受けなければならない。
今では毎年、英語の試験も受けなければならないという。
それに飛行機というのは、機種ごとに操縦免許が
必要。
777を操縦できるからといって、エアバスも操縦
できるというわけではない。
「たいへんだなあ」と思うと同時に、「私にはでき
なかった」と思う。
私も一時は、パイロットの道をめざした。

で、私とワイフの夢。
三男の操縦する飛行機に乗ること。
今までは「機長になったら乗ろう」と言いあっていたが、
「副機長でもいい」と。
機長になるのを待っていたら、あと何年かかるか、
わからない。
10年先では、飛行機には、もう乗れなくなるかも
しれない。

息子たちは、今、この日本や、地球を、外の世界から
ながめている。
私のとはちがった人生観をつくりあげているはず。
私にはそれがどんな人生観かわからないが、私は
「これでよかった」と思っている。

「どんな人生観だろう?」と想像しただけで、ワクワク
するではないか。

がんばれ、息子たち!
迷わず、まっすぐ、自分の道を進め!

Monday, September 29, 2008

*Sep 30th, Comments on this morining news

●今朝のニュースから

●金融安定化法案否決

アメリカの下院は、7000億ドルの金融安定化法案、つまり
公的資金投入法案を否決した(9月29日)。
結果、アメリカのダウ工業株30種平均が、777ドルも
さがった。
ブッシュ大統領は、再採決をもくろんでいるが、再度否決
されたら、アメリカどころではない。
世界経済は、ほんとうに奈落の底に転落してしまう。

わかりやすく言えば、現在、「経済」の世界では、世界大戦
規模の「戦争」が起きているということ。
「私には関係ない」なんて思っていると、たいへんなことに
なる。
「経済」のこわいところは、「様子見」などと、のんびり
構えていると、あっという間に、動いてしまうこと。
日本でも取り付け騒ぎが起きるのは、時間の問題と考えてよい。

この際、現金化できる預金などは、できるだけ早く現金化して
おいたほうがよい。

とくに証券会社の窓口の女性の言葉は、ぜったいに信用しないこと。
「だいじょうぶです」と言ったら、「あぶない」という意味。
「安全です」と言ったら、「危険です」という意味。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●留学生斡旋会社倒産

どこかの留学生斡旋会社が倒産した。
かなりずさんな会社だったらしい。
が、その費用を見て、びっくり!
まさに「詐欺」!

自分でインターネットを使って申し込めば、
原則として、入学の申し込みは、ただでできる。
大学付属の語学校にしても、無試験が原則。
(もちろん渡航費、学費、滞在費は別だが……。)
それを手続き代と称して、100~150万円程度もの費用を
取っていた!

入学許可がおりれば、下宿先などは、
たいてい大学のほうで、世話をしてくれる。
費用は実費。

どうしてみなさん、こんなインチキ会社に
ひかかるのだろう。

念のため、自分でできる方法をここに書いておく。

(1) 大学の情報を集める。
語学校(Language Institute)の情報を集める。
インターネットを使って調べれば、瞬時にできる。

(2) 入学申込書(願書)があるので、それに必要事項を書き込む。

(3) 入学許可書が届いたら、大使館へ学生ビザを申請する。
(これも最近ではすべて、インターネットを介してできる。)

(4) その前後に、大学へ直接、学費の振り込みをする。

(5) 入学許可書には、たいてい下宿の申込書、あるいは寮の申込書が
添付されているので、希望に応じて、それに申し込む。

(6) あとは航空チケットを購入。
オーストラリアやニュージーランドのばあいは、大学の係員が、空港まで
出迎えてくれる。もちろん無料!

こんな簡単な手続きのために、100~150万円だと!
「詐欺」という意味が、これでわかってもらえた思う。

(注意)
よく高校前の電柱などに、「海外留学~~説明会」とかいう張り紙がしてあるのを
見かける。
しかしああいうのには、顔を出してはいけない。
たいてい会場は、フカフカのジュータンが敷き詰められた、高級ホテル。
会場へ入ると、甘いコーヒーの香りと、静かな音楽。

ピカピカのスーツを着た男女が、にこやかに立っている。

そういう雰囲気で説明会は始まるが、すでにそのとき、集まった人たちは、
催眠術でもかけられたような状態になっている。
あとはインチキ会社の思うがまま。
100~150万円のインチキ契約に、サインをしてしまう。

自分で入学申込書も書けないような学生は、海外留学など考えないこと。
もとから「無理」。
留学しても、遊ぶだけ。
もしあなたの子どもが、「留学したい」とでも言ったら、あなたはこう言えばよい。
「手続きは、すべて自分でしなさい。それができなければ、留学はあきらめなさい」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●1ドル=1224ウォン!(9月30日、午前9:30現在)

7000億ドルの金融安定化法案が否決された。
その動きを受けて、アメリカドルは、世界的に全面安。
各国通貨は、値をあげた。

現在日本円は、1ドル=104円。

が、ひとり韓国の通貨だけは、ウォン安。
現在韓国ウォンは、1ドル=1224ウォン!

アメリカのドルも売られているが、それ以上の勢いで、韓国ウォンが、猛烈に
売られている。
「1224」という数字は、そういう数字である。

まだはっきりとした数字は出てこないが、韓国銀行の手持ち外貨は、すでに
底をついているはず。
これ以上、為替相場に介入したら、年末の借金が返せなくなってしまう。
なすすべもない。
指をくわえて、見ているだけ。

そのため危機ラインと言われていた、1200ウォンをあっさりと、超えて
しまった。

ゆいいつの救いは、日銀が、市中へのドル資産の大放出を決めたこと(9月29日)。
韓国経済救済のためというわけではないが、これによって、韓国経済は、
何とか生き延びられるはず。
(あるいは、それも無理かも? 9月危機の結果は、今夕までにわかる。)

*My little Hobby *Who loses something by losing something?

●小型ヘリコプター

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少し前から、おもちゃの小型ヘリコプター
に凝っている。
現在、7~8機、もっている。
値段は、2000~8000円前後。
今日も、1機、買った。
3チャンネル仕様のもので、結構、重量感がある。
「重量感がある」というのは、この種のおもちゃにしては、
重いということ。
値段は、12000円だった。

(3チャンネル仕様というのは、上昇・下降、
左右旋回、前進・後進の、3つの動きをコントロール
できるという意味。)

++++++++++++++++++

若いころは、ラジコンの飛行機やヘリコプターを
よく飛ばした。
しかし当時は、(今もそうだが)、値段も高く、
それに操作が難しかった。
たいてい3、4回も飛ばすと、墜落。
そのまましばらくどこかに飾ったあと、
ゴミになったりした。

が、昨年くらいから、手のひらに載るような
小さなヘリコプターが発売されるようになった。
とたん、私は、小型ヘリコプターにとりつかれて
しまった。

部屋の中で、気軽に飛ばせるのが、よい。
ふと気が向いたようなとき、飛ばせるのも、よい。
ただしラジコンといっても、きめのこまかい操作は
できない。
スイッチONで、突然、ビューンと舞いあがったりする。
OFFにしたとたん、そのまま墜落。
が、慣れてくると、ヘリコプターのもつクセを
うまく利用して、部屋の中を自由に旋回させるようなことが
できるようになる。

結構、この世界も、奥が深い。

もちろんきめのこまかい操作のできるのも、ある。
デジタル・プロポーショナルというプロポ(送受信機)
付きというのが、それである。

今日買ったのは、そのデジタル・プロポーショナル付き。
目下、充電中で、まだ飛ばしてないが、楽しみだ。

そう言えば、何かの雑誌に、「団塊の世代には、小型ヘリ
に凝っている人が多い」と書いてあった。
私もその1人。
なぜか?

ひとつには、私たちの世代は、ほかの世代とくらべて、
空へのあこがれが強いということがある。
小、中、高校時代、私たちはいつもどこかに、大きな
圧迫感を覚えていた。
といっても、それを自覚していたわけではない。
息苦しいのが当たり前で、その息苦しさそのものが、
よくわからなかった。
もがいていることも知らず、ただひたすら、その中で、
もがいていた。

「自由になりたい」というばく然とした思いが、
「空へのあこがれ」へと変化していったのではないか。

が、この状態は、社会へ出てからも変わらなかった。
「企業戦士」「猛烈社員」ともてはやされて、ただひたすら、かつ、
がむしゃらに、あの高度成長期という時代を生き抜いた。
それこそ、遊ぶ時間も惜しんで、仕事に励んだ。

いや、それとて今になってわかること。
当時の私たちは、「遊ぶ時間も惜しんで」という意識もないまま、
それを当たり前のこととし、家族を犠牲にし、自分の
時間を犠牲にして、働いた。

しかしその意識、つまり犠牲にしたという意識も、あまりなかった。
が、こんなことはあった。
欧米人が、たとえば1~2か月も夏休み(バカンス)を
とると聞いたときのこと。
「あいつらバカじゃないか」と思ったことがある。
「1~2か月も休んで、仕事はどうするのだ」と。

意識というのは相対的なもので、私がそう思ったという
ことは、同時に、私たちの意識が、欧米人の反対側にあった
ということになる。

しかし本当にバカだったのは、どちらだったのか?
今になってみると、ひょっとしたら私たちのほうが
バカだったかもしれない。

それを認めるのはつらいことだが、悪いことばかりでもなかった。
まだ私など、余裕のあるほうだった。
そのつどいろいろな趣味をもって、それを楽しむことができた。
先に書いたように、ラジコンの飛行機も飛ばしたし、
ヘリコプターも飛ばした。

で、今は、小型のヘリコプターを無心になって飛ばす。
ガチャンと墜落して、ひっくり返ったのを見て、
あわててかけつける。
傷んでないことをたしかめながら、またそっと、
空にそれを浮かす。。
それを見て、ほっとする。

私たちの世代に欠けていたものといえば、そういう
(バカを楽しむ心)ではなかったか。
今にしてみると、それがよくわかる。

小型のヘリコプターを飛ばしながら、別の心で、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●売買

++++++++++++++++++

今月は、土地の売買について、大きな
動きが2つあった。

ひとつは、小さな土地を売ったこと。
もう一つは、30年ほど前に買った山林を、
売りに出したこと。

小さな土地については、坪5万円という、まあ今の
相場感覚からすれば信じられないほど安い値段で売った。
もちろん宅地である。

「売った」というより、「早く縁を切りたかった」。
それでその値段で売った。

もうひとつのほうの山林は、ある知人にだまされて
買った。
当時ですら、相場の10倍。
今売っても、当時の値段の、6分の1にもならない。
あるいはそれ以下。
一言、「(だまして)すまなかった」と言って
くれれば、私も救われるが、本人には
その意識はない(?)。

「山は値段ではない」とか、「オレを信じろ」とか、
勝手なことを言っている。

昔から山師というのは、そういうもの。
詐欺師の代名詞にもなっている。

よく調べもせず買った私が、バカだった。

が、この世界には、損得は、つきもの。
損得を通して、人は何かを失い、何かを得る。
ただ誤解してはいけないことは、損をしたからといって、
何かを失うということではない。
得をしたからといって、何かを得るということでもない。

坪5万円だったが、おかげで私は、その土地のもつ
呪縛感から解放された。
気が楽になった。
一方、私をだましたその知人は、そのあと定職にもつかず、
貧乏の底をはうような生活をつづけている。
一方、高い授業料だったが、私はそれで少しは賢くなった。

ワイフはこう言う。
「死ぬまでに、少しずつ、処分していきましょう」と。
どうせ死ねば、この宇宙もろとも、私は消える。
「財産」というものがあるなら、まだ元気なうちに、
有効にそれを使ったほうがよい。
損か、得かということになれば、健康で、楽しくすごせる
ことにまさる「得」はない。
言いかえると、損をするほどの財産があったというだけでも、
もうけもの。
何もない人は、もとから損など、しない。
損から、得るものもなければ、学ぶものもない。

さらに言えば、他人をだまして得をしたような人は、
所詮、その程度の人間。
その程度の人生で、終わる。
人に軽んじられ、だれからも相手にされない。

そのほうが、よほど損だと私は思うが、恐らく、そのタイプの
人間には、それすら気がつかないだろう。
どこまでもあわれで、かわいそうな人間である。

……そう、私の財産。
それは今の、幸福な家庭ということになる。
心底、私を理解してくれるワイフ。
授産施設で、指導員として生き生きと働く長男。
アメリカに移住し、大学のコンピュータ技師として働く二男。
空が好きで好きでたまらない三男。
それにすくすくと育っている2人の孫。

それにまさる財産が、ほかのどこにある。

……とまあ、そう言いきかせながら、自分を納得させる。

『欲多ければ身をそこなひ、財(たから)多ければ身をわづらはす』(老子・
「浮世物語」)という。

欲もほどほどに、財産もほどほどに、ということか?

Sunday, September 28, 2008

*September Crisis in South Korea has come true!

●韓国・9月危機が現実に!(September Crisis in South Korea)

++++++++++++++

9月29日。

今朝は、雨。
小雨。
木々の小枝を揺らすこともなく、
静かな雨が降っている。

こういうときというのは、
何かと人恋しい。
そっと冷めたお茶を飲む。
天井を見上げる。

どこかでスズメが鳴いた。
その声で、ふと我に返る。
今日も始まった。
今週も始まった。

++++++++++++++

●70兆円!

アメリカ政府は、不良債権を買い取るために、
70兆円規模の公的資金を投入することにしたという。

その点、アメリカは強い。
だれに遠慮することもなく、ドル紙幣を印刷する
ことができる。
印刷機を自由に、回すことができる。

世界中が、ドル札でジャブジャブになったところで、
アメリカの知ったことではない。
もともとあの国は、自分勝手。
無責任。

が、この日本も動き出した。
今まで、日本は、ためこんだドルを、使うことも
できなかった。
アメリカのドルを買い支えるため、せっこらせっこら
とドルをためこんできた。

ずいぶんと前の話だが、橋本総理大臣の時代に、
橋本総理大臣が、「手持ちのドルを5%だけ、他の通貨に
替える」と言っただけで、アメリカ政府はそれに
対して激怒した。
結果的に、橋本総理大臣のクビは、それが原因で
吹っ飛んでしまった。

が、今は、そのドルを堂々と使うことができる。
使って、瀕死状態のアメリカの銀行や証券会社の
買収に乗り出した。
今度ばかりは、アメリカ政府も、文句は言えまい。

しかし70兆円で足りるのか?
日本政府は、日本のバブル経済が崩壊したとき、
数年にわたって、30兆円規模の公的資金を市場に
投入した。

皮肉なことに、公的資金の投入に、もっとも強硬に
反対したのが、アメリカ。
そのアメリカが日本にならって、日本がしたのと
同じことをしている。

今朝の株価は、にもかかわらず、あまりパッとしない?
プラス110円程度の上昇。
やはり70兆円程度では、力不足?

が、同じ為替でも、韓国の通貨があぶない。
選手末、1ドル=1160ウォン前後だった
ウォンが、今朝(9・29)は1172ウォン!
これが1200ウォン程度までにさがれば、
約70%の中小企業は倒産すると言われている。
『中小企業中央会は、ウォン相場が対ドルで、
10ウォン下落するごとに損失が1000億ウォン
(約91億円)膨らむと推定している』(中央N報)と。

ウォンを買い支える外資も、今月中、底をついたはず。

日本の知ったことではないが、目が離せない。

(注:午前9:00に、1ドル=1170ウォンだった
為替相場が、午前9:30には、1180ウォンにまで、
さらにさがった。「9月危機」が、いよいよ現実になってきた!)

*Night Walking with my Wife

● 夜の散歩

+++++++++++++++++++++

このところ、やや運動不足。
風邪の症状も治まったので、ワイフと散歩に出かける。
コースは、一度バイパスに出て、コンビニに寄る。
そこから大通りに沿って佐鳴湖へ。

距離にして、5キロくらいか。
私はハナ(犬)のロープを左手に、懐中電灯を右手に。
ワイフは、バッグと傘。
出かけるとき、パラパラと小雨が降り出した。

++++++++++++++++++++

● 楽しみ

「楽しみ」とは何かと問われれば、私は「生きているという実感」と答える。
もう少しシニカル(皮肉ぽく)な答え方をすれば、「死の恐怖のない自由」ということ
になる。
「生きている」という感覚は、「死の恐怖」の裏返しとして実感できる。
言い換えると、死の恐怖を感じないだけでも御の字。
感謝しなければならない。
喜ばなければならない。
あるいは、それ以上の「楽しみ」はあるのか。

もちろん健康であれば、さらによし。
足が動く。
息ができる。
目が見える。
音が聞こえる。

あとはその「楽しみ」を、どう使うか。
というのも、この「楽しみ」には、限界がある。
時間という限界である。
今の状態が10年つづくという保証は、どこにもない。
が、30年は、ぜったいに、つづかない。
つまり「時(とき)」そのものが、貴重な財産。
刻一刻と、砂時計の砂が下へ落ちていくように、「時」は、減っていく。

「楽しむ」といっても、そういう「時」を無駄には使いたくない。
いや、無駄に使っても、そのあとに残るのは、空しさだけ。
ときに「しまった!」と思うことさえある。

が、今夜の散歩は、楽しかった。
あちこちの記念碑を見たり、通りの看板を読んだり……。
閉店して静まりかえった店の中も、のぞいた。
それぞれの場所で、それぞれの人たちの(思い)を感ずることができた。

家に着くころには、ワイフは、「足が痛い」と言い、私は「背中に汗をかいた」と
言った。
ひんやりとした湿った冷気が、気持ちよかった。
つまりその実感こそが、「楽しみ」ということになる。
「生きているという実感」ということになる。

そうそう、たった今、ハナが牛乳をせがんだので、それを少し分けてやった。


●母の生きがい

毎晩、7~8時ごろ、センターから電話がかかってくる。
朝のときもある。
そのときどき、母を介護する看護士さんや、介護士さんから、母の状態を知らせて
くれる。
先ほどもあった。

母の状態は、一進一退というところか。
危篤と安定を、3~4日ごとに繰り返している。
そのつど、センターへかけつけたり、ほっとしたりしている。

ほかにとくに病気らしい病気のない母だから、人によっては、「100歳まで
生きられそうですね」と言う人もいる。
しかし体重のほうは、毎月のように減っている。
今では小学生のよう。
小学生といっても、小学3~4年生の子どものよう。

昨日も食事が喉を通らなかったということで、点滴で、それをすました。
そういう母の心を思いやる。
「どんな気持ちだろう?」と。

もし母に、自分の境涯を理解できる能力がじゅうぶんあったなら、母は、きっと
自分の境涯をのろうにちがいない。
毎日、毎晩が、孤独との闘い。
生きる目的も希望もなく、また動くこともできず、ベッドの上に横たわっているだけ。

ただ幸いなことに、(それを幸いと表現してよいものかどうかはわからないが)、母には
今の境涯を理解するだけの能力はないと思う。
認知症に合わせて、脳梗塞も起こしている。
面会に行っても、毎回、ほとんど眠ったままの状態。

私は率直に言えば、母というよりは、そういう母を介護してくれる介護士さんのほうに、
頭がさがる。
介護士さんが介護してくれるおかげで、私とワイフは、自由な時間を楽しむことができる。
いや、それとて、自分で母を介護してみて、わかったこと。
老人の介護というのは、ほんとうにたいへん。
母が家にいるときは、毎日、1時間とて、気が抜けることはなかった。
事故も重なった。

もしあのまま母が私の家にいたとしたら、母は、去年のうちに他界していただろう。
だからこそ、介護士さんには、よけいに頭がさがる。

私には今の母の心を読むことはできない。
ないが、今、生きているということが、母の強い意思だと思う。
思うから、生きている以上は、どこまでも生きていてほしい。

私と母の間には、いろいろあったが、今ではそのわだかまりも、消えた。
ベッドの上で横たわっている母は、どこまでも、そしてどこまでもやさしい、
あの慈愛に満ちた母でしかない。

明日は、午前中に、少し時間があいているので、見舞いに行くつもり。
母ちゃん、ありがとう。
そしてがんばれ!
これからも、いっしょに生きていこう!

*C.Hill, do you want to sell yourself to the next President as the only one negotiator with North Korea?

●6か国協議

●おバカHILL、行状記(Be ashamed, Mr. C. Hill!)
C.Hill will come to North Korea soon, but what for? He has been cheated and ignored by the North Korean Government in these 4 years, only giving them money, oil, food, music and time. In the meanwhile North Korea might have developed nuclear weapons more and we are afraid some of our kidnapped Japanese might have already passed away. Why does he go to North Korea now? The reason is quite clear. He wants to sell himself as a negotiator to the next USA government, saying “I am the only one who can talk with the high-officials of North Korea”. We know he knows nothing about Asia. Mr. Bush should know this. The next President of USA should know this.

+++++++++++++++

アメリカのC・Hill国務次官補が、
9月29日、K国に向かうことになった。
今までの言動に、何ら責任を取ることもなく……。

+++++++++++++++

拉致問題では、逆に日本を脅迫。
「拉致問題を一時棚上げにし、K国援助に加われ。
さもなければ、K国のテロ支援国家指定を解除する」と。

これに対して日本が「NO!」と答えると、
C・Hill国務次官補は、本気でテロ支援国家
指定解除に動いてしまった。

が、何といっても最大の裏切り行為は、6か国協議を、
米朝2か国協議にすり替えてしまったこと。
自らを、国際外交の大スターに仕立てるためか(?)。
が、すべてが裏目、また裏目。

先週、K国の国連代表はこう言い出した。
「6か国協議で決まったわけではないので、K国は
約束を守る義務はない」と。
(「6か国」と、たくみに、6か国協議を利用している
点に注目。)

インターネットに配信されているニュースなどを
読むと、K国は、ここ1、2週間のうちに、
N-ビョンの核開発関連施設を、再稼働させるつもり
らしい。
つまりすべてが、白紙に逆戻り!
6年前に、逆戻り!

結局、この4年間の間にC・Hillがしたことは、
K国に、金と原油と食糧と音楽、それに「時間」を
与えただけ。
この間に、拉致被害者の方の中には、亡くなった人も
いるかもしれない。
K国の核兵器開発は、さらに進んだはず。
CIAの元長官ですら、「K国は小型核の開発に
成功しているはず」(08年9月)と述べている。

いいかげんに目を覚ませ、C・Hill!
アジアの「ア」の字も知らない、ド素人外交官!
口にするのは、根拠のない希望的観測ばかり。

追いつめられたC・Hillのつぎの一手は、
K国への直談判。
NIKKEI-NETは、つぎのように、
伝える。

『(9月)29日に米国を出発。30日に韓国で同国首席代表の金塾(キム・スク)外交通商省朝鮮半島平和交渉本部長と協議した後、訪朝する見通し。北朝鮮が北西部寧辺(ニョンビョン)の核施設の復旧に動くなか、米朝の直接交渉で事態打開を狙う』と。

今ごろ、K国へ行って、どうする?
何が変わる?

C・Hillの訪朝意図は見え見え。
自分のクビを次期政権につなげること。
「K国と交渉できるのは私だけ」と。
つまり次期政権への、自分の(売り込み)。

恥を知れ、C・Hill!

【アジア人の特性】

●物活論

幼児の世界には、「物活論」というよく知られた心理的現象がある。
物活論というのは、「ありとあらゆるものが生きている」と考える心理状態をいう。
たとえば風にそよぐカーテンを見ても、それを生きていると考える。
空に浮かぶ雲も、それを生きていると考える。

つまり「物」に、「心」を注入する。
そしてその「物」に、「命」があると考え、その「物」に自分の「命」を代用させる。

が、この物活論は、成長とともに修正される。
「物」と「命」を区別できるようになる。

が、悲しいかな、物活論がそのままおとなになっても、残ることがある。
たとえば日本の仏教には、その傾向が著しい。
仏像に「魂?」を吹きこみ、それを「仏そのもの」と思いこんでしまう、など。
極端なケースになると、『イワシの頭も信心から』となる。
(釈迦自身は、自分に似せて仏像を作って拝むなと強く戒めているのだが……法句経。)

この傾向は、西洋人よりはるかに強い。
つまりその分だけ、アジア人は、精神的に幼稚性が残っているということにもなるが、
それはさておき、仏教の世界でいう、「本尊」には、そういう意味がこめられている。
「物」でしかない「本尊」を、「生きている仏」と思いこむことで、自らの信仰性を支える。

現在のK国、なかんずく金xxにとっては、核兵器そのものが、本尊。
本尊あっての、金xx。
最初から戦略的に核兵器を放棄する意図など、金xxには、みじんもなかった。
最近の情報によれば、すでに金日成の時代から、K国は、地下工場で核兵器の開発を
進めていたとされる。

その本尊を、金xxが、そうは簡単に放棄するはずがない。
ないことは、アジア人の私には、それがわかる。
しかしC・Hillには、それがわからない。
だからド素人!

ついでに物活論について……。

●乳幼児の心理

 乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 このほかにも、乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずることで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられたと考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎えることがある。

*Fairness of Law

●9月28日

++++++++++++++++++++

今朝は、どこか風邪気味?
のどが痛い。
頭痛も少しある。
手を当ててみると、額が、少し熱い。
加えて、悪寒。
「起きようか、それとも寝ていようか」と、迷う。
が、そのまま起床。
うがいをして、服を着る。

せっかくの日曜日。
やりたいことがたくさん、ある。

++++++++++++++++++++

●パソコンの修理

昨日は、パソコンを2台、修理した。
書斎のXPパソコンと、居間のノートパソコン。

書斎のXPパソコンは、メモリーの故障が原因だった。
長い間、調子が悪かった。
ときどき思わぬところで、フリーズしてしまう。
ハードディスクか?
OSか?

メーカーに問い合わせると、「マザーボードかも?」とのこと。

で、VISTAパソコンには、メモリー診断機能というのがついている。
そのVISTAパソコンにメモリーを差し替えて、検査。
するとあっさり、エラー表示。
ということで、原因は、メモリー。

もう1台は、居間のノートブック。
原因はわからないが、たぶん、おとといの雷のせいではないか(?)。
近くでジェット機でも墜落したかのような雷鳴が聞こえた。
で、そのあとOSが立ちあがらなくなってしまった。

しかたないので、リカバリー。
経験のある人ならわかると思うが、パソコンというのはリカバリーすれば、
それでめでたしめでたし……というわけにはいかない。

各種、再設定に始まって、ウィルス対策ソフトの再インストールなどなど。
全体で、4時間ほどかかった。

私はどんなパソコンでも、使うとか使わないとかにかかわらず、ベスト・
コンディションにしておかないと、気がすまない。
だから毎週のように、パソコンの修理を繰り返している。
これが結構、たのしい。

ところで数週間ほど前、ウィルス入りのメールを送ってきた人がいた。
どこか「?」と感じたので、別メールで問い合わせると、「ぼくは、
そんなメールを送っていない」とのこと。

おそらくボットか何かが、その人のパソコンに侵入したのだろう。
そのボットが、勝手にメールをばらまいている(?)。
この世界、油断もすきもあったものではない。
みなさんも、ご注意!


●『ラフマニノフ…ある愛の調べ』

数日前、映画『ラフマニノフ…ある愛の調べ』を見てきた。
ロシア映画だった。
星は、2つの★★。
ロシア映画は、いつも暗い。
どこかジメジメしている。
それで星は2つ。

またライラックの花が映画の伏線になっていたが、それがわかりにくかった。
音楽も、どれも中途半端。
もりあがりにも欠けた。
最初はピアノコンサートにでも行くつもりででかけたが、見終わって、やや
がっかり。

つぎは映画『アイアンマン』を見るつもり。


●三浦K事件

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現在、サイパン島の拘置所に拘留されている三浦Kが、今度、
共謀罪容疑で、犯行地であるCA州に移送されることになった。
一美さん殺しの殺人罪での起訴は、見送られることになった。
かわりに「共謀罪」で、三浦Kは起訴されることになった。
「殺人罪では不起訴。共謀罪で起訴」というのは、私も予想して
いなかった。
ナルホド!
検事たちが考えに考え抜いた、その結果の、苦肉の策ということになる。

+++++++++++++++

が、三浦Kへの殺人容疑がこれで消えるわけではない。
もう1人、三浦Kが何らかの形で、からんでいるのではないかと疑われている殺人事件に、
白石Cさん事件がある。
白石Cさんも三浦Kのすぐ近くにいて、やがて白骨死体で発見される。
三浦Kが、白石Cさんの貯金通帳から現金を引き出していることもわかっている。
当時三浦Kは、たしか「会社の金だった。(だから引き出すのは私の自由)」とか
言っていたように記憶している。
今朝の新聞報道によれば、アメリカの検察は、この白石Cさん事件での起訴も
視野に入れているとか(中日新聞)。

これに対して、三浦Kを日本側で弁護している弁護士や支援団体(?)の人たちが、
「不当判断」と騒いでいる(新聞報道、ほか)。
しかしどうして「不当」なのか?

私の常識がおかしいのか?
それとも彼らの常識がおかしいのか?
私にはわからないが、ただひとつ言えることは、いくら法的には無罪であっても、
それを許さない社会的正義が残っている以上、私たちにはそれを納得がいくまで
追求する権利がある。

もう少しかみくだいて言うと、こうなる。
つまりいくら裁判官が、「無罪だから、みなさんも無罪と思いなさい」と言っても、
そうは簡単にはいかない。
そう思うか思わないかは、最終的には私たち自身が決める。
刑を科することはできないが、だからといって(思い)をねじ曲げることはできない。

法というのは、あくまでも社会的正義追求のための手段でしかない。
もっと言えば、道具でしかない。
ふだんの生活の中では、どこに法があるかさえもわからない。
わからなくて、結構。
それでよい。
法というのは、そういうもの。
またそうでなければならない。

が、ひとたび社会的正義が破られたら、顔を出す。
私たちはそれを使って、その社会的正義を追求する。
それが「法」である。

が、まず法ありき……という社会は、(一応法治国家の建前にはなっているが)、
それ自体は、暗黒社会への入り口と考えてよい。
窮屈で、居心地の悪い世界になってしまう。
最近では、悪しきテレビ番組の影響なのだろう。
教室で子どもたちにカメラを向けただけで、子どもたちはこう叫ぶ。
「肖像権侵害!」「慰謝料請求!」と。

まちがった法意識ということになるが、それがわからなければ、
反対の立場で考えてみればよい。
それこそ「法に触れなければ、何をしてもよい」という社会になってしまう。
法の目をかいくぐって悪いことをし放題している人は、この世界には、ゴマンと
いる。
あるいは逆に、どこかの国の独裁者のように、自分につごうのよい法を作って、
善良な人たちをつぎつぎと処刑することもできる。

社会的正義と法は、どちらが先かと問われれば、社会的正義に決まっている。
社会的正義の上に、法がある。
社会的正義を守るために、法がある。
社会的正義が「主」で、法は、あくまでも「従」である。
こんなことは法がまだなかった、太古の昔から、常識である。

三浦Kを弁護するのも、支援するのも、その人たちの勝手だが、現に、
その周辺で2人の女性たちが殺されていることを考えるなら、弁護士が
弁護するのはともかくとして、三浦Kを支援するというのは、どうかと思う。
残念ながら私には、そうした人たちのもつ常識が、どうしても理解できない。

(注)報道などによれば、「支援団体」とあるが、その程度の人数による、
どの程度の規模のものかは、私は知らない。またどういう活動をしながら、
三浦Kを支えているのかも知らない。念のため。


●道徳の完成度

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道徳の完成度は、(1)公平性と(2)視野の広さ
で判断する。
そのうちの公平性について、再度、考えてみたい。

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少し前、こんなことがあった。
きわめて近い関係にある、Mさんという女性(70歳くらい)から、
電話がかかってきた。
内容は、こうだ。

「息子夫婦が離婚したのだが、嫁が、離れの家から出て行かない。
どうしたらいいか」と。

Mさんは、元嫁、つまり息子の元妻の悪口を、つぎつぎと言い並べた。
が、話を聞いているうちに、私は、Mさんの言っていることのほうが、
無理があるのではと思うようになった。

元妻には、中学生と小学生の、2人の子どもがいる。
子どもたちは母親と家を出るほうを選んだ。
Mさんは、「離れといっても、私の家」「その離れから出て行かないから困っている」
と。
Mさんの言い分も理解できる。
しかしこういう話というのは、一方的に聞いてはいけない。
ただ私と元嫁というその女性とは、何度か会ったことはあるが、あいさつ程度以上の
会話はしたことがない。
「それほど悪い人にも見えなかったが……」と思ったとたん、Mさんへの信頼感
がグラグラと揺れだした。

Mさんは「離れから追い出すにはどうしたらいいか?」と言うが、話の内容を
詳しく聞くと、どうやら、財産のことを心配していることがわかった。
はっきりとは言わなかったが、「どうすれば財産を分与しないですむか」
という内容の相談だった。

……という話は前にも書いたので、ここではその先を考えてみたい。

私の立場では、当然、Mさんの側に立ってものを考えなければならない。
Mさんの利益になるような話をしなければならない。
できるだけ財産分与を少なくし、元嫁を離れから追い出すための方法について
知っていることを、話さなければならない。

ここで公平性といっても、人間関係に大きく左右される。
相手が近い関係の人であれば、なおさらである。
これは極端なケースだが、たとえばあなたの息子がひき逃げをして、家に
帰ってきたとする。
そういうとき、あなたという親は、どのような判断をくだすだろうか。
あなたはあなたの息子を、そのまま警察へ突き出すだろうか。
それとも事故を隠すため、あれこれ工作を始めるだろうか。

いくら相手が近い関係の人であっても、公平性を貫くことができたとしたら、
あなたは道徳の完成度の高い人ということになる。
たとえ息子でも、悪いことは悪いとして、警察へ突き出すことができたとしたら、
あなたは道徳の完成度の高い人ということになる。

で、先の話にもどる。
実際問題として、近くの人から、そういった相談を受けたとすると、どうしても
その人の利益になるような回答をしてしまう。
が、それは同時に、元嫁にとっては、不利な話となってしまう。
まだ40歳前の女性が2人の子どもをかかえて離婚するというのは、生活費だけを
考えてもたいへんなことである。
ある程度の財産分与、さらには慰謝料、養育費の負担は、当然である。

(話を聞くと、その元嫁は、結婚してからずっと、近くの事務所で事務員として
働いていたという。そのとき得た収入は、Mさん一家全体の生活費の一部にもなっていた
という。)

私は家庭裁判所での調停を勧めた。
こういった話は、第三者に客観的に判断してもらうのがいちばんよい。
が、あとで聞いたら、それがMさんを不愉快にさせたらしい。
Mさんは、知り合いに、「あの林は冷たい」「まともに相談にものってくれなかった」
と言いふらしているのを知った。

しかし私は私なりに、公平性を貫いた。
では、なぜ今、私はこんなことを書くか?

先の三浦K事件に話を戻す。
新聞の報道によれば、日本で三浦Kを無罪にもちこんだ2人の弁護士たちが、
今回のロス地裁での判断に対して、「不当である」と。

私はこの記事を読んだとき、こう思った。

弁護士なのだから、事件のあらましを詳しく知る立場にあったはず。
その過程の中で、弁護士は、三浦Kに、疑問を抱かなかったのだろうか、と。
法廷で確認された事実によれば、一美さんが銃撃されたとき、そばに白いバン
が駐車してあった。(三浦K氏は、このバンの存在そのものを否定。)
白いバンは、近くのビルで仕事をしていた人にも目撃されているし、三浦K自身が
撮った写真の中にも、その一部が写っていた。

結局日本の裁判所では、実行犯が特定できず、三浦Kは無罪になったが、疑問は
疑問のままとして、残る。
もしほんの少しでもその疑問を、弁護士も感じたとするなら、無罪であったとしても、
もう少し謙虚になってもおかしくない。
「逮捕は不当」「アメリカ本土への移送は不当」「殺人罪での起訴は不当」
「共謀罪での起訴は不当」と、何からなにまで、「不当」というほうが、おかしいのでは(?)。

つまりいくら近い立場にあったとしても、どこかで公平性というブレーキをかけないと、
弱い人の立場を守れなくなってしまう。
三浦K事件について言えば、だれに殺されたかはわからないが、その弱い立場の人と
いうのは、一美さんであり、白石Cさんということになる。

Saturday, September 27, 2008

*Children grow up to be Men of their own Parents

【親のシャドウ】

+++++++++++++++++

親を反面教師とする子どもは多い。
親そのものを、否定する子どもも多い。
「私の親は、インチキだ」
「私の親は、最悪だ」
「私の親は、親の資格はない」と。

そして最後には、決まって、こう言う。
「私は、私の親のような親にはならない」と。

しかし、そうはいかない。
親を反面教師とするのは、それはそれで結構なことだが、
反面教師とするならするで、それに代わる(親像)を、
自分の中に創りあげなければならない。
そうでないと、結局は、その子ども自身が、
いつか、親そっくりの(親)になる。
最悪の場合には、親のもつ陰湿な部分(シャドウ)を、
そっくりそのまま引き継いでしまう。

+++++++++++++++++

●高校時代のK教師

私は高校時代、英語の授業を受けながら、いつもこう思っていた。
「ぼくが英語の教師になっても、あんなK教師のような教師にはならないぞ」と。

K教師の授業は、古典的な暗記第一主義の教え方だった。
「わかったか?」「覚えたか?」「では、つぎ!」と。

が、それから5年後。
私はアルバイトで、ある予備校で英語を教えることになった。
相手は中学生だった。
そのときのこと。
私の教え方は、あのK教師の教え方そのものだった。
「わかったか?」「覚えたか?」「では、つぎ!」と。

それもそのはず。
私はいつもK教師を批判していたが、K教師以外の教師の教え方を知らなかった。
「あんなK教師のような教師にはならないぞ」とは思いつつも、それに代わる
(教師像)を自分の中に創る機会がなかった。
だからそうなった。

●親像

親子の関係も、これに似ている。
「私は、私の親のような親にはならない」と思うのは、その人の勝手だが、一方で、
それに代わる(親像)を創りあげなければならない。
(批判)しているだけは、代わりになる(親像)はできない。

が、それですむわけではない。

仮にあなたの親が、小ずるくて、世間体ばかり気にする人だったとしよう。
悪人ではないが、いつも人前では仮面をかぶり、善人ぶっていたとしよう。
あなたに対しては親風を吹かし、あなたの意思は無視。
頭ごなしに命令ばかりしている。

あなたはそういう親を見ながら、「あそこが悪い」「ここが悪い」と批判する。
そしてこう思う。
「私は親になっても、ああいう親にはならない」と。
「軽蔑」という言葉を使うこともあるかもしれない。
「私は、親を軽蔑している」と。

●Fさんの例

ワイフの知人にFさんという女性がいる。
高校時代からの知人である。
そのFさんは、学生時代、いつもワイフにこう言っていたという。

「私の母は、ずるい女性だ。頭の弱い叔母がいるが、その叔母をだまして、
高価な壺を、取りあげてしまった。代わりに安物の壺を叔母に与えた。
母は、それを手柄話のように、自慢にしている」と。

Fさんは、自分の母親を相当嫌っていたようだ。
高校を卒業すると家を出て、そのまま東京へ。
以来、帰郷するのは、数年に1度あるかないかという状態がつづいたという。

高校時代、ワイフはFさんの家に、毎週のように遊びに言っていた。
そして毎回のように、Fさんの母親の悪口を聞かされていた。

が、それから40年。
ちょうど1世代(=30年)が過ぎ、Fさん自身が、当時のFさんの
母親の年齢になった。

で、ワイフがFさんに久しぶりに会って驚いた。
そのFさん自身が、あの当時のFさんの母親そっくりの人になっていたという。
顔も似ていたが、しぐさ、様子、話し方まで、そっくりだったという。
「歳を取れば取るほど、遺伝子の影響が強く出るというけど、本当ね」と
ワイフは笑っていたが、これは遺伝子だけの問題ではない。

Fさんは、現在、親子関係に苦しんでいるという。
2人の息子と娘がいるが、2人も、高校を卒業すると同時に、家には寄りつかなく
なってしまったという。

●ちがい

それでもFさんは、ワイフにこう言っているという。
「私は、私の母とはちがう」と。
(Fさんの母親は、3年前に脳梗塞で他界。それを機に、Fさんは夫の転職もかねて
帰郷。現在は、同じ浜松市に住んでいる。)

が、ワイフから見ると、そっくり!

つまり(ちがい)というのは、どこまでも主観的なものでしかない。
FさんはFさんで、「私は母とは大きくちがう」と思っているかもしれない。
が、少し離れたところで、他人が客観的に見ると、「そっくり」ということになる。

言いかえると、その人が思っている(ちがい)ほど、いいかげんなものは、ない。

「私は、ほかの人とはちがう」と思っていても、ときには、その(ちがい)は、
わずかなものでしかない。
そのことは、たとえばアメリカなどの国際空港のロビーに座ってみると、よくわかる。

それぞれ個性的な服装をしている日本人にしても、そういうところでは、日本人はみな、
同じに見える。
少し離れたところからでも、すぐ日本人とわかる。

●シャドウの恐ろしさ

こうして子どもは親のシャドウを引き継ぐ。
こんなケースもある。

私はある時期、ある男性からその男性の父親についての相談をよく受けた。
名前をT氏(当時40歳くらい)としておく。

T氏は父親と、同居はしていたが、うまくいっていなかった。
よくあるケースである。

で、それから数年後。
別の機会に、私はT氏の弟氏と話しあう機会があった。
そのときそのこと、つまりT氏とT氏の父親との関係が話題になった。
が、T氏の弟氏がこう言ったのには、驚いた。

「あのね、林さん、兄貴だって親父そっくりなくせに、ね」と。

つまりT氏はよく父親を批判するが、弟氏から見ると、T氏とT氏の父親は
そっくりと言うのだ。
私はこれには驚いた。

T氏はT氏の父親を批判していたが、それはT氏の父親の一部でしかない。
その一部を、針小棒大に批判していた。
しかし大半の、そのほかの部分については、T氏は、T氏の父親を、そっくり
そのまま引き継いでしまっていた。

私もそのとき、うすうす、それを感じていたので、一度ならず、二度、三度、T氏に
こう忠告したことがある。
「気をつけなさいよ。でないと、あなたも、あなたの父親そっくりの人間に
なってしまいますよ」と。

が、結局、こうした忠告は、急流に竹竿を立てる程度の意味しかない。
T氏は現在、20~30年前のT氏の父親そっくりの人間になりつつある。
20~30年前のT氏の父親そのままと言ってもよい。

●妻の役割

こういうケースでは、妻の役割が、たいへん重要である。
(あるいは反対のケースもあるが……。)

妻はつねに夫の人間関係を、客観的に見なければならない。
またその努力を怠ってはいけない。
それを怠ると、妻自身も、その毒気というか、シャドウに、そのまま引き込まれてしまう。
こんなケースもある。

ある男性(60歳くらい)が、こう言った。

「うちの家内は駆け引きがうまくてね、露天などでも、いつも値段の半額以下でものを
買いますよ」と。

つまり口がうまく、小ずるい駆け引きが平気でできるということらしい。

が、本来なら、こういう駆け引きをたしなめるのは、夫の役目。
夫であるその男性が、それを制止しなければならない。
が、その男性は、むしろ自分の妻がそうであることを喜んでいるといったふうだった。
長くいっしょに住んでいると、そういう現象も現われる。

●関係の整理

親子、親類、師弟、友人関係などなど。
そのつど人間関係は、複雑に交錯する。
が、それが良質なものであればよし。
そうでないときは、避けるのがいちばんよい。

若いときは、いろいろな人とつきあって、そういう人たちからいろいろなものを
学ぶ。
『悪友もまた教師なり』と。

しかし50歳も過ぎると、今度は人生に天井が見えてくるようになる。
わかりやすく言えば、無駄にできる時間が、ぐんと少なくなる。
とたん、人間関係を整理し始める。
また整理しなければならない。
さらに言えば、愚劣な人たちとつきあっていると、自分まで愚劣になってしまう。
しかしそれこそ、時間の無駄。
人生の無駄。

よき友を求めて、その関係をより濃密にすることこそ、肝要。
これは私の言葉ではない。
古今東西、世の賢人たちは、みな、そう書き残している。
というのも、(シャドウ)には、ものすごいパワーがある。
仮にあなたが、邪悪な人と半年も交際すれば、(数週間でもよい)、
あなた自身も、そのシャドウを引き継いでしまう。
日本語的に言えば、「染まってしまう」。

これには、兄弟、親類も、ない。
「縁を切る」などと大げさに構えることはないにしても、たとえ相手が兄弟、
親類であっても、血縁にしばられて愚劣な人間関係を維持する必要はない。
適当に交際して、またその範囲ですます。
けっして深入りしない。
ここでいう「整理」には、そういう意味も含まれる。

●問題は、あなた自身

最後に、実は、これは、親である、あなた自身の問題であるということ。
つまり現在、あなたは親である。
そういうあなたという親は、どういうシャドウを、どこにもっているだろうか。
それをほんの少しだけ、自分に問いかけてみてほしい。

子どもの視点の中に自分を置いてみると、それがよくわかる。
つまり子どもの目から見た、あなたは、どういう親か。
一度、鏡に映すようにして、自分を見てみるとよい。

好かれているとか、嫌われているとか、そういうことは関係ない。
(嫌われていても、一向に構わない。)
1人の人間として、気高く、崇高なものを、あなたは子どもに残すための
努力をしているだろうか。
もしそうであれば、それでよし。
そうでなければ、結局はあなたの子どもも、あなたと同じレベルになってしまう。

私たちがなぜこの世界に生きているかといえば、たとえ数ミリでもよいから、
真・善・美に近づき、それをつぎの世代に伝えていくことである。
「数ミリ」というが、その数ミリがたいへん。
へたをすれば、つまりほんの少し油断すれば、後退することだって、ありえる。
が、もしそうなれば、それこそ、「何のために生きているのか」ということに
なってしまう。
そこらに住む動物と同じということになってしまう。
が、それこそ、人生の悲劇というもの。

(シャドウ)には、そういう問題も含まれる。

*How can we make a comment on Nakayama's statements?

●「日教組は日本のガン」?(Japanese Teachers’ Union is a Cancer of Japan?)

++++++++++++++

中山国交相は、自分の失言問題に対して、さらにこう言い切った。

「(失言の)撤回はしない。わたしは日本の教育のガンは日教組だと思っている。ぶっ壊すために火の玉になる」(時事通信)と。

************以下、時事通信記事より****************

……発言に対する野党や世論の反応については「わたしの失言というか、舌足らずというか、言葉狩りに合わないように気をつけんといかん」と述べた。その上で、「日教組が強いところは学力が低い」との発言について「撤回はしない。わたしは日本の教育のガンは日教組だと思っている。ぶっ壊すために火の玉になる」と強調した。 

************以上、時事通信記事より****************

大分県の教員汚職事件に関して、中山国交相はつい先日、こう述べたとされる。

「(日教組とからめ)、大分県教委の体たらくなんて、日教組が原因ですよ。日教組の子どもなんて、成績が悪くても先生になるんですよ。だから大分県の学力は低いんだよ」(中日新聞)と。

汚職事件はさておき、中山国交相が言うところの「成績」とは何か。「学力」とは何か。さらに「日教組が強い」というのは、どういう意味なのか。「日教組が強いところは、学力は低い」というが、その根拠はどこにあるのか。「ぶっ壊すために火の玉になる」というのは、どういう意味なのか。

中山国交相の発言は、「失言」の領域をはるかに超えている。中山国交相の思想を疑うというよりは、私は脳みその中身そのものを疑う。あまりにも低次元すぎて、コメント(評論)する気にもならない。何も私たちは、「言葉狩り」、つまり言葉尻をつかまえて、問題にしているわけではない。またそのレベルの話ではない。

日教組に属していても、いなくても、教職にかかわっている人なら、みな、同意見だろう。あきれるよりも先に、笑ってしまう。しかし本当の問題は、このレベルの人間が、大臣をしているという事実。そのおかしさというか、恐ろしさに、私たちはもっと目を向けなければならない。

(こんなレベルの人が、日本の政治を牛耳っているのだぞ!)

たとえば「学力」という問題ひとつ取りあげても、中山国交相は、テストの点数で示されるような学力を念頭に置いているのだろう。もしそうなら時代錯誤もよいところ。40~50年前の昔ならいざ知らず、今どき、こういう発想をする人がいること自体、バカげている。信じられない。

それになぜ国土交通省という畑にいる大臣が、まったく畑ちがいの教育問題で、「火の玉」になるのか? 

さらに「日教組は日本のガン」と発言するに至っては、返す言葉は、ただひとつ。「アホか!」。日教組とはまったく無縁の私にだって、そんな言葉しか、思いつかない。

AS総理大臣がどんな失言をやらかすかと、ハラハラしていた矢先の、この発言。あるいはAS総理大臣なら、中山国交相の発言を擁護するかもしれない。失言では、AS総理大臣のほうが、はるかに先輩。

しかしこんなことを繰りかえしていたら、日本は、ほんとうにメチャメチャになってしまう。知性も理性もない国になってしまう。

「ガン」という言葉にしても、そうだ。今の今も、「ガン」という大病をかかえて苦しんでいる人たちがいる。ガンと闘っている人たちもいる。中山国交相の発言は、そういう人たちへの配慮にも欠ける。あるいはもし自分がガンにでもなったら、そのとき自分のことをどう思うというのだろうか。

世相について、そこにいくら問題があったとしても、病名でそれを表現するのはやめよう。だれもその病気になりたくて、なるのではない。またなったとしても、それを「悪」にからめて考えてはいけない。だれだって病気のひとつやふたつ、かかえているではないか。

中山国交相の罷免もしくは辞任は、当然であるとしても、AS総理大臣にも、任命責任がある。自分自身の過去の失言問題をふりかえりながら、AS総理大臣は、どのような判断をくだすのだろうか。どう責任を取るつもりなのだろうか。

なお「舌足らず」というのは、言葉による表現力に欠ける人がよく使う、弁解用語でしかない。そも大臣ともあろう一国のリーダーが、使う言葉ではない。

●AS総理大臣へ、

大臣の失言なら、たとえばその責任者である総理大臣が罷免することで、まだ問題を解決することができる。しかし総理大臣の発言となると、それが対外的なものであれば、即、戦争ということにもなりかねない。どうか、どうか、失言にはくれぐれも注意してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 中山国交相 失言問題)

Friday, September 26, 2008

*Are we such a vra9n-less people?

●AS内閣(Ultra Right-wing Cabinet of Japan)
(Are we such a low-level people as has been seen in the brain-less statesments by Nakayama Minisniter?)

+++++++++++++++++

自民党右派の中でも、極右派と呼ばれる
人たちで固めた、AS内閣。
もちろんAS総理大臣自身も、極右派。

国会全体が、まるで極右団体の街宣車に
乗っ取られたよう。

で、内閣発足後、たった数日後には、
中山国交相の失言問題が発覚した。

+++++++++++++++++

●中山国交相の失言問題

(1)成田空港建設への反対闘争について
「ごね得というか、戦後教育が悪かったと思う」

(2)外国人観光客の誘致策に関連して、
「日本は随分内向きな、単一民族といいますかね、あんまり世界と(交流が)ないので、
内向きになりがち」

(3) 大分県の教員汚職事件に関して、
「(日教組とからめ)、大分県教委の体たらくなんて、日教組が原因ですよ。
日教組の子どもなんて、成績が悪くても先生になるんですよ。
だから大分県の学力は低いんだよ」と。

AS現総理大臣自身も、過去において、「日本は、一国家、一文明、一言語、一文化、
一民族」(九州国立博物館の開館記念式典の祝辞)と述べている(中日新聞指摘)。

ほかに中山氏には、文科省相時代に、「従軍慰安婦という言葉は当時はなかった」とか、
「(歴史教科書の記述を)自虐的」と述べたりしている(同紙、指摘)。

こうした一連の発言をふまえて、たとえばアイヌ民族の人たちから、「この程度の知識か」
という批判が相次いでいる。
いわく「このような発言をする人が閣僚をする資格はない」(アイヌ民族共有財産訴訟の
元原告団長の小川T氏)と。

AS総理大臣自身の過去の失言については、たびたび書いてきた。
「失言」というよりは、彼自身の「本音」なのだろうが、だからこそ、よけいに不気味。

情報だけをもって、「思想」と誤解し、その情報を加工する能力さえない。
そういう日本人が新しい総理大臣を選んだ。
その結果が、現在のAS内閣ということになる。

おととい、あの小泉元総理大臣が、政界から引退した。
AS内閣発足を見届けてからの引退である。
政治に幻滅したということでもないと思うが、小泉氏がそう思ったとしても、私は
それに納得する。

「この程度の知識」しかない、「この程度の内閣」。
日本という国は、この程度の国なのか?

*Are we dislaiked by Koreans?

●日本が嫌い?

++++++++++++++++

韓国での世論調査によれば、
「もっとも嫌いな国は、日本」だ、そうだ。

++++++++++++++++

このほど韓国における、対外国感情についての世論調査が、
公表された(中央N報が創刊43周年を迎えて実施した世論調査、08年)。

それによると、

『好きな国=昨年に続いて韓国国民が最も好きな国、経済的に最も協力すべき国は「米国」だった。 最も嫌いな国、最も見習うべき国は「日本」だった』(原文)という。

『 米国に対する好感と日本に対する非好感は07年に比べて強まっている。 最も好きな国に「米国」を選んだ回答は16%から18%に、経済的に最も協力すべき国に「米国」を選んだ回答も35%から42%に高まった。

最も嫌いな国に「日本」を選んだ回答は38%から57%に高まり、最も見習うべき国を「日本」とする回答は27%から24%に減った。

最も好きな国の2-3位は「オーストラリア」(14%)、「スイス」(9%)、最も嫌いな国の2-3位は中国(13%)、北朝鮮(10%)、最も見習うべき国の2-3位は「米国」(18%)、「ドイツ」(9%)、経済的に最も協力すべき国の2-3位は「中国」(38%)、「日本」(6%)となった』(同)と。

●日本が嫌い

注目すべき点は、「最も嫌いな国に日本を選んだ回答は38%から57%に高まった」という点。
韓国民の約6割、つまり大半が「日本は嫌い」と答えている。
おおむねそんなものだろうと、私も感じている。
しかしその一方で、韓国の人たちのもつ、精神的ダブル構造。

「嫌い」ながらも、日本への「あこがれ」は強い。
この精神的ダブル構造は、40年前の昔と、ほとんど変わらない。

こんな経験がある。

 1960年代の終わり、私は、UNESCOの交換学生として、韓国に渡った。日韓の間にまだ国交のない時代で、私たちは、どこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。

 そんなある日、大邸(テグ)大学での議論を終えたあと、私は、ひとり、大邸(テグ)大学の屋上にのぼった。屋上からは、眼下に大邸の町並みが一望できた。

 そこでぼんやりとしていると、ひとりの学生が近づいてきた。私は、「こんなところでも、また議論か……!」と身構えたが、その学生は、こう言った。つい先ほどまで、私たちを、口汚く攻撃していた学生である。

 「ぼくは、日本へ留学したい。君は、何か、方法を知らないか」と。

 私は、その(落差)に驚いた。一方で、燃えるような反日感情をもちながら、その一方で、「日本に留学したい」と(?)。

 つまり、こうした調査結果は、決して、数字だけで判断してはならないということ。現に、台湾の人たちは、ことあるごとに、反日的な姿勢を示している。と、同時に、ではその韓国が、反日的かというと、そうでもない。会って話をしてみると、個人的には、みな、よい人たちばかりだ。

一方、ひとりこの日本に好意を寄せる国がある。
台湾である。

●もっとも、移民したい国は、日本!

 台湾のビジネス誌「遠見」によれば、全4質問中、「移民したい国」「立派だと思う国」「旅行したい国」の3質問で、日本がトップになったという(06年6月29日)

 調査は、台湾全土で、20歳以上、約1000人の人について、行われた。以下、その結果。

「移民したい国」   日本……32.3ポイント
米国……29.1ポイント
カナダ…26.5ポイント

「最も立派と思う国」 日本……47.5ポイント
米国……40.3ポイント
中国……15.8ポイント

 ことあるごとに、日本のアラさがしをしては、悪口を書きたてる、韓国の報道機関。最近でも、「日本の株式市場は、新興市場」(朝鮮N報)とか、「指導国家としての資質なし」(N大統領)とか、書きたてている(06年)。

●しかし、自由主義陣営の中で、日本が敵?

韓国の人たちが日本を嫌うのは勝手だが、日本は韓国なしでも生きていかれる。
しかし韓国は、日本なしでは生きていかれない。
その現実に、もっとすなおに目を向けるべきではないだろうか。

 が、何は、ともあれ、今回の「遠見」誌による調査結果には、ほっとした。「日本の近くには、そういう国もあったのだ」と、改めて思い知らされた。と、同時に、日本は、台湾のような国を大切にしなければならないと感じた。

 で、話は、ぐんと現実的になるが、パソコンの液晶モニターにしても、私は韓国製というだけで、自分の選択肢からはずしている。買うなら、日本製。どうしても……ということなら、台湾製ということにしている。

 近く、液晶テレビを買うつもりだが、それもそうだ。性能のよい日本製にしようか、値段の安い台湾製にしようか、今、迷っている。韓国製などは、もとから、眼中にない。ぜったいに、韓国製だけは、買わない。

【付記】(06年7月1日)も、朝鮮N報の記事にはこんなのがあった。
1~3番の記事は、どれも、日本がらみの記事ばかり。

(1) 韓国の家は、実は日本の家より、狭い……。
(2) 自負心調査では、日本、18位、韓国、31位……。
(3) 韓国の殺人、性犯罪、日本の約2倍……と。

 「韓国の人たちよ、もう日本のことなどかまわず、自分たちの道を行きなさい」と、私は言いたい。韓国の新聞に目を通すたびに、過関心ママに支配された子どものような心境になる。
つまり、イヤ~ナ気分!

●台湾へ向かう日本の投資

韓国か台湾か?

当然のことながら、日本の投資は今、韓国を避け、台湾に向かっている。
こういう現実に、韓国も、少しは気がつくべきではないのか。

Wednesday, September 24, 2008

*Sep 24th

●秋

+++++++++++++++++++

今日、1日、私の情緒は不安定だった。
情緒が不安定というのは、心の緊張感が、ずっと取れない状態をいう。
どこか、心がピンと張りつめたような感じになる。
気が抜けないというか、いろいろささいなことが、心の壁にペタリと
張りついているような感じになる。
不安と心配が入り混じったよう。
それが取れない。
すっきりしない。

こういうときというのは、何かのきっかけで、突発的に心は
動揺しやすくなり、ささいなことで激怒したりする。
それがわかっているから、じっと静かにしているのがよい。
自分の心を見守るのいがよい。

こうした病気(?)は、「治そう」と思わないこと。
治るはずもない。
大切なことは、じょうずにつきあうこと。
自分の心の欠陥を認めること。

で、昼過ぎになって、Sxxxという安定剤を、半分に割ってのむ。
もともとは、女性用の精神安定剤だそうだ。
が、私には、効く。
少し頭痛もあったので、頭痛薬も半分のむ。
とたん、眠気。
ものすごい眠気。

「昼寝をしてくる」と言うと、ワイフも、「私も……」といって、
1~2時間ほど、横でつきあってくれた。

起きてからも、あまり状態は変わらなかった。

ワ「何も、悩むことなど、ないのに……。すべてうまくいっているでしょ」
私「それが、おかしいのだよな。これといったことはなくても、気分が落ち込む」
ワ「私を信じなさいよ」
私「信ずるって?」
ワ「私がだいじょうぶと言ったら、だいじょうぶなの」
私「うん……」と。

夕方になって、今度講演をすることになっている、A教育委員会用のレジュメを
作成する。
けっこう、よいのができた。
それを封につめて、宛名を書く。
で、そのあと、長野県S市に住む友人に電話。
「おお、元気か?」
「おお、元気だ」と。

あとで見たら、1時間10分も話していたことがわかった。

その電話がよかった。
電話が終わったとき、心が軽くなっているのを知った。
バンザーイ!

こういうときは、友人と話すのがいちばん、よい。
みんな、それぞれにがんばっているのだと知るだけでも、励みになる。

で、今は、時刻は午後8時4分前。
ワイフに「DVDでも見ようか?」と声をかけると、「うん」と。
すなおに返事をしてくれた。

そうそうその友人がこう言っていた。

「生きるということは、長生きをすることじゃ、ないんだよな。
生きるということは、いかに密度を濃くして生きるかということだよな」と。

つまり元気で体が動くうちに、やるべきことをやるということ。
近く再開することを約束する。

近くに湯田中温泉、山田温泉、上山田温泉があるという。
交通事故でむち打ち症になってから、体の調子がよくないという。
見舞いをかねて、近く行ってみよう。


● ジョン・デンバー主役の『別れのとき』

ワイフが取り出しのが、ジョン・デンバー主役の『別れのとき』。
タイトルからして、うつ状態を加速させるような映画?
ジョン・デンバーが主演だから、新しい映画ではない。
が、ジョン・デンバーのファンの人には、たまらない映画だろう。
実は、私もその1人。
軽い気持ちで見始めたが、見始めるとすぐ、ジョン・デンバーが歌を歌った。

年代はわからないが、ジョン・デンバーが、35歳前後のときの作品らしい。

内容はやや退屈?
「デンバーの歌が出てきたら見る」と言って、私は再び、パソコンと遊び始める。

映画としては、星2つ、★★。
ジョン・デンバーのファンとしては、星5つ。★★★★★。

が、よく知られた曲は、一曲も収録されていなかった。
どれも映画用の新曲ばかり(?)。

残念!


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●体重が65キロ台!

少しがんばった。
1か月前には、68・5キロだった体重が、今朝は、65・5キロになっていた。
3キロの減量!
バンザーイ!

昨夜は鼻水が出るような状態だった。
が、サイクリングは欠かせない。
家に帰った直後、雨。
あやうくセーフ。
が、おかげで、風邪がひどくなってしまった。
朝起きて、うがい。
それに風邪薬。
今日は、そんなわけで、頭が重い。

しかし体が軽くなったのは、実感としてわかる。
やせればやせるほど、体は軽くなるのだろう。
が、筋肉がなえてしまったのでは、意味がない。

ワイフと卑猥(ひわい)な話をする。

私「あのなあ、チンxxをズボンの中にしまうとき、先を下に向けてはいけないんだよ」
ワ「あらそう? そんな話は、知らなかったは……」
私「ズボンの中にしまうときは、先を上に向けてしまうんだよ」
ワ「下に向けてしまったら、どうなるの?」
私「チンxxというのはね、そのつどいつも伸び縮みしているからね」

ワ「じゃあ、男も、ブラジャーのようなものをつければいいんじゃない?」
私「それも困る」
ワ「どうして?」
私「窮屈だ。小便をするときも、困る。それにモリモリといつもふくらんでいると、
変態に思われる。ところで、知っているか? チンxxというのは、別の意思を
もっているんだよ」

ワ「別の意思って?」
私「ほら、マムシでも、頭を切っても、体だけ、別に動くだろ。あれと同じ」
ワ「気持ち悪いわね」
私「そう、だから死んだ人がBOKKIするということもあるそうだ」
ワ「あら、そんなこと、知らなかったわ」

私「まだまだお前には話してない、秘密がたくさんある。中国では、死んだ人の
チンxxは、上に向けるのだそうだ」
ワ「ホント?」
私「あの世へ行っても、すぐ役にたつように、ね」
ワ「あの世でもSxxをするのかしら?」

私「どうも、そうらしい」
ワ「あなたが死んだら、チンxxを、上に向けてあげるから」
私「そうだな、頼むよ。あの世には、きれいな子がいるかもしれない」と。

朝食のときの、いつものバカ話。
ここに書いたことは、すべて、ジョーク。
(女性の読者の方へ……どうか信じないでほしい。詳しくは、旦那様に聞いてください。)
しかしこういう話だと、ワイフは、すべて信じてしまう。
そこがおもしろい。


● 猿対策

このところ秋になったことあり、山荘が山猿に襲われることが多くなった。
雨どいのいくつかが、山猿に破壊されてしまった。
テレビのアンテナも折られてしまった。

今日、その修理に山荘へ行かねばならない。
が、ただではいかない。

山猿撃退用の装置をいくつか、つくった。

まず雨どいには、釘を四方八方につけたカバーをとりつける。
これは先日、別に買ってきた雨どいに、ドリルで穴をあけ、釘を刺して、私が作った。
同じように、電話線にも、釘を刺したカバーをとりつける。
電話線を伝ってやってくる山猿もいる。

それに裏山から、屋根に飛びついてやってくる山猿もいるようだ。
それについては、対策をこれから考えるところだが、こうしていろいろ考えるところに
山荘ライフのおもしろさがある。

相手は、(自然)。

山猿にしても、必死。
今度、山の向こうを、第二東名が走るようになった。
そこを追われた山猿が、山荘の近くにまで、出没するようになった。
もとはといえば、人間が悪い。

そうそう小屋の下を、何かの動物が、ねぐらにしているらしい。
いつも大きな穴があいている。
ワイフは、それを嫌う。
しかたないので、あたり一面、ガソリンをまいた。

ヘビや動物は、ガソリン(もしくは灯油)のにおいが、嫌いらしい。

……ということで、今年は、栗の収穫は、ゼロ。
みんな山猿に食べられてしまった。
しかしこういうことがあるから、山荘ライフは、楽しい。
おもしろい。

私と山猿との知恵比べは、しばらくは、つづきそう。


●金の奴隷

++++++++++++++++++H.Hayashi

金の奴隷にも2種類ある。
プラスの奴隷と、マイナスの奴隷。

プラスの奴隷というのは、金の力にものを言わせて、
得意になるタイプ。

マイナスの奴隷というのは、いわゆるケチ。
貧乏であることを売り物にして、(本当に貧しい人もいるが)、
始終、チマチマしている。

++++++++++++++++++H.Hayashi

● プラスの奴隷

若いころ、こんな社長がいた。
日本全体がバブル経済に向けて、狂ったように走り出したころのこと。
会社の主だった社員はもちろんのこと、取り引き先の人や、何と近所の人たちまで招待
して、台湾や香港へ旅行していた。

私はそのときその旅行の世話と、通訳をしていたので、それがどんな旅行だったかを、
よく知っている。
その社長は、たとえば大きなレストランに入ったりすると、「チップ」と称して、
1000円札を、パパーッとあたりにバラまいたりしていた。
私はそれを見てあきれたが、社長は、得意満面だった。
そういう形で、その社長は、自分の力を誇示していた。

プラスの奴隷になると、金持ちであることを、自慢したくなるものらしい。
親戚や縁者を金銭的に援助したり、ものを買い与えたりする。

しかし誤解してはいけない。
だからといって、利益を得た人たちが、それでその人に
感謝しているかといえば、そういうことはない。
尊敬しているかといえば、そういうこともない。
金(マネー)の力は、ものを動かす力はあっても、心を動かす力は弱い。
恐ろしく、弱い。

前にも書いたが、こんな話を聞いた。

● 金(マネー)の力は、弱い

長い友人に、K氏という人がいた。
昨年、脳梗塞で倒れ、そのまま他界してしまったが、その地域の開業医として、かなりの
収入を得ていた。
で、そのK氏のもとに、K氏の親類たちが集まってきた。
いつの間にか、K氏が、そうした親類たちの金銭的なめんどうをみるようになっていた。

K氏はいつも私にこう自慢していた。

「弟と妹に、4人の息子や娘たちがいるが、みんな私が大学を出してやった」と。
学費を援助したというのだ。
K氏には、そういう形で、甥や姪のめんどうをみるのが、生きがいだったようだ。

が、そのK氏が他界した。
突然の死だった。
私は通夜と本葬の両方に参列させてもらった。
しかし、である。
K氏の兄弟らしき人たちは来ていたが、K氏が学費を援助したと思われる若い人たちは、
来ていなかった。
そのことをK氏の妻に確かめたとき、「そんなものだろうな」と思った。

……こう書くからといって、K氏が「金の奴隷」だったというのではない。
私が書きたいのは、金(マネー)の力は、所詮、その程度のものということ。
よい例が、日本政府がしている国際援助。
国際援助してやって喜ぶのは、その時点の為政者(政治家)だけ。
国民のところまで、日本の(心)が届くことは、まずない。
むしろ為政者たちは、それを自分の手柄として、日本から援助があったことを、
国民から隠そうとする。
そういう例は、ゴマンとある。
というより、それが「ふつう」。

同じようにK氏が学費を援助した、先の息子や娘たちにしても、学費の出所さえ
知らなかったのではないか。
K氏の兄弟にしても、息子や娘たちには、それを黙っていた可能性が高い。

私はそういう葬儀を見ながら、ワイフとこんな会話をしたのを覚えている。
「Kさんが、こういう事実を知ったら、悲しむだろうね」と。

● ある社長の話

さて話をプラスの奴隷にもどす。

レストランで1000円札をバラまいた社長の会社は、バブル経済がはじけてまもなく、
不渡り手形を2度出し、そのまま倒産。
一時、小さな会社を再興したが、それも、半年足らずで、倒産。
そのあとは市内のマンションに移り、そこで生活をしていた。

私がその元社長に呼ばれて、再び会ったのは、それからちょうど1年目のことだった。
相変わらず、高拍子というか、親分風を吹かしていたのには、驚いた。
話を聞くと、台湾から梅干を輸入したいので、貿易を手伝ってほしいということだった。

私は私なりの方法で、すぐその可能性を調査した。
香港にも、台湾にも、私のパートナーがいた。
が、結果は、「やめたほうがいい」だった。
理由はいろいろあった。

それを元社長に伝えに行くと、私の話を半分も聞かないうちに、元社長はそばにあった
コップを床にたたきつけて、突然、私にこう怒鳴った。
「お前は、オレの恩を忘れたのか!」と。

「恩」というのは、私をあちこちの海外旅行に連れていったことをいった。
私はそそくさと、元社長のマンションをあとにしたが、それからも3、4回、怒りの
電話がかかってきた。

「金の奴隷」というのは、そういう人をいう。

● プラスの奴隷vsマイナスの奴隷

そこで、ではプラスの奴隷とマイナスの奴隷は、どこがどうちがのか。

話が少し外れるが、一般論として、大きく儲ける人は、その一方で、大きく損をする。
「儲け」と「損」は、つねに表裏一体となっている。
ここに書いたK氏にしても、たしかに「損」はしたが、もう少し若いころには、当時は
まだ珍しかった大型クルーザーを所有していた。
伊豆と那須に、別荘をもっていた。
市内にも、数か所、マンションを所有していた。

K氏にしてみれば、甥や姪の学費など、(小遣い)の範囲だったかもしれない。
ともかくも、「損」を気にしていたら、大きく儲けることはできない。
それに「損」が、つぎの「儲け」の原動力になることもある。
私も、似たような場面に出会ったことがある。

何かのことで損をしたりすると、「ちくしょう」と思って、さらに仕事に精を出し
たことがある。

では、マイナスの奴隷とは?

わかりやすく言えば、小さな世界に閉じこもり、チマチマ、ケチケチと生きている
人たちをいう。
損もしないが、さりとて大きく儲けることもない。
たいていは小銭の守銭奴となって、毎日貯金通帳を見ながら暮らす。
私もその仲間だから、偉そうなことは言えない。
だから私も含めて、このタイプの人は、大きな仕事ができない。

● 金(マネー)に毒される人たち

どちらであるにせよ、金の奴隷たちは、金(マネー)の奴隷になりながら、奴隷に
なっていることにすら気がつかない。
たとえば前にも書いたが、テレビの人気番組に「お宝xx」というのがある。
視聴者がもちよった品物や絵画に、その道の鑑定家たちが値段をつけるという番組である。

あの番組による影響は、すさまじかった。
私自身もいつの間にか、影響を受けてしまった。
たとえば絵画にせよ、それがすばらしい絵画かどうかという判断をするよりも先に、
「値段はいくら?」「有名な画家の描いた絵か?」という視点で、見るように
なってしまった。

中身よりも、外見。
外見よりも、評判。
評判よりも、値段。
「この絵は、300万円だから、すばらしい」
「あの絵は、無価値だから、見る価値もない」と。

しかし テレビ番組を責めても、意味はない。
ああした番組が人気番組であるというのは、それをささえる視聴者がいるからに
ほかならない。
つまり金の奴隷が多いから、ああいう番組は、人気を博す。
しかしこれは人間にとって、悲しむべきことと言ってよい。
理由の第一。

● 失うもの

金の奴隷になればなるほど、ものの本質が見えなくなる。
絵画を例にあげるなら、その絵画のもつすばらしさがわからなくなる。
あるいはすばらしい絵画、(絵画のよしあしは、あくまでも個人的嗜好によるもの
だが)、そのすばらしさを判断できなくなってしまう。

同じように、成功、失敗も、金銭的な尺度でしか、みなくなってしまう。
「あの人は金持ちだから、すばらしい」
「この人は、貧しいから、すばらしくない」と。

さらにそれが拡大してくると、自分自身の人生まで、金銭的な尺度でしか、みなくなって
しまう。
幸福の尺度さえ、相対的なものとなる。
「隣の人より、よい生活をしているから、私は幸福」
「隣の人より、小さな家に住んでいるから、私はみじめ」と。

そういう生活が基本になっていると、「生きる」ことそのものが何がなんだか、わからなく
なってしまう。

● 日本全体が、金権主義国家?

が、それだけではない。
一度金(マネー)に毒され、金の奴隷になると、それから抜け出るのは、容易なことでは
ない。
価値観、さらには人生観、生きる哲学すらも、それに固定されてしまう。
政治だって、そうだ。

日本は一応、民主主義国家ということになっているが、実際には、金権主義国家。
たまたま今日、AS総理大臣率いる、AS内閣が発足する。
今朝の新聞を読むと、政治的イディオロギーなど、どこにもない。
「景気回復」「景気刺激策」などなど、すべて、金(マネー)、金(マネー)、金(マネー)。
金(マネー)にまつわる話ばかり。
政治そのものが、金の奴隷たちの「マスター(主人)」として君臨している。

金の奴隷……プラスの奴隷と、マイナスの奴隷がいる。
今朝は、それについて考えてみた。
(080925)

*Monkeys attacked our house

● 猿害対策

昨日、山荘のほうで、猿害対策を、いろいろほどこした。

栗、びわ、柿、さくらんぼなどの木の実については、猿にくれてやろう。
しかし山荘の雨どいが割られたり、壊されるのは、許さない。
山猿は雨どいを利用して、屋根に登る。
電話線や電線を伝ってやってくるのもいる。
足跡や、手の跡がしっかりと残っているから、それがよくわかる。

そこで私は、こうした。

(1) 雨どいについては、山猿は手をかけるところには、塩ビに、裏から
釘を刺したものを、貼り付けた。
こうすれば、山猿は雨どいに手をかけることができない。

(2) 電線には、釘を刺したテープを巻いた。

(3)裏山から飛び乗ってくる山猿もいる。私はそのあたりにある木を、3、4本、
切った。
結構太い木で、これにはてこずった。
というのも、チェーンソーを忘れ、電動ノコで切ったため。

電動ノコで、だ!

あとはこわされた雨どいの修理。
「今度山猿に雨どいを壊されたら、雨どいをすべてはずしてしまおう」と。
というのも、こうした山の中では、秋になると、雨どいは落ち葉ですぐ詰まってしまう。
用をなさない。

今のところ瓦はだいじょうぶのよう。
山猿に割られるようになったら、それこそ、たいへん。
このあたりの山猿は、(復讐)というのを知っている。

いつだったか、近くの農家の人で、山猿の集団に向かって石を投げた人がいた。
その人の家は、翌朝、山猿の襲撃を受け、屋根瓦がつぎつぎと割られてしまったそうだ。
ウソのような話だが、これはホントの話!

このあたりの山猿は、頭がよい。
本当に頭がよい。
太古の昔には、「引佐(いなさ)原人」と呼ばれる民族が住んでいたそうだ。
そのころ分派したのが、今の山猿……ということはないだろうが、そう考えてもおかしく
ないほど、頭がよい。

たいへんな作業だったが、けっこう、楽しかった。
山荘ライフのおもしろさは、こんなところにある。
まさに山猿との知恵比べ。
つまりこういう作業が嫌いな人には、山荘ライフは向かない。

……一汗かいて、体重計に乗ったら、何と、64キロ台!
この一年間で、最低記録。

これからも山猿との戦いはつづきそう!


● 岐阜の町

++++++++++++++++++H.Hayashi

JR岐阜駅でおりる。
そこから少し歩いて、岐阜乗り合いバスに乗る。
M町までの各駅停車。

空は青く澄み渡り、さわやかな風が吹いている。
最高の旅行日。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●欲得の世界

人間がもつ強欲さは、他人を傷つけ、自分を滅ぼす。
しかし一度、身についた強欲さを体から切り離すのは、容易なことではない。
そのつど顔を出し、自分を惑わす。
どうして人間は、こうまで強欲なのか。

強欲であることが悪いというのではない。
生きる原動力になる。
無数のドラマもそこから生まれる。
しかしものごとには、程度というものがある。

そこに食べきれないほどの食物があっても、満足できない。
そこに使い切れないほどのお金があっても、満足できない。
そこにあふれんばかりの幸福があっても、満足できない。

こうなると、ビョーキ。

「さらに……」「もっと……」と、自分をせきたてる。
が、それではいつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
それこそ人間は、死ぬまで、馬車馬の馬のように働く。
で、やっと楽になったと思ったら、そのままあの世行き。

そこで私たちは、あるとき、自分の限界を認め、その限界の
中で、満足する術(すべ)を学ぶ。
そうでもしなければ、自分の身を支えることすら、できない。
それこそ欲望の渦の中に足をとられて、そのまま奈落の底へ。

欲得といっても、その人個人の範囲にあるなら、問題はない。
しかしその欲得が、他人とからんだとき、問題となる。
「私の財産」「あなたの財産」となる。
そういう意味では、欲得の問題は、人間関係と深くからんでいる。
言いかえると、人間関係は、どこかで、何らかの欲得とからんでいる。
大切なことは、どんな人とつきあうにしても、欲得関係をつくらないこと。
つくるにしても、銀行とか、会社とか、その道のプロとつくる。

子どもの教育についても、そう。
「親類だから安くやってもらえるだろう」「ていねいにみてもらえるだろう」と、
親類の人に家庭教師などを頼んだりする人が」いる。

しかしこういうケースでうまくいくのは、10にひとつもない。
が、そのとき、親類だからという理由で、家庭教師を変えることもできない。
ズルズルと1~2年も過ごすと、かえって成績がさがってしまう。
お金はかかっても、こういう(汚れ仕事)は、プロに任すのがよい。

さらにあえて言うなら、少しでも金銭関係がからんだら、よき人間関係など
期待しないこと。
昔から、『仕事関係では、人間関係は育たない』という。
「金の切れ目が縁の切れ目」?

私たちがどこかの会社の社員と交際するとしても、その社員というよりも、
その背後にある(会社)と交際する。

話がそれたが、欲得がからむと、親子、兄弟の関係すら、おかしくなる。
しかも相手が親子、兄弟だと、問題は、さらに複雑になる。

では、どうするか?

私にのばあい、欲得のからむ問題については、最初に、腹を決めることにしている。
「腹を決める」というのは、要するに、「欲を出さない」ということ。
最近の例では、兄の葬儀があった。
最初から、○○○万円と予算を決める。
割り切る。
全額、私が払うと、心に決める。
決めてから、喪主になる。

姉からの援助や、親類縁者たちからの香典も、アテにしなかった。
だから気が楽だった。

結果的に、大赤字だったが、それでも損をしたという思いは生まれなかった。

要するに欲得には、恐ろしい魔力がある。
つきあい方をまちがえると、とんでもない方向に、自分がころげ落ちてしまう。
が、ほんの少しだけ妥協できるところは妥協し、寛容になれるところは寛容に
なれば、欲得も、ただの風。
取るに足らない、ただの風。

所詮、欲得などというものは、その程度のもの。
「ここに私たちがいて、ここに生きている」という価値と比べたら、ひょっとしたら、
風にもならないかもしれない。

……しかし私たちは、どうしてこんなにも、欲得の世界にそのつど、巻き込まれるのか?
まだ人間が金(マネー)というものを知らなかった、遠い昔の、原始の世界が、
うらやましい。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

● ミニ・パソコン

私のところでは、2台のミニ・パソコンが、大活躍している。
HP社の2133と、ACER社のASPIRE-1。
ともに気に入っている。
どこでもメモ書き帳のように、文章が打てるのがよい。
電車やバスの中。
レストランや喫茶店で。

が、世の中の多くの人は、もっと別の目的でパソコンを使っているようだ。
そのため、ミニ・パソコンは、「あまり役に立たない」と。

ふ~~~ん。

*To our be-loved, Kim-Jong-Hill, an USA diplomat

●C・HILL、おバカ外交官(A no brain diplomat of USA)
C.Hill, how come are you so stupid and incompetent in the diplomacy in the Far East?
We never hesitate to call you , Kim John-Hill of North Korea. From the earliest stage of the diplomacy, we knew that he was to repeat the same failure as former diplomats did. Have a listen to the words of Mr. Bolton or Mr. Kelly. Only what you have done is just to give them oil, food, money and music, without receiving nothing from them. We saw the childish Explosion Show in Yon-byon. But what was that for? Now what you have to do is just to admit the failure you have done and go back to the behind of the curtain. Also remember that you have destroyed the relationship between Japan and USA. Or are you a politician or a movie star? We hope not.

この場に及んでも、あのおバカ外交官は、K国をかばっている。
まあ、どうかばおうと、C・HILLの勝手だが、K国は、
最初から、核兵器製造をやめるつもりなどなかった。

最近になって、イランと共同で小型戦術核の製造をしていることも、
明らかになった。
専門用語を使うなら、「K国は戦略的に、核兵器を放棄する意思などなかった」
ということになる。

では、何のための「テロ支援国家解除」なのか?

もともと「テロ支援国家解除」など、K国にとっては、どうでもよかった。
ゴネるための口実に過ぎなかった。
解除されたところで、K国に利益がころがりこむわけではない。
解除されないからといって、とくに不利益もない。

つまりは時間稼ぎのために、K国は、「テロ支援国家解除」問題を利用しただけ。
が、あのおバカ外交官は、そんなこともわからず、手のひらの上で踊らされてしまった。

結局、C・HILLがしたことは、K国に、原油と食糧とお金と音楽を与えただけ。
見返り受け取ったものは、インチキ・爆破ショー。
それだけ。

ただの外交官(役人)が、あたかも政治家かスター気取りで、マスコミの
インタビューに答える。
まずもってこの異常さに気がつくべきである。
外交官というのは、大統領を代弁しながら、連絡を取りつぐのが仕事。
その本分を忘れて、独断、越権行為の連続。
あとは根拠のない希望的意見。

そこで現在、韓国、中国、アメリカは、K国への援助を停止しようという動きに
出てきた。
当然である。
が、これに対して、またまたあのおバカ外交官が、こう言った。
「まだ(核関連施設が稼動するまでに)、2、3か月かかるから、
それまで(援助停止を)待ってやろう」と。

おバカ!

Sunday, September 21, 2008

*How are we to get senile?

●持てる人の悩み

++++++++++++

もとからない人は、悩まない。
しかしへたに(失礼!)財産があると、
それなりに悩む。
そういう人は多い。

K氏の実家は、昔からの財産家。
その地域のあちこちに数か所、100坪単位の
土地をもっている。
K氏には、3人の姉妹がいる。
K氏は、その中でも末っ子だった。

父親が死んだとたん、遺産相続問題が起きた。

++++++++++++

この種の問題は、一度、こじれると、とことんこじれる。
こじれるだけならまだしも、当事者たちは、とことん神経をすり減らす。
たがいの微妙なかけひきが、火花を飛ばす。
それがストレスとなって、当事者たちを悩ます。
K氏は「問題が片づくまで、1年かかりました」と言った。
その1年の間に、K氏は、体重を6キロも減らした。

「平等に分けるつもりでいましたが、姉たちが、『あれは私の財産』
『これは私の財産』と言い出し、話がごちゃごちゃになってしまいました。
おまけに私に対して、『あなたは親のめんどうをしっかりと
みなかった』とか、『転勤で、この地に住んでいなかった』などと
言い出しました」と。

K氏のばあい、結局、土地を一度全部売り、現金にして、平等に分ける
ということで決着したそうだ。

もとから財産がない人には、こういう問題は起きる。
へたに(失礼!)財産があると、こういう問題が起きる。
額の多い、少ないは、関係ない。
遺産が数億~もあればなおさらだが、わずか、数百万円の遺産を
奪い合ってけんかをしている人はいくらでもいる。

私がそんな(数百万程度の)問題で・・・と言いかけると、その人は
こう言った。

「姉は、こっそりと、その土地を駐車場に貸して金を取っていたのですね。
私にはウソばかりついていました。で、私には、『近所の人たちにただで
貸してやっている』と言っていました。それが許せないのです」と。

こうして兄弟関係、姉妹関係が破壊されていく。
K氏にしても、現在は、たがいにまったく音信ゼロ。
他人以上の他人になってしまったという。

では、こうした問題が起きないようにするには、どうしたらよいか。
答は簡単。
生きている私たちが、たとえわずかでも、金銭問題については、しっかりと
けじめをつけておくということ。
遺言書をしっかりと残しておくという方法もあるが、そのつど、息子や
娘たちには、自分の意思を伝えていく。

・・・と言っても、これも簡単ではない。
K氏のケースでも、K氏の父は、晩年は軽い脳梗塞をわずらい、判断力
がかなり鈍った。
さみしさも重なったのだろう。
娘たちが見舞いに来たりすると、それがうれしくて、「あの土地はお前に
やる」とか、「この土地はお前にやる」とか、そのつど一貫性のないことを
口にしていた。

それが遺産問題を、複雑にしてしまった。

しかし・・・命あっての財産。
大病を宣告されただけで、こうした問題は、闇のかなたへ吹っ飛んでしまう。
どうでもよくなってしまう。

それもそのはず。
宇宙は広い。
人間の魂も、それに劣らず、広い。
その宇宙の、ゴミのような地球上で、これまた点のような土地のことで
心をわずらわすこと自体、バカげている。
「死」に直面したとき、よほどのバカ(失礼!)でも、それに気づく。

遺産がもらえたと喜ぶ人。
遺産を取られたと悔やむ人。
どうであれ、そのときも、自分に、「だからそれがどうしたの?」と
問いかけてみればよい。

もちろん事務的にすます問題は、事務的にすます。
遺産相続問題は、純然たる事務問題。
大切なことは、それ以上に、心をわずらわせないこと。
その分だけ、命を縮める。
時間を無駄にする。
そのほうが、よほど「損」というもの。
あとは楽しく、笑ってすごせばよい。

(付記)
子育てが終わることになると、そこにドッとやってくるのは、老後。
年齢的には、あなたの息子や娘が、大学を卒業するころと考えてよい。
それまではみな、子育てに夢中になっているから、そこに老後があることにさえ
気づかない。

で、そのころになったら、10年後、20年後を考えて、自分の身辺の
財産(額の多少は関係ない)について、整理しておく。
まだ脳みその活動が、正常なうちに、そうしておく。
それはあなた自身のためというより、子どもたちのためと考える。

私の近辺でも、遺産相続問題がこじれて、ここに書いたK氏のように
なったケースは、多い。
ほとんどが、そうではないか。
遺産相続問題にかぎらない。
介護問題。
介護の費用問題。
さらには、親の見舞いに来たとか、来なかったとか、そういうことで
兄弟、姉妹関係がこじれることさえある。
また兄弟姉妹の範囲を超えて、叔父、叔母たちがからんでくるケースも
ある。
これは最近、ある司法書士の人から聞いた話だが、本来は遺産相続権の
ない甥や姪が、遺産相続問題に首をつっこんでくるケースもあるという。

この世が、いかに金に毒されているか、こうしたケースは、それをその
まま証明している。

そこでまた自問してみる。

「金(マネー)というのは、額ではない。使い方の問題である」と。
「金があれば安心」「なければ不安」というのであれば、すでにあなたは、
金(マネー)の奴隷になっているということ。

金(マネー)がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかし金(マネー)では、幸福は買えない。
これもまた事実。
ないよりはあったほうがよいが、金の奴隷となったとたん、それと
引き換えに、人は、孤独に包まれる。
その孤独ほど、恐ろしいものはない。

(付記2)

相手から相談でもあれば、話は別だが、この種の問題には、首をつっこまない
こと。
それが親類、縁者のものであっても、「私は関係ありません」を貫くのがよい。
この種の問題に首をつっこむと、あなた自身も、その騒動に巻き込まれ、人間関係
がめちゃめちゃになってしまう。

というのも、一方の当事者は、自分の落ち度やまずい点については、話さない。
一方的に相手を悪く言う。
そういう一方的な話だけを聞いて、全体を想像すると、誤解が誤解を生み、さらに
人間関係がおかしくなる。

私も少し前も、こんなことがあった。
近い人から、息子の離婚問題についての相談を受けた。
「息子夫婦が、離婚したのだが、元嫁が、離れの家から出て行かない。
どうすれば追い出せるか」と。
協議離婚はしたものの、元嫁が、別棟の家から出ていないので、困っている
という内容の相談だった。
息子夫婦には、当時、中学生と小学生の子どもが2人、いた。
2人の子どもは、元嫁のほうを親として選んだ。

で、話を聞いていると、要するに、「財産を分けたくない」という内容だった。
が、こういうケースのばあい、家を追い出される女性の立場のことも考え
なければならない。
2人の子どもをかかえて、「はい、さようなら」というわけにはいかない。
だからその元妻は、離れに住み、それに抵抗した。

が、その人は、何度も電話をかけてきて、元嫁の悪口を並べた。
自分の意見を正当化しようとした。
しかしいくら悪口を並べても、法律的には、ただの雑音。

「養育費、慰謝料、財産分与など、払わなければならないものは、払わなければ
なりません」と答えると、「そんな必要はない」「あんなひどい嫁に、お金を渡す
必要はない」の一点張り。
やがておかしな押し問答になってしまった。

あとで、つまり1年ほどしてから人伝えに聞いたところによると、その
人が、私の悪口を言いふらしているのを知った。

「あの林は、冷たい男だ」「私の相談にものってくれなかった」と。

だから最近は、いくら近い人でも、私はこの種の相談には、のらないように
している。
「弁護士さんに相談するのがいちばんいいですよ」と言って、逃げることに
している。

(付記)
M県で司法書士をしている友人のU君さえも、先日、電話で同じようなことを言っていた。
「不動産取り引きなどは、不動産屋に任せたほうがいいよ。
身内だからといって、安易に引き受けると、あとでめんどうなことになる」と。

そう言えば、家庭教育の世界でも、同じようなことが言える。
たとえば身内だからといって、その子どもの勉強の指導を引き受けたりするのは、
やめたほうがよい。
うまくいっても、(うまくいくケースは、10にひとつもないが)、当たり前。
失敗すれば、そのまま人間関係も、おしまい。
こと受験勉強に関しては、お金はかかっても、そこはプロに任せたほうがよい。
やめるときも、後腐れなく、やめることができる。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●シロが、嫁さんを連れてやってきた。

+++++++++++++++++

毎日、庭に、ハトの餌をまいている。
そこへ毎日、何羽かのドバト(野生のハト)が
やってくる。

+++++++++++++++++

春先からいつも一羽のドバトが、私の庭にやってきていた。
いつも一羽。
首の下に、白いえりまきのような輪があるから、私とワイフは、「シロ」と
呼んでいた。

たいへん意地の悪いドバトで、私の庭を独り占めにしていた。
ほかのドバトが入ってくると、すかさず、そのドバトを追い出したりしていた。

ところが今日、9月21日、そのシロが、嫁さんを連れて、私の庭にやってきた。
首筋がほっそりとした、なかなかの美人である。
首の下左右には、青と黒の、美しい縞模様がある。

私「シロが嫁さんを連れてきたよ」
ワ「あら、ほんとう。とうとう見つかったのね」
私「よかったね」と。

しかしどうも、仲がおかしい?

2羽とも、静か。
餌場の中に、じっとたたずんでいるだけ。
シロは嫁さんを、どこか遠慮がちに見守っているといった感じ。
ラブラブといったふうでもない。

私「まだ見合い中といったところかな?」
ワ「はじめてのデートで、戸惑っているみたい」
私「シロはまだ童貞みたいだ」
ワ「嫁さんのほうも、まだ処女みたい」
私「フ~ン、ぼくが行って、指導してやろうか?」
ワ「どうやって指導するの?」
私「お前がうずくまって、ぼくが上から載って、ククー、ククーとやればいい」
ワ「バカバカしい……。ハハハ」と。

曇り空の暗い空。
その下でシロは、毛づくろいを始めた。
やはり嫁さんが気になるらしい。

いつもならほかのドバトをバタバタと追いかけ回してばかりいるシロ。
そのシロが、今日は、おとなしい。
満足げに、おっとりとしている。

よかった!


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●過渡期の認知症

++++++++++++++++

認知症になるのは、私の勝手。
あなたの勝手。
しかしその過程で、多くの人たちに
迷惑をかける。
これが問題。

とくにその過渡期が、問題。
認知症とその人がはっきりとわかれば、それでよし。
対処の仕方も、それでわかる。
が、その一歩手前というか、認知症かな(?)と
思っても、それがはっきりしないときが、たいへん。

先月亡くなった私の兄についても、こんなことがあった。

+++++++++++++++++

その朝、高校の同窓会があった。
私は、シンガポールで買ってきた洋酒(ジョニ黒)を、恩師へのみやげに用意した。
で、出かけようと思ったそのとき、その洋酒の栓が抜かれているのを知った。
上から数センチ分、洋酒が減っているのもわかった。

私は兄がそうしたことが、すぐわかった。
兄を呼び、「どうしてこんなことをするのだ!」と怒った。
それに対して兄は、それほど悪びれた様子もなく、こう言った。
「ちょっと飲んでみたかっただけや」と。

そのときは私は本気で、兄に怒りを覚えた。
が、そのときを境に、兄の奇行が目立つようになった。
つまりそのときが、過渡期だった。
今から15、6年も前のことだった。

で、それ以後は、同じようなことがあっても、兄を相手にしなくなった。
「私の兄は、そういうものだ」という前提で、つきあうようになった。
何か心配なときは、前もって、予防策を講じたりした。

……という場面に、このところ、よく出くわす。
知人、友人、親類の人たちなど。
年齢がその年齢に近づいてきたということもある。
認知症とは断言できないが、しかしその過渡期かなと思わせる人たちがいる。
こういうケースのばあい、こちらは本気で相手にしてはいけない。
本気で相手にしても、意味はない。
相手にすればするほど、相手のワナにはまってしまう。

中には、「母がこうなってしまった」「父がこうなってしまった!」と、
電話で泣きわめいてくる人がいる。
その人はその人で、過渡期の認知症がどういうものであるか、わかっていない。
だから混乱する。
ギャーギャーと大げさに、騒ぐ。

が、過渡期かなと思うことで、その人を理解することができる。
理解したとたん、その人との間に、距離を置くようになる。
怒りも、それで収まる。

ある年齢になり、「どこかおかしい?」と感じたら、その過渡期を疑ってみればよい。

*Whre does the anxiety come from?

●五感を刺激する

+++++++++++++++++++

映画は、ボケ防止には、たいへんよい(と思う)。
はっきりとした根拠があるわけではないが、
映画を見ることによって、五感が刺激される。

家庭でDVDを見るという方法もあるが、私はやはり
劇場で見るのがよいと思う。

迫力がちがう。
それに私のワイフのばあい、家庭でDVDを見ていると、
そのままよく眠ってしまう。
だから劇場で見るのがよい。

とくに私のように、ものを書く人間は、そうである。
書いてばかりいると、社会性そのものが、現実世界と
遊離してくる。
思想が偏(かたよ)ったり、極端になったりしやすい。
が、映画を見ることによって、さまざまな世界を
疑似体験できる。

泣いたり、笑ったり、怒ったり、ハラハラドキドキしたり……。

それに字幕を読みながら映画を見ることによって、
脳みそが、英語と日本語の両方で刺激される。

ということで、私とワイフは、週に2回は劇場まで足を運び、
映画を見ることにしている。
満50歳以上は、1回1000円。
6回見ると、7回目はタダ。

肉体的な健康維持のため、ジムに通う人は多い。
同じように、脳みその健康のため、映画館に通ってみてはどうか。
種類は、問わない。
というより、私のばあい、時間帯さえあえば、片っ端から見ている。
子ども向けの映画を見ることもある。
ただしどうせお金を出すなら、楽しいものを見たい。
見て、不愉快になるような映画は、いや。
ハッピーエンドで終わる映画なら、文句なしによい。


●不安の原点

++++++++++++++++++

世界経済が、おかしい。
それについて、少し前、私は
「おかしな胸騒ぎがする」と書いた。

私は、ある種の不安感を覚えた
ことになる。
それはそれとして、つまり経済問題は
別として、この問題は、「不安」について
考えるには、たいへんよいテーマと思う。

「不安とは何か?」
「不安はどこから来るのか?」
「不安を解消するためには、どうすれば
よいのか?」

++++++++++++++++++

「不安」は、心理学の分野でも大きなテーマになっている。
大きく分けて、不安の原因として、(1)抑うつ説と、(2)恐怖説がある。
またその前後関係について、(1)不安感が先にあって、抑うつ的になったり、
恐怖感を覚えるようになる。(2)抑うつ的になったり、恐怖感を覚えたあと、
不安になるの、2説がある。

私の個人的な実感としては、「不安のメカニズム」は、「ストレス学説」と似ている
ように思う。
現象面だけを見ると、たいへんよく似ている。

たとえばこんなことがあった。

数年前、健康診断を受けた。
しばらくするとセ検査ンターから検査報告書が届き、私の胃について、「要精密検査」と、
そこには書いてあった。

私にとっては、生まれてはじめての経験だった。
私はその言葉を見て、かなり動揺した。
「どの程度の心配があるのか?」
「どのレベル以上を、要精密検査というのか?」
「要精密検査とは何か?」
そういった情報が、まるでなかった。
あるいは「すでにがんにかかっているので、もう一度検査しなおす」という意味にも
とれた。

私は自分の体を静かに観察してみた。

食事はおいしい。
このところ胃の不調を訴えることはない。
体の調子も悪くない。
体重が減ったということもない、など。
そのあと、私は自分にこう言って聞かせた。
「仮にがんであっても、今なら間に合うはず」と。

こうした一連の心理状態を並べてみると、こうなる。

(要精密検査の報告書をもらった)→(得体の知れない恐怖感を覚えた)→
(不安感を覚えた)→(気分が落ち込んだ)→(「私はだいじょうぶ」と自分に
言って聞かせた)と。

「ストレス学説」によれば、(得体の知れない恐怖感)がストレッサーとなり、それが
一時的にはアドレナリンの分泌を促し、それが一巡し、気分を落ち込ませたことに
なる。

そこで私はすぐ、検査センターに電話を入れ、「要精密検査とは何か」を聞いた。
するとあちこちへ電話を回され、最後はドクターと思わしき人が、こう教えてくれた。
「今回の検査では検査できなかった部分がありますから、その部分を再検査します」と。

が、それで私の不安感が去ったわけではない。

私は翌日、かかりつけの医院へ行き、個人的に検査を受けた。
そんな状態で、再検査までに2週間も過ごしたら、気が変になってしまう。
で、結果はシロ!
とたん胸の中のモヤモヤが、スーッと消えた。

そこで得た教訓は、(1)まず敵の正体を知る、である。

何かのことで不安感を覚えたら、まず敵の正体を知る。
それが何であるか、正確に知る。
あいまいなままだと、妄想だけが勝手にふくらんでしまう。
その妄想が、強烈なストレスとなって、心を万力のように押しつぶし始める。

が、それがシロであれ、クロであれ、正体がわかれば、つぎの対処方法がわかる。
一歩、前に出ることができる。

つぎに大切なことは、(2)周辺情報を集めて、整理する。

これは大病には当てはまらないかもしれないが、情報をできるだけ多く集めて、
外堀をしっかりと埋めておく。
「こうなったら、こうする」「それでもこうなったら、こうする」と。
そういう対処法を、幾重にも、自分の周囲に、砦(とりで)のように積み重ねていく。
私はこれを「理論武装」と読んでいる。
つまり、「武装」する。

が、そうしたところで、不安感はすぐ消えるわけではない。
脳みそというのは、そういう点では、不器用。
一度分泌されたサイトカイン(ストレスの原因となる脳内ホルモン)は、すぐには
消えない。
静かに脳内で起こる(フィードバック現象※)を待つか、それとも、精神安定剤のような
薬物の世話になるしかない。
(私のばあいは、ハーブ系の安定剤をよく服用する。効果は薄いが、副作用や習慣性が
生まれない分だけ、安心してのめる。)

そこで「不安」について。

無知、無学、情報不足、経験不足、知識不足が、不安の原因の第一と考えてよい。
冒頭にあげた経済問題についても、そうである。
あまりにも情報が多く、全体として、まるで巨大な雲をつかむよう。
どの分野を、どのように切り込んでいったらよいかさえ、わからない。
そこに何があるのかさえ、わからない。
だから、言いようのない不安感に襲われる。

もうひとつの例をあげて考えてみる。

山荘が完成し、その山荘で暮らすようになってすぐのこと。
夜中に、庭をだれかが歩く音がする!
庭には、砂利を敷きつめてある。
その砂利が、ジャリ、ジャリと音を出す。

私は生きた心地がしなかった。
「だれだア!」と声をあげても返事もしない。
が、突然、風呂場のほうで、何かがバタンと倒れる音。

私は起きあがって、家中の電気をつけた。
そして懐中電灯をもって、外に出た。
が、そこには何もいなかった。
風呂場も、そのままだった。

翌日から私は、おもちゃのモデルガンと、木刀を枕元に用意した。
戸締りもきちんとした。

が、やがて、その理由がわかった。

夜になるとそのあたりでは、ハクビシン、タヌキ、イノシシ、それに近所の
イヌやネコがかわるがわる徘徊する。
それがそういう足音をたてた。
また風呂場での音は、鏡が原因だった。
バスタブをかわかすため、窓を開けておいた。
そこから風が入り、鏡を倒した。

ということで、それ以後は、恐怖心は消えた。
さらにそのあたりでは、村の人たちがこう言っているのを知った。
「この村では、この400年、泥棒(空き巣)に入られた家は一軒もない」と。

……とは言いながらも、この世界、どこもかしこも、不安だらけ。
不安と無縁で生きるほうが、むずかしい。
それぞれの不安と闘う時間すら、ない。
それに不安というのは、一度心の内壁に張りつくと、なかなか取れない。
(これは私だけの現象かもしれないが……。)
だから不安になってから、その不安と闘うのではなく、そうでないときから、
いろいろな情報を吸収しておく。

たとえば私のばあい、病気などについては、近辺にその病気の人が出たりすると、
その病気について、徹底的に調べるようにしている。
アルツハイマー病の人が出たら、アルツハイマー病について。
心筋梗塞の人が出たら、心筋梗塞について、というように。

もちろん人間関係についても、そうである。
冠婚葬祭に始まって、遺産相続問題などなど。
とくに今は、インターネットというたいへん便利なサービスもある。
以前なら、図書館で1日かかった調べ物が、ものの数分ですんでしまう。
体験談もそのまま読むことができる。

しかし悪いことばかりではない。
こうして私がものを書きつづけることにしても、見方によっては、その原点に
不安があるからにほかならない。
もし私が天国のような世界に住んで、何一つ不自由なくのんびりと暮らしていたら、
たぶん、ものなど書かないだろう。
ものを考えることもないだろう。
つまりこれも「ストレス学説」と似ている。
適度な不安は、生きる原動力となる。

それが「命」にかかわる問題でなければ、何も恐れることはない。
不安を避けるのではなく、不安とは仲よくつきあう。
それが、私の不安解消法ということになる?

なお心理学の世界では、「不安」を、心理分析の中核に置いている。
さまざまな学者が、それぞれの意見を論議しあっている。

欲求不満説
葛藤論
自己概念に対する脅威論
不安因子論などなど。

俗な言い方をすれば、「なるようにしかならないものは、あきらめ、何とか
なるものについては、がんばる」。
それしかない。

(注※)「フィードバック現象」……脳の中である種の反応が起こると、今度は、
それを打ち消すための別の反応が、同時に起こる。これを「フィードバック現象」
という。

*Why do we brush our teeth

● 歯磨き一考

++++++++++++++++

長い間、口臭に悩んだ。
ときどき生徒からも、「先生の口は臭い」と言われた。
そのつど私は、「これはな、女よけなんだ」と言うようにしていたが、
そのため、若い母親などは、私に近づいてこなかった。

+++++++++++++++

で、歯医者へ行くたびに、こう言われる。
「口臭は、歯の磨き方が原因です」と。
で、何度か、磨き方の講習を受けた。

「口臭の講習(コウシュウのコウシュウ)」……シャレにもならない。

しかし原因は、やはり磨き方だった。
磨き方が悪いから、歯ぐそが残り、歯肉炎を起こす。
それが口臭となる。
理屈は簡単。
しかしその磨き方が、けっこう、めんどう。

(1) ひげが短くて、硬い歯ブラシ。
この歯ブラシで、数ミリずつ左右に動かして、歯と歯ぐきの間の食べかすをていねいに取り去る。(手先をこまかく動かすのがコツ。)

(2) ひげが長くて、硬い歯ブラシ
これを「ローリングブラシ」というが、これをローリングさせながら、歯と歯の間の食べかすを取り去る。
(手首をクルクルとローリングさせるので、最初は、練習が必要。)

(3) ふつうの市販の歯ブラシ(やややわらかい)
最後に、この歯ブラシで、ざっと磨いて、終わる。
(ほかにときどき、歯間ブラシを使うようにと、指導されている。)

全体で20分ほどかかる。
そのため風呂の中ですることが多い。
で、一応、口臭はなおったように思う。
臭いときは、ワイフがそう言って指摘してくれる。
このところ、その指摘がぐんと減った。

● 歯磨き粉(練りチューブ)は、不要!

こうした歯磨きをつづけていて、気がついたことがある。
それはチューブに入った、歯磨き粉は、不要ということ。
おそらく歯を磨いたあとの清涼感のために、ああしたものを使うのだろうが、かえって
弊害もある。

先に書いた(1)~(3)の歯ブラシで歯をみがいていると、信じられないほど、汚れた
水が口から出てくる。
汚水に近い。

歯磨き粉を使っていると、清涼感は残るが、その汚れがわからない。
「歯がきれいになった」と錯覚してしまう。
水の汚れがわからないから、途中でやめてしまう。
これがかえって、歯の汚れを残してしまう。

しかし歯磨き粉を使っていないと、少しずつ歯がきれいになっていくのがわかる。
水の汚れを見ながら、「まだここは磨き方が足りないな」とか、わかったりする。

その前に、歯磨き粉をなぜつけるのか、その理由がよくわからない。
「フッ素配合」「白い歯に」とか何とか、それらしい歌い文句は書いてはあるが、効果が証明されているわけではない。
私がいつも通っている歯科医院の医師は、こう言う。

「あんなものをつけても、無駄ですよ。どうしても、というなら、塩にしなさい」と。
ふつうの塩でよいのだそうだ。

このあたりの意見が、私は正解のように思う。

さて、歯磨き粉を使わなくなって、もう3、4か月になる。
今は、それが当たり前になっていて、練りチューブも、どこかへ消えた。
使わなくても、不都合なことはまったくない。
もし私の説を疑う人がいたら、しばらく歯磨き粉なしで、歯を磨いてみたらよい。
あなたもかならずや、私の意見に賛成するようになるはず。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●秋

+++++++++++++++++++

今日、1日、私はうつ状態だった。
うつ状態というのは、心の緊張感が、ずっと取れない状態をいう。
どこか、心がピンと張りつめたような感じになる。
気が抜けないというか、いろいろささいなことが、心の壁にペタリと
張りついているような感じになる。
不安と心配が入り混じったよう。
それが取れない。
すっきりしない。

こういうときというのは、何かのきっかけで、突発的に心は
不安定になり、激怒したりしやすい。
それがわかっているから、じっと静かに、自分の心を見守る。

昼過ぎになって、Sxxxという安定剤を、半分に割ってのむ。
もともとは、女性用の精神安定剤だそうだ。
が、私には、効く。
少し頭痛もあったので、頭痛薬も半分のむ。
とたん、眠気。

「昼寝をしてくる」と言うと、ワイフも、「私も……」といって、
1~2時間ほど、横でつきあってくれた。

起きてからも、あまり状態は変わらなかった。

ワ「何も、悩むことなど、ないのに……。すべてうまくいっているでしょ」
私「それが、おかしいのだよな。これといったことはなくても、憂うつになる」
ワ「私を信じなさいよ」
私「信ずるって?」
ワ「私がだいじょうぶと言ったら、だいじょうぶなの」
私「うん……」と。

夕方になって、今度講演をすることになっている、A教育委員会用のレジュメを
作成する。
けっこう、よいのができた。
それを封につめて、宛名を書く。
で、そのあと、長野県S市に住む友人に電話。
「おお、元気か?」
「おお、元気だ」と。

あとで見たら、1時間10分も話していたことがわかった。

その電話がよかった。
電話が終わったとき、心が軽くなっているのを知った。
バンザーイ!

こういうときは、友人と話すのがいちばん、よい。
みんな、それぞれにがんばっているのだと知るだけでも、励みになる。

で、今は、時刻は午後8時4分前。
ワイフに「DVDでも見ようか?」と声をかけると、「うん」と。
すなおに返事をしてくれた。

そうそう友人がこう言っていた。

「生きるということは、長生きをすることじゃ、ないんだよな。
生きるということは、いかに密度を濃くして生きるかということだよな」と。

つまり元気で体が動くうちに、やるべきことをやるということ。
近く再開することを約束する。

近くに湯田中温泉、山田温泉、上山田温泉があるという。
交通事故でむち打ち症になってから、体の調子がよくないという。
見舞いをかねて、近く行ってみよう。


● ジョン・デンバー主役の『別れのとき』

ワイフが取り出しのが、ジョン・デンバー主役の『別れのとき』。
タイトルからして、うつ状態を加速させるような映画?
ジョン・デンバーが主演だから、新しい映画ではない。
が、ジョン・デンバーのファンの人には、たまらない映画だろう。
実は、私もその1人。
軽い気持ちで見始めたが、見始めるとすぐ、ジョン・デンバーが歌を歌った。

年代はわからないが、ジョン・デンバーが、35歳前後のときの作品らしい。

内容はやや退屈?
「デンバーの歌が出てきたら見る」と言って、私は再び、パソコンと遊び始める。

映画としては、星2つ、★★。
ジョン・デンバーのファンとしては、星5つ。★★★★★。

ただし、「カントリー・ロード」や「サンシャイン」など、ジョン・デンバー
の有名な曲は、出てこなかった。
残念!

*Sep 20th 2008

● 今夜・あれこれ(9月20日)

++++++++++++++++++

今夜の思考力、ゼロ。
何を考えても、そのままそれがバラバラになってしまう。
つぎからつぎへと、考えていることが、飛躍してしまう。
……ということで、「バラバラ」について、考えてみたい。

++++++++++++++++++

話している最中から、話がどんどんと飛んでしまっていくタイプの人は少なくない。
たとえばこんな話し方をする。

A子(30歳、架空人物)「昔の人は、苦労話ばかりする。学生時代は、貧乏だったとか」
私「ぼくたちの時代には、家からの仕送りも、下宿代だけだった」
A「奨学金をもらえばいい」
私「奨学金といっても、小額だった」

A「アルバイトは楽しいでしょ」
私「アルバイトも、したよ」
A「スキーは楽しいわね」
私「スキー場でのアルバイトって、こと?」

A「神様はいるわよ」
私「神様って?」
A「神様は、白い着物を着ているって、ほんと?」
私「さあ、どうかな?」

A「キリスト教と仏教では、どちらが役にたつのかしら?」
私「神様の着物の話はどうなったの」
A「ああ、どっちでもいいけど、赤い服じゃ、おかしいわね」
私「スキー場の話って、何?」と。

A「スキー場もいいけど、私は夏の海で泳ぐのが好き」
私「海で?」
A「子どものころは、よく川でも泳いだけど・・・」
私「・・・?」と

話の焦点が定まらない。
会話をからませようとしても、そのつど、振り回されてしまう。
会話をつづけているうちに、私のほうが、自分でも何を話しているか、
わからなくなってしまう。

おとなのばあいは、まだそれでよいとしても、子どもとなると、話は別。
指導そのものが、できない。
脳そのものが、乱舞したような状態になる。
言動が、落ち着かない。
ソワソワ、キョロキョロしている。
静かな会話になじまない。
ときにひとりでキャーキャーと叫ぶ。
ささいな言葉尻をつかまえ、周囲を巻き込んで、ワーワーと騒ぐ。

「風が吹いた・・・でも、キリンさんは、元気・・・冷蔵庫の中には、ミカンが
いっぱい・・・時計が鳴った。・・・ママは、お買い物・・・」と。

こうした症状が、どんな原因によるものなのかは、私にはわからない。
ある種の脳の障害が関係しているのかもしれない。
たとえば脳の微細障害説など。
さらにはその原因として、環境ホルモン説なども疑われる。
もちろん学習面でも、大きな遅れとなって現れる。

左脳の特徴である、分析力、論理性などが、正常に機能していない。
そんな印象をもつ。

このタイプの子どもを、私は勝手に「乱舞児」と呼んでいる。
思考そのものが、乱舞したような状態になることから、そう呼んでいる。
小学1~2年生児に多く見られる。
程度にもよるが、全体の20~30%。
しかしその後、3~4年生になると、急速に症状は落ち着いてくる。
子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになるためである。
が、症状が、まったく消えるわけではない。
その残像のようなものは、おとなになってからも残る。

それが冒頭に書いた、A子さんということになる。

「バラバラ」というテーマで書き始めた原稿だが、結構、シリアスな内容に
なってしまった。
(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 乱舞児)

(補記)
話していても、そのつどパッパッと話題が飛躍したり、どこかへ飛んでいって
しまうというのは、あまり好ましい現象ではない。
私の知人のH氏(当時、42歳)もそうだった。
従業員30人ほどの電気修理会社を経営していたが、私と知り合ってから、
その会社はまもなく倒産。
そのショックもあって、(私はそう人から聞いていたが・・・)、H氏はそのまま
精神病院へ入院してしまった。

一方、思考力の深い人は、静かな語り口の中にも、きちんとした論理性がある。
ひとつずつ論理を組み立てながら、説得力のある話し方をする。
(思考力)という面からは、こうした人物のほうが好ましいことは言うまでもない。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●持てる人の悩み

++++++++++++

もとからない人は、悩まない。
しかしへたに(失礼!)財産があると、
それなりに悩む。
そういう人は多い。

K氏の実家は、昔からの財産家。
その地域のあちこちに数か所、100坪単位の
土地をもっている。
K氏には、3人の姉妹がいる。
K氏は、その中でも末っ子だった。

父親が死んだとたん、遺産相続問題が起きた。

++++++++++++

この種の問題は、一度、こじれると、とことんこじれる。
こじれるだけならまだしも、当事者たちは、とことん神経をすり減らす。
たがいの微妙なかけひきが、火花を飛ばす。
それがストレスとなって、当事者たちを悩ます。
K氏は「問題が片づくまで、1年かかりました」と言った。
その1年の間に、K氏は、体重を6キロも減らした。

「平等に分けるつもりでいましたが、姉たちが、『あれは私の財産』
『これは私の財産』と言い出し、話がごちゃごちゃになってしまいました。
おまけに私に対して、『あなたは親のめんどうをしっかりと
みなかった』とか、『転勤で、この地に住んでいなかった』などと
言い出しました」と。

K氏のばあい、結局、土地を一度全部売り、現金にして、平等に分ける
ということで決着したそうだ。

もとから財産がない人には、こういう問題は起きる。
へたに(失礼!)財産があると、こういう問題が起きる。
額の多い、少ないは、関係ない。
遺産が数億~もあればなおさらだが、わずか、数百万円の遺産を
奪い合ってけんかをしている人はいくらでもいる。

私がそんな(数百万程度の)問題で・・・と言いかけると、その人は
こう言った。

「姉は、こっそりと、その土地を駐車場に貸して金を取っていたのですね。
私にはウソばかりついていました。で、私には、『近所の人たちにただで
貸してやっている』と言っていました。それが許せないのです」と。

こうして兄弟関係、姉妹関係が破壊されていく。
K氏にしても、現在は、たがいにまったく音信ゼロ。
他人以上の他人になってしまったという。

では、こうした問題が起きないようにするには、どうしたらよいか。
答は簡単。
生きている私たちが、たとえわずかでも、金銭問題については、しっかりと
けじめをつけておくということ。
遺言書をしっかりと残しておくという方法もあるが、そのつど、息子や
娘たちには、自分の意思を伝えていく。

・・・と言っても、これも簡単ではない。
K氏のケースでも、K氏の父は、晩年は軽い脳梗塞をわずらい、判断力
がかなり鈍った。
さみしさも重なったのだろう。
娘たちが見舞いに来たりすると、それがうれしくて、「あの土地はお前に
やる」とか、「この土地はお前にやる」とか、そのつど一貫性のないことを
口にしていた。

それが遺産問題を、複雑にしてしまった。

しかし・・・命あっての財産。
大病を宣告されただけで、こうした問題は、闇のかなたへ吹っ飛んでしまう。
どうでもよくなってしまう。

それもそのはず。
宇宙は広い。
人間の魂も、それに劣らず、広い。
その宇宙の、ゴミのような地球上で、これまた点のような土地のことで
心をわずらわすこと自体、バカげている。
「死」に直面したとき、よほどのバカ(失礼!)でも、それに気づく。

遺産がもらえたと喜ぶ人。
遺産を取られたと悔やむ人。
どうであれ、そのときも、自分に、「だからそれがどうしたの?」と
問いかけてみればよい。

もちろん事務的にすます問題は、事務的にすます。
遺産相続問題は、純然たる事務問題。
大切なことは、それ以上に、心をわずらわせないこと。
その分だけ、命を縮める。
時間を無駄にする。
そのほうが、よほど「損」というもの。
あとは楽しく、笑ってすごせばよい。

(付記)
子育てが終わることになると、そこにドッとやってくるのは、老後。
年齢的には、あなたの息子や娘が、大学を卒業するころと考えてよい。
それまではみな、子育てに夢中になっているから、そこに老後があることにさえ
気づかない。

で、そのころになったら、10年後、20年後を考えて、自分の身辺の
財産(額の多少は関係ない)について、整理しておく。
まだ脳みその活動が、正常なうちに、そうしておく。
それはあなた自身のためというより、子どもたちのためと考える。

私の近辺でも、遺産相続問題がこじれて、ここに書いたK氏のように
なったケースは、多い。
ほとんどが、そうではないか。
遺産相続問題にかぎらない。
介護問題。
介護の費用問題。
さらには、親の見舞いに来たとか、来なかったとか、そういうことで
兄弟、姉妹関係がこじれることさえある。
また兄弟姉妹の範囲を超えて、叔父、叔母たちがからんでくるケースも
ある。
これは最近、ある司法書士の人から聞いた話だが、本来は遺産相続権の
ない甥や姪が、遺産相続問題に首をつっこんでくるケースもあるという。

この世が、いかに金に毒されているか、こうしたケースは、それをその
まま証明している。

そこでまた自問してみる。

「金(マネー)というのは、額ではない。使い方の問題である」と。
「金があれば安心」「なければ不安」というのであれば、すでにあなたは、
金(マネー)の奴隷になっているということ。

金(マネー)がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかし金(マネー)では、幸福は買えない。
これもまた事実。
ないよりはあったほうがよいが、金の奴隷となったとたん、それと
引き換えに、人は、孤独に包まれる。
その孤独ほど、恐ろしいものはない。

(付記2)

相手から相談でもあれば、話は別だが、この種の問題には、首をつっこまない
こと。
それが親類、縁者のものであっても、「私は関係ありません」を貫くのがよい。
この種の問題に首をつっこむと、あなた自身も、その騒動に巻き込まれ、人間関係
がめちゃめちゃになってしまう。

というのも、一方の当事者は、自分の落ち度やまずい点については、話さない。
一方的に相手を悪く言う。
そういう一方的な話だけを聞いて、全体を想像すると、誤解が誤解を生み、さらに
人間関係がおかしくなる。

私も少し前も、こんなことがあった。
近い人から、息子の離婚問題についての相談を受けた。
「息子夫婦が、離婚したのだが、元嫁が、離れの家から出て行かない。
どうすれば追い出せるか」と。
協議離婚はしたものの、元嫁が、別棟の家から出ていないので、困っている
という内容の相談だった。
息子夫婦には、当時、中学生と小学生の子どもが2人、いた。
2人の子どもは、元嫁のほうを親として選んだ。

で、話を聞いていると、要するに、「財産を分けたくない」という内容だった。
が、こういうケースのばあい、家を追い出される女性の立場のことも考え
なければならない。
2人の子どもをかかえて、「はい、さようなら」というわけにはいかない。
だからその元妻は、離れに住み、それに抵抗した。

が、その人は、何度も電話をかけてきて、元嫁の悪口を並べた。
自分の意見を正当化しようとした。
しかしいくら悪口を並べても、法律的には、ただの雑音。

「養育費、慰謝料、財産分与など、払わなければならないものは、払わなければ
なりません」と答えると、「そんな必要はない」「あんなひどい嫁に、お金を渡す
必要はない」の一点張り。
やがておかしな押し問答になってしまった。

あとで、つまり1年ほどしてから人伝えに聞いたところによると、その
人が、私の悪口を言いふらしているのを知った。

「あの林は、冷たい男だ」「私の相談にものってくれなかった」と。

だから最近は、いくら近い人でも、私はこの種の相談には、のらないように
している。
「弁護士さんに相談するのがいちばんいいですよ」と言って、逃げることに
している。

(付記)
M県で司法書士をしている友人のU君さえも、先日、電話で同じようなことを言っていた。
「不動産取り引きなどは、不動産屋に任せたほうがいいよ。
身内だからといって、安易に引き受けると、あとでめんどうなことになる」と。

そう言えば、家庭教育の世界でも、同じようなことが言える。
たとえば身内だからといって、その子どもの勉強の指導を引き受けたりするのは、
やめたほうがよい。
うまくいっても、(うまくいくケースは、10にひとつもないが)、当たり前。
失敗すれば、そのまま人間関係も、おしまい。
こと受験勉強に関しては、お金はかかっても、そこはプロに任せたほうがよい。
やめるときも、後腐れなく、やめることができる。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●シロが、嫁さんを連れてやってきた。

+++++++++++++++++

毎日、庭に、ハトの餌をまいている。
そこへ毎日、何羽かのドバト(野生のハト)が
やってくる。

+++++++++++++++++

春先からいつも一羽のドバトが、私の庭にやってきていた。
いつも一羽。
首の下に、白いえりまきのような輪があるから、私とワイフは、「シロ」と
呼んでいた。

たいへん意地の悪いドバトで、私の庭を独り占めにしていた。
ほかのドバトが入ってくると、すかさず、そのドバトを追い出したりしていた。

ところが今日、9月21日、そのシロが、嫁さんを連れて、私の庭にやってきた。
首筋がほっそりとした、なかなかの美人である。
首の下左右には、青と黒の、美しい縞模様がある。

私「シロが嫁さんを連れてきたよ」
ワ「あら、ほんとう。とうとう見つかったのね」
私「よかったね」と。

しかしどうも、仲がおかしい?

2羽とも、静か。
餌場の中に、じっとたたずんでいるだけ。
シロは嫁さんを、どこか遠慮がちに見守っているといった感じ。
ラブラブといったふうでもない。

私「まだ見合い中といったところかな?」
ワ「はじめてのデートで、戸惑っているみたい」
私「シロはまだ童貞みたいだ」
ワ「嫁さんのほうも、まだ処女みたい」
私「フ~ン、ぼくが行って、指導してやろうか?」
ワ「どうやって指導するの?」
私「お前がうずくまって、ぼくが上から載って、ククー、ククーとやればいい」
ワ「バカバカしい……。ハハハ」と。

曇り空の暗い空。
その下でシロは、毛づくろいを始めた。
やはり嫁さんが気になるらしい。

いつもならほかのドバトをバタバタと追いかけ回してばかりいるシロ。
そのシロが、今日は、おとなしい。
満足げに、おっとりとしている。

よかった!


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

Friday, September 19, 2008

*A Scandal at a High School

【T林業高校での、成績改ざん事件】

『静岡県西部の県立高校で2006年、大学の推薦入試に有利になるよう生徒2人の調査書が改ざんされた問題で、T竜署と県警は22日、このうち1人の調査書改ざんに対する虚偽有印公文書作成・同行使の容疑で、元T林業高校長、北川Y容疑者(60)=浜松市浜北区内野台=を逮捕した』(中日新聞記事より)と。

これに対して、北川Y容疑者(法律の世界では、被疑者)は、「担任には(入学できるよう)頑張ろうとは言ったが、改ざんを指示されたと取られたら心外だ」などと否認しているという(同紙)。

もう少し、新聞記事の内容を詳しく読んでみよう。

『調べでは、北川容疑者は校長だった同年9月から同11月にかけて、同校で東京都内の大学を志望する3年生の調査書の評定を改ざんするよう担任らに指示。3・1だった評定を、推薦出願基準を満たす3・5にかさ上げさせた調査書を、大学に提出した疑い。

 県教委の調べでは、別の生徒1人の調査書改ざんも判明。2人とも推薦入試に合格し、入学している。

 県教委などに同校関係者とみられる匿名の通報があり発覚した。北川容疑者や教員らを名指しし、「地元有力者の身内である生徒の調査書が改ざんされている」といった内容。県教委は7月、同容疑で刑事告発していた。県警は改ざんの指示に対し、生徒側からの働き掛けや不正な金品の受け渡しがなかったか、北川容疑者を追及する。

 同日夜には北川容疑者の自宅と同校を家宅捜索。今後も含めて、周辺計9カ所を捜索するという。改ざんを指示されたとされる教諭4人についても任意で事情聴取を続け、裏付けを進める。

 遠藤K静岡県教育長の話 警察に委ねており、捜査の状況を見守りたい』(同紙)と。

この記事の中での最大のポイントは、(1)改ざんの発端となった、動機の内容である。
それについて、同じく中日新聞は、つぎのように書いている。

○少子化、過疎化の問題を抱える中山間地の専門高校のトップに就き、生徒募集を有利に進めるため学校の知名度アップにも熱心だった。

○森谷睦男・現校長は「改ざんは絶対に許されない」という認識を前提に「教諭4人は生徒に希望の学校にいってもらいたかったという気持ちが強かったと思う」と話した。

○同校の大学進学率は10%前後。「希望の大学に入ってくれれば、学校の知名度も上がる」と明かす。

○「指導熱心で前向きな先生」-。生徒2人の調査書の改ざんを教員に指示したとして逮捕された地元の伝統校、天竜林業高校の元校長北川容疑者。
 
○生徒数は減少傾向にあり、現在は400余人。「二俣高校と合併する話もでているほどで、学校は必死」と訴える。
 
さらに地元の「天竜・そま人の会」HPは、つぎのように北川容疑者を弁護する。

「この事件の要因として忘れてはいけないのは、林業全体が追いやられている危機的な状況。各自がそれぞれの分析と判断をしていただければと思います」(天竜・そま人の会・HP)と。

で、結果的に、北川容疑者は、地検浜松支部に起訴された。

『県立T林業高校での大学推薦入試調査書の改ざん事件で、地検浜松支部は11日、当時の校長で無職、北川Y容疑者(60)を虚偽有印公文書作成罪で地裁浜松支部に起訴した。

 起訴状などによると、北川被告は06年9月中旬ごろ、同校の教員らに指示して当時高校3年生だった生徒の評定平均を3・1から3・5に引き上げ、公印を押させて調査書を改ざんした。北川被告は虚偽有印公文書作成・同行使容疑で先月22日に逮捕されたが、地検浜松支部は「調査書の提出を最終的に決定するのは生徒側」とし、同作成罪でのみ起訴した。

 北川被告は「やっていない」と否認を続けており、供述調書への署名、押印も拒否しているという』(毎日新聞)と。

で、この事件の最大のポイントは、動機。

報道によると、調査票を改ざんしてもらい、東京の大学に進学できたのが、「地元の有力者」であったとうことから、有力者からの働きかけがあったかどうか。その際に、金銭の授受があったかどうかという点についても、捜査しているという。

毎日JPもつぎのように報道している。

『北川容疑者は、「働きかけをした覚えはない。そんな風にとらえられたのは心外だ」と容疑を否認しているが、県警では、生徒の親族である地元有力者から依頼や謝礼があったかについても追及する方針』(毎日JP)と。

もし(地元の有力者からの働きかけがあり)→(金銭的利益の授受があった)ということであれば、これは単純な贈収賄罪ということになる。
たまたま教育の場でなされたというだけで、事件の構図は、談合事件などと同じ、ただ単なる「汚職事件」ということになる。

「知名度をあげるためにした」「学校の存続をかけて必死だった」などという言葉は、ただの言い訳でしかない。

で、あくまでも金銭的利益の授受がなかったという前提で話をするなら、(仮にあったとしても、その双方が口を割ることはないだろうが)、今回の事件は、「生徒の将来を思わんばかりにした、教育熱心な教師による善意の事件」ということになる。
教師の立場で考えてみよう。

(1) 成績表の信頼性
(2) 点数主義の弊害
(3) 少子化による入試制度そのものの形骸化
(4) 大学教育の不備、欠陥があげられる。

順に考えてみる。


(1) 成績表の信頼性と(2)点数主義の弊害

成績表なるものが、いかにいいかげなもにであるかは、現場の教師なら、みな知っている。
それがわからなければ、男たちが働いている職場での勤務評定を見ればよい。
評価のし方としては、相対評価、絶対評価があり、さらに点数主義、人物主義がある。
人物主義にしても、最近では、人格の完成度(EQ論)を応用する学校もふえている。
「勉強しかできない」「勉強しかしない」「頭の中は偏差値でいっぱい」という学生を排除しようとする傾向も強くなってきている。
さらに高校からあがってくる調査票を無視して、大学独自で、独特の選抜方法をとる大学もふえてきている。

「AO方式」と呼ばれる入試選抜方法も、ふえている。

++++++++++++++++++

●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試と並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)です。

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990年のことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2001年度には、207大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途をたどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務局とやりとりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かなものもあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事前面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びたい」受験生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が許可されたり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授業についていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考えられますから、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミッションズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれています。 AOとは(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行っているというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の能力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよらない新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」(同サイトより)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募できる「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や日数をかけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方法に従来の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のようである。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を課したり、出願時に2000~3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面接はそれをもとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学力の成績がモノをいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1~2回の予備面接やインタビューを行うもので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や面談は大学主催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自己アピールを大学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 このタイプの場合は、大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意志の確認が重視されます。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

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 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これからの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。ただ現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用することについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 AO入試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)

+++++++++++++++++

(3)少子化による入試制度そのものの形骸化

「大学へ入れてやりたい」と思う高校側。
しかし現実には、そこには「1人でも多くの学生を入れたい」という大学側の事情もある。

北川容疑者は、虚偽有印公文書作成・同行使容疑で起訴されたが、「だからそれがどうなの?」と、いちばん首をかしげているのが、ひょっとしたら、教育関係者自身ではないか。
私自身もそうである。

というのは、「教育」というのは、もっとファジー(あいまい)な部分で成り立っている。
自動車にたとえるなら、ハンドルの(遊び)のようなもの。
成績は、あくまでもその結果でしかないが、しかしたとえテストの点が悪くても、がんばったという姿勢が見られたら、成績表をあげる。
反対に、テストの点がよくても、態度が粗放で、その人間性に疑問をもてば、成績表をさげる。

こうした成績表の操作は、とくに小学校レベルでは、ひんぱんに行われている……というおわさは、よく耳にする。
そもそも成績表を正確につけるなどということは、不可能。
さらに科目別に正確につけるなどということは、さらにさらに不可能。
そんなことは、現場の教師なら、みな知っている。
たいての教師は、その子どもの顔や様子を思い浮かべながら、(もちろんテストの点数を参考にすることはあるが)、「適当に成績をつけている」(某小学校教師)。

むしろ以前のように、点数だけで人物を評価したり、進学先を決めることのほうが、異常なのである。
その異常さに、みなが、気がつき始めている。

そういう中で、今回の事件は起きた。

そこで最後に

(4)大学教育の不備、欠陥があげられる。

これは欧米の大学との比較だが、現在、EUを中心として、欧米では、単位の共通化がさらに進んでいる。

どこの大学へ入ろうとも、そこで取得した単位は、たとえばEU全体で共通化されている。
が、その分だけ、「入学するのは楽でも、単位を取得するのはむずかしい」という現実が生まれている。

日本のように「入学してしまえば、しめしめ」という現実そのものがない。

仮に成績をごまかして入学してきても、そのレベルに達しなければ、進級できないというしくみが、大学内部で確立すれば、こうした問題は、すべて解決する。
つまりは、大学教育の不備、欠陥ということになる。

高校側だけを責めるのは、酷というもの。

実際、東京大学で、入試選抜委員を務めたことがある、ある教授は、こう教えてくれた。

「インチキをしても、今ではすぐ、コンピュータに入力し、次回(翌年)からの入試データとして利用します」と。
「そういうデータを大学側は、しっかりもっていますよ」と。

つまり「あの高校の調査書はあてにならない」とわかれば、その翌年から、その高校の調査書は信用されなくなるということ。
そういう現実があることを、一般の人たちもよく知っておくべきである。

……ということで、私の結論。

「虚偽有印公文書作成・同行使容疑」ということだが、教育の世界では、見方によっては、成績表すべてが、「虚偽有印公文書」のようなもの。
どこかで歯止めをかけないと、メチャメチャになってしまうという点で、今回の告発は当然だとしても、O県で起きた、たとえば教員の不正採用事件とは、本質的に異質のものである。

もちろん、「地元有力者」と、北川容疑者との間で、金銭的な授受関係があったとしたら、話は別だが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 天竜高校 成績表改ざん事件 成績表改竄)

Wednesday, September 17, 2008

*kAPAMA3OBBI(カラマーゾフ)

【今朝・あれこれ】

●3GB→4GBへ

書斎には2台のパソコンがある。
ほかにもう1台、予備が置いてあるが、これはほとんど使っていない。

2台のうち、左側が、VISTAマシン。
右側がXPマシン。

VISTAマシンのメモリーを、昨日3GBから4GBに増設した。
そしてそのVISTAマシンから、メモリーをそのまま抜いて、
XPマシンへと移動した。
XPマシンのメモリーは、2GBから3GBになった。

そのせいか、VISTAマシンが、心持ち軽快になった。
またあれほど不調つづきだったXPマシンが、うそのように快適になった。
原因は、どうやらメモリーにあったらしい。

こういうときは、気分がよい。
しばらくこのまま使ってみて、10月の誕生日が近づいたら、新しい機種の
購入を考えよう。


●ブラジルの人

ブラジルの人たちというのは、おもしろい。
雨の日でも傘をささないで、通りを歩いている。
(日本の学校へ通う子どもたちは、傘をさしているが……。)
昨日も小雨だったが、全身ビショビショになって歩いている人を、何人か見かけた。
暑い夏ならともかくも、昨日は、車の中でもヒーターをたかねばならないほど、
寒かった。

傘をさす……こんな簡単な習慣ですら、国によって、異なる。
ドライブをしながら、ワイフとそれについて話しあった。

私「傘をさすのは、イギリス人と日本人かな」
ワ「オーストラリア人は、どうなの?」
私「イギリス系のオーストラリア人は、傘をさしていた。最近はみな、傘をさすように
なったけど、ぼくが学生のころには、傘は、あまり見かけなかった」
ワ「ズブ濡れになって、風邪をひかないのかしら……?」

私「家に帰ったら、すぐ熱いシャワーを浴びて、服を着替えるよ」
ワ「よその家に行ったときは、どうなのかしら? その家が濡れてしまうわ」
私「上着を脱いで、タオルで体をふいて、おしまい。家の構造そのものがちがうから、
家が濡れても平気だよ」と。

東南アジアの人たちも、あまり傘をささない。
(傘そのものがないと思ってよい。)
そのかわり、合羽(かっぱ)を、よく身につける。
合羽といっても、薄くて安い、ビニール合羽である。

また傘というのは、トルコで生まれたのだそうだが、そのトルコでも、傘をさす人は
ほとんどいないという(日本洋傘振興協議会hpより)。

が、日本人は、体や服が雨に濡れるのを嫌う。
嫌うから、少しでも雨が降り始めると、「傘、傘!」と騒ぐ。

国民性のちがいといえば、それまでだが、「日本の常識は、けっして世界の標準ではない」。
これもその一例ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●『カラマーゾフの兄弟』

新聞の書評欄によれば、最近、ドストエフスキーの書いた
『カラマーゾフの兄弟』が、売れに売れているという(中日新聞)。
私も学生時代に一度読んだことがあるが、よくできた推理小説という
印象しかもっていない。
しかし実際には、カラマーゾフ家の人々の愛欲の葛藤を描きながら、
中身は、キリスト教を代表するゾシマ長老と、無神論のイワンとの
壮絶なまでの闘いがテーマになっている。

ドストエフスキーは、ほかに『罪と罰』という本も書き残している。
こちらも推理小説風の柱立てをしながら、有神論と無神論の闘いが、
大きなテーマになっている。

当時のロシアは、キリスト教国。その圧迫感が、国民1人ひとりの
上に、重くのしかかっていた。
それは想像を絶する圧迫感だったといってもよい。ドストエフスキーは、
そうした圧迫感と、文学を通して闘った。

これは私の勝手な解釈によるものだが、しかしそういう視点をもって
ドストエフスキーを読むと、より理解しやすいのではないだろうか。
残念ながら、学生時代の私には、そこまで理解する力がなかった。
『カラマーゾフの兄弟』にしても、だれが父親フョードルを殺したか、
その部分だけを、ハラハラしながら読んだ覚えがある。

また少し前は、小林多喜二の『蟹工船』がよく売れたという。そのため日本
共産党への入党者が、ふえているという。
こうして日本の流れを大きくながめてみると、AS総理大臣誕生に向けて
動く極右派と、その一方で、静かなブームとなっている極左派の二極化が
進んでいるということになる。

で、その中間層にあたる「常識派」は、ますます政治に無関心になりつつある。
しかしこれは日本にとって、あまり好ましくない傾向とみてよい。
つまりその分だけ、社会が不安定化する。
どこか世相が、1970年の、あの第二次安保闘争時代に、似てきたような
感じがする。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【日韓経済戦争】(9・18)

●9月14日に書いた記事のまちがい訂正と、お詫び

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去る9月14日に、【日韓経済戦争】と題して、
韓国の「外平債」について書きました。
しかし「外平債」というのは、いわば外国向けの
国債のことで、韓国銀行が独自に発行する、
「通貨安定証券」とは別のものです。

この両者を混同し、まちがった記事を書いて
しまいましたので、ここにおわびし、記事を
訂正します。

まず9月14日に書いた原稿を、そのまま再掲載
します。

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【日韓経済戦争・9・14】

●外平債って、何?

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まず、朝鮮N報のつぎの記事を読んでほしい。
こうある(9月13日)。

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『企画財政部は11日、10億ドル(約1070億円)規模の外国為替平衡基金債券(外平債)の発行に向け、米ニューヨークで外国人投資家と交渉を進めたが、発行条件をめぐる要求の差が埋まらず、不調に終わったと発表した。アメリカ金融不安のあおりで、起債計画に支障が生じた格好だ』(朝鮮N報より抜粋)と。

日韓経済戦争は、まだ終わっていない。
韓国の「9月危機説」も、まだ終わっていない。
その証拠が、この記事である。

まずこの2週間の韓国経済の流れを追ってみよう。
その第一、韓国政府は、手持ちの外貨を大量に使って、ウォン買い、ドル売りの大攻勢に出た。
その額は今のところ不明だが、10月になればはっきりする。
つまり韓国政府は、一か八かの大勝負に出た。

このまま座視すれば、外資はどんどんと逃避し、ウォンの価値はさがる。
物価は上昇し、国内経済は混乱し、へたをすればそのまま奈落の底へ。

そこでなけなしの手持ちドルを使って、韓国政府は、ウォン買いの大攻勢に出た。
いわば貯金を使って、ウォン防衛に打って出たことになる。
しかしへたをすれば、やがて外貨不足になって、(すでに不足状態だが)、韓国はデフォルト(債務不履行)に陥りかねない。

結果、一時は、1ドル=1400ウォンまでさがっていたウォンが、現在(9月14日)は、1100ウォン前後で落ちついている。

韓国の各紙は、政府談話を織り混ぜながら、「9月危機は去った」とはしゃいでいる。
しかし「待ったア!」。

ここに出てくる、「外国為替平衡基金債券」、略して「外平債」というのは、わかりやすく言えば、韓国銀行(日本の日銀にあたる)がする、借金のことである。
わかるかな?
韓国政府の借金ではなく、韓国銀行の借金である。
こんなことは日本の常識では考えられない。
それともあなたは、日本の日銀が、いまだかって、外国に借金をしたというような話を聞いたことがあるだろうか。
あるはずがない。
そもそも「外平債」というのが、世界の非常識。
どこの中央銀行が、外国に借金など、申し込むだろうか。

が、韓国銀行は、それをアメリカのニューヨークで行った。
いわく「発行条件をめぐる要求の差が埋まらず、不調に終わったと発表した」と。
その理由として、「アメリカ金融不安のあおりで、起債計画に支障が生じた格好だ」と。
たくみにアメリカ側のせいにしているところが恐ろしい。

理由は、アメリカの金融不安ではない。
「発効条件が折り合わなかった」からである。
朝鮮N報の同記事も、末尾のところでこう書いている。

「企画財政部のS・J国際業務管理官は、『交渉過程で外国人投資家が韓国経済に対する懸念を抱いていないことを確認したが、アメリカ市場の状況が思わしくなく、高い金利を要求された。あえて悪条件で発行する必要するはないため起債延期を決めた』と説明した」と。

つまり外国人投資家は、韓国経済に対して、懸念はもっていないが、高い金利を要求したので、折り合わなかった、と。

現在、原油や金属市場から逃げ出した資本は、いっせいに株式、債権に向かい始めている。
「アメリカの市場が思わしくないので」という理由は、ウソと考えてよい。
本当の理由は、「韓国経済に不安をいだいた投資家たちが、高い金利を要求した」からである。
朝鮮N報にも、そう書いてある。

「金は貸してもいいが、金利を高くしてくれなければ、いやだ」と。
だから折り合いがつかなかった!

つまりこの流れを裏から読むと、韓国銀行には、手持ちの外貨がなくなってしまった。
そこで韓国銀行は、ニューヨークで借金をしようとした。
しかし「金利を高くせよ」と迫られて、結果的に、それを断わられてしまった。

……ということで、「9月危機」は、去ったわけではない。
終わったわけでもない。
いまだ、現在進行中。

さあ、どうする、韓国。
つぎの一手は?

+++++++++++++++++

(ワイフのために……)

わかりやすく説明しよう。

各国の中央銀行(日本のばあい、日銀)は、金の管理をするのが仕事。
もっとわかりやすく言えば、輸出入で出入りする金の決済をするのが仕事。
ほかにも公定歩合などを調整する仕事もあるが、借金までして外貨を調達するというのは、少なくとも世界の常識からは、完全にはずれている。

これに対して政府が借金するばあいは、ある。
日本の国債などは、その一例。

で、韓国のばあい、韓国銀行そのものに、ドルが不足してきた。
韓国の輸出入業者が、ウォンをドルに換えてほしいといってきたとき、手持ちのドルがじゅうぶんあれば、問題はない。
しかしそのとき、「ドルがありません」と言えば、債務不履行の状態になる。
つまりデフォルト。
国家破綻。

それを防ぐために韓国銀行は、世界ではほとんど前例のない、「外平債」の発行をつづけている。
その額、今回は、10億ドル。
私の推測では、韓国政府は、この7月に70億ドル程度の為替介入をしている。
それをベースに推測してみると、9月に入ってからは、おそらく100億ドル程度の為替介入を繰りかえしたとみてよい。

韓国の経済規模からすると、これはたいへんな額である。
それと比べると、10億ドルというのは、そうたいした金額ではない。
つまりそんな金額ですら、「断わられた」。

韓国の9月危機は、終わったわけではないという理由は、ここにある。

【お詫び】

韓国銀行は独自に、外債を発行して外貨を調達していますが、それはここでいう「外平債」
ではなく、「通貨安定証券」のことでした。
韓国銀行は、国債ではない国債、つまり「通貨安定証券」を発行し、借金をしています。
その「通貨安定証券」と、「外平債」をまちがえました。
ここに深く、おわび申し上げます。

ただだからといって、韓国の経済危機が軽くなったというわけではありません。
見方によっては、「外平債」、つまり「外国向けの国債」ですら、アメリカではソッポを
向かれたということになります。かえってことは、より深刻になっているということ。
その事実は変わりません。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 カラマーゾフの兄弟 外平債 通貨安定証券 蟹工船)

*Sep 19th 2008

●血液型性格判定

+++++++++++++++++++

血液型による性格判定なるものが、いかに
非科学的で、かつ根拠のないものであるかは、
再三再四、書いてきた。
エセ科学そのもの。
こうしたエセ科学が堂々とまかり通っているのは、
この日本だけ。
ついでに隣の中国でも、日本の影響を受けて、
血液型による性格判定の本がつづけて発刊されて
いるという。
韓国や台湾でも、発刊されているという。
が、だからといって、血液型による
性格判定が公認されたわけではない。

血液型による性格判定がエセ科学であることは、
「心理学」(大村政男著・ナツメ社)に詳しく
書いてある。
興味のある人は、そちらを読んでみたらよい。

++++++++++++++++++

血液型の中でも、なぜA・B・O・AB型だけが問題になるかといえば、これらの
血液型は、輸血の際などに、不適合を起こすことがあるからである。
血液型といっても、ほかに100種類以上が確認されている。
よく知られたものに、Rh型というのもある。

だいたい「性格」とは何か、よくわかっていない。
つぎに血液が、型によってどのように脳に作用するのか、その科学的証明が、
まったくなされていない。
A型の血液は、ドーパミンの分泌を促すとか、B型の血液は、セロトニンの
分泌を促すとか、そういうことが具体的に証明されれば話は別だが、今のところ、
そういう話は、まったくない。
あるはずもない。
ないばかりか、その出所さえあやしい。

私たちが現在、「血液型による性格判定」を根拠にしているのは、「古川学説」と
呼ばれる、古川竹二(1891~1940)がなした研究論文によるものである。
が、「昭和8年(1933)3月、岡山医科大学における日本法医学会第18次総会の
論争で古川学説は破れ、漸次衰微していくことになる」(同書、p220)と。

が、エセ科学は、ここで止まらない。

こうした流れの中で、今度は能見正比古なる人物が現れて、「血液型人間学」を
発表する(1994年)。
そして「政治家の中には、O型が有意に多いことを発見し、『O型には政治性がある』
とした」(p224)。

しかしそれはたまたまそのとき、そうであったにすぎない。

平成6年(1994)10月の調査、さらに著者である大村政男氏による調査では、
この「有意性」は、否定されている。

大村政男氏は、こう書いている。
「……古川はAB型は外見はB型だが、内省(内面)はA型だと書いているだけなのに、
能美は、AB型について詳しく記述しているのである。どこからそのデータをとってきたのだろうか。沓(よう)としてわからない。
能美の血液型人間学は、10万を超えるデータに基づいているというが、どこにもきちん
とした数値が発表されていないのである」(p226)と。

これが血液型による性格判定の結論と考えてよい。

……とは言いつつ、血液型による性格判定を信じている人は多い。
子どもにもときどき、「先生、先生の血液型は何?」と聞かれることもある。
そういうとき私は、そのつど、デタラメな答を返すようにしている。
ウソをつくというよりは、あまりにもバカバカしいので、そうしている。

「ふ~ん、A型だったかなア?」と。
すると子どもは、我が意をえたりというような顔して、こう言ったりする。
「だろうな。ぼくも先生がA型だと思っていた。どこか変態だから」と。

で、おもむろに私はこう言う。
「ハハハ、残念でした。ぼくはO型でした」と。

中には、「O型の人は、(「O」の文字が丸いので)、人間的に丸みのある
人」とか、「AB型の人は、A型とB型の両方の性格を合わせもっている」
などと説く人がいる。

バカバカしい。

で、大村政男氏は、「FBI効果」という言葉を使っている。

(1) FREE SIZE効果
(2) BRAND効果
(3) IMPRINTING効果の、3つの頭文字をとって、
「FBI効果」と。


(1) REE SIZE効果というのは、だれにでも当てはまるようなことを
特徴として並べることをいう。
(2) BRAND効果というのは、血液型を先に見て、そのブランドで相手を
判断してしまうことをいう。
(3) IMPRINTING効果というのは、少しでも当たっていたりすると、
「当たっている」と思い込んでしまうことをいう(同氏)。

こうして血液型による性格判定なるエセ科学が、この日本だけにはびこってしまった。

そういう意味では、日本というより、日本人は、まだまだ。
考える力どころか、批判力さえ、じゅうぶんに育っていない。
(だからこそ、この世界は、おもしろいが……。完成されてしまったら、書くことその
ものが、なくなってしまう。)

あなたの子どもが血液型による性格判定を口にしたら、すかさず、こう言ってやろう。
「性格は、あなた自身でつくるもの」と。


●チン長

+++++++++++++++++

突然、A子さん(小6女子)が、遠くから、私にこう聞いた。
このところ、A子さんの身長は、ぐんぐんと伸びている。
それが気になっているらしい。
で、私はこう言った。

+++++++++++++++++

私「そんな恥ずかしいこと、言えないよ」
A「どうして?」
私「だってさア……。チン長だなんて……」
A「あのね、先生、だれもチン長だなんて言ってないわよ」
私「えっ、じゃあ、何と言ったの?」
A「し・ん・ちょう」と。

するとそれを横で聞いていたB君(小4男子)が、こう言った。

「ぼくのは、2・1センチ!」

私「何だ、その0・1センチ、というのは?」
B「だから、2・1センチ!」
私「やめろ、もうわかった!」
A「そうよ、そういう話は、セクハラよ」
私「セクハラ? どうしてセクハラって、知っているの?」
A「だって、いやらしい話でしょ」
私「ぜんぜん。ぼくは、1ミリの話をしているだけだよ。1ミリは、0・1センチ……」
A「ウソばっかり。エッチ!」と。

こういう会話が、私は好き。
楽しい。
陰湿感が、どこにもない。
つまり「性」にまつわる話は、いつでも明るい日向(ひなた)へ引き出してやるのがよい。
「性」に、うしろめたさを感じさせないようにするのが、コツ。

で、私自身のこと。
私も若いころは、いろいろな女性と遊んだ。
(もちろん結婚する前の話だが……。)
が、どの女性も、みな、こう言った。
「林さんとセックスしていると、スポーツをしているみたい」と。
いつだったか、私のワイフも、そう言った。
味もそっけもない。
だから、そう言うのだろう。

私にとって「性」というのは、そういうもの。
で、今日も、どこかの元塾教師が、女子高校生に頼んで、修学旅行での脱衣室の
様子を盗撮させていたという。
そんなニュースが、どこかのインターネットに載っていた。

私も若いころは結構スケベだったと思うが、そういうことをしたいと思ったことはない。
見たかったら、「見たい」と言えばよい。
見せてもらえばよい。
どうせただの肉体。
セックスは、小便と同じ、排泄。

私の感じ方が正しいとは思わないが、ジメジメ、ジクジクと考えるのだけは、やめたい。
大切なことは、子どもたちに、罪悪感をもたせないこと。
陰湿感をもたせないこと。
セックスという行為にしても、明るくさわやかな印象をもたせるのがよい。

どうせただの排泄……。
……というのは、少し言いすぎ?
わかっています、ハイ!

(補記)
結婚して間もなくのころのこと。
家族で横浜へ旅行して、驚いた。
アメリカ軍基地に住む若者たちだったが、彼らはあたりかまわず抱き合い、接吻を
繰り返していた。
「若者」というよりは、まだあどけなさの残る、中高校生たちだった。

私はそれを見てショックを受けたが、その一方で、そういうことが堂々とできる、
アメリカの若者たちを、うらやましく思った。

が、それから30~年。
日本も、それに近づいてきた。
とくにこの浜松市には、何万人ものブラジル人たちが住んでいる。
彼らは、人前でも自由奔放な行動を繰り返している。
最初はとまどったが、今では、それも見慣れた。
ごく当たり前の光景。

で、気がついてみると、いつの間にか、私とワイフも、同じことをしているのに
気がついた。
人前で接吻とまではいかないが、今では平気で手をつないで街中を歩いている。

ありがとう、ブラジルのみなさん!

*49days after my Brother's Death

●兄の49日

++++++++++++++++++H.Hayashi

兄の49日の法要のために、実家へ行ってきた。
僧侶と、私たち家族、計4人だけの、
静かな法要だった。

その「49日」については、こんな由来がある。

漢字の「七」は、もともとは、腹を横、縦に切って、内臓が
飛び出している様子を表したものだという(「本当は怖ろしい漢字」・
小林朝夫・彩図社)。
どこかこじつけ的な感じがしないでもないが、「七」という数字が、
中国ではあまり好まれていないのは、事実。

「十字切りの腹切りは、腹を横に一度切ってから、腹に刺さったその刃物をいったん
引き抜き、もう一度自分の腹の上部に差し込んで、今度は縦に引き下ろすというもの
だ。
その際に『十』の形に切った切り口の下のほうから、血まみれの腸が外へ飛び出して
しまう。
『十』という字に、飛び出た血だらけの腸の形を付け足したのが、『七』なのである」
(同書)と。

「七」という漢字は、怖ろしい漢字ということになる。

そこで中国では、「天に昇った死霊を弔う行事である七夕。亡くなった者を供養する
最初の日は、初七日。喪に服すのは七日の二乗である四十九日。
このように『七』には、常に『死』がつきまとう。
『七福神』というめでたいイメージもあるが、これは『七』がもつ不吉さを払いのける
ための存在なのだ」(同書)と。

英語では「ラッキー・セブン」と言って、「7」を、めでる傾向がある(同書)。
しかし中国では、その逆。
「七」は、不吉な数字だったらしい。

ということで、初七日が生まれ、49日の法要が生まれた。

……ところで、一週間は、7日。
兄のばあいは、7日ごと、ちょうど1週間ごとに、法要を繰り返した。
そして7回目の今日、49日の法要があった。

住職による読経のあと、墓まで行き、納骨をすませた。
静かな、静かな、どこまでも静かな法要だった。

ついでに申し添えるなら、初7日の法要にせよ、49日の法要にせよ、もともとは釈迦仏教とは、縁もゆかりもない法要ということが、これでわかる。
「7」にこだわったのは、釈迦ではなく、中国人だった(?)。
あるいはインド(ネパール)では、どうだったのか。
一度、インドの友人(マヘシュワリ君)に聞いてみよう。


●葬儀

要するに、葬儀の仕方は、国、民族、宗教、さらにその宗派によって、みな異なる。
異なるということは、「形」はないということ。
言い換えると、それがどんな方法であれ、死者を悼む目的でなされるものであれば、
それでよいということ。

「形」にこだわるほうが、おかしい。

同じく「本当は怖ろしい漢字」の中に、昔の中国の葬儀の仕方が書いてある。
それをそのまま紹介させてもらう。

「中国古代の葬儀法を記したものに、周公旦(しゅうこうたん)の表した『儀礼』が
ある。
この書には、葬儀は死んだ瞬間から始まると記されている。
身内が死んだら、死体をすぐ裸にして湿らせた布で拭き清め、死後硬直によって膝が
曲がらないように両足を固定する。
つぎに遺族の1人が、死者の衣を肩に掛けて屋根にあがり、北の方角を向いて服を
振りながら故人の名前を叫び、一度家に帰る。
つづいて皆で、故人に別れを告げ、魂をあの世に送る。
無事に送るには全員が泣き叫びつつ、その場で足踏みをつづけなければならない。
さらに折を見て、死者に散髪を施し、体を井戸水で洗い、黒色の装束をまとわせる。
埋葬する前に死者の口の中を米と貝で満たし、そこにさじを挿す。
あの世に行き着くまでの長旅に備えるのである。
埋葬する土地と日時は、あらかじめ占い師によって決められている。
その場所と日時を守らなければ、死者はあの世へ行くことはできないのだ。
一連の儀式が終わると、遺族の顔には笑顔が戻る。
大切な者を手厚くあの世へ送る『葬』を成し遂げた、安堵の表情であるといえよう」
(同書、P71)と。

しかし……?

昔、長谷川一夫という、日本を代表する名優がいた。
彼は妻が死ぬと、その日から、妻の仏壇の前だけで、毎日をすごすようになったそうだ。
そして妻が死んでからちょうど1か月目に、自らも衰弱し、
そのまま死んでしまったという。
何かの本で読んだ話なので、細部については不正確かもしれない。
しかし長谷川一夫のこの話には、愛する人を亡くした人の、悲しみや苦しみが、
集約されている。

もし儀式があるとするなら、それは飾りのようなもの。
あるいは飾りにもならないかもしれない。

身近にいる愛する人が亡くなったら、どんな儀式をしたところで、その悲しみは
癒されない。

「形」ばかりにこだわる和式仏教を批判してみたくて、ここで葬儀について書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●山荘にて

今夜は、夜遅く、山荘に来てみた。
着いたとたん、ガチャ、ガチャなく、くつわ虫の大合唱。
「うるさいわね」とワイフはこぼしたが、つづいて、「寒いくらいね」と。
森の湿った冷気が、気持ちよい。

あとはいつもの決まった作業。
雨戸をあけ、風を通し、食物を卓に並べる。
私はパソコンを広げ、ワイフは本を開く。

あとはただひたすら、雑談、また雑談。
こうして静かに夜がふける。

ところで今使っているパソコンは、HP社の2133。
バッテリーのもちが、格段によい。
省エネモードで使っているためか、まだ2時間近くももつ。
(全体では、7時間ほど。)
一方、ACERのASPIRE-1-は、画面が明るい分だけ、バッテリーの消耗が、
早い。
ASPIRE-1-のほうが、私には使いやすいのだが……。

ところで山荘に来る途中、パソコンショップに寄り、2GBメモリーを2枚、買ってきた。
計4GB!
特価品で、2枚で、8900円。
今使っているVISTAパソコンに付け替えてみるつもり。
店員は、「性能がアップしますよ」と言ってくれた。
楽しみだ。


●熟睡剤

睡眠薬には、いろいろある。
その中のひとつに、「熟睡剤」というのがある。
朝方早く、目がさめるのを防ぐための薬ということらしい。
私もいつも、バッグの中に、それをもっている。
「My Sxxxx」という名前の、実にそれらしい薬である。

が、これを1錠ものむと、効きすぎてしまう。
へたをすれば、10時間以上、眠ってしまう。
しかも眠っている間中、幻覚につづく幻覚。
現実と夢と、区別のつかない夢を見る。

そこで私は必要なときは、この薬を、6分の1から8分の1に
割ってのむ。
「今日は、これくらいでいいかな?」と。

そのとき、のみ方にコツがある。
胃袋のほうへすぐ入れてしまわないで、舌の下で溶かしながらのむ。
こうすると、脳みそに直接、薬が効く。
(これはあくまでも、私の素人判断だが・・・。)
しばらくすると、心地よい眠気が襲ってくる。

睡眠コントロール・・・若いときとちがって、歳をとればとるほど、
睡眠コントロールが、むずかしくなるという。
トイレが近くなる人も多い。
私もそろそろその年齢に近づいてきた。

そこで今、ひとつ心がけていることがある。
(1) 就寝時刻は、きちんと守る。
(2) 昼寝時間は、たとえ15~30分でもよいから、きちんととる。

あとは自然体。
睡眠というのは、あまり神経質になりすぎてもよくない。
眠くなければ、起きていればよい。
眠くなったら、そのまま体を横にすればよい。

実は、昨日は兄の49日の法要とかで、かなり神経をつかった。
床につく前になっても、心のザワザワ感が消えなかった。
それでその薬をのんだ。
ワイフにも少し与えた。
それで今日は、たっぷり9時間も眠った。
(少し頭がボーッとしているので、量が少し多すぎたかな?)

ところで一言。
睡眠薬にかぎらず、脳みそに直接影響を与える薬を服用するときは、
脳の様子を静かに観察しながら、服用するのがよい。
こうした薬ほど、効き目に個人差があるものはない。
最初は、ほんの少しだけのんでみる。
それで効果がなければ、つぎに少しだけ量をふやしてみる。
やがて自分にとっての適量というものが、わかってくる。

・・・という話を、かかりつけのドクターに相談すると、そのドクターは
こう言った。

「そういう勝手な判断をしてもらっては困ります」と。

だから私のアドバイスは、みなさん、自己責任で応用してみてほしい。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●知性と理性

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電車に乗ったときのこと。
相向かい席に、40歳くらいの女性が座った。
かなりの体重のある人だった。
その女性が座ったため、その席は、その1人で満席(?)。
おかげで私は、その少しあいたところに、自分の
荷物を置くことができた。

++++++++++++

日ごろ、いくらふざけた生活をしていても、そういう場で、そういう話が
きちんとできれば、それでよし。
このことは、幼児の世界でも、同じ。

子どもらしいあどけなさがあっても、たとえば先生が「名前は何というの
かな?」と聞いたようなとき、しっかりと受け答えができれば、それでよし。
しかしそういうことができない子どもがいる。
できないおとながいる。
状況判断が的確にできない。
ヘラヘラとわらっている。

私の前に座った女性が、そういう女性だった。
携帯電話を手の中でいじっていたが、そこへ電話がかかってきた。
とたん、あたりかまわず、大声で話し始めた。

「あのさア、今、電車の中なんだわさア、あと30分もするとさア、
そちらへ着くからさア、待っててやア」と。

こんな感じで、10分近くも話していた。
私とワイフは、あきれてその姿を見ていた。

が、私の忍耐も、そこまで。
私はおだやかに、心静かに、笑みをつくりながら、こう言った。
「あのね、奥さん、電車の中では、携帯電話での通話はいけないことになって
いますよ」と。

するとその女性は、体をななめにしたまま、そしてふてくされた様子で、
「いいじゃんかア、電話くらい。ウッセーなア。まわりのほうが、
ヨッポド、ウルセーやないかア」と。

電話の内容からして、高校生の息子もいるらしい。
つまり母親。
そういう母親が、そう言う。

やがてその女性は、電車からおりて行ったが、私とワイフは顔を見合わせて、
笑った。

「一片の知性も理性もない女性というのは、ああいう女性をいうね」と。
ワイフも、すなおに同意してくれた。
「まるで人種がちがうみたい」と。

私「そう、まるで動物園のサルみたい。きちんとした会話すらできない」
ワ「そんな感じね・・・。ケータイをもったサル?」
私「高校生の息子がいるらしいよ」
ワ「どんな子どもなのかしら?」
私「親を反面教師にすれば、いい子かもしれない。しかし同じような
タイプの子だろうね」と。

で、こうした方向性は、すでに幼児期に決まる。
幼児期の子どもをていねいに見れば、その子どもがその先、どういう
子どもになっていくかが、わかる。
言い換えると、それまでの教育が重要。
しかし子どもを教えるというよりは、これは環境の問題。

親自身が、知性と理性で子どもをくるんでやる。
その結果として、子どももまた知性と理性を身につける。
その価値を知る。

親が、とくに母親が、寝そべってせんべいをかじりながら、「おい、おめえ、
勉強しろや」は、ない。
それこそ親の身勝手というもの。
その女性を見ていて、そんなことを感じた。

(補記)
教育について、否定的な考え方をする人も多いですが、ああいう女性を
見ると、教育の重要さが、よくわかりますね。

でも、考えてみれば、そういう女性でも、子どものころ、きちんとした
教育を受けたはず。
そこで考えられるのは、

(1) 家庭教育が不十分であった。
(2) 学校教育そのものを、その女性が否定してしまっていた。つまり
つっぱってしまっていた、ということです。

しかし私は、やはり家庭教育に問題があったと思います。
というのも、今度はその母親の子どもですが、私の想像では、その子どもも
また母親と同じような子どもになっていくだろうと思います。

あとは類は友を呼ぶというか、そういう人たちはそういう人たちどうしで、
集まっていく。
つまりそういう人たちから見れば、きちんとした会話のできる人たちとは、
交際できないということになります。
そういう世界へ入っただけで、ストレスがたまってしまう。
あとは(逃げる)→(ますます知性や理性から遠ざかっていく)の悪循環。
その結果が、先の電車の中で、私が見た女性ということになります。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●父親似、母親似

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遺伝子学的に、そういうことが
実証されているのかどうかは
知らない。
が、こういうことは言える。

息子は、母親の遺伝子を強く受け継ぐ。
娘は、父親の遺伝子を強く受け継ぐ。

私の孫たちを見ていると、そう思う。

私の息子は日本人。
その嫁はアメリカ人。
孫が、男の子と女の子。

孫の男の子は、アメリカ人の母親似。
孫の女の子は、日本人の父親似。

つまり遺伝子というのは、父親→娘、母親→息子と、
クロスするものらしい。
男から女へ、女から男へとクロスするから、
私は勝手に、「クロス遺伝」と呼んでいる。
(もし同じような言葉がすでにあったら、ごめん!)

こういう例は多い。
たとえば肥満についても、それが言える。

++++++++++++++

肥満といってもいろいろなタイプがある。
その中でも、本態的な肥満というものもある。
食べ過ぎたから太ったとか、そういう肥満ではない。
生まれながらにして肥満というか、ある年齢以後、
肥満から解放されることがないというタイプの肥満である。

私の知っている人に、こんな例がある。

父親は、その本態的肥満タイプ。
母親は、子どものころから現在にいたるまで、やせ型タイプ。

で、その息子たちはみな、やせ型。
娘たちはみな、肥満型。
ふつうの太り方ではない。
どっさと、鏡餅を置いたような太り方をしている。

で、今度はその孫たちだが、ここでともに、妻や夫たちの
遺伝子が混在してくるので、一概には言えないが、こと肥満遺伝子に
ついては、たしかに孫たちに伝わっている。

やせ型の息子たちの娘たち(孫)は、やせ型。
肥満型の娘たちの息子たちは、肥満型。

簡単に言えば、息子は母親似になるということ。
娘は父親似になるということ。
しかしすべての遺伝子がそうというわけではないらしい。
ないらしいが、一方、きわめて濃厚に遺伝していく部分もある。

私の印象では、
(1) 顔の容貌
(2) 肥満、やせ型
(3) 性格、体格などは、先に書いた「クロス遺伝」をしやすいのでは
と思っている。

(4) 知的能力については、もう少し複雑な遺伝方法で遺伝する(?)。
たとえば、隔世遺伝とか、いろいろ。
(5) 皮膚の色とか肌の色については、つねに優勢的な遺伝子が、遺伝して
いく(?)。

詳しくはまた自分で調べてみたい。
多分、この分野での研究は、かなり進んでいると思う。

で、あなた自身はどうか。
あなたの周囲の人たちはどうか。
一度、そういう目で、遺伝というものを考えてみたらよい。