Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, February 28, 2009

*Praising is essential in Education

●ほめる

読売新聞に、こんな記事が載っていた。

+++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

乳幼児期に親からよくほめられる子供は、他人を思いやる気持ちなどの社会適応力が高くなることが、科学技術振興機構の長期追跡調査で明らかになった。育児で「ほめる」ことの重要性が、科学的に証明されたのは初めて。3月7日に東京都内で開かれるシンポジウムで発表する。

 筑波大のAM教授(発達保健学)らの研究チームは、2005~08年、大阪府と三重県の計約400人の赤ちゃんに対し、生後4か月、9か月、1歳半、2歳半の時点で成長の度合いを調査した。調査は親へのアンケートや親子の行動観察などを通して実施。自ら親に働きかける「主体性」や相手の様子に応じて行動する「共感性」など、5分野25項目で評価した。

 その結果、生後4~9か月時点で父母が「育児でほめることは大切」と考えている場合、その子供の社会適応力は1歳半時点で明らかに高くなった。また、1歳半~2歳半の子供に積み木遊びを5分間させたとき、うまく出来た子供をほめる行動をとった親は半数程度いたが、その子供の適応力も高いことも分かった。

 調査では、〈1〉規則的な睡眠習慣が取れている、〈2〉母親の育児ストレスが少ない、〈3〉親子で一緒に本を読んだり買い物をしたりすることも、子供の適応力の発達に結びつくことが示された(読売新聞090228)

+++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

ほめることは、幼児教育の要(かなめ)である。
それを疑う人は、いない。
しかし……?

こんなことは、すでに大脳生理学の分野で、証明されていることではないのか。
人のやさしさを司るのは、辺縁系の中の、扁桃核(扁桃体)と言われている。
たとえば人にほめられたり、やさしくされたりすると、その信号は、扁桃核に送られる。
その信号を受けて、扁桃核は、エンドロフィンやエンケファリンなどの、いわゆる
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
その結果、その人(子どもは)は、甘い陶酔感を覚える。
この陶酔感が、(やさしさ)につながる。

以前書いた原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++

●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわかってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなたは、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、すでに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことになる。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてしまう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということになってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろう。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をする」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけということになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さからってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をしてみよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我がある。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといってもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようになる。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいたとする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そうだ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロールされている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだが、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

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そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

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●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけである。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたとしよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつようになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるということ。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせているその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないということ。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

*The Sin called "No-Brain"

++++++++++++++++

メキシコの作家の、Carlos Fuentes
は、こう言った。

Writing is a struggle against silence.

「書くことは、静寂との闘いである」と。

たしかにそうだ。

何ごともなく、無難に過ごそうと思えば、
それはできる。ひとり、静かに、小さな
部屋の中に、閉じこもっていればよい。

しかし人は、書くことによって、ものを
考え、考えることによって、生きること
ができる。

無知は、それ自体が、罪悪と考えてよい。

この言葉を知ったとき、数年間に書いた
原稿のことを思い出した。

++++++++++++++++

【無知という「罪悪」】

+++++++++++++++++

「私は知らなかった」では、すまされない。
それが子どもの世界。

無知は、罪悪。そう考えるのは、きびしい
ことだが、しかし親たるもの、親としての
勉強を怠ってはいけない。

+++++++++++++++++

 これだけ情報が濃密に行きかう時代になっても、その情報の外に住んでいる人たちがいる。自ら情報の外の世界に身を置くことにより、彼らの言葉を借りるなら、「情報がもつわずらわしさから、自分を解放するため」だ、そうだ。

 しかし無知は、今の時代にあっては、罪悪と考えてよい。「知らなかった」では、すまされない。とくに相手が子どものばあい、親の独断と偏見ほど、こわいものはない。症状をこじらせるだけではなく、ばあいによっては、取りかえしのつかない状態に、子どもを追いやってしまう。

 A君という年長児の子どもがいた。自閉症と診断されたわけではないが、軽い自閉傾向があった。一度何かのことで、こだわりを見せると、かたいカラの中に入ってしまった。たとえば幼稚園へ行くときも、青いズボンでないと行かないとか、幼稚園でも、決まった席でないと、すわらないとか、など。居間の飾り物を動かしただけで、不機嫌になることもあった。

そのA君は、虫の写真の載っているカードを大切にしていた。いろいろな種類のカードをもっていたが、その数が、いつの間にか、400枚近くになっていた。A君は、それを並べたり、箱に入れたりして大切にしていた。

 が、A君の母親は、それが気に入らなかった。母親は、虫が嫌いだった。また母親が、カードの入っている箱にさわっただけで、A君は、パニック状態になってしまったりしたからである。

 そこである日、A君が幼稚園へ行っている間に、母親は、そのカードが入っている箱を、倉庫へしまいこんでしまった。が、それを知ったA君は、そのときから、だれが見ても、それとわかるほど、奇異な様子を見せるようになった。

 ボーッとしていたかと思うと、ひとり、何かを思い出してニヤニヤ(あるいはニタニタ)と笑うなど。それに気づいて母親が、カードを倉庫から戻したときには、もう遅かった。A君は、カードには見向きもしなくなってしまったばかりか、反対に、そのカードを破ったり、ゴミ箱に捨てたりした。

 それを見て、母親は、A君を強く叱った。「捨ててはだめでしょ」とか、何とか。私が、「どうしてカードを、倉庫へしまうようなことをしたのですか?」と聞くと、A君の母親は、こう言った。「だって、ほかに、まだ、100枚近くももっているのですよ。それに私がしまったのは、古いカードが入った箱です」と。

 自閉傾向のある子どもから、その子どもが強いこだわりをもっているものを取りあげたりすると、症状が、一気に悪化するということはよくある。が、親には、それがわからない。いつもそのときの状態を、「最悪の状態」と考えて、無理をする。

 この無理が、さらにその子どもを、二番底、三番底へと落としていく。が、そこで悲劇が終わるわけではない。親自身に、「自分が子どもの症状を悪化させた」という自覚がない。ないから、いくら説明しても、それが理解できない。まさに、ああ言えば、こう言う式の反論をしてくる。人の話をじゅうぶん聞かないうちに、ペラペラと一方的に、しゃべる。

私「子どもの気持ちを確かめるべきでした」
母「ちゃんと、確かめました」
私「どうやって?」
母「私が、こんな古いカードは、捨てようねと言いましたら、そのときは、ウンと言っていました」

私「子どもは、そのときの雰囲気で、『うん』と言うかもしれませんが、本当に納得したわけではないかもしれません」
母「しかし、たかがカードでしょう。いくらでも売っていますよ」
私「おとなには、ただのカードでも、子どもには、そうではありません」
母「気なんてものは、もちようです。すぐカードのことは忘れると思います」と。

 私の立場では、診断名を口にすることはできない。そのときの(状態)をみて、「ではどうすればいいか」、それを考える。しかしA君の症状は、そのとき、すでにかなりこじれてしまっていた。

 ……こうした親の無知が、子どもを、二番底、三番底へ落としていくということは、よくある。心の問題でも多いが、学習の問題となると、さらに多い。少しでも成績が上向いてくると、たいていの親は、「もっと」とか、「さらに」とか言って、無理をする。

 この無理がある日突然、限界へくる。とたん、子どもは、燃えつきてしまったり、無気力になってしまったりする。印象に残っている子どもに、S君(小2男児)という子どもがいた。

 S君は、毎日、学校から帰ってくると、1~2時間も書き取りをした。祖母はそれを見て喜んでいたが、私は、会うたびに、こう言った。「小学2年生の子どもに、そんなことをさせてはいけない。それはあるべき子どもの姿ではない」と。

 しかし祖母は、さらにそれに拍車をかけた。漢字の学習のみならず、いろいろなワークブックも、させるようになった。とたん、はげしいチックが目の周辺に現われた。眼科で見てもらうと、ドクターはこう言ったという。「無理な学習が原因だから、塾など、すぐやめさせなさい」と。

 そのドクターの言ったことは正しいが、突然、すべてをやめてしまったのは、まずかった。それまでS君は、国語と算数の学習塾のほか、ピアノ教室と水泳教室に通っていた。それらすべてをやめてしまった。(本来なら、子どもの様子を見ながら、少しずつ減らすのがよい。)

 異常なまでの無気力症状が、S君に現われたのは、その直後からだった。S君は、笑うこともしなくなってしまった。毎日、ただぼんやりとしているだけ。学校から帰ってきても、家族と、会話さえしなくなってしまった。

 祖母から相談があったのは、そのあとのことだった。しかしこうなると、私にできることはもう何もない。「もとのように、戻してほしい」と、祖母は言ったが、もとに戻るまでに、3年とか4年はかかる。その間、祖母がじっとがまんしているとは、とても思えなかった。よくあるケースとしては、少しよくなりかけると、また無理を重ねるケース。こうしてさらに、子どもは、二番底、三番底へと落ちていく。だから、私は指導を断った。

 子どもの世界では、無知は罪悪。そうそう、こんなケースも多い。

 進学塾に、特訓教室というのがある。メチャメチャハードな学習を子どもに強いて、子どもの学力をあげようというのが、それ。ちゃんと子どもの心理を知りつくした指導者がそれをするならまだしも、20代、30代の若い教師が、それをするから、恐ろしい。ばあいによっては、子どもの心を破壊してしまうことにもなりかねない。とくに、学年が低い子どもほど、危険である。

 テストを重ねて、順位を出し、偏差値で、子どもを追いまくるなどという指導が、本当に指導なのか。指導といってよいのか。世の親たちも、ほんの少しだけでよいから、自分の理性に照らしあわせて考えてみたらよい。つまり、これも、ここでいう無知の1つということになる。

 たいへんきびしいことを書いてしまったが、無知は、まさに罪悪。親として、それくらいの覚悟をもつことは、必要なことではないか。今、あまりにも無知、無自覚な親が、多すぎると思うので……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 無知 無知という罪悪 無学という罪悪)

*Obidience causes Trauma

【おとなしい子どもほど、心配】(子どもは削って、伸ばす)

●抑圧(Excessive Pressure causes Trauma)

Excessive Pressure against children often makes another rooms in children’s minds, which causes trauma.

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よくあるケース。
子どもがその年齢になると、親に向かって、こう叫ぶ。
「こんなオレにしたのは、お前だろ!」
「どうしてオレなんかを、産んだ!」
「オレなんか、産んでもらわなかったほうがよかったア!」と。

ふつうの言い方ではない。
親をはげしい口調でののしり、罵倒する。
今にも親につかみかかりそうな雰囲気で、そう言う。
実際そのとき、子どもに、殴られる親も多い。
さらに、ときにそのまま子どもに殺されてしまうことも……(絶句)。

が、この種の罵倒、暴言で、特徴的なのは、子どもが高校生になっても、
20歳になっても、さらに30歳になっても、40歳、50歳に
なっても、それが「ある」ということ。

ふつうの常識で考えれば、10年前、20年前、30年前の話を
もちだすこと自体、理解できない。
が、それだけではない。
さらに理解できないことは、その間、良好な親子関係があったとしても、
それは、ほとんど意味をもたないということ。
途中の記憶、思い出が、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。

ある父親は、ときどき、同じようなセリフで、息子に罵倒さるという。
父親はこう言う。
息子といっても、結婚し、子どもも2人いる。
息子の年齢は、40歳を超えている。

「たしかに私は、けっしてほめられるような父親ではありませんでした。
しかし30年近くも前のことに、どうして息子は、こうまでこだわるのでしょう。
その間に、孫が2人、生まれ、それなりによい人間関係を築いてきた
つもりなのですが……」(G県、UT氏)と。

心理学の世界では、こうした現象を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
抑圧の恐ろしさは、そのときはわからない。
10年とか、20年とか……時の流れを超えて、出てくる。
しかも症状が、はげしい!

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●心の別室

はげしい欲求不満がつづくと、人は、とくに子どもは、心の中の別室につくり、
そこに自分の欲求不満を閉じ込める。
閉じ込めることによって、その場をやり過ごす。 
それがトラウマ、つまり心的外傷となることがある。

よく教育の世界では、「おとなしい子どもほど心配」という。
あとあと何かと問題を起こし、指導がむずかしくなることをいう。
つまり親や教師の前で、従順で、おとなしく、それに素直に(?)従う。
一見、できのよい、ものわかりのよい子どもほど、実は心配。
教師の立場でいうなら、教えやすい子どもに見えるかもしれないが、その分だけ、
心をゆがめる。

ここでいう「抑圧」も、そのひとつ。
人は、そして子どもは心の中に別室をつくり、悶々とした自分を、その中に閉じ込める。
閉じ込めることによって、自分の心を守る。

●無時間の世界

ところで心の世界には、原則として、時間はない。
時間が働くのは、(現実)の世界だけ。
たとえば記憶にしても、よく「古い記憶」「新しい記憶」という言葉を使う。
しかし記憶は、時間的経緯の中で、脳の中に「層」になって蓄積されるわけではない。
てんでばらばらに、それぞれの部分に、蓄積される。

(記憶のメカニズムは、複雑で、未解明な部分も多い。)

だから記憶自体には、時間はない。
「古い記憶」「新しい記憶」といっても、デジカメの写真のように、
日付が書き込まれているわけではない。
記憶のどこかに、(09-02-28)とあれば、2009年の2月28日ということが
わかる。
そうした記録は、記憶にはない。

だから10年前の記憶にしても、それが10年前とわかるのは、その記憶の中の
自分の姿や、まわりの様子からである。
それがなければ、わからない。
つまり古い記憶だから、それなりにセピアカラーになるということもない。
つまりは、記憶が鮮明に残っているかどうかは、そのときの印象の強烈さによって決まる。

●呼び起こされる「抑圧」状態

別室に入った記憶は、何らかのきっかけで、呼び起こされる。
それが強烈であればあるほど、呼び起こされたときの反応も、また強烈である。
同じようによくある例が、夫婦喧嘩。

夫婦喧嘩をしながら、20年前、30年前の話を持ち出す人は多い。
結婚当初のこだわりを持ち出し、「どうしてお前は(あなたは)、あのとき……!」と。

もう一方の側にすれば、とっくの昔に忘れてしまってよいような話ということに
なる。
つまり別室に入っているため、その間に、いくら楽しい思い出があったとしても、
別室に入った記憶については、上書きされるということはない。
ずっとそのままの状態で、残る。

具体的な例をあげてみよう。

私の父は今でいうアルコール中毒者だったが、酒が入るたびに、20年前、30年前の
話をもちだして、母を責めた。
こんなことがあった。(……らしい。)

結婚が決まったときのこと。
母が母の家に来てほしいと言った。
それで父が、母の家に行くと、そこに母の兄弟がずらりと並んで待っていたという。
父はそれに驚いた。
で、そのとき母が、兄弟の側に座っていて、父にみなの前で、土下座させたという。
当時は、板間と、一段高くなった、畳の間に分かれていたらしい。
父は酒が入るたびに、こう言っていた。

「どうしてお前は、あのとき、オレに土下座させたア!」と。
父には、それがよほどくやしかったらしい。

●心の病気

心に別室をつくり、そこの抑圧された自分を閉じ込める。
その抑圧された自分が、時間を超えて、何かのきっかけで爆発する。
自分で自分をコントロールできなくなる。
興奮状態になり、怒鳴り散らしたり、暴れたり、暴力を振るったりする。

今では、それ自体が、(心の病気)として考えられるようになった。
症状からすると、パニック障害に似ている。
精神科にせよ、心療内科にせよ、そういうところへ行けば、立派な診断名を
つけてもらえるはず。

●病識

それはともかくも、この病気には、ひとつ、重大な別の問題が隠されている。
「病識」の問題である。
ほとんどのばあい、そういう自分を知りながら、それを病気と自覚している
人は少ない。
(子どもでは、さらにいない。)
つまり病識がない。
そういう病識のない人に、どうやってその病気であることを自覚してもらうか、
それが問題。

それがないと、ドクターであれば、つぎのステップに進めない。
子どもの指導でも、つぎのステップに進めない。
話し合いそのものが、できない。

だからことこの「抑圧」の問題に関して言えば、本人自身が、そういった心の
問題、つまりトラウマ(心的外傷)に気がつくこと。
そのためにそういった人たちの集まる会に出たり、あるいは、私が今、
ここに書いているようなことを自分で読む。
そして自分で自分の中の、(心の別室)に気がつく。

それに気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
自分で自分をコントロールできるようになる。
ドクターにしても、薬で治せるような病気でないため、結局はカウンセリング
で、ということになる。

●「抑圧」自己診断

つぎのような症状があれば、心の別室があると判断してよい。

(1) ふだんはそのことを忘れている。
(2) しかし何かのきっかけで、時間を超えて古い過去をもちだし、パニック状態
になる。理性的なコントロールがきかなくなる。
(3) そのときの記憶が、つい数時間前のできごとであるかのように、鮮明に
呼び戻される。そのときの怒りや不満が、そのまま出てくる。
(4) その過去にこだわり、相手を罵倒したり、相手に暴言を吐いたりする。
ときにはげしい暴力行為をともなうこともある。
(5) パニック状態が終わり、再びふだんの生活にもどると、何ごともなかったかの
ように、また日常的生活が始まる。

診断名については、ドクターに相談して、つけてもらったらよい。
ここでは、「心の病気」とだけしておく。

●子どもの世界では

これで「おとなしい子どもほど心配」という言葉の意味をわかってもらえた
と思う。
子どもというのは、そのつど、言いたいことを言い、したいことをする。
それが子どもの(原点)ということになる。

強圧や威圧で、子どもは、一見、おとなしく従順になるが、それはけっして
子ども本来の姿ではない。
またそういう子どもを、理想の子どもと思ってはいけない。
あるべき子どもの姿と思ってはいけない。

まず好きなように、ワーワーと自己主張させる。
それを原点として、年齢とともに、少しずつ軌道修正していく。

以前、私は『子どもは削って伸ばせ』という格言を考えた。
つまりまず、四方八方に伸ばすだけ、伸ばす。
その上で、好ましくない部分については、削りならが修正していく。
けっして子どもを、盆栽のように、最初から、小さな箱の中に、閉じ込めてはいけない。
この格言の真意は、ここにある。

幼児教育においては、とくに大切なポイントのひとつということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
パニック障害 抑圧 心の別室 子どもの暴言 暴力 抑圧された心 抑圧の暴走 
はやし浩司 子どもは削って伸ばす 心的外傷 心的外傷後ストレス障害 トラウマ
幼児期のトラウマ)

(補記)
私の教室(BW教室)では、子どもたちに言いたいことを言わせ、したい
ことをさせる。
そこからまず、指導を始める。
具遺体的には、大声で、自分の言いたいことを表現させる。
この時期、(心の状態=情意)と(顔の表情)が、一致している子どもを、
「すなおな子ども」という。
うれしいときは、うれしそうな顔をする。
悲しいときは、悲しそうな顔をする。
そうした表情を、自然な形で表現できる子どもを、「すなおな子ども」という。
まず、そういう子どもにすることを目指す。

子どもを抑えるのは、簡単。
伸ばすのは難しいが、抑えるのは簡単。
抑えるのは、子ども自身にそれだけの抵抗力ができてから、ということになる。
年齢的には、年長児の終わりごろ。
それまでは、まず四方八方に伸ばす。

こうした子どもの様子は、私のHPの「BW公開教室」で、見ることができる。
一度、参考にしてみてほしい。
一見騒々しく見える教室だが、子どもたちの伸びやかな様子に、どうか注目!

はやし浩司のHP:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
→(BW公開教室)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

Friday, February 27, 2009

*people come and go away

●ジャン・ダルジーの詩
(People come and go away, as if nothing had happened.)

+++++++++++++++++++++

学生時代、ジャン・ダルジーという人が書いた詩を読んだ。
感動した。
それで彼の書いた詩のいくつかを暗記した。
どれも、簡単な、短い詩だった。
訳者は忘れた。

で、その詩のことを、40歳くらいのとき、市内で画廊を
開いている友人に話すと、友人が、ジャン・ダルジーの
ことを調べてくれた。
が、「ジャン・ダルジーという詩人そのものが、見つからない」
「ジャン・コクトーのことではないか」と。

私もいろいろ調べてみたが、やはり見つからなかった。
ジャン・ダルジーという詩人は本当にいたのか。
私の記憶ちがいによるものなのか。

ジャン・ダルジーの詩を、ここに思い出してみる。
実際には、この数倍は長かったように思うが、
今、思いだせるのは、ここまで。

++++++++++++++++++++++

●人来りて、また去る

人来りて、また去る。
人来りて、また去る。
かくして、私の、あなたの、彼の、彼女の、
そして彼らの人生は去る。

人来りて、また去る。
人来りて、また去る。
あたかもなにごともなかったかのように。

+++++++++++++++++++++

ヤフーの検索エンジンを使って、(ジャン・ダルジー)を調べてみた。
「ジャン・ダルシーのまちがいではありませんか」と表示された。
そこで「ジャン・ダルシー」を調べていみた。
しかしチョコレート職人などの名前は出てきたが、詩人としてのジャン・ダルシーの
名前は出てこなかった。

やはり私の記憶ちがいによるものなのか。

そこで私は、ジャン・ダルジーの詩をもとに、自分なりの詩を作ってみることにした。

+++++++++++++++++

●人来りて、また去る

そこにあなたはいて、私を見る。
ここに私はいて、あなたを見る。
しかしそれもつかの間。
あなたは、そこを去り、風の中に消える。
私はそれを知り、ふと、身を縮める。

かくして私の人生は、去る。
かくしてあなたの人生は、去る。

振り返っても、そこにあるのは、
冬の乾いた風。
それが円陣を描いて、空に舞う。
「もう2度と会うことはないだろうな」と。
私は一歩、ふとためらいながら、足を前に踏み出す。

ああ、人来りて、また去る。
人来りて、また去る。
あたかもなにごとも、なかったかのように。

+++++++++++++++

人との出会いは、淡くて切ないもの。
別れは、さらに淡く切ないもの。
こうして人は人に出会い、そして別れていく。
振り返ったときには、もう、そこにはだれもいない。
私はただただ、新しい出会いを求めて、
足を一歩、前に踏み出す。
風に舞う、あなたの温もりを、肌で感じながら……。

かくして、私の、あなたの、彼の、彼女の、
そして彼らの人生は去る。

あたかもなにごとも、なかったかのように。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

*My Young Days *Dennis Kishere's Room

●公表(Publication)

++++++++++++++++

私は自分の実名を公表して、HPや
BLOGを開設している。
しかしこれはたいへん危険なことなのだ
そうだ(某パソコン週刊誌)。

そのため、名前はもちろん、近所の写真すらも、
載せないようにするのがよい、と。
そういうものから個人が特定されると、
いろいろとトラブルに巻き込まれることが
あるので、やめたほうがよい(同)、と。

++++++++++++++++

その雑誌を読みながら、横にいたワイフに、ふとこう聞いた。
「ぼくは、バカなことをしているのかなア?」と。
実名どころか、プライベートなことまで、洗いざらい公表している。

もちろん現在に至るまで、いろいろなトラブルはあるにはあった。
私の事務所に怒鳴りこんできた読者もいる。
BLOGに、「あのはやし浩司は、共産党員であるといううわさもある」とか、
「はやし浩司は、神戸大学で研究しているとき、女児に手を出した」とか、
とんでもないことを書いていた人もいた。
(これら2つについては、即刻、削除を命令した。)

数年前までは、ハングル文字での抗議文らしいものが、頻繁に届いた。
一部を知人に訳してもらったが、脅迫文に近いものだった。
今は、韓国、K国からのメールは、すべてフィルターにかけて、処分している。

ほかにも「ポケモン・カルトは、トンデモ本である」とか、など。
しかしこういったことを、イチイチ気にしていたのでは、文章など、書けない。
本など、出せない。
言いたい人には、言わせておけばよい。
書きたい人には、書かせておけばよい。

こうした中傷や誹謗には、もう慣れた。
10数年前、カルト教団についての本を5冊、書いた。
雑誌にも、記事を書いた。
もちろん別のペン・ネームを使ったが、それでもどこで知ったのか、毎週のように、
その教団の信者たちが、私の家にやってきて、あれこれ抗議して帰っていった。
多いときは、20~25人前後の信者たちがやってきた。

最初は、命の危険を感じたが、しかしそれも慣れ。
1年もすると、笑って見送ることができるようになった。
私はその経験を通して、(ものを書く)という勇気を身につけた。
つまり、怖いもの知らず(?)になった。

しかしこんなことを心配してくれる人もいた。
孫の誠司(HPなどのトップページに、写真を使っている)について、
「誘拐されませんか?」と。

その心配はないわけではないが、誠司は現在、アメリカに住んでいる。
息子夫婦は、住所を公表していない。
だからその心配はないと思うが、用心するに越したことはない。
そのあたりは、慎重に配慮して、原稿を書いている。

もちろん特定の個人への批判などは、しない。
商店名などでも、固有名詞を出すときは、その店の宣伝になるようなときだけ。
そういった気配りは、常識として、当然のことである。
しかしそれでもトラブルに巻き込まれたら……?
俗に言う、「炎上」というのである。
そのときはそのとき。
また考えればよい。

ともかくも、ときどき、「こんなことをしていて、何になるのかなア?」と
思うことはある。
今朝もそうだが、しかし陰でコソコソと隠れて何かをするというのは、
私のやり方ではない。
それに、今朝もそうだが、起きてすぐ、やりたいことがあるというのは、
すばらしい。
またそれができるというのは、すばらしい。

それにこのところ、BLOGへのアクセス件数だけでも、毎日、1000~2000
件もある。
HPへのアクセス件数は、その数倍は、ある。
みながみな、好意的に読んでくれているとは思わないが、励みにはなっている。
今、こうして書いている文章にしても、1万人以上もの人たちの目に留まる。
これを生きがいと言わずして、なんと言う?

読者のみなさんに感謝しながら、今日もがんばる。
薄曇りの、どこかやさしい暖かさを感ずる冬の朝。
全世界のみなさん、おはようございます。
今日は、2月28日、土曜日。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●英語(Dennis Kishere’s Blog)

+++++++++++++++++

今度、オーストラリアの友人のデニス君の
BLOGを、HPからアクセスできるように
した。

興味のある人は、私のHPより、
「Dennis Kishere’s Room」へと、進んでみてほしい。
彼の書く英文は、一級である。
いろいろと参考になる。

+++++++++++++++++

デニス君のBLOGの、アドレスに、注意してほしい。
そこには「Sunnington」という名前がある。
「サニングトン」と読む。
彼の父親が所有していたビーチ・ハウスの愛称である。
私とデニス君は、ことあるごとに、そのビーチ・ハウスで休暇を過ごした。
なつかしい名前である。
……というより、サニングトンという名前を聞いただけで、あのころの楽しかった
思い出が、つぎつぎと現れては消える。
遠い遠い昔のはずなのに、手を伸ばせば、すぐそこで、つかむことができるような
気がする。
人生にゴールがあるとするなら、青春時代こそ、そのゴール。
それ以後の人生は、たとえて言うなら、燃えカスのようなもの。
それを認めるのがいやだから、みな、必死になって、「今」というときに、
しがみついて生きる。

ここまで書いて、以前書いた原稿を思い出した。
その中で、『ロメオとジュリエット』について、書いた。

++++++++++++++++++

●マダム・バタフライ

 久しぶりに、「マダム・バタフライ」を聞いた。ジャコモ・プッチーニのオペラである。私はあの曲が好きで、聞き出すと何度も、繰り返し聞く。

「♪ある晴れた日に、
  遠い海の向こうに一筋の煙が見え、
  やがて白い船が港に着く……
  あの人は私をさがすわ、
  でも、私は迎えに行かない
  こんなに私を待たせたから……」

 この曲を聞くと、何とも切ない気持ちになるのは、なぜか。遠い昔、長崎からきた女性に恋をしたことがあるからか。色の白い、美しい人だった。本当に美しい人だった。その人が笑うと、一斉に太陽が輝き、一面に花が咲くようだった。その人はいつも、春の陽光をあびて、まばゆいばかりに輝いていた。

 マダム・バタフライ、つまり蝶々夫人は、もともとは武士の娘だったが、幕末から明治にかけての混乱期に、芸者として長崎へやってくる。そこで海軍士官のピンカートンと知り合い、結婚。そして男児を出産。が、ピンカートンは、アメリカへ帰る。先の歌は、そのピンカートンを待つマダム・バタフライが歌うもの。今さら説明など必要ないかもしれない。

 同じような悲恋物語だが、ウィリアム・シェークスピアの「ロメオとジュリエット」もすばらしい。少しだが若いころ、セリフを一生懸命暗記したこともある。ロメオとジュリエットがはじめてベッドで朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。「喜びの日が、モヤのかかった山の頂上で、つま先で立っている」と。本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の頂上にモヤにかかっている。モヤがそのあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はやはりそのシーンになると、たまらないほどの切なさを覚える。

そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」はすばらしい。私はあの映画を何度も見た。ビデオももっている。サウンドトラック版のCDももっている。その映画の中で、若い男が、こう歌う。ロメオとジュリエットがはじめて顔をあわせたパーティで歌われる歌だ。

「♪若さって何?
 衝動的な炎。
 乙女とは何? 
 氷と欲望。
 世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前。「息子が恋をするとき」というエッセーを書いたので、このあとに添付しておく。

 最後にもう一つ映画の話になるが、「マジソン郡の橋」もすばらしい。短い曲だが、映画の最後のシーンに流れる、「Do Live」(生きて)は、何度聞いてもあきない。いつか電撃に打たれるような恋をして、身を焼き尽くすような恋をしてみたいと思う。かなわぬ夢だが、しかしそういうロマンスだけは忘れたくない。いつか……。
(02-10-5)

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*Romeo and Juliet

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(Love Theme from Romeo and Juliet)

What is a youth?  Impetuous fire.  若さって、何? 燃えさかる炎。
What is a maid?  Ice and desire.  乙女って、何? 氷と欲望。
The world wags on,  世界は、その上で踊る。
a rose will bloom.... ばらは咲き、
It then will fade:  そして色あせる。
so does a youth,  若さも、また同じ。
so does the fairest maid. もっとも美しい乙女も、また同じ。
Comes a time when one sweet smile その人の甘い微笑みが
has a season for a while....  しばしの間、その季節を迎えるときがやってきた。
Then love's in love with me.  そして私と恋を恋するときがやってきた。
Some they think only to marry,  結婚だけを考える人もいる。
others will tease and tarry.  からかうだけの人や、じらすだけの人もいる。
Mine is the very best parry.  でも私のは、あるがまま。
Cupid he rules us all.  キューピッドだけが、私たちを支配する。
Caper the cape, but sing me the song,  ケープをひらめかせ、私に歌を歌え。
Death will come soon to hush us along. やがて死が訪れ、私たちを痛めつける。
Sweeter than honey... and bitter as gall,  蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦く、
Love is a task and it never will pall.  愛は、すべきこと、隠すことはできない。
Sweeter than honey and bitter as gall. 蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦い。
Cupid he rules us all." キューピッドが私たちを支配する。


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●息子が恋をするとき

息子が恋をするとき(人がもっとも人間らしくなれるとき)

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今までの人生の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相手の女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員30名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転車屋。「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。

オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男がそう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つかと言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。年俸が1億円も2億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめてみせる。一着数百万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難民の募金を涙ながらに訴える。暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やF国政府から、日本を代表する文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つかむことができる、「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。もしそれがまちがっているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそんなことはありえない。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そしてそれを見る観客は、その二人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。しかしそれは決して、他人の恋をいとおしむ涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。あの無限に広く見えた青春時代も、過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝ていた。6月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなになってしまいそうだった。ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度も何度も私は歯をくいしばった。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。そしてそれが今、たまらなくなつかしい。私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私も、また笑った。

++++++++++++++++++

青春時代といっても、決して虹やサンシャインばかりではない(ロッキー・ザ・
ファイナル)。
そのほとんどは、切なく、もの悲しい。
しかしそれこそ、人間が原点として感ずる、純粋さではないのか。
その純粋さを、歳をとればとるほど、どんどんと忘れていく。
俗に溺れながら、自分を見失っていく。

私が言う、「燃えカス」というのは、そういう意味である。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

*To Mr. Taro Aso, the Prime Muinister of Japan

●テポドン2号は、無視!(Let’s ignore the North Korean Missile!)
(It is very important for the Japanese just to ignore the ICBM test by North Korea. The US Forces announce that they will shoot it down with anti-missile missiles but it is their business. We, the Japanese, should just ignore it and we never shoot it down. In case that we shoot it down, that means we give North Korea a permission to attack Japan with short-range missiles. Now is the time when Mr. T. Aso, the Prime Minister of Japan has been losing supports of the Japanese and now abt. 80% of the Japanese say “No!” to him. I am afraid that T. Aso would utilize this critical situation for his own fame and power. It may be very dangerous. We never let him do so. Moreover North Korea does not deserve to do so. It is a very tiny and poor country. Then why should we commit suicide with such a country? Only one single missile into Tokyo would cause chaos and from that time on Japanese economy would be dropped to the hell. Then Mr. T. Aso, please do not utilize this situation for your own sake, please.)

++++++++++++++++

K国が、テポドン2号(大陸間弾道ミサイル)の
発射に向けて、準備をしている。
今日のニュースによれば、レーダーの照射実験も
開始したという。
ミサイルの飛行を追尾するためのレーダーと
いうことらしい。
ここ数日~1週間が、山と言われている。

+++++++++++++++++

こうしたK国の動きに対して、アメリカ軍は、撃墜すると言明している。
何重もの迎撃態勢を整えたという。
が、もしそんなことをすれば、つまり撃墜すれば、日本はK国に、
日本攻撃の口実を与えてしまうことになる。
相手が、それなりに価値のある国であり、
まともな国なら、撃墜という手段もあるかもしれない。
しかし今、K国は、日本が相手にしなければならないような国ではない。
またその価値もない。

なぜK国は、ミサイル発射実験をするか?
言わずと知れた、国内向け。
ありもしない外国の脅威をつくりあげ、自国内で緊張感をあおりたてる。
それでもって、国内を引き締める。

かたや日本は、どうか。
こうした脅威をいちばん利用したがっている人物が1人、いる。
いわずと知れた、アソ総理大臣である。
恐らく……というより、彼の思考回路からして、「このときぞ」とばかり、
前面に躍り出てくるにちがいない。

(K国のミサイルを撃墜する)→(国内の緊張感をあおりたてる)→
(政権を安定させる)。

が、これはたいへん危険な構図と考えてよい。
日本がそのまま戦争に巻き込まれてしまう。

では、どうするか?

日本には、「シカト」という言葉がある。
今回ほど、この言葉が生きる場面はない。
私たち日本人は、K国のミサイルを、シカトする。
アメリカが太平洋上で撃墜するというのなら、それはそれで構わない。
しかし日本海、もしくは日本上空でというのなら、それを許してはならない。
「撃墜するなら、太平洋上で」と、しっかりと、アメリカに
釘を刺しておく。

そしてそのあと、ゆっくりと国際世論を味方につけて、K国を締め上げる。
国連という場は、そのためにある。
理由が、ある。

昔から『触らぬ神にたたりなし』という。
K国が(まともな国)なら、それなりの意味がある。
話し合いも通ずるだろう。
しかしあの国は、どうながめても、まともではない。
ひとりの独裁者に率いられた、狂った独裁国家である。
そんな国をまともに相手にしたら、それこそ、たいへんなことになる。
仮に東京に一発でもミサイルが撃ち込まれたら、日本経済はそのまま
奈落の底に落ちてしまう。
経済活動はマヒ。
株価はさらに大暴落。
円も大暴落。

だからK国のミサイルは、シカト。
ただひたすら、シカト。
どうせまともに飛ぶかどうか、わからないような代物である。
そんなミサイルのために、一発、数100億円~もするような迎撃ミサイルを、
何発も打ち上げて、どうする?

そこで、アソ総理大臣に、どうしても一言、言いたい。

アソ総理大臣へ

どうか、どうか、今回の緊急事態を、己の名聞名利のために
利用しないでほしい。

今、国民の80%が、あなたに「やめろ」「やめろ」の大合唱を繰り返している。
そういう声に、謙虚に耳を傾けてほしい。

はからずも私はアソ氏が首相に就任するかもしれないというころ、
自分のエッセーの中で、こう書いた。

「あんな人物が、総理大臣になったら、この日本はめちゃめちゃに
なってしまう」と。

本当に、そういう事態がやってきた。
やってきたが、あなたのような人物に、日本をめちゃめちゃにしてもらいたくない。

……ということで、一方、今こそ、私たちは心を引き締めて、冷静になろう!
アソ総理大臣の暴走に、警戒しよう!
(09年2月27日昼、記)

(補記)
自国の平和と安全を願うなら、他国の平和と安全をまず、考える。
それが自国の平和と安全を守る、大原則。
が、この原則も、相手が、まだまともという前提条件がつく。
残念ながら、K国は、まともな国ではない。
世界中でK国の人権問題が、なぜ論議されているか、そのことだけでもK国が、
いかにおかしな国かがわかる。

また日本について言えば、つい先週は、「日本を殲滅(せんめつ)させる」とまで、
言明している。
殲滅……?
恐ろしい言葉である。
脅しとはわかっているが、しかしそれを侮(あなど)ると、何をされるかわからない。
そのためにも、私たち日本人は、彼らにつき入らせるスキを見せてはならない。
ここはシカト。
ただひたすら、シカト。
彼らを静かに自滅させることこそ、日本にとっても、またK国の一般の人たちに
とっても、最善の策ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

Thursday, February 26, 2009

*Identification of the Couple

●2月27日

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昨日も、ワイフと町までの7・5キロを歩いた。
大またで歩いて、ちょうど9000歩。
時間にして、1時間30分。
途中、ちょっとした坂がある。
賀茂真淵記念館につづく坂である。

苦しそうに歩くワイフをうしろに、私はスタスタ。
坂には、自信がある。

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【7つの贈り物(Seven Pounds)】

ウィル・スミスの『7つの贈り物』を見てきた。
よかった。
感動した。
星は、4つの★★★★プラス。

「どうして新しい恋人と、人生をやりなおさないのかな?」という
疑問は残ったが、星は、4つ。
5つでもよいかなというところ。

今週から、『オーストラリア』『送り人(再配信版)』が始まる。
忙しくなりそう。


●暗い朝

足の筋肉痛で、目がさめた。
時計を見ると、午前4時。
そういうときは、起きてしまうほうがよい。
……ということで、起きて、そのまま書斎へ。

で、あれこれしていると、午前7時。
窓の外を見たが、まだ暗い。
居間へおりていって、外を見ると、厚い雲に覆われた曇天。
「道理で……」と思いながら、庭にハトの餌をまく。
こうして私の一日が、始まる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

【夫婦の同一化】

●土下座

昨日、こんな話を聞いた。
父親が、何かの事業に失敗した。
その責任(?)を取らされて、父親が、家族の前で、土下座して謝ったという。
このところの大不況で、ありえない話ではない。
が、つぎのことを知って、言葉を失った。
父親に「土下座しろ!」と迫ったのは、母親、つまりその父親の妻だった。
妻が夫に向かって、「土下座して、謝れ!」と。
それでその父親が、子ども(小学生2人、幼児1人)の前で、土下座して、謝った。

この話を聞いて、何とも言われない重い気持ちに包まれた。
やりようのない閉塞感というのは、そういうときの気分をいうのか。

たとえそうであっても、つまり夫が事業に失敗しても、妻たるもの、そこまで
夫にさせてはいけない。
そのときはそれですんだとしても、それを見ていた子どもたちに、大きなしこりを
残す。

●こだわり

少し前だが、こんな話も耳にした。
婚約してまもなくのこと。
女性のほうが、男性を、自分の実家に連れていくことになった。
実家は、岐阜県の山奥にあった。

で、その実家を前にしたところで、道の向こうのほうから、
2人の女性が歩いてきた。
その女性の友人たちであった。
そのときのこと。
何を思ったか、その女性が、男性を近くの竹やぶに突き倒し、
「あんたは、ここに隠れていて!」と。

なぜその女性が、そういう行動に出たのかは、私にはわからない。
婚約者に不満をもっていたのかもしれない。
常識的に考えれば、そうなる。
あるいは一瞬の照れ隠しだったかもしれない。
しかしそういうことをされた男性の気持ちは、どうなのか。

結局のこのときの事件がきっかけで、男性のほうから婚約を破棄。
「どうしてぼくを突き飛ばしたのか?」という質問に、女性のほうは、
最後まで答えられなかったという。

●さらに……

子どもの前で、父親(夫)が母親(妻)の悪口を言うのは、タブー。
母親(妻)が父親(夫)の悪口を言うのも、タブー。
そのときはそのときで、子どもは父親や母親の話を聞くかもしれないが、
やがて親子の間に、大きなキレツを入れることになる。
これを心理学の世界でも、「三角関係」と呼ぶ。
家庭教育そのものが、崩壊する。

で、その悪口の中に、こんなのがあった。
これについては、以前にもどこかで書いたことがあるが、こんなのである。
ある母親(妻)が、子どもに向かって、こう言った。

「お父さんの稼ぎが少ないでしょ。だから私たちは、苦労するのよ」と。

母親としては、生活の苦しさを子どもに伝えたかっただけかもしれない。
子どもに妻としての、自分の苦労を理解してもらいたかっただけかもしれない。
しかしこういう言い方は、決定的に、まずい。

●遊離する女性たち

「ならば、はじめから結婚などしなければいい」と、だれしも思う。
家族の前で父親(夫)を土下座させた母親(妻)にしても、竹やぶに婚約者を
突き倒した女性にしても、また子どもに向かって、「お父さんの稼ぎが少ない……」
と言った母親(妻)にしても、だ。

こうした女性たちに共通する心理はといえば、(現実からの遊離)ということになる。
現実そのものに、根をおろしていない。
だから、そういう(おかしなこと)を、言ったりしたりしながらも、それを
「おかしい」とも思わない。
「夫婦」という「運命共同体」をつくりながら、その共同体から遊離してしまう。
「自分だけは、ちがう」と思ってしまう。
別の世界に、住んでしまう。

●夫婦は一枚岩

そうでなくても難しいのが子育て。
夫婦がバラバラで、どうして子育てが満足にできるというのか。
が、ここで書きたいのは、そのことではない。
何ゆえに、ときとして、母親(妻)は、家族から遊離してしまうかということ。
遊離して、自分だけの世界に閉じこもってしまうかということ。

簡単に考えれば、結婚相手に不満があったということになる。
不本意な結婚で、父親(夫)と同一化の形成ができなかったということになる。
常識で考えれば、「そういう夫を選んだのは、あなたという妻ではないか」ということに
なる。
さらにきびしい言い方をすれば、「そういう夫としか結婚できなかったのは、あなたの
責任」ということになる。
が、そういうことは、このタイプの母親(妻)には、理解できない。

●血統空想

「血統空想」という言葉がある。
ジークムント・フロイトが使った言葉である。
ある年齢に達すると、男児は、自分の血統を空想するようになる、という。
「ぼくの父親は、もっと高貴な人間であったはず」と。

この血統空想をヒントにすると、このタイプの母親(妻)は、父親(夫)と
結婚しながらも、夫を受け入れることができず、血統空想の中で生きている
ということになる。
言うなれば、「自己血統空想」ということになる。

「私の夫は、もっと高貴で、力のある人でなくてはならない」
「私はそれにふさわしい女性である」と。

フロイトが説いた「血統空想」は、父親の血統を疑うというものだが、このタイプの
母親(妻)の血統空想は、自分に向けられたもの。
だから「自己血統空想」(これは私が考えた言葉)ということになる。


この血統空想が肥大化して、家族から遊離する。
家族の一員でありながら、その家族に同化できなくなってしまう。
その結果として、父親(夫)に土下座させたり、竹やぶに突き倒したり、さらには、
子どもの前で、父親(夫)を、平気でけなしたりするようになる。

●同一化の形成

夫婦は夫婦になったときから、同一化を形成する。
「一体化」と言い換えてもよい。
その形成に失敗すると、ここに書いたような結果を生み出す。

「夫が恥ずかしい」「妻が恥ずかしい」と思うようであれば、すでに同一化は
崩壊しているとみてよい。
反対に、こんなことを口にする夫婦もいる。
「私は今の夫と結婚できて、幸せです」「私の夫は、すばらしい人です」と。

一見、すばらしい夫婦に見えるが、このばあいも、同一化は崩壊していると
みてよい。
本当にうまくいっている夫婦なら、つまり同一化の確立している夫婦なら、そんな
ことは、他人に言わない。
そういうことを言うということ自体、妻であれば、夫に対して、大きな不満を
いだいていることを示す。
その反動として、つまり自分の心を偽るため、そういった言葉を口にする。

そこで同一化のレベルを、段階的に示してみる。

●同一化のレベル

(レベル0)夫婦といっても、他人と他人との関係
(レベル1)夫婦といっても、形だけ。すべきことはするが、いつもそこまで。
(レベル2)共同作業はいっしょにするが、生き様を共有できない。
(レベル3)ほどほどにわかりあっているが、全幅に心を開くことはできない。
(レベル4)心を開きあい、共通の人生観、哲学をもっている。
(レベル5)一体性がきわめて強く、密接不可分の関係。

「理想としては……」と書きたいが、夫婦の形態は、まさに千差万別。
中身も千差万別。
それぞれがそれぞれの立場で、それなりにほどよくやっていれば、それでよし。
それぞれには、それぞれの家庭の事情もある。
問題もある。
また自分たち夫婦が、同一化の形成に失敗したからといって、大げさに悩む必要は
ない。
世の中には、月に2、3度しか会わなくても、それでもうまくいっている夫婦が
いる。
反対に毎日、ほとんどの時間をいっしょに過ごしていても、心はバラバラという
夫婦もいる。
大切なことは、その中でも、高度な次元で、たがいに尊敬しあって生活するということ。

そういう意味でも、子どもの前で、父親(夫)を土下座させてはいけない。
竹やぶに、婚約者を突き飛ばしてはいけない。
父親(夫)の悪口を言ってはいけない。
そんなことをすれば、結局は、その母親(妻)自身のが愚かということを、
自ら証明することなる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
夫婦の同一化 同一化の形成 同一化の崩壊 三角関係 自己血統空想 血統空想) 

*Magazine (Feb.27th 2009)

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   27日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【Mae’s Room(芽衣の部屋)】

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2008年のはじめ、「音楽と私」というコーナーを、
私のウェブサイト(HP)上に、もうけた。

で、今年は、【芽衣の部屋】というのを、もうけた。
この1年をかけて、充実させるつもり。

+++++++++++++++++++++++

私の夢は、一度でよいから、孫を自分の幼児教室で教えてみることだった。
しかしその夢は、前回、はかなく消えた。
孫の誠司が日本へやってきたとき、新しい教材を用意し、それに備えた。
数日前から準備した。
言うなれば、特別教室。
が、その前夜、私と二男が、大喧嘩。
(よくあることです。)
二男は当日、誠司を連れて、名古屋へ行ってしまった。
それで、「消えた」。

もう1人の孫がいる。
現在、満2歳。
しかし今のところ、日本へ来る予定はない。
それで今回、『芽衣の部屋』を、もうけた。
5月の誕生日までに間に合えばよい。
それまでに、完成させる。

『芽衣の部屋』……今までの幼児教室のすべてを、ビデオに撮影し、それを
YOU TUBEを使って、世界に向けて発信する。
子どももいっしょに、楽しめるようにしたい。
当然、いちばん見てほしいのは、芽衣。
しかし期待はしていない。
そのかわり、全世界の子どもたちに、見てほしい。

そうそう三男が、結婚すると言い出した。
その三男に、先日、こう言った。
「一度でいいから、孫をぼくの教室へ連れてこいよ」と。
三男は、すなおにそれに応じてくれた。

「それまで、ぼくは今の仕事をつづけているかな?」と思ったが、それは言わなかった。
それまでがんばるぞオ!!!!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思考回路

+++++++++++++++++++++

脳みそというのは、反復性のある行動、思考に
ついては、別回路をつくり、つぎに同じような
行動、思考をするようなとき、その回路にしたがって、
行動したり、思考したりする。
そのほうが、便利だからである。

+++++++++++++++++++++++

このことは、幼児に、同じ絵を何回も描かせてみる
とよくわかる。

たとえば帽子が三角、顔が丸、手と足が「十」に
なった(かかし)を描かせてみる。

「  △
   ○
   十  」

最初はたどたどしく、描き方に迷っていた子どもでも、
4~10回も描くうちに、描き順が定まってくる。
思考回路が決まってきたことを意味する。

こうした思考回路は、無数にある。
たとえば目の前にあるお茶のコップにしても、それを手に
取るとき、指をどのように使うか、それをいちいち考えて
取る人はいない。
自然な形で、しかも何も考えないで、コップを取ることが
できる。

それが思考回路である。

この思考回路には、大きく、つぎのふたつに分けて考える
ことができる。

(1)手続きや運動に関する思考回路…運動、動作に関する思考回路。
(2)思考のパターンに関する思考回路…ものの考え方、論理の組み立て方。
「固定常識」(はやし浩司)も、それに含まれる。

ここでいう「固定常識」というのは、常識の中でも、傷口のかさぶたのように、
心の中で、固定してしまった常識をいう。

先日もワイフが私のためにと、赤いパンツを買ってきてくれた。
しかしどうも、はき心地が悪い。
子どものころから、「赤は女の色」と、そういう常識を叩き込まれたせいと
考えてよい(?)。
つまり心理学でいえば、私は、そのとき軽い(役割混乱)を起こしたことになる。

役割混乱…「男の子は男の子らしく」「女の子は女の子らしく」と、子どもは
成長の過程で、そうした(役割)を身につけていく。
だれに教えられるというわけではないが、常識(?)として、身につけていく。
しかしこの(役割)が混乱するときがある。
たとえば男の子に赤いスカートをはかせてみるとよい。
ふつう、子どもは、それに抵抗する。
が、それでもはかせてみると、精神状態そのものがたいへん不安定になる。
(実際には、はかないだろうが……。)

今回の赤いパンツがそうである。
つまり思考回路が、混線する。
たとえば自分でパンツを買いにいくときは、意識することもなく、(男らしい色)を、
私は選ぶ。
青とか、茶色とか、など。
それがここでいう「思考のパターンによる思考回路」という。

しかも、だ。
ワイフの買ってきたパンツには、穴がない!
これはどう理解したらよいのか。
男性用のパンツには、穴がある。
そう決めてかかっているのも、実は、「思考のパターンによる思考回路」ということに
なる。

……しかし、こうした思考回路は、そのつど、できるだけ破壊してみたほうがよい。
破壊したとたん、そこに別の世界が広がる。

話は飛躍するが、ときどき映画を見ながら、私は、それを経験する。
たとえば『シクス・センス』『マトリックス』『ミラーズ』など。
これらの映画は、私に強烈な印象を残した。
またそういう映画は、楽しい。
脳みそがひっくり返るような、衝撃を覚える。

言いかえると、思考回路が、そのときひっくり返ったことになる。
先にも書いたように、そこにはいつも、別の世界が広がる。
予想もしなかったような、別の世界である。

…しかし、パンツだけは、やはり男の色がよい。
もしこの垣根を取り払ってしまうと、自分がどうなってしまうか。
それがこわい。
そのうちリカちゃん人形のコスチュームを着て、街を歩くようになるかもしれない。
私なら、そうなりそう(?)。
だからこわい。
(でも、楽しいだろうな?)

(付記)

少し前、二男夫婦が私の家に泊まったときのこと。
二男が、嫁さんの足の爪を、爪切りで切ってやっているのを、見た。
そのときも、私の頭の中の思考回路が、バチバチと火花が飛ぶのを感じた。
この日本では考えられない光景である。
またそういうことをしてやっている夫を見たことがない。
(もちろん私もしてやったことがない。)

そういう点では、二男夫婦を見ていると、よい勉強になる。
彼らは、教えずして、私にいろいろなことを教えてくれる。
で、思考回路が変更され、それ以後、私も、似たような行動を、ワイフに
してやることができるようになった。

「男だから……」とか、「女だから……」とか、『ダカラ論』で、ものごとを
考えてはいけない。

『ダカラ論』そのものが、私がいう「固定常識」ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
固定常識 役割形成 役割混乱 常識論 赤いパンツ だから論 ダカラ論 はやし浩司
思考回路 思考パターン)

(追記)

今日も電車の中で、ワイフとこんな会話をした。
もし(あの世)があるとするなら、という前提での話だが、私は、この世こそが、
あの世ではないかと思っている。

つまり本当は、私たちが思っているあの世こそ、リアルな世界で、今、私たちが
生きている(?)、この世が、あの世ではないか、と。
つまり地獄、極楽というのは、(天国、地獄でもよいが)、この世のように、ある、と。

話がわかりにくくなってきたので、こうしよう。

今、私たちが生きている、この世界を、A世界とする。
そして私たちが死んだら行くとされる、あの世(天国)を、B世界とする。

B世界の住人たちは、こんな会話をしている。

X「この世は善人ばかりで、つまらないですなあ。ところで私は、今度、あの世
(A世界)へ、遊びに行ってくることにしましたよ」
Y「どちらの国を選びましたか?」
X「ハハハ、あまり苦労をするのもいやだから、国は、日本という国にしました」
Y「日本ねえ……。そんな国があったのですか」

X「小さな国ですよ。そこでね、私は、思う存分、自由に生きてみたいと思いますよ」
Y「それはいい。あの世(A世界)へ行けば、いろいろと生きる原点のようなものを
体験できるそうですよ」
X「憎しみや悲しみ、喜びや楽しみ……、この世(B世界)には、ないものばかりです」
Y「ところで隣のイエスさん。ご存知ですか? あの方は、向こうでこの世の話をして
きたそうです。今度また、あの世へ行ってみたいと、今、申請を出しているそうですよ」

X「そうですかア。あのイエスさんが、ねえ……。しかしあの世で、この世の話をする
のは、禁止事項ではなかったのですか」
Y「何でも、特別許可をもらったそうです」
X「特別許可ねエ……。私は、もらえそうにもありませんから、ふつうの住民として、
行ってきますよ。まあ、そんなわけで、しばらく、あなたとは連絡を取れませんが、
よろしく」

Y「わかりました。で、何時間ほど、あの世(A世界)へ行ってくるのですか?」
X「一応、申請では、3時間15分ということになっています。向こうの時間では、
76年ということになるそうです」
Y「76年ですかア? みんなあの世へ行ったときは、それを長く感ずるようですが、
帰ってくると、あっという間だったと言いますね。これもおもしろい現象です」
X「そりゃあ、そうですよ。3時間15分ですから……。エート、旅行社がくれた
プログラムによれば、息子が3人できるということになっています」

Y「それはまた、平凡なコースを選びましたねエ」
X「みんなに嫌われて、最期は、どこかの病院でさみしく死ぬという、まあ、そんな
ありきたりのコースですよ」
Y「ハハハ、それもよい経験になりますよ。またあの世(A世界)から帰ってきたら、
みやげ話でもしてください」
X「わかりました。楽しみにしておいてください。で、もうそろそろ行かなくてはいけ
ません。失礼します」
Y「お元気で!」と。

あなたも一度、この世とあの世を、ひっくり返して考えてみては、どうだろうか。
既存の思考回路が、バチバチを音をたてるはず。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●法事

++++++++++++++++++

実は今日は、実家の法事で、郷里の
M市に来ている。
M市では、いつも長良川沿いにある
緑風荘という旅館に泊まることにしている。
今、その緑風荘の一室で、この文章を
書いている。
時は、1月22日木曜日、午前5時。
昨夜、風呂に入ったあと、午後9時ごろ、
床についた。
それで、今朝は、午前3時起き。

++++++++++++++++++

●母の日記

実家を整理しているとき、戸棚から、母の日記が出てきた。
2冊、あった。
日記といっても、「何があった」「だれが来た」とかいう、メモ帳のようなもの。
それを先ほどまで、1時間くらいかけて、読んだ。

それを読んで、いろいろ考えさせられた。
「母も1人の人間として、生きていたのだなあ」という思い。
「老後と懸命に闘っていたのだなあ」という思い。
そういう(思い)が、無数に頭の中で折り重なっては、消えた。

が、それについては、もう少し頭の中を整理してから書いてみたい。
今は、ペンディング……ということにしておきたい。
安易にそれについて書くのは、慎みたい。


●日記

私がこうして書いている文章にしても、日記のようなもの。
しかし私の息子たちは、私の文章を読むようなデリカシー(?)は、もっていない。
「いつか読んでほしい」とは思っているが、期待はしていない。
そういう期待は、とっくの昔に、捨てた。

孫の誠司にしても、芽衣にしても、そうだ。
それともいつか、日本語を読めるようになるのだろうか。
読めるようになっても、まず、私の書いた文章は、読まないだろう……。

それに、こういう仕事をしているせいもあるが、私は、今では、
自分の子どもも、他人の子どもも、区別していない。
そう感ずるようになったのは、40歳も半ばごろではなかったか。
反対に、今、生徒の中には、自分の孫のように感ずる子どもが、何人かいる。
毎週、その子どもに会うのが楽しみ。
みな、男児だが、それは言わない。
私がすべきことは、いつも一歩退いて、その子の成長を見守ること。

で、子どもたち(生徒たち)には、いつもこう言っている。
「ぼくはいろいろなことを書いている。
いつか君たちがおとなになったら、ぼくの書いている文章を読んでね」と。
あとで日付を照合すればよい。
そうすれば、たとえば「ああ、このことは、ぼくのことだ」と、わかるはず。
(ただし名前のアルファベットは、そのつど変えているので、注意。
たとえば、麻生君は、HT君というように。ルールは、ない。)

そういう子どもたちも、ひょっとしたら、何人か出てくるかもしれない。
楽しみというより、どこか、切ない(?)。
こうして私は文章を残し、彼らがそれを読むときは、100%、私はこの世にいない。

……そう言えば、住職が読経してくれているときも、その切なさを、心のどこかで
感じた。
母や兄の死を悼(いた)みながら、生きることにまつわる切なさを感じた。
今は今だが、やがてすぐ、私も、母や兄のように、跡形(あとかた)もなく、消える。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【ザ・ムーン】(In the shadow of the Moon)

+++++++++++++++++++

昨夜、仕事の帰りに、深夜劇場へ寄った。
封切りになったばかりの、「ザ・ムーン」を見た。
星は、2~3個の、★★。

ドキュメンタリー映画としての価値は認める。
が、そこまで。
あとは元宇宙飛行士たちの回顧また回顧。
何割かが、おしゃべり。
それぞれに深みのある言葉だったが、娯楽映画
として見るには、もの足りない。
だから星は、2つ。

圧倒されるような地球の風景もなかった。
月の風景もなかった。
ザラザラした古い画像ばかり……。

++++++++++++++++++

●アポロ11号

アポロ7号は、地球軌道を周回。
アポロ8号は、月軌道を周回。
アポロ9号は、地球軌道を周回。
アポロ10号は、月軌道を周回。
アポロ11号で、アメリカは、人間を月に着陸させることに成功した。
……ということになっているが、アポロ11号は、やらせだったという
疑惑がある。
(ついでに、あのガガーリンも着陸時に、死亡しているという説もあり、
こちらのほうは、半ば常識化している。)
当時は、そういう時代だった。

もちろん映画の中では、元宇宙飛行士たちは、それを強く否定している。
「やらせと言っている人もいるが、そんなに多くの人をだませるはずがない」
というようなセリフも、終わりのほうにあった。

事実、アポロ11号については、世界中の天文台が追跡していたし、
持ち帰った岩石には、地球上にはない鉱物も含まれていた。

で、私の関心は、その一点に集中した。
そのあたりを、目を凝らして見た。
アポロ11号は、果たしてやらせだったのか。
それとも本当に、乗組員たちは、月に行ったのか。
しかしフィルムは古く、また目新しい証拠も写真もなかった。
つまり、つまらなかった!

アポロ11号のニール・アームストロング船長の言葉、
"That's one small step for a man, one giant leap for mankind."
(これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ)は、
あまりにも有名である(ウィキペディア百科事典)。

で、このとき『記念すべき第一歩を記したのは左足である。
アポロ11号が着陸した「静かの海」には、鏡100枚で作られた
一辺が約46cmのレーザー反射鏡が設置された。この反射鏡は
地球から発射されたレーザーを反射させて、地球と月の距離を
測定するために利用されている。地球と月の距離は約38万kmであり、
年に3・8cmずつ距離が増えているという』(同)と。

「反射板があるから、それが行ったという証拠だ」と説く人もいる。
しかしここにも書いたように、その後、アポロ計画は、アポロ17号まで
つづく。
反射板を設置するだけなら、月を周回しているとき、それをそこへ落とすことによっても、
可能である。
それをしたのは、アポロ8号か10号、あるいは12号か、14号、15号かもしれない。
私は、こういうことには、たいへん疑り深い。
もし本当に、アポロ11号が月へ行っていたのなら、やらせ疑惑が出るような
スキはなかったはず。

もし事実であれば、調べれば調べるほど、(事実)の深遠へと、吸い込まれていくはず。
が、それがない(?)。

疑惑の根拠となった事実は、いろいろある。

星条旗が、はためいていた。
影が複数本あった。(あるいはなぜか、修正され、消されていた。)
しかも光源の方向がちがっていた。
飛行士が何かを落としたが、それが地球上でのように、速く落ちた。
たまたま写り込んだ岩石の表面に、きれいな「C」の文字が書いてあった、などなど。

映画なのだから、そういう疑惑に、しっかりと答えてほしかった。
つまりわざわざお金を払って見にいってやったのだから、しっかりと答えてほしかった。

むしろ私は映画を見て、新たな疑問をもった。
それは、こんな疑問だ。

月着陸船から2人の宇宙飛行士が、月の軌道を周回する母船に向かって飛び立つ。
このシーンは有名だから、知っている人も多いことと思う。

一方、今度は母船のほうからの映像。
月の表面から、まるで氷の上をすべる石のように、宇宙船が近づいてくる。
なめらかで、寸部の狂いもない。
それがやがてすぐ、母船とドッキングする。

しかし、だ。
今から40年前に、そんな技術があったのだろうか。
それが新たな疑問。
映画の中にも出てきたが、月着陸船にしても、やっと完成した(?)ばかりの乗り物。
フラフラと飛び回って、墜落するシーンもあった。

月の軌道を回る母船(=地球帰還船)が、時速どれくらいの速さだったかは知らないが、
地球の軌道を回っているときは、秒速10キロ前後だったという。
(秒速10キロだぞ!)
それを手動で発射させた月着陸船が、うまく母船をとらえるということ自体、
不可能と考えてよい。

最近になってやっとミサイル迎撃ミサイルが、実践配備されるようになった。
が、地球上ですら、それは難しい。
何十人、(あるいは何百人もの)、要員がいて、高性能のレーダーで追跡してやっと、
可能なのである。
もちろん高性能のコンピュータも必要だが……。

何か、おかしい?
へん?
謎?
それがあのアポロ11号である。

ついでながら、ウィキペディア百科事典に出てきた、2つの数字に
注目してみた。

38万キロを3・8センチで割ると……

38000000000÷3・8=10000000000年
               =100億年

単純に考えれば、分離説(月は地球から分離したという説)に従えば、
毎年3・8センチずつ月は、100億年をかけて、現在の位置にやって
きたことになる。

しかし地球の歴史は、60~70億年。
どこかに矛盾を感ずるが、この話はここまで。

つぎは、『007・慰めの報酬』が楽しみ!
必ず、見るぞ!

(付記)
地球の大気は、卵にたとえるなら、外の硬い殻(から)どころか、その内側の薄い膜の
ようなものである。
計算上、そうなる。
その薄い膜の中に大気があり、その下のほうに、人間を含めて、いろいろな動物が
へばりついている。
だから大気もモノも、そして人間も、全体として、分子が姿を変えただけ。
そういう解釈も成り立つ。
しかしそういう発想は、地球を宇宙からながめたことがある人だけにできる。
だれだったかは忘れたが、(映画館の中では、メモを取ることができないので)、
そのようなことを言った宇宙飛行士がいた。
私はその言葉を聞いたとき、心底、その宇宙飛行士がうらやましかった。
そういう発想は、残念ながら、私には、ない。
劇場から出るとき、「なるほど、そうだろうな」と、何度も自分にそう言って聞かせた。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●歯磨き一考

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歯をみがくとき、ほとんどの人は、チューブに
入った、「練り歯磨き粉」(以下、歯磨き粉)を使う。
古風な言い方に聞こえるかもしれないが、それが
正式の呼び名である。

私も、子どものときから、ずっとそれを使っていた。
欠かさず、使っていた。
しかし、この半年ほど、使うのをやめている。
で、その報告。

+++++++++++++++++++

●不要?

歯磨き粉をいつも使っている人は、一度、使わないで、歯を磨いてみるとよい。
しばらく磨いていると、口の中に唾液がたまってくる。
その唾液を吐き出してみる。
そのとき、あなたはギョッとするはず。

歯というのは、驚くほど、食べ物のカスだらけ。
それが汚物のように、(汚物なのだが)、歯にくっついている。
歯を磨くと、そのカスが、ドロドロとはがれてくる。

しかしこのとき、歯磨き粉を使っていると、それがわからない。
わからないまま、歯がきれいになったと思い、それ以上、歯を磨くのをやめてしまう。
つまり汚れが、かえってそのまま残ってしまう。

通っている歯科医のアドバイスもあって、私はこの半年ほど、歯磨き粉の使用を
やめている。
そのかわり、カスが出なくなるまで、歯を磨くようにしている。
時間にすれば、それ以前の2~3倍にもなっただろうか。
つまりそれくらい長く磨かないと、カスは取りきれない。

もし、どうしても……ということであれば、塩でよい。
塩をつけて磨く。
逆に言うと、なぜ私たちは、歯を磨くとき、歯磨き粉を使うのかということになる。
本来必要もないものを、必要であると思い込まされているだけ(?)。
子どものころ、歯磨き粉を使うと、白い歯になるとかなんとか、そんなコマーシャルも
よく耳にした。

中には、歯磨き粉イコール、(歯の石鹸)のように考えている人がいるかもしれない。
私も、そうだった。
あるいは、歯磨き粉の中には、歯をガードする物質、たとえばフッ素などが
含まれているから、有効と考えている人がいるかもしれない。

どうであるにせよ、汚れが残ったまま、歯磨きをやめてしまったら、意味がない。
そういうことも考えながら、一度、歯磨き粉なしで、歯を磨いてみるとよい。

で、半年たった今、私は、こんな結論を出している。
「歯磨き粉は、必要ない」と。

で、それ以上に大切なことは、歯ブラシを複数本、用意すること。
小さくめで、歯先の短いもの。
長くて、歯先が硬いもの。
ふつうのもの。
それにローリング・ブラシ。
そういった歯ブラシを、そのつど取り替えて使う。

いつも同じ歯ブラシを使っていると、その歯ブラシのクセに応じてでしか、
歯を磨けなくなる。
死角ができる。
しかしそのつど歯ブラシを取り替え、歯の磨き方を変えると、いろいろなし方で、
歯を磨くことができる。
死角ができるのを防ぐことができる。
ついでに歯間ブラシも使うとよいそうだ。
これは先の歯科医の先生が、そう言った。

で、ここではもう一歩、話を先に進める。

歯の重要さは、老人を見れば、わかる。
「歯がなくなれば、入れ歯にすればいい」と思っている人がいるかもしれない。
しかしこれは、とんでもない誤解。

老人になると、入れ歯そのものが、作れなくなる。
入れ歯というのは、そのあとの調整が大切。
その調整ができなくなる。
だから実際には、80歳とか85歳以上になると、入れ歯を作るのは、むずかしい
そうだ(あるケアマネの人の言葉)。

さらに高齢になると、入れ歯をはめたまま眠ってしまったりして、それで命を
落とす人もいるという。
ある女性は、入れ歯を口に入れたまま眠ってしまい、それが喉の奥に入り、
窒息して死んでしまったという。
あるいは舌が、入れ歯を巻き込んでしまい、救急車で病院へ運ばれた人もいる。
入れ歯の事故は、多い。

だからやはり、歯は大切にしたほうがよい。
「たとえ数本でも残っていれば、長生きできます」(ある介護士の言葉)とのこと。
その数本が、目標。
……ということで、このところ、歯の磨き方に神経を使っている。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 
歯の磨き方 歯磨き粉 不要論 入れ歯 老人の入れ歯)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●「赤」という漢字

+++++++++++++++++++

「赤」という漢字は、もともとは、
人が火にあぶられている様子を示したものだ
そうだ(「本当は怖ろしい漢字」・彩図社)。

「赤」の上半分は、人間。
下半分は、炎(ほのお)を示しているそうだ。

つまり火にあぶられると、皮膚は赤くめくりあがり、
血管が破れて血が噴き出す……。
そこから「赤」という意味が生まれたという(?)。

残念ながら、にわかには信じがたい話である。
というのも、漢字にまつわるこの種の話は、多い。
私もかつて、何度か、子ども向けの漢字字典の編集に
携わったことがある。
が、それぞれの漢字には、いろいろな説があって、
定説がないことを知った。

「フ~~ン」と感心したところで、この話はおしまい。
私も知らなかった。

で、こんなこともある。
私の名前は、「林」。
私は子どものころから、「林」は、「林」と思っていた。
それについて、小4のA君が、「林は、木へんだね」と
言った。

なるほど!
「林」という漢字は、「木へんに、木がくっついたもの」だ。
満61歳になって、はじめて、それに気がついた。

++++++++++++++++++++++++

●「ドンマイ」

数日前、中日新聞のコラムを読んでいたら、こんなことが書いてあった。
「ドンマイ」というのは、「Don’t mind(気にするな)」を短くしたものだ、と。
そこでその編集者は、つづけて、こう書いている。

「英語では、Never mindとは言うが、Don’t mindとは言わない」と。

本当かな?

こういうとき私は、自分の耳の中をさがす。
すると、いつかだれかが言った言葉が、よみがえってくる。
もちろん英語国の人の言った言葉である。

「Don’t mind.」……ちゃんとした英語である。
よく使う。
たぶん、そのコラムを書いた編集者は、外国に住んだ経験がないのだろう。
だからそういうトンチンカンなコラムを平気で書く。

ほかにも、以前、こんなことを書いている人もいた。
英語雑誌の編集を手伝っているときである。

「アメリカでは、I am....とは、言いません。I’m....と言います」と。

私はその原稿を読んで、編集長氏に、「これはおかしい」と言ったが、
取り合ってもらえなかった。
どこかの教授の原稿だったので、遠慮したのだろう。

つまり英語というのは、元来、自由な言葉である。
おととい見た映画、『ザ・ムーン』の中でも、月のことを、
「the Heavenly Body(神聖なボディ)」と呼んでいた宇宙飛行士
がいた。
シェークスピアの時代から、いかに豊かな表現力があるか、それでその人の
英語力が決まる。
知的能力のレベルが決まる。
だから英語で話すときは、思い切って、学校で習ったような表現方法は忘れてしまう
とよい。

たとえば「お会いできてうれしいです」は、「Nice to meet you」だが、
「Nice」の部分を、その場の雰囲気で、いろいろに変えてよい。
またそのほうが、相手に好感をもたれる。

「Great」「Wonderful」「Super」、あるいは品位のある席では、
「It’s my privilage」でもよい。

一方、日本語ほど、「型」にこだわる言葉は、ない。
型にはまった言い方をするのが、正しい言い方と、信じて疑わない人も多い。
言いかえると、日本語という言葉は、表現力においては、貧弱。
つまりこの問題は、「Don’t mind」と言うかいわないか、という問題ではない。
そういった発想そのものが、実に日本的ということになる。

繰り返す。
「Don’t mind」は、立派な英語である。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月25日(日曜日)

+++++++++++++++++++

気温は、部屋の中で、摂氏1度。
外に出て、水道をひねってみたが、蛇口が凍りついて、水は
出なかった。
朝風呂に入るつもりだったが、やめた。
このあたりも、今は、渇水期。
水不足。
うちが水を使えば、農家の人たちが困る。

+++++++++++++++++++

帰りに、農協祭に寄ってみた。
いつもになく、混雑していた。
店の数も、数倍、ふえていた。

私とワイフは、米はざし(20円)、焼きソバ(300円)、おでん(150円)、
あんまん(100円)、肉まん(100円)、焼きイカ(150円)、
フランクフルト(100円)、トン汁(100円)を食べた。
全部で、ちょうど1000円。
2人で割って、1人、500円。

みやげに、イチゴとたくあん、じねんじょ(長いも)を買った。

こういう祭見るたびに、私はそのまま童心に返る。
ウキウキしてくる。
が、ひとつ不愉快なことがあった。

政治家の、片山さつき氏(実名)が来ていた。
あの女性は、こうした祭があるたびに、顔を出す。
またそれ以外の顔を、私は知らない。
例によって例のごとく、秘書官を数名連れていた。
こういう祭では、スーツ姿の男性は、よく目立つ。
また、それが彼女のねらい(?)。
ダンナを連れてくれば、まだ印象もよい。
しかしどうして秘書官なのか?
祭に?

先日の夏祭のときは、どこかのテレビ局のカメラマンを
連れてきた。
花火大会の夜だったが、まばゆいばかりのスポットライトを、始終つけたまま。
何がねらいか、ヨ~クわかる。
彼女から見れば、私たちは田舎のバカに見えるかもしれないが、
私たちから見れば、彼女がバカに見える。
というより、私たちは、彼女が思っているほど、バカではない。

そうそうもう、ひとつ、気づいたことがある。
ポスターの片山さつき氏は、若くて美しい。
しかし実物の片山さつき氏は、xxxxxxxxxxxxxxx。
私とワイフは、あまりの落差に、思わず、笑ってしまった(ゴメン!)。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●老後

++++++++++++++++++++++++++++++

考えるといっても、そのつど、起爆剤(信管)のようなものが必要。
「きっかけ」と言ってもよい。
「マッチ」でもよい。
それがないと、脳みそに火がつかない。
で、今は、その起爆剤がない。
そんな状態。
窓の外は、まったくの冬景色。
しかも夕方。
コタツの椅子から、ぼんやりとそれを眺めている。
眺めながら、ふと母の書いたメモ帳のことを思い出した。

++++++++++++++++++++++++++++++

●母のメモ帳

亡くなった母のメモ帳に、先ほど、1時間ほど、目を通した。
1日、250~300字程度。
たいていその日の天気で始まり、体の調子、人との交流を記して、それでおしまい。
が、長く読んでいると、不思議なものだ。
ただのメモ帳なのに、老後の不安というか、さみしさが、ひしひしと伝わってくる。
その中から、母の(心)を読み取ることができる。
文というものは、そういうものか。
たとえば、こうある。

「浩司(=私のこと)たちは、今年の正月は、どこかへ旅行に行った。
そのため今年の正月も、J(=兄)と2人だけ。
手の中でB(=手乗り文鳥)が、眠っている。
 昼過ぎになって、Kさん(=近所の友人)が、ちぎり絵のことで寄ってくれた。
 明日の展示会には、ひざが痛いので、出られそうもない……。
みんな、今年も、元気でありますように」(xx年1月1日)と。

母は母で、さみしさと懸命に闘っていた。
さぞかし不安で、心細かったことだろう。
が、それはそのまま私たちの近未来の姿でもある。

母自身もこう書いている。
「みなに、迷惑をかけたくない」
「みなに迷惑をかけている自分が、なさけない」と。

●「どう死ぬか」

老後は、どうがんばったところで、必ずやってくる。
その上、肉体は、不可逆的に衰えていく。
病気や故障が、それに追い討ちをかける。
「家族の温かい愛情に包まれて……」というのが理想の老後かもしれない。
が、包まれていたところで、孤独から逃れることができるというわけではない。

実は、私の中にも、こんな(考え)が芽生え始めている。
まだ小さく、心の闇の中で、息をひそめているが、しかしたしかに芽生え始めている。
「どう生きるか」ではなく、「どう死ぬか」という(考え)である。
今日も、長男に、私の家にある置き物についての説明をした。
「これは見た目には安物に見えるかもしれないが、価値がある物だ。
だからぼくが死んでも大切にするように」と。
これからは、そういう会話が、多くなることと思う。

●老後の旅行

こうした(考え)は、たとえばワイフと旅行をしていても、顔を出す。
美しい景色を見ても、ふと「二度と見ることはないだろうな」とか、「これが最後だろうな」
とか、思う。
先日も、長野県の諏訪湖へ行ってきた。
そのときも、そうだ。

どちらか一方が先に死んだら、この場所を思い出の場所にするのだろうか、と。
つまりワイフが先に死んだら、私は、ワイフとの思い出をたどるために、
ここへ再び来るだろうか、と。

しかしそれはないと思う。
訪れるとしたら、若いときにいっしょに行った場所のほうがよい。
八丈島かもしれない。
香港かもしれない。

さらに同じ旅行でも、若いときにする旅行と、そして今する旅行は、中身がちがう。
楽しむといっても、今は、心を開いて楽しむことができない。
が、悪いことばかりではない。

同じ景色でも、「二度と見ることはないだろうな」と思うだけで、深みがちがう。
若いときは、どこへ行っても、食い散らすようにして、思い出を粗末にした。
むしろそういうときの自分のほうが、愚かに見える。

●息子たちへ

道が明るい未来へとつづく、青春時代。
しかし老後は、その道が、すべて先細り。
さらにその先は、闇に包まれている。

2週間ほど前も、東京の出版社が、ある企画を提示してくれた。
20代、30代のころの私なら、それを小躍りして喜んだことだろう。
しかし、今は、もうない。
そういう喜びが、わいてこない。
「どうぞ、ご勝手に」と。
そんな気分で企画の説明を受けた。

……などなど。
今、母のメモ帳を読みながら、私がしていることもまた、同じような運命を
たどることを知る。
いつかだれか、今、ここに書いていることを読むかもしれない。
私が死んだあとに、だ。
息子たちのうちのだれかかもしれない。
孫たちのだれかかもしれない。

が、だれであるにせよ、私は、こう伝えたい。

私が書いている文章を読んで、「あのパパも、結構、孤独だったんだなあ」とか、
「さみしさと懸命に闘っていたのだなあ」とか、そんなふうには思ってほしくない。
私は私なりに、けっこう、楽しく過ごしている。
見た目には、朗らかで、明るい。
だからこの文章を読んで、自分たちの老後を、暗く、つらいものとは考えてほしくない。
むしろ逆。
私は、すでに、死ぬ準備を始め、死ぬ覚悟を作りつつある。
「死ぬ準備」とか、「死ぬ覚悟」とか書くと、悲壮感がただよう。
が、実際には、そうではない。
あえて言うなら、「満足感」ということになる。
そう、満足感だ。
その満足感が、「死ぬ準備」や「死ぬ覚悟」につながっている。

言い換えると、私は、自分の人生を思う存分、自由に生きた。
今も生きている。
何も思い残すことはない。
あるいは私は、私が生きた以上の人生を、ほかに生きることができただろうか。
私はやるべきことはした。
できることはした。
不完全でボロボロだったかもしれないが、そして息子たちからみれば、いやな
父親だったかもしれないが、それが「私」ということになる。

で、できれば、息子たちも、(孫たちも)、そう生きてほしい。
いつも前向きに!

息子たちよ、孫たちよ、
元気で、暮らせ。
私は母のメモ帳を読みながら、「ああしてやればよかった」「こうしてやればよかった」と
思った。
しかしお前たちは、そんなふうに思う必要はない。
私は、私の母とは、ちがう。
ちがうぞ!
……いらぬ節介かな?


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●行方不明

先日、高校の同窓会の事務局から、通知が届いた。
その中に、10名ほどの名前が記してあり、「現住所などを知っていたら、知らせて
ほしい」とあった。
要するに、「行方不明だから、知っていたら、教えてくれ」と。

うち、数名は、私がよく知っていた人たちであった。
(今は、知らないが……。)

で、おかしなもので、住所のわかっている人よりも、そういう人たちの
ほうが、気になる。
「どこで、どうしているのか」と。
そういう点では、住所には住所としての意味がある。
住所を知っているというだけで、安心感を覚える。

で、本気で調べれば、私にも、わかる。
その人たちがいた会社や、属していた団体を、知っている。
そういう会社や団体を通して聞けば、わかる。
電話連絡だけで、わかる。
しかしどうも、そこまでする気にはなれない。
なぜだろう?

私がそれを知って、同窓会の事務局へ伝えたところで、それがどうだというのか。
それでどうこうなるわけでもない。
ひょっとしたら、その人たちも、あえて知られたくないところにいるのかもしれない。
あるいはそれぞれには、それぞれの深い思いというものが、ある。
そっとしておいてやることのほうが、大切(?)。
それがまた、思いやりというものかも、しれない。

(付記)

その中の1人に、Mさんという女性がいた。
私の郷里でも、かなり裕福な家庭に生まれ育った人である。
当時、自家用車で学校へ来ていた人は、彼女だけだった。
が、その家は、そのあと15、6年で、没落。
彼女の父親が経営していた会社も、倒産した。
その前後に、母親が他界したという話も聞いている。
同窓生の話では、それがショックで、Mさんは、ある
宗教団体に身を寄せることになったという。
狂信的な宗教団体として知られるカルト教団である。
が、そこで行方不明(?)。

私なら……という言い方はおかしいかもしれないが、
私なら、そんなことは気にしない。
仮に実家が倒産しても、それはそれ。
(だからといって、それを気にしてMさんが、同窓会との
連絡を絶ったということではない。誤解のないように。)
どこかの宗教団体に身を寄せたからといっても、それもそれ。
同窓会とは、関係ない。

しかしなぜ、連絡を絶ったのだろう?
連絡を取り合っている友だちはいないのだろうか?
その友だちが、なぜ同窓会の事務局に連絡をしてやらないの
だろうか?

いろいろな思いが、頭の中をかけめぐる。
が、この話は、ここまで。
やはり、そっとしておいてやるのが、いちばん、よい。
同窓会の事務局も、あえて住所を調べる必要もないのでは
ないか。
それが私の今の、率直な気持ちである。
というのも、私自身もいつもワイフや息子たちにこう言って
いる。

「ぼくが死んでも、たとえ兄弟、親類であっても、
知らせるな」と。


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*As-so Prime Minister of Japan *Prof. Kenzi Tamaru

●ア・ソ総理大臣
(Our very honorable Prime Minister of Japan, Mr. Taro Aso, has been to USA to meet with Mr. President of USA but in vain. We really would like to request him to resign from the Post for the sake of Japan. He speaks very un-understandable English as well as broken Japanese. He is a very poor Japanese speaker and has less knowledge and ability of reading of the Chinese characters. Now only 11% of the Japanese support him, on the contrary nearly 80% of the Japanese say “No” to him. How come can such a man be a Prime Minister of Japan? Only wise men can know he himself to be stupid. But stupid men cannot know it. We know to which side he belongs. We are very much ashamed of him.)

++++++++++++++++++

この原稿は、マガジン3月30日用。
その3月30日に、ア・ソ総理大臣は、
まだ総理大臣をしているのだろうか。

さっそく日米会談の模様がインターネット・
ニュースとして配信されているが、
「成果なし」(2月25日、ヤフー・
ニュース)、「象徴的意味しかない」(カルフォルニ大・
エリス・クラウス教授)とのこと。
毎日新聞は「空振り」と表現している。

通常ならあるはずの、共同記者会見も、
昼食会も、なし。
へたくそな英語でしゃべるから、
公式の会議録には、「記録不能」の
文字が並んだとか(同・ニュース)。

先日の日露首脳会談でも、そうだった。
ア・ソ総理大臣よ、もうおやめください。
これ以上、日本の恥を世界にさらさないで
ください。

心から、お願いします。

+++++++++++++++++++

どうしてあんな男が、総理大臣をしているのだろう?
おおかたの日本人は、今、そう思っている。
調子づいて得意の書道を披露したまではよかったが、
漢字の(廿)をまちがえた。
調子づいて得意の英語をしゃべってみたが、「記録不能」。
だいたい日本語だって、おかしい。
が、当の本人は、「解散しない」と。
どこまで権力にしがみつくつもりなのだろう。

今回の日米首脳会談についても、アメリカのマスコミは、
「1時間の会談のために、1万1000キロ」(CNN)と皮肉っている。
つまり無駄な会談だった、と。

であるなら、今度の日米首脳会談は、だれが企画したのか?
まさかア・ソ首相が、ねじり込んだというわけでもないだろう。
そう信じたいが、しかしア・ソ首相の思考回路からすると、ありえない話ではない。
功名をあせるあまり、ねじり込んだ。

毎日新聞は、こういう裏話を披露している。
「打診」という部分に注目してほしい。
いわく、『外務省関係者によると、日本側は会談後に両首脳による共同記者会見を打診。AS首相の政権浮揚につながるとの思惑などからだが、空振りに終わった。大統領との昼食会も議会演説を控えた「繁忙なスケジュール」(米側)に押され、かなわなかった』と。

最後の望みの綱(?)は、K国のテポドン2号。
この数日中に発射される可能性が、ぐんと高くなった。
もし発射されるようなことがあれば、ア・ソ総理大臣は、
それを口実に、またまた権力の座に居座るつもり(?)。
「極東アジアを守るのは、私の責務」とか、何とか言って……。
意図は、見え見え。

アメリカの新聞各紙も、「権力維持のため、苦労している」と、
つぎのように伝えている(時事通信)。

『(アメリカの)新聞各紙は「AS首相の支持率は1ケタに落ち込み、政治的に防戦を強いられている」(ワシントン・ポスト)、「国民に非常に不人気で権力維持に苦闘している」(ボストン・グローブ)と指摘。海外向けラジオ放送ボイス・オブ・アメリカは「多くの国民は次の総選挙で自民党が過半数を維持できないと信じている」と伝えた』と。

ちゃんと見ている人は、見ている!
日露首脳会談も、日米首脳会談も、結局は、みんな、名聞名利のため。
国家的な必要性があったわけではない。

ところでどうして「麻生」が、「ア・ソ」かって?
その意味が知りたかったら、近くの外人に、こう言ってみたらよい。
「アッ、そう」と言うつもりで、「アッ・ソァ」と。
「ア」の音は、やや英語なまりに、「ア」と発音するのがよい。
ただしそのあと、その外人に殴られても、私は責任を取らない。

(補記)
麻生総理大臣のすることなすこと、すべて裏目、裏目と出てきている。
それはつまり、それがそのまま麻生総理大臣自身の人間性の表れとみてよい。
もともと国民に選ばれた総理大臣ではない。
国盗り物語よろしく、謀略に謀略を重ねて、今の地位についた。
その醜さを、日本人のみならず、今、世界中の人たちが感じている。

賢い人には、自分のバカさかげんがわかる。
しかし愚かな人には、それがわからない。
麻生総理大臣が、国民に、「おバカ宰相」(週刊B春)と呼ばれている理由は、
そんなところにもある。

(補記)
どんな職業にも、「資格」というものがある。
何かの国家試験の合格にせよというのではない。
ただ最低限の健康診断だけは、受けるべきではないか。
とくに脳の検査だけは、しっかりとやってほしい。
総理大臣にもなるような人だから、まさかとは思いたいが、
麻生総理大臣の言動には、首をかしげたくなるようなことが多い。
麻生総理大臣がそうというわけではないが、頭のおかしな人に、
国政を運営されたら、それこそこの日本は、たいへんなことになる。
麻生総理大臣も、一度、自ら進んで、脳の検査を受けてみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●田丸謙二先生

+++++++++++++++++++++++++

ワイフが、「今月も、あと2日ね」と言った。
「?」と思っていると、「今月は、28日までしかないから」と。

ところで、今度の「歩こう会」では、鎌倉の建長寺から八幡宮まで
歩くことになっている。
さっそく、鎌倉の田丸謙二先生に連絡を入れる。
「先生の縄張りを荒らしますから、よろしく」と。
それに答えて、「4月に人工関節を入れる」とのこと。
プラス、「久しぶりだから、ゆっくりしていってください」という返事を
もらった。

帰りのバスの時刻もあるから、そうはいかないが、うれしかった。
プラス、先生に会うのが楽しみ。

先生と出会って、もう39年になる。
長いつきあいになった。
その間に、いろいろあった。
話し出したら、いつもたがいに、口が止まらない。

いつだったか、「ぼくは、東大で最年少で教授になった」と
話してくれたのを覚えている。
田丸謙二先生は、30代の若さで、東大の教授になった。
田丸謙二先生というのは、そういう先生である。

+++++++++++++++++++++++

●頭のよい人

頭のよい人というのは、いる。
たしかに、いる。
しかし悲しいかな、私のような頭では、その人の頭のよさはわからない。
つまり頭のよい人からは、頭の悪い人がわかる。
頭の悪い人からは、頭のよい人がわからない。

一般的に言えば、頭の悪い人というのは、自分では悪いとは思っていない。
先日も、どこか認知症ぽい女性(65歳)と話していたときのこと。
回りくどいことを、何度も繰り返して言った。
で、私が、「ぼくは、そんなバカじゃないと思います」と言ったら、
何がカンに触ったのが、突然、金切り声をあげて、こう言った。
「私だって、バカではありません!」と。

同じようなことは、子どもの世界でもよく見られる。
少し前だが、私がふと、「今度、大阪市で講演をすることになった」と言った
ときのこと。
1人の女子中学生が、ジロッと私を見て、こう言った。
「どうして、あんたなんかが……?」と。

さらに昔。
かなりの問題児(小3男児)がいた。
わがままで、自分勝手。
手がつけられなかった。
そのことを母親に告げようとしたら、その母親は、こう言った。
「あんたは、だまって、息子の勉強だけをみてくれればいい」と。

いろいろある。
あるが、私は、他人には、よほどのバカに見えるらしい。
(自分でも、バカだと思っているから、しかたないが……。)

この日本では、小さな子どもまで、人を、その地位や肩書きで判断する。
地位や肩書きがあれば、ペコペコする。
そうでなければ、そうでない。
しかし私が、こうまで無宿者で生きているかといえば、それには
理由がある。

こんな話をしても、信じてもらえないかもしれないが、真実を話す。

私がそのあと、「ひとりで生きてやろう」と考えたのは、田丸謙二先生に
出会ったからである。
頭のよい人には、たくさん出会った。
が、田丸謙二先生のときは、明らかにちがった。
「とても、この人には、かなわない」と思った。
私が人生で、敗北感を味わったのは、後にも先にも、田丸謙二先生に出会った
ときだけだった。
つまり田丸謙二先生は、今でもそうだが、それくらい頭がよかった。

だから私は、こう決心した。
「私ひとりくらい、無肩書きで生きてやろうではないか」と。
なぜそう決心したかはわからないが、今にして思うと、猛烈なライバル心が
そう思わせたのではないか。

ということで、以後、地位や名誉には、あえて背を向けた。
いろいろな話はあったが、すべて断った。
いくらがんばっても、30代で東大の教授になることなど、私には
できるはずもない。
ないから、最初から、あきらめた。
つまり私がしたいことは、すべて田丸謙二先生が、してみせてくれた。
だから私は、私で、別の人生を歩いてみたい、と。
今、こんな話をしても、だれも信じてくれない。
しかし事実は事実。

で、あのメルボルン大学で、田丸謙二先生と寝食を共にできたことは、
私にとって、人生最大の幸運だった。
田丸謙二先生が、私の人生の方向性を作ってくれた。
その先生に、また会う。

長い長い39年だったが、同時に、あっという間の39年だった。

(補記)
田丸謙二先生が、群馬県のどこかの温泉に行ったときのこと。
旅館のみなが、田丸謙二先生を、中曽根元首相と見まちがえたとか。
田丸謙二先生がどんな顔の人かは、このエピソードでわかると思う。

……そういえば、数年前、浜北市(浜松の北にある町)で、
いっしょに食事をしたときも、店長に、「中曽根さんですか?」と聞かれた。
私は似ていないと思うのだが、たまに会う人には、そう見えるらしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

Wednesday, February 25, 2009

*What is the "Parents" to Sons or Daughters *Liberization of Education

●親論



●親を美化する人



 だれしも、「親だから……」という幻想をもっている。あなたという「親」のことではない。あなた
の「親」についてで、ある。



 あなたは自分の親について、どんなふうに考えているだろうか。「親は、すばらしい」「親だか
ら、すべてをわかっていてくれるはず」と。



 しかしそれが幻想であることは、やがてわかる。わかる人には、わかる。親といっても、ただ
の「人」。ただの人であることが悪いというのではない。そういう前提で見ないと、結局は、あな
たも、またあなたの親も、苦しむということ。



 反対に、親を必要以上に美化する人は、今でも、多い。マザーコンプレックス、ファーザーコ
ンプレックスをもっている人ほど、そうだ。それこそ、森進一の『♪おふくろさん』を聞きながら、
毎晩のように涙を流している。



 つまりこのタイプの人は、自分のコンプレックスを隠すために、親を美化する。「私が親を慕う
のは、それだけ、私の親がすばらしいからだ」と。



●権威主義



 もともと日本人は、親意識が強い民族である。「親は絶対」という考え方をする。封建時代か
らの家(先祖)意識や、それにまつわる権威主義が、それを支えてきた。たとえば江戸時代に
は、親から縁を切られたら、そのまま無宿者となり、まともに生きていくことすら、できなかっ
た。



 D氏(五四歳)は、近所では、親思いの、孝行息子として知られている。結婚して、もう三〇年
近くになるが、今でも、給料は、全額、母親に渡している。妻もいて、長女もすでに結婚したが、
今でも、そうしている。はたから見れば、おかしな家族だが、D氏自身は、そうは思っていない。
「親を粗末にするヤツは、地獄へ落ちる」を口グセにしている。



 D氏の妻は、静かで、従順な人だった。しかしそれは、D氏を受け入れたからではない。あき
らめたからでもない。最近になって、妻は、こう言ってD氏に反発を強めている。「私は結婚した
ときから、家政婦以下だった。私の人生は何だったの。私の人生を返して!」と。



 自分自身が、マザーコンプレックスにせよ、ファーザーコンプレックスにせよ、コンプレックス
をもつのは、その人の勝手。しかしそれを妻や子どもに、押しつけてはいけない。



 D氏について言えば、「親は絶対!」と思うのは、D氏の勝手。しかしだからといって、自分の
妻や子どもに向って、「自分を絶対と思え」「敬(うやま)え」と言うのは、まちがっている。が、D
氏には、それがわからない。



●親を見抜く



 まず、親を見抜く。一人の人間として、見る。しかしほとんどの人は、この段階で、「親だから
……」という幻想に、振りまわされる。とくにマザーコンプレックス、ファーザーコンプレックスの
強い人ほど、そうである。



 かりに疑問をもつことはあっても、それを自ら、否定してしまう。中には、他人が、自分の親を
批判することすら、許さない人がいる。



 U氏(五七歳)がそうである。



 U氏の父親は、数年前に死んだが、その父親は、金の亡者のような人だった。人をだまし
て、小銭を稼ぐようなことは朝飯前。その父親について、別の男性が、「あんたの親父(おやじ)
さんには、ずいぶんとひどい目にあいましたよ」と、こぼしたときのこと。U氏は、猛然とその男
性にかみついた。それだけではない。「あれは、全部、私がしたことだ。私の責任だ。親父の悪
口を言うヤツは、許さん」と。そのとき、そう言いながら、その男性の胸を手でつかんだという。



 U氏のような人にしてみれば、そういうふうに、父親をかばうことが、生きる哲学のようにもな
っている。私にも、ある日、こう言ったことがある。



 「子どもというのは、親から言葉を習うものです。あなただって、親から言葉を習ったでしょう。
その親を粗末にするということは、人間として、許されないことです」と。



 「親を見抜く」ということは、何も「粗末にする」ことではない。親を大切にしなくてもよいというこ
とでもない。見抜くということは、一人の人間として、親を、客観的に見ることをいう。つまりそう
することで、結局は、今度は、親である自分を知ることができる。あなたの子どもに対して、自
分がどういう親であるかを、知ることができる。

 

●きびしい親の世界



親であることに、決して甘えてはいけない。つまり、親であることは、それ自体、きびしいことで
ある。



マザーコンプレックスや、ファーザーコンプレックスが悪いというのではない。えてして、そういう
コンプレックスをもっている人は、その反射的作用として、自分の子どもに対して、同じように考
えることを求める。



 そのとき、あなたの子どもが、あなたと同じように、マザーコンプレックスや、ファーザーコンプ
レックスをもてば、よい。たがいにベタベタな関係になりながら、それなりにうまくいく。



 しかしいつも、そう、うまくいくとは、かぎらない。親を絶対化するということは、同時に親を権
威化することを意味する。そして自分自身をまた、親として、権威づけする。「私は、親だ。お前
は、子どもだ」と。



 この権威が、親子関係を破壊する。見た目の関係はともかくも、たがいの心は、離れる。



●親は親で、前向きに



 親は親で、前向きに生きていく。親が子どものために犠牲になるのも、また子どもが親のた
めに犠牲になるのも、美徳でも何でもない。親は、子どもを育てる。そしていつか、親は、子ど
もの世話になる。それは避けられない事実だが、そのときどきにおいて、それぞれは、前向き
に生きる。



 前向きに生きるというのは、たがいに、たがいを相手にせず、自分のすべきことをすることを
いう。かつてあのバートランド・ラッセルは、こう言った。「親は、必要なことはする。しかしその
限度をわきまえろ」と。



 つまり親は、子どもを育てながら、必要なことはする。しかしその限度を超えてはならない、
と。このことを、反対に言うと、「子どもは、子どもで、その限度の中で、懸命に生きろ」というこ
とになる。また、そうすることが、結局は、親の負担を軽減することにもなる。



 今、親の呪縛に苦しんでいる子どもは、多い。あまりにも、多い。近くに住むBさん(四三歳、
女性)は、嫁の立場でありながら、夫の両親のめんどうから、義理の弟の子どものめんどうま
で、押しつけられている。義理の弟夫婦は、今、離婚訴訟の最中にある。



 Bさんの話を聞いていると、夫も、そして夫の家族も、「嫁なら、そういうことをするのは、当
然」と考えているようなフシがある。Bさんは、こう言う。



 「(義理の)父は、長い間、肝臓をわずらい、週に二回は、病院通いをしています。その送り迎
えは、すべて、私の仕事です。(義理の)母も、このところ、さらにボケがひどくなり、毎日、怒鳴
ったり、怒ったりばかりしています。



 そこへ、(義理の)兄の子どもです。今、小学三年生ですが、多動性のある子どもで、一時間
もつきあっていると、こちらの頭がヘンになるほどです」と。



 こうしたベタベタの関係をつくりあげる背景に、つまりは、冒頭にあげた、「幻想」がある。家
族は、その幻想で、Bさんを縛り、Bさんもまた、その幻想にしばられて苦しむ。しかしこういう
形が、本当に「家族」と言えるのだろうか。またあるべき「家族」の姿と言えるのだろうか。



●日本の問題



 日本は、今、大きな過渡期を迎えつつある。旧来型の「家」意識から、個人型の「家族」意識
への変革期にあるとみてよい。家があっての家族ではなく、家族あっての家という考え方に、変
りつつある。



 しかし社会制度は、不備のまま。意識改革も遅れている。そのため、今、無数の家々で、無
数の問題も、起きている。悲鳴にも近い叫び声が聞こえている。



 では、私たちは、どうしたらよいのか。またどうあったらよいのか。



 私たちの親については、しかたないとしても、私たち自身が変ることによって、つぎの子ども
たちの世代から、この日本を変えていかねばならない。その第一歩として、私たちがもっている
幻想を捨てる。



 親子といえども、そこは純然たる人間関係。一対一の人間関係。一人の人間と、一人の人間
の関係で、成りたつ。「親だから……」と、親意識をふりかざすことも、「子どもだから……」と、
子どもをしばることも、これからは、やめにする。



 一方、「親だから……」「子どもだから……」と、子どもに甘えることも、心して、最小限にす
る。ある母親は、息子から、土地の権利書をだましとり、それを転売してしまった。息子がその
ことで、母親を責めると、母親は、平然とこう言ったという。「親が、先祖を守るため、息子の財
産を使って、何が悪い!」と。



 こういうケースは、極端な例かもしれないが、「甘え」も、行き着くところまで行くと、親でも、こ
ういうものの考え方をするようになる。



 もちろん子どもは子どもで、その重圧感で悩む。その息子氏とは、この数年会っていないの
で、事情がわからないが、最後にその息子氏は、私にこう言った。「それでも親ですから……」
と。息子氏の苦悩は、想像以上に大きい。



 さてあなたは、その幻想をもっていないか。その幻想で苦しんでいないか。あるいは、その幻
想で、あなたの子どもを苦しめていないか。一度、あなたの心の中を、のぞいてみるとよい。

(031227)



【追記】



 正月が近づくと、幼児でも、「お正月には、実家へ帰る」とか言う子どもがいる。しかし「実家」
とは何か? もし祖父母がいるところが、実家なら、両親のいるところは、「仮の家」ということ
になる。



 家族に、実家も、仮の家もない。こうした、封建時代の遺物のような言い方は、もうやめよう。



 農村地域へ行くと、「本家(屋)」「新家(屋)」という言い方も残っている。二〇年近くも前のこと
だが、こんなことを言った母親がいた。「うちは、あのあたりでも、本家だから、息子には、それ
なりの大学に入ってもらわねば、世間体が悪いのです」と。



 日本人の意識を「車」にたとえるなら、こうした部品の一つずつを変えていけないと、車の質
は変わらない。









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19



●基底不安



 何をしていても、不安。仕事をしていても、不安。遊んでいても、不安。寝ていても、不安。家
族といても、不安。友だちといても、不安。……そういう人は、少なくない。世間では、こういう人
を、不安神経症というらしいが、「根」は、もっと深い。



 乳幼児期の母子関係が不全だと、子どもは、生涯にわたって、ここでいう「不安を基底とした
生き方」をするようになる。これを「基底不安」という。この時期、子どもは、母親との関係にお
いて、絶対的な安心感を学ぶ。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。



 この絶対的安心感が、何らかの問題があって不足すると、子どもの心は、きわめて不安定な
状態に置かれる。心はいつも緊張した状態に置かれ、それが原因で、子どもの情緒は不安定
になる。それだけではない。この安心感があってはじめて、子どもは、自分のすべてをさらけ出
すことを学ぶ。そしてそれが、それにつづく人間関係の基本になる。



 このさらけ出しのできない子どもは、少なくない。自分をさらけ出すことに、大きな不安を覚え
る。「相手によく思われているだろうか」「相手は、自分のことを悪く思わないだろうか」「どうす
れば、自分は好かれるだろうか」「自分は、いい人間に見えるだろうか」と、そんなふうに考え
る。



 子どもでいえば、不自然なほど、愛想がよくなったり、反対に仮面をかぶったりするようにな
る。さらに症状が悪化すると、心の状態と顔の表情が遊離し、いわゆる何を考えているかわか
らない子どもになる。これに強いショックが加わると、多重人格性をもつこともある。



 うれしいときには、うれしそうな顔をする。怒ったときには、怒った顔をする。何でもないことの
ようだが、感情の表現が、すなおで、自然ということだけでも、子どもの心は、まっすぐに育って
いることを示す。



 一方、子どもの世界、とくに乳幼児期において、無表情というのは、好ましくない。うれしいは
ずなのに、どこかぼんやりとしている。同年齢の子どもと会っていても、反応を示さない。感情
表現がとぼしく、どこかヌボーッとしている、など。



 親は、「生まれつき、こうです」と言うが、そういうことは、あ・り・え・な・い。たいていは親の神
経質な育児姿勢、過干渉、過関心、威圧、暴力、暴言が、原因で、そうなる。親の短気、情緒
不安が、原因で、そうなることもある。



 子どもが、〇歳~二歳の間は、絶対に子どもを怒鳴ってはいけない。おびえるほどまで、子
どもを叱ったり、威圧したりしてはいけない。無理な訓練や、学習をさせてはいけない。この時
期、必要なのは、暖かい愛情に包まれた、心豊かな人間関係である。親の立場で言うなら、た
だひたすら、がまん。忍耐。そしてあふれんばかりの、愛情である。



 この時期は、子どもを伸ばすことは、あまり考えなくてもよい。子どもの心を、つぶさないこと
だけを考える。どんな子どもも、すでに伸びる芽をもっている。あとは、それに『灯をともして』、
それを『引き出す』だけ(欧米の常識)。



 少子化のせいなのか? 今、子育てで失敗する親が、あまりにも多い。手をかける。時間を
かける。手間をかける……。それ自体は悪いことではないが、神経質な育児姿勢が、かえって
子どもの伸びる芽をつんでしまう。子どもの「私は私」という意識までつぶしてしまうこともある。



 この時期、一度、子どもの自信をつぶしてしまったら、もう、あとは、ない。生涯、ハキのな
い、ナヨナヨとした子どもになってしまう。自ら、「私はダメ人間」というレッテルを張ってしまい、
伸びることをやめてしまう。そういう状態に、子どもを追いこんでおきながら、「どうして、うちの
子は、ハキがないのでしょう」は、ない。「どうすれば、もっとハキハキする子どもになるでしょう
か」は、ない。



 子育てには、失敗はつきもの。しかし失敗してからはでは遅い。なおそうと考えても、その数
倍、あるいは数一〇倍の努力とエネルギーが必要。しかし、実際には、それはもう不可能。



 話がそれたが、この基底不安にしても、乳幼児期につくられ、それはその人を、ほぼ一生に
わたって、支配する。外から見ただけではわからないし、またこのタイプの人ほど、その不安と
戦うことで、その道では成功者となることが多い。そのため、まわりの人は、それこそ「ただの
不安神経症」と、安易に考えやすい。



 しかしその人自身は、生涯にわたって、その不安から解放されることはない。人と交わって
も、心を開けないなど。中には、家族にさえ、心を開けない人もいる。不幸かそうでないかとい
うことになれば、これほど、不幸なこともない。



 もしあなたが、ここでいう、不安を基底とした生き方をしているなら、その「根」は、あなた自身
の乳幼児期にある。まず、それを知る。そしてそれがわかれば、こうした不安感を消すことはで
きないにしても、コントロールすることは、できるようになる。



 どんな人でも、一つや二つ、こうした心の問題をかかえている。ない人は、いない。あとは、そ
れに気づき、仲よくつきあえばよい。

(031231)









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20



●日本の教育改革



公立小中学校・放課後補習について



 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大
学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度から
導入した。



 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環で、
全国でモデル校二〇〇~三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指導を
行う」(読売新聞)という。



「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつませる一石二鳥の効果をめざす」と
も。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくするのがねらいだという。具体的には、つ
ぎのようにした。



 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、①授業の理解が遅れている児童、生徒に
対する補習を行う、②逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々の学力
に応じて指導した。



 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗しつつある。理由は、現場の教師な
ら、だれしも知っている。順に考えてみよう。



第三、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、昔か
ら「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに残り勉強を課するが、
子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強をします」と告げただけで泣き出す子
どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、
なおさらである。残り勉強が、子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためであ
る。



第四、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間で、パニ
ックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」と。あるいはかえって
受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度の中で、「優秀」というのは、「受験
勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという
問題が、同時に起きてくる。



 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりかえない
でほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」なのだ。どうし
てそういうウソをつく! 



新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減された。わかりやすく言えば、今まで小学四年
で学んでいたことを、小学六年で学ぶことになる。しかし一方、私立の小中学校は、従来どおり
のカリキュラムで授業を進めている。



不利か不利でないかということになれば、公立小中学校の児童、生徒は、決定的に不利であ
る。だから親たちは心配しているのだ。



 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高
校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 「東
京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限りいませ
んよ」と。



こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の改革(?)に不信感をい
だき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単なことが、わからない!



 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆる
天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁の中で
もダントツに多い。



文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩くことによって、死ぬまで優雅な生
活を送れる。……送っている。そういう特権階級を一方で温存しながら、「ゆとり学習」など考え
るほうがおかしい。



この数年、大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかというところ
にメスを入れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。ああ、私だって、この年齢になっ
てはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死ぬまで就職先と、年金が保証さ
れている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいやというほど、思い知らされてい
る。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はいつも失敗する。



 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を支配
する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、すべてボ
ロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。



その教育改革にしても、ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は
自由選択制の単位制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体に
カリキュラム、指導方針など任せればよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(ア
メリカ)。いくらでも見習うべき見本はあるではないか!



 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オースト
ラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしている。しか
し検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検定してはいけ
ないしくみになっている。



世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入学後
の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。学科はもち
ろんのこと、学部のスクラップ・アンド・ビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯事。なのになぜ日本
の文部科学省は、そうした自由化には背を向け、自由化をかくも恐れるのか? あるいは自分
たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにもこわいのか?



 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改革」と
いうよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに日本の教育は
にっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年を待たずして、その教
育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最低になる。小中学校や高校
の話ではない。大学教育が、だ。



 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとんど勉強
などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。



その文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部系の学生と、教
育学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。
いわんや私立大学の学生をや!



そういう学生が、小中学校で補習授業とは! 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な
光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制
度そのものも、日本の場合、疲弊している!



 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受
験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の
学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。



内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇
〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。



 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 



日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。



「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西
村和雄氏)(※2)だそうだ。



 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。



オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大でも、たったの一人。ちなみにアメリカだけでも、二
五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。



 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。



(9)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)

(10)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)

(11)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)

(12)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)

(13)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)

(14)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)

(15)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。

(16)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。



 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。



この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよいほ
ど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温
床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教
育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することにな
る。



 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。



ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカでは、すでに教師のインターン制度を導入し
て、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。オーストラリアでは、父母の教育補助制度を導
入して、二〇年以上になる(南オーストラリア州ほか)。



大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもしれないが、
こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言うような改革ではない。



で、ここにあげた(1)~(8)の改革案にしても、日本人にはまだ夢のような話かもしれないが、
こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日はない。日本に明日はない。なぜなら日本の
将来をつくるのは、今の子どもたちだからである。



(※1)

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学
生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オ
ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポー
ルに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。



この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。



ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。



で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。



この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。



 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。



同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二
〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子
どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろう
が、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。



少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、も
はや幻想でしかない。



+++++++++++++++++++++



(※2)

 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。



調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平
均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年
生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。)

(040105改)









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21

●民主主義の原点(The Principle of the democracy?)



++++++++++++++



国あっての民なのか、民あっての

国なのか。



(Should the people be existed before the government?

Or should the government be existed before the people?)



日本では、国あっての民と考える。

しかしそれは民主主義の原点では

ない。



In Japan we think people are existed because the government is existed.

But this is not a common sense of the world.



トーマス・ペインの有名な文章を

紹介する。



Here I introduce Thomas Paine's artcle about the Democracy.



++++++++++++++



Thomas Paine said it best.



"It has been thought," he wrote in The Rights of Man in 1791, "…that government is a
compact between those who govern and those who are governed; but this cannot be true,
because it is putting the effect before the cause; for as man must have existed before
governments existed, there necessarily was a time when governments did not exist, and
consequently there could originally exist no governors to form such a compact with. The
fact therefore must be, that the individuals themselves, each in his own personal and
sovereign right, entered into a compact with each other to produce a government: and this
is the only mode in which governments have a right to arise, and the only principle on which
they have a right to exist."



1791年にトーマス・ペインは、「人間憲章」の中で、つぎのように書いている。



「政府(=国)は、統治するものと、統治されるものの協約であると考えられてきた。しかしこれ
は事実のはずはない。なぜなら因果関係が、逆だからである。人間は、政府が存在する前に
すでに存在していた。政府が存在しなかった時代が、必然的にあった。このような協約のある
統治者はもともといなかった。それゆえに、それぞれが不可侵の権利をもった個人そのものが
存在し、それがそれぞれに協約を結び、政府を生み出した。そしてこのようなムードの中で、政
府は立ち上がる権利を擁し、またそれだけが政府が存在する権利をもつところの原則である」
と。



しかしいまだに、「国にあっての民」と考えている人は多い。さらに引き下がって、「家あっての、
家族」と考えている人も多い。ついでに言えば、「親あっての、子」と考えている人も多い。よい
例が、一家心中である。



(In Japan, even still now many people think that we can exist because the government
existes before people. Similarly at the same time families can exist because the "House"
exists before the families. And also children can exist because Parents exist before the
children. Take up "Family Suiside".)



死にたければ親だけが死ねばよい。子どもを巻き添えにするとは、卑怯だ! 子どもには子ど
もの人生がある。命がある。



(Why should children be involved in the Family Suicide in Japan? If you want to kill yourself,
you only kill yourself. Don't get children be involved in the Family Suicide in any case, since
children themselves have right to live and life and the right to exisit?)



家族にしても、そうだ。江戸時代という封建時代ならいざ知らず、今どき、「家」のために家族が
犠牲になるなんて、バカげている。さらに言えば、民あっての、国である。それが民主主義の原
点である。



(Also as the the "House", we are not living in the world of feudal age called "Edo-Period"
and therefore it may be stupid for each member of the families sacrifice for the house.
Moreover the government can exist because we, the people, exist before the government.
This is the principle of the democracy.)



それとも日本は、今、この場に及んで、王政復古を成し遂げようとしているのか? 「武士道こ
そ、日本が誇るべき、精神的根幹である」と説く人がいる。そういった内容の本が、100万部
単位で売れている。



(Or are we about to repeat again the Restoration? It is very sad thing to know that more
people worship the Knight-ship (Samurai soldiers) and their spitits, saying "This is Japan",.
Millions of books on this are being sold in Japan.)



それはそれで結構なことだが、封建時代の負の側面、負の遺産に目をくれることなく、一方的
に武士道なるものを礼賛するのも、どうか? こうした動きは、むしろ、民主主義の後退を招く
だけ。



(We should pay attention also together on the dark side of the feudal age and its spitits at
the same time when we worship them. Or it would slow down the pace of Democracy.)



改めて、トーマス・ペインの「人間憲章」を読みなおしてみたい。



(Here again we would like to make sure what Thomas Paine writes in the "The Rights of Man
".

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Democracy in Japan the
principle of the democracy Samurai Spirits samurai soldiers)





Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司





●「国」とは何か?(What is "Kuni"?)



What is "Kuni" in Japanese?

In English "Kuni" is translated into "country", but it doesn't mean "Kuni". It means "Land".
Also when they say "Patriotism", it means "to love our Father's Land". How about "Nation
"? When they say "Nationalism", it is not at all praised or rather despised because in most
cases nationalism causes unwanted and cruel wars.



In the orienatal world, "Kuni" means "My land with my people for the Leader". It is one of
the most difficult word for the western people to understand.



Here again I would like to quote Thomas Paine's "the Rights of Man" to think about the
democracy.



By the way when I searched my name with Yahoo's search Engine, I found some blogs in
which they say, "Hiroshi Hayashi is a communist" or, in another blog, "Hiroshi Hayashi did a
sexual abuse to two girls while he was researching his studies at K. University in Hyogo pref.
" Of course these are lies! I am not a communist or I have never been to K. University
before for my study.



Why are the people criticized like this in Japan, when we talk about the democracy? Do we
really want "the Restoration" again? The government can exist because we exisit as
Thomas Paine said like this "for as man must have existed before governments existed".



Which will you take, "the Government for People" or "People for the Gopvernment"?



We say "Japan is a country of Democracy". But the democracy we know is quite different
one from the democracy they say in the western world. This is the point.



++++++++++++++++++



英語で、「国」というときは、「Country」と

いう言葉を使う。



しかし「Country」というときは、「領土」を

意味する。



また英語で、「愛国心」というときは、

「Patriotism」という。



しかし「Patriotism」という単語は、「父なる

大地を愛する」というラテン語に由来する。



さらに英語には、日本語で言う「国」に近い

単語として、「Nation」がある。しかしこの

「Nation」に、「Nationalism」と、「-ism」が

つくと、狭小な民族主義を意味するようになる。



「Nationalism」というのは、軽蔑されるべき

ものであって、決して賞賛されるべきものでは

ない。



では、日本を含めて、東洋でいうときの「国」

とは何か。



そこで昨日、トーマス・ペインの「人間憲章」

(The Rights of Man)を取りあげてみた。



「国あっての民なのか」「民あっての国」なのか。



同じ民主主義と言いながら、西洋でいう

民主主義と、東洋(日本を含む)でいう

民主主義には、大きなちがいがある。

日本では、「国あっての民」と、ほとんどの

人たちが考えている。



なおこの「人間憲章」が、1791年という年に

なされていることに注目してほしい。今から、

ほぼ200年以上も前のことである。



+++++++++++++++++++



 驚いたことに、ほんとうに驚いたことに、昨日、「幼児教育家」で検索してみたら、この私が、
共産党員(?)と書いてあるBLOGを発見した。いわく「共産党員とは確認されていないが……
その疑いは、濃厚である」と。



 さらに驚いたことに、この私が、「K大学で、幼児研究をしている際、2人の女児にわいせつ
行為を働いた」※というのもあった。



 これらのBLOGには、コメント欄があったので、私は、即刻、削除するよう書いておいた。



 念のため申し添えるが、私は共産党員ではない。選挙のたびに支持政党が変わるので、自
分では、「浮動票の王様」と呼んでいる。自民党にも、公明党にも、民主党にも票を入れる。率
直に言って、共産党に票を入れることは、めったに、ない。



 K大学での研究中に、2人の女児にわいせつ行為を働いたというのは、事実無根もよいとこ
ろ。だいたいK大学(兵庫県、国立大学)には、一度も行っていない。15年ほど前、その大学
から、講師にならないかという話はあったが、それは、断った。



 その上で、もう一度、考えてみたい。



 どうしてこの日本では、民主主義を訴えると、共産党員ということになるのか? 封建主義を
否定し、王政復古に反対すると、どうして共産党員ということになるのか? 何か、まずいこと
でもあるのか? 



 「民あっての国(Governmnet=政府)」などということは、何も、トーマス・ペインの言葉を引用
するまでもなく、当たり前のことではないか。



 日本でいう民主主義は、西洋でいう民主主義とは、まったく異質のものと考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist democracy nationalism
patriotism)



(注※)私のHPのいちばん下、(Hiroshi Hayashi)で検索すると、数ページ目に、この問題のBL
OGがある。興味のある人は、読んでみたらよい。プラス、笑ってほしい。











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22

【教育の自由化】



【教育の自由化】



The liberalization of the education is the tide of the world.



OECDが発表した、全世界の子どもの学力調査の結果を、もう一度、見てほしい。それがつぎ
の表である(06年)。



【世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)】



(読解力)(Reading Ability)



1位  韓国(Korea)

2位  フィンランド(Finland)

3位  香港(Hong-Kong)

……

15位 日本(Japan)



(数学的応用力)(Math Application)



1位  台湾(Twaiwan)

2位  フィンランド(Finland)

3位  香港(Hong-Kong)

……

10位 日本



(科学的応用力)(Science Application)



1位  フィンランド(Finland)

2位  香港(Hong-Kong)

3位  カナダ(Canada)

……

6位  日本(Japan)



++++++++++++++



 この表を見て驚くのは、フィンランドが、どの分野でも、上位1~2位に入っているということ。



 以下、「imidas」(special版、集英社)の記事を、箇条書きに、まとめさせてもらう。



 フィンランドでは、



(1)経済不況の中で、行政改革法を迫られ、規制緩和の方法を選んだ。

(2)中央政府の権限を小さくした。

(3)ほぼすべての権限を現場に渡すことにした。

(4)こうすることで中間管理のコストをさげた。

(5)教科書検定を廃止した。

(6)学校査察も中止した。

(7)政府は教育水準を維持するための情報を提供した。

(8)学校と地方自治体が、カリキュラムを決め、個々の教師が教育方法を決めている。

(9)16歳までは、他人と比較するテストは、行われていない。

(10)教師の仕事は、正解を教えることではなく、学びを支援することである。

(11)フィンランドの教師たちは授業以外に、ほとんど負担がない。

(12)学級定員は、20人程度。(小学校は16人程度)

(13)社会が勉学条件の格差を埋め、ひとりも落ちこぼれをつくらないという教育体制をとって
いる。(以上、要約)



 つづくつぎの段落には、こうある。そのまま抜粋させてもらう(P147)。



「フィンランドの学習理論は、社会構成主義であると説明されている。子どもが置かれた状況に
応じ、自ら意欲をもち、知り得たことや考えで整理したものが知識であるとみなす。したがって、
教育の仕事は、子どもたちが知識を編成していく方法(メタ知識)を育てることだとみなされてい
る」と。



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 教育の自由化については、今まで、何度も、かつ繰りかえし書いてきた。たとえばスペインで
は、社会科の授業にしても、教科書のようなものはない。中学校レベルでも、それぞれの子ど
もに、テーマが与えられる。「あなたはフランス革命について調べなさい」「あなたはトラファルガ
ーの海戦について調べなさい」と。



 子どもたちは、1年をかけて、それを勉強し、1年の終わりに、みなの前で発表する。



 またカナダでは、教師は教室内でのことについてはすべての責任を負うが、子どもが教室を
一歩でも離れたら、いっさい、責任をもたなくてもよいしくみが、すでにできている。学校の設立
も、自由化されている。教える言語についても、不問。(アメリカは、言語は英語にかぎられて
いる。)



 アメリカでは、大学生の学部変更、転籍、転学は、自由である。小学校教育については、学
校ごとに、カリキュラムを編成できるようになっている。公立学校であっても、州政府からの、お
おまかなガイダンスがあるのみ。もちろん日本でいうような「教科書」はない。当然のことなが
ら、「教科書検定」もない。



 これが世界の流れであるということを、私は、何度も書いてきた。訴えてきた。どうして日本人
よ、目を覚まさないのか! 明治以来、富国強兵策の中で作られてきた、「もの言わぬ従順な
民づくり」が、教育ではない! またそれを教育と思ってはいけない!



 こうしたおかしさを、フィンランドの教育が、すべて語っている。今までに書いてきた原稿の中
から、いくつかを選んでみる。まず。スペイン在住の、Iさん(日本人)からのメールを紹介する。
このメールでは、それぞれの子どもがテーマを与えられ、それについて学習している点に、注
目してほしい。



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【スペイン在住のIさんより】



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スペイン在住のIさんより、こんなメールが届きました。



転載許可をいただけましたので、紹介し

ます。



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皆様 お元気ですか。



久しくご無沙汰しています。筆不精で、最近、メールを出していないので、



近況報告方々、メールを書いています。



Y子(娘)はYear 8(中学2年レベル)がもうすぐ終わりで、



期末試験の勉強に追われています。



科目別ですと、historyではフランス革命を勉強しています。日本語でも



難しいテーマを、英語で勉強するのですから、本人も大変です。



Englishはシェークスピアと日本でも話題になったHoles(日本名:穴)



が教科書で、毎日、宿題が結構出るので、日本の通信教育のワークまでなかなか手が回



らないので、日本に戻った時、苦労しそうです。



Y子は最近、コンピューターのマイクロソフトのメッセンジャーで友達と毎日、



チャット(英語、スペイン語、その略語が氾濫していて、



ちょっと大人には解読不能)をするのが日課でかなり、はまっています。



私は友達になったスペイン語の先生と油絵を描きながら、スペイン語を



習っています。



最近(2週間前)、ポール・マッカートニーのコンサートが近くのサッカー場で



あり、家族3人で行ってきました。久しぶりのロック・コンサートで、



盛りあがりました。幸代には初めてのロック・コンサートでしたが、クラスの友達も



大勢、見に来ていました。



ウィングス時代のJetで始まり、半分くらいはビートルズ時代の歌で、



Long and winding road や Hey.Judeなど、感激しました。



コンサートはいわゆるスペイン時間で、始まったのが夜の10時15分で終わったの



は夜中の1時過ぎでした。これはスペインでは普通です。



スペインはとにかく、日本に比べ、2~3時間くらいすべて遅いのです。



今では我が家の夕飯もいつも9時から9時30分くらいです。



郷に入れば、郷に従えです。



早いもので、スペインに来て、もうすぐ3年になります。



6月末で幸代の学校が夏休みに入りますので、私と幸代は7月の中旬に日本に



一時帰国する予定です。



いろいろ予定があるので、会えるかどうか、わかりませんが、



時間があれば、お会いしましょう。



皆様の近況も、メールで教えてくださいね。



ではまた。





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つぎの原稿は、日本人がもつ常識、

とくに教育にもつ常識について

批判的に書いたものです。



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【常識が偏見になるとき】 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。



●日本の常識は世界の非常識



★学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。



日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。



それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。



そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年
調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日
本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職
するまで、最長二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。



そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文
化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話を
します。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。



★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中

高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に
話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアで
はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行
き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。



その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。



※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。



●「自由に学ぶ」



「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。



 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。



 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。



いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。



 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。



 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。

 

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 制度を変えるためには、意識を変えなければならない。ところが教育というのは、なかんずく
教育観というのは、親から子へと、代々と引き継がれるという要素が強い。そこでその意識を
変えるためには、その意識を見直すという作業が必要となる。



 そのもっとも簡単な方法は、日本という国を、一度、外からながめてみること。すると、そのお
かしさが、よくわかる。



 フィンランドの教育法にも、いろいろな問題点があると聞いている。しかし教育の自由かは、
もう世界の流れ。この(流れ)を止めることは、だれにもできない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教育の自由化 自由化 自由な
教育 フィンランド 教育自由化論)





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(付記)



●世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)



(読解力)(Reading Ability)



1位  韓国(Korea)

2位  フィンランド(Finland)

3位  香港(Hong-Kong)

……

15位 日本(Japan)



(数学的応用力)(Math Application)



1位  台湾(Twaiwan)

2位  フィンランド(Finland)

3位  香港(Hong-Kong)

……

10位 日本



(科学的応用力)(Science Application)



1位  フィンランド(Finland)

2位  香港(Hong-Kong)

3位  カナダ(Canada)

……

6位  日本(Japan)



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 この結果を、小学5年生の子どもたち(6人)に話してみた。子どもたちは、読書について話し
始めた。



I talked about this result to some six kids of Grade 5th of school. They started talking about
themselves.



 驚いたことに、その中の2人が、1年に、300冊近くも本を読んでいることを知った。300冊と
いえば、1日に、ほぼ1冊ということになる。



With my surprise I know two of them are reading 300 books per year. Almost one book a day!



 「どうしてそんなにたくさん読むの?」と聞いたら、「学校で、読書競争があるから」と。中に1
人、親から、読書時間を制限されている子どもがいることもわかった。その子どもは、1日に、
1時間までと決められているそうだ。



I asked them why you read so many books a year and one of them told me that there is a
class-competition of reading. Moreover I was surprised to know that one of them is limitied
to read books less than an hour a day!



 読書は、あらゆる学力の基本である。社会科にしても、理科にしても、読書が基本。とくに小
学生のばあい、社会科は、社会科的な国語、理科は、理科的な国語と理解するとよい。



Reading is essential and we say in Japanese "reading is the pillar of education". As for
socioloy and scienace, they are only parts of reading.



 が、それだけではない。



But it is not all.



 読書を日常的にしている子どもには、ある種、独特の(深み)がある。沈思黙考タイプという
か、目つきが、いつも静かに落ち着いている。理知的というか、じっと周囲の様子を観察してい
るといった雰囲気がある。



Those kids who read books in their daily life look different from those who do not. Those kids
who read more books have a kind of a very special mood and they give us an impression of
deep-thinking. They are more logical and even when we do our conversation, they always
try to observe things around them.



 読書がいかに大切かは、今さら言うまでもない。欧米では、読書(reading)を、教育の柱にし
ている。学校教育は、読書に始まり、読書に終わると言っても過言ではない。



It is no use to say that reading is so important. In western world, reading is one of the most
important subject to learn. School education starts from reading and it is everything.



 一方、読書をまったくと言ってよいほど、しない子どももいる。このタイプの子どもは、どこか、
軽い。中身がない。バラエティ番組の中のタレント風といった感じ。ものの考え方が、表面的。
直感的。よくしゃべる。小学5、6年生になると、その差がはっきりとしてくる。



On the contrary there are some who do not read books at all. This type of kids also have a
kind of special mood. They are "light" in thinking and we feel no deepness in their thoughts
just like TV talents of cheap varaiety programs. They talk a lot. The difference comes clear
when they are about the age of thre grade 5th.



 さらに日常的に作文をしている子どもは、ものの考え方が論理的。言葉の使い方そのもの
が、ちがう。読書、作文は、子どもの教育の(要=かなめ)と考える。



And also there are some who write things in their daily life. They are more logical and when
they talk they use more proper words to express themselves. Reading and writing are the "
pillar" of education, I am quite sure.

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist reading writing learning ability
of the Japanese students)