Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, July 30, 2011

●だからそれがどうしたの?

●言葉(日本語)の起源(原始言語)

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中学生や高校生を教えていると、
ときどき、こんな話しになる。
「大昔の日本語は、どうだったか」と。

大昔といっても、石器時代の話し。
あるいはそれ以前。
そのつど、私はこんな話しを生徒たちにする。

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●「イ」と「ウ」の世界

 人類の歴史は、約20万年と言われている。
その中でも、新石器時代に別れを告げ、現在に見る文明社会に突入したのは、約5500年前。
そのころ黄河流域に黄河文明、チグリス・ユーフラテス川流域に、メソポタミア文明が生まれた。

 もちろん地域差も大きかった。
黄河文明が栄えたときですら、その周辺の民族は、火を使うことすら知らなかったという。
いつだったか、台湾から来ていた東洋医学の先生が、そう話してくれた。

 で、そういう世界では、つまり文明が始まる以前の人間は、どのようにして意思を伝達していたか。
その点、私たちが使っている日本語には、ひとつのヒントが隠されている。
「イ」と「ウ」である。

●状態は「イ」、動作は「ウ」

 これはあくまでも私の推察だが、ものの状態を表すときは、「イ」を使った。
「イ~」だったかもしれない。
あるいは発音は、「イ」に近いというだけで、もっとあいまいなものだったかもしれない。
その「イ」の前に、いろいろな名詞がくっついた。

 たとえば「草」と「イ」で、「クサイ(草イ)」と。
それが「臭い」となった、など。

 当初は単純な表現のみだった。
食生活や危険に関するものが多かったのでは?
「うま・イ」「まず・イ」「あぶな・イ」「こわ・イ」など。
それがやがて感情の表現へと発展していった。
「かなし・イ」「うれし・イ」と。

 同じように動作を表すときは、「ウ」を使った。
たとえば「走る・ウ」「食べる・ウ」「切る・ウ」と。
だから原始の日本人は、(モンゴル人でもよいが)、「イ~」「ウ~」というような言い方で、ものの性質や動作を表していた。
もちろん何らかのジェスチャも併用された。

 「食べる」というジェスチャを示しながら、「ウ~、ウ~」と言っていたことは、じゅうぶん、推察される。

●幼稚言語

 私は似たような現象を、ときどき、幼児の世界に見る。

 もう30年前になるだろうか。
私の近所のアパートに、若い家族が移り住んできた。
が、両親は共働き。
今で言う崩壊家庭。
2人の子ども(上が4歳前後の男児、下が2歳前後の男児)がいたが、保育園へも行かず、一日中、近所の広場で遊んでいた。
ときどき母親が仕事先から戻ってきて、何かの世話をやいていたが、それだけ。
その子どもたちの騒々しさといったら、普通ではなかった。
道路が遊び場だった。

 そのときのこと。
私は2人の子どもが、独特の言葉を使っているのを知った。
三輪車は「シャーシャー」、
押すは「ドウドウ」、
コロ付きの台車のようなものをもっていたが、それは「ゴーゴー」。
だから、「三輪車を押す」は、「シャーシャー、ドウドウ」となる。

 ほかにもいろいろな言葉を使っていた。
記憶は定かではないが、「あぶない」は、「ウヒャ」「ドヒャ」など。
終日、わけのわからない奇声が道路から聞こえていた。

●原始言語

 今から思うと、原始言語と言われるものも、それに近かったのではないか。
まず身近で関心のあるモノを、何らかの言葉で表現する。
先の子どもたちにすれば、三輪車。
「三輪シャ」の「シャ」だけが残って、「シャーシャー」になったとも考えられる。

 では、「ドウドウ」は、どうか。
いつか親が、「押す」という言葉を教えたのかもしれない。
「押す」が、「ドウ」になった?

 ともかくも原始言語の世界では、「モノ」に「ウ」がくっついた。
それによって、動作を表した。
ものの変化もその中に含まれる。

 たとえば「草・ル」が、「クサル(腐る)」になったなど。
草が変化して、臭くなる。
(私は、草・イ(臭い)、草・ル(腐る)は、「草」から生まれた派生語と推察している。)

「生きる」にしてもそうだ。
息をしている人は、生きている。
だから「息(いき)る」が「生きる」となった(?)。

が、その中でもとくに注目したいのが、短い単語。
原始言語の世界では、音の数も少なかったはず。
たとえば「うつくし・イ」は、6つの母音を含む。
こういう言葉は、ずっとあとになって生まれた。

 原始言語の世界では、母音の数は1つ、あるいは2つ。
「見る・ウ」「聞く・ウ」など。
わかりやすいのは、「イイ」。
自分にとって都合のよいものは、「イイ」と表現した。
それが「良い」へと変化していった。

 食べものであれば、「うま・イ」から、「おいし・イ」と。
もちろんその反対のこともある。
「わる・イ」「こわ・イ」と。
興味深いのは、「まず・イ」と「まずし・イ」。
本当に関連があったかどうかは、わからないが、ともに、「貧しい」の「貧」でつながっている。
味が貧弱だから、「まずい」、食料が乏しいから、「貧しい」と。

●早口

 ついでに言うと、1000年前の日本人と比べただけでも、現代人はきわめて早口になっていると推察される。
私はそのことを、学生時代、謡(うたい)を習っているときに知った。
ご存知の方も多いと思うが、謡の中に出てくる会話は、実にかったるい。
『これはこのオ~、~~の~~がしにて、そうろうウ~」と。
現在の話し方と比べても、数倍は時間がかかる。

 謡の中の会話がかったるいのではない。
1000年前の日本人は、そういう話し方をしていた。
そう考えるべきである。
というのも、私たちが子どものときでさえ、(ちょうど半世紀前ということになるが)、当時の日本人は、今よりずっとゆっくりと話していた。

 さらにこんなこともあった。
私たちが高校の修学旅行で、山口県の秋芳洞へ行ったときのこと。
私たちが早口なのを知り、現地のバスガイドがたいへん驚いていた。
「岐阜では、みな、そんな話し方をするのですか!」と。
地域性もある。

 これを原始言語に当てはめて考えると、言葉が誕生したころの世界では、人々は、今より、はるかにゆっくりと話しをしていた。
語彙数にしても、当時の日本人は、(モンゴル人でもよいが)、数10とか、数100とか、その程度しかなかったのでは?

 ……こうして想像力を働かせていくと、この世界はかぎりなく膨らんでいく。
それがまた楽しい。
子どもたち(中学生や高校生たち)も、こういった話しになると、目を輝かせて耳を傾けてくれる。

 もちろん私がここに書いたことは、あくまでも私の推察。
記録などあるはずもない。
しかしさらに最近、私はこんな発見をした。

 犬のハナ(今年20歳)が、ときどき言葉らしきものを話す。
たとえば私が家に帰ったようなとき、垣根の向こうから、「クク~ン、ウ~ン」というような声を出す。
それが毎回、同じ。
まったく、同じ。
私には、「パパ、お帰り」と言っているように聞こえる。
つまり「同じ」という点で、それがハナの言葉ということになる。
声帯が発達していないから、「言葉」としては認識できないが、もし声帯が人間並みに発達していたら、簡単な言葉を話すようになるかもしれない。

 恐らくこうした研究は、言語学の世界で真剣になされているだろうから、私がここに書いたことは、雑談ほどの意味しかない。
が、おもしろいことは、おもしろい。
たいへん興味深い。
原始時代の人間は、どんな言葉を使っていたか。
あなたも一度、子どもとそんなテーマで話しを進めてみるとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 原始言語 原始時代の日本語 新石器時代の言葉)2011/07/31記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●浜松(遠州地方)の言葉

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私が住むこの遠州地方では、「本当?」と
聞き返すようなとき、「ウッソー(嘘)」と言う。

40年前、私が浜松へ来た直後には、
この言葉が、たいへん不愉快だった。
最初のころは、「嘘とは何だ!」と、本気で
言い返したことがある。

このことについては、もう何度も書いた。
が、ほかにもある。

このあたりでは、久しぶりに人に会ったりすると、
こう言う。
「まだ、~~の仕事、してたのオ~?」と。
60歳以上の年配の人が、よく使う。

たぶん、「元気で仕事をつづけられていいですね」
という意味でそう言う。
しかし先にも書いたように、私はここに住んで
40年になるが、いまだにこの言葉を使われると、
頭にカチンと来る。

たとえば私に向かって、「まだ塾やってるのオ~?」と。
聞き方によっては、(私はそう聞いているが)、
バカにされたように聞こえる。
だからそのつど、私はこう思う。
「バカにするな!」と。

「ウッソー」にしても、「まだ~~してるのオ?」に
しても、あまり品のよい言葉ではない。
遠州地方の人たちにはそれがわからないかもしれない。
が、外の地方では使わない方がよい。
相手を確実に不愉快にする。

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●独特の考え方

 戦争を経験した世代の人たちは、独特のものの考え方をする。
「死」を、「生きること」にからませて考える。
たとえば30年ほど前、私にこう言った人(男性)がいた。
当時40歳くらいだった。

「なあ、林(=私)、どうせ、あいつはオレより早く死ぬんだよ」と。
その男性は、相手の年齢を見て、そう言った。
つまり「長生きをしたほうが、勝ち」と。
あるいは「人生の結論は、臨終のときにわかる」と言う人も多い。

が、さらに一歩進んで、生き残り競争をしている人もいるという。
朝食のとき、ワイフがこんな話しをしてくれた。

●生き残り競争

 A氏(85歳)とB氏(75歳)は、隣どうしだが、仲が悪い。
顔を合わせることもない。
視線が合っても、たがいに顔をそむける。
あいさつすらしない。

 ともに元公務員。
年金だけは、じゅうぶんある。
それもあるのだろうが、A氏はいつもこう言っている。
「あいつ(=B氏)の最後だけは、見届けてやる」と。

 10歳も年下だから、平均余命から計算すれば、A氏のほうが先に死ぬ。
が、A氏は、「見届けてやる」と。
B氏に対する憎しみを、生き残り競争に転化させた。
それはすさまじいほどの執念と言ってよい。
80歳を過ぎてから、ウォーキングマシンを購入したという。
毎朝散歩し、ときどき自転車にも乗る。
ほかに生きがいらしい生きがいはない。

 妻はいるが、すでに毎日ケアセンターに通っている。
息子と娘がいたが、この30年以上、音信はない。
だからその執念(=恨み)を、B氏に向けた。

●以心伝心

 が、ここからの話しが興味深い。
そういうA氏の執念は、B氏に伝わっている。
A氏は、様々ないやがらせを、B氏に繰り返した。
それもあって、B氏はこう言っているという。

「Aさんが何を考えているか、よくわかっています」と。
が、幸か不幸か(?)、B氏はいたって健康。
奥さんも健康。
75歳を過ぎても、どこかの事務所で、事務の仕事を手伝っている。
それがA氏には、どうもおもしろくないらしい。
A氏は、ますます長生き競争に拍車をかけた。

●憎しみは人格を崩壊させる

 『人を憎むことは、ネズミを追い出すために、家に火をつけるようなもの』という。
つまり人格そのものを崩壊させる。
それもそのはず。

 憎しみを覚えると、免疫細胞がサイトカインという悪玉ホルモンを分泌する。
そのサイトカインが、脳ストレスを引き起こす。
それが免疫機能を弱体化させる。
が、それだけではない。

脳ストレスが慢性化すると、異常にこだわりが強くなり、ひいてはうつ病を引き起こす。
これが精神のさまざまな分野に影響を及ぼし、その人の人格を少しずつむしばんでいく。
つまり人格の崩壊をもたらす。
『家に火をつけるようなもの』というのは、そういう意味。

 事実、A氏の形相はふつうではない。
いつ見ても苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
それがぞっとするほど、醜い。

 つまりこうしたものの考え方そのものが、戦争を経験した世代の独特の考え方ということになる。
彼らがよく使う、「死んでも死にきれない」という言葉の裏には、そういう憎しみが隠されていることが多い。

 が、もちろんそうでない人も多い。
ワイフの父親(=義父)などは、いつもこう言っていた。
「申し訳ない」「申し訳ない」と。

 義父はラバウルで生き残った数少ない帰還兵。
「自分だけ生き残って帰ってきて、申し訳ない」という意味で、そう言っていた。
そういう人もいる。
だからみながみな、A氏のようなものの考え方をしているというわけではない。
しかし少なくないのも、事実。

●長生き

 日本人の平均余命(年齢)は、世界一という。
男性で80歳前後。
女性で86歳前後。

 もちろん長生きをすることは、すばらしい。
それはそれでよいこと。
しかしそこに「だからそれがどうしたの?」という疑問をかぶせてみると、平均余命も、そのまま色あせてしまう。

 長生きをする……だからそれがどうしたの?、と。

 つまり長生き競争も結構だが、長生きをするならするで、そこに生きる意味を加味しなければならない。
そうでないと、それこそ「息(いき)ている」だけで終わってしまう。
言い換えると、「息ている」だけの人生に、どれほどの意味があるというのか。
……とまあ、私たちの世代は、そう考える。
が、戦争を経験した世代は、そうではない。

 「自分だけ助かった」という思いを、「ああ、よかった」という思いに変えてしまう。
そういう思いが思考回路の基礎になっているから、「長生きしたほうが勝ち」と。
あの独特のものの考え方に、変わっていく。

 ともあれ、生と死を駆け引きに使ってはいけない。
神聖にして不可侵のテーマ。
いわんや「競争」に使ってはいけない。
A氏は、その愚かさに、死ぬまで気がつかないだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 戦中派 独特の考え方 生存競争 生き残り競争)2011/07/31記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●大学の同窓会in名古屋市

【同窓会で名古屋市へ】はやし浩司 2011-07-29

●名古屋

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今夕は名古屋市へ。
大学の同窓会(名古屋支部)が、名古屋市である。
ワイフも行きたいと言ったので、いっしょに行くことにした。
が、同窓会のほうではない。
「名古屋へ行きたい」と言った。

そこで刈谷の名鉄イン・ホテルに予約。
同窓会が終わるまで、ワイフにはそこで待っていてもらうことにした。
その名鉄インのこと。

ツィンルームは、1人6000円、2人で1万2000円(朝食付き)。
しかしシングルルームは、1名、2700円(朝食付き)。
この料金体系は、どう考えてもおかしい。
部屋を2つ借りたほうが、安い?
(シングルルーム2部屋で、5400円。
半額以下!)
おかしいので、電話をかけ、確かめてみる。

電話の向こうの男性は、あれこれ、ていねいに説明してくれた。
「部屋が広いです」とか、何とか。
まあ、こういうことで争うのは、いや。
予約どおり、1名6000円の部屋に泊まることにした。

同窓会は早めに切り上げ、ホテルに戻るつもり。
ワイフは、名古屋きしめんを、どこかで食べるのを楽しみにしている。
Me,too!

(補記:やはり部屋が広かった。
シングルルームの2倍以上。
泊まってみて、納得。
壁紙もトイレも新しく、清潔感にあふれていた。
1泊6000円(1名)でも、文句なし。)

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●同窓会

 名古屋で同窓会に出るのは、今回で2度目。
名古屋周辺に住む友人たちは、たがいに頻繁に会っているよう。
そのつど誘いがかかったが、時間が合わない。
たいてい金曜日の夕方。
仕事の帰りに、みなが、駅前のどこかに集まるといったふう。
加えて私は、アルコールが飲めない。

 が、今回は、夏休みということで、何とか、やりくりをした。
時間を作った。
で、4時30分の新幹線に。

 今、その新幹線の中にいる。
こだま号だが、座席の前後の間隔が広くなったように感ずる。
濃紺のシートが真新しい。
詳しくはないが、新型の新幹線らしい。
ただし電源用のコンセントはなし。
周りを見回してみたが、やはり、なし。
パソコンを持ち歩く私としては、やや不満。

 変わったところといえば、3号車と7号車に、自販機がついたこと。
1号車から8号車まで、すべて禁煙とか。

 ワイフは、列車最前部の電光ニュースを読んでいる。
私は、こうしてパソコンのキーボードを叩いている。

●教示

 同窓会にもいろいろある。
が、金沢大学法科の仲間たちは、結束力が強い。
出るたびに、楽しいというよりは、何か貴重な教示を受ける。
私には、それが楽しみ。

 それには理由がある。
その第一、みな、自分を飾らない。
あっけらかんとしていて、みな、自分のことを、平気で話す。
「今度、会社を3度目のクビになりまして……」とか、「(がんによる)闘病生活も、4年目になります」とか、など。
そのたびに、みなが、ヤンヤと拍手喝采。

 ただ、どういうわけか皆、奥さんの話しはしない。
私もしない。
息子や娘の話しもしない。
これはどういう理由によるのか。
同窓会というのは、そういうもの。
会ったとたん、学生時代に戻る。
独身時代に戻る。

●三河安城

 新幹線は、三河安城に着いた。
あと15分。
あと15分で、名古屋市。
今日のお供は、ダイナブックN200。
ドコモの携帯端末を買ったら、おまけにくれた。
が、このパソコンだけはネットに、スイスイとつながる。
WINDOW MAILの送受信も、楽。
さすが「おまけ」と、今、へんに感心する。

 で、浜松と名古屋は、遠いようで、近い。
新幹線で、たったの45分。
もし浜岡原発が福島第一原発のような事故を起こしたら、浜松はもちろん、名古屋市だって、あぶない。
人が住めなくなる。
悪い癖だ。
最近の私は、何か書いていると、すぐそういう話になってしまう。

●放射能汚染

 ものの考え方が、暗い。
陰鬱。
それは自分でもよくわかっている。
しかし私に言わせれば、世の中、反対にノー天気すぎる。
昨日も栃木県下の放射能汚染図が新聞に載った(中日新聞)。
それによれば、栃木県ですら北西部は、真っ赤。
福島県のいわき市と同程度に、汚染されているという。

 が、ここからが放射能汚染の怖いところ。
空気以上の「線」となって、じわじわとそこに住む人の人体を汚染する。
空気は人体を通過しない。
放射線は通過する。
いくら食べ物に気をつけていても、そういったものをすべて素通りして汚染する。
防ぎようがない。

●ハナ(犬)のダニ

 毎年この季節になると、ハナ(犬)の体にダニが付く。
ハナの血を吸い、大きさが5ミリほどになる。
それが少し油断していると、体中に何10匹と付く。

 そこでハナの体を洗い、薬をつける。
が、ハナはそれをいやがる。
洗ってやろうとすると、雰囲気で察して、そのままどこかへ隠れてしまう。
今朝もそうだった。

 そこでワイフにまずハナをつかまえてもらう。
そのあと、私はパンツ一枚で、外に出る。
ダニ取り用のシャンプーで、ハナの体を洗う。
そのときのこと。
私はこう思った。

 私の家で、昔からハナの世話をしているのは、この私。
が、ハナのほうといえば、その私をもっとも警戒している。
本来なら、私にいちばん感謝してよいはず。
「ご主人様、どうもありがとうございます」と。

 が、犬は犬。
そこまでの学習能力はない。
シャンプーで体を洗われることを、「ありがた迷惑」ととらえている(?)。
だから私から逃げる。

 が、今朝のハナはいつもと、少しだけちがった。
体を洗ってやっている間、私はずっとハナに話しかけた。
「かゆいだろ? だから洗うんだよ」よ。

 それがわかったのか(?)、いつもなら瞬時を置かず逃げ腰になるハナが、今朝はおとなしくしていた。
少しは私の善意が通じたよう(?)。
ハナは言葉を話さないから、本当のところはわからないが……。

●ホテルで

 午後9時ごろ、ホテルに着いた。
ワイフがドアのところで、迎えてくれた。
「食事は?」と聞くと、「すませた」と。
「ホテルの前にサイゼリア(店名)があって、そこですませたわ」と。

 あれこれ身支度を整えなおすと、外に出た。
出たところに、コメダ(店名・コーヒーショップ)があった。
私はそこでサンドイッチを食べた。
ワイフは、かき氷を食べた。

ワ「楽しかった?」
私「40年来の謎も解けたしね」
ワ「40年来の謎?」
私「そうだ」と。

 私は学生時代、けっして品行方正な学生だったというわけではない。
むしろ異端児だった。
そんな私だから、何をしてもドジばかり。
こんなことがあった。

●謎

 大学3年生のとき、内灘の海で4人の女子学生と知り合った。
4人の女子学生は、東京から来ていた。
金沢までいっしょに帰り、ビアガーデンへ行った。
で、そこからがロマンス。
要するに、よくある男と女の話し。

 私たちも4人。
女子学生たちが泊まるホテルに、忍び込んだ。
が、ここからが謎。
4人対4人。
かなりいい線までいったところで、突然、4人の女子学生たちが怒って部屋を出て行ってしまった。
「風呂へ行く!」と言って、浴場へ行ってしまった。

 私にはその謎がわからなかった。
どうして突然、4人の女子学生は怒ってしまったか。
が、今夜はじめてその理由がわかった。
あの夜、私は知らなかったが、DM君(4人のうちの1人)が、その女子学生の体の中に、手を入れたという。
タイミングが悪かった。
それでその女性学生が怒り、ほかの3人も、つづいて怒った。

 それでロマンスは終わり。

私「あのDM君が?」
友「そうなんだよ」
私「DM君は、ずっとぼくのせいだと言っていた」
友「いや、DM君のせいだよ。ぼくは横でそれを見ていたから」
私「ぼくは、見ていなかった……」と。

 DM君は、法学科の中でも1、2を争うほどの、まじめな学生だった。
(……というふうに、私は思っていた。)
そのDM君が、そんなことをしたとは!
信じられないというよりは、私はその話しに仰天した。
あの夜の雰囲気からして、もう少しじょうずに女子学生を誘導していたら、一生の思い出になっていたはず。

 で、あの夜覚えた、あのみじめな敗北感は、今でも忘れない。
私たちはトボトボと、深夜の金沢の道を歩いて、それぞれの下宿に帰った。

●日本経済新聞

 このところ毎日、日本経済新聞(本紙)に目を通している。
アメリカの債務協議問題や米国債格下げ問題が、気になる。
オバマ大統領は、上限を撤廃するのか、しないのか。
国債の格下げはしかたないとしても、それがどう国際経済に影響するのか。
上限をあげなければ、アメリカはデフォルト。
債務超過。
国家破綻。
一方、これ以上の借金は、無理。
どちらにせよ、アメリカ経済は破綻する。

……というほど大げさなものではないとしても、世界経済に与える衝撃と影響は、深刻なものになる。
すでにその予兆が、あちこちで現れ始めている。
世界中の株価が下落し始めているのも、そのひとつ。
もちろん日本の株価も、今週、大きく下落した。
が、この程度ですむとは、だれも思っていない。

 超巨大な台風を目前に控え、私たち一般民衆は、オタオタするだけ。
その向こうは、すべて、大恐慌という暗雲に包まれている。
経済の専門家ですら、「何が起こるか、予想が立たない」と言いだした。

 8月2日に、オバマ大統領は、どのような決断をくだすか。
8月3日に、世界はどのように動くか。
私たちは今、それを固唾をのんで、なすすべもなく、見守っている。

●7月30日

 刈谷の朝は、茜(あかね)色に輝いていた。
窓を開けると、眼下に、大型ショッピングセンター。
その左に、スポーツジムが見えた。
昨夜は遅くまで、ランニングマシーンの上で走っている人たちが見えた。

 静かな朝だ。
道路には、走る車もない。
時刻は午前5時半。
モゾモゾしながら、横からワイフが聞いた。
「何時?」と。

●ニュース

 ネットのニュースに目を通す。
あちこちで、いろいろな異常気象がつづいている。
韓国、北朝鮮の大洪水。
アメリカ北部の洪水と南部の大干ばつ。
この先、世界はどうなるのだろう……と考えたまま、思考停止。
この日本にしても、明日のことはわからない。
超大型の台風6号は、運よく太平洋にUターンしてくれた。
が、すでにそれにつづく台風がまた発生している。

 「もう、いいかげんにしてくれ!」と叫びたいが、自然は、もちろんそんな声に耳など傾けてくれない。
福島第一原発にしても、近くの浜岡原発にしても、余震や地震が、いつ起きてもおかしくない。
「安定している」とは言うが、問題は何も片づいていない。
さらに昨日の報道によれば、政府機関である保安院まで、(ヤラセ会議)を開いていたという。
マスコミは大騒ぎしているが、どうして?
こうした(ヤラセ)は、官僚のお家芸。
そのつど開かれる、「審議会」という名前の会議にしても、ヤラセでないのをさがすほうがむずかしい。
方法は簡単。

(1) YES・マンのみを集める。(どういう基準で人選されるのか?)
(2) 会議の進行は、官僚側が進める。(あらかじめ議題などは、すべて官僚側で用意。)
(3) 座長が、きわめて抽象的な答申をまとめる。(答申の内容を文書化するのも官僚。)
(4) その答申を自分勝手に料理する。(あとは官僚のやりたい放題。)

 座長には、それなりの地位と立場のある人物が選ばれる。
経済界の重鎮や御用学者たち。
御用文化人がなることも多い。
それなりの「三つ葉葵の紋章」をもっている人ほど、よい。
よくテレビなどにも名前と顔が出てくるから、どういう人が座長になっているか、それを見てみるとおもしろい。
つまり日本の政治は、政治家ではなく、官僚たちによって、こうしてゆがめられていく。

●スカイツリー 

 東京にスカイツリーができた。
600メートル以上もあるという。
一度は上ってみたいと思う。
しかし「上る」は「登る」。
私の山荘の横には、標高が550メートルの、M山がある。
3、4度、登ったことがある。
浜松市が一望でき、その向こうには丸みを帯びた太平洋が見える。
スカイツリーから見える景色も、あんなものだろうと想像する。

 が、このとき私の頭の中で、相反した2つの考えが交錯する。

 ひとつは、M山に匹敵するような高い「人工の山」を、よく作ったものだと感心する驚き。
もうひとつは、そんなものわざわざ作らなくても、「自然の山」があるではないかという思い。
ゼネコンは、こういう形で日本の技術力を世界に誇示したいのだろう。
言うなればゼネコンの看板のようなもの。
ドバイのように、自然の山のない国の人たちには、それなりに魅力的に映るかもしれない。
しかし私なら、近くのM山に登る。
登って、スカイツリーに上れない悔しさを解消する。
が、これは私の負け惜しみ。
すごいことには、ちがいないが……。

●大洪水

 朝のニュースは新潟県地方の洪水の様子を伝えている。
音は聞こえないが、映像からして、たいへんな洪水のようだ。
川を茶色の濁流が、波を打って流れていく。
画面で見ていると、その迫力はわからない。
が、私はその迫力をよく知っている。

 私が子どものころ、長良川も、よく洪水に見舞われた。
ふだんは静かでおとなしい川だが、大雨が降ると一転する。
そういうときは、川の近くまで行って流れを見る。
川が巨大なうねりを作り、ゴーゴーと流れていく。
それを見て、足がガクガクと震えたのを、今でも、よく覚えている。

 が、どうして今ごろ、大雨?
梅雨が終わって、もう2週間にもなる。

●アサヒスーパードライ
 
 同窓会は、楽しかった。
久しぶりに、腹の底から笑った。
ゆいいつの難点といえば、どうしてみな、同窓会というと、ああいう騒々しい場所でするのか。
静かなところで、静かに語らいあうというほうが、同窓会らしい。
今回も、「笹島交差点近くにある、アサヒスーパードライ」(案内)という店で、同窓会をした。
どこかドイツ風のビアホール。
金曜日の夜ということもあって、ほとんど満席。
みな、大声で怒鳴りあうようにして、話しをした。

 「次回は、どこかの温泉にしよう」という話しも出た。
それには大賛成。
名古屋市周辺にも、よい温泉地が、たくさんある。

 「みな元気だった?」とワイフが聞いた。
「……元気な人だけが、来た」と私。
そう答えたとき、ツンとしたさみしさが、心を横切った。

●刈谷

 刈谷は名古屋市の近くとばかり、思っていた。
が、来てみると、むしろ三河安城(新幹線の駅)のほうに近いことがわかった。
その先は岡崎、そして豊橋。
帰りはローカル線で帰ることにした。

 私たち夫婦は、「観光」には、ほとんど興味がない。
手元には、ホテルがくれた観光マップというのがある。
まだ目を通していないが、帰りにはごみ箱へ捨てるつもり。
それよりも、きしめんが食べたかった。
味噌カツでもよい。
昨夜口にしたのは、同窓会では、水とサラダだけ。
コメダでは、サンドイッチだけ。
観光より、食べ歩き。
そのほうが、ずっと楽しい。

 が、私の胃袋は、どこかいじけている。
食べだせば、いくらでも食べられる。
しかし今が、その状態だが、食べるまで、空腹感がほとんどない。
軽い逆流性食道炎が起きているよう。
腸内ガスがたまっているのか、腹全体が何となく腫れぼったい。

 もっともダイエットを始めて、すでに2週間。
昨日も自転車で1時間ほど、走った。
それもあって、胃袋自体が小さくなったように感じる。
少量の食事を口にしただけで、すぐ満腹感を覚える。

 ワイフがこう言った。
「ラッシュアワーをはずしましょう」と。
帰りの電車のことを言った。
「来週は、XX温泉に行こう」と声をかけると、「そうね」と。

 今ごろこんなことを書くのもおかしな話しだが、温泉といっても、気をつけなければならないことがある。
その第一が、皮膚病。
が、注意していても、何かの皮膚病をみやげにもらってしまう。
少し前、私はインキン、ワイフは水虫をもらって帰った。
私の印象では、露天風呂風の温泉ほど、あぶない。
岩肌がごつごつしているような温泉である。
見た目には風流だが、そこは病原菌だらけ。

 だから温泉は、湯につかるだけ。
体は部屋の中の内湯で洗う。
最近の私たちは、そう決めている。

●刈谷の駅で

 JR刈谷駅で、8時39分発の浜松行を待つ。
プラットフォームの長椅子を見つけた。
が、どこか疲れた様子の女性が手荷物を2つ並べて座っていた。
私たちが近づいても、荷物をどける様子もない。
で、私が「すみませんが……」と声をかけると、視線を合わせようともせず、不機嫌な顔をして見せた。
そのままの顔で、片手で、荷物を下におろした。

 同じ化粧にも、「旬の化粧」と、「疲れ化粧」がある。
若い女性が生き生きと、前向きにしている化粧を、「旬の化粧」という。
が、年を取ると、化粧もどこか投げやりになる。
それなりの化粧はするが、肌になじまない。
それを「疲れ化粧」という。
が、こうなると、化粧をしても逆効果。
不潔感だけが漂うようになる。

 相変わらず隣の女性は、ふてくされた顔つきをしている。
「うるさいジジイ」と、私のことをそう思ったのかもしれない。
そう、たしかに私は、うるさいジジイ!

●ラッシュアワー

 やはりラッシュアワーに重なってしまった。
電車が着くたびに、ドドーッ、ドドーッと人が降りる。
降りるというより、電車が人間を外へ吐き出す。
それらの人たちが、プラットフォームからあふれんばかりに、ゆっくりと歩いていく。
それぞれの人が、それぞれの思いをもって、今日という1日を始める。
しかしこの無機質な風景は、いったい、何なのか。
駅も、電車も、そしてそれを取り囲むビルも、さらにそこに見える人たちも、みな機械仕掛けで動くロボットのよう。

 都会生活というのは、それをいう。

●電車の中のオバチャン

 刈谷からはすぐ座れた。
が、またまた運の悪いことに、またまたあのオバチャン連中。
少しうしろの席に陣取って、ゲラゲラ、ギャハハハ……と。
しゃべりづめ、しゃべっている。
カラカラ、キャッキャッ、と。
男でもおしゃべりの人は多い。
しかし女性のそれは、甲高い。
よけいに耳に障る。

 羞恥心というものが、ない。
周りの人たちへの心遣いもない。
「うちのバーサンが……」と、そんな話しを繰り返している。
うるさいと思うが、これが日本の現実。
どこへ行っても、このタイプのオバチャンたちがいる。
まさに日本の低俗文化の象徴。
低俗そのもの。
山ザルが、服を着て、電車に乗っている。
私には、そう見える。

●眠い

 電車は蒲郡(がまごおり)を過ぎ、もうすぐ豊橋に着く。
窓の外の景色が白っぽくかすんで見えるのは、窓ガラスが汚れているせい?
それとも湿度が高いせい?

 たった今、豊川の鉄橋を渡った。
ゴーッという金属的な音が、足元から伝わってきた。
眠い……。
昨夜は、あまりよく眠れなかった。
ああいうホテルでは、温度調整がむずかしい。
「L(低)」にすると、暑すぎる。
「M(中)」にすると、寒すぎる。
そこで昨夜は、「M」にし、薄い掛布団を2枚重ねて寝た。

 ……あのオバチャンたちは、豊橋で降りなかった。
残念!
終点の浜松まで、行くらしい。
それにしても、よくしゃべる。
いつもの私なら、それを注意するが、今日は、その元気もない。
畑の中のやぶ蚊のようなもの。
このタイプのオバチャンは、叩いても叩いても、つぎからつぎへと出てくる。
だったら、畑の中には入らないこと。
こうした電車には、乗らないこと。

●今日の予定

 今日の予定は、とくになし。
庭の草刈りをするつもりだが、炎天下ではできない。
このところ暑さに、ぐんと弱くなった。
あとは来週の教材作り。
人に会う予定はなし。

 あああああ……。
今度は私たちの前に座ったオバチャンたちまで、大声でしゃべり始めた。
豊橋から乗り込んできたオバチャンたち。
うしろからと前から。
意味のない話し。
安っぽい情報の羅列。
それが間断なく、つづく。
こういうのを文化的拷問という。

 ……電車の車掌は、いつもこう言う。
「周りのお客様の迷惑になりますから、携帯電話はオフかマナーモードにしてください」と。
オバチャンたちの話し声のほうが、ずっと迷惑。
どうしてそのオバチャンたちの会話を、野放しにしているのか。

★オバチャンたちへ、

 そんなことをつづけていると、本当に社会のゴミになってしまうぞ!
なぜ私たちが老人になるかといえば、自分たちの得てきた知識や経験を後世の人たちに伝えるため。
それが老人。
その老人が、自らそ老人の立場を破壊している。
だから最近の若い人たちは、こう言っている。
「老人というのは無駄で、役立たず」と。
さらに若い人たちが、私たち老人組を「社会の邪魔者」と思うようになったら、おしまい。
私たちの居場所は、もうない。

●あと少しで、浜松

 あと少しで、浜松。
何でもない旅行だったが、ワイフは満足そう。
よかった!

2011/07/30記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司








Thursday, July 28, 2011

●乳児の原始反射

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司2011/07/29記

●原始反射(2006年7月の原稿より)

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赤ちゃんには、赤ちゃん特有の反射
的運動がみられる。

これを、「原始反射」と呼ぶ。

++++++++++++++++

 二男の娘(私の孫)が生まれて、もう2か月になる。
名前を芽衣(Mae)という。
最近、やっと漢字の名前が決まった。

 その芽衣を想像しながら、改めて心理学の本(心理学用語辞典・かんき出版)を、ひもとく。
乳児と幼児は、必ずしも、連続的につながっているわけではない。
たとえば、赤ちゃんには、赤ちゃん特有の、反射的運動がある。

 これを「原始反射」と呼ぶ。
この原始反射の多くは、生後3~4か月で、消失してしまうことが知られている。

 その原始反射には、つぎのようなものがある(心理学用語辞典より)。

(1)把握反射
(2)バビンスキー反射
(3)モロー反射
(4)口唇探索反射
(5)自動歩行反射
(6)マグネット反射

 把握反射というのは、手のひらを指などで押すと、その指を握ろうとする現象をいう。

 バビンスキー反射というのは、新生児の足の裏を、かかとからつま先にかけてこすると、親指がそりかえり、足の指が開く現象をいう。

 赤ちゃんの胸の前に何かをさし出すと、それに抱きつくようなしぐさを見せることをいう。ドイツのモローによって発見されたところから、モロー反射と呼ばれている。

 口唇探索反射というのは、赤ちゃんの口のまわりを指などで触れると、その指を口にくわえようとする現象をいう。

 自動歩行反射というのは、脇の下を支えながら、右足に重心をかけると、左足を前に出そうとする。これを繰りかえしていると、あたかも歩いているかのように見えることをいう。

 マグネット反射というのは、両脇を支えて立たせると、足が柱のようにまっすぐになる現象をいう(以上、同書より要約)。

 これらの現象は、短いので、生後2~4週間で、長くても、8~10か月で消失すると言われている。
で、こうした現象から、つぎの2つのことが言える。

 ひとつは、乳児が成長して、そのまま幼児になるのではないということ。
赤ちゃんには、赤ちゃん特有の成長過程があり、その期間があるということ。

 もうひとつは、前にも書いたが、いわゆるネオテニー進化論の問題である。
その原稿は、このあとに添付しておくが、要するに、人間は、未熟なまま誕生し、その未熟さが、こうした現象となって、現れるのではないかということ。

 本来なら、こうした原始反射といったものは、母親の胎内で経験し、誕生するまでに消失しているべきということになる。
つまりわかりやすく言えば、人間は、その前の段階で、誕生してしまうということになる。

 ご存知の方も多いと思うが、人間は、(ほかの動物もそうだが)、母親の胎内で、原始の時代からの進化の過程を、一度すべて経験するという。
初期のころには、魚のような形にもなるという。
その一部が、誕生後も、こうした原始反射となって現れる(?)。

 もしあなたに、今、赤ちゃんがいるなら、一度、この原始反射を試してみるとよい。
何かの新しい発見ができるかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●赤ちゃんの意思

 もちろんこうした「原始反射」は、赤ちゃんに「私」があって、起こるのではない。
つまり赤ちゃんの意思とは無関係に起こる。
その理由の第一が、人間すべてに共通した反射運動だからである。

 同じように考えてよいのが、「性欲本能」。
それから発生する、もろもろの欲望。
フロイトは、「性的エネルギー」を、もろもろの人間の心理の根幹に置いた。
私たちの行動、心理活動は、その根源で「性的エネルギー」に結びついている、と。
(これに対してユングは、「生的エネルギー」という言葉を使った。)

 男が自己主張するのも、女が化粧するのも、その奥の奥で、性的エネルギーと結びついている。
どの人も「私は私」と思いながら、行動しているかもしれない。
が、その実、その実態といえば、「原始反射」。
あらゆる生物は、種族保存に、すべての命をかける。
その「命をかける」部分が、原始反射ということになる。

 わかりやすく言えば、およそ心理学で体系化された部分というのは、「私であって、私でない部分」ということになる。
体系化されるという部分で、私であって私でない部分ということになる。

●では、私とは?

 少し前、「私」というのは、タマネギのようなものと書いた。
私と言えるような部分は、中心にあるほんの小さな部分で、大半は、ただの「皮」。
その「皮」を私と思い込んでいるだけ。

 たとえば赤ちゃんの原始反射のひとつの「把握反射」にしても、それを見て、親は、「ああ、うちの子は自分の意思で反応している」と思うかもしれない。
しかし反応しているのではない。
赤ちゃんとの意思とは無関係のところで、反射運動が起きているだけ。

 ……ということを、さらに拡大解釈していくと、もろもろの私たち人間の行動、心理活動は、「私であって、私でない部分に操作されているだけ」ということがわかってくる。
先に「私というのは、タマネギのようなもの」と書いた。
「私と言えるような部分は、中心にあるほんの小さな部分」とも書いた。
しかし実際には、その「小さな部分」さえない人のほうが多い。

 悲しいかな、加齢とともに、人は賢くなっていくわけではない。
「私」を発見していくわけでもない。
その多くは、バカになっていく。
自分が、その年齢になって、それがよくわかるようになった。
私は確かにバカになりつつある。
経験や知恵は、脳みその底から、どんどんとこぼれ落ちていく。
1か月前にできたことが、今日、できなくなるということは、しばしば経験する。

 で、結果として、そこらのオジチャン、オバチャンと同じようなことをするようになる。
……というか、オジチャン、オバチャンと同じになる。
あるいはハイデガッガーの言った、『ただの人(das Mann)』でもよい。

 もしあなたが、北海道のオジチャン(オバチャン)も、九州のオジチャン(オバチャン)も同じという範囲の中のオジチャン(オバチャン)なら、ただのオジチャン(オバチャン)ということになる。
平たく言えば、「私」のない人を、「ただの人」(ハイデッガー)という。

●私を創る

 こうして考えてみると、「私を創る」ということが、いかにたいへんかが、わかる。
だからよく若い人が、「私とは何か」とか問うたびに、私は皮肉たっぷりにこう思う。
「そんなもの、あるか!」と。

 それがわからなければ、北海道のスズメを見ればよい。
九州のスズメを見ればよい。
(沖縄のスズメでもよい。)

 それぞれはみな、てんでばらばらに、自分勝手な行動を繰り返している。
しかしスズメは、スズメ。
その範囲を超えることはない。
つまりスズメには、「私」はない。

 が、もしその中の一羽が、ある日、こんなことをしたとする。
人間の前で、歌いながら踊り始めた。
「餌がほしい」というジャスチャをしてみせた。
あるいはあの「カモメのジョナサン」のように、自分の限界を超えて、天空高く、舞い上がるのもよい。
もし一羽のスズメが、それをしたとするなら、そのスズメには、「私」があることになる。
そのスズメは、「私」をもったことになる。

 が、そうでないなら、そうでない。
「私」を創るためには、それこそ想像を絶するような努力と日々の精進が必要となる。
だれかのまえではいけない。
まねしたとたん、その人は「私」を失う。

●ミューチュアル・アタッチメント

 さらにここ10年の研究によれば、あの赤ちゃんも、親の心をくすぐるための心理行動をしているのがわかってきた。
それまでは愛着行動というのは、親から赤ちゃんへの一方向的な行動と考えられていた。
相互に作用するから、それを『ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着行為)」という。

 もしあの赤ちゃんが、生まれながらにして、生意気で、ふてぶてしい態度を取っていたら、それだけで親は、子育てを放棄してしまうだろう。
つまりその時点で、人類は滅亡することになる。

赤ちゃんは赤ちゃんで、(とくに人間の乳児は)、親に育ててもらわねばならない。
そのため無意識下の意識の作用により、自ら(かわいさ)を演出する。
エンゼル・スマイルもそのひとつと言われている。
それがミューチュアル・アタッチメントということになる。

 で、一方、親は親で、その演出された(かわいさ)にデレデレになる。
親は、それを自分の意思と思うかもしれない。
「赤ちゃんがかわいいと」と思うのは、私の気持ち。
これが真の愛、と。
しかしそれらすべての、一連の感情や行動は、最初から計算されたものでしかない。
つまりそれ以前から、そうできているから、そうする。

 もちろん赤ちゃんだけではない。
成人したおとなだって、そうである。
つねに私たちは無意識下の意識に操作され、それに応じて、感情をもったり、行動を繰り返したりする。
しかしそういった部分は、「私であって、私でない部分」ということになる。
それを私は「タマネギの皮」にたとえた。

 一枚ずつめくっていったら、最後には、何も残らない……。
言い換えると、「私」をもった人など、この70億人とも言われる世界人口の中でも、数えるほどもいないのでは?
私にはわからないが、それくらい少ない。
それくらい「私」をもつことは、むずかしい。

 赤ちゃんの原始反応について書いた自分の原稿を読みながら、そう考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 私論 原始反射)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ネオテニー進化論

【私とは何か】byはやし浩司
 
●自己中心性(Egocentricity)

++++++++++++++++++

自分がそう思っているから、相手も
そう思っているはずと考えるのは、
自己中心性以外の何ものでもない。

あるいは自分がこう思っているから、
あなたもそう思えというのもそれ。
さらに一歩進んで、「私は正しい」と
思うのは、その人の勝手。
が、その返す刀で、「あなたは
まちがっている」というのもそれ。

こうした自己中心性は、発達過程に
ある乳幼児の心理に共通する。
つまり自己中心的な人は、それだけ
乳幼児に近いということになる。
もう一度、乳幼児の心理について、
おさらいをしておきたい。

+++++++++++++++++

●乳幼児期(エリクソン・心理発達段階論)

 この時期の幼児の特徴を一言で表現すれば、「自己中心性」ということになる。
ものごとを、(自分)を中心にして考える。
「自分の好きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなものは、他人も嫌い」と。

 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思いこむ。自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。
これをピアジェは、「アニミズム」と名づけた。
心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って、この時期の子どもの心理を説明する。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。
風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。
……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心理をいう。
ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。
乳幼児は、心の中でそれを念ずることで、実現すると考える。
……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられたと考える心理である。
人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。
ある子どもは、母親に、月を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。
そういう心理は、乳幼児の人工論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎えることがある。

●自己中心性

 私も子どものころ、……小学1年生くらいのことではなかったか、学校へ行く途中、こんなことを考えた。
「目に見えない、うしろの世界はどうなっているんだろう」と。

 前の世界は、目で見ることができる。
しかしうしろの世界は、見えない。
だからひょっとしたら、うしろの世界は、私が目を離した瞬間、消えてしまうのではないだろうか、と。

 まさに自己中心的な発想である。
が、こうした現象は、私だけのものではなかった。
そのあと、同じように考えている幼児や、小学生に、何人か出会った。
その子どもたちも、同じようなことを言っていた。

●否定期

 こうした自己中心性は、やがて修正期に入る。
言い換えると、人格の完成度は、いかに自己中心的でないかによって、決まる。
ピーター・サロベイの「EQ論」を例にあげるまでもない。
が、それで終わるわけではない。
そのあと今度は、自己中心性の否定期へと入る。

 簡単に言えば、私から「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。
つまり私というのは、ちょうどタマネギのような構造をしている。
私の周りを、無数の「私」が取り囲んでいる。
その「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。

 すると私はかぎりなく、かつ細く、小さくなっていく。
所詮、私というのは、その程度のもの。
中には、タマネギの皮を脱ぎ去っていったら、何も残らなかった……という人もいるかもしれない。
この私も含めて、大半の人たちがそうかもしれない。
死ぬまでに、ほんの少しでも私を残せる人は、そんなにいない。

 私たちは、それほどまでに、私であって私でないものに、毒されている。
私でないものを、「私」と思い込んでいる。
つまりその(思い込み)自体が、まさに自己中心性の表れとみる。

●ある宗教団体

 ときどき私の家にも、どこかの宗教団体の人たちが、よく勧誘に来る。
断っても断っても、来る。
が、そういった人たちは、おしなべて、穏やかで穏和な表情をしている。
自分で努力し、自分でそういう境涯に達してそうであれば、それはそれで結構。
しかし中身は、「注入された思想」。
注入された思想をもって、自分の思想と思い込む。
言うなれば、あとから張りつけられたタマネギの皮。
そういう皮でもって、身を飾る。
心を飾る。

 もっともその人自身が、それで幸福なら、それでよい。
事実、幸福そうな顔をしている。
が、そういう人たちは、ひとつの重要な事実に気づいていない。
つまり、たった一度しかない人生を、それと引き替えに、無にしている。

 いらぬ節介かもしれないが、自分の足で立つ。
自分の足で歩く。
不完全で未熟であることを恥じる必要はない。
それに気づいたら、また前に進む。
失敗や挫折を恐れる必要はない。
さらに前に進む。

つまりそれこそが、私たちが「今、ここにいる」という意味である。
無数のドラマもそこから生まれる。
生きる気高さもそこから生まれる。
あのトルストイも『戦争と平和』の中で、こう書き残している。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールの言葉である。

●私たちは何を残せるか

 タマネギの皮をめくることは、勇気のいること。
最悪のばあい、そこには何も残らなくなってしまう。
そんなこともありえる。
その不安があるから、勇気がいる。
「私もただのオジチャン」「私もただのオバチャン」と認めることは、そのまま自己否定につながる。

 何が恐ろしいかといって、人生の晩年になって、「私の人生は何だったのか」と思い知らされることほど、恐ろしいことはない。
それが自己否定ということになる。

 だから釈迦は、『精進』という言葉を残した。
私たちは死ぬまで、ただひたすら精進あるのみ、と。
が、それでも残せるものは、少ない。
が、ヒントがないわけではない。
それが冒頭にあげた、「自己中心性」の否定である。
道はちがい、方法もちがうかもしれないが、それを実行した人は多い。
インドのマザーテレサもその1人。

 私たち凡人には、とてもまねできないが、しかし不可能ではない。
あのマザーテレサは、それを私たちに教えてくれた。

 難しい話しはさておき、あなたもこう思ったらよい。
「自分の中に自己中心的なものを感じたら、それこそ闘うべき、己の敵」と。
けっして楽な闘いではない。
ないが、日々の精進のみによって、達成できる。
方法は簡単。
いつも、何をしても、自分の心に静かに問いかけてみればよい。

「だから、それがどうしたの?」と。

 そのとき、意味のないものは、スーッと風のように消えていく。
意味のあるものは、何か、心にひかかる。
こうして自分のタマネギの皮をむいていく。
で、最後に残ったもの。
それが「私」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 タマネギの皮 私論 私とは何か はやし浩司 私発見)

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●7月27日(掛川グランドホテルにて)

+++++++++++++++++

今夜は掛川グランドホテルに一泊。
今、そのホテルの一室にいる。
時刻は、午後11時。
先ほど、市内での講演を終え、このホテルに
やってきた。
掛川市で泊まるときには、いつもこのホテル
と決めている。
駅前にあり、交通の便もよい。
(掛川駅から歩いて、1、2分)
雰囲気も、よい。

ところで今日のお供(パソコン)は、
TOSHIBAのUX。
これが、どうも調子が悪い。
メールにしても、受信はできるが、送信ができない。
ワードを使っているが、一語ごと、変換に時間がかかる。
モタモタというよりは、そのつど動きが止まってしまう。

(たった今、パソコンを再起動してみた。
動きがもどった。
よかった。
こういうときは、再起動をかけてみるのが、イチバン。)

・・・前回このホテルに泊まったのは、ちょうど1か月前。
偶然なのか。
前回泊まった部屋の2つ、隣の部屋。
今夜は5階の、5XX号室。

朝食つきで、1名1泊6000円。
ワイフと2人で、1万2000円。
ポイント割引がついたので、1万1500円。
ワイフはもうベッドの上で、寝息を立てている。

++++++++++++++++++

●ダイエット

 ダイエットの効果が表れ始めた。
つまりダイエットというのは、最初の7~10日前後は、効果が表れない。
いくら運動をしても、またいくら節食をしても、体重はそのまま。
「脂肪が筋肉に変わるため」という説もあるが、私は知らない。
(これはワイフの説。)

 毎日、300~500グラムずつ、体重が減っていく。
それがうれしい。
現在、65・0キロ。
2・5キロの減量に成功。

 そう言えば数日前から、体を軽く感ずる。
それに加えて、運動量をふやしたせいか、頭の回転もよくなった。
中学生を教えていると、それがよくわかる。
頭の回転が悪いときは、脳みそが眠ったような状態になる。
計算ミスが多くなる。

 が、ここで油断をしてはいけない。
明日の朝食は、バイキング。
私の意思の強さが試される。
どこまでがまんできるか。
私たち団塊の世代は、バイキング料理を前にすると、こう考える。
「食べなければ損」と。
心貧しい世代。
それが試される。

 目標の63キロまで、あと2キロ。
苦しい闘いがつづく。

●秘策

 今度、生徒を山荘に招待することにした。
Sさん(中3女子)と、もう1人・・・。
そのSさんが、こう言った。
「奥さんも来るんでしょ?」と。
「そうだ」と答えると、「ああ、よかった・・・」と。

 ひとつ秘策がある。
最初、Sさんを、ボロボロの農家へ連れて行く。
(一軒、廃屋になった農家がある。)
「ここが山荘」と、説明する。
「あの木が、その木」と、説明する。

少し前、Sさんにこう言った。
「先日、山荘の前の木で、首をつって死んだ人がいてね」と。
「その木」というのは、その木をいう。
で、Sさんが、泣きべそをかき始めたら、私の山荘へ連れて行く。

 風呂はドラム缶、ベッドはベニア板、トイレはボットン便所、・・・ときどき朝起きると、ヘビが横で寝ている。
Sさんにはそう話してある。
Sさんは、それを本気にしている。
いつも私のことを、「オヤジ」と呼んでいる。
そのカタキを、今度、取ってやる。
生意気な子だが、あっけらかんとした明るい性格。
自分でも「私は男」と言っている。
そんな性格が、私は好き。

(ただし、ワイフは、この秘策には反対。
「かわいそうだから、そんなことをしてはだめ」と言っている。
どうするかは、その日の雰囲気で決める。)

●至極の時

 こういう夜は、いつまでも文章を書いていたい。
私にとっては、至極の時。
部屋の温度は、最適。
静か。
デスクの横のランプの明かりも、よい。

 ワイフは、背中側のベッドで熟睡中。
すっかりバーさん顔になった。
そんなワイフが小娘のような姿勢で眠っている。
片方の手を頬にあて、横向きに眠っている。

 今週は、名古屋市でもう一泊するつもり。
すでに予約をすませてある。
が、これも老後の過ごし方のひとつかもしれない。
生活の中に変化をどんどんと、取り込んでいく。
それが脳に、ほどよい緊張感を与える。
ボケ防止には、よいのでは・・・?
多分?

●自由

 先ほどから、スカイプの呼び出しがつづく。
たぶんアメリカに住む二男からのものだろう。
しかし今夜は、やめた。
今の私には、「この時」が大切。
穏やかで満ち足りた夜。
自由な夜。
私は今、脳みその中を自由気ままに飛び回っている。
何かを書かねばという気負いもない。
ひらめいたことだけを、書いている。
私には、それが楽しい。

 そう、中国語で「自由」というのは、「自らに由る」という意味。
これについては、何度も書いた。
が、英語では、「freedom(自由)」という。
「freedom」というときは、何も束縛のない状態をいう。
今、その「freedom」を、満喫している。
私を束縛するものは、何もない。
私はしばし、その心地よさに、酔いしれる。
 
●メール

 先ほど、Kさんという方から、メールが入った。
BW教室(私の教室)への見学を申し込んできた。
しかしこの7月に、満員になってしまった。
例年だと、今の時期、クラスを2つに分ける。
が、今年は不景気。
2クラスに分けるほど生徒が集まらない。
だから1クラスのまま。
しばらくこのまま。
だから満員。

 その旨のメールを送ろうとするが、何度トライしても、サーバーのほうで
切断されてしまう。
?????

 試しに自分宛にメールを送信してみるが、これもだめ。
?????
こんなことは今までになかったこと。

●見学

 ある幼稚園の園長も、そう言っていた。
最近の母親たちは、幼稚園でも、「当然入れる」という前提でやってくる、と。
が、引き受けられる子どもと、そうでない子どもがいる。
そこで幼稚園のほうで、「お引き受けできません」とでも言おうものなら、猛烈にそれに抗議してくるという。
「どうしてうちの子は、入れてもらえないのですかア!」と。

 私の教室ではさらにそうで、一度だけだが、こう言われたことがある。
「何を、お高く留まっているの!」と。
その言葉が今でも、トラウマになっている。
見学を断わるにも、神経を遣う。

●老人組

 今夜の講演でも、こんな話しをした。
「昔は子どものほうが、ごめん、ごめんと、謝りながら生活していた。
今は、親のほうが、子にごめんごめんと言って生活をしている。
さらに、最近に至っては、祖父母のほうが、孫に、ごめんごめんと言って生活をしている」と。
親子の立場が逆転している。

 同じような意識が、親たちの世界にも入り込んでいる。
社会のほうが、親たちに、ごめんごめんと言いながら、頭を下げている。
もっとも、そういう社会を恨んでもしかたない。
若い人たちを責めてもしかたない。
そういう社会にしたのは、私たち。
私たちの責任。

 言い換えると、私たち老人組は、ますます小さくなるしかない。
社会の隅で、ひっそりと生きていくしかない。
しかし・・・。
そういう世界で、結局は、損をするのは、若い人たち。
今はわからない。
保護者が何重にも、そのうしろで構えている。
その保護者がいなくなったら、どうなるのか?
どうするのか?
そのとき、それがわかる。

●掛川グランドホテル

 話しがかなりグチぽくなってきた。
読む人だって、おもしろくないだろう。
だからこの話しはここまで。

 で、ワイフが言うには、このホテル(掛川グランドホテル)は、インドネシアのホテルみたい、と。
ライティングもそうなっている。
ロビーを飾る調度品もそうなっている。
「エキゾチック」という言葉が、ふさわしい。
ひとつだけ残念なのは、大浴場がないこと。
露天風呂でもあれば、最高。
が、もしそうなら、とても先の料金では泊まれない。

 先ほど窓の外の景色をしばらくながめた。
大きな駐車場をはさんで、立派な民家が、左右に並んでいた。
「駅に近くていいな」と思った。

●逆恨み

 話題を変えよう。

 思春期を通り過ぎると、男性も女性も大きく変わる。
が、男性のばあいは、どんな形であれ、社会の前面に出ることができる。
しかし女性のばあいは、そうでない。

 それなりに恋愛をし、結婚できればよい。
が、そうでないときに、女性は、心をゆがめる。
失恋がつづけば、なおさら。
その一例というわけでもないが、軽自動車に乗っている若い女性ほどこわいものはない。
スピード違反など、朝飯前。
ふつうのスピード違反ではない。
社会を逆恨みしているかのような走り方をする。
もちろん信号無視、駐車場無視。
さらに今日、こんなことも発見した。

 プラットフォームで列車の到着を待つ。
そのときのこと。
若い女性たちは、「列」を作らない。
ブラブラとバラバラに立っている。
私たちは、そのうしろに並んだ。
が、あとから来た女性たちが、どんどんと横に張りついてくる。
割り込みなのだが、割り込んでいるという意識すらない?

 どうしてか?

 これも子どもたちの発達段階を見ていると、よくわかる。
小学2、3年生までは、男児をいじめ、泣かすのは女児。
いじめられて泣くのは男児。
いじめて泣かすのは女児。
それが小学3~4年生を境に逆転し始める。

 そのときから、女性には、(欲求不満)が、うっ積するようになる。
それが慢性化する。
社会に出ると、さらにそうで、それが先に書いた「逆恨み」に転化する。
自動車を運転していても、余裕がない。
心に余裕がないから、運転にも余裕がない。

・・・とまあ、私は、勝手にそう解釈している。
またそう解釈しないと、女性の、こうしたゆがんだ心理(失礼!)を理解することができない。

 もちろんみなが、みな、そうというわけではない。
男性でも、世の中を逆恨みしながら生きている人はいくらでもいる。
今の私もそうかもしれない。
ハハハ。

●おやすみ

 ……しばし、ぼんやりとする。
やがてこの時間も過ぎ、明日になる。

 今夜の講演は、まあまあのでき。
ワイフがそう言った。
それに時間通り、終わることができた。
ほどよい満足感が身を包む。

 ……眠くなってきた。
もう、寝よう。

おやすみ。

2011年7月26日夜記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●7月29日

+++++++++++++++++++

「7月29日」と聞いて、驚く。
今月も残すところ、今日も含めて、残り3日!
……というふうに考えるのは、まちがっているのかもしれない。
月数、日数などというものは、ただの「数字」。
便宜上の「数字」。
今、ここにあるのは、「今日という一日」。
私がすべきことは、今日という一日を、無駄なく、懸命に生きること。

そう言えば、先週、ある温泉に行ったら、そこに血管年齢測定器というのが、
置いてあった。
手の指を装置の中に入れ、1分ほど静かにしている。
するとその人の血管年齢(=健康度)が、グラフで示され、それがプリントアウト
して打ち出される。

どういうしくみによるものなのかは知らない。
信頼性も、どの程度あるのかも知らない。
たぶん、血流の流れを測定し、その流れのよしあしから、「血管年齢」を
計算しようというものらしい。

その測定器によれば、私の「血管年齢」は、51歳と出た。
注意書きには、「実際の年齢より、血管年齢が高い場合には、脳卒中、心筋梗塞
などに注意してください」(記憶)とあった。
逆に読めば、私はこと血管に関しては、健康ということになる。

もっとも温泉から出たあとのことなので、血流の流れはよかったのかもしれない。
料金は、300円。
「51歳」という年齢を見て、悪い気はしなかった。

+++++++++++++++++++++

【ネオテニー進化論・幼児成熟の問題】

●若い人たちの日本語

 このところBLOGやYOUTUBEへのコメントが、多くなった。
ほとんどは好意的なものだが、中には辛らつなものもある。
そういうコメントを読んでいると、ふと、こんな疑問が湧いてくる。
最近の若い人たちは、きちんとした日本語が話せるのだろうか、と。
「書けるのだろうか」でもよい。
さらにもうひとつ、気になることがある。
文そのものが、破滅的。

 たとえば昨日も、こんなコメントが寄せられた。
私が、『伸びる子vs伸び悩む子』というタイトルで話した、YOUTUBEについてだが、こうあった。
「こんなことで、決められるのかよお」と。

 たったそれだけ。
禅問答のようでもある。
謎かけ問答のようでもある。

 私はそのYOUTUBEの中で、スタンフォード大学でなされた、『マシュマロテスト』について話した。
あのテストは、1960年代になされ、その後も詳細な追跡調査がなされている。
信頼性はきわめて高い。
もしこうしたテストを否定するというのであれば、では研究とは何かということになってしまう。

 それはそれとして、こうしたコメントを整理すると、こうなる。

(1)きわめて短文(文章になっていない)
(2)相手の心をズバリと一撃する(イヤミ)
(3)論理性がない(非ロジカル)
(4)全体に、謎かけ的(勝手に判断しろと、内容が攻撃的)

 この中で「イヤミ」という言葉を使った。
そのイヤミを平気で口にしたり、文にしたりできる人とというのは、かなり心のゆがんだ人とみてよい。
つまり今、そういう若い人たちが、ふえている。
こうした特徴を反対側から整理すると、こうなる。

(1)長い文章が書けない(文章がつながらない)
(2)説得力のある文章が書けない(短絡的、直情的、直感的)
(3)思考が支離滅裂(ロジカルなものの考え方ができない)
(4)建設的な意見をまとめることができない(破壊的、否定的)

 もっともこういう人たちは、全体の中の一部?
が、気になるのは、ネットユーザーの中に、そういう人たちが多いということ。
つまりこの先、ネット社会が普及すればするほど、そういう人たちがふえてくる(?)。

●直情的、短絡的

 幼児に、こんな質問をしてみる。

「あなたがブランコに乗っていたら、分からず屋のA君が、ブランコを横取りしようとしてきました。
そのときあなたなら、どうしますか?」と。

 これに対して、「横取りはだめと話す」とか、「順番に乗る」とか、そういうふうに考えるのが、常識的。
しかし中には、「そういう分からず屋は、ぶん殴ってやればいい」とか答える子どももいる。
ものの考え方が、直情的かつ短絡的。
ものごとを冷静に、かつロジカルに考えることができない。

 実は、昨日も、こんなことがあった。

 この1週間、発砲スチロール製のパイプ様の棒を教室に置いておいた。
チャンバラごっこをするためである。
が、この遊びはチャンバラごっこというよりは、幼児に自信をつけさせるためにする。
わざと私のほうが負けてみせる。
それによって幼児たちは、「先生をやっつけた」という自信をもつ。
どこか自信喪失気味の子どもには、効果的。
そのあと、見違えるように、積極的になる。

 で、その棒を使って、小6の子どもたちに剣道の基本を教えた。
私は学生時代、柔道をずっと習っていた。
その余力で、剣道にもかなり詳しい。

 で、一通り、それを説明し、「さあ、勉強しよう」と棒をテーブルに置いたとたん、後頭部から一撃。
強烈な一撃だった。
しかも水平打ち。
剣道では、禁じ手である。

 ほんの少し耳をはずれたからよかったもの、まともに当たっていたら、私は鼓膜を破られていたはず。
振り返ったら、S君がニヤニヤと悪びれた様子もなく、そこに立っていた。
私は思わず、「何てこと、するんだ!」と怒鳴りつけた。
が、しばらくは怒りが収まらなかった。

 もともと過剰行動性のある子どもだったが、まさか背後から、力一杯襲いかかってくるとは思っていなかった。
実のところ、こういう子どもが、いちばん、恐ろしい。
ものの道理がわからない。
自己管理能力が弱い。
行動が衝動的で、突発的。

 行動と思考とは、そういう点で連動している。
相互に密接にからみあっている。
相手がまだ私だったからよかった。
もしこれが生徒だったら……。
それで私の教室は閉鎖……ということにもなりかねない。

●作文力

 今さら手遅れかもしれない。
アメリカなどでは、読書力、作文力が教育の柱になっている。
小中学校にも、「Library(読書)」という時間がある。
その教科だけは、学士号ではなく、修士号をもった教師が指導に当たっている。
つまりそれだけ重要視されている。

 が、この日本では、作文力は、ほとんど問題にされていない。
指導するとしても、受験塾が受験対策として、それをしている。
だからというわけではない。
日本語の特性というか、日本語というには、ウーパールーパー的※なところがある。
日々にどんどんと変化していく。
文法などあって、ないようなもの。
文法だけではない。
言葉そのものも、変化していく。

 あと20~30年もすれば、今、私がここに書いている文章にしても、辞書なくして読めなくなるかもしれない。
それは日本の文化にとっても、「熟成」という観点からしても、たいへん悲しむべきことと言ってよい。
若い人たちは、先人の知恵や経験を、そのまま生かすことができなくなる。

●コメント

 辛らつなコメントだったが、私は、もう慣れた。
どうせその程度の文しか書けない人たちである。
本気で相手にする必要はない。
それに先にも書いたように、心はすでに壊れている。
気づいていないのは、本人だけ。
書きたければ書けばよい。
私のほうは、何も考えず、削除するだけ。

 「こんなことでいいのかなあ」という思いは残るが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 作文力 作文力を失った若者たち)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)ウーパールーパー(ネオトニー進化論・幼児成熟)

 以前、別の角度から、ウーパールーパーについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原始反射(2006年7月の原稿より)

++++++++++++++++

赤ちゃんには、赤ちゃん特有の反射
的運動がみられる。

これを、「原始反射」と呼ぶ。

++++++++++++++++

 二男の娘(私の孫)が生まれて、もう2か月になる。名前を芽衣(Mae)という。最近、やっと漢字の名前が決まった。

 その芽衣を想像しながら、改めて心理学の本(心理学用語辞典・かんき出版)を、ひもとく。乳児と幼児は、必ずしも、連続的につながっているわけではない。たとえば、赤ちゃんには、赤ちゃん特有の、反射的運動がある。

 これを「原始反射」と呼ぶ。この原始反射の多くは、生後3~4か月で、消失してしまうことが知られている。

 その原始反射には、つぎのようなものがある(心理学用語辞典より)。

(1)把握反射
(2)バビンスキー反射
(3)モロー反射
(4)口唇探索反射
(5)自動歩行反射
(6)マグネット反射

 把握反射というのは、手のひらを指などで押すと、その指を握ろうとする現象をいう。

 バビンスキー反射というのは、新生児の足の裏を、かかとからつま先にかけてこすると、親指がそりかえり、足の指が開く現象をいう。

 赤ちゃんの胸の前に何かをさし出すと、それに抱きつくようなしぐさを見せることをいう。ドイツのモローによって発見されたところから、モロー反射と呼ばれている。

 口唇探索反射というのは、赤ちゃんの口のまわりを指などで触れると、その指を口にくわえようとする現象をいう。

 自動歩行反射というのは、脇の下を支えながら、右足に重心をかけると、左足を前に出そうとする。これを繰りかえしていると、あたかも歩いているかのように見えることをいう。

 マグネット反射というのは、両脇を支えて立たせると、足が柱のようにまっすぐになる現象をいう(以上、同書より要約)。

 これらの現象は、短いので、生後2~4週間で、長くても、8~10か月で消失すると言われている。で、こうした現象から、つぎの2つのことが言える。

 ひとつは、乳児が成長して、そのまま幼児になるのではないということ。赤ちゃんには、赤ちゃん特有の成長過程があり、その期間があるということ。

 もうひとつは、前にも書いたが、いわゆるネオトニー進化論の問題である。その原稿は、このあとに添付しておくが、要するに、人間は、未熟なまま誕生し、その未熟さが、こうした現象となって、現れるのではないかということ。

 本来なら、こうした原始反射といったものは、母親の胎内で経験し、誕生するまでに消失しているべきということになる。つまりわかりやすく言えば、人間は、その前の段階で、誕生してしまうということになる。

 ご存知の方も多いと思うが、人間は、(ほかの動物もそうだが)、母親の胎内で、原始の時代からの進化の過程を、一度すべて経験するという。初期のころには、魚のような形にもなるという。その一部が、誕生後も、こうした原始反射となって現れる(?)。

 もしあなたに、今、赤ちゃんがいるなら、一度、この原始反射を試してみるとよい。何かの新しい発見ができるかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

日本人は、未熟な民族?

そんなことを考えさせられるのが、
ネオテニー(幼児成熟)進化論である。

+++++++++++++++++++

●幼児性の持続(ネオトニー進化論)

 人間は、ほかの動物たちとくらべても、幼児期から少年少女期までの期間が、著しく長い。鳥の中には、孵化すると同時に歩き始め、エサを自分で食べ始めるのもいる。

 つまり人間は、未熟なまま、生まれる。そしてその分、親(とくに母親)の手厚い保護を受けなければならない。

 ……という話は、常識だが、同じ人間でも、種族によって、その「期間」が違うのではないか。

 私自身も、幼稚ぽいところがあったが、35年前に、オーストラリアの大学へ留学したとき、向こうの学生たちが、みな、私よりはるかにおとなに見えたのには、驚いた。
本当に、驚いた。
「これが同じ大学生か!」と。

 で、以来、ときどき、私は、この問題を考える。
こうした「違い」は、なぜ生まれるのか、と。

 それについては、いろいろな説がある。
欧米と日本とでは、子育てのし方そのものが違うという説。日本では、元来、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子と位置づける。
が、欧米には、そういう考え方は、ない。
ないものはないのであって、どうしようもない。

 つまり、欧米では、子どもは、生まれながらにして、1人の人格者として、扱われる。育てられる。

 ……というふうに、私は考えてきた。しかしそれだけでも、ないのではないか。

 昨夜も、バラエティ番組なるものを、かいま見た。20~25歳前後の若い女性が、10~15人ほど、そこに並んでいた。私は、その若い女性たちの顔を見て、あ然とした。

 幼稚顔というよりは、まさに幼児そのもの。
Sというよく知られた、司会者(お笑いタレント)に誘われてあれこれ意見を述べていたが、「これが20歳を過ぎた女性の意見なのだろうか」とさえ、思った。

 一説によると、私たち日本人は、欧米人と比べても、幼児性を残したまま、おとなになる遺伝子をもっているという。
生まれてからおとなになるまでの期間が長いとも解釈できるし、反対に、精神的におとなになりきれないまま、体だけはおとなになるとも解釈できる。

 前者の説をとるなら、日本人は、それだけ教育期間を長くしなければならないということになる。
後者の説をとるなら、日本人は、民俗学的(生態学的)に、未熟な人間ということになる。
さらに恐ろしい意見もある。

 日本人の子どもの前頭連合野の発育が、以前よりも、未熟になりつつあるというのだ(沢口俊之著「したたかな脳」日本文芸社)。そのため、

「以前は、小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないというのが、現状です。

 これは状況を判断する力や、自己をコントロールする力が衰退しているということ、すなわち、自分の行動を積極的に制御する脳の機能が未熟になっていることを示しています」(同、P131)と。

 「小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないというのが、現状です」という澤口氏の意見には、「?」を一つ、つけたいが、しかし、年々、子どもたちが幼稚化しているのは、私も感ずるところである。

 とくに男児の幼稚化が著しい。たいはんが、どこかナヨナヨしていて、ハキがない。

 で、こうして、子どもたちは、幼児性(幼稚性)を残したまま、おとなになる。
あるいはおとなになりきれないまま、おとなになる。

 一般論として、子どもというのは、その年齢になると、その子どもの年齢にふさわしい、「人格」が育ってくる。「核」というか、(つかみどころ)ができてくる。
その年齢に比して、「子どもっぽく見える」というのは、日本では、あまり問題視されないが、国際的に見れば、決して、好ましいことではない。

 そこで全体として、たとえば高校生や大学生をみると、日本の高校生や大学生は欧米の子どもたちと比較すると、かなり子どもっぽいのがわかる。
澤口氏の説によれば、つまりその分、大脳前頭連合野の発達が、未熟(?)ということになる。

 こうした違いが生まれるのは、教育によるものなのか。それとも遺伝子によるものなのか。

 「したたたかな脳」の著者の澤口氏は、「ネオテニー」という言葉を使って、日本人の幼児性を説明する。

 「ネオテニーとは、(幼児成熟)、つまり幼い時期の特徴をもったままで成熟し、繁殖することをいいます。

 その有名な例は、アホロートル(ウーパールーパー)です。
アホロートルは、サンショウウオの一種で、サンショウウオは、両生類です。

 ですから幼生期に水中でエラで呼吸し、成長すると、変態して、肺で呼吸するようになり、陸上で生活します。

 ところがアホロ-トルは、変態しません。つまりエラをもったまま、つまりは幼生期のまま、水中で生活します。繁殖も幼生期のままの姿でします。いってみれば、カエルがオタマジャクシのままで、卵を産んでしまうようなものです。

 これをヒトにあてはめて考えた進化論が、「ネオテニー進化論」です。(中略)

 ネオテニー化が進むということは、進化の過程で、ヒトがネオテニー的な特徴をより多く、身につけてきたという意味です。

 ネオテニー的な特徴とは、単純な言い方をすれば、外見的に、子どもぽいとか、未熟だとかいうことです。
このような身体的な特徴から見ると、ヒトの大人は、幼児の姿をとどめたまま成熟したチンパンジーのようにも見えます。

 そしてアジア人(モンゴロイド)が、年齢よりも若く見えるのは、より多く、ネオテニー的な特徴を備えているということです。
とくに日本人は、幼くみえるようです」(同書、P133~)と。

(わかりやすく言えば、欧米人は、たとえていうなら、サンショウウオ。アジア人は、幼児成熟なままで発育が止まっている、ウーパールーパーということになる。)

 ナルホドと思ったり、そうだったのかと思ったり……。
日本人は、極東の島国で生活し、他民族のように、「血」の交流をほとんどしてこなかった。
その結果、モンゴロイドとしての特徴が、そのままより色濃く残ってしまったのかもしれない。
骨相学的に見ても、日本人の骨相(顔)が、悲しいかな、世界で一番、貧弱だと言われる理由も、そこにある。

 それはさておき、澤口氏の意見に従うなら、私たち日本人は、日本人のあり方そのものを、基本的な部分から、考えなおさなければならない。
短い足や、貧弱な骨相はともかくも、人格的な完成度という意味では、考えなおさなければならない。

 そしてそれが教育でカバーできるものであれば、「教育」そのものも考えなおさなければならない。澤口氏の言葉を借りるなら、「状況を判断する力や、自己をコントロールする力」を、どうやって養うかということにもなる。

 昨日、静岡市での講演に出かけるとき、駅構内で購入した本だったが、おもしろかった。
久々に、頭の中で、火花がバチバチと飛ぶのを感じた。興味のある方は、どうぞ!

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Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●マガジン(7-29)過剰行動性のある子ども

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 7月 29日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●過剰行動児

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【突然、キーキー声を張りあげる子どもについて】

【N先生より、はやし浩司へ】

お久しぶりです。先生、お元気でしょうか。
うだるような暑さの中でも子どもたちは
元気に遊んでいます。
今日は、保育園の園児のご相談をしたいと
思います。

興奮したりすると、「キー」とまるで猿のように
叫ぶ子がいて、とても気になります。
一人そんなことをすると、まねをする子が出ます。
友達と遊んでいて、喜んでいる時かと思いますが、
本当によく響き渡る声です。

この子は、5歳児ですが、サ行やタ行がうまく
言えません。でも、友達とはおしゃべりが盛んです。
実習生やボランティアの方などが保育園に
みえると、おんぶや抱っこをせがんだり、べったり
甘えたりして積極的に行動します。
家庭では、母親にほとんど甘えたがる様子は見せない
ということです。

単に、そんな声を出して楽しんでいるのか、それとも
何か彼の心のなかを表現しているのでしょうか。
子どもですから、キャッキャと騒ぐのは慣れているのですが
この子の声はとても気になります。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●問題点

 問題点は、つぎの3つある。
それぞれを別に考える。
が、ここでは(1)の過剰行動性について考える。

(1)キーキー声を張り上げる。
(2)発語障害
(3)母子関係の不全(マターナルデブリベーション)

【はやし浩司より、N先生へ】

●樹香庵

 暑いですね。
冗談のような話ですが、おとといの夜は、浜北区の森の家にある、樹香庵に一泊しました。
すばらしい一軒家旅館です。
そこでのこと。
風呂上がりに体重計に乗ったら、何と72キロ!
ギョーッ!
少し腹が出てきたかなと思っていましたが、7~8キロもオーバーです。

 で、そのショックといったら、たいへんなものでした。
とたん意気消沈。
ガックリときました。
で、しばらくしてから、ワイフにも体重を測らせました。
そのワイフも、いつもより6キロもオーバー。
……ということで、体重計が壊れていることを知りました。
ホーッとしましたが、そんなこともあり、昨日と今日は、運動+ダイエット。
サイクリングを2単位(40分x2)、プラス、カロリーメイトと軽食のみ。

 昨日、1キロ減量。
今日、500グラム減量。
現在、66キロ。
それでも標準より、4~5キロ、オーバー。
しばらく苦しいダイエットがつづきそうです。

●キーキー・ボイスについて

 幼児のキーキー・ボイス(突発的で、耳をつんざくようなキーキー声)は、第一に、過剰行動性を疑
います。
もう30年ほど前から、アメリカでは問題になっています。
「過剰行動児」と訳されていますが、日本では一般的ではありません。

 原因は、低血糖です。
日常的に、糖分の多い食生活(ジュースやアイスクリームなど)を摂取していると、血糖値があがりま
す。
その血糖値をさげようと、インシュリンが分泌されます。
で、血糖値はさがりますが、血中に残ったインシュリンが、さらに血糖値をさげつづけます。
結果として、低血糖児になるわけです。

 低血糖になると、脳の抑制命令がきかなくなり、行動に過剰性がみられるようになります。
以前書いた原稿をこのあとに添付しますが、砂糖断ち(白砂糖)をすれば、1週間ほどで、ウソのよう
に静かになりますから、一度、試してみてください。
つまり原因は、食生活と考えます。
(かんしゃく発作、あるいはてんかん症も疑われますが……。)

 付随的な症状としては、(1)体の緊張感が保てず、ダラダラとした様子になる(カルシウムイオン
不足)、(2)集中力がつづかない、(3)興奮性が強くなる、などがあります。

 あわせて海産物の多い食生活に切り替えます。
海産物には、K、Mg、Caが多く含まれています。
イギリスでは昔から、「カルシウムは紳士を作る」と言われています。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●過剰行動児(2007年に書いた原稿)

●砂糖は白い麻薬

++++++++++++

甘い食品になれた子どもから、
甘い食品を取りあげると、
禁断症状に似た症状が観察される。

私はこのことを、すでに30年前
に発見した。雑紙にも、そう書いた。

それが最近、科学的に、証明され
つつある。

++++++++++++

●禁断症状

 アメリカの国立薬物乱用研究所の、N・D・ボルコフ(女性研究者)は、つぎのような論文を発表し
ている。

 「……過食症ラットのばあい、砂糖を多く含むエサを与えたあとに、ナロキソンというオピオイド拮
抗剤(脳内快楽物質の働きを妨げる薬)を投与すると、禁断症状が起こる。

 モルヒネを注射したあとに、ナロキソンを投与したのと同じく、禁断症状が生ずるのだ。この結果か
ら、糖分の多いエサを食べつづけることによって、身体的な依存が生じていたことがわかる。人間でも
同じ反応が起こるなら、禁断症状を緩和する処置が、ダイエットに役立つかもしれない」(日経・サイ
エンス・07・12月号・P55)と。

 これはラットについての実験だから、そのまま人間に当てはまるとはかぎらない。しかし一歩、近づ
いた! つまり白砂糖でも、麻薬に似た禁断症状が起こる!

 その30年前に書いた原稿をさがしてみたが、見あたらなかった。そのかわり、当時の原稿をもとに、
書き直した原稿が見つかった。中日新聞に、8年前に発表した原稿である。この中に書いた、U君とい
うのは、今でもよく覚えている。

++++++++++++++

●砂糖は白い麻薬

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的にカミ
ソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えるとわかりや
すい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(アメリカ小児栄養
学・ヒューパワーズ博士)。

つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、
そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害す
る、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、4月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだった。
母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。

U君は突発的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタ
イプの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらもった
いないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君は1日、
100~120グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そこで私はまず砂糖
断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケットを
くれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症状のよ
うなものがあらわれることがある。U君のもそれだった。

夜中に母親から電話があったので、「そのまま砂糖断ちをつづけるように」と私は指示した。が、その
1週間後、私はU君の姿を見て驚いた。U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反
応がなくなってしまったのだ。

何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだけ。母
親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないものを選ぶ。
今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの必要量は確保できる。
ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10~15グラム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。

もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキーと声を
はりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い
食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考え
る学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与えると、
せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。

とは言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾
力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流
れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯
ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかに
し、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるように
するため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品を遠ざけること
はできない。

●こわいジャンクフード

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み出し
ているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要なことである」
と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・
フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経
のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっ
ている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性が残る
子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期間が長ければ長
いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカルシウム
不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。脳神経細胞の興奮
性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそい。神経衰弱、精神病にか
かりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という
説もある。

子どもの食生活を安易に考えてはいけない。

+++++++++++++

 30年前の当時、『白砂糖は麻薬』と、私は書いた。U君の禁断症状(ほんとうは、麻薬による禁断
症状というのは、知らなかったが)、その禁断症状を目(ま)の当たりに見せつけられて、私は、そう
書いた。

 U君は、幼稚園から帰るとすぐ、冷蔵庫を足で蹴りながら、「ビスケット!」「ビスケット!」と叫ん
だという。そのあまりの異常な様子に母親があわてて、私に相談してきた。

 が、当時、『白砂糖が麻薬』と考える人は、だれもいなかった。私の意見は無視された。おかしなこ
とに、当時は、「砂糖は、滋養要素」と考えられ、「甘いものを断つと、かえって子どもの情緒は不安定
になる」と主張する学者さえいた。

 私はN・D・ボルコフ(女性研究者)の論文を読んだとき、「やはりそうだった」と、確信を得た。
まだラットでの実験段階だから、先にも書いたように、人間にそのまま当てはめて考えることはできな
い。先に、「あと、一歩!」と書いた私の気持ちを理解してもらえれば、うれしい。

●お母さんたちへ

 ショッピングセンターなどの飲食コーナーなどへ行くと、よく、子どもの頭よりも大きなソフトクリ
ームや、ジュースを、食べたり、飲んでいる子どもを見かけますね。

 それがいかに危険なものであるかを知るためには、あなた自身が、一度、自分の頭より大きなソフト
クリームや、ジュースを、食べたり、飲んでみることです。

 量は、体重で計算します。体重、15キロの子どもが、ソフトクリーム1個を食べるということは、
体重60キロのおとなが、4個食べる量に等しいということです。

 いくらおとなでも、4個は食べられませんね。食べたら、気分(=頭)がおかしくなります。それだ
けではありません。一時的な血糖値の急上昇が、その直後に、低血糖を引き起こすことも、よく知られ
ています。「甘いものを食べて、どうして低血糖?」と思われる人もいるかもしれません。理由は簡単
です。血中に大量のインシュリンだけが残り、必要以上に血糖値をさげてしまうからです。

 突発的に衝動的な行動に移る子どもは、この低血糖を疑ってみます。わかりやすく言えば、突発的に、
キーッとか、キャッキャッと、甲高い声を張り上げて、(たいていは耳をつんざくような金きり声で)、
騒ぐようでしたら、まずこの低血糖を疑ってみます。

 『砂糖は、白い麻薬』です。もしどうしても、甘い食品……ということでしたら、精製していない、
黒砂糖をお勧めします。黒砂糖には、CA、MG、Kなどの天然のミネラル分がバランスよく含まれて
いますから、ここでいうような(突発的な行動)は起こりません。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ボルコフ 
過食症ラット 禁断症状)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●インシュリンの分泌について

 ついおととい、こんな論文がネット上に、ニュースとして流れました。
「ペットボトル症候群」というのが、それです。
「ペットボトル症候群」という言葉は、もう10年以上も前からあります。
毎年、夏になると、話題になります。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにあります。

『ペットボトル症候群(ペットボトルしょうこうぐん、PET bottle syndrome)とはスポーツドリンク、
清涼飲料水などを大量に飲み続けることによっておこる急性の糖尿病である。
糖尿病性ケトアシドーシスの症状となった若い人達の多くがペットボトルで清涼飲料水を飲んでいた
ことから「ペットボトル症候群(清涼飲料水ケトアシドーシス)」と名付けられた。1992年5月に、
聖マリアンナ医科大学の研究グループが報告した』(ウィキペディア百科事典)と。

 このばあいは、一度に多量の糖分を摂取することにより、インシュリンの分泌が停止してしまうとい
うことになります。
その結果、急性の糖尿病が起るというわけです。
ひどいばあいは、そのまま昏睡状態に陥ってしまうこともあるといいます。
(こわいですね!)

 どうであるにせよ、糖分の過剰摂取は、子どもの脳の発育には、よい影響を与えないということにな
ります。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●キレる子ども(感情、行動に抑制のきかない子ども)

 キレる子ども(突発的に錯乱状態になって、暴れる、興奮する)についても、ひとつの原因として、
白砂糖の過剰摂取が疑われています。
一部、原稿がダブるかもしれないが、それについて書いた原稿をさがしてみます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【栄養学の分野からの考察】

●過剰行動性のある子ども

 もう二〇年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養学)
が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプの子ども
である。

日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によるナイフの殺傷事件が続
いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取りあげられたことがある(九八年)。
日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、この分野の研究者として知られて
いる。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私にこう
相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。

話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱していて、その
様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意すると、H君は突発
的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動性も気になると母親は
言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興奮状態になることも珍しくな
かった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなった。私はその異常な興奮性から、H
君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断したり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方法を用意しない
まま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが過剰行動児をわかった
ところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそれを口にすることは許されない。

診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば自閉症児や
かん黙児)では、専門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。この過剰行動児につ
いてもそうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの子どもは過剰行動児です」
と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知っていても知らぬフリをしながら、
その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安になり、ホルモ
ン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」という。メカニズムは、
こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々に分泌される。しかし一
時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり必要とされる量以上の量のイン
スリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にしてしまうという(大沢)。

そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、(2)無気力、(3)疲れやすい、
(4)(体が)震える、(5)頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞九八年2・12)。
これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる症状でもある。
私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそういう報告を受けたこ
とがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する二つの
命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つかめ」という行動
命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。

この二つの命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低血糖に
なると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切るような動きに
なる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝手に小刻みに動いて
しまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコントロールもできなくなり、一
度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それがキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり過ぎる
と、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内のブドウ糖
は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血液を中和しようと、
骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。

体内のカルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の発育が
不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた回復が遅くな
るなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく言えば、カルシウム
が不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こしやすいというのだ。甘い食品
を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質であるセ
ロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの生化学者のミラ
ーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中枢に
重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリング」八一年(7)
号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる問題行動が、食物と関
係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている白砂糖の量は、次のようになっ
ている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入ったジャ
ムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶など、あ
らゆるものにつけて食べています」と。

私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。が、
異変はその直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビスケットがほ
しい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状のようで、恐ろし
かった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力状態になってしまったとい
う。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、H君はまるで別人のようになっていた。
ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそういうH君を横目で見ながら、「もう一度、ジャムを
食べさせましょうか」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリスでは、
「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じたら、砂糖断ち
をする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころがける。私の経験では、
幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの子どもが見違えるほど落ち着くの
がわかっている。

川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与するだ
けでなおる」(「マザーリング」八一年(7)号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そうでな
くても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体重15キ
ロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲む量に等しい。
おとなでも缶ジュースを四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製されて
いない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、ここでいう弊害
はない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過剰行動児 
セロトニン悪玉説 キレる子供の原因 キレる子どもの原因 切れる子供 原因 キレる子ども 原
因 原因物質)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●N先生へ

 その子どもには、砂糖断ちを勧めてみたらよいでしょう。
しかしこれは食生活の問題というよりは、母親の買い物癖の問題です。
一時的に母親が気をつけても、また数か月もすると、元に戻ってしまいます。
母親の買い物癖が、また始まるからです。
ショッピングに行っても、甘い食品を選んで買う、など。

 ですから母親自身が、かなり心を鬼にして、つまり覚悟をして治そうという意識がないかぎり、子ど
もの過剰行動性は、治らないということです。
そこで私は、「冷蔵庫をカラにせよ」という提言をしています。
それについて書いた原稿もあるはずです。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●買い物グセ

 夏場になると、がぜん多くなるのが、体をクネクネ、ダラダラさせる子ども。原因は、いろいろある。

 クーラーなどによる、冷房のかけすぎ。睡眠不足。それに、甘いものの食べすぎ。

 この時期、どうしても、アイスやかき氷が多くなる。ジュースや、清涼飲料水などなど。糖分のとり
すぎが遠因となって、カルシウム、マグネシウム、カリウムなどの不足を引き起こす。

 だいたいにおいて、世の母親たちよ、ものごとは、常識で考えてみようではないか。

 体重12キロの子どもに、缶ジュース一本を与えるということは、体重60キロのおとなが、5本飲
む量に等しい。それだけ多量のジュースを一方で、与えておきながら、「どうしてうちの子は、小食な
のでしょうか」は、ない!

 ……というような話をすると、ほとんどの親は、自分の愚行(失礼!)に気づく。そして、こう言う。
「では、今日から、改めます」と。

 しかし、問題は、この先。

 しばらくの間は、母親も注意する。しかし数週間から1か月、2か月もすると、また、もとにもどっ
てしまう。もとの食生活にもどって、また子どもに、甘い食べ物を与えてしまう。

 思考回路がそうできているからである。つまり、この思考回路、それにもとづく行動パターンを変え
るのは、容易なことではない。

 買いものに行くと、また同じ、ジュースだのアイスを買い始めてしまう……。

 では、どうするか。

 こうした思考回路を変えるためには、ショックを与えなければならない。「ショック」である。

 話は、かなり脱線するが、昔は、チンドン屋というのがいた。新しい店ができると、そこの経営者が
チンドン屋を雇い、そのチンドン屋が、そのあたりをぐるぐると回った。

 私たち子どもは、それがおもしろくて、いつまでも、そのチンドン屋について歩いた。

 つまりそうすることで、もちろんその店の宣伝にもなるが、そのあたりに住む人たちの、行動パター
ンを変えることができる。たとえば人というのは、一度、ある店に行き始めると、その行動パターンを
変えるのは、容易なことではない。

 「お酒……」といえば、「A酒屋」と。
 「お米……」といえば、「B米屋」と。

 そこで新しくできた店は、そのあたりの人たちがもつ、そういう意識、つまり行動パターンを変えな
ければならない。それがチンドン屋というわけである。

 たしかにあのチンドン屋は、ショックを与えるという意味では、効果がある。派手な服装に、派手な
鳴り物。それに踊り。チンチン、ドンドンと音に合わせて、踊りながら回る。そのあたりの人たちは、
それを見て、自分の行動パターンを変える……。

 では、どうするか?

 あなたには、あなたの買い物グセがある。その買い物グセをなおすには、どうするか。

 もうおわかりかと思うが、その行動パターンを変えるためには、自らにショックを与えればよいとい
うことになる。ショックを与えて、自分の行動パターンを変える。

【一つの方法】

 今すぐ、冷蔵庫の中にある、甘い食品(アイス、ジュース、プリンなど)を、すべて袋につめて、捨
てる。「もったいない」と思ったら、なおさら、心を鬼にして、捨てる。

 この「もったいない」という思いが、ショックとなって、あなたの意識、行動パターンが変わる。

 こういうとき、「つぎから、買うのをひかえればいい」とか、「もったいないから、食べてしまおう」
と考えてはいけない。そういうケチな根性をもつと、またすぐ、もとの買い物グセにもどってしまう。

●マターナル・デブリベーション

 ついでに母子関係の不全についての原稿をさがしてみます。
どうか参考になさってください。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マターナル・デブリベーション(Maternal Deprivation、母子関係不全症候群)

+++++++++++++++++++

乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係の欠如を、「マターナル・デブリベーション」
という。

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8~10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デブリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

++++++++++++++++++

●心の葛藤

 母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはない。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。

++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++

●症状(1)

【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。
漠然と怖い。
超泣く。所構わず突発的に。
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める)
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中)

【その他質問、追加事項】
抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続けた。

反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われ、
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)ようになり 年
末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カウンセラーの言葉)自分の
存在が0になったと思い全く身動きが取れなくなりました。

●症状(2)

【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安等を感じます。
電話に出たり一人で外出できません。

母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立ち直れません。
フラッシュバックがよく起きます。

常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋り続ける妙な
癖のようなものがある。

「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解放されると信
じていたりして自分でもマズイと思ってます。

普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたりヒスっぽい奇
声を発することもあります。これはごく稀です。

++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++

●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、心が開
くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、タマラ、アマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこむ習性
がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特の症状が
現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってきた。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになっている。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅
れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。
ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、それを末尾
に添付しておく。
 
 マターナル・デブリエイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待した
りするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってきた。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされたが、最
後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

●いじめの問題

 このマターナル・デプリベイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少し
書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待し
たりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児~年長児(4~6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとした
表情を示す。
全体の7~8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももいる。
(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)
しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持することがで
きる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要が
ある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子どもがいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満足げで
おっとりした様子を示す。
人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえば、
いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
 「マターナル・デプリベイベーションという問題があるのは、わかった。では、私はどうなのか?」
と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難しい。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれない。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、そうし
ていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この「マタ
ーナル・デブリベーション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、
それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なことではな
い。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということもある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もりに関して
いるという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エンドロフ
ィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デプリベーション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日付は、2008年7月となっています。
古い原稿ですが、そのまま掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考原稿)【自立と自律】(分科会、レジュメ)

●自立と依存

++++++++++++++++

自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、
相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

++++++++++++++++

たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしています。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えてはいけない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがちだが……。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依存性が強くな
る。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、ママ」と自分に
甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い物など、雑務
のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってください」とい
う相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければならない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はない。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、親自身が自
立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜文化圏の民族
は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもないようだ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由のひとつにな
っている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、セルフ・コ
ントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつの大切なバロ
メーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわかってきた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができなくなると言わ
れている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

++++++++++++++++

それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。

++++++++++++++++

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家には二
匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これをA犬とする。
もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからもらってきた。これを
B犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年にもな
ろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決して心を許
さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減
るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振
ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そ
べっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木鉢は全滅。
小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠実で、門をあけて
おいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいの
か、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは
詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。
A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っ
ている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信頼している。
幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じよ
うなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。こ
のタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の動きが平坦にな
る、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)な
ど。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の
心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心
を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。
そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそ
れだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまかす。茶化す。
そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそ
うだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。……と書いて、
ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」とい
う人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部
分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭不和、育児
拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題ではない。問題はそう
いう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。たいていの人はそれに気づか
ないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけで
はない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそうい
うもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ自分自
身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。「あ
あ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相
手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。
そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の過去を
のぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではなく、そういう過
去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題は、それに気づくだけ
でも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということになる。

(はやし浩司 Maternal Deprivation マターナル デプリベイション マターナル デプリベーショ
ン 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi
education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 マターナルデプリベイション マターナル 母子関係 母性愛の欠落 ホスピタリ
ズム 長畑 施設病 人間性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込み 保護と依存 子どもの依存性 幼
児期前期 自律期 幼児期後期 自立期)

(参考)ペットボトル症候群

Yahooニュース(2011-0712より)

『…… ペットボトル症候群の正式名称は、「ソフトドリンク(清涼飲料水)・ケトーシス」。継続して
大量にジュースなどの清涼飲料水を摂取することで、血糖値が上昇。血糖値を一定に保つホルモンのイ
ンスリンの働きが一時的に低下してしまう。

 インスリンが欠乏するとブドウ糖をエネルギーとして使えなくなり、脂肪などを分解する。その際に
「ケトン体」と呼ばれる代謝成分が増え、血液が酸性に傾く。「意識がもうろうとしたり、倦怠(けん
たい)感があったり。昏睡(こんすい)状態に陥ることがあります」と、大阪府内科医会会長で、ふく
だ内科クリニック(大阪市淀川区)の福田正博医師は説明する。

 糖分の過剰摂取で血糖値が上がると、それを薄めようとしてさらに水分を欲して喉が渇く▽尿の回数
も増える▽喉の渇きに任せてさらに甘い飲み物を飲む-という悪循環に陥る。福田医師は「危険なのは
夏場に中高生が部活動で水代わりに大量に清涼飲料水を飲んだり、毎日2、3リットル飲んでいたりす
るような場合。突然倒れる場合もある」と警告する。

 福田医師によると、インスリンの投与などの治療によって、症状は比較的早期に治まるケースが多い。
しかし、注意が必要なのは肥満体型の人。糖尿病予備軍と呼ばれる人たちはインスリンの働きが悪く、
よりリスクが高まるという』(以上、Yahooニュースより)と。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし
浩司 幼児教室 浜松 BW子どもクラブ BW教室 はやし浩司 育児論 最前線の子育て論byは
やし浩司 知育教育 知能教育 Hamamatsu Japan



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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Tuesday, July 26, 2011

●私とは何かbyはやし浩司  ●掛川グランドホテルにて

【私とは何か】byはやし浩司
 
●自己中心性(Egocentricity)

++++++++++++++++++

自分がそう思っているから、相手も
そう思っているはずと考えるのは、
自己中心性以外の何ものでもない。

あるいは自分がこう思っているから、
あなたもそう思えというのもそれ。
さらに一歩進んで、「私は正しい」と
思うのは、その人の勝手。
が、その返す刀で、「あなたは
まちがっている」というのもそれ。

こうした自己中心性は、発達過程に
ある乳幼児の心理に共通する。
つまり自己中心的な人は、それだけ
乳幼児に近いということになる。
もう一度、乳幼児の心理について、
おさらいをしておきたい。

+++++++++++++++++

●乳幼児期(エリクソン・心理発達段階論)

 この時期の幼児の特徴を一言で表現すれば、「自己中心性」ということになる。
ものごとを、(自分)を中心にして考える。
「自分の好きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなものは、他人も嫌い」と。

 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思いこむ。自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。
これをピアジェは、「アニミズム」と名づけた。
心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って、この時期の子どもの心理を説明する。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。
風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。
……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心理をいう。
ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。
乳幼児は、心の中でそれを念ずることで、実現すると考える。
……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられたと考える心理である。
人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。
そういう心理は、乳幼児の人工論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎えることがある。

●自己中心性

 私も子どものころ、……小学1年生くらいのことではなかったか、学校へ行く途中、こんなことを考えた。
「目に見えない、うしろの世界はどうなっているんだろう」と。

 前の世界は、目で見ることができる。
しかしうしろの世界は、見えない。
だからひょっとしたら、うしろの世界は、私が目を離した瞬間、消えてしまうのではないだろうか、と。

 まさに自己中心的な発想である。
が、こうした現象は、私だけのものではなかった。
そのあと、同じように考えている幼児や、小学生に、何人か出会った。
その子どもたちも、同じようなことを言っていた。

●否定期

 こうした自己中心性は、やがて修正期に入る。
言い換えると、人格の完成度は、いかに自己中心的でないかによって、決まる。
ピーター・サロベイの「EQ論」を例にあげるまでもない。
が、それで終わるわけではない。
そのあと今度は、自己中心性の否定期へと入る。

 簡単に言えば、私から「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。
つまり私というのは、ちょうどタマネギのような構造をしている。
私の周りを、無数の「私」が取り囲んでいる。
その「私」をどんどんと脱ぎ去っていく。

 すると私はかぎりなく、かつ細く、小さくなっていく。
所詮、私というのは、その程度のもの。
中には、タマネギの皮を脱ぎ去っていったら、何も残らなかった……という人もいるかもしれない。
この私も含めて、大半の人たちがそうかもしれない。
死ぬまでに、ほんの少しでも私を残せる人は、そんなにいない。

 私たちは、それほどまでに、私であって私でないものに、毒されている。
私でないものを、「私」と思い込んでいる。
つまりその(思い込み)自体が、まさに自己中心性の表れとみる。

●ある宗教団体

 ときどき私の家にも、どこかの宗教団体の人たちが、よく勧誘に来る。
断っても断っても、来る。
が、そういった人たちは、おしなべて、穏やかで穏和な表情をしている。
自分で努力し、自分でそういう境涯に達してそうであれば、それはそれで結構。
しかし中身は、「注入された思想」。
注入された思想をもって、自分の思想と思い込む。
言うなれば、あとから張りつけられたタマネギの皮。
そういう皮でもって、身を飾る。
心を飾る。

 もっともその人自身が、それで幸福なら、それでよい。
事実、幸福そうな顔をしている。
が、そういう人たちは、ひとつの重要な事実に気づいていない。
つまり、たった一度しかない人生を、それと引き替えに、無にしている。

 いらぬ節介かもしれないが、自分の足で立つ。
自分の足で歩く。
不完全で未熟であることを恥じる必要はない。
それに気づいたら、また前に進む。
失敗や挫折を恐れる必要はない。
さらに前に進む。

つまりそれこそが、私たちが「今、ここにいる」という意味である。
無数のドラマもそこから生まれる。
生きる気高さもそこから生まれる。
あのトルストイも『戦争と平和』の中で、こう書き残している。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールの言葉である。

●私たちは何を残せるか

 タマネギの皮をめくることは、勇気のいること。
最悪のばあい、そこには何も残らなくなってしまう。
そんなこともありえる。
その不安があるから、勇気がいる。
「私もただのオジチャン」「私もただのオバチャン」と認めることは、そのまま自己否定につながる。

 何が恐ろしいかといって、人生の晩年になって、「私の人生は何だったのか」と思い知らされることほど、恐ろしいことはない。
それが自己否定ということになる。

 だから釈迦は、『精進』という言葉を残した。
私たちは死ぬまで、ただひたすら精進あるのみ、と。
が、それでも残せるものは、少ない。
が、ヒントがないわけではない。
それが冒頭にあげた、「自己中心性」の否定である。
道はちがい、方法もちがうかもしれないが、それを実行した人は多い。
インドのマザーテレサもその1人。

 私たち凡人には、とてもまねできないが、しかし不可能ではない。
あのマザーテレサは、それを私たちに教えてくれた。

 難しい話しはさておき、あなたもこう思ったらよい。
「自分の中に自己中心的なものを感じたら、それこそ闘うべき、己の敵」と。
けっして楽な闘いではない。
ないが、日々の精進のみによって、達成できる。
方法は簡単。
いつも、何をしても、自分の心に静かに問いかけてみればよい。

「だから、それがどうしたの?」と。

 そのとき、意味のないものは、スーッと風のように消えていく。
意味のあるものは、何か、心にひかかる。
こうして自分のタマネギの皮をむいていく。
で、最後に残ったもの。
それが「私」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 タマネギの皮 私論 私とは何か はやし浩司 私発見)

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●7月27日

+++++++++++++++++

今夜は掛川グランドホテルに一泊。
今、そのホテルの一室にいる。
時刻は、午後11時。
先ほど、市内での講演を終え、このホテルに
やってきた。
掛川市で泊まるときには、いつもこのホテル
と決めている。
駅前にあり、交通の便もよい。
(掛川駅から歩いて、1、2分)
雰囲気も、よい。

ところで今日のお供(パソコン)は、
TOSHIBAのUX。
これが、どうも調子が悪い。
メールにしても、受信はできるが、送信ができない。
ワードを使っているが、一語ごと、変換に時間がかかる。
モタモタというよりは、そのつど動きが止まってしまう。

(たった今、パソコンを再起動してみた。
動きがもどった。
よかった。
こういうときは、再起動をかけてみるのが、イチバン。)

・・・前回このホテルに泊まったのは、ちょうど1か月前。
偶然なのか。
前回泊まった部屋の2つ、隣の部屋。
今夜は5階の、5XX号室。

朝食つきで、1名1泊6000円。
ワイフと2人で、1万2000円。
ポイント割引がついたので、1万1500円。
ワイフはもうベッドの上で、寝息を立てている。

++++++++++++++++++

●ダイエット

 ダイエットの効果が表れ始めた。
つまりダイエットというのは、最初の7~10日前後は、効果が表れない。
いくら運動をしても、またいくら節食をしても、体重はそのまま。
「脂肪が筋肉に変わるため」という説もあるが、私は知らない。
(これはワイフの説。)

 毎日、300~500グラムずつ、体重が減っていく。
それがうれしい。
現在、65・0キロ。
2・5キロの減量に成功。

 そう言えば数日前から、体を軽く感ずる。
それに加えて、運動量をふやしたせいか、頭の回転もよくなった。
中学生を教えていると、それがよくわかる。
頭の回転が悪いときは、脳みそが眠ったような状態になる。
計算ミスが多くなる。

 が、ここで油断をしてはいけない。
明日の朝食は、バイキング。
私の意思の強さが試される。
どこまでがまんできるか。
私たち団塊の世代は、バイキング料理を前にすると、こう考える。
「食べなければ損」と。
心貧しい世代。
それが試される。

 目標の63キロまで、あと2キロ。
苦しい闘いがつづく。

●秘策

 今度、生徒を山荘に招待することにした。
Sさん(中3女子)と、もう1人・・・。
そのSさんが、こう言った。
「奥さんも来るんでしょ?」と。
「そうだ」と答えると、「ああ、よかった・・・」と。

 ひとつ秘策がある。
最初、Sさんを、ボロボロの農家へ連れて行く。
(一軒、廃屋になった農家がある。)
「ここが山荘」と、説明する。
「あの木が、その木」と、説明する。

少し前、Sさんにこう言った。
「先日、山荘の前の木で、首をつって死んだ人がいてね」と。
「その木」というのは、その木をいう。
で、Sさんが、泣きべそをかき始めたら、私の山荘へ連れて行く。

 風呂はドラム缶、ベッドはベニア板、トイレはボットン便所、・・・ときどき朝起きると、ヘビが横で寝ている。
Sさんにはそう話してある。
Sさんは、それを本気にしている。
いつも私のことを、「オヤジ」と呼んでいる。
そのカタキを、今度、取ってやる。
生意気な子だが、あっけらかんとした明るい性格。
自分でも「私は男」と言っている。
そんな性格が、私は好き。

(ただし、ワイフは、この秘策には反対。
「かわいそうだから、そんなことをしてはだめ」と言っている。
どうするかは、その日の雰囲気で決める。)

●至極の時

 こういう夜は、いつまでも文章を書いていたい。
私にとっては、至極の時。
部屋の温度は、最適。
静か。
デスクの横のランプの明かりも、よい。

 ワイフは、背中側のベッドで熟睡中。
すっかりバーさん顔になった。
そんなワイフが小娘のような姿勢で眠っている。
片方の手を頬にあて、横向きに眠っている。

 今週は、名古屋市でもう一泊するつもり。
すでに予約をすませてある。
が、これも老後の過ごし方のひとつかもしれない。
生活の中に変化をどんどんと、取り込んでいく。
それが脳に、ほどよい緊張感を与える。
ボケ防止には、よいのでは・・・?
多分?

●自由

 先ほどから、スカイプの呼び出しがつづく。
たぶんアメリカに住む二男からのものだろう。
しかし今夜は、やめた。
今の私には、「この時」が大切。
穏やかで満ち足りた夜。
自由な夜。
私は今、脳みその中を自由気ままに飛び回っている。
何かを書かねばという気負いもない。
ひらめいたことだけを、書いている。
私には、それが楽しい。

 そう、中国語で「自由」というのは、「自らに由る」という意味。
これについては、何度も書いた。
が、英語では、「freedom(自由)」という。
「freedom」というときは、何も束縛のない状態をいう。
今、その「freedom」を、満喫している。
私を束縛するものは、何もない。
私はしばし、その心地よさに、酔いしれる。
 
●メール

 先ほど、Kさんという方から、メールが入った。
BW教室(私の教室)への見学を申し込んできた。
しかしこの7月に、満員になってしまった。
例年だと、今の時期、クラスを2つに分ける。
が、今年は不景気。
2クラスに分けるほど生徒が集まらない。
だから1クラスのまま。
しばらくこのまま。
だから満員。

 その旨のメールを送ろうとするが、何度トライしても、サーバーのほうで
切断されてしまう。
?????

 試しに自分宛にメールを送信してみるが、これもだめ。
?????
こんなことは今までになかったこと。

●見学

 ある幼稚園の園長も、そう言っていた。
最近の母親たちは、幼稚園でも、「当然入れる」という前提でやってくる、と。
が、引き受けられる子どもと、そうでない子どもがいる。
そこで幼稚園のほうで、「お引き受けできません」とでも言おうものなら、猛烈にそれに抗議してくるという。
「どうしてうちの子は、入れてもらえないのですかア!」と。

 私の教室ではさらにそうで、一度だけだが、こう言われたことがある。
「何を、お高く留まっているの!」と。
その言葉が今でも、トラウマになっている。
見学を断わるにも、神経を遣う。

●老人組

 今夜の講演でも、こんな話しをした。
「昔は子どものほうが、ごめん、ごめんと、謝りながら生活していた。
今は、親のほうが、ごめんごめんと言って生活をしている。
さらに、最近に至っては、祖父母のほうが、孫に、ごめんごめんと言って生活をしている」と。
親子の立場が逆転している。

 同じような意識が、親たちの世界にも入り込んでいる。
社会のほうが、親たちに、ごめんごめんと言いながら、頭を下げている。
もっとも、そういう社会を恨んでもしかたない。
若い人たちを責めてもしかたない。
そういう社会にしたのは、私たち。
私たちの責任。

 言い換えると、私たち老人組は、ますます小さくなるしかない。
社会の隅で、ひっそりと生きていくしかない。
しかし・・・。
そういう世界で、結局は、損をするのは、若い人たち。
今はわからない。
保護者が何重にも、そのうしろで構えている。
その保護者がいなくなったら、どうなるのか?
どうするのか?
そのとき、それがわかる。

●掛川グランドホテル

 話しがかなりグチぽくなってきた。
読む人だって、おもしろくないだろう。
だからこの話しはここまで。

 で、ワイフが言うには、このホテル(掛川グランドホテル)は、インドネシアのホテルみたい、と。
ライティングもそうなっている。
ロビーを飾る調度品もそうなっている。
「エキゾチック」という言葉が、ふさわしい。
ひとつだけ残念なのは、大浴場がないこと。
露天風呂でもあれば、最高。
が、もしそうなら、とても先の料金では泊まれない。

 先ほど窓の外の景色をしばらくながめた。
大きな駐車場をはさんで、立派な民家が、左右に並んでいた。
「駅に近くていいな」と思った。

●逆恨み

 話題を変えよう。

 思春期を通り過ぎると、男性も女性も大きく変わる。
が、男性のばあいは、どんな形であれ、社会の前面に出ることができる。
しかし女性のばあいは、そうでない。

 それなりに恋愛をし、結婚できればよい。
が、そうでないときに、女性は、心をゆがめる。
失恋がつづけば、なおさら。
その一例というわけでもないが、軽自動車に乗っている若い女性ほどこわいものはない。
スピード違反など、朝飯前。
ふつうのスピード違反ではない。
社会を逆恨みしているかのような走り方をする。
もちろん信号無視、駐車場無視。
さらに今日、こんなことも発見した。

 プラットフォームで列車の到着を待つ。
そのときのこと。
若い女性たちは、「列」を作らない。
ブラブラとバラバラに立っている。
私たちは、そのうしろに並んだ。
が、あとから来た女性たちが、どんどんと横に張りついてくる。
割り込みなのだが、割り込んでいるという意識すらない?

 どうしてか?

 これも子どもたちの発達段階を見ていると、よくわかる。
小学2、3年生までは、男児をいじめ、泣かすのは女児。
いじめられて泣くのは男児。
いじめて泣かすのは女児。
それが小学3~4年生を境に逆転し始める。

 そのときから、女性には、(欲求不満)が、うっ積するようになる。
それが慢性化する。
社会に出ると、さらにそうで、それが先に書いた「逆恨み」に転化する。
自動車を運転していても、余裕がない。
心に余裕がないから、運転にも余裕がない。

・・・とまあ、私は、勝手にそう解釈している。
またそう解釈しないと、女性の、こうしたゆがんだ心理(失礼!)を理解することができない。

 もちろんみなが、みな、そうというわけではない。
男性でも、世の中を逆恨みしながら生きている人はいくらでもいる。
今の私もそうかもしれない。
ハハハ。



 ……しばし、ぼんやりとする。
やがてこの時間も過ぎ、明日になる。

 今夜の講演は、まあまあのでき。
ワイフがそう言った。
それに時間通り、終わることができた。
ほどよい満足感が身を包む。

 ……眠くなってきた。
もう、寝よう。

おやすみ。

2011年7月26日夜記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Monday, July 25, 2011

●作られる反日感情(中央日報社記者へ)

●作られる反日感情(韓国・中央日報紙のケース)2011-7月
중앙 일보사 재일 기자에

++++++++++++++++++

21日午前、仁川(インチョン)空港を出発した、
大韓航空A380旅客機が、日本の成田空港に
着陸する際に揺れ、エンジン下部が滑走路を
こすった。

A380といえば、世界最大の新型旅客機。
その旅客機のエンジンが、強風にあおられ、
滑走路をこすった。
ひとつまちがえば、大惨事になっていた。
韓国のことは知らないが、日本ではこの種の
事故は大々的に報道される。
相手が韓国であるかどうかということは、
関係ない。
「大惨事になっていたかもしれない」という
点で、事件になった。

が、韓国の中央日報は、つぎのように伝える。

+++++++++++++++++++

+++++++++以下、韓国、中央日報より++++++++++++++

大韓航空A380航空機が日本で着陸する際、翼の下の部分が滑走路にかするという軽微な事故が発生した。これを日本メディアが大々的に報道し、意図的な‘恥さらし’ではないかという指摘が出ている。

(中略)

大韓航空側は「着陸時に風が激しく吹いたため、操縦士も気づかない間に機体が揺れ、(滑走路に)ややかすったようだ」と話した。

成田空港側はA380が着陸した滑走路を約20分間閉鎖し、機体と滑走路を点検した。しかし特に大きな異常はなかった。大韓航空は運航に支障はないと判断し、乗客と乗務員を乗せてソウルに予定時間より1時間10分遅れで到着した。

成田空港側は記者らを呼んで滑走路の写真を撮らせるなど異例の措置を取った。大韓航空の関係者は「乗客も衝撃をほとんど感じていない軽微なものだった」とし、「ただ、日本のメディアがこれを報道したのは、独島(ドクト、日本名・竹島)をめぐる神経戦と関係があるとみられる」と述べた。

日本外務省はA380が就航前に独島をデモフライトしたことに反発し、最近、大韓航空利用自粛命令を出し、この問題は韓日両国の外交問題に発展した。

+++++++++以上、韓国、中央日報より++++++++++++++

●被害妄想

 この記事の中で、とくに注意深く読んでほしいところは、つぎ。
『ただ、日本のメディアがこれを報道したのは、独島(ドクト、日本名・竹島)をめぐる神経戦と関係があるとみられる」と述べた』と。

 つまり事故そのものは、とるに足りない軽微なものであった。
にもかかわらず、日本のメディアが報道したのは、竹島(独島)をめぐる神経戦と関係があるとみられる、と。

 ほとんどの読者(日本人)は、この部分を読んで、唖然とするにちがいない。
私もそうだが、そんなこと微塵も考えていない。
あなたにしても、そうだろう。
事故というのは、どこの国でも、どんな場所でも起こる。

つまり韓国人記者の勝手な判断。
妄想。
被害妄想。
在日の韓国人記者が、自らの被害妄想をふくらませ、こんな記事を書いた。

●韓国人はどう読むか

 こんな記事が「日本発」として、韓国で報道される。
簡単な想像力を働かせてみればよい。
もしあなたが韓国人で、韓国でこの記事を読んだら、あなたはどう感ずるだろうか。
あなたならきっと、こう思うだろう。
「あの日本人め(=イルボネめ!)、また韓国いじめをしている!」と。
つまりこうして韓国内で、反日感情が熟成されていく。
その一例として、この記事を取りあげてみた。

●中央日報社の在日記者へ

 日ごろの航空機事故の報道を見てほしい。
日本では、航空機事故に関しては、たいへんきびしい見方をしている。
どこの国の飛行機ということは関係ない。
あの123便事故にしても、その飛行機は、その少し前、同じような接触事故を起こしている。
それがあの123便事故につながったという説もある。

 私たち日本人は、韓国の人たちと仲よくしたいと考えている。
が、その一方で、こうした記事を韓国内に流すのは、やめてほしい。
簡単に言えば、被害妄想だけで記事を書くのは、やめてほしい。
「神経戦と関係がある」という部分は、まったくの妄想。
記者であるあなたはそう感じたかもしれないが、私たちはまったくそんなことは考えていない。

 むしろこれ見よがしに、A380を飛ばし、得意になっているのは、君たちのほうではないのか。
その出鼻をくじかれた。
だからこういう記事を書く。
私たちは、むしろ、そう解釈する。

●중앙 일보사 재일 기자에

평소 항공기 사고 보도를보기 바란다.
일본에서는 항공기 사고에 대해서는 매우 엄격한 견해를하고있다.
어느 나라 비행기는 것은 상관 없다.
그 123 편 사고해도 그 비행기는 얼마 전 같은 접촉 사고를 일으키고있다.
그것이 그 123 편 사고로 이어졌다는 설도있다.

우리 일본인은 한국 사람들과 사이 좋게 지내고 싶다고 생각하고있다.
이, 반면에 이러한 기사를 국내에 흘리는 것은 그만두면 좋겠다.
간단히 말하면, 피해 망상만으로 기사를 쓰는 것은 그만두면 좋겠다.
"신경전과 관계가있다"라는 부분은 전혀 망상.
기자인 당신은 그렇게 느낀지도 모르지만, 우리는 전혀 그런 것은 생각하고 있지 않다.

오히려 보란듯이에 A380을 비행하고 자신되어있는 것은 너희들의 편이 아닌가.
그 出鼻을 くじか했다.
그래서 이런 기사를 쓴다.
우리는 오히려 이렇게 해석한다.

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●家族崩壊

【行きすぎた欲望主義】

●家族崩壊

+++++++++++++++++

昨夜(6月1日)、6月用の講演会の
レジュメを書いた。
未完成だが、これをたたき台にし、
今週からの講演で話したい。

++++++++++++++++++

【価値観の転換と、意識・常識の改革】

●「どうすればうちの子は……」

もう20年以上も前のこと。
1人の父親が私の家にやってきた。
そしてこう言った。

「私はあなたの本を何冊も読む暇はない。
どうすればうちの子どもをいい子にすることができるのだ。
一言で言ってくれ」と。

 そのとき私はとっさの思いつきだったが、こう答えた。
「子どもは使うことです。
使えば使うほど、いい子になりますよ」と。

 それから20年以上。
この言葉は何度も私の頭の中で反芻された。
そしてその結論は、今でも同じ。
「子どもは使えば使うほど、いい子になる」と。

(今回は4つのテーマの中から、時間の関係上、X番目のテーマについてのみ、
話す。
この問題を、常識論、意識論をからめて話す。)

2011年6月2日記

●常識

アインシュタインは、こう言った。
「その人がもっている常識などというものは、18歳のときまでにもった偏見のかたまりである」
と。

 こう言うと、「いや、ちがう。私のもっている常識は正しい」と反論する人も多い。
しかしそう断言するのは、少し待ってほしい。
私は40年前、こんな経験をした。

●オリエンタル・スタディズ

メルボルン大学の南の端に、オリエンタル・スタディズという学部があった。
「東洋学部」と訳すのが正しい。
その学部には、日本語学科というのもあった。
私はときどきその学部で、日本語を教えていた。
そんなある日、1人の学生が、私にこう聞いた。
「どうして浅野内匠頭の家来は、吉良上野介を殺害したのか」と。

 いろいろ説明してみたが、だれも納得しなかった。
「悪いのは、浅野内匠頭ではないか」
「死罪(切腹)というのは、重すぎるが、しかし当時の法律でそうなっていたのなら、しかたのな
いこと」
「もし重罪に意見があるというのなら、どうして裁判で闘わなかったのか」と。
さらに「大石内蔵助らが職を失ったのは、浅野内匠頭の責任。どうして浅野内匠頭に責任を追
及しないのか」と。

 西洋では古来、主従関係といっても、契約が基盤になっている。
家来たちは職を失えば、つぎの主君を求めて、いわゆる職探しに歩く。

 さらに困ったのは、水戸黄門。
ある学生がこう聞いた。
「もし水戸黄門が悪いことをしたらどうなるか」と。
そこで私が「水戸黄門は悪いことをしない」と答えると、教室中が騒然となってしまった。
「それはおかしい!」と。

●「釣りバカ日誌」

常識というのは、それぞれの時代を経て、熟成される。
が、こんなこともある。

 釣りバカ日誌という映画がある。
ハマちゃんとスーさんが、あちこちへ釣りに行くという映画である。
あの映画にしても、おかしな点はいくつかある。

その第一。
ハマちゃんにせよ、スーさんにせよ、妻や子どもたちを連れていくことは、まず、ない。
そこで釣りバカ日誌の大ファンという中学生がいたので、聞いてみた。
「ハマちゃんやスーさんは、奥さんを釣りに連れていったことがあるか」と。
するとその中学生は、ウ~ンと一呼吸考えたあと、こう言った。
「ないなア~」と。
「へんな女の人がついてくることはあるけどね」とも。

 日本では何でもない映画だが、欧米では、そういうことはありえない。
もし休日を夫たちだけで過ごしたら、それだけで離婚事由になる。
あるいは男どうしで旅館に泊まれば、同性愛者とまちがえられる。

 欧米では、夫の会社のパーティであるにせよ、夫婦同伴が原則である(注※1)。

●出世主義から家族主義

日本が劇的に変化し始めたのは、1999年のことである。
その年のはじめ、「仕事より家族のほうが大切」と答えた人が、40%を超えた(文部省調査)。
その年の終わりには、45%になった(中日新聞調査)。
それが2007年には、75%(読売新聞・11月)。
これは中日新聞社が調査した。
こうした変化を、当時、「サイレント革命」という言葉を使って説明する人がいた。
そう、まさに「革命」。
今では、どんな調査結果をみても、80~90%の人が、そう考えている。

 が、私たちの時代には、そうでなかった。
仕事か家族かと聞かれれば、みな、迷わず、「仕事」と答えた。
だからこんなことがあった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考2)

99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、40%の日本人が、
「家族」をあげた。

同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足らずの間
に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化
である。

(参考2)2007年11月11日、読売新聞

 一方、いま大切なものは何か(複数回答)では、「家族」90%がトップだった。いざというとき、
家族は頼りになるかでは、94%が「頼りになる」と回答したという。

仕事と家庭のどちらを優先的に考えるかでは、「家庭」75%が、「仕事」19%を大きく上回っ
た。

同じ質問をした81年の調査と比べ、「家庭」は、13ポイント増加した。

 理想とする家族構成では、「祖父母や孫が同居する大家族」が60%で、最も多く、「親と子供
だけの家族」は、27%だったという。
(以上、読売新聞から抜粋。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 私が三井物産という会社にいたときのこと。
当時はまだ、「単身赴任」という言葉はなかった。
2年以内の海外出張を「短期出張」と呼んだ。
短期主張は、単身赴任が原則だった。
だから同僚を大阪の伊丹空港へ見送りにいくと、こんな光景がよく見られた。
「あなたア、がんばってきてねエ!」
「お前もがんばれよ!」と。

 今とちがい、日本は、まだ貧しかった。
休暇ごとに日本へ帰ってくるなどということは、できなかった。
が、2年で帰ってこられるという保証はなかった。
当時は、「短期出張のハシゴ」というのもあった。
赴任先の外地から、また別の外地へ短期出張で飛ばされる。
だからどこの商社でもそうだったが、一度外国へ出ると、4年は戻れなかった。

 その一例として、つまり日本のもつ後進性を表す一例として、1999年に入って、単身赴任に
よる被害について、損害賠償事件に対して、こんな判決があった。
ある男性が、「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校にな
るなど、さまざまな苦痛を受けた」として、会社を訴えた。
それに対して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決を言いわたした。
いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。
もう何をか言わんや、である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

 一方、日本にはこんな話がある。
以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われた」と訴えた男性がいた。
東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。
いわく「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、
さまざまな苦痛を受けた」と。単身赴任は、6年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。
子どもでも、「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。
仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。
今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。
その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。
私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」
と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。
「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてルービ
ン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。
たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすす
めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。

が、日本ではそうではない。
軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。
こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。
言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ある中国人夫婦

 話を先に進める前に、ここで意識について、簡単な実験をしてみたい。
常識の実験と言い換えてもよい。
まず、こんな話。
それを聞いて、みなさんは、どう考えるか、それを静かに心の中をさぐってみてほしい。
みなさんは、みなさんの常識で、まず判断してみてほしい。

 こんな話。
 
 ある商店街に、1組の中国人夫婦が移り住んできた。
中華料理店を始めた。
当初はそれなりに繁盛していたが、そのうち商店街全体が不況の嵐の中に飲み込まれた。
一軒二軒と、シャッターをおろし始めた。
そのときのこと。

 となりの美容院が、ときどき店を閉めるようになった。
それに対して、中国人夫婦が激怒した。
となりの美容院へすごい剣幕で、怒鳴り込んでいった。
「店、開けるあるね!」と。
それだけではない。
道をはさんで、菓子屋があった。
昔からの菓子屋で、その菓子屋だけは客足が落ちなかった。
そこで中国人夫婦は、今度は菓子屋へ行き、こう言ったという。
「客を回してほしい」と。

 美容院を経営している女性は、この中国人夫婦に憤慨した。
菓子屋を経営している夫婦も、憤慨した。
「何という、常識知らず!」と。

●常識

 この話を聞いた私も、最初は、そう思った。
「どう考えても、この中国人夫婦のとった行動は、常識にはずれている」と。
が、もしこんな話を知ったら、たぶん、あなたは別の考え方をするようになるだろう。
こんな話だ。

●周囲との調和

 この4月にオーストラリアへ行ったときのこと。
ボーダータウンという、南オーストラリア州とビクトリア州の、ちょうど州境にある町へ立ち寄っ
た。
友人がそこに住んでいる。

 で、少し郊外へ行くと、みな、日本では想像もつかない広い土地に、広い家を建てて住んでい
る。
土地だけでも、5、6エーカー。
日本風に言えば、数千坪から1万坪。
家も広い。
T氏の家は、居間だけでも40畳以上。
それにどれも20畳以上もある部屋が、5~8つとつづいている。
そこで私が心配になって、こう聞いた。

「税金はどうなっているのか?」と。

 さぞかし税金が高いだろうと思ってそう聞いた。
が、答えは意外なものだった。
「家の広さで、税金は決まらない」と。

 オーストラリアでは、ランド・バリュアー(Land Valuer)という人が税金を査定する。
「この家なら、いくらで売れるか」ということを基準にして、決める。
しかも家を買う側は、売買価格の1.4%の税金を払うだけ(ビクトリア州)。
売るほうには、税金はかからない。

 あとは毎年、決められた税金を払うが、その中心は、ゴミ収集のための税金。
またその程度。

 そこでその地域の住人たちは、家を含めた環境の価値を高めようとする。
価値が高くなれば、売るときに有利。
たとえばとなりの家の芝生が、だらしない状態になっていると、隣人たちがすぐ文句を言いに行
く。
実は私の二男も現在、アメリカに住んでいる。
その二男もこう言っていた。
「芝生を伸ばし放題にしておくと、すぐ文句を言われる」と。
だから二男は、毎週のように芝を刈っている。

 が、この日本では、そうではない。
となりがどんな家を建てようが、それはとなりの人の勝手。
イタリヤ風であろうが、和風であろうが、あるいはビルであろうが、その人の勝手。
土地の価値にしても、駅に近ければ近いほど、原則として高い。

 中国では、土地は、原則として、国のもの。
家にしても、建ててから70年は住めるという条件がつく。
が、思考回路は、欧米人のそれに近い。
町の商店街にしても、商店街全体がたがいにもり立てあいながら発展していくもの。
そういう考え方をする。

 そこで先の中国人夫婦のような考え方をするようになる。
「シャッターをおろせば、その影響は自分の家にも及ぶ。だから許せない」と。
また客にしても、たがいに回しあう。
それが中国では常識になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●中国の土地税制について

++++++++++++++++++++

D君は、オーストラリアでも中国研究の第一人者でもある。
中国の土地税制についても教えてくれた。

++++++++++++++++++++

Dear mate,
友へ、

In China, people do not pay tax for their house but the system is different.
中国では、自分の所有する家には税金を払わない。システムが異なる。
Firstly, they can only buy a house not the land underneath.
第一に、彼らは家を買うのであり、その下の土地は買わない。
The land belongs to the government.
土地は政府に属する。
Secondly, they can only buy a house for 70 years.
第二に、彼らは70年間、家を買う。(最長限度は70年。)
So in China, a big company or corrupt official can easily push people of the land which they
are living on.
それで、中国では、大きな会社や役人は、そこに住んでいる人々を容易に追い出すことができ
る。
When a company wants to build a factory in a village, there is a negotiation over price but
the local government is in charge of everything and they can favour the powerful side.
会社が村に工場を建てるとき、価格の交渉をするが、地方政府はすべてに責任をもち、力の
あるほうに味方することができる。
So many farmers sell as soon as they receive a good offer and move into a town.
それで多くの納付は、よい条件がつけば、すぐ家を売り、町へ移動する。
Eventually there will be a shortage of good farming land.
結果的に、農地が不足することになるだろう。
One day the system in China will crash down like a shaky old house.
いつか中国のこのシステムは、がたがたの古い家のように崩壊するだろう。
D
Dより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識の変化

 どちらが正しいとか、正しくないとか、そういうことではない。
しかしここまで話を聞くと、多くの方は、こう思うにちがいない。
「最初は、中国人夫婦の言い分は、常識はずれと思った。
が、そうでもないのではないか」と。

 私も知れば知るほど、むしろ中国人夫婦の言い分のほうが、正しいように思えてきた。
日本人は、「自分がどんな家を建てようが、自分の勝手」と考える。
となり近所の家との調和を考えて、家を立てる人はまずいない。
店を閉めるときもそうだ。

 また「地域」という考え方も、希薄。
商店街の店々が、客を回しあうという話は、最近ではめったに聞かなくなった。
……というか、全国的に、町の通りに並ぶ商店街は、つぎつぎと姿を消しつつある。

●意識

 長い前置きになったが、意識というのは、絶対的なものではないということ。
当然、常識にも絶対的なものは、ない。
私の経験をもとに、話を進めてみたい。

●親のめんどうをみる

 4年おきに、内閣府(旧総理府)は、青年の意識調査をしている。
それによれば「将来、親のめんどうをみる」と考えている若者は、どんどんと減っている。
その多くは、「経済的な余裕があれば、みる」と答えている。

 将来、どんなことがあっても、親のめんどうをみる……28%(日本人・内閣府、平成21年調
査)。

 この数字がいかに衝撃的なものであるかは、他の国々の若者たちのそれと比較してみると
わかる。
私たちが内心では、「さぞかし低いだろうな」と思っているアメリカ人にしても、64%。
アジア各国の若者についてみると、軒並み、80%前後。

 が、この数字はどう考えてもおかしい。
日本は1970年代から高度成長の大波に乗り、世界の歴史の中でもまれにみるほどの大発
展を遂げた。
当然、その時代に生まれた子どもたち、つまりこの会場にいるお父さん、お母さんたちは、たい
へん恵まれた環境の中で、生まれ育った。

 つまり親にもっとも感謝してよい世代の人たちということになる。
そういう人たちが、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
が、現実問題として、経済的に余裕のある人は少ない。
とくに若い世代の人たちは、そうだ。
みな、目一杯の生活をしている。
車にせよ、家財にせよ、あって当たり前の時代に生きている。
私たちの時代と比較するのもヤボなことはよく知っている。
しかし私たちの新婚時代は、たとえばボットン便所から始まっている。
が、やがて小さなアパートに移った。
6畳と4畳だけの、小さなアパートだった。
そこで私ははじめて、水洗トイレの家に住んだ。
うれしかった。
何度も水を流し、においのしないトイレに感動した。

 そういう積み重ねがあった。
が、何よりも大きな違いは、親に対する考え方である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国  35.2%、
日本  28.3%


★将来、子どもにめんどうをみてもらいたいか?


自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい日本の青年は5割弱で、韓国に次いで低い。


★「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか


『そう思う』(2)
イギリス  70.1%、
アメリカ  67.5%、
フランス  62.3%、
日本  47.2%、
韓国  41.2%
(以上、内閣府、平成21年調査より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●収入の半分は、実家へ

 私たちの時代に、だれかがこう聞いたとする。
「君は将来、親のめんどうをみるか」と。
もしそんなことを聞かれたら、私は迷わず、こう答えたであろう。
「バカなことを聞くな!」と。

 「当然のこと」という意味で、そう答えたであろう。

 事実、私は浜松市に住むようになってから、収入の約半分を、実家に送った。
結婚前からそうしていた。
現在のワイフと結婚するときも、それが条件だった。
だからワイフも、何も文句を言わないで、収入の半分を実家へ送った。
それだけではない。
私の母は、ときどき私のアパートへ来ては、現金をもって帰っていった。
私の土地を勝手に売ってしまったこともある。
それについて私が泣いて抗議すると、母は、平然とこう言ってのけた。
「親が先祖を守るために、息子の金を使って、何が悪い!」と。

 母を責めているのではない。
母は母で、その当時の常識に従って生きていた。
今の私が自分の常識に従って生きているように。
今のあなたがたが、自分の常識に従って生きているように。

●出世主義から家族主義へ

戦時中から戦後へ。
日本は敗戦により、大きく変わった。
が、そう見えるのは、表面的な部分だけ。
つまり包装紙が変わっただけ。

「お国のため」が、「会社のため」になった。
「兵士」は、「企業戦士」になった。
それまでの「神国日本」は、「金権日本」になった。

 こうして戦後生まれの世代、つまり団塊の世代と言われる私たちの世代は、会社人間とし
て、社会へと巣立っていった。
だから当時の学校では、卒業式などには、決まってこう言われた。
「社会で役立つ人間になってください」と。
耳にタコができるほど、私たちはそれを聞かされた。

 が、これではいけない。
個人が組織の犠牲になってはいけない。
個人が家族の犠牲になってはいけない。

 たとえば私などは、「親孝行」という言葉も、それこそ耳にタコができるほど、聞かされて育っ
た。
それを如実に表す言葉が、「産んでやった」「育ててやった」という、あの言葉である。
あの言葉ほど、恩着せがましく、同時に、真綿で首をしめるような言葉はない。
だからこそ、それが私の常識となり、給料を手にするようになってからも、収入の半分を実家
へ送るということにつながっていった。

●反動

だから私は3人の息子たちを育てながらも、そういう言葉は、絶対に口にしないと誓った。
事実、言ったことはない。
反対に、こう言った。
「お前たちの人生は、お前たちのもの。お前たちはお前たちの人生を、自分の好きなように生
きろ」と。

が、変革は、若者たちのほうから始まった。
その象徴的な人物が、尾崎豊である。

●尾崎豊の『卒業』

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」という、あの歌である。
私ははじめてあの歌を聴いたとき、ふつうでない衝撃を受けた。
「ああいう歌を歌うから、学校の窓ガラスが割られるのだ」と。

 が、それはまさに若者たちの、世代闘争の始まりだった。
少し時代が逆行するが、私たちの時代は、60年安保、70年安保を経験した。
それは権力との闘いだった。
何かわからない。
わからないが、自分たちの体をがんじがらめにしているものと闘った。
よくイデオロギー(政治的信条)が問題になったが、イデオロギーをもっているのは、学生の中
でもほんの一部。
大部分の学生たちは、言うなれば、祭り騒ぎのひとつとして、闘争に参加した。
「祭り騒ぎ」というのは、少し言い過ぎかもしれない。
しかし今、振り返ってみると、そういう印象をもつ。

 で、私たちの時代を、反権力闘争の時代とするなら、尾崎豊らが提起した闘争は、反世代闘
争ということになる。
旧態の価値観を打ち破り、自分たちの時代を確立しようとした。
わかりやすく言えば、自分たちの世代を、それまでの世代と、切り離そうとした。

 が、これはその世代の人たちにとっては、不幸なことでもあった。

●世代闘争

 知恵や知識は、世代から世代へと、受け継がれていく、
が、それを自ら断ち切ってしまう。
切るだけならまだしも、古い世代の知恵や知識を、意味のないもの、価値のないものとして、排
斥してしまう。
事実、排斥した。
古い世代の言葉に耳を傾けなくなった。
つまり断ち切った世代は、すべてを、ゼロから始めなければならない。

●行き過ぎた価値観

 こうして尾崎豊の世代は、より過激になっていった。
というより、尾崎豊は、その時代の若者たちの心を代弁した。
共感を得たというのは、そういう意味。
CBSソニーに問い合わせたところ、あの『卒業』は、シングル盤も含めて、200万枚以上も売
れたという。

 誤解がないように申し添えておくが、私自身は、尾崎豊が大好きである。
『卒業』も大好きである。

 で、若者たちは、世代闘争を繰り返し、自分たちの時代を確立した。
その結果が、今のみなさんの世代ということになる。
新しい価値観を構築した。

●2つの問題

 が、今、ここで大きな問題が起きてきた。
私はその問題を、つぎの2つに集約する。

ひとつは、(1)行き過ぎた家族主義。
もうひとつは、(2)欲望至上主義。

 行き過ぎた家族主義については、先に少し触れた。
日本が行動性長期にさしかかるころ、「核家族」という言葉が生まれた。
それがしばらくすると、「カプセル家族」という言葉に置き換わった。

 核家族というのは、夫婦と子どもたちだけで構成される家族をいう。
カプセル家族というのは、硬いカラの中に閉じこもってしまい、独自の価値観を極端化してしま
う家族をいう。
高学歴の父母に、多く見られた。
「私たちの育て方が正しい」と言いながら、その返す刀で、相手の価値観を否定する。
教師すらも、「下」に置くことによって、自分流の育児観をごり押しする。
具体的には、その派生として、「教育ママ」という言葉が生まれた。
「モンスターママ」という言葉も生まれた。

 が、問題はこれだけでは収まらなかった。
行き過ぎた家族主義の結果として、その「家族」から、「祖父母」の姿が消えた。
今、若い世代の人たちが使う「家族」という言葉の中には、「祖父母」、つまり自分たちの両親
の姿はない。
祖父母は、つまり自分の親たちは、家族ではない。

 このことを短絡的に、独居老人、孤独死、無縁死と結びつけるのは危険なことである。
ある社会学者の推計によれば、今後約60%の老人が、孤独死するという。
しかも発見までの平均日数は、6日。

 こういう話をすると、ここにいるみなさんは、「私はだいじょうぶ」と思うかもしれない。
「私と子どもの関係は絶対。親子の絆も太い」と。
しかしそれはどうか。
ここにあげた60%という数字は、私たちの世代の数字ではなく、現在の40代、50代の人たち
の数字である。

ともあれ家族、とくに祖父母とその息子、娘の間の絆が、もろく壊れやすくなっているのは、事
実。
それが先にも書いた、「経済的に余裕があれば……」という言葉につながっていく。
この言葉を裏から読むと、「経済的に余裕がなければ、親のめんどうはみない」。
さらには「親の恩も遺産しだい」という考え方につながっていく。

 ついでながら、世代闘争をした結果、老人は社会の隅に追いやられてしまった。
本来なら政治がそうした社会的欠陥を補完しなければならない。
が、その政治が追いついていない。
その結果が、現在の老人福祉政策ということになる。

 昔は、息子や娘が親の老後のめんどうをみた。
今は、みない。
そのかわり……という部分が未完成のまま、労時福祉政策だけがアタフタとしている。
たとえば私の近所にある特別養護老人ホームにしても、症状にもよるが、2年待ち、3年待ちと
いうのは、ザラ。
順番にしても、100番待ちという状況がつづいている(浜松市中区長寿保険課調べ)。

●欲望
 
 もうひとつは、欲望至上主義。
その代表的なものが、恋愛至上主義。

 韓流ブームに代表されるように、今の日本は、恋愛市場主義一色。
たがいに愛しあっていれば、何でも許される、と。
昔で言う駆け落ちなど、いまどき珍しくも何ともない。
結婚するについても、ほとんどが事後承諾。
親の許可を求めたり、親の意見を聞く子どもは、皆無。
まずいない。
皆無ということは、実は、この会場に来ているあなたがた自身が、いちばんよく知っているは
ず。

 ある男性は、実家へ規制するたびに、別の女性を連れてきた。
そしてそのたびに親にこう言ったという。
「パパ、(彼女の)名前をまちがえないでよ」と。

 そして別のある日のこと。
また突然、別の女性を連れてきて、「結婚することにしたから、よろしく」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、理解できないだろう。
「どこが悪いのだ」と。
それが冒頭で話した、「常識」ということになる。
「意識」そのものが、ちがう。

 私たちの時代には、それがよかったとは思っていないが、しかし親の承諾なしには結婚はで
きなかった。
仮に恋人ができたとしても、そこには「実家」という大きな関門があった。
私自身にしても、実家の父や母のことを考えるあまり、一度、ある女性との結婚を断念してい
る。
親が反対したわけではないが、自ら、そうした。
それが私たちの時代には、常識だった。

●フェニルエチルアミン

最近の脳科学では、感情は、脳ホルモンによるものというのが、定説になりつつある。
恋愛とて例外ではない。
恋愛も、脳ホルモンによるもの。
それがフェニルエチルアミンである。

 その時期になると、男や女は、熱烈な恋愛をする。
身を焦がすような、甘い陶酔感。
当の本人たちは、自分の意思で恋愛しているように思っているかもしれない。
しかし実は、脳ホルモンの奴隷になっているだけ。
それが悪いというのではない。
人間には、動物として、種族を後世に残すという重大な任務がある。
またそれがあるから、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに価値がある。

 たとえば10年ほど前、『タイタニック』という映画が、大ヒットした。
あの映画の中に、もしジャックとローズがいなかったら、あの映画はただの船の沈没映画にな
っていただろう。

 しかし何ごとも行き過ぎはよくない。
恋愛はすばらしい。
人生の花。
しかしそれに溺れてしまってはいけない。
恋愛至上主義に走るということは、欲望の奴隷になることを意味する。
酒に溺れたり、タバコに溺れるのと同じ。
最近の脳科学によれば、視床下部から発せられたシグナルに応じて、ドーパミンが分泌され
る。
それが生きる原動力にもなっている。
フロイトが説いた「性的エネルギー」にもつながる。
しかしそれが行き過ぎると、先にも書いたように中毒性をもつ。
麻薬性をもつ。

 わかりやすく言えば、自分を見失う。
自分が自分であって、自分でなくなる。
恋は盲目とはいうが、盲目程度ではすまなくなる。
だから、こわい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●欲望の根源

かつて、私もそうだった。あなたもそうだった。が、今、子どもの心の中では、猛烈な「性的エネ
ルギー」(フロイト)が、わき起こっている。「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

 最近の研究によれば、脳の中の視床下部というところが、どうやらそういった信号の発信源
ということがわかってきた(サイエンス誌・08年)。その視床下部からの命令を受けて、ドーパミ
ンという脳間伝達物質が放出される。

 このドーパミンが、脳の中の線条体(報酬と行動要求に関する中枢部)というところを刺激す
ると、猛烈な(欲望)となって、その子ども(もちろんおとなも)を支配する。ふつうの反応ではな
い。最終的には、そうした欲望をコントロールするのが、大脳の前頭前野(理性の中枢部)とい
うことになる。が、「意志の力だけで、こうした衝動を克服するのはむずかしい」(N・D・ボルコ
フ)という。

 線条体が刺激を受けると、「あなたは、目的達成に向けた行動を起こせというメッセージを受
けとる」(同誌)。
 もちろん欲望といっても、その内容はさまざま。
食欲、性欲、生存欲、物欲、支配欲に始まって、もろもろの快楽追求もその中に含まれる。
わかりやすく言えば、脳の中で、どのような受容体が形成されるかによって決まる。

たとえばアルコール中毒患者やニコチン中毒患者は、それぞれ別の受容体が形成されること
がわかっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●これから……

まず念頭に置くべきことは、私たちがもっている常識というのは、絶対的なものではないという
こと。
その常識を疑う。
私やあなたがもっている常識を疑う。
いろいろな弊害が生まれてくれば、なおさら、である。

 その常識の基本となっている意識。
その意識を変えることは可能である。
その一例として、冒頭で、中国人夫婦の話をした。
つまりこの話の中に、問題を解くヒントが隠されている。

 方法は、(1)常識のおかしさに気づくこと。
つぎにそれに気づいたら、(2)意識を変える。
そのために自分の心を風通しのよいものにする。
視野を広くして、他人に考えに進んで耳を傾ける。
そういうことをわかってもらいため、冒頭で、忠臣蔵の話をした。
水戸黄門や釣りバカ日誌の話をした。

 同じように、私たちが今もっている家族観、育児観をながめなおしてみてほしい。
意識が変われば、ものの見方が180度変わるということもよくある。
同時に常識も、変わる。

 今日の講演では、つぎの2つの焦点をしぼって、みなさんに伝えたい。

(1)家族主義から新家族主義へ

 これから子どもたちに「家族」の話をするときは、そこに「祖父母」、つまりあなたがたの両親
の姿を加える。
これはあなた自身のためでもある。
それがわからなければ、今の自分の年齢に、子どもが社会人になるまでの年数を足してみれ
ばよい。
「子育てがやっと終わった」と思った瞬間、そこに待っているのは、あなた自身の「老後」であ
る。
今度は、あなた自身が、その「祖父母」ということになる。

が、今、みなさんは、自分の姿と「下」、つまり子どもの姿しか見ていない。
しかしそれではいけない。
「家族」というときは、そこには当然、「祖父母」も含まれなければならない。
これが第一。

(2)欲望至上主義の是正

 欲望の追求には、ブレーキをかけなけばならない。
そのひとつとして、「恋愛」を例にあげた。
恋愛はけっして、すべてに優先されるべきものではない。
たとえそれが身を焦がすほどつらいものであっても、だ。
あなたであってあなたでない部分が、あなたを操っているだけ。

 ニコチン中毒や、アルコール中毒と、メカニズム的には同じ。
脳の中の線条体というところに受容体ができ、そこで条件反射運動を起こしているだけ。
欲望の奴隷になってよいことは、何もない。

 で、恋愛をひとつの例としてあげた。
もちろん恋愛を、欲望と考えてよいかどうかという点については、異論、反論もあるだろう。
しかしフロイト学説に従うなら、「性的エネルギー」は、すべての欲望の原点になっている。
そういう意味で、ここで恋愛をひとつの例として、考えてみた。
つまり「恋愛」という仮面にだまされてはいけない。
それが正当化されるのを許してはいけない。

●では、どうすればよいのか

子育てには、多くの誤解がある。
たとえば「すなおな子ども」という言葉がある。
「すなおな子ども」というと、ほとんどの人は、親や先生に従順で、親や先生の言うことを、ハイ
ハイと聞く子どもと考えている。
が、これは誤解。

 心理学の世界で「すなおな子ども」というときは、情意、つまり「心」の状態と、顔の表情が一
致している子どもをいう。
うれしいときには、うれしそうな顔をする。
悲しいときには、悲しそうな顔をする。
そういう表現が、自然な形でできる子どもを、すなおな子どもとい。

 つぎにやさしさ。

●やさしさ

「やさしい子ども」というと、たとえば柔和でおだやかな子どもを想像する人は多い。
が、そういう子どもを、「やさしい子ども」とは言わない。
たとえばブランコに乗ってたとする。
そのとき別の誰かがやってきて、ブランコを横取りしたとする。
そういうとき、「いいよ……」と言って、ブランコを明け渡してしまう。
そういう子どもを、やさしい子どもとは言わない。
またそういう子どもほど、また別のところでさまざまな問題を引き起こすことがわかっている。

 では、どういう子どもをやさしい子どもというか。

 子どもにとって「やさしさ」というのは、より相手の立場になって考えられる子どもをいう。
たとえばショッピングセンターで、ものを買うときも、いつもだれかのことを考えて買う。
「これはお父さんの好物だね」とか、「これを買ってあげると、お兄ちゃんが喜ぶね」と。
もう少し専門的に言えば、より自己中心的でない子どもを、「やさしい子ども」という。
またそれができる子どもを、(子どもに限らないが)、人格の完成度の高い子どもという。
人格指数、つまり人格の完成度を知る、ひとつのバロメーターにもなっている。

 が、今日の話に関係しているのが、忍耐力ということになる。
その忍耐力も、よく誤解される。

●忍耐力

よく「うちの子はサッカーだと一日中しています。
忍耐力はあるはずです。
そういう力を、勉強に向けさせたいが、どうしたらいいか」と相談してくる親がいる。
しかしそういう力は、忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。

 子どもにとって、またおとなにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。
ためしに今日、家に帰ったら、子どもにこう言ってみるとよい。
「台所の生ゴミ、きれいにして」と。
「風呂場にたまった毛玉を掃除して」でもよい。

 そのときあなたの子どもが、何もためらわずそれができたとしたら、あなたの子どもは忍耐力
のある子どもということになる。

●では、どうするか

 それが冒頭にあげた話、ということになる。

 子どもは使う。
使って使って、使いまくる。
長い前置きと、回り道をしたが、これが結局は、この講演の結論ということになる。

『子どもは使う』。

 ついでに言うなら、古来、この日本では、子どもをかわいがるということは、子どもに楽をさせ
ることというふうに考える。
「楽」イコール、「楽しませること」と考える人も多い。
それに拍車がかかったのが、高度成長期に入ってから。
それこそ子どもが生まれると、蝶よ花よと手をかけた。
時間をかけた。
お金もかけた。

 その結果、私たちの時代で、「ドラ息子」「ドラ娘」と呼ばれる子どもたちがふえた。
ふえたというより、そういう子どもが主流になった。
すでに20年前には、そうでない子どもは、さがさなければならないほど、少なくなった。
今では、高校生にしても、親に感謝しながら通っている子どもはいない。
大学生でもいない。
お金をもらうときだけは、「ありがとう」と言う。
しかしそこまで。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どももいる。
それもそのはず。

 現在の子どもたちは、そしてここにいるお父さん、お母さんは、子どものときから「勉強しろ」
「勉強しろ」と言われて育っている。
ある女子高校生は、親が「大学進学をあきらめてくれ」と言われたとき、それに猛烈に反発し
た。
「子どもを大学へやるのは、親の役目。借金でも何でもして、私を大学へやって!」と。

 今は、そういう時代である。
子どもが社会人になりとき、その支度金まで、親が出す。
結婚式の費用も、親が出す。
さらに子どもが生まれると、その生活費まで、援助する。

 私たち団塊の世代は、こういう現状を見ながら、こうこぼす。

「私たちは両取られの世代」と。
親に取られ、子どもたちに取られ……と。
なぜ、こうなってしまったか。
それが言うまでもなく、常識であり、意識であるということになる。
それがどのようなものであれ、一度はその常識を疑ってみる。
そして「おかしい」と感じたら、今度は意識を変えてみる。
そのヒントとして、今日は常識論、意識論にからめて、子どもをどう育てたらよいかを話してみ
た。

 これからの子育てのひとつの指針になればうれしい。
なぜならこの問題だけは、あなたがたみなさんの近未来の老後に直結する問題である。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(注※1)

●男は仕事、女は家庭?(2008年、調査)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(2008年8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほど、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%

そうは思わない……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに
対して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前
の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

(参考)

●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)
●ああ、父親たるものは……!
++++++++++++++++++
平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

(3)人格の完成

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1) 自己管理能力
(2) 良好な対人関係
(3) 他者との良好な共感性

とくに需要なのが(3)の共感性(より愛他的、非自己中心性)

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。



(2011年6月2日、作成)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 常識論 意識論 常識改革 意識改革 はやし浩司 父親のようになりたくない 
はやし浩司 父親を尊敬していない 総理府調査 青少年白書)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。

申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。

『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」と
いう質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。見慣れない
ものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感することが、より重
要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。

ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。

浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。

が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。

『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉
は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)
と。

つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。

申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。

今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

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●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。

 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。

 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまっ
た」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、
会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。

いわく、

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっし
て程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。

(1)子どもたちに尊敬される

(2)子どもたちを尊敬する

(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない

 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬してい
ない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。


★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という質問に
対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、

  イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。

 もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。

『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。

 へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。

「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 はやし浩
司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる)2011/07/26再収録推敲


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司