Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, December 29, 2007

*Miniture TV Station

●USTREAM 放送局(USTREAM TV Station)

I have just finished registering myself at the USTREAM TV station, and my code name is “BW-Hamamatsu”. Please enjoy it from this coming January.

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USTREAMというサービスを使うと、
LIVEで、超ミニ放送局を、開局する
ことができる。

(もちろん自分の映像を、写真のように
保存しておくこともできる。これは、
YOU TUBEに似ている。)

早速、登録してみた。あとはWEBカメラを
取り付ければ、OK。

現在は、あちこちのミニ放送局をのぞいて
いるところ。けっこう、それが楽しい。

チャット方式で、こちらからメールを
送ることもできる。

メールは、そのまま相手方の画面に表示さ
れる。その瞬間、「ハママツのBWさん、
USAへ、ようこそ!」と、画面上の
相手から、反応が返る。

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USTREAMの登録は、

http://www.usream.tv/

で、する。

「Sign Up」で、必要事項を書き込めば、
それで登録は終了。ついでに自分のチャンネルを
つくり、放送局も開局!

2008年1月以後は、
「BW-Hamamatsu」で、
検索できるはず。

「search」のボックスに、「BW-Hamamatsu」
と書き込んで、クリックすれば、私の放送局を、見て
もらえるはず。

しばらく、このUSTREAMにハマりそう。
「ヘエ~、こんなこともできるようになったの
だなあ」と、今は、感心している。

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なおマガジンのHTML版(カラー版)のほうでは、
画面をそのまま紹介するつもり。

時間を決めて放送します。

*Authoritarianism and its swindle cases

【今朝・あれこれ】(12月30日)

●ニセ学歴(Misrepresentation of Educational Background)

I receive letters occasionally from unknown universities which ‘sells’ the educational background of the false. People buy them and decorate themselves with the false career as authorizes in their fields. Why do these people try to deceive us with the false career? The reason is quite simple. Japanese as well as Koreans are poor at the authority. We call this, ‘Authoritarianism’. And we call these people, ‘Authoritarian’.

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韓国で始まった、ニセ学歴詐称事件が、
この日本にも飛び火してきた。

かなり著名な栄養学の権威(?)まで、
ニセ学歴を詐称していたという。

ほかに、文科省が調べたところ、約40
~50人の大学教授らが、ニセ学歴を
購入(?)。それを自分の経歴に使って
いたことがわかったという。

(しかしこれは、氷山の一角。一般社会
では、もっと多いはず。)

ニセ学歴といっても、いろいろある。
韓国では、他人がもっている卒業証明書
を偽造し、それを使っていた教授もいた。

が、ふつうニセ学歴というのは、その種の
インチキ大学から、学歴を購入することを
いう。

先方も、ある程度、人選らしきものをするらしい。
つまりターゲットをしぼって、接近してくる。

中には、「通信講座で、学位が取れる」を
売り物にしている、ニセ大学もある。
一応、「通信講座」としているところが、
ニクイ!

大学名にしても、実に、それらしい名前
をつけている。韓国では、「ロシア音楽協会」
とか、「ハミルトン大学」とかいう名前が
あがっている。

私のところにも、この種の勧誘がよく、
届く。数年前まで、1年に、2~3通、
届いていた。最近では、インターネット
でも購入できるという。(ヘエ~!)

博士号で、50~100万円というのが、
相場らしい。

で、半年ほど前に、「?」と思う人物に
ついて書いた。テレビなどにも、とき
どき顔を出す。紹介テロップに、「○○
大学卒」とか、また別のテロップには、
「教育学博士」とか、書いてあった。

(最近は体調を崩したとかで、テレビには
出てこなくなったが……。)

「博士」というから、それなりの専門
用語が口から出てくるかと思っていたが、
それがまったくなかった。それで「?」と
思った。

○○大学を検索してみたら、それらしい
ビルの写真は載っていた。教授名とか、
講師名は、ズラリと並んでいた。が、学生
らしきものは、まったく紹介されていな
かった。

それでピンときた。

ニセ博士号である。この日本でも、そう
いうものが、堂々と、使われている。

日本人や韓国人は、権威に弱いから、
この種の詐欺のカモになりやすい。

が、みなさんも、くれぐれも、ご注意!
つまり、そういう肩書きをもった人に、
だまされないように!

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●ニセ学歴(False Career)

 日本では、学歴を詐称していた教授名は、今のところ公表されていない。現在も、調査中ということらしい。

 で、韓国での実態について、報告してみる。韓国では、06年3月に、金を支払ってロシアの音楽大学でニセの修士と博士の学位を取得したということで、120人が検察に 摘発されている。(120人だぞ!)

 平均取得価格は、2000万ウォン(約270万円)。

 が、実際にロシアを訪問したのは、わずか1週間だったという。彼らの中には大学講師はもちろん教授まで含まれており、 自分たちどうしで、「ロシア音楽協会」なる団体まで結成し、活動していたというから驚きである。

 が、特筆すべきは、2002年までテレビ番組にレギュラー出演していた、F・I氏である。彼のばあいは、ソウル大学経済学科を卒業後、CNN記者、マゼランファンドのファンドマネージャーなど華麗な経歴を誇る有名人として、幅広く活動していた。しかしファン氏の経歴はすべてが捏造(ねつぞう)されたものだったという。
実際には、大卒検定試験の一部科目に合格したに過ぎず、米国留学や職務経歴もすべてが虚偽だったという。
 ほかにも、非認可の米国の大学で取得した博士学位を本物のように 見せかけ、学術振興財団に報告していた光州教育大学教授もいたという(以上、朝鮮N報)。

●日本とて無縁ではない!(In Japan, too)

 今でも、簡単な外国ツアーを組み、帰国後、「フランス・XXアカデミィー、研修修了書」なるものを発行する団体が、無数にある。理髪店や美容院などで、この種の(修了書)を、よく見かける。

 最初から、研修など、「形」だけ。実態は、観光旅行。しかし修了書だけは、やたらと豪華。金ピカピカの装丁で、もっともらしい横文字がズラリと並んでいる。つまりは、客だましの7つ道具ということになる。

 が、その上を行くのが、医師の世界。私は20代のころ、通訳として、国際会議なるものに、何度か同行したことがある。

 ちゃんとした国際会議である。その国際会議には、日本からも、東大とか京大とか、一級の学者が参加する。それはそれとして、その教授に、随行する団体ができる。医師だけを専門にする、ツアー企画会社がある。そういった会社が、それを企画する。

 「自分の恩師が国際会議で、研究報告をする」ということで、その弟子たちが集まる。弟子の弟子たちが集まる。しかし実態は、やはり観光旅行。国際会議といっても、たいてい2~3日で終了する。しかもお目当ての(恩師)の研究発表は、1~2時間程度。

 あとは資料だけを、ドッサリともって帰る。それでおしまい。

 が、そういった旅行には、ちゃんと目的がある。「国際会議に出た」というだけで、経歴として生きるのである。事実、そのあと、自分の著書に、「○○年○月、XXXX国際会議に出席」と書いていた人を知っている。さらに、「XX国より、招聘される」と書いていた人も知っている。

 私は当時、「招聘」の意味を知らなかった。読み方も知らなかった。「しょうへい」と読む。「(国が、国として)、礼を尽くして、招待する」という意味である。

 今から30年以上も前の話なので、現在は、どうなっているか、知らない。しかし、こうしたインチキが、そのあと、なくなったという話も、聞いていない。その旅行社にしても、たった今、インターネットで検索してみたが、今も(健在?)のようである。

●くだらない権威主義(Authoritarianism)

 日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。その官僚がなぜ政治ができるかといえば、(天皇)という最高権威を、頂点にいだくからである。その権威が、上から下の下まで、そして骨のズイの奧の奧まで、しみこんでいる。水戸黄門の葵の紋章に、その例をみるまでもない。

 どうして葵の紋章ごときに、みなは、頭をさげなければならないのか? 頭をさげるのか? またそういうドラマの1シーンを見て、日本人は、どうしてそれを「痛快!」と思うのか?

 それが権威主義である。

 その権威主義が、姿を変えて、こうした学歴詐欺事件につながっている。実際、この日本は、肩書きのある人には、たいへん住みやすくできている。仕事は、向こうから、やってくる。が、そうでない人には、そうでない。その肩書きを支えるのが、学歴ということになる。

 大切なのは、中身。その人の中身。こんなわかりきったことが、この日本では、通用しない。その通用しないカベになっているのが、権威主義ということになる。

 ……ここまで書いて、以前に書いた原稿のことを思い出した。

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●権威主義者(Authoritarians)

 その人が権威主義的なものの考え方をする人かどうかは、電話のかけ方をみればわかる。

権威主義的なものの考え方をする人は、無意識のうちにも、人間の上下関係を心の中でつくる。先輩、後輩意識も強い。それが電話の応対のし方に表れる。目上の人や、地位、肩書きのある人には必要以上にペコペコし、そうでない人にはいばってみせる。

私の知人の1人がそうで、相手によって電話のかけ方が、まるで別人のように変わるからおもしろい。(政治家の中にも、そういう人がいる。選挙のときは、米つきバッタのようにペコペコし、当選し、大臣になったとたん、ふんぞり返って歩くなど。その歩き方が、まさに絵に描いたような偉ぶった歩き方なので、おもしろい。)

 そのほかにたとえば、あなた自身の(心の中)をさぐってみればわかる。あなたが、どういう人を立派と思っているか、それをさぐってみればわかる。印象として、それなりの肩書きがあり、どこか堂々としている人を、「立派」と感ずる人は、かなり権威主義的なものの考え方をする人とみてよい。

このタイプの人は、日ごろから世間的な見栄を大切にする。あるいは外から見た自分に注意を払う。そのため他人には、立派に見える。(「立派」という言い方そのものが、封建時代からの亡霊である。)

 この権威主義が、家庭へ入ると、子育てそのものをゆがめる。

 親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前では仮面をかぶるようになる。そしてその分だけ、子どもの心は親から離れる。仮にうまくいっている家庭があるとしても、それは子ども自身がきわめて従順か、あるいは子ども自身も権威主義的なものの考え方を受け入れてしまっているかのどちらかにすぎない。たいてい親子関係はぎくしゃくしてくる。キレツから断絶へと進むことも多い。

 ……と決めてかかるいのは、危険な面もあるが、もうこれからは親が親の権威で子育てをする時代ではない。江戸時代や明治の昔ならいざ知らず、葵の紋章だけで、相手にひれふしたり、相手をひれ伏させるような時代ではない。またそういう時代であってはいけない。

私もいろいろな、その世界では第一級の人たちに会ってきたが、そういう人ほど、腰が低く、どこか頼りない。相手がだれでも、様子が変わるということはない。つまりそれだけ自分自身を知っている人ということになるのか。

生きザマのひとつの参考にはなる。


Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司

●ゴーストライター(Ghost Writer)

 11月も入って、まもないころ、1人のドクターから、ハガキが届いた。読むと、「このところ体調をくずして、年始の年賀状を失礼させていただきます」とあった。よほど体の具合が悪いのだろう。追伸の欄には、「お手紙をいただきましても、返事を書く気力もないと思いますので、どうかお許しください」とあった。私とワイフは、そのハガキを見て、しばし言葉をつまらせた。

 私は20代のころ、いろいろな出版社で、ゴーストライターをしていた。そうして書いた本は、15冊前後はあると思う。「思う」というのは、こうして生まれる本は、いろいろな人の手を経て出版されるからだ。

私があらかじめ原稿を書き、あとで著者が手なおしするというケースもあった。あるいは著者が、まず自分の声をテープレコーダーに吹き込み、それを聞きながらリライトするというケースもあった。だから実際のところ、何冊書いたかと聞かれても、わからない。

 が、どういうわけか、私が書いた本は、どれも売れた。その中の一冊に、「xxx」という本がある。あるホームドクターの日常的なできごとを書いたものだが、これはあとで、テレビのドラマにもなり、そののち、10年以上も売れつづけた。が、私はいわば、請け負い業者。原稿ができた段階で、いくらかのお金を受け取って、それでおしまい。ふつう、相手の方が私を忘れる。……忘れたがる。

 ゴーストライターには、一応、守秘義務というのがある。原稿を売った段階で、著作権も渡す。と、同時に、以後、その原稿にまつわるいっさいの権利を放棄する。あとになって、「あの本は私の書いたものです」とは、言わない。言えない。言ってはならない。

 が、その本が、そこまで売れるとは思ってもみなかった。出版後、ちょう1年で、12万部も売れた。定価が1800円。そのドクターへの印税は、12%だったから、それだけで約2600万円近くになった。なんとか賞という、賞まで取った。

私はそのニュースを出版社からの電話で聞いたが、そのドクターは、さぞかし居心地の悪い思いをしたことだろうと思った。とてもいっしょに、喜ぶ気にはなれなかった。
 
 が、ふつうなら、著者(?)と私の関係は、私が出版社へ原稿を売り渡したときに終わる。しかしどういうわけだか、そのドクターとは、それから30年近くも、関係がつづいた。そのドクターは、ことあるごとに、私に気をつかってくれた。最初のころは、盆や正月には、それなりのものを、届けてくれた。

その気持ちは、よくわかった。あるいはあとになって、私が彼の名誉をひっくり返すようなことをするとでも思っていたのだろうか。しかし私はそんなタイプの人間でない。

 そのドクターからは、そのあとも、年賀状だけは、毎年届いた。ときどき数年、私のほうが出さなかったことはあるが、それでも、毎年届いた。が、そのうち何というか、私は親近感を覚えるようになった。実のところゴーストライターとして書いた本など、見たくもない。思い出したくもない。その著者(?)の名前を聞くだけで、不愉快になる。いつか私は、ゴーストライターは、娼婦のような商売だと思ったことがある。娼婦は体を売るが、ゴーストライターは、魂を売る、と。それに私が書いた本が売れたという話を聞くのは、気持ちのよいものではない。何だか損をしたという気持ちになる。

 マスコミの世界は、本当に不可解な世界だ。中身など、ほとんど評価されない。そのドクターは、先にも書いたように、なんとか賞という賞を受賞している。が、その賞は、本来、私がもらうべきものだ。しかしなぜ彼がその賞を取ったかといえば、その本が売れたからにほかならない。そしてなぜ売れたかというと、中身ではない。そのドクターのもっていた、知名度だ。彼の父親は、xxxの世界ではよく知られた有名人だった。

 実際には、私はそのドクターとは、一度しか会っていない。最初、出版社の編集長が、私を彼に紹介したときだ。あとは私のほうで勝手に原稿を書き、そのまま出版社に渡した。ここにも書いたように、この種の本は、いろいろな方法で出版される。

しかしその本は、私があちこちの病院を取材し、ほぼ100%、私が書きあげた。ただ「本」というと、特別の思いをもつ人も多いが、私にとっては、ただの商品。それを書くのは、私のビジネスだった。だからそういうインチキなことをしながらも、私自身には罪の意識はなかった。

が、それが10年、20年とたつと、変わってきた。その後、私が自分の名前で出した本は、どういうわけだか、売れなかったこともある。「やはり、この世界、知名度が大切」ということを思い知らされるたびに、自分のしてきたことを後悔するようになった。

 そのドクターから、ハガキが届いた。文面からすると、冒頭にも書いたように、病状はかなり重いらしい。読み返せば読み返すほど、病状の重さが、ひしひしと伝わってきた。心のどこかで、憎んだこともある。心のどこかで、軽蔑したこともある。心のどこかで、ねたんだこともある。そのドクターが、重病だという。

もう少し若ければ、知人の死として、距離を置くことができただろうが、「自分の時代は終わった」という思いが、私の心をふさいだ。仮にそのドクターが死ねば、ゴーストライターをしていたころの自分も死ぬことになる。あのときのあの本が私の本だと、それを証明する人がいなくなる。

 「しかしこのドクターも、根はいい人だったんだね」と私が言うと、ワイフも、「そうね」と。「最後の最後まで、ぼくのことが気になったのだろう。いや、ぼくなら気になる。降ってわいたような企画に、名前を貸しただけで、数千万円の印税を手にした。その上、賞までもらい、ちょっとした有名人にもなった。そのもととなる本が、ゴーストライターによるものだとなるとね」と。

 「あなたがいつか名乗り出るとでも思ったのかしら?」
 「ははは、ぼくはそんなことはしない。しかし、だよ。そのドクターは、その前にも、そしてそのあとにも、1冊も本を書いてない。きっと書けなかったのだろうね」
 「でも、何だかかわいそう」
 「そうだね。結局は自分の人生を汚してしまった。でも、あの賞の授賞式のとき、『この本は、林というゴーストライターが書いたものです』と言いたかったのかもしれないね」
 「でも、できなかった……」
 「そうだね。彼としては、この話は墓場までもっていくつもりだよ」

 私はそのハガキをもう一度ゆっくりと読みなおすと、壁につりさげた状さしの中にしまった。そしていつものように外へ出て、自転車にまたがった。
(0x-11-5)

(追伸)このエッセーは、そのドクターのために書いた本の文調と体裁をまねて書いてみた。この文調と体裁こそが、その本が私の本であるという証拠ということになる。

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 この世界には、こうしたインチキは、そこにも、ここにも、どこにでもある。

 私は、それを言いたかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 学歴詐称 学歴詐欺 権威主義)

A Letter from a Mother

●ある母親からの相談(A letter from a mother)

A mother who lives in Hiroshima, wrote to me as follows about her families, her half-divorced husband, a boy who uses violence against her and another boy who has refused to go to school for three years. She has old-aged parents but they are about to get divorced soon. She does not know what to do but she sometimes thinks herself she doesn’t care to be killed by her boy. The circumstance where she is put is sad.

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広島県のEさんから、こんな
相談が届いています。

掲載許可をいただけましたので、
みなさんと、いっしょに、
Kさんの問題を考えてみたいと
思います。

どうか、力、ご意見を、お寄せく
ださい。

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(家族関係)

Eさんの実の両親は、現在、80歳を過ぎて、別居状態。
夫の父親は、すでに他界。夫の母親は、現在、ひとり暮らし。

Eさんには、2人の息子がいる。
長男は、はげしい家庭内暴力を繰りかえしている。
そのため、夫は、次男を連れて、家出。

次男は、3年間、不登校を繰りかえし、現在は転校し、その中学校に通っている。

まわりの人たちは、2人の子どもが、今のような状態になったのは、Eさんのせいだと、Eさんを責めている。

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【Eさんより、はやし浩司へ】

次男は3年間の不登校をつづけ、今年の4月から、転校して登校しはじめました。
現在、次男は、中学3年生です。
次男の住民票を、私の実家に移し、それで転校できました。
住民票は実家に移しましたが、実際は、自宅から中学校へ通っています。学校までは、車で10分くらいの距離ですが、バスを使うと30分以上かかります。

はじめはバスで通学していました。学校では、私の実家に住んでいるということにしています。中学校の友だちには、そう言ってます。
学校から帰るときは、一度、実家に寄ることにしています。そこへ友達も遊びにくるようになったからです。で、そういうこともあり、結局、この6月ごろから、私が車で、実家にいる次男を迎えにいくことになりました。 現在、私は父親と絶縁しております。 その実家には、母親しか住んでいません。
去年、父は家裁に離婚調停を起こし、母と現在別居しています。
父も、母も、現在、80歳を過ぎています。調停員は、80歳をすぎた老夫婦の離婚調停は、はじめてだと言いました。 父の職業は、大工でした。
父の少年時代は戦時中で、兄弟も多く、生活も苦しく、長男の父は高校をやめて、大工の修行をしたそうです。
現在の母と結婚して、自分で工務店をはじめました。
母はバリバリの男気のある女性で、お金の工面や銀行関係一切を、とりしきっていました。 父はひたすらトラックに乗り、家を建てるという分業でやっていました。
当然、私は、かなり、放ったらかしで育てらました。親たちも、仕事が忙しく、とても子育てどころでは、なかったようです。
ちょうど時代は高度成長期のころです。田中角栄が日本列島改造論を唄い、イケイケドンドンという時代です。その勢いを小学校低学年の私も、肌で感じるほどでした。
建売住宅が全盛期で、土地を買い、小さな一戸建てを何件も並んで建てる、そして売り出し、それに買い手がつくというやり方で、当時の家業は、結構成功していたようでした。
やくざに騙されて、ドカーンと大損をすることもありました。
父は全くの無知で、人はいいので騙されやすく、常識知らないところがあります。全くの職人です。 母が経理をしていなかったら、借金まみれの状態で、一家離散していたかもしれません。
母は横暴な女性で、そういう父をこき使っていました。私は当時の父を知っていますから、それを思い出すと、父のことを、かわいそうに思うことがあります。
そういうわけで、そのころのままだったら、今でも、アパートや貸し店舗の家賃収入で、老後はのんびり暮らせるはずだったのです。 が、しかし・・・私の次男が不登校になり、その1年後には長男が非行に走り、私の家庭の雰囲気が一変してしまいました。父は、私の夫を尊敬していました。 夫が、どちらかというと、父を尊敬させていたようです。
無知で非常識なあの父を尊敬させるようにすることは、簡単です。 父は私の夫の言うことは何でも聞き入れました。近所にある夫の実家にも顔を出し、ボロ家の修繕をやったりしていました。
主人の父親は他界し、現在、母(姑)一人で、そこに住んでいます。同じ町内です。
父は、孫のことで、姑や夫と、私には内緒で話をすることが多くなり、姑と夫は、子供がこうなったのは、私の育て方が悪かったからだと、陰では言っています。ときどき父はそのことで、私を責めたりします。
私は、「子どもたちの問題は、今日明日になおることじゃないから、黙って見守ってくれ」と何度も頼みました。が、長男がどこへ行くか、そのあとをつけたり、引きこもった次男を無理やり連れ出そうとしたりしました。

私から見れば、いらぬ節介で、余計に症状が、こじれることばかりしています。
姑は、私に責任があるとか、私が悪いとか、一点張りです。夫も責任逃れのためか、そういうことにしておきたいらしく、夫婦の仲も、今は破綻状態です。
そのうち長男の家庭内暴力も始まり、夫は次男を連れて、隣町のマンションへ引っ越していきました。
父はそのうち、姑に恋心を抱くようになり、毎晩、姑のところに通うようになっていました。
そして私が悪いとか、私を産んだ母が悪いとか、と、3人で私を責めます。さらに挙句の果てには、私の夫は、私の父に、「あなたは奴隷のような夫だ。そんな夫婦なのだから財産を分けて、離婚したらいい」と、勧めました。
私の夫は、父に、調停を起こすことなどの知恵をつけ、結局別居ということになりました。父はアパートを借り、実家を出て行きました。
居所は、私たちには、絶対に教えませんでした。
でも、夫のマンション近くに住んでいることを、私は知りました。 そのころの私は、恨みや憎しみで、心は満タン状態でした。
長男の暴力にも逃げることもできず、「早く殺してほしい」と、死を願うだけの毎日がつづきました。
実家の母は、父から調停を起こされ、別居することにしました。夫や姑へのうらみもあるようですが、今は、ひとりで、気ままにやっています。
そんなわけで、今、いちばん惨めなのは、私の父です。
結局、毎月生活費を、母のほうから振り込んでもらっています。財産もありません。夫や姑からも疎遠にされ、よぼよぼと、たまに実家に立ち寄ることもあるそうです。
今まで通院していた病院に行くためです。
保険証が母と同じになっているため、その保険証を取りに、実家へ戻ってくるのです。 そんな父の姿を見ると、私のせいだな・・・全部私のせいなんだと、果てしない海のような自己否定で、身動きができなくなってしまいます。 こんな状態になっているにもかかわらず、なぜ引き起こした夫となぜ離婚しないのかと思われるかもしれません。

私は離婚するつもりでいます。子供が自立するまでです。 自立したら、離婚します。
それに今の私には、離婚するだけのパワーやらエネルギーはありません。 今はもう、くたくたなんです。
自分の精神が病まないように、自分を責めないようにと、精一杯、心を操るだけで、精一杯です。
いいかげんで、無責任で、冷酷人間になれるように、がんばっています。そうでもしないと、今の私は、ボロボロになってしまいます。
息子も息子の人生ではないか、父も自分が蒔いた種ではないか、姑の葬式にだって出ない、恨みが湧き出るあいだは、恨み倒してやると、そんなことばかりを、毎日、考えています。
夫よ、あんたの働いた金で、老後は、のんびり生活する、と。
そういう過激な反発をばねにしながら、時が過ぎて、今の状態が、過去になり、記憶から薄れていくであろう自分を待つ状態です。 それから、息子2人がこうなったのは、私のせい・・これは否定しません。
その責任は、感じます。
過干渉で負担をかけ、心をゆがめてしまったのでしょう。 やり方がまずかった。それはおおいに反省しています。 だから、今は夫婦や姑、父との問題にはフタをして、息子達の立なおりを、見守りたいのです。 父は、私や母をまだ憎んでいるようで、先日も夫に、長男の携帯の電話番号を聞き、長男に、「私と母に家を追い出され、惨めな暮らしをしている」と泣きごとを言ったようです。
そのため長男から、「何でそんなことするんだ」と、私を責めたメールが届きます。 でもやっぱり、もうこれ以上、波風は立てたくないから、私の事情を長男に話すことはできません。 だから、長男が何か言うたびに、「ごめん、ごめん」と謝っています。 父よ、あなたは、もう元の父には戻らないよね。
認知症も進んでいるしね。 病気のせいだと思っておくよ。 今の私には、あなたに、優しい言葉もかけられないよ。 私たちは、困った親子になったもんだね。 なんだか、支離滅裂な文章で思いついたまま書いてしまいました。意味不明なところは、適当に読んでください。この宙ぶらりんな私の立場が、自分でも、なんとも情けなく、落ちこんでいます。 で、相談というのは、長男はこのままほっとくつもりですが、バイトもせずに、親のすねばかりかじっています。
しばらくは放っておいて、いいのでしょうか・・。さほど、無駄使いをするというふうでも、ありません。
今までの悪仲間とは縁を切ったようです。今は一人ぼっちで孤独そうですが、これも試練だと思っています。精神的に不安定で、ぐらついているので、また悪い仲間を作らないかと心配しています。
何かやらせる事、本人に伝えた方がいいことなどがあれば、教えてください。次男は高校生になったら、私といっしょに住ませたいのですが、どうでしょうか。
夫は私との関係もあって、それについては、乗り気ではないようです。長くて申し訳ありません。よろしく御願いします。
(広島県、Eさんより)

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【はやし浩司より、Eさんへ】

 Eさんは、いわゆる家族自我群による、「幻惑」に苦しんでいます。わかりやすく言えば、家族であるが故の絆(きずな)による、重圧感、束縛感に苦しんでいるということです。ふつうの重圧感、束縛感ではありません。

 悶々と、いつ晴れるともわからない重圧感、束縛感です。本能に近い部分にまで、それが刷り込まれているため、それと闘うのも、容易なことではなりません。

 家族というのは、助け合い、守り合い、教え合い、支え合う存在ですが、そのリズムが一度狂うと、今度は、その家族が、家族どうしを苦しめる責具となってしまいます。Eさんは、こう書いています。

 「いいかげんで、無責任で、冷酷人間になれるように、がんばっています」と。つまりEさんは、今、そこまで追い込まれています。私はここまで読んだとき、涙で目がうるんで、その先が読めなくなりました。

 そう思うEさんを、だれが責めることができるでしょうか。

 無責任になればよいのです。冷酷な人間であることを、恥じることはありません。Eさんが、今、いちばんしたいこと。それはこうした(幻惑)から解放され、ひとりで大空を飛び回ることです。

 が、それができない。実の両親とのからみ、2人の子どもたちとのからみ、夫の母親や夫とのからみ。そういったものが、がんじがらめに、Eさんの体を縛りつけています。本来なら、いちばん近くにいて、Eさんを助けなければならない夫までが、責任をEさんに押しつけて、逃げてしまっている!

 Eさんは、孤独です。孤立無援の状態で、長男の家庭内暴力にも耐えている。しかも実の両親は、80歳を過ぎて、離婚! そんな両親でも、「親は親」という世俗的な常識にしばられて、見放すこともできない。

 どうして私たちは、親に、「産んでやった」「育ててやった」と言われなければならないのでしょうか。どうして私たちは、子どもに向かって、「私は親として、もうじゅうぶんなことをしてやった」「出ていけ」ということが言えないのでしょうか。

 親の呪縛からも解かれ、子どもが自ら巣立ってしまえば、こんな楽なことはありません。しかしそれができない……。Eさんの苦しみの原因は、すべてこの一点に集約されます。

 が、ここが正念場。

 私が、今のEさんに言えることは、(1)まず、運命を受け入れてしまいなさい、ということです。

 運命というのはおかしなもので、それを嫌えば嫌うほど、悪魔となって、あなたに襲いかかってくる。しかしそれを受け入れてしまえば、向こうのほうから、シッポを巻いて、逃げていく。

 今の状況で言えば、両親のことは両親に任せてしまう。「死んだら、葬式くらいには、出てやる」と考える。

 夫については、離婚あるのみ。Eさんが言っているように、子どもたちが自立すれば、離婚。あとは、ケセラセラ(なるようになれ)。親孝行など、くそ食らえ、です。夫のことは、忘れなさい。

 ただ2人の子どもについては、(2)裏切られても、裏切られても、ただひたすら信じ、「許して、忘れる」です。その度量の深さが、あなたの(愛)の深さということになります。またそれがこの先、どういう結末になろうとも、Eさんの人生を、うるおい豊かで、美しいものにします。

 もし、その(愛)すらも、Eさんが切ってしまったら、Eさんは、何のために、今、生きているのかということになってしまいます。また何のために、生まれてきたのかということになってしまいます。

 Eさんは、まだ気がついていないのかもしれませんが、Eさん以上に、家族自我群による(幻惑)で苦しんでいるのが、実は、Eさんの長男なのです。安らぎを得たくても、得ることができない。「お母さん、ぼくは楽になりたい」と願っても、その思いが、届かない。その(根)は深いと思います。「仕事もしたい」「一人前になりたい」、しかしそれができない。どういうわけか、できない。

 それが家庭内暴力へつながっていると考えてください。わかりますか? 今、あなた以上に苦しんでいるのが、長男なのです。

 ただそういう自分をコントロールすることができない。悶々とつづく被害妄想の中で、自分を見失ってしまっている。「こんなオレにしたのは、お前だ」と、Eさんを責めつづけている。

 愛するものどうしが、たがいにキズつけあっている。これを悲劇と言わずして、何と言うのでしょうか。

 繰りかえしますが、今、ここで2人の子どもを見放してしまえば、今度は、今、Eさんがかかえている(運命)を、2人の子どもが、引き継ぐだけです。いつか、同じような立場に立たされ、子どもたちが、もがき、苦しむのです。

 何があっても、「許して、忘れる」。この言葉だけを、どうか心の中で念じてみてください。この言葉を繰りかえしていると、ときに、あふれ出る涙を、どうすることもできなくなるときがくるかもしれません。そのときはそのときで、思いっきり、泣けばよいのです。

 そう、相手が子どもであれ、人を愛することは、それほどまでに、切なく、悲しく、そして美しいものです。自分の子どもを、どうかしようと考えるのではなくて、あなたが惜しみなく、愛を与えていくのです。裏切られても、行き詰まっても、殴られても、蹴られても、愛を与えていくのです。

 「どうなるか?」と心配するのではなく、「明日は、かならずよくなる」と信じて、愛を与えていきます。この世界では、取り越し苦労と、ぬか喜びは、禁物です。あなたはあなたで、マイペースで、子どもを信じ、愛するのです。許して、忘れるのです。そしてあなたは、あなたで、したいことをすればよいのです。

 いまどき、非行など、何でもない問題です。不登校にいたっては、さらに何でもない問題です。

 大切なことは、今、あなたが、ここに生きているということ。息をしているということ。体を動かし、見て、聞いて、ものを話しているということ。

 大切なことは、今、あなたの子どもがここにいて、息をしているということ。体を動かし、見て、聞いて、ものを話しているということ。

 その(価値)に比べたら、非行など、何でもない問題です。不登校など、さらに、何でもない問題です。

 いいですか、私たちは、今、ここに生きているのです。それを忘れてはいけません。大切なことは、その(価値)を実感することです。

 Eさんの年齢はわかりませんが、私よりずっと若い方です。ですから今の私のように考えろというほうが、無理かもしれません。しかしこの年齢になると、時の流れが、まるで砂時計の砂のように思えてきます。

 サラサラと時が流れていく。その切なさ。いとおしさ……。

 運命を受け入れ、それを楽しむのです。運命から逃げないで、それを楽しむのです。「あなたたちは、あなたたちで、したいように生きなさい」「私は私で、がんばるから」と。

 とたん、心の荷物が軽くなるはずです。悪魔は、向こうから退散していきます。

 あとは、成り行きに任せなさい。水が自然と、流れる場所を求めて流れていくように、雲が自然と、流れる場所を求めて流れていくように、今の問題は、やがて解決していきます。バカでアホな、両親や夫のことは忘れなさい。

 私も、実の母親とはいろいろありましたが、その母は、今は、ボケてしまって、アホになってしまいました。そんな姿を見るにつけ、本気で相手にしていた、自分のほうが、アホだったことを知ります。

 いいですか、Eさん。あなたが今、かかえているような問題は、みながかかえていますよ。表からではわかりませんが、例外はありません。ですから、「私だけが……」とか、「どうしてうちの子だけが……」とかは、思わないこと。また、自分を責めないこと。

 まだまだ、あなたには未来があります。子どもたちには、もっと大きな未来があります。それを信じて、恐れず、前に進んでください。

 相手が子どもであれ、人を愛することは、すばらしいことですよ。人生は、美しいですよ。

 今度、私のHPに、「音楽と私」というコーナーをもうけました。一度、おいでになってみてください。楽しいですよ。

 では、今日は、これで失礼します。

 この返事をEさんに送ったあと、BLOGのほうにも、載せておきます。どうか、お許しください。多くの人たちに、Eさんの経験が、おおきな励みになると思います。みんな、同じような問題をかかえていますから……ね。

Wednesday, December 26, 2007

*Spoiled Kids who live on Pleasure

●音楽と私

I have started to insert motion pictures and its related music onto my website, which has widen my world of internet. Motion pictures with music are downloaded from ‘You Tube’ and they are very exciting.

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新しい試みとして、HPやマガジンの
ほうで、エッセーと音楽をシンクロナイズ(同調)
させることをしている。

音楽は、YOU TUBEのほうで公開されて
いるものを使う。著作権法上の問題はないはず。

で、これが、実に楽しい。おもしろい。

今は、テスト段階だが、やがて動画で、自分のHPや
マガジンを飾ることもできる。
今までを、「静止画」の世界とするなら、これからは
「動画+音楽」の世界ということになる。

世界が、ぐんと広がった。そんな感じがする。

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●享楽的(きょうらくてき)

We often use the word “Kyo-raku-teki”, or “to live on enjoyment” when we criticize boys and girls who have been spoiled. These kids are called in Japan, “Dora-musuko” or “Dora-musume”, or “”Spoiled male cat” or “Spoiled female cat”. Because these cats are so lazy fellows that they don’t work at all or are just living on pleasure. Here I would like to think about it from the deeper point of view.

 よく子どもを評するとき、「享楽的」という言葉を使う。ドラ息子、ドラ娘特有の症状ということになる。しかし「享楽的」というのは、どういう意味か。「目先の快楽に生きるさま。官能的快楽に傾くさま」(国語大辞典)とある。

 こう考えてみたらよい。

 享楽的な子どもは、より強い刺激を求める傾向が強い。ありきたりの刺激では、満足しない。また刺激がとぼしくなると、「つまらない」「おもしろくない」を連発する。そしてひとたび刺激を受けると、一瞬のうちに興奮状態になる。ワイワイと騒いだり、動き回ったりする。

 その(こと)を楽しむというよりは、見ていると、興奮しながら、刺激に支配されるまま、自分勝手な行動を繰り返しているといったふうになる。冷静な判断力を失い、静かに考えて行動するということができなくなる。

 たとえば部屋の中で、ボール(手のひら大のソフトボール)を見つけたとする。とたん、それを手にして、あたりに向かって、投げる。そのボールが、壁に当たって、近くの人形に当たったとする。すると、「当たった」「当たった」と、声を出してはしゃぐ。

 が、それで止まるわけではない。今度は、そのボールを、ほかの子どもに向かって投げる。同調者が現れて、そのボールを受け取ったりすると、今度は、その子どもと、キャッチボールを始める。投げる、当てる、騒ぐ・・・。

 こうしてますます興奮状態に入っていく。

 強く制すれば、その瞬間だけ、それをやめる。あるいは、シュンとした表情にもどる。一応の制止がきく。(ADHD児は、制止がきかないという点で、このタイプの子どもと区別される。)

 万事に、興奮性が強いため、突発的な行動に出ること多い。予測ができない。先にも書いたように、つねにより強い刺激を求めて、自分の欲望を満足させようとする。欲望・・・つまり、(~~したい)と思うことだけを増幅させる。

 さらによく観察すると、本来なら行動を抑制するはずのブレーキが働いていないのがわかる。言うまでもなく、人間の行動は、(行動命令)と(抑制命令)のはざまで、決定される。そのバランスが崩れる。わかりやすく言えば、抑制命令がきかず、行動命令だけが過剰に働く。

 行動から、(なめらかさ)が消えるのは、そのためと考えてよい。

 で、この段階で、前頭前野の理性によるコントロールが働けば、まだ救われる。が、理性による管理能力そのものが、鈍くなる。水の入った花瓶が近くにあっても、平気でボールを投げて遊ぶ。

 では、どうするか?

 子どもの享楽性は、先にも書いたように、ドラ息子、ドラ娘症状のひとつと考えてよい。自分勝手でわがまま。享楽性は、その一部ということになる。で、このタイプの子どもは、幼いときから、日常的に(刺激的な環境)に育っていることが多い。親のほうが、子どもが望む前に、つぎつぎと刺激を与えている。またそうした刺激を与えることが、子どものためと誤解している。「ほら、○○遊園地へ行こう」「ほら、○○ゲームをしよう」と。

 あとは、この悪循環。

 何度も書くが、子どもは、質素に育てるのがよい。ぜいたくをするにしても、子どもには、見せない。聞かせない。コツは、(楽しみ)の前には、必ず(苦労)があることを、わからせるようにすること。あるいは(楽しみ)のあとでもよい。

 ボール遊びをしたら、きちんとボールを片づけさせる。後始末をさせる。ものを壊したら、なおさらである。

 ついでながら、このところ、ドラ息子、ドラ娘を見ると、ものを教える気持ちが、消えうせてしまう。ときに、「こんな子どもに、知恵をつけたくない」とまで思うことがある。これも年(とし)のせいか?

*Year of 2007 to 2008

●2007年から2008年へ

The year of 2007 has started with the care of my old mother. It might have been a hard job but as for me it wasn’t. It’s rather taught me something very important or essential to my life. Parents see their own past by raising up children but parents see their future by caring their old fathers and mothers. It widens the views of our sights of lives. This is the story about it.

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●介護

今年、1年間を総括してみる。

まず1月~6月までは、母の介護を通して、「人が老いるということは、どういうことか」、それを学んだ。

介護をするにあたって、いくつかのことを心に誓った。

まず、ワイフには、負担をかけないこと。とくに便の世話は、私がする。
つぎに、グチを言わない。運命は運命として、前向きに、受け入れていく。

で、母の介護は始まったが、あまりにも楽(?)で、かえって拍子抜けしてしまった。
ときどき便の始末は、ワイフにしてもらったが、グチについては、だれにも、一度も言わなかった。

親の介護をしている人で、よくグチをこぼす人がいる。

こぼすだけならまだしも、あちこちに電話をかけまくっている人がいる。
「時間が取られる」「お金がかかる」「部屋が臭くなった」と。

愚かで、浅はかな人だ。

で、私は「介護というのは、知恵比べ」と考えるようになった。
そのつどいろいろな問題が起きる。
これはしかたのないこと。

そこで知恵を使う。働かす。工夫する。
この世界には、無数の「先輩」がいる。
そういう人たちに相談するのも、よい。
ともかくも、孤立しないこと。
そうすると、おのずと、先に道が見えてくる。

もちろん大切なのは、(愛情)。
おむつを替えているとき、手や腕に、小便をかけられることがある。
ときに、顔のほうまで、ツユが飛んでくることもある。

しかし相手は、老人。
幼児以下の幼児。
そんなことを気にしていたら、介護など、できない。

が、いくつか事故が重なった。
そこでマネケアの人に相談すると、「添い寝するしかありませんね」とのこと。
そこで老人ホームへの入居申請のために、近くのホームへ足を運んだ。

この世界では、「1年待ち」「2年待ち」というのは、常識。
が、運がよいことに、即日、入居が決まった。
たまたまその日、退所する人がいた。
相談した相手が、所長だった。
母の介護度が、5に近い4だった。
それでそうなった。

迷いはあったが、介護の会で講師をしている義姉に相談すると、「チャンスを逃すと、1年先になるわよ」とのこと。
で、その日の遅く、入居を決定する。

介護が重労働だったということは、母が入居してから、知った。
母が入居したあと感じた、あの解放感は、忘れない。
心のどこかに大きな(うしろめたさ)を感じながらも、私たちは、その解放感を楽しんだ。
旅行にも行った。
それまでやめていた、映画も、見に行くようになった。

おかしな幻惑(=家族自我群による束縛感、重圧感)にとらわれて、「親を、そういうところへ入れるものではない」と考える人も多い。
老人ホームを、(おば捨て場)のように考えている人も多い。

私も、かつては、そういうふうに考えたときもあった。
しかしこれは誤解。

老人ホームを見てみるとわかるが、老い方は、人、さまざま、それぞれ。
時折、怒鳴り声をあげる人。
威張り散らす人。
いつも歌を歌っている人。

加えて、私の母のばあい、いくつかの事故が重なった。

母が自分で歩けるようにと、部屋中に、パイプを張り巡らせたのが悪かった。
ある夜気がついてみると、母は、ベッドとパイプの間に首をはさんで、もがいていた。
また、別の夜、これまた気がついてみると、床の上に、ペタリと座り込んでしまい、起きあがれなくなっていた。
寒い夜だった、などなど。

幸い発見するのが早かったから、よかった。
あと1、2時間も、発見が遅れていたら、母は、死んでいたかもしれない。

またそういうときほど、あの無線の呼び出しベルが役にたたない。
「どうしてベルを押さなかったのか」と聞いても、聞くだけ、むだ。
母には、そういう判断力すら、もうなかった。

しかし……。その姿は、10年後、20年後の、私自身の姿。
ワイフ自身の姿。
これには例外はない。
私も、そしてこの文章を読んでいるあなたも、確実にそうなる。

親は、子育てをしながら、自分の過去を見る。
親の介護をしながら、自分の未来を見る。

私は、言うなれば(過去)ばかり見て、生きてきた。
しかし介護をするようになって、(未来)を見ることを知った。

今も、基本的には、その介護はつづいている。
しかし介護をすることによって、自分がもつ(時の流れ)が、過去から未来へとつながったのを知る。

言うなれば、(負=マイナス)の世界を知ったということか。
子どもたちは、中学生になると、(負の数)を学ぶ。
同じように、人は、介護をするようになって、負の世界を知る。
とたん、数の世界が、2倍に広がる。
これは私にとって、すばらしい体験だった。

母の介護をするようになって、人生観そのものが、大きく影響を受けた。
悪いことばかりではない。
大切なことは、「運命は、前向きに受け入れていく」ということ。

運命は、それを恐れたとき、向こうからキバをむいて、私たちに襲いかかってくる。
しかし笑えば、向こうから、シッポを巻いて、逃げていく。

まあ、介護にかぎらず、2008年も、いろいろなことがあるだろう。
問題が起きたら、そのつど、それを乗り越えて生きていく。
それは(波)のようなもの。

よく人生を航海にたとえる人がいる。
波があるから、航海も楽しい。
人生も、楽しい。


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●生きがい

2007年を振り返ってみたとき、おかしなことに、何かをしてきたはずなのに、その(してきた)という実感が、あまりない。

が、これは記憶のメカニズムの欠陥によるもので、(私)のせいではない。

記憶というのは、そのつど、脳みそのどこかに入り込んでしまう。
どこに何があるか、わからなくなってしまう。

よくテレビなどで、「ゴミの家」が紹介される。
玄関先から、部屋の奥の奧まで、ゴミでいっぱいになった家である。

脳みその中の記憶も、それと同じに考えてよい。
脳みその中は、記憶の断片で、ゴチャゴチャ。
しかもなおタチの悪いことに、自分で整理することができない。
番号をつけて順番を変えたり、重要度に応じてマークをつけることもできない。

反対に、(意識としての脳みそ)は、自ら、いつも、自分の頭の中をカラッポにしておこうとする。
だから、「してきたという実感がない」というのは、当たり前と言えば、当たり前。
実感がないからといって、何もしてこなかったというわけではない。

……とまあ、そう言って、自分をなぐさめる。

ただ、私のばあい、毎朝、目が覚めると同時に、書斎へ飛び込む。
電灯をつけ、パソコンに電源を入れる。
書きたいこと、したいことが、そのとたん、どっと私を襲う。

それが毎日の、私の生きがいということになる。
その生きがいだけは、何とか、維持することができた。

で、今、ふと、こう考える。
もし現在の私から、インターネットを奪ったら、何が残るか、と。

マガジン、BLOG、HPなどを含めて、現在、1か月あたり、約10万件のアクセスがある。
HPにしても、500回目、1000回目というリピーターの人がいる。
10万件イコール、10万人ということでない。
それはわかっている。

しかし、これはものすごいことだと思う。

私は心のどこかで、その(数)を感じながら、生きている。
生かされている。

今、ここに書いている文章にしても、数万人の人たちの目にとまる。
そう思ったとたん、身が引き締まる。
緊張する。
この緊張感が、楽しい。

2007年を振り返ってみたとき、私は、その緊張感とともに、生きてきたような感じがする。

マガジンにしても、週3回の発行は、一度たりとも、欠かしたことがない。
毎回、原稿用紙にして、20枚以上を、守った。
だれに頼まれたわけでもない。
自分で、そう決めて、そうしてきた。

2008年も、このまま前に向かって進みたい。


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Tuesday, December 25, 2007

*The Cosultative Conference of the Regeneration of Education of Japan

●何か、おかしいぞ、教育再生会議!(The regenerated consultative conference of the education)

*The Liberalization of the Education

The Japanese government has been trying to control our minds all the time since the end of the WW2. There they have two main consultative organs, conducted by the government. How can they choose the members of the organs under what kind of standard they choose with? The Japanese government is heading toward conservatism or the way to the right-wing like way of thinking. We need more freedom! Or do they want the Restoration of the Imperial Rules?

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「空理空論」という言葉がある。
「まず、国家統制ありき」という姿勢もある。

この両者がからんで、「教育再生会議」
となった。

世界の流れは、「教育の自由化」。

それに向かって、まっしぐらに
進んでいる。

なにゆえに、日本の政府は、そして文科省は、
こうまで教育の自由化を恐れるのか?

国民を、どう統制しようとしている
のか?

とくに気になるのが、道徳教育(?)。

「道徳を(徳育)として教科化する」
という。

これに対して、日本教育再生機構の
Y理事長は、「実現すれば道徳の時間
に、おかしな平和や人権などを教える
ことができなくなる」と、さっそく歓迎
の意思表示。

「教科書がないから道徳は形骸(けいがい)化
している。教科書があれば何を教える
のかのコンセンサスが得られ、教育内容
の水準が確保できる」とコメントを寄せて
いる。

しかし政府は、いったい、どういう
基準で、諮問機関のメンバーを選んで
いるのか?

自分たちにとって都合のよい、YESマン
ばかり集めて、あらかじめ用意したお膳立て
に従って、結論を出す。

あとはそれをもとに、「控えおろう!」と。

日本というより、日本政府は、またまた
右寄りの路線に向かって、舵を切ろう
としている。

いいのか、日本! このままで!
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 「自由化」イコール、「バラバラ」という意味ではない。またそうであってはいけない。しかしそんなことは、常識。明治の昔なら、いざ知らず、国民は、そんなバカではない。アホではない。

 教科書の国定(検定も同じ)にしても、それをしているのは、先進国の中では、この日本だけ。

 「まず、国家統制ありき」……それがこうした諮問機関の大前提。そのおかしさに、私たち日本人が、まずそれに気づくべきではないのか。

 無数の試行錯誤の中で、失敗もあるだろう。挫折、頓挫もあるだろう。ときには、はげしい衝突もあるだろう。しかしそういう山坂を越えて、日本人も、「自由」の意味を知る。「自由」を手に入れることができる。

 いくら政府や文科省が、日本人を統制しようとしても、日本人の心は、もう別の方向を求めて、歩き出している。それがわからなければ、尾崎豊の「卒業」を、一度でもよいから、聴いてみることだ。

 何が、徳育教育だ! 

教科書ができれば、「実現すれば道徳の時間に、おかしな平和や人権などを教えることができなくなる」(?)。

 「おかしな平和や人権」とは何か? それを「おかしい」と言うほうが、おかしい。「平和」や「人権」は、守って守って、守り抜いてこそ、平和であり、人権なのである。戦時中は、「平和」とか、「人権」という言葉を口にしただけで、「非国民」と呼ばれ、問答無用に、逮捕、投獄された。多くの人は、拷問まで受けた。

 そういう歴史を、日本よ、日本人よ、忘れたか! またそういう反省もなく、「おかしい」とは、何ごとか! 恥を知れ!

 「道徳」についても、世界の心理学者たちは、もっと科学的な視点から、考え始めている。もしそうなら、それはそれでよし。しかし「孔子」だの、「論語」という言葉が出てくるところが、恐ろしい。さらに「武士道こそが、日本が世界に誇るべき、精神的バックボーン(背骨)」と説く人までいる。またそうした本が、売れに売れまくっている。

 さらにさらに、天皇を「象徴」から、「元首」にという動きもある。憲法改正は、おおむね、その方向に向かって進みつつある。どうして21世紀の現在、「王政復古」なのか? しかもこの日本で!

 だいたい「再生」とは何か? 何からの「再生」なのか? まさか戦前の状態にもどることを言っているのではないだろう。このところ、私は、この言葉に、不気味さを覚えるようになっている。


【参考:以下、ヤフー・ニュース・07年12月26日版より】

 政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は25日、首相官邸で開いた総会で第3次報告を正式に決定し、福田康夫首相に提出した。社会人教員の増員や校長の権限強化、現在の学制「6・3・3・4制」の弾力化などの項目の実現を掲げ、6月の2次報告でも提言した徳育の教科化を再び盛り込んだ。 安倍前内閣時代の昨年10月に発足した再生会議は一通りの検討作業を終え、来年1月にも総括的な最終報告をとりまとめる。 首相は総会後、記者団に対し、「よくまとめてくださった。3次報告でまとまった基本的な考え方を、中央教育審議会(中教審)で具体化することになる」と述べた。 「社会総がかりで教育再生を」をテーマにした3次報告には、「学力の向上に徹底的に取り組む」などの7つの柱が掲げられた。 小中一貫校の制度化検討や小学校からの英語教育実施なども提言されたが、当初目玉となっていた、児童・生徒が自由に学校を選択し、その数に応じて学校に予算配分する「教育バウチャー(利用券)制」は、モデル事業としての実施を検討することにとどまった。 第3次報告は、採用者の2割以上を教員免許を持たない社会人とする▽徳育の教科化▽大学の授業の3割以上を英語で行う-などを求めているが、専門家からは賛否の声が上がった。 教員免許を持たない社会人を教員に採用することについて、日本教育大学院大学の河上亮一教授は、「実現すれば教育現場の意識改革になるのではないか」とみている。教育学部を卒業した教員が多い現状よりも多様な人材が教壇に立つ方が活性化するとの考えからだ。 文部科学省によると、全国の小中学校の教職員は70万人おり、再生会議の報告通りにするなら総数で14万人の社会人を迎え入れなければならないが、河上氏とは対照的にある県の教育委員会幹部は「民間は善、公務員は悪という発想による提言だ。待遇面で教員は決して恵まれていない。優秀な人材が多数集まるとは思えない」と批判する。

 道徳を「徳育」として教科化することについて、日本教育再生機構の八木秀次理事長は「実現すれば道徳の時間におかしな平和や人権などを教えることができなくなる」と歓迎。「教科書がないから道徳は形骸(けいがい)化している。教科書があれば何を教えるのかのコンセンサスが得られ、教育内容の水準が確保できる」としている。 一方で河上氏は「徳育を教科にするのなら、自分のためだけでなく、人のために尽くすことは大切だということを社会の共通認識にする努力が必要だが、現実的には難しい」と教科化には懐疑的だ。 大学の授業の3割を英語で行うことは可能か。 福島県立会津大学はコンピュータ理工学部の単科大学で、教員の4割が外国人。授業の多くは英語で行われ、卒業論文も英文だ。第2外国語をなくし、英語の時間を増やしている。同大は「コンピューターは米国で発展したもの。プログラムを理解するために英語に習熟することは不可欠な対応」と英語での授業の必要性を説く。 一方で、横浜国立大学の鈴木邦雄副学長は「3割の授業を行うのは大学院なら可能だろうが、学部で行うのは難しいのではないか。英語の授業を用意しても、学生が履修しなかったら意味がない」と話している。 再生会議の委員の一人、中嶋嶺雄氏が学長を務める国際教養大学(秋田県)は、すべて英語で行う。しかし、英語に関心の高い学生が多く入学する一方で、授業についていけない学生もいるという。(櫛田寿宏)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教育再生会議 第3次報告)

Monday, December 24, 2007

●Let’s it be!

●レット・イット・ビー

(音楽↓、クリック)
http://www.youtube.com/watch?v=4oZYqAeIdYk&feature=related

●レット・イット・ビー

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻が愛し合い、信頼し合っているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。

そう、『子はかすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろうとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないのか。もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、10年も20年も、新婚当時の気持ちのままでいることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたことないから、わからない」と答える。
 …こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。先日もある女性(40歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やったわ!」と。

聞くと、夫が単身赴任で北海道へ行くことになったという。ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(33歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も年に一度あるかないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃあ、ない?」と。明るく屈託がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人それぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは気にしてはいけない。
 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中に描く。それ自体は悪いことではない。が、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。
 そこでどうだろう。こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから…」「親子だから…」と考えると、あなたも疲れるが、家族も疲れる。

大切なことは、今あるものを、あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じないから結婚もおしまい」とか「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そういうふうに大げさに考える必要はない。つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきらめる。

そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがままに…)」と。それはまさに「智恵の言葉」だ。

*The Bridges in Madison County

●マジソン郡の橋

(音楽↓、クリック)
http://jp.youtube.com/watch?v=Ye8G8cqu27U
http://jp.youtube.com/watch?v=dFl0Jvo3jAw

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充実感がない……。今、そんな女性がふえている。

Hさん(32歳)もそうだ。結婚したのは24歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、20歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋
 
R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。

*And I love her from the Beatles number

●原稿と音楽

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最近では、私の書いた原稿と、
音楽を、直接シンクロナイズさせることが
できるようになった。

今までに書いた原稿の中から、いくつかを
選んで、音楽とシンクロナイズさせてみる。

音楽を聴きながら、原稿を読んでもらえれば、
うれしい。

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●And I love her

(音楽↓、クリック)
http://www.youtube.com/watch?v=x8fNDfdjXd8

【ビートルズの歌で終わった青春時代(白血病だったジル)】

(世にも不思議な留学記より)

●行くも最後という時代だった

 行くのも最後、帰るのも最後という時代だった。往復の旅費だけで、40万円以上。まだまだ日本は貧しかった。メルボルンを飛び立つときは、本当にさびしかった。そしてそのさびしさは、フィリッピンのマニラに到着してからも消えなかった。

夜、リザ-ル公園を歩いていると、6、7人の学生がギタ-を弾いていた。私がぼんやりと見ていると、「何か、曲を弾いてあげようか」と声をかけてくれた。私は「ビ-トルズのアンド・アイ・ラブ・ハ-を」と頼んだ。私はその曲を聞きながら、あふれる涙をどうすることもできなかった。

 私には一人のガ-ルフレンドがいた。ジリアン・マックグレゴーという名前の女の子だったが、「嘘つきジル」というあだ名で呼ばれていた。が、私にはいつも誠実だった。映画「トラトラトラ」を二人で見に行ったときも、彼女だけが日本の味方をしてくれた。映画館の中で、アメリカの飛行機が落ちるたびに、拍手喝采をしてくれた。

あの国では、静かに映画を見ている観客などいない。そのジルに私が帰国を告げたとき、彼女はこう言った。「ヒロシ! 私は白血病よ。その私を置いていくの!」と。私はそれが嘘だと思った。……思ってしまった。だから私は天井に、飲みかけていたコ-ヒ-のカップを投げつけ、「嘘つき! どうして君は、ぼくにまで嘘をつくんだ!」と叫んだ。

 夜、ハウスの友だちの部屋にいると、デニスという、今でも無二の親友だが、その彼が私を迎えにきてくれた。そのデニス君とジルは幼なじみで、互いの両親も懇意にしていた。デニスに、ジルの病気の話をすると、彼はこう言った。「それは本当だよ。だからぼくは君に言っただろ。ジルとはつきあってはダメだ。後悔することになる、と。しかしね、ジルが君にその話をしたということは、ジルは君を愛しているんだよ」と。

彼女の病気は、彼女と彼らの両親だけが知っている秘密だった。私はジ-ロンという、メルボルンの南にある町まで行く途中、星空を見ながら泣いた。オーストラリアの星空は、日本のそれよりも何倍も広い。地平線からすぐ星が輝いている。私はただただ、それに圧倒されて泣いた。

●こうして私の青春時代は終った……

 こうして私の留学時代は終わった。同時に、私の青春時代も終わった。そしてその時代を駆け抜けたとき、私の人生観も一八〇度変わっていた。私はあの国で、「自由」を見たし、それが今でも私の生活の基本になっている。私がその後、M物産という会社をやめて、幼稚園教師になったとき、どの人も私を笑った。気が狂ったとうわさする人もいた。

母に相談すると、母まで「あんたは道を誤った」と、電話口のむこうで泣き崩れてしまった。ただデニス君だけは、「すばらしい選択だ」と喜んでくれた。以後、幼児教育をして、二八年になる。はたしてその選択が正しかったのかどうか……?

 そうそう、ジルについて一言。私が帰国してから数カ月後。ジルは、西ドイツにいる兄をたよってドイツへ渡り、そこでギリシャ人と結婚し、アテネ近郊の町で消息を断った。

また同じハウスにいた、あの皇太子や王族の息子たちは、今はその国の元首級の人物となって活躍している。テレビにも時々顔を出す。デニスは、小学校の教員をしたあと、国防省に入り、今はモナーシュ大学の図書館で司書をしている。本が好きな男で、いつも「ぼくは本に囲まれて幸せだ」と言っている。私だけは相変わらず、あの「自転車屋の息子」のままだが……。

*Life is wonderful !

●時の流れは、砂時計のようなもの(The flow of the time is like sands in a sandglass.)

Sometimes I feel that the flow of the time is like sands in a sandglass. Each moment of my time is like a sand in the sandglass. Each of the moment is dropping downward like a sand. Life is wonderful. I am here, breathing, listening and seeing. I am alive! My sister-in-law said two days ago, “Life itself is a miracle and we have to thank for it.” I agree with her. Her sweet words soaked into my heart like water into the soil.

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おととい、義姉(ワイフの姉)の
家で、夜遅くまで話しこんだ。

義姉が、別れぎわ、こう言った。

「生きているだけでも、すばらしい
ことよ。感謝しなくちゃあ」と。

ワイフは、幼いころ、母親をなくしている。
そのためその義姉が、ワイフにとっては、
母親のようなもの。

ワイフに似て、穏やかな性格の女性で、
今でも、あれこれ世話になっている。

息子たちの身元引き受け保証人にも
なってもらった。
私の母の介護のときは、一式、介護
用具を提供してくれた。

私は何を言われても、義姉だけには、
頭があがらない。

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●生きていることは、すばらしい!(Life is wonderful!)

「命」が、砂時計の「砂」のように思えるときがある。
上に残った砂が、サラサラと下へ、流れ落ちていく。
そのいとおしさ。

ワイフもときどき、こう言う。「毎日、食事がおいしいわ。それだけでも、私は、すばらしいことだと思う」と。

私は、今、ここにいて、息をしている。
音を聞いている。
フォーレ(Faure)のレクイエム(Requiem)を聞いている。
まわりには、朝の淡い光。
薄い雲に包まれた、冬の太陽。
12月25日。

たった今、アメリカに住む二男から、電話があった。
船便で送ったクリスマス・プレゼントが今日、届いたという。
ギリギリ、セーフ!
向こうは、今日が、12月24日。

誠司が、おかしな英語で、ペラペラとしゃべった。
ついでに、おかしな日本語で、日本の歌を歌った。
芽依が、ハローと言った。
私とワイフは、受話器を奪いあいながら、それを聞いた。

孫たちも、みな、元気らしい。

静かな時。
穏やかな時。
暖かい時。

その無数のこまかい「時」が、砂のように、下に落ちていく。
サラサラと……。

義姉は言った。
「生きているだけでも、すばらしいことよ」と。
その言葉が、私の心の奥の奧まで、やさしくしみこんだ。

ありがとう、姉さん!

*I love you, Akiko *Congratulations, Denise!

【今朝・あれこれ】12月25日(Dec.25th、2007)

I have a slight headache this morning. I suppose the reason is that I had eaten so much cakes last night. As for me taking too much sweet cakes cause a headache. By the way I bought a Sony’s walkman (A918), which is good. It has got noise-reduction ear-phones and it can reduce noise around me. It is super!

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この2日間、ほとんど、原稿を書かなかった。
忙しかった。

で、今朝は、やや頭が重い。
昨日食べたケーキ類が、影響しているのでは……?
私のばあい、甘いものをたくさん食べると、頭重が
起きる。

ところで、おととい、ソニーのウォークマン(A918)
を買った。
衝動買い。
ワンセグ付きで、テレビも見られる。

音楽を聴きながら、サイクリングするのは、久しぶり。
が、このウォークマンには、ノイズ・リダクション付き
のイヤホンが付属している。

イヤホンだけでも、7000円もするとか。

そのイヤホンをつけていると、至近距離で、だれかが
話しかけてきても、その人の声が聞こえない。
車がうしろから近づいてきても、それがわからない。

逆相の周波数をかぶせて、音声を消してしまうためである。

音はすばらしいが、歩きながら使うのは、少し、危険かも? 

ともかくも、昨日は、そんなこともあって、3単位(40分x3)も、
サイクリングをした。

ジョン・デンバーの曲を聴きながら、サイクリングを
していると、気分は、最高!

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●メリークリスマス、晃子!

Merry Christmas, Akiko! I love you, no matter what you are, what you say. The other day you say, “They use the word ‘LOVE’ so easily and therefore the word has lost its meaning.” But I’d like to say, on this Christmas Day, “I love you.” Let take the plane, of which Eiichi has the handle and also let’s go to Little Rock to meet Denise when she becomes a lawyer.

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「愛ほど、実感しにくい言葉はないわ」と、
お前は、言う。

「愛していると言われても、私は、うれしく
ないわ」と、お前は、言う。

そのとおりかもしれない。
そのとおりでないかもしれない。

ただぼくは、今、率直に、そして心から、
こう言うよ。「愛しているよ」とね。

今のぼくは、お前への愛を実感している。
お前が喜ぶかどうかは、別にして、
ぼくは、お前を愛している。

お前が、「うれしくない」と言っても、
ぼくは、かまわない。

世界で、いちばん、すばらしい女性に、
世界で、いちばん、美しい女性に、
ぼくは、この言葉を、ささげたい。

お前を愛しているよ。

それに、ぼくは、お前といるときが、いちばん楽しい。
ぼくは、お前といるときが、いちばん心が安らぐ。

今年、ぼくは、ちょうど、60歳になったけど、
いろいろあったね。

お前は、よく「私たちは、ほかの人たちの
人生の、何倍も生きたような気がする」と、言う。

それがよかったのか、それとも悪かったのか・・・?

ぼくにはわからないけど、ぼくは、夢中で生きてきた。
それはたしかだと思う。

お前がそばにいてくれたからこそ、ぼくは、
それができた。
何もこわいものがなかった。

ありがとう。
そしてメリークリスマス!

英市が、パイロットになったら、2人で、
英市の操縦する飛行機に乗ろうね。
デニーズが弁護士になったら、お祝いに
リトルロックへ行こうね。

ほかに・・・。来年は、オーストラリアへ
行こうね。
ぼくが、今まで大切にしてきたものを、
お前に見せてあげたい。

愛しているよ。
心から愛しているよ。

そして、もう一度。
メリークリスマス!

そうそう言い忘れたけど、今、1時間あまり
街をブラついて、やっとクリスマス
プレゼントが、決まった。

周市には、タバコパイプ。
そしてお前には、メルボルン市内のガイドブック。
喜んでくれるかな?


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ロー・スクール(Law School)

Denise has passed the examination of a law school in Little Rock, AR. It is a greatest news and my wife and I have talked about it these few days. She is a great lady. The news reminds me of M. Fuziwara, a son-in-law of Prof. K. Tamaru, M. Fiziwara wrote a book last year, “The Dignity of a Nation”, which was sold more than 2 million copies. Both of us have great daughter-in-law and a son-in-law.

 ここ数日、ワイフと、デニーズが、ロースクールに合格した話ばかりしている。学費は全額、奨学金でまかなうという。

 デニーズもすごいが、そういうシステムができているアメリカは、もっと、すごい。やる気がある人なら、女性でも、家庭の主婦でも、弁護士になれる。

 しかしここでふと、おかしな気分にとらわれる。デニーズは、たしかに私の息子の嫁だが、私の実の娘ではない。しかしその一方で、私の実の孫たちの母親でもある。もしデニーズが実の私の娘なら、文句なしにうれしいのだが、心のどこかで、ふとブレーキがかかってしまう。

 どうしてだろう?

 昨年(06年)、藤原M氏の書いた、「国家の品格」という本が売れ始めたときのこと。田丸先生が、数日おきに、そのことをメールで書いてきてくれた。「娘の旦那の本が、バカ売れしてましてね」と。

 デニーズのことを考えながら、あのとき田丸先生も、同じような気分ではなかったのかと思う。そのときも、祝電でも……ということになったが、心のどこかで、ふとブレーキがかかってしまったのを覚えている。

 藤原M氏は、田丸先生の自宅で、2、3度、見かけたことがある。いつもあいさつ程度の会話しか、しなかった。田丸先生に、祝電を打つのもおかしい。で、祝電はとりやめた。

 が、デニーズは、まっさきに、そのニュースを私たちに知らせてくれた。デニーズはデニーズなりに、一生懸命、私たちの家族の一員になろうとしている。私たちのほうが、薄情なのかもしれない。

一方、息子は息子で、カルフォルニアのグーグル社への転職をあきらめ、現在住んでいるコンウェイから、リトルロックへ移るという。息子には息子の夢があっただろうに……。優先順位が変わってしまったらしい。

 ワイフは、「お嫁さんが弁護士になれば、Sも心強いわね」と、まあ、どこか、のんきなことを言っている。私について言えば、孫の誠司ですら、自分の孫と思えるようになるまでに、かなりの時間がかかった。なにしろ、私にまったく似ていない。(二番目の芽依は、息子によく似ている。つまり私の面影が、強く残っている。)

 いつか、息子のSは、こう言っていた。

 「パパ、デニーズは、日本の女性よりも、はるかに日本の女性みたいだよ」と。

 私と息子のSとの関係がおかしくなったときも何度かあったが、そのつどデニーズは、懸命に間をとりもってくれた。そんな(やさしさ)が、私の心を暖かくしてくれる。

Friday, December 21, 2007

*UFO's on the Moon

●UFO

Have you ever seen an UFO? My wife and I did. It was a midnight after 12:00 o’clock. We were walking in a narrow street near our flat. It was a huge one, which might be 2 or 3 kilometers in width. Of course it was not a plane. It was so huge. Then if someone asks me if I believe in UFO’s, I would say, “Yes”. These days at the Parliament House of Japan, some congressmen discuss about UFO’s in the public. Does this have something to do with “Kaguya”, a Japanese moon-search rocket? Kaguya is now on the orbit of the moon, taking photos from the space. I hope the government show us everything about the Moon. Some scientists as well as people say that the Moon is a giant space-craft for the aliens. Do you think so too?

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このところ、国会議員たちが、「UFO」
という言葉を、よく口にする。

国会という、公式の場でも、この問題
が取りあげられた(07年12月)。

一応、政府見解は、「存在しない」だが、
一部の議員たちは、「信じている」、「いる
と思う」などと発言している。

こうした一連の発言は、日本が打ちあげた
月探査衛星「かぐや」と、どこかでつながって
いるのではないだろうか?

「かぐや」は、とんでもない映像を地球へ
送り届けてきた(?)。

「とんでもない」というのは、「ありえない」
という意味であり、私はそれがUFOであって
も、少しも、おかしいとは思わない。

アポロ宇宙船で、月の裏側に回ったある宇宙
飛行士は、こう言ったという。

「まるでラッシュ・アワーのように、UFO
が飛び交っている!」と。

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 月の内部には、巨大な空間がある。その中心部では、プラズマの人工太陽が、さんさんと輝いている。月の内側に住む住人たちは、地球人の私たちと同じような生活をしている。

 一見、荒唐無稽(むけい)のような話だが、こうした説を信じている人は多い。科学者の中にも、いる。たとえば私が子どものころには、月には、オニール橋※というのがあった。「オニール」というのは、その橋を発見した人物の名前である。

 オニールは、ある日、望遠鏡で月を見ていたとき、斜め方向からの太陽光線を浴びて、そこに橋のような影ができているのを発見した。それでそれを「オニール橋」と名づけた。

 私はその橋のことを、どこかの博覧会に行ったときに知った。巨大なアーチ型の橋で、全長はたしか、20キロ近くあると聞いたのを記憶している。

 しかし、だ。今、同じところをさがしても、その橋はない。「ない」というより、「消えた」。今にして思えば、その橋というのは、山から山へと、ちょうどそれらにまたがるように着陸していたUFOではなかったかと思う。

 私自身も、巨大なUFOを目撃している。ブーメラン型のUFOである。全長が2~3キロはあったかと思う。あるいはもっと長かったかもしれない。よく「葉巻型UFO」が話題になるが、葉巻型UFOともなると、全長が20~30キロもあるという。

 こういう話を聞くと、月へのロマンが、かぎりなく、ふくらむ。

 月の住人たちは、どこから来たのか?
 月の住人たちは、何をしているのか?
 月の住人たちは、地球人の私たちを、どうしようとしているのか?

 あの月をくりぬいて住むほどの宇宙人だから、かなり頭のよい人たちとみてよい。私たち人間より、ひょっとしたら、何千年も、何万年も進化しているかもしれない。あのUFOにしても、光速に近いスピードで、宇宙空間を自由自在に動き回れるという。

 私が見たUFOにしても、空にそのまま溶け込むかのようにして、消えていった・・・。

 「かぐや」は、どんな映像を送ってきているのか? その一部は、インターネット上でも公開されているが、どれも高・高度からのものでしかない。私(=私たち)が見たいのは、もっと低高度で撮った、倍率の高い写真である。
 
 そこには、月に住む住人たちの、その直接的な証拠が写っているかもしれない。どうかウソ隠しなく、(=修正しないで)、すべての写真を公開してほしい。

(注※)(月探査情報ステーションの公式HPより、転載)

オニール橋事件を振り返ってみます。1953年7月、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の科学部長であったJ・J・オニール氏は、月面の「危難の海」の西側に人工的に作られた橋のようなものを発見したと発表しました。この橋は二つの峰をまたぐような形で、20kmにもおよび、日没時には観測できましたが、日の出の時には見えなかった、ということです。
同年8月、英国天文学協会の月研究部長だったH・P・ウィルキンス氏らも同じ構造を確認したと発表しました。しかし、その後この構造は観測できなくなり、見まちがいだったのではないかという批判が起こりました。ウィルキンス氏はその批判に抗議し、月研究部長を辞任したそうです。
当時、オニール橋はかなりの話題を呼び、一部UFO研究家などからは巨大なUFOが一時的に着陸していたのではという推測もされたそうです。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist UFO オニール オニール橋)

*I am very proud of you, Denise!!!

●アメリカの教育システム(The Education System in USA)

My daughter-in law has passed the examination to be a lawyer and she intends to attend a law school from next year. She used to be a student of USA literature. This is USA!

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これは驚くべきことだと思う。
アメリカ文学を専攻した女子学生が、
卒業。そのあと結婚。

2児の母親になったあと、奨学金
試験に合格。

今度は、法曹(弁護士)をめざすという。

こういうことが平気で(?)、できる
ところが、すばらしい。

嫁のデニースから、こんなメールが
届いた。

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I'm sorry it has been so long since I have contacted you. I have been spending all of my free time these past few months getting ready for law school. I had to take a big test a few weeks ago and I only had 2 months to study for it--most people get 6 months. I received the test results last night and I passed just fine, so I will be able to enroll next year.

長い間、連絡をしなくてすみませんでした。私は過去3か月、ずっと、ロースクール(法曹学校)の準備に費やしてきました。2、3週間前に大きな試験を受け、そのために、ほとんどの人が6か月かけてする準備ですが、2か月しかありませんでした。昨夜、その結果が届きました。合格しました。ですから来年から入学できます。

わかるかな? アメリカでは、教育の自由化は、ここまで進んでいる! 日本で文学部を卒業した学生が、主婦になったあと、ロースクール(法曹大学)に入学できるなどということが考えられるか。ふつうは大学の法学部で4年ほどかけて単位を取ったあと、ロースクールへと進学していく。

しかも奨学金制度が充実している。

……I know that you worry about us, especially financially, but please don't be concerned at all. If I attend the law school in Little Rock, Arkansas, I should be able to receive a full scholarship (or at least a half-tuition scholarship) so we won't have to pay for the classes.

あなたが私たちのことを心配しているということはわかっています。しかしどうか、ご心配なさらないように。リトル・ロックのロースクールに通うことになれば、全額奨学金でまかなえます。(少なくとも、半額奨学金はもらえます。)ですから、私たちは、お金を払わなくてもよいのです。

私はつぎのような返事を書いた。

Congratulations!
Great news!
You are great!
Incredible!

I never hesitate to invest money to my sons and daughter.
Please tell me anytime in case you need my help.

Great! So great!
And Merry Christmas!
Your news is the most wonderful present to me!

How come did you choose such Soichi, who is not at all suitable for you?
Soichi should be very proud of you.
I am very proud of you.

Hiroshi

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おめでとう。
たいへんなニュースです。
あなたはすばらしい。
信じられません。

私は息子や娘にお金を投資することを、ためらいません。
必要なときはいつでも言ってください。

すごいことです。
そしてメリークリスマス!
あなたのニュースは、私には最高の贈り物です。

あなたが、宗市のような、あなたにふさわしくない人を、どうして選んだのか。
宗市は、あなたを誇りに思うべきです。
私も、あなたをたいへん誇りに思います。

浩司

*I am very proud of you, Denise!

Thursday, December 20, 2007

*To live, following a flag, is very easy.

●旗についていく(To live, following a flag, is very easy.)

To live, following a flag in the front, is very easy. On the contrary to live, walking in the front with a flag above, is not easy. To live, depending on other people, is very easy. On the contrary to live independently from others is not easy. As to the children, it is not the education to lead them, walking before them with a flag above. Education is the education which educes their ability from them and make them think and act independently.

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同じ旅行でも、旗についていく旅行ほど、
楽なものはない。

一方、旗を立てて歩く人は、たいへん。
神経を使う。気を使う。気を配る。
旅行を楽しむ余裕など、どこにもない。

つまりそれが指導者と、被指導者のちがい
ということになる。

旗を立てて、前を歩く人が指導者。
その旗のあとを、ぞろぞろと歩いていく
人が、被指導者ということになる。

被依存者は、それでよいとしても、
こわいのは、依存性。
その依存性がつきすぎると、自分で
歩くどころか、立ちあがることさえ
できなくなる。

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 旅行にかぎらない。なにごとでも、他人が敷いてくれたレールの上を歩いていくのは、簡単なこと。こんな話がある。

 合成ゴムを世界でいちばん早く完成させたのは、フランスのデュポン社の研究者たちだったという。多くの研究者たちが、何年も苦労に苦労を重ねたのち、やっとのことで合成ゴムの製造に成功した。

 が、そのあと、同じものを学生に作らせてみたところ、学生たちは何と数か月で、合成ゴムを作ってみせたという。恩師の田丸先生から、聞いた話である。

 ものを考える世界でも、そうである。

 自分で考え、自分でその考えをまとめ、さらにそれらの考えをひとつにし、思想らしきものにするのは、たいへん。その苦労は、たとえて言うなら、何千キロもの荒野を、ひとりで歩くようなもの(?)。私には経験がないので、よくわからないが、私はそう思う。

 が、他人の思想を知り、それを自分のものにするのは、簡単!

 「私は考えている」と言う人にしても、ほんとうに自分で考えているかどうかは、疑わしい。たいていは他人の思想の上に、自分の(思い)を重ねているだけ。あるいは他人の思想を変形させているだけ。他人から得た思想を、「自分の思想」と思い込んでいるだけ。

 中には、(情報)を、(思考)と誤解している人がいる。ものごとをよく知っているからといって、その人に思考力があるということにはならない。幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、算数の力があるということにはならない。

 最近、こんな人に出会った。ある宗教団体の熱心な信者で、この地区の幹部をしている。その人があれこれと私に、その教団の教えを説明しながら、こう言った。

 「私は、この仏法に、命をかけている」「A先生は、私の師だ」「△△経(経文のこと)を、そしるものは、たとえ親兄弟でも許さない」と。

 そこで私が「許さない」というのは、どういうことかと聞くと、その人は、こう答えた。

 「許さないということは、許さないということ。縁を切る。ばあいによっては、親兄弟でも、殺す」と。

 同じ旗についていく人でも、それが宗教となると、人は、そこまで思い込むようになる。私はその話を聞きながら、「だれも、△△経をそしるようなことは、しない」「その人が信仰をして、それで幸福なら、それはそれでいいこと」「そしるとか、そんな失敬なことはしない」と思った。つまりそれはその人の、被害妄想ということになる。

 それはともかくも、何ごとも先を歩くということは、たいへん。またその(たいへんさ)を克服しないかぎり、人の前を歩くことはできない。

 一方、だれかが持った旗についていくのは、楽。何も考えなくてもよい。しかし他人の持った旗について歩いてばかりいると、今度は、自分で歩けなくなる。さらにそれを繰り返していると、歩くどころか、自分で立つことすらできなくなる。そうなれば、ますます依存性ばかりが強くなる。

 もうおわかりのことと思うが、子どもの世界には、「パラサイト」という言葉がある。パラサイトというのは、寄生虫をいう。そういう生き方をしている人を、「パラサイト・シングル」という。(ふつう「パラサイト・シングル」というときは、親のスネをかじって生きる若者をいう。)

 子どもの世界でも、気をつけないと、子どもに依存性ばかりもたせて、その子どもを自立できなくしてしまうことがある。よい例が、受験勉強。旗をもった人が、どんどんと子どもを先導する。課題を与える。子どもは言われるまま、それについていく。自分で考えて行動するということは、まず、ない。

 一見、教育に見えるが、これは教育ではない。指導でもない。ただの訓練。しかもその訓練というのは、子どもに依存性をつけさせるだけ。長い目で見れば、かえって弊害ばかりが目立つようになる。

 今、高校生でも、自分の能力に合った参考書や、問題集を買うことができない子どもがふえている。大学生でも、生活感がまったくない子どもも多い。勉強はできるが、料理といえば、できるのは卵焼きだけ、とか、など。部屋の掃除すら、しない。・・・しないというより、できない。

 旗のあとをついて歩いてばかりいると、子どもでも、そうなる。それなりの成果(?)はあるかもしれないが、そこまで。

(付記)

 同年齢ということもあって、このところ、退職をした人たちのあとを知る機会が多くなった。で、そういう人たちを見ていると、大きく、つぎの2つのタイプに分けることができるのを知る。

 ひとつは、再就職することばかりを考えているタイプ。このタイプの人は、「お金は、貰うもの」という意識が強い。「いい仕事が見つかった」「給料がいい」とか言う。

 もうひとつは、自分でしたいことを見つけて、それに向かって前に進んでいくタイプ。このタイプの人は、「お金は自分で稼ぐもの」という意識が強い。「人に使われるのはいや」「人を使うのもいや」とか言う。

 もうひとつ、年金だけを頼りに、これといった仕事もしないで、日々を過ごすタイプの人もいる。庭いじりと孫の世話。あとは旅行三昧に趣味三昧。が、これは論外。

 つまり退職してからも、旗を立てて、前を歩く人と、旗に従って、そのあとをついて行く人に分かれるということ。しかもこの年齢になると、それまでの生き様を変えることは、容易なことではない。・・・というより、不可能。

 やはり子どものころからの育て方、教育のし方こそ、重要ということになる。

(追記)

 ところで本文の中に書いた、「ある宗教団体の熱心な信者」のことだが、その信者というのは、ほんとうは女性だった。(本文の中では、男性のように書いたが、実際は、女性だった。その女性は、こう言った。「夫がこの信仰に反対したら、離婚するのもやむをえません」と。)

 その女性だが、さも私はできた人間です・・・というような表情で、私と話している間中、穏やかな笑みを消さなかった。

 しかし私には、それが不気味だった。仮面型人間の特徴というか、表情に、自然ぽさがなかった。熱心に信仰しているという人にときどき見られる現象である。しかしいくら自分は高邁(こうまい)な人間と思っても、人間らしさまで失ってはいけない。

【仮面型(ペルソナ)人間の特徴】

(1) 表情に、自然ぽさがない。
(2) 何を考えているか、つかみにくい。
(3) 穏やかで、できた人という印象を与える。
(4) それらしいことを口にするが、こちらの心にしみこんでこない。
(5) ときに不気味な印象を与える。
(6) 見た目には、いつも静かに落ち着きはらっている。

 だれしもときとばあいによっては、仮面をかぶる。(まったく仮面をかぶれないというのも、問題である。社会適応性を失う。)大切なことは、仮面は仮面と知り、自分の世界にもどったら、仮面を脱ぐこと。仮面を脱ぎ忘れると、ここでいう仮面型人間になってしまう。宗教家や教師、牧師に、このタイプの人が多い。

Wednesday, December 19, 2007

*Inspiration Swindle

●テレビ局よ、責任を感じろ!(Inspiration Swindle)

More and more victims are deceived by so-called “Inspiration Swindle” in Japan. In Japan now “inspiration” or “spiritual” boom is on and almost every night this kind of TV programs are being broadcasted. This is one of the main reasons why it is so now! Be ashamed, TV men! It is your responsibility that produces these victims. According to today’s newspaper, in only 4 hours, they received 59 telephone calls from these victims, ant the amount of which is more than 130 million US dollars! This also affects children in Japan. About 50% of school kids believe in spiritual power or inspiration magic. This is the story about it.

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霊感商法が、またまた増殖しているという(中日新聞・07・12・20)。

いわく、「悪質な霊感商法が、再び増えている背景には、(前世)(生まれ変わり)などの言葉がメディアをにぎわせ、(ヒーリング)(スピリチュアル)といったブームがあるようだ」(同紙)と。

わかるか?

アホな番組を一方で、無分別に垂れ流すから、それを真に受けた純朴な人たちが、だまされる。

全国霊感商法対策弁護士連絡会で活動している、WH弁護士は、つぎのように語っている。

「有名人がスピリチュアルについて語るなど、ブームにより警戒心が薄れ、霊感商法への敷居が低くなった。被害にあいやすくなっている」(同紙)と。

たとえば……、
「死んだお父さんが、助けを待っている」
「(あなたは)昔、祖父が殺したヘビの生まれかわりだ」(同紙)などといって、祈祷料を取られたり、物品を買わされたりする、と。

「今月4日(=12月4日)に行われた電話相談で、寄せられた電話はわずか4時間ほどの間に、59件、被害金額では計1億3300万円にのぼった。2000万円もの被害を訴えた人もいたという」(同紙)ともある。

中には、「スピリチュアルな子育て法」などという、これまた「?」な育児本まである。書店へ行くと、この種の本が、ズラリと並んでいる。

「前世」だの、「来世」だの、バカなことを口にするのは、もうやめよう。釈迦ですら、そんなことは一言も言っていない。ウソだと思うなら、『法句経』を、ハシからハシまで読んでみることだ。そんなアホな思想が混在するようになったのは、釈迦滅後、数百年もしてからのこと。ヒンズー教の輪廻転生論がそこに入り込んだ。

いわんや、占星術? ばか! アホ! インチキ!

あのね、占星術は、立派なカルト。そういうものを、天下の公器をつかって、全国に垂れ流す。そのおかしさに、まず、私たちが気づかねばならない。私がたまたま見たテレビ番組の中では、どこかのオバチャンが、こう言っていた。

「あなたの背中には、ヘビがとりついている。毎朝、20回、シャワーで洗いなさい」と。

もう、うんざり! 反論するのも、いや! ばか臭い!

が、問題は、子どもたち。

10年ほど前だが、私が調査したところでも、約半数の子どもたち(小学生、3~6年生)が、占い、まじないを信じていた。今は、もっと多いのでは……? そしてそれが日本の子どもたちの理科離れの一因になっているとも考えられる。

子どもたちに与える影響を、少しは考えろ。
あるいは自分の頭で、少しは考えて、番組を作れ!
それとも君たちは、どこかのカルト教団と結託しているのか?

年末にかけて、この種の番組が、ますますふえている。
思考力をなくしたテレビ局。思考力をなくしたプロデューサー。そして視聴者たち。
日本人は、ますますバカになっていく。私には、そんな気がしてならないのだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 霊感商法 inspiration commercial spiritual commercial スピリチュアル inspiration swindle)

*Presidential Election in South Korea

●今朝・あれこれ(12月20日)

Last night I sat up late watching news from South Korea about the Presidential Election. Mr. I. Myonbaku, who belongs to a conservative party won the election. The N President of now is so much anti-Japan, which causes vice-versa emotion against South Korea as well as North Korea. According to the Chosun-N (a leading Korean Newspaper), it says this morning, “USA takes it carefully, Japan welcomes it and China reports it dispassionately”. What makes me surprised is that it says that USA takes it carefully. Why not does USA welcome the new President? Or is USA now for North Korea so much like this? Most of the Japanese think as far as I know that, what Ms. Rice and Mr. Hill is doing with the North Korea problem is un-understandable. Which one of us do they choose between Japan and North Korea? I don’t know about the case of Ms. Rice, but in USA, they say, white people dislike black people. But moreover black people dislike yellow people. I hope Ms. Rice is not such a lady.

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昨夜は、遅くまで、韓国の大統領
選挙関連ニュースを見ていた。

結果は、すでにみなさん、ご存知の
とおり。

よかった。ほっとした。

こうした私の印象を代弁するかの
ように、朝鮮N報は、各国の反応と
題して、つぎのように伝えている。

「アメリカは「慎重」、日本は「歓迎」、
中国は「淡々」…。19日に行われた
韓国大統領選挙でハンナラ党の李明博
(イ・ミョンバク)候補が勝利したとの
一報に、各国が見せた大方の反応だ」と。

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●韓国の大統領選挙

 朝鮮N報は、今回の韓国大統領選挙について、つぎのように伝えている。

「アメリカは「慎重」、日本は「歓迎」、中国は「淡々」…。19日に行われた韓国大統領選挙でハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)候補が勝利したとの一報に、各国が見せた大方の反応だ」(07年12月20日)と。

 日本が「歓迎」というのは、よくわかる。あのN大統領は、日本にとっては、最悪の大統領だった。ことあるごとに、反日、反日の大合唱。ああまで「日本が悪い」と言われると、日本としても、行き場をなくす。「嫌韓」になる。

 小泉首相がY神社を参拝したときには、N大統領は、「いい気になるな」(韓国語の表現で)とまで、言い切った。口の汚い大統領だった。

 が、意外だったのは、アメリカの反応。「アメリカは慎重」とある。つまりアメリカは、そこまでK国寄りになっていたのか? 保守派大統領が誕生したのだから、本来なら、歓迎すべきではないのか。ライス国務長官、ヒル国務次官補の一連の動きを見ていると、まるで金xxの毒気にのまれてしまったかのよう。この日本を切ってまで、K国に、すり寄っている。

 しかし安心するのは、まだ早い。李明博(イ・ミョンバク)大統領が、どのような対日政策を打ち出してくるかは、今のところ、まったくわかっていない。へたをすれば、N大統領以上に、敵意むき出しの、対日経済戦争をいどんでくるかもしれない。

 いや、その前に、現在、韓国経済は、疲弊している。崩壊寸前。日本円にして80兆円近い個人負債、貿易赤字、原油高、短期外債(=外国からの借金)の急増。その短期外債は、外債全体の約50%を占めるまでになっている。さらにここ1、2週間の報道によると、銀行の貸し出し資金が枯渇しているという。

 貸し出し資金が涸渇しているということは、銀行業務がマヒ状態にあることを意味する。

 李明博(イ・ミョンバク)大統領は、どうやって韓国の経済を、立て直すつもりでいるのだろう。

 さらに日本にとっては、拉致問題もある。N大統領のように、「知らぬ」「関係ない」とまでは言わないだろうが、安心はできない。李明博(イ・ミョンバク)大統領が、日本の拉致問題に対してどのような反応を示すか。それで、これからの日韓関係のおおまかな方向が予測できる。

 ともあれ、今しばらくは、静観。今後、どのような政策を打ち出してくるか、それを見届けてから、つぎの意見を書いてみたい。

(付記)

 ライス国務長官がそうであるというのではない。ないが、一般論として、アメリカでは、白人は黒人を、蔑視する傾向が強い。が、それ以上に強いのが、黒人によるアジア人蔑視意識。自分たちが蔑視された分だけ、今度は、それをアジア人、つまり私たち黄色人種に向ける。

 よく、いじめられっ子が、別の場面で、過激なほどまでに、いじめっ子になることがある。そういった心理と、どこか共通している(?)。

 ライス国務長官の深層心理を理解するためには、そんな知識も、心のどこかにとどめておくとよいのでは……(?)。

*Are there born-bad men in this world?

●生まれながらの悪人はいるのか?(Are there born-bad men?)

Mr. U used to be a “Special Policeman”, or “Gestapo” in German, during the ex-war. People were very much afraid of him. In those days in case when you say the name of Emperor of Japan without the title of honor, you were arrested and put into the Jail without any questioning and answering. These sort of things were done by these policemen called “Special Policeman”. But as far as I know him, he was a very kind and gentle man and sometimes he invited me to his house for dinner. I couldn’t believe what other people said about him. There is a saying in Japan, “Uniforms makes the Man.” I mean there are not born-bad man nor born-good man. People are made to be a good man or a bad man in his or her environment where he or she has been raised up. It is quite so, too, about young boys and girls. I remember a boy whose name was G. Here I write about him. By the way Mr. U died quite recently, so did I hear.

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U氏……先日、そのU氏が亡くなったという話を聞いた。
私がU氏を知ったのは、私がこの浜松へ来て、まもなくのころのことだった。
U氏はそのころ、すでに50歳に近かった。
戦時中は、「Uさんの顔を見ただけで、みな、顔が青ざめました」と。
「特高」と呼ばれる警察官で、情け容赦ない、冷酷な人として知られていたという。
そんな話を、しばらくしてから、別の男性(当時、60歳くらい)から、聞いた。

「特高」……ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ)は、大日本帝国憲法下の日本で、共産主義のほか、すべての反政府的言論・思想・運動を弾圧した秘密警察。通称は「特高警察」(とっこうけいさつ)・「特高」(とっこう)。自らの公務の残虐性に疑問を持たない、異常体質を有していた」と。

この中にも、「異常体質」という言葉が見られる。
戦時中は、「特高」という言葉を聞いただけで、みな、震えあがったという。
「天皇」と呼び捨てにしただけで、逮捕、投獄された。
そんな話を、私も、子どものころ、よく聞いた。

が、そのU氏は、私が知っている範囲では、おだやかで、やさしい人だった。
何度か、自宅に招かれ、食事をごちそうになったこともある。

『人は、制服によって作られる』と、よく言われる。
制服を着たとたん、その人はその人でなくなり、反対に、制服をぬいだとたん、もとの人に戻る。

U氏も、そんな人ではなかったか。
つまり根っからの悪人はいないし、同時に、根っからの善人もいない。

言いかえると、人の善悪を決めるのは、その人内部の、神性と悪魔性のバランスでしかない。
神性がより強ければ、善人になり、悪魔性がより強ければ、悪人になる。
その神性や悪魔性を引き出すのは、「環境」ということになる。
U氏のばあいは、「制服」だったということになる。
あるいは「戦争」という異常な環境だったかもしれない。

このことは、子どもの世界を見ていると、わかる。

少し話がそれる。
この40年近いという長い年月、私は幼稚園の年中児から高校3年生まで、教えてきた。
年中児から、高校3年生までの、18年間、である。

ほとんどの生徒は、そのまま(まっとうな道)を進んだが、しかし数は少ないが、犯罪者の道を歩むようになったのもいる。
印象に残っている子ども(男児)に、G君(小2)という子どもがいた。

学校でも、どうしようもないほどの暴れ者で、ほかの子どもや先生にまで、よくけがをさせた。
そのため、クラスどころか、学校でも嫌われた。
小4になるとき、「よりきめのこまかい指導ができるように」という、理由にもならないような理由をつけられ、隣の大規模校へ転校させられた。

G君は、その学校でも、暴れた。つっぱった。みなに、嫌われた。
が、母親には、その認識がなかった。
ないばかりか、いつも「学校が悪い」「先生が悪い」「友だちが悪い」と言っていた。

そう言いながら、その一方で、母親は、はげしい体罰をG君に繰りかえしていた。
父親はいたが、週に、1、2度しか、家に帰ってこなかった。

こうしてG君は6年生になったが、そのころになると、体格は、母親より大きくなり、母親の手に負えなくなった。
G君は、ますます学校で暴れた。

授業中にバスケットボールを、壁に当てて遊ぶ。
友だちの机をつぎつぎと、ひっくり返して逃げる。
授業中に、自分だけうしろの通路にすわって、マンガの本を読む、などなど。

しかし家では、つまり母親の前では、母親が言うには、「ふつうの子ども」だった。
また父親の前では、借りてきたネコの子のように、おとなしかったという。

G君は、私の教室には、中学2年まで来た。
私はG君のために、2人だけのクラスを用意して、対峙した。
が、毎回、とっくみあいのレスリングばかりしていた。
ほかにも、いろいろなことはしたのだろうが、記憶の中では、それしか残っていない。

こんなことがあった。

いつものように母親が、G君の前で、G君の悪口を言い始めた。
私は、それを聞いて、こう言った。
「G君は、今は、そういう状態かもしれませんが、かならず大物になりますよ。あのバイタリティは、かならず、いい方向に向かいますよ」「大切なことは、G君を信ずることです」「お母さんが、見放したら、G君は、どこへ行けばいいのですか」と。

その翌週のこと。教室の掃除をしていると、そこにG君が立っていた。
「何だ?」と声をかけると、G君は、こう言った。

「先生、オレ、肩もみ、うまいんだ。先生の肩、もんでやるよ」と。
私はだまって、G君に肩をもんでもらった。

それからもG君は、ワルはワルのままだった。
教室でのレスリングも、それで終わったわけではない。
ただ、残念なことに、その直後、学校で大きな傷害事件を起こしてしまった。
同時に、私のところを去った。

そのG君のうわさを聞いたのは、それから10年もしてからだ。
どこかの飲み屋で傷害事件を起こして、警察に逮捕されたという。
今にして思えば、起こすべきして、G君は、そういう事件を起こしたようにも、思える。
が、同時に、G君は、環境の中で、もがきつづけるうちに、そうなったようにも、思える。

どこかで歯車が狂った。
最初は、ほんの小さな狂いだった。
その狂いが、時間とともに増幅され、やがて悪循環の鎖の中に入っていった。
(乱暴をする)→(嫌われる)→(ますます乱暴をする)と。
その悪循環に悪循環を重ねて、おとなになった。

G君をワルと決めてかかる環境。
無責任で、無知な、父親。
感情的で、現実を直視しようとしない、わがままな母親。
そうそう言い忘れたが、何でもG君の言いなりになってしまう、甘い、祖父母。

そんなG君だったから、G君は、いつも嫌われた。
孤独だった。
自分の顔すら、もてなかった。
だから攻撃的に出た。
その攻撃性が、悪循環に悪循環を重ね、ますますG君は、社会のスミへと追いやられていった。

冒頭のU氏の話に、もどる。

U氏は環境の中で、U氏になっていった。
そして戦争が終わると、U氏は、またもとのU氏に戻った。

同じことが、G君についても、言えないだろうか。
G君は環境の中で、G君になっていった。
ほんとうのG君は、もっと別のところにいた。
ただ環境が変わるということは、G君のばあいには、なかった。
それでG君は、G君のまま、おとなになってしまった。

繰りかえすが、根っからの悪人は、いない。
同じように、根っからの善人は、いない。
悪人か、善人かは、その人内部の、神性と悪魔性のバランスによって決まる。
あるいは、今、「私は善人」を自称している人の中で、「ほんとうに私は善人である」と自信をもって言える人は、何人いるだろうか。

私はいないと思う。

もちろん精神的に病んでいる人も、悪人(?)になることがある。
新聞をにぎわす凶悪事件のほとんどは、こうした人たちによって、引き起こされる。
しかしそれは精神的に病んだからそうなっただけで、根っからの悪人というわけではない。
それにもしそうなら、その人が悪いのではなく、それは病気が悪いということになる。

だから……。

冒頭のタイトルに話が、さらに戻る。

この世の中に、生まれながらの悪人はいるのか?、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 悪人論 神性 悪魔性)

Tuesday, December 18, 2007

*Dec 19th 2007

【今朝・あれこれ】(12月19日)(Dec. 19th, 2007)

It is my habit to change my hobbies or things I am interested in periodically. For instance I was interested in “You Tube” for some weeks and I was absorbed in it very eagerly. But after some while I lost an interest in it and then I tried to seek around things that interested me. Now I am interested in “Second World” and “USTREAM”. With “USTREAM” I can have my own TV broad casting office. It may be very interesting. I would like to make another challenge for it this coming Sunday.

+++++++++++++++++

私には、昔から、おもしろい性癖がある。
ひとつのことを一通りすると、そこであきてしまう。
あきると、また別のものを求めて、さまよい歩く。

この性癖は、インターネット時代になってからも、変わらない。

たとえば「YOU TUBE」(動画配信サービス)に興味をもつと、ある時期、そればかりに没頭する。
ビデオカメラまで、買いそろえる。
しかし1、2か月もすると、それにあきる。
あきると、今度は、別のものに手を出す。

「FLASH」(HP上の動画)もそうだったし、「音声変換」(声で文章を作る)もそうだった。家庭内LANもそうだったし、BLOGもそうだった。BLOGは勢いにのって、7~8つも同時に出した。

今は、「セカンド・ワールド」と、「USTREAM」(動画中継)に興味がある。
「セカンド・ワールド」はともかくも、「USTREAM」は、今すぐにもできそう。

「USTREAM」を使うと、ミニ放送局ができるという。

おもしろそうだ。
今度の日曜日にでも、挑戦してみるつもり。

「こちらは、BW放送局です」
「これからワールド・ニュースの解説をしてみます」とか、何とか。
ハハハ。

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●ハズレ!

 年末に、MELMAの人気投票に応募してみた。昨日、結果が公表された。が、ハズレ! 残念! 投票数が、足りなかったらしい。中には、投票してくれた人もいたと思うが、そういう人には、心から感謝! つぎの機会に、またお願いします。


●頭痛

 このところ私とワイフの間で、交互に風邪をひいている。最初は、私。治ったと思ったら、ワイフ。そのワイフが治ったと思ったら、今朝は、また私。今朝は、頭痛で目がさめた。

 これから朝食をとり、それがすんだら、風邪薬をのんで、また寝るつもり。インフルエンザの予防注射を受けてから、どうも調子が悪い。これはどうしたことか?


●迷惑メール

 VISTAのウィンドウ・メールには、「迷惑メール」という、便利な機能がついている。(今まで使ったことがなかった!)それを使えば、スパム・メール類は、自動的に処理される。

 しかし大切なメールまで、処理されてしまうことはないのか。

 そこで私は、反対に、メッセージ・ルールを使って、大切なメールについては、フィルターをかけて、別のところに収納することにした。

 今のところ、これがうまくいっている。しばらくテストしてみて、これでよければ、迷惑メールは、そのまま削除するようにする。これも自動的にできる。

 しかし……。私のばあい、スパム・メールだけでも、1日に、300~500通も届く。もっと多いかもしれない。

 そんなわけで、私あての私信は、どうか、フォームを使って送ってほしい。フォームは、私のHPのトップページから送れるようになっている。

 フォームで届いたメールは、フィルターをかけてあるので、別のフォルダーに収納される。つまり誤って、削除するということは、ない。

 少し頭痛がひどくなってきたので、今朝は、ここまで。

 みなさん、おはようございます。

*Working Poor

●働けど、働けど……(Working Poor)

One third of the Japanese belongs to so-called “Working Poor”, who works less than 1.9 ~5.4 million yen per year. As to the young me aged from 15~24 years old), abt. 50% of them are not-employed workers. The number of not-employed workers has increased abt. 4.9 million in these ten years. Not-employed workers work with less payment without any sufficient insurance. This means that Japanese traditional working system has collapsed where workers could work in their whole lives in one single company. To solve this problem, I insist, deregulation of the society is more and more important. Otherwise there would be more and more working-poor people, especially working-poor young men.

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働けど、働けど……、一向に、生活が楽にならない。
そんな人がふえている。

G市に住む従兄弟(いとこ)と、電話で話す。
夫は、運送会社に勤め、妻は、銀行でコンピュータ管理の仕事をしている。
3人の子どもがいる。

夫は正規社員だが、妻は、非正規社員。
妻の身分は、10年以上、そのままだという。

従兄弟のケースは、まだ恵まれているほうだが、それでも、生活は、毎月ギリギリだという。
夫も妻も、朝から、夜遅くまで働いている。

総務省統計局の調査によれば、この97年から02年までに、いわゆるワーキングプア世帯(非勤労世帯を含む全世帯)は、16・3から22・3%に、ふえたという。

ワーキングプア世帯というのは、「働く貧困層」をいう。

ここでいう「貧困基準」というのは、

1人世帯……年収190万円以下
2人世帯……年収300万円以下
3人世帯……年収394万円以下
4人世帯……年収463万円以下
5人世帯……年収548万円以下(2002年度)の人たちをいう。

現在、日本では、約3分の1の世帯が、そのワーキングプア層に該当するという。

が、ここで注意しなければならないことは、たとえば妻が専業主婦で、子どもが2人いるばあい、4人世帯となるということ。
年収が、463万円以下だと、ワーキングプア層に入ってしまう。
つまり、子どもが多ければ多いほど、生活が苦しくなる。

しかし実際、1人の男性(夫)が、500万円の年収をあげることは、容易なことではない。
正規社員はともかくも、非正規社員だと、なおさらである。年収で、約30%~前後の開きがあると聞いている(浜松地域)。

その正規社員は減り、非正規社員はふえている。同じく総務省統計局の調査によれば、この10年間で、正規社員は約450万人減り、非正規社員は約490万人ふえているという(IMIDAS)。

わかりやすく言えば、企業は、正規社員を減らし、その穴埋めを、給料が安くてすむ非正規社員で補っているということ。

しかしこんなことをつづけていれば、勝ち組と負け組の2極化がますます進む。
が、それだけではすまない。
社会そのものが、不安定化する。
子どもの世界について言うなら、ますます受験競争がはげしくなる。
ついでに言えば、それがストレスとなって、子どもたちの世界を、ますますゆがめる。

いじめもふえるだろう。
子どもの自殺もふえるだろう。
不登校児もふえるだろう。

中に、「能力のある人がいい生活をして、そうでない人が、いい生活ができないのは、しかたのないこと」と説く人がいる。

しかしそれには、大前提がある。

雇用の機会が、だれにも、平等に、かつ均等に与えられなければならない。
しかしこの日本では、人生の入り口で、運よくその世界へ入った人は、生涯にわたって、安楽な生活をすることができる。
またそういう人たちが、自分が得た権益を、手放そうとしない。
公務員の天下りに、その例を見るまでもない。

何か、おかしい?
何か、へん?

総務省統計局の調査を見ると、1996年から99年あたりから、この日本は、大きく変化し始めた。
この時期というのは、ちょうど団塊の世代以下が、リストラにつぐリストラで、職場を追われ始めた時期にあたる。

では、どうするか?
どう考えたらよいか?
私たちの世代は、それでしかたないとして、これからこの日本を支える、これからの若者たちのためには、どうしたらよいか?

今のように、若者(15~24歳)の非正規雇用が、50%前後(男子44%、女子52%、06年)にもなったら、雇用社会そのものが崩壊したと考えたほうがよいのではないか。
わかりやすく言えば、フリーターであることのほうが、今では、当たり前。

であるなら、若者たちがフリーターとして生きていくために、生きやすい環境を、用意する。
つまりそのためには、規制緩和、あるのみ。ただひたすら、規制緩和あるのみ。

たとえばオーストラリアでは、電話1本と、車1台があれば、若者たちは、それで仕事が始められる。
日本で言うような、資格だの、許可だの、認可だの、そういったものは、ほとんど必要ない。

日本は世界的に見ても、管理の上に、「超」が、10個ぐらいつく、超管理国家である。
官僚主義国家の弊害と言えば、それまでだが、一方でこうして若者たちの世界を、がんじがらめに縛りつけている。

簡単に言えば、一方でフリーターをつくりながら、他方で、フリーターには、生きにくい社会にしている。(そう言えば、数年前、『フリーター撲滅論』を唱えた、どこかのバカ校長がいた。「撲滅」だと!)

これを矛盾と言わずして、何と言う。

私はそのフリーターを、40年近くしてきた。
浜松に来たころには、市の商工会議所に登録している翻訳家は1人しかいなくて、私が2人目だった。
私は工業団地の電柱に張り紙をして、仕事を取ってきた。
資格も認可も、いらなかった。

今、そういう「自由」がどこにある?
またそういう自由があるからこそ、社会に、ダイナミズムが生まれ、そのダイナミズムが、社会を発展させる。

働けど……、働けど……。
そんなわけで結局は、働くしかない。

ということで、言いたいこと、書きたいことは、山ほどある。あるが、ここは、「バカヤロー」と叫んだところで、おしまい。バカヤロー!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ワーキングプア ワーキング・プア working poor working-poor)

Monday, December 17, 2007

*Ground Level -3

●グランドレベル、マイナス3(スリー)(Ground Level -3)

When coping a child’s mental problem, we’d better think that he or she has another level of mind under the mind. I call this “Ground Level -2”. In most cases parents tend to think that their son or daughter is in the worst level, when he or she has a kind of mental problem. But there is another level under the level. I mean if parents mistake the way of coping, the child would go to the another level under the level, called “Ground Level -3”.

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子どもの「底」には、ふつう、もうひとつの「底」がある。
これを二番底という。
が、その二番底の下には、さらにもうひとつの「底」がある。
これを三番底という。
上から数えると、(ふつうの状態)を、「地面」とするなら、この三番底は、「グランドレベル、マイナス3(スリー)」ということになる。

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 ある母親から、こんな相談があった。

 昨年、その人の娘が大阪の大学に入学したのだが、いわゆる不登校状態だという。土日ごとに、三重県の実家に帰ってくる。退学を考えているが、父親がそれを許さない。

 「だから、どうしたらいいか?」と。

 こういうケースのばあい、つぎの4つのレベルを考える。

(グランド・ゼロ)・・・何も問題がなく、学校や大学へ通う状態。
(グランド・マイナス1)・・・学校や大学へ通うのが、一苦労といった感じ。
(グランド・マイナス2)・・・不登校状態になる。
(グランド・マイナス3)・・・精神的な問題をかかえる。

 ここで大切なことは、親から見ると、その子どもは、(グランド・マイナス1)の状態ということになる。しかしその子どもは、その子どもなりに努力している。がんばっている。だから実際のレベルは、(グランド・マイナス2)ということになる。

 ほんとうは(グランド・マイナス2)なのだが、表に出ている症状は、(グランド・マイナス1)というわけである。

 こういうケースのばあい、親は、(グランド・マイナス1)の状態を現在の状態、イコール、最悪の状態と考えやすい。またそこをベースとして、子どもの問題を考え、「何とかなる」「うちの子にかぎって、そんなはずはない」と考える。

 しかしこれでは、子どもの心をしっかりとつかめないばかりか、かえってさらに子どもを悪い状態に追い込んでしまう。病気にたとえるなら、肺炎の症状を風邪とまちがえるようなもの。診断名をまちがえたような状態になる。

 では、どうするか。

 こういうケースでは、親のほうが、一度、(グランド・マイナス3)のレベルまで、子どもに対する見方をさげる。そこをベースとして、子どもの心を考える。つまり子どもの心は、心の奥からみる。けっして表面的な様子にだまされてはいけない。

 そのあと母親とは、電話で、こんな会話をした。

私「娘さんは、がんばっていると思います。ほんとうはマイナス2の状態かもしれませんが、あなたに心配をかけたくないと、マイナス1のレベルで、がんばっていると考えてあげてください」
母「そうですね。でも、父親ががんこな人で、そんなのは、わがままだとか、怠け病だとか言います」
私「あとで、今日のことを原稿にしておきますから、それをご主人に見せなさい」
母「では、どうすればいいのですか?」

私「あきらめて、親のほうが引き下がるのです。お嬢さんが、大学を変えたいというのなら、それも一策です」
母「娘は、地元の専門学校に通いたいと言っています」
私「しかし本当は、そうでないのかもしれません。ほんとうは、その専門学校にも行きたくないのかもしれません」
母「無理をしているということですか?」
私「そう考えて対処したほうがいいでしょう。何もしたくないと言えば、お父さんにますます叱られますから」
母「そうですね」と。

 こうしたケースでは、そのレベルを「最悪」と考えて無理をすると、子どもはさらにその下の「底」へと落ちていく。これを私は「二番底」と呼んでいる。が、そこでとどまるわけではない。へたをすれば、さらに「三番底」「四番底」へと落ちていく。

 子どもの心の奥は深い。それを忘れてはいけない。

 なお、最近、ある本で、ある育児評論家が、「二番底」という言葉を使っているのを知った。これらの言葉は、私のオリジナルである。(株の世界には、「二番底」という言葉は、昔からあるが……。)そこでここでは、「グランド・レベル」という言葉を使うことにした。これも私のオリジナルである。

*Giving up the Pride to live

● プライドの放棄(Giving up your Pride)

When we live in this real world, very often we are forced to cast away or give up our pride in ourselves, especially when we get old. A master of a kindergarten of my friend said to me one day like this, “nowadays there are few mothers who ask us if her child can enter the kindergarten or not. They think that we have no choice but let them enter our kindergarten. So some mothers with her kids come and see everything in the kindergarten and at the end of the tour, they say, ‘What is your main policy of your kindergarten to teach?’”.As to the master, he said, “In most cases we shall not let this type of mothers enter our kindergarten. We are not working only for money.” But this is not my case. As for me I have to cast away or give up my own pride for money, otherwise it is rather impossible to live on. I need money to live on. Therefore I here say, when we get old, we have to cast away the pride of the past. In this world where old men live, our pride means nothing in most cases.

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「誇り」、つまり「生きるプライド」をもつことは、大切なことである。
それはわかる。
しかし同時に、そのプライドにこだわっていたのでは、生きていかれない。
とくに、老後を迎えてからは、そうである。

こんな話を聞いた。

ちょうど1年ほど前、一人の母親が子ども(3歳児)を連れて、ある幼稚園へ見学に来た。
朝から昼過ぎまで、一通りの授業がすんだあと、その母親は、こう言ったという。「お宅の幼稚園の教育方針は何ですか」「何か文書にしたものがあれば、それをください」と。

こういう母親のばあい、「入れていただけますか?」と、幼稚園側の意向を聞いてくるケースは、まずないそうだ。

「入園できるのは、当然」という考え方をする。
そういう前提で、話をしてくる。
少子化が進んで、どこの幼稚園も経営がきびしい。
それはそうだが、そのため、この世界も、完全に買い手市場化している。

別の、ある幼稚園(私立幼稚園)の園長も、こう言っていた。
「3回も、4回も見学に来て、給食まで試食したにもかかわらず、そのまま何も連絡もしてこない親がふえています」と。

こういうとき幼稚園側は、大きな選択に迫られる。
「それでも入園させるべきか、それとも、入園を断るべきか」と。

その園長は、そういう母親の子どもの入園は断ることにしているという。そのあと電話などで入園の申し込みがあっても、「定員になりました」と言うようにしているのだそうだ。
言い忘れたが、その園長も、今年60歳になった。

「この歳になると、お金だけで、生きたくない」と。

しかし私の仕事のようなばあいは、そうはいかない。

その園長は、10億円以上の金融資産を蓄えた。
少子化の時代といいながら、毎年、断らねばならないほど、園児が集まる。
が、私のばあいは、ちがう。
死ぬまで生活費を稼がねばならない。
身分がちがう。

プライドをズタズタにされても、頭をさげる。
さげなければ、仕事そのものができない。

・・・ということで、またまた団塊ブルース。

退職したといっても、その道を懸命に歩いてきた。
知恵も経験もある。
ないのは体力と気力だけ。

そういう人たちが、自分をぐいと殺して、頭をさげる。
それにともなう屈辱(くつじょく)感には、相当なものがある。
内心で、「バカにするな!」といくら叫んでも、それを口に出すことは許されない。

そこで冒頭の話にもどる。
プライドにこだわっていたのでは、生きていかれない。
「自分はバカだ」「用なしだ」と、自分に言って聞かせる。
さらには、「お金をもらえるだけでも、ありがたいこと」、またさらには、「生きていかれるだけも、ありがたいこと」と、思いなおす。

言いかえると、老後に入ったら、プライドは捨てる。
過去の肩書きもあるだろう。
地位もあるだろう。
しかし、それでも捨てる。
捨てた上で、そこから生きる。

それができなければ、反対に、社会そのものから、はじき飛ばされてしまう。
つまりこれは老後を生き抜くための、前提条件と考えてよい。

さあ、今日も私は、プライドを捨てた。
昨日も捨てた。
明日も、捨てる。

あとは、家に帰って、ワイフと慰めあうだけ。
抱きあって、眠るだけ。

Sunday, December 16, 2007

*Pseudo Science

●ニセ科学(pseudo science)

In Japan very strangely most of the young people believe that each man’s personal character is decided by the blood type. It is only one of pseudo science, which widely spread throughout Japan.

Now here is another pseudo science. When labeled “Thank you”, the water in the beaker makes a beautiful crystal, but when labeled “You, Fool!”, the water in the beaker does not. This means human-words affects water and therefore it is important to keep your water in your body pure with beautiful words.

How come do people believe in such pseudo science?

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家具屋の店員に、重い家具を搬入してもらった。
そのとき、私が「こんな家具、地震で倒れたら、たいへんだなア」と、ふと漏らすと、その店員は、こう言った。
「重いから、倒れません」と。

私は、その言葉を聞いて、あっけに取られた。

血液型による性格判定についても、しかり。
つまり科学性、ゼロ!

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「Imidas、時事トレンド」の中に、こんな記事が載っていた。同志社大学教授の左巻健男氏の書いたものだが、「人はなぜ、ニセ科学を信ずるのか?」というのが、それ。

 左巻氏は、ニセ科学として、いくつかの例をあげている。そのひとつが、マイナスイオン。

(1) マイナスイオンとは、化学で学ぶ「陰イオン」ではなく、これに近いのが、大気科学の「負イオン」である。「滝にマイナスイオンが発生している」と言うばあいには、負イオンだが、これが健康によいという根拠はない。

プラスイオンは「吸うと心身の状態が悪くなる」のに対して、マイナスイオンは空気を浄化し、吸うと気持ちのイライラが解消し、ドロドロ血はサラサラに、アトピーや高血圧症にも効き、健康にもいい」というのである。

これは「納豆ダイエット」でねつ造が発覚したテレビ番組「発掘、あるある大辞典」(フジテレビ系)が火付け役で、1999年から2002年にかけて、特集番組で驚くべき効能がうたわれた。

そこから有名企業までが、マイナスイオン類似の効果をうたう商品を製品化し、エアコン、冷蔵庫、パソコン、マッサージ機、ドライヤーや衣類、タオルなど、広範囲の商品が市場に出されるに至った(以上、P162)、と。

 ニセ科学は、血液型による性格判定だけではなかったというわけである。電気店へ行くと、たしかにその種のうたい文句を並べた商品は多い。私はマイナスイオンにとくにこだわっていたわけではないが、今度、新しく購入した冷蔵庫にも、それがあった。

 しかし左巻氏に言わせると、それもニセ科学だったとは! しかも火付け役が、あの「発掘、あるある大辞典」だったとは! 

 左巻氏は、こうつづける。「マイナスイオン測定器でこれらを測定すると、1ccあたり、数10万個との数値を示すが、空気の分子数とくらべると、微々たる数値にすぎないことに注意を要する」(同書)と。

 だからといって、つまりImidasにそう書いてあったからといって、左巻氏の意見を全面的に信ずるのもどうか、ということにもなる。しかしここは、やはり科学者である左巻氏の意見を尊重したい。相手が、「発掘、あるある大辞典」では、話にならない。

 左巻氏も書いているが、本当の問題は、こうしたニセ科学にあるのではなく、「人はなぜ、
ニセ科学を信ずるのか?」という部分。

 もうひとつ、こんな例をあげている。

(2) 容器に入った水に向けて、「ありがとう」と「ばかやろう」の「言葉」(文字)を書いた紙を張り、その水を凍らせる。

すると「ありがとう」の水は、対称形の美しい六角形の結晶に成長し、「ばかやろう」の水は、崩れた汚い形の結晶になるか、ならない。

ゆえに「水が言葉を理解する」と主張する『水からの伝言』(江本M著)という本が話題になった。

水という物質が、言葉によって影響を受けるということはない(同書)、と。

 こんなアホなことは、だれにでもわかる。何も、左巻氏の説明を借りるまでもない。しかし、だ。こんなアホな説を根拠に、教育界でも、「きれいな言葉を使いましょう」運動が広まったという。

 理由は、「人間の体の6~7割は水だから」と。が、批判が高まると、「それに加担した教育団体は、ホームページからその授業案を削除したが、いまもどこかで、こうした(道徳)の授業が行われている」(同書)とのこと。

 しかし、『水からの伝言』とは何か? 「江本勝」という人物は、どんな人物なのか? 少し前、麻薬を常用していたとかで逮捕された教育評論家がいた。彼は以前、「子どもにはナイフを持たせろ」「親が子どもを信頼している証になる」と説いていた。

 その教育評論家は、都会で子どもたちによるナイフ殺傷事件がつづくと、いつの間にか、自説をひっこめてしまった。私は、左巻氏の意見を読みながら、その教育評論家のことを思い浮かべていた。

 で、さっそくヤフーの検索エンジンを使って、「水からの伝言 江本」で調べてみると、それは、そこにあった。いわく、「私たちは、水の結晶写真技術に基づいて、愛・感謝の気持ちが水を美しく変化させるということを、実証してきました。水をきれいにすることにより、私たちの心身もきれいになり、健康を取り戻し、本来持っている才能を開花することができるのです。水が変われば世界が変わります。いっしょに波動と水の可能性を探究しましょう」(「水からの伝言」HPより)と。

 トップページには、それらしき写真が並べてある。どうやら、本気らしい。

 しかし……? 私もこの説には、「?」マークを、1ccあたりに存在する水の分子の数ほど、つけたい。その数は、約3x10の22乗個!(ヤフー・知恵袋参照)

 数字で表してみると、こうなる。

300,0000,0000,0000,0000,0000個!

 しかし、左巻氏ではないが、どうして人は、こんな珍説を信ずるのだろう。あのどこかのオバチャンが説く占星術にしても、そうだ。科学性は、さらに低い! ゼロどころか、ゼロにもならない!

 これも教育の欠陥といえば、それまでだが、その先には宗教があり、カルトもある。けっして、軽く考えてはいけない。

*My wife caught a cold and had a bad coughing last night.

●風邪(Catching a cold)

My wife caught a cold last night. She had a bad coughing. We had not good medicine here at the mountain house. I dissolved medicine on the market in the hot water. Her coughing became more and more severe when it got later. It was around 2 or 3 o’clock in the morning when I got a sleep.

++++++++++++++

昨夜、ワイフが風邪をひいた。
夜、遅くまでテレビをみていたのが、たたった。
最初は、咳。
その咳がだんだんとひどくなった。

よい薬がなかった。
市販の感冒薬をお湯に溶かして、飲ませた。
咳はますますひどくなり、ワイフは、そのたびに、顔をゆがめた。
体を丸めた。

夜中の2、3時ごろまで、咳はつづいた。
そのころ、私は、眠った。

目をさますと、時計は、午前7時を少し回ったところだった。
ワイフは、安らかな寝息をたてていた。
私は、ほっとした。
再び、まぶたを閉じた。

つぎに目を覚ますと、時計は、午前9時半を示していた。
居間へ行く。
温度計を見る。
気温は、5度。
山荘の冬は、寒い。

私は朝食の用意をする。
自宅からもってきた白いご飯に、漬け物をのせ、お茶をかける。
それに頭痛薬をお茶に溶かして、ワイフに届ける。

「どう?」と聞くと、「熱はさがったみたい」と。

私は、再び居間に戻って、パソコンに電源を入れた。

++++++++++++++

 よく私は、「ワイフが死んだらどうしよう?」と考える。ワイフはワイフで同じことを、考えるらしい。昨夜、ふとんの中で、互いに、そんな話をした。

私「お前が病気になると、ぼくは、不安になる」
ワ「あなたが病気になると、私だって、不安になるわ」
私「そうかア? 気がつかなかった……」
ワ「だいじょうぶかしらって、ね」
私「そうだなア……」と。

 私がしているような仕事は、体が資本。私が倒れたら、万事休す。おしまい。毎日が、運試(だめ)しのようなもの。ワイフが感ずる不安は、私が感ずる不安より、大きい。

私「これからは、できるだけ、お前に心配をかけないようにするよ」
ワ「いいのよ、あなたはあなたで……」
私「でもさア、ぼくが倒れたら、どうなるんだろう……」
ワ「そうねエ……。何とかなるわよ」
私「ぼくも気をつけるから、お前も気をつけろよ」
ワ「うん……」と。

 ワイフの頭を腕の中で抱いてやった。薄暗い明かりの中で、ワイフの顔が、よけいに歳をとったように見えた。「バアさんみたいになったなア」と思ったが、それは言わなかった。ワイフは、相変わらず、苦しそうに咳をしていた。一度、「あなた移るわ」と言った。私は、「もともとはぼくの咳だから……」と答えた。

 2、3度、睡魔が襲ったが、そのつど、ワイフの咳で目が覚めた。と、同時に、眠気がどこかへ消えた。枕元の時計を見ると、午前2時を示していた。が、おかしなことに、それを最後に、記憶がとだえた。そのころ、私も眠ってしまったらしい。

 そんなわけで、今朝は、せっかくの日曜日だが、とても、GOOD MORNING!と言う気分にはなれない。

 そうそう言い忘れたが、たった今、ワイフが床から起きてきた。「だいじょうぶ?」と声をかけると、「頭痛はなくなった」と。よかった!

 2007年12月16日、午前10時。みなさん、改めて、おはようございます!

Saturday, December 15, 2007

*Between the Life and the Death

●生と死のはざまで……(Between the life and the death)

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「生と死のはざま」というと、何も健康だけの問題ではない。
生き方の問題でもある。
しかも濃いか薄いかのちがいはあるが、すべての人たちの問題でもある。
老いも若きもない。
例外はない。

It is not a problem only about our health, when we say “between the life and the death.” It is a problem of how we live. Everyone has the problem though there is a small difference between someone’s is serious or some other one’s is not. There is no difference between the young and the old. There’s no exception.

生きていても、意味はない。
かと言って、死ぬこともできない。
そんなはざまで、ただぼんやりと日々を過ごしている人がいる。
それは私かもしれない。
それはあなたかもしれない。

No matter how much we realize it is a meaningless life to live but we can’t die either. There are some people who live just vacantly between the life and the death. It may be me. It maybe you.

私はこのことを、特別養護老人ホームの老人たちを見ていて、知った。
そこにいる老人たちは、毎日、何かをするでもない。
何もしないでもない。
ぼんやりと、うつろな目で空を見つめながら、その日、その日を、生きている。

I knew it when I was in the Care Center for oldest people. The oldest people there live without doing anything or with doing nothing. They are staring at the air above just meaninglessly day after day.

生きているというよりは、「息(いき)」ている。

They just breathe rather than they live.

最初は、それはこうしたところにいる老人たちだけの問題かと思った。
老人たちの人生は、短い。
一方、私の人生は、老人たちよりは、長い。
それはわかる。

At the beginning I thought it was a problem only for the oldest people. Their lives are short but our lives seem to be much longer. I know it.

しかし長い、短いということは、あくまでも相対的なもの。
老人たちの5年は短く、私の20年は長いと、どうして言えるのか。

密度にしても、そうだ。
あくまでも相対的なもの。
老人たちはぼんやりしていて、私はぼんやりしていないと、どうして言えるのか。

But what is the difference? We say “short” or “long”, but we can just say so. There is no short life nor long life. How come can we say that 5 years is short, and 20 years is long? As to the density itself is the same. How come can we say that our lives is full of life and their lives is not. How come can we say oldest people there live vacantly and we are not.

老人たちにしても、それを見る私にしても、生と死のはざまで生きている。
しかしそれは、恐ろしく、孤独な世界でもある。

The oldest people there live between the life and the death. So do I who see them in the Care Center.

まさにそこは、生きることもできない。
しかしさりとて、死ぬこともできない。
そんな世界。
私たちは、死がやってくるのを、じっと待つ。
あるときは、楽しいフリをしながら。
またあるときは、生きているフリをしながら。
しかしいつもそこに死があることを、忘れることはできない。

It is a kind of world where people cannot live or cannot die. We are just waiting for the day to come when we die. In some moments we pretend to be happy in another moments we pretend that we are living. But we never be able to forget that the death is there.

もしこの世に地獄があるとするなら、そのはざまこそが、地獄。
それほどまでに恐ろしい世界はない。
そして「孤独」とは何かと問われれば、それはそのはざまで、もがき苦しむことをいう。

If the hell is in this world, the world between the life and the death is it, “The Hell”. Nothing is more fearful than this in this world. And when we are asked what the solitude is, I would say it is the world between the life and the death, where we suffer from agony and despair.

私を求める人は、だれもいない。
あなたを求める人は、だれもいない
私に心を開く人は、だれもいない。
私が心を開ける相手は、だれもいない。

There is no one who wants me. There is no one who wants you. There is no one who opens his or her mind to you. There is no one to whom you can open your mind.

生きる目的も、夢も、希望もない。
他人に生きる喜びや、夢や、希望を与えることもない。
私は、ただそこにいるだけ。
あなたは、ただそこにいるだけ。

There is no purpose to live for, no dream nor hope. You never give other people the purpose to live for, no dream nor hope. I am just here and you are just there.

生きているだけ。
ただ生きているだけ。

We are just breathing. Only just breathing.

唯一の救いは、バカになること。
ノーブレインになること。

Only one way to save up from this hell is just to become senile or to become one with no-brain to think.

「ボケ」は、差別用語だと、人は言う。
ボケることは、悪いことだと、人は言う。
しかしボケることで、人は、この孤独から遠ざかることができる。

“Stupidity” is a bad word to use, they say, but to become stupid is not always bad. People can separate themselves from this hell by becoming stupid. To become senile is one of them.

もしあの老人たちに、ほんの少しでも考える力があったら、どうなるか。
おそらくあの老人たちは、その孤独の中で、もがき、苦しむにちがいない。
自分の境涯を、のろい、うらむにちがいない。
生きていること自体が、そこでうごめく人たちにとっては、地獄。
さりとて、死ぬこともできない。

If the oldest people have a bit of brain to think by themselves, what would become of them? The oldest people would suffer from the solitude under the agony and despair. They curse themselves and their lives. To live is so harsh for them but they can not die.

しかしそれは私の、今の姿。
あなたたの、今の姿。

But there is no difference between the oldest people and us. It is you as well as you.

「生と死のはざま」というと、健康だけの問題ではない。
生き方の問題でもある。
しかも濃いか薄いかのちがいはあるが、すべての人の問題でもある。
例外はない。

It is not a problem only about our health, when we say “between the life and the death.” It is a problem of how we live. Everyone has the problem though there is a small difference between someone’s is serious or some other one’s is not. There is no difference between the young and the old. There’s no exception.

そこで今、私は自分に問う。
あなたはあなた自身に問う。

Then we ask ourselves if we are really living to live? And also you ask yourselves if you are living to live?

「私は生きているか」と。

“Am I living to live?”

もしそうであれば、それでよし。
そうでなければ、私は、そしてあなたは、すでに、あの老人たちの仲間になっていることを意味する。

If the answer is “Yes”, it is all right but if not, it is not. This means you are belonging to the oldest people in the Care Center.

長いか、短いか、それは問題ではない。
濃いか、薄いか、それも問題ではない。

Long or short? That doesn’t make any sense nor differnece. Much or litter? That doesn’t make any sense nor difference.

*I am Legend *North Korea's Abduction Problem

【今日・あれこれ】(Dec. 15, 2007)

●”I am Legend”

My wife and I went to the theater to see the film,”I am Legend”, acted by Will Smith last night. No so good or not so bad, I mean, I can’t take it or leave it. How come do Americans like zombies so much like this? How come does my wife movies so much like that? “I am Legend” itself is a kind of “Male Biohazard 3” and nothing is new more than “Biohazard 3”. Will Smith acted very well. Then I can give this movie three stars.

++++++++++++++

昨夜、ウィル・スミス主演の
「アイ・アム・レジェンド」を、
見てきた。

星は、3つの★★★?

「バイオ・ハザード」の男性版
といった感じで、どこか陳腐。

アメリカ人って、どうして
ああも、ゾンビが好きなのか?

ワイフは、どうしてこうも、
映画が好きなのか?

またまたゾンビ映画!

ウィル・スミスの熱演で、星は
3つ。

「今度は、~~を見たい」と、
ワイフは、言っている。

しかしもうゾンビ映画は、あきた!

++++++++++++++

●会話(Conversation with my wife)

 実名を出して恐縮なのだが、今度、山荘の近くの町に、「バロー」というショッピングセンターができることになった。

 「バーロウ」と言えば、「バカヤロー」とも聞こえる。実に個性的なネーミングである。それについてワイフが、そう聞いたので、「たぶん、ハローを濁音にして、バローにしたんじゃなア~イ」と私は、答えた。よくわからないが……。

 しかしそこにバローができることには、大賛成! ぐんと、便利になる。バローさん、よろしく!

 で、途中、ドラグストアに寄ったら、もう鏡餅を売っていた。それを見て、またワイフがこう言った。「もう、鏡餅を売っているわ」と。私は、「うちじゃあ、去年、買ったよ」と答えた。

 実は、2年前(05年末)に買い、06年1月に使った鏡餅を、冷凍しておいたら、今年の正月(07年1月)も使えた。それでそう言った。

ワ「今年は、ちゃんと、買うわよ」
私「正月が終わったら、冷凍しておけばいい。また来年、使える」と。

 我が家の正月は、毎年、こんなもの。どこか緊張感に欠ける。やるべきことはやるのだが、どこか、いいかげん。こうして今年(08年)も、もうすぐ終わる。


●2008年の極東アジア・拉致問題(North Korea’s Abduction Problem)

The only one to solve the North Korea’s Nuclear-weapon development problem is to let the country collapse by itself, though South Korea as well as China doesn’t want it. But this is not our problem. USA government seems to have already abandoned or given up the problem, since the North Korean’s nuclear weapons are not a threat to USA. Moreover it is important to keep justice. Justice, named “Democracy”. The year 2008 would be the year when our justice is on judge. If South Korea will continue assisting North Korea, we have to make South Korea collapse too.

 簡単に言えば、アメリカにしてみれば、K国の核兵器開発問題など、もう、どうでもよいということ。アメリカに与える脅威は、ほとんど、ない。(ただし、核拡散は別。アメリカのブッシュ大統領も、そう言っている。)

 一方、K国は、核兵器開発を放棄しない。あの国から核兵器開発を取り除いたら、何も、残らない。それこそ世界の、最貧国。金xxも、それをよく知っている。

 2008年も、K国は、ああでもない、こうでもないと、ささいなことにこだわり、6か国協議をノラリクラリと、かわしていくだろう。その間に、援助だけをしっかりと受け取る。その裏で、核兵器の開発を進める。

 日本の拉致問題は、その間、棚上げ(?)。この問題は、K国が崩壊でもしないかぎり、解決しない。だったら、K国を崩壊させるしかない。が、中国や韓国は、それを望まない。つまりこのあたりで、6か国の、つばぜり合いがつづく。

 中に、「拉致問題は切り離して、K国を援助すべき」と唱える学者もいる。東京大学環教授のKS氏など。「拉致問題解決を前提条件とせず、日朝正常化交渉の中で、現実的な解決をすべし」(日本の論点2008)と。

 バカめ!

 「救う会・全国協議会」(拉致被害者家族会)の人たちの気持ちが、まったくわかっていない。KS氏は、こう説く。いわく、「……以上のように考えれば、日本政府は何よりもまず、K国の核放棄を進めていく多国間協議のプロセスを推し進めていくことに積極的に関与し、第二段階のK国に対する重油供給でも応分の役割を果たすべきである。日本は、明らかに、非核化の受益者でもあるからだ」(同書・P194)と。

 この「受益者」という言葉を読んだとき、私は、体が震えた! 怒りで、体が震えた!

 KS氏は、日本人名ではない。それはわかるが、どこからこういう発想がわいてくるのか? 悪党が、悪事をやめるのは、当然のこと。やめてくれたからといって、どうして「ありがとう」と言わなければ、ならないのか。相手に、プレゼントを渡さなければならないのか。いわんや、この私たちが、「受益者」とは!

 私も当初から拉致問題と、制裁問題をからめることには、反対だった。何度も、そう書いてきた。しかし国会という場で、それが決まってしまった以上、日本は、日本としての正義を貫く。貫かねばならない。それが民主主義の大原則ではないのか。

 私も以前、息子が乗った飛行機が日本へ着かなかったとき、たった一晩だったが、眠られぬ夜を過ごしたことがある。あのとき感じた、不安感、焦燥感は、言葉では言い表せない。それを表す、適切な日本語すら、ない。が、あえて言うなら、身を粉々に切り刻まれるような絶望感。それに近いものだった。

 拉致被害者家族会の人たちは、毎日、一日とて気が晴れることもなく、そういう気持ちのまま過ごしている。それを忘れてはいけない。しかも、あのK国は、それまで、「知らぬ」「存ぜぬ」とウソばかりついていた。ときには、会議の席で、激怒までしてみせた。「ありもしない拉致問題を、テーマにするな!」とか、何とか。

 その上、遺骨と称して渡してきたものは、偽物。さらに最近では、「日本側が、偽物とウソをついている」とまで言っている。

 私はいつしか、K国は、崩壊させるしかないと考えるようになった。恐らく、このエッセーを読んでいる読者のみなさんも、同感だろう。

 しかし崩壊しそうになると、韓国が出てきて、あれやこれやとK国を助ける。今では、韓国イコール、K国。そう考えてもよいような状態になっている(07年12月、N政権下の韓国)。私が「日韓経済戦争」を書くようになったのは、そのためである。

 拉致問題が解決するまで、K国はK国。金xxは、金xx。抗議の念をこめて、「xx」。そうする。
 
 ……またまた頭が熱くなってしまった。が、こと6か国協議について言えば、日本のほうから先に抜けたところで、いまや、おかしくない状態になっている。しかしそうするならそうするで、日本も核武装するしかない。6か国の中で、核兵器をもっていない国は、この日本だけということになる。

 が、こんな愚かなレースに加わってはいけない。日本は、核武装など、してはいけない。だったら、またまた結論は、同じ。K国を崩壊させるしかない。韓国がK国を助けるというのなら、韓国も、また同罪。韓国も、同時に、崩壊させるしかない。日本は日本で、ノラリクラリと、6か国協議に顔だけ出しておけばよい。もともとK国など、本気で相手にしなければならないような国ではない。国力にしても、山陰地方にあるS県程度でしかない。

 拉致問題といいながら、この問題には、日本の正義のみならず、日本の命運がかかっている。

 がんばれ、日本! 負けるな、日本! 拉致被害者家族会のみなさん、がんばれ!
(以上、07年12月15日記)

Friday, December 14, 2007

*High Ideology and Common Way of Living

●高理と世俗(High Ideology and Common Way of Living)

We are always between the high ideology and the common way of living. We sometimes swing to the high ideology and in other times we swing to the common way of living. To live with the high ideology is not easy but it is more important for us not to get harmed by the common of living. What shall we do if we wish to live unharmed by the common way of living. My teacher Kenzi Tamaru teaches me, the other day, “Just appreciate that we are here and we are living.” Yes! We are here and living, seeing, hearing, acting, and thinking. From this point of view, everything around us looks tiny things, which brings us up to the higher ideology.

++++++++++++++++++

高い理念を、「高理」という。
私が勝手に、そう名づけた。

その正反対の位置にあるのが、「世俗」

人は、この高理と世俗の中間あたりで、いつも、どちらかに行ったり来たりする。
引っ張られる。
それは綱引きの綱のようなもの。
高理に揺れたり、世俗に揺れたりする。
わかりやすい例で、説明しよう。

たとえば寒い朝、仕事に向かう。
そのとき、自動車の乗って行くという方法がある。
そのほうが楽だし、冬の冷気を避けることができる。

しかし一方、健康のためなら、自転車で行くほうがよい。
青い空、白い雲、そういうものを見ながら、思いっきりペダルをこぐ。
その瞬間、生きている喜びを覚える。
ものが見える。ものが聞こえる。体が動く。
それが喜びとなって、はね返ってくる。

世俗的な視点からみれば、大型車をゆうゆうと運転していくほうが、かっこよい。
反対に、自転車で、道路の隅を、ユラユラと走るには、かっこ悪い。

しかし健康、もう少し大げさな言い方をすれば、生きているという視点からものを見ると、自転車に乗って行くほうが、意味がある。
プラス、すばらしい。

私のばあいだが、どちらかひとつを選べと言われたら、このところ、自転車に乗って行くほうを、選ぶ。
実は、今日も、そうだった。
朝、家族で、サイクリングをした。 
ちょうど、40分。
1単位の運動をこなしたことになる。

それを知っているから、ワイフがこう言った。
「今日は、車で、送っていくわ」と。
しかし私は断った。
自転車に乗って行くほうが、ずっと、楽しい。
気持ちよい。

そういう私だから、大型の高級車に乗っている人が、うらやましいと思ったことはない。ほんとうに、ない。

むしろうらやましいと思うときは、こんなときだ。

先日も、ある小学校で講演をさせてもらった。
その学校でのこと。

その小学校の校長が、精悍(せいかん)な顔つきをしていた。
引き締まった顔立ち、体格。ピンと伸びた背筋。
キビキビと、校長室と職員室を行ったり来たりしていた。

年齢は、私より、たった数歳、若いだけ。
だから私は、思わず、こう聞いた。
「何か、運動をなさっているのですか?」と。

するとその校長は、こう言った。
「私は、体育系ですから」
「毎朝、子どもたちと、30分、運動場を走っています」と。

その校長を見たとき、「うらやましい」と思った。
校長の全身から飛び散るような健康さを感じた。
それを「うらやましい」と思った。

長い話になってしまったが、大型の高級車をうらやましいと思うのは、「世俗」、健康な肉体をうらやましいと思うのは、「高理」ということになる。

健康や、時間の使い方、文化や伝統に関する考え方は、わかりやすい。
ボランティア活動を生きがいにしている人は、多い。
真・善・美の追求に、情熱を燃やしている人も多い。
しかしこと、お金の問題となると、世俗に毒されている人は、多い。
多いと言うより、ほとんどが、そうではないか。

たとえば親の遺産をめぐって、言い争っている人は、多い。
分配をめぐって、たがいに不愉快な思いをしている人は、さらに多い。

お金(=マネー)そのものが、(世俗)の象徴と考えてよい。
実際、この世界は、そのお金で成り立っている。
お金で幸福は買えないが、お金がなければ、不幸になる。
そのため人は、ますます世俗に毒されるようになる。

少し前のことだが、ある知人の家に遊びに行ったとき、こんなことがあった。
10数年ぶりに会ったのだが、話すことと言えば、お金のことばかり。
「あの男は、自分の家を、x千万円で、改築した」
「あの男は、投信で、x千万円、もうけた」と。

この程度の話はしかたないとしても、帰り際、私が、「タクシーを呼んでいただけますか」と聞くと、こう言った。
「タクシー代を、オレに払ってもらえないか。駅まで送っていく」と。

私は、そのあさましさに、心底、驚いた。
がっかりした。
人も、お金に窮すると、そこまで言うようになる。
世俗に毒されると、そこまで言うようになる。

と、同時に、私との人間関係は、それで消えた。

しかし貧しいから、世俗に毒されるとか、反対に、金持ちだから、高理になるというわけではない。
貧しくても、高理の人はいくらでもいる。
金持ちでも、世俗に毒されている人も、これまたいくらでもいる。

遺産の話になるが、世の中には、数億の金融財産をもちながら、わずか数百万の遺産問題で、兄弟たちと、はげしく言い争っている人もいる。
大切なのは、生きざまということになる。
心のもち方ということになる。

では、高理に生きるためには、どうすればよいのか。

先月、恩師の田丸謙二先生が、こんなメールをくれた。
「お元気ですか?」と書いた、メールへの返信だった。
「老いと戦うすばらしさ。感謝、感謝」と。

私は、この言葉に感動した。
「感謝」という言葉に、感動した。

目が見える、ものが聞こえる、体を動かすことができる。
生きていること自体が、すばらしい。
アインシュタインは、それを「奇跡」と呼んだが、まさに奇跡。

この世界で生きている以上、世俗から自分を切り離すことはできない。
しかし高理に生きることによって、世俗との間に、一線を引くことは、できる。
その一線を引けば、世俗に毒されることを、防ぐことができる。

人は、この高理と世俗の中間あたりで、いつも、どちらかに行ったり来たりする。
引っ張られる。
それは綱引きの綱のようなもの。
高理に揺れたり、世俗に揺れたりする。

それはしかたのないことかもしれないが、そのつど、自分がどこにいるか、それを知ることは、とても大切なこと。
今朝は、それを発見した。
07年12月15日

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 世俗 高理 世俗的な生き方)

*Persona

Wednesday, December 12, 2007

*Japan is losing the leverage in the world.

●消える、日本!(Japane loses the leverage in the world.)

Herald Tribune is reporting 48 columns about business on Dec. 12. But only three of them are about Japan. Japan is losing the economical leverage with the world rapidly.

One of them about Japan is that Sony has produced a new TV, saying “Sony Chief Executive Howard Stringer talked proudly Tuesday about Sony's latest TV technology.”

This may be why Sony sells its technologies to other countries including South Korea, I guess. The chief executive may not be not a Japanese.

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ヘラルド・トリビューン紙の
経済 (Business) 欄を読む。日本に関する
記事をさがす。

しかし大見出し13、小見出し
35の中で、日本に関する記事は、
3つだけ。

シャープが液晶技術の特許侵害で、
韓国のサムスンを訴えたという記事。

原油価格の高騰が、日本の会社を
圧迫し始めているという記事。

それにソニーが新製品を発表した
という記事。

現在、ソニーの頂点に立つ代表取締役は、
Howard Stringer氏。名前からして
日本人ではない。

道理で、ソニーは、惜しげもなく、
日本の技術を、韓国に、どんどんと
売りさばいていた(?)。今度は、
有機液晶テレビ技術まで(?)。

いいのか、ソニー? いいのか、日本?

それはともかくも、48項目中、3つ
だけというのは、さみしい。それに
かわって、中国関連の記事が目立つ
(07年12月12日版)。

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 英語の勉強のため、記事の一部を、日本語に翻訳してみる。(経済記事というのは、翻訳するのが、むずかしいぞ!)

「A spike in oil prices lifted Japanese wholesale inflation to its highest level in more than a year, but that hardly helped the central bank's case for a rate increase as rising costs threaten to strain profits at Japanese companies.

 原油価格のトゲは、卸売り価格のインフレを、1年そこそこのうちに、もっとも高いレベルまであげた。(金利)コスト上昇が、日本企業の利益を減らすということもあり、中央銀行が、金利をあげるということは、ほとんど考えられない。

The price data suggests that consumer prices, too, will likely rise in coming months as firms pass on part of their rising costs, after a long period of tame advances.
But most economists said consumer prices are unlikely to accelerate sharply in view of limited wage growth.

 物価動向をみると、長い間、停滞していたが、つぎの数か月の間、消費者価格も、上昇する傾向を見せている。しかしほとんどのエコノミストたちは、賃金上昇もかぎられているため、消費者価格が、急速にあがるということはないだろうと言った。

"The uptrend in wholesale price inflation is strengthening," said Takehito Sato, an economist at Morgan Stanley. "That could worsen terms of trade of Japanese firms, especially at small and midsized ones."

「卸売価格の上昇圧力は、強化されつつある」と、モーガン・スタンレーのエコノミストのサトー・タケヒト氏は言う。「それは日本企業貿易条件を悪化させるだろう。とくに中小企業において」と。

The corporate goods price index, which tracks wholesale prices, rose 2.3 percent in November from a year earlier, the sharpest annual jump since September 2006.

物価は、卸売価格に連動するが、11月に、今年のはじめから、2・3%上昇した。これは2006年以来の、1年としては、急上昇(ジャンプ)である。

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 日本の物価が、2・3%も上昇していたとは! 知らなかった! 1000万円のタンス預金をしていた人は、それだけで、23万円分、失ったことを意味する。これから先、外国にバラまかれた日本の(円)が、日本に環流してくるとなると、さらにインフレ=物価の上昇は進むだろう。

 話をもとにもどす。

 これから先、日本は、その影響力を失う分だけ、世界の経済に動向に振り回されることになる。アメリカを見て、中国を見て、EUを見て、そしてインドやブラジルを見てから……、となる。

 世界第2の経済大国の地位を失うまで、あと数年。それを前提で、これからの日本の経済を考える。その一端が、ヘラルド・トリビューン紙にも、現れ始めた(?)。

*Environment and Heredity

●環境と遺伝(Environment and heredity)

Children’s intellectual faculty is decided by the environment and by the heredity.

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子どもの知的能力の発達は、(1)環境的要因と、
(2)遺伝的要因の、2つの相互作用によって、
決定される。

環境の影響によるものが大きいのは、
好奇心、探求心、創造性、論理性、
思考能力など。一般に技術的能力の
取得が必要な能力(たとえば、楽器
演奏、音感)は、環境による影響が
大きいとされている(シュテルン)。
こうした環境が総合されて、子ども
の方向性が決まる。

遺伝の影響のよるものが大きいのは、
集中力、記憶力など、基本的な知的
能力がある。

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●子どもの知的能力

 子どもの知的能力は、(1)環境的要因と、(2)遺伝的要因の、2つの相互作用によって、決定される。いくら環境がすぐれていても、遺伝的能力が伴わないばあい、あるいは反対に、いくら遺伝的能力がすぐれていても、環境が伴わないばあい、子どもの知的能力は、じゅうぶんな発達を遂げることはできない。

 対照的な2つの能力、つまり言語表現力と、音感を例にあげて考えてみる。

●言語能力

 先日、1年間で300冊近い読書をしている女児(小4)のことを書いた。その子どものばあい、家庭での読書時間を、むしろ反対に、1時間に制限されているという。で、最近は、中学1、2年の子どもたちがする国語のテストを、いっしょにさせている。ときどき難しい漢字の読み方を教えることはあるが、言語能力は、平均的な中学生以上にある。

 ここでいう言語能力とは、つぎのような能力をいう。

(1) 適切な言葉づかい(あいまいな表現をしない)
(2) 言葉の理解力の深さ(おとなとの会話が理解できる)
(3) すぐれた会話能力(ポンポンと、軽快な返事が返ってくる)
(4) 思考力の深さ(何か話すと、じっと考える様子を見せる)
(5) 微妙な表現力(デリケートな問題について、巧みな言い方で、それを表現する)
(6) 読書力(速さ、流ちょうさを含む。自然な抑揚をつけて本を読むなど)

 その言語能力の中で、私はとくに(5)の微妙な表現力に注目している。それには、こんな事情がある。

●衰える言語能力

 満50歳を過ぎるころから、会話能力が極端に劣ってくる人がいる。多弁であるとか、ないとか、そういうことではない。使う語彙(ごい)の数が少なくなり、会話そのものが、ぶっきらぼうになる。全体に、ズケズケというか、ガサツな感じがする。

 私の印象では、脳の言語中枢が、退化するか、あるいは、飲酒や喫煙、微細脳梗塞などにより、脳そのものが、ダメージを受けるためではないかと思っている。たとえばこんな話し方をする。

「アウー、エートだねエ~。人間は、親孝行がイチバンだヨ~。親孝行オ~、しないようなヤツはア~、アウ~、エ~トだねエ~、人間のクズ。クズだヨ~」と。

 ただ誤解してはいけないのは、ペラペラと、脳に飛来する情報を間断なく話す(=多弁)というのは、言語能力ではない。あえて言えば、発声能力ということになる。

一般的には、おしゃべりの人は、女性に多いと言われている。最近の研究によれば、女性のばあい、右脳側にも言語中枢らしきものがあるということがわかってきた。そのため、女性ほど、おしゃべりが多いということになるが、もちろん男性にも多い。

 その見分け方は、ここでいう「微妙な表現力」ということになる。仮に静かで落ち着いた会話であっても、微妙な言い回しのできる人は、それだけ言語能力のすぐれた人とみる。繰りかえすが、ペラペラとしゃべるから、それでよいというわけではない。

 こうした言語能力の基本となる、論理力、分析力は、読書と思考力によって決まる。その思考力は、(ものを考えて書く)という習慣によって養われる。

●音感

 他方、音感の発達については、環境が重大な影響を与えるが、しかし環境がすぐれているからといって、音感が発達するわけではない。ある音楽教室の先生が、昔、こんな話をしてくれた。

 「音感にすぐれた能力があるかどうかは、教え始めて、数か月でわかる。『この子は、天才的な才能をもっている』とわかる子どももいれば、『そこそこにはピアノを弾けるようにはなるだろうが、そこまで』とわかる子どももいる」と。

 その(差)はどこからくるかと言えば、遺伝ということになる。

 たとえば学習指導という面においても、学習障害児(LD児)は別として、鋭い切り込みを見せる子どももいれば、そうでない子どももいる。ひとつのことを教えると、発展的に、四方八方へと知識を広めていく子どももいれば、反対に、教えても教えても、ザルで水をすくうような感触しかない子どももいる。

 その(差)は何かということになれば、やはり遺伝的要素ということになる。

●見極め

 そこで重要なことは、見極め(みきわめ)ということになる。しかしこれは子どもの問題というより、親の問題ということになる。もちろん教師の問題でもない。教師というのは、そこにいる子どものために全力を尽くすという義務を負う。その子どもに、その能力があるとかないとか、そういうことには、関知しない。

 だから親の問題ということになる。えてして親は、その能力のない子どもに、その能力を強いたりする。その方向性のない子どもを、その方向に向かわせたりする。この(無理)が、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。そういう例は多い。

 しかしこの問題は、日本の教育そのものがもつ問題ともからんでくる。日本の教育は、子どもの多様性を認めるしくみには、なっていない。いろいろと改善はされてきているが、それでも不十分。いまだに受験競争が、家庭教育の(柱)になっていることをみれば、それがわかる。

 親たちの選択肢は、それほど、広くない。だから無理をする。「いやだ」「やりたくない」と泣き叫んで抵抗する子どもを、勉強机に座らせたりする。自分では1冊も本を読んだことがない親が、子どもに向かっては、「本を読みなさい」「漢字を覚えなさい」と言う。

●環境と遺伝

 子どもの能力の発達には、「環境的要因」と、「遺伝的要因」がある(シュテルン)。基本的には、子どもを良好な環境で包む。良好な環境で包めば、自然と、その中で、子どもは、自分の進むべき方向性を見つける。

 その先、さらに伸びるかどうかということについては、遺伝的要因が大きくからんでくる。が、それは子ども自身が、取捨選択しながら、考えて判断すること。水が、やがて流れるべき場所を求めて流れていくように、子どもも、その場所に落ち着く。

 その(流れ)を知るひとつの方法が、ここでいう「環境的要因」と「遺伝的要因」ということになる。

 あなたの子どもには、その環境があるか? あなたの子どもには、その遺伝があるか? 一度そういう視点で、子どもの能力を考えてみるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 環境的要因 遺伝的要因 遺伝的素質 言語能力 環境と遺伝 environment and heredity child’ intellectual faculty )

Tuesday, December 11, 2007

*Japan and Korea

●日韓関係(Japan and Korea)

Even in the small column in a newspaper we can feel their hostility against Japan. According to the Chuo-N, the leading Korean Newspaper, Japanese companies have united together to fight agaist Korea but all of them is false, written with persecution mania. You will know what it is if you read this:

 この原稿がマガジンで配信されるころには、韓国では、新大統領が誕生しているはず。現在の予想では、ハンナラ党の、I氏が最有力候補だが、何が起こるかわからないのが韓国。先の金大中前大統領も、現在のN大統領も、ハプニング的に、大統領になった。

 が、ハンナラ党のI氏だから、日韓関係が改善すると考えるのは、早計である。韓国人の対日感情には、常に、2面性がある。(あこがれ)と(憎しみ)、この2つが同時にウズを巻いている。そのつど、このどちらかが、表に顔を出す。

 たとえばつぎのコラムを読んでみてほしい。これは韓国の中央N報(12月11日版)に載った記事である。経済記事だが、中央N報という、韓国第一の新聞社でも、こうした記事を堂々と掲載している。

++++++++++以下、転載

日本経済産業新聞は、最近、日本の半導体メーカーのある幹部の発言を引用、「機密費波紋でS星が“経営空白”危機に陥った」と報道した。この新聞はまた、他の半導体市場分析家の話を引用し「新製品の買い替え時期が早い半導体特性上、投資延期は致命的損失はもちろん、国際競争から追い出される原因となる」と分析した。 同新聞は今回の事態を通じて日本の半導体メーカーが起死回生するチャンスに期待していると報道した。日本の半導体メーカーのある関係者は「(S星を除いた)主要半導体会社が大幅の赤字に苦しんでいるが、S星の投資が延期になればDRAM半導体需給が一時的に支障を来たし、価格上昇の要因となることがある」と述べた。 S星追い討ちのための連合戦線を形成した日本半導体メーカーが「相手の不幸は私の幸せ」という本音を表したのだ。 米国調査会社であるアイサプライによるとDRAMはS星電子が今年の7~9月、世界市場シェア27・7%で1位となった。現在DRAMは供給過剰状態で、一部主力製品は1個当たり0・8~0・9ドルで6年ぶりに1ドルを下回っている。 日本で「S星叩き」はあちこちで目撃されている。日本のoh my newsは「S星が揺れるだけで終わるのか、それとも完全に崩れるのか。日本でも注目してみる価値は十分ありそうだ。」と報道した。
産経新聞は先月、S星電子が日本家電製品市場から一部撤収すると「安物というイメージから脱することができなかった」と報道している。

S星に対する虚偽の主張が書かれた本も出回っており「S星電子は国内で営業利益の87・2%をあげ、国外は12・8%にすぎない」と主張した。国外市場で安く売りながら国内市場で利益を搾取しているという、事実とは正反対に歪曲した内容を記している。
++++++++++以上、転載

 私は、この記事を読んだあと、「日本経済産業新聞」の中で、ほんとうにそんなことを書いているのか、たしかめてみた。

 まず、「日本経済産業新聞」というのは、「日経産業新聞」のことであることがわかった。しかしここ数日分の記事にざっと目を通してみたが、私が読んだ範囲では、その記事は、見あたらなかった。

 それはそれとして、この記事を、もう一度、整理してみよう。

(1) 機密費波紋でS星が“経営空白”危機に陥った」と報道した。
(2) この新聞はまた、他の半導体市場分析家の話を引用し「新製品の買い替え時期が早い半導体特性上、投資延期は致命的損失はもちろん、国際競争から追い出される原因となる」と分析した。

 朝鮮N報という大新聞社が、S星という一会社の、そのまた一商品について、ここまで肩入れした記事を書くということのおかしさ、最初に、それに気づいてほしい。

 その上で、この記事を読みなおしてみる。が、この日本側の記事は、当然のことを、客観的に書いただけで、どこにも反韓的なニュアンスは、ない。

 が、つづくつぎの部分では、「同新聞は今回の事態を通じて日本の半導体メーカーが起死回生するチャンスに期待していると報道した」とある。やや反韓的かな思えなくもないが、「決死回生」は、オーバー。ここ数年、シェアこそ、韓国製、台湾製に押されているが、死んでいるわけではない。

 むしろ、(3)。「(S星を除いた)主要半導体会社が大幅の赤字に苦しんでいるが、S星の投資が延期になればDRAM半導体需給が一時的に支障を来たし、価格上昇の要因となることがある」と、価格上昇を心配していると、韓国側にむしろ好意的な意見を述べている。さらに言えば、日本側は、価格の高騰を心配しているのであって、それを喜んでいるのではない。

 が、ここから先、例によって例のごとく、韓国独特の(ひがみ節)が始まる。ウソと被害妄想、それらがごちゃまぜになる。

(4)S星追い討ちのための連合戦線を形成した日本半導体メーカーが「相手の不幸は私の幸せ」という本音を表したのだ、と。

 「相手の不幸は、私の幸せ」とは、日本側は、だれも言っていない。(そう思う人はいるかもしれないが……。)「本音」というのは、そのまま、彼ら自身の「妄想」と考えてよい。

 そしてその妄想を、「S星たたき」と結びつける。いわく、

(5) 日本で「S星叩き」はあちこちで目撃されている。日本のoh my newsは「S星が揺れるだけで終わるのか、それとも完全に崩れるのか。日本でも注目してみる価値は十分ありそうだ。」と報道した。

 「ohmynews」の記事を読んでも、みなさんもわかるように、どこにも、「S星叩き」のニュアンスはない。どうしてこの記事が、S星叩きになるのか? 「ohmynews」は、ただ「S星が揺れるだけで終わるのか、それとも完全に崩れるのか。日本でも注目してみる価値は十分ありそうだ」と書いているだけである。

 が、さらに、こうつづける。

(6) 産経新聞は先月、S星電子が日本家電製品市場から一部撤収すると、「安物というイメージから脱することができなかった」と報道している。 

 この部分については、私はこの記事を読んだ記憶がある。しかしこれについても、何も日本の消費者が、韓国製品を閉め出したというわけではない。この記事で気になるのは、「一部撤収すると」という部分。勝手に、「一部」という文言を、加筆している。

 私が読んだ記事では、「家電製品市場から全面撤退」とあった。それが「一部撤収すると」となる。この記事を読んだ韓国の一般市民たちは、あたかも日本人が、撤収したのを喜んでいるかのような印象を受けるだろう。つまり、それこそが、朝鮮N報のねらいということになる。

 が、最大のウソは、つぎの部分。

(7) S星追い討ちのための連合戦線を形成した日本半導体メーカー

 自意識も、ここまで過剰になると、「?」。とてもついていけない。日本が、「 S星追い討ちのための連合戦線を形成した」だと!

 悲しいかな、韓国の製造器機のほとんどは、(一説によれば、携帯電話にしても、80%)、日本製である。つまり韓国は、この日本から製造器機を輸入し、それでもって、いろいろな製品を製造している。輸出している。半導体にしても、日本は、現在は、台湾やマレーシアに生産拠点を移し、そこで生産している。

 いつ日本は、「 S星追い討ちのための連合戦線を形成した」のか? 記事の根拠は、どこにあるのか。それこそまさに、カルテル。事実なら、大事件!

仮にそうであっても、そんなことを口にする人はいない。被害妄想も、ここにきわまれりといった感じすらもつ。繰りかえすが、韓国の一会社の、一製品を、追い討ちするために、連合戦線を形成しなければならないほど、日本の企業連合は、まだ落ちぶれていない。さらに、まだある。

(8)S星に対する虚偽の主張が書かれた本も出回っており「S星電子は国内で営業利益の87.2%をあげ、国外は12.8%にすぎない」と主張した。国外市場で安く売りながら国内市場で利益を搾取しているという、事実とは正反対に歪曲した内容を記している。

 この「87・2%」「12・8%」という数字は、朝鮮N報(05年、5月18日付)に出ていた数字で、ウソでも何でもない。「事実とは正反対に歪曲した内容を記している」というくらいなら、朝鮮N報のほうへ、抗議でも何でもしたらよい。

 つまり韓国の国策企業は、韓国内で高く売り、利益をあげている。一方、外国では安く売り、シェアを伸ばしている。

 たとえば自動車にしても、現在、韓国製の自動車は、アメリカなどでは、ダンピング価格で売られている。一方、韓国国内では、ここにあげた数字程度の利益幅を見込んで売られている。たとえば韓国の「グレンジャー」(現代自動車)は、韓国内では、480万円前後で売られている。同じ車が、アメリカでは、300万円前後。価格差は、全体的に、100~150万円程度となっている。

 こういう記事を分析してみると、韓国の人たちが日本人の私たちのもつ憎悪の念には、相当なものがあるということがわかる。この憎悪の念は、私が韓国に渡った1967年以来、ほとんど変わっていない。

 だから仮にハンナラ党のI氏が大統領になったところで、彼らの反日姿勢がすぐに変化するとは、とても思われない。現在のN大統領ほどではないにしても、日本人の私たちとしては、警戒したらよい。

 がんばれ、日本! 負けるな、日本! しばらく新大統領が、どのような行動に出るか、様子を見て、このつづきを書いてみたい。