Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, January 31, 2008

*A Homeless Man

●濃密に生きる

Some home-less people were living underpass in the city, but last night I found there left only one man. Along the pass dozens of flowerpots to exclude home-less people from there. I felt a strong anger about it. I kicked two flower pots besides him and I gave some money to him, saying “Are you all right?” He said “I am sorry.” I came back again to my office and went back to him with two thick cushions and another money.

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「映画も見たい」「山荘へも泊まりたい」
「HPの更新もしたい」「ビデオも制作したい」
「原稿も書きたい」・・・と。

そういうときは、すべてをする。選ばない。

X曜日の夜は、ワイフと2人で、映画を見に
行くことにしている。

で、最近は、その映画を見たあと、一度、
家に寄って、そのまま山荘に行くように
している。

山荘には、古いパソコンが置いてある。
原稿は、それで書ける。

またその途中で、あちこちを回り、ビデオを
撮る。家に帰ってからは、HPの更新をする。
電子マガジンを発行する。

もちろんその間に、仕事もする。講演もする。
加えて、ほかにも、やりたいことが、たくさん
ある。USTREAMで、声も録音したい。

忙しいというより、私には、時間がない。

昨夜も、午前1時ごろまで、ビデオの編集を
した。デニーズの誕生日祝いをしていなかった
ので、孫たちの写真を、ビデオに編集した。

朝は、6時に起きた。再び、編集。ビデオが
できあがったのは、午前9時頃ごろ。ワイフを
書斎へ呼んで、2人で、試写会。そのあと、
そのビデオを、デニーズに送った。

月末は、さらに忙しい。マガジンの翌月号の
準備がある。原稿の整理もしなくてはならない。

BOXというサービスを使って、原稿を、
そこに保存している。BOXというのは、
原稿の倉庫のようなもの。書いた原稿は、
そこに保管する。

午後からは、仕事の準備。教材を用意し、
プリントを作る。が、ここで大切なことが
ある。

できるだけワイフの相手をする。ワイフが
行きたいと言えば、外食することにしている。
家族の主導権は私にあるとしても、その絆(きずな)
をつなぐのは、私の役目。

この世界には、「パソコン未亡人」という言葉も
ある。ワイフをその未亡人にしたくはない。

・・・ということで、今日も、始まった。
がんばろう! あと10年か? それとも
20年か? どうせ、それまでの命。
徹底的に燃やし尽くす。燃やし尽くして、
おしまい。

そのときが来たら、いさぎよく、サラバ。
未練はない。未練は残さない。悔いも残さない。

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●「切符が、どうした?」

 昔、こんな手記を書いた男の人がいた。戦後直後のことだった。その人は、放心状態だった……と思う。戦争で、家も家族も、すべて失っていた。その上、日本は敗戦した。それまでの価値観が、すべて否定されてしまった。

 電車をおりて改札口を出ようとしたときのこと。駅員が、その男の人に声をかけた。「切符は?」と。その言葉を聞いて、その男の人は、ふと我に返った。そしてこう言ったという。「切符ぐらい、何だ!」と。その男の人は、切符をもっていなかった。

 私はときどき、その男の人の話を思い出す。そして今でも、自問する。その男の人の言ったことは、正しかったのか、それともまちがっていたのか、と。その男の人は、「切符がないからといって、それがどうした」と言った。

 実は、今夜も、似たような場面に出くわした。

 私の教室の近くに、地下道がある。その地下道をくぐると、ザザシティと呼ばれる、ショッピングセンターに出る。いつもなら、その地下道に、3~4人のホームレスの男たちが、いる。が、今夜、そこを通ってみると、60センチ長の植木鉢が、通路に沿って、並べてあった。

 ホームレスの男は、一人しか残っていなかった。

 ポケットの中をさぐると、小銭が少しあった。それをすべてその男に渡した。渡しながら、「役人のすることは、せこいね」と声をかけた。植木鉢を並べることで、ホームレスの男たちを、追い出した。

 男は、ただだまって、「ああ、すんません」とだけ言った。とたん、涙が、私の目を濡らした。

 成功者も失敗者も、紙一重。大きくちがうようで、どこもちがわない。ほんの少しリズムが狂っただけで、失敗者は、失敗者になる。今、成功者だと思っている人だって、明日のことはわからない。

 同じ、日本人ではないか。同じ、人間ではないか。同じ、この日本に住んでいるではないか。私有地ならともかくも、通路のすみで小さく身をかがめて生きている人に、どうして、そういうむごいことができるのか? 

 教室へ帰ると、小5のS君が来ていた。私はサイフから1000円を取り出した。S君には、こう言った。「フトンを届けるから、手伝ってくれるか?」と。S君は、すなおに、それに応じてくれた。

S「先生の友だち?」
私「友だちじゃあ、ないよ」
S「・・・」
私「友だちになりたいとは思わない……」と。

 男にザブトン2枚と、1000円を渡した。男は、再び、「すみません」「すみません」と何度も言った。私たちは、そそくさと、その場を離れた。

 「通路を占有したぐらい、何だ!」と思ったとき、あの男の人の書いた手記が、頭の中を横切った。「切符ぐらい、何だ!」と。

 そう、道路を占有したぐらい、何だ!

 役人たちは、中央の官僚は言うにおよばず、市町村の村レベルまで、天下りに天下りを重ねている。それぞれの役人に責任があるわけではないが、一方で、こうした矛盾を放置しておきながら、何が、ホームレスだ!

 昨日も、1台分、5000万円の費用をかけてつくった駐車場の話を書いた。私たちが支払うガソリン税を流用して、どこかのだれかが、そういう駐車場を建設している。もちろんそうした駐車場は、役人たちの天下り先になっている。しかも、だ。土地代は、ただ。収入として入ってくる駐車料金は、すべて自分たちで使っているという(報道番組)。

 言うなれば、この世の中、矛盾だらけ。ホームレスの男と、駐車場とを直接結びつけることは、正しくないかもしれない。それはわかっている。わかっているが、「切符ぐらい、何だ!」

 実は、私は若いころは、こう考えた。いくら終戦直後であっても、法治国家なのだから、無銭乗車は許されない、と。

 しかし今は、ちがう。無銭乗車を擁護するわけではないが、私がそのときの男の人なら、私も、同じように言っただろう。「切符ぐらい、何だ!」と。

 ……だから、あえて浜松市の役人たちに、もの申す。

 通路に、必要もないような植木蜂を並べて、ホームレスの男たちを追い出すような、小細工はやめろ! どうして地下道に、植木鉢なのか? 彼らには、あそこしか住むところがない。公衆トイレも近い。洗面は、近くのショッピングセンターですますことができる。

どうして、そんなことがわからないのか、バカヤロー!

Tuesday, January 29, 2008

*An agony of an old couple

【ある老人の苦悩】

An agony of an old couple who has still been looking after their son who is now45 years old. Their son does not work at all but he sometimes steals the couple’s money from the safe. Until when shoud parents have their responsibility to look after their sons and daughters?

●ドラ息子

 その老人(八二歳)には、二人の息子がいた。長男は、今、四五歳。二男は、今、四〇歳。長男は、市内で、小さなレストランを開いている。二男は、隣のM県の県立病院で、ドクターをしている。

 その老人は、長男と同居している。もともと何かと問題のある長男で、高校を卒業したあとは、仕事をするでもなし、しないでもなし、十年近く、ブラブラしていた。老人は、元国鉄職員。毎月の年金は、約三二万円。そこそこの生活をするのには、困らないはずだったが、長男は、その老人のスネをかじりつづけた。が、それだけではなかった。

 長男は、金庫から、老人の貯金通帳を盗み、そこから勝手にお金を引き出し、遊興費に使ったりしていた。車を買ったり、趣味のモデルガンを買ったりなど。が、やがて老人の妻が倒れ、死んだ。老人が、七五歳のときのことだった。

 が、相変わらず、長男は遊びつづけた。ときどきアルバイトらしいことはしていたが、生活費は、一円も入れなかった。まったくのドラ息子。とんでもないドラ息子。しかしそんな息子でも、他人には、やさしかった。おだやかな男だった。とくに女性には、親切だった。結婚こそしなかったが、そんなわけで、老人の家には、いつも若い女が出入りしていた。

 老人の財産は、自宅の土地(一〇〇坪)と家。それに遺産で相続した、畑が六〇〇坪あまりあった。長男は、この財産に目をつけた。ああでもないこうでもないと理由をつけては、その土地を担保に、借金を重ねた。そのとき老人は、どこか頭の働きが鈍くなり始めていて、こまかい計算ができなくなっていた。が、気がついたときには、その畑は、宅地に転用され、さらに人手に渡っていた。

 二男はドクターをしていたが、ほとんど実家には帰ってこなかった。長男が二男を避けた。何かにつけてできの悪い長男、何かにつけてできのよい二男。そういう関係で、良好な兄弟関係など、育つはずがない。そういう長男だったが、ある日、その老人は私にこう言った。「昔から、できの悪い子どもほど、かわいいと言いますね。そのとおりですよ。S(二男)は、どこへいっても、ひとりで、しっかりやっていく子どもです。心配していません。しかしY(長男)は、そうではありません。だからよけいにかわいいです」と。

 今でも長男は、その老人の目を盗んでは、サイフからお金を抜き取っているという。小さな金庫もあるが、長男は、合いかぎをもっているらしい。しかしそれを知りつつ、その老人は、「まあ、いいじゃないですか……」と。「どうせ、すべて長男のものになるのですから」と。

●リズムでできる人間関係

 親に依存する子ども。子どもに依存する親。こうした依存関係は、一度できると、一方的なものになる。……なりやすい。尽くす側と、尽くされる側の立場が、はっきりしてくる。

 ある女性(七六歳)は、生活費のすべてを、息子(四九歳)に依存していた。息子は見るにみかねて、そうしていたが、今では、それが当たり前になってしまっている。息子はこう言う。「母にお金を渡すと、決まってこう言います。『大切に、つかわさせてもらうからね』と。まるで私がお金を出すのが当然というような言い方をします」と。

 一方、ここに書いたようなドラ息子がいる。ただ親からむしりと取るというだけの子どもである。それなりに社会性もあり、責任感もある子どもなのだが、親に対してだけは、そうでない。「してもらうのが当然」と考える。このケースでは、親が子どもに尽くしていることになる。

 問題は、なぜ、そうした依存関係が、「尽くす側」と、「尽くされる側」に、分かれるかということ。そこで調べてみると、最初は、ごくささいなことで始まるのがわかる。たとえば、「教える世界」でも、こんなことがある。

 定規を忘れる子どもがいる。そこで私は、いくつか定規を買いそろえておく。忘れた子どもに、貸してやるためである。しかしそういうことをすると、とたんに、定規を忘れる子どもがふえる。一度、こういう関係ができると、それを改めるのは、容易ではない。ある日突然、「もう定規は貸してやらない」などと言おうものなら、大混騒動になってしまう。

 さらに定規を用意しておくと、そのままもって帰ってしまう子どもが出てくる。「盗む」という意識からではない。無意識のまま、自分のケースに入れて、もって帰る。そこで毎月のように新しい定規を買い足して、補充することになる。が、ここで終わるわけではない。子どもは定規を粗末に扱うようになる。あちこちで使うたびに、定規をなくすようになる。そしてそのたびに、私のところから定規をもって帰る……。

 こうして定規について、「尽くす側」と、「尽くされる側」の立場ができる。もっともこれは定規という、教育の中の、ほんの一部の「部分」にすぎない。しかしこうした関係が無数に積み重なって、やがてそれが人間関係をつくる。子育てのリズムというのはそういうもので、一事が万事。最初は小さな流れが、無数に集まって、やがて大きな流れになる。で、一度そうなると、その流れを変えるのは、もう、容易なことではない。

●小さな流れのときに……

 大切なことは、「尽くす側」にしても、「尽くされる側」にしても、そういう流れをつくらないこと。わかりやすく言えば、サービス過剰も、またサービス不足も、子育てでは、決して好ましいものではないということ。とくに親としては、サービス過剰に注意する。サービス過剰は、決して子どものためにならないばかりか、結局は、そのツケは、親に戻ってくる。苦労するのは、親自身ということ。

 家庭では、こんなことに注意するとよい。

(1)一〇%のニヒリズムを大切に……全幅に子どもを愛するということと、全幅に子どもに尽くすということは、まったくの別問題。いつも心のどこかで、「子どもは子どもで、勝手に生きればいい」と、冷たい心をもつ。割合としては、一〇%くらいか。これを「一〇%のニヒリズム」という。

(2)必要なことと、そうでないことを分ける……子どもに何かをしてあげるときは、「子どもにとって、それが必要なことか、そうでないか」を、まず頭の中で考えるようにする。これはちょっとしたコツで、それを覚えると、できるようになる。そして「不必要」と感じたら、ぐんと自分をおさえる。あるいはしない。

(3)自分自身の中の依存性を知る……依存性というのは、体にしみついたシミのようなものだから、それを正したり、消すのは容易ではない。しかしそれに気づくだけでも、方向を変えることはできる。もし今のあなたが、親になっても、あなたの両親に対して、どこかベタベタしているようなら、あなたは無意識のうちにも、同じように、子どもにベタベタの関係を求めていることが多い。そしてその分、子どもは子どもで、あなたに対して依存心をもちやすくなっていると思ってよい。

(4)「必要な訓練(トレーニング)はするが、その限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」(バートランド・ラッセル)の言葉を、かみしめる。子育ては、いつもこの「限度」との戦いである。溺愛も、過保護も、過干渉も、過関心も、その限度を忘れたときに、問題になる。

●イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)は、こう書き残している。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。

●コロラドの月

●コロラドの月(Moonlight On The Colorado)

 夜、犬が騒いだので、庭へ出てみた。美しい夜だった。つんと冷たい風。澄み切った星空。

 中学生のとき、コーラス部で、「コロラドの月」という歌を歌った。簡単な曲だった。しかしあのころの私は、まだ見ぬ外国に、限りないロマンをいだいていた。いや、まだ知らぬ恋に、限りないロマンをいだいていたと言うべきか。「♪……君よ、こよ、うるわしき……」と。

 そのせいか知らないが、昔、飛行機の上からはじめてコロラド川を見たときには、本当に感激した。「ああ、あのときの川だ」と。……そんなことはどうでもよいが、こういう静かな夜は、どういうわけか、「コロラドの月」が、自然と鼻歌となって出てくる。

 あのときの、あの仲間はどうしているかな……とふと、思う。先生は、どうしているかなと、ふと、思う。

 男子の部員は、四~五人しかいなかった。あとは全員、女子。その中に佐藤君という後輩がいた。歌手になった野口五郎という人の、兄だった。今はどこかで作曲の仕事をしているということだが、そのまま疎遠になってしまった。

 こういう夜は、無性に、人が恋しくなる。それは過ぎ去りし日々への郷愁か。それとも、人生の終盤にやってきた自分への悔恨か。若いころの思い出が、ツユと消えたように、私もまた、つぎの瞬間には、ツユと消えるのか。そんなはがゆさが、こうしてあのころの思い出を、輝かせる。

 そう、今、脳裏に飛来したのは、コンクールに行くときの私たちだ。みんなでゾロゾロと、どこかの会場に向かっている。並んでいるわけではないが、前のほうに、女子が、歩いている。コーラス部には、美しい人が集まっていた。Iさん、Tさん、Yさんなど。その女子たちが、明るく、声を張りあげて、何やらはしゃいでいる。初夏の陽光を、まばゆいばかりに浴びながら……。

 遠い昔のような気もするし、つい先日のことだったような気もする。時間でみれば、ちょうど四〇年も前のことだが、その実感が、まったくない。ただ私だけが、いつの間にか、歳をとったような感じがする。記憶はそのままなのに、肌からはハリが消え、シワもふえた。頭は、もう白髪だらけだ。そんな私が、気分だけは中学生のままで、コロラドの月を口ずさむ……。

♪コロラドの月(Moonlight On The Colorado)
キング作曲(近藤玲二訳詞)

コロラドの月の夜 一人ゆく岸辺に
思い出を運びくる はるかなる流れよ
若き日いまは去りて 君はいずこに
コロラドの月の夜 はかなく夢はかえる
 
コロラドの山の端に 涙ぐむ星かげ
今もなお忘れられぬ うるわしき瞳よ
夜空に君の幸を 遠く祈れば
コロラドの山の端に はかなく夢はかえる

 部屋にもどって、コタツのふとんを肩までかぶせた。体はシンまで冷えているはずなのに、どこか心の中だけは、ポカポカしている。私はさらにふとんを深く、顔までかぶせると、そのまま眠ってしまった。甘い夢に包まれて……。 
(02-12-23)

●少し前、アメリカに行ったとき、二男が、「パパ、コロラド州はいいところだよ。いっしょに来て住まないか」と言ってくれた。私がもう少し若くて、それにアメリカに人種偏見がなければ、そうしただろう。が、今の私には、もうその気力はない。今ある世界の中で、今ある自分を大切にして生きたい。「冒険」ということになれば、私は、若いころ、さんざんしてきた。思い残すことは、ほとんどない。

*Depression of a family

●新聞の投書から……

I read an article on a newspaper in which her families were suddenly dropped into a sorrow, since their eldest daughter announced that she would get married soon. But why? In this case of the announcement, families would be glad and receive the news with a joy. But in this column her father was deeply depressed with the news.

 少し前、M新聞の朝刊にこんな投書が載っていた。今では、新聞記事でも、そのまま転載することはできない。著作権の問題がからむ。で、少し内容を変えて、ここに紹介する。

 「私にとって、記憶に残る大切な日。それは、姉と結婚したいと言って、一人の男性が、私の家にたずねてきた日。だれも姉の結婚に反対したわけではないが、父は、そのあと一日中、押し黙ったまま、背中を丸めて、テレビを見ていた。母も、台所で洗いものをしながら、ハンカチで顔を押さえて泣いていた。それから一週間ほど、私の家は、重苦しい雰囲気に包まれた。冷ややかなムードになり、母はふて寝を繰りかえし、口数も少なくなった。私も怒ったり、泣いたりした。姉がいなくなるという、さみしさに、家族それぞれが、それぞれの方法で耐えていた」と。

 長女の結婚について、家族の狼狽(ろうばい)ぶりが、よくわかる。しかし私は、この投書を読んだとき、「どうして?」という気持ちが、先にきてしまった。「どうして、家族は、長女の結婚を、そのようにとらえたのか?」と。

 結婚の申しこみが、あまりにも急なことだったので、心の準備ができていなかったのか。長女が、まだ若くて、結婚を考える年齢ではなかったのか。長女が、一家の中では、大切な存在だったので、それがつらかったのか。いろいろ考えられる。その家族には、その家族しかわからない、心の事情というものがある。

が、私が「どうして?」と思ったのは、そのとき、家族のだれか一人でも、結婚の申しこみを、喜ぶことはできなかったのかということ。投書を出した二女まで、「おとなげない態度を、姉にしてしまった」と書いている。どうして? まさか長女にとって、不本意な結婚というわけでもなかったと思う。投書の終わりは、こうなっている。「今では元気な三児の母。これからも幸せを願わずにはいられない」と。

 まず考えられるのは、日本人は昔から、娘の結婚を、「取られる」ととらえること。今でも、「娘を、嫁にくくれてやる」とか、「嫁をもらう」とか言う人がいる。いわゆる娘に対して、モノ意識をもっているとも考えられる。

しかし、どうもそれだけではないようだ。私はこの投書を読んだとき、たがいの間に流れる、ベタベタの人間関係を感じた。子離れできない親、兄弟離れできない妹、そしてそれをつなぐ、相互の依存関係。それが悪いと言っているのではない。(悪いと言っているようなものだが……。)それが日本の家族であり、その家族には、外国にはない、温もりがある。

 たとえば、私の母は、いくら「いらない」と言っても、朝ごはんを用意してくれる。「急いで帰るから、朝食は食べない」と言っても、だ。実家の土間で靴をはきかけていると、母はこう言う。「いいから、食べていけ」と。

 一方、アメリカでは、こうはいかない。「~~してくれ」「~~してほしい」と、いちいち言わなければ、何もしてくれない。へたに、「朝食はいい」などと言おうものなら、本当に、何もしてくれない。日本人の私からみると、アッケラカンとしすぎていて、どこかもの足りない。

 こうした違いが積もりに積もって、たがいの国民性をつくる。そしてそれが家族のあり方、さらに家族の関係にまで影響をおよぼす。

 もしこの段階で、つまり「一人の男性が、私の家にたずねてきた日」に、もう少し、親は親で自立していたら、親の見方は変わったのではないだろうか。二女は二女で自立していたら、二女の見方は変わったのではないだろうか。

全体として、もう少し、長女の結婚を前向きに喜び、前向きに祝うことができたのではないだろうか。「おめでとう! よかったね! 幸せになってね!」と。私には、「そうあるべきだ」とまで書く勇気はないが、しかし私がもっている感覚とは、ずいぶんと違うように思う。もっとも、私には娘がいない。だから娘をもった親の気持ちはわからない。だから軽率なことは書けないが、どう頭の中でシミュレーションしてみても、そのときのその父親のような心境にはならない……と思う。

 さて、みなさんは、どうだろうか。親の立場というよりも、自分自身を娘の立場に置いて、考えてみてほしい。あなたに恋人がいた。結婚を考えるようになった。そこで相手の男が、自分の両親に会いにきた。そして承諾を求めた。とたん、一転して家庭の中が暗くなってしまった! 険悪なムードが流れ、たがいにピリピリし始めた。しかしだれも結婚に反対しているわけではない。が、そういうムードになってしまった!

 この先は、その投書の人に失礼になるので、書けない。しかしこれだけは言える。日本には日本の、これから克服していかねばならない問題は、山のようにある。この投書の中には、それを考えさせる、ひとつのヒントが隠されている。もう一度、みなさんも、この投書を、じっくりと読んでみてほしい。

女……それは男の活動にとっては、大きな(つまづき)の石となる。女を恋しながら、何かをすることは、むずかしい。しかし、ここに恋が妨げにならない唯一の方法がある。それは恋する女と結婚することである。(トルストイ「アンナ・カレーニア」)

*A couple named Mr. and Mrs. K

●Kさん夫婦(A couple named Mr. and Mrs. K)

*What should a couple be like? Is it a normal style of a couple whose husband works in offices in day-time and whose wife does quite adifferent thing at home? Here is an article about it.

 Kさんは、今では珍しい、専業農家を営んでいる。
「珍しい」というのは、このあたりでは、専業農家の人は、ほとんどいないということ。
数年前までは、もっぱらミカンを栽培していた。
が、高齢になったこともあって、今は花木に主流を移している。
その分、ミカンは少なくなった。

 そのKさんは、いつも奥さんと二人で仕事をしている。
何をするにも、二人といった感じ。
そういうKさん夫婦を見ていると、「ああ、これが夫婦の、もともとの、あるべき姿なんだなあ」と思う。
言いかえると、夫は会社勤め、妻はもっぱら家事、あるいは共働きというのは、もともとあるべき姿ではないということになる。
このことは、外国の夫婦と、くらべてみても、わかる。

 たとえば同じサラリーマンにしても、夫婦の密着度は、国によって違う。
オーストラリアの友人も、長い間、サラリーマンをしているが、若いころは昼食を食べるためにも、家に帰っていた。
あるいは奥さんが、夫の会社の近くまでやってきて、いっしょに昼食を食べていた。
「今は?」と聞くと、「今は、(たがいに歳をとり)、めんどうになった。(I can‘t be bothered so much.)」と。
その違いがきわまったものが、単身赴任ということになるが、オーストラリアでは、今も、昔も、日本型の担任赴任など、考えられない。

 こう考えていくと、夫婦とは何かという問題にまで、発展してしまう。いくら「夫婦には形はない」とは言うものの、「ではなぜ、男と女は結婚するのか」ということまで考えていくと、夫婦にも、ある程度の「形」があるのではないかということになる。
もちろんその形にこだわるのも、よくない。反対に今、いわゆる「形だけの夫婦」が、多い。
多すぎる。

 そこでKさん夫婦を見てみると、たがいに夫婦というよりは、仲のよい友だちといった感じがする。
たがいに仕事をしているときでも、助けあうとか、いたわりあうとか、そういう意識はないように思う。
ただ淡々と自分のことをしているだけといったふう。若い夫婦のように、「愛している」とか、「愛されている」とか、そういうイチャイチャしたムードはもちろんない。
あえて言うなら、たがいに空気のような存在? が、それでいて、二人の呼吸がピタリとあっている。

 ……となると、夫婦というのは、その「呼吸」ということになる。呼吸があっていれば、夫婦。呼吸があっていなければ、夫婦ではない? 
形があるとするなら、それが夫婦の、あるべき形ということになる。
外見ではなく、あくまでも中身。
中身さえあれば、それを包む形には、それほど意味はない。

 これからの日本は、夫婦がこうした中身のある夫婦になれるよう、少しずつでも、そのしくみを変えていかねばならない。
たとえば夫が同僚と飲み食いするときでも、妻が同席するとか、あるいは夫の仕事を手伝うために、たまには妻も会社へいき、アルバイトをする、とか。
住居と職場を近づけるとか、あるいは在宅ワークを、もっとポピューラーにするとか。方法はいくらでもある。
少なくとも、今までのように、夫の仕事のために、妻のみならず、家族全体が犠牲になるような、あるいはそれを当然とするような社会のあり方は、お・か・し・い。

 Kさんの家で、ミカンを数箱分けてもらいながら、私はそんなことを考えていた。

●結婚、つまり両性の結合は、それ自体はもっとも小さな社会の一つだとしても、もっとも大規模な政府の存在そのものとなる源泉である。(ベンジャミン・フランクリン)

●強い家族をもてば、米国はより強くなる。(クリントン元大統領)

●すべての幸福な家庭は、たがいによく似ているが、不幸な家庭は、それもが、それぞれの流儀で、不幸である。(トルストイ「アンナ・カレーニア」)

*A Man from La Mancha

●2月29日号(Magazine for Feb. 29th edition)

I will issue nr. 1011st magazine on Feb. 29th, which is this. I issued nr. 1000th on the last Feb. 4th but it is funny that I don’t feel anything special in my mind that I have done something. Why not? I am stepping forward again to another goal of nr. 2000th, but I shall follow my nose. I just keep writing, which is everything for me.

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この原稿は、2月29日号ということ
になる。

去る2月4日(月)に、電子マガジンは、
1000号になった。

だからこの2月29日号は、1011号という
ことになる。

つぎの1000号をめざして、また、
長い戦いが始まった。

しかし2000号は、目ざさない。
成り行きに任せる。

あとは行けるとこまで行く。
ただとても残念なことに、1000号
を超えたというのに、「何かをなし遂げた」という
実感は、ほとんど、ない。

どうしてだろう?

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●雑感・あれこれ

今日は、1月30日。
このところ、何かにつけて、忙しい。
たとえば、こうだ。

私のしたいことと、ワイフのしたいことが
同時にあったとする。

そういうときは、両方とも、する。

あるいは、1時間でもヒマができたら、
その1時間で、したいことをする。

けっして、あと回しにしない。

もちろん私の仕事もある。

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●まじめに生きる

ときどき、まじめに生きるのが、バカらしくなる。
ほんとうは、そうであってはいけない。
それはわかっている。
しかしそのバカらしさと戦うのも、たいへん。
言うなれば、これは(内なる敵)との戦いということか。

ワイフも、ときどき、こう言う。
「あなたは、ラマンチャの男(=ドンキホーテ)みたい」と。


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原稿をさがしてみた。
何と、6年前にも同じことを考えていた。

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●私はドンキホーテ

 セルバンテス(ミゲル・デーサーアベドラ・セルバンテス・1547~1616・スペインの小説家)の書いた本に、『ドンキホーテ』がある。『ラマンチャの男』とも呼ばれている。夢想家というか、妄想家というか、ドンキホーテという男が、自らを騎士と思いこみ、数々の冒険をするという物語である。

 この物語のおもしろいところは、ひとえにドンキホーテのおめでたさにある。自らを騎士と思いこみ、自分ひとりだけが正義の使者であり、それこそ世界をしょって立っていると思いこんでしまう。そして少し頭のにぶい、農夫のサンチョを従者にし、老いぼれたロバのロシナンテに乗って、旅に出る……。

 こうした「おめでたさ」は、ひょっとしたら、だれにでもある。実のところ、この私にもある。よくワイフは私にこう言う。「あんたは、日本の教育を、すべてひとりで背負っているみたいなことを言うね」と。最近では、「あなたは日本の外務大臣みたい」とも。私があれこれ国際情勢を心配するからだ。

 が、考えてみれば、私一人くらいが、教育論を説いたところで、また国際問題を心配したところで、日本や世界は、ビクともしない。もともと、だれも私など、相手にしていない。それはいやというほどわかっているが、しかし、私はそうではない。「そうではない」というのは、相手にされていると誤解しているというのではない。私は、だれにも相手にされなくても、自分の心にブレーキをかけることができない。そういう意味で、ドンキホーテと私は、どこも違わない。あるいはどこがどう違うのか。

 よく、私塾を経営している人たちと、教育論を戦わすことがある。私塾の経営者といっても、経営だけを考えている経営者もいるが、中には、高邁(こうまい)な思想をもっている経営者も、少ないが、いる。私が議論を交わすのは、後者のタイプの経営者だが、ときどき、そういう経営者と議論しながら、ふと、こう思う。「こんな議論をしたところで、何になるのか?」と。

 私たちはよく、「日本の教育は……」と話し始める。しかし、いくら議論しても、まったく無意味。それはちょうど、街中の店のオヤジが、「日本の経済は……」と論じるのに、よく似ている。あるいはそれ以下かもしれない。論じたところで、マスターベーションにもならない。

しかしそれでも、私たちは議論をつづける。まあ、そうなると、趣味のようなものかもしれない。あるいは頭の体操? 自己満足? いや、やはりマスターベーションだ。だれにも相手にされず、ただひたすら、自分で自分をなぐさめる……。

 その姿が、いつか、私は、ドンキホーテに似ていることを知った。ジプシーたちの芝居を、現実の世界と思い込んで大暴れするドンキホーテ。風車を怪物と思い込み、ヤリで突っ込んでいくドンキホーテ。それはまさに、「小さな教室」を、「教育」と思い込んでいる私たちの姿、そのものと言ってもよい。

 さて私は、今、こうしてパソコンに向かい、教育論や子育て論を書いている。「役にたっている」と言ってくれる人もいるが、しかし本当のところは、わからない。読んでもらっているかどうかさえ、わからない。しかしそれでも、私は書いている。考えてみれば小さな世界だが、しかし私の頭の中にある相手は、日本であり、世界だ。心意気だけは、日本の総理大臣より高い? 国連の事務総長より高い? ……勝手にそう思い込んでいるだけだが、それゆえに、私はこう思う。「私は、まさに、おめでたいドンキホーテ」と。

 これからも私というドンキホーテは、ものを書きつづける。だれにも相手にされなくても、書きつづける。おめでたい男は、いつまでもおめでたい。しかしこのおめでたさこそが、まさに私なのだ。だから書きつづける。
(02-12-21)

●毎日ものを書いていると、こんなことに気づく。それは頭の回転というのは、そのときのコンディションによって違うということ。毎日、微妙に変化する。で、調子のよいときは、それでよいのだが、悪いときは、「ああ、私はこのままダメになってしまうのでは……」という恐怖心にかられる。そういう意味では、毎日、こうして書いていないと、回転を維持できない。こわいのは、アルツハイマーなどの脳の病気だが、こうして毎日、ものを書いていれば、それを予防できるのでは……という期待もある。

●ただ脳の老化は、脳のCPU(中央演算装置)そのものの老化を意味するから、仮に老化したとしても、自分でそれに気づくことはないと思う。「自分ではふつうだ」と思い込んでいる間に、どんどんとボケていく……。そういう変化がわかるのは、私の文を連続して読んでくれる読者しかいないのでは。あるいはすでに、それに気づいている読者もいるかもしれない。「林の書いている文は、このところ駄作ばかり」と。……実は、私自身もこのところそう思うようになってきた。ああ、どうしよう!!

●太陽が照っている間に、干草をつくれ。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

●命のあるかぎり、希望はある。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

●自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばならない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

●パンさえあれば、たいていの悲しみは堪えられる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

●裸で私はこの世にきた。だから私は裸でこの世から出て行かねばならない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」

●真の勇気とは、極端な臆病と、向こう見ずの中間にいる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)

*Temporary Tax Rate?

●今朝・あれこれ(1月30日)

Temporary tax rate of gas would be maintained and we have to keep paying abt 25 yen per litter above the fixed tax of 25 yen still from now on. The ruling party of Japan insists to maintain the tax and the opposition party is agaist it. Whatever it is, a huge amount of money is being spent on waste, ex., 50 million yen for each car of a parking lot. (50 million yen for each car!) What a waste it is! Another tiopic I write here is about a new governor of Osaka-Fu. The new governor has been a TV talent as well as a lawyer. I feel the value of democracy of Japan is still falling down.

+++++++++++++++

数日つづいた雨だが、今朝は
やんだ。

先週より、暖かくなった感じがする。
よかった!

運動不足で、体が、ナマっている。
今日から、運動、再開!

+++++++++++++++

●暫定(ざんてい)税率

 ガソリンの値段があがった。しかし暫定(ざんてい)税率はそのまま。

 わかりやすく言うと、こうなる。

 現在、ガソリン1リットルあたり、50円弱の税金が含まれている。本来は、25円弱であったものが、暫定税率という名目で、それが約2倍に引きあげられた(1993年12月)(注※)。

 その暫定税率の期限が、今年(2008年)の3月31日にやってくる。

 与党は、「暫定税率を据え置く」と主張している。野党は、「それはおかしい」と主張している。

 官僚たちは、小ズルイことばかりしている。贅沢な資金をよいことに、好き勝手なことばかりしている。だから、こういうとき信用されない。国民の怒りは、むしろそちらに向かっている。

 おとといの報道番組(1月28日)によれば、その資金を使って、「特例」という名のもと、駐車場まで作っているという。あるところでは、「車、1台分の駐車場を建設する費用に、5000万円もかけている」とか! (1台分の駐車場を作るのに、5000万円の費用だぞ!)

 当然、そうした駐車場管理団体は、U省に勤める役人たちの天下り先となっている。

 「暫定」ということで決められた税率なら、暫定期間を経た今、廃止すべきではないのか。「暫定」というのは、「しばらく、仮に」(国語大辞典)という意味である。英語辞書でも、「temporary」となっている。

 私個人としては、ガソリンの値段は、ギリギリまであげればよいと思っている。その分だけ、ガソリンの消費量が減る。地球温暖化を阻止するためにもよい。しかしそうして得た税収を、道路工事のためだけに使うというのは、おかしい。どう考えても、おかしい。「国防費よりも多い」(民主党)というのは、さらにおかしい。

 これから先、官僚たちが、「暫定」という言葉を使っても、みなさん、信用するな! 彼らが言うところの「暫定」というのは、「永久に」という意味である。つまりこれもその場しのぎの、官僚用語! ごまかし用語!

+++++++++++++++++

(東京新聞の記事より)

「ガソリン税(揮発油税など)に上乗せされている暫定税率(1リットルあたり約25円)を、継続するのか廃止するのか。その行方が通常国会の大きな争点になっている。暫定税率継続はなぜ必要なのか、廃止を目ざす狙いは何なのか。自民、民主両党の担当者に、主張を戦わせてもらった」(1月27日)。

 わかりやすく言えば、「道路を整備したい」と主張する、与党側。「5兆4000億円もの巨額の資金が、道路整備だけに使われるのは、おかしい」と主張する、野党側。

 最近、また、私の町内で側溝工事が始まった。前からあった側溝を、作りなおすという工事である。しかしまあ、何というか、見るからにムダな工事。まるで工事のための工事。こういうムダな工事が、今の今も、全国津々浦々でなされている。それを思うと、ゾッとする。

(注※)……揮発油税の税率は揮発油税法上、1キロリットルあたり2万4300円となっているが、租税特別措置法(昭和32年3月31日法律26号)第89条第2項の規定により、1993年(平成5年)12月1日から2008年(平成20年)3月31日までの間、倍額の4万8600円が適用される(ウィキペディア百科事典より)。


●大阪府で、またまたタレント府知事

 大阪府で、新しい府知事が誕生した。天下り官僚のつぎは、タレント弁護士。タレントが悪いわけではない。弁護士が悪いわけではない。しかし民主主義という(主義)が、ますます軽くなっていくように感ずる。

 大阪府といえば、あの横山N氏が、しばらく府知事を務めたところである。「パンパカパ~ン」でよく知られていた、あの横山N氏である。

 だれがなっても、それを選ぶのは、府民の責任。ただ、こういう府知事の誕生で、いちばん喜んでいるのが、その(下)で働く、役人たちではないのか。府知事を、どのようにでも料理できる。

Sunday, January 27, 2008

*Too late! What is the internationalization of Haneda Airport?

●日本人よ、もっと怒れ!

(Abt. 40 years ago, a most stupid decision was made by the government, to construct our international airport in Narita, which is so far away from Tokyo. It takes about 1 hour and half by express train. How come did they construct the airport in such a remoted area? Then internationalization of Tokyo has been far behind. Now at Haneda airport a new international terminal building is being under construction, but why now? Too late.

+++++++++++++++

羽田空港では、現在、国際線ターミナルの建設が始まっている。
(一部の国際線は、すでに離発着しているが……。)

しかし今ごろ、国際線? 国際線ターミナル?
日本の経済力がまだあるころならまだしも、ここまで弱体化した今、なぜ?

おかしな政治的エゴのために、国際線が、それまでの羽田空港から
現在の成田空港に移された。

日本の運輸行政で、もっともバカげた決断だった。
おかげで、日本の国際化は、10年は遅れた。20年は遅れた。
遅れるのみならず、羽田空港のハブ化は、ツユと消えた。

現在、韓国、香港、シンガポールなどに、
その(力)が分散してしまった。

もしあのとき、羽田空港を拡張することによって国際線化を
推し進めていたら、今ごろ羽田空港(=東京)は、
押しも押されぬ、一大、国際ハブ空港になっていただろう。

無理に無理を重ねるから、成田の地元では、住民たちの
猛反発まで買っている。
そのため成田空港の国際化まで、遅れてしまった。

あのね、あんな不便なところに空港を作って、どうするの?
開港当初は、外国からやってきた乗り継ぎの旅行客たちは、成田で
一度飛行機をおりて、わざわざ数時間もかけて、羽田まで
来なければならなかった。

その時間的ロスは、たいへんなもの!

今でも、千葉県側は、国際空港を、成田から羽田へ移すことに
反対しているという。

もう、やめよう!
こんなバカげた反対のための反対は!
日本全体の利益を考えて、もっとものごとは、合理的に考えよう。
そして、日本人よ、もっと声をあげて、怒ろう!

だれだ、あんなバカげたところに、国際空港を作ったのは!
東京から、特急で、1時間半もかかる、ヘンピなところに!

新幹線だってそうだ。

岐阜県の当時の有力政治家が、新幹線の線路を、大きく、岐阜寄りに曲げてしまった。
ウソだと思うなら、一度でよいから、新幹線の線路を見てみることだ。
名古屋を出たあと、新幹線は、不自然なまでに、大きく岐阜よりに迂回している。

もし名古屋から京都(あるいは米原)へ直行するルートを選んでいたら、
東京→大阪間は、今より、10~15分は、短縮されたはず。

田舎の、田んぼの中の駅を通るために、以後、40年以上、
無駄な電力を日本は使いつづけている。
利用客は、ムダな料金を払いつづけている。
ヒマな人は、一度、そのロス計算をしてみたらよい。

みなが怒れば、これから先、こういうバカげたことは少なくなる。
怒らないから、そのまま放置される。
そして同じバカげたことが、繰りかえされる。

今度、羽田空港の国際線ターミナル建設を見ながら、
私は、そんなことを考えた!
(1月29日、記)

*A trip to Haneda, where I met a pick-pocket

【スリ?】(Pick-Pocket)

My wife and I went to Hneda to meet my son. My son was there to meet with us at Shin-Yokohama. Then we took a bus to Haneda airport where he has been trained since early this month. This is a story about a pick-pocket I met on the way back home.

++++++++++++++++++

●新横浜駅で

場所は、新横浜駅。
東横線の改札口を出て、新幹線の乗り場に向かっていた。
エスカレーターをおりた。そこでのこと。
背中で、ゴソゴソとした動きを感じた。

日曜日の夕刻で、周辺は、かなり混雑していた。

エスカレーターをおりたところで、横にいたワイフが、こう言った。
「(バッグの)チャックがあいているわよ」と。

バッグを横腹のほうへ回してみると、チャックが、15~20センチほど、あいていた。
私は「?」と思いながら、チャックを閉めなおした。

このところ、何かと自分を信じられないことがつづく。
「たしかに閉めたのに……」と心の中で思った。

私は改札口の右横にある自動販売機で、切符を買った。

●カードがない!

「中華料理店で見たときには、チャックは閉まっていた」と私。
「おかしいわね」とワイフ。

一度、同じような経験を、以前、ディズニーランドでもしている。
何かの乗り物に乗ったあと、自分のバッグを見ると、バッグの口が大きく開いていた。

幸いにもそのときには、お金など、大切なものは、入れてなかった。
「スリだろう」と思ったが、しかし私には、そのときの覚えがまったくなかった。
しかし今度は、背中で、ゴソゴソとした動きを感じた。

「きっとスリだよ」
「そうね」と。

新幹線に乗ったあと、私は、バッグを大きく開けると、中身を確かめた。
カード類が入っている、小さなサイフがあるはずである。
が、どこをさがしても、それがない!

とたん、胸騒ぎ。ハラハラとした胸騒ぎ。

「VISAのカードと、N証券のカードがない……」と。
座席の上にバッグを置き、中身を、すべて出してみた。

が、カード類が入っている、小さなサイフがない!

●冷静に

当初、不安と心配が、ドカッと私を襲った。
がん検診か何かを受けて、要精密検査の知らせを受けたときの気分に似ていた。
私は、そう感じた。

が、それも一巡すると、冷静な判断力が働き始めた。

VISAカードは、1日の使用限度額が、10万円以内に設定してある。
N証券のカードは、N証券会社内の機械でしか、使えない。
それにN証券のカードには、暗証番号が必要である。
「明日の9時に連絡すればいい」と。


「VISAカードで買い物でもされたら、困るね」と私。

心のすみに不安感を押しやりながら、ワイフにそう言った。

「家に帰ったら、カード会社に連絡しよう」
「どこかに置き忘れたのじゃ、ない?」
「そうかもしれない……」
「でもね、あなたのバッグは、パンパンにものが入っているでしょ。
スリでも、手が入らないわよ」と。

バッグの中には、パソコン雑誌が入っていた。
それがバッグの上の方を、おおっていた。

●合理化

こういうとき心理学でいう、合理化が、心の中で始まる。
「使われるとしても、10万円まで」
「どこかの旅館で一泊したと思えばいい」
「株か何かで、10万円、損をしたと思えばいい」
「明日、その分を、株か何かで、もうければいい」と。

さらに、「命があるだけでも、もうけもの」
「がんの精密検査とは、ちがう」
「10万円で健康が買えれば、安いもの」
「元気で、横浜で遊んできたのだから、文句を言うな」とも。

こうしてスリにあったことを、自分の中で、解消しようとする。

再びワイフが口をきいた。

「サイフを、家のどこかに置き忘れたのかもしれないわよ」と。

たしかにその可能性はあった。
ときどきそのサイフを外に取り出すことがある。
台所のXXに置くこともある。

「記憶のどこかで、そんなようなことをしたのを覚えている……」と。
しかしその自信はなかった。

●恐怖

最近、ときどき、自分を信じられなくなるときがある。
ものの置き忘れも、多い。
置き忘れというより、どこに置いたか忘れてしまう。

それは「恐怖」と言ってもよい。
たとえば洗面所で顔を洗うために、手袋をはずす。
が、顔を洗ったあと、その手袋をどこに置いたか、わからなくなる。

で、さがしてみると、洗面台のすぐ横に、それがあったりする。
最初見たときは、そこにはなかったはず……、と。

脳細胞が、老化しているためか?
それとも認知症の始まりか?

何であるにせよ、自分を信じられなくなるというのは、恐怖そのものである。

そこで最近、私は、小さなボイスレコーダーをぶらさげて歩くようになった。

そのつど、私の声を録音しておくためである。
わかりやすく言えば、メモがわり。
しかし手袋のようなものは、いちいち録音しない。
「手袋は、洗面台の横に置きました。これから顔を洗います」と。

●あきらめ

こうした心理的な緊張感は、それほど、長つづきしない。
心の緊張感を持続するためには、相当なエネルギーを消耗する。
やがて疲れてくる。
それにつられて、緊張感も薄れてくる。
とくに昨日は、横浜から羽田へ、そして羽田から蒲田(かまた)へと、歩いた。
ふつうなら、新幹線に乗ったとたん、眠り始めるところ。

事実、「何とかなる」と思ったとたん、スーッと睡魔が襲ってきた。
見ると、ワイフは、すでに眠っていた。
「のんきな人だな」と思った。
と、同時に、私もウトウト、し始めた。

が、私という人間は、いまだかって、一度たりとも、寝過ごしたことはない。
DNAで構成された体内時計の性能が、よいせいではないか。
いくら眠っても、別の脳みそが、カチカチと時を刻んでいる。
そのときもそうだった。
掛川駅を出て、あと10分で浜松、というところで、目がさめた。
同時に、雑誌を、床にドサッと落とした。
その音で、ワイフも目を覚ました。

●羽田

私「今日は、楽しかったね。いつもの何倍も長かったように感ずる」
ワ「そうね。朝も、早かったから」と。

本当は、その日は、恩師のT先生を見舞うつもりだった。
しかし前日の遅くになって、先生から、断りの電話が入った。
かなり体調を崩されたらしい。
「このところ胃が痛くて眠られない日がつづいています」と、メールにあった。

そこで羽田にいる息子を訪ねることにした。
息子は、現在、羽田で研修を受けている。

朝、7時に家を出た。
新横浜駅で、息子と待ち合わせた。
そこからバスで羽田へ。

第2ターミナルから、息子の研修所のある、XXへ。
そこへはモノレールで行った。
あとは先にも書いたように、一度、蒲田へ出て、そこで昼食。

家に帰ったのは、午後7時ごろ。
途中、義兄に横浜のみやげを届けた。

●サイフ

家に帰って、まっさきに、台所のXXをさがした。
が、サイフはそこにはなかった。

つづいて自分の書斎の中をさがした。
しかしそこにもサイフはなかった。

で、念のためにと、先日、G温泉へもっていったときのバッグをさがしてみた。
「まさか……」と思いながら。

いや、その前に、VISAの盗難届用の電話番号を、ネットでさがした。
それはすぐ見つかった。
「VISA 盗難 届け」で検索できた。
盗難届けは、24時間、受けつけてくれるらしい。

が、である!
何と、そのサイフが、あった!
G温泉へもっていったバッグの中に、それがあった!

「こんなところにあったよ!」とワイフに声をかけると、「よかったわね」と。
しかし軽い喜びが収まると、またまたあの不信感。
「自分を信じられない」という、あの不信感。

「こんな大切なものを、バッグの中に入れ忘れるなんて!」
「いったい、ぼくの脳みそは、どうなってしまったのだ!」と。

それについて、ワイフは、こう解説した。

「大切なものだから、バッグの奧の奧にしまったのね。
それでそこに入れ忘れたのよ」と。

ナルホド!、ということで、自分を納得させた。

それにしても、よかった。

そのあと、ホ~~~~~~~~~ッ、という長~イ、ため息をついた。

(2008年1月28日、月曜日、記)

*A trip to Haneda, and a pick-pocket

【スリ?】(Pick-Pocket)

My wife and I went to Hneda to meet my son. My son was there to meet with us at Shin-Yokohama. Then we took a bus to Haneda airport where he has been trained since early this month. This is a story about a pick-pocket I met on the way back home.

++++++++++++++++++

●新横浜駅で

場所は、新横浜駅。
東横線の改札口を出て、新幹線の乗り場に向かっていた。
エスカレーターをおりた。そこでのこと。
背中で、ゴソゴソとした動きを感じた。

日曜日の夕刻で、周辺は、かなり混雑していた。

エスカレーターをおりたところで、横にいたワイフが、こう言った。
「(バッグの)チャックがあいているわよ」と。

バッグを横腹のほうへ回してみると、チャックが、15~20センチほど、あいていた。
私は「?」と思いながら、チャックを閉めなおした。

このところ、何かと自分を信じられないことがつづく。
「たしかに閉めたのに……」と心の中で思った。

私は改札口の右横にある自動販売機で、切符を買った。

●カードがない!

「中華料理店で見たときには、チャックは閉まっていた」と私。
「おかしいわね」とワイフ。

一度、同じような経験を、以前、ディズニーランドでもしている。
何かの乗り物に乗ったあと、自分のバッグを見ると、バッグの口が大きく開いていた。

幸いにもそのときには、お金など、大切なものは、入れてなかった。
「スリだろう」と思ったが、しかし私には、そのときの覚えがまったくなかった。
しかし今度は、背中で、ゴソゴソとした動きを感じた。

「きっとスリだよ」
「そうね」と。

新幹線に乗ったあと、私は、バッグを大きく開けると、中身を確かめた。
カード類が入っている、小さなサイフがあるはずである。
が、どこをさがしても、それがない!

とたん、胸騒ぎ。ハラハラとした胸騒ぎ。

「VISAのカードと、N証券のカードがない……」と。
座席の上にバッグを置き、中身を、すべて出してみた。

が、カード類が入っている、小さなサイフがない!

●冷静に

当初、不安と心配が、ドカッと私を襲った。
がん検診か何かを受けて、要精密検査の知らせを受けたときの気分に似ていた。
私は、そう感じた。

が、それも一巡すると、冷静な判断力が働き始めた。

VISAカードは、1日の使用限度額が、10万円以内に設定してある。
N証券のカードは、N証券会社内の機械でしか、使えない。
それにN証券のカードには、暗証番号が必要である。
「明日の9時に連絡すればいい」と。


「VISAカードで買い物でもされたら、困るね」と私。

心のすみに不安感を押しやりながら、ワイフにそう言った。

「家に帰ったら、カード会社に連絡しよう」
「どこかに置き忘れたのじゃ、ない?」
「そうかもしれない……」
「でもね、あなたのバッグは、パンパンにものが入っているでしょ。
スリでも、手が入らないわよ」と。

バッグの中には、パソコン雑誌が入っていた。
それがバッグの上の方を、おおっていた。

●合理化

こういうとき心理学でいう、合理化が、心の中で始まる。
「使われるとしても、10万円まで」
「どこかの旅館で一泊したと思えばいい」
「株か何かで、10万円、損をしたと思えばいい」
「明日、その分を、株か何かで、もうければいい」と。

さらに、「命があるだけでも、もうけもの」
「がんの精密検査とは、ちがう」
「10万円で健康が買えれば、安いもの」
「元気で、横浜で遊んできたのだから、文句を言うな」とも。

こうしてスリにあったことを、自分の中で、解消しようとする。

再びワイフが口をきいた。

「サイフを、家のどこかに置き忘れたのかもしれないわよ」と。

たしかにその可能性はあった。
ときどきそのサイフを外に取り出すことがある。
台所のXXに置くこともある。

「記憶のどこかで、そんなようなことをしたのを覚えている……」と。
しかしその自信はなかった。

●恐怖

最近、ときどき、自分を信じられなくなるときがある。
ものの置き忘れも、多い。
置き忘れというより、どこに置いたか忘れてしまう。

それは「恐怖」と言ってもよい。
たとえば洗面所で顔を洗うために、手袋をはずす。
が、顔を洗ったあと、その手袋をどこに置いたか、わからなくなる。

で、さがしてみると、洗面台のすぐ横に、それがあったりする。
最初見たときは、そこにはなかったはず……、と。

脳細胞が、老化しているためか?
それとも認知症の始まりか?

何であるにせよ、自分を信じられなくなるというのは、恐怖そのものである。

そこで最近、私は、小さなボイスレコーダーをぶらさげて歩くようになった。

そのつど、私の声を録音しておくためである。
わかりやすく言えば、メモがわり。
しかし手袋のようなものは、いちいち録音しない。
「手袋は、洗面台の横に置きました。これから顔を洗います」と。

●あきらめ

こうした心理的な緊張感は、それほど、長つづきしない。
心の緊張感を持続するためには、相当なエネルギーを消耗する。
やがて疲れてくる。
それにつられて、緊張感も薄れてくる。
とくに昨日は、横浜から羽田へ、そして羽田から蒲田(かまた)へと、歩いた。
ふつうなら、新幹線に乗ったとたん、眠り始めるところ。

事実、「何とかなる」と思ったとたん、スーッと睡魔が襲ってきた。
見ると、ワイフは、すでに眠っていた。
「のんきな人だな」と思った。
と、同時に、私もウトウト、し始めた。

が、私という人間は、いまだかって、一度たりとも、寝過ごしたことはない。
DNAで構成された体内時計の性能が、よいせいではないか。
いくら眠っても、別の脳みそが、カチカチと時を刻んでいる。
そのときもそうだった。
掛川駅を出て、あと10分で浜松、というところで、目がさめた。
同時に、雑誌を、床にドサッと落とした。
その音で、ワイフも目を覚ました。

●羽田

私「今日は、楽しかったね。いつもの何倍も長かったように感ずる」
ワ「そうね。朝も、早かったから」と。

本当は、その日は、恩師のT先生を見舞うつもりだった。
しかし前日の遅くになって、先生から、断りの電話が入った。
かなり体調を崩されたらしい。
「このところ胃が痛くて眠られない日がつづいています」と、メールにあった。

そこで羽田にいる息子を訪ねることにした。
息子は、現在、羽田で研修を受けている。

朝、7時に家を出た。
新横浜駅で、息子と待ち合わせた。
そこからバスで羽田へ。

第2ターミナルから、息子の研修所のある、XXへ。
そこへはモノレールで行った。
あとは先にも書いたように、一度、蒲田へ出て、そこで昼食。

家に帰ったのは、午後7時ごろ。
途中、義兄に横浜のみやげを届けた。

●サイフ

家に帰って、まっさきに、台所のXXをさがした。
が、サイフはそこにはなかった。

つづいて自分の書斎の中をさがした。
しかしそこにもサイフはなかった。

で、念のためにと、先日、G温泉へもっていったときのバッグをさがしてみた。
「まさか……」と思いながら。

いや、その前に、VISAの盗難届用の電話番号を、ネットでさがした。
それはすぐ見つかった。
「VISA 盗難 届け」で検索できた。
盗難届けは、24時間、受けつけてくれるらしい。

が、である!
何と、そのサイフが、あった!
G温泉へもっていったバッグの中に、それがあった!

「こんなところにあったよ!」とワイフに声をかけると、「よかったわね」と。
しかし軽い喜びが収まると、またまたあの不信感。
「自分を信じられない」という、あの不信感。

「こんな大切なものを、バッグの中に入れ忘れるなんて!」
「いったい、ぼくの脳みそは、どうなってしまったのだ!」と。

それについて、ワイフは、こう解説した。

「大切なものだから、バッグの奧の奧にしまったのね。
それでそこに入れ忘れたのよ」と。

ナルホド!、ということで、自分を納得させた。

それにしても、よかった。

そのあと、ホ~~~~~~~~~ッ、という長~イ、ため息をついた。

(2008年1月28日、月曜日、記)

Thursday, January 24, 2008

*Democracy vs Capitalism

●民主主義vs資本主義(Democracy vs Capitalism)

Capitalism often invades democracy and more often it brings democracy into crisis. What is needed is how we can control the capitalism with the power of democracy. Otherwise democracy itself would be collapsed. Here I take an example and discuss about it.

++++++++++++++++

ロバート・ライシュという人が
書いた、「新資本主義」(Taming Super-
Capitalism)という本が話題になっている。

オーストラリアに住む友人が、読んで
みたらよいと勧めてくれた。

概略を言えば、資本主義と民主主義の
対立について書いた本ということになる。

資本主義は、金儲け主義が前提となって
いる。商品のリサクルにしても、企業は、
何も、社会的正義感があって、それを
しているのではない。
よりコストをさげるために、それをする。

社会的責任や、社会的道徳があるから、
それをしているのではない。

すべてが(金儲け)につながっている。

一方、民主主義は、常にこうした資本主義に
振り回されるという宿命を負っている。

私なりに、ひとつの例をあげて考えてみたい。

たとえば日本には進学塾というものがある。
アメリカにも、学外教育組織として、
ラーニング・センター(Learning Centers)の
ようなものはある。

しかし内容は、まったく、ちがう。

日本の進学塾は、どうカモフラージュ
しようとも、(企業)である。金儲けを
目的とした、企業である。

もちろん進学塾とて、需要と供給の
バランスの上に成り立っている。
需要があるから、存在する。
「悪」と決めてかかっては、いけない。

では、なぜ、親たちが、子どもを進学塾
へ通わせるかと言えば、理由は、簡単。

親たちは、自分の生活を通して、社会の
不公平を、毎日、いやというほど、見せつけ
られている。

それから生まれる不公平感が、親たちを
して、子どもを進学塾へ走らせる。

しかしその一方で、進学塾がもたらす弊害も
少なくない。数えたら、キリがない。
が、何よりも最大の弊害は、進学塾が、
こうした公平感、もっと端的に言えば、
社会的格差を拡大させているということ。

ある大蔵官僚(当時)は、テレビのレポーター
の質問に答えて、こう言っていた(テレビ報道・
1999年)。

レポーターが、「天下りをどう思いますか?」
と聞いたときのこと。私ら、学生時代勉強で
苦労したのだから、当然だ」「国のために仕事
ばかりしているから、退職後の仕事をさがす
ヒマもない。(だから国が用意してくれるのは、
当然だ)」と。

中には、進学塾の世話にならず、官僚になった
人もいるかもしれない。しかしそういう人は、
例外。大半は、その進学塾の世話になっている。

こんな話もある。

都内の公立高校の学力低下がはげしかったころ
のこと。いろいろと話題になったが、文部省の
役人の子弟で、公立高校へ通っている子どもは、
ほとんどいなかった。
(私は、「ゼロ」と聞いていた。)

つまりこうして社会的格差は広がり、
不公平感が一般社会に蔓延することになる。
そしてそれが直接的に、民主主義の危機へと
つながる。

もっともだからといって、進学塾だけを
やり玉にあげることは正しくない。

進学塾も、その他、あまたある(企業)の
ひとつに過ぎない。
そこで働く講師にしても、その範囲で、
懸命に仕事をしている。

だがどこかで、だれかが進学宿をコント
ロールしないと、たいへんなことになる。

もっと端的に言えば、どこかで、だれかが、
資本主義をコントロールしないと、それこそ
民主主義の危機どころか、地球温暖化の例を
見るまでもなく、全生物を絶滅にまで、
追い込んでしまう。

つまりこれが冒頭に書いた、資本主義と
民主主義の対立ということになる。

もっともこのテーマは、何も、今に始まった
ことではない。
10年前にも、20年前にもあった。
そこでたぶん、ロバート・ライシュという
人は、その打開策として、「新資本主義」
という本を書いたにちがいない。

翻訳本も出ているということだから、
あとで書店でさがしてみるつもり。

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8年前の2000年に書いた原稿を
添付します。
(中日新聞、発表済み)

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日本の将来を教育に見るとき 

●人間は甘やかすと……?

 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強で苦労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさがすヒマもない。(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・九九年春)と答えていた。

また別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。私たちは言われるまま、まじめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。人間は甘やかすと、ここまで言うようになる。

●最後はメーター付きのタクシー

 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことがある。息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。それはちょうど四〇年前の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。あの国では誰もがギラギラとした脂汗を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。若者とて例外ではない。タクシーの運転手がこんな話をしてくれた。

若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。そしてそれで白タク営業をする。料金はその場で客と交渉して決める。そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、それでお金をためる。さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼ぐ。最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。

●日本には活気があった

 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれていた。子どもたちとて例外ではない。私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行った。そこでその磁石で金属片を集める。そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。それが結構、小づかい稼ぎになった。父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。が、今の日本にはそれはない。「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私のところへやってきて、私とこんな会話をした。

学「どこか就職先がありませんか」
私「君は何ができる?」
学「翻訳ぐらいなら、何とか」
私「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。『翻訳します』とか書いてくれば、仕事が回ってくるかもしれない」
学「カッコ悪いからいやだ」
私「なぜカッコ悪い?」
学「恥ずかしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」

 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。「恥ずかしい」と言う。結局その学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることになった。もちろんその費用は親が出した。

●子どもを見れば、未来がわかる

 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。言いかえると、今の日本の若者たちを見れば、日本の未来がわかる。で、その未来。最近の経済指標を見るまでもない。結論から先に言えば、お先まっ暗。このままでは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国になってしまう。いや、おおかたの経済学者は、二〇一五年前後には、日本は中国の経済圏にのみ込まれてしまうだろうと予想している。

事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くなっている。たとえばアメリカでは、今では日本の経済ニュースは、シンガポール経由で入っている(NBC)。どこの大学でも日本語を学ぶ学生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえている(ハーバード大学)。

私たちは飽食とぜいたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎた。そのツケを払うのは、結局は子どもたち自身ということになるが、これもしかたのないことなのか。私たちが子どものために、よかれと思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようとしている。

(参考)

●日本の中高生は将来を悲観 

 「二一世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。日韓米仏四カ国の中高生を対象にした調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をしていることが明らかになった。現在の自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで生きること」。学校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か国で最低だった。

 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが二〇〇〇年七月、東京、ソウル、ニューヨーク、パリの中学二年生と高校二年生、計約三七〇〇人を対象に実施。「二一世紀は希望に満ちた社会になる」と答えたのは、米国で八五・七%、韓仏でも六割以上に達したが、日本は三三・八%と際立って低かった。自分への満足度では、米国では九割近くが「満足」と答えたが、日本は二三・一%。学校生活、友達関係、社会全体への満足度とも日本が四カ国中最低だった。

 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三二・四%)だった。

 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が二〇・二%だったのに対し、米国は七八・八%。「国のために貢献したい」でも、肯定は日本四〇・一%、米国七六・四%と米国の方が高かった。ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利益よりわが国の利益がもっと重要だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なことも浮かんだ。

 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。将来の夢や希望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。一九八〇年代からの傾向で、豊かになったことに伴ったのだろう」と分析している。

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民主主義は、積極的に守ってこそ、守れる。
また守らねばならない。

ついでながら一言。

社会の完成度は、いかに弱者にやさしい
かで、測定される。

弱者にやさしい社会を、完成度の
高い社会という。そうでない社会を、
低い社会という。

弱者を平気でふみにじるような社会は、
そも、私たちが求める社会ではない。
またそういう社会を、許してはいけない。

民主主義が何のためにあるかといえば、
私たちの高い理念を、そこに具現化する
ためである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 民主主義 超資本主義 supercapitalism 資本主義の限界)

Wednesday, January 23, 2008

*My G-son & Denise

denise & Sage.jpg

*A tyrant named "Commorade"

「同胞」という名の独裁者(A Tyarant named “Commrade”)

South Korea has supported a tyrant named “Kin xx”, not the people of North Korea themselves. Now South Korea is beginning to notice her own mistakes she made in the past.

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わかりやすく言えば、金大中、それにつづく
ノムヒョン大統領が支えてきたのは、Kxx
という独裁者。K国の国民ではない。

金大中もノムヒョンも、その区別もできな
かった。「同胞」「同胞」と叫びながら、その
同胞というのは、ほかならぬ、あの独裁者
だった。

おかしな左翼主義に毒され、方向音痴に
なってしまった。

このたびロンドンで、「第8回北朝鮮人権・
難民国際会議」が開催された(08年1月22日)。

その席で、元K国軍人であった、P氏は、
つぎのように発言している(朝鮮N報)。

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「10年以上韓国と世界から、北朝鮮の深刻な状況を改善するために、多くの支援を受けたが、住民の生活はほとんど変わっていない。コメを送っても最初に軍に送られるよう制度化されている」「北朝鮮住民は北朝鮮の体制が崩壊することを望みながら、涙を流して生活しているが、韓国政府が何も考えずに、北朝鮮当局にコメを送り住民を助けていると宣伝しているのを見ると、間違ったことをしているのではないかという思いがわく」と。

金大中もノムヒョンも、実におかしな
対北政策を繰りかえしてきた。どれも首を
かしげたくなるようなものばかり。
そしてその一方で、これまたおかしな
……というより、時代錯誤的な反日・反米
政策を繰りかえしてきた。

「南北戦争(朝鮮動乱)は、アメリカの
責任。さらに言えば、その元をつくったのは
日本」「だから、K国には責任はない」
「韓国やK国は、その犠牲者にすぎない」と。

日本と韓国が仲なおりすれば、これほど
すばらしいことはない。再び、日・米・韓
の絆(きずな)が太くなれば、さらにすば
らしい。

自由主義貿易圏のワクの中に自らを置きながら、
反日、反米を唱える異常さ。その異常さに、
韓国の人たちが、一日も早く気がつくことを
願う。

……ということもあって、私の「日韓
経済戦争」は、しばらく休んでいる。
もう少し、様子をみよう。

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*Wind-Powered ship

「凧」で進む船(Wind Power ship)

A German ship building company this time has constructed a kind of a wind power ship, with which fuel is saved 35~40%. The ship flys a giant kite in front of the ship. It is a very good idea, isn’t it?

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ドイツの貨物船が、巨大な凧(たこ)を
前方に付け、それでもって推力を得ている
という。

ドイツのベルーガ船舶会社が健造した船
(1万トン級)が、それ。

凧の大きさは、160平方メートル。
これによって、「風の状態によっては、
35~40%の燃料を節約できる」(東亜N
報、08・1・24)という。

35~40%といえば、大きい!

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 帆船とまではいかなくても、風力を利用した船は、いろいろ考えられる。半・帆船でもよい。追い風のときは、帆を広げて、それでもって、推力を得る。

 が、これほどまでに効果があったとは!

 今度、ドイツの船舶会社が作った船は、船の前部で、凧をあげる。その凧の大きさは、160平方メートル。(写真で見たところ、縦横40メートル、1600平方メートルのまちがいではないかと思うが……。しかし1600平方メートルも、ない?)

 凧であれば、帆船のように重心をさげる必要もない。帆船のばあい、ヨットもそうだが、重心をさげるために、船底に重しを置く。

 ナルホド! コロンブスの卵である。

 そこで私のアイディア。

 船の前方で、傘を広げるように、帆を張る。左右に張るとよい。まっすぐうしろからの追い風のときは、左右の帆の大きさを同じにする。風がななめうしろからくるときは、コンピュータじかけで、左右の帆の張り方を調整すればよい。

 そうすれば、もっと、燃料費を節約できるのではないか。

*A long way to be a pilot

long way to be ●今日・あれこれ(Jan. 24th  2008)

My son is coming to Napa, the Jal training center from this March. He is now at Haneda, receiving final schooling before that. He has been trainen for the last three years but another half a year he needs. It is a very long way to be a pilot.

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昨日、J社に入社した、息子からFAXが届いた。
1月からは、羽田で、座学を受けているという。
「座学」というのは、いわゆるスクーリングをいう。
それが終わると、3月から、アメリカのNで、大型機の
操縦訓練を受けることになっている。

パイロットの世界では、無数の資格試験に合格しなければ
ならない。その上、飛行機の機種ごとの免許証も必要。
すでに3年間も訓練を受けている。が、それが、さらにあと
1年半もつづく。

ワイフが、「アメリカのNって、どこ?」と聞いた。
私も知らない。

ヤフーで検索してみると、サンフランシスコ湾のすぐ北
ということがわかった。

緑に囲まれた静かな町らしい。ワインの産地としても
知られているらしい。イチローのホームベースのすぐ近く
といったほうが、わかりやすいかもしれない。

ところで、その息子が、今度、J社で、「社長表彰」なるものを
受けることになった。直接、社長から表彰されるという。
新入社員で社長表彰を受けるのは、J社、はじまって
以来のことだという。

またまた何かを、しでかしたらしい。

J社の社長も、たまたま浜松のK高校出身。息子と同じ
高校である。「夢みたいだ」と、息子は喜んでいた。

……いろいろつらいことはあるが、そんなわけで、昨夜
は、ワイフと2人で、息子の話に酔いしれた。

オーストラリアで息子の世話をしてくれたB君に、さっそく、
礼の手紙を書く。

毎週、息子を飛行場まで連れていってくれた。何でもはじめて
グライダーに乗った日には、「もう飛行機はやめた!」と、
息子が叫んでいたという。よほど目を回したらしい。

その日は、運悪く、天候の悪い日だったらしい。

Dear Bob,

I again thank you very much for your having done for my son, Eiichi. He joined JAL, a leading Japanese air-way company and he shifted from Narita to Haneda and he is being received the last schooling before he leaves for Pana, Cal, USA this coming March. By the way here is a good news. He is given the “Prize of Boss” directly from the boss and he will meet with the boss of the company soon. He was happy over the phone last night. He has been always the top through the hard trainings over three years in the past. You know why? Because you helped him while he was with you, for which Akiko and I thank you very much. When he rode a glider for the first time in your place, he had a very bad air-sick and he said, “I shall not be a piliot anymore.” Now he is finding his own way for happiness. I am sure he will be NO1 pilot in the near future.Here in Japan it is cold and it is blowing hard. In Tokyo and other places they had snow-falling, but not here in Hamamatsu. Last week I had a speech in Fuji-city where I could see beautiful Mt. Fuji. It is a pity that you were not there.

Hiroshi Hayashi

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 アメリカのNへ、行ってきた人がいるという。現在、外資系企業で働く人が書いた、旅行記である。

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Tuesday, January 22, 2008

*A pre-schoo; young boy refuses to go to Kindargarten

●掲示板の投稿相談より

(As to School refusal of pre-school children)
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保育園へ行きたがらない……。
そんなとき、親は、どう構えた
らよいのか?

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こんにちは。いつもマガジンを読んでいます。
3歳9ヶ月の長男について相談させてください。
1歳6ヶ月の弟と二人兄弟で、父親とは生まれた時から別居中、私の両親、妹と同居しています。

今年の4月に年少組に入園しました。クラスは17人(男8人女9人)です。

同じクラスにいるA君がかなりやんちゃというか乱暴な子で、ことばもきつく、叩いたり、つねったりということもよくあるようです。

特に私の長男にだけ、ということではないようですが、本人は「A君はどうしてすぐに怒るんだろう」などと言って、保育園に行きたがりません。

少人数なので、他の子と遊んでいればいいという問題でもないような気がします。
いっそ、転園をしたほうがいいのだろうかとも思います。それとも行きたくない間は、家で私が一緒に過ごしていればいいのでしょうか?

今日も、朝、「お母さんがいい」といって園の入り口で泣いてしまったのですが、先生に抱っこされて無理やり連れて行かれてしまいました。

そういう姿を見るのも本当に辛いです。なぜ、そんな風にしてまで保育園に行かせるのだろう、と。

なかなか朝、出発しようとしない長男をみて、私の両親は、「甘やかしてる」と思っているようです。

でも、本人が「行こう」と思えないのに無理に連れて行くのは、どうしてもかわいそうでできません。

もうすぐ夏休みの希望保育がはじまるので、8月は半分以上お休みです。そういう話をしながら、「今日は行ってこようか」と気持ちを奮い立たせているような毎日です。

できるだけ、彼が不安定にならないように、スキンシップも心がけているつもりですが、足りていないのかもしれません。

私の気持ちが不安定なことが、悪い影響を与えているかもしれません。

正直なところ、どうしていいのか分りません。

保育園など、行かなくてもいいという気持ちがあるのですが、
やはり同年代の子ども達と遊んだり、ケンカしたりすることも大切なことだと思うのですが。
(和歌山県T市 AEより)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの心の問題は、消去法で……

 「保育園(幼稚園)へ行きたがらない……」という子どもをみるときは、まず、(1)理由が、はっきりしているばあい。(2)理由が、はっきりしていないばあいに分けて、考えます。

 つぎに、同時に、もっとも心配なケースから、消去法で、一つずつ削りながら、子どもの心をさぐっていきます。これは病院のドクターが、その人の病気を診断する手法と似ています。つまり一番、心配なケースから順に、「これでなければ、これ」「これでなければこれ」……と、考えていきます。

 AEさんのケースでは、いろいろな理由が考えられます。心配な(1)ノケースから、順に並べてみると、つぎのようになります。

(1)不登校に準じた、恐怖症
(2)対人(集団)恐怖症
(3)怠学に準じた、不登園
(4)神経症
(5)母子分離不安
(6)軽い情緒不安
(7)怠け
(8)わがまま

 AEさんが疑問にもっておられるように、「毎日、行かせなければならない」と考えるほうが、おかしいのです。同感です。オーストラリアなどでは、子どもが少しずつ集団生活に慣れるように、たとえば、月水金だけ、あるいか火木土だけ通うというように、週3日制の幼稚園も珍しくありません。

 どうして日本だけ、いきなり、週5日も行かねばならないのでしょうか? 最初は、週1日だけ。2年目からは、週3日だけ。3年目からは、週5日……という方法も、とられてもよいのではないでしょうか。

 また、よく子どもが幼稚園などを休むと、先生から電話がかかってきて、「後(おく)ますから……」と言われますね。いやな言葉です。本当に、いやな言葉です。

 で、AEさんのばあいは、(1)~(8)から順に様子を判断していきます。(1)~(4)の状態ですと、ほかにも、心身症(神経症)による症状が、出ているはずです。夜尿、腹痛、潔癖症などなど。もしそういう症状も見られるなら、心の安静を大切にしてください。(私のHPのあちこちに書いてありますので、参考にしてください。)

 こういうケースでは、「A君がいやだ……」というのは、口実(ターゲット)にすぎませんから、あまりその言葉に振り回されないように! A君を排除すると、今度は、B君になります。

 私は、AEさんの家庭の状況から考えて、下の子どもが生まれたことが引き金となって、赤ちゃんがえりから情緒が不安定になり、そのあと、(5)の母子分離不安が起きたのではないかと疑います。(母親から離れてしまい、そのあと、何ごともなく過ごすようであれば、母子分離不安と考えてよいのではないでしょうか。)もしそうであれば、言うまでもなく、スキンシップを濃厚にして、安定的な愛情を大切にします。

 対処のし方としては、『求めてきたときが与え時』と考えて、「ママ~」と甘えてきたら、すかさず、抱いてあげるとか、ぐいと手をつないであげるとかしてあげます。すかさずするのが、コツです。「待っていてね」とか、「今は、ダメ」式の応じ方をしてはいけません。

 転園を考える前に、まず、「適当に行く」ということを考えてください。週3日行けば、上(じょう)できと考えるようにします。残りの日は、いっしょにハイキングでもして、すごします。無理をしないこと。(私なら、そうします。また実際、そうしました。)

 保育園へ行かなくてもよい状態かもしれませんが、しかし母子だけで親子のパイプを作ってしまうのも、好ましくありません。母子関係を調整する人がいればいいですが、そうでないと、濃密になりすぎてしまいます。

 母親側としては、それでよいかもしれませんが、子どものほうに、いろいろと問題が起きてきます。幸いにも、ご両親と同居ということですから、そのあたりの調整をうまくしてください。

 年齢的にも微妙なときですから、無理をせず、様子を見られてはどうでしょうか。もうすぐ夏休みですし、これから半年くらいの間に、子どもも、どんどんと変わっていきます。とくに4・5歳~からは、いよいよ少年期への移行期に入ります。

 今のうちに、よく使い、よく手伝いをさせ、社会性を身につけさせてあげてください。5歳をすぎると、それができなくなります。今は、(しつけ)の適齢期とみてください。

 いつも、励ましのメール、ありがとうございます。AEさんの相談には、いつも最優先で、返事を書きます。(これは恩着せ!+お礼!)

【追記】

 A君のことは、まず、先生に相談してみてください。先生との連絡を密にすることが、重要です。

 あとは、子ども自身の解決法に任せます。これから先、この種の問題は、モグラたたきのモグラのように起きてきます。

 大切なことは、問題そのものよりも、問題を解決するための、プロセスを子どもの中に作っておくことです。技法といってもよいかもしれません。

 親としてはつらいところですが、がまん、がまん。そして先生に、相談、です。AEさんと、お子さんの会話は、すばらしいです。今のやり方を支持します。

 A君を叱るのではなく、何か、A君の好きそうなものを、お子さんにもたせ、A君に与えてみてはどうでしょうか。あるいは、家へ招待してあげるとか。A君には、悪いことをしているという意識はありません。ですからA君を責めても、この時期、意味はありません。

 押してだめなら、引いてみます。これは幼児指導の鉄則の一つです。

*Jan.23rd 2008

●今朝・あれこれ(1月23日)

Jan 23rd 2008

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今朝は、小雨。シトシトと、冷たい
雨が降っている。

カーテンが閉まっているので、外の
様子はわからない。もうすぐ7時だ
というのに、まだ薄暗い感じ。

この雨が終わると、暖かくなるのか。
それとも、またまた寒くなるのか。

ここ数日、寒い日がつづいている。

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●画像編集

 起きたら、まずメールを読む。つぎにニュースを読む。今朝は、メインのHPの写真を入れ替えた。この前の日曜日に、画像編集ソフトを買ってきた。今は、それにハマっている。

 「ぼくにもできるかなあ……?」という不安はあったが、やりだしてみると、意外と簡単。あちこちの写真を集めて、切り抜いて張りつける。ボカを入れたり、油絵風にしてみる。写真そのものを立体化する。

 これが結構、楽しい。昨夜も風呂から出て、1時間ほど、没頭した。おかげで、今朝は、どこか風邪気味。軽い頭痛。


●株価暴落

 この1週間、株価は暴落につづく、暴落。今朝のニュースを読むと、アメリカは、0・75%の利下げを発表した。簡単に言えば、お金をバラまくということ。数日前、16兆円規模の、日本で言う、緊急の経済対策を講じた。しかし常識で考えても、そんなのは、焼け石に水。

 日本のバブル経済が崩壊したときには、日本政府は、30兆円以上もの緊急の経済対策を講じた。毎日新聞は、つぎのように伝える(1月18日版)。

「米政府が18日に発表した緊急経済対策は、米国の国内総生産(GDP)の1%にあたる1500億ドル(約16兆円)という大規模なものだったが、実施時期や内容に具体性が欠けていたことなどから、市場に失望感を与えた」と。

 今、経済の世界では、たいへんなことが起きているようだ。地震で言えば、震度7とか、8とかの激震が起きた。その上、余震につづく余震。今はまだ、みな、あたふたとしているときだから、その被害の実態は見えてこない。しかしそのうち、それが見えてくるはず。

 停滞とか、沈滞とか、その程度ですめば、まだよいほう。へたをすれば、会社の連鎖倒産という形で、私やあなたの生活を直撃するかもしれない。いや、すでに株投資、外債投資で、財産を失った人も多いはず。

 「バクチ(=株取引)は、小遣いの範囲ですること」……というのが、私のモットー。実は、私も、かなりの損をしている。ハハハ。さがった株は、しばらく塩漬け。こういうのを、私は、「冬眠」と呼んでいる。

 
●ニューズウィーク誌・正月Special版を読む

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今ごろ、正月号?、と思う人も
いるかもしれない。

しかし、今、やっと、私のところに
戻ってきた。

買ったのは年末だったが、そのあと、
ワイフに取られてしまった。

で、今。

ニューズウィーク誌、1月2/9日号。

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 研究者にとって、何を研究するかは、大きなカケ。メルボルン大学にいたころ、田丸謙二先生は、こう言った。

 「触媒の力で、水を酸素と水素に分離できれば、無尽蔵のエネルギーを人間は、手に入れることができます」と。

 田丸先生は、その研究をしていた。

 が、それから10年ほどたって、田丸先生の自宅を訪ねると、田丸先生は、こう言った。「コンピュータと遺伝子工学が、こうまで進むとは思ってもみませんでした」と。どこか、残念そうだった。

 しかし、だ。今、その触媒(正確には、「触媒工学」という)が、脚光を浴びている。昨年会ったとき、田丸先生に、「その後、触媒による水と酸素の分離はどうなりましたか?」と聞くと、田丸先生は、こう言った。

 「R研でも、20人ほどのチームを作って、結構いいところまできていますよ」と。言い忘れたが、田丸先生は、国際触媒学会の前会長でもある。

 で、その遺伝子工学。さらに先へと進もうとしている。ニューズウィーク誌は、「ポスト・ゲノム最先端を行く」(P34)と題して、それを報じている。

 ケンブリッジにあるサンガー研究所では、昨年の夏、30億対もあるとされる塩基配列のうち、1%に当たる、3万対の配列の機能解明に成功したという。

 素人にはわかりにくい話だが、つまりは、人間の設計図を手に入れつつあるということ。その設計図さえ手に入れば、どんな病気も、その設計図を作りかえることで、治すことができる。「糖尿病やアルツハイマー病、さらにはがんまで」と。

 ついでに、ニューズウィーク誌には書いてないが、寿命さえも、いじることができるようになるかもしれない。

 考えてみれば、これは恐ろしいことでもある。(いいのかなあ?) この記事を読んでいて、興味深かったのは、つぎの点である。

 「ジャンク(ガラクタ)と呼ばれ、存在意義が軽視されてきた数多くのDNAが、実は重要な役割を担ってきているらしいこともわかってきた」と。

 私は以前、似たような記事を読んだことがある。

 脳の中には、「辺縁系」と呼ばれる部分がある。その辺縁系について、私たちは学生のころ、「辺縁系は、原始脳で、今は働きはありません」などと教わった。しかし、だ。これがとんでもないまちがいであった。

 人間の記憶(海馬)や、やる気(帯状回)、それに感情判断(扁桃核)などは、この辺縁系が担っている。原始脳どころか、(人間)が(人間)である、中枢部分が、ここにあることがわかってきた。

 DNAの中にも、無駄なものはない、ということらしい。

 で、研究するにも、時代の流れというものがある。その(流れ)を読みまちがえると、無駄な研究で終わってしまう。

 そうそうその田丸先生だが、6年前に、「フェムト秒」の話をしてくれた。今では、フェムト秒単位での、化学反応を、実際に観察できるようになったそうだ。そのとき書いた原稿を添付する。この世界は、ほんとうに、おもしろい。なおこの中で、「ある科学者」というのは、田丸先生をいう。

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●フェムト秒

 ある科学の研究者から、こんなメールが届いた(02年9月)。いわく……

「今週は、(今日ですと先週と言うのでしょうか)、葉山の山の上にある国際村センターで、日独のジョイントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受けたノーベル賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 今は固体表面に吸着した分子1個1個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起こさせたり、フェムト秒単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)で、その挙動を追っかけたり、大変な技術が発達してきました」(TK先生)と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フェムト秒単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚いた。

ただ、(1)の分子を見ることについては、もう20年前から技術的に可能という話は聞いていたので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト秒単位の観察」というのには驚いた。

わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍して、やっと1秒になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒ということになる。さらに反対に言えば、1000兆秒というのは、この地球上の3100万年分に相当する。計算するだけでも、わけがわからなくなるが、1フェムト秒というのは、そういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が観察できる時間ではない。

しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か?」という問題を、考えざるをえなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生きることができたら、そのたったの1秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

++++++++++++++

 このフェムト秒の考えには、私に大きな影響を与えた。時間の観念そのものを変えてしまった。

 たとえば私たちが「1秒」という時間にしても、それは人間である私たちが使う時間に過ぎない。その1秒を、ひょっとしたら、3100万年にして生きている生物というか、宇宙が、どこかにあるかもしれない。

 「宇宙」といっても、私たちが住む、この大宇宙ではない。ホーキング博士がいうところの、別宇宙をいう。そこにも、ここにもある、バブルのような宇宙をいう。

 (反対に、人間がいうところの3100万年を、1秒にして生きている生物というか、宇宙が、どこかにあるかもしれない。)

 つまり1秒といっても、生き方によって、1年分にもなるし、10年分にもなるということ。ダラダラと長生きをすれば、それでよいということでもない。大切なのは、時間の中身ということになる。

 田丸先生、ありがとう!


●山荘の化粧直し

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山荘の化粧直しが、今日、終わる。
この前の日曜日に作業を見てきたが、
あの山荘が、新築同様に、ピカピカに
なっていた。

うれしかった。と、同時に、ムラムラと
また、あの愛着がわいてきた。

土地作りに、6年。建築以外のほとんどの
作業は、私とワイフが、した。

毎週、ユンボを借りてきて、土地を
ならした。ダンプも借りてきて、ジャリを
敷いた。石組みも、した。道路も、舗装した。

水道管、排水管工事も、自分たちでした。

が、13年目。

実は、そろそろ、あきてきた。
使うとしても、週に1回程度。

で、今回の化粧直し。
外壁全体に、フェルト状のペンキを塗り、
その上に、シリコン樹脂を塗ってもらった。

「新築のときのようになった」と、ワイフは
大喜び。それを見て、私の顔もゆるんだ。

とたん、先に書いた、あの愛着。

「だれかに売ろうという話は、しばらく、
お預け」と、私。

「そうね。もっと使わなくちゃ」と、ワイフ。

そう、このところ、山荘を売ることばかり
考えていた。

まだまだ人生は、ナガ~イ。

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Monday, January 21, 2008

*The Child is Father of the Man

●The Child is Father of the Man

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My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :So was it when my life began,So is it now I am a man,So be it when I shall grow oldOr let me die !The Child is Father of the Man :And I could wish my days to beBound each to each by natural piety.

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●子どもは、人の父

イギリスの詩人ワーズワース(1770~1850)は、次のように歌っている。

  空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくは、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

 訳は私がつけたが、問題は、「子どもは人の父」という部分の訳である。原文では、「The Child is Father of the Man. 」となっている。

この中の「Man」の訳に、私は悩んだ。

ここではほかの訳者と同じように「人」と訳したが、どうもニュアンスが合わない。詩の流れからすると、「その人の人格」ということか。つまり私は、「その人の人格は、子ども時代に形成される」と解釈したが、これには二つの意味が含まれる。

一つは、その人の人格は子ども時代に形成されるから注意せよという意味。もう一つは、人はいくらおとなになっても、その心は結局は、子ども時代に戻るという意味。

誤解があるといけないので、はっきりと言っておくが、子どもは確かに未経験で未熟だが、決して、幼稚ではない。子どもの世界は、おとなが考えているより、はるかに広く、純粋で、豊かである。しかも美しい。

人はおとなになるにつれて、それを忘れ、そして醜くなっていく。知識や経験という雑音の中で、俗化し、自分を見失っていく。私を幼児教育のとりこにした事件に、こんな事件がある。

 ある日、園児に絵をかかせていたときのことである。一人の子ども(年中男児)が、とてもていねいに絵をかいてくれた。そこで私は、その絵に大きな花丸をかき、その横に、「ごくろうさん」と書き添えた。

が、何を思ったか、その子どもはそれを見て、クックッと泣き始めたのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。そこで「どうして泣くのかな?」と聞きなおすと、その子どもは涙をふきながら、こう話してくれた。「ぼく、ごくろうっていう名前じゃ、ない。たくろう、ってんだ」と。

 もし人が子ども時代の心を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。もし人が子ども時代の笑いや涙を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。ワーズワースは子どものころ、空にかかる虹を見て感動した。そしてその同じ虹を見て、子どものころの感動が胸に再びわきおこってくるのを感じた。そこでこう言った。

「子どもは人の父」と。

私はこの一言に、ワーズワースの、そして幼児教育の心のすべてが、凝縮されているように思う。
(040220)

Sunday, January 20, 2008

*Principles of Japan

●建前論(Principle Argument)

In Japan principles are more important than the real life. Sometimes it sounds ridiculous.

 香港出身の国際的俳優のJが、こんなことをどこかのパソコン雑誌に書いていた。何でも東京の歌舞伎町で、ロケをしようとしたときのこと。地域の警察の許可がもらえず、結局は、撮影を断念したというのだ。

 Jは、こんなふうに述べている。

 「通り沿いの歓楽街では、売春が堂々となされているのに、路上での撮影は許可されない」と。

 つまり「日本の建前論には、あきれた!」と。

 同じことが、YOU TUBEについても、言える。

 現在私は、HP上で、「音楽と私」というコーナーをもうけている。今、はやりの(YOU TUBE 共有サイト)のひとつである。

 YOU TUBEで公開されている、音楽や映像を、私好みで一覧できるようにした。ところが、である。

 日本の歌や映像は、しばらくすると、どんどんと削除されていく。テレビ映像を撮影したものは、ダメ。歌も、ダメ。音楽も、ダメ……ということらしい。とくにNHKで放送されたようなものは、あっという間に削除されていく。「利用規約に違反しているため、この動画は削除されました」という文字とともに……。

 日本のどこかで、だれかが監視しているためらしい。そのつど、YOU TUBEに抗議するためらしい。最近では、吉永さゆりの「寒い朝」(NHK版)まで削除された。少し前は、「喜びも悲しみも、幾年月」まで削除された。どれも古い映像で、ざらざらした感じのものだった。(商品価値はないと思うのだが……。)

 おかげで私は、毎週のように、「音楽と私」コーナーを、更新しつづけている。が、これにも、うんざり。このところ、日本の歌や映像は、できるだけ避けるようにしている。

 しかしその一方で、国際的な歌手やグループの、歌や音楽は、そのまま。映画の映像も、そのまま。ビートルズの曲などは、ほぼ全曲、自由に楽しむことができる。映画「タイタニック」の名場面も、自由に楽しむことができる。音声も、クリア。もちろん映像つき!

 もちろん著作権の問題もあるだろう。映像所有権の問題もあるだろう。しかし建前論ばかり口にしていても、それが国際的な標準とかけ離れていたら、意味はない。ないばかりか、かえって日本だけが、のけものにされてしまう。

 悪いことばかりではない。

 YOU TUBEで聞いたあと、その歌手のCDを買い求めるということもある。(私は、いつもYOU TUBEを見てから、CDを買いに行くぞ!) 過去をなつかしむということもある。テレビ局の奧の奧で、死蔵されるままになるくらいなら、思い切って公開したらよいのではないか。公開が無理なら、もう少し、大目に見てもよいのではないのか。

 YOU TUBEといっても、映像もそれほどよくない。音声もモノラル。この先のことはわからないが、今のところ、限界がある。それほどカリカリすることでもないのではないかと、私は思うのだが……。

 ホント! 私という日本人ですら、日本の「建前論」には、あきれている。

*A Home-less Man (Part2) *The future of japan

*●ホームレスの男(2)(A home-less Man -2)

In Japan we have memorial parties periodically after someone’s death, spending a lot of money for foods and drinks as well as money for the temple priest. But what is that for? The more important thing is that we are here and we are alive here. The man is, too. He is there and he is alive. Both of us are equally fighting against “loneliness”. Nothing is different between us.

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昨夜(1月20日)、ホームレスの
男について書いた。そのあと、ワイフと
こんな会話をした。

「ほら、日本では、供養というと、死んだ
人に対してするだろ。ぼくは、今、生きている
人を、もっと大切にしたらいいと思う。

みんなで飲み食いして、お寺にお金を出すくらい
なら、今、ああして寒空で震えている人を
助けてやったらいい。

そのほうが、よっぽど、供養になる。

あの男、ぼくの死んだおやじにそっくりだろ。
年齢も同じくらいだ。

ぼくのおやじは、お金にも、健康にも
恵まれなかった。死んだときは、家族の
だれにも愛されていなかった。

酒を飲んで、無茶ばかりしていたからね。

でも悪かったのは、おやじではない。
酒だよ。さらにその先を言えば、戦争だよ。

おやじだって、戦争の犠牲者だった。
酒に溺れるようになったのは、今で言う
PTSDだったと思う。

その結果、家族の心は、バラバラになってしまった。
そんなこともあって、死んだときのおやじは、
孤独だったと思う。

今になってみると、それがよくわかる。
あの男を見ていると、死んだ、おやじが
思い浮かぶ。

みんな、必死になって、孤独と戦っている。
ぼくのおやじも、戦った。今のぼくもね。

ぼくは、ああいう男を見ると、放っておけないよ」

それに答えてワイフがこう言った。

「私たちは、どうせ死ねば、この世から消えるのよね」

「そう、これから先、30年生きる人も、10年生きる
人も、同じ。長い、短いといっても、この宇宙の
大きさと比べたら、誤差のようなもの。

大切なことは、今、ここに生きているという実感を
大切にしながら、懸命に生きること」

「じゃあ、あの男の人は、どうなの?」

「ぼくたちと、どこもちがわないよ。ただ、ほんの
少しだけ、歯車が狂った。狂ったまま、あの男は、
今のような男になった。

ぼくたちだって、明日のことはわからない。
ぼくから見れば、あの男は、明日のぼくという
ことになる。

あの男から見れば、ぼくたちは、明日のオレという
ことになる。

大切なのは、ぼくたちはみな、同じ人間ということ。
その一体感だと思う。

この一体感をなくしたら、人間の心はバラバラに
なってしまう。

もしそうなったら、そのときこそ、ほんとうに、
人間はおしまい」と。

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●日本の未来(The future of Japan)

The center of the economy is being put together in New York, London and Hong-Kong, but not in Tokyo. Too much regulations and ristrictions obstructed the development of Japan. But don’t worry.

かつて私たちは、インドや中国の貧しさに驚いた。
同じころ、アメリカ人たちは、日本の貧しさに
驚いていたにちがいない。

しかし今、その立場が、逆転しようとしている。

今すぐというわけではないだろうが、アメリカの
崩壊は、ますます現実味を帯びてきている。
日本も、やがて、インドや中国の経済圏にのみ込まれて
いくだろう。

現在、世界の経済の中心地は、ニューヨーク、ロンドン、
そして香港に集約されつつある。東京ではない。

もし東京に可能性があるとしても、シンガポールのつぎ。
たいした規制緩和(行政改革)もせず、モタモタして
いるうちに、こうなってしまった。

はっきり言えば、東京に、未来は、もうない。
つまり日本の繁栄も、ここまで。

この話をすると、ワイフがこう言った。

「私たちはいいけど、これからの子どもたちが、かわい
そうね」と。

しかし心配は無用。

これからは日本人も、「日本人」というワクにこだわら
ないで、世界へ出て行けばよい。

なぜ、ニューヨークやロンドン、それに香港が、
世界の経済の中心地になりつつあるかといえば、
理由は、簡単。

多民族が入り混ざり、外国人にも住みやすい環境を
用意しているから。すでに多くの日本人も、これらの
都市で、活躍している。

経済のグローバル化はますます進む。と、同時に、
「国」という垣根は、ますます低くなる。

相手の国の貧しさを見ながら、「勝った」「負けた」
と言いあう時代は、あと30~50年のうちには、
終わる。

東京がだめなら、香港がある。ニューヨークがある。
ロンドンがある。

すでにそういう時代が、そこまで来ている。

タイム誌(1月17日)は、つぎのように書いて
いる。

「19世紀と20世紀が、それぞれ帝国主義と
戦争の時代だとすれば、21世紀は金融の時代
とし、これら3都市が世界的な金融網を構築し、
世界経済に活力を吹き入れている。

それぞれ米国、欧州、アジアにある3都市は、
いずれも港であり、貿易が発達し、主要産業が
製造業から、サービス業にすでに転換されている。

とくに、世界各地から集まってきた移民が多い
という共通点ももっている。06年現在、
ニューヨークとロンドンの移民はそれぞれ
34%、31%に達し、香港は外国籍の中国人、
すなわち華僑が最も多い都市だ」。

「交通が便利で通信が発達しており、開放的で
自由な経済文化を持っているという点が、
これら3都市をグローバル化の模範、
金融都市としての成長を可能にした」と。

「3都市は、毎週数10~数100便の相互直航便と、
よく発達したインターネット通信網で結ばれている。

3都市はまた、HSBCシティーグループ、
ゴールドマン・サックス、JPモルガンなど
国際的金融機関の本社や地域本部を誘致し、
年間400億~540億ドルの企業公開(IPO)
を誘致している」(東亜N報紙より抜粋)とも。

ついでながら一言。この1、2年、日本からの
外資の逃避がつづいている。

「あと50年で、日本の円は、世界市場から
消えるだろう」という予測も、なされ始めて
いる。

*A Home-less man *Graphic Software

●ホームレスの男(A Home-less Man)

There are some home-less people around my house. They live near Sanaru Lake and sometimes come to the streets. It is my habbit to give them some money when I happen to see them on the streets. But don’t give it without exchanging some conversations. In my case it is also my habbit to talk to them like this; “Hi, did you have your dinner?” or “It’s very cold, isn’t it?”. When they talk back to us, then I say, “Have a eat with this money” or “Have something warm with this money”. They have their own diginity with pride. Don’t have a kind of superiority in ourselves. They are the same people as we are. Nothing is different from us.

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佐鳴湖の周辺には、10人前後のホームレスの男
たちが住んでいる。その中の1人。

年齢は、70歳くらいか。
やせて、細い顔をしている。
風呂にも、長い間、入っていないにちがいない。
差し出す手は、いつも、すすけたように黒い。

ワイフは、こう聞いた。
「どうして、お金をあげるの?」と。
私は、すかさず、こう答えた。

「あの男、ほら、ぼくのおやじに、
似ているだろ……」と。

こういうホームレスの人たちに、小遣いを
渡すときには、ひとつのコツがある。

けっして、いきなり、お金を渡してはいけない。
まず、話しかける。

「おじさん、メシは食べたのか?」とか、
「寒いと、たいへんだね」とか、など。

相手が、「食べていない」とか、「寒い」とか
答えたら、お金を差し出す。差し出しながら、
こう言う。「これで何かを食べなよ」とか、
「暖かいものを食べなよ」とか。

それにもうひとつ、コツがある。

けっして、見返りを期待しない。
相手が喜んでいるだろうとも思わない。
お金を渡したら、その人のことは、
サッと忘れる。

が、何よりも大切なことは、けっして
優越感をもたないということ。つまり、
「いいことをした」などとは、
ぜったいに、思ってはいけないということ。

理由が、ある。

そういう人はそういう人なりに、自尊心を
もっている。
そういう人はそういう人なりに、心が
キズついている。

(それに、そういうことをしたからといって、
いいことをしたということにはならない。)

たまたま今夜も、その男に会った。
小雨を避けながら、DVDショップの前で、
小さく体を丸めていた。

いつものように、「これで何かを食べなよ」と言って、
1000円札を差し出すと、「ありがと」と
言って、手の中で、それを握った。

私「こういう言い方は好きではないが、
勝者も敗者も、紙一重。どこもちがわない。
ほんの少しリズムが狂っただけで、勝者は、
敗者になる。ぼくたちだって、明日のことは
わからない」
ワ「そうね……」
私「地球全体がおかしくなって、すべての
生物が死滅するかもしれないというときに、
勝者も敗者もないだろ……」
ワ「そうね……」と。

私は、先日、「EARTH(アース)」という
映画を見た。そのときから、少し人生観が変
わったように思う。

私はその映画を見ながら、それまでに経験
したことのない涙をこぼした。
美しい、どこまでも美しい自然の景色を
見ながら、涙をこぼした。

それは静かな涙だった。

ワ「ああいう人は、病気になったら、どう
なるのかしら?」
私「それでおしまいだろうね」
ワ「かわいそうね……」
私「かわいそう? ……とんでもない。
今のぼくたちよりは、しっかりと真実を
つかんでいるのかもしれない」

ワ「……」
私「ダラダラと長生きするからといって、
幸福とはかぎらない。またそんな人生に、
あまり意味はない。まあ、できれば、お金を
あげるよりは、食べ物をあげるほうがいいけ
どね」と。

そしてこれまたいつものように、その男の
ことは、すぐ忘れた。

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●写真の加工に挑戦

 今日は、写真の加工に挑戦してみた。使ったソフトは、S社から発売されている、「Paintgraphic―2」。「draw」とセットで、3000円弱だった。

 前から、一度はしてみたいと考えていた。2枚の写真を合成したり、あるいは背景だけ、油絵風にしてみたり、とか。

 が、やってみると、意外と簡単にできた。さっそく、その写真で、私のHPのトップページを飾ってみた。(興味のある人は、ぜひ、見てほしい。私の処女作ということなる。)

 写真を加工することによって、平らべったい写真に、奥行きができる。しばし自分の作品(?)に見とれる。うれしかった。楽しかった。

Thursday, January 17, 2008

*What is the Freedom? *To criticise parents

●自由とは……(What is the Freedom?)

Freedom means to liberate yourself from physical as well as mental burdons which bind you to the ground. But then what is Freedom? To be free means to live knowing yourself. I am here. I am living my life. I know what I am.

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「自由」というのは、「自らに由る」という
意味である。
しかし自由というのは、それだけではない。

私は私でありたい。
私は私らしく生きたい。
私はここにいると、それを実感したい。
私は、自分の人生を生きたという実感をもちたい。

それを「自由」という。

しかしその「自由」には、限界がある。
「死」という限界である。

その限界を、どう乗り越えるか。
私たちは、死ぬことで、すべてを奪われる。
すべてを失う。
いくら「私は自由だ」と叫んだところで、
その限界を乗り越えることができない。

それが実は、自由との戦いということになる。

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●親の悪口(To criticize our own parents)

In Japan it is rather a kind of taboo to criricise or sometimes deny our own parents. They openly say parents should be respected withour any reasons. But it is true that under this social common sense some people are suffering from the burdons, so-called social burdons. I used to be one of them.

この日本では、親を批判したり、悪口は
ともかくも、中傷したり、さらに否定したり
することは、タブー視されている。

親をたたえる歌は多いが、その分だけ、
そうでない親をもった子どもの苦悩も
また大きい。

その苦悩の中で、悶絶している人も少なくない。
心理学的に言えば、家族自我群の中で、
幻惑に苦しむということになる。

とくに親子の関係は、本能に近い部分にまで
刷り込みがなされている。
その幻惑から逃れることは、容易なことではない。

では、私はどうか?

父親は、2、3日おきに酒を飲んできては、
家の中で暴れた。

母親にしても、長男が誕生した日に、私の
家にやってきて、あり金すべてもって、
帰っていった。

当時のお金で、24万円だった。

「家」といっても、そのとき、私たち夫婦は、
4畳と6畳の2部屋だけのアパートに住んで
いた。

しかしだからといって、今、私は、父親を
うらんだり、母親をうらんだりしているわけ
ではない。

私の父は、台湾で、貫通銃創といって、アメリカ軍の
銃弾を2発受けている。
今で言うPTSDではなかったか。

母にしても、戦後のあの時代を懸命に生きた。
収入がとぼしい中、懸命に、「家」を支えた。
まだあの時代は、そういう時代だった。

今になって、そういう父や母が、理解できる
ようになった。

しかし同時に、私に残した後遺症は大きい。
私にしても、いまだに、その後遺症に苦しんで
いる。

それについては、また別の機会に書くことにするが、
ともかくも、私たちは、もっともっと自由に
生きてもよいのではないのか。

正直に、声を出して、言いたいことは言えばよい。
言うことによって、自分の心を解放させることが
できる。

親についても、同じ。

しかし同時に、これだけは覚えておくとよい。
もしあなたが、子どもの批判に耐えうるような
親であれば、それはそれでよし。

そうでなければ、結局は、さみしい思いをするのは、
あなた自身ということになる。

こわいぞ~、親であるということは!

Wednesday, January 16, 2008

*Mega Tuesday is coming on Feb. 5th in USA!

●メガ・チューズディー(Mega Tuesday)

Feb. 5th is coming soon when which one of them would de decided to be the next President of USA, between Barack Obama and Hilary R. Clinton.

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アメリカ史上初の、黒人大統領が生まれるか。
それとも、アメリカ史上初の、女性大統領が
生まれるか。

その結果が、まもなくわかる。

2月5日、火曜日!

この日、アメリカの20州以上の予備選挙
が集中する。
このマガジンが発行されるころには、
その勝敗が決していることと思う。

もし、Barack Obama氏が勝てば、
アメリカ史上初の、黒人大統領誕生と
いうことになる。

もし、Hillary R. Clinton氏が勝てば、
アメリカ史上初の、女性大統領誕生と
いうことになる。

では、ブッシュ現大統領が率いる共和党
はどうかというと、今回の大統領選挙では、
お呼びではない。

ブッシュ大統領の支持率は、20%台。
06年11月の予備選挙では、民主党が
圧勝。上院、下院ともに、民主党が多数党
となっている。

この流れは、もう変わらない。つまり
Obama氏が勝つか、Clinton氏が勝つか、
それで次期大統領が決まる。

が、Clinton氏についてはよく知っているが、
Obama氏についての情報は、ほとんどない。

父親はケニア人。母親は白人。1961年
生まれ。弁護士。2004年、上院議員に当選。

報道によれば、今のところ、互角だという。

こういう言い方は不適切かもしれないが、
日本にとっては、Obama氏のほうが、好ましい
かもしれない。

若い分だけ、思考に柔軟性がある。
一方、Clinton氏は、NK問題についても、
かねてより、「米朝平和条約を結ぶ」と公言して
いる。

もしそうなれば、日本は、アメリカという後ろ盾
を失うことになる。(すでに、失ったも同然の
状態だが……。)

悲しいかな、今の日本には、NK国や、韓国、
それに中国と、対等に渡り合えるような外交能力はない。
拉致問題ひとつみても、それがわかる。

たぶんObama氏も、同じような路線を打ち出して
くるだろうが……。

しかし現在のライス国務長官をみてもわかるように、
黒人だから、黄色人種の私たちに好意的と考えるのは、
早計である。

人種問題、その底流を支える人種意識は、私たちが
考えているほど、単純なものではない。

*Yeyasu Cultural Sphere vs Hideyosshi Cultural Sphere *World Economic Depression

●家康文化圏vs秀吉文化圏(Yeyasu Sphere vs Hideyoshi Sphere)

Japan is roughly devided into two big cultural spheres, one is “Yeyasu Sphere” and another one is “Hideyosi Sphere”. For example in this Hamamatsu-city which belongs to Yeyasu Sphere, we never deal the prices or we buy and sell at the fixed prices. But in Gifu, which is away from Hamamatsu-city only two-hour-drive by car, they always deal the prices. This difference occurs depending on which Sphere we belong to. This simply means Yeyasu must have been a very honest man and on the contrary Hideyosi was not.

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私が浜松へ来て、いちばん驚いたこと。
それは、浜松の人たちが、モノを買うとき、
値段を、値切らないこと。

すべて定価どおり。これを私が生まれ育った
岐阜のほうでは、「正札(しょうふだ)どおり」
という。

私は、当初、この(ばか正直さ)(失礼!)に
驚いた。

ワイフともよく口論した。「どうして値切らないのか?」と。

一方、岐阜のほうでは、値切るのが当たり前。
1000円のモノを、1000円で買う人はいない。
「800円でどう?」とか、ばあいによっては、
「いくらになる?」(=いくら、安くしてもらえるか)
とか聞く。

あるいは駆け引きをする。

1個1000円であれば、「2個で、1500円でどう?」と
声をかける。
売り手がしぶっていたら、すかさず、「じゃあ、3個で、2000円」
と、切り返す。

同じ日本でありながら、しかも、距離は、それほど離れていない。
今では、車で、2時間足らずで行き来できる。

なぜか? どうしてこうまで、ちがうのか?

私はこれを、「家康文化圏」と、「秀吉文化圏」のちがいと、
判断している。

家康という人は、実直な人だったらしい。
一方、秀吉という人は、小ズルイ人だったらしい。

その逆と考えてもよい。

つまり家康は、こういう風土の中で生まれ育ったので、
実直な人になった。

一方、秀吉という人は、ああいう風土の中で生まれ育ったので、
ああいう人になった。
「ああいう人」というのは、ああいう人をいう。

(これ以上書くと、関西の人たちに袋田叩きにあうので、
ここでは書けない。)

岐阜という地方は、名古屋文化圏の中にありながら、
実際には、大阪文化圏に属する。

一方、この浜松という地方は、名古屋文化圏のほうが
近いにもかかわらず、東京文化圏に属する。

では、織田信長が生まれた名古屋文化圏は、どうか。

しかし織田信長という人は、信長文化圏という
文化圏をつくるほどの力はなかった。
やることなすこと、どこかメチャメチャ。
「文化圏」を作るには、それなりの人物でなければ
ならない。

はっきり言えば、織田信長には、その力はなかった。
信長は、パツと咲いて、パッと散った。
だから、どこか、中途半端。

家康文化圏でもないし、秀吉文化圏でもない。
最近でこそ、TOYOTAの力で、勢いを増しているが、
それ以前はというと、「文化のない町」、それが
名古屋だった。

……というような、あまり意味のないことを、
今朝は考えている。

社会学的には興味深いが、しかしこの程度のことなら、
もうどこかのだれかが調べているにちがいない。

だからこの話は、ここまで。

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●世界恐慌(World Economic Depression)

Stock prices have been falling down these few days. Is this the beginning of the end of USA? Whenever I go to USA, I am surprised to see big houses, or so-called mansions which we can seldom see in Japan. I just wondered why American can enjoy such a high standard of life though the evarage working hours are much less than those of Japanese. Sub-prime issue, which is now the biggest economic problems, is the result.

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世界恐慌が、ますます現実味を帯びてきた。
株価は、連日、棒下げに近い状態になっている。
しかしこうなることは、わかっていた。

私は、すでに2000年ごろ、こう書いていた。
「アメリカ経済があぶない」と。

そしてアメリカへ行くたびに、ワイフに
こう言った。

「こんなバカな生活ができるほうが、
おかしい」「毎月30万円しか稼げない人が、
60万円の生活をしている」と。

アメリカ人の労働時間は、日本人のそれより
はるかに短い。その短いアメリカ人たちが、
日本人には考えられないほど、大きく、
立派な家に住んでいる。

日本ではめったに見ない大豪邸が、
場所によっては、ズラズラと並んでいる。

しかも、だ。どの部屋も、煌々(こうこう)と、
明かりがついている。家、丸ごとの冷暖房にしても、
アメリカでは常識。

(日本人のようにチマチマとした冷暖房など、
していないぞ!)

「どうしてあんな生活ができるのか?」、
……という疑問が、こんどのサブプライム問題と
直結している。

つまりその分だけ、この問題の根は深く、大きい。

で、アメリカ政府は、3兆円(日本円で換算)とか、
10兆円とかいう、日本で言う「財政緊急投融資」
(=お金のバラマキ)を始めた。

しかしこんな額ですむような話ではない。

日本のばあい、バブル崩壊直後ですら、30兆円規模の、
緊急投融資をしている。

で、昨日(1月16日)の経済紙を読むと、アメリカの
シティ銀行が、1兆円~の損失があったとか、なかったとか。

しかしこれも、そんな額ですむはずがない。

日本のばあい、あの債券信用銀行だけですら、4兆円もの
穴があいた。

これらは、すべて税金で穴埋めされたが、アメリカ政府の
動きは、どうも鈍い。言いかえると、アメリカ政府ですら、
身動きが取れない状態と考えてよい。

つまり首が回らなくなった。

ゆいいつの頼みの綱は、中国であり、インドであり、
EUということになる。

日本の経済は、中国特需によって救われた。
今回も、そうなりそうだが、これを機会に、
従来のアメリカ一国主義が、世界全体に分散する
ことになる。

とは言っても、日本も、相当の被害を被ることになる。

覚悟しておこう!

Tuesday, January 15, 2008

*Psedo Doctor

●インチキ博士号(pseudo doctor)

Doctor degrees are being sold in Japan. In most cases you receive a letter one day from an unknown university, in which it says that you are qualified to be nominated as a doctor of our university. This may be apparently pseudo. The reason is quite simple. It also says you need to pay abt. 500 thousand yen ~ 1 million yen for the degree. I have received some of them in the past. Then one day I rang up to the telephone number and ask someone in charge about it. The man in charge answered me that the money would be used as scholarship for students. But do we have to pay money before the doctor degree is admitted? One of the most well-known professor of Waseda University is the one who has the title given by the university. I mean it is pseudo, for as far as I have checked it through internet, the university has no students. The professor said in the TV program, that, he did not know the university is pseudo. But this is funny or ridiculous.

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日本でも、インチキ博士号が、問題に
なっている。

早稲田大学の、あの吉M教授も、その1人。
昨夜(1月13日)の報道番組の中で、吉M教授は、
「私は、ちゃんと論文を出して認められた」
「博士号のオッファーがあったので、応募した」
などというようなことを言っていた。
(記憶によるものなので、細部では、正確では
ないかもしれない。)

しかしこの吉M教授の話は、ウソと考えてよい。
吉M教授ともあろう、偉い(?)、お方が、
インチキかどうか、見抜けなかったというのは、
どう考えても、おかしい。

この私ですら、見抜けた。理由がある。

まず、寄付金の告示があったこと。博士号資格で、
50~100万円。額は、大学によって異なる。
一度、電話で問い合わせると、こうした寄付金は、
学生の奨学金として使用するということだった。

そこでインターネットを使って調べてみると、
大学といっても、校舎だけ。学生の臭いが
ほとんどしなかった。

すでに当時、こうしたインチキ博士号は、世界では
常識。そういう世界を知っていた吉M教授が、
それを知らなかったはずはない。

「当時」というのは、10年以上も前のこと。
私のところへ、そうした勧誘が届き始めたのも、
そのころである。

一事が万事。

うっすらと笑みまで浮かべて、テレビのレポータの
質問に答えていた吉M教授は、何か隠していると
いったふう。
インチキ認定書の横に、分厚い、論文集(?)
なるものを、これ見よがしに置いていた。

(そういうものを、わざわざ置くところが、
あやしい?)

テレビの報道によれば、吉M教授は、そのインチキ
大学のために、講演会まで開いていたという。
つまり新たな被害者をさがすための、手助けまでして
いた疑いがかけられている(テレビ報道)。

責任は、重大である。
「知らなかった」では、すまされない。

++++++++++++++++++++

●過去の肩書き(Are you a respected man?)

Are you a respected man? If so, you are good enough. But when you retire from the job, you had better forget about your past and be free from the career. Otherwise you would be kicked out of the society you belong to. But some remains the same after he retire from his job, thinking himself that he is a respected man. A reader living in H-prefecture gave me a mail in which she worries about her brother who still cling to his career before he retired long time ago.

++++++++++++++++

「私は偉い」「私は尊敬されるべき」と、
思うのは、その人の勝手。しかしときには、
自問してみることも、大切。

こんなメールが届いた。S県にお住まいの
Aさん(女性、60歳)からのものである。
私のエッセーを読んで、同じように感じた
とのこと。

転載許可は、いただけなかったので、概略
のみ、紹介させてもらう。

++++++++++++++++

【Aさんより、はやし浩司へ】

私の兄は、現在、65歳です。5年前まで、国家公務員をしていました。その出先機関の長にもなりました。しかしいまだに過去と、決別できずにいます。ことあるごとに過去の学歴と肩書きをひけらかしています。

私の息子(32歳)が、フリーターをしていることについても、「そういうのは、人間のクズだ」とか、「まともな仕事でないから、結婚相手も紹介できん」とか、言いました。

その兄が、去年(07年)のはじめ、がんになりました。大腸がんです。そのときのことです。兄は、親戚中にそのことを連絡していました。実際には、私に、あちこちへ電話をかけさせました。私は、そういう話は、内々ですませたほうがよいと考えていました。

で、兄は、術後1か月ほど入院しました。現在も、週2回、通院治療をつづけています。が、見舞いに来たのは、この1年間で、親戚の中では、いとこの男性、1人だけです。私の息子も、「ぜったいに見舞いに、行かない」と、がんばっています。それについて兄は、「冷たい」とか、「水臭い」とか言って、怒っています。

まるで自分のことがわかっていない。そんな兄が、あわれです。私は高卒で、そういうこともあって、いまだに私を、子分か何かのように使います。私の家が、兄の家(=私の実家)と近いこともあって、私を車の運転手くらいにしか考えていないようです。どうしたら、よいですか?

【はやし浩司より、Aさんへ】

 この問題は、私たちの年代のものにとっては、深刻な問題のひとつです。よく「定年退職したら、過去の経歴をすべて捨てよ」と言います。それはそのとおりで、それを引きずっていたら、再就職もままなりません。

 しかし経歴を捨てることができない人が多いのも、事実です。とくに有名大学を出たあと、高い役職についた人ほど、そうです。みなにチヤホヤされるうち、自分を見失ってしまうのですね。それこそ80歳とか90歳とか、死ぬまで、過去の経歴を引きずって生きていきます。

 こういうケースでは、過去の経歴を否定するということは、お兄さんに自己否定を迫るようなものです。わかりやすく言えば、お兄さんの(生きがい)をすべて、奪ってしまうようなことにもなりかねません。あなたの立場で、お兄さんにそれをわからせようとしても、不可能と考えてください。

 では、どうするか?

 結局は、この問題は、その人自身の問題ということになります。だれからも相手にされていないのに、それにすら気づかない。つまりは、心のさみしい人ということになります。

 少しあなたのお兄さんとは違いますが、私の実家の近くにも、似たような人がいました。ことあるごとに、私の家にやってきては、自慢話ばかりするのです。「今月は、○○万円もうけた」「来月は、○○万円もうける」「この町内で、私がいちばんの高額納税者だ」とか、なんとか。
 
 そのころすでに私の実家の稼業は、斜陽の一途をたどっていました。そんな話を聞かされても、楽しくありません。その人が帰るたびに、私の母などは、玄関先に、塩をまいていました。

 が、その人は、やがて多額の借金をかかえて、どこかへ夜逃げをしていきました。うわさによれば、株の信用取引で、多額の損を出したということです。もちろんその人に同情する人は、私の家族も含めて、だれもいませんでした。

 いつかあなたのお兄さんも、そのさみしさに気がつくときがやってくるのでしょうか。あるいは今、それに気がつきつつあるのかもしれませんね。が、それを認めることは、先にも書いたように、自己否定につながってしまいます。だから余計に認めるわけには、いかない。

 あなたのお兄さんの病気には同情しますが、それについても、あなたとしてできることは、もうほとんど、ありません。今は今で、そしてこの先も、淡々と、今までどおりの人間関係をつづけていくしかないように思います。あなたの立場で、お兄さんにあれこれわからせようとか、意見を言うのは、こういうケースでは、タブーと考えてください。

 というのも、それがどういうものであれ、お兄さんはお兄さんで、懸命に生きてきた。今も懸命に生きている。そういう(懸命さ)を感じたら、私たちは静かに引きさがるしかないのです。「かわいそうだな」と思いながらも、お兄さんの話を、そっと聞いてやる。それでしませます。

*I saw the film "Earth"

●「EARTH(アース)」を見る(Whaling should be prohibited)

I saw the film “Earth” with my wife on the day it was released. I spilled tears slightly three times during I saw the film. I spilled tears not because I felt sad. I spilled tears because I felt human’s stupidity is displayed against me. That was my first time I spilled my tears for the reason. Whaling should be prohibited right now. Or is there any reason why we should keep doing it under then name “Research”? It sounds so ridicurous. We should be ashamed more! I hereby strongly protest against our government!

++++++++++++++++++

封切り日に、ワイフと2人で、「earth」
を見る。

イギリスのBBCが主体となって、5年
ほどかけて制作された映画だという。

私は、その映画を見ながら、3度ほど、
うっすらと涙をこぼした。

悲しくて泣いたというよりは、人間の
愚かさを見せつけられて泣いた。

そんな涙は、生まれてはじめての経験
だった。

++++++++++++++++++

 「Earth」によれば、2030年までに、北極の白くまは、絶滅するだろうということだ。あと、22年。それだけではないが、私はその映画を見ながら、3度ほど、うっすらと涙をこぼした。悲しくて泣いたというよりは、人間の愚かさを見せつけられて、泣いた。そんな涙は、私にとっては、生まれてはじめての経験だった。

 たとえば……。

 日本は、いまだに、「調査捕鯨」という名前のもとで、捕鯨を繰り返している。「調査」だと?

 こんなインチキはもうやめて、捕鯨など、すぐやめればよい。世界中から避難されながら、どうして捕鯨をつづけなければならないのか? それがわからなければ、「Earth」を見たらよい。人間だけが、生き物でもあるまい。今の今も、日本の捕鯨船団は、南氷洋で捕鯨をつづけている。それに対して、オーストラリア政府は、海軍まで出動させて、それを阻止しようとしている。

 どうして今、「調査」なのか? 「捕鯨」なのか? 「調査」というのなら、どこの大学のどの教授が、しているのか? 世界のどこのだれが、この日本に、「調査してほしい」と頼んでいるのか? 日本を遠く離れたところに住む、クジラを! 結局は、食用のためではないか? 

 日本人は、もっと自らを恥じたらよい。改めて、捕鯨に、強く反対したい!
(2008年1月16日)

*I strongly ptotest against whaling!

++++++++++++++++++
封切り日に、ワイフと2人で、「earth」を見る。
イギリスのBBCが主体となって、5年ほどかけて制作された映画だという。
私は、その映画を見ながら、3度ほど、うっすらと涙をこぼした。
悲しくて泣いたというよりは、人間の愚かさを見せつけられて泣いた。
そんな涙は、生まれてはじめての経験だった。
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 「Earth」によれば、2030年までに、北極の白くまは、絶滅するだろうということだ。あと、22年。それだけではないが、私はその映画を見ながら、3度ほど、うっすらと涙をこぼした。悲しくて泣いたというよりは、人間の愚かさを見せつけられて、泣いた。そんな涙は、私にとっては、生まれてはじめての経験だった。
 たとえば……。
 日本は、いまだに、「調査捕鯨」という名前のもとで、捕鯨を繰り返している。「調査」だと?
 こんなインチキはもうやめて、捕鯨など、すぐやめればよい。世界中から避難されながら、どうして捕鯨をつづけなければならないのか? それがわからなければ、「Earth」を見たらよい。人間だけが、生き物でもあるまい。今の今も、日本の捕鯨船団は、南氷洋で捕鯨をつづけている。それに対して、オーストラリア政府は、海軍まで出動させて、それを阻止しようとしている。
 どうして今、「調査」なのか? 「捕鯨」なのか? 「調査」というのなら、どこの大学のどの教授が、しているのか? 世界のどこのだれが、この日本に、「調査してほしい」と頼んでいるのか? 日本を遠く離れたところに住む、クジラを! 結局は、食用のためではないか? 
 日本人は、もっと自らを恥じたらよい。改めて、捕鯨に、強く反対したい!(2008年1月16日)

*What is the culture for the man?

【文化性】(The “Culture” that each man has)

What is the “Culture” that each man has? I understand “Culture” is a sort of thing that supports us in case we face a crisis. Man with high culture is able to stand against the crisis without losing himself, but man without is not so. Therefore I understand the “Culture” that each man has is a kind of a “Pillar”. This reminds me of a student I met in Argentine, Buenos Aires, who was waiting for the door open in front of a museum.

++++++++++++++++++++

その人の文化性は、その人が
危機に陥(おちい)ったときに、
試される。

危機に陥ったとき、泰然自若(たいぜんじじゃく)
として、動じない人もいれば、
あたふたと狼狽(ろうばい)し、
自分を見失ってしまう人もいる。

つまりその人の文化性は、いわば心の
貯金のようなもの。「心の柱」と言ってもよい。

++++++++++++++++++++

●その人の文化性

 本は読もう。音楽は聴こう。美術は鑑賞しよう。日々に高邁(こうまい)な思想に触れ、感動し、ものを考えよう。こうした日々の研鑽(けんさん)が、その人の文化性を高める。そうでなければ、そうでない。そうでないばかりか、油断すると、通俗的価値に毒されて、その人のもつ文化性は、どんどんと低下する。

 こんな人がいた。

 趣味は、掛け軸を集めることだという。一度だけだが、私は、その掛け軸を見せてもらったことがある。それは2間ほどの壁に、びっしりと、積まれていた。が、その人が口にするのは、その価値(?)だけ。値段だけ。

 「この掛け軸は、○○万円の価値がある」
 「この掛け軸は、江戸時代の、あの○○が、描いたもの」
 「この掛け軸と同じものが、ヤフオクで、○○万円で、売れた」と。

 こんな話までした。

 「これは伯母から買った掛け軸でね。伯母は、価値がわからないから、相場の10分の1の値段で売ってくれましたよ」と。つまり「伯母をだまして、安く買いたたいた」と。

 こういう話を聞くと、ぞっとする。そういうことが平気でできる人というのは、そうはいない。またそれを自慢話にする人というのは、そうはいない。

 が、それ以上に私は、(掛け軸を集める)という高邁(こうまい)な文化性と、その人が口にする言葉とのギャップに驚いた。わかりやすく言えば、その人にとって掛け軸というのは、ただのモノにすぎなかったということになる。

 さらにこんな人も。

 これは友人から聞いた話だが、その友人の近くに、1人の女性が住んでいた。当時、年齢は、70歳くらいだった。

 その女性は、近所を散歩しながら、軒先に植木鉢が並べてあったりすると、それをそのまま家に持ち帰ってきてしまうという。

 この話を聞いたときも、驚いた。70歳近い女性が、盗みをしているということについてではない。(花を楽しむ)という高邁な文化性と、(盗みをするというその女性の行為)が、私は頭の中で、結びつかなかったからである。

 その女性について書いた原稿がある。日付はわからないが、もう7、8年前に書いた原稿だと思う。少し話が脱線するが、許してほしい。

+++++++++++++

●しつけは普遍

 50歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし60歳を過ぎると、その人の人格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。

たとえばTさん(70歳女性)は近所でも、「仏様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかしくなってきた。近所を散歩しながら、よその家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。

人はそれを、Tさんが老人になったせいだと話していたが、実のところTさんの盗みグセは、Tさんが2、30歳のときからあった。ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけの気力があった。

しかし70歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例するかのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むずかしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころには、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果しかない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりする。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がおかしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。

人間がもつしつけなどというのは、もっと常識的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわかる。してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときには、どこか不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということになる。

そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは普遍」という。

+++++++++++++

●試される文化性

 その人のもつ文化性は、危機的状況になったときに、試される。高い文化性をもった人は、その文化性を維持したまま、泰然自若と、それを構えて受けることができる。が、そうでない人は、そうでない。

 そういう意味で、その人がもつ文化性というのは、「心の貯金」のようなものと考えてよい。あるいは、「心の柱」と言いかえてもよい。つまり文化性というのは、それを身に貯金しているときは、その価値がわからない。「柱」と意識することもない。

 が、けっして、無駄ではない。しかもその時期というのは、小学時代とか、中学時代に決まる。少なくとも大学生になったころには、ある程度の方向づけが、決まる。アルゼンチンのブエノスアイレスに行ったときのこと。こんなことがあった。

 ホテルの反対側に、大きな美術館があった。道路をはさんだ、向かい側だった。朝早く散歩をしながら、その美術館の前に行くと、1人の女子学生が、石の階段に腰をかけてすわっていた。「何をしているのか?」と聞くと、「美術館が開くのを待っている」と。

 私はそのまま別れた。そして数時間ほどたってから、私もその美術館に足を運んでみた。その女子学生は、そこにいた。大きな絵画を一枚ずつ、身動きすらしないで、じっとながめていた。そのあまりの迫力に圧倒されて、私は、声もかけられなかった。

 今にして思うと、あのような若い女性でも、方向づけができていたことになる。コンサートやスポーツの世界では、開館を待ってそこに並ぶということはあるが、美術の世界では、珍しい。今ごろ、あの女性は、アルゼンチンでも、すばらしい女性になっているにちがいない。

●反対に……

 反対に、こんな人もいた。

(……とここまで書いて、私はその先を書くのが、いやになった。愚劣な人たちの、愚劣な話など、書きたくない。世の中には、サルのような人というか、サル同然の人もいる。ささいな問題で、ギャーギャーとわめき散らす。

 そういう人たちの話を書きたいと思ったが、どういうわけか、指先が止まってしまった。はっきり言えば、私は、もうそういう人たちを相手にしたくない。だから、この話は、ここまで!)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 文化性)

Sunday, January 13, 2008

*The Culture that each man has

【文化性】(The “Culture” that each man has)

What is the “Culture” that each man has? I understand “Culture” is a sort of thing that supports us in case we face a crisis. Man with high culture is able to stand against the crisis without losing himself, but man without is not so. Therefore I understand the “Culture” that each man has is a kind of a “Pillar”. This reminds me of a student I met in Argentine, Buenos Aires, who was waiting for the door open in front of a museum.

++++++++++++++++++++

その人の文化性は、その人が
危機に陥(おちい)ったときに、
試される。

危機に陥ったとき、泰然自若(たいぜんじじゃく)
として、動じない人もいれば、
あたふたと狼狽(ろうばい)し、
自分を見失ってしまう人もいる。

つまりその人の文化性は、いわば心の
貯金のようなもの。「心の柱」と言ってもよい。

++++++++++++++++++++

●その人の文化性

 本は読もう。音楽は聴こう。美術は鑑賞しよう。日々に高邁(こうまい)な思想に触れ、感動し、ものを考えよう。こうした日々の研鑽(けんさん)が、その人の文化性を高める。そうでなければ、そうでない。そうでないばかりか、油断すると、通俗的価値に毒されて、その人のもつ文化性は、どんどんと低下する。

 こんな人がいた。

 趣味は、掛け軸を集めることだという。一度だけだが、私は、その掛け軸を見せてもらったことがある。それは2間ほどの壁に、びっしりと、積まれていた。が、その人が口にするのは、その価値(?)だけ。値段だけ。

 「この掛け軸は、○○万円の価値がある」
 「この掛け軸は、江戸時代の、あの○○が、描いたもの」
 「この掛け軸と同じものが、ヤフオクで、○○万円で、売れた」と。

 こんな話までした。

 「これは伯母から買った掛け軸でね。伯母は、価値がわからないから、相場の10分の1の値段で売ってくれましたよ」と。つまり「伯母をだまして、安く買いたたいた」と。

 こういう話を聞くと、ぞっとする。そういうことが平気でできる人というのは、そうはいない。またそれを自慢話にする人というのは、そうはいない。

 が、それ以上に私は、(掛け軸を集める)という高邁(こうまい)な文化性と、その人が口にする言葉とのギャップに驚いた。わかりやすく言えば、その人にとって掛け軸というのは、ただのモノにすぎなかったということになる。

 さらにこんな人も。

 これは友人から聞いた話だが、その友人の近くに、1人の女性が住んでいた。当時、年齢は、70歳くらいだった。

 その女性は、近所を散歩しながら、軒先に植木鉢が並べてあったりすると、それをそのまま家に持ち帰ってきてしまうという。

 この話を聞いたときも、驚いた。70歳近い女性が、盗みをしているということについてではない。(花を楽しむ)という高邁な文化性と、(盗みをするというその女性の行為)が、私は頭の中で、結びつかなかったからである。

 その女性について書いた原稿がある。日付はわからないが、もう7、8年前に書いた原稿だと思う。少し話が脱線するが、許してほしい。

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●しつけは普遍

 50歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし60歳を過ぎると、その人の人格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。

たとえばTさん(70歳女性)は近所でも、「仏様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかしくなってきた。近所を散歩しながら、よその家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。

人はそれを、Tさんが老人になったせいだと話していたが、実のところTさんの盗みグセは、Tさんが2、30歳のときからあった。ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけの気力があった。

しかし70歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例するかのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むずかしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころには、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果しかない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりする。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がおかしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。

人間がもつしつけなどというのは、もっと常識的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわかる。してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときには、どこか不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということになる。

そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは普遍」という。

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●試される文化性

 その人のもつ文化性は、危機的状況になったときに、試される。高い文化性をもった人は、その文化性を維持したまま、泰然自若と、それを構えて受けることができる。が、そうでない人は、そうでない。

 そういう意味で、その人がもつ文化性というのは、「心の貯金」のようなものと考えてよい。あるいは、「心の柱」と言いかえてもよい。つまり文化性というのは、それを身に貯金しているときは、その価値がわからない。「柱」と意識することもない。

 が、けっして、無駄ではない。しかもその時期というのは、小学時代とか、中学時代に決まる。少なくとも大学生になったころには、ある程度の方向づけが、決まる。アルゼンチンのブエノスアイレスに行ったときのこと。こんなことがあった。

 ホテルの反対側に、大きな美術館があった。道路をはさんだ、向かい側だった。朝早く散歩をしながら、その美術館の前に行くと、1人の女子学生が、石の階段に腰をかけてすわっていた。「何をしているのか?」と聞くと、「美術館が開くのを待っている」と。

 私はそのまま別れた。そして数時間ほどたってから、私もその美術館に足を運んでみた。その女子学生は、そこにいた。大きな絵画を一枚ずつ、身動きすらしないで、じっとながめていた。そのあまりの迫力に圧倒されて、私は、声もかけられなかった。

 今にして思うと、あのような若い女性でも、方向づけができていたことになる。コンサートやスポーツの世界では、開館を待ってそこに並ぶということはあるが、美術の世界では、珍しい。今ごろ、あの女性は、アルゼンチンでも、すばらしい女性になっているにちがいない。

●反対に……

 反対に、こんな人もいた。

(……とここまで書いて、私はその先を書くのが、いやになった。愚劣な人たちの、愚劣な話など、書きたくない。世の中には、サルのような人というか、サル同然の人もいる。ささいな問題で、ギャーギャーとわめき散らす。

 そういう人たちの話を書きたいと思ったが、どういうわけか、指先が止まってしまった。はっきり言えば、私は、もうそういう人たちを相手にしたくない。だから、この話は、ここまで!)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 文化性)

Saturday, January 12, 2008

*UFO *Films I recommend

【今日・あれこれ】(1月12日)

++++++++++++++++

寒い朝だ。冬の冷気が、ツンと身に
しみる。

生ぬるいウーロン茶を飲みながら、
ニュースに目を通す。

ペルシャ湾情勢、日韓関係、それに
あとは経済情報。

++++++++++++++++

●月面上のUFO

 日本の「かぐや」が、月の鮮明な写真を送りつづけてきている。数日前、その番組をワイフが見た。私は「UFOでも写っていたら、呼んで」と言って、書斎にこもった。

 YOU・TUBEで、「UFO on the Moon」を検索してみるとよい。(私のHPのトップページから、「音楽と私」→(UFO)で、見ることができる。)その種の動画が、ズラリと出てくる。月面上の構造物の動画もある。少し見慣れてくると、インチキかそうでないかが、わかるようになる。だからといって私の目が正しいというわけではないが、中には、無数のUFOが飛び交う動画まである。興味のある人は、そちらを見たらよい。

 で、アメリカは、2020年までに、有人月探査に復帰するという。現在のスペースシャトルは、2010年までに引退。かわって新たに「オリオン」と命名されたカプセル型宇宙船CEV(Crew Exploration Vehicle)を開発するという(以上、「IMIDAS」)。

 先の番組を見たワイフが、こう言った。「月にも、太陽の光線が当たらないところある。そこには、氷のかたまりがあるかもしれない」と。

 月の南極のクレーターの内部には、そういうところがあるらしい。アメリカが月面基地として選んだのも、そういう場所。シャックルトン・クレーターと呼ばれるところである。そのクレーターの縁に、太陽光発電機を設置すれば、途切れることなく、太陽光を受けることができるという。

 人間も、頭がよい。しかし月に宇宙人が住んでいるとするなら、同じことを考えているはず。だいじょうぶかな?

 日本も、新たに、月・惑星探査推進グループというセクションを、JAXA内に設けたそうだ。「このように組織改革が行われたのは、まず第一に、アメリカが打ち出した、国際協力による有人月探査に対応する必要があるため」(「IMIDAS」)とのこと。

 見方を変えれば、たがいに協力しあって、月の謎を隠蔽(いんぺい)しあうともとれる。アメリカのNASAが発表している月の写真は、その多くが、どういう理由かは知らないが、修正されている。

 「月には、何かがある」「何かが、住んでいる」と考えているのは、けっして、私だけではない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「歓びを歌にのせて」(as it is in heaven)(フランス映画)

And yet it’s the way that I chose そしてそれが私が選んだ道
My trust was far beyond words 私の信頼は、言葉では言い表せない
That has shown me a little bit それは少しだけ、私に示してくれた
Of the heaven I’ve never found 私が知らない天国を
I want to feel I’m alive 私は生きていることを感じたい
All my living days 私が生きている日々を、
I will live as I desire 私が思うように生きたい
I want to feel I’m alive 私は生きていることを実感したい
Knowing I was good enough 私にその価値があることを知りながら

I have never lost who I was 私は私を見失ったことはない。
I have only left it sleeping 私はただそれを眠らせていただけ
Maybe I never had a choice たぶん、私は、もう迷わない
Just the will to stay alive ただ意思の生かすまま
All I want is to be happy 私は幸せになりたいだけ
Being who I am 私はあるがままに生きるだけ
To be strong and to be free 強く、自由になるために
To see day arise from night 夜が明け、日が昇るのを見るために
I am here 私はここに生きている
And my life is only mine そして私の人生は、私だけのもの
And the heaven I thought was there そしてそこにあると思っていた天国を
I’ll discover it there somewhere そのどこかに発見するでしょう

I want to feel 私は、感じたいだけ
That I’ve lived my life 私は私の人生を生きたということを。

+++++++++++++++++

 スウェーデン映画『歓びを歌にのせて』(As It Is In Heaven、2004年作品)を見た。いや、見たのは、2、3年前のことだが、久しぶりに、その主題歌を聴いた。よかった。感動した。

 さっそく歌詞(英語訳)をさがしてみた。ここに書いたのがそれである。

 物語は、世界的な指揮者のダニエルが、すべてを捨てて、自分の生まれ故郷に戻ってくるところから始まる。そしてそこでダニエルは、はからずも、小さな教会のコーラスを指揮することになる。

 最初は、発声練習だけ。その間にいろいろなドラマが生まれる。が、ダニエルは、こう説く。「歌は心で歌うもの」「聴衆といったいで歌うもの」と。

 ……。
 
 ダニエルのその思いは、最後のシーンでかなう。コーラスと聴衆が一体になったとき、ダニエルはひとり、そのコーラスを聴きながら、別の部屋で静かに息を引き取る。もちろん星は5つの★★★★★。アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされている。

 この映画と並んで、すばらしかったのが、『コーラス』(Les Choristes)。2004年、フランス映画。

 こちらも世界的指揮者として知られる、ひとりの男性の物語。その男性、つまりピエールは、別の男性の訪問を受け、その男性から1冊のノートを渡される。そのノートには音楽教師マチューと、寄宿舎の子どもたちとの交流が記されていた……。

 星は5つの★★★★★。

 少し古いが、『耳に残るは君の歌声』『天使にラブ・ソングを』もよかった。

 あまりよく知られていないが、ついでに『シャーロット・グレイ』も思い出した。すばらしかった。

 【シャーロット・グレイ】

 (読み方で、シャルロットにもなるし、シャーロットにもなる。)ユニバーサル映画だが、この映画は、まさに★★★★★(五つ星)!

 思いっきり感動してみたい人には、お勧め。とにかくよい映画だった。最後のシーンでは、思わず、涙がポロポロ。(ボロボロかな?)「私はあなたに伝えたいことがある……」と。このつづきは、どうかビデオのほうを、見てほしい。映画『タイタニック』に、まさるとも劣らない映画……と、私は思う。

 そう、映画のオープニングは、マリー・ローランサンの絵画を思わせる、夢のように美しいシーンから始まる。(私は一時期、ローランサンが好きで、リトグラフを、何枚か買い集めたことがある。)それでよけいに釘づけになってしまった。……やはりここから先は、ビデオのほうを見てほしい。

Wednesday, January 09, 2008

*To liberate out souls

●魂の解放(To liberate our soul)

Japanese are more concerned about their appearance in the public, about which we know when we compare ourselves with Australians. Australians seldom care about the appearance in the public. They seem to live showing themselves as they are. This means that we have still drag the bad aspect of feudal age of more than 100 years ago. I, however, don’t mean which is good and which is bad. From our point of view Australians are too much rational or “dry” we say, and from their point of view we are not or “wet”. This is a story I heard from my son: One day my son and his friends were driving to Florida and went into the sand dune where their car was in the dead end. Then there appeared some American students, saying, “If you need our help to get your car out of the sand, pay us 20 dollars”. Is this sort of thing to be happened in Japan? This is “dry”, we say in Japanese. But still I say our Japanese traditional way of living, for example, to care about the appearance in the public is rather stupid. Whatever I am, I am “Me”. I still find it difficult for me to live as I am. This is an article about this.

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世俗的な見栄、体裁、世間体に
引きずられて、自分を見失う人は多い。
このタイプの人は、おかしなところで、
おかしな気を遣(つか)う。

ときには、それが滑稽(こっけい)なほど、
不自然に見えることがある。

が、それは何も、他人の姿ではない。
私たち自身も、いつもその見栄、体裁、
世間体を気にしている。

程度の差こそあれ、みな、そうである。

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 オーストラリア人たちとつきあっていて、第一に感ずること。彼らは、日本で言う、世俗的な見栄、体裁、世間体というものを、まったくと言ってよいほど、気にしない。恐ろしく、サバサバしている。あまりにもサバサバしているので、いまだに、こちらのほうが面食らうほどである。

 このちがいは、どこから生まれるのか?

 日本人は、いまだに農村社会の、あの「邑(むら)意識」を、引きずっている。封建時代が残した、最悪の負の遺産と言ってもよい。「私は私」と考える前に、つねにそこに他人の目を意識する。それが転じて、見栄になり、体裁になり、世間体になる。

 一方、オーストラリアという国は、それ自体が、移民国家。無数の他民族が、複雑に入り混ざっている。日本人の私たちとは逆で、「私は私」と、それを前面に出していかないと、生きていくことすら、むずかしい。

 どちらがよいとか悪いとか、そういうことを議論しても意味はない。それぞれに一長一短がある。あるオーストラリア人は、こう言った。「日本は、すばらしい国だ」と。話を聞くと、どこかで道に迷ったとき、そこで出会った日本人が、ていねいに道案内をしてくれたという。

 「オーストラリアではどうか?」と聞くと、「道を聞こうとすると、みな、逃げていく」と。

 さらにこんな話も……。これはアメリカでの話。

 息子たちが、アメリカのフロリダをめざしてドライブをしていたときのこと。海辺の砂浜が美しかったので、そこへ車を乗り入れた。とたん、車は砂浜の砂に車輪を取られて、身動きが取れなくなってしまった。

 が、そこへどこからともなく、4~5人のアメリカ人が現れ、こう言ったという。「車を出してほしかったら、20ドル払え」と。

 そのアメリカ人たちは、学生だった。そこで息子たちが、「ぼくたちも学生だ」と答えると、「じゃあ、10ドルでいい」と。

 こうした生き方を、私たち日本人は、「ドライ」と表現する。言いかえると、日本人は、その分だけ、「ウェット」ということになる。このウェットな部分が、人間関係を濃密にする。私が冒頭にあげた、世俗的な見栄、体裁、世間体というのは、それから生まれる。

 しかし……。それにも程度というものがある。あるいは相対的なものか? 見栄、体裁、世間体を気にしない人から見れば、それを気にする人がよくわかる。ときに滑稽(こっけい)なほど、よくわかる。

 しかし見栄、体裁、世間体を気にする人にすれば、気にしない人が、かえって変わり者に見えるかもしれない。実際、この私は、その「変わり者」ということになっている。さらに私のワイフにいたっては、見栄、体裁、世間体を、気にしない。まったくと言ってよいほど、気にしない。同窓会でも、TOYOTAのビッツに乗って、普段着のまま出かけていく。

いや、全体として見ても、ここ浜松の人たちは、郷里の岐阜の人たちほど、見栄、体裁、世間体を気にしない。浜松という町が、古来、街道筋の宿場町として発展したためではないか。

 ともかくも、見栄、体裁、世間体を気にすればするほど、「私」を見失う。自分がどこにいるかさえ、わからなくなってしまう。「私は私」、どこまでいっても、「私は私」。

 が、こう書くからといって、私は、何も日本人がもつ、民族的な(温もり)まで否定しているわけではない。密着する部分は、密着すればよい。道に迷ったり、砂浜で身動きとれない車を見つけたら、助けてやればよい。それは、それ。しかしいつもどこかで、「私」をキープする。

 その操作を誤ると、繰りかえすが、私を見失ってしまう。つまり時間を無駄にする。人生を無駄にする。命を無駄にする。そういう意味では、世俗的な見栄、体裁、世間体は、戦うべきものではあっても、擁護しなければならないものでは、けっして、ない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 世俗的な見栄 体裁 世間体)

Tuesday, January 08, 2008

:Nuclear Development in North Korea

*Integration of our own with what we should do

【1000号・記念】(No. 1000th Commemoration)

I have published internet magazines which count on today, No. 1000th commemoration. It has taken me about 6 years and 6 months onto Today! I fight unbeatable foe, I bear unbearable sorrow and I reach unreachable star. But nothing has happened and nothing has changed. I am still here and I keep writing. I am writing forward to reach unreachable star. Here I’d like to express my greatest thanks to Akiko, my wife、 as well as my readers of the magazines. Thank you very much!

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やったぞ、1000号! ハハハ!
これが、その第1000号!

だれに頼まれたわけではない。
自分で、勝手に目標を決めただけ。
「1000号までがんばるぞ」とね。

まさしくそれは、ラマンチャの男。
ドンキホーテの心境。

耐えられない苦しみに耐え、
戦えない敵と戦い、
届かぬ星に届く。

まあ、それほどおおげさではないに
しても、とうとう1000号!

晃子、ありがとう!
お前のおかげで、こうして自分の
道楽をつづけることができた。
読者のみなさん、ありがとう!
みなさんのおかげで、今日まで、
こうしてがんばることができた。

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●老後の統合性(How to establish our own integration)

We, young old men, should establish our own integration for the rested life. Otherwise our life would be a miserable one. But what is the integration? Then how can we establish our own integration? When we were young we were seeking ourselves, thinking what we are, and where we should go. But now we think what we should do for other people. In most cases what we should do would be accompanied with some kind of pain or troubles. Therefore most people would try to avoid such and such pain and trouble. But without this pain and troubles, we would not be able to establish the integration. Our life becomes shorter and shorter. Then I have to hurry up to do something. By the way I went to Gero-hot spring spa, Gifu pref., a few days ago where I met my cousin. Then I brought some souvenir to my brother-in-law. Also I talked with him and his wife for a couple of hours. During these conversations with them, I was thinking of my own integration. This is a kind of very serious problem. How can we establish our own integration? How can we integrate ourselves with what we should do?

 おととい、岐阜県の下呂温泉に泊まった。街中にある水M館という旅館だった。よい旅館だった。1階にひとつ、3階にひとつ、それに9階にもうひとつ、温泉があった。温泉につかると、ヌメッとした感じが、肌を包む。が、湯からあがると、それが消え、サッパリとした感じになる。さすが、天下の名泉!、と思わせるような温泉だった。

 風呂からあがると、いとこのY君が来てくれた。1階の喫茶室で、数時間、話す。子どものときからの、ワルガキ仲間である。元気そうだった。言い忘れたが、Y君は、下呂市内で、理髪店を経営している。かなり繁盛しているらしく、羽振りもよかった。

 そのY君。今は町内会長をしているから忙しくて行けないが、4月からは、また登山を再開するという。Y君の最大の趣味は、登山。そのため足腰を、毎日、鍛えているという。そんな話をしながら、私は、こう言った。

 「ぼくたちのように、老後のカベがなく、現役から老後へと連続性のある人間は、ラッキーだね」と。

 つまり私たちには、サラリーマンの人たちのような(定年)がない。だから現役のまま、老後を迎えることができる。しかしそうでない人は、そうでない。定年と同時に、そこでプツリと糸を切られる。人によっては、それは恐ろしいほどの衝撃となって、その人を襲う。そのまま心を病んでしまう人も多い。

 が、私たちにも統合性の問題はある。老後になったら、(やるべきこと)と、(やっていること)を一致させていかなければならない。これを、心理学の世界では、「統合性の一致」という。

 この統合性に失敗すると、私も含めて、人は、そのまま(死の待合室)に放り込まれる。つまり死を待つだけの人生になってしまう。孫の世話だとか、庭いじりだとか、そういうものでいくらごまかしても、ごまかしきれない。日々に、むなしさとの戦いということになる。

 その統合性は、実は40歳前後から、準備しなければならないという。「定年になりました。明日からボランティア活動を始めます」と言ったところで、うまくいくはずがない。

 で、Y君のばあい、それが「登山」ということになる。話題は、登山になった。そういうときのY君の表情は、明るく輝く。実に楽しそうだった。

 そして昨日、その下呂のみやげをもって、義兄を訪ねた。前立腺がんの手術をして、退院したところだった。術後の不都合がいろいろあるらしいが、それを除けば、元気そうだった。義兄とも、数時間、話し込んだ。

 ……つまり、私は、こうした人たちと話しながら、今、懸命に自分さがしをしている。「統合性」という言葉を使うなら、「私は何をすべきか」、それを懸命に模索している。よく誤解されるが、(したいこと)と、(すべきこと)は、まったく別のものである。(したいこと)には、楽しさがともなう。しかし(すべきこと)には、ふつう(苦しみ)が伴う。その苦しみを乗り越えないかぎり、統合性を確立することはできない。

 いとこの話を聞きながら、私は、「私にとって統合性とは何か」、義兄の話を聞きながら、「私も急がなければ」と、それぞれ考えた。

 ……ということで、私は、これから自分の統合性の追求をしてみたい。ものを書くにしても、意味のないことは書かない。つまらないことも書かない。常に前向きに、ものを書いていきたい。

*My 1000th E-magazines issued on Feb 4th 2008

【マガジン・復刻版】

Feb 4th 2008, I will issue the 1000th celebrated magazine with my honor. I started this magazine on June 6th 2001 and since then I have published my magazines twice and three times (later) per week. It has been a long way to come up here. I just remember one day I thought while I was writing articles like this: “Shall I be on this world when I issu the 1000th magazine?” Yes, I am still alive! I can see, I can think, I can hear and I am alive. What else can I ask the world more? Here on this occasion I would like to express my greatest thanks to all of these readers and people who have supported me in the past. Thank you very much! Here I would like to introduce some of my magazines which I issued more than 6 years ago.

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2008年の2月1日、私の電子
マガジンは、999号を迎えます。

次回、2月4日、1000号を迎えます。

遠い道のりでした。

いつだったか、1000号の発行日を
計算しながら、「それまで生きているだろうか」
と考えたことがあります。

しかし私は、生きています。
こうして元気に生きています。

目も見える。
音も聞こえる。
体も動く。

健康です!

みなさん、ありがとうございました。

第1号~は、Eマガの過去版のほうに
収録されています。興味をもってくださる
人がいれば、どうか、また目を通して
みてください。

今回は、その復刻版を改めて読みなおし
ながら、自分なりのコメントを書き添えて
みたいと思います。

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http://www.emaga.com/bn/list.cgi?code=hhayashi2

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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    子育て最前線の育児論
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2001年6月6日号
         by はやし浩司(ひろし)

トピックス

● はじめまして! 
● 育児診断ができるぞ
● 子育て定期検診ができるぞ
● はやし浩司、ってどんな人?
● どんなことを考えている……?


●はじめまして!

今回から、E-マガジン、初登場です。よろしくお願いします。
子育ての最前線でがんばっている、お母さん、お父さんのためのマ
ガジンです。

この日本、エラーイ先生も、私のようなエラークない先生もいます。
どこが違う……かって?

エラーイ先生には、実戦経験がない。しかし私はいつも子育ての最
前線で、お母さんたちと戦ってきた。いわば、最前線の現場指揮官
というわけです。経験は豊富です。たいていの問題には、答えられ
ます。お助けできます。そんな私が皆さんのお役に、少しでもたて
ればと思い、このマガジンを発行することにしました。

                    はやし浩司


● 育児診断ができるぞ!
あなたは過保護ママ? 過干渉ママ? それとも溺愛ママ?
 
診断方法 …… http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
   の「子育て診断」→「過保護ママ?」を開いてみてください。
30項目の質問に答えるだけ(少したいへんかな?)。でも一度は診
断してみてください。わかっているようで、意外とわかっていないの
が、自分の子育てです。


● 子育て定期検診もできます!

あなたのお子さんは、園や学校から帰ってきたら、どこで疲れた心
と体を休めていますか。
あなたのいる前で、心と体を休めていればよし。しかし……。そん
な日常的な様子から、あなたの子育てを定期検診します。

検診方法 …… http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
   の「子育て診断」→「定期検診」を開いてみてください。


● はやし浩司って、どんな男?

現在、中日新聞で、子育て論を連載しています。2001年6月
で、もう丸4年になります(東海版、毎週土曜日朝刊)。
Http://www.chunichi-tokai.co.jp/education/child_world/
を開いてみてください。最近のコラム50作が、紹介されていま
す。決してあやしい男(あやしいかな?)ではありません。意外
とオーソドックス、正統派です。

☆ ただいま、会員募集中!(無料です!)

ただいまE-マガジンの会員を募集しています。毎回定期的に、み
なさんのところに、E-マガジンセンターから、このようなマガジ
ンが送られてきます。どうか、ご登録ください。

無料です。一切、負担はありません。かつ、E-マガジンのもろもろ
の子育て情報を、無料で手に入れることができます。

会員登録のしかた ……  
(1)下をクリックする
http://www.emaga.com/
(2)E-マガジンの画面が出てくる。
(3)右上の「検索」で、「最前線」と記入して、検索をクリック!
(4)私のE-マガジンが紹介されていますから、そこで購読を登録!

では、皆さんのご来訪をお待ちしています!


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以上が、第1号です。このときは、読者はゼロでした。
つづいて、第4号。このとき読者は、7人になって
いました。

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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    子育て最前線の育児論
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2001年7月6日号(004号)
         by はやし浩司(ひろし)

★★★★★★★★
01-7-6号
★★★★★★★★

*************************

★静岡県教育委員会発行の、「ファミリス」に、9月号から
連載記事が載ります。どうかご覧になってください。
「教育委員会」というと、コワ~イイメージをもって
おられる方も多いと思いますが、私の記事は、きわめて
実用的です。楽しみにしておいてください。

★「別冊PHP」9月号(7・23発売)に特集記事が載ります。
どうかご覧になってください。

★「浜松百撰」で、子育て対談をします。7月24日予定ですので、
記事はそれ以後載ると思います。ご注目ください。

**************************

あなたの子育てをチェックしてみませんか?

お子さんのちょっとした、しぐさの中に、
実は重大な警告が隠されている……というようなことが
よくあります。

たとえば……

(机とお子さんの相性)

● お子さんが好きそうな食べ物や、おもちゃをそっと
机の上に置いてみてあげてください。
そのときお子さんが

(1) そのまま机に座って、食べ物を食べたり、おもちゃ
で遊んだりすれば、だいじょうぶ。

(2) しかしその食べ物やおもちゃを、別の場所に移動して
食べたり、遊んだりするようであれば、お子さんと
机の相性はよくないとみます。

長い間、相性の悪い机を使っていると、勉強嫌い……
ということにもなりかねませんので、ご注意ください。

● 同じように、たとえば親子の断絶なども、ちょっとした様子
から、その初期症状を知ることができます。

 それをまとめたのが、「子育て診断」です。わかりやすい15項目に
 してみましたので、どうかご活用ください。

詳しくは……
  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
  の中、

  (育児診断)→(子育て危険度早期診断)をご覧になってください。
  7月10日に、新居町教育委員会のほうで、講演をします。その席を
  借りて、結果の集計をし、その結果は、また私のホームページのほうに
  掲載しておきますので、11日以後、結果をお知りになりたい方は、どう
  かまたご覧になってください。

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親子の断絶が始まるとき

● 最初は小さな亀裂

最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「まさか……」「ま
だ何とかなる……」と思っているうちに、やがて互いの間の不協和音は大きくなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(「青少年白書」平成十年)。が、この程度ならまだよいほうだ。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、子どもは「ウッセー!」と。そこで親は親で、「親に向かって、何だ、その態度は!」となる。あとはいつもの大げんか!

 ……こう書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されているはず」と思っている親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。
あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほしい。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休めているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げて行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中高校生の多くが、心が休まる場所としてあげたのが、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに(3)ふとんの中だそうだ(「学外研」九八年報告)。

● 断絶の三要素

 親子を断絶させるものに、三つある。権威主義、相互不信、それにリズムの乱れ。「私は親だ」というのが権威主義。「子どものことは、私が一番よく知っている」という親ほど、あぶない。

この権威主義が強ければ強いほど、子どもは親の前では、仮面をかぶる。いい子ぶる。その分だけ、子どもの心は離れる。次に相互不信。「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなもの。

イギリスの格言にも、「相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う」というのがある。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなければ、そうでなくなる。三つ目にリズム。あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころを思い出してみてほしい。そのときあなたは子どもの横か、うしろを歩いていただろうか。そうであれば、それでよし。しかしあなたが子どもの前を、子どもの手を引きながら、ぐいぐいと歩いていたとするなら、あなたと子どものリズムは、そのときから狂い始めていたとみる。

おけいこ塾でも何でも、あなたは子どもの意思を無視して、勝手に決めていたはずだ。やがてあなたは子どもと、こんな会話をするようになるかもしれない。親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」子「いつ誰が、そんなこと、あんたに頼んだ!」と。

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅くないから、子どものうしろを歩く。決して前を歩かない。アメリカでは、親子でも、「お前はパパに何をしてほしい」とか、「ママはぼくに何をしてほしい」と聞き合っている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。
 
************************************
これからも、よろしくご購読ください。
             はやし浩司
*************************************

(以下、003号です。)

まだの方はどうかお読みください。

朝晩は気持ちのよい日になりました。お元気ですか?

「はやし浩司のホームページ」が、またまた充実しました。
また、ぜひ、ご覧になってください。
                 はやし浩司(ひろし)

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ホームページに、またまた新しいコーナーが、新登場!

● お子さん向けの、「読んでね」コーナー
● 「子どもチェックシート」

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(近況ニュース)

★ 6月29日(金曜日)午前10時~より、静岡県教育委員会主催の
「教育講演会」で、基調講演をいたします。
    場所:可美総合センターにて
(午後からは、パネルディスカッションを予定しています)
       お申し込みは …… 053-458-7304です。

★ 「別冊PHP」9月号 (7月23日発売)増刊号にて、
      「子どもをほめるコツ・しかるコツ」の特集記事を書かせてもらいました。
          ぜひ、書店で、お買い求めください。

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中日新聞(東海版)では、

    「乱舞するイメージ」を書きました。

          Http://www.chunichi-tokai.co.jp/education/child_world/
               を、ご覧ください。

       右脳教育への疑問を、この記事の中に織り込みました。

   なお新聞のほうは、「人間は考えるアシ」を掲載してもらいました。
   インターネットでは、6月22日以後、紹介されます。よろしく!

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「読んでね」コーナーは、直接お子さんに呼びかけるコーナーです。
お子さんが、読んでくださることを願っています。
対象年齢は、小4~中学生を考えて、書きました。



賢明な人、愚(おろ)かな人

賢明な人はね、なくす前に、その価値に気づくんだよ。
しかしね、愚かな人は、なくしてから、その価値に気づくんだよ。
たとえば健康。たとえば時間。たとえば家族。

それからね、愚かな人とは、つきあってはダメだよ。
愚かな人とつきあっていると、君たちまで、愚かになるよ。
いいかな。
自分よりすぐれている人を見つけて、
その人をいつも目標にするといいよ。

賢明な人はね、いつも自分より、より賢明な人をみつけて、
自分の力のないことを、嘆くのさ。
愚かな人はね、いつも自分より、より愚かな人をみつけて、
それで自分をなぐさめるのさ。
 
それからね、賢明な人は、愚かな人を相手にしない。
でもね愚かな人は、賢明な人に、あれこれ文句を言ってくる。
自分が愚かだとわかっていないからね。

だからちょうど、図書館で本を選ぶように、
君たちも、友や仲間を選ぶんだよ。
これはとても大切なことだよ。

++++++++++++++++++++

バカな人
ついでにね、

「フォレスト・ガンプ」という映画の中で、
フォレストのお母さんが、こう言うよ。
「バカなことをする人を、バカと言うのよ。頭じゃ、ないのよ」と、ね。
いい映画だから、一度は見てごらん。

いいかな。バカなことをする人を、バカというんだよ。
勉強ができないとか、成績が悪いとか、そういうことではないよ。
バカなことをする人を、バカというんだよ。
タバコを吸ったり、バイクで夜中に騒いだり、
ゴミを平気で捨てたり、道路にツバをはいたり、
人をキズつけるようなことを平気で言う人を
バカって、いうんだよ。
人をいじめたり、いやがらせをしたり、仲間ハズレをしたりして
おもしろがっている人を、バカっていうんだよ。
君は、そのバカな人ではないんだよ。
だってね、
この文章を読んでね、バカの本当の意味がわかったからね。

+++++++++++++++++++

相手のこと

イギリスのことわざに、ね、
「相手は、自分が相手を思うように、自分を思う」というのが、あるよ。
つまりね、
君が、AさんならAさんを、「いい人だ」と思っていると、
Aさんも、君のことを、「いい人だ」と思っているということ。
君が、AさんならAさんを、「いやな人だ」と思っていると、
Aさんも、君のことを、「いやな人だ」と思っているということ。
そういう意味でね、人間の心は、カガミのようなものだね。

だからね、みんなと仲よくしたかったら、みんなのことを「いい人だ」と
思うようにするといいよ。そうするとね、みんなも、君のことを
「いい人だ」と思うようになるよ。やってみたら?

++++++++++++++++++++

家庭

君は、どこで心を休めているのかな?
家の中。そう家の中だよね。
でも、その家の中のどこかな?
居間かな? 台所かな?
「トイレの中」と言った人もいたよ。
「お風呂の中」と言った人もいたよ。
あるいは「ふとんの中」と言った人もいたよ。

でもね、もし君が、家族のいる、
みんなの中が、一番安心できるとしたら、
それはすばらしいことだよ。
君は、すばらしい家族をもっているということ。
うらやましい、ね。
もしそうなら、君は、君の家族を、
大切にしたらいいよ。
自信をもって、ね。

(ほか、30項目)続きはホームページで
        http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/


**********************************

 この1~4号のころは、まさに手探りの状態でした。(当然ですが……。)「書いても、はたして読んでくれる人がいるだろうか」と、そんな不安ばかり、先に立ったのを覚えています。

 もっとも、そのころは、(遊び)のつもりでした。本気で書くようになったのは、ずっとあとになってからのことです。1000号を意識するようになったのは、さらにあとになってからのことです。

 毎号、1~2人と読者がふえていくのは、ほんとうに励みになりました。その新しく読者になってくれた人をがっかりさせたくないという思いが、私の書く原動力になりました。そんな思いが、この1~4号を読むと、6年6か月という年月を超えて、私の心の中によみがえってきます。

 文もどこかいいかげんで、自己宣伝ばかり。あのころの私は、それでもインターネットの未来を信じて、電子マガジンの発行を始めました。「本を書くより、インターネットだ」とです。

 2003年以後は、一冊も、本を書いていないのは、そのためです。

 結果として、それがよかったのか、悪かったのか、まだよくわかりません。この間、もちろん収入は、ほとんどありませんでした。またマガジンを出したからといって、世間的に注目されるということもありませんでした。

 インターネットの世界は、まあ、こんなものですね。

 しかし現在、マガジン、HP、BLOGなどを含めますと、月に約10万件のアクセスがあります。10万件ですよ!

 重複している人も多いかと思いますが、それでも、月に10万人の人たちが、「はやし浩司の文章」に触れてくれています。世間的な評価は別として、これはものすごいことです。書籍ではとても、まねのできないことです。

 が、その(ものすごさ)にしても、肌で実感するということはありません。そこは電子の世界ですね。数字だけが、勝手にひとり歩きしているといった感じです。一方、原稿を書いている私は、丘の上から、空に向かって話しているようなものです。そこに読者の方がいるとしても、その姿はまったく見えません。本のように、モノとして残るということもありません。

 そういう意味では、おかしな、ほんとうにおかしな世界です。

 2月4日、ささやかですが、今までのよき協力者であり、理解者であったワイフと2人で、どこかのレストランで祝杯をあげます。

 何がうれしいかといって、今、現実に、こうして元気でものを考え、ものを書けることくらい、うれしいことはありません。

 1000号までつづけてくることができたのは、賛助会のみなさん、まぐプレの読者のみなさん、それに、わかば医院のみなさんの暖かい励ましがあったからです。この場で、厚くお礼を申し上げます。

 なお1001号からは、さらに、(1)英文をふやして外国に向けて、自分の意見を発表していく、(2)USTREAMなどのサービスを利用して、動画と音声を多用していく……などとうことを考えています。

 以上ですが、これからも、よろしくお願いします。

 長い間のご購読、ありがとうございました。

       2008年1月8日記                はやし浩司


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以下、読者が100人を超えたときの
号です。

日付を見ると、11月23日になって
います。

第1号から、5か月もかかりました。


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    子育て最前線の育児論
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01-11-23号(15)
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 by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

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ウィルス対策について……
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今回も、マガジンをご愛読くださり、感謝しています。ありがとうございます!
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メニュー

(1)よい幼稚園の選び方
(2)よい先生の見分け方(子どもとの相性を知る)
(3)教育者の美談にだまされない法
(4)子どもを本好きにする法(子どもの方向性を知る)

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来春、リヨン社から新しい本を出します。よろしくお願いします。
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あなたは、目上の人でも、目下の人でも、同じような電話をかけていますか?
権威主義的なものの考え方をする人、つまり無意識のうちにも、人間の上下関係を
つくる人は、目上の人に対する態度と、目下の人に対する態度が、まるで違います。
そんなことを書いたのが、「親子の関係がぎくしゃくするとき」です。どうか
お読みください。

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●よい幼稚園を選ぶ法(先生を見て選べ!)

親が幼稚園を選ぶとき 

●「どこの幼稚園がいいですか?」

 「どこの幼稚園がいいですか」という問い合わせが、ときどきある。私のばあい、立場上、具体的に幼稚園の名前を出すということはできない。しかしよい幼稚園を選ぶポイントはある。

その一。まず園長を見る。園長が運動服でも着て、園児の中で汗をかいている幼稚園はすばらしい。理由がある。教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでも手がかけられる。反面、手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。しかし園長が率先して教育の中に飛び込んでくるような幼稚園では、現場の先生は手を抜くことができない。

 次に、幼稚園は子どもの視点で見る。たとえばピカピカにみがかれた、汚れ一つない幼稚園は、親には受けがよい。しかしそれは子どもの世界ではない。よい幼稚園というのは、園舎のあちこちに子どもの臭いがする。落書きがあったり、いたずらをしたあとが残っていたりする。そういう臭いがする幼稚園は、よい幼稚園ということになる。

そして三つ目のポイントは、哲学があるかどうかということ。富士宮市にR幼稚園というのがある。その幼稚園では、独自に玄米食の給食をしている。給食の時間になると、子どもたちが「♪カメカメカメよ、カメさんよ」と歌を歌いながら、玄米を懸命にかみながら食べている。大阪市のI幼稚園の園長は、ものを大切にするという意図から、いつもヨレヨレのスーツを着ている。浜松市のK幼稚園では、無数の動物を飼っている。私が見に行ったときも、アヒルの子どもが生まれて、子どもたちはワイワイと喜んでいた。そういう幼稚園は、すばらしい。

●幼稚園は先生を見て選ぶ

 が、何といっても最大のポイントは、現場の先生だ。先生が生き生きと活動している幼稚園は、すばらしい。よい幼稚園には活気がある。先生もハツラツとしている。明るい声が飛び交っている。静岡市の郊外にR幼稚園という幼稚園がある。その職員室でお茶を飲んでいたときのこと。若い先生たちが、大きな声で、「今日の資料できていますかア!」「ハイ、できてるわよ!」と、皆が声をかけあっていた。そういう幼稚園は、すばらしい。

「先生」というには、「先に生き生きとするから先生」、……というのは、こじつけだが、しかし先生と言うのは、そうでなくてはいけない。その活気の中に、子どもたちが巻き込まれていく。あるいは先生が庭にいたりすると、子どもたちが、先生のまわりに集まってくる。先生に飛びついたりして、楽しそうにはしゃいでいる。そういう幼稚園はすばらしい。子どもと先生の関係を、外から観察してみるとそれがわかる。

もちろんあまり推薦できない幼稚園もある。経営第一主義の幼稚園だ。それを感じたら、子どもをやらないほうがよい。こういう幼稚園はやることだけはどこか派手だが、一本スジが通っていない。それについてはここにはこの程度しか書けないが、要するにここに書いたすばらしい幼稚園の、反対の幼稚園だと思えばよい。

●メリハリのある授業がよい授業

 また先生のよしあしは、メリハリのある授業ができるかどうかでみる。発言のときになると、子どもたちが自由かったつに意見を言い、作業のときになると、シーンと静まりかえる。しっかりとした口調で、テキパキと指導を進める。

そういう授業のできる先生はすばらしい。が、一番のポイントは、子ども好きの先生かどうかということ。教えることを楽しんでいるかどうかでみる。子どもが何かを失敗したときの様子をみれば、それがわかる。先生が子どもを叱るときでも、子ども好きの先生だとどこかなごやかな雰囲気になる。そうでない先生は、ピリピリとした雰囲気になる。

 ……とまあ、偉そうなことを書いてしまったが、許してほしい。園長や現場の先生なら、私のような人間にこういうことを言われると、頭にカチンとくるものだ。「教育は権威だ」「運動着など着られるか」と言う園長もいるにはいる。そういう気持ちはよくわかる。一応ここでは、私は常識的なことを書いた。あくまでも一つの参考になればよい。

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●子どもと先生の相性を見分ける法(休み時間を観察せよ!)

子どもがよい先生を見分けるとき

●よい先生VS悪い先生

 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるのは、「教える」という立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、その純粋さに毎日のように心を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っているときでも、子どもたちと接したとたん、それが吹っ飛んでしまう。よく「仕事のストレス」を問題にする人がいる。しかし私のばあい、職場そのものが、ストレス解消の場となっている。

●「子ども的」ということ

 その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。しかし誤解しないでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。子どもは確かに知識は乏しく、未経験だが、決して、幼稚ではない。むしろ人間は、おとなになるにつれて、多くの雑音の中で、自分を見失っていく。醜くなる人だっている。

「子ども的である」ということは、何ら恥ずべきことではない。特に私のばあい、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や出版界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の貿易業務を手伝ったり、医学の世界をかいま見たこともある。しかしこれだけは言える。園や学校の先生には、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほかの世界よりは、はるかに少ない。

●目線が子どもと同じ高さ?

 そこで「よい先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、目線が子どもと同じ高さにいる先生もいる。が、中には上から子どもを見おろしている先生もいる。このタイプの先生は妙に権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そういう先生なりに、「教育」を考えてそうしているのだろうが、しかしすばらしい世界を、ムダにしている。それはちょうど美しい花を見て、それを美しいと感動する前に、花の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。ことあるごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子は問題児」とこぼす先生である。決して悪い先生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明るさが消える。

 そこで子どもと先生の相性があっているかどうかを見分ける、簡単な方法……。子どもに紙とクレヨンを渡して、「園の先生と遊んでいるところをかいてね」と指示する。そのとき子どもがあれこれ先生の話をしながら、楽しそうに絵をかけばよし。そうでなく、子どもが暗い表情になったり、絵をかきたがらないようであれば、子どもと先生の相性は、よくないとみる。もしそうであれば、この時期はできるだけ早い機会に、園長なら園長に相談して、子どもと先生の関係を調整したほうがよい。

(参考)
●教師の外部評価制

 教師の指導力を、地域住民がチェックするという「外部評価制」が、二〇〇二年度より東京都品川区で実施されることになった。評価結果は項目ごとに四段階で示され、年度末に公表し、学校選びの目安にしようというもの。一つの自治体が小中学校に外部評価を導入するのはたいへん珍しい。学校そのものを外部のきびしい目にさらすことで、学校改革を促す試みとして、今注目されている。

 品川区には現在、公立小中学校は五八校あるが、各学校ごとに保護者と地域の住人数一〇人に「評価モニター」を委託し、月に一度以上学校を訪れてもらい、一年間かけて学校の様子を評価してもらおうというもの。具体的には、(1)教員の指導が行き届いているか、(2)いじめなどで子どもが不当な扱いを受けていないか、(3)学校の方針は妥当かなど、約二〇項目についてA~Dの四段階で評価する。結果は品川区のホームページで公表し、区が新入生に配る学校案内にも掲載されるという。また評価の低かった項目については、各学校に改善計画を提出させ、評価結果とあわせて公表するという。

●私の経験から……

 「古い体質をなかなか変えようとしない学校教育を改善するには効果的」(若月秀夫教育長)ということだが、私ももう二〇年近く前に、浜松市内の小学校について、学校に対する評価を調査したことがある。しかしその結果、(1)評価は、複数の学校を相互に比較してはじめて可能。(2)客観的評価は、たいへん難しいの二点で、「この種の調査は、あまり意味がない」という結論を出したことがある。その学校しか知らない父母や子どもに、「あなたの学校をどう思いますか」と質問しても、その質問自体にあまり意味がないということ。

そこで県外からの転校生や、兄弟で別々の学校に通っている子どもやその父母に聞き取り調査をしてみたが、今度はサンプル数そのものが少なくて、「結果」と言えるほどまでに集計できなかった。さらに親の評価はたいへん主観的なもので、「友だち先生」をよい先生とする親もいれば、悪いとする親もいる。また同じ先生でも、比較的勉強がよくできる子どもの親はよい先生と評価し、勉強ができない子どもの親は悪い先生と評価するということもわかった。品川区のお手並みを拝見したい。

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●教育者の美談にだまされない法(美談にだまされるな!)

教育者が美談を口にするとき

●どこかおかしい美談

 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話がある。

 あるテレビタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやってきて、「あなたのもっているペンをくれ」と頼んだという。理由を聞くと、「ぼくはそのペンで勉強をして、この国を救う立派な人間になりたい」と。そのタレントは、感きわまった様子で、ほとんど涙ながらにこの話をしていた(二〇〇〇年夏、H市での教育講演)。しかしこの話はどこかおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神をもっている子どもが、「ペンをくれ」などと、物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れても、インクの補充はどうするのか。「だから日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレントは言いたかったのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。

 一五年ほど前のこと。K県の私塾連盟の有志が、トラック一杯の学用品を、インド洋にあるS国に送ったことがある。で、その二年後、その文房具がどう使われているか、二人の教師が見に行った。が、それらの文房具はほとんど手つかずのまま、倉庫に眠っていたという。理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の一日の給料よりも高価なノートや鉛筆を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。そういう話ならわかるが、「立派な人間になりたい」とは?

 そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおかしい。貧しい親子が、一杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取りあげられ、その後、映画にもなった。しかし私がその場にいた親なら、かけそばには箸をつけない。「私はいいから、お前たちだけで食べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。私には私の生きる誇りというものがある。その誇りを捨てたら、私はおしまい。親としての私もおしまい。またこんな話も……。

●「ぼくのために負けてくれ」

 運動会でのこと。これから一〇〇メートル走というときのこと。横に並んだB君(小二)が、A君にこう言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。そこでA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならない思い、途中から本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。ある著名な教育家が、ある雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものがおかしい。その教育者は、二人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたことのある人ならすぐわかるが、こういう高度な判断能力は、小学二年生には、まだない。仮にあったとしても、あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな話も……。

●こんな美談も……

 ある小学校教師が一時間目の授業に顔を出したときのこと。小学一年生の生徒たちが、「先生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。原因は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出ていた。そこでその教師は、三〇分間ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、そして再び授業に臨んだという。その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立つときは心を整えた」とテレビで話していたが、この話もおかしい。その三〇分間だが、子どもたちはどこで何をしていたというのだろうか。その教師の話だと、子どもたちは教室に残されたままだったということになるのだが……?

 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意したらよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい話で自分の説話を飾りたがる。

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●子どもを本好きにする法(方向性は図書館で知れ!)

子どもの方向性を知るとき 

●図書館でわかる子どもの方向性
 
子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。数時間、図書館の中で自由に遊ばせてみればよい。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読む。そのとき子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。その方向性にすなおに従えば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理をすれば子どもの伸びる「芽」そのものをつぶすことにもなりかねない。ここでいくつかのコツがある。

●無理をしない

 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一~二年、レベルをさげる。親というのは、どうしても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七歳の子どもには、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざける。そこで「うちの子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。本の選択は、子どもに任す。こういう親がいた。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本をもってくると、「こんな本はダメ。もっといい本にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本から遠ざける。

●動機づけを大切に

 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子どもに何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。本のばあいだと、子どもをひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるとよい。この動機づけがうまくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよしあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。子どもは読む意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないことは、言うまでもない。

●文字を音にかえているだけ?

 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力があるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」、子「……わかんない」、親「うさぎさんは誰に会ったのかな?」、子「……わかんない」と。もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質問してみるとよい。「うさぎさんは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終えたら、その内容について絵をかかせるとよい。読解力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をかく。なお読解力のある子どもは、一ページを読むごとに深く考える様子をみせたり、そのつど挿し絵を見ながら読む。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。

●文字の使命は心を伝えること

 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字好きにする。が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそうだが、文法もそうだ。接続詞という言葉こそ使わないが、小学二年生から、その接続詞の使い方を学ぶ。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、五人に三人はいる。

(付記)
●私の記事への反論

 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげるときには、途中で、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読み聞かせをしている人からだった。

 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひとりの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決してその本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から受けるストレスは相当なものだ。パソコンを相手にしていると、そういう場面によく出あう。「TIFFファイル(インターネットファックスファイル)を、EASYFAXPRO2001EXのファックスビューワーに関連付けますか」などという表示が突然出てきたりすると、パソコン歴三〇年以上の私ですら、いまだにドキッとする。あくまでも子どもの立場で考えたらよい。