Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, April 30, 2009

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 5月 1日
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5月1日  第1194号になりました!

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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ビデオカメラ

+++++++++++++++++

今日、ビデオカメラを買った。
帰るとき、ワイフに、「これでお前のヌードを
たくさん撮ってあげるよ」と言うと、
「あら、いやだ。バーさんのヌードなんて、
だれが見るの?」と。

私「ぼくが、90歳になったら、見るよ。
60歳の女性のヌードだったら、感じるかも」
ワ「そのころ、あなたのモノ、役立つかしら?」
私「だいじょうぶ。自転車で、ちゃんと鍛えて
あるから」と。

で、あちこちを試し撮り。
しかしおかしなものだ。
撮るたびに、「フィルムがもったいない」という、
へんな感覚が、じゃまする。
フィルムなんか、使っていないのに……。

で、なぜ、今、ビデオカメラかって?
実は、今、YOU TUBEに凝っている。
デジタルカメラで動画を撮っている。
しかしこれが結構、不便。
どんな画像が撮れているか、撮影中はわからない。
シャッターを押しまちがえて、
動画が撮れていないことも、たびたびある。

もちろん画質も悪い。
音も悪い。

で、ビデオカメラということになった。
買ったのは、ビクターのEverio。
SDカードと、ハードディスクの両方で、
記録できる。
リモコン付き。
これなら、今までの不便がすべて解消できる。

4年間保証に入ったので、使って使って、使いまくる。
……ということで、今夜見たら、もうキズまるけ。
「どこでキズがついたのだろう?」と思ったところで、
この話は、おしまい。

みなさん、どうか、YOU TUBEを見てください。
新作を、どんどん発表していきます。

+++++++++++++++++

●脳の分化

男と女を論じるとき、意外と知られていないのが、「脳の分化」。
男は男らしい体つきになる。
女は女らしい体つきになる。
同じように、脳もまた、男性ホルモンの影響を受けて、男は、男として分化していく。

つまり基本的には、人間は、みな「女」。
それが男性ホルモンの影響を受けて、「男」へと分化していく。

では、その分化がじゅうぶんでなかったばあいには、どうなるのか。
そのばあいは、男女の(差)が、不完全なまま、おとなになる。
しかしここで最大の問題に、ぶつかる。

「男らしさとは何か」「女らしさとは何か」という問題である。

いまだかって、この命題に、明確な答を出した人はいない。
あるいは「……らしさ論」を論ずることは、まちがっているのかもしれない。
かりにあったとしても、時代、地域、国によって、(らしさ)は、みなちがう。
一般論から言えば、日本人は、(らしさ)について、きびしい。
はっきりとした(差)を求めやすい。

たとえば今はやりの「武士道」にしても、「武士」という言葉から
男をイメージすることはあっても、女をイメージする人は、まずいない。
その反対側に位置するのが、「大和なでしこ」ということになる。
広辞苑には、「日本女性の美称」とある。

武士と大和なでしこ。
この(差)こそが、日本人が考える、(らしさ)ということになる。
しかし先にも書いたように、それはけっして、世界の標準ではない。
基準でもない。

では、脳の分化とは何か。
またどういう脳を、「男性脳」といい、どういう脳を、「女性脳」というのか。
これも一般論だが、男性脳のほうが、女性脳より、やや大きいという。
また最近わかってきたことだが、女性のばあい、右脳にも言語中枢があるという。
だから女性には、おしゃべりな人が多いということにもなるが、しかし
男性でも、おしゃべりの人は多い。

ただし(性)の世界では、ちがいが大きく現れる。
たとえば、男は女のヌードを見て、性的に興奮するが、女は男のヌードを
見ても、あまり興奮しない。
ビデオカメラで女の体を撮る人の話は聞いたことはあるが、その反対の話は、
聞いたことがない。
女が男のトイレをのぞいたという話も、聞いたことがない。
ビデオショップで、エロビデオを借りる人は、男ばかり。
だいたい、ビデオショップにあるのは、男用のものばかり(?)。

そうした(ちがい)はあるが、それが脳の分化によるものと考えるには、
少し無理がある。
一度興奮状態になると、もう、男も、女もない。
そのうち女用のエロビデオも、出てくるかもしれない。
世の中には、男のヌードを撮って、楽しんでいる女もいるかもしれない。

……ともかくも、脳の分化は、その国、その時代の(文化)によって、
作られていくということ。
(分化)と(文化)。
分化と文化によって、男は男らしくなり、女な女らしくなっていく……。

ナルホド!

……と書いたが、今は、男らしさ、女らしさを、論ずる時代ではない。
男だろうが、女だろうが、人間は、みな同じ。
平等。
そういう視点から、ものを考える。
結果として、男らしくなったり、女らしくなったとしても、それはあくまでも、
「結果」。
結果を先にもってきて、それを男や女に、(そうであるべき)と、その結果を
求めてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
男女 男女の差 ジェンダー 男性脳 女性脳 男らしさ 女らしさ 脳の分化)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●ある女性の葛藤

数日前、ある女性から10年ぶりにメールが届いた。
「たいへんな」というより、「たいへん悲惨な」というべきか。
たいへん悲惨な家庭環境の中で、生まれ育った方である。
親の離婚のあと、里子に出され、そこで性的虐待、家出、放浪……。
さらに近親者の自殺などなど。

その女性の母親が、介護が必要な状態になったという。
母親といっても、その女性にしてみれば、母親の存在そのものを忘れて
しまいたいような母親である。
その女性は、忌まわしい過去を、一日でも早く忘れたいと願っている。
あるいは過去から解放されたいと願っている。

そんなとき郷里の人たちから、母親のことを知らされたらしい。
で、その女性は、その連絡を無視。
返事をしなかった。
恐らく郷里の人たちは、その女性のことを、「何という娘だ」と、
非難しているにちがいない。
そのことを気にしているわけではないだろうが、その女性は、今、
苦しんでいる。

が、この(苦しみ)だけは、それを経験したものでないとわからない。
本脳に近い部分にまで、刷り込みがなされているから、それを
(私)から切り離すのは、容易なことではない。
まさに「身を切り裂くような」苦痛と闘わねばならない。

私も、似たような状況に置かれたことがある。
で、そのときは、10か月近く、毎晩床に就くたびに、発熱が
始まり、ワイフの看病なくして、眠られなかった。
「家族自我群(=呪縛感)」による「幻惑(=苦しみ)」と闘うということは、
そういうもの。

そういうとき私にしても、「お前は息子だろ」「産んでもらったのだろ」
と言われることくらい、つらいことはなかった。
いや、世の中には、無神経なバカが多いのも事実で、表面的な部分だけを
見て、あれこれ言ってくる人もいた。
たいした用もないのに、さぐりの電話をかけてきたり、手紙を書いてきたりした
人もいる。

それでも親は親なのか。
子は子なのか。
産んでもらった恩(?)は、どこまでもついて回るものなのか。

しかしこういうこともある。
私と母の間にしても、いろいろあった。
しかし母が私の家に来て、最初の日。
私が母の下痢で汚れた尻を拭いてやったその瞬間、すべての(わだかまり)が、
煙のように消えた。
そこで手すりにつかまって立っている母は、どこまでもあわれな、か弱い
老人に過ぎなかった。

だからその女性への返事には、こう書いた。
そのまま転載する。

『こんにちは、Mさん!

苦しいお気持ち、察しいたします。
「家族」のもつ呪縛というか、それから逃れるのはたいへんなことです。
骨の髄まで燃やしつくしますから……。
しかしこの問題だけは、逃れることはできません。
まだ間にあうようでしたら、運命を受け入れて、やるべきことはやる……
ということはできませんか?
介護にしても、今は、意外なほど、楽です。
ケアマネに相談すれば、いろいろな道がありますよ。

もしそれができないというのであれば、生涯、悶々とした気分で
過ごすことを覚悟することです。
「幻惑」には、それほどまでに強い力があります。

私も苦しみました。
10か月間、ワイフに、毎晩看病してもらったほどです。
夜、床に就くと、熱が出て、うなされました。
10か月、です。
しかし母が私の家に来て、最初に、下痢の便を始末したとき、
わだかまりがウソのように消えました。

あなたのような人のほうが、(真理)に近いのですよ。
苦しむが故に、そこに(真理)があることを知るのです。

できれば『許して、忘れなさい』。
まだ間に合うよでしたら、明るい声で、電話をかけてあげなさい。
あなたも人を愛することの喜びというか、すがすがしさを覚えるはずです。

心を解き放ちなさい。
体はあとからついてきます。
この世の中、悪い人ばかりではない。
みんなが助けてくれますよ。

そしていつか、あなたも、人を助けるのです。

あなたの過去のことは、よく覚えています。
別離、離婚、身内の自殺などなど。
(もしまちがっていたら、ごめんなさい。
M様の記録は残してありませんので……。)

家族自我群(=呪縛)の苦しみは、ものすごいものです。
本脳に近い部分にまで、刷り込まれていますから……。
私が経験しましたから、これは事実です。
恨めば恨むほど、身が焼けます。

だったら、受け入れてしまうのです。
介護がたいへんだったら、そのように先方に伝えればよいでしょう。
いやだったら、正直に、「いやだ」と言えばよいのです。
逃げてはいけません。
正直に、生きるのです。

方法は、いくらでもあります。
もうあなたはじゅうぶん、苦しみました。
ここらでケリをつけたらどうでしょうか』(原文のまま)と。

親は、子を産むことで親になるが、
そのあとよき親子関係を築けるかどうかは、
まったくの別問題である。
たいていの親は、(若い親は)、「私はだいじょうぶ」と高をくくっている。
この文章を読んでいる、あなただって、そうかもしれない。
しかしよき親子関係を築ける人は、10人に1人もいない。
つまり、それくらい、むずかしい。

親友ならまわりの友人の中から選んで、作ることができる。
しかし(子)は選ぶことができない。
だからむずかしい。
この世界で、『親だから……』『子だから……』という、(ダカラ論)ほど、
アテにならないものはない。
そんな(ダカラ論)に甘えて、子の人格を無視すると、たいてい失敗する。

ともかくも、私はその女性からのメールを読んで、久しぶりに
一度は忘れた自分の過去を思い出した。
とても他人ごとには、思えなかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親子の確執 葛藤 親子の問題 呪縛 苦悩)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●通俗性(続編)

++++++++++++++++

数日前、「通俗性」について書いた。
それについて、ある読者(男性)から、
こんなコメント(書き込み)があった。
何でも、その地方では、ことあるごとに、
村の長老たちが、「お前も、男だろ!」
「男らしくしろ!」と言うという。
その男性は、それが不愉快でならない、と。

これも立派な(?)、通俗性である。

++++++++++++++++

●「お前も、男だろ!」

私も若いころ、よくそう言われた。
今でも、ときどき、そういう言葉を耳にする。
「お前も、男だろ!」と。
しかしそのたびに、「だから、どうなの?」と聞き返したくなる。
「だから、それがどうしたの?」と。

こんな論理(=非論理)がまかり通るところに、日本に後進性が残っている。
日本が世界の人たちに、「奇異なる国」と呼ばれる理由がある。
が、その前に、この日本では、「男」を、どう考えているのか?
そのあたりから話を聞きたくなる。

●「男らしくしろ!」

「男らしくしろ!」という言葉も、同じ。
実は、つい昨年、私も、この言葉を言われた。
いきさつを話すと長くなるが、こうした言葉を平気で口にする人というのは、
要するに、その程度の人でしかない。

私はその言葉を言われたとき、すかさず、「じゃあ、あなたはどうなの?」と
言いそうになった。
「偉そうなことを言う前に、自分自身は、どうなの?」と。
が、相手にしなかった。
見るからに、そのレベルの人だったからである。

●男尊女卑

そこはまさに男尊女卑の世界。
いまだに武士道なるものを礼賛する人や団体は多いが、武士道なるものの負の
遺産を説くことなしに、武士道を礼賛してもらっては困る。
この武士道のおかげで、日本は、世界でも類を見ないほどの、たとえばその
ひとつとして、男尊女卑思想をもってしまった。

「男は仕事、女な家庭」という、あれである。
「内助の功」という言葉でもよい。

私が子どものころでさえ、男尊女卑思想は、まだ色濃く残っていた。
女性が今の(地位)を確立したのは、戦後のことである。
ウソだと思うなら、現在、70代、80代の人たちの考え方に、
静かに耳を傾けてみたらよい。
あなたも化石のような思想に、驚くはずである。

●孤独な世代

しかし安心してほしい。
新しい世代、若い人たちから、どんどんと(変化)が始まっている。
「仕事より家庭」と考えている人が、80%前後はいる。
出世主義も、崩壊した。
さらに「主夫業」という言葉も、日常的になってきている。
今では、料理を趣味にする男性も、多い。

つまり「お前も、男だろ!」とか、「男らしくしろ!」などと言っている人は、
その年齢の、しかもノーブレインな人(=脳みそのない人)たちである。
まともな人たちは、こういう言葉を使わない。
使ったとたん、若い人たちから、はじき飛ばされてしまう。
つまり相手にされない。

だからそういう人たちは、そういう人たちで集まり、具体的には、若い人たち
とは距離を置いた世界で集まり、たがいに慰めあう。

ただ我慢ならないのは、彼らは、私もその仲間(?)と、決めてかかってくること。
数年前も、(たった数年前だぞ)、「今の若いやつらは、先祖を粗末にする。
許せないよな、林君」と、同意を求めてきた人(当時、70歳くらい)がいた。

つまりは孤独な世代ということになる。

●ダカラ論

何をもって、「男らしく……」と言うのか、そんなことを論じても、意味はない。
「男とは何か」を論じても、意味はない。
もともと論ずる価値もない。
こういうのを総じて、『ダカラ論』という。

「親だから……」「子なんだから……」「夫なんだから……」「身内なんだから……」
「親類なんだから……」「男なんだから……」と。

そのつど使い方によっては、便利な論法だが、もともと根拠があるわけではない。
つまり一定の「型」を決めて、それを押しつけてくる。
昨日、メールをくれた女性も、そうだ。
その『ダカラ論』で苦しんでいる。

●親にもいろいろ

事情は複雑。
自分を、幼女のときに捨てた母親がいる。
その女性はそのあと、悲惨な少女期、成人期を迎えて、やっと今になって、
ささやかな「幸福」をつかんだ。
その最中、郷里の人たち(=母親が属する宗教団体の人たち)から、連絡があった。
そのあたりのことは詳しく書いてないが、きっとその人たちは、こう言って、
その女性に迫ったにちがいない。

「あなたは、娘なんだから、(親のめんどうをちゃんと、みろ!)」と。

親にもいろいろいる。
自分の親がそうであるかといって、その親像を、他人に押しつけてはいけない。
また安易に、「そうであるべき」と考えてはいけない。
事情がわかったら、そっとしておいてやるのも、周囲の人たちの思いやりという
ものではないのか。

●男女の差

前にも書いたが、日本人ほど、(男女の差)を、色濃くもっている民族というのは、
そうはいない。
日本人というのは、相撲や歌舞伎を例にあげるまでもなく、何でも「型」に
はめないと、気がすまないらしい。
男や女についても、そうである。
男や女にも、「型」がある?

しかしこれほどバカげた「型」も、そうはない。
世界には、日本でいう男女観が逆転している民族となると、いくらでもいる。
男が留守を守り、女が狩猟に出かける民族だっている。

●結論

あとはそれに気づくかどうかということ。
狭い世界だけで、ずっとその世界だけに生きてきた人には、わからない。
そういう人というのは、先にも書いたように、「化石」のようなもの。
相手にしても、しかたない。
化石のようになった石頭を、変えることなど、不可能。

だから私のばあいは、相手にしないという方法で、対処している。
相手にしたところで、どうしようもない。
それだけの向学心もない。
あるいはへたに説明したりすると、猛烈に反発してきたりする。
それ自体が、人生観になっているから、自分の人生を否定されたかのように
感ずるらしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
原始的な男女観 男女の分化 男尊女卑 男尊女卑思想 男らしく お前も男だろ
はやし浩司 だから論 ダカラ論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●上司の死

++++++++++++++++++

昨夜、長男が固い表情で、食卓へやってきた。
「上司が急死した」と言った。
「脳内出血が原因だった」と言った。

「その2時間前には、元気でぼくと会話をしていた。
そのあと会議の席で倒れ、そのまま死んでしまった」と。

長男は、あまりにもあっけない人の死を見て、
かなりのショックを受けたらしい。
が、それ以上に、長男は、自分の心にショックを
受けたようだ。

「それがね、おかしなことに、ぜんぜん、悲しく
ないんだよ」と。

それを聞いて、私は、「そういうものかなあ?」と
思ったり、「そういうものだろうなあ」と思ったりした。

++++++++++++++++++

●「無」から「無」へ

4月に三男が結婚することになった。
そのことはともかくも、私は今、ふとこんなことを考える。
「孫たちは、今、どこにいるんだろう?」と。

結婚して子どもをつくる。
三男には、息子や娘ということになる。
私にとっては、孫ということになる。
その孫たちは、今、どこにいるのか。

人は死んで、この世から去っていく。
では反対に、今はいない、孫たちは、いったいどこから
やってくるのか。
つぎの瞬間には、今までの人生がそうであったように、
当たり前のような顔をして、孫たちは、そのあたりを
孫が遊ぶようになるだろう。
が、今は、いない。

しかし、それはそのまま私自身の問題でもある。
私は(無)の世界から生まれ、やがて死んでまた(無)の世界に
戻っていく。
100年前には、私は、たしかに(無)だった。
三男の息子や娘のように、この世には、まだいない。
そして100年後、私は、確実に(無)に戻る。
長男の上司のように、跡形(あとかた)もなく、消えてなくなる。

となると、いったい、(私)は何かということになってしまう。
長くて、100年。
100年といっても、この宇宙の中では、星がまばたきする、
その瞬間にもならない。
地球にしても、この宇宙の中では、ゴミの、そのまたゴミのようなもの。
その地球で(生)を受け、その瞬時に生き、そして死ぬ。

考えてみれば、いちいち悲しんでいるヒマさえない。
それがだれの死であっても、つぎの瞬間には、それがそのまま(私)の
死になる。

いや、そのときは長く感ずるかもしれないが、終わってみると、
みな(瞬間)。
私の母にしても、この浜松市に2年間いたはずなのに、その実感が
まるでない。
そして死んでから、もう半年。
その実感も、まるでない。
振り返ってみると、すべてが(瞬時)に終わってしまった。
が、それだけではない。

おかしなことに、本当におかしなことに、今では、「いなかったことが、
当たり前」というふうになってしまった。
「本当に母は、この世にいたのだろうか」と。

やがて孫たちは、わがもの顔で、この世をかっ歩するようになるだろう。
そしていつか、今の時代を振り返りながら、こう思うにちがいない。
「本当にぼくには、おじいちゃんがいたのだろうか」と。

こうして無数の(私)が、現れては消え、現れては消えを繰り返す。
今の(私)は、ほんのその一部でしかない。
この不思議さ。
この不可思議さ。
それを考えていると、気が遠くなるほど、自分がどんどんと小さくなって
いくのがわかる。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●ミサイル迎撃、反対!(改)(I am NOT a traitor to my country!)
(私は、売国奴ではない!)(Just ignore North Korea, which is the best policy!)

North Korea in NOT at all worth enough, or NOT such a country that we should treat as
a normal country. Who in the hell shouts back to a mad dog? Therefore I am against
shootong down the missile.

++++++++++++++++++++

K国など、相手にしてはいけない。
また相手にする価値もない。
日本は、あんな国を本気で相手にしてよいのか。
あんな国と、心中するつもりなのか。

日本よ、日本人よ、おとなになろう。
国力は、山陰地方の1県分もない。
国民は飢え、経済は壊滅状態。
頭のおかしい独裁者に率いられた、どこまでも
あわれで、どこまでも、悲しい国。
それがK国。

+++++++++++++++++++++

どこかのBLOGで、とうとうこの私が、「売国奴」に指名された。
「ミサイル迎撃反対」を唱えると、この国では、自動的に、売国奴になるらしい。
しかしあえて、繰り返す。
ミサイル迎撃、反対!

今、ここでミサイルを迎撃すれば、日本はそのままK国と、交戦状態に突入する。
すかさず彼らは、中距離ミサイルを日本へ撃ち込んでくる。
その可能性は高い。
その口実を与える。
仮にカラのミサイルであったにせよ、日本はそのまま大混乱。
日本の経済は、奈落の底へと叩き落とされる。

忘れてならないのは、K国は、まともな論理の通ずる、まともな国ではない
ということ。
「Mad Dog(狂った犬)」(アメリカ政府高官)である。
「だだをこねる子ども」(ライス前国務長官)である。
さらに言えば、「チンピラ国家」。

勇ましい好戦論にまどわされてはいけない。
日本人の怒りもわかる。
私も怒っている。
拉致問題で見せた、あの態度は、人間として許せない!
しかしここは、がまん。
ひたすら、がまん。
今まで、ずっとがまんしてきたではないか。

やりたいようにさせながら、日本は国際世論で、締めあげる。
K国を兵糧攻めにする。
一気に兵糧攻めにする。
K国を、自己崩壊へと導く。
中国や韓国はそれを恐れているが、日本にとっては、それが最善。
金xxの命も、それほど長くはない。
が、今、ここで日本が手を出せば、あとへ引けなくなる。
戦争というのは始めるのは簡単だが、終えるのは、難しい。
ブッシュのイラク戦争を例にあげるまでもない。

だいたい、あんなガラクタのようなミサイルを撃ち落とすために、
何百億ドルもかけた迎撃システムを使うこと自体、バカげている。
これを税金のムダづかいと言わずして、何という!

日本は、まだ、世界の経済大国である。
超大国である。
そんな大国が、世界でも最貧国の、暴力団国家を相手にして、どうする?
どうなる?
「正義」を説くなら、相手を選んで、説こうではないか。
あんなチンピラ国家を相手に、正義を説いても意味はない。
頭のおかしな国を相手に、正義を説いても意味はない。
説く価値もない。

だから、ミサイル迎撃反対!

繰り返す。
私は売国奴では、ない!
心底、この国を愛している!

(補記)
韓国の世論調査によると、「日本がミサイルを撃ち落としてくれればいい」を、
ほとんどの人が支持しているという(韓国紙)。
なぜか?
わかるか?

何も日本を支持しているわけではない。
もちろん日本のことを心配して、そう言っているのでもない。
K国の攻撃の矛先を、韓国から日本へかわすことができる。
日本の経済を混乱の渦の中に、巻き込むことができる。
つい去年まで、韓国は、日本にとって、最悪の反日国家だった。
それを忘れてはいけない。
つまりは、自国エゴ。

しかしここで日本が、K国のミサイルを迎撃すれば、それこそ、韓国の
思うつぼ。
K国の思うつぼ。
日本は、その術にはまってはならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ミサイル迎撃反対 戦争反対 ミサイル迎撃 反対)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●ならず者(チンピラ)国家

++++++++++++++++++++++

今日(3-31)の外電によると、あのならず者(チンピラ)
国家は、小型核の開発に、すでに成功したらしい。
「中距離ミサイルへの搭載も、可能になった」と。

だから言わないことではない。
あのおバカ外交官のC・ヒルが、マネーに合わせて、
5年という開発年月を、K国に与えてしまった。

この先、日本は、K国の核兵器にビクビクしながら、
生きていかねばならない。

++++++++++++++++++++++

●パラドックス

「日本が何もしなければ、相手も何もしてこないだろう」と考えるのは、甘い。
相手は、そういう常識の通ずる国ではない。
スターリンでも、そこまではしなかったというような、幻想と妄想にとりつかれている。

プライドだけは、異常なまでに強い。
そのプライドが、カプセルの中で、極端に肥大化してしまった。
(子育ての世界でも、似たような現象が見られることがある。)
本来なら、風通しをよくしなければならないのだが、その風通しもしない。
だから私は、あの金xxに、こう言いたい。

「あなたの国がそんなにすばらしい国なら、世界に公開したらいい。
あなたの国がそんなにすばらしい国なら、自国の人たちに世界を見せたらいい」と。
このパラドックスに、金xxは、どう答えるつもりだろうか。

●それにしても……?

それにしても腹立たしいのは、世界の人たち。
あのバブル経済がはじけたときも、そうだった。
日本が経済的に瀕死の重傷を負ったときも、この日本に助け舟を出してくれた
国は、ひとつもなかった。
これほどまで、毎年、世界中に、援助金をばらまいているのに、その(恩)は、
どこへ消えていくのか。

今回もそうだ。

まず、アメリカが抜けた。
つづいて韓国が抜けた。
中国、ロシアは、知らん顔。
アフリカ諸国は遠いからしかたないとしても、冷たいのはアジア諸国。
だれひとり、日本の味方になってくれる国は、ない。
国連にしても、日本の分担金ばかりが巨額で、日本にとってのメリットは、
ほとんどない。

だったら、日本政府よ、もうやめよう。
日本人の税金を削ってまで、世界を援助するのは!
OECDだか、なんだか、知らないが、あんなのはムダ。
韓国にいたっては、その金を使って、日本の追い落としばかりを画策していた。

(韓国は「自力でここまで来た」と威張っているが、韓国が得意とする、
自動車産業、電子産業、造船業などなど、すべて、もとはと言えば、日本が得意と
していたもの。
鉄鋼業にしても、そうだ。
それ以外には、何もない。)

●人権で攻める

話がそれたが、アメリカだって、もうアテにならない。
アテにしても、いけない。
今しばらくは、日米関係は国際外交の基軸だが、そればかりにこだわっていると、
日本は、本当に沈没してしまう。

早ければ早いほど、よい。
私がすでに9年前から説いているように、K国は兵糧攻めにして、自滅させる。
ゆいいつの武器は、人権外交である。
「人権」を旗印に、K国を攻めて攻めて、攻めまくる。
もちろんその中には、拉致問題も含まれる。

K国の人権がどうなっているか、それを徹底的に調べて、世界に向けて発信する。
(これも今となっては、遅すぎた感もないわけではないが……。)
が、どうしてK国の人権会議が、ヨーロッパやオーストラリアでなされるのか。
どうしてこの日本では、なされないのか。

経済(=制裁)や、軍事で攻めてはいけない。
そんなことをすれば、かえって彼らは結束してしまう。
逆効果。
今が、その(結果)と考えてよい。

●では、どうするか

ここまで来たら、ポスト金xxを念頭に置きながら、その布石をしていくしかない。
金xxは、現在、重病である。
先は長くない。
そのときをにらみながら、K国が、自滅するのを待つ。
制裁するのではない。
無視する。

そのあと、K国が門戸を開いたとき、日本が「人権」という正義のために闘って
きたことを、K国の人たちに示せばよい。
だから現在のミサイル問題にしても、迎撃など、もってのほか。
仮に打ち落としても、その破片が、日本中に散らばるだけ。
そのあと、K国に、日本攻撃の口実を与えてしまう。
もしそうなら、何のための迎撃かということになる。

もともと日本が相手にしなければならないような国ではない。
警戒すべきは、核兵器のみ。
今では、そうなった。
おのおバカ外交官のせいで……。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【4月4日、東京があぶない】(改2)
Tokyo under Attack by North Korea

++++++++++++++++++

迎撃態勢に入った日本。
それから逃げた、韓国とアメリカ。
K国は、ミサイル発射に失敗しても、
異常な思い込みによって、それを
日本のせいにするだろう。
そして3月31日、「迎撃すれば、
日本に報復する」と、日本に警告した。

K国は、テポドンに並行して、ノドンの
発射準備も始めた。
K国内、数か所で、発射準備がなされているのが、
確認されている。
その数、数百発。
すべて日本を射程に収めている。

日本がもっとも恐れるシナリオに
向って、極東アジア情勢は、今、まっしぐらに
進んでいる。

私は4月4日に、東京で人に会う約束を
していたが、キャンセル。
また東京に住む息子には、4日は、別の場所に
疎開するように指示した。

つぎの記事を順に読んでみてほしい。
それでもあなたは、「だいじょうぶ」と
思えるだろうか。

10に1つの可能性かもしれないが、
今、東京があぶない!

++++++++++++++++++

●NIKKEI(北朝鮮、ミサイル迎撃なら「本拠地(東京)を粉砕」

【ソウル=尾島島雄】北朝鮮の朝鮮中央通信は31日、「人工衛星」名目で発射した長距離
弾道ミサイルの迎撃を日本政府が検討していることに関して「日本があえて迎撃する場合、
最も威力のある軍事的手段によってすべての迎撃手段とその本拠地を、無慈悲に粉砕する
だろう」と強調した。迎撃すれば報復するとの姿勢を、これまでより強い調子で警告した
ものだ。「(迎撃は)第二次世界大戦後、60余年ぶりに鳴らす再侵略戦争の砲声とみなす」
とも断じた。(01:16)


●聯合(日本を、粉砕する!)

【ソウル31日時事】朝鮮中央通信は31日の論評で、北朝鮮が「人工衛星」と称して発
射の準備を進めている長距離弾道ミサイルを、日本が迎撃した場合、北朝鮮は「再侵略戦
争の砲声」とみなし、「最も強力な軍事的手段によってすべての迎撃手段と、その牙城を無
慈悲に粉砕する」と警告した。韓国の聯合ニュースが伝えた。


●時事通信(戦争、前夜だ!)

【ソウル31日時事】韓国の対北朝鮮人道支援団体「良き友達」は、31日発行のニュー
スレターで、北朝鮮は「人工衛星」と称した長距離弾道ミサイルの発射を控え、緊迫した
空気に包まれていると伝えた。

それによると、民間兵力に当たる労農赤衛隊のほか、地方軍や予備役も「戦闘準備」に入
ったほか、男性は基本的に移動が禁じられ、人民軍兵士も外出が認められていないという。

北朝鮮政府当局者は地方の幹部らに対し、発射前の「緊張した情勢」を説明している。平
壌北方の平城市に住む40代男性は「戦争前夜のようだ」と話している。


●時事通信(小型核、保持!)

【ソウル31日時事】国際的な非政府組織(NGO)「国際危機グループ」(ICG)によると、
北朝鮮がプルトニウムを使用した核爆弾の小型化に成功し、中距離弾道ミサイル「ノドン」
(射程1300キロ)用の核弾頭を製造した可能性があると、米韓情報当局が分析しているこ
とが31日、明らかになった。

日本のほぼ全土を射程圏内に収めるノドンは、北朝鮮国内に多数実戦配備されており、日
本にとっては直接的な脅威となる。 


●イザ・ニュース(ノドンは、320基)

北朝鮮が実戦配備した中距離弾道ミサイル「ノドン」が最大で320基に上る可能性があ
ることが1日分かった。国際研究機関「インターナショナル・クライシス・グループ」が
3月31日に発行した北朝鮮ミサイル問題に関する報告書の中で、関係国政府の内部資料
に基づく内容として明らかにした。


●イザ・ニュース(生物・化学兵器も!)

【ベルリン=黒沢潤】北朝鮮が2008年に、生物・化学兵器への転用が可能な機器をド
イツ国内で調達しようとして、阻止されていたことが31日までに分かった。ドイツの情
報機関「連邦憲法擁護庁」のフロム長官が産経新聞の取材に対して明らかにした。


●毎日新聞(ミサイルではなく、衛星だ!)

27日には、日米韓の首席代表がワシントンで会合を開く予定だが、ミサイル発射問題で
あくまでも強硬姿勢を取る日本と米韓が足並みをそろえることができるかが焦点となる。

これに対し、北朝鮮は強硬発言を繰り返している。

朝鮮中央通信によると、北朝鮮外務省報道官は26日、「安保理で衛星打ち上げを非難する
文書の採択や取り扱いがあれば、朝鮮半島の非核化に向けたプロセスは元の状態に戻る」
と述べ、6カ国協議からの離脱や核開発再開も辞さない構えを見せた。

6カ国協議の議長国・中国にとっても北朝鮮の離脱は絶対に回避しなければならないシナ
リオだ。中国外務省の秦剛副報道局長は26日の定例会見で、「人工衛星打ち上げ」として
国際組織に通報した北朝鮮の対応に一定の理解を示しながら、「関係各国は冷静さを保ち、
6カ国協議を守っていくようにしてほしい」と述べ、安保理決議違反と主張する日米韓を
けん制した。


●朝鮮N報(韓国は、イチ、逃げた!)

北朝鮮が4月4~8日と予告したミサイル発射の予定日が差し迫るにつれ、韓半島をめぐ
る各国の動きがあわただしくなっている。

周辺諸国の阻止にも関わらず、北朝鮮は連日で「宇宙の利用権」に触れ、発射に踏み切る
構えを見せている。韓日米3カ国は国連安保理で対北朝鮮制裁決議案を協議するというこ
とで一致した。しかし北朝鮮は「安保理で制裁協議をすれば、それだけで6カ国協議はな
くなる」とし、強硬策を予告している。

こうなる場合、北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議が長引き、韓半島をめぐる軍事的な緊
張は高まるほかない。こうした中、李明博(イ・ミョンバク)大統領が30日「北朝鮮の
ミサイル問題に対し、軍事的に対応することに反対する」と述べた。「迎撃しない」として
一歩後退した米国の立場と同じ脈絡だ。


●朝鮮N報(アメリカも、ニ、逃げた!)

米国は、今月27日にワシントンで開催した韓米日3カ国の対北朝鮮政策協議の前後から、
こうした政策基調を確定した。この協議に先立ち先月12日には、ロバート・ゲーツ国防
長官が北朝鮮のミサイルに対する迎撃の可能性を示唆し、強硬な対応を確約していた。し
かしゲーツ長官は、それから50日もたたない今月29日、メディアのインタビューで「北
朝鮮のミサイルを迎撃する計画はない」と表明、これにより自分の発言を事実上翻した。
ヒラリー・クリントン国務長官も、二日前の27日に迎撃計画を否定した。


●NIKKEI(日本は、迎撃する)

浜田靖一防衛相は27日、北朝鮮が「人工衛星」名目で発射した長距離弾道ミサイルが日
本領土・領海に落下した場合に迎撃する「破壊措置命令」を初めて発令した。自衛隊は同
日夜からミサイル防衛(MD)関連の部隊移動に着手。月内に配備を終え「万が一」に向
けた初の実戦運用の態勢を整える。政府は北朝鮮のミサイル発射後、5~10分で発射の
事実を一般に通知する方針だ。


●NIKKEI(東京都は、警戒態勢)

衆参両院は31日の本会議で、北朝鮮が「人工衛星」名目で弾道ミサイルの打ち上げを準
備している問題を巡り、発射の自制を求める決議を全会一致で採択した。

一方、北朝鮮の「ミサイル」問題を受け、東京都は同日、発射時に迅速に対応できるよう、
都内の全区市町村に緊急情報を伝達する訓練を行った。

訓練は午前11時に都庁9階の指令情報室で始まった。国から発射情報の連絡が入ると、
担当者が防災行政無線とファクスで各区市町村に一斉に伝達。防災服姿の職員は緊急連絡
の段取りを確認した。都庁舎内には訓練であることを告げたうえで一斉放送を流した。


●TBS(東京とは、警戒態勢)

東京都は、北朝鮮が「人工衛星」として弾道ミサイル発射の準備を進めていることをめぐ
り、政府からの情報を都内の62の区市町村に一斉連絡する訓練を行いました。

訓練は、「『北朝鮮が飛翔体を発射した』という緊急情報を政府が11時5分に都道府県に
対して通報した」という想定で行われました。


●読売新聞(人工衛星に、カモフラージュ)

【ワシントン=宮崎健雄】北朝鮮が舞水端里(ムスダンリ)のミサイル基地に設置した発
射体の先端部は、先が細くなった円すい形ではなく、人工衛星を収納する際に使用される
球根型の形状であることが30日、米軍事研究機関「グローバル・セキュリティー」のミ
サイル専門家、チャールズ・ビック上級研究員の分析で分かった。

北朝鮮は、通信衛星を4月4~8日の間に打ち上げると主張しており、実際に衛星を搭載
する可能性がある。

ビック氏は、米デジタルグローブ社が29日に撮影した衛星写真などを分析した。それに
よると、先端部は弾道ミサイルに使用される円すい形ではなく、大気圏に再突入する際に
必要となる姿勢制御には適していない構造だという。長さは2006年に発射されたテポ
ドン2の35メートルより、5メートルほど長いとの情報もあるという。

(2009-4月1日記)


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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*What is a shame for us?

●恥(はじ)論

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「恥」をもって、これこそが日本が世界に誇る、精神的美徳であると説く人は多い。
「恥を教えれば、学校からいじめがなくなる」と説く学者もいる。
しかし本当に、そうか?
そう考えてよいのか?

そのルーツといえば、封建時代の、あの武士道である。
それ以前のことは知らないが、「恥」が、日本の文化の中で立場を定着したのは、
そのころである。

が、封建時代を美化してはいけなのと同じように、「恥」なるものを、
けっして美化してはいけない。
ほんの5~6%の武士階級(=特権階級)の人たちにとっては、住みやすい
世界だったかもしれないが、あの時代は、世界の歴史の中でも、
類を見ないほど暗黒の時代であった。
それを忘れてはいけない。

それだけではない。
話は飛躍するが、「自立」と「恥」は対立関係にある。
自立できない人ほど、その一方で、恥にこだわる。
恥が日本人の精神的バックボーンであるとするなら、日本人は、それだけ
自立できない、つまりは未成熟な民族ということになる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●子どもの自立

満4・5歳を過ぎると、子どもは、急速に自立をめざす。
幼児期から少年期への移行期へと入る。
この時期、子どもは、まさに(ああ言えば、こう言う)式の反抗を繰り返すようになる。

母「玄関から、新聞を取ってきて」
子「自分のことは、自分でしな!」と。

子どもは生意気になることで、おとなの世界をコントロールしようとする。
けっしておとなの優位性を、頭から押しつけてはいけない。
おとなは、ときに子どもに負けたフリをしながら、かつ、バカなフリをしながら、
子どもに自信をもたせる。
それが子どもの自立を促す。

●権威主義

が、中には、子どもの反抗を許さない親がいる。
子どもが何かを口答えしただけで、「何よ、親に向って!」と。
たいていは権威主義的なものの考え方をする親と考えてよい。
しかし親が、親風(=悪玉親意識)を吹かせば吹かすほど、子どもは委縮する。
萎縮するだけならまだしも、子どもは、親に「飼殺されたような状態」になる。

たとえば親の優位性を押しつけすぎると、子どもは、(1)権威、権力に従順になる、
(2)ものの考え方が復古主義的になる、(3)「型」にはまった考え方をするようになる、
(4)保守的な生き方をし、非冒険的な生活を好むようになる、(5)依存性が強くなり、
ものの考え方が服従になったり、卑屈になったろする。

が、最大の特徴は、(5)見え、体裁、メンツにこだわり、その結果として、「恥」をより強く意識するようになる。

「世間に顔向けができない」
「世間体が悪い」
「世間が笑う」と。

●世間的な自己評価

「私は私」「あなたはあなたは」という生き方の中で、子どもは自立する。
私がどんな人間であっても、構わない。
あなたがどんな人間であっても、構わない。
大切なことは、「私は私で生きる。そしてその分だけ、相手は相手として認める」。
それが「自立」である。
「自律」と言い換えてもよい。

が、「恥」を気にする人は、常に、周りの人たち、つまり世間的な自己評価を気にする。
わかりやすく言えば、他人の目の中で生きる。
しかしこれが実に愚かな生き方であるかは、ほんの50年前を知ればわかる。

たとえば私たちが子どものことのこと。
たとえば「役者」という職業は、番外と言ってもよいほど、「恥ずかしい職業」という
ことになっていた。
あるいは家族の中に、何か障害をもった人(子ども)がいたりすると、その家族は、
必死になって、それを隠そうとした。
私が幼稚園の講師になったときも、母は、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。
「浩ちゃん、あんたは道をまちがえたア!」と。

しかしこんなものの考え方は、日本が誇るべき精神的美徳でも何でもない。
幼稚性の表れ、そのものとみる。

●恥ずかしいから、やめよう(?)

もちろん「恥」にも、いろいろある。
「個人の恥」
「家の恥」
「社会の恥」などなど。

こうした「恥」という言葉を使うときは、つねにそこに第三者的な目を想定する。
最近でも、韓国のある新聞に、こんな記事が載っているのを知った。

いわく、「……(韓国人は)、平気で道路につばや痰を吐く。
こうした行為は、(先進国の仲間入りをしようとしている国としては)、恥かしい」と。
今日も、「元大統領、事情聴取、韓国の恥」という見出しをかかげていた新聞があった
(5月1日)。

このばあいは、(外国)という国を意識しながら、「恥ずかしい」と言っているのがわかる。
しかしだからといって、同じ国民に向って、「ツバを吐くのは恥ずかしいからやめよう」と
言うのは、越権行為もはなはだしい。
いらぬ節介。

大切なことは、自分たちの国がまだそのレベルであることを認め、全体として文化を
高めること。
その結果として、みなが、ツバや痰を吐かなくなる。

言いかえると、恥を感ずるたびに、破れた衣服にパッチをあてていても、問題の
解決にはならないということ。
個人についても、同じ。

●大切なのは反省

「何をしてもよい」ということは、けっして、「他人に迷惑をかけてもよい」ということ
ではない。
そんなことは常識で、「恥」という言葉を改めて出すまでもない。
で、ゆいいつ「恥」という言葉が生きる場所があるとするなら、それは「自分に対しての
恥」ということになる。
が、それとて、「後悔」もしくは、「自責の念」という言葉で、置きかえることができる。
「恥は、日本が誇るべき精神的美徳」と、無理に結びつける必要はない。

むしろ「恥」という言葉を先に使うことで、かえって「反省」そのものが、どこかへ
吹っ飛んでしまうことさえある。
たとえばあなたが何かの破廉恥罪を犯したようなばあいを考えてみよう。
電車の中で痴漢行為か何かを働いたようなばあいである。

逮捕され、新聞などに報道されれば、たしかに恥ずかしい。
しかしこのばあいも、「恥」が先に立ってしまうと、反省が後回しになってしまう。
大切なのは、「恥」ではなく、「反省」である。
それがわからなければ、痴漢行為はしたが、発覚しなかったばあいを考えてみればよい。
「恥」だけを考えていたとしたら、あなたは「うまくやった」と喜ぶことになる。
発覚しなかったから、「よかった」、発覚したから、「恥ずかしい」というのは、
あまりにも無責任。
言いかえると、あなた自身が、どこにもない。

●自分に対する恥

もちろん中には、自分のした愚かな行為について、自らに恥じる人もいるかもしれない。
しかしそれとて、その人がより高い境地になったとき、はじめてできることであり、
そうでなければ、自分に恥じるということは、ありえない。
たとえば痴漢行為にしても、自分がより高い境地になったときはじめて、「私は愚かなこと
をした」とわかるようになる。
そのときそれがわかるということはない。
わかれば、そうした行為はしないはず。
つまり発覚する、発覚しないというのは、別次元の話。
発覚しなくても、恥じる人は、恥じる。

そこで「自由論」!

●自由論

長々と話したが、要するに、「恥」という言葉を使うときは、そこにいつも他人の
目がある。
他人の目を意識して、「恥」という。
が、他人の目など、ぜったいに行動の規範にはなりえない。
また行動の規範にしてはいけない。
繰り返すが、「私は私」「あなたはあなた」である。
一言でいえば、「自由」。

その「自由」とは、「自らに由(よ)る」という意味である。
「自分で考え」「自分で行動し」「自分で責任を取る」。
この3者を合わせて、「自由」という。

その自由が達成できたら、(もちろん犯罪は別だが……)、私がどんな私であっても、
またあなたがどんなあなたであっても、私は私、あなたはあなたで、生きていけばよい。
自立というときの「自立」、自律というときの「自律」というのは、それをいう。

さあ、あなたも叫んでみよう。
「恥なんて、クソ食らえ!」と。
子どもに対しては、「あなたはあなた」と教える。
すべてはそこから始まる。

(以上、未完の原稿ですが、一度、このままBLOGに掲載します。)

(付記)

私自身は、「恥」という言葉を生涯にわたって、使ったことはない。
そんな言葉など知らなくても、何も不都合なことはない。
私は私で、それなりにちゃんと生きている。
が、もし「恥ずかしい」と思うようなときがあれば、こんなときだ。

若い母親たちが参観している教室で、立った拍子などに、ブリッと、
おならが出てしまったような場合。

そういうときは、内心では「恥ずかしい」とは思うが、私は知らぬ
顔をしてレッスンをつづける。
「気がついたかな?」「ほかの音とまちがえてくれたかな?」と
思いながら、レッスンをつづける。

つまり「恥」というのは、もともとそのレベルの話。
そのレベルを超えることはない。
少なくとも「日本が誇るべき……」などというレベルの話ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
恥論 恥とは 恥ずかしい はやし浩司の恥論 恥(はじ)論)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

Wednesday, April 29, 2009

*April 30th 2009

●消える脳みそ

++++++++++++++++++++++++++++

加齢とともに、脳みその底に、穴があいたような状態になる。
知恵や知識、それに経験が、どんどんとそこから外へ、こぼれ落ちて行く。
しかし当の本人が、それに気づくことは、まずない。
というのも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題。
CPUそのものの機能が衰えていくため、論理的に、それに
気づくのは、不可能ということになる。

++++++++++++++++++++++++++++

●うつからボケに

私の年代になると、うつ病になったり、ボケたりする人が、急速に
多くなる。
うつとボケ。
うつからボケになる人もいれば、ボケからうつになる人もいる。
専門家でも、その区別はむずかしいという。
あるいはうつとボケは、同時進行の形で始まると考えてよいのか。

●こだわり

うつになると、こだわりが強くなる。
こだわりが強いから、うつになるとも考えられるし、うつになるから
こだわりが強くなるとも考えられる。
しかしこだわりが強くなると、脳の特定部分のみが活発の働き、ほかの
部分は鈍くなる。
「鈍い」というよりは、「眠ったような状態」になる。
たとえば何かのことに没頭していると、それについては詳しくなるが、
ほかのことについては、忘れてしまう。
そういうことは、私たちも日常的に経験する。

つまりこだわりが強くなればなるほど、同時に、脳のほかの部分が眠ったような
状態になる。

●病識

うつ病にせよ、ボケにせよ、病識をもつことは、簡単なことではない。
病識……「私は病気」と、自らそれを意識することを病識という。
本人の自覚と言い換えてもよい。
それがあれば、まだ救われる。
それがないと、治療もむずかしくなるという。
そんなわけで、「私はだいじょうぶ」とがんばる人ほど、あぶないという
ことになる。

が、中には、本人だけではなく、その周囲の人にも、その病識がないこと
がある。
ある夫(70歳くらい)は、私が、「奥さん、少し心配ですね」と話しかけたとき
のこと、「うちの家内は何も問題はない!」と、大声で叫んだ。
理由はいろいろあるのだろう。
そういうケースもある。

●愚かな人には、賢い人がわからない

幼児の前で、簡単な足し算を、わざとまちがえてみせる。
子どもに自信をもたせるには、この方法が効果的である。
そのときのこと。
ある幼児(年長・女児)は、私にこう言った。
「あんた、それでも先生エ~?」と。

子どものもつCPUでは、それが理解できなかった。
それでそう言った。

で、言葉はきついが、昔からこう言う。
『賢い人からは、愚かな人がよくわかるが、愚かな人からは、賢い人が
わからない』と。
愚か人は、自分のレベルでものを考える。
またそれしかわからない。
だから賢い人が、理解できない。

同じように、CPUの機能が衰えてくると、それが衰えてきたこと自体が
わからなくなる。

●記憶の欠落

が、方法がないわけではない。
たとえば私のばあい、数年前、あるいは10年前に書いた原稿を読みながら、
それに気づくことがある。
文章そのものは私のものとわかるが、ときに、内容そのものを、すっかりと
忘れてしまっていることがある。
数年を経て、同じことを書くときもある。
そういうとき、背筋が、ゾッと寒くなるのを感ずる。

よくボケの症状のひとつとして、物忘れがあげられる。
私もよく物忘れをするが、それほど気にならない。
というのも、記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)という
プロセスを経て、記憶として脳みその中から呼び出される。
(記銘)そのものをしっかりしていなければ、脳みその中に記憶として
残らないのは、当然のこと。
これだけ情報が洪水のように押し寄せてくると、選択するだけでもたいへん。
しかし自分が書いた文章の内容を忘れてしまうというのは、「忘れる」
というよりは、「欠落する」に近い。
だからゾッとする。

●特徴

ボケていく人を観察してみると、(というのも、私の周辺にも、そういう
人が、何人かいるので)、興味深いことに気づく。

そのひとつが、初期の段階では、(1)どの人も脳みその異変にある程度、
気づいているのではないかということ。
つぎに(2)そうであることを、それなりに隠そうとすること。
「とりつくろい」や、「弁解」が多くなる。
さらにアルツハイマー型認知症のばあいは、(3)ささいなミスを指摘された
りしただけで、パニック状態になるということも指摘されている。

ふつうなら、「あら、まちがえました。ごめんなさい、ホホホ」と言って
すますような問題でも、ギャーギャーと泣きわめいて、抵抗するなど。
心の余裕そのものが、なくなる。

●私はだいじょうぶか?

そんなわけで、このところ、とみに私は自分の脳みそを疑うことが多くなった。
何かにつけ、「私はだいじょうぶか?」と。

そこでワイフや、生徒たちに、こう聞く。
「最近、ぼくのことだけど、バカになってきたと思わないか?」と。
こういうケースのばあい、ワイフは、あてにならない。
ワイフも同じようにボケているとしたら、ワイフには、それがわからない。

では、生徒たちは、どうか?
私の変化や異変に気づくということはあるのだろうか。
が、生徒たちは、みな、こう言う。

「先生は、昔から頭がおかしいから、わからない」と。

●迷惑するのは、周囲の人

これも何度か書いてきたことである。
うつ病になるにしても、ボケるにしても、当の本人だけの問題ではすまない。
当の家族だけの問題でもない。

周囲の人たちにも、えらい迷惑をかける……ということもある。
(実のところ、私もそういう経験を、何度かしている。)
その人が、そういう状態であることを知っていれば、まだよい。
知らないと、ひどく傷つくということが、よくある。

介護にしても、まともな会話が、ほどほどにできれば、まだ救われる。
そうでなければそうでない。
うつ病にしても、ボケにしても、本人だけの問題と考えている人は多い。
しかしそれ以上にたいへんなのが、家族を含めて、その周りの人たちである。
これからはそういう視点でも、この問題を考えていく必要がある。


Hiroshi Hayashi++++++++April・09++++++++++++はやし浩司

●脳みその緊張と弛緩

緊張と弛緩。
脳みそは常にこれを繰り返す。
緊張状態が長くつづけば、脳みそは疲れる。
脳みそというのは、それほどタフには、できていない。
しかし弛緩状態ばかりがつづけば、思考力そのものが、消えうせる。

というのも、思考力というのは、習慣の問題。
毎日、毎晩、BS放送をつぎからつぎへと見ているからといって、
思考力が養われるわけではない。
「考えるというクセ」、それが思考力ということになる。

で、私のばあい、ものを書いているときは、脳みそは緊張状態になる。
ピンと張りつめた状態になる。
しかし何かを書き終えたとたん、スーッと頭から力が抜けていく。
とたん、弛緩状態。
頭の中が、からっぽになる。
何も考えられなくなる。
で、そのときおもしろい現象が起きる。

これもあくまでも私のばあいだが、脳みそが勝手に乱舞し始める。
冗談がつぎつぎと口から出てくる。
ワイフとの会話にしても、掛け合い漫才のようになる。
ペラペラと軽口が多くなる。
子どもを指導しているときもそうで、レッスンそのものが、メチャメチャになる。
(もともとメチャメチャだが……。)
そういうときの私は、まったくの別人。
(あるいはそちらのほうが、本来の私かもしれないが……。)

で、問題は、弛緩状態から、緊張状態への戻し方。
どうすれば脳みそを、緊張状態に戻すことができるか。
ふつうは何かの記事などを読んでいて、ビビッと火花が飛んだようなとき、
緊張状態に戻る。
カチンときたときでもよい。
が、それもないときは、ダラダラと時間が過ぎる。
たとえば今がそうだ。
先ほどから30分ほどパソコンの前に座っているが、どこへ消えたかと
思うほど、頭の中は、からっぽ。
何も頭の中に浮かんでこない。
知識や情報がどこかにあるはずなのに、それが浮かんでこない。
「いったい、どこへ消えてしまったのか!」
……ということで、この文章を書き始めた。

●息子のE

頭の中に断片的な情報が、少しずつ戻ってきた。
先ほど書店で立ち読みした本の内容。
それに息子たちのこと。
そう、息子のEのこと。

今月、息子のEが結婚した。
そのこともあるのだろう。
今度、Eが息子の友人から、家を借りることになった。
「だいじょうぶかな?」
「素性のわからない人から、家を借りるのはよくない」
「家賃はどうなっている」
……などと、いろいろ考える。
で、そのことをメールに書いた。
昨夜遅く、その返事が届いた。

それによれば、要するに、「心配ない」。
息子のEも、私が思っている以上に、おとなになった。
成長した。
私より、はるかに人格者。
精神力も強いし、情緒も安定している。

私は「おいしい話には、裏があるから気をつけるように」と書いた。
それについても、あれこれとこまかく説明してくれた。
それを読んで、ほっとした。
安堵感に包まれたとき、急に体中から力が抜けた。

●幸福とは

幸福感ほど、実感しにくい感覚もない。
あえて言うなら、今の私のように、何も問題がない状態を、幸福というのか?
もちろん幸福感と、喜びはちがう。
ふつうは何かの欲望を満たされたとき、喜びを感ずる。
が、喜びイコール、幸福ということではない。

このところワイフとは円満な状態がつづいている。
今日も、街までの距離の約半分を、いっしょに歩いた。
腕を組みながら、歩いた。

長男も、やる気を出して仕事をしている。
アメリカに住んでいる二男からも今朝、メールが届いていた。
5月xx日に、ディズニーワールドへ行くと言っていたから、「やめたほうがいい」と
私はメールを書いた。
その返事だった。

三男については、先に書いたとおり。
そうそう、今度の連休には奥さんを連れて、帰ってくるという。

が、今、何よりもうれしいのは、母や兄の介護から解放されたこと。
実家から解放されたこと。
私には重くて苦しい半世紀だった。

●ひとりよがりな考え

ひとつ気になっているのは、仕事のこと。
いや、私の仕事のことではない。
先日、横浜に住む友人が私の家に来て、こう言った。
「ぼくは仕事をやめられて、うれしい」と。
彼はこの春、3度目の退職をして、完全な引退状態になった。

私はこの言葉に、電撃に打たれるようなショックを受けた。
というのも、私は、世の中の人たちはみな、仕事をしたがっているものと
ばかり思っていた。
私もそうで、今、そこに仕事があること。
その仕事ができること。
そういう状態に喜びを覚えていた。
「仕事をやめて喜んでいる人がいる」などということは、思いもつかなかった。

それを知らなかった私自身にショックを受けた。
私の考えは、あまりにもひとりよがりなものだった。
そのひとりよがりな考えの上で、持論を組み立てていた。

●安易な『ダカラ論』

人の心は、本当に複雑。
同じようなショックだが、若いころ、子どもを愛せない母親の話を知って、
驚いたことがある。
実際には、8~10%の母親たちが、子どもを愛せないと、人知れず、悩んでいる。
「親、なかんずく母親というのは、子どもを愛しているもの」と、私は思い込んでいた。
が、実際には、そうでない。

簡単に言えば、自分がそうだからといって、他人もそうであると思ってはいけない。
また自分を基準にして、心を語ってはいけない。
ほかにもある。

世の中には、親をだます子どももいるが、反対に、子どもをだます親もいる。
叔父や叔母をだます甥や姪もいるが、反対に、甥や姪をだます叔父や叔母もいる。
「身内だから……」という言葉ほど、アテにならないものはない。

さらに言えば、それぞれの家庭問題には、たとえ身内でも、口をはさまないこと。
それぞれの家庭には、それぞれに、人には言えない、複雑な事情というものがある。
周りの人たちに干渉されて、それこそ死ぬほどつらい思いをする人だっている。
ある女性(現在、66歳)は、こう話してくれた。

「母は現在、85歳になります。
口がうまく、外面(そとずら)はいいのですが、家の中では、わがままのし放題。
食事が遅いと言っては怒り、まずいと言っては怒ります。
そんなとき、定期的に伯父(=母親の弟)から電話がかかってきて、『姉を大切に
しろ!』と。
そうした電話がかかってくるたびに、悔しさと悲しさで、手が震えます」と。

が、無神経な人には、それがわからない。
安易な『ダカラ論』だけを振りかざし、「こうあるべき」と決めてかかってくる。

……と、ここまで書いて、やっと少し、頭が熱くなってきた。
脳みそに緊張状態が戻ってきた。
いろいろと書きたいことが、浮かんできた。

よかった!、ということで、今日も始まった。
4月30日、早朝。
おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●うれしいメール

+++++++++++++++++

フランス在住のSさんから、
こんなメールが届いている。

フランスの子育て事情がわかっておもしろい。
ドイツでも、フランスでも、子どものための
クラブが発達している。
ドイツなどでは、中学生たちはたいてい、
午前中で授業を終え、午後は、それぞれ
好きなクラブに通っている。

月謝も安い。
「チャイルド・マネー」という補助金が支給され、
それで通うことができる。

++++++++++++++++++

【Sさんより、はやし浩司へ】

私たちは元気で、KT(=長男)もTK(=二男)も毎日自転車で走り回っています。
昨年のオリンピックでBMXの女子の部で、地元のブルターニュの選手が
金メダルをとったので、今年はBMXを始める人が多く、
先日の地方の大会でも400人もの選手が集まりました。

KT(=長男)とTK(=二男)が所属しているクラブも、とても人気があります。
毎週のトレーニングはもちろん、今年からは雨の日は自転車の手入れ?
(というのでしょうか?)、工具を持っていって、ここをまわすと.....とか言っています。
すでに私のわからない世界です。

4歳からクラブに入れるので、小さい子でありながら真剣に走っている姿は、
とても生き生きとしています。
クラブの費用も年間35ユーロ (約4300円)と、とても安いです。
KT(=長男)は今年からチェスを習い始めたのですが、そこも年間30ユーロです。
いろんな事に興味がある子供達には、とてもよい事だと思います。

先生のマガジンでおっしゃれられているように、子供達と一緒にいろいろ体験して、
同じときを過ごしたいと思っています。
先週も家族で、子供の希望で隣町まで往復20km、家族で自転車を走らせました。
健太は毎日したい!!と目をキラキラさせていましたが、私と夫は夜、
ぐったりしていました。

先日のマガジンでYOU TUBEでの先生の教室を子供達と一緒にみました。
え~すご~い!数の数え方、.みながらげらげら笑う子供達。
2人とも一緒に数える練習をしていました。
プライベートレッスンのようですね。

【はやし浩司よりSさんへ】

いつも転載許可、ありがとうございます。
「クラブの費用も年間35ユーロ (約4300円)」というのには、驚きました。
ドイツの例ですが、1か月、約1500円程度と聞いていましたので……。
チャイルド・マネーが、毎月、1万5000円程度支給されますので、
単純に計算すれば、子どもは毎週、10前後のクラブに通うことができます。
水泳が好きな子どもは、毎日水泳教室へ通う、ということもできます。

日本も、そうすべきですね!

学校は午前中で終え、午後は、それぞれが好き勝手なことをする。
今の日本のように、「学校だけが道」「学校を離れて道はない」という世界の方が、
異常なのです。

しかし問題もあります。
今の日本のまま、欧米のクラブ制度を取り入れたら、みな、進学塾だけに通うように
なるでしょう。
「算数クラブ」「理科クラブ」「受験クラブ」、とです。
社会の制度そのものが、ゆがんでいます。
こんな話もあります。

2年前、二男の嫁が、日本でいう司法試験に合格しました。
2人の子どもの子育てをしながらの合格です。
しかも嫁は、アメリカ文学部出身です。
で、私はそのニュースに驚きました。
が、それ以上に驚いたのは、アメリカでは、(そういうこと)が、できるということです。
日本では、考えられないことですね。
が、それだけではありません。
さらに驚いたことは、本来なら2年で、ロー・スクールを卒業しなければ
ならないのですが、それを4年にしてもらったということです。
「子育てで忙しいから、授業を半分にしてもらった」ということだそうです。

ものの考え方が、実にフレキシブル。
つまり世界の教育は、今、ここまで進んでいる。
が、この日本はどうか?

少しずつ改革が始まっていますが、日本が一歩前に進んだときには、欧米では、
さらに数歩、前に進んでしまっている……。
そんな感じがします。
本来なら率先して教育改革をし、それをほかの国に示してこそ、日本はアジアの中の
先進国ということになるのです。

が、それが……?
いまだに教科書検定だの、漢字検定だの、バカなことばかりしています。
今度は、「語彙力検定」も始まるとか?
浜松市郊外の小さな町ですら、観光ガイドの認定試験をしていますよ!
自ら「自由」を束縛しながら、その愚かさにすら気づいていない(?)。
日本という国は、ますます息苦しくなっています。

……とまあ、グチはここまで。

YOU TUBEを見てくださり、ありがとうございます。
そのYOU TUBEで、教室を公開するようになって、2か月が過ぎました。
Sさんからのメールが、実のところ、はじめての(見た人からの反応)です。
このところ日増しにアクセス数がふえていますが、はじめての(反応)です。
(この1週間、ユニーク・アクセス数は、100~150件程度。
1人が10回、あちこちを閲覧しても、数の上では、1件とカウントされますので、
実際にはその数倍のアクセスがあるものと推定しています。)

どうかこれからも、公開教室を利用してください。
今は手が回りませんが、一段落したら、今度はプリント教材も、そのまま公開
するつもりでいます。
もちろん、すべて手作りプリントです。
そうなれば、フランスでも、私のレッスンを受けてもらえるようになりますね。
どうか期待していてください。

では、今日は、これで失礼します。

近く、日本でお会いできることを楽しみにしています。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

Tuesday, April 28, 2009

*Obsession

●強迫観念(Obsession)

++++++++++++++++++

いつも何かに追い立てられているような感じ。
じっとしていると、それだけで罪の意識を覚える。
「何かをしなければ」とは思うが、それが
何であるか、わからない。
悶々とした閉塞感。
焦燥感。
加えて、時おり胸をふさぐ、妄想。
ひとつのことが気になると、それが心からずっと離れない。
「ああではないか」「こうではないか」と、
心配を繰り返す……。

何かに背後から脅迫されているような感じがする
ところから、こうした心の状態を、「強迫観念」という。

++++++++++++++++++

●封印された記憶

抑圧された記憶は、思いだすこと自体が、苦痛。
そのため心の奥に封印された記憶は、表に浮かびあがってくることは、まずない。
しかしその記憶が、私やあなたを、心の裏側から操る。
強迫観念も、そのひとつ。

●自由連想法

フロイトは、「自由連想法」という言葉を使った。
これは患者に、自由に自分のことを語ってもらい、その中から、病巣となっている
(こだわり)や(わだかまり)を知るという方法である。
この自由連想法を、自分自身に応用できないものか?
それができれば、私たちは自分で、「私」を知ることができる。
たとえばフロイトも、自分の夢判断を、弟子のユングにさせている。

●「時間がない!」

よく人から、「あなたは、忙しいか?」と聞かれることがある。
そういうとき私は決まって、こう答えるようにしている。
「忙しくはないが、時間がない」と。
すると相手の人は、それが理解できなくて、たいてい怪訝(けげん)な顔をする。
そんなことから、「忙しくはないが、時間がない」などと言う人は、
何かの強迫観念の持ち主と考えてよい。
この私がそうであるから、それがよくわかる。

●原因

「暗くて、憂うつな毎日だった」。
それが、私の少年時代である。
稼業は自転車屋だったが、私が思春期に入るころには、すでに開店休業状態。
商売べたの父は、いつ来るともわからない客を待ちながら、じっと店先で
座っていた。
私が今のような強迫観念をもち始めたのは、そのころではなかったか。
そういう父や、そして兄の姿を見ながら、私は毎日が、不安でならなかった。

●父のトラウマ

今にして思うと、父にも深いトラウマがあったように思う。
父は、戦地の台湾で、アメリカ軍と戦い、貫通銃創を受けている。
その後、傷痍(しょうい)軍人として帰国。
やがて酒に溺れるようになった。
つまり父とて、戦争の犠牲者だった。
が、当時、それを理解できる人は、まだだれもいなかった。
「トラウマ」、つまり「精神的外傷」という言葉すら、まだこの日本にはなかった。

●どこも、子どもだらけ。

加えて団塊の世代。
数日前、映画『ALWAYS、3丁目の夕日』を見た。
あの風景が、私たちの少年時代ということになる。
すばらしい映画だったが、が、いくつかの点で、納得できないことがあった。
そのひとつ。
当時は、街角や路地には、子どもたちの姿があふれていた。
どこを見ても、子ども、子ども、また子ども……。
そんな時代だった。

●ボール遊び

私が今のような私になったのは、そのせいかもしれない。
ガツガツしなければ生きていかれなかった。
どこへ行っても、競争と喧嘩。
遊ぶといっても、すぐ場所の取りあいが始まった。

で、私もよく遊んだが、その中でも、ひとつだけ苦手な遊びがあった。
ボール遊びである。
どういうわけか、ボール遊びだけは苦手だった。
理由として思い浮かぶのが、「銃殺刑ごっこ」。
鬼をつくり、その鬼を立たせて、背後からボールを当てるという遊びである。
記憶にはないが、私も何度か、その鬼になった。
それでボールに対して、恐怖心を覚えるようになった。

●だれにでもあるトラウマ

こうして思い出してみると、心というのは、トラウマのかたまりのようなもの。
無数のトラウマが積み重なって、その人を作る。
「私」を作る。
トラウマのない人はいないし、またトラウマを恐れていたら、この世界では、
生きていくことはできない。
子育てもできない。
それが強迫観念に結びついたからといって、それはそれ。
大切なことは、自分にどんなトラウマがあるかを知り、それとうまくつきあうこと。

●「私」さがし

……こうして自由に(?)、私は自分の過去を振り返ってみた。
思いつくまま書いたので、エッセーとしての意味はない。
しかしなぜ今の私が、私なのかは、過去を振り返ってみることによってわかる。
先にも書いたように、私の強迫観念も、どうやらあのころできたらしい、と。
今の今も、それがつづいている。
もし神様か何かがいて、私をもう一度、あの少年時代に戻してやると言ったら、
私は迷うだろう。
私にとっては、いやな時代だった。
あのころのボール遊びが、それを象徴している。

●私もあと10年

加えてこのところ、老いることに恐怖心をもち始めている。
母の介護を通して見た、「老人の世界」、
それは私にとっては、地獄絵図そのものだった。
みながみなそうなるわけではないが、少なくとも特養で余生を過ごす人たちは、
(人間であることをやめた人)と言っても、過言ではない。
中には70代の人もいた。
そんな人たちが、うつろな目つきで、一日中、車椅子に座っている……。
それを知って、「私もよくて、あと10年」と思うようになった。

●強迫観念は悪か?

強迫観念というのがその人にとって好ましいものでないことは、わかる。
が、悪いことばかりではない。
強迫観念があるからこそ、こうして毎日、ものを書いたり運動したりする。
もし強迫観念がなければ、私とて、こうまでがんばることはないだろう。
「そこにある何かを知りたい」。
そういう思いが、私を急(せ)き立てる。

要するに、先にも書いたように、それはそれとして、つまり強迫観念があるなら
あるで構わないが、あとは、それとうまく付きあうこと。
とくに大切なのは、これはあくまでも私の個人的な問題としてとらえ、
それによって、周囲の人たちに迷惑をかけてはいけないということ。
あせるのはあなたの勝手だが、その中に、妻や子どもを巻き込んではいけない。

(付記)

子どもの勉強をみていて、言いようのない不安や心配を覚える人は、
その人自身が、何らかの強迫観念をもっていると考えてよい。
それはそれとして仕方のないことかもしれないが、それを子どもにそのまま、
ぶつけてはいけない。
いわんや、子どもをして、自分の不安や心配を解消するための道具にしては
いけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
強迫観念 不安 心配 焦燥感 焦り あせり)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●心の開放

++++++++++++++++++

昔、ベトナムへ行った、若いオーストラリアの
兵士が、こんな話をしてくれた。

「みな、サイゴン(南ベトナムの当時の首都)へ
戻ると、いっせいに、女を買いに行った」と。

女を買うといっても、Sxxが、目的ではない。
「みな、一晩中、女の乳房を吸っていた」と。

戦場では屈強な兵士に見える彼らも、
内側の世界では、ただのか弱き(人)でしか
なかった……。

++++++++++++++++++

●ペルソナと開放

人はだれしも、仮面(ペルソナ)をかぶって生きている。
教師は教師の仮面。
医師は医師の仮面。
牧師は牧師の仮面などなど。
私もかぶっている。
あなたもかぶっている。
しかし仮面をかぶっていると、疲れる。
心を偽るということは、そういうこと。
言いたいことも、ぐいとこらえて、笑顔で答える……。

そこで人は、内界に向っては、つまり自分の心に適応するため、心を開放する。
心のバランスを図る。

●マザコン?

このことは、子どもを見ているとわかる。
幼稚園や学校では、(しっかり者)の子どもが、家へ帰ると、まるで赤ちゃんのように
なってしまう子どもは、珍しくない。

ある子ども(小5・男児)は、柔道選手として県の大会に出るような活躍を繰り返して
いた。
が、家に戻ると、まったく別人だった。
食事のときなど、いつも母親のひざに抱かれていた。
風呂も母親といっしょに入っていた。

このタイプの子どもを、私たちは「マザコン」と呼ぶが、このタイプの子どもは、
そういう形で、心の緊張感を解きほぐす。
そういう例は、たいへん多い。

●かん黙児

さらに顕著な形で現れるのが、かん黙児と呼ばれる子どもたちである。
このタイプの子どもは、外の世界では、極度の緊張状態を強いられる。
(表情だけを見て判断してはいけない。
外の世界では、どこか意味のわからない笑みを浮かべていることが多い。
こうした現象は「遊離」(=心と表情が遊離している)という言葉を使って説明される。)

外の世界で「いい子?」ぶる半面、その反動として、家の中では、大声を出して
騒いだり、暴れたりする。

●心の開放

心の中に別室を作り、そこへ自分を逃避させる人もいる。
子どもにも多い。
心理学の世界では、「抑圧」という言葉を使ってそれを説明するが、心の別室は、
心そのものをゆがめることがある。

そこで大切なことは、「開放」ということになる。

したいことをし、言いたいことを言う。
すべてはここから始まり、ここに終わる。
子どもを指導するときもそうで、まず、したいことをさせ、言いたいことを言わせる。
私たちが「すなおな子ども」というときの子どもは、そういう子どもをさす。

同じように、私たち自身も、したいことをし、言いたいことを言う。
最初は勇気がいることだが、一歩、踏み出してしまえば、心はあとからついてくる。
心をすなおにすれば、そこに待っているのは、すがすがしい世界。
すがすがしい人間関係。
私たちは、そのすがすがしい人生をめざす。

その第一歩が、心の開放ということになる。

*Money, everywhere, but not mine!

●猛烈なバラマキ行政


++++++++++++++++++++


ASO首相は、外国へ行くたびに、お金を
バラまいている。
猛烈というより、メチャメチャ。
が、今度は、それに飽き足らず、さらに15兆円。


わかりやすく言えば、今の今でさえ、稼ぎ(=収入)の
2倍以上の生活をしている。
それに加えて、さらに15兆円!
バケツの底が抜けた!


ASO首相の大暴走に、ブレーキをかける人は、
いないのか?
このあとにやってくるのは、猛烈なインフレ。
貨幣価値の半減。
5年を待たずして、「ラーメン一杯、2000円」の
時代がやってくる。


++++++++++++++++++++


●近況


このところ立て続けに、メルボルン大学時代の友人の話が、
2つ、飛び込んできた。


1つは、カレッジにいっしょにいた、P君が、映画監督に
なっていたという話。
オーストラリアを代表する映画監督になっていたという。


もう1つは、同じ名前のP君が、数年前、イギリスで、1台
1億1000万円という、レーシング・カー(L社エリーゼ)を、
10台まとめて買ったという話。


後者のP君は、40代半ばで、全豪イチの大富豪になっている。
ともに仲がよかったので、うれしい。
「みんなそれぞれの人生を、生きたんだなあ」と。
懸命に顔を思い浮かべながら、そんなことを考える。
(もっとも、ネットで見るかぎり、学生時代の面影は、ほとんど残って
いないが……。)



Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司


● 韓国の危機(4月19日)


++++++++++++++++++++++


韓国がPSIに参加すれば、宣戦布告すると、
またまたあのK国が言い出した。
PSIというのは、国際的な臨検制度。
あやしいとにらんだ船を、海上で臨検する。
(PSI…大量破壊兵器拡散防止構想)


で、韓国はこの4月15日にも、PSIへの
正式参加を申し込む予定だった。
それがK国の脅迫で、延期。
その会議が、4月22日に、K国の開城(ケソン)
で行われることになった。
抑留されたままの韓国人の問題もある。


恐らくその席で、「開城存続か、PSI参加断念か」と、
K国側は迫ってくるはず(韓国紙)。
「PSIに参加すれば、開城工業団地を廃止する」と。
が、それだけではない。
K国は、こうも言ったという。
「ソウルが、(K国から)、50キロしか離れていないことを
忘れるな」と。


こうなるともう、立派な脅迫以上の脅迫。
K国の脅迫の矛先が、日本から、今度は韓国に向いた。
「私の知ったことではない」と書きたいが、あえて韓国のために
こうアドバイスしたい。


「あんな国を本気で相手にしてはいけない。
相手にする価値もない」と。


ここは開城工業団地を閉鎖。
そのままの状態で、PSI参加をしばらく見送る。
つまりK国に、肩透かしを食わせる。


「PSIへの参加をしばらく見送る。
同時に、開城工業団地は、閉鎖する」と。


相手は、頭のおかしい「Mad Dog(狂犬)」
(アメリカ政府高官)。
まともに相手にしてはいけない。
まともに相手にしても、意味はない。
戦争など、もってのほか。
K国の言うようにしながら、K国を兵糧攻めにする。
自滅するよう、道筋をつける。


が、しばらくすると、今度はその矛先を日本に向けて
くるはず。
今年2回目のミサイル発射実験かもしれない。
あるいは核実験かもしれない。
何があるかわからないが、重要なことは、K国の
しかけるワナにはまらないこと。


何度も繰りかえすが、日本は丸裸以上の丸裸。
こんな状態で、K国とは、ぜったいに戦争だけは
してはいけない。


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.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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*April 28th 2009

彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   29日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●09年3月28日

++++++++++++++++++++

BW教室にもテーマ音楽がある。
私のHPの、トップページに収録してある。
(あるいは「BW公開教室」より。)

私の二男が高校生のとき、作曲、演奏したものである。
短いが、すばらしい曲である。
(多分に親バカ的評価だが……。)
何度聴いてもあきないし、聴けば聴くほど、
心が温まってくる。

で、勝手に、私が私のHPのテーマ音楽にして
しまった。
一度、二男に、「いいか?」と聞くと、「いいよ」
と言ってくれた。

+++++++++++++++++++++

●親の後悔

その曲を聴くたびに、息子がもっていた感性に、驚く。
薄々は気がついていたが、そのときは、私のほうに、それだけの理解力がなかった。
作曲は息子の趣味だったし、息子はその範囲で遊んでいるだけと思っていた。
が、私はまちがっていた。
先にも書いたように、聴けば聴くほど、その向こうにすばらしい感性が光っているのを
知る。
今の私なら、もし身近に、そういう高校生がいたら、迷わず作曲家の道を進むよう、
アドバイスするだろう。
親も説得する。
しかし私は、それをしなかった。
息子の将来にしても、ありきたりのものしか考えていなかった。
「大学を出て……」「就職して……」と。
が、私は、息子のそういう感性を、もっと伸ばすべきだった。
またその努力すべきだった。
今、そういう後悔が、シクシクと胸をしめつける。
HPのテーマ音楽として使っているが、実のところ、聴くたびに申し訳ないことをした
という気分に襲われる。

【HPのテーマ・音楽は、以下のアドレスから……】

http://www.youtube.com/watch?v=akhdJvb4pkM

value="http://www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&hl=ja&fs=1">name="allowFullScreen" value="true">value="always">src="http://www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&hl=ja&fs=1"
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always"
allowfullscreen="true" width="425" height="344">



●説明会

今日は、幼児教室の説明会をした。
「中日ショッパー」という広告紙が、たびたび無料で教室の宣伝してくれた。
そのこともあって、今年は例年の2倍の親たちが、説明会に来てくれた。
うれしかった。
プラス、疲れた。
40回も経験しているはずなのに、説明会だけは、いまだに疲れる。

で、その中に、1人、孫の芽衣そっくりな女の子がいた。
名前をOさんといった。
最初から最後まで、ずっと気になっていた。
「入ってくれればいいな」と思いながら、私の教育方針を説明した。
ともかくも、この1年は、(もうけもの)。
仕事ができるだけでも、御の字。
感謝しなければいけない。

で、Oさんは入会してくれた。
うれしかった。
お母さんはどこか心配そうだったが、私が「いい子ですよ」と言うと、
安心したような表情を浮かべてくれた。
「すばらしい子にしますよ」と言いかけたが、それは言わなかった。
そんなことは、当然のこと。
だから言わなかった。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●態度の類似性

+++++++++++++++++

『類は友を呼ぶ』という。
『似たもの夫婦』ともいう。
人を、たがいに親近させるものは、
「類似性」ということになる。

その類似性について、シュプランガー
という学者は、つぎの6つのもの(「態度」)
に分けて考えた(参考:「性格心理学」
ナツメ社)。

(1)理論型
(2)審美型
(3)社会型
(4)経済型
(5)政治型
(6)宗教型

つまり同じ「型」が同じ者どうしは、
それぞれ、親しくなりやすいということ。
わかりやすく言えば、科学者は科学者
どうし。
芸術家は芸術家どうし、それぞれ
親しくなりやすいということ。

が、「型」がちがうと、親しくなるといっても、
そこには限界があるということらしい。
(型がちがっても、親しく交際している人も
いるが……。)

要するに、まとめて簡単に言えば、
やはり『類は友を呼ぶ』ということになる。

で、私はこれらのほかに、
親しくなる要因として、(あくまでも
親しくなる要因としてだが、)

(7)趣味型(趣味が同じ)
(8)同族型(同族意識、同窓意識)
(9)同目的型(同じ目的をもっている)

の3つを付け加えたい。

+++++++++++++++++

もっとも親近性といっても、内容もレベルも異なる。
「近所づきあい」程度のレベルから、「命を分けあう」レベルまである。
また器用な人になると、それぞれの人と、別の顔を使い分けながら、
親しくなることもある。
おそらくシュプランガーという学者は、きわめて高度な親近性を
問題にしたのだろう。
私のような凡人がつくる人間関係とは、レベルがちがう(?)。

が、ここでふと考えが止まってしまう。
では、いったい、「親友とは何か?」と。
さらに「友とは何か?」と。
あるいは、「妻は、友なのか」と。
(もちろんその反対に、「夫は、友なのか」でもよい。)

ちょうど1年前に、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++

●夫婦円満のコツ

+++++++++++++++++

夫婦も長い間いっしょにいると、
たがいに相手に合わせようとする。
いがみあっているよりは、妥協できる
ところは妥協し、相手に合わせたほうが
よいと考えるようになる。
そのほうがストレスもたまらない。

こうして夫婦の間には、同調関係
が生まれる。

+++++++++++++++++

仲がよい夫婦でいるためには、たがいに好感をもっていなければならない。
これは必要条件だが、しかしそれだけではじゅうぶんではない。

たとえばこんな例で考えてみよう。

夫は、岐阜県出身で、岐阜S高校の野球チームを応援。
妻は、静岡県出身で、静岡A高校の野球チームを応援。

夏の甲子園で、岐阜S高校と静岡A高校が対戦することになった。

こういうとき夫婦として、いろいろな解決策が考えられる。

(1) 妥協…どちらかがどちらかに、合わせる。
(2) 合理化…「たかが高校野球」と考え、対立を避ける。
(3) 受容…たがいにたがいを認めあう。

これは実際、ある知人から聞いた話だが、日本人男性と結婚した
ブラジル人女性がいた。
その夫婦のばあい、ワールドカップで日本とブラジルが対戦したとき、
そのまま対立関係になってしまったという。
(実際には、妻は、ブラジル人が集まる会場で、ブラジルを応援し、
夫は家で、子どもたちと日本を応援したという。)

が、スポーツならまだしも、宗教がからむと、ことは簡単ではない。
とくに妻が、どこかのカルト教団(狂信的な信仰をする団体)に
入信したようなばあい、である。

こういうケースのばあい、(2)の合理化は、むずかしい。(3)の
受容についても、たいてい妻のほうが一方的に夫の価値観を否定する
ようになるので、それもむずかしい。

残るのは、(1)の妥協ということになるが、妻のほうが夫に妥協する
ということは、信仰そのものがもつ性質上、ありえない。
夫の側の一方的な妥協が強いられる。

が、その妥協に失敗すると、ストレスは急速に増大し、やがて限界を超える。
具体的には、「離婚」という言葉が、夫婦の間から出てくるようになる。
これは夫だけの問題ではない。
中には、「離婚はぜったいだめ」と教えるカルト教団もある。
妻自身も、信仰と離婚のはざまで、もがき苦しむことになる。

実際、その処理に失敗して、42歳という若さで、亡くなってしまった
男性がいる。
くも膜下出血だったという。
その話を聞いたとき、私はその背後で起きた、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。

さらによくあるケースとしては、不倫がある。

夫婦、どちらか一方の不倫が発覚したようなばあいを考えてみよう。

こういうケースでは、(1)の妥協ということは考えられない。
「あなたが不倫をしたから、私も不倫をしてきます」というわけにはいかない。
そこで(2)の合理化、もしくは(3)の受容ということになる。

合理化というのは、高校野球と同じように、「たかが不倫ではないか」と考え、
自分を納得させることをいう。
受容というのは、「夫婦といっても、たがいに束縛しあうのはよくない」などと
考えて、相手の行為を認めることをいう。
しかしそれにはかなり高度な、精神的操作が必要である。
昔、見たフランス映画に、そういうテーマを扱ったのがあった。

晩年に近づいた男性が、若い女性と結婚した。
しかし男性は、性的な満足感を妻に与えることができなかった。
そこで男性は妻の不倫を容認することによって、夫婦の愛情をさらに昇華させた。

……以上のケースは、いわば特殊な例ということになる。
こういうケースは別として、私たちは日常生活において、つねに、選択を迫られる。
妥協か、合理化か、さもなくば受容か、と。

それがじょうずに処理できる夫婦を、(仲のよい夫婦)といい、そうでない
夫婦を、そうでないという。
表面的な様子だけを見て、たとえば夫婦げんかが少ないから、仲がよいとか、
少ないからそうでないとか判断してはいけない。

あとは、たがいに前だけを見ながら、前に向かって進む。
夫婦というのは、けっして見つめあってはいけない。
それが夫婦円満のコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 夫婦論 夫婦円満)

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しかしやはり長い目で見ると、「態度の類似性」が、親近感の基本になっているのが、
わかる。
夫や妻にしてもそうで、もし夫婦円満をめざすなら、「類似性」の追求が、
そのカギを握ることになる。
だから西洋ではこう言う。

『夫婦はけっして、見つめあってはいけない。互いに手を取り、前を見て歩く』と。

で、私も今や、満61歳。
ジー様になってしまった。
そういう自分を振り返ってみると、いつも孤独との闘いだったような気がする。
友といっても、数えるほどしかいない。
「命を分かちあえる友」となると、ワイフくらいしかいない。
しかしワイフは、シュプランガーの説く「態度の類似性」の「型」の
どれにも当てはまらない。
私が考えた3つの「型」にも、当てはまらない。
あるいは「友」と考えているのは、私の思いあがりにすぎないのかもしれない。

実際には、相互に依存しているだけ。
あるいはひょっとしたら、「共依存関係」かもしれない(ゾーッ!)。
さらに「支配と服従関係」かもしれない(さらに、ゾーッ!)。

が、さらに恐ろしいことに、このところ孤独感が和らぐどころか、強くなって
いるように感ずる。
だれと話していても、「そんなことは、Aという学者が、遠い昔に説明しているの
になあ」とか、「その問題の奥には、もっと別の問題があるのになあ」と、
そんなふうに考えてしまう。
とたん、その人との間に、(距離)を感じてしまう。
ときに、その人を、超え難いほど遠くに感ずることもある。
「この人に、私の考えを説明したら、10年はかかるだろうな」と。
あるいは「分かりあうのは、永遠に不可能だろうな」と。

だからやはり、「型」ということになる。
おもしろい考え方だと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
シュプランガー 態度 態度の類似性 夫婦円満 親友論 親しみ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●3月28日(M党のOZ党首、立ち木問題)

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●M党のOZ党首

M党のOZ党首が、「続投する」と、自らの意思を表明した。
しかしこの表明で一番、胸をなでおろしているのが、J党。
M党による政権交代は、これで事実上、不可能になった。
国民の約80%は、OZ党首の「説明」に納得していない(C新聞)。
私も納得していない。

さらに驚くべき発言がつづいた。

M党内部で、公然とOZ氏批判をした国会議員がいた。
それに対して、OZ派の国会議員(M党)が、「自分を何様だと思っているのか」と、
かみついた(テレビ報道)。

ヘ~~エ?

M党という政党は、そういう政党だったの?
同僚の国会議員に対して、「何様だと思っているのか」は、ない。
要するに、「だれのおかげで国会議員になれたと思っているのか。
生意気言うな!」という意味らしい。
この言葉は、そっくりそのまま、M党・OZ派のみなさんに送りたい。


●立ち木問題で、知事が辞任(?)

これまたおかしな、前代未聞のできごとが、この静岡県で起きた。
たかが(失礼!)、立ち木問題程度のことで、知事が辞任を表明した。
ことの発端は、立ち木。
はじめから終わりまで、立ち木。

今度開港する静岡空港の滑走路の先に、150本程度の立ち木がある。
滑走路の、ちょうど真正面に、である。
(その周辺の場所には、木はなく、その部分だけに、剃り残したヒゲのように
立っている。)
そのため開港は遅れ、プラス1億円程度の改修費がかかった。
それについて、立ち木の地権者のO氏は、「知事の辞任が条件」と、静岡県側に迫った。
つまり「知事が辞任しないかぎり、立ち木は切らない」と。
それを受けて、静岡県知事が辞任を表明した。

ここで再び、民主主義・論。
私権の保護は、民主主義の根幹である。
それは認める。
しかし私権とっても、絶対的なものではない。
(保護しなければならないものかどうか)という観点から、フィルターがかかる。
そのフィルターをくぐりぬけないかぎり、世論の支持を得ることはできない。
もし私権を無制限に保護するとなると、空港どころか、道路一本、建設できなくなって
しまう。

そこで立ち木。
たかが立ち木(失礼!)。
その立ち木を切ることで、地権者にどんな被害が及ぶというのか。
地権者の生活に、どれほどの損害を与えるというのか。

一方、静岡県側は、すでに改修費に、県は1億1000万円も支出している。
この先、さらに1億円程度の追加費用が見込まれている(C新聞)。
開港の遅れによる被害も、相当な額に達している。

それについて、地権者のO氏は、こう述べているという。

「週明けの30日に、実務レベルの話し合いに入りましょう」と。
つまり「立ち木をこちらが切るか、県に切ってもらうか。切り方はどうするか。
そんな具体的な話を詰めていきたい」(C新聞・09・3・28)と。

「実務レベルの話し合い」(?)。
たかが立ち木、150本を切り倒すために、「実務レベルの話し合い」(?)。
どこか、「?」。
私には、理解できない。

繰り返すが、たかが立ち木(失礼!)。
その上で、「(立ち木を切るには)、知事の辞任が条件」とは!

静岡空港には、いろいろ問題はある。……あった。
当初、はげしい反対運動が起きたのも事実。
その間に、いろいろな(わだかまり)ができたのも、わかる。
ここまでこじらせてしまった県側にも、問題がないとは言わない。
しかし空港は、完成した。
……してしまった。

で、やはりどう考えても、たかが立ち木(失礼!)。
私も、農地を一度、宅地に転換するとき、杉の木を、数百本植えた経験がある。
そしてその6年後、5~8メートルを超える杉の木を、切り倒した経験がある。
切り倒すだけなら、半日でできる。
また立ち木そのものには、それほどの財産的価値はない。
このあたりでも、20~30年木で、一反(300坪)、50~70万円が相場。

いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
「こんなことがあっていいのかなあ?」と思ったところで、おしまい。
あとは、みなさんが胸の奥で考えていることと、同じ。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●口のうまい人(Those who flatter)

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ふつう、「口のうまい人」というときは、
つぎの2つの意味が含まれる。

ひとつは、(自分のことをよく思わせるために)、
口がうまいことをいう。

もうひとつは、(他人の悪口を言うのに)、
口がうまいことをいう。

ほかにも、お世辞がうまい、おじょうずがうまい、
おだてる、へつらう、など。
ぺらぺらとしゃべって、相手の心を、自分の
思うがまま、誘導していく。

最近、こんな会話を、ある女性(60歳)とした。
その女性が、こう言った。

「あのAさん(65歳)って、義母の介護では
苦労なさったんですってねエ……。何でも
献身的な介護だったそうですよ」と。

そこですかさず私が、「その話は、だれに聞きましたか?」
と聞くと、「Aさんです」と。

Aさんという女性は、私もよく知っている。
口のうまい人で、たとえば他人の悪口を言うときも、
さも同情しているかのような言い方で、言う。

「Bさんって、本当に、かわいそう……。
私、もう、かわいそうで、その話を聞いて、涙が
出そうになりましたア……。
いえね、ひとり息子のX男君がね、無免許で
車を運転して、逮捕されてしまったんですって……。
あんな若いのに、もう前科がついてしまったんですって……。
私、かわいそうで、かわいそうで……」と。

涙声にはなるが、しかし涙は、ぜったいに出さない。

そんな人の話を真に受けて、「苦労なさったんですってね」は、
ない。
つまり、ウソ!

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口のうまい人には、注意したほうがよい。
それだけ悪口を言うのにも、たけている。
つまり両刃の剣(?)。

だからあなたの近くに、口のうまい人がいたら、すかさず、こう思ったらよい。
「別のところでは、私の悪口を言っているぞ」と。
それには、理由がある。

口のうまい人は、つねに、自分の心を偽っている。
あるいは自分の心が、どこにあるかもわからない。
(口がうまい)という能力には、たけているが、その分だけ、思考力が浅い。
ものの考え方が、享楽的、刹那(せつな)的、欲望的。
その場の雰囲気に合わせて、言っていることの内容が、クルクル変化する。
もちろんウソも多い。
あるいは事実とウソを、巧みに混ぜる。

だから相手によっては、今度は、あなたを、酒の肴(さかな)にする。
悪口だろうがなんだろうが、知っていることは、何でも利用する。

心理学的に言えば、心の開けない人、つまり基本的不信関係にある人とみてよい。
他人と良好な人間関係を結べない。
結べない分だけ、孤独。
だから外の世界へ出て行っては、そこでシッポを振る。
見た目は、社交的で、派手。
しかしれは、あくまでも仮面。
そのため当の本人は、疲れる。
神経疲れを起こす。
あとは、この繰り返し。

このことは、その反対の位置にいる人を見れば、わかる。
たとえば私のワイフ。
私のワイフほど、口べた女性は、そうはいない。
真正直というか、バカ正直というか……?
私のほうが、今でも、ときどきワイフにこう言うときがある。
「もう少し、おじょうずを言ったらどうだ!」と。

この世の中、ある程度は、口がうまくないと、うまく生きていかれない。
とくに商売の世界では、そうである。
それはわかるが、ことプライベートな世界では、やはりあるがままに生きた方が
よい。
そのほうが楽。
言うなれば、口のうまい人は、心の中は、ゴミだらけ。
ゴミがない分だけ、心が軽い。

で、先に書いたAさんだが、今では、だれにも相手にされていない。
みな、(私も含めて)、適当に調子を合わせているだけ。
どこまでも、どこまで、あわれで、かわいそうな女性である。
それを感じているのか、Aさんは、ますます口がうまくなる。
あとは、この悪循環。
自分で自分の墓穴を、どんどんと深くしていく。

(付記)

口のうまい人には、いろいろな特徴がみられる。
「布石」「玉石混交」が、それら。

「布石」というのは、あからじめ、別の話題の中に、重要なキーワードを混ぜる
ことをいう。
ちょうど碁に例えるなら、周辺に、ポンポンと言葉をはさんでおく。
どうでもよいような話をしながら、その間ごとに、こう言う。
「近所に、ひとり暮らしの老人がいましてね……」
「私、見るにみかねて……」
「その老人の息子がね、勝手に借家を売ってしまったんですって……」と。
そしておもむろに、こう切り出す。
「だから私、その老人のために、必要な仕事を、してあげてますのよ」と。

「玉石混交」というのは、ペラペラとどうでもよい話をしながら、その中に、
重要な話を混ぜていく。
相手が反論したり、質問できないような状態を作っておいて、それで了解を
取りつけたようにして、会話を終える。
そしてあとになって、その相手が、「話がちがいますよ」などと言ったりすると、
「あら、あなた、この前、了解してくれたではありませんか。
それを今になって、ダメだと言われても、私は困ります……」と。

こうした口のうまい人への対処方法は、ただひとつ。
そのつど会話をさえぎりながら、自分の意見をしっかりと伝えること。
けっして遠慮してはいけない。
ためらってはいけない。
それができないなら、そういう口のうまい人とは、話はしないこと。
あるいは徹底して聞き役に回り、あとは無視してすます。

私のばあいは、「ちょっと待ってくださいよ」というような言い方をして、
その人の意思や、思惑を確認するようにしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
口のうまい人 お世辞のうまい人 へつらう人 基本的不信関係)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●通俗性

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通俗的な人は多い。
多いだけではない。
加齢とともに、さらに多くなる。
パワーをましてくる。

たとえば主夫業についても、問答無用式にこう言う。
「そりゃあ、林君、男は仕事だよ。仕事をしてこそ、
男だよ」と。

父親像についても、「父親というのはね、家の中で
デンとしているのがいいんだよ。一家の大黒柱
なんだから」と。

親論についても、「親は親だからな。どんなことがあっても、
親には逆らっちゃいけないよ。生んで育ててくれたんだからさ」と。

国家論についても、「国あっての民だろ。日本は、一民族、
一国家。この純潔さこそが、大切なんだよ」と。

こうした通俗性とは、どう闘えばよいのか。
またどうして人々は、加齢とともに、ますます通俗的に
なっていくのか。

通俗性を主張する人は、「過去」「伝統」を背負っているから強い。
自分で考えて、そう言うのではない。
「昔から、人間はこうだ」という論陣を張る。
それが転じて、「人間は、こうあるべきだ」となる。

++++++++++++++++++++++

●通俗的になる人たち

60歳を過ぎると、とたんに多くなるのが、通俗的な人たち。
思考回路そのものが、過去へ過去へと、回帰していく。
その理由として、最大のものは、脳みその退化である。
こんな例で考えてみよう。

たとえば英単語。
20代のころまでに覚えた英単語というのは、しっかりと脳みその中に残っている。
今でも、即座に、思い出せる。
しかし50代ともなると、そうはいかない。
覚えるのもたいへんだが、すぐ忘れる。
記銘力、保持力、その双方が衰える。
衰えるならまだしも、バケツの底に穴があいたような状態になる。
その穴から、知恵や知識が容赦なく、流れ出ていく。
英単語もそうだ。

それもたとえるなら、タマネギの皮のようなもの。
外側からどんどんと、はがれて落ちていく。
つまり新しい記憶ほど、早く、はがれ落ちていく。

最後に残るのは、中心部にある、古い記憶のみということになる。
このことは、介護センターにいる老人たちを見ればわかる。
あの人たちはみな、過去の話ばかりしている。
子どものころの話とか、若いころの話ばかりしている。

●例外はない

こうして考えてみると、人は、加齢とともに、通俗的になるのではなく、
若いころ身につけた、(常識?)に戻っていくということがわかる。
あるいはそのあと身につけた、知識や知恵が、はがれ落ちてしまう。
わかりやすく言えば、バカになっていくということだが、それではあまりにも失礼。
しかしそれほど、まちがってはいない。

というのも、20代以後、結構、国際的な場で活躍した人ですら、通俗的になって
いく人は、いくらでもいる。
大企業で、要職を経験したような人でも、通俗的になっていく人は、いくらでも
いる。
もちろん、小さな世界だけで生きてきた人ほど、通俗的になる。
が、やはり特別な人だけが、通俗的になっていくわけではない。

●精進(しょうじん)

では、通俗性と闘うためには、どうすればよいのか。
そのためには、何が通俗的で、何が通俗的でないかを、判断しなければならない。
たとえば「男は仕事だよ。女が仕事に口を出すのは、まちがっている」と主張する
人がいる。
「どんな親でも、親は親だからな。逆らうのはよくない」と主張する人でもよい。
(今でも、ちゃんと、いるぞ!)

そういった通俗的なものの考え方をする人に出会うと、私のばあい、絶望感に近い
ものを感じてしまう。

そういう人たちの、ガリガリになった石頭を変えるのは、まず不可能。
順に説明しようにも、それよりも早く、脳みその老化が進んでしまう。
仮に新しい思想を話しても、そういったものほど、早く、忘れてしまう。
だから、私のばあい、「そうですねエ~」とか言って、逃げてしまう。

が、他人は他人、私は私。

では、あなたはどうか?
この文章を読んでいる、あなたは、どうか?

そこで出てくる言葉が、「精進(しょうじん)」。
私たちは常に、前に向かって進む。
脳みその底に穴があき、そこから知識や知恵が流れ出ていくなら、それ以上のものを、
毎日補充していく。
通俗性と闘うには、それしかない。
けっして通俗的であることに甘んじてはいけない。
甘んじたとたん、あなたの思想は後退する。
つまりそれ自体が、一歩、死に近づいたことを意味する。

●息(いき)ると、生(い)きる

60歳を過ぎて、「ただ息(いき)ているだけ」という人は、少なくない。
またそういう生き方を、理想の生き方と誤解している人は、多い。
ほとんどが、そうではないか。
「老後は、旅行を楽しむよ」
「孫の成長を見守るよ」
「思う存分、庭いじりをしてみたい」と。

しかしこの年齢になると、仮に1年も遊んでしまうと、もう元(もと)に戻れなくなる。
1年遊んだあと、「仕事に復帰」ということは、まずありえない。
つまり脳みその硬直化は、それくらい早いスピードで、その人を襲う。
息(いき)始めたとたん、その人は、ただ息(いき)る人になってしまう。
この私も、こうして何らかの形で、毎日文章を書いているからこそ、書ける。
が、数日も書かないでいたりすると、調子を取り戻すのに苦労する。
今年の正月がそうだった。

私は、あの恐ろしい、三日酔いにかかった。
暮れの12月30日の午後から、正月2日まで、はげしい頭痛と吐き気に苦しんだ。
体重が、62キロ台まで減ってしまった。
(ふだんは、64~66キロ台。)

で、正月だから……ということで、そのあとパソコンに向かったが、頭の中が
モヤモヤするだけで、どうしても文章が書けなかった。
さらにこんなこともある。

私にも夏休みや春休みがある。
その休みの間、たった1週間でも、子どもたちから離れると、育児論が書けなく
なってしまう。
これは本当のことである。
けっしてオーバーなことを言っているのではない。

子育て論というのは、毎日子どもを見ていてはじめて、書ける。

●「損」

私も、考えることをやめたとたん、その時点から、通俗的になっていく。
というのも、これは、大脳連合野が司る、(思考)の問題ではないからである。
脳みそそのものの、器質的変化によるものだからである。

そういう意味では、老化は、例外なく、だれのところにもやってくる。
今、「私はだいじょうぶ」などと、高をくくっているあなたのところにも、やってくる。
ひょっとしたら、肉体の老化よりも、脳みその老化のほうが、早いのでは?
体はピンピンとしているのに、考え方そのものが、通俗性のかたまりといった人は、
少なくない。

何らかの形で、若い人たちと接点をもっている人は、まだよい。
しかしその接点をなくすと、さらに老化は進む。
それがよいことなのか、悪いことなのかということになれば、悪いことに決まっている。
「悪い」というより、「損」と考えたほうがよいかもしれない。
与えられた時間は同じでも、その時間を2倍、3倍として生きることもできる。
が、老化に身を任せてしまうと、それこそ、10年を1年にして生きるようになって
しまう。
だから、「損」。

たった一度しかない人生。
だったら、思う存分、密度の濃い人生を生きる。

●さあ、通俗性と闘おう

通俗的に生きることは、楽なこと。
みなと同じことを考え、同じことをすればよい。
しかし、まだあなたの人生が終わったわけではない。
60歳であれば、20年は、ある。
50歳であれば、30年は、ある。

20年といえば、生まれてから、成人するまでの年月に等しい。
生き方によっては、あなたは、もう一度、青春時代を経験することもできる。
あの世で生まれ変わることを願うくらいなら、現実にそこにある20年を
大切にしたほうがよい。
あの世などという、あるともないともわからないものに、希望を託すほうが、
どうかしている。

さあ、あなたも勇気を出して、通俗性と闘おう。
そういう前向きな姿勢の中から、生きるエネルギーもわいてくる。
そしてあなたの周囲で通俗的なことを口にする人がいたら、あなたは鼻先で、
フンと笑ってやればよい。

今の私が、そうしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
通俗性 通俗的な生き方 通俗的な考え方 通俗的な人たち はやし浩司 人生論 
老後の人生論)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●認知症の問題
 
++++++++++++++++

認知症というと、認知症になった人だけが
問題になる。
気の毒なこととは、思う。
かわいそうとは、思う。
「私はなりたくない」とは、思う。
しかし我らその年齢の者たちは、認知症に
なることによって、周囲の人たちに、
多大な迷惑をかけることを忘れてはいけない。

++++++++++++++++

●たいへんな被害!

A氏(今年55歳)の近くに、認知症の老人(男性)が、1人住んでいる。
はっきりとした診断名はわからないが、Aさんは、「ピック病ではないか」と言っている。
アルツハイマー病に似ているが、脳のある部分だけは、そのまま。
会って話をしてみると、ふつうの人と、とくに大きなちがいは感じない。
しかし、やること、なすこと、これが、めちゃめちゃ。

道路に車を止めておいたりすると、クギかコインで、傷をつける。
ナンバープレートに、落書きする。
あるいはすぐパトカーを呼ぶ。

さらにパチンコを使って、窓ガラスを割る。
自転車のタイヤに穴をあける。
飼い犬に石を投げる。
屋根に牛乳瓶を投げる、などなど。

一度は、庭先に放火されたこともあるという。
このときはさすがのAさんも、堪忍袋の緒が切れて、警察を呼んだという。

ほかにもいろいろあるが、Aさんは、こう言う。
「犯人は、隣のX氏(今年83歳)ということはわかっているのですが、
なにしろ、証拠がないのです」と。

X氏は、毎日、毎晩、Aさんの家をのぞいているらしい。
そしてスキをうかがって、その間に、悪さをするらしい。
Aさんは、防犯用のカメラをつけたが、電源を入れていないときを見計らって、
するという。
先ほども書いたように、脳のある部分は、かなり正常(?)ということになる。

で、一度、Aさんは、息子氏(現在40歳、独身、同じH市に住む)に
相談したことがある。
が、かえってその息子氏は、怒ってしまったという。
「うちの親父はがんこだが、そんなことをするような人ではない。
親の悪口を言うやつは、許さない」と。

私自身も、認知症になるのはいやだが、しかしなったらなったとき。
が、それ以上にいやなのは、認知症になることによって、みなに、迷惑をかけること。
私のばあい、こうしてものを書くのを趣味(道楽?)にしているから、
そのうち、とんでもないことを書くようになるかもしれない。
四方八方から、名誉毀損で訴えられるようになるかもしれない。
そうなったら、どうしたらよいのか。

怒った息子たちが、私のパソコンを、片っ端から破壊するかもしれない。
想像するだけでも、ゾーッとすることだが、ありえない話ではない。

認知症というと、それにかかった人だけが問題になるが、その人によって
迷惑を蒙る人たちもいるということ。
それを忘れてはいけない。


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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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Sunday, April 26, 2009

*Hi-Vision TV set

●4月26日

++++++++++++++++++

今度、実家を売却することにした。
無人の家になって、もう4年以上になる。
5年以上か?
が、伝統的建造物ということで、
解体することもできない。
しかたないので、「古家付」ということになった。

その実家。
土地の坪数は、xx坪弱。
坪単価を、20万円としても、xxx万円。
「こんなものかなあ」とか、「こんなものだろうな」とか、
いろいろ考える。

「こんなものかなあ」というのは、
祖父母の代から、父、兄と引き継いできたものが、
たったのxxx万円(!)。

「こんなものだろうな」というのは、
現在、観光地で売り出してはいるものの、
しょせん、さびれた田舎町(失礼!)。
時代も変わった。
おまけにこのところの大不況。
買う人もいないだろうな、ということで、
そう思った。

+++++++++++++++++++

●田舎の価値

少し前、長野県の田舎に住む友人が、家を建て直そうとした。
そのときのこと。
銀行でローンを組もうとした。
が、評価額のあまりの低さに驚いたという。
「宅地にはなっていますが、300坪で、たったのxx万円!」と。
つまり銀行は、土地を担保にしても、xx万円しか貸さない、と。

その友人も同じようなことを言っていた。
「代々、守り継いだ家の価値が、たったのxx万円とは!」と。
きびしい言い方になるが、たったxx万円のために、代々、その
家の人たちは先祖の土地を守ってきた、ということになる。

あるいはそれ以前の日本は、その程度までに貧しかったのか。
今なら、平均的な労働者が数か月で稼げるような金額で、「家」をもち、
それを守った(?)。

解釈の仕方はいろいろある。
が、もちろんその「家」のもつ価値は、土地の評価額だけで決まるものではない。
そこに住む人の(思い)で決まる。
(思い)があれば、土地の値段など、どうでもよい。

しかしたったの、xxx万円。
売ることができたとしても、20%の税金がそれにかかる。
手取りは、xxx万円。
実兄と母の、葬儀代プラス仏壇代と、ほぼ同額。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●「FUxx」という卑猥語(ひわいご)

+++++++++++++++++++++++++++++++

40年前には、この日本で、「FUxx」(ファxx)という単語の
意味を知っている人は、ほとんどいなかった。
この単語が日本で、ぼちぼち使われるようになったのは、それから
15年ほどもたってからのことである。

+++++++++++++++++++++++++++++++

が、今では、そこらの小学生でも、この単語を使う。
おまけに、あの指を1、2本立てたジェスチャまで!
(手のひらのほうを相手に向けて、指を2本立てれば、ヴィクトリー・
マーク。
手の甲のほうを相手に向けてすれば、まったく別の意味になる。
ふつう「Get Fuxxed」とか、「Get stuffed」とか、
そういう言葉を添えて、そうする。)

そこで私がそれを強く制する。
「子どもがそんなジェスチャをしてはダメだ!」と。
すると子どもたちは、すかさず、「どうしてエ~~?」と聞く。
しかし意味など、言えない。
私も、学生時代、その意味を知って驚いた。

少し回りくどい言い方になるが、許してほしい。
インターネットの世界には、使用禁止用語というのがある。
それを使うと、BLOGなどに原稿を掲載するとき、拒否される。
……指を立てる意味は、こうだ。

女性が、自分で自分を慰めるとき、指ですることが多い(そうだ)。
そのとき、指を1、2本だけ伸ばして、それをすることが多い(そうだ)。
あるいは男性が女性を抱いて、女性を慰めるときも、そうである(そうだ)。
それがそのまま指を立てるという、あのジェスチャになった。

ジェスチャだけではない。
「Get Fuxxed」にしてもそうだ。
どう訳すかというよりも、日本語には、そういう言葉すらない。
あえて訳せば、「おxxこ野郎!」という意味か?

先に書いた、「Get stuaffed」(詰めろ!)というのも、
同じような意味で使う。
これは女性の体の中を、「詰めろ」という意味である。
何で、どう詰めるかは、改めて、ここに書くまでもない。
つまり(とんでもない意味)である。
そういうジェスチャや言葉を、最近の子どもたちは、平気で使う。

日本とちがって、外国では、指のジェスチャが、日本人の私たちが
想像する以上に意味をもつ。
そういうジェスチャを外国でして、相手に殴られても、文句は言えない。
つまりそれくらい重大な意味をもつ。
ブラジルでは、本当に、そういう事件があった。

日本のある領事が、リオで、車を運転していたときのこと。
うしろから猛スピードで車が近づいてきた。
そこでその領事は路肩に車を寄せ、窓から手を出し、日本でいう、
「OK」マークを指でつくり、その手を振ってみせた。
「早く追い抜け」という意味で、そうした。

しかし、である。
その車は領事の車の前に突っ込んできた。
車から男が降りてきて、その領事を袋叩きにしてしまった。
ブラジルでは、「OK」マークは、男性が自らを慰めるときに使うジェスチャ。
指を立てるジェスチャと同じ意味をもつそうだ。
で、その男は逮捕されたが、しかしそのまま無罪放免。
そういうジェスチャをした領事のほうが悪い、ということになった。

私はこの話を、領事館に勤務する書記官から直接聞いた。
だから……。
子どもたちがそうした言葉を口にしたり、ジェスチャをしたら、しっかりと
私たちは言おう。

「そういうことをしては、ダメ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●フルスペック・ハイビジョン

++++++++++++++++++++

2011年には、アナログ放送が終了し、
すべて地上デジタル放送に切り替わるという。
そこで我が家でも、今日、テレビ受像機を換えた。
シャープの、フル・ハイビジョンテレビ、である!
サイズは、42インチ。
昨年の秋のモデルらしく、今年の春モデルの価格の
約半額で購入することができた。

それほど期待していなかったが、電源を入れて、仰天。
本当に驚いた。
あまりの美しさに、ただぼう然!
息をのんだ。
そのまま、少し前まで、計5時間もテレビを
見つづけた。

どこかの店頭で見るときは、それほど美しさを
感じなかった。
が、しかしここまで美しいとは……!

ワイフの趣味はビデオ鑑賞。
言うなれば、そういうワイフへのプレゼント。
「これから家でも映画館並みの映像が見られるね」と
声をかけると、うれしそうだった。
ついでに紅茶を作って、ワイフに出してやった。
私としては、大サービス!

「(映画館の)プレミア席でも、紅茶サービスはないよ」と。

+++++++++++++++++++

●目標

私としては、この10月まで待つつもりだった。
この10月から、3D(立体)テレビ放送が始まる。
立体放送が始まったら、テレビを買い替えよう、と。
が、何となく、雰囲気にのまれて、先日、フルHDテレビを買ってしまった。
値段は、今年の春モデルの約半額。
しかしこれには、こんなエピソードがある。

私は当初、「HD」というのは、パソコンの「ハードディスク」のことと思っていた。
チラシなどには、「フルHD」というように、書いてある。
で、「どうしてテレビに、ハードディスクがついているのだろう」と。
で、近くの電気屋、電気屋といっても、駐車場が300台分くらいある大型店だが、
そこへ行って聞いてみた。

「HDって、どういう意味ですか」と。

すると店員が、「ハイビジョンのことです」と言った。
それをていねいに説明してくれた。
「フル」というのは、「フルスペック」という意味だそうだ。
ハイビジョンテレビにも、「ハイビジョン」と、「フルハイビジョン」の2種類がある。
画素数のちがいらしい。
フルハイビジョンは、たしか「画素数が、2000万~」とか、なんとか言った。

ついでに店員が、「昨年の秋モデルでよければ、安くしますよ」と。
で、そういう話をしているうちに、だんだんと断れなくなった。
それで、まあ、購入することに……。
そのテレビが今日の夕刻、届いた。
そのときの様子は、冒頭に書いたとおり。

しかしここまで美しいとは、私も思っていなかった。
本当に、美しい。
今までも32インチの液晶テレビを見ていたが、美しさがダントツにちがう。
「こんなに美しいものなら、もっと早く買えばよかった」と、今は、そう
思っている。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●「ALWAYA、3丁目の夕日」

今週は劇場で見たい映画もなかったから、近くのビデオショップで、邦画を一本
借りてきた。
昨夜、それを見た。
タイトルは、『ALWAYS、3丁目の夕日』。

よかった。
久々に感動した。
笑って泣いて、また笑った。
星は4つの、★★★★。

冒頭部分はともかくも、昭和30年前後の東京の下町の様子が出てきたところから、
ぐんぐんと画面に吸い込まれた。
とくにオート三輪が出てきたときには、大感激!
私たちの世代には、忘れられない乗り物である。

どれもCG(コンピュータ・グラフィックス)で作成した映像なのだが、
そうとわからないほど、よくできていた。
とくに蒸気機関車は、圧巻!
どう見ても、あれは本物(?)。

そんなわけで団塊の世代の私たちには、たまらない映画である。
1958年(昭和33年)の10月14日に東京タワーが完成したというから、
私が10~11歳(小5、6年生)ごろの話ということになる。
言い忘れたが、ところどころで、工事中の東京タワーが出てきた。
それがシーンごとに、少しずつ高くなっていった。
それで時間の経過がわかるようになっていた。
このあたりの表現方法が、すばらしい!

ワイフと、「そうだった」「いや、ここはそうでなかった」と、
ワイワイ、言い合いながら見た。

ほかの俳優はともかくも、小雪さんの演技は、超一流。
「日本にも、ああいうすばらしい俳優がいるんだ」と、再認識。
加えて、日本のCG技術の進歩にも、驚いた。
「日本も、ここまでできるようになったんだ」と。

で、見終わったとき、ほのぼのとした温もりを感じた。
半世紀前の余韻が、そのまま心に響いた。
団塊の世代の人は、ぜひ、一度見たらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

*Magazine, April 27th 2009

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   27日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●新年度(2009年度)

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毎年、1月1日を、新年度としている
人は多い。
しかし私にとっては、4月1日が、
新年度。
毎年、4月1日を迎えると、緊張感が
ググーッとわいてくる。
今が、そうだ。

+++++++++++++++++

●2009年度

前にも書いたが、私は55歳を過ぎるころから、60歳に向けて、
仕事を縮小することばかりを考えていた。
楽隠居とまではいかなくても、60歳を過ぎたら、仕事もほどほどに、
と考えていた。

が、その考え方は、まちがっていた。
その第一。
満60歳の誕生日を迎えた、その翌日のこと。
その日が、それまでの日々と、どこもちがわないことに驚いた。
(ちがうわけはないのだが……。)
満60歳の誕生日に向けて、自分の体が、どんどんと締めつけられて
いくように感じた。
「還暦だ」「退職だ」と。

いくら「私はちがう!」と叫んでも、そういう声は、弱い。
「あと1か月……」「あと10日……」「あと1日……」と。

で、その翌日、何も変わらなかった。
まったくいつもと同じように、その日が始まった。
だからうれしかった。

その第二。

今度は、満61歳の誕生日を迎えたときのこと。
ワイフと長男が、誕生日を祝ってくれた。
ささやかな3人だけのパーティだった。
そのとき、私は、はっきりと実感した。
「1年、得した!」と。

満60歳で私の人生が終わったとする。
(何も終わったわけではないが……。)
その満60歳から、それまでと同じように仕事ができた。
1年間、何も変わらず、仕事ができた。
だから「得した!」と。

友人のS君は、ちょうど満50歳のときにがんを患い、
それ以後、ずっと、闘病生活をつづけている。
そのS君も、同じようなことを言った。

「林君、人生は50年だよ。だからそれからの1年、1年は、
もうけものなんだよ」と。
そのときは、「そんなものかなあ」と思っていたが、満61歳の
誕生日のとき、S君の言った意味が、しみじみと理解できた。

これからは、1年、1年が、もうけもの、と。

●さて新年度!

もうけものの1年。
その1年を、どう使うか。
あとは、使い方の問題ということになる。
ぼんやりと過ごすのも、1年。
あと1年しかないと思って生きるのも、1年。

しかし1年たってみたとき、「得した!」と言えるようにするためには、
やはり緊張感をもって生きたほうがよい。
明日も、今日と同じ。
来週も、今週と同じ。
来月も、今月と同じ……。
そんな1年に、どんな意味があるというのか。
そんな1年を過ごして、そのあと、「得した!」と言えるのか。

……ということで、2009年度を迎えた。
今年度も、同じように、迎えることができた。
その2009年度にあたって、今、私は誓う。

2008年度よりも、暴れてやる!、と。

2009年、新しくBW教室へ入ってくるみなさんへ、

どうか期待していてください。
今までの経験すべてを、惜しみなく、みなさんのお子さんに注ぎます。
みなさんのお子さんを、すばらしい子どもに、します。
まあ、見ててください、はやし浩司の実力。
40年、ダラダラと生きてはこなかった。

お任せください。
約束します。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【家族】

++++++++++++++++++++++

今朝は、どこかの男と、言い争っている夢を見た。
私はかなり興奮していた。
そのせいか、起きると、軽い頭痛がした。
今、あまり精神状態は、よくないようだ。
理由はわかっている。

近く、実家の寺で、法事がある。
父の33回忌である。
私は若いころから、「実家へ帰る」となっただけで、
精神状態が、たいへん不安定になる。
家族自我群による「幻惑」によるものと考えてよい。
本能に近い部分にまで、「刷り込み」がなされて
いるため、それを克服するのは、容易なことではない。

満61歳になった今でも、その「幻惑」はつづく。

+++++++++++++++++++++

●家族自我群

今の今も、家族による束縛感、呪縛感に苦しんでいる人は多い。
家族であるがゆえに、わだかまりや、こだわりも、増幅する。
またそれから逃れることもできない。
できないから、悶々と、いつ晴れるともない、苦しみの中でもがく……。
こうした呪縛感を総称して、「家族自我群」という。
またそれから生まれる苦しみを総称して、「幻惑」という。
先にも書いたように、本能に近い部分にまで刷り込みがなされているため、
その自我群から、自ら解放することは、容易なことではない。

●家族

「家族」というと、甘い響きがそこに漂う。
そうである人には、そうかもしれない。
しかしその家族も、どこかで歯車が狂うと、そのままバラバラになる。
なって、今度は、重圧感となって、その人を襲う。
家族イコール、「安住の場」とは、かぎらない。
「家族である」という、安易な『デアル論』だけで、
容赦なく、その人を攻撃する。
幸運にしても、そういった苦しみを知らない人には、
自我群の説明をしても、意味はない。
理解することすら、むずかしい。

●入浴

……ここまで書いて、朝風呂に入ってきた。
軽い偏頭痛のばあい、朝風呂に入ると、そのまま治る。
これにも、理由がある。
偏頭痛は、血管が拡張して起こる。
拡張した血管が、その周囲を取り巻く神経を圧迫する。
それで偏頭痛が起こる。

若いころは、このメカニズムがわからず、苦労した。
プラス苦しんだ。
ひどいときには、「頭を切り落としてくれ!」と叫ぶほど、
痛かった。
が、メカニズムがわかれば、対処の仕方もわかる。

やや熱めの風呂に入って、一度、血圧をあげる。
瞬間、偏頭痛はひどくなるが、5~10分もすると、今度は
血管が収縮を始める。
それで偏頭痛は、消える。
今朝、目が覚めたときの頭痛は、偏頭痛だった。

●自我群と闘うために

家族自我群と闘うためには、まず、そのメカニズムを知る。
何度も書くが、これは本能に近い部分にまで刷り込みがなされているから、
それと闘うのは、容易なことではない。
理性や知性で、割り切ることはむずかしい。
が、「幻惑」は、読んで字のごとく、「幻惑」。
「幻(まぼろし)」。
実体があるわけではない。

私のばあい……という言い方はおかしいが、あるときから、そこにある
運命を受け入れることにした。
自分の境遇をのろっても、しかたない。
嘆いても、始まらない。
だったら、そこにある運命を、そのまま受け入れる。
とたん、心が、ウソのように軽くなったのを覚えている。

●今……

今、私が苦しんだ、家族自我群による幻惑は、ウソのように消えた。
母が他界し、つづいて兄が他界し、「家」そのものが、消えた。
残るのは、実家という「古家」と「法事」のみ。
しかしそれらは、もう(心の問題)ではない。

が、すべての呪縛から解放されたというわけではない。
実家の周辺には、親類が住んでいる。
近所の人たちとのつきあいもある。
伯父、伯母、それに叔母もいる。
しかし我が身を振り返ってみれば、その私も61歳。
正直なところ、「もう、いいかげんにしてほしい!」と叫びたい。
が、こうなったら、居直って生きるしかない。
「どうでもなれ」と、投げ捨てて生きるしかない。

●幻惑に苦しんでいる人へ

私のBLOGへの検索・ワードを見ると、「家族による苦しみ」
についてのものが、多い。
(BLOGによっては、どんな言葉を検索して、アクセスして
きたかが、わかるようになっている。)

つまりそれだけ、この問題は、深刻ということ。
またそれで悩んでいる人も、多いということ。
逆に、そういう人たちをアクセスしてみると、そのBLOGには、
こう書いてあったりする。
「親を殺してやりたい!」と。

それは殺意というよりは、自分の体にしみ込んだ(体質)そのものを
消し去りたいという思いから、発するものと考えてよい。
あえて言うなら、自己嫌悪。
はげしい自己嫌悪。
それが転じて、「殺してやりたい!」となる。

しかしけっして、あせってはいけない。
時間はかかるかもしれないが、この問題は、時間が解決してくれる。
時間がたてば、かならず、解決する。
だから……。
それまでがんばって、がんばって、生き抜くこと。
健康だけを大切に、生き抜くこと。
それで解決する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
家族自我群 自我群 幻惑 家族とのわだかまり こだわり はやし浩司 確執 
親子の確執。)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●権力の魔力(Power of Devil)

+++++++++++++++++++++

M党のOZ氏が、「続投する」と言っている。
いわく、
「自身が収賄罪など犯罪に手を染めたという事実はないと申し上げてきた。主張してきた
ことが事実であると明らかになった」(Nikkei)と。

本当かな?

一方、側近中の側近であった、第一秘書は、そのまま起訴。
それについて、T次席検事は、「ダミー団体の名義を利用する巧妙な方法で、国会議員の政
治団体が建設業者から多額の寄付を受けてきた事実を国民の目から覆い隠した重大、悪質
な事案」と説明。

わかりやすく言えば、OZ氏は、「私は関係ない」と。
が、こんな言葉でだまされるほど、国民は、バカではない。
第一秘書のした「巧妙な行為」(T次席検事)を指示したのは、だれか?
そんなことは、その(マネー)が、最終的にすべて、どこへ向かったかをみれば
わかるはず。
N建設からだけでも、何しろ3億円近い献金である。
そんな献金の流れを、「知らなかった」では、すまされない。
つまりOZ氏のイメージは、それほどまでに、悪い。
悪いにもかかわらず、「続投する」と。

これではますます、M党イコール、OZ氏というイメージが定着してしまう。
同時に、今、あのOZ氏に、さわやかな清潔さを感ずる人がいるだろうか。
当の本人は、街頭に出て、笑顔を作りながら握手戦術を繰り返している。
「涙までこぼして、無実を訴えている」(C新聞)という。
言いかえると、それほどまでに(権力の座)は、おいしいものなのか?

+++++++++++++++++++

●権力

昔、何かの講義の場で、ある教授がこう言った。
「金がほしかったら、弁護士になれ。勉強したかったら、裁判官になれ。権力が
ほしかったら、検事になれ」と。

この3職をまとめて、「法曹(ほうそう)」という。

検事がどのように権力を行使しているかは知らないが、しかし検事ともなると、
電話一本で、警察を自由に動かすことができる。
暴力団の親分でも、検事の前では、借りてきた猫の子のようにおとなしい。
が、政治の世界ともなると、こうした「力」が、何十倍、何百倍も強くなる。
今回、AS首相は外遊を繰り返しているが、一回の外遊で、5~7億円の費用が
かかるという。
もちろん飛行機は、政府専用機。

そういう世界にいる人から見れば、N建設からの献金、3億円など、まさにハシタ金。
OZ氏自身も、実はそう思っているのではないか?
「どうして、それっぽっちで?」と。
あるいは「みんなやってるじゃ、ないか?」と。

●物欲

話はそれるが、物欲を満たしたからといって、それで精神が高揚するということは
ありえない。
大脳生理学上で考えても、ありえない。
たとえば今、あなたが欲しいものをどんどんと手に入れたとする。
しかしそのことと、精神の高揚とは、まったく関係ない。
「私はすばらしい人間になった」と思ったとしても、それは錯覚。

物欲というのは、あくまでも脳の中のホルモンの作用によるもの。
ドーパミンが線条体を刺激して、条件反射が起きる。
物欲が起きる。
が、それを満たしたところで、いい気分にはなるかもしれないが、大脳の精神活動に
影響を与えるなどということは、大脳生理学で考えても、ありえない。

ひとつの例として、超高級な衣服を着た、女性を見ればよい。
超高級車に乗っている、男性を見ればよい。
さらに、古今東西の独裁者たちを見ればよい。
すべての物欲を満たしたはずなのに、ロクなのが、いない。

権力、またしかり。

●誤解と錯覚

もうおわかりのことと思う。
権力者イコール、人格者ではない。
ないが、みな、権力者イコール、人格者と誤解してしまう。
錯覚してしまう。
金持ちイコール、成功者と誤解するのに似ている。
一般世間の人たちだけではない。
当の本人ですら、誤解してしまう。
錯覚してしまう。

ふつうなら自分の側近中の側近が、逮捕、起訴されたら、それに恥じて、
……というより、その側近の罪をかぶってでも、身を引く。
「部下に責任をかぶせるのは、つらい。私がかぶります」と。
それを「私は知らなかった」「私は関係ない」と、別のところでは笑顔を
ふりまく。
このおかしさ。
この異常さ。
権力の魔力にとりつかれると、そういう常識まで失ってしまう。
OZ氏がどうのこうのというよりは、その向こうにある権力の魔力に、改めて、
驚く。

「AS首相よ、OZ氏よ、そうまでしても、権力の座にしがみつきたいか!」

しかし考えようによっては、かわいそうな人たちである。
あれほどまでの人たちに囲まれながら、心の中は、カラッポ。
まわりの人たちの心も、カラッポ。
そこにあるのは、孤独だけ。
みながチヤホヤするのは、そのオコボレがほしいから。
チヤホヤする人たちにしても、その程度の人。
だからそこにあるのは、孤独だけ。

誤解と錯覚の世界だけに住んでいると、そういう人の心までわからなくなる(?)。

まあ、あえて言うなら、OZ氏よ、引退しなさい。
M党の未来のために、引退しなさい。
あなたが続投すればするほど、結局は、J党のAS首相を勢いづかせるだけ。
人間の心の醜さを、世に残すだけ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『オーストラリア』(Ausutralia)

++++++++++++++++++

昨夜、わざわざ隣町まで行って、
映画『オーストラリア』を見てきた。
浜松の映画館でも上映していたが、先週で打ち切り。
それで隣町まで。

で、星はもちろん5つの、★★★★★。
職業がら、子どもが救出されるシーンに、私は弱い。
涙、ポロポロ。
みなが再会して、さらに涙、ポロポロ。
このところ、何かにつけて、涙もろくなった。
(「肝」機能が衰退しているためかもしれない。東洋医学。)

オーストラリア英語といっても、州によってちがう。
『オーストラリア』の中で使われていた英語は、
北部オージィ?
NSW英語ともちがったし、メルボルン郊外の
カントリー英語ともちがった。
しかし久々に、生の(?)、オーストラリア英語を
耳にして、うれしかった。

ところでオーストラリアでは、
「牛や羊を、(追う)」ことを、droveという。
「drive」の過去形ということになるが、「drove」は、
現在形として使う。
そこで「牛や羊を追う人」を、「drover」という。
主人公の男の名前が、その「ドローバー」だった。

その英語を聞きながら、昔、その単語の意味を
一生懸命教えてくれた、友人のことを思い出していた。
……というより、友人の顔が浮かんできた。

ところどころに、オーストラリアのブッシュ・ソング
が流れ、気分は、最高!
それで星は、5つ。
オーストラリアに何かの思い出のある人には、
たまらない映画だと思う。

家に帰ってきたのが、夜中の11時半過ぎ。
そのまま床に入って、眠った。

+++++++++++++++++++

●Acid Milk

映画館から帰ってくるとき、大きく「Acid Milk, YY」と書いた車と
すれちがった。
それを見て、ワイフと2人で笑った。

英語で、「Acid Milk」というと、「覚せい剤」を意味する。
それについては、こんな思い出がある。

学生時代、メルボルン港に、サクラ丸という、日本商品の見本市船が入港した。
三井物産の支店長から、アルバイトの学生を、30人ほど集めてほしい
という依頼を受けた。
もちろん私も、アルバイトをさせてもらった。
そこでのこと。

あの「カルピス」の試飲コーナーもあった。
しかしみな、遠巻きにしてながめているだけで、だれも飲まない。
それもそのはず。
「ピス」は、そのまま「小便」を意味する。
だから「カルピス」は、「牛の小便」となる。
さらに「これは何だ?」と聞かれたとき、「乳酸飲料」を直訳すると、
やはり、「Acid Milk」となる。
オーストラリア人が、飲むわけがない!

これは余談。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【年齢論】

●ニコール・キッドマン

+++++++++++++++++

ニコール・キッドマンの美貌については、
今さら、語るまでもない。
しかし映画『オーストラリア』の中の
ニコール・キッドマンは、円熟した女性の美しさ
というか、これからの大女優への変身を
期待させるような美しさを、たたえていた。

女性が本当に美しくなるのは、やはり
30~35歳前後ではないか。
ニコール・キッドマンもそれくらいの
年齢だと思うが、確かなことはわからない。
たいていの女優は、この年齢を境に、
スクリーンから消えていく。
若さと肉体だけを売り物にしている女優ほど、
そうだ。
が、この年齢をうまく通り過ぎた女優は、
そののち、大女優へと変身していく。
メリル・ストリープも、その1人。
ニコール・キッドマンは、その年齢を
うまく通り過ぎた。

つぎの作品も、かならず、見る。

+++++++++++++++++

●35歳という年齢

男性のことは、よくわからない。
しかし女性は、35歳を過ぎると、急速に老けていく。
40歳になるころには、老人顔になる。
もう少しわかりやすく言うと、40歳を過ぎると、
その女性が老人になったとき、どんな顔になるか、
それが簡単に想像できるようになる。
30歳以前の女性では、それがわからない。
(何も老人顔になるのが、悪いと言うのではない。
どうか、誤解のないように!)

で、この時期、その女性が、いわゆるオバチャンに
なるかどうかが、決まる。
(もちろんオバチャンにならないほうが、よいに
決まっているが……。)

教養があるとかないとか、文化性があるとかないとか、
そういうことではない。
その方向づけがあるかどうかということ。
つまりこの時期からの方向づけが、その女性のそれからを
決める。
この時期に、本を読んだり、美術を鑑賞したり、
より広い世界を見たりする習慣があるかないかということ。
その習慣がしっかりしている人は、そののち、高い
知性と理性を光らせることができる。
そうでなければ、そうでない。
そのまま、あのオバチャンになっていく。

つまらない世間話にうつつを抜かし、家族のグチを
いつまでも話しつづける。
厚化粧ばかりを塗り重ねるが、頭の中は、カラッポ。
電車やバスの中でも、まわりの人にお構いなく、
ペチャクチャ・ペチャクチャ、ゲラゲラ、ギャーギャー、と。
物欲と食欲と性欲のかたまり。
そんなオバチャンになっていく。

で、あとはお決まりの老人コース。
つまり女性にとっては、(男性にとっても、そうかも
しれないが……)、35歳から40歳までが、人生の
大きな節目になっている。
言うなれば、それまでの年代は、その時期の基礎づくり
の年代ということになる。

●品性

ついでに、品性というのは、(落差)の問題。
自分がより高い品性をもって、それまでの自分が低かったことを知る。
が、その品性には、上限はない。
(現在の自分)に、けっして満足してはいけない。
満足したとたん、その日を境に、品性は、下落する。
それはちょうど健康論に似ている。

健康のための運動をやめたとたん、その人の健康は下落する。

が、(そこにいる人)には、それがわからない。
知性も理性も、そして品性も、より高い人からは、低い人がわかる。
しかし低い人からは、高い人がわからない。
わかりやすく言えば、賢い人からは、バカがわかる。
が、バカからは賢い人がわからない。
(ここでいう「バカ」とは、「バカなことをする人のこと」(「フォレスト・ガンプ」)
をいう。知的な意味で、バカというのではない。誤解のないように!)

先日もある女性と、電話で話していたときのこと。
このところどこか認知症気味(?)。
どうでもよい家族のグチを、何度も繰り返し話していた。
そこで私が、「ぼくは、そんなバカではないと思います」と言うと、
何を勘違いしたのか、突然金切り声で、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

そこで釈迦は。「精進(しょうじん)」という言葉を使って、
日々の弛(たゆ)まぬ研鑽(けんさん)の重要性を説いた。
その努力を怠ったとたん、その人は、そのまま元の
世界に逆戻りしてしまう。

……と書くと、「そんなたいへんなこと、できない!」と
思う人もいるかもしれない。
しかし実は、それは楽しいことでもある。
たとえて言うなら、心の旅。
未知の世界を、ひとりで旅をするような、そんな感じがする。
その旅に出るか出ないかは、あとは、勇気だけ。
一歩、踏み出してみれば、あとは、なんでもない。

『心を解き放て! 体はあとからついてくる!』(アメリカの格言)。

……と書くと、「じゃあ、林、あなたはどうなのだ!」と言われそうな
気がする。
「お前だって、偉そうなこと言えるクチではないだろ!」と。

そう、その通り。
が、海抜3000メートルの山から、4000メートルの山には登ることは
できないが、300メートルの山から、400メートルくらいの山なら、
登ることができる。
無理はしていないし、無理をする必要もない。

それに品性を磨くということは、だれのためでもない。
自分のためである。
たとえばそうでない人たちから、一歩抜き出ると、そういう人たちが、
低いところにいるのが、たしかにわかる(失礼!)。
しかしそのために品性を磨くのではない。
またそれがわかったところで、意味はない。
というのも、高低といっても、あくまでも相対的なもの。
自分より、より高い品性をもった人は、いくらでもいる。

つまり品性を磨くといっても、それは、あくまでも自分のため。
他人を見下すため、ではない。
またそういうふうに見下してはいけない。
人は人、私は私。

ただ、相手にしないというようなことは、ある。
相手にならないというようなことも、ある。
つきあいたくないというか、つきあっても、ムダというように、
考えることはある。

で、数日前には知らなかったことを、今日、知る。
数日前にはわからなかったことが、今日、わかる。
それは原野で、小さな宝石を見つけるのに似ている。
それがまた「心の旅」を楽しくさせる。

その人の品性は、あくまでも、その結果。
結果として、その人の身につく。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●実家への仕送り

++++++++++++++++++++

現在、東南アジアや南米からの労働者たちは、
収入の多くを、故郷の実家へ仕送りしているという。
学生時代からの友人であるM君が、そう言った。
しかし本当に、そうだろうか?
そういう話を聞くと、「すごいことだ」と、
みな思う。
しかし本当にそう思ってよいのだろうか。

++++++++++++++++++++

10年前、20年前なら、そうだったかもしれない。
しかし今は、時代が変わった。
世界も変わった。
そういうこともあって、私は「?」と思っている。
いったい、何パーセントの人が、平均、いくら
仕送りしているというのか?

それに南米からの労働者といっても、ほとんどが、家族連れ。
私が知る限り、単身で出稼ぎに来ている人は、ゼロ。
あの人たちの家族観には独特のものがあり、離れて暮らす
ということは、ありえない。
「家族あっての仕事」と考えている。

が、中には、故郷の両親に……という人もいるかも
しれない。
とくに中国系の労働者たちは、そうかもしれない。
結婚前の独身の労働者たちも、そうだ。
しかし、そういう人たちも、今では、意外と少ないのではないか?
故郷の実家に送金するというよりは、故郷の自分の銀行に
送金している?
私には、そう見える。

で、同時に、こう思う。
「そういう話を美化してはいけない」と。

仕送りをしたことがある人ならともかくも、
一度も仕送りをしたことがない人は、
こういう話を美化してはいけない。

実家への仕送りなど、美談でも何でもない。
若いときから、収入の約半分を、実家に
仕送りをつづけてきた私が、そう言うのだから、
まちがいない。

だれが送りたくて、送るかア!
金銭的負担というより、その社会的負担感には
相当なものがある。
重圧感と言ってもよい。

あなたが親なら、子どもに仕送りなど、させてはいけない。
あなたが子どもなら、親に仕送りなど、してはいけない。
そんなことをしても、無駄。
最初は感謝し、感謝されるが、それも時間の問題。
1年、2年とたつと、それが当たり前になる。
5年、10年とたつと、逆に、親のほうが子に、
請求するようになる。
子は親に、請求されるようになる。

こうした依存、被依存関係ができたら最後、
(仕送り)は、仕送りでなくなってしまう。
義務になってしまう。

私のばあいも、最初のころはともかくも、
やがてそれが当たり前になり、実家の母たちも、
私からの仕送りを前提にして、生活を考えるようになった。

しかも母には母のプライドがあったのだろう。
私が送ったお金で生活しながら、親類や近所の
人たちには、「先祖からの財産で生活している」と
言っていた。

が、それだけではない。

実家からさらに、母の実家へと、お金が流れるようになった。
母の実家を継いだ、母の弟氏(=伯父)には、定職がなかった。
こんなことを書くと、伯父は怒るかもしれないが、事実は事実。
母の直筆のメモも残っている。

また、それで親の子の絆が太くなるということは、まずない。
世の中には、親をだます子どもは多いが、子をだます親もいる。
マネーがからんでいるから、親子でも、人間関係は
ドロドロとしたものになる。

親は親で生きる。
子どもは子どもで生きる。
子どもを出稼ぎの道具として使うくらいなら、もとから子どもなど
生まないこと。

子どもに生活費を仕送りさせながら、「私はいい息子をもって、
幸せ」は、ない!
よい人間関係があれば、まだ救われる。
しかし親子関係だって、壊れるときには壊れる。
壊れても、そこで仕送りを止めるわけにはいかない。
あとに残るのは、その重圧感だけ。
その重圧感と、闘わねばならない。

一方、欧米では、親子でも、経済は他人と考える。
夫婦でも、他人と考える。
それがよいことなのか、悪いことなのか、わからない。
議論もあると思うが、こと「実家への仕送り」という話については、
私は聞いたことがない。
中にはあるかもしれないが、私は聞いたことがない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●老後の統合性

+++++++++++++++++

老後の統合性については、何度も
書いてきた。
(すべきこと)と、(していること)を
一致させる。
それを「統合性」という。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)。
それをする。

が、「退職しました。これからゴビの砂漠へ
行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、
身につかない。
長つづきしない。
生きがいも生まれない。

その統合性の準備は、満40歳くらいから
始めるとよいという。
「40歳は、人生の正午」と言われている。
が、それでも遅いかもしれない。

統合性の下地を作るだけでも、10年とか
20年とか、かかる。
そうした地道な下地があってはじめて、統合性の
確立ができる。

++++++++++++++++++

●愛他的自己愛者(偽善者)

それにしても愛他的自己愛者が多いのには驚かされる。
つまり偽善者。
自分をよく見せるために、ボランティア活動や、慈善事業をしたりする。
派手なパフォーマンスを繰り返す。
が、見抜くのは、簡単。
どこかへん?
どこか矛盾している?
そう感じたら、愛他的自己愛者と考えてよい。

たとえばもう25年近くも前になるだろうか。
田丸謙二先生の家に遊びに行ったら、1人の女性がたまたま、遊びに来ていた。
当時、50歳くらいではなかったか。
話を聞くと、東南アジアの難民キャンプで、難民たちの世話をしているという。
その女性といっしょに、私のワイフも含めて、みなで夕食を食べた。
そういう(本物の女性)に一度でも会うと、「私はアフリカで……」というような
人が、いかにインチキかわかる。
本物の絵を見たあと、夜店で売っているような絵を見るようなもの。

その女性のばあいも、日本にいたのは数日だけ。
たしかそのつぎの日には、カンボジアだったか、タイへ戻るということだった。
つまりそういう人には、一貫性がある。
すご味がある。
その人の人生を貫く、太い柱のようなものを感ずる。

言い忘れたが、その女性は、左手に大きな包帯を巻いていた。
何かの活動をしているときに、怪我したということだった。
(今、思い出したが、怪我したから、一時帰国したということだった。
ワイフにこの話をしたら、ワイフが、「お医者さんだったわね」と言った。
そう、医師だった。)

が、世の中には、一方でテレビのタレントをしながら、こうしたボランティア活動(?)
を売り物にしている人たちがいる。
そこに至るプロセスがあれば、まだ理解できる。
若いころからホームレスの世話をしてきたとか、孤児のめんどうをみてきたとか、など。
が、そうした人たちは、ある日突然、降ってわいたような話に乗って、難民救済運動
を始めたりする。
団体は団体で、そういう人たちを利用して、募金を集める。

しかし難民救済という活動がいかにたいへんなものであるかは、恐らく、それを実際に
したことがある人でないとわからないだろう。
私にもわからない。
しかし難民キャンプにいる人たちは、私たちが想像を絶するような生活をしている。
多くはやせこけ、重い皮膚病にかかり、体の一部はすでに腐り始めている……。
そういう人たちを素手で抱きあげ、体を湯で洗ってやる……。
きれいごとだけで、できるような活動ではない。
それが救済活動である。

さらに言えば、一方で数十万円もするような衣装で身を包みながら、
他方で、難民救済活動をしているだと?

テレビに出るたびに、2時間近くもかけて化粧をしながら、他方で、
難民救済活動をしているだと?

中には、写真撮影のためだけに、難民キャンプで子どもを抱いた人もいた。
その人は、写真撮影が終わるとすぐ、手や体を消毒していたという。
ある週刊誌にそれがすっぱ抜かれ、問題になったことがある。

もしふつうの人が、まともな神経で、そんなことを繰り返していたら、
それだけで精神がバラバラになってしまうはず。
つまり偽善をつづけるにも、それなりの体力と気力がいる。
好きでもない相手と、ともに生活するようなもの。
ストレスがたまって、気がへんになる。

で、身近でもこんなことがあった。
その女性は、ボランティア活動として、近所の独居老人の世話をしている
ということだった。
しかしその一方で、ある日、私の知人の家に怒鳴り込んできたという。
何でも知人の家にある高い木から落ちる枯れ葉で、樋(とい)が詰まって
しまうというのだ。

その知人は、こう言った。
「独居老人の世話をするという高邁な精神の持ち主が、他方で、枯れ葉程度の
ことで、大騒ぎする。
矛盾しているとは、思いませんか」と。

そう、矛盾している。
たしかに矛盾している。
そういう矛盾を感じたら、ここでいう愛他的自己愛者と考えてよい。
つまり自分を飾るために、また人からよい人と思われたいがために、
ボランティア活動をしているだけ。
ボランティア活動を利用しているだけ。

で、この話には、まだつづきがある。
この女性が、やがて実父の介護をするようになった。
が、表ではすばらしい娘を演じながら、その裏で、実父を虐待していた。
毎度、食事は、ご飯と味噌汁だけ。
昼間は、部屋に鍵をかけて閉じ込めていた。
が、親類の人が見舞いに来たりすると、みなの前で実父の背中をさすって
みせていた。
すばらしい娘を演じてみせていた。
代理ミュンヒハウゼン症候群というと、母親と子の関係を想像するかもしれないが、
何も、母親と子の関係だけではない。
場所も、病院内だけとは、かぎらない。
陰で親を虐待しながら、すばらしい娘を演じている女性となると、
それこそゴマンといる。

だからその知人は、こう言った。
「ああいうのを化けの皮をかぶった、タヌキというのです」と。

話を戻す。

愛他的自己愛者は、悪人より、タチが悪い。
悪人は、人をだまして、お金を奪う。
愛他的自己愛者は、善人ぶって、人の心を奪う。
弱い人を利用しながら、それを自分の名声や利益につなげていく。
何もアフリカまで行かなくても、本当にボランティア活動なるものがしたかったら、
まず身近なところから、始めてみたらよい。
街中で寝泊りするホームレスの人たちの世話でもよい。
孤児の世話を、親代わりになってしてみるのもよい。
そういう積み重ねをしたあと、アフリカへ行けばよい。
それができないというのなら、つまり、見せかけだけのボランティア活動なら、
すぐやめたらよい。

(補記)
世の中には、「やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
「偽善であろうがなかろうが、やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
が、偽善は偽善。
偽善が本物に変わることは、まず、ない。
偽善が本物になるためには、まずドス黒い心を、一度、真っ白にしなければならない。
だったら最初から真っ白な人のほうが、まだよい。
何もしないで、遠くからながめている人のほうが、まだよい。
できなければできないと、正直に言っている人のほうが、まだよい。
そういう人たちのほうが、より(善)に近いことになる。

この世で最大の罪は、弱者を利用して、それを食い物にすること。
偽善者が、そうだ。
そういう人たちがいるから、戦争が始まり、犠牲者が生まれる。
難民が生まれる。
言うなれば、偽善者たちが、その一方で、別の新たな犠牲者を生み出しているようなもの。
私たちは、見かけの(善)に、だまされてはいけない。

先に書いた、写真撮影のあと、手や体を消毒した人にしても、いまだに
看板だけは背負っているらしい。
が、そのあと、何らかの活動をしているという話は聞いたことがない。
「私財を投げ打って……」という話も、聞いたことがない。

私たちは、だまされただけなのか?
また、それで終わってよいのか?


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●ミサイルを迎撃してはいけない!(Urgent Warning)
(We should NOT intercept the North Korean’s Missile!)

+++++++++++++++++

あんなK国など、相手にしては、いけない。
国力は山陰地方の小さな県ひとつにも及ばない。
小さな国である。
アジアのみならず、世界でも最貧国のひとつに
なっている。

そんな国と、日本は、心中するつもりなのか。
しかも相手は、すでにまともな論理が通ずる
国ではない。

今ここで、それがミサイルであるにせよ、
それを迎撃すれば、日本とK国は、
そのまま交戦状態に入る。

たとえば漁船で、核爆弾を東京湾へ持ち込まれたら、
そのあと、日本は、どうなる?

カラのミサイル一発でも、東京の中心部に
撃ち込まれたら、日本は、どうなる?

そのときから日本は、大混乱。
日本の経済は、マヒ状態になる。

人工衛星のはずは、ない。
世界中の人は、それを知っている。
しかし彼らは、異常な思い込みによって、
それを「人工衛星」と主張している。
つまりその(思い込み)を基に、
日本に戦争をしかけてくる。

少し前、アメリカの政府高官は、K国を
「Mad Dog(狂った犬)」と
評した。

だったら、なおさら、相手にしてはいけない。

ミサイルにはまだ、核弾頭は積んでいない。
だったら、彼らのやりたいようにさせ、
そのあと、国際世論を、反K国に誘導する。
彼らを、国際世論で、兵糧攻めにする。

あんなガラクタに近いミサイルのために、
数100億円~もかけた、迎撃ミサイルを
撃って、どうする?

相手は、「相手にしてほしい」「相手にしてほしい」
と、駄々をこねている子どもと同じ(ライス)。

ここは、冷静になろう。
一度、迎撃したら、日本もあとへ引けなくなる。
ブッシュのイラク戦争を見れば、それがわかる。

だから、迎撃、反対!
あんな国は、本気で相手にしてはいけない。
また、その価値もない。

さあ、日本人よ、おとなになろう!

2009-3-27記


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Saturday, April 25, 2009

*Wisemen's Philosophy

世界の賢者たちの言葉を、あちこちから拾って、訳をつけてみた。




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★The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein

「重要なことは、問いつづけることだ」(A・アインシュタイン)




★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave

only life, those the art of living well. - Aristotle

「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を与えるだけだ

が、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」(アリストテレス)




★They were majoring in two subjects: physics and philosophy. Their choice amazed

everybody but me: modern thinkers considered it unnecessary to perceive reality, and

modern physicists considered it unnecessary to think. I knew better; what amazed me was

that these children knew it, too. - Ayn Rand

「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、みなを驚かせ

た。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。そして近代の物理学者

は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚かせたことは、これらの子どもたち

も、それを知っていたということを、よりよく知っていた」(A・ランド)




★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that the past has

anything magical about it, but we cannot study the future." - C.S. Lewis

「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよくしる必要がある。それは、過去が何か神秘的である

からということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができないからである」(C・S・ル

イス)




★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom. There are

many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still the path. - Carl Sagan

「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。いろいろな種類

の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさにその道である」(C・サガ

ン)




★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. - Confucius

「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理解する」(孔子)




★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to saying

something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe

「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語る

よりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)




★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah, THAT is to

have been educated in the knowledge of simplicity. - Frank Lloyd Wright

「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識として、教育さ

れるべきことである」(F・L・ライト)




★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself. - Galileo

Galilei

「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つけるのを、助

けることができるだけである」(G・ガリレイ)




★What office is there which involves more responsibility, which requires more qualifications,

and which ought, therefore, to be more honourable, than that of teaching? - Harriet

Martineau

「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、ほかのど

こにあるだろうか」(H・Martineau)




★A child's wisdom is also wisdom - Jewish Proverb

「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言)




★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their wisdom, but

leads you to the threshold of your own mind. - Kahlil Gibran

「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しないもの。しか

し本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」(K・ギブラン)




★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the way down. -

Kurt Vonnegut

「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発する」

(K・Vonnegut)




★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect. - Leonardo Da

Vinci

「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・ダビンチ)




★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them. - Madeleine L'

Engle

「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん危険なことで

ある」(M・L'Engle)




★Never let school interfere with your education. - Mark Twain

「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン)




★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that nothing

that is worth knowing can be taught. - Oscar Wilde

「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられないということ

も、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド)




★You must train the children to their studies in a playful manner, and without any air of

constraint, with the further object of discerning more readily the natural bent of their

respective characters. - Plato

「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなければならない。強制的な雰囲気ではな

く、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認める目的をもって、そうしなければならない」

(プラト)




★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I am his pupil. -

Ralph Waldo Emerson

「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生徒である」

(R・W・エマーソン)




★We, as we read, must become Greeks, Romans, Turks, priest and king, martyr and

executioner, that is, must fasten these images to some reality in our secret experience, or

we shall see nothing, learn nothing, keep nothing. - Ralph Waldo Emerson

「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、王にも、殉教

者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によって、こうした人たちのイメージ

を、私たちの密かな経験として、現実味をもたせることができる。読書をしなけば、何も見るこ

とはないだろうし、何も学ぶことはないだろうし、何も保持することはないだろう」(R・W・エマー

ソン)




★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and then you have

the urge to pass it on. - Terry Pratchett

「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそれをつぎつぎ

と、人にうつしてしまう」(T・プラシェ)




★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it - Vincent Van Gogh

「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」(V・V・ゴッ

フォ)






【考察】




●これらの教育格言の中で、とくにハッと思ったのが、エドガー・アラン・ポーの「真の天才は、

未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語るよりも、沈黙を

ふつう、好む」という言葉である。




 わかりやすく言えば、「ものごとを知り尽くした天才は、自分の未熟さや、未完成さを熟知して

いる。だから未熟なことや、未完成なことを人に語るよりも、沈黙を守るほうを選ぶ」と。私は天

才ではないが、こうした経験は、日常的によくする。




 私のばあい、親と私の間に、どうしようもない「隔たり」を感じたときには、もう何も言わない。

たとえば先日も、こんなことを言ってきた母親がいた。




 「先祖を粗末にする親からは、立派な子どもは生まれません。教育者としても失格です」と。




 30歳そこそこの若い母親が、こういう言葉を口にするから、恐ろしい。何をどこから説明した

らよいかと思い悩んでいると、そのうち私の脳の回路がショートしてしまった。火花がバチバチ

と飛んでいるのがわかった。だから私は、「ハア~?」と言ったまま、おし黙ってしまった。




 私自身は、先祖を否定したようなことは、一度もないのだが……。(念のため。)




●つぎに「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発

する」と言った、K・Vonnegut。英語では、何と読むのだろうか。それはともかくも、これは私の

持論でもある。以前私は、「人間の創意工夫は、絶壁に立たされて、はじめて生まれる」と書い

た。




 少し前だが、ある教育審議会のメンバーをしたこともあるF氏から、相談を受けた。「学校教

育に蔓延(まんえん)している沈滞感は、どうしたら克服できるか」と。




 それに対して私は、「教師を絶壁に立たせないと、ダメです」と。




 こう書くと学校の先生は、不愉快に思うかもしれないが、ここは怒らないで聞いてほしい。




 学校の先生たちは、たしかに忙しい。同じ公務員でも、給料が20%増しという理由も、そこに

ある。納得できる。しかしそれでも、一般世間の、つまりは民間企業に働く労働者とは、待遇や

職場環境が、基本的に違う。




 たとえば私立幼稚園にしても、今、少子化の波をもろにかぶり、どこも四苦八苦している。経

営のボーダーラインといわれている、200人(園児数)を割っている幼稚園は、いくらでもある。

もっとも経営者自身は、それほど深刻ではない。すでにじゅうぶんすぎるほどの財力を蓄えて

いる。悲惨なのは、そこで働く保育士の先生たちである。安い給料の上、いつリストラされるか

と、ビクビクしている。中には、園児獲得のノルマを、先生たちに課している幼稚園もある。(ほ

とんどの幼稚園が、そうではないか?)




 だから毎年、10月前後になると、先生たちは、案内書や簡単なみやげをもって、幼児のいる

家を、1軒ずつ回っている。「教える」だけではなく、生徒集めにまで、神経をつかっている。し

かも、その先は、まさに絶壁!




 こうした危機感があるから、当然のことながら、教えることについても、ある種の緊張感が生

まれる。その緊張感が、教育の質を高める。もし本当に、教育の質を高めようと思うなら、こう

した緊張感を、人為的につくるしかない。




 残念ながら、それから先の方法については、私もわからない。しかしこれだけは言える。学校

の先生たちも、勇気を出して、崖から飛び降りてみてほしい。翼、つまり創意工夫は、飛び降り

ている間に生まれる。






●三つ目に、アリストテレスの、「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜな

ら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」とい

う言葉。




この訳は正確ではないと思う。思うのは、冒頭の「Those」を、「親」と訳すべきか、「教師」と訳

すべきかで、意味がまるで変わってくる。




「親」とみると、「だれでも子どもを産めば親になるが、生きる技術を与えて、親は、真の親とな

る」と解釈できる。




 一方「教師」とみると、「生きる技術を与える教師は、親よりすばらしい」と訳せる。どちらが正

しいかわからないという意味で、「この訳は正確ではないと思う」と書いた。




 一般論として、欧米の教育の「柱」は、ここにある。どの人に会っても、彼らは、「教育の目標

は、「子どもに生きる技術を与えること」と言う。オーストラリアの友人(M大教授)も、かつてこう

教えてくれた。




 「教育の目標は、私たちのもつ知恵や経験を、子どもたちがつぎの世代を、よりよく生きてい

くことができるように、それを教え伝えることだ」と。




 つまり「実用的なのが教育」ということになっている。しかしこの日本には、むしろ実用的であ

ってはならないという風潮すらある。日本の教育は、将来学者になるためには、すぐれた体系

をもっている。しかし、だ。みながみな、学者になるわけではない。あるいは将来、学者になる

子どもは、いったい何%、いるというのか。




 英語にしても、数学にしても、将来、英語の文法学者や、数学者になるには、すぐれた体系

をもっている。しかしそのため、おもしろくない。役にたたない。しかしこんなことは、30年前

に、すでにわかっていたことではないか。最近になって、やっと「役にたつ」という言葉が聞かれ

るようになったが、それにしても、30年とは!




 要するに、子どもを産むだけでは、親ではないということ(失礼!)。自分の生きザマを、子ど

もに示してこそ、親は、親になる。そしてそれが親の役目ということになる。