Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, December 31, 2011

●運命論vs自由論byはやし浩司(2012-01-01)

【運命と自由について】(はやし浩司 2012-01-01)

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硬い話をする前に……。

昨夜寝る前に、宝くじの当選番号を調べた。
毎年、10枚だけ、買うようにしている。
その番号、何と、2等と、たったの30番ちがい!
2等は、1億円。

(2等は、37組101799番。
私がもっていたのは、101760~101769番!)

ハズレはハズレ。
が、宝くじというのは、当たって喜ぶ人より、
わずかにハズれ、悔しがる人のほうが、はるかに多い。
だったら、買わないほうがよい。

ワイフは、「だいぶ、近づいたわね」と喜んでいる。
「次回は、当たるわよ」と。
私は「二度と接近遭遇はないだろう」と。

こうして新春の夢は、フワ~ッと消えた。

では、硬い話……。

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●運命論

 2004年12月24日に、運命論について書いた。
今からちょうど7年前になる。
それをそのまま掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●運命論

 ある文学者は、こう言った。
『幸福な家庭は、みな、よく似ている。
しかし不幸な家庭は、みな、ちがう。
一つとて、同じものはない』※と。
どこかの文学者だったが、名前は忘れた。

(※トルストイの「アンナ・カレーニナ」冒頭の言葉。)

 その不幸な家庭。
こんな話がある。

両親は、その女性が3歳のときに、離婚。
原因は、父親の酒乱と借金。
が、そのあとまもなく、父親は、自殺。
その女性が23歳になったとき、実の兄(当時、30歳)も自宅に放火、そして自殺。
言い忘れたが、その女性が叔母のところに引き取られたのが、彼女が、6歳のとき。
しかし叔母の夫(叔父)に、性的虐待を受け、それが理由で、今度は、別の叔母の家に預けられた。
彼女が10歳のときのことだった。

 現在は、浜松市の東にあるT町という町に住んでいる。
この話は、控えめに書いたが、事実である。
今は、無数の心のキズと戦いながらも、その女性は、2人の子どもをもち、幸福な家庭を築いている。

 私は「運命」を否定しない。
その人とは関係のないところで、無数の糸がからんで、その人の人生を決めてしまう。
そういうことは、よくある。
それを「運命」というなら、運命は、ある。

 しかも不幸がつづくときには、不幸は、その人に、つぎつぎと襲いかかってくる。
容赦なく、襲いかかってくる。
いくらそれを払いのけようとしてしても、その人の力には、限界がある。
不安と心配。
悲しみと苦しみ。
それらがこん然一体となって、その人に襲いかかってくる。

 しかしいくら運命があったとしても、最後の最後で、ふんばるのは、その人。
そのふんばるところに、人が生きる美しさがある。
生きる意味がある。

 今、絶望の渕に立たされて、その運命と戦っている人は、ゴマン(5万)といる。
5万どころか、50万、500万といる。
世界という規模でみれば、反対に「私は幸福だ」と自信をもって言える人のほうが、はるかに少ない。

 だから大切なことは、決して、「私だけ」と、思わないこと。
「私だけが不幸だ」と、思わないこと。
みなが、みな、そうだ。
そしてつぎに大切なことは、不幸は不幸として、それを笑い飛ばしながら、生きていくということ。
運命に負けてはいけない。逃げてもいけない。

 悪いことばかりではない。

 運命に向かってふんばればふんばるほど、その人は、より真理に近づく。
不幸は、それ自体は、ありがたくないものだが、しかし、その人に、真理への道を教えてくれる。
何が大切で、何が大切でないか。
そしてなぜ、私たちはここにいて、なぜ生きているか。
それを教えてくれる。

 さあ、恐れることはない。

 あなたも勇気を出して、自分の運命と戦ってみよう。
前に向かって一歩、踏み出してみよう。
明るく、さわやかに! クヨクヨしないで、生きてみよう。
(2012年12月31日夜、一部、改変)

 冒頭にあげた女性だが、たびたび私に手紙をくれた。その手紙の中に、こんなことが書いてあった。

 「私の家庭づくりは、ぎこちないものです。しかし私は、幸福というものがどういうものか、よく知っています。私はその幸福を、毎日、かみしめながら生きています」と。
(以上、2004年記)

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●7年前

 7年前に、今と同じことを考えていたというのは、興味深い(?)。
あるいは私は、この7年間、何も進歩しなかったということか(?)。
基本的な部分では、7年たった現在も、同じ。
同じ運命論をもっている。
ただ誤解しないでほしいのは、運命論といっても、今、流行(はや)りのスピリチュアル風のものではない。
また運命といっても、自分の過去を振り返ってみたとき、そこに残っている足跡をいう。
未来に向かって、あるのではない。
もちろんもろもろの「糸」をていねいに総合すれば、ある程度の未来は予測できる。
しかしあくまでも「予測できる」という範囲のもの。

 仮にある程度、未来が決まっていたとしても、最後の最後ではふんばる。
そのふんばるところに、生きる意味がある。
生きる美しさも、そこから生まれる。 

●死後の世界

 死後の世界については、よく考える。
原稿もたくさん書いてきた。
で、原稿をさがしてみると、ちょうど去年の今ごろ、それについて書いていたことがわかった。
日付は、2010年11月16日になっている。
書いた場所は、昼神温泉にある、ホテル阿智川。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世

 何度も書くが、あの世などというものは、存在しない。
釈迦だって、そんなことは、一言も言っていない(法句経)。
それを言い出したのは、つまり当時それを主張していたのは、バラモン教の連中。
仏教はやがてヒンズー教の中に組み入れられていく。
輪廻転生思想は、まさにヒンズー教のそれ。

 その上さらに、中国、日本へと伝わるうちに、偽経典が積み重ねられた。
盆供養にしても、もとはと言えば、アフガニスタンの「ウラバン」という
祭りに由来する。
それが中国に入り、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」となった。

 日本でもつぎつぎと偽経典が作られた。
私たちが現在、「法事」と呼んでいる行事は、そのほとんどが偽経をもとに作られた。
もちろん寺の経営的な収入をふやすために、である。
『如是我聞(これが私が(釈迦から)聞いたことである)』で始まる経典は、まず疑ってかかったほうがよい。

●宝くじと同じ

 話はそれたが、あの世はない。
あるとも、ないとも断言できないが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみて、あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。

 同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う。
だから私はよく生徒たちに冗談ぽく、こう言う。

 「あの世があるなら、早く行きたいよ。
あの世では働かなくてもいいし、それに食事もしなくていい。
空を自由に舞うことだってできる」と。

●「もうこりごり」

 そんなわけで、人生は1回ぽっきりの、1回勝負。
2度目はない。
この先、どうなるかわからない。
しかし1回で、じゅうぶん。
1回で、たくさん。
「こりごり」とまでは言わないが、それに近い。
「同じ人生を2度生きろ」と言われても、私にはできない。

 たとえば定年退職をした人に、こう聞いてみるとよい。
「あなたはもう一度、会社に入って、出世してみたいと思いますか」と。
ほとんどの人は、「NO!」と答えるはず。
あるいは、「会社人間はもうこりごり」と言うかもしれない。

●別れ

 たださみしいのは、今のワイフと別れること。
息子たちと別れること。
友人たちと別れること。
ひとりぼっちになること。
 
 そのうち足腰も弱り、満足に歩けなくなるかもしれない。
そうなったら、私はどう生きていけばよいのか。
それを支えるだけの気力は、たぶん、私にはない。
だったら今、生きて生きて、生き抜く。
今の私には、それしかない。

 さあ、もうすぐこのパソコンの寿命は切れる。
何度もコントロールキーと「S」キーを押す。
文章を保存する。
いよいよ晩年になったら、私は同じようなことをするだろう。
ていねいに保存を繰り返しながら、やがて「死」を迎える。

 繰り返しになるが、あの世はない。
……と、今は思うが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
(以上、2010年11月16日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世論

 先の原稿の中で、私は「あの世はない」と、断定的に書いた。
が、最近の私は、ときどきこう考える。
仮にあの世があるとするなら、今住んでいるこの世こそが、あの世ではないか、と。

 つまりどこか別の世界に、本元となる世界がある。
その世界から、私たちは、現在のこの世界に、ときどきやってくる。
ときどきやってきて、極楽や、(天国でもよいが)、地獄を経験する。

 それは別として、ともかくも今は、「ない」という前提で生きる。
もう一度、核心部分を、ここに掲載する。

『……死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。

 同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う……』

 この考え方は、現在の今も、まったく揺らいでいない。

★Time takes it all, whether you want it to or not. Time takes it all, time bears it away, and in the end there is only darkness. Sometimes we find others in that darkness, and
sometimes we lose them there again. ―Stephen King, "The Green Mile"

時は、すべてを奪う。あなたがそれを望むと、望まないとにかかわらず。時は、すべてを奪い、運び去る。そして最後には、暗闇のみ。ときに私たちはその暗闇の中に、人を見る。そしてときに私たちは、その人すら再び見失う。(S・キング・「グリーンマイル」)

●死の恐怖

 なぜ私たちは、死を恐れるか?
それについては、どこかの国の独裁者を思い浮かべれば、わかる。
ある賢人はこう言った。

『すべてをもつものは、すべてを失うのを恐れる』と。

 仏教でも、一貫して、死の恐怖が大きなテーマになっている。
もう少し掘り下げて言えば、死の恐怖は、どのようにすれば克服できるか。
死の恐怖と対比させながら、生きる意味を教える。
それが仏教ということになる。

 そこで仏教では、やがて「空」の概念にたどり着く。
それについては、私があえてここで説明するまでもない。
が、たいへん興味深いことは、あのサルトルもまた、同じ結論に達している点である。

仏教という観念論。
実存主義という唯物論。
この両者が、同じ結論に達している。
サルトルは、最終的に、「無の概念」という言葉を引き出している。

 それについて書いた原稿がある。
書いた日付は、2009年11月24日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無の概念」(サルトル)について

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【自由であること】

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自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

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 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。
「苦しみ」という代償である。
自由とは、『自らに由(よ)る』という意味。
わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。
明けても暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。
「自由がないから、さぞかし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。
自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。
(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905~1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。
人間が人間になったとき、その瞬間から、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。
わかりやすく言えば、自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという例は、少なくない。
そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。
みな、それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。
「私」をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。
いくら「私は私だ」と叫んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させることができるか」を考えなければならない。
しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題を解くようなものではないか。
少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。
個人の立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。
自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。
サルトルは、最後には、「無の概念」をもって、この問題を解決しようとした。
しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。
そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき(2000年ごろ、中日新聞で発表)

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。
が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。
自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
息子とこんな会話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。
苦しかった。つらかった。
しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」
私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。
息子をあきらめたのでもない。
息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。
私が感じたのは、まさにその愛だった。
しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●二男に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。
生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。
が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。
一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。
そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。
真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。
ないが、しかし一つの目標にはなる。
息子がそれを、私に教えてくれた。
(以上、2000年ごろ、中日新聞で発表)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はある。
またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。
そういう人は多い。
しかしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとることをいう。
どこまでも研(と)ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(以上、2009年11月24日)

 さて、あの独裁者。
最近、亡くなった。
恐らく死の直前まで、安穏たる日々は、1日とてなかっただろう。
不安で不安でならなかったはず。
だから病身を奮い立たせ、各地を回った。
「軍事指導」というのは、あくまでも口実。
失うことを、何よりも恐れていた。
(2012年01月01日記)

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2012年01月01日の朝に

 年越しは、ワイフと長男の、3人で過ごした。
2011年から2012年。
現在、時刻は午前9時。
先ほどまで、自分の書いた原稿を読んでいた。
起きたのは、午前8時ごろではなかったか。
寝室から出ると、まばゆいばかりの朝の陽光が、障子戸を通して居間に注いでいた。
「初日の出は、今年は拝めない」と聞いていたので、「?」と。

 昨年(2011年)は、相良海岸の民宿に一泊し、初日の出を拝んだ。

●運命と自由

 昨夜、こう書いた。

 『……書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という』と。

 振り返ってみると、私はいつもその運命に翻弄されてきた。
いくら声高(こわだか)に、「私は自由だ」と叫んでも、そこにはいつも運命があった。
どうしようもない運命。
その糸の中で、もがいた。
苦しんだ。

 だから……こう書くからといって、どうか誤解しないでほしい。
決して兄や母の死を喜んだわけではない。
しかし兄が他界し、母が他界し、つづいてちょうど母の1周忌に、実家を売却したとき、私は生まれてはじめて、「家」から解放された。
生まれてはじめて、心底、ほっとした。

「家」という「糸」がもつ呪縛感には、ものすごいものがあった。
40代のころは、郷里へ入るときにはいつも、経文の一節を唱えなければならなかった。
『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉を知ったのも、そのころだった。

 怨憎会苦について書いた原稿があるはず。
さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年08月19日に、こんな原稿を
書いた。
知人の家庭騒動を聞き、書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●魔性との闘い(怨憎会苦※)
(To meet with someone whom you feel hatred is a matter of pain.
In often cases it becomes a heavy burden to torture you.)

 仏教には、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。
生老病死の四苦に並んで、八苦のひとつになっている。
「いやな人と会う苦しみ」という意味である。

が、ここでいう「怨憎」とは、「魔性をもった人」とも解釈できる。
会うだけで、相手の魔性が、そのままこちらへ伝わってきてしまう。
自分の理性や知性が、こなごなに破壊されてしまう。
そんな危機感すら、覚える。

 で、こちらは会いたくないと思うのだが、相手のほうからからんでくる。
からんできては、自分勝手なことを、一方的に言う。

そこで「無視」という方法を選ぶが、それにはものすごいエネルギーを消耗する。
相手が身内であれば、なおさらである。
こんな話を聞いた。

 A氏の父親が、2年前に他界した。
数億円の財産(主に土地)を残した。
その財産をめぐって、A氏(長男)と、ほかの3人の姉妹が、争った。
毎月のように、ときに毎週のように、言い争う声が近所中に聞こえたという。

 A氏夫婦が父親のめんどうをみてきたのだが、それについて姉妹たちは、「じゅうぶんな介護をしなかった」「親を施設に入れようとした」などと、言いがかりをつけた。
A氏の父親は、死ぬ直前、かなり認知症が進んでいた。
そういうこともあって、そのつど娘たちに、「この家は、お前にやる」とか、「あの土地は、お前にやる」とか言った。
娘たちは、その言葉を理由に、「この家は、私のもの」とか、「あの土地は、私のもの」と騒いだ。

 A氏は、美術雑誌に評論を書くような知的な人物である。
一方、娘たちは、そのレベルの女性たちではなかった。
あとになってA氏は、こう言う。

 「途中から妹たちの夫まで騒動に加わってきて、『テメエ』『このヤロー』という話になってしまいました。
で、私が、この問題は、私たち兄弟のもので、あなたには遺産相続権はありません。つまり部外者ですと説明するのですが、そういう道理すら、通じませんでした」と。

 娘の夫の1人は、こう言ったという。
「(義父が)、オレの女房(=妹)に、『あの土地をお前(=妹)にやる』と言った話は、オレもちゃんと横で聞いた。オレが証人だ」と。

 A氏は、姉妹たちに会うたびに、神経をすり減らした。
・・・と書くと、「どこにでもあるような話」と思う人もいるかもしれない。
が、当事者であるA氏が受けた心的な苦痛は、言葉では説明しがたい。

 A氏の妻もこう言った。
「(妹の1人から)、嫁(=A氏の妻)が、父親のめんどうをちゃんとみていなかったと言われたときには、怒れるよりも先に、涙が出てきました」と。

 まさに怨憎会苦。
魔性をもった人と関わることの苦しみ。
その苦しみは、経験したものでないとわからない。
「家事が何も手につかなくなってしまいました」とも。

 「妹たちは、金の亡者になった餓鬼、そのものでした。
そばにいるだけで、自分がつくりあげた文化性が、こなごなに破壊されていくように感じました。
気がついてみると、自分もその餓鬼になっていました。
とくに次女夫婦がひどかったです。
ペラペラと一方的に自分の意見をまくしたて、こちらの言い分には、まったく耳を貸そうとさえしませんでした。
次女も、認知症が始まっていたのかもしれません」と。

 A氏の経験は、何も特別なものではない。
今の今も、親の遺産相続問題がこじれて、兄弟姉妹が争っているケースとなると、ゴマンとある。
かりに片づいたとしても、それをきっかけに、兄弟姉妹が絶縁してしまったケースとなると、もっと多い。
さらに最近では、離婚問題がこじれ、財産分与でもめる元夫婦もふえている。
みな、怨憎会苦の苦しみを、味わっている。

恐らく釈迦の時代にはなかったタイプの「怨憎会苦」と考えてよい。
経典の中には、金銭(マネー)にからんだ話が出ているところもあるが、釈迦の時代には、貨幣はなかった。
この日本でも、貨幣が一般世間に流通するようになったのは、江戸時代の中ごろと言われている。
(このあたりについては、私はかつてかなり詳しく、自分で調べた。)

 今では、マネーが、怨憎会苦の原因になることが多い。
つまり人間そのものが、マネーの奴隷になりながら、それにすら気がついていない。

 では、どうするか?

 釈迦は、「精進」という言葉を使った。
日々に精進あるのみ。

つまり常に心の準備を整えておくということ。
そういう場に落とされても、その場に翻弄されないように、自分を強くしておくしかない。
が、それはけっして、むずかしいことではない。

 音楽を聴いたり、映画を楽しんだり、文化、芸術に親しんだり・・・。
もちろん本を読んだり、文を書いたり・・・。
自分の世界を、できるだけ広くしておく。
その努力だけは、怠ってはいけない。

そういう素養が基礎としてしっかりしていれば、こうした騒動に巻きこまれても、
「餓鬼」になることはない。
自分を最後のところで、守ることができる。
(これは私の努力目標でもある。)

(注※、「怨憎会苦」について)

【補記】怨憎会苦について

●生・老・病・死

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私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。

それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。

たとえば……

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 愛別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる、苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。
(以上、2007年07月03日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自由とは何か

 自由とは何か。
一言で表せば、「欲望からの解放」ということになる。

「私」には、無数の「しがらみ」が、まとわりついている。
「私の財産」「私の名誉」「私の家族」「私のお金」「私のモノ」「私の地位」と。
そういったものに縛られている間は、自由など、求むべくもない。

 つまりそうした(しがらみ)をひとつずつ、糸をほぐすようにして、自分から解きほどいていく。
わかりやすく言えば、自分を飾っている衣服を一枚ずつ、脱いでいく。
その結果として、つまり丸裸になったとき、人は、自らを解放させることができる。

 「私」がある間は、魂に、安穏たる日々はやってこない。
仏教では、それを『執着(しょうじゃく)』という言葉を使って、説明する。
その執着を、自ら解き放つ。
わかりやすい例で説明すれば、こうなる。
私の講演などでは、こんなふうに言って、説明する。

 「……こうして私の講演を聞きにきてくださっている方の中には、こんな人もいるでしょう。
家の中に、多額のタンス預金をしている人です。
そういう人は、こういう場にいても、家のことが心配でならないはずです。
『うちの子は、ちゃんと戸締りをして、友だちの家に行っているか』とです。
 
 しかし無一文の人は、そうでない。
家のことは、何も心配しなくていい。

 『私』を簡単に説明すれば、そういうことになります。
へたに『私』があるから、死ぬのが怖いのです。
私の財産、私の名誉、私の家族、私のお金、私のモノ、私の地位と。
が、自分から『私』を取ってしまえば、もうこわいものはない。

 そのときがきても、『ああ、おいでなさったか』と、平穏な気持ちで、それを迎えることができる。
つまり死を克服することができる。
サルトルという哲学者は、それこそが、『真の自由』と説いたわけです。
『無の概念』という言葉も、そこから生まれました……」と。

●真の自由

 大切なことは、そこに苦しみや悲しみがあるなら、(孤独でもよいが)、それから逃げないこと。
真正面から、立ち向かうこと。
それができる人のことを、『真の勇者』という。
(剣を振り回したり、暴力を振るう人は、ただの馬鹿という。)

 運命というのは、(あくまでも私の運命論によるものだが)、それから逃げようとすると、キバをむいて、襲いかかってくる。
が、真正面から立ち向かうと、運命のほうからシッポを巻いて、逃げていく。
臆病で卑怯。
それが運命。

 そして身が燃え尽きるまで、悩み、悲しむ。
とことん、身を燃やし尽くす。
あなたが「もう、だめだ」と思ったその瞬間、あなたは自らを解放することができる。
『真の自由』を手にすることができる。

●2012年1月1日

 さて、今日も1日、始まった。
 
 寒い朝だ。
衣服を着替えるとき、何度も身震いした。
これを(現実)という。
(現実)は(現実)。
私たちはその現実世界の中で生きている。
その現実世界を無視することはできない。

 ……庭にたまった落ち葉を、掃除しなければならない。
帰り道、どこかで朝食をとらねばならない。
家に帰れば、年賀状が待っている。
生徒たちからのものについては、みな、今日中に返事を書く。

 そうそう、楽しみもある。

 1月X日、西浦温泉のA旅館に1泊することになっている。
その旅館の最上階のペントハウスに予約できた。
1日1組だけの、露天風呂付きペントハウスである。
ずいぶんとぜいたくな話に聞こえるかもしれない。

が、これはワイフへの感謝の念をこめた、私からのプレゼント。
この10年近く、モノは買っていない。
ワイフも、いらないと言う。
だからこういう形で、ワイフに感謝している。

 ……つまり私たちはこうした(現実世界)の中で生きている。
またその中でこそ、無数のドラマが生まれる。
無数の人たちが織りなす、無数のドラマ。
そのドラマの中にこそ、生きる意味があり、価値があり、美しさがある。
(現実世界)の中で、たくましく、力強く生きていく。

 その現実感だけは、どんな人生観をもっても、けっして見失ってはいけない。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 2012-01-01 現実世界 運命論 現実社会 運命と自由 解放と運命 はやし浩司 真の勇者 真の自由 魂の解放)

(以上、2012年01月01日、整理、記)

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司



●ただひたすら、私たちは前に向かって進もう

【生きる目的と意味、そしてその生き様】
(はやし浩司 2012ー01-01)


●前向きに生きる

 前向きに生きるということは、簡単に言えば、過去を引きずらないということ。
そのためには、つぎの7つを守る。

(1) 失ったものを、嘆かない。
(2) 去った人を、追わない。
(3) ないものを、ねだらない。
(4) 亡くなった人を、思わない。
(5) 過去を、くやまない。
(6) 失敗を、気にしない。
(7) 自分の不幸を、数えない。

 が、それだけでは足りない。
生き様そのものを変える。
自分に対しては、つぎの3つを守る。

(1) あるがままの自分を認める。
(2) 負けを認める。
(3) 今を原点として、生きる。

 人間は、希望さえあれば、生きていくことができる。
が、希望は、だれにでもある。

今、ここに生きている、そのこと自体が、希望。
目が見える、音が聞こえる、風を感ずることができる……それが希望。
人と心を通わせることができる、ものを考えることができる……それが希望。

その希望は、自ら創り出すもの。
待っていても、やってこない。
日々の弛(たゆ)まない鍛練こそが、希望を生む。
肉体の健康、しかり。
精神の健康、しかり。

 他人に対しては、つぎの5つを守る。

(1)人を、恨んではいけない。
(2)人を、ねたんではいけない。
(3)人に、ねだったり、甘えてはいけない。
(4)人を、うらやましがってはいけない。
(5)人に、へつらい、自分を裏切ってはいけない。

 さらに老後の、しっかりとした設計図をもつ。
そのためには、つぎの4つを守る。

(1) 私は私と割り切り、自分を他人と比較しない。
(2) 年齢という数字を、気にしない。
(3) 最後の最後まで、居直って生きる。
(4) 孤独死、無縁死を、恐れない。

 あとは日々、平穏を旨とし、取り越し苦労にヌカ喜びをしない。
時の流れの中に身を置き、その流れに身を任す。
命は、そのまま天に任す。

 朝、起きたときに、やるべきことがある人は、幸福と思え。
今日1日、今週1週間、今月1か月、今年1年、やるべきことがある人は、幸福と思え。 
それを「真の幸福」という。

 前向きに生きるというのは、そういうことをいう。
さあ、あなたも勇気を出し、足を一歩、前に踏み出そう。
明るい未来に向かって、まっすぐ歩こう!

 『心を解き放てば、体はあとからついてくる』(アメリカの格言)。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 幸福論 前向きに生きる 老後の生き様 過去を振り返らない はやし浩司 失ったものを嘆くな)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●人を恨まない

 H・フォスディック(Henry Fosdick)はこう言った。

 『Hating people is like burning down your house to kill a rat.
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで心が腐る。
だからこう言う。

『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
人を恨めば、人生を棒に振る。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげている。

 が、それでも恨みが消えないときは、どうするか。

●真の自由

 過去を引きずったとたん、人生は監獄になる。
が、だれしも、恨み、つらみはある。
失ったことを嘆き、不運を悔やむ。
が、そういうときは、それから逃げてはいけない。
とことん、恨め。
とことん、憎め。
とことん、過去を悔やめ。
身がボロボロになるまで、恨め、憎め、過去を悔やめ。
恨んで恨んで、憎んで憎んで、悔やみたいだけ悔やめ。
自分を燃やし尽くせ。

 すべてのエネルギーを燃やし尽くしたとき、あなたはその先に、恐ろしく静かな世界を見る。
それはあなたの魂が解放された、無の世界。
そのときあなたは、はじめて、真の自由を知る。

●運命

 今、あなたが苦しんでいるなら、幸いと思え。
あなたが悲しんでいるなら、幸いと思え。
あなたは今、まさに真理のドアを叩いている。
そのドアの向こうでは、真理が、あなたがドアを開いてくれるのを待っている。
息を潜(ひそ)め、静かに待っている。

 大切なことは、苦しみや悲しみから、逃れようとしないこと。
逃れようとしたとたん、運命はキバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
が、あなたが苦しみや悲しみに、真正面から立ち向かえば、運命はシッポをまいて、向こうから退散していく。

 方法は簡単。
あるがままを、そのまま受け入れる。
そこに運命があるなら、その運命をそのまま受け入れる。

 書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という。

 もちろん闘うことができる運命であれば、それと闘う。
「逃げろ」という意味ではない。
闘う。
ふんばる。
そこに人間の生きる価値があり、美しさがある。

 が、どうにもならない運命というものもある。
もしそうであれば、負けを認める。
受け入れる。
とたん、あなたはそこに真理が待っていることを知る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ネズミを追い出すために はやし浩司 運命論 真理 負けるが勝ち 希望とは 希望論)

●2012年01月01日

 さあ、ともあれ、2012年は始まった!

 友よ、仲間よ、力を合わせて、前に向かって歩こう。

 馬鹿は、相手にしない。
愚か者は、相手にしない。
欲望の奴隷となり、道を見失った人間は、相手にしない。
どうせ、その程度の、つまらない人生しか歩めない。
そんな愚劣な人間のために、時間を無駄にしてはいけない。

 私たちはそういう人を、憐れんでやろう!

 人生は山登りに、似ている。
下から見れば、低い山でも、登ってみると、意外と遠くまで見渡せる。
それと同じ。
あなたが勇気を出し、山に登れば、下にいる人間が、さらに小さく見える。

 あなたは前だけを見て、前に向かって進めばよい。
ただひたすら前に向かって、進めばよい。
それですべての問題が、解決する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 2010-01-01 はやし浩司 前向きの人生)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

Friday, December 30, 2011

●電子マガジンを創刊したころ(2001)

件名:子育て情報(はやし浩司)9-15



 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡

| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM

q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m

(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)

凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /

\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄

 ===○=======○====KW(8)

    子育て最前線の育児論

 ================          

★★★★★★★★

01-9-15号(10)

★★★★★★★★

 by はやし浩司(ひろし)

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

*******************

このところ涼しいですね。

10号をお届けします。

*******************



先週(9月8日)は、中日新聞紙上で、「子育てにもリズムが」を

発表しました。「子育てリズム論」(原題)は、私の持論の一つです。



それをまず紹介します。

(イラスト付のは、

Http://www.chunichi-tokai.co.jp/education/child_world/

で、ご覧ください。)



*******************

子育てリズム論



●子どもの心を大切に●子どものうしろを歩こう



 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは
騒音でしかない。そこでテスト。



 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立っ
て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂か
もしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親ほど、親意識が強
い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答えでも
しようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしておけいこごとでも何でも、親が
勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子どもで、親の前では従順に従
う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長く
は続かない。



 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに何をしてほしい
のか」、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。この段階で、互いにあいまいなことを言うの
を許されない。それだけに、実際そのように聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張す
る。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。



 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、
実家の親を前にすると、緊張します」と。別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の
会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人
生観と深くからんでいるため、変えるのは容易ではない。しかし変えるなら、早いほうがよい。
早ければ早いほどよい。もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているような
ら、今日からでも、子どもの歩調に合わせて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなた
は子育てのリズムを変えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができ
る。



*******************************



ここで大切なことは、子どもは親のリズムに合わせることはできません。

親が子どもに合わせるしかないということです。



また一度、このリズムはできると、ほぼ一生続くということ。そして場合に

よっては、親子の間の不協和音となり、亀裂→断絶へと進むということ。

どうかご注意ください。



*******************************



(裏話)



 原題は「子育てリズム論」でしたが、新聞社のほうで勝手に、「子育てにもリズムが」と

してしまいました。新聞社というところは、まさに男性社会なんですね。ほとんどの記事が

「男の視点」でつくられています。題が、「子育てにもリズムが」という発想は、

まさに男性の発想なんですね。つまり「へえ、子育てにもリズムがあるの? 知らなかった…
…」という発想なんです。母親なら、「子育てにもリズムがあります」と言うと、

「そうだ」ということになるのですが……。

題が変えられたことで、かえってよい勉強になりました。



 ただ一言。新聞離れがどんどん進んでいる背景には、新聞が女性の視点で

つくられていないということがあります。読者の50%以上は、女性だということを

どこの新聞社もわかっていないようです。釣りやサッカーや、競馬や競輪。さらには

プロ野球のニュースばかりですから。私はほとんど女性相手の仕事をしていますから、

そういうことがよくわかります。子育ての記事が、ほとんどないというのは、

実のところ、おかしなことなんですね。(教育というと、学校関係の記事というのも、

やはり男の発想なんです。ハイ)



********************************



子育てのリズムが合っていますか?



********************************

子育て診断テスト(少し長文ですが、紹介します。)





あなたの子育て診断テスト            

                 教育評論   はやし浩司(ひろし)



Q項目を読んで、続いて本文を読む前に、少し頭のなかで、「私はどうかな?」「うちの子はどう
かな?」と、自問してみてください。そしてある程度、答が出たら、本文を読んでみてください。 





Q 子どものリズムで歩いていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 子どもと二人で歩いているところを、頭の中で想像してみてください。そのとき、あなたが子ど
もの横にいるか、子どものうしろにいて、子どもの背中を見ながら歩いていれば、それでよし。
もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、要注意。あなたは子
どものリズムで子育てをしていないことになります。このリズムの乱れは、今は小さなものです
が、一事が万事。あらゆる面で、あなたの子育てに影響してきます。へたをすれば、やがて、
親子の間に亀裂……そして断絶ということにもなりかねません。子育てじょうずなママは、子ど
もの心をつかむのがじょうず。子どものリズムで歩くことができるママをいいます。



Q 園や学校から、明るい表情で帰ってきますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 不登校ばかりが問題になりますが、同じように深刻なのが、帰宅拒否。ある男の子(年長児)
は、帰りの時刻になるたびに、どこかへ隠れてしまいます。そこで先生たちがさがすのですが、
おかげでいつもバスの発車時刻が遅れてしまいます。「どうしてでしょう」とお母さんから相談が
ありましたが、様子から私は「帰宅拒否」と判断しました。「家へ帰りたくない」という思いが、回
りまわって、子どもにそういう行動をさせるのですね。もしあなたのお子さんが、「いつも寄り道
をする」「帰りの時刻が遅い」ということであれば、この帰宅拒否を疑ってみてください。



Q おうちの方のいる前で、体や心を休めますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 あなたのお子さんが、園や学校から帰ってきたとき、どこで体や心を休めるか、観察してみて
ください。あなたのいる前で、休めるようであればよし。しかし好んであなたのいないところや、
あるいはあなたの姿が見えると、逃げていくようであれば、要注意。あなたとお子さんの間に
は、すでに小さな亀裂ができ始めているとみます。やがてそれが大きくなり、「断絶!」というこ
とにもなりかねません。そうならないためにも、子育ての仕方そのものを反省してください。子ど
もにとっては、家庭はやすらぎの場所。あれこれとこまかいことを言えば、あなたがいるところ
では休めなくなりますね。



Q いやなことがあると、どこへ逃げて行きますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 どんな動物にも最後の逃げ場というものがあります。その逃げ場は、神聖な場所と心得て、
子どもがその逃げ場に入ったら、そこを踏み荒らすようなことはしてはいけません。子どもはそ
の逃げ場で、反省したり、心を調整したりします。子どもがそこから出てくるまで、静かに待ちま
す。ふつう子どもの逃げ場は、自分の部屋などですが、そこを荒らすと、別の場所に逃げ場を
求めるようになります。トイレの中や、押し入れの中など。近所の公園の電話ボックスの中に逃
げた子ども(小二男児)や、犬小屋に逃げた子ども(小四女児)もいました。



Q おうちの方の絵を、楽しんで描きますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 紙と鉛筆(クーピーなど)を用意して、「皆で、食事をしているところを描いてね」と指示してみ
てください。そのとき子どもが、楽しそうな表情で絵を書き始めれば、それでよし。もしそのとた
ん、暗い表情になったり、拒否するようであれば、家庭のあり方をかなり反省しなければなりま
せん。外からはわからなくても、お子さんの心の中に、大きなわだかまりができつつあるとみま
す。園児の場合、お父さんとお母さんの顔を描かせると、ふつうお母さんを先に、しかも大きく
描く傾向があります。それだけお母さんのほうの印象が強いからです。



Q ハングリーな状態になっていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 同じように、こんな指示をして絵を描かせてみてください。「不思議な木があります。あなたの
ほしいものが何でもできる不思議な木です。木を描いて、あなたのほしいものをいっぱい描い
てね」と。そのとき次々といろいろなものを描ければよし。そうでなくて、「何もいらない」「ほしい
ものがない」というのであれば、かなりの飽食を疑ってみます。子どもを伸ばすコツは、いつも
ややハングリーな状態に置くことです。「あれをしたい」「これがほしい」という思いが、子どもを
前向きに引っ張っていきます。与えすぎ、手のかけすぎは、禁物です。



Q 台所の生ゴミを、手で始末できますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 ドラ息子症候群の大きな特徴は、「いやなことはしない」です。そこでテスト。あなたの子ども
に、「台所の生ゴミを始末して」と頼んでみてください。あるいはお風呂の排水口にたまった毛
玉でもいいです。そのときしぶしぶでも、それができればよし。が、ああでもない、こうでもないと
勝手な理由をつけてそれをしないというのであれば、かなりドラ息子、ドラ娘化が進行している
とみます。さらに進行すると、「自分でしたら」と、生意気なことを言うようになります。ドラ息子化
を防ぐためには、家事をどんどん手伝わせること。子どもは、使えば使うほどよい子になりま
す。



Q 重い荷物をもったあなたを、手伝いにきますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 子どもの前で重い荷物を、苦しそうに運んでみてください。そのとき子どものほうから、「もっ
てあげる!」と言って、やってくればよし。そうでなく、知らぬふりをしたり、見て見ぬふりをして
いるようであれば、かなりのドラ息子、ドラ娘とみます。さらにドラ息子化が進むと、頼んでもい
やな顔をするばかりで、手伝おうともしません。人は自分で苦労して、はじめて他人の苦労の
わかる人になります。子どもも同じ。よく「子どもに楽をさせることが、子どもを愛することだ」と
思っている人がいますが、これは誤解。苦労のわかる子どもにする……。それが子育ての基
本一つです。



Q お小遣いは、一〇〇倍にしていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 年長児から小学二年生ぐらいにかけて、子どもの金銭感覚は完成します。その金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じになるとみてようでしょう。それと同時に、子どもは、お金で自分の
欲望を満足させる、そのさせ方まで覚えてしまいます。そこでコツ。子どもに買い与えるもの
は、約一〇〇倍して考えます。たとえば一〇〇円のものは、おとなの一万円。一〇〇〇円のも
のは、一〇万円と……。この時期に、一万円や二万円のものを、ホイホイと買い与えている
と、やがてその子どもが高校生や大学生になったとき、一〇〇万円や二〇〇万円程度のもの
を買い与えないと満足しなくなります。



Q 子どもの名前を、大切にしていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 子どもに「自分を大切にしようね」と言っても、あまり意味がありません。具体性がないからで
す。そういうときは、「名前を大切にしようね」と教えます。そして子どもの名前の出ているもの
は、新聞でも雑誌でも切り抜いて、高いところやアルバムに張ったりして、大切にします。その
とき、「いい名前だ」「すばらしい名前だ」と言うようにします。子どもは自分の名前を大切にする
ことで、自分を大切にすることを覚えます。自尊心もそこから生まれます。なお家庭や教育の
現場で、子どもの名前をからかったり、茶化したりするのは、タブーです。



Q ペットなど、動物の死を大切にしていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 命の大切さは、「死」を通して教えます。たとえばペットにせよ、どんな動物にせよ、それが死
んだら、その死をていねいに弔(とむら)います。そこであなたのお子さんはどうでしょうか。ペッ
トなどが死んだとき、それを心から悲しみますか。もしそうなら、それでよし。そういう気持ちが、
命を大切にする気持ちにつながります。しかし反対に、生きものを平気で殺したり、もてあそん
でいるようであれば、心のどこかにキズがないかを疑ってみてください。心にキズがある子ども
は、たとえば昆虫の頭をもぎって遊ぶなど、ぞっとするようなことを平気でしたりします。



Q 園や学校の先生の話を、楽しそうにしますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 人間の心は、鏡のようなものですね。こちらが相手をよい人だと思っていると、相手もまたあ
なたのことをよい人だと思っているものです。お子さんと園や学校の先生との関係も、そうで
す。「今日、先生は、どんな話をしたかな?」と問いかけてみてください。あなたのお子さんが、
先生の話を楽しそうにするなら、それでよし。しかし先生の話になると、突然顔を曇らせたり、
不愉快な表情をするようであれば、要注意。先生の悪口を並べるときもそうです。子どもの前
では、「あなたたちが悪いからでしょ」とたしなめながらも、一度、先生と話し合いの場をもって
みてはどうでしょうか。



Q お子さんと、机の相性はあっていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 相性の悪い机だと、それが長い時間をかけて、子どもを勉強嫌いにしてしまうこともありま
す。そこでこんなことを観察してみてください。あなたの子どもが学校から帰ってきたとき、どこ
で体を休めるか、をです。子どもは(おとなも)、無意識のうちにも、一番居心地のよいところ
で、体を休めます。そこを勉強部屋にすれば、勉強が好きになる……というわけです。あるい
は反対に、子どもの机の上に、子どもの好きな食べ物を置いてみてください。そのとき子ども
が机に座ってそれを食べればよし。別の場所にわざわざ移して食べるようであれば、その机は
子どもとの相性がよくないとみます。



Q おとなになることを、楽しみにしていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 「おとなになったら、何になるかな?」と、問いかけてみてください。そのとき、目を輝かせて、
あれこれ夢や希望を話せばよし。そうでなく、顔を曇らせたり。「なりたいものがない」と言うよう
であれば、注意。「明日は今日より、よい世界になる」という、前向きな姿勢が子どもを伸ばしま
す。子どもの未来を脅したり、不安にさせるようなことを言ったりするのは、タブー。今、小学校
の高学年児で、「中学校に入りたくない」と言う子どもがふえています。兄や姉のはげしい受験
競争を見ている子どもほどそうで、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こしたりします。



Q 何か新しいことができるようになったとき、自慢しますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 何か新しいことができるようになったとき、「見て、見て!」と言って、あなたにそれを自慢しま
すか。もしそうなら、それでよし。あなたの子どもは、前向きにどんどんと伸びていきます。幼児
期から小学生の間は、むしろうぬぼれ気味にさせるのが、子どもを伸ばすコツです。「もう、そ
んなことができるの!」「すごいわね!」と、子どもの成長を喜んでみせてください。が、反対
に、「まだできないの?」「いつになったらできるの?」は禁句。あなたの子どもは、(できない)
→(逃げる)→(ますますできなくなる)の悪循環の中で、伸びることを止めてしまうかもしれませ
ん。



Q あなたの子どもは、一芸をもっていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 「勉強一本!」という子どももいますが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまづくと、あとは
坂をころげ落ちるように、成績がさがったりします。そういうときのため……、というだけではあ
りませんが、子どもには一芸をもたせます。「これだけは誰にも負けない」というのが、その一
芸です。まわりの子どもたちからみて、「これだけは、あいつしかいない」という状態にします。
この一芸は、子どもを側面から支えるのみならず、その一芸が、やがて子どもの「柱」になるこ
ともあります。ただしゲームがうまいとか、カードをたくさん集めているというのは、一芸ではあり
ません。



Q あなたの子どもは、あなたの前で、大声で笑いますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 園や学校での様子を観察してみてください。あなたの子どもが、皆の中でも、大声でハハハと
笑っていれば、よし。しかし皆の中でも、大声で笑えず、クックッと小さい声で笑うとか、どこか
萎縮した様子があれば、子育てのあり方そのものを大きく反省してみてください。過干渉(子ど
もの心や気持ちまで親が決めてしまう)、過関心(子どもの行動に神経質になる)になっていな
いか、など。おうちの方の情緒不安(ときどきカッとなって、激しく叱る)は、百害あって一利な
し。明るく、はつらつとしているのが、子どものあるべき姿です。そういう前提で、子育て全体を
見なおします。



Q 子どもに、正しい言葉で話しかけていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 乳幼児期の言葉環境が、その子どもの国語力の基礎となります。たとえば「かばん、カバン、
もって!」ではなく、「あなたはカバンをもちます」と、正しい言い方で話しかけてみてください。さ
らに「すごい、すごい」ではなく、「すばらしい」「すてきですね」「きれいだね」など、一つのことを
いろいろな言い方でしてみせます。さらに子どもが文字を覚え始めたら、「お・と・う・さ・ん」と、
音を一つずつ区切って発音してみせます。こうした積み重ねがあって、子どもは、作文が好き
になり、さらには論理的にものを考えることができる子どもになります。



Q 誰かを喜ばすことを、教えていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 やさしい子どもにするコツ、それは「誰かを喜ばす喜び」を、教えることです。たとえばお店で
お菓子を買うときも、「これを妹の○○に分けてあげると、妹は喜ぶわね」「お父さんにこれをも
っていってあげると、喜ぶわよ」と、です。そして「他人を喜ばすことは、結局は自分にとっても
楽しいことだ」とわからせます。言い換えると、人にやさしい人というのは、そういう行為が自然
にできる人のことを言います。やさしい人というのは、一見、損ばかりしているように見えます
が、いつの間か、そのまわりに、たくさんの人が集まるようになります。それこそまさに本当の
財産、ですね。



Q あなたは、お子さんを愛していますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 たいていの人は、「愛している」と答えます。しかし……。子どもを自分の支配下において、思
い通りにしたいという愛もあります。これを代償的愛といいます。いわば「愛もどきの愛」という
ことになります。親の見栄やメンツのために、子どもを「よい学校(?)」に入れたがるというの
が、それです。子どもへの愛の深さは、どこまで「許して忘れるか」、言い換えると、子どもをど
こまで自分の中に受け入れるかで、決まります。もちろん子どもに好き勝手なことをさせろとい
うことではありません。子どもにどんなに問題があっても、自分のこととして、受け入れてしまう
ということです。



Q 幸福な家庭を見せていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 子どももいつかおとなになり、家庭をもちます。そのときのために、「幸福な家庭とはどういう
ものか」「父親や母親は、どうあるべきか」を、しっかりと子どもに見せておきます。見せるだけ
ではなく、子どもの体の中に染み込ませておきます。夫婦が仲よく生活する姿、助けあい、いた
わりあう姿など。子育ての基本は、子どもを育てることではありません。子どもに、子ども(あな
たから見れば孫)の育て方を教えるのが、子育てです。「あなたが親になったら、こういうふうに
子どもを育てるのですよ」「こういうふうに子どもを叱るのですよ」とです。



Q 新しいことに、積極的に取り組もうとしますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 何か新しいことをさせてみてください。そのとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくればよ
し。そういう前向きな姿勢が、子ども自らを伸ばします。好奇心の旺盛な子どもほど、行動力も
あり、趣味も多芸多才。一人で遊ばせておいても、身の回りから次々と発明していきます。が、
反対に、「いやだ」「やりたくない」と逃げるようであれば、日ごろの子どもへの接し方を反省して
みてください。「あなたはダメな子」式の、暗いイメージを与えるのは禁物。あなた自身が、「うち
の子は何をしてもダメ」と思っているなら、あなた自身の心を作り変えます。子どもは親がもっ
ているイメージどおりの子どもになります。



Q あなたは自分の子どもを信じていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 あなたが子どもを連れて、通りを歩いていたとします。そのとき向こうから、学校時代の友人
がやってきました。久しぶりの対面です。そのときその友人が、あなたの子どもをしげしげと見
て、「いくつかな?」と聞いたとします。そのとき自分の子どもに自信のある親は、「まだ五歳で
す」と、「まだ」という言葉を使います。しかし自信のない親は、顔をしかめながら、「もう五歳な
んですがねえ」と言います。親に信じられている子どもは、表情も明るく、伸びやかです。親も
子育てを楽しんでいます。それが「良」循環となって、子どもはますます伸びていきます。



Q 会話を子どもに、任せていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 典型的な過干渉ママの会話。私、子どもに向かって、「この前の日曜日は、どこへ行きました
か?」、母親、子どもの会話をさえぎりながら、「おばあちゃんの家へ行ったでしょ。だったら、
そう言いなさい。……どうしてはっきりと言えないの。言いなさい」と。子どもを信じられないとい
う不信感が、母親をして、過干渉ママにします。一方子どもは子どもで、ますます表情が暗くな
っていきます。あとはこの悪循環。子どものことは子どもに任す。そういう一歩退いた姿勢が、
子どもの自立をうながし、子どもをたくましい子どももにします。



Q 「あなたはいい子」を、口グセにしていますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点

 

 子どもは、親の口グセ通りの子どもになります。「うちの子はいい子だ」と思っていると、その
通りに。反対に「うちの子はダメな子だ」と思っていると、やはりその通りになります。ですから
子どもに向かっては、「あなたはいい子」「あなたはすばらしい子」を口グセにします。子どもと
いうのは、自分を認めてくれる人の前では、よい面だけを見せようとします。つまりそういう子ど
もの性質をうまく利用して、子どもを伸ばします。ただしほめるのは、やさしさと努力。スタイル
や顔は、ほめないようします。「頭」については、ほめてよい場合と、そうでない場合があります
ので、慎重にします。



Q 子どもの気持を確かめながら、行動していますか?

はい……3点だいたい……2点ときどき……1点いいえ……0点



 おけいこを始めるとき。おけいこをやめるとき。そのつどお子さんの気持を確かめながら、行
動していますか。親意識、つまり親子の間の上下意識の強い人ほど、「私が親だから」「子ども
のことは、私が一番よく知っている」と、子どもの気持を確かめることなく、親が何でもかんでも
勝手に決めてしまいます。一方的に、です。しかしこういう姿勢は、親子の間に大きな亀裂を入
れることになります。しかもあなたが気づかないうちに、です。子どもは、自らに由(よ)らせま
す。自分で考えさえ、行動させ、責任を取らせます。それが「自由」の本当の意味です。



(以上、集計してありません。また報告します。ごめんなさい!)



***********************************

これからも、よろしくお願いします。

ときどき、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

へもおいでください。



では、どうかお元気で!



はやし浩司(ひろし)



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以下、前号です。



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ところで……

あなたは子どもの横か、うしろを歩いていますか?

親子の断絶は、かなり早い時期(幼児期)から始まります。

この時期に、その兆候をとらえる……、そして予防する……、

それが断絶を防ぐ方法です。



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今日は、雑誌「ファミリス」9月号に載せてもらった記事を

そのまま紹介します。



「ファミリス」は、静岡県教育委員会が編集発行する子育て雑誌です。

県外の方でも、購入できます。ご希望の方は、私のホームページの

トップページから、「ファミリスにコーナー」まで。一冊300円プラス送料

です。



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(1)親子の断絶が始まるとき



●最初は小さな亀裂



 最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「まさか……」「まだう
ちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大きくなる。そし
てそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。「父親のようになりたくな
い」と思っている中高校生は79%もいる(「青少年白書」平成十年)。が、この程度ならまだ救
われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触
即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親で、
「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか!

……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されてい
るはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。

あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほし
い。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休め
ているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。しかし好んであな
たの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げて行くようであれ
ば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休まる場所としてあげ
たのが、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに(3)ふとんの中だそうだ(「学外研」九八年報
告)。



●断絶の三要素



 親子を断絶させるものに、三つある。権威主義、相互不信、それにリズムの乱れ。「私は親
だ」というのが権威主義。「子どものことは、私が一番よく知っている」「子どもは親に従うべき」
という親ほど、あぶない。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前では、仮面をか
ぶる。いい子ぶる。が、その分だけ、子どもの心は離れる。親は親で、子どもの心を見失う。次
に相互不信。「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配だ」「不
安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなものだ。イギ
リスの格言にも、「相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う」というのがある。つ
まりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを「すば
らしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなければ、
そうでなくなる。三つ目にリズム。あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころを思い出し
てみてほしい。そのときあなたは子どもの横か、うしろを歩いていただろうか。そうであれば、そ
れでよし。しかしあなたが子どもの前を、子どもの手を引きながら、ぐいぐいと歩いていたとする
なら、あなたと子どものリズムは、そのときから狂い始めていたとみる。おけいこ塾でも何でも、
あなたは子どもの意思を無視して、勝手に決めていたはずだ。今もそうだ。これからもそうだ。
そしてあなたは、やがて子どもと、こんな会話をするようになる。親「あんたは誰のおかげでピ
アノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピ
アノ教室へ連れていってあげたからよ!」、子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅
くないから、子どものうしろを歩く。決して前を歩かない。アメリカでは親子でも、「お前はパパに
何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子ど
もの心を開く。親子の断絶を防ぐ。



++++++++++++++++++++++++++++++++++

不況時代に、どう子どもを育てるか……?

深刻な問題ですね。

いやいや、私の仕事も、いろんな面で、大打撃を受けています。

かろうじてがんばっていますが、いつまでもつことやら……?

というのが、現状です。

まあ、がんばって、生きていくしかないですね。

そういうあなたのために、「不況時代の子育て論」です。

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不況時代の子育て論



たくましい子ども



 子どものたくましさは、危機的な状況においてみるとわかる。A君(年長児)は、両親が急用で
実家へ帰るときになったときのこと。簡単な食事の用意、戸じまりはもちろんのこと、四歳にな
る妹の世話まですべて一人でやりこなした。そのつど母親が実家から電話をして、あれこれ指
示したというが、母親はこう言って笑った。「やらせればできるもんですね」と。こういう子どもを
「たくましい子ども」という。

 そのたくましさ。「子どもは使えば使うほど、たくましくなる」と覚えておく。家事でも何でも、子
どもにさせる。中に、「子どもに楽をさせるのが、親の愛」と考えている人がいるが、これは誤
解。こんな子ども(年中児)がいた。帰りの時刻になっても、机の上のものを片づけようともしな
い。そこで身ぶり手ぶりで、片づけるよう指示したのだが、そのうちメソメソと泣き出してしまっ
た。「片づける」という意味すら、わからないようだった。が、その日は運の悪いことに、母親が
その子どもを迎えにきていた。母親は子どもの泣き声を聞きつけると教室の中へ飛び込んで
きた。そしてていねいだが、すご味のある声でこう言った。「どうして、うちの子を泣かすのです
か!」と。



自我とたくましさ



 「私は私」というものの考え方を「自我」という。教える側からすると、自我の強い子どもは、
「つかみどころ」がはっきりしている。「この子どもはこういう子どもだ」という輪郭(りんかく)のこ
とだと思えばよい。反対に自我の弱い子どもは、そのつかみどころがない。「何を考えているか
わからない子ども」ということになる。ものの考え方が、優柔不断で、グズグズした感じになる。
フロイドの自我論はよく知られているが、それを子どもにあてはめると、次のようになる。



(参考)フロイト(1856~1939、オーストリアの心理学者)は、自我の強弱によって、人の様
子は大きく変わるという。それを子どもに当てはめた表が、次のものである。



自我が強い子ども



●ものごとに攻撃的になり、積極的になる。「やる」「やりたい」という言葉が、子どもの口からよ
く出てくる。

●現実感が強く、ものの考え方が現実的になる。頼れるのは自分だけというような考え方をす
る。

●将来に向かって、創造的な趣味が多くなる。たとえば「お金をためて楽器を買う。その楽器で
コンクールに出る」「友だちの誕生日のプレゼント用に、船の模型を作る」など。

●ほしいものがある。目の前にはお金がある。こういうときセルフコントロールができ、自分の
行為にブレーキをかけることができる。自制心が強く、そのお金には手を出さない。



自我の弱い子ども

●ものごとに防衛的になり。消極的になる。「いやだ」「つまらない」という言葉が多くなる。

●ものの考え方が非現実的になり、空想や神秘的なものにあこがれや期待を抱いたりするよ
うになる。

●一時的な快楽を求める傾向が強くなり、趣味も退行的かつ非生産的になる。たとえば意味も
ないカードやおもちゃをたくさん集める、など。もらった小遣いも、すぐ使ってしまう。

●衝動性が強くなり、ほしいものに対して、ブレーキをかけられなくなる。盗んだお金で、ほしい
ものを買っても、欲望を満足させたという喜びのほうが強く、悪いことをしたという意識が生まれ
ない。



自我……意識される客体としての自己に対して、自分を意識する主体(哲学)。個々の心理現
象を、一貫した全体的な「自分」として意識する体験(心理学)。人格の中枢機関(精神分析)な
ど。自我のとらえ方は、必ずしも一致していない。英語ではego、selfという。

 

 その自我は、「育てる」という視点からではなく、「引き出す」という視点で考える。どんな子ど
もも、生まれながらにして、その自我は平等に備わっている。つまり子どもというのは、あるべ
き環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。反対に、親の過干渉、過関心が
続くと、その自我はつぶれる。



自己主張(自我)とわがまま



 よく誤解されるが、自己主張(自我)とわがままは違う。自己主張にはそれを主張するだけの
理由がある。しかしわがままには、ない。たとえば「お兄ちゃんは、この前、○○を買ってもらっ
たのに、どうしてぼくはだめなのか」と言うのは、自己主張。「あれがほしい、これがほしい」と泣
き叫ぶのは、わがままということになる。一般に自己主張には、ていねいに耳を傾けてあげ
る。わがままは無視するという方法で、対処する。



がんばる力



 よく「うちの子はサッカーだと一日中している。忍耐力はあるはずだ」と言う人がいる。しかし
そういうのは忍耐力とは言わない。子どもの場合(おとなもそうだが)、いやなことをする力のこ
とを忍耐力という。たとえばあなたの子どもに、台所の生ゴミを手で始末させてみてほしい。そ
のときそれをいやがらずにすれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもということになる。

 この忍耐力のある子どもは、学習面でも伸びる。もともと「勉強」には、ある種の苦痛がつき
もの。その苦痛を乗り越える力が、忍耐力ということになる。

 その忍耐力をつけるためには、子どもは、幼いうちから使う。できれば「乳児のときから使
う」。……と、講演会の席などで話すと、親は驚く。「乳児のときから……!」と。その通り。子育
てのリズムは、実は子どもが乳児のときから始まる。もっと正確には、子どもを妊娠したときか
ら始まる。ある母親は、子どもを妊娠したとき、胎教とか何とか言って、クラシック音楽を聞か
せた。その子どもが生まれると、時間に正確にミルクを与えた。そして子どもが四歳になると、
音楽教室と英会話教室へ通わせた。この母親に共通するのは、「何でも子どもが望む前に与
える」というリズムである。一度このリズムができると、そのリズムを変えるのは容易ではない。



子どものうしろを歩く



 あなたの子どもがヨチヨチ歩きをし始めたころのことを思い出してほしい。そのときあなたは、
(1)子どもの前を手を引きながら歩いていた。(2)子どもの手を握りながら、子どもの横を歩い
ていた。(3)子どものうしろを、子どもをガードするように歩いていた。

 どのケースであるにせよ、それがあなたの子育てのリズムとみる。(1)のタイプに親は、何ご
とにつけ権威主義的で、「子どものことは、私が一番よく知っている」と言う。そして子どものこと
を何でも先に決めてしまう。おけいこごとでも、何でもだ。しかしその裏で、子どもの心があなた
から離れ始めているのに気づかない。最初は小さな亀裂だが、その亀裂はやがて大きくなる。
そして断絶へ……と。

 英語国では、親子でもこんな会話をしている。父親「お前はパパに何をしてほしいのか」、子
ども「では、パパは、ぼくに何をしてほしいの」と。こういう謙虚な気持ちが、互いの心を開く。

 もしあなたが(1)のような親だったなら、今日からでも遅くはない。子どものうしろを歩く要領
で、子どもの心を確かめながら子育てをしてみてほしい。たったそれだけのことだが、あなたは
親子の断絶を防ぐことができる。



リズムと自立



 子育ての目標は、子どもを「よき家庭人として、自立させる」こと。そこであなたのテスト。

 あなたの子ども(小学三年生くらい)が、寝る前になって突然、「明日の宿題をやっていない」
と言ったとする。そのとき、あなたは(1)、子どもを起こして、一緒に宿題をすませてあげる。
(2)、「宿題をやっていないのは、あなたが悪い。明日、学校で叱られてきなさい」と言って、そ
のまま寝させる。

 これは両極端なケースで、その中間ということもある。しかしもしあなたが(2)のような親であ
るなら、あなたは子どもの自立を考えた子育てをしていることになる。「自立」とは、自らが立つ
ということ。つまり、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるということ。一見冷たい子育
てに見えるかもしれないが、子どもを自立させるということは、自分で責任をとらせるというこ
と。が、もし(1)のようであれば、これまた一見、子ども思いのやさしい親に見えるかもしれない
が、こういう子育て観(リズム)は、子どもから自立心を奪う。それだけではない。そういう甘さの
間げきをぬって、子どもがドラ息子、ドラ娘化する危険性もある。



子育て自由論



 子どもは自由にして育てる。自由とは、もともと「自らに由る」という意味。そしてその内容は、
自分で考えさせ、自分で行動させ、自分で責任をとらせるということ。特に三番目の「自分で責
任をとらせる」ということが大切。こんな親がいた。

 その子ども(中三男児)が、万引きをして補導されたときのこと。その母親は、「進学にさしつ
かえる」ということで、その夜のうちにあちこちを走り回り、事件そのものをもみ消してしまった。
その子どもがそのあと、ますますドラ息子化したことは言うまでもない。

 子どもを自由にする時期は、できるだけ早い時期がよい。乳幼児のとこからでも、早過ぎると
いうことはない。たとえばミルクでも、子どもが泣いてから与える、など。そういう姿勢が、子ども
をたくましくする。



あと片づけと、あと始末



 日本人の習性のようなものだが、日本人は、あと片づけにはうるさいが、あと始末には甘い。
たとえば冷蔵庫から牛乳パックを取り出して飲んだとする。そのときそのパックをまた冷蔵庫
へ戻せば、それでよし。しかしそのままにしておくようであれば、あと始末のできない子どもとみ
る。

 数年前だが、アメリカ人の友人が私にこう言った。「ヒロシ、日本の子どもたちは一〇〇%、
スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、「ドラ息子」という意味である。そこで私が、
「では君は、一体、子どものどういうところをみてそう思うのか」と聞くと、こう話してくれた。

 「ときどきホームスティさせてやるのだが、料理の手伝いをしない。食後も、食器洗いを手伝
わない。シャワーを浴びても、アワを流さない。朝起きても、ベッドをなおさない。何もしないの
だよ」と。

 一方、欧米では、あと片づけについては、親はそれほどうるさく言わない。反対に、あと始末
にはうるさい。かなり突っ張ったような子どもでも、食後は食器をシンクへ運び、それを自分で
洗ったりしている。反対にこの日本では、「勉強する」「宿題がある」と言えば、子どもはすべて
を免除される。親、「スキヤキの焼き豆腐がないから、スーパーで買ってきて」、子、「勉強があ
る」、親、「じゃあ、いいわ」と。



よき家庭人思想



 日本ではことあるごとに、学校の先生はこう言う。「立派な社会人になってくれ」「社会で役立
つ人になれ」と。一方、アメリカやオーストラリアでは、こう言う。「よき家庭人にんれ」と。「よき
市民になれ」と言うときもある。フランス人に確かめたら、フランスでもそうだそうだ。ドイツでも
そうだそうだ。私はこうした違いから、日本人の子育てを、出世主義。欧米の子育てを、家族主
義と呼んでいる。もちろん彼らにそういう主義があるわけではない。それが彼らにしてみれば、
常識なのだ。

 何でもないような違いだが、この違いは大きい。日本の出世主義は、日本独特の上下意識、
さらには権威主義とからみついている。そしてそれが全体として学歴信仰や学校神話と結びつ
いている。一方、たとえばアメリカ人にしても、日本でいうような学歴社会はない。大学にして
も、入学後の学部変更は自由だし、大学から大学への転籍すらほぼ自由化されている。学校
にしても、九七年度だけでも、いわゆる家庭で勉強する「ホームスクーラー」が、一〇〇万人を
超えた。二〇〇一年末には、二〇〇万人になるだろうと言われている。「LIF(自由に学ぶ)」と
いう組織も、できている。こうした違いの背景にあるのが、ここでいう家族主義である。子どもの
ときから、アメリカの子どもたちは、「よき家庭人として自立する」ことを徹底的に叩き込まれて
いる。だから大学生にしても、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければなら
ないほど、少ない。どこの大学へ入るかよりも、どこからどの程度の奨学金を得るかのほう
が、彼らにしてみれば重要なのだ。「大学へ行くのは、その道のプロになるため」という意識も、
そこから生まれる。



一芸論



 子どもの才能は作るものではない。見つけるもの。S君(年長児)は、父親が新車を買ったと
き、その車についているスイッチに、たいへん興味をもった。そこで父親がパソコンを買い与え
ると、案の定S君は、そのパソコンにのめり込んでいった。小学三年生のときにはベーシック言
語を。中一のときには、C言語をマスターしてしまった。今は、大手のコンピュータソフト会社
で、プログラムの分析技師をしている。

またB子さんは、歩くよりも先に、風呂の中で泳ぐことを覚えた。そこで母親が水泳教室に入れ
てみたところ、まさに水を得た魚のように泳ぎ始めた。このB子さんは、そののち、中学三年の
ときには、水泳の全国大会にまで出場するようになった。

 こうした例は多い。が、この一芸には、もう一つの意味がある。中に、「勉強一本」という子ど
もがいる。しかしこのタイプの子どもは、一度つまずくと、それこそ坂をころげ落ちるように、成
績がさがる。そういうときのために、というわけではないが、子どもには一芸をもたせるとよい。
その一芸が子どもを側面から支える。



一芸論(2)



 ここでいう一芸といっても、それは集団の中で「光るもの」でなければならない。カード集めを
しているとか、ゲームをうまくできるというのは一芸ではない。モデルガンをたくさんもっていると
いうのも、一芸ではない。一芸というのは、努力と才能によって、前向きに伸びていくものをい
う。

 この一芸を見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。この思い切りのよさが、子どもの一
芸を伸ばす。



プロ型社会の到来



 日本のバブル経済が崩壊したとき、同時に日本の「エリート神話」も、崩壊した。Y証券の倒
産劇の中で、社長が、「みんな、私が悪いのです」と泣いてみせたのが、それを象徴している。
私たちが学生時代には、大企業の社長がマスコミの前で大泣きするなどということは、考えら
れなかった。また就職先にしても、都会の大企業へ就職できたのは「出世組」。そうでないの
は、「失敗組」と考えられていた。

 五年ほど前だが、私にこう言った男(六八歳)がいた。「君は、学生運動か何かをしていて、ど
うせロクな仕事にはつけなかったのだろう」と。私が「幼児教育を開いています」と言ったときの
ことである。こうした職業観は、日本人が共通してもっていたものであり、それが一方で日本の
教育をゆがめてきた。

 が、これからはもうそういう時代ではない。日本以外の先進国では、学生たちは、その道のプ
ロになるために勉強している。大学生たちも、そういう意識をしっかりともっている。日本もやが
てそうなるだろうし、またそうしなければならない。権威者が、力もないまま、いばったり、権力
を振り回すような時代は、もう終わったのだ。

 

プロを認める社会



 プロ型社会では、当然のことながら、プロであることが正当に評価されねばならない。が、と
いうことは同時に、私たちの意識もプロ化しなければならない。言うなれば、「互いに力のなさ
をなぐさめあうような甘い社会」からの脱皮をするということ。今までの日本の社会は、あまりに
も、「ムラ」的であった。(このムラ意識は日本のよさだと主張する人もいるにはいるが、もしそ
うなら、「国際化」などという言葉は使わないことだ。それともアフリカの原住民のように、東洋
の島国でひっそりと、静かに暮らすということか。)

 そういう意味では、きびしい世界がやってくる。それは覚悟しなければならない。話はそれた
が、ここでいう一芸論は、そういうプロ型社会の到来を予想したものである。











件名:子育て情報(はやし浩司)10-1



 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡

| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM

q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m

(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)

凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /

\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄

 ===○=======○====KW(8)

    子育て最前線の育児論

 ================          

★★★★★★★★

01-10-1号(11)

★★★★★★★★

 by はやし浩司(ひろし)

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

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このところ涼しいですね。すっかり秋らしくなりました。

11号をお届けします。

********************************

ウィルス「NIMDA」対策について。

私のホームページ(サイト)は、……

(1)MS社よりSP2の提供を受け、ウィリスの侵入を無効にしてあります。

(2)「SYMANTEC」社の「NORTON、アンチウィルス」のソフトを使って、

随時、検疫しています。最新情報は、そのつど、UPDATEしています。

(3)HP更新用のパソコンは、ほかのパソコンとは独立させ、別のパソコンを

使っています。

従って、どうか安心して、小生のサイトをお楽しみください。

詳しくは、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

の「トップページ」より、「ウィルス対策」をご覧ください。

********************************



ある雑誌の投書コーナーに次のような意見が載っていました。



「思春期の子どもを二人かかえ、苦戦しながら

毎日を精一杯、生きています。幼児期から、生き物を

愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、

犬、モルモット、カメ、ザリガニ、魚類を飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花をたくさん植えて、自然を愛すること、

収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、

読み書きすることも見せてきました。リサイクルして、手つくり品

や、料理もまめに作って、食事も室内も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を

使うことをめんどうくさがり、努力もせず、マイペースの

生活なのでしょう。旅行好き(好奇心とロマンを追って)の

母親(私)が、幼いころから社会見聞にと、国内外をこまめに

連れ歩いても、当の子どもたちは、地理が苦手。息子は出不精。

娘は繁華街通いをして、いまどきの流行を追っかけ、

浪費ばかり。二人とも自然には興味なし。おまけに、しつけには

きびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなる一方。

私の子育ては何だったの?

私はどうしたらいいの?

最近はコミュニケーションもなかなかとれない状態です。

どう接したらいいのでしょうか?」(50歳・神奈川県)

(雑誌M,10月号)



このお母さんは、たった一つのことに気づいていない。

それは、親として自分勝手な子育てをしただけ……!

ひとりよがりな「善」を子どもに押しつけただけ……!

子どものリズムで、歩いていない。子どもの心を

確かめながら歩いていない。それだけのこと。

しかし悲痛な叫び声! 「私の子育て何だったの!」と。



親は子どもの前を歩く。子どものガイドとして。

親は子どものうしろを歩く。子どもの保護者として。

親は子どもの横を歩く。子どもの友として。



最後の「友として」という部分が子育ての中で欠落していたのでは

ないでしょうか。皆さんは、この投書をどう思いますか?



****************************

私のサイトで、「小論文コーナー」を充実させました。

少し難しいかもしれませんが、やや専門的な立場から

子どもがもつ問題を考えてみました。

たとえば……

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子どもの心が不安定になるとき



●情緒が不安定な子ども



 子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育の発達
度、それに(4)運動能力。このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われる
ときをみて、判断する。運動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎこみ、不機
嫌、無口(以上、マイナス型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)がなけ
れば、情緒が安定した子どもとみる。子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わな
い。「眠い」と言う。子どもが「疲れた」というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的
な疲れにたいへん弱い。それこそ日中、五~一〇分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れ
てしまう。



●情緒不安とは……?



 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二~四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、特に子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さ
ない。気を抜かない。周囲に気をつかう。他人の目を気にする。いい子ぶるなど。その緊張状
態の中に、不安が入りこむと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安
定になる。さらに症状が進むと、周囲に溶けこめず、引きこもったり、怠学、不登校を起こした
り、反対に攻撃的、暴力的になったり(マイナス型)、突発的に興奮して暴れたりすることもある
(プラス型)。表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらで
もいる。このタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッス
ンをしようね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。



●原因は、家庭に……



 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。しかし
まず反省すべきは、家庭である。強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子ど
もの側からみて神経質で、気が抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家
庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的な家庭環境など。子どもが小学生になったら、家庭は、「心を休
める場。疲れた心をいやす、いこいの場」でなければならない。アメリカの随筆家のソローも、
「ビロードのクッションの上より、カボチャの頭」と書いている。人というのは、高価なビロードの
クッションの上にすわるよりも、カボチャの頭の上にすわったほうが気が休まるという意味だ
が、多くの母親にはそれがわからない。わからないまま、家庭を「しつけの場」と位置づける。
たった一度のはげしいしつけが、子どもの心をゆがめてしまうこともある。ある女の子(三歳
児)は、母親にはげしく叱られたのが原因で、その日から一人二役のひとり言を言うようになっ
てしまった。



●子どもの情緒を安定させるために



 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子ども自
身が誰にも干渉されないような時間と場所をもつこと。親があれこれ気をつかうこと(過関心)
は、かえって逆効果になる。そしてカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。特
にカルシウムは天然の精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、「安定剤」の薬として使われ
ていた。錠剤で与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいこと
は言うまでもない。なお情緒というのは、一度不安定になると、数か月から数年単位で症状が
推移する。親があせって何とかしようと思えば思うほど、逆効果で、一度キズついた心は、そん
なに簡単にはなおらない。つまりそういう前提で、「それ以上症状を悪化させないことだけ」を考
えて、あとは子どものリズムに合わせる。



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子どもがウソをつくとき



●ウソにもいろいろ



 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ(虚言)と、あたかも空想の世界にいるかのようにして
つくウソ(空想的虚言)は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ)、あるいは自己正当化(誇示、吹聴、自慢
など)のためにつくウソをいう。子ども自身がウソをついている自覚がある。母「だれ、ここにあ
ったお菓子を食べたのは?」子「ぼくじゃないよ」母「手を見せないさい」子「何もついてないよ。
ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、子どもは、思いこみの強い子どもは、思いこみによりウソをつくことがあ
る。「昨日、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というウソがそれにあたる。その思い
こみが激しく、現実と空想の世界がわからなくなってしまったのを、空想的虚言という。こんなこ
とがあった。



●空想の世界に生きる子ども



 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(小一男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、先生につねられたと言うではありま
せんか。どうしてそういうことをするのですか。先生は体罰反対ではなかったのですか!」と。も
のすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母
親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言
ってもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく子どもに話を聞くと、「帰りのバスの中で、A君
につねられた」と。その状況を聞くと。聞きもしないのに、ことこまかに、つまりシャーシャーと話
をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない」と。結局その子どもは、強圧的な母親
の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……? ほかに私の印象に残って
いるケースで、「私はイタリアの女王様」と言い張っていた女の子(年長女児・オーストラリア)が
いた。



●空中の楼閣に住まわすな



 イギリスの格言に、「子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない」というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間
に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りない
リアリティをもとこんだりする。そして一度虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実で
あるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソをつく。ウソをウソと自覚しないのが、そ
の特徴である。



●ウソは、静かに問いつめる



 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、威圧や暴力を加えれば加える
ほど、子どもはウソがうまくなる。

 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、柔和な笑みを浮
かべ、むしろ「できのいい子」という印象を与えることが多い。子どもらしいハツラツとした表情
が消え、教える側から見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考え
ているかわからない子ども」となる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。
兄弟で同じような症状を見せるケースも多いので、遺伝的な要素もあるかもしれない。しかし原
因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。特
にこのタイプの子どもの場合、親が強圧的であればあるほど、空想的虚言の世界に、子どもを
追い込んでしまうことになるから注意する。



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ほかにも数作、まとめてみました。

もしよろしかったら、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

(メニュー)→(子どもの指導法)→(子育て論文集)をご覧ください。

よろしくお願いします。

**************************************



現在、中日新聞のHPには、「三男からのハガキ」が掲載されています。

http://www.chunichi-tokai.co.jp/education/child_world/

で、ご覧いただけます。



この中で私は、『子どもの巣立ち』に対する親の切なさを

織り込みました。実際には、女房とこんな会話をしました。



私「あのな、やはりぼくは、あのとき、Eを背負ってでも

登頂すべきだった……」

女「だってあれは……。確か、E君が、足が痛いと言った

からよ」

私「……Eが痛いと言ったのか?」

女「そうよ。確か、あのとき、E君が、足が痛いから歩けない

と泣いたのよ」

私「痛いと言って泣いたのか?」

女「そうだったわ。それで私も一緒に、山小屋に残ることに

なったのよ。痛いから歩けないと泣いたから……」

私「ぼくが一方的に、残れと言ったのではなかたんだね」

女「そういうことではなかったと思うわ……。あなたは

あなたなりに、E君に、『どうするんだ?』と確かめて

いたように思うわ」

私「そうだったのか。ぼくもそのあたりはよく覚えていない」

女「もう、13年も前のことだからね。だけどE君は、ああいう

負けず嫌いの性格だから、きっと悔しかったのでしょうね」と。



そういういきさつから、あの原稿を書きました。お楽しみください。



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では、また次号もよろしくお願いします。

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先週(9月8日)は、中日新聞紙上で、「子育てにもリズムが」を

発表しました。「子育てリズム論」(原題)は、私の持論の一つです。



それをまず紹介します。

(イラスト付のは、

http://www.chunichi-tokai.co.jp/education/child_world/

で、ご覧ください。)



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子育てリズム論



●子どもの心を大切に●子どものうしろを歩こう



 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは
騒音でしかない。そこでテスト。



 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立っ
て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂か
もしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親ほど、親意識が強
い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答えでも
しようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしておけいこごとでも何でも、親が
勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子どもで、親の前では従順に従
う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長く
は続かない。



 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに何をしてほしい
のか」、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。この段階で、互いにあいまいなことを言うの
を許されない。それだけに、実際そのように聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張す
る。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。



 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、
実家の親を前にすると、緊張します」と。別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の
会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人
生観と深くからんでいるため、変えるのは容易ではない。しかし変えるなら、早いほうがよい。
早ければ早いほどよい。もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているような
ら、今日からでも、子どもの歩調に合わせて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなた
は子育てのリズムを変えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができ
る。



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ここで大切なことは、子どもは親のリズムに合わせることはできません。

親が子どもに合わせるしかないということです。



また一度、このリズムはできると、ほぼ一生続くということ。そして場合に

よっては、親子の間の不協和音となり、亀裂→断絶へと進むということ。

どうかご注意ください。



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件名:子育て情報(はやし浩司)10-21



 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡

| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM

q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m

(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)

凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /

\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄

 ===○=======○====KW(8)

    子育て最前線の育児論

 ================          

★★★★★★★★

01-10-21号(12)

★★★★★★★★

 by はやし浩司(ひろし)

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

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しばらくアメリカへ行っていたり、講演会の季節で、ごぶさたしました。

第12号をお届けします。よろしかったら、お読みください。

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ウィルス「NIMDA」対策について。

私のホームページ(サイト)は、……

(1)MS社よりSP2の提供を受け、ウィリスの侵入を無効にしてあります。

(2)「SYMANTEC」社の「NORTON、アンチウィルス」のソフトを使って、

随時、検疫しています。最新情報は、そのつど、UPDATEしています。

(3)HP更新用のパソコンは、ほかのパソコンとは独立させ、別のパソコンを

使っています。

従って、どうか安心して、小生のサイトをお楽しみください。

詳しくは、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

の「トップページ」より、「ウィルス対策」をご覧ください。

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「はやし浩司のホームページ」がますます充実しました。



(1)Q&Aコーナーに、皆さんからのご質問と、アンサーを載せておきました。

  このマガジンをご購読してくださっている方で、何かご心配なことがあれば

  ご質問をお寄せください。できるだけ早く、お答えするようにしています。

  (マガジン読者と書いてくだされば、優先的に、返事を書かせてもらいます。)



(2)雑誌「ファミリス」には、「子どもが非行に走るとき」(10月号、(2)回目)を

   載せてもらいました。

  子どもの非行は、いかにその前兆期に症状の悪化をくいとめるかで、決まります。

  ここに添付しておきますので、どうかお読みください。



(3)息子が国際結婚したこともあり、ホームページのほうでは英語版を充実させました。

  何ともヘタクソな英語ですが、一応、実力で書いています。お笑いください。





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子どもが非行に走るとき



●こぼれた水は戻らない

 子どもは、なだらかな坂をのぼるように成長するのではない。ちょうど階段をトントンとのぼる
ように成長する。子どもが悪くなるときも、そうだ。(悪くなる)→(何とかしようと親があせる)→
(さらに悪くなる)の悪循環の中で、子どもは、トントンと悪くなる。その一つが、非行。暴力、暴
行、窃盗、万引き、性行為、飲酒、喫煙、集団非行、夜遊び、外泊、家出など。最初は、遠慮
がちに、しかも隠れて悪いことしていた子どもでも、(叱られる)→(居直る)→(さらに叱られる)
の悪循環を繰り返すうちに、ますます非行に走るようになる。この段階で親がすべきことは、
「それ以上、症状を悪化させないこと」だが、親にはそれが理解できない「なおそう」とか、「元に
戻そう」とする。しかし一度、盆からこぼれた水は、簡単には戻らない。が、親は、無理に無理
を重ねる……。



●独特の症状

 子どもが非行に走るようになると、独特の症状を見せるようになる。脳の機能そのものが、変
調すると考えるとわかりやすい。「心の病気」ととらえる人もいる。実際アメリカでは、非行少年
に対して薬物療法をしているところもある。それはともかくも、その特徴としては、(1)拒否的態
度(「ジュースを飲むか?」と声をかけても、即座に、「ウッセー」と拒否する。意識的に拒否する
というよりは、条件反射的に拒否する)、(2)破滅的態度(ものの考え方が、投げやりになり、
他人に対するやさしさや思いやりが消える。無感動、無関心になる。他人への迷惑に無頓着
になる。バイクの騒音を注意しても、それが理解できない)、(3)自閉的態度(自分のカラに閉
じこもり、独自の価値観を先鋭化する。「死」「命」「悪霊」などという言葉に鋭い反応を示すよう
になる。「家族が迷惑すれば、結局はあなたも損なのだ」と話しても、このタイプの子どもには
それが理解できない。親のサイフからお金を抜き取って、それを使い込むなど)、(4)野獣的
態度(行動が動物的になり、動作も、目つきが鋭くなり、肩をいからせて歩くようになる。考え方
も、直感的、直情的になり、「文句のあるヤツは、ぶっ殺せ」式の、短絡したものの考え方をす
るようになる)などがある。



 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、親は家庭のあり方を猛省しなければ
ならない。しかしこれがむずかしい。このタイプの親に限って、その自覚がないばかりか、さら
に強制的に子どもをなおそうとする。はげしく叱ったり、暴力を加えたりする。これがますます子
どもの非行を悪化させる。こじらせる。



●最後の「糸」を切らない

 家族でも先生でも、誰かと一本の「糸」で結ばれている子どもは、非行に走る一歩手前で、自
分をコントロールすることができる。が、その糸が切れたとき、あるいは子どもが「切れた(捨て
られた)」と感じたとき、子どもの非行は一挙に加速する。だから子どもの心がゆがみ始めたら
(そう感じたら)、なおさら、その糸を大切にする。「どんなことがあっても、私はあなたを愛して
いますからね」という姿勢を、徹底的に貫く。子どもというのは、自分を信じてくれる人の前で
は、自分のよい面を見せようとする。そういう性質をうまく使って、子どもを非行から立ちなおら
せる。そのためにも最後の「糸」は切ってはいけない。切れば切ったで、ちょうど糸の切れた凧
ように、子どもは行き場をなくしてしまう。そしてここが重要だが、このタイプの子どもは、「なお
そう」とは思わないこと。現在の症状を今より悪化させないことだけを考えて、時間をかけて様
子をみる。一般に、この非行も含めて、「心の問題」は、一年単位(一年でも短いほうだが…
…)で、その推移を見守る。こじらせればこじらせるほど、その分、子どもの立ちなおりは遅れ
る。



***************************************



高校の同窓会の案内をもらいました。しかし私はそれを見て、ハタと考え込んでしまいました。

皆さんは、ご自身の高校時代をどのように思い出されますか? 私にとっては、高校時代は

まさに「悪夢」。本当に不幸な高校時代でした。そんな思いを、書いてみました。



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私の高校時代



●いやな男



 私にとって、高校時代は何だったのか? ……同窓会のハガキを手にして、私はハタと考え
込んでしまった。忘れていた悪夢の再来? 人それぞれだが、私にとっては、まさに悪夢としか
言いようがない。

 懐かしい? ……とんでもない! 私はあの時代を思い出すのもいやだ。学校へは毎日、重
い足をひきずりながら通った。私を知る人は、「林さんは、明るくて面白い人だった」と言う。中
学時代の友人はそう言う。大学時代の友人もそう言う。しかし高校時代の友人(友人と言える
人は一人もいないが……)は、恐らく、そうは言っていない。それが私にはよくわかる。

 理由は、いくつかある。あるがそれはさておき、私は同窓会に出るたびに、はげしく後悔す
る。前回のときは、「二度とこんな会に出るか!」と思った。いつも一人、私を揶揄(やゆ)する
男がいる。今度もそいつは顔を出すだろうが、こう言った。「林君、君だけは出世すると思った
よ」と。その前のときはこう言った。「君だけは、肩で風を切って同窓会に来ると思ったよ」と。ど
んなうらみがあるのか知らないが、そういう失敬なことをズケズケという。そうそう三〇歳のとき
は、こう言った。「林君、君は行方不明だったんだってな」と。あとで話を聞くと、何度同窓会の
知らせを出しても、「あて先不明」で返送されてしまったという。それもそのはずだ。もともとの住
所の番号が違う。私の住所は、五桁だが、四桁しかない。私が住んでいる「I町」だけでも、人
口は六万人。郷里の美濃市の二倍はあるのだ! 番号が違ったら、手紙など届くはずもない。
また「はやし・ひろし」という名前ほど、ありふれた名前もない。最近その人は亡くなったが、少
し前まで、この「浜松市I町」には、同姓同名の人が一人いた。浜松市内には、「はやしひろし」
という人は、五~六名もいる。住所を勝手にまちがえておきながら、「行方不明」とは!

 しかしその男には、よほどうれしかったのだろう。私が行方不明であることが。会うと、「君は
行方不明だった」「行方不明だった」と笑った。皆が皆、そうではないが、「私」という存在は、そ
ういう存在だったらしい。それには、一つの理由がある。



●不本意な進学 



 私は田舎のM高校に通っていた。中学時代は、私はガリ勉で、中学三年生のときは、五七
〇名中、二番になったことは一度もない。私の得点は五五〇点満点中、いつも五二〇~五四
〇点はあった。二番とはいつも四〇~五〇点の差はあった。通知表も、体育の実技が九だっ
た以外は、オール一〇だった。(当時は一〇は、学年でそれぞれの科目につき二人しかつか
なかった。)こんなところでウソを書いてもしかたないので、事実を書く。これはウソでも何でもな
い。私は当然、岐阜市の進学高校をめざしていた。が、私の家は、それだけの財力がなかっ
た。で、私は不本意なまま、地元の高校へ入った。しかしこれが悲劇の始まりだった。



●競争をけしかける担任



 高校の担任は、Tという教師だった。三〇歳になったばかりの、バリバリの熱血教師。熱血と
いっても、自分の名誉と出世(?)を最優先に考える教師だった。いつも生徒同士を競わせ、
「お前は勝った」「お前は負けた」と、私たちに競争をけしかけた。そういう点で、私はいつも皆
のターゲットにされた。「林に追いつけ」「林を抜かせ」と。

 当時は、毎回の定期テストごとにその結果が、廊下に張り出されていた。順位と得点を、であ
る。最初のころこそ、私は自分の右に出るものがいないことを喜んだ。また私とT教師との間
は、良好な人間関係を保っていた。が、そのうち私は、勉強する意欲を急速になくしてしまっ
た。一年の夏休みになるころには、転校まで考え、それを担任に相談した。が、そんな相談に
担任がのってくれるはずがない。私と担任の関係は急速に悪化した。



●T教師



 ……こういう状態がその後、二年以上も続いたのだから、たまらない。私が忍耐強かったの
か、それとも従順だったかは知らないが、ともかくも、当時はそういう時代だった。高校二年の
とき、Aさんという女の子に恋をして、何度かデートをしたことがある。それがほかの生徒に見
つかり、担任に密告された。担任のT教師は私を、彼の研究室へ呼びつけ、「受験生が何をし
ているか!」と怒鳴り散らした。しかしすでに当時、私は担任が、私のことを心配してそう怒鳴っ
たのではなく、自分の名聞名利のためにそう怒鳴ったのを見ぬいていた。私を「何だ、こんな
成績で!」と叱る一方、ほかの生徒には、「今がチャンスだ。林を抜かせ!」とハッパをかけて
いた。それを私は知っている。T教師という教師はそういう教師だったし、私の生涯において、T
教師が三年間も私の担任だったということは、不幸なことだった。私には、彼に対抗するだけ
の経験も知恵もなかった。私は美濃町という小さな町から出たことすらなかった。世間知らずと
いうより、純朴なままだった。



●皆が犠牲者



 こういう環境で、友人たちと良好な人間関係などできるはずもない。私はいつもスミに追いや
られ、またスミに行くことで私はやっとのことで、自分の世界をつくることができた。そういう私を
皆は、どう見ていたのか。それが同窓会で、いつも皮肉を言う男の言葉の中に読み取ることが
できる。彼らとて、私を揶揄(やゆ)しながら、結局は、T教師の犠牲者に過ぎないのだ。



●変えられた進路



 が、何といっても最大の悲劇は、強引とも言える方法で、自分の進路を担任に変えられてし
まったことだ。私は工学部をめざしていた。建築家になりたかった。それがだめなら大工でもよ
いと考えていた。が、高校三年になるとき、担任がこう言った。「君は京都大学の工学部は無
理だが、文学部なら入れる」と。すでにそのころ私の成績は急降下しはじめていた。当時は、
今もそうだが、理科系の大学をねらうか、文科系の大学をねらうかで、受講する科目そのもの
がまったく違っていた。クラスも二つに分けられた。一度文科系を選んだら最後、それは同時
に理科系のコースからの離脱を意味した。(理科系のコースを選んだ学生が、文科系を受験す
ることはできても、その逆はできなかった。)私は京都大学にこだわっていたわけではないが、
そのときは担任の指示に従った。担任といえども、まさに「暴君」。実際、T教師は肝っ玉の小さ
い、はげしい性格の男だった。彼の意向に反したら、高校生活そのものが送れなかった。



●私が文学部?



 私の高校生活はいやが上にも、暗くてゆううつなものになった。文学部といっても、私には文
学ほど嫌いな科目はなかった。ただ幸か不幸か、英語だけはばつぐんに成績がよかった。高
校二年のときには、同じ全国模試を受けても、高校三年生より上位の成績をとっていた。それ
に古文の成績もよかった。それで「文学部に」ということになった。それはわかるが、しかしそれ
でも私には文学部は肌に合わなかった。



●反乱



 反乱は、いよいよ大学入試というときに起こした。私は立命館大学の法学部に合格していた
が、もう一つ別の大学を受けたいと担任に申し出た。国立は、京都大学文学部を受験すること
になっていた。当時は国立一期校と二期校に分かれ、国立大学は二度、受験のチャンスがあ
った。京都大学のほうへは、担任が勝手に願書を出していた。私はもう一通の成績証明書な
どを受け取ると、それを金沢大学の方へ出した。金沢大学では法文学部法学科を志望先にし
た。このことは担任には話さなかった。文学というのはどうにもこうにも肌に合わなかったし、そ
れに成績はまださがり続けていた。私自身は京都大学の文学部にはとても合格できないと思
いはじめていた。そこでどこかの大学の「法学部」ということにしたが、京都大学の法学部はさ
らに難しかった。私は金沢大学なら受かると思った。確信はなかったが、「より安全な道」という
ことで、そうした。

 受験のためY君という友人と列車に乗った。Y君は金沢大学の理学部を受験する予定だっ
た。私はそのときまで、京都大学の文学部を受験することになっていた。が、米原まで来たとこ
ろで、私ははじめてY君にぼくも金沢大学を受験することを打ち明けた。米原で、京都へ行く列
車と、金沢へ行く列車が分かれた。Y君は、この話に驚いた。が、私はすぐさまそのことを、担
任には黙っていてほしいと頼んだ。Y君は穏やかな、やさしい男だった。Y君は承諾してくれた。



●貧弱な高校時代 



 こう書くと、私の高校時代には楽しい思い出が何もなかったことになる。しかしそれは正しくな
い。冷静に思えば、結構それなりに楽しさもあったのかもしれない。しかしそれに続く大学生
活。さらにそれに続く留学生活が、格段に楽しかったこともあり、正直言って、高校生活など霧
のかなたへ吹っ飛んでしまった。大学生のころは、毎月毎月が、高校時代の一年分の思い出
に匹敵したし、さらに留学時代は一日一日が、それまでの大学時代の一年分に相当した。高
校時代を思い出すとしても、怒涛のように押し寄せる留学時代の思い出の前では、あまりにも
貧弱でしかない。が、それでも思い出すとしたら、修学旅行であり、コーラス部であり、運動会
だ。N君と真夜中に高校へ忍び込み、運動場で寝ていたこともある。二人でプールで泳いだこ
ともある。あとは先にも書いた、Aさんとのデート。……が、その程度でしかない。いやいや、こ
うして何か思い出を、と思ってさがさなければならないほど、私の高校時代はつまらないものだ
ったし、それ以上に強いエネルギーでいやな思い出が私を襲ってくる。私は、クラスでものけ者
だった。露骨に私を仲間ハズレにする連中もいた。恐らく私をのけ者にした連中には、私をの
け者にしたという意識すらないだろう。私は、変な言いかただが、きわめて自然な形で、日常的
にのけ者にされていた。これは何年かたってからのことだが、その中の一人に、それとなく当
時の気持ちをさぐってみたことがある。しかし私は彼にはその意識がまったくなかったことを知
って、驚いた。しかし私の思い過ごしということでもない。これは加害者と被害者の意識の違い
ではないか。加害者というのは、いつの時代でも、自分のした行為をすぐ忘れてしまう。一方、
被害者はそれを忘れない……。



●金沢大学に合格 



 私は当然のことながら、京都大学の受験には失敗した。受験していないのだから、これは当
然のことだ。新聞に私の名前がないことを知り、当日の朝、担任から「残念だったな」という電
話をもらったのを覚えている。しかしその二日後。今度は私の名前が、金沢大学の合格者の
ほうで載っていた。このあとのことは知らないが、担任が激怒したことは、容易に察することが
できる。それ以後、担任のT教師は、私とはまったく口をきかなかったし、それから一〇年あま
り、私は年賀状を出し続けたが、返事は一度とてもらえなかった。

 こうして私の高校時代は終わる。と、同時に私はあの重苦しい時代から解放された。もし神
様か何かがいて、私をもう一度、青春時代に戻してやると言っても、私は即座にそれを断わ
る。あの時代は私にとって、まさに地獄の時代だった。今でも、あのM高校の前を通っただけ
で、何とも言いようのないゆううつ感を覚える。そういう高校の同窓会である。友というより、同
窓生には、何の責任も問題もない。いや、ひょっとしたら、彼らとて、あの暗い高校時代の犠牲
者かもしれない。本当のところは、私には知る由もないが、しかしその可能性はある。ああいっ
た高校時代が楽しかったというのは、よほどの人だと思う。いやいや、こんなことがあった。私
のそうした心情を、それから二〇年近くもたってから、Y君という同窓生に打ち明けたことがあ
る。そしたらY君はこう言った。「林、お前だけは、T教師にかわいがられ、T教師とうまくいって
いたと思っていたけどな」と。私という人間は、どこまでも誤解されやすい人間らしい。



●されど同窓会



 私は「欠席」に丸をつけて、ハガキを返した。女房も、「出て不愉快になるくらいなら、行かな
いほうがいいわ」と言った。こういうとき、判断はたいてい女房に任せる。私はずいぶんと優柔
不断なところがあって、「出ろ」というなら、出てしまう。が、やはり心に決めた。私は死ぬまで、
二度と高校時代の同窓会には出ない……だろう。多分。出ないと決めたから、このように私の
高校時代を正直に書いた。私には、もう無駄にできる時間など、一秒もない。願わくば、今後
は私には同窓会の案内書など無用。高校の同窓会のことで、心をわずらわすのは、これで最
後にしたい。同窓会の世話役を引き受け、苦労している人には申し訳ないと思う。思うが、あの
時代は私にとっては、苦痛でしかない。どうかそれをわかってほしい。さようなら。  





********************************

以下、前号の一部です。

********************************





ある雑誌の投書コーナーに次のような意見が載っていました。



「思春期の子どもを二人かかえ、苦戦しながら

毎日を精一杯、生きています。幼児期から、生き物を

愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、

犬、モルモット、カメ、ザリガニ、魚類を飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花をたくさん植えて、自然を愛すること、

収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、

読み書きすることも見せてきました。リサイクルして、手つくり品

や、料理もまめに作って、食事も室内も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を

使うことをめんどうくさがり、努力もせず、マイペースの

生活なのでしょう。旅行好き(好奇心とロマンを追って)の

母親(私)が、幼いころから社会見聞にと、国内外をこまめに

連れ歩いても、当の子どもたちは、地理が苦手。息子は出不精。

娘は繁華街通いをして、いまどきの流行を追っかけ、

浪費ばかり。二人とも自然には興味なし。おまけに、しつけには

きびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなる一方。

私の子育ては何だったの?

私はどうしたらいいの?

最近はコミュニケーションもなかなかとれない状態です。

どう接したらいいのでしょうか?」(50歳・神奈川県)

(雑誌M,10月号)



このお母さんは、たった一つのことに気づいていない。

それは、親として自分勝手な子育てをしただけ……!

ひとりよがりな「善」を子どもに押しつけただけ……!

子どものリズムで、歩いていない。子どもの心を

確かめながら歩いていない。それだけのこと。

しかし悲痛な叫び声! 「私の子育て何だったの!」と。



親は子どもの前を歩く。子どものガイドとして。

親は子どものうしろを歩く。子どもの保護者として。

親は子どもの横を歩く。子どもの友として。



最後の「友として」という部分が子育ての中で欠落していたのでは

ないでしょうか。皆さんは、この投書をどう思いますか?



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私のサイトで、「小論文コーナー」を充実させました。

少し難しいかもしれませんが、やや専門的な立場から

子どもがもつ問題を考えてみました。

たとえば……

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子どもの心が不安定になるとき



●情緒が不安定な子ども



 子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育の発達
度、それに(4)運動能力。このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われる
ときをみて、判断する。運動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎこみ、不機
嫌、無口(以上、マイナス型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)がなけ
れば、情緒が安定した子どもとみる。子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わな
い。「眠い」と言う。子どもが「疲れた」というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的
な疲れにたいへん弱い。それこそ日中、五~一〇分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れ
てしまう。



●情緒不安とは……?



 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二~四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、特に子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さ
ない。気を抜かない。周囲に気をつかう。他人の目を気にする。いい子ぶるなど。その緊張状
態の中に、不安が入りこむと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安
定になる。さらに症状が進むと、周囲に溶けこめず、引きこもったり、怠学、不登校を起こした
り、反対に攻撃的、暴力的になったり(マイナス型)、突発的に興奮して暴れたりすることもある
(プラス型)。表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらで
もいる。このタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッス
ンをしようね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。



●原因は、家庭に……



 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。しかし
まず反省すべきは、家庭である。強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子ど
もの側からみて神経質で、気が抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家
庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的な家庭環境など。子どもが小学生になったら、家庭は、「心を休
める場。疲れた心をいやす、いこいの場」でなければならない。アメリカの随筆家のソローも、
「ビロードのクッションの上より、カボチャの頭」と書いている。人というのは、高価なビロードの
クッションの上にすわるよりも、カボチャの頭の上にすわったほうが気が休まるという意味だ
が、多くの母親にはそれがわからない。わからないまま、家庭を「しつけの場」と位置づける。
たった一度のはげしいしつけが、子どもの心をゆがめてしまうこともある。ある女の子(三歳
児)は、母親にはげしく叱られたのが原因で、その日から一人二役のひとり言を言うようになっ
てしまった。



●子どもの情緒を安定させるために



 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子ども自
身が誰にも干渉されないような時間と場所をもつこと。親があれこれ気をつかうこと(過関心)
は、かえって逆効果になる。そしてカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。特
にカルシウムは天然の精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、「安定剤」の薬として使われ
ていた。錠剤で与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいこと
は言うまでもない。なお情緒というのは、一度不安定になると、数か月から数年単位で症状が
推移する。親があせって何とかしようと思えば思うほど、逆効果で、一度キズついた心は、そん
なに簡単にはなおらない。つまりそういう前提で、「それ以上症状を悪化させないことだけ」を考
えて、あとは子どものリズムに合わせる。













件名:子育て情報(はやし浩司)10-29



 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡

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q 0―0 MMMMM  ∩ ∩ MM m

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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /

\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄

 ===○=======○====KW(8)

    子育て最前線の育児論

 ================          

★★★★★★★★

01-10-29号(13)

★★★★★★★★

 by はやし浩司(ひろし)

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/



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ウィルス「NIMDA」対策について。

私のホームページ(サイト)は、……

(1)MS社よりSP2の提供を受け、ウィリスの侵入を無効にしてあります。

(2)「SYMANTEC」社の「NORTON、アンチウィルス」のソフトを使って、

随時、検疫しています。最新情報は、そのつど、UPDATEしています。

(3)HP更新用のパソコンは、ほかのパソコンとは独立させ、別のパソコンを

使っています。

従って、どうか安心して、小生のサイトをお楽しみください。

詳しくは、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

の「トップページ」より、「ウィルス対策」をご覧ください。

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サイトのほうでは、実用的な記事をふやしました!



今回は、「学習机と勉強部屋」「親子の関係がぎくしゃくするとき」について考えてみます。



すでにこの「学習机」についてのオリジナルの原稿は、一五年以上も前に、「マザーリング」とい
う雑誌に発表しました。以後、何度も反芻(はんすう)し、こうして改めて皆さんにお伝えできるこ
とを喜んでいます。お子さんの学習環境を考える上で、参考にしていただければ、うれしく思い
ます。



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学習机と勉強部屋を考える



●机は休むためにある



 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくする
と疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで
きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、
なかなかもとに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の
上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もし
その食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分
の好きなことを、何でも自分の机にもっていってするようであれば、相性が合っているということ
になる。相性の悪い机を使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。



●机は棚のない平机



 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい
ると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前のことだが、小学一年生について調査してみた。
結果、棚式の机の場合、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわかっ
た。最近の机にはいろいろな機能がついている。が、子どもがそれにあきたとき、机はそのま
ま物置台になる。机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あるいは低学年児の場合、机
はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期
は勉強をあまり意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを大切にする。親子のふれあ
いを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」ではなく、「一緒にやろうね」と言うなど。



●学習机を置くポイント



 そこで調べてみると、いくつかのポイントがあるのがわかる。



(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 

(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。

(3)座った位置からドアが見えるようにする。(4)光は左側からくるようにする(右利き児の場
合)。

(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。

(6)窓の位置が重要なポイント。窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしが
よすぎると、気が散って勉強できないということもある。



 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。ドアが背中側にあると、心理的に落ち着か
ない。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひじかけがあると、作業が
格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、どうしても体が前かがみ
になり、姿勢が悪くなる。またイス全体が前にかがむようになっているイスがある。確かにその
ときは能率があがるかもしれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 また学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのように体を休め
るかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。たいて
いは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もし「うちの子は勉強しない」というのであれば、
思い切って、そういうところを勉強場所にしてみるとよい。子どもは進んで勉強するようになる
……かもしれない。



●相性を見極める



 ものごとには相性というものがある。子どもの学習をみるときは、その相性を大切にする。相
性があえば、子どもは進んで学習する。相性が合わなければ、子どもは何かにつけ、逃げ腰
になる。子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこともある。子どもの学習を家庭で指導す
るときは、この相性を見極めながらする。



(勉強部屋診断)(図は、省略)詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

(子どもを伸ばす)→(学習環境)をご覧になってください。



◎棚が背側にあり、机の右前に窓があるという点で、配置としては問題ない。イスに座った位
置からは、窓の外がよく見え、勉強で疲れたときなど、そのまま気を休めることができる。ドア
が背側にあるので、やや不安は残るが、ほぼ理想的な勉強部屋といえる。この部屋の中学生
(中一男児)は、「マンガを読むときも、イスに座って読む」と話してくれた。



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親子の間がぎくしゃくするとき



●権威主義の象徴、「水戸黄門」



 「控えおろう!」と一喝して、三つ葉葵の紋章の入った印籠(いんろう)を見せる。するとまわり
の者たちが、一斉に頭をさげる……。

 ドラマ「水戸黄門」の中のよく知られた一シーンだが、日本人にはたまらないほど、痛快なシ
ーンでもある。今でもあのテレビ番組の視聴率が、二〇~二五%もあるというから、驚きであ
る。が、それはさておき、オーストラリア人には、それが理解できない。ある日一人の友人が私
にこう聞いた。「ヒロシ、水戸黄門が悪いことをしたら、日本人はどうするのか」と。そこで私が、
「いいや、水戸黄門は悪いことはしないよ」と言うと、彼は再度、「それでも悪いことをしたらどう
するのか」と聞いた。



●権威主義的な民族



 日本人ほど権威主義的な民族は、世界をさがしても、そうはいない。上下意識が強い。長く
続いた封建時代が、こういう民族を作った。たとえば男が上で女が下。夫が上で妻が下。先生
が上で生徒が下。そして親が上で子が下、と。たとえば日本には「先輩・後輩」という言葉があ
る。たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をする。そして後輩は先輩に対し
て、絶対的な服従を誓う。いや、今でこそ、この関係は弱くなったが、私が高校生のときはそう
だった。テニス部にしても、一年生は球集めだけ。二年生になってやっとラケットをもたせてもら
い、三年生になってはじめて試合に出られた。が、オーストラリアにはそれがなかった。なかっ
たというより、そういう意識そのものがなかった。私は日本の大学を卒業したあと、研究生とし
て、オーストラリアのメルボルン大学に学んだ。そこでのこと。教官と学生がファーストネームで
呼びあっているのを見て、私は心底驚いた。私が住んでいたカレッジには、世界中から皇族や
王族の子息たちが集まっていた。そのためもあって、毎週金曜日や土曜日には、オーストラリ
アでも著名な学者や政治家が毎週のようにやってきては夕食をともにしていった。しかしそうい
う人たちに対してでさえ、オーストラリアの学生たちはきわめて自然に、しかも気楽に話しかけ
ていた!



●そこで自己診断



 外の世界でならまだしも、この権威主義が家庭に入ると、親子関係そのものまで破壊する。
夫婦関係だってあぶない。権威主義を支えるのは、上下意識だが、その上下意識から上下関
係が生まれる。そしてこの上下関係は、保護と依存。命令と服従の関係で成り立っている。
「上」の立場にいる者にとっては、たいへん居心地のよい世界かもしれないが、「下」のものにと
ってはそうではない。その居心地の悪い世界で、いつしか下の者は、上の者の心から離れる。
ウソだと思うなら、あなたの周囲の家庭をいくつか観察してみるとよい。父親にせよ、母親にせ
よ、親が権威主義的な家庭ほど、親子関係はぎくしゃくしている。



 そこであなたはどうか? こう書くと、たいていの親は、「私はリベラルだ」と思ったりする。そ
こであなた自身を診断してみよう。この診断は、あなたの夫あるいは妻にしてもらうとよい。権
威主義的な人ほど、目上の人(身分や地位のある人)に対して、必要以上にペコペコし、目下
の人に対しては、尊大かつ横柄な態度で接する。そのことは電話での応対ぶりを観察してみる
とわかる。そこでテスト。



(1)あなたの夫(妻)は、相手にかかわらず、いつも電話の調子が一定しているか。もしそうな
ら、それでよし。しかし(2)目上の人に対する態度と、目下の人に対する態度が、まるで別人
のように違うというのであれば、あなたの夫(妻)は、かなり権威主義的な人だと思ってよい。心
の中に潜む上下意識が、無意識のうちにも、相手そのもののを差別し、そしてここでいうような
「違い」となって現われる。冒頭にあげた水戸黄門が大好きという人ほど、あぶない。一度静か
に自分自身を観察してみてほしい。



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E-マガ、「はやし浩司の世界」より「親が子育てで行きづまるとき」を、転載しておきます。



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親が子育てで行きづまるとき



●苦労のない子育てはない



 苦労のない子育てはないし、その苦労が親を育てる。親が子どもを育てるのではない。子ど
もが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がい
る。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てで苦労しな
がら、それこそ幾多の山や谷を越えて、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうな
しに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてきたような親は、確かに若くてきれ
いだ。しかしどこかツンツンとして、中身がない(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおば
さんにだと、あいさつもしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょ
うど稲穂の穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。



●子どもは下からみる



 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。しかしそうでない人は、それをなくし
てから気づく。健康しかり。生活しかり。そして子どものよさも、またしかり。



 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。特に二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海の真ん中で。しかもほとんど
人のいない海の真ん中で、一人魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水泳選
手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近く
の浅瀬で泳いでいるはずだった。が、三歳になったばかりの三男が「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、
何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟を出すため、懸命にい
かりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなかった。そのときだっ
た。ふと振り返ると、その元水泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。



 以後、二男については、問題が起きるたびに、私は「こいつは生きているだけでいい」と思い
なおすことで、乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したときも。受験勉
強を放棄して、作曲ばかりしていたときも。それぞれ、「生きているだけでいい」と思いなおすこ
とで乗り越えることができた。私の母はいつも、こう言っている。「上見てキリなし。下見てキリな
し」と。人というのは、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないと
いうことだが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から
見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思
議である。



●子育ては許して忘れる 



 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」と。英語では「Forgive &
 Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という言葉は、「与えるため」とも訳せる。同じように
「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」ということは、「子ど
もに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。そしてその深
さ、つまりどこまで子どもを許し、そして忘れるかで、親の愛の深さが決まる。許して忘れるとい
うことは、子どもに好き勝手なことをさせろという意味ではない。子どもを受け入れ、自分のこと
として、あるがままを認めるということ。それを繰り返しながら、親は真の親になっていく。



 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。そしてそれでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してほしい。
「許して忘れる」と。それだけであなたの心はずっと軽くなるはずである。





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以下前号

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子どもが非行に走るとき



●こぼれた水は戻らない

 子どもは、なだらかな坂をのぼるように成長するのではない。ちょうど階段をトントンとのぼる
ように成長する。子どもが悪くなるときも、そうだ。(悪くなる)→(何とかしようと親があせる)→
(さらに悪くなる)の悪循環の中で、子どもは、トントンと悪くなる。その一つが、非行。暴力、暴
行、窃盗、万引き、性行為、飲酒、喫煙、集団非行、夜遊び、外泊、家出など。最初は、遠慮
がちに、しかも隠れて悪いことしていた子どもでも、(叱られる)→(居直る)→(さらに叱られる)
の悪循環を繰り返すうちに、ますます非行に走るようになる。この段階で親がすべきことは、
「それ以上、症状を悪化させないこと」だが、親にはそれが理解できない「なおそう」とか、「元に
戻そう」とする。しかし一度、盆からこぼれた水は、簡単には戻らない。が、親は、無理に無理
を重ねる……。



●独特の症状

 子どもが非行に走るようになると、独特の症状を見せるようになる。脳の機能そのものが、変
調すると考えるとわかりやすい。「心の病気」ととらえる人もいる。実際アメリカでは、非行少年
に対して薬物療法をしているところもある。それはともかくも、その特徴としては、(1)拒否的態
度(「ジュースを飲むか?」と声をかけても、即座に、「ウッセー」と拒否する。意識的に拒否する
というよりは、条件反射的に拒否する)、(2)破滅的態度(ものの考え方が、投げやりになり、
他人に対するやさしさや思いやりが消える。無感動、無関心になる。他人への迷惑に無頓着
になる。バイクの騒音を注意しても、それが理解できない)、(3)自閉的態度(自分のカラに閉
じこもり、独自の価値観を先鋭化する。「死」「命」「悪霊」などという言葉に鋭い反応を示すよう
になる。「家族が迷惑すれば、結局はあなたも損なのだ」と話しても、このタイプの子どもには
それが理解できない。親のサイフからお金を抜き取って、それを使い込むなど)、(4)野獣的
態度(行動が動物的になり、動作も、目つきが鋭くなり、肩をいからせて歩くようになる。考え方
も、直感的、直情的になり、「文句のあるヤツは、ぶっ殺せ」式の、短絡したものの考え方をす
るようになる)などがある。



 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、親は家庭のあり方を猛省しなければ
ならない。しかしこれがむずかしい。このタイプの親に限って、その自覚がないばかりか、さら
に強制的に子どもをなおそうとする。はげしく叱ったり、暴力を加えたりする。これがますます子
どもの非行を悪化させる。こじらせる。



●最後の「糸」を切らない

 家族でも先生でも、誰かと一本の「糸」で結ばれている子どもは、非行に走る一歩手前で、自
分をコントロールすることができる。が、その糸が切れたとき、あるいは子どもが「切れた(捨て
られた)」と感じたとき、子どもの非行は一挙に加速する。だから子どもの心がゆがみ始めたら
(そう感じたら)、なおさら、その糸を大切にする。「どんなことがあっても、私はあなたを愛して
いますからね」という姿勢を、徹底的に貫く。子どもというのは、自分を信じてくれる人の前で
は、自分のよい面を見せようとする。そういう性質をうまく使って、子どもを非行から立ちなおら
せる。そのためにも最後の「糸」は切ってはいけない。切れば切ったで、ちょうど糸の切れた凧
ように、子どもは行き場をなくしてしまう。そしてここが重要だが、このタイプの子どもは、「なお
そう」とは思わないこと。現在の症状を今より悪化させないことだけを考えて、時間をかけて様
子をみる。一般に、この非行も含めて、「心の問題」は、一年単位(一年でも短いほうだが…
…)で、その推移を見守る。こじらせればこじらせるほど、その分、子どもの立ちなおりは遅れ
る。



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高校の同窓会の案内をもらいました。しかし私はそれを見て、ハタと考え込んでしまいました。

皆さんは、ご自身の高校時代をどのように思い出されますか? 私にとっては、高校時代は

まさに「悪夢」。本当に不幸な高校時代でした。そんな思いを、書いてみました。















件名:子育て情報(はやし浩司)11-10



彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡

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    子育て最前線の育児論

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01-11-10号(14)

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 by はやし浩司(ひろし)

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/



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ウィルス「NIMDA」対策について。

私のホームページ(サイト)は、……

(1)MS社よりSP2の提供を受け、ウィリスの侵入を無効にしてあります。

(2)「SYMANTEC」社の「NORTON、アンチウィルス」のソフトを使って、

随時、検疫しています。最新情報は、そのつど、UPDATEしています。

(3)HP更新用のパソコンは、ほかのパソコンとは独立させ、別のパソコンを

使っています。

従って、どうか安心して、小生のサイトをお楽しみください。

詳しくは、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

の「トップページ」より、「ウィルス対策」をご覧ください。

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サイトのほうでは、実用的な記事をふやしました!



今回は「スキンシップ」」「親子の関係がぎくしゃくするとき」ほかについて考えてみます。



すでにこの「学習机」についてのオリジナルの原稿は、一五年以上も前に、「マザーリング」とい
う雑誌に発表しました。以後、何度も反芻(はんすう)し、こうして改めて皆さんにお伝えできるこ
とを喜んでいます。お子さんの学習環境を考える上で、参考にしていただければ、うれしく思い
ます。



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来春、R社から新しい本を出します。よろしくお願いします。

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あなたは、目上の人でも、目下の人でも、同じような電話をかけていますか?

権威主義的なものの考え方をする人、つまり無意識のうちにも、人間の上下関係を

つくる人は、目上の人に対する態度と、目下の人に対する態度が、まるで違います。

そんなことを書いたのが、「親子の関係がぎくしゃくするとき」です。どうか

お読みください。



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スキンシップは魔法の力(ぐずったら、抱いてみる)(心を開く魔法の力)※



 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう二〇年ほ
ど前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。アメリカのある自閉症児専門施設の先生の
講演だが、そのときその講師の先生は、こう言っていた。「うちの施設では、とにかく『抱く』とい
う方法で、すばらしい治療成績をあげています」と。その施設の名前も先生の名前も忘れた。
が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」と思ったことが、たびたびある。言い換える
と、スキンシップを受けつけない子どもは、どこかに何か「心の問題」があるとみてよい。たとえ
ば緘黙児や自閉症児など、情緒障害児と呼ばれる子どもは、相手に心を許さない。許さない
分だけ、抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら丸太を抱
いているような気分なる。これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっくりと身を寄せ
る。さらに肉体が融和してくると、呼吸のリズムまで同じになる。で、この話をある席で話した
ら、そのあと一人の男性がこう言った。「子どもも女房も同じですな」と。つまり心が通いあって
いるときは、女房も抱きごこちがよいが、そうでないときは悪い、と。不謹慎な話だが、しかし妙
に言い当てている。



 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、
濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。「自
然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えることがで
きる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染
み込んでいくのがわかる。これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような
子ども(施設児)や、育児拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さ
ない。許さない分だけ、人に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が
悲しんでいたり、苦しんでいるのを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの
考え方が、全体にひねくれる。私「これはよい本だね」、子「値段が高い」、私「読んでみたら」、
子「表紙がダサイ」と。このタイプの子どもは、「信じられるのは自分だけ」というような考え方を
する。だれかに親切にされても、それを受け入れる前に、それをはねのけてしまう。「あの人が
私に親切なのは、私がもっている本がほしいからよ」と。自分からその人から遠ざかってしまう
こともある。こういうのを防衛機制という。その人に裏切られて自分の心がキズつくことを恐れ
るあまり、先手を打って遠ざかり、自分の心を防衛しようとする。そのためどうしても自分のカラ
にこもりやすい。異常な自尊心や嫉妬心、虚栄心をもちやすいのはそのため。あるいは何らか
のきっかけで、ふつうでないケチになることもある。こだわりが強くなり、お金や物に執着したり
する。完ぺき主義から、拒食症になった女の子(中三)もいた。もしあなたの子どもが、あなたと
いう親に甘えることを知らないなら、あなたの子育てのし方のどこかに、大きな問題があるとみ
てよい。今は目立たないかもしれないが、やがて深刻な問題になる。その危険性が高い。



 ……と、皆さんを不安にさせるようなことを書いてしまったが、子どもの心の問題で、何か行
きづまりを覚えたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなと
きである。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたら、やさしく抱いてみる。しばらく
は抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も安
定する。



(参考)

こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。「全国各地の保育士などが預かった〇歳児を
抱っこする際、以前はほとんど感じなかった「拒否、抵抗する」などの違和感のある赤ちゃん
が、四分の一に及ぶことが、「臨床育児・保育研究会」(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判
明」と。「……その結果、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さな
い」が三三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二
割戦後見られ、調査した六項目の平均で二五%に達した。また保育士らの実感で、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も平均で二〇%の赤ちゃんから報告された。さらに
こうした傾向の強い赤ちゃんの母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放されたい」
「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかった。またこの数年、
流行している「抱っこバンド」を使っている母親が、東京都内では特に目立った。



 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、二~三割はいると実感し
てきたが、『新生児のスキンシップ不足や、首もすわらない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに
原因があるのでは』と話す」とも。



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ぬいぐるみで育つ母性



(ぬいぐるみの不思議な力)(虐待ママにしないために)



 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。
しかもそれが、三~五歳のときにわかる。父性や母性が育っている子どもは、ぬいぐるみを見
せると、うれしそうな顔をする。さもいとおしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。抱き方もうま
い。そうでない子どもは、無関心、無感動。抱き方もぎこちない。中にはぬいぐるみを見せたと
たん、足でキックしてくる子どももいる。ちなみに小三児の約八〇%の子どもが、ぬいぐるみを
持っている。そのうち約半数が「大好き」と答えている。



 オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリ
アに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。つまり子どものときか
ら、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通して、心のやりとりを学
ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、父性や母性を学ぶ。そん
なわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬やネコが代表
的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。やわら
かい素材でできた、ぬくもりのあるものがよい。日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばない
もの」と考えている人が多い。しかしこれは偏見。こと幼児についていうなら、男女の差別はな
い。あってはならない。つまり男の子がぬいぐるみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思
うほうが、おかしい。男児も幼児のときから、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよ
い。ただしここでいう人形というのは、その目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダ
ムとかいうのは、ここでいう人形ではない。



 また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも
偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。そのあらわれが、五月人形。弓矢を
もった武士が、力強い男の象徴になっている。三〇〇年後の子どもたちが、銃をもった軍人や
兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日
本人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家事」という、あの日本
独特の男女差別思想も、この出世主義から生まれた。



 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ち着きがある。おだやかで、ものの
考え方が常識的。どこかほっとするようなぬくもりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみれ
ばわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スー
ッと頬を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言い
換えると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。



 ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじ
めて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思
っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親
になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。



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本を好きにさせるために(レベルをさげる)(方向性は図書館で)※実用



 子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。数時間、図書館の中で自由に遊
ばせてみればよい。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察する。サッカーが
好きな子どもは、サッカーの本を見る。動物が好きな子どもは、動物の本を見る。そのときそ
の子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。その方向性に、すなおに従えば、子
どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理をすれば子どもの伸びる「芽」その
ものをつぶすこともある。ここでいくつかのコツがある。



 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一~二年、レベルをさげる。親というのは、どうし
ても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七歳の子ども
には、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもを本嫌いにする。「うちの子ども
はどうも本が嫌いなようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。そして本の選択は、子ども
自身に任す。こういう親がいた。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買ってあげる」と言っておき
ながら、子どもが何か本をもってくると、「こんな本はダメ。もっといい本にしなさい」と。こういう
身勝手さが、子どもから本から遠ざける。



 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの
前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子どもに何かものを
与えるときは、それなりのお膳立てをする。少しだけでもひざに抱いて、読んであげるとか。こ
れを動機づけという。この動機づけがうまくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなけれ
ばそうでない。この動機づけのよしあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違う。ま
ずいのは、買ってきた本を、袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。無理や強制が
よくないことは、言うまでもない。



 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力が
あるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。
親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」、子「……わかんない」、親「うさぎさんは誰に会ったの
かな?」、子「……わかんない」と。もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごと、質
問してみるとよい。「うさぎさんは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。
あるいは本を読み終えたら、その内容について絵をかかせるとよい(※)。読解力のある子ど
もは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。そうでない子どもは、ある部
分だけにこだわった絵をかく。なお読解力のある子どもは、一ページを読むごとに深く考える様
子をみせたり、そのつど挿し絵を見ながら読む。本の読み方としては、そのほうが好ましいこと
は言うまでもない。



 最後に、作分を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤
字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字
好きにする。が、日本人はどうしても「形」にこだわる傾向が強い。こだわり過ぎる。書き順もそ
うだが、文法もそうだ。接続詞という言葉こそ使わないが、小学二年生から、その接続詞の使
い方を学ぶ。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の
高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、五人
に三人はいる。



(参考)

※……この考えに対して、「子どもに本を読んであげるときには、途中で、あれこれ質問しては
いけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流れや、文のリズムを味わうものだ」と
いう意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読み聞かせをしている人からのものだっ
た。



 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多
い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。
たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひと
りの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。この中だけ
でも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」「釣り糸」「ま
どろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決してその本の「よ
さ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から受けるストレス
は相当なものだ。パソコンを相手にしていると、そういう場面によく出あう。「TIFFファイル(イン
ターネットファックスファイル)を、EASYFAXPRO2001EXのファックスビューワーに関連付け
ますか」などという表示が突然出てきたりすると、パソコン歴三〇年以上の私ですら、いまだに
ドキッとする。あくまでも子どもの立場で考えたらよい。



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幼児期に決まる国語力



●幼児期に、どう指導したらいいの?



 以前……と言っても、もう二〇年以上も前のことだが、私は国語力が基本的に劣っている子
どもたちに集まってもらった。そしてその子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどうちがうか
を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。



(1)使う言葉がだらしない。ある男の子(小学二年)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」と
いうような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま戦国自衛隊
という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言
った。「先生、スゴイ、スゴイ。バババ……戦車……バンバン。ヘリコプタ-、バリバリ」と。何度
か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったく伝わってこなかった。



(2)使う言葉の数が少ない。ある女の子(小学生)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウフン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。



(3)正しい言葉で話せない。そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの子
も外国語を話すように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のようでもあっ
た。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上にイ~、白い……へ
へへへ」と。



 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ……」と。



 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子!ハンカチ!ハンカチ!バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうばあいは、たとえめんどうで
も、「帽子をかぶりましたか。ハンカチをもっていますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあげ
ねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を
読んであげているから」と。



 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、ペラペラと本を読む子どもが現れる。しかしたいてい、文字を音にかえているだけ
で、内容はまったく理解していない。なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できな
い。一度文字を音にかえ、その音を自分の耳で聞いて、その文を理解する。黙読は文字を
「形」として認識するため、一度右脳を経由する。一方音読は左脳がつかさどる。黙読と音読と
では、脳の中でも使う部分が違う。そんなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読
の練習をするとよい。具体的には「口を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませると
よい。



 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人も多い。しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本は、幼児期に決まる。それ
を私は言いたかった。





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学習机と勉強部屋を考える



●机は休むためにある



 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくする
と疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで
きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、
なかなかもとに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の
上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もし
その食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分
の好きなことを、何でも自分の机にもっていってするようであれば、相性が合っているということ
になる。相性の悪い机を使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。



●机は棚のない平机



 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい
ると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前のことだが、小学一年生について調査してみた。
結果、棚式の机の場合、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわかっ
た。最近の机にはいろいろな機能がついている。が、子どもがそれにあきたとき、机はそのま
ま物置台になる。机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あるいは低学年児の場合、机
はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期
は勉強をあまり意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを大切にする。親子のふれあ
いを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」ではなく、「一緒にやろうね」と言うなど。



●学習机を置くポイント



 そこで調べてみると、いくつかのポイントがあるのがわかる。



(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 

(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。

(3)座った位置からドアが見えるようにする。(4)光は左側からくるようにする(右利き児の場
合)。

(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。

(6)窓の位置が重要なポイント。窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしが
よすぎると、気が散って勉強できないということもある。



 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。ドアが背中側にあると、心理的に落ち着か
ない。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひじかけがあると、作業が
格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、どうしても体が前かがみ
になり、姿勢が悪くなる。またイス全体が前にかがむようになっているイスがある。確かにその
ときは能率があがるかもしれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 また学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのように体を休め
るかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。たいて
いは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もし「うちの子は勉強しない」というのであれば、
思い切って、そういうところを勉強場所にしてみるとよい。子どもは進んで勉強するようになる
……かもしれない。



●相性を見極める



 ものごとには相性というものがある。子どもの学習をみるときは、その相性を大切にする。相
性があえば、子どもは進んで学習する。相性が合わなければ、子どもは何かにつけ、逃げ腰
になる。子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこともある。子どもの学習を家庭で指導す
るときは、この相性を見極めながらする。



(勉強部屋診断)(図は、省略)詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

(子どもを伸ばす)→(学習環境)をご覧になってください。



◎棚が背側にあり、机の右前に窓があるという点で、配置としては問題ない。イスに座った位
置からは、窓の外がよく見え、勉強で疲れたときなど、そのまま気を休めることができる。ドア
が背側にあるので、やや不安は残るが、ほぼ理想的な勉強部屋といえる。この部屋の中学生
(中一男児)は、「マンガを読むときも、イスに座って読む」と話してくれた。



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日本の教育レベル(一六五カ国中、一五〇位?)



 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、一〇〇〇近い
分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。あるいは
こんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語検定試験)
で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績が悪い国
は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(「週刊新潮」)だそうだ。オーストラリアあ
たりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどし
かいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、二五〇人もの受
賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日本の教育は世界最高水準にある」と思うの
は勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は
当たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業というこ
とでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。



 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。
いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」と。



 さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう一五年以上も前のこと。今では
分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、
正解率は五九%」(※)(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。日本では大
学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼく
たちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だ
かんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験制度
が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の学生は
猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向
かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。
むべなるかな、である。



 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、二〇年先、三〇年先を見越して、「形」を作らね
ばならない。が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、す
でに一〇年以上も前から、小学三年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にあ
る、ほとんどのグラマースクールでは、中学一年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシ
ア語、日本語の中から、一科目選択できるようになっている。(メルボルン市にあるウェズリー・
グラマースクールに問い合わせたところ、中学一年で、中国語、インドネシア語、フランス語、
日本語、ドイツ語の中から一科目選択できるとのこと。もちろん数学、英語、科学、地理、歴史
などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータなど。芸術は、ドラマ、音楽、写
真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。もう一つ「キャンプ」という科目が
あったので、電話で聞くと、それも必須科目の一つだとのこと。)



 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界なので
ある。もっとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。だいたいにおい
て、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。日本では明治以
来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさに世界の非常
識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!



 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ
れからはそういう時代ではない。日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められ
るためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもし
れない。よい例が、日本の総理大臣だ。



 G8だか何だか知らないが、日本の総理は、出られたことだけを喜んで、はしゃいでいる(二
〇〇〇年春)。本当はそうではないのかもしれないが、私にはそう見える。総理なのだから、通
訳なしに、日本のあるべき姿、世界のあるべき姿を、もっと堂々と主張すべきではないのか。
が、そういう迫力はどこにもない。列国の元首の中に埋もれて、ヘラヘラしているだけ。そういう
総理しか生み出せない国民的体質、つまりその土壌となっているのが、ほかならぬ、日本の教
育なのである。言いかえると、日本の教育の実力は、世界でも一五〇位レベル? 政治も一
五〇位レベル? どうして北朝鮮の、あの悪政を、笑うことができるだろうか。



(付記)

※……京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであっ
たという。



調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平
均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年
生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。

さらに西村教授は四則演算だけを使う小学生レベルの問題でも調査したが、正解率は約五
九%と、東京の私立短大生なみでしかなかったという。わかりやすくいえば、経済学を研究す
る大学院生も、東京の私立短大の学生も、小学校でするような(足し算、引き算、かけ算、わり
算の)計算問題で、一〇〇点満点中、六〇点も取れなかったということだ。



(付記)

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学
生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第五位。以下、オ
ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次
いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。



 ここで注意しなければならないのは、日本では、数学や理科にあてる時間数そのものが多い
ということ。たとえば中学校では週四~五時間を数学の時間をあてている。アメリカのばあい、
単位制を導入しているので、日本と単純には比較できないが、週三~四時間。さらにアメリカ
でもオーストラリアでも、小学一、二年の間は、テキストすら使っていない学校が多い。



また偏差値(日本……世界の平均点を五〇〇点としたとき、数学五七九点、理科五五〇点)
だけをみて、学力を判断することはできない。この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学
校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持し
ていると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、
「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対
照的である。ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(四八%)。「理科
が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外
で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビ
やビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。



 日本の中学生は、ますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっている。

 



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親子の間がぎくしゃくするとき



●権威主義の象徴、「水戸黄門」



 「控えおろう!」と一喝して、三つ葉葵の紋章の入った印籠(いんろう)を見せる。するとまわり
の者たちが、一斉に頭をさげる……。

 ドラマ「水戸黄門」の中のよく知られた一シーンだが、日本人にはたまらないほど、痛快なシ
ーンでもある。今でもあのテレビ番組の視聴率が、二〇~二五%もあるというから、驚きであ
る。が、それはさておき、オーストラリア人には、それが理解できない。ある日一人の友人が私
にこう聞いた。「ヒロシ、水戸黄門が悪いことをしたら、日本人はどうするのか」と。そこで私が、
「いいや、水戸黄門は悪いことはしないよ」と言うと、彼は再度、「それでも悪いことをしたらどう
するのか」と聞いた。(欧米では、主従関係は契約で成り立っている。日本はこれに対して、忠
誠心=終身雇用関係で成り立っている。この違いはあるにはあるが……。)



●権威主義的な民族



 日本人ほど権威主義的な民族は、世界をさがしても、そうはいない。上下意識が強い。長く
続いた封建時代が、こういう民族を作った。たとえば男が上で女が下。夫が上で妻が下。先生
が上で生徒が下。そして親が上で子が下、と。たとえば日本には「先輩・後輩」という言葉があ
る。たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をする。そして後輩は先輩に対し
て、絶対的な服従を誓う。いや、今でこそ、この関係は弱くなったが、私が高校生のときはそう
だった。テニス部にしても、一年生は球集めだけ。二年生になってやっとラケットをもたせてもら
い、三年生になってはじめて試合に出られた。が、オーストラリアにはそれがなかった。なかっ
たというより、そういう意識そのものがなかった。私は日本の大学を卒業したあと、研究生とし
て、オーストラリアのメルボルン大学に学んだ。そこでのこと。教官と学生がファーストネームで
呼びあっているのを見て、私は心底驚いた。私が住んでいたカレッジには、世界中から皇族や
王族の子息たちが集まっていた。そのためもあって、毎週金曜日や土曜日には、オーストラリ
アでも著名な学者や政治家が毎週のようにやってきては夕食をともにしていった。しかしそうい
う人たちに対してでさえ、オーストラリアの学生たちはきわめて自然に、しかも気楽に話しかけ
ていた!



●そこで自己診断



 外の世界でならまだしも、この権威主義が家庭に入ると、親子関係そのものまで破壊する。
夫婦関係だってあぶない。権威主義を支えるのは、上下意識だが、その上下意識から上下関
係が生まれる。そしてこの上下関係は、保護と依存。命令と服従の関係で成り立っている。
「上」の立場にいる者にとっては、たいへん居心地のよい世界かもしれないが、「下」のものにと
ってはそうではない。その居心地の悪い世界で、いつしか下の者は、上の者の心から離れる。
ウソだと思うなら、あなたの周囲の家庭をいくつか観察してみるとよい。父親にせよ、母親にせ
よ、親が権威主義的な家庭ほど、親子関係はぎくしゃくしている。



 そこであなたはどうか? こう書くと、たいていの親は、「私はリベラルだ」と思ったりする。そ
こであなた自身を診断してみよう。この診断は、あなたの夫あるいは妻にしてもらうとよい。権
威主義的な人ほど、目上の人(身分や地位のある人)に対して、必要以上にペコペコし、目下
の人に対しては、尊大かつ横柄な態度で接する。そのことは電話での応対ぶりを観察してみる
とわかる。そこでテスト。



(1)あなたの夫(妻)は、相手にかかわらず、いつも電話の調子が一定しているか。もしそうな
ら、それでよし。しかし(2)目上の人に対する態度と、目下の人に対する態度が、まるで別人
のように違うというのであれば、あなたの夫(妻)は、かなり権威主義的な人だと思ってよい。心
の中に潜む上下意識が、無意識のうちにも、相手そのもののを差別し、そしてここでいうような
「違い」となって現われる。冒頭にあげた水戸黄門が大好きという人ほど、あぶない。一度静か
に自分自身を観察してみてほしい。



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E-マガ、「はやし浩司の世界」より「親が子育てで行きづまるとき」を、転載しておきます。



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親が子育てで行きづまるとき



●苦労のない子育てはない



 苦労のない子育てはないし、その苦労が親を育てる。親が子どもを育てるのではない。子ど
もが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がい
る。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てで苦労しな
がら、それこそ幾多の山や谷を越えて、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうな
しに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてきたような親は、確かに若くてきれ
いだ。しかしどこかツンツンとして、中身がない(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおば
さんにだと、あいさつもしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょ
うど稲穂の穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。



●子どもは下からみる



 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。しかしそうでない人は、それをなくし
てから気づく。健康しかり。生活しかり。そして子どものよさも、またしかり。



 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。特に二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海の真ん中で。しかもほとんど
人のいない海の真ん中で、一人魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水泳選
手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近く
の浅瀬で泳いでいるはずだった。が、三歳になったばかりの三男が「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、
何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟を出すため、懸命にい
かりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなかった。そのときだっ
た。ふと振り返ると、その元水泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。



 以後、二男については、問題が起きるたびに、私は「こいつは生きているだけでいい」と思い
なおすことで、乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したときも。受験勉
強を放棄して、作曲ばかりしていたときも。それぞれ、「生きているだけでいい」と思いなおすこ
とで乗り越えることができた。私の母はいつも、こう言っている。「上見てキリなし。下見てキリな
し」と。人というのは、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないと
いうことだが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から
見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思
議である。



●子育ては許して忘れる 



 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」と。英語では「Forgive &
 Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という言葉は、「与えるため」とも訳せる。同じように
「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」ということは、「子ど
もに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。そしてその深
さ、つまりどこまで子どもを許し、そして忘れるかで、親の愛の深さが決まる。許して忘れるとい
うことは、子どもに好き勝手なことをさせろという意味ではない。子どもを受け入れ、自分のこと
として、あるがままを認めるということ。それを繰り返しながら、親は真の親になっていく。



 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。そしてそれでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してほしい。
「許して忘れる」と。それだけであなたの心はずっと軽くなるはずである。



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