Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, April 30, 2012

美濃町観光論

●5月xx日(不潔な日本の温泉?)

★年長5歳児(指導1か月目)



★小4(組み合わせと場合の数)



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 5月xx日に、オーストラリアの友人が来る。
その連絡が、今朝(5月1日)、届いた。
楽しみ。
北海道へ行ったついでに、浜松へ寄ってくれる、と。
詳しい日程は、まだわからない。

 ところで、こんな深刻な話。

 少し前、別の友人夫婦が、オーストラリアから来た。
日本の旅館へ連れていった。
やや古い、どこかかび臭い温泉だった。
(どこも温泉というのは、かび臭いものだが……。)

 そこでのこと。
オーストラリアの友人夫妻は、それが原因で、奥さんのほうは尿道炎になってしまった。
ダンナ(友人)のほうは、夜中にダニに刺されてしまった。
大きく、真っ赤に腫れた。

 私のワイフも、少し前、古い温泉に入り、水虫をもらってしまったことがある。
いろいろ思い起こしてみるが、風呂場の周囲の石が原因ではなかったかと思う。
軽石のようにざらざらしていた。
ワイフが言うには、ワイフは、その石の上で、足をこすってしまったという。

 オーストラリアの友人夫妻にしても、また私たち夫婦にしても、抵抗力が弱い。
温泉にしても、掛け流しを歌っているからといって、安心できない。
浴場を洗ったり、消毒をしているというところは、めったにない。
つまり雑菌だらけ。
しかも温泉ほど、あぶない!

 そのあとまたその夫婦は、日本へやってきた。
が、こう言った。

「温泉へは、二度と行きたくない(Never again)」と。
で、理由を聞いたら、先に書いたように教えてくれた。

 で、実は今度来るオーストラリアの友人も、同じようなことを言っている。
「日本の温泉は、不潔だから、入りたくない」と。
こうも言った。
「日本では、お尻を洗った湯で、顔を洗っている」と。
日本の温泉に入って、何かあったらしい。
今度会ったら、それを聞いてみる。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【日本の温泉業界のみなさんへ】

 「日本の温泉は不潔」という、風評(?)が、世界的にかなり広がっている。
実際、不潔。
日本人の私でさえ、そう思っている。
だから温泉では、湯につかるだけ。
けっしてその周辺では、体を洗わない。
洗っても、かならずシャワーで体を流してから出る。

 見た目には美しい。
(また美しく、清潔そうな写真を並べているが……。)
が、昔とちがい、今は、日本全体が清潔になった。
つまりその分だけ、日本人の抵抗力が落ちた。
だから不潔な温泉に入ると、いろいろな細菌性の病気をもらってしまう。

 かなり大規模な温泉になると、毎日1度は、清掃しているよう。
が、そうでないところは、そうでない。
不潔というか、不潔極まりない。
……ということを、みなが、薄々、気がつき始めている。

 厚労省の検査が入る前に、温泉業界は自主的に「清潔検査」なるものをしたらよい。
殺菌処理も必要。
外人観光客を呼び込むのは、そのあと。
あるいは日本の外で、どのような風評が広がっているか、一度、自分たちで調べてみたらよい。
それを知ったら、温泉業界の人たちも、かなりがっかりするはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の温泉 病原菌がいっぱい 不潔)


●郡上八幡町vs美濃市

 昨日、郡上八幡町に一泊し、浜松へ帰ってきた。
私は同窓会に出た。
その間、ワイフは美濃町(美濃市)の町中を散策した。
ともに、古い街並みを売り物にし、観光事業に力を入れている。

 以下、ワイフの評論。

(1)郡上八幡町には、活気があったが、美濃町にはなかった。
(2)郡上八幡町では、町の人たちが道路へ出て、仕事をしていた。
   美濃町では、みな、家の中に引っ込んでいた。
(3)郡上八幡町では、みな、やる気を出していた。
   美濃町では、店の中も、がらんとしていた。(売り子の姿さえ、見えなかった。)
(4)郡上八幡町では、若い人たちが楽しめるグッズを、あちこちで売っていた。
   美濃町では、客が入っているのは、うどん屋とか、食べ物屋だけだった。
(5)郡上八幡町では、古い家並みはほとんどそのまま。
   美濃町では、通りは、見た目にはきれいで、さっぱりしているが、どの店もドアが閉まっていて、入りにくかった。
(6)郡上八幡町には、博覧館のような展示館があったが、美濃町にはなかった。
(7)郡上八幡では目立たなかったが、美濃町ではシャッターをおろしている店が目立った。

 つまり郡上八幡町では、観光客がお金を落とす。
しかし美濃町では、落としにくい、と。
このちがいが、5年、10年と積み重なり、現在の「差」となった?
観光客が来ても、そのまま素通りしてしまう。

私「美濃町の人は、昔からプライドが高いからね。世間体ばかり、気にしている」
ワ「そんなところがあるわね」
私「通りに出て、観光客を呼び込むということができない」
ワ「客が入るのを待っているというわけ」
私「まあ、そんなところだね。が、それでは勝負にならない」と。

 町興(おこ)しで成功しているのは、滋賀県の長浜市。
美濃町の人たちも、一度は、長浜の町をのぞいてみたらよい。

【提案】

(1)もっと泥臭くなる。お金がほしかったら、「欲しい」と言って、表に出る。
(2)町中の人たちが、大正時代の服装をするのも一案。
(3)家だけではなく、籠(かご)や大八車を置いたりし、町全体を博物館化する。
つまり観光客を、もっと楽しませる。
そういう工夫が必要。
「どうだ、これが明治、大正の町だ」と威張っていてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 美濃町論 美濃市論 美濃市はどうあるべきか 美濃町の観光 美濃市の観光)2012/05/01


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●田丸謙二先生

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 5月 11日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【3月末・年中児・最後のレッスン】

●テーマは、漢字



●児童期から思春期へ、自我の同一性について




Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●子どもは人の父(完成原稿)
(日本自動車工業会・会報誌・特集(巻頭言)より)2012-3月

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 子どもは人の父 子供は人の父 原始反応 児童期 思春期 はやし浩司 幼児期前期 幼児期後期)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●小1児に、距離、時速、時間を教える。

小学1年生に、距離、時速、時間について教えました。別のもうひとつの1年生クラスでは、うまく教えられませんでしたので、このクラスでは、気合いを入れて教えてみました。(うち1人は、幼稚園を卒園したばかりの、Yさんです)。

が、今回は、うまく教えられました。Yさんが、最後の問題を解いたとき、「ヤッター!」という気分になりました。うれしかったです。2012年3月27日。




(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 BW幼児教室 BW子供クラブ BW子供クラブbyはやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【田丸謙二先生について】(日本のマスコミの大矛盾)

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http://ktamaru.ninja-web.net/

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●触媒工学

 触媒工学の分野では、日本は最先端を独走している。
「触媒」と聞いて、「?」と思う人も多いかと思う。
その理由は、もう少しあとに書くとして、今では触媒なしに、この社会は成り立たない。
電子工学、遺伝子工学、それにつづくのが、触媒工学である。

(1980年ごろ、東大の研究室で会うと、田丸謙二先生は、こう話してくれた。
「電子工学(コンピューター)については、基礎研究はすでに終わりました。
しかし遺伝子工学がこうまで進歩するとは、思ってもいませんでした」と。
まだ触媒工学なるものは、日本では、ほとんど知られていなかった時代である。)

 その触媒工学の分野で、これまた最先端のトップランナーが、田丸謙二先生である。
1970年当時、田丸謙二先生は、こんな話をしてくれた。

「水を、触媒で、酸素と水素に分解できれば、エネルギーの問題は、すべて解決します」と。

触媒工学というのは、それをいう。

 1年ほど前会ったとき、田丸謙二先生に、「いつ成果が出ますか?」と聞いたときのこと。
先生は、笑いながらこう話してくれた。

 「現在、理研(理化学研究所)で、チームを作り、懸命に研究していますから、近くその成果が出ますよ」と。
現在、東大だけでも、田丸謙二先生の弟子が、10人前後、教授をしている。
書き忘れたが、東大でも、当時、田丸謙二先生は、最年少で教授職に就いている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●田丸謙二先生

 その田丸謙二先生のホームページを読んでいたら、先生に、たまらなく会いたくなった。
で、昨夜(3月25日)遅く、メールを出すと、すぐ返事が来た。

『林様:メール有難うございました。ただ今私は「我が家」をレフォームしておりますので、その間、臨時の所(シニア・ホーム)に滞在しています。4月一杯多分滞在します。
今日は日本化学会の年会が日吉の慶応キャンパスであり、私が講演して来ました。自分ながらうまく行ってよい評判でした。くれぐれもお元気で。御急ぎの御用がありましたらどこかでお会いしましょうか。田丸謙二』と。

 折り返しメールを交換し、このx日に、鎌倉で会うことにした。
今日も、慶応キャンパスで、講演をしてきたとか。
1923年生まれということだから、今年、89歳になる。
若いときから、田丸謙二先生という先生は、そういう人である。
50歳を過ぎ、中国語を独学で学び、中国化学会の総会で、基調講演までこなしている(1982)。
しかも、中国語で!

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●ファーバー研究所創立100年祭(Fritz Haber Institut の創立百年祭)

 で、今朝、書きたいことは、このことではない。
田丸謙二先生は、先にも書いたように、世界の触媒工学の先鞭をつけた研究者である。
事実、ごく最近まで、日本は、この分野の研究では、世界の最先端を走っていた。

 その功績もあり、田丸謙二先生は、1984年(7月)~1988年(7月)まで、国際触媒学会の会長を務めている。
が、そのことを一般の人で、知っている人は、ほとんどいない。

 さらに5、6年ほど前、国際触媒学会の大会が、フランスのパリで催された。
世界中から、2000人近い学者が集まった。
(2000人だぞ!)
田丸謙二先生は、その学会でも、基調講演をしている。
が、そのことを知っている人も、ほとんどいない。
当時、田丸謙二先生は、こう話してくれた。

「中国人の学者がふえたのには、驚きました」と。

 ほかにも、いろいろある。
ごく最近では、昨年(2011)、ドイツで、ファーバー研究所創立100年祭があった。
私たちが今、ここでこうして生きているのは、ファーバー博士のおかげと言っても過言ではない。
ファーバーは、空気中の窒素固定を成し遂げた。
それにより、人類は、まさに「空気からパンを作る」ことができるようになった。

 そのファーバー研究所創立100年祭に、田丸謙二先生は、講師として呼ばれ、講演をしている(注※)。
田丸謙二先生の父親の田丸節郎は、ファーバーの第一弟子でもあった。
また現在の東工大、理研の産みの親でもある。
が、こういったことを、知っている人は、ほとんどいない。

 私は、それが、おかしい!、と言っている。

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(中央左が、田丸節郎、その右が、ファーバー博士)

●日本のマスコミの大矛盾

 なぜ、日本のマスコミは、こうした重大な事実を、日本で報道しないのか。
どこかつかみどころのないタレントが、どこか理解しがたい映画を製作し、何とかという賞を取ると、それこそ狂ったように大騒ぎする。
日本の一大事のように、大騒ぎする。

 が、日本人の科学者が、フランスのパリの国際学会で、基調講演をしても、一行(一秒)も報道しない。
その情報収集能力もなければ、価値を判断する能力すら、ない。
反対に、国内では、その人物を、肩書きや地位だけで判断する。
テレビへの露出度だけで判断する。

 一方、現地のフランス国営放送は、田丸謙二先生に、スタジオでさらに再講演してもらい、それを番組として、放送している。

 日本のマスコミの姿勢のおかしさ、矛盾は、すべてこの1点に凝縮される。
その結果というか、日本の文化レベルは、落ちるところまで、落ちた。
まるで日本総ギャグ化。
お笑いタレントが、どこかの県知事になっても、だれも疑問に思わない。
日本人は、「アカデミック」という言葉のもつ意味すら、知らないのでは?

 もっと言えば、この日本では、「文化人」なるものは、テレビへの露出度で決まる。
そうでなければそうでない。

 これを「大矛盾」と呼ばずして、何と言う?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……以下、田丸謙二先生のHP(日記)より)

『●Fritz Haber Institut の創立百年祭に招待されて

   1911年にKaiser Wilhelm Institut として Berlinに創立された研究所が途中で Fritz Haber Institut (FHI) と名前を変えて、10月26日~28日の三日間に創立百年のお祝いをした。

   4年前にノーベル化学賞をとった前所長の Ertl 教授の75 歳の誕生日のお祝いも兼ねて、世界中から一流の学者を招いての盛大な講演会でもあった。
参加した人たちは物理、化学は言うまでもなく化学史の専門家まで含み、千人ほどの集まりであった。
私は百年の歴史の中での「Haber と日本」と題して、原稿も見ずに、この百年の間での田丸家と Fritz Haber Institut との関連について講演をした。

  内容的には亡父が1908年2月に Karlsruhe の Haber 研究室に留学し、「死ぬほど働いて」アンモニア合成の成功に関与し、1911年Haber が新設されたBerlin の Kaiser Wilhelm Institut の所長になった折に直ちに亡父を所員に招き、第一次世界大戦が始まって日独が敵対関係になるまで合計6年間 Haber と共に研究をして来た。

今回においてその当時亡父が撮った百年前の写真を何枚も出して見せたのは現在見せられた聴衆にとっては大変に印象的であったようであったし、FHI としても非常に貴重なものであった。

   その後1918年に Haber は「空気からパンを作った」ということでノーベル化学賞を受け、1924年に星一さんの招待に応じて夫妻で来日をした。
在日中は各地で講演をし「国を発展させるには科学の振興が必要である]という、彼がドイツで英仏をしのいで国を振興させた実績に基づいた講演をし、亡父がそれを翻訳し、自分なりの科学振興の必要性も加えて、一冊の本として岩波から出版したのである。
(事実その頃の我が国から欧州への自然科学の留学の75%はドイツに行ったものである。)

   その影響もあってわが国では昭和一桁の非常な経済不況の中にありながら、Kaiser Wilhelm 協会をモデルにして日本学術振興会を作り、大学や研究所に研究費を増額分配し、学術論文数もほどなく倍増し、人材が育ち、アジアでも最も近代化した国になった。

ベルリン工科大学をモデル化して東京工大を新設もした。
(この両方の学術振興の実積は亡父の大変な尽力なしでは実現しなかったものである。)

   Haber がドイツの学術振興だけでなく結果的にはわが国でも科学振興の実績を積んだことは、科学を重視するドイツ人たちにとっても初耳であったし,大変に印象的でもあったらしい。
(わが国でもほとんど知られていない。)

   次世代として私が、世界で初めて触媒反応中に固体触媒表面の挙動を直接観察して、それまで反応機構は推論に基づいていただけだったのを飛躍的に発展させて、in situ characterization を開発し触媒科学が科学として生まれたことに触れてそれをErtl がそれを発展して例えば Photoemission electron microscope を用いて見事な発展をもたらしてノーベル賞に至ったことに触れ、さらに婿の大山茂生(現東京大学教授)がフンボルト賞を三年前にうけて Hajo Freund と共に、半年間FHI に滞在したことを告げて、結局田丸家は過去百年の間三代にわたり FHIと深い関係を持って来たことを紹介し、これまで一世紀の間世界をリードして来たFHI が更なる新しい世紀も世界をリードすることを願う、と言って話を閉じた。

  話の途中に亡父が残した百年前の写真の中にある亡父が着ていたモーニングがベルリン製であり、百年の間無事に保たれ、興味あることに私の娘の大山秀子にピッタリのサイズであることを言って、秀子がその服を着て現れた時は皆で拍手大喝采であったし、ハ―バー夫妻が鎌倉の我が家を訪問した折の写真の中に、私が母の腕の中にいた赤ん坊であって、ハーバーと直接会っている証拠でもあると言った時も拍手が湧いた。

  話が終わってからの皆の態度はそれまでとはガラリと変わり、何十人もの人が入れ替わりに、素晴らしい話だった、wonderful だけでも、十何人か、, beautiful, elegant, moving (感動的), gem (宝石)(招待に与った Friedrich さんの表現)、highlight (今回のCentenary の議長を務めた FTI のdirector のGerard Meijer 教授も使った表現), excellent (Ertl さんの表現)と各人なりの言葉を使って私に対してベタ褒めであった。

英語も解りやすく、素晴らしかったし、とにかく88歳の人があんな立派な presentation をするなんて考えられない、という大変な評判であった。

そうしてあの話はとても内容が素晴らしくて、話を聞いておくだけではもったいないし、是非その資料をドイツ化学会やFHIに永久に保存すべき話であるから、面倒でももう一度同じ話をして貰いたいということになり、今度は聴衆は十何人の幹部の前でもう一度 presentation をさせられた。

ビデオにまとまったら送ってくれるという。
とにかくこの上ない大変な好評であった。
ビジネスクラスの旅費まで出してくれてのご招待であったので、それに充分以上に報いることが出来て本当によかったと思った。
中には鎌倉まで人を派遣して FHIの古い資料を見せてくれないか、とまで言われた。
FHI の図書室に「田丸古文書」の枠を作ることも議論されているとのことであった。

  昔は従来英語で苦労をすることが全くなかったが、今回は耳が遠くなり、英語が聞き難く、秀子が大分助けてくれた。
老化現象も耳の遠くなる不便さはどうにかしなければ、もっと優れた補聴器にするか、というのが正直の感じであった。
幸い招待を受けた婿が全てを手配してくれたし済ますことが出来た。
ベルリンでは日本に比べて非常な寒さであって、往復途中もよく眠れず、時差もあって肉体的に大変な苦労であったし、風邪をこじらせながらようやく無事に帰国できた。(会議が終わってから秀子たちと Romance Road を回って来た)

  秀子が科学史の専門家に我が家には亡父が百年前に購入した Lavoisier ヤ Liebig などの手書きの手紙があると伝えたら大変に興味を示していたという。
亡父が購入したままに置いてあっただけに、多分世界で唯一の本物の手書きの手紙だけに、科学史の資料としても大変に貴重なものであるからである。

  世界の人口は前世紀中に4倍になった。遠からず世界の人口は二百億になるという。ハーバーのお蔭で1913年に窒素肥料のアンモニアが工業的に生産され始め、何十億もの人が飢餓から救われたのでる。

2011年12月28日』
(以上、「田丸謙二先生のHPより」)

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(アインシュタイン博士より、田丸謙二先生へ)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 田丸謙二 田丸謙二先生 田丸節郎 ファーバー はやし浩司 触媒工学)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●3月27日

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

朝早く、田丸謙二先生から、講演用
資料などが、送られてきた。

数日前、日吉の慶応キャンパスで行われた、
日本化学会の年総会の席で、田丸謙二先生は
基調講演を行った。
そのときの資料である。

この世界に住んでいる人も、また住んでいない人も、
超一級の講演がどういうものか、またそのレジュメが
どういうものか、これを見ればわかる。

今朝は、そのため、朝の運動は抜き。
起きるとすぐそのまま、書斎へ。
田丸謙二先生の資料を、ホームページに
UPLOADした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 田丸謙二 田丸謙二先生 講演 日本化学会 2012年 年会 講演)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●北朝鮮のミサイル問題

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 近く日本の野田首相は、北朝鮮のミサイルの迎撃、撃墜を命令するという(3月27日)。
が、私は、それに明確に反対する。
理由は、以下に述べる。

つまり今、ここで日本が、北朝鮮に対して攻撃的姿勢に出れば、即、北朝鮮に、日本攻撃の口実を、将来にわたって、提供することになる。

 次回から日本が衛星ロケットを打ち上げるたびに、日本は厳戒態勢をとらねばならなくなる。
日本の発射基地そのものが、攻撃対象になるかもしれない。

相手は、常識的な道理の通ずる国ではない。
通ずる国でないことは、今までの経緯を見ればわかるはず。
が、それだけではない。

 やがてこの先、南北朝鮮は、何らかの形で統一される。
オバマ大統領も、先の核サミット(ソウル)で、それを明言した。

が、それは同時に、日本のすぐそばに、巨大な反日国家が誕生することを意味する。
人口は、計6000~7000万人。
2050年には、日本の人口と拮抗(きっこう)する。
(日本の人口は、8000万人近くにまで減少すると言われている。)
そうなったとき、この日本は、その朝鮮と、どう対峙していくつもりなのか。

 今回のミサイル問題は、あくまでも、朝鮮半島の内部問題。
ミサイル自体は、アメリカと北朝鮮の2か国間問題。
つまりどこかで、この問題は、日本と切り離して考える必要がある。
深入りは、日本にとっては、たいへん危険。
今、日本は、南北朝鮮の統一後、もしくは30年後を見据えて行動する。

 仮に南北朝鮮が、平和的に統一されたとしても、(むしろそのほうが日本にとっては脅威なのだが)、つぎに彼らが「敵」とするのは、この日本である。
中には、表面的な友好関係だけを見て、「そんなことはない」と、思っている人もいるかもしれない。
しかし、それはどうか?

 たとえば今朝(3/27)の朝鮮日報は、こんな記事をトップに載せている。

『トヨタ、エアバッグで現代自を挑発』と。

 記事は、こうなっている。

『……新型カムリで失地回復を目指すトヨタ自動車が、韓国自動車最大手の現代自動車のエアバッグを「問題視」している。
最近韓国の新聞に掲載された新型カムリの広告は、「安価な第2世代のディパワード・エアバッグを採用することもできた。
大半の車はそうだから。
エアバッグは目に見えないものだから」とのフレーズとともに「カムリは同クラス最高の第4世代アドバンスト10エアバッグを搭載」とうたっている』と。

 トヨタは、何も現代自動車を挑発したわけではない。
「カムリは同クラス最高の第4世代アドバンスト10エアバッグを搭載」とうたっているだけなのである。
が、それが朝鮮日報では、「挑発」となる。
反日感情は、それほどまでに、根が深い。

 彼らのその思考回路を買えることは、容易なことではない。
というより、この40年間、何も変わっていない。
この先、40年についても、そうだろう。
だからこそ、日本は、(お人好し的外交政策)にブレーキをかけなければならない。

 いいか、迎撃ミサイル1発、1兆円だぞ!
政府は、ミサイル本体だけの価格を公示している。
が、機関銃に例えるなら、ミサイルというのは、「銃弾」。
銃弾だけの価格。
機関銃という銃、その他もろもろの装備の価格は、含まれていない。

 日本は、いったい、だれのために、北朝鮮のミサイルを、迎撃、撃墜しようとしているのか。
仮に日本のためであるとしても、あんな国、まともに相手にしてはいけない。
その価値もない。

 私だって子どものころ、よく戦争ごっこをした。
喧嘩もした。
しかしいつも、相手を選んで、それをした。
自分より幼い子どもや、女の子には、手を出さなかった。
もとから相手にしなかった。

 迎撃態勢を組み、相手を威嚇するのはよいとしても、構えだけ。
迎撃ミサイルを発射するのは、危険というより、無謀。
野田首相は、今回の核サミット(ソウル)では、「つまはじき」だったとか。
『民主党政権の外交無策により、日本は国際社会から「つまはじき」』(MSN)と。

 だったら、つまはじきでよい。
つまはじきのまま、あとは静観すればよい。
(あるいは「傍観」?)

 恐らくあの野田首相のことだから、日本の存在感をアピールしようと、過激な手段を選ぶかもしれない。
「撃墜命令」も、そのひとつ。
が、ここは冷静に。
何も日本が、火中の栗を、あえて拾うことはない。
アメリカや韓国に任せればよい。

 それがわからなければ、もう一度、頭の中で、こう考えてみたらよい。
「もし、南北朝鮮が統一したら、この日本はどうなるか?」と。
日本の横に、核兵器に加え、150万に兵力をもった、巨大軍事国家が誕生する。

 そういう未来を見据えながら、では、今、この日本はどうあるべきか、それを考えたらよい。
その結論が、冒頭に書いたこと。
「私は、ミサイル撃墜に、明確に反対する」である。

 勇ましい好戦論に、踊らされてはいけない。

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【美容整形という、背徳】(はやし浩司 2012-03-29夜記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

伊勢志摩→名古屋から帰ったのが、夕刻。
しばらくしてから夕食。
そのままコタツの中で、居眠り。
居眠りといっても、3時間。
寝過ぎた。

先ほどワイフは、先に床に入った。
現在時刻は午後11時。
「ぼくは、あとから寝るから……」と言い、そのまま書斎へ。
5月の講演のレジュメを、主催者の方から書き直すように言われている。
ついでに、中日ショッパー用の原稿も。
「専門的すぎてわかりにくい」とのこと。

書き直すのは、めんどうではない。
その気になれば、10分程度ですむ。
(ショッパーの記事の方は、全面的に書き改める。)
が、私のばあい、(その気)になるまでが、たいへん。
どうしても、後回しになってしまう。
若いころからの、私の悪いクセ。

「原稿は、いつも1回勝負!」と。
いつもそう決めている。
2回目を書くエネルギーがあったら、別のことを書きたい。
不完全でもよいではないか。
それがそのときの「私」なら、それも「私」。
私は「私」のままを書く。

消しゴムで消して直すなどという人生観は、私には、もとからない。
だから子どもたち(=生徒たち)にも、よくこう言う。
「まちがえたら、そのままにしておきなさい。
一本、線を引けばいい。
新しい答は、その下に書けばいい」と。

が、たまに、それまで書いた原稿を、何かの手違いで削除してしまうことがある。
コンピューターというのは、それがこわい。
一度、削除すると、跡形もなく、「虚」になってしまう。

そういうときは、つぎの2つの中から、1つを選ぶ。

(1)さらによい原稿を書く。
(2)あきらめて、別のことを書く。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●整形手術

 今日、こんなことがあった。
名古屋から、豊橋までは、名鉄。
豊橋から浜松までは、JRの在来線。
座席は通勤列車用に、両側、一列に並んでいる。
その電車の中でのこと。

 隣に、見た感じ、新婚旅行帰りの若い男女が座った。
おそろいの大きなバッグが、通路側に並べてあった。

 しばらくすると、私の左横にいた女性が、居眠りを始めた。
その向こうの男性は、そのときには、すでに熟睡モード。
左側の女性は、顔を男性のほうに傾けるようにして、眠り始めた。
私の位置からは、女性の顔を下から見あげたような状態になる。
が、その顔を見て、ドキッとした。

 ほんの3~4ミリだが、その女性は、目を開けたまま眠っていた。
そんなことができるのかと思い、数度、私は見直した。
最後は、まじまじと見た。

 見ると二重まぶたの溝が、先の方で一度途切れている。
かすかだが、端のところに手術痕も残っている。
その目の中で、眼球が、ゆっくりと左右に揺れていた。
私は、それを見て、ドキッとした。

 二重まぶたの手術で、目を大きくした。
それはわかる。
が、そのため眠ったとき、目が閉じなくなってしまった?
もしこんな状態が長くつづけば、角膜が乾燥し、角膜が傷つく。
そんなことは、素人の私でも、よくわかる。
だからふつう目は、常に涙を出し、角膜を潤す。
目がまばたくのも、そのため。
が、その目が、たとえ3~4ミリとはいえ、開いたまま……。
だいじょうぶなのだろうか。
私は右隣に座っているワイフに小声で、こう言った。

私「ぼくのねえ……隣の女性ね、目を開けたまま眠っているよ」
ワ「……みたいね……整形手術で、上まぶたを引き上げたせいじゃないかしら」
私「目にはよくないよ……」
ワ「でも今じゃ、みんなしてるわよ」と。

●二重まぶた

 ネットで、二重まぶた手術の後遺症について、調べてみた。

Seesaaの「広告BLOG」には、つぎのような後遺症が列挙してあった。

『(1) 術後のハレがひどかった。
 
(2) 目がチクチクして、違和感がする。
 
(3) すぐに二重が取れてしまった。
 
(4) 点止めなので、二重のラインの仕上がりが、カーテンのようにハシのほうが下がってしまった。

(5) 普段は気にならないが、まぶたをおさえると目がゴロゴる。

(6) 術後、目が少し引きつったままになってしまった。

(7) 二重のラインが不自然で、あまりきれいではない。

(8) 再手術をしても、またすぐに二重が取れてしまった。

(9) 目を閉じると、点状のくぼみが残っているので、手術を受けたのが他人にすぐわかる。

(10) 二重のラインが途中でとぎれている。

(11) 術後は、しばらくコンタクトレンズがはめられなかった。

(12) 術後、まぶたにシコリができてしまった。

(13) 手術後、気がかわってもとにもどそうとしたが、糸をそのままぬくことができず、もとにもどせなかった。

(14) 手術をする際、まぶたをひっくり返して麻酔の注射をされるので、とても痛く怖かった。

(15) 眼科で診察をうけると、まぶたの裏側に糸が見えているので、眼科の先生に二重まぶたの手術を受けたのが、バレてしまった』(以上、Seesaa Blogより)と。

 が、この中には、「目が閉じなくなってしまった」というのはない。

 そこでさらに検索を繰り返してみると、それはあった。

●目が閉じられない

 ある女性が、ある眼科医の相談コーナーのページに、それについて相談している。
それに対し、N医師(HPの管理者)は、つぎのように答えている。

『多分脂肪も取っているでしょうし、皮膚も余裕が無いということですと、修正は難しいでしょうし、元の一重に戻す事はさらに無理だと思います。
目を閉じれない位ですし、どうしてもということであれば植皮をして、皮膚を植え二重を狭くしていくしか方法は無いでしょう』と。

 失敗と断言してよいかどうかは、わからない。
しかし二重まぶたの手術をして、目が閉じられなくなってしまった女性(男性も?)、結構、多いようだ。

 が、私が書きたいのは、このことではない。

●内面世界の積み重ね

 ありのままをさらけ出して生きるのは、むずかしい。
ありのままをさらけ出して生きるためには、その前に「私」がなければならない。
「私」がないまま、さらけ出したら、それは裸で街を歩くようなもの。
「衣服で飾れ」ということではない。
ここでいう「私」というのは、内面世界の積み重ねをいう。
その積み重ねが、心の衣服となり、その人を美しくする。
その積み重ねが、むずかしい。

 たとえば女性の美しさ。

 以前、アメリカのある空港で、1人の若い女性を見かけた。
白人だった。
年齢は25歳前後だったと思う。
その女性は、大きなノートパソコンに向かい、一心不乱にキーボードを叩いていた。
直接顔を見たわけではない。
が、体全体が、知的な緊張感に包まれていた。
それがその女性を、美しく輝かせていた。

 が、この日本では、「女性の美」が、ますます軽薄になっていくように感ずる。
最近では、つけまつげが流行している(?)。
中には1センチほどもある、長いつけまつげをしている女性もいる。
私には、それが、お化けというより、タヌキのようにしか見えない。
いや、タヌキだって、あんなアホなことはしない。

 が、女性がそうした化粧をするのは、それを「かわいい」と思う男性がいるから。
つまりそういう女性が多いということは、男性もまた、それにふさわしい男性になりつつあることを示す。

 美容整形であろうが、プチ整形であろうが、それをするのは本人の自由。
(以下、「整形」とする。)
しかしその一方で、内面世界の積み重ねを忘れたら、それこそ顔は、絵を描くための、ただのキャンバスになってしまう。
が、私は、もう一歩踏み込んで、こんなことを考える。

 もしあなたの恋人なり、妻が、整形を繰り返していたとしたら……。
あなたは、それに耐えられるだろうか?
それでもあなたは、そういう相手を、自分の友人、もしくは妻として迎え入れることができるだろうか?

 顔だけではない。
胸も体も……。

 私の価値観を押しつけるつもりはない。
が、私だったら、とても耐えられない。

●ハイデッガー

 女性にかぎらず、その人の本当の美しさは、懸命に生きるその生き様の中から、生まれる。
見てくれの顔や姿ではない。
生き様。

 もっともそれを理解するためには、男性の側にも、それなりの内面世界の積み重ねがなければならない。
知性、理性、道徳、哲学……、何でもよい。
そういったものを、一方で、磨いていく。
昔から、こう言う。
そう言っているのはこの私だが、「賢い人からは、愚かな人がよくわかる。が、愚かな人からは、賢い人がわからない」と。
もう少しはっきり言えばこうだ。
「利口な人からは、バカな人がよくわかる。が、バカな人からは、利口な人がわからない」と。

 解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
つまり、整形だらけの女性を美しいと思う男性は、やはりそのレベルの男性ということ。

 さらに短絡的につぎのように言い切るのは、たいへん危険なことかもしれない。
しかしこういうことは言える。

 見てくれの顔や姿ばかりを気にし、内面世界の積み重ねを怠る人は、女性にかぎらず、男性も、その程度の人間、ということ。
ハイデッカーが説いた『ただの人(Das Mann)』というのは、そういう人間をさす。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 2010年に、『ただの人』について
書いた原稿が見つかった。
話が脱線するが、許してほしい。

 なお、結論的に、冒頭にあげた女性について、こんな事実を付記しておく。

 ……やがて電車は浜松駅についた。
2人の男女は、たがいに起しあいながら、席を立とうとした。
と、そのとき、若い女性のほうの目を見ると、明らかに病的にまで目が充血していた。
とくに目の下あたりが、真っ赤だった。
仮に30分でも、目を開けたままにしていれば、そうなる。
あるいは私が見たときのように、常に眼球を動かしていないと、角膜が傷つく。

 その女性は、目を大きくしたいがため、整形手術を受けた。
しかし整形手術には、それがどんなものであれ、何らかの危険を伴う。
後遺症を伴うこともある。
目を開いたまま眠るというのは、どう考えても、ふつうではない。
5年や10年は、それでよいとしても、20年後、30年後に、何か大きな病気につながるかもしれない。

 なお私が見た充血と、整形手術との因果関係についてはわからない。
が、もし関係があるとするなら、そういうことを医師はしっかりと説明をしてから、手術を施すべきではないのか。

 かなり強い疑問を覚えたので、ここに記録しておく。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●『ただの人』(ハイデッガー(2009年の終わりに書いた原稿)

++++++++++++++++++

つい先日、12月になったと思っていたら、
もう今月もおしまい。
つい先日、2009年になったと思っていたら、
もう今年もおしまい。
つい先日、21世紀(2001年)になったと思っていたら、
もう2010年。

こうして日々は、容赦なく過ぎていく・・・。
過去へ過去へと、失われていく・・・。
・・・と、だれしも考える。
・・・と、だれしも考えやすい。

が、そういう考え方は、あまりにも通俗的。
長い歴史の中で、人は、そのように考えるように、
なってしまった。
つまり「数字」と「人生」を重ね合わせるようになってしまった。
が、そう考えてはいけない。
つまり「過ぎていく」と考えてはいけない。
「失っていく」と考えてはいけない。
何も過ぎていかない。
何も失っていかない。

そこにあるのは、今という「現実」。
現実があるだけ。
数字に惑わされてはいけない。
2009年だろうが、2010年だろうが、
そんなことは、私たちには関係ない。
私たちは、今という「現実」を懸命に生きる。
それだけを考えて生きる。

つまりこういうばあい、「数字」というのは、あくまでも
便宜上のものでしかない。

それがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
人間以外に、年や年齢を気にして生きている鳥や動物が
いるだろうか。
年齢にしても、そうだ。
気にならないと言えば、ウソになる。
しかし年や年齢という「数字」など気にしてはいけない。
気にする必要もない。
私たちは、今の今も、そこにある「現実」に向かって、
まっしぐらに進んでいく。
その上で、こう考えればよい。

「ああ、もうすぐ2010年なのか」と。

(2009年12月28日記)

++++++++++++++++++++

●年齢

 一度できあがってしまった(常識)を打ち破るのは、容易なことではない。
その個人だけの問題ではない。
その地域全体の人が、同じように考えている。
そういうところでは、なおさら容易なことではない。

たとえばG県の田舎へ行くと、今でも年長風を吹かしている人は多い。
家父長風を吹かしている人も多い
たった数歳年上というだけで、威張っている。
それがおもしろいほど、極端な形で現れる。

 こうした意識の根底にあるのが、「数字」。
年齢という数字。
言うなれば、「金持ちほど偉い」という、金権教の信者と同じ。
本来意味のないものにしがみつきながら、意味があるものと思い込んでいる。
それが意味がないものと、気がつくこともない。
またそれを認めることは、自己否定につながる。
そういう生き方そのものが、その人の哲学になっている。
だからよけいに、しがみつく。

●年齢という数字

 何歳であっても、私は私。
あなたはあなた。
今年が何年であっても、今年は今年。
今は今。
大切なのは、今、何歳かということではなく、今まで生きてきた蓄積が、私やあなたの中に、どれだけあるかどうかということ。
それがあればよし。
が、それがないなら、あなたが何歳であっても、あなたは、「ただの人」(ハイデッガー)。
数字という年齢をとることだけなら、だれにだってできる。
つまり、繰り返しになるが、「数字」には、意味がない。
まったく意味がない。
まず、私たちは、それを知る。
しっかりと肝に刻み込む。

●幻想

 ・・・こう書くと、「老人の強がり」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分がこの年齢になってみて気がついたことがある。
老人ほど、人生の経験者」というのは、ウソ。
「人格者」というのは、さらにウソ。
まさに幻想。

地位や肩書きなどというのは、その人を飾るカラスの羽のようなもの。
イソップ物語に出てくる、あの話である。
一羽のカラスが、自分を美しく見せようと、自分の体を、いろいろな鳥の羽で飾ろうとする。
それと同じ。
自分では美しくなったつもりでいるかもしれないが、まわりの人たちは、それを見て、「バカ」と思う。
笑う。

 老人になればなるほど、愚劣になっていく人は、いくらでもいる。
またそういう人のほうが、多い。
だから私は、あえて言う。
「年齢」という「数字」には、意味はない、と。

●中身

 大切なのは、今という「現実」を、どう生きるているかということ。
今という「現実」の中で、自分がすべきことを、しっかりとしているかどうかということ。
そのために、今という「現実」を、しっかりと見据えているかどうかということ。
それには、若いも老いもない。
いくら若くても、死んだも同然。
そんな人は、いくらでもいる。
いくら年を取っていても、前向きに生きている人は、いくらでもいる。
大切なのは、中身。
中身で決まる。
その中身の追求こそが、「生きる」ということになる。

 ・・・とは言いつつ、「数字」はたしかに節目にはなる。
そのつど今の自分を、反省することはできる。
もし年数という「数字」、年齢という「数字」がなければ、生活に対する緊張感も半減する。
「数字」があるから、そこから緊張感が生まれてくる。
(もちろん何ら緊張感をもたないで生きている人も、多いが・・・。)
言うなれば、ウォーキング・マシンについているタイマーのようなもの。
タイマーがあるから、「がんばろう」という気持ちがわいてくる。
「2010年も、がんばるぞ!」と。

●今という「現実」

 ともあれ、節目としての2009年は、もうすぐ終わる。
で、振り返ってみれば、あっという間に終わった。
・・・というより、「数字」がどうであれ、私は今までどおり、前に向かって懸命に生きていく。
今という「現実」は、(今まで生きてきたこと)の結果であり、同時に、(これから生きる人生)の出発点でもある。

生物学的に言うなら、私たちは常に死に、常に生き返る。
だったら今そこにある「現実」に向かって、まっすぐに生きていく。
「過去」とか「未来」とかいう言葉に、惑わされてはいけない。
過去など、どこにも、ない。
未来など、さらにどこにも、ない。

 だから・・・。
今、できることは、今、する。
今、すべきことは、今、する。
懸命にする。

【補記】

 「数字」にこだわる人は多い。

先に書いたように、たった数歳年上というだけで、年長風を吹かしたりする。
このタイプの人は、当然のことながら、年号や年数にこだわる。
たとえばある宗教団体では、入信年月日によって、信者の上下関係が決まるという。
年齢ではない。
信仰していた年数で決まる。
だから、50歳、60歳の人が、30歳、40歳の人に、頭をさげたりする。
「信心歴が長ければ長いほど、その人は、上」というわけである。

 バカげた考え方だが、信仰の世界に入ってしまうと、それがわからない。
同じように、年長風を吹かす人もそうだ。
言うなれば、『年齢教』というカルトの信者。
「年上」というだけで、威張っている。
「年下」というだけで、「下」にみる。
偉そうに説教をしたりする。
それがおもしろいほど、極端なので、思わず笑ってしまう。
 
 このタイプの人は、当然のことながら、「長生きすればするほど、人生の勝利者」というふうに考える。
「数字」が、価値判断の基準となる。
だから幸福感も、「数字」による。
しかも相対的。
隣の人よりも、金持ちであれば、幸福。
隣の人よりも、貧乏であれば、不幸、と。
ふつうはケチで、小銭にうるさい。
そういう点では、一貫性(?)がある。

が、誤解してはいけない。 
長生きすることが無駄というのではない。
お金を稼ぐことが無駄というのではない。
しかしどちらであるにせよ、「数字」に毒されると、「人生」そのものを無駄にする。
それに気がつけば、まだよい。
ふつうはそれにすら気づかないまま、無駄にする。
そういう人は、どこまでもあわれで、かわいそうな人ということになる。
ハイデッガーの説いた、「ただの人」というのは、そういう人をいう。

+++++++++++++

「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎの原稿は2008年4月に
書いたもの。

+++++++++++++

【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a “man”, so-called “das Mann”. But nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do toward the of the lives. Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

 若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

 20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの人は退職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

 もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

 さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

 が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

 よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳をとれば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

 その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

 が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

 そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなったことすらわからない。

 先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったときのこと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

 このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

 この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

 老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

 この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつなぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

 つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

 統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

 程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の次元がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

 「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれば、みなに忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

 こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほど、感動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

 しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

 さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

 肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命をたどることになる。

 繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」と呼んだ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ハイデッガー はやし浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性 DAS MANN)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●カラス

 話を戻す。

 カラスはカラス。
カラスがいくらクジャクの羽をつけたところで、クジャクにはなれない。
だったら、カラスはカラスとして生きればよい。
カラスのもつ「黒」は、それ自体、美しい。
その美しさを否定し、クジャクの羽をつける。
それは即、自分の哲学の敗北を意味する。

 が、美しくなりたい(?)という若い女性を責めても、意味はない。
かわいそう。
酷!

 大切なことは、我々人生の経験組が、別の美的価値観を示してやること。
それもしないで、一方的に、若い人たちに向かって、「無駄なことをしている」と言ってはいけない。
それはたとえて言うなら、二階屋根に登った人から、ハシゴをはずすようなもの。

 が、その力は、あまりにも弱い。
たとえばテレビの影響。
連日連夜、そのタイプの女性や、それを取り巻く男性が、テレビに出てくる。
さらに今では、整形したことを隠すタレントは、まずいない。
堂々と、「こことここを整形しました」などと言ったりする。

 ものを考える力が乏しい、さらに若い人たちは、そういう人たちの影響をモロに受けてしまう。

 もちろん、みながみな、そうというわけではない。
同じ電車の中には、少数派だが、見るからに堅実そうな若い女性も、乗り合わせていた。
そういう女性を守るために、私たち老人組は、その(柱)にならなければならない。
ここに書いた原稿は、そのためのものと考えてほしい。

●終わりに……

 ただ誤解しないでほしい。
私は顔を整形することが、まちがっていると書いているのではない。
(「正しいこと」とは、絶対に思わないが……。)

しかし「整形」という行為の中に、その人の人生観が凝縮されているように思う。
見栄、体裁、メンツ、世間体を気にして生きる、そういう人生観である。
しかしこういう生き様ほど、見苦しいものは、ない。
へたをすれば、人生そのものを棒に振ることにもなりかねない。
その第一歩としての整形であるなら、これほど不幸な第一歩は、ない。

 私たちは、いつも、「私は私」と、生きる。
そういう生き様を貫く。
そこに生きる意味がある。
けっして、他人の目の中で生きてはいけない。

 ……今朝は、かなり過激な意見を書いてしまった。
このエッセーを読んで、不愉快に思う人も多いだろう。
が、それはそれとして、つまり美容整形のことは忘れ、では、人間の美しさとは何か。
この原稿をたたき台にして、それをもう一度、考えなおしてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 美容整形 プチ整形 はやし浩司 二重まぶた 目の閉じない女性 人間の美しさ ハイデガー ハイデッガー ただの人  das Mann Das Mann)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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Sunday, April 29, 2012

自動車技術誌(2012年5月号)

●『自動車技術 2012年05月号』

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨夕、郡上八幡+同窓会から帰ってきたら、
『自動車技術』(自動車技術界発行・定価2500円)
が届いていた。

全世界配布版である。

で、問題は、これをどうBLOGにUPLOADするかということ。
方法としては、(1)1度、スキャナーでパソコン本体に取り込み、
(2)たとえばFrickr」のようなストーレッジ・サービスに、
保存する。
(3)そこから埋め込みコードを引き出し、それをBLOGに貼り付ける。

従来はそういう方法を繰り返してきた。
が、今回の『自動車技術』誌は、A4サイズの大型雑誌。

スキャナー時の解像度を落とすと、文字が読めなくなる。
かといて、300dpiで収録すると、画像が大きくなり過ぎ、
通常のノートパソコン(12~13インチ)では、画面からはみ出してしまう。

・・・ということで、いろいろなサイズをここに収録してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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++++++++++++++++以上、300dpi版+++++++++++++++++++++++


一度BLOGに実験的に、UPLOADしてみたが、ほぼだいじょうぶかな(?)というところ。

みなさん、おはようございます。

はやし浩司 2012-04-30


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

郡上八幡 吉田屋に一泊 BY はやし浩司

【岐阜県・郡上八幡町へ】(はやし浩司 2012-04-28~29)



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今、電車の中で、一息ついた。
コーラを口にした。
真っ白な日差し。
まぶしい……、というよりパソコンの画面が光る。
ブラインドを、下までさげる。

これから岐阜県は、郡上八幡町へ。
八幡城下町プラザ横、吉田屋旅館に一泊。
以前から、一度は泊まってみたいと思っていた。
その旅館に一泊。

ワイフは、チューハイを飲んでいる。
「キッチンドリンカーになるなよ」と声をかける。
「休みのときだけよ」とワイフ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読売新聞

 昨夕、読売新聞社(東京)から電話があった。
電話取材。
何でも東京都で、41歳の母親が、2歳の幼児を殺してしまったという。
それについてのコメント。

 つい先ほど、記事の確認の電話があった。
あわてて通路まで走ったが、そこで切れる。
待つことしばし。
2度目の電話。
「記事は、メールで送りました」と。

 記事は今日(4月28日)の夕刊(全国版)に載るとか。
が、肝心の私は、岐阜県の山の中。
夕刊を見ることはないだろう。

(記者の人が、記事をあとで送ってくれると言った。)

●母親心理

 2歳児前後の母親の心理。
(1)一体性と、(2)完ぺき性。

 一体性というのは、母子間の間に、「壁」がないことをいう。
この時期の母親は、自分イコール、子ども、子どもイコールという考え方をする。
本能に根ざしているだけに、それを母親に気づかせることは、ほぼ不可能。
本能に操られながらも、それを「私」と思い込んでいる。
私の意思でそうしている、と。
またそれが親の深い愛情の証(あかし)、と。
(それがまちがっていると書いているのではない。誤解のないように!)

 つぎに完ぺき性。
完ぺき性というのは、この時期の母親は、子どもに完ぺきさを求めやすいということ。
弱点、欠点があってはいけない。
遅れも許さない。
「標準」「平均」という言葉に、鋭く反応する。
たとえば言葉の発達が少し遅れた程度のことでも、大騒ぎする。
絶望感をもつ母親さえいる。
それぞれの子どもには、それぞれの子ども特有の発達特性というものがある。
それが理解できない。

 運動面がすぐれていても、言葉の面で遅れるということは、珍しくない。
もう少し大きくなれば、音感面ですぐれていても、数値能力面で遅れるということも、珍しくない。
が、もちろんその反対のこともある。

 たとえば自閉症児(「自閉症スペクトラム」)の中には、特異な才能を示す子どもがいる。
超難解な計算を、瞬時にしてしまう、など。
100桁の数を、瞬時に暗記してしまうのも、それ。
車のほんの一部を見ただけで、メーカーから車種まで当ててしまう子ども(4歳児)もいた。

 親はそういった天才児と思い込む。
それはそれ。
しかしこうした(こだわり)は、「能力」ではない。
能力とは区別して考える。
つまり教育の世界では、能力と認めない。
「能力」と認めるためには、教育的な普遍性がなければならない。
教育的効果によって、どんな子どもでも、そういう能力が引き出せる。
その方法があるか、ないか。
つまり、その方法論を実践するのが、「教育」ということになる。
実践できなければ、「教育」の範囲には、入らない。

 それはともかくも、母親は、常に「万能」を求める。
それが子育てをギクシャクしたものにしやすい。

 子どもを伸ばすコツ。
『得意分野を、伸ばす。不得意分野は、目を閉じる』、である。

 ついでながら、欧米では、「子どもは神から授かった子」という考え方をする。
だからたとえ子どもに何らかの障害があっても、日本人とはちがった考え方をする。
一方、日本人は、「子どもを自分の所有物」と考える傾向が強い。
だから子どもに何らかの障害があったりすると、「自分の責任」と思い悩。
その傾向が、より強い。

●蒲郡(がまごおり)

 たった今、JR蒲郡を出たところ。
このあたりには、いくつかの温泉地がある。
この10年間で、ほとんどのホテルや旅館に泊まった。

 ワイフが「あそこが、~~ね」と、さかんに話しかけてくる。
うるさい!

 ……今日は土曜日ということもあり、電車の中では、子どもの声も聞こえる。
大型連休の初日。
天気はまさに行楽日和(びより)。
今日の朝刊によれば、あちこちの高速道路で渋滞が始まっている、とか。

●録音機

 郡上八幡町の思い出は多い。
子どものころから学生時代まで。
よく行った。
町内の旅行会といえば、そちらの方面が多かった。
その郡上八幡町と言えば、盆踊り。
「♪かわさき」。
「♪郡上のなア~、八幡~ン、出ていくときはワ~」という、あの歌。

 今回は、デジタルの録音機を用意した。
博覧館(祭り会館)というのがあって、そこでは常時、「♪かわさき(郡上踊り)」などの民謡を聞くことができる。
それを録音する。
郡上の町をデジタルカメラに撮り、その上に、民謡を重ねる。
よいビデオができそう。
楽しみ。

●「日本海」の呼称問題

 韓国人は、どうしてああまで「日本海」の呼称問題にこだわるのか。
慰安婦問題にしても、そうだ。
ふつうではない。
病的ですら、ある。
もともと「東海」であったものを、日本人が勝手に「日本海」にしたのなら、まだ話もわかる。
しかし「日本海」という名前は、国際的に自然発生したもの。
それを今になって、「東海が正しい」とは?

 自己中心性もここまでくると、理解できない。
もしこんな論法がまかり通るなら、「メキシコ湾」を、「フロリダ湾」にすればよい。
アメリカの南にあるから、「南湾」でもよい。

 韓国の人たちが日本海を、「東海」と呼んでいたのは、至極、自然なこと。
日本海は朝鮮半島の東にある。
「東海」というのは、方向を示す言葉。
固有名詞ではない。
どうしてその「日本海」を、あえて「東海」にしなければならないのか。

 ……現在、韓国は、日本海と東海の併記を主張している。
が、そのうち、今度は、なし崩し的に、東海と日本海の併記にしたあと、日本海を消すつもりでいる。
どうして自然の成り行きに任せないのか。

 わかりやすく言えば、『坊主憎ければ……』というのが、本音。
一言、付け加えると、あの福沢諭吉は、こう書き残している。
当時の韓国を訪問したあと、「あの国とは謝絶する」※と。
そのころを基準にして、日本海は日本海になった。
そのことは、以前、どこかに書いた。

 これに対して、韓国は、日本が提案した、「日本海の単独表記は否決された」(4月26日、IHO(国際水路機関))と喜んでいる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

注※(2007年11月の原稿より)

かつて福沢諭吉は、こう言った。

「我は心に於て、亜細亜東方の悪友と謝絶するものなり」(脱亜論)と。
亜細亜(アジア)東方の国というのは、現在の韓国と北朝鮮のことをさす。

福沢諭吉のようなリベラリストですら、そう結論づけている。
なぜか? 
当時の朝鮮半島は、国としての「体」をなしていなかった。
では、現在の韓国(&北朝鮮)の反日感情の底流にあるのは何か。
答は明白。
韓国人にしてみれば、日本ごときが、アジアでナンバー・ワンであることが、気に入らないのだ。

わかりやすく言えば、逆差別意識。
過激な民族主義(国粋主義)から生まれる、逆差別意識。
つまりそれがあるかぎり、日韓関係は、好転しない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●男の顔は履歴書

『男の顔は履歴書と言ったのは大宅壮一さんだが、(それを受けて吉行淳之介さんが「女の顔は請求書」と)、人間の顔くらいおもしろいものはない』と言ったとか。
MSNニュースの「小沢一郎の隠し子スクープ」という記事の中に、そんな一節があった。

 男の顔は履歴書というのは、わかる。
しかしどうして女の顔は請求書なのか?
ただつぎのようなことは、よく思う。

 「女性(妻)には、苦労させてはいけない」と。
とくに金銭的な苦労。
生活態度がガツガツし始めると、とたんに、生活臭が顔に出てくる。
それが10年、20年とつづくと、生活臭が、醜悪さに変わる。
見苦しくなる。
男の顔は、たしかに履歴書だが、女の顔は、生活を映すカガミ。

 ……と書くと、「じゃあ、はやし(=私)、お前はどうなんだ!」と言われそう。
が、その前に、大宅壮一はどうなんだ、ということになる。
大宅壮一は、実に大宅壮一らしい。
そういう人が、「男の顔は履歴書」というのは、わかる。
が、私では役者不足。
いかにも、貧相。
底の浅さが、そのまま顔に出ている。
何とか、深み、重みをつけたいと思っているが、それができない。 

 だからこの話は、ここまで。

●「ツボ」という村

 岐阜からは、郡上八幡行、高速バスに乗る。
高速道路を走るから、高速バス。
そのバスが、故郷の美濃市を通り過ぎた。
その直後、眼下に、どこか見慣れた景色が飛び込んできた。
私の祖父の生まれ故郷である。

 「ツボ」という名前の村だった。
祖父は、8歳のとき、美濃町(美濃市)にある加治屋へ、丁稚奉公(でっちぼうこう)に出された。

 何人かいる兄弟のうちの、末っ子だったと聞いている。
名前を「銀吾」と言った。

 祖父はその鍛冶屋で、16歳まで働き、つぎの2年間、「礼奉公」というのをしたあと、18歳で、独り立ちした。
当時は、そういう時代だった。
言うなれば、祖父は、実家から捨てられたようなもの。
が、それ以上に、実家は貧しかった。
やむをえなかった。

●祖父の実家

 その祖父の実家へ、私は小学6年か、中学1年のとき、自転車で行った。
祖父が連れていってくれた。
道端の、道路から少し入ったところにあった。
幅が、2間程度。
長さが、4間程度ではなかったか。
壁といっても、土壁を塗りたくっただけの、粗末な家だった。
だれも住んでいなかった。
荒れたままだった。
裏側から見た様子しか記憶に残っていないが、窓といっても、木枠などはなかった。

 そのあとしばらくして、今度は、独りで見に行った。
そのとき私は、中学生だった。
その家を見たとき、なぜ、祖父が8歳で丁稚奉公に出されたか。
その理由が、よくわかった。

●王子様、王女様

 が、祖父は、一度とて、自分の父親や母親を悪く言ったことはなかった。
聞いたこともなかった。
当時はそういう時代だったし、それがふつうの「親子関係」だった。
今のように、子どもが王子様、王女様になったのは、ここ30~40年のこと。
今では、親は腫れ物にでも触れるかのように、子どもを育てる。
またそれが常識になっている。
が、私の時代を振り返っただけでも、私は今の時代のほうが、おかしい。

 どうして子どもが、王子様なのか。
王女様なのか。
先日亡くなった、K氏(享年82歳・浜松市引佐町)は、いつもこう言っていた。

「山から薪(たきぎ)を拾ってくるのは、子どもの仕事だったよ。
学校から帰ってくると、みな、暗くなるまで、薪拾いをしたものだよ」と。

 私の時代でも、私自身、家族旅行など、小学6年生までに1度しかしていない。
あとは町内で行く、町内旅行だけ。
それがふつうだったし、だれも不平、不満を言わなかった。
が、今は、ちがう。
どうちがうかは、ここに書いたことと比較してみればわかる。

 が、昔がよいとか、悪いとか、そんなことを書いているのではない。
子どもへのサービスは、時代とともに、変わる。
基準そのものが変わる。
今の基準が、けっして、標準的なものではない。
今、子どもに薪拾いをさせたら、「虐待」と言われるかもしれない。

ただ私の印象としては、現在は、サービス過剰。
手のかけ過ぎ。
時間のかけ過ぎ。
お金のかけ過ぎ。

やらなくてもよいことまでやり、かえって子どもに嫌われる。
子どもをだめにする。
昔でいう「ドラ息子・ドラ娘」は、当たり前。
今では、そうでない子どもを探す方が、むずかしい。

●新緑

 バスの中で、私はワイフとそんな話をした。
「要するに子どもの機嫌を取り過ぎなんだよ」と私。
「そうね」とワイフ。
機嫌を取るから、依存性がついてしまう。
「子どもは、してもらうのが当たり前」と考える。

……バスは、やがてすぐ郡上八幡町に入った。
若いころは、眼下の旧道を走った。
そのこともあって、郷里の美濃市から遠い町のように感じた。
が、今は、30分もあれば、着いてしまう。

 新緑が美しかった。
深い山々を背景に、薄黄緑色の木々が、青い空の下で、美しく輝いていた。
ワイフは、ときどき、こうつぶやいた。
「今が、いちばんいい季節ね」と。

 そう、今がすばらしい。
いちばん、すばらしい。
新緑の季節。

●郡上八幡町

 着くとすぐ、カメラを首にかけ、市内を歩いた。
日差しが強かった。
ワイフは一度、吉田屋に戻った。
日傘を取ってきた。
私も一度、戻った。
カメラの三脚を取ってきた。

 私には、ひとつの目的があった。
吉田屋から歩いて数分のところにある、博覧館(祭り会館)へ行くこと。
そこで郡上踊りの民謡を、録音すること。
デジタル録音機も、持参した。

 ちょうど3時からの説明が始まるときだった。
ビデオを回してよいかと聞くと、1人の女性が、指で、OKサインを返してくれた。
私は郡上踊りの説明を受けた。
踊り方も習った。

 ……といっても、踊り方は、知っている。
体にしみついている。
子どものころから高校生になるまで、夏になると、毎晩、踊った。
その私が踊り方の説明を受ける。
おかしな気分だった。
自分であって、自分でないような……。
地元の人間であるはずなのに、身分はよそ者。
踊り方を知らないフリをしながら、指示に従って手を動かす。
みなといっしょに笑う。

 そのあとワイフと町中をぐるりと一周した。
途中「美濃」という喫茶店に入った。
私はメロン・ソーダ。
ワイフはアイスクリームを注文した。

●吉田屋旅館

 吉田屋旅館は、町の中心部にある。
ときどき何かのことで郡上八幡へ来るたびに、「一度は泊まってみたい」と思っていた。
その願いが、今日、かなった。

 もちろん星は、文句なしの5つ星。

(ただし部屋にトイレ、風呂はない。
新館のほうには、ユニットバスだが、風呂とトイレがついている。
旧館のほうは、……つまり今回私たちが泊まったほうは、昔の料亭風。
どちらにするかは、宿泊を申し込むとき、よく相談してみたらよい。)

昔風の、つまり大正時代風の、格式ある旅館。
電話番号も、0001になっていることからも、それがよくわかる。
部屋に入ると、あの独特の匂い。
湿った木々の、古い屋敷の匂い。
私の実家の匂い。
母の実家の匂い。

中庭には、小さいが、よく手入れされた植えこみがあった。
あちこちに大きな石が、配してあった。

お茶を飲んだとたん、自分の体がスーッと部屋の中に溶け込んでいくのがわかった。

●同窓会

 明日は、美濃市で、高校の同窓会がある。
こちらを11時少し前のバスに乗れば、ちょうど12時ごろ、美濃市に着くことができる。
私はそれに出席する。
ワイフは、その間、美濃市の観光をする。
小倉公園で、味噌田楽(でんがく)を食べたらどうかと、提案した。

 「終わるのは3時ごろと思う」と私。
「そうね、それくらいね」とワイフ。

 今回は、MR君の大賞祝いを兼ねた同窓会。
MY君から、そのような連絡が入った。
今では、毎年年賀状を交換しているのは、その2人だけ。
高校時代といっても、それくらい遠い昔。
本当にそんな時代が、私にもあったのかと思えるほど、遠い昔。
その分だけ、みなと疎遠になってしまった。

 ともあれ、こうして無事、出席できることを喜ぶ。
中には、すでに他界した人もいる。
病気と闘っている人もいるだろう。
出席できるだけでも、御の字。
田丸謙二先生は、いつもメールでこう書いてくる。

「感謝、感謝、感謝です」と。
私も、それをまねる。
感謝、感謝、感謝、と。

●食事

 食事は、大満足。
量はどうしても多くなってしまうが、それぞれに趣向をこらしてあった。
ひとつひとつ、ワイフとああでもない、こうでもないと言いあって食べた。
懐石料理は、それが楽しい。

 鰻の蒲焼も出た。
それだけでも一食分。
このあたりでは、取った鰻をそのまま焼く。
浜松市のほうでは、一度蒸したあと、そのあと焼く。
だからこちらの蒲焼は、食感としては、かたい。
が、その分だけ、肉がしまっていて、おいしい。

●ビデオ撮影

 こうした旅行に来ると、私はいつも食事中の様子をビデオカメラに収める。
不思議に思う人もいるかもしれない。
しかしそれには理由がある。

 ……私は子どものころ、いつもおなかをすかしていた。
そんな中、ときどき祖父に連れられ、時代劇を見に行った。
その時代劇。
当時はかならずといってよいほど、侍たちが宴会をするシーンがあった。
私はそれを見て、「ぼくも俳優になりたい」と思った。
本気で思った。
「俳優になれば、いつも、ごちそうを食べられる」と。

 そういう思いが、今でも、心のどこかに残っている。
それがこういう所で、顔を出す。
旅行先で何かのごちそうを食べるたびに、こう思う。
「これが、ごちそう」と。
だからビデオカメラに収める。

 最初は軽い気持ちからだったが、今は、ほとんど毎回収めるようになった。
それがそのまま、ビデオを撮るときの、習慣になってしまった。

 ……それに旅行先で、食事タイムほど、楽しいものはない。
だからビデオカメラに収める。
あとで再生したとき、その楽しさがよみがえってくる。

●午後9時半

 先ほど2度目の入浴をすました。
どうやら旧館のほうの泊り客は、私たち夫婦だけ。
昼中は、多くの観光客でにぎわっていた通りだったが、日没とともに、人影が消えた。
みな、車でやってきて、車で帰っていく。
日帰り客。

 この傾向は、どこの観光地も、同じ。
高速道路ができたおかげで、泊り客は、ぐんと減った。
温泉地でも、今では日帰り客のほうが多いと聞く。
たいていは昼食をはさみ、温泉につかって帰る。

 ワイフはすでに寝息をたてて熟睡状態。
私も眠いはず。
今日は昼寝をしなかった。
が、頭の中のモヤモヤは、まだ残っている。
書きたいことがそこにあるはずなのに、それが吐き出せない。
このもどかしさ。

 ……やはり、今夜は、このまま眠る。
明日の朝、このつづきを書く。

●午前4時

 午前4時に目が覚めた。
枕元の明かりをつけて寝たのが悪かった。
「もう朝か?」と思いながら、目を覚ましてしまった。
それに、のどがカラカラだった。

 しばらくそのままにしていたが、頭が冴えてしまった。
で、起床。
こういうとき手元にパソコンがあるのは、ありがたい。
退屈しない。

●部屋の様子

 こうした旅館では、間取りが迷路のように入り組んでいる。
それがまた楽しいわけだが、この部屋にしてもそうだ。
廊下をくねくねと曲がって、やっとたどり着く。

 部屋は、10畳プラス縁側付き。
正方形。
床の間に、ユリが5~6本、それにスズランが生(い)けてあった。
まさか……と思いながら指で触ってみると、本物だった。
そう言えば、着いたとき廊下で、お茶の葉の香りがした。
泊り客にしてみれば、こうした本気度がうれしい。

 料金は、1人1泊、16000円弱。
これに飛騨牛の焼き物がつくと、19000円弱。

●味噌

 ……かといって、今は、とくに書きたいことはない。
あえて言えば、味噌の話。

 今日、通りを歩いていて、味噌屋に入った。
いろいろな味噌が並べてあった。
「郡上味噌」というのもあった。
少し試食してみたが、舌が驚くほど、塩からかった。
このあたりでは、昔から塩が貴重品。
料理の味付けも、その分だけ、全体に塩からい。

 で、私たちは、岡崎で生まれたという、「八丁味噌」を、2パック買った。
濃い、丸味のある味噌で、具に何を入れてもおいしい。
簡単な食事のばあい、白いご飯とみそ汁だけという家庭も、少なくない。
そういうときは、味噌汁の中に入れる具を、多くする。

 郡上まで来て、岡崎の味噌を買う。
ハハハと笑いながら、岡崎の味噌を買う。

 ……やはり、もう一度、布団の中にもぐることにする。
今日は、同窓会もあり、途中で昼寝をする時間がない。

●チェックアウト

 今、部屋で最後のお茶を飲んでいる。
時刻は、9時を少し回ったところ。
バスは、11時27分に出発する。
それまで1時間ほど、時間がある。

 隣の城下町プラザでは、日曜日(今日)の朝は、朝市を開いているという。
ここを出たら、行ってみる。
また盆踊りの季節に、もう一度、来てみたい。
先ほど、女将に相談したら、旧館なら、まだ空いている、とのこと。

 「どうしようか?」と聞くと、「そうね……」と。

 が、8月には、大きな講演会が1本、入っている。
その日にちが、ここでは不明。
一度家に帰り、スケジュールを調整してみる。

 「これも冥土のみやげ」と私。
「そんな言い方はよくない」とワイフ。

●そうもん橋(惣門橋)

 町から岐阜バス営業所まで、歩いた。
30分ほど、歩いた。
一度、北へ歩き、トンネルをくぐり、その先へ。

 途中、脇道へそれたところで、「そうもん橋」を見つけた。
「♪かわさき」に出てくる、「そうもん橋」である。

 『♪心中なア~、したげなア~、そうもん橋でエ~』(歌詞)と。

 小さな橋だった。
幅は、車1台分。
長さは、5~6メートル。
こういう発見があるから、旅は楽しい。

 ワイフをその横に立たせ、記念撮影。

●岐阜バス営業所

 岐阜バス営業所へは、発車時刻より、1時間ほど前に着いた。
待合室に入り、飲料水を買った。

「なあ、同窓会、ドタキャンし、白鳥(しらとり)から大野(福井県)まで行かないか?」
「同窓会は?」
「ウ~ン、そうだな……」と。

 絶好の行楽日和。
ほどよく暑く、歩けばひんやりとした森の冷気。
先ほどから、ワイフは、つぎの旅行先を探している。

「日本平(だいら)へ行きたいわ」
「しかしね、車でないと、無理だよ」
「新東名を使えば、すぐよ」と。

 日本平には、昔、日本平ホテルというのがあった。
今でもあるらしい。
通訳をしていたころ、外国から賓客が来ると、いつもそこへ案内した。
その中の1人が、スウェーデンから来た、エリザベス・ベッテルグレン女史。
スウェーデン性教育協会の会長をしていた。
たしか娘を1人、連れてきた。
とくに印象に残ったのには、理由がある。
女史が、「Free Sex」を説いて回ったため。

 誤解がないように書いておくが、女史が説いたのは、行為としてのSexではなく、性差別からの解放。
「男だから……」「女だから……」という差別。
その性差別からの男女を解放という意味で、ベッテルグレン女史は、「Free Sex」という言葉を使った。
(現在は、「ジェンダー」という言葉を使う。)

 ……しかしFree Sexというよりは、性の荒廃がここまで進むと、行為としての実技指導も、そのうち必要になるかもしれない。
浜松市内でも、今では女子中学生の中絶手術など、珍しく何ともない。

 その日本平ホテルに泊まった夜のこと。
地元のテレビ局が、取材に来たのを覚えている。
ベッテルグレン女史、つまりエリザベス・ベッテルグレン女史というのは、そういう人だった。

●名鉄電車

 同窓会も無事終わった(?)。
予想以上に楽しい会だった。
今は、その帰りの電車の中。
みな、再来年の再開を約束し、別れた。
次回は、高山市にて。
T君が、その町で内科医をしている。
楽しみ!

 ……名鉄電車は、もうすぐ知立(ちりゅう)。
猛烈な睡魔が襲ってきた。
眠い。
つらい。

●恋話

 ……同窓会では、どうしても恋話に花が咲く。
そこらの中学生や高校生たちと同じ話。
「あのとき~~だった」、「このときは~~だった」と。
その結果、いくつかの新事実。

 こちらが思っていたほど、相手の女性は何とも思っていなかった。
反対に、そのときは軽く受け止めたが、相手の女性は、それを真剣に悩んでいた、など。
心というのはそういうもの。
かみあうことは、めったにない。
たがいに「ナーンダ、そうだったの!」と。

 誤解といえば、誤解だが、その誤解が楽しい。
話に花が咲く。
何人かが、「時効」という言葉を使った。
が、「時効」というより、「今さら」というところ。
今さら誤解も何も、あったものではない。
こんなショッキングな話も。

 私が交際していた女性が、私のほかにも別の男とも交際していたのが、わかった。
「エッ、本当?」と。
驚くこと、しばし!

私「ぼくは、知らなかった……」
女「ちがうわよ。あの人ね、林君じゃあなくて、G君が好きだったのよ」
私「でも、ぼくともつきあっていましたよ」
女「そんなはずは、ないわよ」
私「……?」と。

 それを横で聞いていたX君まで、こう言い出した。
「実は、ぼくも、つきあっていた……」と。

私「ちょっと待ってよ。ぼくは、純愛だと信じていた……」
X「林君(=私)ともつきあっていると、本人は言っていたけどね……」と。

 ……あとは、笑い話。
ゲラゲラ、ハハハと笑って、おしまい。

 それにしても、女性って、すごいね……ということで、郡上八幡町への旅行記は、これでおしまい。

 「楽しかったね」「楽しかったわ」と。
ホント!
楽しかった。

 ……つぎは、日本平!
日本平ホテル!

(先ほどネットで調べたら、日本平ホテルは、目下再建設中とか。
2012年の秋、新装、オープンすると、あった。)

(はやし浩司 2012-04-29)

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 郡上八幡 吉田屋 吉田屋旅館 はやし浩司 同窓会)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

Friday, April 27, 2012

●生きるのもたいへん!

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 5月 7日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●複合症状

 子どもを見るときむずかしいのは、症状が複合しているばあい。
あるいはひとつの症状であっても、その症状が、こじれているばあいもある。
たとえばAD・HD児。

 親が早い段階でそれに気づき、適切に対応していればよい。
が、実際には、無理に無理を重ね、症状を悪化させてしまうケースが少なくない。
中には、はげしい暴力、威圧、虐待を加える親もいる。
そうなると、同じAD・HD児でも、ちょうど複雑骨折のように、骨がどこでどう折れているかさえ、わからなくなる。

 さらにAD・HD児に、別の問題、たとえば、かんしゃく発作、さらには、てんかん症が加わることもある。
こうして子どもの見せる症状は、ますます複雑になる。
症状が複合化するので、「複合症状」(はやし浩司)という。

●いろいろな例

 ほかにもいろいろある。

 たとえば同じかん黙児でも、それに親の情緒不安や精神不安が加わることもある。
親が、それを気にしすぎるあまり、子どもに手をかけ過ぎてしまう。
たいていはベタベタに溺愛する。

 このタイプの子どもは、たいてい、手がつけられないほどの、ドラ息子、ドラ娘になる。
外の世界で、自分を発散できない分だけ、内の世界(=家庭)で、粗放化する。
何か気にくわないことがあると、そのつど母親に包丁(包丁だぞ!)を、投げつけていた女児(年長児)もいた。

 あるいはLD児。
タイプはいろいろある。
文字を読むことはできても、意味を把握することができない子ども。
漢字を覚えたり、単語を暗記するのが、極端に苦手な子ども。
脳の機能障害説が常識になっているが、それだけに無理をしても、意味がない。
が、親には、それがわからない。
わからないから、子どもを叱る。
「どうして、あなたはこんなことができないの!」と。

 そうでなくても、勉強は苦手。
その上、勉強に、恐怖心まで、もってしまう。
小学校の入学までに、一度、そういった症状を見せるようになると、以後、勉強が好きになるということは、まず、ない。
(できない)→(逃げる)の悪循環の中で、ますます勉強から遠ざかっていく。

●知らぬフリ

 複合症状を見分けるのは、それほど、むずかしいことではない。
たとえばアスペルガー児が、本来のアスペルガー児特有の症状以外の症状を、併せもつことがある。
そういうときは、アスペルガー児特有の症状を、その子どもから削ってみればよい。
残ったのが、複合された部分の症状ということになる。

 が、問題は、どうすれば、それを親に、わからせることができるかということ。
私の立場では、症状名やその内容まで、話すのは、タブー。
あくまでも知らぬフリをして、指導に当たる。
たとえば親の強圧的、かつ威圧的な育児姿勢が、子どもの心をゆがめることがある。
アスペルガー児は、そういう点では、たいへん傷つきやすい。
殻に閉じこもり、がんこになる。
それを親が、はげしく叱る。
だからそれとなく、私は、こう言う。

「もう少し、お子さんを信じ、お子さんの立場で、ものを考えたらいいですよ」と。

 が、母親にはそれがわからない。
「うちの子ががんこなのは、根性が曲がっているから」と。
こうして症状は、ますます複合化する。
つまり複雑になる。

●10%のニヒリズム

 本来、子どものそばにいて、子どもを伸ばす立場の親が、子どもの伸びる芽を、かえってつぶしてしまう。
こういうケースは、多い。
「私は学校の先生より、子どものことはよく知っている」「私のしていることが、いちばん正しい」と豪語する親ほど、あぶない。
風通しが悪い分だけ、他人の話に耳を傾けない。
独断と独善の世界で、自己流の子育てを繰り返してしまう。

 が、私には、それがよくわかる。
手に取るように、よくわかる。
それだけではない。
その子どもの未来まで、ざっとわかる。
会った瞬間に、それがわかる。

若い親たちから見れば、私はバカに見えるかもしれない。
そういう目で私を見ていることさえ、私には、よくわかる。
「この親は、私をただの教師と思っている」と。
わかるが、私は、さらにバカなフリをする。 

 というのも、この世界には、「内政不干渉」という大原則がある。
親の方が、具体的に問題を提起し、それについて意見を求めてきたときだけ、それに答える。
この世界では、不用意に言った、ささいな言葉が、大問題になるということは、よくある。
だからこそ、わかっていても、何も言わない。
これを「10%のニヒリズム」という。
(「10%」でなくても、「20%」でもよいが……。)

 つまり切るべきところは切り、あとは親に任す。
もともと「親」というのは、そういうもの。
自分で失敗してみて、はじめて気がつく。
それまでは、聞く耳すら、ない。

●「私は無知」

 では、どうするか。
 
 これについては、何度も書いてきた。
要するに、自分たちを取り巻く「殻」を取り除き、風通しのよい家庭環境を作る。
さらに言えば、「私は無知」を前提に、謙虚になる。

 指導する側でいちばん困るのが、子どものことで何かを告げようとしたとき、すぐ反発してくる親。

私「最近、元気がありませんが……」
親「家では、ふつうです」
私「愛情不足ということはありませんか」
親「いえ、子どもたちは、みな、平等にかわいがっています」
私「学習面で、無理をしているようなことはありませんか」
親「ありません」と。

 とくに学校の先生には、謙虚になったほうがよい。
教育のプロということはもちろん、先生は、いつも多人数の子どもたちの間で、比較しながら、あなたの子どもを見ている。
その(比較)が、大切。
つまり客観的に、その子どもを見ることができる。
が、親には、その比較ができない。

 そのためには、聞き上手になること。
もう一歩、話を進めれば、自分の子どもでも、他人と思うこと。
距離を置けば、自分の子どもでも、客観的に見ることができるようになる。

 そんなわけで、「私は無知」を恥じてはいけない。
親は、みな、無知。
無知であるのが、当たり前。
学校でも、育児について学ぶ時間というのは、ほとんどない。
(最近は、それを教えるようになったが……。)
が、そんな程度で、育児がかかえるさまざまな問題に対処できるようになるということは、ありえない。

 だから結論は、どうしても、こうなる。
「謙虚になりなさい!」と。

●対処法

 「複合症状」という言葉は、私が考えた。
が、その「複合」といっても、2つとか、3つ程度の複合は、当たり前。
中には、さらに4つとか、5つも複合することがある。

 組み合わせ論的に考えるなら、それこそ、子どもが見せる症状は、千差万別ということになる。
が、ていねいに分析していけば、やがて混乱したコードをほぐすように、やがて症状を分離し、類型化することができる。
と、同時に、千差万別に見える子どもも、単純な組み合わせでそうなっていることがわかる。

 そこで私がすることは、類型化した「型」に優劣をつけ、また直しやすい部分から、直していく。
一方、簡単には直らない部分もある。
脳の機能や器質にかかわるような問題は、簡単にはなおらない。
ゆいいつできることがあるとすれば、「それ以上、症状を悪化させない」ということ。
消極的な対処法だが、あとは「時」を待つ。
どんな子どもにも、成長とともに、自分を正していくという能力が備わっている。
それを信じ、それを引き出す。
冒頭にあげたAD・HD児にしても、症状さえこじらさなければ、成長とともに、やがて落ち着いてくる。
見た目の騒々しさなどは残ることはあるが、それとてその子どものコントロール下に置かれるようになる。
つまり自分で自分をコントロールすることができるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 複合症状 複雑化する子どもの症状)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生きる意味・高校生との会話】(はやし浩司 2012-03-23)

●今日は雨

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 朝起きると、野鳥たちが、私を待っていた。
庭を取り囲んでいた。
近くの木々や、隣の屋根の上にいた。
スズメ、ヒョドリ、ムクドリ……。
最近は、カラスまで来るようになった。
ついでに、どこかの飼い猫とリスまで来るようになった。

 「まだ6時ごろかな……」と思って起きたら、8時半!
外は雨だった。
重い雲が低く垂れ、春雨というよりは、梅雨時のような雨。
かなりはげしい雨だった。

腹をすかせているのだろう。
野鳥たちは、私を見ても、逃げようともしなかった。
そのあたりを飛び回っていた。
それを知り、私は、小走りに、あちこちに餌をまいた。

居間に戻ると、ランニング・マシンを庭に向けた。
野鳥たちが餌を食べるのを見ながら、まず30分。
ほどよい汗をかく。

今日も、こうして始まった!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原稿

 書斎に入ると、すぐ原稿のチェック。
F雑誌社からのものと、J工業会(機関誌)からのもの。
J工業会からのものは、44行分、削除してくれというものだった。
が、こういう作業が、いちばん、つらい。

「ふやせ」というのは、楽。
「減らせ」というのは、つらい。
原稿全体がもっている、バランスを崩してしまう。
原稿というのは、そういうもの。

 あとは昨日撮った、教室の動画を1本、YOUTUBEにUPする。
が、それだけで午前中の大半が、終わってしまった。

●ドーパミン

 ドーパミン(脳内ホルモン)が、かなり低下しているらしい。
もろもろの欲望が、わいてこない。
というか、気力がわいてこない。
……しぼんでしまっている。

こういうときは、何らかの方法で、(欲望)を刺激するのがよい。
もっとも簡単な方法は、物欲。
物欲を刺激する。

私のばあい、複雑な電子製品が効果的。
分厚い取り扱い説明書を見ただけで、ゾクゾクする。
これは、私の病気のようなもの。

 買い物依存症の人の、それと同じ。
そういう受容体が、線条体にできてしまっている。
わかりやすく言えば、ニコチン中毒や、アルコール中毒の人と同じ。
脳の中で、条件反射が起きる。
メカニズム的には、同じ。

●刺激

 が、今は、欲しいもの自体が、思い浮かばない。
これといって、欲しいものがない。
が、あえて言えば、パソコンということになる。
超・高性能のパソコン。
が、もうすぐWINDOW8マシンが売り出される。
それまで、がまん。

 ほかに……私は持ち物には、ほとんど興味がない。
車にも、ない。
あるとすれば、カメラか時計ということになる。
が、どれも家の中にゴロゴロしている。

 ワイフは、「旅行がいい」と、さかんに言う。
しかしそれも、少し疲れた。
旅先での睡眠調整に苦労する。
よいホテルや旅館になると、湿度も調整できるようになっている。
枕もいろいろなタイプのものが用意してある。
そうでないと、そうでない。
エアコンだけだと、空気がカラカラになる。
枕がちがうと、安眠できない。
それでいつも、夜中に目が覚める。

 で、来週は、講演を兼ね、伊勢志摩に行くことになっている。
そのあと、今度は方向を北に向け、飛騨の高山に行くことになっている。

 旅行に出かける前は、いつもこう思う。
「旅行をやめて、家でのんびりしていたい」と。

 しかし出かけてみると、「来てよかった」と。
意識が180度、ひっくり返る。
だから旅行に、行く。
それが脳の刺激になる。
そう、我ら老人組は、常に自らを刺激する。
刺激しながら、ボケを防止する。

●教室で

 教室へ入ると、ワイフが、缶ジュースを2本、買ってきた。
が、そのうち1本が、ゼリー・ジュース。
「よく振ってから、お飲みください」という注意書きがあった。
このタイプのジュースは、最初によく振り、中のゼリーを粉々にしてから飲む。
ワイフは、それを読まなかった。

だからプルタブを抜いてからが、一苦労。
箸でつつきながら、チビチビと飲み始めた。

 そういうワイフを見ながら、私はこう話してやった。

「B起したPニスを、昔、ブルブルと振った男がいてね。それで中の海綿体がバラバラになってしまったそうだ。そのあとその男のPニスは、使い物にならなくなってしまっというよ」と。

(B=勃、P=ペ。Blogには使用禁止用語というのがある。)

 ワイフは、一度は「ウソッ!」と言ったが、どこか本気にしたような雰囲気。
そのまま何やら深刻な顔つきになってしまった。

「60歳を過ぎたバーさんが、そんなことも知らなのか」と思ったが、それは言わなかった。 

●夢と失望

 昨夜、高校生たちと、こんな議論をした。
東大の入試問題(英文)を訳させていたときのこと。
こんな英文があった。

『……夢も失望も、幻想。年を取ると、それがよくわかる。夢にうつつを抜かすこともなくなるが、一方で、失望したからといって、それで傷つくこともない……』と。

 すかさずNさんが、こう言った。
「夢をもつことは、幻想ということ?」と。
私も、すかさず、こう答えてやった。
「いいや、夢をもつことは重要。夢がその人を動かす原動力となる。が、人は、その夢と失望を何度も繰り返したあと、こう気がつく。それが幻想であった、とね。が、それは、それ。だから今は、迷わず、あなたはあなたの夢を追求したらいい。」と。

 まず、何ごともやってみる。
懸命にやってみる。
失敗を恐れてはいけない。
バカだ、アホだと言われても、まず、やってみる。
たとえそれが無駄とわかっても、失敗ということにはならない。
大切なのは、そのプロセス。
ドラマ。
そのドラマに、価値がある。
生きる価値がある。
あのトルストイも、そう言っている※。

 で、その結果として、夢や失望が、幻想であったことを知る。
が、誤解してはいけない。
だからといって、その人の人生が無駄だったということにはならない。
幻想とわかったとき、人は、はじめて、なぜ今、ここに生きているか、その意味を知る。

 最初から、何もしない人には、それがわからない。
懸命に生きたことがない人には、それがわからない。
わからないまま、ただの凡人として、この世から去っていく。

 その問題は、そのあたりまで読み込まないと、設問には答えられない。
「さすが、東大の入試問題」と、私は感心した。

(注※)(中日新聞に発表した原稿より)

『……生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●高校の同窓会

 高校の同窓会の案内が届いた。
それはそれとして、こんなことを考えた。
「もし、あの美濃町に居を構えるとしたら、どこがいいか?」と。

 その前に、美濃町について。
(正式には、「美濃市」だが、私は「美濃町」と呼ぶほうが、好き。
牧歌的な温もりを覚える。)

 美濃町は、昔から美濃和紙の集散地として知られている。
ミニチュア京都と呼ばれるほど、古い町。
北側に、長良川が流れ、三方を山に囲まれている。
私の実家は、その美濃町の旧市街、その西のはずれにあった。

 で、私が好きなのは、南の山のふもと。
松森山という小さな山がある。
その手前。
現在の美濃第一中学校のあるあたり。
なだらかな丘陵地帯になっていて、そこからは美濃町の町が、一望できる。

 今度、同窓会に出たら、帰りにでも、あのあたりで、土地をさがしてみる。
終(つい)の棲家(すみか)というほど、大げさなものではない。
が、晩年のうち、何年かでも、そこに住めたら、うれしい。
今、ふと、そんなことを考えた。

 ……いつもは、美濃町へ行くたびに、長良川沿いにある、緑風荘という旅館に泊まる。
昔は高級旅館だった。
その面影は、今でもしっかりと残している。
が、今は、1泊、1万円前後で泊まれる。
その気軽さが、うれしい。

 ……と書くと、同窓会に出席、ということになるが、今のところ未定。
4月に入ると、毎年、講演の依頼が、入る。
その成り行きをみてから、決める。

そんなわけで、ハガキには、一応、(出席)に丸をつけたが、まだ投函していない。

●満光寺

 たった今、こんなメールが、入った。

山荘の近くに、満光寺(まんこうじ)という寺がある。
徳川家康の命を救ったこともあるという、由緒ある寺である。
その寺で撮った写真について、愛知県観光協会発行の「旬感観光あいち」編集部より、写真転載の申し込みがあった。
「5月号の表紙に使わせてもらえないか」と。
私のHPに載せている写真である。
「その写真を、使っていいか」と。
こんな依頼は、はじめての経験。

すかさず、「はやし浩司のクレジットを、どこかに入れてくれるならOK」という条件で、許可した。
私にとっても、たいへん光栄なことである。

……と同時に、その写真に見入る。
ワイフと2人で、その寺へ行ったとき、撮った写真である。
観光スポットとしては、ほとんど知られていない寺である。
もう何回か行ったことがあるが、いつもガランとしている。

庭園のすばらしさは、この写真の通り。
右横に座っているのは、私のワイフ。
その近くにある龍潭寺に勝るとも劣らない、庭園を、無料で、楽しむことができる。
 
img392 

●さて、仕事

 午後は、パン2切れに、ジャムをつけて食べた。
それだけ。
2週間で、やっと2キロの減量。
……と油断していたら、また1キロ、太っていた。

 たいしたものは食べていない。
しかし太る。
食べたら、食べた分だけ、太る。
それが私の体質。

プラス、このところ運動をサボっている。
1日、30分のウォーキングだけ。

 寒い日は、何をやるにも、おっくうになる。
それがいけない。

 では、今日も1日、がんばる。
春休みも近い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【付記】(中日新聞の記事より)

【高校野球】(トルストイの言葉)

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。
輝く。
その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。
生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。
たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。
たかがボールのゲームと笑ってはいけない。
私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。
「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。
幻想的なミュージカルだった。
あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。
「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。
私もこの問題について、ずっと考えてきた。
そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。
愛すること。
信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。
一球一球に全神経を集中させる。
投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。
応援団は狂ったように、声援を繰り返す。
みんな必死だ。
命がけだ。
ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。
一瞬時間が止まる。
が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。
そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。
つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。
生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。
夢も希望もない。
情熱も闘志もない。
毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。
あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。
感動もない。見るほうも、つまらない。
そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。
人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。
高校野球は、それを私たちに教えてくれる。
(中日新聞・発表済み)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●複合症状

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨夜、寝る前に、濃いお茶を飲んだ。
それがよくなかった。
床に入ってから、……それまではかなり眠かったのだが、頭が冴えてしまった。
で、1~2時間、がんばったが、ギブアップ。
そのまま起きて、書斎へ。
時計を見たら、午前1時半だった。

やることもないので、雑誌(「週刊・ダイアモンド)に目を通す。
眠られぬ夜は、経済誌がいちばんよい。
10人の識者がいれば、10色の意見が出てくる。
それがおもしろい。

で、目を通しながら、パソコンを立ちあげ、Bloombergを開く。
開いたとたん、思わず、お茶をプーッと吹きだしてしまった。

「ギリシャの新国債の金利、20%を超える!」と。

少し前、80%近い、借金の棒引きをしたばかり。
「これでギリシャ問題は、何とかなった」と喜んでいた矢先の、20%!
(金利が、20%だぞ! そんな借金、返せるわけがない!)

わかりやすく言えば、元の木阿弥。
ギリシャの金融危機問題は、何も解決していない。
が、そこへもってきて、今度は、ポルトガルがおかしくなり始めた。

だれかが得をすれば、だれかが、損をする。
経済の世界は、そういうもの。
が、おかしなことに、損をした人が意外と少ない?
それもそのはず、世界の国々は、目下、札の印刷競争をしている。
札をばらまいている。
EUも、アメリカも、そしてアジア各国も。

足下の日本も、例外ではない。
現在、日本の株価は、バブル状態。
1万円の大台を越えたと、はしゃいでいるが、中身はガタガタ。
不気味なのは、海外の投資家が、日本の国債を買い始めていること。
そういった連中は、いったんことあれば、平気で今度は売り手に回る。
そのときが、こわい。

結局、再び床に入ったのが、午前4時ごろ。
起きたのが、8時半ごろ。
先ほどまでランニングマシーンの上で、一汗かいた。
そのあと軽い朝食をとり、そのまま書斎へ。
今日の予定は、とくになし。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●高校の同窓会

今度、高校の同窓会がある。
前回、出席させてもらってから、もう15年近くになる。
15年!
年数を計算し、改めて、驚く。

 現在、年賀状を交換しているのは、同窓生の中でも、宮崎K君と森H君だけ。
その森君が、岐阜県でももっとも権威ある賞の、その大賞を受賞したとか。
宮崎君から、その祝賀会をかね、同窓会を開こうという連絡が入った。
私にとっては、何としても出席しなければならない同窓会である。

 ……森君といえば、まっさきに思い浮かぶのが、プラモデル。
小学生のころのことだと思う。
彼の2階の、道路に面した部屋で、大きなプラモデルを見せてくれた。
それが私には、たいへんうらやましかった。
どうしてだろう?
どうしてそんなことを真っ先に思い出すのだろう。

 宮崎君というと、柔道を思い出す。
宮崎君の叔父にあたる人だったと思う。
中学生のとき、3年間、その男性に、柔道を習った。
ただ宮崎君本人は、道場には来ていなかったと思う。

 みんな元気なのだろうか?
この浜松に住んでいると、情報は、まったくといってよいほど、入ってこない。
1人、こまめに連絡してくれた友人がいたが、彼はこの10年間、病院に入ったままという。
家族、つまり彼の母親とは、ときどき電話で話す。
それ以前は、奥さんと話していたが、現在は、その電話番号は使われていない。
数年前、中学の同窓会があった。
そこでそれとなく聞いた話では、離婚しているらしいとのこと。

 興味があるのは、女性軍(失礼!)。
私たちのクラスには、美しい人がそろっていた。
もっともそれに気づいたのは、高校を卒業してから。
それまでは気がつかなかった。
そういう人たちは、どうなったのだろう。
今でも、みんな昔のままなのだろうか。
不謹慎な意味で、(本当に不謹慎だが……)、たいへん興味がある。

●夫婦同伴

 日本では、パーティというと、(同窓会も含めてだが)、単独出席が当たり前。
一方、欧米では、夫婦同伴が、当たり前。
欧米のほうがよいというわけではない。
しかし夫婦同伴というパーティがあっても、よいのではないか。
あるいは、みなで簡単な旅行をする、とか。
バスを借り切って、どこかへ行く……。
いいね!

 飲んで、食べて、カラオケを歌って……。
あとはワイワイと騒ぐ。
同窓会というと、そんなイメージというか、「型」が決まっている。
親戚が集まる、親類会、いとこ会、OB会……。
みな、そうだ。

●人間関係

 同窓会のよい点といえば、上下関係がないこと。

ふつう人間関係は、(1)対立関係(けんか状態)、(2)調和関係(仲良し関係)、(3)専制関係(上下関係)、(4)分離関係(心の通わないバラバラ関係)に分類される。

 もちろん高校生だった当時には、こうした関係が、色濃くあった。
が、それから40数年。
今さら、「関係」もあったものではない。
そこに「死」がまっている。
それに、私も含め、みな、おおかたの人生を終えている。
今、こうして生きているだけでも、御の字。
上下関係がどうのこうのと言っている方が、おかしい。
みな、平等。
その平等感がよい。

 ……帰りには、岐阜市の旅館に一泊するつもり。
長良川沿いには、よい旅館やホテルが並んでいる。

●女性

 そう言えば、女性というのは、30歳くらいを境に、顔が変わってしまう。
35歳を過ぎると、20歳前後の面影が、完全にと言ってよいほど、消えてしまう。
本来なら、こういうことはありえないはず。
遺伝子はそのまま。
どうしてだろう?

 一方、男性というのは、あまり変わらない。
街で会っても、その人と、すぐわかる。
20歳前後の面影を、しっかりと残している。
どうしてだろう?

 ……先ほども、近所の家の中へ、1人の女性が入っていった。
ワイフに、「あの人は、だれ?」と聞くと、「娘さんよ」と。
「わからなかったよ」と言うと、「あの娘さんも、年を取ったからね」と。

 若いころの娘さんの印象は、残っている。
ほっそりとした、かわいい女性だった。
その女性も、今では、まったくのオバサン姿。
ズングリとした体型。
ポッテリとした顔。
目の周りだけが、昔の面影を残していた。

 もし別の場所で会ったら、その人と、私にはぜったいわからないだろう。

私「女性は、どうしてああまで変わるのかな?」
ワ「そんなことないわよ。男性だって変わるわよ」
私「そうかなあ……。いくら年をとっても、ぼくには、わかるよ」
ワ「それまでの生活によるんじゃ、ないの?」と。

●脳

 その点、脳細胞は、再生しない。
死滅する。
その一方。
だから、脳細胞は、昔のままを保つことができる。
性格も性質も、昔のまま。

 もし脳細胞が、再生するようなことがあれば、性格や性質が変わってしまうかもしれない。
情報の伝達が、そこまで正確になされるとはかぎらない。
言い換えると、だからこそ、10年たっても、20年たっても、私たちは昔のままで、たがいに会うことができる。

 ただし、死滅する分だけ、バカになる。
「バカ」という言葉に語弊があるなら、ボケる。
そのボケるのが、心配。

 大学の同窓会でも、まず最初の会話がこれ。
「あいつ、だいじょうぶか?」と。

 「だいじょうぶ?」というのは、脳のほうのことをいう。
少し様子がおかしいと、まず、それを聞く。
こういうことを調べるのは、不謹慎きわまりない。
しかし興味があるので、調べてみる。
年齢別、ボケ老人の割合。

●年齢別、ボケ老人の割合

 平成4年の老計第29号によれば、つぎのようになっている。

(認知症患者の出現割合)

65~69歳……1・5%
70~74歳……3・4%
75~79歳……7・1%
80~84歳……14・6%
85歳以上 ……27・3%

 なおここでいう認知症患者というのは、介護が必要な患者をいう。
つまりかなり重症ということ。
私や私のワイフ程度のボケ老人まで含めたら、その数は、10倍以上になるのでは?

 恐ろしいことに、この10年間だけでも、ボケ老人の割合は、減るどころか増えているという。
別のサイトには、そうあった。

●自覚

 認知症の怖ろしいところは、それを的確に自覚できないこと。
エーザイ(製薬)HPには、つぎのようなチェックテスト項目が並んでいる。

●同じことを何度も言ったり、聞いたりする
●慣れているところで、道に迷った
●財布を盗まれたと言ってさわぐ
●以前よりだらしなくなった
●夜中に起き出して騒いだ
●置き忘れや、しまい忘れが目立った
●計算の間違いが多くなった
●ものの名前が出てこなくなった
●水道の蛇口やガス栓の締め忘れが目立つ
●ささいなことで怒りっぽくなった
●時間や日付が不確かになった
●日課をしなくなった
●以前はあった関心や興味が失われた
●以前よりもひどく疑い深くなった
●薬の管理ができなくなった
●テレビドラマの内容が理解できない

 しかしこんなテストをしても、意味がない。
仮にこのテストで「あやしい?」と思っても、それは「自覚」とはちがう。
(もちろん自分以外の人のことを、診断するのには、役に立つ。
「うちのバーチャン、最近おかしいわね」と。)

 どうすれば、自分のボケ度を自覚できるか。

●ボケの自覚

 私のばあい、つぎのようにして、自覚するときがある。

 たとえばこうして毎日、原稿を書いていると、ときどき以前、書いたのと同じテーマで、書くときがある。
そこでネットで検索をかけてみる。
(検索しやすいように、私のばあい、原稿の末尾に、検索キーワードを並べることにしている。)

 すると、10年前に書いた原稿が出てきたりする。
タイトルも同じ……ということは、よくある。

 そこでその原稿を開き、現在書いている原稿と、読み比べてみる。
それでボケの進行度を、自分で知ることができる。

 あるいは、そのつど新語に出会う。
英語の単語でもよい。
そういった新語や単語については、その場で脳の中に叩き込む。
これを「記銘」という。

 が、50歳を過ぎてから覚えた言葉や単語というのは、あっという間に忘れてしまう。
その期間とか、割合で、自分のボケ度を自覚することができる。

 それによれば、私の脳みそも、かなりあぶない。
65歳を過ぎると、1・5%程度の人が、介護が必要なほどまでにボケる。
そこで予防ということになる。

●運動と予防

 が、最近、本当に最近、私はこんなことに気がついた。

 私は暇があれば、テレビのニュースを見ながらでも、ウォーキングマシンの上で歩いている。
そんなときのこと。

運動をし、一汗かいてから、キーボードを叩くのと、運動をしないまま、キーボードを叩くのでは、調子がまるでちがう。
運動をしたあとだと、パラパラとキーボードを叩くことができる。
運動をしていないと、モタモタ……という感じになる。
打ちミスもおおくなる。
微妙なちがいなのだろうが、その(ちがい)が、よくわかるようになった。

 ボケ防止のためには、脳みその運動のみならず、肉体の運動も重要である。

●脳梗塞

 が、認知症もさることながら、直近では、血栓性脳梗塞、あるいは微細脳梗塞も心配である。
総じてみれば、大酒飲みやヘビースモーカーの人には、頭の活動が鈍い人が多い。
50歳を過ぎるころから、「?」と思うようになり、60歳を過ぎるころから、それがはっきりとしてくる。
だれにでもそれとわかるようになる。
たとえば……。

●反応が鈍くなる
●話し方がかったるくなる
●繊細な会話ができなくなる
●内容が通俗的になってくる
●「ア~」「ウ~」という間投詞(擬声語)が多くなる
●ささいなジョークに、ことさら大げさに反応する、など。
(以上、はやし浩司)

 最近の研究によっても、飲酒が脳そのものを委縮させる、またスモーキングは、感情の抑揚を平坦化させるということがわかっている。
脳みその健康を保つのも、楽ではない。……ということらしい。

●回顧主義(懐古主義)

 できれば、こう願う。
 
 同窓会といっても、回顧主義的なものであってほしくない。
会って話をしたい人がいるとすれば、現役でまだがんばっている人。
そういう人たちと、情報を交換したい。
健康法なり、日常の過ごし方、など。

 「あのときは、こうだった」式の話には、興味はないし、そんなことならいくら話しあっても、意味はない。
まだ、この先人生は、長~~~~~~~~~~~~~~~い。
どうせ生きるなら、前向きに、生きた~~~~~~~~~~~~~~い。

 ということで、同窓会の話は、ここまで!

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 同窓会 武義校同窓会 武義高校同窓会 はやし浩司 同窓会論 高校の同窓会 同窓生 はやし浩司 2012ー03-25)


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●マターナル・デブリエーション(母性の欠落)

●4月28日(土曜日)朝記(2012)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

私が住んでいるこのあたりでは、大型店の建設がつづいている。
大都市で見る、たいていの大型店は、ほぼ出そろった。
そんな中、こんな喜劇も……。

そこにはもとから、洋品店があった。
結構、はやっていた。
ところがその右隣に、ユニクロができた。
とたん、その洋品店からは客が消えた。
さらに不幸がつづいた。
今度はその左隣に、コックスができた。
さらに客が消えた。

右にユニクロ、左にコックス……。
その間に、その洋品店。

そこでその洋品店の主人は考えた。
店の名前を変えることにした。
考えて名前を、「入り口」とした。
店の上に、「入り口」という看板をかかげた。
とたん、その店は、大盛況。
押すな押すなの客が、その洋品店に入ってきたという。

……というこの話は、何かのジョーク集に書いてあった。
それを思いだし、少し内容を変えて書いてみた。
(私が作ったオリジナルのジョークではない。念のため。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「おぶつだんや」

 が、これは私の大発見。
昨日、ワイフと仕事に向かう途中、こんなことを知った。

 ちょうど町に入る境あたりに、A坂というなだらかな坂がある。
その左側に、仏壇屋がある。
その仏壇屋に、新しい看板が立った。
平仮名で、「おぶつだんや」と書いてあった。
それを読んで、ピンときた。

「お・ぶ・つ・だ・ん」の文字を並び替えると、「お・だ・ぶ・つ」になる。
つまり「お陀仏(おだぶつ)」になるから、「お仏壇屋」と。

●高校生

 そんな話を高校生のクラスで話したら、みな、笑いが止まらなくなってしまった。
この年齢の子どもたちは、一度笑い始めると、ゲラゲラと笑い始める。
それこそ、鉛筆をポロリと落としただけでも、笑う。

 そんな中、Bさんが、ふとこう言った。
「うちのお父さんね、ドイツ語がわかるのよ」と。

 そこですかさず、私がベートーベンの第九の歌詞を口にしてみてやった。
あの「♪ダイネ・ツアウベル・ビン・デン・ビーデル……」というのである。
それを聞いてBさんが、目を白黒させた。
「先生って、ドイツ語も話せるの?」と。

私「そうだよ。たとえば、ドイツ語で『おまんじゅう』は、『オスト・アン・デール(押すと餡(あん)出る』という」
B「フ~~ン」
私「それに、こんなドイツ語もある。『イヒ・フンバルテート・デル・ウンチ(私・ふんばると・出る・ウンチ』」と。

 かなりドイツ語らしく言った。
ほかの高校生たちは、みな、腹をかかえて笑った。
が、Bさんだけ、それを本気にしてしまった。
それを見て、ほかの高校生たちが、さらに大声で笑い始めた。

 どれも私が学生時代に知った、古いジョークである。
内心では、「こんなジョークも知らないのか」と思ったが、それは言わなかった。
さらに、定番ジョーク。

「あのね、この英語を訳してごらん……」と。

「To be to be ten made to be.」

 みんな英語には自信のある子どもたちである。
それぞれが懸命に訳し始めた。
中には、もっともらしい訳をつける子どももいた。
が、やがてギブアップ。

「あのね、これは英語ではないの。ローマ字で、『飛べ・飛べ・天まで飛べ』と書いてあるだけなの」と。

 結局、皆で、30分以上、笑いつづけた。
涙まで流して、笑いつづけた。
腹の皮がよじれるほど、笑いつづけた。
ゲラゲラ、ワッハハハ……と。

 ……ということで、今朝は気分爽快。
頭もすっきり。
目を覚ますとき、全身の細胞が、プチプチとはじけているのを感じた。
『笑いは健康のもと』と。
それを改めて強く実感した。
(2012/04/28朝記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(補記)(以前書いた原稿より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●笑いの効能

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われるようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわかってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なおす」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしまう。

 私は、そういう経験を、何度もしている。

 大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 笑いの効能 笑う 笑えば子どもは伸びる)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【今朝のニュースより】(はやし浩司 2012-04-28)

●失業率が24%!

 ロイターは、こう伝える。
『失業率は2011年の21.6%から、2012年は24.3%に悪化。
その後は2013年に24.2%、2014年に23.4%、2015年に22.3%と、徐々に改善するとの見通し』(ロイター)と。

 「24%」という数字は、とんでもない数字と考えてよい。
どこの国でもそうだが、失業率が20%を超えると、とたんに街角に失業者があふれるようになる。
つまり4人に1人が、失業者。
1~2年の間なら、まだ何とかなる。
しかしそれが4~5年もつづいたら、勤労意欲そのものが、消え失せる。
社会不安は増大し、社会秩序そのものも崩壊する。
スペインは、今、その危機的状況の中にある。

 スペインがそこまで病んでいるとは、知らなかった!

●内ゲバ

 MSN・ニュースは、こう伝える。
小沢一郎さんが、無罪になったことについて、

『民主党の小沢一郎元代表に無罪判決が下されたことを受け、政府・民主党内では27日、親小沢派と反小沢派のさや当てが激化し「内ゲバ」の様相を呈してきた。
野田佳彦首相が「命を懸ける」と言い切る消費税増税関連法案の審議入りを目前に控え、政権は瓦(が)解(かい)の一途をたどる』(以上、MSN)と。

 (注:「小沢さん」と「さん付け」で呼ぶのは、けっして尊敬しているからではない。
実は、その反対。)

 もとはと言えば、一連の裁判劇は、「西松事件」から始まっている。
MSN・ニュースから、一文を拾ってみる。
こうある。

『……特捜部は21年夏、中堅ゼネコン「水谷建設」元社長から、胆沢(いさわ)ダム受注をめぐり「元秘書らに1億円を渡した」との供述を獲得。
土地購入の原資4億円に、ゼネコンマネーが含まれていると見立て、小沢元代表本人の立件を視野にした捜査が本格化した』(以上、MSN)と。

 今回の裁判で、無罪になったからといって、「シロ」というわけではない。
いくら小沢一郎さんや、そのチルドランの女性軍たちが涙を流し、それを喜んだとしても、疑惑が消えたわけではない。
むしろ疑惑は、増大した。

 私たちは、その手法に、大きな反感を覚える。
つまり田中角栄のときもそうだったが、小沢一郎さんも、裁判が始まると、勢力の拡大をねらった。
取り巻きが多くなればなるほど、それがそのまま無言の圧力団体となる。
使い古された手法だが、この日本では、効果がある。
小沢一郎さんがそうであったかどうかは別とし、だれしも、その胡散(うさん)臭さは感じていたはず。
顔は心の鏡というが、あの顔を見て、小沢一郎さんを、誠実な人と思う人はいない。
今年のはじめ、日本へやってきた、オーストラリアの友人も、そう言っていた。

 で、その結果、民主党内は大混乱。
それが冒頭のMSN・ニュース。
内ゲバが始まりそう、と。

 ……私はこのニュースを読んだとき、日本も北朝鮮も同じと、感じた。
まさに平成の忠臣蔵。
小沢グループは、忠僕心だけで、政治を動かしている。
小沢チルドレンの国会議員たちは、「正義が通った」とはしゃいでいるが、その非現実感。
私たちの庶民感覚とは、完全に遊離している。
ズレている。

 民主党が政権をとると、ゾロゾロと国会議員を引き連れ、中国詣でをした小沢一郎さん。
小沢一郎さんも、小沢一郎さんだが、ついて行く国会議員も国会議員。
それに恥じることもなく、小沢派の国会議員たちは、また同じことを繰り返そうとしている。

 とくに野田首相を支持するわけではないが、今、日本の国家経済は崖っぷちに立たされている。
そんな中、いまだに旧態依然の国盗り物語(=NHKの大河ドラマ)を、国会という場で繰り返している。
その愚かさ。
その浅はかさ。

 ミーンナ、あのNHKの大河ドラマが悪い。
いまだに「織田信長こそが、理想の政治家」と豪語する政治家がいるのには、本当に驚かされる。

●くじら牧場?

 こんなニュースも載っていた。

『イルカの追い込み漁で知られるW県T町で、一部の湾を「くじら牧場」にする構想が持ち上がっている。
湾の入り口を網で仕切り、イルカや小型くじらを「放牧」。
一緒に泳いだり、カヤックで回遊したりしながら、クジラたちと触れ合える海のサファリパークにしたいという。
同町は今後、沿岸管理者の県や湾内の真珠養殖業者らと交渉を進め、5年後をめどに事業化を目指す方針。
水産庁は「こうした試みは他では聞いたことがない」としている』(以上、Yahoo・ニュース)と。

 「くじらは魚」とみるか、「くじらは知的動物」とみるかで、このニュースのとらえ方は大きく変わる。
つまり意識を支える、認識の問題。
恐らく太地町の人たちは、「くじらは魚」とみているのだろう。
だから「くじら牧場」?

 このニュースを読んだとき、即、私は映画『ウィリー(原題:Free Willy)』を思い浮かべた。
ウィリーは、シャチだが、感動的な映画だった。
最後にウィリーは、防波堤を越える大ジャンプをし、海へと逃げていく……。

 映画の話は別として、しかし「くじら牧場」には、どうしても違和感を覚えてしまう。
その必要性があって、そういう牧場を作るのなら、まだ理解できる。
たとえばくじらやイルカの数をふやすために、そうする、とかなど。
が、一方でくじらを殺しながら、他方で、くじらを飼い、それを観光収入につなげる?
そこには人間が原罪的にもつ身勝手さが、見え隠れする(?)。

 そうでなくても、そういう牧場を作れば、反捕鯨国の人たちの神経を逆なですることになる。
なぜ反捕鯨なのか。
捕鯨に反対する国や人たちの意見を、もう少し理解する必要があるのではないか。
でないと、日本は、ますます大きな反感を買うことになる。

 むずかしい話はやめよう。

 くじらを殺してはいけない。
イルカを殺してはいけない。
……とまあ、そういうふうに考える人たちが、「くじら牧場」を作るのなら、まだ理解できる。

くじらやイルカには、未知の部分が多い。
……その研究のためとか、そういうことなら、まだ理解できる。

さらに、くじらやイルカは、知的動物である。
……そういう意識をもっている人たちが、「くじら牧場」を作るのなら、まだ理解できる。

 が、そうでないから、そうでない。
私には理解できない。
言い換えると、今までいろいろな意見を聞いてきた。
たとえば「捕鯨は日本の伝統的文化である」とか、など。
しかし「くじら牧場」ということになると、「ナーンダ、結局は金儲けのためだったのか」ということになってしまう。

 この先、この「構想」がどうなるか、静かに見守りたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 くじら牧場 クジラ牧場 捕鯨 反捕鯨)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司





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【愛とは何か? もう一度、原点に立ち返って考えてみる】 by はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

先日、ある女性の読者(?)の方から、こんなメールをもらった。
「あなたは毎日、いろいろな原稿を書いているが、だれも読んでいない。
無駄なことはやめなさい」と。

が、その女性の読者の方には、たぶん、たいへん残念なことかもしれないが、現在、多くの方に、原稿を読んでもらっている。
アクセス数と読者数は、この世界では分けて考えるが、(というのも、アクセス数イコール、読者数ではないので)、アクセス数だけをあげるなら、毎月50万件を軽く超えている。
カウントに入れていないアクセスを入れると、(というのも、すべてのホームページに、カウンターを置いているわけではないので)、もっと多いかもしれない。

インターネットの世界は不可思議な世界で、そこに読者の方がいるはずなのに、その実感が、まったくない。
ゆいいつの手掛かりは、アクセス数という、無機質な数字のみ。
で、私はその「数字」に励まされながら、(実のところ、自分で自分を励ましながら)、今朝もこうしてエッセーを書き始めた。

もちろんみながみな、私に好意的というわけではない。
冒頭にあげた読者のように、私にかなりの反感を覚えている読者も多いはず。
が、それはそれ。
たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう人たちの反感をいちいち気にしていたら、こうしてエッセーなど書けないし、公開もできない。
私は、私の道を行く。
書きたいことを書く。

……頭がボケ、使い物にならなくなるのも、それほど遠い未来ではないと思う。
事実、東大の薬学部長をしていたM先生(現在、鎌倉市在住)は、すでに家族の顔もわからないほどまでに、ボケてしまった。
あれほどまでに頭脳明晰であった教授でも、そうなる。

明日は我が身。
けっして他人事ではない。
だからこそ、書けるうちに書く。

「はやし浩司はバカ」と思う人も多いかもしれない。

(事実、バカだから、反論のしようがないが……。
あるいはこうして今、書いていることが、いつか、ボケていく人間の見本になるかもしれない。

いつだったか、絵画の世界で、そういう画家が紹介されていたのを、何かの本で読んだことがある。
その画家は、毎年、自画像を描いていた。
が、そのうちアルツハイマー病を発症。
彼の描く絵画は、年々、異様なものになっていった。

文章の世界で、それを私が証明することになるかもしれない。
が、それとて、ひょっとしたら、後世の人の役にたつかもしれない。
「はやし浩司の文章は、~~病とともに、かくのごとく変化していった」とか、など。)

ともあれ今朝は、「愛の原点」について、「憎」とからませ、考えてみる。
たまたま昨夜、床に入ってから、ワイフとそんな話をした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●二律背反(アンビバレンス)

 愛と憎。
愛が深ければ深いほど、それが転じて、一度、憎になると、その憎も深い。
昔から「愛と憎は紙一重」という。
(正確には、「愛憎は、紙一重」という。)
「可愛さ余って憎さ百倍(かわいさあまってにくさ ひゃくばい)」ともいう。
こうした二律背反の心理は、すでに幼児期に形成される。
その一例が、子どもの側から見た、母子分離不安。

 母親の姿が見えるところ、あるいは母親の存在を近くに感じているときは、穏やかな表情をし、見知らぬ場所でも、探索行動を繰り返すことができる。
が、ひとたび母親がその場からいなくなると、極度の不安状態に置かれ、パニック症状を示す。
たいていは、ギャーッとヒステリックに泣き叫び、母親のあとを追いかけたりする。
反対に、オドオドし、混乱状態になる子どももいる。
前者をプラス型とするなら、後者は、マイナス型ということになる。
数の上では、前者のほうが、圧倒的に多い。

 こうした一連の錯乱的な混乱症状を、母子分離不安という。

●母子分離不安

 母子分離不安は、子どもの側の限度を超えた不安が原因として、起こる。
が、中には、まったくそういった症状を示さない子どももいれば、反対に、母親に対して、暴力的行動を繰り返す子どももいる。

 母児分離不安そのものは、よく見られる症状であり、それが一定の範囲内のものであれば、むしろ好ましい症状と考える。
母子との間に、健常な基本的信頼関係が築かれていれば、どんな子どもでも、一度は経験する症状である。

●3様態

 そこで一般的には、母子分離不安を、つぎの3つに分けて考える。

(1) 母親に対して、まったく情愛行動を示さない子ども。
母親がいても、いなくても、まったく平然とした様子で、見知らぬ場所でも、自分勝手な行動や探索を繰り返す。

(2) 母親の姿が見えなくなったりすると、不安状態になり、母親の後を追いかけたり、ときには混乱状態にはなるものの、再び母親の姿を見たり、近くにいるのを感じたりすると、そのまま静かに落ち着く。

(3)(2)と同じような状況になったとき、極度の不安状態に襲われ、激しく泣いたり、暴れたりする。
   再び母親の姿を見たり、近くにいるのを感じたりしても、興奮状態がそのままつづき、母親に対して、殴る、蹴るなどの暴力的行為を繰り返す。
(以上、参考「心理学用語」(渋谷昌三))。

●ホスピタリズム(施設児)

こうした3つのタイプは、母子間の情愛の深さによって、決まる。
情愛の深さを(1)(2)(3)の3つのタイプにあてはめて考えると、(1)は、情愛そのものが育(はぐく)まれていない。
(2)は、情愛と信頼関係が、健常的に育っている。
(3)は、情愛は健常的に育っているが、基本的信頼関係は、育っていないというように考えられる。

従って(1)のようであることが、かならずしも、よいというわけではない。
親側の育児拒否、冷淡、無視などが日常化すると、母子の間に、十分な情愛が育まれず、(1)のような症状を示すことが多い。
たとえば生後間もなくから、母親の手を離れ、育てられた子どもが、似たような症状を示すことはよく知られている。
ホスピタリズム(施設児)と呼ばれるのもそのひとつだが、さらに近年、「マターナル・デブリべーション(母性的情愛感の欠落)」という言葉も生まれ、問題になっている。

●包丁を投げつける

 ここでは(3)の症状について、考えてみる。
というのも、母子分離不安にかぎらず、子どもの世界では、まさに「愛と憎は紙一重」という現象がよく観察されるからである。
一例として、かんしゃく発作がある。
私の印象に強く残っている事件に、こんなのがある。

 ある日、母親が、真っ青な顔をして、私の教室に飛び込んできた。
そしてこう言った。
「うちの子が、包丁を投げつけます」と。
年長(6歳)の女児だった。

話を聞くと、「ピアノのレッスン」という言葉が、キーワードになっていることがわかった。
母親がその子どもに対し、「ピアノのレッスンをしましょうね」と声をかけた瞬間、子どもは、突発的に錯乱状態になる。

内圧された不安感が、その一言で、一気に爆発すると考えるとわかりやすい。
そのときも母親は、子どもに包丁を投げつけられた。
その様子が、尋常ではなかったため、あわてて母親は私のところへ飛んできた。

似たような現象としては、こんなのもある。

 たとえば、外の世界(幼稚園やおけいこ塾など)では、おとなしく、従順な子どもが、家へ帰ると、まったく別人のように暴れたりする、など。
このばあいも、内面世界に抑圧された不満や不平が、家庭という、弛緩された場所で、爆発すると考えるとわかりやすい。
このタイプの子どもは、外の世界では、「いい子」と評されることが多く、そのつど、それを聞いた母親は、戸惑ったりすることが多い。

これらの症状で共通するのは、母子関係はむしろ良好で、ふつう。
もしくはふつう以上に、心豊かな家庭環境であることが多い。
(かんしゃく発作そのものは、家庭教育の失敗が原因とみる。)
母親がとくに冷淡とか、子どもへの愛情が欠損しているというふうでもない。

●激変する子ども

 が、今度は子どもの側に視点を置いてみると、見方が一変する。
気分が落ち着き、穏やかなときは、ふつうの子ども以上の、やさしい情愛行動を母親に示す。
柔和な笑みと、満足そうな表情。
母親に対する気配りも、忘れない。
私が「一緒に家に帰るときは、お母さんの手をしっかりもってあげてね」などと言うと、素直にそれに従ったりする。

が、そんな子どもが、ときとして突発的に錯乱状態になる。
とたん、その子どもの表情、行動が、激変する。
それこそ、「母親に向かって、包丁を投げつける」ようなことを、平気でする。
が、こうした一連の子どもの心理を分析すると、そこに「愛」と「憎」が、同居しているのがわかる。

●異質の愛

 話は少し脱線する。

 ここで私は「愛」という言葉を使ったが、この言葉を使うときは、慎重でありたい。
というのも、愛といっても、若い人たちがよく使う、「肉欲的な愛」も愛であり、老親の世話をするような、「献身的な愛」も愛。
同じ「愛」という言葉を使う。
が、中身は、まったく異なる。

また最近の脳科学によれば、母親が自分の子どもに対して感ずる「愛」について、それが人格的な裏付けのある愛というよりは、本能的な愛であることがわかってきた。
つまりそこらのイヌやネコでも、その程度の「愛」はある……という範囲での「愛」であるということがわかってきた(失礼!)。

 もう少しわかりやすく説明すると、こうなる。

たとえば赤ん坊の泣き声を聞くと、母親は、(もちろん父親の多くも)、いたたまれないような高揚した気分を味わう。
このとき脳内では、麻薬を得たときに反応する部分が、同じように反応していることがわかった(ベイラー医科大学の研究チーム)※。

(注※……母親の反応)
時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似たような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した』(以上、時事通信)と。
 
つまりこうした本能的な反応まで、「愛」に含めてよいかどうかということについて、私は、疑問に思う。
あるいは、さらに言えば、キリスト教で説く「愛」、仏教で説く「慈悲」とは、区別して考える。

●破滅的な攻撃

 話を戻す。

 子どもはかぎりなく深い愛を、親に求める。
が、その一方で、それが満たされないと、一転、破滅的な方法を用いて、母親を攻撃する。
ふつうの攻撃の仕方でないことは、先にも書いた。
まさに相手を、「殺す」、もしくは、「相手が死んでも構わない」というような様子で、相手を攻撃する。
その様子が、あまりにもふつうでなかったため、母親はあわてて、私のところへ飛んできた。

●アンビバレンス(二律背反)

 が、こうした不可解な子どもの行動も、こう考えると、理解できるようになる。

 つまり本能的な「愛」というのは、それ自体が、「憎」を含むものであるということ。
フロイト流に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)と、サナトス(破滅エネルギー)ということになる。
ひとつの心理状態があるとするなら、それと対立的に、相反した心理状態があるという考え方である。
フロイトは、こうした二律背反した人間の心理を、「アンビバレンス(二律背反)」と名づけた。
これもわかりやすく説明すれば、(相手を自分に同化させたい)という欲求そのものが、(というのも、それはもともと不可能なことであるため)、その子どもの内部で、はげしく葛藤すると考えると、わかりやすい。

 もちろん、こうした現象は、子どもだけのものではない。
おとな、とくに精神的に未熟なおとなの世界でも、よく観察される。
わかりやすい例として、ストーカー行為を繰り返す、ストーカーがいる。
自分勝手な思い込みだけで、相手を、無理やり、自分の心と同化させようとする。

結論的に言い換えると、そもそも「憎」をともなう「愛」などというものは、キリスト教で説く「愛」、あるいは仏教で説く「慈悲」とは、まったく異質のものであるということ。

さらに言えば、発達心理学の世界でも、「愛着行為」というように、「愛」という言葉を使うが、それは愛でも何でもないということ。

(ただし英語では、「愛着行為」を、「Attachment」と言い、「愛」という言葉を使っていない。)

●親友夫婦

 とはいえ、「愛」は、常に「憎」を伴う。
男女の間であれば、年齢には、関係ない。
というのも、もともと男女の間では、肉欲的な愛が基本になり、その関係が始まる。
夫婦でも、「友だち夫婦」もしくは「親友夫婦」と言えるほどまで、その関係を昇華するのは、並大抵の苦労では、できない。
というか、幾多の苦楽を共にしたあと、やがてそういう境地に達することができる。
そうでなければ、そうでない。
つまり共にできなければ、その段階で、関係は、終焉する。

●憎

 そこで私は自分の心の内部を見つめなおしてみる。
現在、時刻は午前6:42。
ワイフは、まだ床の中で眠っている。
すっかりバーさん顔になってしまった。
そういうワイフに対して感じている「愛」は、本物か、と。

 答は、残念ながら、「NO」ということになる。
たとえば何かのことで、言い争いになったりすると、私はワイフに対して、明らかに憎しみを覚える。
一方、ワイフは、ワイフで、私に憎しみを覚えるという。
このことは、昨夜、眠る前に、ワイフにそう確かめたから、知っている。

「お前は、ぼくと喧嘩すると、極端に冷たくなるが、ぼくを憎んでいるからか」と聞くと、ワイフは、それをあっさりと認めた。
「そうね、そういうとき、あなたも私も、別人になったように感ずる」と。

つまり「憎」を覚えるようであれば、仮に何十年、いっしょに生活をしてきたとしても、たがいの間には「愛」はないということになる。
あるいは、それは「不完全な愛」と考えてよい。

●愛と憎は紙一重

 こうして今朝、私は、「愛」と「憎」について、ひとつの結論を出すことができる。
昔から、『愛と憎は、紙一重』という。
しかしこの諺の中で説く「愛」は、愛ではない。
それがたとえ子どもに向けられたものであっても、愛ではない。
本能的な、つまりは肉欲的な愛に過ぎない。

 同時にもちろん、母親に向けられたものであっても、それは愛ではない。
そもそもの誤解のもとは、同じ「愛」という言葉を使うところにある。
それが混乱を招く。
だからたとえば、『愛と憎は、紙一重』にしても、本来なら、『肉欲と憎は、紙一重』と言うべき。
子どもの「愛着行為」にしても、「欲着行為」と言い換えたらよい。
母子の間で見せる、あの情愛行動にしても、「情欲行動」と言い換えたらよい。

 それが今朝の、このエッセーの結論ということになる。

●付記
 
 愛というのは、それ自体が深遠なもの。
静かで、音もなく、その人を包む。
同時に、人を愛するというのは、苦しい。
苦しさを伴わない愛など、存在しない。

 よく若い男女が、「愛している」「愛されている」などという言葉を使う。
しかしそんなものは、愛でも何でもない。
ただの「情欲」。
情欲であることは、テレビのバラエティ番組に出てくる男女を見ていれば、わかる。
見るからに軽薄そうな男女でも、平気で、「愛」という言葉を使う。

 同時に、若い母親や父親が、自分の子どもに対して、「愛している」と言うときも、まずそれを疑ってみたほうがよい。
発達心理学の世界には、「代償的過保護」という言葉もある。

 過保護もどきの過保護と考えればよい。

 ふつう「過保護」というときは、その底流に、親の深い、子どもへの(慈しみ)がある。
(思いやりの心)と言い換えてもよい。
が、代償的過保護というときには、それがない。
自分の子どもを自分の支配下に置き、自分の思い通りに子どもを動かそうとする。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもを利用して、実現させようとする。
(だからといって、子育てに夢や希望をもつことは悪いことではない。誤解のないように!)

よい例が、子どもの受験競争に狂奔する父親や母親。
「子どものため」と思ってそうするが、何も子どものためになっていない。
自分の身勝手な価値観を、子どもに押しつけているだけ。

 それを代償的過保護という。

 さらに私は、最近、「タイタニック・シンドローム(症候群)」という言葉を考えた。

●タイタニック・シンドローム

 あの『タイタニック』という映画が、今度は3D版になって、復活するという。
近く劇場で、公開される。

 が、私はしばらくは、3D映画は見ない。
とくにタイタニックのような長時間の大作は、目によくない。
そのことを、数日前、『スターウォーズ』を見て、知った。
途中で目が痛くなるほど、目が疲れた。
ああした動きの速い3D映画を、長時間見るのは、たいへん危険なことでもある。

 それはさておき、あの映画『タイタニック』を見て、それが人として、あるべき原点と錯覚した人は、多いと思う。
あるいはそこに(人生の理想形)があると錯覚した人は、多いと思う。
だからというわけでもないが、最近の若い人たちの傾向として、ひとつ、気になることがある。

 「恋愛こそ、すべて」という価値観である。
(だからといって、恋愛を否定しているのではない。誤解のないように!)

 恋愛イコール、結婚……と突っ走ってしまう人は多い。
しかしたいていの恋愛は、熱病のようなもの。
うたかたの夢。
さらに言えば、脳内ホルモン(フェニルエチルアミン)のなせる業(わざ)。
そこらのイヌやネコでもしているようなことをしながら、それがすべての価値にまさる「愛」と思い込んでしまう。
平たく言えば、裸でベッドの上で、転げまわっているだけ。
それを称して「愛」と。

 こうした一連の、錯覚現象を、私は「タイタニック・シンドローム」と呼んでいる。

●退いた視点

 さて、子育て。
「私は子どもを愛している」と思うのは、その人の勝手。
(私はそれを否定しているのでは、ない。誤解のないように!)
若いときの、体が燃えつくすような情熱とSxx。
それが「愛」と思うのは、その人の勝手。
(私はそれを否定しているにでは、ない。誤解のないように!)

 が、何ごとにも、節度と限度というものがある。
その節度と限度を超えたとき、溺愛になる。
過干渉も過保護も、さらには過関心も、それに含まれる。

 では、どうするか?

子育ては、いつも一歩退いた視点で、する。
見つめる。
ちょうど自分を、自分とは離れた視点で客観的にながめるように、子育てもまた客観的にながめる。
その作法を誤ると、結局は、子どもの心のみならず、自分の心さえも見失ってしまう。
そのひとつの例として、今朝は、「母子分離不安」をテーマにして、考えてみた。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 母子分離不安 アンビバレンス アンビバレント症候群 二律背反 はやし浩司 愛と憎 愛憎 本能的な愛 愛着行動 アッタチメント はやし浩司 attachment ボウルビィ 子どもの情愛 はやし浩司 情愛行動)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

マターナル・デブリベーションとホスピタリズム
について、以前書いた原稿を添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マターナル・デブリベーション(母子関係不全症候群)

+++++++++++++++++++

 乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係にあるべき情愛の欠如を、「マターナル・デブリベーション」という。

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。

また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、8~10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

 その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるにつれて、自分より弱い者をいじめたり、自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

 さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

 もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デブリエイションが原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

++++++++++++++++++

●心の葛藤

 母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはない。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。

++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++

●症状(1)

【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。
漠然と怖い。
超泣く。
所構わず突発的に。
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める) 。
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中) 。

【その他質問、追加事項】

抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続けた。

反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われた。
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)ようになり 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カウンセラーの言葉)自分の存在が0になったと思い、全く身動きが取れなくなりました。

●症状(2)

【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安等を感じます。電話に出たり、ひとりで外出できません。

母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立ち直れません。フラッシュバックがよく起きます。

常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋り続ける妙な癖のようなものがある。

「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解放されると信じていたりして、自分でもマズイと思ってます。

普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたりヒスっぽい奇声を発することもあります。これはごく稀です。

++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++

●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、アマラ、カマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこむ習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」※という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってきた。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになっている。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。

ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、それを末尾に添付しておく。
 
 マターナル・デブリエイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるにつれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待したりするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってきた。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされたが、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという。
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

(注※……ホスピタリズム)

「心理学用語」(渋谷昌三)P192によれば、ホスピタリズムについて、つぎの1項目の症状をあげる。

(1) 身体発育の不良
(2) 知能の発達の遅れ
(3) 情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4) 社会的発達の遅滞
(5) 神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、夜泣き、かんしゃくなど)
(6) 睡眠不良
(7) 協調性の欠如
(8) 自発性の欠如と依存性
(9) 攻撃的傾向
(10)逃避的傾向
(以上、「心理学」より)。

●いじめの問題

 このマターナル・デブリエイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少し書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるにつれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児~年長児(4~6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとした表情を示す。
全体の7~8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももいる。

(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)

しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持することができる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子どもがいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満足げでおっとりした様子を示す。

人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
 「マターナル・デブリベーションという問題があるのは、わかった。
では、私はどうなのか?」と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難しい。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
が、自分ではそれをふつうと思い込む。
私はやさしいとか、冷たいとか、客観的に判断できる人は、ふつうの世界では、いない。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれない。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、そうしていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この「マターナル・デブリベーション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なことではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということもある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もりに関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたとする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デブリエイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日付は、2008年7月となっています。
古い原稿ですが、そのまま掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考原稿)【自立と自律】(N小学校、分科会、レジュメ)

●自立と依存

++++++++++++++++

自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

++++++++++++++++

たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしています。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えてはいけない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがちだが……。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依存性が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、ママ」と自分に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い物など、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってください」という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければならない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はない。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、親自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜文化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもないようだ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由のひとつにもなっている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、セルフ・コントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつの大切なバロメーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわかってきた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができなくなると言われている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

++++++++++++++++

それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。

++++++++++++++++

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。
それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。
たとえば、私の家には二匹の犬がいる。
一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。
これをA犬とする。
もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。
生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。
いつも人の顔色ばかりうかがっている。
私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。
愛想はいいが、決して心を許さない。
その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。
そして腹が減るまで、戻ってこない。
もちろん番犬にはならない。
見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。
寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。
庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。
小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。
しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。
見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。
いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。
A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。
心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。
一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。
だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。
つまり人間を信頼している。
幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。
人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。
このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。
感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。
相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。
一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。
許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。
「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。
相手の心に取り入るのがうまい。
相手が喜ぶように、自分をごまかす。
茶化す。
そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。
当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。
親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。
……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。

他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。
「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。
私が私であって、私でない部分だ。
私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。
家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。
しかしそれが問題ではない。
問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。
そして同じ失敗を繰り返す。
それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。
心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。
私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。
「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。
そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。
そこに教育の本当のおもしろさがある。
あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の過去をのぞいてみよう。
何かがあるはずである。
問題はそういう過去があるということではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。
またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。
あとは時間の問題。

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心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということになる。

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子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マターナルデブリエイション マターナル・デブリエイション 母子関係 母性愛の欠落 ホスピタリズム はやし浩司 ホスピタリズム 症状 長畑 施設病 人間性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期後期 自立期)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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