Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, January 31, 2010

*Child Money

●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司

●子ども手当て

++++++++++++++++

「子ども手当」が支給されるという。
当然のことである。
そんなことは世界の常識。
今さら、おおげさに騒ぐような問題ではない。

それに対して、鳩山首相は、「給食費
などの未納があるばあいには、相殺
できる仕組みを検討するという考えを
示した」(中日新聞・2010・1月31日)と。

とんでもない!
とんでもない(考え)である!
どうとんでもないかは、
私のエッセーを読んでもらえれば、
わかるはず。

++++++++++++++++

●給食費の未納問題

 給食費の未納問題については、たびたび書いてきた。
給食費を払えない、あるいは払わない家庭がふえている。
しかしそれはそれ。

 こういうケースのばあい、(給食費を払えるが、払わない家庭)を前提に考えてはいけない。
(本当に給食費を払えない家庭)を前提に考える。
給食費を払えるのに、払わないというのは、たしかにずるい。
そういう家庭を前提に考えるなら、子ども手当で相殺させるという方法もある。
しかし本当に給食費を払えない家庭もある。
払いたくても、払えない家庭もある。
そういう家庭にまで、子ども手当で給食費を相殺させるというのは、明らかにまちがっている。
貧しい人たちを、さらに貧しくする。
本当に助けを必要としている人たちを、見捨ててしまう。

●相殺

 子ども手当というのは、子どもをもつ家庭を助けるためのもの。
そういう趣旨で考えられるもの。
欧米では常識化している。
が、その子ども手当で、給食費を相殺させるなどという話は、聞いたことがない。
ないというより、非常識。
どうして給食費なのか?

 子どもを育てるには、それなりのお金が必要。
衣食費はもちろん、そのほかもろもろの費用が必要。
何も給食費だけが、費用ではない。
もろもろの費用の、ほんの一部でしかない。
もしこんな論理がまかり通るなら、子ども手当は、ほかのあらゆるものと相殺されることになる。

 学校施設費と相殺する。
テキスト代と相殺する。
交通安全費を相殺する。
学校保険費を相殺する。
修学旅行費と相殺する、と。
「相殺」ということになれば、いくらでもそのワクを広めることができる。

●役人の人件費

 給食費を払えるのに、払わない家庭もある。
が、だからといって、払いたくても払えない家庭までいっしょくたにして、相殺するというのは、先にも書いたように、まちがっている。
してはいけない。

 もしこんなことがさらに常識になってしまえば、今、給食費を払っている家庭まで、払わなくなるかもしれない。
「子ども手当で相殺してください」と。

 そういうことにでもなれば、さらに事務手続きは煩雑になる。
その分だけ役人の仕事がふえる。
役人の数がふえる。
その分だけ、税金が無駄づかいになる。

 ドイツでは、一律、何の制約もなく、チャイルド・マネーを支給している。
フランスでも、そうしている。
その方がわかりやすい。
事務も簡素化し、役人に与える人件費も安くつく。
で、子どもをもつ親が、そのお金をどう使おうが、それは親の勝手。
たかが1万3000円程度(初年度)の話ではないか。
そのお金で、「給食費と相殺する」だと?
バカげている!

●貧乏論
 
 貧乏人と金持ちのちがいは、ほんの紙一重。
貧乏な人は、働いても働いても、お金のほうから先に逃げていく。
一方、金持ちの人は、遊んでいても、向こうからお金が飛び込んでくる。
しかも桁(けた)がちがう。
2桁も3桁もちがう。

 で、金持ちの人たちは、「貧乏な人は、もっと働けばいい」と言うかもしれない。
しかしここにも書いたように、働いても働いても、どうにもならない。
すべてが空回りする。
空回りに振り回される。
一度、そういう状態になると、働く意欲さえ、消え失せる。
それが悪循環になって、貧乏な人は、ますます貧乏になっていく。
つまり貧乏というのは、その人の責任ではない。
「歯車」の問題。
今、この文章を読んでいるあなただって、いつなんどき、その歯車が狂うかもしれない。

 言うなれば、「給食費と相殺させる」というのは、貧乏が何であるかも知らない、どこかのドラ息子の発想。
親から何十億円という小遣いをもらいながら、みじんも恥じない、どこかのドラ息子の発想。
悲しいかな、鳩山首相は、貧乏というのが、どういうものか、まったくわかっていない。

●役人根性

 日本ほど子どもに対する社会保障費の低い国はない。
「アメリカと同程度」と反論する人もいるかもしれないが、アメリカでは、その分だけ、奨学金制度が発達している。
大学生にしても、親のスネをかじって大学へ通っている学生など、さがさなければならないほど、少ない。
つまりこの日本では、それすらも、親の負担。
『子、大学生、親、貧乏盛り』(はやし浩司)という。

 むしろ逆で、子どもをもつ親を、国はもっと保護、助成、補助すべきではないのか。
たった1万3000円程度の子ども手当を、おおげさに「手当」と言って騒ぐ。
騒ぐだけならまだしも、そのお金で給食費を相殺させる。
こんな残酷な話が、どこにある?
(給食費を払えるのに払わない家庭があること)を理由に、(払いたくても払えない家庭)の人たちを、これ以上苦しめてはいけない。

 だいたいこうした発想そのものが、役人的。
一方で「払う」と言っておきながら、「取れるところからは、目一杯、取ってやろう」と。
だったら、せめて給食費くらい、全額無料にすればよい。
役人の数を、数パーセント減らせば、その人件費だけで、給食費は無料にできる。
私が小学生だったころには、学校の給食だけが、(栄養源)だった。
ごちそうだった。
あのころの日本がもっていた(温もり)は、どこへ消えたのか?

●弱者にやさしい社会

 その社会の完成度は、弱者にいかにやさしいかで決まる。
弱者にやさしい社会を、豊かな社会といい、「国」という。
GDPではない。
モノの豊かさではない。
心。
(やさしさ)だ。

 今度の鳩山首相の発言には、その(やさしさ)がない。
がっかりしたというよりは、「なるほどなあ」と、へんに感心してしまう。

 いいか、鳩山首相、子ども手当など、いじってはいけない。
いわんやそれで相殺などと、考えてはいけない。
「どうぞ、お父さん、お母さん、自由に使ってください」と言って、親に渡す。
「子育てはたいへんですね。お金もかかることでしょう」と言って、親に渡す。
それが子ども手当。

 その趣旨を踏みはずしてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子ども手当 子供手当 手当て)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

*Magazine (Feb. 1st)

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教師と女生徒

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数日前、どこかの高校教師が教え子と
性的関係をもったとかで、逮捕された。
高校教師の年齢は、36歳。
たびたびホテルで密会を重ねていたという。
で、それについて当の高校教師は、「まじめな恋愛
だった」と主張(=弁解?)しているという。
つまり(遊び)ではなく、(真剣)だった、と。

その男性教師に妻子がいたかどうかは、報道の
記事だけではわからない。
勤め先の高校を懲戒免職になったということは、
書いてあった。
懲戒免職は当然としても、しかしひょっとしたら、
その高校教師が主張しているように、その関係は
真剣なものであったかもしれない。
「女生徒のほうから、抱きついてきたりした」と
いうようなことも、書いてあった。

+++++++++++++++++++

●(女の子)が、「女」になるとき

 私は若いころから、幼稚園の年中児から、高校3年生まで、一日というサイクルの中で
教えている。
最近は、生徒の数も減り、以前ほど密度は濃くはいが、それでも基本的には、今も同じ。
そういう教え方をしていると、子どもの変化が、やはり1日というサイクルの中で、わか
るようになる。

 そうしたサイクルの中で、それまで(女の子)だった子どもが、「女」になっていく様子
を、たびたび経験している。
何でもない女の子でも、性的な経験をしたとたん、「女」になる。
男の子については、わかりにくい。
しかし女の子は、それがよくわかる。
おもしろいほど(失礼!)、よくわかる。
艶(なまめ)かしくなるというか、強烈な(性)を外に向かって発するようになる。
「ウフ~ン」とか言って、体をよじらせたりする。

●積極的な女の子

 早い子どもで、中学2、3年生ごろからではないか。
最近は、携帯電話を介しての男女交際も活発になってきた。
もう少し低年齢化している。

 で、私も、若いころは、それなりに「男」に見られた時期もある。
何かを教えている最中に、足先で私の足を、ものほしそうに、こすりつけてきた女の子(中
2)もいた。
電話で私を外へ呼び出した女の子(高2)も、いた。
いろいろあった。

 しかしいつもそれ以上に発展しなかったのは、相手の女の子のためというよりは、私自
身に原因があった。
私は学生のころから、女性に対して、まったくと言ってよいほど、自信がなかった。
失恋したのも、大きな痛手となった。
加えて、私の世界では、ほんの小さな(うわさ)ですら、命取りになる。
いつも気がつかないフリをして、その場をやり過ごしてきた。

●油断

 で、私は何とか無事(?)、40数年を過ごしてきた。
「何とか」と書いたのは、そういった誘惑(?)と闘うというのは、簡単なことではない。
人間がもつ欲望というのは、それほどまでに強力。
あとは油断の問題。

 ただひとつ、事件になった教師と私のちがいと言えば、学校の教師にとっては、生徒と
問うのは、向こうから来るもの。
私にとって生徒というのは、こちらから頭をさげて、来てもらうもの。
この(ちがい)が、そのまま(きびしさのちがい)となる。
それだけ。
だから今でも、「もしあのとき・・・」と考えるときがある。
言い換えると、私と先に書いた教師は、どこもちがわない。
この文章を読んでいるあなたとも、ちがわない。
あなたの夫とも、ちがわない。

 だからこういう記事を読んだりすると、その教師を責める前に、「自分でなくてよかった」
と、ほっと胸をなでおろす。

●理性の力

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、そういう教師を擁護しているのではな
い。
逮捕され、懲戒免職になったところで、だれも同情しない。

が、その一方で、「だれがそういう教師を、石をもって打てるか」という問題もある。
マスコミは、鬼の首でも取ったかのように騒ぐが、ではそのマスコミに、それをする資格
があるかといえば、それは疑わしい。
彼らがそういう事件とは無関係でいられるのは、そういう立場にいないから。
政治家とワイロの関係を考えてみれば、それがわかる。

先にも書いたように、人間の欲望というのは、それほどまでに強力。
理性の力でコントロールできるような、代物ではない。
ましてや、「女性との方から抱きついてきたりした」という状態であれば、防ぎようがない。

 ……では、どうするか?

 何度も繰り返すが、(1)厳罰主義を貫く。
(2)教師と生徒の個人的な接触の場を、なくす。

 この2点を徹底するしかない。
こうした対処法は、すでに欧米では、常識化している。
日本も早急に、欧米を見習うべきではないのか。



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●『ただの人』(ハイデッガー)

++++++++++++++++++

つい先日、12月になったと思っていたら、
もう今月もおしまい。
つい先日、2009年になったと思っていたら、
もう今年もおしまい。
つい先日、21世紀(2001年)になったと思っていたら、
もう2010年。

こうして日々は、容赦なく過ぎていく・・・。
過去へ過去へと、失われていく・・・。
・・・と、だれしも考える。
・・・と、だれしも考えやすい。

が、そういう考え方は、あまりにも通俗的。
長い歴史の中で、人は、そのように考えるように、
なってしまった。
つまり「数字」と「人生」を重ね合わせるようになってしまった。
が、そう考えてはいけない。
つまり「過ぎていく」と考えてはいけない。
「失っていく」と考えてはいけない。
何も過ぎていかない。
何も失っていかない。

そこにあるのは、今という「現実」。
現実があるだけ。
数字に惑わされてはいけない。
2009年だろうが、2010年だろうが、
そんなことは、私たちには関係ない。
私たちは、今という「現実」を懸命に生きる。
それだけを考えて生きる。

つまりこういうばあい、「数字」というのは、あくまでも
便宜上のものでしかない。

それがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
人間以外に、年や年齢を気にして生きている鳥や動物が
いるだろうか。
年齢にしても、そうだ。
気にならないと言えば、ウソになる。
しかし年や年齢という「数字」など気にしてはいけない。
気にする必要もない。
私たちは、今の今も、そこにある「現実」に向かって、
まっしぐらに進んでいく。
その上で、こう考えればよい。

「ああ、もうすぐ2010年なのか」と。

(2009年12月28日記)

++++++++++++++++++++

●年齢

 一度できあがってしまった(常識)を打ち破るのは、容易なことではない。
その地域全体の人が、同じように考えている。
そういうところでは、なおさら容易なことではない。

たとえばG県の田舎へ行くと、今でも年長風を吹かしている人は多い。
家父長風を吹かしている人も多い
たった数歳年上というだけで、威張っている。
父親というだけで、威張っている。

 こうした意識の根底にあるのが、「数字」。
年齢という数字。
言うなれば、「金持ちほど偉い」という、金権教の信者と同じ。
本来意味のないものにしがみつきながら、意味があるものと思い込んでいる。
それが意味がないものと、気がつくこともない。
またそれを認めることは、自己否定につながる。
そういう生き方そのものが、その人の哲学になっている。
だからよけいに、しがみつく。

●年齢という数字

 何歳であっても、私は私。
あなたはあなた。
今年が何年であっても、今年は今年。
今は今。
大切なのは、今、何歳かということではなく、今まで生きてきた蓄積が、私やあなたの中
に、どれだけあるかどうかということ。
それがあればよし。
が、それがないなら、あなたが何歳であっても、あなたは、「ただの人」(ハイデッガー)。
数字という年齢をとることだけなら、だれにだってできる。
つまり、繰り返しになるが、「数字」には、意味がない。
まったく意味がない。
まず、私たちは、それを知る。
しっかりと肝に刻み込む。

●幻想

 ・・・こう書くと、「老人の強がり」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分がこの年齢になってみて気がついたことがある。
老人ほど、人生の経験者」というのは、ウソ。
「人格者」というのは、さらにウソ。
まさに幻想。
地位や肩書きなどというのは、その人を飾るカラスの羽のようなもの。
イソップ物語に出てくる、あの話である。
一羽のカラスが、自分を美しく見せようと、自分の体を、いろいろな鳥の羽で飾ろうとす
る。
それと同じ。
自分では美しくなったつもりでいるかもしれないが、まわりの人たちは、それを見て、「バ
カ」と思う。
笑う。

 老人になればなるほど、愚劣になっていく人は、いくらでもいる。
またそういう人のほうが、多い。
だから私は、あえて言う。
「年齢」という「数字」には、意味はない、と。

●中身

 大切なのは、今という「現実」を、どう生きるているかということ。
今という「現実」の中で、自分がすべきことを、しっかりとしているかどうかということ。
そのために、今という「現実」を、しっかりと見据えているかどうかということ。
それには、若いも老いもない。
いくら若くても、死んだも同然。
そんな人は、いくらでもいる。
いくら年を取っていても、前向きに生きている人は、いくらでもいる。
大切なのは、中身。
中身で決まる。
その中身の追求こそが、「生きる」ということになる。

 ・・・とは言いつつ、「数字」はたしかに節目にはなる。
そのつど今の自分を、反省することはできる。
もし年数という「数字」、年齢という「数字」がなければ、生活に対する緊張感も半減する。
「数字」があるから、そこから緊張感が生まれてくる。
(もちろん何ら緊張感をもたないで生きている人も、多いが・・・。)
言うなれば、ウォーキング・マシンでいうタイマーのようなもの。
タイマーがあるから、「がんばろう」という気持ちがわいてくる。
「2010年も、がんばるぞ!」と。

●今という「現実」

 ともあれ、節目としての2009年は、もうすぐ終わる。
で、振り返ってみれば、あっという間に終わった。
・・・というより、「数字」がどうであれ、私は今までどおり、前に向かって懸命に生きて
いく。
今という「現実」は、(今まで生きてきたこと)の結果であり、同時に、(これから生きる
人生)の出発点でもある。
生物学的に言うなら、私たちは常に死に、常に生き返る。
だったら今そこにある「現実」に向かって、まっすぐに生きていく。
「過去」とか「未来」とかいう言葉に、惑わされてはいけない。
過去など、どこにも、ない。
未来など、さらにどこにも、ない。

 だから・・・。
今、できることは、今、する。
今、すべきことは、今、する。
懸命にする。

【補記】

 「数字」にこだわる人は多い。
先に書いたように、たった数歳年上というだけで、年長風を吹かしたりする。
このタイプの人は、当然のことながら、年号や年数にこだわる。
たとえばある宗教団体では、入信年月日によって、信者の上下関係が決まるという。
年齢ではない。
信仰していた年数で決まる。
だから、50歳、60歳の人が、30歳、40歳の人に、頭をさげたりする。
「信心歴が長ければ長いほど、その人は、上」というわけである。

 バカげた考え方だが、信仰の世界に入ってしまうと、それがわからない。
同じように、年長風を吹かす人もそうだ。
言うなれば、『年齢教』というカルトの信者。
「年上」というだけで、威張っている。
「年下」というだけで、「下」にみる。
偉そうに説教をしたりする。
それがおもしろいほど、極端なので、思わず笑ってしまう。
 
 このタイプの人は、当然のことながら、「長生きすればするほど、人生の勝利者」という
ふうに考える。
「数字」が、価値判断の基準となる。
だから幸福感も、「数字」による。
しかも相対的。
隣の人よりも、金持ちであれば、幸福。
隣の人よりも、貧乏であれば、不幸、と。
ふつうはケチで、小銭にうるさい。
そういう点では、一貫性(?)がある。

が、誤解してはいけない。 
長生きすることが無駄というのではない。
お金を稼ぐことが無駄というのではない。
しかしどちらであるにせよ、「数字」に毒されると、「人生」そのものを無駄にする。
それに気がつけば、まだよい。
ふつうはそれにすら気づかないまま、無駄にする。
そういう人は、どこまでもあわれで、かわいそうな人ということになる。
ハイデッガーの説いた、「ただの人」というのは、そういう人をいう。

+++++++++++++

「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎのは2008年4月に
書いたもの。

+++++++++++++

【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a “man”, so-called “das Mann”. But
nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do
toward the of the lives. Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの
人は退職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳
をとれば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて
行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなっ
たことすらわからない。

先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったと
きのこと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつ
なぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の
次元がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれ
ば、みなに忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほ
ど、感動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命を
たどることになる。

繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」
と呼んだ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●2009年12月31日夜(大晦日)

●ちょうど1年前、こんなことを書いていた。

+++++++++++++++++

Death is the great leveller.
(死ねば、みな、同じ。)

+++++++++++++++++

「leveller」というのは、(皆を平等にするもの)という意味。
「ジーニアス英和辞典」には、「だれにでも平等に影響するもの」とある。
つまりどんな人でも、死ねば同じ、イコール、平等、ということ。
わかりきったことだが、それを受け入れるのは難しい。
「私だけは……」と思いたい気持ちもわかるが、例外はない。

で、金持ちも貧乏人も、地位のある人もない人も、名誉のある人もない人も、死ねば同じ。
つまり「Death makes us all equal(死は皆を平等にする)」。

ところで最近、私はこんなことを強く思う。
「死んだ人の時計は止まる」と。

たとえば私の隣人にR氏という人がいた。
亡くなって、もう5年以上になるが、その間、R氏についての時計は止まったまま。
ときどき「もう5年になるのか」と驚くときがある。

そう、私の記憶の中にあるR氏は、5年前のまま。
R氏との思い出にしても、ガラスの箱の中に閉じ込められたようになっている。
外から見えるには見えるが、断片的にしか見えない。
そこでじっとしているだけ。
外には出てこない。
言い換えると、私が死んだら、そのとき、私についての時計は止まる。
あなたが死んだら、そのとき、あなたについての時計は止まる。

こうして人はどこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
この不思議さ。
この切なさ。

しかし元気なときには、それがわからない。
あえて(死)に背を向けて生きる。
(死)を蹴飛ばしながら生きる。
「金持ちになりたい」「地位や名誉がほしい」と。

しかしその果てに(死)が待っているとしたら、人は何のために生きているのか。
・・・そんなことを考えるのも、年末だからかもしれない。

で、少し前、郵便局でこんな会話を耳にした。
どこかの女性(90歳くらい)が、年金をおろした。
手には100万円ほどの札束を握っていた。
それについて、局員の男性が、大きな声でこう言っていた。

「あのね、おばあちゃん、ここでは1000万円までしか貯金はできないの。
国債も、1000万円までしか、買えないの」と。

それを理解できたのかどうかは知らないが、その女性はお金を手さげに入れて、
郵便局を、ヨタヨタと歩きながら出て行った。
足は大きく外側へわん曲し、腰も曲がっていた。
歩くのもままならないといったふうだった。

それを見てワイフは、「だいじょうぶかしら?」と言った。
私は、「何のために?」と言った。

お金がないのも困るが、しかしお金というのは、元気なときに使ってこそ、生きる。
「どうせ皆、平等になる」というのなら、なおさらである。
地位や名誉にしてもそうだ。

私も最近、こんな経験をした。
私が発行しているメルマガ(電子マガジン)が、2008年度の「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた。
6万3000誌もあるということだから、名誉なことにはちがいない。
しかしその喜びというのが、ほとんどといってよいほど、わいてこなかった。
10年前、あるいは20年前の私なら、飛び上がって喜んだことだろう。
あるいは出版の世界だったら、どさっと大金が舞い込んできたことだろう。
しかしそこはインターネットの世界。
何も変わらない。
何も起こらない。
もちろんお金は入ってこない。
「HPのどこかで、宣伝してみよう」とは考えたが、「家族で祝賀会」というところ
までは考えなかった。

(死)という限界をそこに感ずるようになると、そういうことはどうでもよくなる。
私は私。
書きたいから書いているだけ。
それを他人がどう評価しようが、私の知ったことではない。
言い換えると、人は死に近づくにつれて、一次曲線的に、平等になっていく。
死がやってきたからといって、そのときストンと、平等になるわけではない。
すでに今、この瞬間、少しずつ平等に向かって、進んでいく。

だからこの格言をもう少し正確に書き換えると、こうなる。

「加齢は、人をより平等にする」と。
英語になおすと、「Aging makes man more equal」。

そしてこうも言える。

「死は、時計を止める」と。
英語になおすと、「Death stops each man’s clock」。

ホント!
死んだ人は、本当に静かだ。
何も語らない。
何も動かない。
私も、あなたも、やがてすぐそうなる。
これには、先に書いたように、例外はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反省

 昨年の終わりは、かなり沈んでいた。
それでこういう文章を書いた。
(私はここ数年、年末になると決まって、インフルエンザにかかる。
インフルエンザにかかると、ものの考え方が、どうしても悲観的になる。)

で、何のために生きているかって?
いろいろ考える。
しかしいつも答は堂々巡り。
で、結論は、同じ。
「たまたま生きているから、生きていくしかない」と。
簡単に言えば、そういうことになる。
生きている以上、前に向かって生きていくしかない。
その先のこと・・・?

どう考えたところで、なるようにしかならない。
だったら今、精一杯、前向きに生きていくしかない。

 悪いことばかりではない。
いや、ここに生きているということ自体が、奇跡。
あのアインシュタインも、そう言っている。
まず、それを喜ぶ。

ものが見える。
音が聞こえる。
歩くことができる。
話ができる。
だれに対してというわけではないが、生きていることを感謝する。

 そこでもう一度、『死ねば、みな、同じ』という言葉について、考えなおしてみる。
この言葉を反対側から読むと、『生きている人は、みな、ちがう』という意味になる。
つまり、こう考えてみたらどうだろうか。

 『死ねば、みな、同じ』。
それはそのとおり。
が、だからといって、「生きていることには意味はない」と、とらえてはいけない。
『生きている人は、みな、ちがう』というところが、大切。
そこに、生きる意味があると考える。
つまりその(ちがい)を作るところに、生きる意味がある。

 そう言えば、以前、私にこう言った友人がいた。
「林君、総理大臣だってね、10年もすれば、みなの記憶から消えていくよ。
20年もすれば、覚えている人もいない。
だからね、苦労して総理大臣になっても、意味はない。
人生はね、楽しむことだよ」と。

 もちろん私たちは、名誉や地位のために生きているのではない。
名誉や地位というものがあるにしても、それはあとからついてくるもの。
ついてこなくても、構わない。
しかしそこに至るプロセスが大切。
プロセスの中から、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに、生きる価値がある。

 友人は、結論として、「楽しむこと」と言った。
それはそのとおりだが、では、どうやって、何を楽しむか。
さらに言えば、真の楽しみとは何か。
家の中でゴロゴロしながら、バラエティ番組を見ることが、その(楽しみ)とは、だれも
思わない。

 で、1年たった今、私はこう思う。

 『死ねば、みな、同じ』と言った人は、何もできなかった自分を正当化するために、そ
う言ったのではないか、と。
みなと同じように生きてきただけ。
だからそれを居直るために、『死ねば、みな、同じ』と。
つまりつまらない人生を送った自分を、そういう言葉で慰めているだけ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●12月30日

+++++++++++++++++++++++

ここ数日間は、パソコンの引っ越しに時間を
取られた。
たいへんだった。
いちばん手間取ったのは、ハードディスクの
付け替え。
ついでにWINDOW7に、内臓ハードディスクを
取りつけようとした。
しかし肝心の端子が、巨大なグラフィックボードの
下に隠れて見えない。
手鏡とライトを使って、端子にコネクターを
取り付ける。
以前、ビスタ・マシーンで同じことをして、
端子を折ってしまった。
こういうばあい、マザーボード全体を交換する
しかないそうだ。
で、数万円の追加出費。

今回は慎重にした。
無事、すんだ。

・・・とまあ、いろいろある。
いろいろあって、2日もかかった。
この文章は、WINDOW7のワードで書いている。
今のところ快調!

で、その使い勝手。
文章を書くだけなら、ビスタもWINDOW7も、
それほど変わらない。
ホームページの編集に、ホームページを開いたり
保存したりするとき、「ウ~ン、かなり速いな」という
印象をもつ。
しかしこれはOSによるのではない。
私のパソコンは、「i7の64ビットマシン」。
ハードディスクも、高速タイプに付け替えた。
それで速い。

明日から本格的に、WINDOW7に乗り換えるつもり。
あといくつか作業が残っている。

++++++++++++++++++++++++

●信頼感

 パソコンという道具は、完璧に作動しないと、どうも落ち着かない。
先ほども、WINDOW7(以下、W7)に、外付けハードディスクを付けてみた。
反応はあるが、エクスプローラーのほうで表示されない。
フォーマットもしてある。
ほかのパソコン(ビスタなど)では、ちゃんと表示される。

 そのときこんなことを考えた。
このところ(信頼性)を考えて、パソコンの周辺装置は、「日本製」を使っている。
C国製は、価格は安いが、どうも・・・?
外付けのハードディスクは、日立製の1テラバイト。
「日本製なら、だいじょうぶ」と。

 つまり日本製だと、「故障しているはずがない」という前提で、ものを考える。
あちこちをいじる。
が、これがC国製だったりすると、「ひょっとしたら、ハードディスクのほうが壊れている
のかな」と心配になる。
不安になる。
そういう点では、パソコンの世界でも、信頼関係が大切。

どこか教育の世界と同じだな、と。
パソコンの周辺機器は、多少価格が高くても、日本製にかぎる。

 で、ここからが私の性分。
今すぐ外付けハードディスクを使うわけではない。
ないが、完璧に作動しないと、どうも落ち着かない。
なぜか?

 ひとつには、パソコンという機械は、中身を見ても、何がなんだか、さっぱりわからな
いということがある。
何かの不調があったりすると、とたんに不安になるのは、そのため。
だからいろいろな機器を取り付けたり、はずしたりして、完璧さを確かめる。
パソコンの世界では、完璧であることが、何よりも大切。
ほかの機械のように、「一か所くらいなら、壊れていてもいいや」というわけにはいかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●心の温かさvs冷たさ

+++++++++++++++++

今日になって、どっと忙しくなった。
朝から、動きっぱなし。
で、やっと今、……時刻は午後4時37分、
一息ついた。
疲れた。

残るは部屋の掃除だけ。
それは明日にしよう(12月30日)。

+++++++++++++++++

●「心」をもたない生物

 かなりSF的な話になる。
あくまでも、SFとして読んでもらったほうがよい。
こんな話である。

 つまり、あの爬虫類には、「心」が、あるかないということ。
トカゲとか、ヘビを頭に思い浮かべてみればよい。

 たとえば鳥類のばあい、雛をほかの動物が襲ったりすると、親鳥はその敵に向かって、
猛然と立ち向かっていく。
哺乳類では、さらにはげしく立ち向かっていく。
つまり鳥類や哺乳類には、「心」がある。

 では、爬虫類はどうか。
たとえばトカゲの親の目の前から、トカゲの子どもをさらってみる。
そのときトカゲの親は、自分の子どもを守ろうと、何らかの行動に出るだろうか。
が、私が知るかぎり、トカゲが、そうした行動に出たるという話を聞いたことがない。
ヘビにしても、そうだ。

 では、魚はどうか?

 ウ~ン!

 ……魚も、そうした行動に出るという話を聞いたことがない。
さらに昆虫類にいたっては、そうした行動に出るという話を聞いたことがない。
言い換えると、爬虫類や魚類、昆虫類には、悲しみを理解する「心」がないということに
なる。

 だからといって、感情がないと言っているのではない。
喜びや怒りについては、わからない。
餌を見つけたときの攻撃心、餌を取りあうときの闘争心、餌にありついたときの喜びや満
足感などは、あるかもしれない。

が、私たち人間がもっているような(感情)は、爬虫類や魚、虫にはないと考えてよいの
では?
あるとしても、きわめて原始的なもの。
人間がもっているような感情とは、異質のものと考えるのが正しい。

●心の冷たい人

 人格の完成度は、他者との共鳴性で決まる(EQ論)。
ほかにもあるが、共鳴性が、もっとも重要。
他人の苦しみや悲しみを、いかに共有できるか。
共有できる幅の広い人を、人格の完成度の高い人という。
そうでない人をそうでないという。

 そこでこれは極端なケースだが、自分の子どもが危機的な状況になったばあいを考えて
みよう。
どこかの国の独裁者に誘拐されたようなケースでもよい。
そのとき平然と構えていることができるとしたら、共鳴性は、かなり低いということにな
る。
(そんな人は、いないが・・・。)

 誘拐でなくても、他人の子どもが、目の前で危機的な状況になったばあいを考えてみよ
う。
そのとき平然と構えていることができるとしたら、共鳴性は、かなり低いということにな
る。

 トカゲやヘビを基準にするのも、おかしな話だが、そういう人の「心」は、トカゲやヘ
ビと同じ、ということになる。

●グレイ

 で、ここからが、SF的。
もし遺伝子操作か何かで、人間の知的能力をもったトカゲのような生物を作ったとしたら、
その生物は、どんな生物になるだろうか。
つまり知的能力は、人間並み。
「心」は、爬虫類並み。

 実は私はこのことを、映画『フォース・カインド』(The Fourth Kind)を観ているとき、
考えた。
あの映画の中では、「ふくろう」に似た宇宙人が、つぎつぎと人間をさらっていく。
そのやり方というか、やり口が、実に荒っぽい。
乱暴。
子どもだって、平気でさらっていく。
人間だって、ほかの動物を捕獲するときは、麻酔銃などを使ったりする。
しかしあの映画の中に出てくる宇宙人は、そういうことはしない。
泣き叫んで抵抗する人間を、平気で(?)、さらっていく。

 で、「ふくろう」に似た宇宙人といえば、グレイがいる。
目だけがやたらと大きく、体や、それにつづく腕や足は、異常に細い。
身長もそれほど大きくないとされる。
夜中にそこに、その生物(?)を見たら、ふつうの人だったら、ふくろうと思うかもしれ
ない。
一説によれば、あくまでも一説だが、そのグレイは、爬虫類を改造した生物ロボットと言
われている。
「信ずるか信じないかは、あなた次第」(「フォース・カインド」)ということになるが、も
しグレイが、爬虫類の「心」をもっているとするなら、ありえない話ではない。

 子どもをさらわれる親の気持ちなど、理解できない。

●扁桃核
 
 そこで私たち自身について、考えてみたい。
人間だから、平等に、人間らしい「心」をもっているというのは、ウソ。
・・・というより幻想と考えてよい。
心の温かい人もいれば、そうでない人もいる。
自分が温かいからといって、ほかの人もそうであると考えてはいけない。
自分が冷たいからといって、ほかの人もそうであると考えてはいけない。
そしてここが重要だが、一度壊れた心、つまり冷たくなった心は、簡単には元に戻らない。
「話せばわかる」式の発想で、説教したくらいで、冷たくなった心を溶かすことはできな
い。

 で、最近の研究によれば、その鍵を握るのが、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)とい
言われている。
何かよいことをすると、大脳のほうから信号が送られ、扁桃核が、モルヒネに似たホルモ
ンを分泌する。
そのホルモンが、脳内を甘い陶酔感で満たす。
こうして人間は、(よいことをする)ことが、(気持ちのよいこと)と知る。

 が、この段階で、扁桃核が大脳からの刺激に反応しなくなったとしたら……。
仮によいことをしても、甘い陶酔感で満たされることはない。
感情的に、無反応の状態になる。
それだけではないだろうが、「心」というのは、脳の中で、複雑なメカニズムを通して作ら
れる。
「一度壊れた心は、簡単には元に戻らない」というのは、そういう意味である。

●心のすれちがい

 平たく言えば、人間には心の温かい人もいれば、そうでない人もいるということ。
心の温かい人からは、心の冷たい人がよくわかる。
しかし心の冷たい人からは、温かい人が理解できない。
親切にしてもらっても、相手の人が、「お人好し」か、「バカ」にしか見えない。

が、その一方で、心の温かい人にも、それがわからない。
「相手は喜んでいるはず」「うれしがっているはず」と考える。
が、実際には、そうでない。
そこで「?」となる。
心がすれちがう。

 ……といっても、心が温かい、冷たいといっても、相対的なもの。
より温かい人からみれば、あなただって、冷たい人になる。
心の温かい人は、どこまでも心が温かい。
冷たい人は、どこまでも冷たい。
それこそ道端で人が倒れていても、平気でそばを通り過ぎることだってできる。
さらに冷たくなれば……。
それこそトカゲやヘビのような心の持ち主に、なってしまうかもしれない。

●では、どうすればよいか

 ここから先は、教育の問題ということになる。
たとえば幼児でも、ぬいぐるみを見せたとき、うっとりするような目つきで見る子どもも
いる。
反対に、そうでない子どももいる。
大きなぬいぐるみを与えたりすると、「かわいい」と言って抱く子どももいれば、反対に足
で蹴る子どももいる。

 それだけで心の温かさを判断することはできないが、幼児ですら、心の温かさを感ずる
子どももいれば、そうでない子どももいる。

 結論から先に言えば、乳幼児期に、親の温かい愛情に恵まれた子どもは、心の温かい子
どもになる。
この時期に、育児拒否や親の冷淡、無視、さらには虐待を経験すれば、子どもは、心の冷
たい子どもになる。

 このことは育児の常識といってもよい。
で、問題は、そのつぎ……というか、私たち自身のこと。
まず私たちは、(1)どうすれば、自分の心の温かさを知ることができるかということ。
つぎに、(2)「冷たい人間」とわかったとき、どうすれば、それを克服することができる
かということ。

 順に考えてみたい。

(1)どうすれば、自分の心を知ることができるか。
(2)自分が心の冷たい人間と知ったとき、どうすればよいか。

●自分の心を知る

 自分の心を知るというのは、実は、たいへんむずかしい。
どんな人も、自分の心を基準にして、「心」を考える。
だからどんな人も、「私はふつう」と考える。
心の温かい人は、温かい人なりに、「私はふつう」と考える。
心の冷たい人は、冷たい人なりに、「私はふつう」と考える。
だから他人の心がわからない。
自分の心も、わからない。

 が、ときどき、ゾッとするほど心の冷たい人に出会うときがある。
そういう人を知って、自分の心の温かさを知る。
反対に心の温かい人に出会うときがある。
そういう人を知って、自分の心の冷たさを知る。

 ただおかしなことに、心の冷たい人ほど、それを隠すためか、それとも自己嫌悪のため
か、人前では、ことさら自分のやさしさを強調することが多い。
「私、近所の独居老人のために、ボランティア活動をしてますの」と。
どこかおかしい。
どこか不自然。

一方、本当に心の温かい人は、静か。
そうした演技そのものを、必要としない。
だから心の動きも、自然。
これもその人が、本当に心の温かい人かどうかを知るための、ひとつの基準になるかもしれない。

●克服

 方法としては、(1)文化性を高める。
(2)人間性を高める。
こうした努力を、日々の中で実践していくしかない。

 文化性を高めるというのは、日々に人の心のすばらしさに感動するということ。
そのために芸術がある。
絵画でも音楽でもよい。
文学や映画でもよい。
そういうものに接して、自分の文化性を高める。

 また人間性を高めるということは、ずばり言えば、苦労をすること。
私も母の介護・・・というよりは、(母の介護そのものは何でもなかったので)、兄弟や親類と
の確執を経験して、介護の苦しみを味わった。
その分だけ、それを理解するだけの心のポケットができた。
こうしたポケットを、できるだけ幅広く、かつ多く経験する。
経験するというより、乗り越える。

 そのときは苦しいかもしれない。
しかし乗り越えるたびに、自分がもつ人間性が、広く、かつ深くなっていくのを、実感と
して知ることができる。

 私自身は、もともと、心の冷たい人間だった。
今も、冷たい。
どうしてこうなったかということについては、いろいろ思い当るところがある。
が、それはそれとして、つまり過去を悔んでも、しかたない。
心の温かい人間をめざして、前向きにがんばるしかない。

 ただ、だからといって、私に聖人のような人間を求めてもらっても困る。
常に私は、(この程度の人間)でしかない。
だから私は、ひとつ心に決めていることがある。
簡単なことである。

(1)心の壊れた人とは、つきあわない。
(2)心の温かい人は、大切にする。

 私のように心の壊れた人間は、同じように壊れた人間と接すると、自分で自分がガタガ
タと崩れていくのがよくわかる。
それがこわい。
だから、つきあわない。

●心の壊れた独裁者

 ところで話は、ぐんと現実的になる。
つい先日、韓国系のアメリカ人が、あのK国へ単独で不法入国していったという。
どこかのキリスト教団体に属する信者だという。
気持ちはわかるが、どこか狂信的(?)。
あまりにも現実離れしすぎている。
活動の仕方はいろいろあるだろう。
しかし・・・?
朝鮮N報は、つぎのように伝える。

 『・・・パクさんがK国の弱点である人権問題を取り上げ、金xx総書記を批判する手紙を
所持していたという点から、容易に解放できないとの分析もある。韓国政府当局者は「現
在米朝関係が悪いわけではないため、円満に解決されることを期待する」と語った。
一方、ロバート・パクさんが代表として活動するK国人権団体「北の同胞のための自由と
生命2009」は30日、ソウル汝矣島にある文化放送前で集会を開き、パクさんがK国
に入境する前に作成したメッセージを発表する。これには金xx政権の糾弾、K国にある
政治犯収容所の閉鎖、K国人権問題に対する全世界人の関心呼びかけなどの内容が含まれ
ている』(朝鮮N報(12・29)より)。

 こんな方法で、あのK国のあの金xxが、心を開くはずはない。
ないことは、K国情勢が少しでも理解している人なら、わかるはず。
なぜなら、理由は、簡単。
あの独裁者の心は、すでに壊れている。
壊れた人間に(善)を説いても、通じない。

 たまたまこの原稿を書いているとき、そんなニュースが飛び込んできたので、ついでに
書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 心の温かさ 冷たさ 壊れた心)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

Saturday, January 30, 2010

*Divorce & Depression

【夫婦の問題】

+++++++++++++++++++++

100組の夫婦がいれば、100の異なった事情がある。
1組とて、同じ事情の夫婦はいない。
しかも複雑。
大小のちがいはあるだろうが、みな、それぞれの事情の中で、
何らかの問題をかかえている。
問題をかかえていない夫婦はない。
みな、懸命にふんばっている。
ぎりぎりのところで、ふんばっている。
東北地方に住んでいる、HY氏もその1人。
HY氏からのメールを、改めて、読みなおしてみる。
HY氏の問題というよりは、私自身の問題として、
読みなおしてみる。

++++++++++++++++++++++

【HY氏より、はやし浩司へ】

お忙しいところ申し訳ございません。
今家の中は妻と娘の問題で騒然、混沌としております。
どう解決していけばいいかわからない状態です。
先生のお知恵をいただき、何とか解決の糸口を見つる事ができればと思っています。
宜しくお願いします。

妻とは職場結婚し、23年になります。
私は外科医師で妻は元看護師です(結婚と同時に退職)。
結婚当初から気に入らないことがあると、1週間でも口を利かなくなり、私を無視するところがありました。
離婚を匂わせる発言も数回ありました。
私はどちらかと言うと家族の絆・連帯を重んじたいほうで、家内にはそれも重荷になっていたようです。

1年3ヶ月前ちょっとしたことで家内が激高し、それ以来寝室は別々で、家庭内別居の状態が続いています。
元々お互いにセックスレスだったこともあり、今は家内に触れただけで大声を上げて嫌がります。

激高したちょっとしたことについて少し書きます。

・・・早めに病院に行かねばならず、家内が車庫から車を出した際、車庫前に駐車していた隣人の車にぶつかった。
急いでいたしその車が誰のものかもわかっていたので、不覚にも私は家内に、「送っていってから隣人に詫び言って弁償相談して」と言ってしまい、家内にそのようにしてもらった。
しかし家内が帰宅すると隣人の車は出発していたので、家内は隣人に詫びを言い、隣人の車が帰ってきたのは夕方だったとのこと。

その後車庫内に置こうとした私の自転車が、代車がそこにあったことで、うまく駐輪できず、内開きになっている駐車場のドアにかかってしまっていた。
家内が車庫に物を取りに行ったとき、自転車を倒し、自転車が代車にぶつかってしまい、代車が傷つき、家内にそのことを強くとがめられた。

そのまま謝ればよかったのだが、私も眠くイライラして「僕も悪かったが車をとめる時、自転車があるのだから、もうちょっと気をつけてくれてとめてくれても良いのではないか」と抗議してしまった。
非常に雰囲気が悪くなったので、慌てて車を見に行き、かすり傷が、代車についているのを認めた。
車庫内で家内は興奮し、近所に聞こえるような大声で泣きながら怒り始めたので、平謝りに謝った。
翌日自動車会社から私に、「たいした傷ではないので大丈夫ですよ」と言ってもらった。
その日以来、寝室は別になった・・・

対外的に妻は非常に良い人で、幼稚園や小学校でお母さん連中に慕われています。
私の両親にも献身的で祖父母が存命だった時は病院への送り迎えや、母が仙台で手術を受けたときなどは、家族のためにウィークリーマンションを借りたり、下準備を全て行ってくれたり、至れり尽くせりで家族は感謝していました。

また私の父も1年6ヶ月前に亡くなり、秋田で暮らしていた母と、重い精神病の妹が2人残されたので2ヶ月ほど前、仙台市内の我が家から500mはなれたところのマンションを借りるのにも尽力してくれました。

でも私には家庭内別居になってから「おはよう」「おやすみ」「おかえり」などの基本的な挨拶も全くありません。

12歳になる長女は3歳頃から「どうして、どうして」といいながら2~3時間は泣くことがしばしばありました。
家が微妙な状態になった頃、突然受験すると言って中学受験を決意しました。
私が殆どマンツーマンで勉強を見ました(家庭教師もつきましたが)。
今は片道1時間半かかる仙台市内まで、バスと電車を乗り継いで通学しています。
しかし今だ1週間に1回くらいは「自分だけどうして、どうして」と2~3時間大声で幼児返りのようにして泣き続けます。

私立中学入学当初は「一番になる」と豪語していましたが、最近は反抗期も重なりイライラが強く腰を据えて勉強できなくなってきています。
中間テストの2週間前は椅子に座ったと思ったら数秒で立ち上がることを繰り返し、下の子供が寝ると歯磨きをし始める有様に成りました。
もちろん成績も200人中160位くらいでした。「こうやって自分は落ちこぼれていくんだ」と言い聞かせているようにつぶやきます。

今は下の子と帰ってきてから2~3時間遊んで(と言うより遊んでもらって)、下の子が寝る9時頃から1時間かけて10分くらい宿題をして寝てしまいます。
制服も帰ってきてからどんなに注意しても、脱いだままにしています。
「勉強したほうがいいのでは」などというと「今しようと思っていたところなのに、いわれたからやらない!」と拒絶します(言わなかったら殆どしません)。

下の子には思いっきり意地悪をすることが多く、家内は娘を怒ります。
娘はここぞとばかりに、「下の子ばかりかばってどうして自分だけ怒られなければならないの、下の子の方が悪いのに」と言ってまた泣きます。
家内にダッコを求めますが、家内は仁王のように腕組みして立ちはだかり、私に対するのと同じように、「触られたくない」と拒絶します。
弟との差を感じてますます娘は泣きます。

長男は今のところ明るい社交的な子に育っており、母の愛情も充分受けています。でも家庭内のギクシャクのためか切れやすくなってきています。

私の対応としては、出来るだけ家庭内で明るく振舞い家内が嫌な (しつこくする)ことをできるだけ避けるようにしています。でも家内は冷たい・・・

離婚相談のOK先生に円満になれるように相談し始めたところです(家内に内緒で)。
家内に第三者に入ってもらって相談することで建設的になれればと、いっしょに相談にのってもらおうと話を持ちかけましたが、家内は、「それは修復したいと思っている人のすることで、私はこの家にも子供にも未練がない。親権もくれてやる。
あなたにしても、子供にしても帰ってくるのが苦痛だ。私を早く一人にさせて。」と言います。
全てが本心でないのでしょうけど、私に対することは本心と思われます。
「子供には両親が必要だし下の子が20歳になるまでは我々の責任だ」と説得していますが、最近は内心そこまで持たないのではと思います。

家内の精神面がかなり荒廃していると思われ精神科の先生にも相談し安定剤を処方したことがありますが、「私が神病だって言うのかい!」といわれ、1回内服してくれただけで拒絶されました。

それからは何か相談しても(娘のことに関しては会話がかろうじて出来ます)、「精神病の人に聞かないで」と言われてしまいます。
出来るだけ家内を解放して、実家のK町に少しでも帰るように仕向けていますが、外へ向けての完ぺき主義の家内は、夏祭りの準備などで殆ど帰れないように雁字搦めになっています。
今まで家族のためにと思って頑張って働いていたのに、私も死にたい気持ちになったりしています。

ただこのまま私が死んでしまったら子供たちがかわいそうで、母と妹も引っ越してきて、どうしようもないし、私が弱ったらだめと言い聞かせています。
わたしの精神もかなり磨り減っており、カーネギーの「道は開ける」や、心の学校のST先生の、「捨てる生き方」など読み漁っています。

とに角怒らないようにし、子供を過保護にしているのかもしれないけど、抱きしめるようにしています。
ダブルベットで上の子と私は一緒に寝ています。下の子のベッドで家内は寝ていますが、私の部屋が涼しいので、下の子もダブルベットに来るようになり、3人で川の字に寝ることが多くなりました。

このままでは子供の精神が壊れてしまうのではないかということと、家内も相当壊れてきているのではないかと心配しています。

最近は(家内にだけ秘密)、両方の家族に実情を説明し、サポートを期待しています。

あと私に出来ることは何でしょうか?
このまま現状維持で子供は大丈夫でしょうか?
やはり子供が巣立ってから離婚になるのでしょうか、子供のために今離婚したほうが良いのでしょうか?
無理難題の質問してしまい申し訳ありません。
家内は非常に勘が鋭いので、何かありましたら私の携帯(090-xxxx-xxxx)にかけていただければと思います。
何卒ご回答宜しくお願いします。

【はやし浩司よりHYさんへ】

●離婚

 こうした問題は、なるようにしかならない。
また(そうなる)ときは、本当に、自然と、(そうなる)。
水が高いところから低いところを求めて流れていくように、(そうなる)。
たとえば離婚にしても、「離婚する」とか「しない」とか、がんばっているときは、離婚などしない。
言い争っている間は、離婚などしない。
「子どもはどうする」「親はどうする」などと騒いでいるときも、離婚などしない。
本当に夫婦が離婚するときは、ごく自然な(流れ)の中で、離婚していく。
そのときは、子どもの姿も、親の姿もない。
もちろん夫婦の間の会話も途絶え、「話し合っても、無駄」という状態になる。
たがいにサバサバした状態で、夫婦は離婚届に署名し、押印する。

●干渉

 で、改めてHYさんからのメールを読みなおしてみる。
1年前にいただいたときには感じなかった重みを、今は、感ずる。
しかしこれメールだけで、返事を書くことはできない。
夫婦にはその夫婦にしかわからない、深い事情がある。
いくら想像力を働かせても、そこにはかならず限界がある。
このことは反対の立場を経験してみると、よくわかる。

 私もいろいろな経験をした。
けっして平穏、無事な人生ではなかった。
そうした中で、あれこれと私に意見を言ってくる人がいた。
こちらの事情を表面的な部分だけを見て、そこに自分の解釈を加えてくる。
しかもわずか数歳年上というだけで、ものの言い方が説教ぽい。
偉そうな顔をして、「浩司クン、君はねエ・・・」と言ったりする。
あのとき感じた不快感は、今でも忘れない。
ガラス板を、つめ先でひっかくような不快感と言ってもよい。

 そういう私を知っているから、こうした問題、つまり夫婦の問題にかぎらず、
家庭内の問題については、私は、首をはさまないようにしている。
もちろん相手から相談があれば、話は別。
が、それでも一方的な話だけでは、
何とも答えようがない。

 このHYさんにしても、私はHYさんから相談を受けた。
おそらくHYさんは、自分につごうの悪い話は書いていない。
あるいは自分でも気がついていない問題が、ほかにもあるのかもしれない。
正当に判断しようと考えるなら、HYさんの妻の話も聞かなければならない。

 が、それはさておき、メールからもわかるように、HYさん夫婦は、現在、
危機的な状況にあることだけは、よくわかる。

(1) 寝室は別々で、家庭内別居であること。
(2) 妻の体に触れただけで、はげしく拒否されること。
(3) ささいな会話が、そのまま爆発的に、夫婦喧嘩になってしまうこと。
(4) 意思の疎通も、ままならないといった状態、など。

●がんばる当事者たち

 私は若いころ、アメリカ人の離婚率は高いと、よく聞かされた。
しかし現在、アメリカ人の離婚率も、日本人の離婚率も、それほどちがわない。
それだけ生活が欧米化したともとれる。
が、ともに心のブレーキがはずれたことも、理由のひとつと考えてよい。

 日本では、女性の側が、がまんした。
「離婚は恥」という文化性も、まだ色濃く残っていた。
それに離婚したばあい、女性のほうが決定的に不利な立場に置かれた。

 一方、アメリカでは、宗教的な制約から、離婚したくても離婚できない夫婦が多くいた。
今もそうなのかもしれない。
もしその制約が緩めば、離婚率は、もっと高くなるかもしれない。
ともかくも、(離婚)イコール(悪)という考え方は、今では通用しない。
日本では、女性ががまんする時代は、終わった。
5組に1組は離婚する状態である。

●男親

 それはそれとして、私も「男親」の1人として一言。

 男親というのは、仕事をすることで、家族への義務を果たそうとする。
また仕事をしていれば、家族への義務を果たしていると思いやすい。
しかし残念ながら、(仕事)の力は弱い。
安定した仕事をしていればしているほど、家族は、それを(空気)のように思う。
つまり男親が自負しているほど、家族は、それを評価しない。
私も、よく言われた。
「パパは、仕事ばかりしている」と。

 そういう状態になると、男親の苦労話など、家族にとっては、愚痴になってしまう。
HYさんも「家族のために……、がんばって……」という言葉を使っている。
しかしそうした(思い)というのは、家族には通じない。

 もっと具体的には、現在、親に感謝しながら高校へ通っている高校生など、さがしても
いない。
大学生でも、少ない。
つまりそういう幻想をもたないこと。
またそういう幻想に、しがみつかないこと。
バートランド・ラッセルも言っているように、(親として、すべきこと)はする。
しかし常にその限度をわきまえる。

●拒否

 メールを読むかぎり、なぜHYさん夫婦が離婚しないかという問題より、なぜ
夫婦でいるかということのほうが、理解できない。
仲がよくても、セックスレスの夫婦はいくらでもいる。
一方、セックスをしているからといって、夫婦仲がよいということにもならない。

 が、「妻の体に触れただけで、はげしく拒否される」というのは、ふつうではない。
妻のほうに、何か、理由があるのだろうか?
夫のほうに、何か、原因があるのだろうか?
しかしもしそうだとするなら、HYさん夫婦は、他人以上の他人になっている。
私がHYさんだったら、1日だって、そういう状態には、耐えられないだろう。

●子どもの問題

 こうした離婚では、いつも子どもが問題になる。
しかし一度離婚を決意した夫婦は、子どもの姿さえ、見えなくなる。
子どものことはどうでもよくなるというのではない。
「離婚することが、子どものため」というような考え方になる。
言い換えると、HYさんは、まだその段階ではないということになる。

 だから以前、このメールをHYさんからもらったとき、私は返事に、こう書いた。

「離婚するときは、未練を残さないようにしたらいい」と。
未練を徹底的に、燃焼させる。
燃えカスが残らないほどまでに、燃焼させる。
未練が残った状態では、離婚はできない、と。
HYさんのばあい、その未練は、どの程度、残っているのだろう・・・?

●私たちのばあい

 実のところ、私たちも、2010年の1月、かなり危機的な状況に追い込まれた。
危機的といっても、たがいの間に、何か問題が起きたというわけではない。
が、三男が、私たちから完全に去ったのを知ったとき、たがいの間を結びつけていた、
(かすがい)が、消えたかのように感じた。

 「さみしい」と感ずる私。
「何でもない」と割り切るワイフ。
その間に、私は遠い(距離感)を覚えた。

 「あなたは親意識が強すぎるのよ」と、ワイフは、私を批判した。
「勝手にやりすぎただけよ」と、ワイフは、私を責めた。
それでワイフを、遠くに感じた。
それでいつものように、「お前なんかとは、離婚してやる」
「今度こそ、離婚しましょう」となった。

●下田にて

 で、今、私はこの原稿を、下田の白浜海岸そばにある、ガーデンビラ白浜という
ホテルで書いている。
星は4~5つの★★★★。
夏場に訪れたら、最高!、というペンション風のホテルである。
金儲け主義のホテルとちがって、経営者の個性が随所でキラキラと光っている。

 そのホテルに、今、ワイフといっしょに泊まっている。
これから食事をしたあと、貸し切り風呂に入ることになっている。
風呂からは、太平洋が一望できるとか。

 おかしな夫婦で、一方で離婚を口にしながら、こうして旅行している。
「なぜついてきた?」とワイフに聞くと、「あなたの体が心配だからよ」と。
「どこでぶっ倒れようが、ぼくの勝手だ」と言うと、「迷惑するのは私よ」と。

 この正月、狭心痛(?)なるものを、数回経験した。
どういうのを狭心痛というのか知らないが、胸がしめつけられるように、痛かった。
以来、ときどきその痛みを感ずる。

 あるいは、ひょっとしたら、逆流性胃炎かもしれない。
2年ほど前、一度、それになったことがある。
そのときも、胸全体が焼けるように熱く感じた。

●1月30日

 で、今、そのワイフは、どこかよそよそしい。
どこか他人ぽい。
「簡単には仲直りしませんよ」という態度である。
そういう態度を見ていると、私のほうも、「そっちがそっちなら、今度こそ、
本気で離婚してやる」と考える。

 しかしこういう状態で、離婚するのもたいへん!

仕事の問題、財産の問題、それに老後の問題。
ワイフは「親戚がどう考えようと、私には関係ない」と言うが、そういった問題も
ある。
それを考えると、気が重くなる。

 まあ、しばらくは様子を見たほうがよいのかも・・・?
ワイフもそう言っている。
ふだんはやさしいワイフだが、喧嘩状態になると、貝殻を閉ざしたように、頑固に
なる。

●離婚

 ・・・ということで、どんな夫婦にも、問題はある。
問題のない夫婦はない。
それぞれがそれぞれの立場で、悩み、苦しみ、懸命にそれと闘っている。
HYさんにしても、そうだろう。
「今ごろは、どうしているだろう?」と考える。
が、私のできることは、ここまで。
私たち自身でさえ、四苦八苦している。
どうしてそんな私が、HYさんのような人の相談に乗ることができるだろうか。
おこがましいというよりは、その一歩手前で、おじけづいてしまう。

 ただ先にも書いたように、今どき、離婚を重大視するほうが、おかしい。
結婚があれば、離婚もある。
もともと(性的関係)で結びついた人間関係だから、壊れるときには、壊れる。
友情や親戚関係とは、中身がちがう。
深みも、ちがう。
だから「離婚は悪」という前提で、ものを考えてはいけない。
人生は短いが、やりなおしは、何度でもできる。

 子どもの問題にしても、離婚そのものは、子どもにはほとんど影響を与えない。
与えるとしたら、離婚に至る家庭騒動。
夫婦喧嘩。
それが長ければ長いほど、子どもに与える影響は、大きい。

 離婚するとしても、「明るく、さわやかに」(某テレビタレント談)ということになる。

●補記

 先ほど、ホテルの露天風呂に入ってきた。
ちょうど満月が、頭上高く昇り、太平洋を、美しく照らし出していた。
今までいろいろな露天風呂に入ってきたが、ここ、ガーデンビラ白浜のそれは、最高!
時間割で、家族風呂として使うことができる。
先ほど星は4つと書いたが、料金も勘案すると、5つの★★★★★。

 伊豆の下田のほうへ来ることがあったら、一度、このホテルを検討してみたらよい。
小さいがプールもある。
夏場には、どう開放されるかどうかは知らないが、眼下には、コバルトブルーの
入り江も見える。

 さて私のワイフ。
一方で離婚を口にしながら、私が「今度、金沢(石川県)へ行ったら、前泊まった
ホテルと同じところにしようか?」と言うと、「うん」と。

 おかしな夫婦である。
本当におかしな夫婦である。
私自身がそう思っているのだから、まちがいない。
こういう感じで、もう40年も、いっしょに、過ごしてきた。

(注)「ガーデンビラ白浜」・・・室内の案内書では、「ガーデンヴィラ白浜」と
なっている。
電話は、0558-22-8080。
住所は、〒415-0012 静岡県下田市白浜2644-1。

 建物はやや古いかなという感じだが、どこか明治時代の洋館を思わせるような
雰囲気。
アガサ・クリスティの推理小説に出てくるような宿屋(Inn)という感じ。
大ホテルにありがちな垢抜けたサービスも悪くないが、私は久しぶりにくつろいだ
ひと時を過ごすことができた。
とくに露天風呂は、最高!、の一言。
よかった!

 私は今、そのホテルの306号室で、このエッセーを書いている。

【ガーデンヴィラ白浜】

●もと物産マン

帰りの車の中で、ホテルのオーナーが、三井物産元社員だったということを知った。
「父は、商社マンでした」と、その女性は言った。
娘さんだった。
「バンクーバー勤務を最後に、商社を退職し、あそこにホテルを買い求めました。
8年前のことです」と。

 オーナーの男性が、昭和22年生まれということは知っていた。
チェックアウトするとき、立ち話だったが、そういう話になった。

私「商社って、どこですか?」
娘「三井物産です」
私「エッ、物産マン?」
娘「そうです」
私「私も、そうでした」

娘「あなたもですか?」
私「大学は……?」
娘「東大です」
私「東大の……?」
娘「理2、化学です」と。

 オーナーの名前は聞いていなかった。
それに理2といえば、恩師の田丸先生が当時、教授をしていた。
そこにいた人が、東大を卒業し、私と同じ年に三井物産に入社した。

私「先にそれを知っていたら、話がはずみました」
娘「そうですね」
私「残念です。とても残念です」
娘「父は、化学部で、化学プラントを担当していました」
私「はあ、私は繊維です」
娘「繊維ですか?」
私「そうです。でもサラリーマンがいやで、物産をやめました」と。

 私は早口でまくしたてた。
車はすでに下田の街の中を走っていた。
瞬間、Uターンして、もう一泊しようかと考えた。
しかしその思いは、車が止まったとき、消えた。

私「だったら、ずっと営業畑だったんですね?」
娘「そうです」
私「私も、入社直後に、営業へ回されました」
娘「そうですか……」と。

 三井物産という会社では、内部では、自分たちのことを「物産マン」と呼んでいた。
それに社員は、「管理」と「営業」に分かれていた。
商社マンの世界では、営業マンこそが、商社マンということなる。
その営業マンの中でも、海外へ出るのは、約30%。
物産マンの中でも、エリート。
70%は、国内営業ということになっていた。

 もっと話をしたかった。
私の過去の中でも、三井物産時代だけが、スッポリと抜けてしまっている。
つきあっている友人もいない。
それだけに残念だった。

私「海外勤務だったということは、正社員だったんですね」
娘「そうです」
私「あそこには、いろいろな社員がいましたから」と。

 あわただしい会話だった。
ふつう「物産マン」というときは、正社員をいう。
子会社から派遣されてきた嘱託社員は、「物産マン」とは呼ばない。
内部ではかなり差別的に扱われていた。

 そのホテルのオーナーは、サラリーマンがいやで、現在のホテルを買収して、
自分でそのホテルを経営するようになったという。
その気持ちは、よくわかる。
わかりすぎるほど、よくわかる。
だから、よけいに残念だった。

私「よろしくお伝えください。また行きます」
娘「おいでください」と。

 父親とともに、海外をあちこち回ったらしい。
日本人にはない、センスが光っていた。
私たちは何度も頭をさげて、その女性と別れた。

 書き忘れたが、下田へは、講演でやってきた。
講演の内容は、下田の有線放送で、流されるとか。

●HYさんへ

 HYさんからのメールについて書いているうちに、離婚から、下田の話に脱線して
しまった。
ついでにガーデンヴィラ白浜の話になってしまった。

 で、このエッセーの結論。
気が腐ったら、旅行をする。
すてきなホテルに泊まる。
温泉に入る。
とたん離婚旅行が、再婚旅行に変わる。

 よかった!
明日からまた仕事。
がんばるぞ!

 HYさん、ありがとう!
ガーデンヴィラ白浜のみなさん、ありがとう!
ついでに、我がワイフ、晃子、ありがとう!
これからもよろしく!

 本当によい旅だった。
そうそう最後になったが、講演の主催者の下田地区教職員組合のみなさん、ありがとう!
(2010-01-31)

(はやし浩司 離婚 再婚 ガーデンビラ白浜 白浜温泉 ガーデンヴィラ白浜 ガーデン ヴィラ 白浜 ガーデン ビラ 白浜 リゾートホテル 白浜リゾートホテル)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司
 
●うつ

++++++++++++++++++

うつ状態というのは、それになった人でないと、
どういう症状なのか、わからない。
とくに心の健康な人には、わからない。
「気のせい」とか、「心の持ち方の問題」とか言って、
簡単に片づけてしまう。

そういう人に出会うと、うつ状態の人は、
絶望感すら覚える。
この病気だけは、理屈だけで割り切ることができない。
脳間伝達物質の偏(かたよ)りで発症するため、
本人自身の力では、コントロールできない。

たとえばよくある早朝覚醒。
これにしても、朝早く目が覚めてしまう。
目が覚めてしまうから、どうしようもない。
「もっと眠っていよう」と思えば思うほど、
頭が冴えてしまう。
たった今が、そうだ。

++++++++++++++++++++

●私のばあい

 うつ病にも、さまざまなタイプがある。
が、それについて書くのが、ここでの目的ではない。
また書いても、参考にならない。
それに私は、その病気の専門家ではない。

 が、私のばあいは、ひとつのことにこだわり始めると、どんどんとその深みにはまってしまう。
ふだんなら笑ってすませるような話でも、「ぜったいに許せない」とか、「あいつはまちがっている」とか、そういうふうになる。
神経は緊張状態にあるため、ささいなことで激怒したり、大声をあげたりする。

 で、精神安定剤が効果的かというと、そうとも言い切れない。
そのときはぼんやりとした睡魔に襲われるが、1、2日もすると、かえって神経がいらだってしまう。
だからやや長期的な視点で考えると、こうした「精神薬」は、必要最小限にしたほうがよい。
とくに脳間伝達物質をいじるときは、そうしたほうがよい。

●タネ

 うつ病には、かならず原因となっている(タネ)がある。
そのタネを、まず取り除くこと。
そのタネさえ取り除けば、ときとして、パッと気が晴れる。

 で、私のばあい、精神的な負担感には、たいへん弱い。
心が過度に緊張するあまり、数時間もすると、ヘトヘトに疲れてしまう。
実際には、数時間はともかくも、1日もつづかない。
攻撃的に爆発するか、反対に、あきらめて、心の整理を先にしてしまう。
投げやりになることもある。
「負けるが勝ち」と逃げてしまうこともある。

 どうであるにせよ、うつ状態というのは、本人にとっても、いやな状態である。
悶々とすればするほど、心が蝕(むしば)まれていく。
いじけたり、くじけたり、ひがみやすくなったりする。

●買い物

 で、私のばあい、そういう状態になったら、こうする。
若いころから、何かほしいものがあったら、パッとそれを買う。
買ったとたん、胸がスカッとする。
(反対にほしいものを、長い間がまんしていると、悶々とした気分になる。
それがうつ状態を引き起こすこともある。)
これは脳の中の、どういう反応によるものか?

 多分、ドーパミンがドッと分泌され、それが物欲を満たす。
その満足感が、脳内を甘い陶酔感で満たす。
言うなれば、麻薬をのんだような状態になる(?)。

 これはあくまでも、私という素人の判断だが、たとえば買い物依存症なども、
似たような現象を引き起こす。
何かの依存症になる人には、うつ病の人が多い。
そのモノがほしいから買うのではなく、買うことにより、物欲を満たす。
喫煙者がタバコを吸ったり、アルコール依存症の人が酒を飲むようなもの。

●発散

 どうであるにせよ、加齢とともに、うつ状態は、ひどくなる。
「初老性のうつ病」という言葉もある。
若いときとちがって、気分の転換がむずかしくなる。
一度、落ち込むと、それが長くつづく。
それに最近気がついたが、いろいろな病気を併発する。

 頭痛、胃炎、それに心痛などなど。
体の弱い部分が、表に出てくる。

 で、私のばあい、そうなったら、子どもを相手に心を発散するようにしている。
ときどきレッスンで、メチャメチャ、羽目をはずすことがある。
(YOUTUBEで、紹介中!)
落ち込んでいるときほど、そうする。
子どもたちも喜んでくれるが、同時に、それは私自身のためでもある。
レッスンが終わったあと、気分が変わっているのが、自分でもよくわかる。

●仲良くする

 要するに、まじめな人ほど、この世の中では、うつ病になる。
そういう点では、この世の中は、うつ病のタネだらけ!
(たぶんに、弁解がましいが・・・。)

 しかし私の印象では、うつ病というのは、仲良くつきあう病気で、闘うべき病気
ではないということ。
もちろん症状がひどくなれば、それなりの対処もしなければならない。
しかし症状も軽く、ときどき、慢性的に起こる程度いうのであれば、仲良く、つきあう。
だれだって、落ち込んだり、反対にハイになったりすることはある。
そう考えて、ジタバタしないこと。
できるだけ薬物の世話になることは、避ける。
一度、世話になると、それこそ、薬なしでは生活できなくなる。

 私のばあいは、精神安定剤と熟睡剤、あとは市販のハーブ系の薬をうまく使って、
自分をコントロールしている。
漢方薬にも、よいのがある。
脳間伝達物質を調整するような薬は、よく効くのかもしれないが、そのあと起こる
フィードバックを考えると、こ・わ・い。

 「フィードバック」というのは、ある種のホルモンを、人工的に体内へ取り入れると、
そのホルモンを中和しようとして、相対立するホルモンが分泌されることをいう。
それが長くつづくと、本来そのホルモンを分泌している器官が、ホルモンの分泌を
やめてしまう。
副作用のほうが、大きい。
ステロイド剤も、そのひとつ。

●長い間、ありがとう(?)

 どうであるにせよ、老後は、みな、そのうつ病に直面することになる。
言うなれば天井の低い、袋小路に入るようなもの。
薄日は差すことはあっても、青い空など、もとから求めようもない。
友の死、知人の死がつづけば、なおさら。
大病になれば、さらになおさら。

 で、おかしなことだが、私はこの正月、狭心痛(?)なるものを、覚えた。
そのときのこと。
「心筋梗塞で死ねるなら、本望」と。
いわゆるポックリ死である。
ふだんの私なら、心気症ということもあって、何かの病気を宣告されたら、それだけで
ガタガタになってしまう。
が、こと心筋梗塞について言えば、こわくない。
私の父親も、その心筋梗塞で命を落としている。

 私は、やるべきことは、やった。
今さら、思い残すことは、ほとんどない。
これから先、10年長生きしたとしても、状況は同じだろう。
10年後に、今よりすばらしい文章が書けるという保証はない。
反対に脳みそは、不可逆的にボケていく。

 息子たちは、みな、去っていった。
去っていっただけではなく、心も離れてしまった。
ワイフとの関係にしても、今は、どこかギクシャクしている。
落ちつかない。
ただオーストラリアの友人のB君だけが、このところ毎日のように、「オーストラリア
へ来い」「いっしょに住もう」と、提案してくれている。
希望といえば、それだけ(?)。

 だから今は、こう思う。
「いつ、死んでも構わない」と。
一時の激痛ですむなら、それでよい。
それで死ねるなら、それでよい、と。

 ・・・しかしそう考えること自体、うつ病なのかも?
脳のCPU(中央演算装置)が狂ってくるから、自分ではその(狂い)はわからない。
「正常」と思いつつ、「異常」な考えをもつ。
「死んでもいい」というのは、どう考えても、異常である。
おかしい。
しかしこればかりは、どうしようもない。
心臓という、私の手の届かないところにある臓器の問題である。

 あとは運命に命を任すしかない。
もし私がポックリと死んだら・・・。
そのときは、そのとき。
電子マガジンも、そこでおしまい。
BLOGも、そこでおしまい。

 みなさん、長い間、購読、ありがとう!
(前もって、言っておきます。)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

Friday, January 29, 2010

*Don't make the intellectual the God

【知性vs人間性】

●人間性の喪失

+++++++++++++++++

近くの郵便局で、元局長が、客や仲間から、
数億円を詐取するという事件が起きた。
「儲かるから、投資しないか」と、客たちに
呼びかけていたという。
あるいは客からの預かり金を、そのまま、
ネコババしていたという。

+++++++++++++++++

●他者との共鳴性

 人間性は、一言で表現すれば、「他者との共鳴性」で決まる。
共鳴性の深い人を、人間性の高い人という。
そうでない人を、そうでないという。
他者を平気で(?)だます人は、それだけ人間性が低いということになる。
ここにあげた事件では、元局長(当時は局長)が、客を、つぎつぎとだまして、金をネコババしていた。

 罪の意識はあったのだろうか?
それともなかったのだろうか?
他人への迷惑を考えるなら、とてもできなかった犯罪である。
身近で起きた事件だけに、いろいろ考えさせられた。

●親をだます子どもたち

 親に学費を出させ、その学費で、遊びまくる。
勉強など、しない。
専門書も、買わない。
買うといえば、漫画やコミック本ばかり・・・。
親子の関係とはいえ、これは立派な犯罪である。

 今、そんな学生がふえている。
・・・というより、もとから学ぶ意識など、ない。
目的もない。
だから遊ぶ。
で、金がなくなると、「~~の資格を取るために、30万円、必要」とか
何とか言って、親に金をせびる。
あとはバイト、バイトの生活。

●知的な人間

 このタイプの学生にかぎって、外面(そとづら)だけはよい。
ボーイフレンドやガールフレンドに、献身的に仕えたりする。
服代や化粧代だけに、金をかける。
あるいは相手の両親には、献身的に仕えたりする。
実家では掃除の「ソ」の字もしたことのないような学生が、正月には、相手の家で、
大掃除を手伝ったりする。

 一事が万事。
万事が一事。

 はげしい受験競争をくぐり抜けた学生ほど、そうで、あのアインシュタインも、
こう書いている。
「知的な人間を、神にしてはいけない」と。

いろいろに解釈できるが、「知性」と「人間性」は、別物と考えてよい。

●予兆

 数億円・・・新聞の報道によれば、7億円~とか!
どこかの投資会社にのめりこんで、それで金額がふえていったということらしい。
私はその記事を読んで、その犯罪性よりも、その男性の過去に興味をもった。
年齢は、40代半ば。

 「こんな男なら、親をだますのは、平気だろうな」と思った。
あるいは「親は、それに気づかなかったのだろうか」とも思った。
あるいはその逆でもよい。
バカな親がいて、息子をして、そういう息子にしてしまった。
が、こうした予兆は、早ければ子どもが小学生のときから、見られるようになる。

●小ズルさ

 「ズルイ」といっても、2種類ある。
子どもらしいズルさ。
表面的で、どこかイタズラぽい。
もうひとつは、その子どもの奥深くから発している、ズルさ。
「ズルい」というより、「狡猾(こうかつ)」。

 親のキャッシュカードから現金を引き出して、遊んでいた子ども(小学生)がいた。
あるいは親と教師を、その間に立って、自分の意のままに操る。

 親には、「あの先生は、依怙贔屓(えこひいき)する」と訴える。
一方、先生には、「ぼくのママが、先生のことを、教え方がヘタだと言っていた」と言う。
こうして親と先生の信頼関係をこわしながら、自分にとって居心地のよい世界を作る。

●親バカ

 結局、行き着くところは、「親バカ」論。
本来なら、こんな子どもには、1円も渡してはいけない。
必要なことはしても、それ以上のことをしてはいけない。
が、親にもメンツや世間体がある。
「何とか、学歴だけは・・・」という弱みもある。
そこで金を出す。
出しつづける。

 が、肝心の子どもは、感謝の「か」の字もしていない。
中には、「親がうるさいから、大学だけは出てやる」と豪語(?)する子どもいる。
大半の学生は、大学を出ると同時に、「ハイ、さようなら!」。

 内閣府の調査によっても、「将来、親のめんどうをみる」などと考えている若者は、
28%前後しかいない(後述、注※)。

 で、親は、あるとき、ハタと気がつく。
「私の子育ては、いったい、何だったのか」と。

●ツケ

 ずいぶんときびしいことを書いたが、結局は、そのツケは、子ども自身に回ってくる。
目一杯の派手な生活。
余裕のない生活。
その先で待っているのは、孤独。
「豊かな貧困感」。
見た目には豊かだが、心はいつも飢餓状態。
貧しい。
しかも、都会の一流大学を出た子どもほど、そうなるというのは、人生の皮肉としか
言いようがない。

すべてをあの受験競争のせいにするわけにはいかない。
が、受験競争が影響を与えていないとは、もっと言えない。
思春期前夜から思春期にかけて、成績という数字だけに振り回されるようになると、
子どもは、とたんに冷たくなる。
その(冷たさ)は、親にはわからない。
が、私には、わかる。

 私は、この40年間、幼稚園の年中児から高校3年生まで、子どもたちを教えてきた。
そういう(流れ)の中で、子どもたちの心が、あの受験期を境に、どんどんと
変わっていくのを知っている。
それを毎年のように、目の当たりに見ている。
わかりやすく言えば、過酷な競争は、その子どもから共鳴性を奪う。
人間性を殺す。
親は、「おかげで一流大学に合格できました」と喜んで見せるが、そのうしろで
吹きあげている秋の空風(からかぜ)には、気づいていない。

 40代で郵便局の局長をしていたということだから、きっと頭のよい男だった
のだろう。
そこそこの学歴もあったに、ちがいない。
しかし7億円とは・・・!

 「これでいいのか?」と、疑問をぶつけて、このエッセーを終える。
これでいいのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 受験教育の弊害 人間性 共鳴性 スポイルされる子どもたち 親バカ論)

(参考)

(注※)日本と韓国の若者は、将来、親の面倒を見ようという意識が低い・・・。日韓、欧米の計5カ国の若者を対象にした内閣府の調査で、こんな実態が浮き彫りとなった。
調査は日本、韓国、米国、英国、フランスで、18~24歳の男女各1千人前後を対象に5年ごとに面接方式で実施しており、今回(2009年)で8回目。

現在、母と暮らすのは韓国が77%(父とは74%)と最も多く、次いで日本が74%(同68%)で、欧米3カ国の平均は48%(同37%)だった。

「親から経済的に早く独立すべきだ」という考え方について、「そう思う」が各国とも75%を超え、日本は89%と最も高く、次いで韓国の84%だった。

一方、将来、年老いた親を「どんなことをしてでも養う」と答えたのは英66%、米64%、仏51%と欧米が高かったが、日本は28%、韓国も35%と低かった。逆に「将来、自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたいか」の問いでは、「そう思う」は欧米3カ国の平均67%に対し、日韓は40%台だった。

日韓の若者の傾向について、内閣府の担当者は「親との同居世帯は多いが、将来への独立志向が高く、親の面倒をみるという意識も低い。欧米に比べると親子関係はドライなのかもしれない」と話している。(石塚広志氏HPより引用)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

Thursday, January 28, 2010

*An Article written by me 50 years ago

●『アバター』と私

+++++++++++++++++

私が中学1年生のときに書いた作文を
紹介する。
今からちょうど50年前に書いた。

当時まだ、コンピューターというのは
なかった。
私がはじめてコンピューターなるものを
見たのは、大学2~3年生のとき。
工学部の実験室にそれがあった。

当時のコンピューターは、コンピューターと
いっても、紙テープに、点字で使うような
穴を無数にあける程度のものだった。

もちろん今でいう、モニターなど、なかった。

そういう時代、つまり私が13歳のときに
書いた作文である。
どうか一読してほしい。

・・・というより、私は、こうした情報を
どこでどう手に入れたのか、よく覚えていない。
手塚治虫の『鉄腕アトム』というのは、
すでによく知っていたので、その影響を
受けたのかもしれない。

が、最近見た、映画『アバター』にも
負けないような内容(?)と思っている。

(これは私の自慢!)

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http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4313002066/sizes/l/

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

*^7 months children

●臨界期(0歳~7か月ごろ)

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生後直後から、約7月前後までの期間を、
「臨界期」という。

この臨界期には、特別の意味がある。

++++++++++++++++++

●特別な時期

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
とたえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しなくなるとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話ということだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、目の機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもである。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)を取り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児~1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでいる(ワシントン大学・メルツォフ教授ら)。

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわかってきた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的にしているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれるものである。
こうした相互の働きかけを「相互アタッチメント(mutual attachmennt)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究所の津本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果で、人間の早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス」で27日発表した』(10年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、ものの細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を個別に計測した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨界期後のマウスは興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に反応が落ちた。抑制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウスの視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがあるのではないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機にもなるだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回復することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す研究として、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は性格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってからも残すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らかの治療を目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)
『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られることを、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成熟した個体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新生が確かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質については明確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30~40歳にあたる生後6カ月のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現した細胞を見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、この細胞が約1・5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7~10日かけて移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新しい細胞が活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」が存在し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チームは、ヒトでも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は抑制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り出すことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療法が見つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 神経細胞 臨界期 はやし浩司 臨界期 乳幼児 乳幼児の記憶 刷り込み 神経細胞の再生 臨界期の重要性 早期教育 科学的根拠)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

*Magazine Jan 29th

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 1月 29日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●認知症と激怒(認知症の前駆的初期症状)

+++++++++++++++++++++++++

認知症になりかけた人は、どうして怒るのか?
まちがいを指摘したりすると、パニック状態になる。
ささいなことで、激怒する。
まちがえたら、まちがえましたですむ話。
しかし認知症になりかけた人は、それができない。
心の余裕を失う。
認知症を意識するあまり、それが激怒に変わる。
あるいは自分がそういう状態になっていることを、
人に知られるのを、たいへん恐れる(?)。

+++++++++++++++++++++++++

●認知症

 「もしかしたら……」と思うことは、恐怖以外の何ものでもない。
たしかに恐怖。
私も、最近、よくその恐怖を味わう。
もの忘れというのは、若いときからよくした。
今も、若いときとそれほど状態は変わってしない。
しかし若いときは、「忘れた」ですむ。
が、私の年齢になると、それが「もしかしたら……」となる。
あるいは「もしかしたら……」に、結びつけてしまう。

 たとえば同時に、2つ、3つの用事を予定したとする。
デジカメに充電し、めがねを取り出し、戸棚に本をしまう……と。
そこへ電話がかかってきたりすると、電話で話している間に、用事を忘れてしまう。
そのまま書斎に入ってしまったりする。
そこでどっかりと腰をすえたとき、「あっ、忘れた!」となる。

 注意力は、確かに散漫になってきた。
それは認める。
それに若いときは、触角が四方八方に向いている。
が、今は、その範囲が狭くなった。
ひとつの用事をこなしていると、ほかの用事を忘れてしまう。

●脳の乱舞

 が、まだ(恐怖)という段階ではない。
しかしそれがある一定限度を超えると、自分自身が信じられなくなる。
私も一度、チョコレートを食べ過ぎて、幻覚(?)を見たことがある。
幻覚というよりは、脳みそが勝手に乱舞してしまった。
あのとき覚えた恐怖感は、今でも忘れない。

 認知症になりかけのころは、こうした恐怖感が、日常的にその人を襲う(?)。
これはあくまでも私の想像だが、その恐怖感が緊張感となり、そこへ心配や不安が
入り込むと、一気に情緒が不安定になる。
それが多くのばあい、(怒り)に変わる。

●T氏(75歳)のケース

 T氏に会ったのは、10年ぶりだった。
私とワイフが山荘を造成しているころには、ときどきやってきて、私たちを手伝ってくれ
た。
T氏は、山荘の近くで、製剤工場を経営していた。

 そのT氏は、私たちのことを忘れていた?
「お世話になりました。あのときの林(=私)です」と、あいさつしたのだが、覚えてい
ないといったふうだった。

 T氏は、そのつど、いろいろな材木を届けてくれた。
その材木を使って、私は、テラスを作ったり、椅子やテーブルを作ったりした。
で、今回は、座卓の柱を切ってもらうことにした。
長さを、何ども「36センチ」と念を押したのに、家に帰って寸法を測ってみると、30
センチしかなかった。
ワイフも、「あれだけ言ったのに……」と、残念そうだった。
夜になっていたこともあり、その日はそのままにした。

 で、翌朝、電話をした。
が、私がミスを指摘したとたん、Tさんの様子が急変した。
私はていねいな言い方をしたつもりだったが、Tさんは、怒ったような雰囲気だった。

「紙に書いてくれればよかった」と、私をなじった。
そうかもしれない。
そのときも、心のどこかで「あぶないな」と感じた。
だからこそ、何度も念を押した。
「36センチですよ」と。

●恥

 Tさんは、こう言った。

「私のミスだから、作り直す」
「作り直して、お宅まで、届ける」
「会社のほうへ、取りに来てくれるな」
「家族には、ミスしたことを話さないでくれ」
「私の恥だ!」と。

 私が「作り直しておいてくれれば、受け取りに行く」と言ったのだが、そのあたりから、
声の調子が大きく変わった。
Tさんは、「恥」という言葉を使った。

 ふつうなら、こういうとき、「ハハハ、こちらのミスです。作り直します」という程度の
会話で終わる。
が、Tさんは、そうではなかった。
ミスをした自分が許せないといったふうだった。
そういう自分に怒っている。
私はそう感じた。

 その話をすると、ワイフは、こう言った。

「きっと、家の中でもいろいろミスをしているのよ。
それでそれをみんなに知られるのを、恐れているのよ」と。

 Tさんが認知症になっているかどうかは、わからない。
年齢的には、認知症になっていても、おかしくない。
が、認知症の初期の人が、怒りっぽくなるという話はよく聞く。
先にも書いたように、心の余裕を失う。
そのためささいなことで、激怒する。

●段階論

 私なりに、認知症の初期症状を段階論的にまとめてみる。

(1)疑惑期……「ひょっとしたら……」と、不安、心配になる。
(2)確認期……「たしかにおかしい?」と、自分でもそれがわかるようになる。
(3)隠蔽期……おかしくなりつつある自分を隠そうとする。
(4)否認期……とりつくろい、つじつま合わせがうまくなる。
(5)混乱期……だれかにミスを指摘されたりすると、激怒したりする。
(6)拒絶期……まわりの人たちが、診断を勧めたりすると、それをはげしく拒否する。
(7)治療期……認知症と診断され、治療期へと入っていく。

 上記、混乱期の特徴は、ささいなことで、パニック状態になること。
いわゆるヒステリー症状を示す。
ギャーギャーと泣きわめきながら抵抗したり、反論したりする。
まわりの人が、「わかった、わかった」となだめても、効果はない。
手がつけられないといった状態になる。

 Tさんについて言えば、あくまでもこれは私の印象だが、(3)の隠蔽期から(4)の否
認期に向かいつつあるのではないか。
心の緊張状態がつづき、やがて心の余裕を失っていく。

 先にも書いたが、75歳という年齢からして、今、そういう状態にあってもおかしくな
いし、またそういう状態にあることは、じゅうぶん、疑われる。
今回会ったときも、Tさんは、メモ帳を片時も離さないでもっていた。
TさんはTさんなりのやり方で、自分の年齢と懸命に闘っているようにも見えた。

以上、あくまでも私の勝手な判断によるものだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 認知症の初期症状 痴呆症の初期症状 初期の初
期 認知症段階論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●「濃い男」

++++++++++++++++++

「濃い男」「薄い男」という言い方は、
私が考えた。
もう20年以上も前のことである。
そのころ書いた本の中で、この言葉を
使った。

濃い男というのは、性的な意味で、
女性にしか興味を示さない男性をいう。
女性の肉体には強い関心をもつが、反対に
男性には手を触れられただけで、ぞっとする
ような嫌悪感を覚える。
つまり性的な意味で、男性にはまったく
興味を示さない男性をいう。

一方、薄い男というのは、性的な意味で、「女性
でもいいが、男性もいい」と考える男性をいう。
同性愛者は、そういう意味では、たいへん「薄い男性」
ということになる。

+++++++++++++++++

●文化

 先日、テレビを見ていたら、この言葉を使った人がいた。
「ぼくは、濃い男ですから……」と。
驚いた。
もっともその人は、最近流行している、「草食系男性」「肉食系男性」という
意味にからめて、そう言った。
要するに性的な意味において、つまり女性に対して、より能動的、かつ攻撃的な
男性という意味で、そう言った。

 で、しばらくして、こう考えた。

 こうして断片的ではあるにせよ、無数の人たちの文化が、無数にまざりあって、
つぎの世代の文化を創りあげていく、と。
私も、その一部でしかない。

「草食系」「肉食系」という言葉にしても、今ではだれが使い始めたかさえわからない。
しかし言葉として、私たちの文化の中に、定着している。
私自身も、だれが使い始めた言葉かを知らないまま、その言葉を使っている。
同じように、「濃い男」「薄い男」という言葉にしても、今、ここで私が、「もともとは
私が使い始めた言葉だ」と叫んでも意味はない。
すでにこの言葉は、ひとり歩きしている。
しかも意味が、私が考えた意味とは、少しちがう意味で使われている。

●オリジナル

 こうして私がオリジナルで考え、そののち、広く一般に使われているのが、
たくさんある。

 時計のお絵かき歌というのもある。
「♪丸描いて、チョン、上、下、横、横……」という歌である。
その歌が、ある幼児教育雑誌に、紹介されていた。
楽譜も載っていたが、「似ている」という程度だった。
もともとの私の歌い方とはちがう。
が、その歌詞について、何と、「作者不詳」となっていたのには、やはり驚いた。

 ほかにも、「道づくりゲーム」がある。
正方形のカードに、(直線道路)(三叉路)(十字路)(曲がった道)が描いてあり、
それをつなげて遊ぶというものである。
このゲームは、私は20代のころ、学研の「幼児の学習」という雑誌で発表した。
たいへん好評で、その1、2年後、同じ付録が、復刻版で出た。
たしか当時、学研で、実用新案として申請、登録されたと思う。
(発案者には、権利はない。
申請者に、権利が残る。
発案者は、「はやし浩司」、申請者は、「学研」だったと思う。)

 そのあと、そのゲームは、「ヘビ・ゲーム」とか、「水道管ゲーム」に変形され、
市販化された。
が、今では、このゲームは、あちこちで無断で(?)、使われている。

 ほかにもある。

 東京の私立小学校で使われている入試問題の何割かが、私が考えたものである。
ウソだと思う人がいたら、「主婦と生活」(1975年11月号の巻末付録)を見て
ほしい。
ちょうど35年前である。
それを見た人は、こう思うだろう。
「私立小学校の入試問題と同じ」と。
(そのときの私のHPに、収録しておく。)
 
 それ以前に、どこかの小学校の入試に、似たような問題が使われていたとしたら、
私がまねて、雑誌に発表したことになる。
が、そういうことは、ない。

 ……ということで、いろいろ書きたいことはあるが、ここまで。
書けば、どうしてもグチになる。

●文化

 私だけではない。
いろいろな人が、いろいろな立場で、無数の文化を創りあげている。
それが積み重なって、また別の文化を創りあげている。
そのときには、もう「私」はいない。

 あのお絵描き歌にしても、「道作りゲーム」にしても、入試問題にしても、
はやし浩司の痕跡は、どこにもない。
考えてみれば、さみしく思わないわけではないが、その一方で、私は無数の人たちの、
これまた無数の文化を継承している。
「団塊の世代」という言葉にしても、もとは、ある評論家の考え出した言葉である。
そういう言葉を使いながら、それがだれの考えた言葉かは、いちいち考えない。
それが「文化」ということになる。
  
 大切なのは、そのときは意識しないかもしれないが、常に前向きに創りあげていく
ということ。
どんなことでもよい。
何でもよい。
その積極性が、人間の文化を前へ前へと、進歩させる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 文化 文化論 道作りゲーム 道づくりゲーム 時計のお絵描き
歌 はやし浩司 濃い男 薄い男)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心の壊れた人たち

++++++++++++++++++

他人の不幸を、楽しんでいる人がいる。
さも同情しているかのような顔をして聞き、
内心では笑う。
心が壊れた人というのは、そういう人をいう。

自己中心性が肥大化すると、自己愛につながる。
自己愛に陥った人を、「自己愛者」という。
「自分を大切にする人」という意味ではない。
「自分のことしか考えない、愚かで、あわれな人」
という意味である。

このタイプの人のやっかいな点は、演技がうまいこと。
さも同情したフリをして、他人の不幸話を聞き出す。
誘導の仕方が、うまい!
聞き出し、それを酒の肴(さかな)にして、楽しむ。
うわさ話をしながら、「あいつはダメだ」とか、「こいつは
バカだ」とか言って、笑う。

あるいは自分は人格者であるかのように振る舞う
こともある。
むしろほかの人よりも、高邁で立派な人に見える。
が、年季が入っているから、ちょっとやそっとでは
見抜けない。
10年くらいつきあって、「?」と思う。
20年くらいつきあって、やっと、そういう人とわかる。

そんなわけで、価値観、幸福感も相対的。
他人が自分より不幸であれば、「私は幸福」と
喜ぶ。
笑う。
他人が自分より幸福であれば、「私は不幸」と
嘆く。
ねたむ。

++++++++++++++++++

●「私はふつう」

 一度壊れた心は、生涯、なおらない。
そう思って、ほぼまちがいない。
心というのは、そういうもの。
作るのは、むずかしい。
壊すのは簡単。
ほんの1、2年、はげしい受験勉強を経験させるだけで、壊れる。
あるいは、不幸にして不幸な家庭に育った子どもも、そうだ。
愛情飢餓、虐待、無視、冷淡、さらに嫉妬や日常的な欲求不満を経験すると、子どもの心
は壊れる。

 が、ここから先が、心の恐ろしいところ。
壊れた心をもちながら、壊れていることに気づく人は、まず、いない。
自分では、「ふつう」と思い込んでいる。
あるいは「他人も、自分と同じ」と思い込んでいる。
その一方で、心の暖かい人が理解できない。
そういう人が近くにいても、その人を信ずることができない。
何かのことで親切にされても、それを素直に、受け入れることができない。
どこまでも心のさみしい、かわいそうな人ということになる。
が、それも、このタイプの人には、わからない。

●不信

 こういう心の状態を、心理学では、「基本的不信関係」という言葉を使って説明する。
多くは、乳児期の母子関係の不全によって、そうなる。
わかりやすく言えば、相手に対して、心を開けない。
心を許さない。
疑い深く、嫉妬深い。
心のクッションが薄いから、ささいなことで激怒したり、相手を必要以上に嫌ったり、避
けたりする。

 が、「不信」である分だけ、「孤独」。
だから勢い、たとえば、「信じられるのは、お金だけ」となる。
名誉や財産、地位や学歴にしがみつく。
ときに孤独に耐えかねて、集団の中に入る。
大判振る舞いをする。
しかし気が抜けない。
疲れる。
そういう生きざまになる。
言い換えると、そういう生きざまの人は、すでに何らかの形で、心が壊れている人と考え
てよい。

●受験競争

 ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなた自身も、その(心の壊れた人)かもしれ
ない。
程度の差はあるだろうが、私たちの生活は、何らかの形で、お金に毒されている。
「私は、そんなまちがったことできません」などと言おうものなら、社会そのものからは
じき飛ばされてしまう。
子どもの受験勉強にしても、そうだ。
あんな子どもが、点数だの、成績だの、順位だので追いまくられて、まともに育つはずが
ない。
ないことは、子どもを年中児から高校3年生まで教えてみるとわかる。

 子どもによっては、夏休みの間、どこかの受験塾が主催する夏期講習に入っただけで、
激変する。
親は、そういう子どもを見て、「やっとうちの子も、(受験を)自覚できるようになりまし
た」と喜んでいるが、とんでもない誤解。
あるいは親自身も、心が壊れているから、それに気づかない。
心の壊れた親が、自ら、自分の子どもの心を壊している。
受験塾の講師にしても、そうだ。
ああいった指導(教育ではないぞ!)が、平気でできる人というのは、そのレベルの人と
考えてよい。
まともな心の持ち主なら、ぜったいにできない。

 人間が人間に点数をつけ、順位をつけ、進学指導の指導(?)をする。
もちろん金儲けのため。
しかもそんな汚い仕事を、20代とか30代の、人生が何であるかもわからないような若
い講師がする。
まずもって、その異常さに、みなが気がついたらよい。

 まわりくどい言い方をしたが、受験競争の弊害を、心という面から、考えてなおしてみ
た。
さらに一言付記するなら、そうした受験競争をうまくくぐり抜けた人ほど、社会のリーダ
ーとなっていくのは、まさに悲劇としか、言いようがない。
現在のこの日本が、まさにそうであると断言してよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 受験競争の弊害)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【Boys, be ambitious】

●大卒の就職内定率

+++++++++++++++++

大卒の就職内定率が、60%前後という。
浜松市内で、リクルートの会社を経営している
N氏は、こう言った。
「現状(09年12月現在)は、50%前後では
ないでしょうか」と。

わかりやすく言えば、大卒のうち、2人に1人しか
就職が決まっていないということ。

+++++++++++++++++

●仕事は自分で作るもの

 「就職」という考え方にこだわるかぎり、「50%」というのは、深刻な数字ということ
になる。
18年間も勉強してきた……というよりは、親の立場で言うなら、18年間も、学費を負
担してきた。
その結果として、息子や娘たちの就職さえも、ままならない。
見返りを求めるわけではないが、こうなってみると、何のための学費だったかということ
になる。

 が、ここで早合点してはいけない。
就職できないことイコール、(失敗)ではない。
またそんなことで、へこたれてはいけない。
日本人は、江戸時代の昔から、「仕事は与えられるものという意識」を強くもっている。
「会社に仕えるものという意識」という意識と、言い換えてもよい。
しかし(仕事)は、もらうものではない。
与えられるものでもない。
自分で作るもの。
仕事がなければ、自分で作ればよい。
それこそ「リヤカーを引いて」でも、自分で作ればよい。

 こんなことを書くと、「何をバカなことを!」と思う人も多いかもしれない。
しかし私は、若いころ、そう考えたし、そうしてきた。
浜松に住み始めたころのこと。
画家の男と手を組み、その画家の父親の絵をリヤカーに積み、住宅街を売って回ったこと
もある。

 そういう(たくましさ)を、今の若い人は失ってしまった。
失ったというより、知らない。
また皮肉なことに、そういう(たくましさ)のある大学生ほど、就職内定率50%といい
ながら、就職できる。

●日本人の集団性

 日本人の集団性は、外国へ出てみると、よくわかる。
集団の中の一員としては、行動できる。
1人になると、何もできない。
……というのは、言い過ぎかもしれない。
中には、1人で、がんばっている人もいる。
しかし全体としてみると、きわめて少ない。

 一方、オーストラリア人などは、独立心が旺盛で、かえってそれが弊害となって現れて
いる。
オーストラリアの友人はこう言った。
「オーストラリアでは、大企業が育たない」と。
彼らは、高校や大学を卒業すると、車1台と電話1本で、開業する。
集団性がない分だけ、組織が育たない。
大企業が育たない。
あるといっても、鉱山会社のような大企業だけ。
友人は、それを言った。

 で、ここでふと考えてみる。
「どうして日本人は、こうまで就職を深刻に考えるのか」と。
言い換えると、どこかの組織に属していると、本人も安心する。
まわりの人たちも、安心する。
そうでないとそうでない。
銀行ですら、相手にしてくれない。

 江戸時代の昔から、(組織)あっての(個人)。
組織から離れて生きることさえ、難しかった。
実際には、「無頼(ぶらい)」とか、「無宿者」とか呼ばれて、見つかればそのまま佐渡の金
山などへ送られた。

 あの武士道にしても、徹底した主従関係で成り立っている。
保護と依存、命令と服従の関係。
「主君に仕える」が、のちの「会社一社懸命」(友人のM君)という、あの精神につながっ
た。
で、この精神は明治政府へとそのまま引き継がれ、一般民衆は、「もの言わぬ従順な民」へ
と育てられていった。
そういう民衆を作りあげたのは、言うまでもなく、(教育)である。
学校神話や学歴信仰、さらには「まともな仕事論」などは、そうした(流れ)の中ででき
た、副産物ということになる。

●まともな仕事論

 この世界に入ってから、「まともな仕事論」というので、私はどれほど痛めつけられたか
わからない。
私の母ですら、M物産という商社をやめて、幼稚園の講師になったときのこと。
「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。
あるいは私に面と向かって、こう言った男(当時、50歳くらい)がいた。

 「お前は学生運動か何かをしていて、ロクな就職ができなかったのだろう」と。

 こうした常識というか、偏見は、かなり若い時期にできるものらしい。
アインシュタインは、「18歳前後」にそれができるというようなことを書き残している。
が、日本人のばあい、江戸時代の昔から骨のズイまで、そうした偏見が叩き込まれている。
身分意識という偏見である。
その常識を打ち破るのは、簡単なことではない。
またその常識と闘いながら生きるのは、簡単なことではない。

 ある新聞社で記者をしていた人が、ある日、私にこう言った。

「林さん(=私)、あなたのような生き方をしている人が、成功すると、私たちは困るので
す。
あなたのような人が成功すると、では私たちのようなサラリーマンが、いったい何なのか
ということになってしまいますから」と。

 が、実際には、20代のころ、私と同じような立場にいた人は、まわりに10人ほどい
た。
しかしうち生き残ったのは、私1人だけ。
どこかへ消えてしまった人もいるが、大半は、再びサラリーマンの世界へと戻っていった。

●少年よ……

 あのクラーク博士は、札幌の農学校去るとき、『少年よ、大志を抱け!』と言ったとか。
しかしこれはおかしい。
「Boys, be ambitious」と言ったのを、当時の貧弱な英語力で翻訳したから、そういう訳が
生まれた。
クラーク博士は、「あのなあ、お前たち、チマチマした生き方をしないで、もっと野心的に
生きろ!」と言った。
そのことは、アメリカ人の視点に、当時の日本の大学生を置いてみればわかる。
最近の大学生でもよい。
私に言わせれば、「就職、就職って、バカみたい」(失礼!)ということになる。
繰り返すが、「仕事というのは、もらうもの」という発想が基本にあるから、「就職、就職」
と騒ぐ。

「少年よ、大志を抱け」については、以前、こんな原稿を書いたことがある。
日付は2003年になっている。
青年というよりは、私たち老人に向けて書いた原稿である。
 
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●Ambitious Japan

●『ただの人(Das Mann)』

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「(ハイデッガーは)、自分の未来に不安をもたず、
自己を見失って、だらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・
PHP)と。

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●堕落人間

 堕落人間(ハイデッガー)は、いくらでもいる。
ここにも、そこにも、あそこにも……。
年齢が若いならともかくも、60歳代ともなると、言い訳は通用しない。
いまだに「老後は孫の世話と、庭いじり」と言っている人が多いのには、驚かされる。
「晴耕雨読」というのも、そうだ。
そういうバカげた老人像を、いつ、だれが作り上げた?

 私の知人に、公的機関の副長職を、満55歳で定年退職したあと、以後、30年近く、
庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
30年だぞ!
年金だけで、毎月30数万円。
妻も公的な機関で働いていたから、2人の年金を合わせると、相当な額になる。

 ここで「庭いじりだけ」と書いたが、本当に庭いじりだけ。
子どもはいない。
孫もいない。
近所づきあいもしない。
まったく、しない。
もともと農家出身だったらしく、裏には、100坪前後の畑ももっている。
そのくせ周囲の家にはうるさく、隣の家にある木の葉が落ちてきただけで、樋(とい)が
つまると、その家に苦情の電話を入れたりする。

 最近、私はそういう老人がいるのを知ると、腹の底から怒りがこみあげてくるように
なった。
加齢とともに、その怒りは、ますます大きくなってきた。
ねたみとか、ひがみとか、そういう低次元な怒りではない。
人気として許せないというか、そういう次元の怒りである。
が、そういう私の気持ちを、あのハイデッガーは、みごとに一言で表現してくれた。
『ただの人(das Mann)』と。

●生きがい

 世の中には、恵まれない老人はいる。
が、その一方で、恵まれすぎている老人もいる。
その知人にしても、介護保険制度が始まって以来、週に2回、在宅介護を受けている。
……といっても、どこか具合が悪いということでもない。
ときどき見かけるが、夫婦で庭の中を、歩き回っている。
元役人ということで、そういう制度の使い方は、よく心得ているらしい。

 その知人をよく知る、同年齢のX氏は、こう皮肉る。
「あれじゃあ、まるで、毎月30数万円の税金を投入して、庭の管理をしてもらって
いるようなものですナ」と。

 が、うらやましがるのは、ちょっと待ってほしい。
いくら年金がそれだけあるといっても、また庭いじりができるといっても、私なら、
そんな生活など、数か月も耐えられないだろう。
何が「晴耕雨読」だ。
自分がその年齢になってみてはじめてわかったことがある。
それがこれ。
「老人をバカにするにも、ほどがある!」と。

 私たち老人が求めるものは、「生きがい」。
わかりやすく言えば、「自分を燃焼させることができる仕事」。
晴れの日に、畑を耕して、それがどうだというのか?
雨の日に、本を読んで、それがどうだというのか?
「だから、それがどうしたの?」という質問に、答のない生活など、いくらつづけても
意味はない。
ムダ。
そういう生活をさして、「自己を見失って、だらだらと生きる」という。

 私はその知人に、こう言いたい。
「お前らのような老人がいるから、ぼくたちは肩身の狭い思いをしているのだ」と。
若い人たちは、そういう老人を見て、老人像を作ってしまう。
誤解とまでは言えないが、しかし懸命に生きている老人まで、同じ目で見てしまう。
だから腹が立つ。

 いいか、老人たちよ、よく聞け。
あのクラーク博士はこう言った。
『少年よ、野心的であれ!』と。
本当は少しちがった意味で、「Boys, be ambitious」と言ったのだが、同じ言葉を、
私はそうした老人たちに言いたい。

『老人よ、野心的であれ!』と。
この意見は、少し過激すぎるだろうか?

(付記)

「少年よ、大志を抱け」で検索してみたら、6年前に書いた原稿が見つかった。
そのまま掲載する。

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●納得道(なっとくどう)と地図

●納得道

 人生には、王道もなければ、正道もない。大切なのは、その人自身が、その人生に納得
しているかどうか、だ。あえて言うなら、納得道。納得道というのなら、ある。

 納得していれば、失敗も、また楽しい。それを乗り越えて、前に進むことができる。そ
うでなければ、そうでない。仮にうまく(?)いっているように見えても、悶々とした気
分の中で、「何かをし残した」と思いながら生きていくことぐらい、みじめなことはない。
だから、人は、いつも自分のしたいことをすればよい。ただし、それには条件がある。

 こんなテレビ番組があった。親の要請を受けて、息子や娘の説得にあたるという番組で
ある。もともと興味本位の番組だから、それほど期待していなかったが、それでも結構、
おもしろかった。私が見たのは、こんな内容だった(〇二年末)。

 一人の女性(二〇歳)が、アダルトビデオに出演したいというのだ。そこで母親が反対。
その番組に相談した。その女性の説得に当たったのは、俳優のT氏だった。

 「あなたが思っているような世界ではない」「体を売るということが、どういうことかわ
かっているの?」「ほかにしたいことがないの?」「そんなにセックスがしたいの?」と。

 結論は、結局は、説得に失敗。その女性は、こう言った。「私はアダルトビデオに出る。
失敗してもともと。出ないで、後悔するよりも、出てみて、失敗したほうがいい」と。

 この若い女性の理屈には、一理ある。しかし私は一人の視聴者として、その番組を見な
がら、「この女性は何と狭い世界に住んでいることよ」と驚いた。情報源も、情報も、す
べて、だれにでも手に入るような身のまわりにあるものに過ぎない。あえて言うなら、あ
まりにも通俗的。「したいことをしないで、あとで後悔したくない」というセリフにしても、
どこか受け売り的。そのとき私は、ふと、「この女性には、地図がない」と感じた。

 納得道を歩むには、地図が必要。地図がないと、かえって道に迷ってしまう。しなくて
もよいような経験をしながら、それが大切な経験だと、思いこんでしまう。私がここで「条
件がある」というには、それ。納得道を歩むなら歩むで、地図をもたなければならない。
これには若いも、老いもない。地図がないまま好き勝手なことをすれば、かえって泥沼に
落ちてしまう。

●地図 

 人生の地図は、三次元で、できている。(たて)は、その人の住んでいる世界の広さ。(横)
は、その人の人間的なハバ。(深さ)は、その人の考える力。この三つが、あいまって、人
生の地図ができる。

 (たて)、つまり住んでいる世界の広さは、視点の高さで決まる。自分の姿を、できるだ
け高い視点から見ればみるほど、まわりの世界がよく見えてくる。そしてそこには、知性
の世界もあれば、理性の世界もある。それをいかに広く見るかで、(たて)の長さが決まる。

(横)、つまり人間的なハバは、無数の経験と苦労で決まる。いろいろな経験をし、その中
で苦労をすればするほど、この人間的なハバは広くなる。そういう意味で、人間は、子ど
ものときから、もっと言えば、幼児のときから、いろいろな経験をしたほうがよい。

 が、だからといって、人生の地図ができるわけではない。三つ目に、(深さ)、つまりそ
の人の考える力が必要である。考える力が弱いと、ここにあげた女性のように、結局は、
低俗な情報に振りまわされるだけということになりかねない。

 で、もう一度、その女性について、考えてみる。「アダルトビデオに出演する」というこ
とがどういうことであるかは別にして、……というのも、それが悪いことだと決めてかか
ることもできない。あるいはあなたなら、「どうしてそれが悪いことなのか」と聞かれたら、
何と答えるだろうか。この問題は、また別のところで考えるとして、まず(たて)が、あ
まりにも狭い。おそらくその女性は、子どもときから低俗文化の世界しか知らなかったの
だろう。テレビを通してみる、あのバラエティ番組の世界だ。

 つぎのこの女性は、典型的なドラ娘。親の庇護(ひご)のもと、それこそ好き勝手なこ
とをしてきた。ここでいう(横の世界)を、ほとんど経験していない。そう決めてかかる
のは失礼なことかもしれないが、テレビに映し出された表情からは、そう見えた。ケバケ
バしい化粧に、ふてぶてしい態度。俳優のT氏が何を言っても、聞く耳すらもっていなか
った。

 三つ目に、(深さ)については、もう言うまでもない。その女性は、脳の表層部分に飛来
する情報を、そのまま口にしているといったふう。ペラペラとよくしゃべるが、何も考え
ていない? 考えるということがどういうことなのかさえ、わかっていないといった様子
だった。いっぱしのことは言うが、中身がない。

 これでは、その女性が、道に迷って、当たり前。その女性が言うところの「納得」とい
うのは、「狭い世界で、享楽的に、したいことだけをしているだけ」ということになる。

●苦労

 納得道を歩むのは、実のところ、たいへんな道でもある。決して楽な道ではない。楽し
いことよりも、苦労のほうが多い。いくら納得したからといって、また前に別の道が見え
てくると、そこで悩んだり、迷ったり、ときにはあと戻りすることもある。あえていうな
ら、この日本では、コースというものがあるから、そのコースに乗って、言われるまま、
おとなしくそのコースを進んだほうが得。楽。無難。安心。納得道を行くということは、
そのコースに背を向けるということにもなる。

 それに成功するか、失敗するかということになると、納得道を行く人のほうが、失敗す
る確率のほうが、はるかに高い。危険か危険でないかということになれば、納得道のほう
が、はるかに危険。だから私は、人には、納得道を勧めない。その人はその人の道を行け
ばよい。私のようなものが、あえて干渉すること自体、おかしい。

 が、若い人はどうなのか。私はこうした納得道を歩むというのは、若い人の特権だと思
う。健康だし、気力も勇気もある。それに自由だ。結婚には結婚のすばらしさがあるが、
しかし結婚には、大きな束縛と責任がともなう。結婚してから、納得道を歩むというのは、
実際問題として、無理。だから納得道を歩むのは、若いときしかない。その若いときに、
徹底して、人生の地図を広げ、自分の行きたい道を進む。昔、クラーク博士という人が、
北海道を去るとき、教え子たちに、『少年よ、野心的であれ(Boys, be ambitious!)』と言
ったというが、それはそういう意味である。

 私も若いときには、それなりに納得道を歩んだ。しかしそのあとの私は、まさにその燃
えカスをひとつずつ、拾い集めながら生きているようなもの。それを思うと、私はよけい
に、子どもたちにこう言いたくなる。「人生は、一度しかないのだよ。思う存分、羽をのば
して、この広い世界を、羽ばたいてみろ」と。つまるところ、結論は、いつもここにもど
る。

 この「納得道」という言い方は、私のオリジナルの考え方だが、もう少し別の機会に、
掘りさげて考えてみたい。今日は、ここまでしか頭が働かない。
(03ー1ー10)

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●氷河期とは言うが……

 今さら野心的に生きろと言っても、今の若い人たちには、無理。
社会制度そのものが、資格と法律で、がんじがらめになっている。
今では、地方の田舎町でガイドをすることにさえ、資格がいる。
野心的になりたくても、なりようがない。

 ……と言っても、若い人たちには、理解できないかもしれない。
が、現実に、私は、浜松へ来たころ、ワイフと2人で、電柱に張り紙をして歩いた。
「翻訳します」と。

 当時は資格など、必要なかった。
浜松市の商工会議所に、翻訳家として登録していたのは、私を含めて2人だけ。
仕事はいくらでもあった。
お金にもなった。

 仕事がなかったら、リヤカーを引けばよい。
電柱に張り紙をすればよい。
(そう言えば、今では電柱に張り紙をすることさえ禁止になっている。
リヤカーなど、どこにも売っていない。)

 ……という原点に、私たちは一度、戻ってみる必要がある。
つまりその(たくましさ)がないと、この先この日本は、このアジアの中でさえ、生きて
いくのさえ難しい。
理由は簡単。
中国人にせよ、インド人にせよ、かつての日本人のように、たくましい。
中国人やインド人を猛獣にたとえるなら、現在の日本人は、ニワトリのようなもの。
まともに戦ったら、勝ち目は、ない。
ぜったいに、ない。

●補記

 10年ほど前、「フリーター撲滅論」を展開した、どこかの高校の校長がいた。
「撲滅」というのは、「棒か何かで、叩きつぶす」という意味である。
ほかのだれかが言ったのなら、まだ許せる。
校長だから、許せない。
しかも自分は、権利の王国に住みながら、そういうことを言うから、許せない。
何が、撲滅だ!

 言い換えると、日本人が、こうまでキバを抜かれてしまったのは、現在の教育制度に問
題があるというよりは、教師自身の生き様に原因がある。
よほどのヘマをしないかぎり、クビになることはない。
生活に困ることもない。
そのため教師自身から(たくましさ)が消えた。
その結果として、子どもたちから、(たくましさ)が消えた。

 では、どうするか?

 ひとつには、この(完成されすぎた社会のしくみ)を、ゆるめる。
わかりやすく言えば、行過ぎた官僚制度を、一度、解体する。
「制度」というより、そうした制度の中で、がんじがらめになった「心」を解体する。
若い人たちは、「これが社会」と思っているかもしれないが、それこそ、世界の非常識。
がんじがらめにされていることにさえ、気がついていない。

 だからこそ、クラーク博士は、こう言ったのだ。
「Boys, be ambitious!」と。
「大志」ではないぞ。
どこか出世主義の臭いがする、「大志」という意味ではないぞ。
「野心的」だぞ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 boys be ambitious 野心的であれ 大志)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

☆●移りゆくネットの世界


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来年(2010年)早々、BIGLOBEの電子マガジンサービスが、
廃止されることになった。


理由は、「スパムメールと誤解され、また各プロバイダー(サーバー)の
ほうで、スパムメールとして処理されることが多くなったため」とか。


電子マガジンを利用して、スパムメールを流している人も多い。
勝手にアドレスを代理登録して、1日に、何十通も流すというやり方である。
そういうトラブルが跡を絶たない。


この世界は、変化がはげしい。
新しいサービスがつぎつぎと生まれ、古いサービスがつぎつぎと姿を消していく。
私のように(?)、まじめに電子マガジンサービスを利用している人も多いはず。
そういう人たちが、そうでない人たちの心ない利用の仕方によって、影響を受ける。
とても残念。


その代わり、今は、BLOGが全盛期。
BLOGだけでも、毎日、3000~4000件のアクセスがある。
ほんの一部だけを読んで、「バ~~イ」という人も含まれるので、3000~4000件、
イコール、読者数ということではない。
それはよくわかっている。


さらに今では、TWITTERや、FACEBOOKというサービスも生まれた。
急速に利用者がふえている。
また個人のHPよりは、ポータルサイトのほうが、勢力を伸ばしつつある。
どうであれ、この世界は、今、どんどんと変化しつつある。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●私は私

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Aさんは、Xさんを、「すばらしい人」と評価する。
しかし同じXさんを、Bさんは、「下衆(げす)」と評価する。
こうした場面には、よく出会う。

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●印象の種

 人の印象は、第一印象で、そのほとんどが決まる。
一度できた印象は、そのあと、よほどのことがないかぎり、変わらない。
で、最初の印象を「種」とするなら、人はその種を育てるようにして、その人の
人物像をつくりあげていく。
よい点だけを見て、ますますその人をよい人と思うようになる。

 が、最初の第一印象が悪かったら、どうなるか。
今度は逆の現象が起きる。
悪い点ばかりが気になり、ますますその人を悪い人と思うようになる。

●鬼みたいな人

 もう7、8年前になるが、近所の女性が亡くなった。
そのとき88歳くらいではなかったか。
穏やかでやさしい人だった。
いつも歩行器を押しながらやってきて、ちょうど私の家の前で反転し、
自分の家に戻っていった。

 で、亡くなってからしばらくしたときのこと。
その女性の隣に住む男性と、立ち話になった。
私が「あの方は、仏様のような方でしたね」と言ったら、その男性は、顔色を変えて
こう言った。
掃き捨てるような言い方だった。

「とんでもない! あの人は、若いころは、鬼みたいな人でした!」と。

私はその落差というか、印象のあまりのちがいに驚いた。

●長電話

 実は、昨夜、長電話の最長記録を作った。
ある従姉(いとこ)と、1時間55分も、話した。
従姉だから、伯父、伯母の話になった。
私には母方だけで、13人の伯父、伯母がいた。
そのうちの10人は亡くなったが、現在、3人の伯父、伯母がまだ生きている。
いとこにしても、母方だけで、正確に数えたことはないが、40人以上もいる。
父方も含めると、63、4人になる。
話の種は尽きない。

 長電話の中で、伯父や伯母、いとこたちに対する印象が、ときどき、まったく正反対
なのを知って驚いた。
その人がよい人と言うときも、そうでないと言うときも、電話の向こうの従姉は、そのつど理由を言った。
一方、私はいちこたちとの交際が希薄なこともあって、驚くばかり。
「浩司君(=私)、知らなかったの?」と言うから、そのつど「ヘエ~、知りませんでした」
と答えるだけ。

●決め手

 話の内容は、ここでは重要ではない。
またそんなことを書いても、意味はない。
私はいとこの話を聞きながら、同じ人なのに、どうしてたがいがもつ印象がこうまで
ちがうのか、それが不思議でならなかった。

 あえてその理由を並べてみる。

(1)金銭問題が、ひとつの決め手になる。
(2)たがいの連絡の親密度が、ひとつの決め手になる。
(3)が、何よりも重要なのは、第一印象、と。

 私も従姉も、金銭問題で悪い経験をもった人には、悪い印象をもった。
疎遠になればなるほど、よい印象でも悪い印象でも、熟成される。
よい印象をもった人は、さらにその人に対して、よい印象をもつようになる。
そうでなければ、そうでない。
そうした印象の基盤は、第一印象で決まる、と。

 が、その人の印象というのは、離れて住んでみないとわからない。
さらに(時の流れ)の中に置いてみないと、わからない。
その上で、「あの人は、すばらしい人」ということになる。
「あの人は、悪い人」ということになる。

●みなによい顔はできない

 私のばあい、いとこたちの間で、どう思われているか、知らない。
知りたくもない。
私は私だし、それがよいものであっても、悪いものであっても、私の知ったことではない。
見方によって、私は善人にもなるし、悪人にもなる。
相手の見方しだい。
それを知っているから、「どうでもいい」となる。

 同じように、私がだれか1人の人を、「いい人」と思ったところで、それは私だけの
印象。
その印象を、他人に植えつけようとは思わない。
反対にばあいも、そうだ。
私は私、人は人。

●決め手は親密度

 ……ということで、1時間55分になった。
で、その結論。

 誠実な人は、よい印象をもたれる。
不誠実な人は、悪い印象をもたれる。
長い時間をかけて、そうなる。

 ……とは言っても、他人の目など気にしてはいけない。
その必要もない。
どんなに誠実に生きても、みなによい顔はできない。
とくに親戚関係というのは、一方的な意見だけを聞いて、その人の人物像を作りあげる。
そういうことが多い。
その点、密度、つまり親密度がものを言う。
悪人どうしが近くでワーワーと騒げば、どんな誠実な人でも、悪人に仕立てられる。
(だからといって、親類に悪人がいるということではない。誤解のないように!)

 仮に悪く言われていても、遠くに住んでいると、反論することもできない。
だから「私は私、人は人」となる。

 1時間55分の長電話で、私は、それを学んだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●山のあなた

山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋めゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。

あなた=かなた
尋(と)めゆきて=たずねて行って
涙さしぐみ=涙ぐんで

(カール・ブッセ)(上田敏訳)

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 小学5年生が使うワークブックに、カール・ブッセの詩が載っていた。
何度か読んでいるうちに、切なくなってきた。
意味はよくわからないが、切なくなってきた。
解釈の仕方はいろいろある。
読む人によって、思いもちがう。
ただ「幸せ」というのは、そういうものかもしれない。
ここでいう「幸せ」というのは、「亡くなった人」とも解釈できる。
「あなた」が、「遠くに」と、「あなた」の掛詞(かけことば)になっているようにも
思う。
愛する人が亡くなった。
そのさみしさに耐えかね、幸せを求め、遠くまでやってきた。
しかし幸せは、さらに遠くにあって、手が届かなかった。
私には、そんな情景が浮かんでくる。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●正常と異常

++++++++++++++++

何をもって「正常」といい、何をもって
「異常」というか?
実のところ、正常には基準はない。
異常にも、基準はない。
たとえば精神医学の世界では、「正常」という
概念はない。
わかりやすく言えば、この世界には、
「正常な人」というのは、いない。

また「異常気象」とはいうが、気象学の
世界では、「異常」という概念はない。
その定義すら、ない。

その気象。
09年を振り返ってみて、特異だったのは、
長梅雨。
そのため日本各地で、記録的な日照不足が
起きた。
正確には、「観測史上初の短さ」ということに
なる。
が、だからといって、「異常」とは言わない。

+++++++++++++++++

●異常気象

 いくら「おかしい」と思っても、そこには原因がある。
原因がある以上、いきなり「異常」という言葉で片づけることはできない。

たとえば09年の日照不足にしても、その原因は、長梅雨。
さらに長梅雨の原因はといえば、「エルニーニョ現象」。
太平洋東部(南米沖)の海水温があがると、相対的に、日本の南の海水温がさがる。
簡単に言えば、太平洋という海をはさんで、東部と西部が、シーソーをしているようなも
の。
太平洋東部の海水温があがれば、「エルニーニョ現象」。
太平洋西部(日本の南部)の海水温があがれば、「ラニャーナ現象」。
09年は、エルニーニョ現象のため、相対的に、西部の海水温がさがった。
そのため日本に張り出す太平洋高気圧が弱くなり、夏らしい夏がこなかった。
そのため長梅雨になり、日照不足が各地で観測された。

 こうした現象を、「異常」とは言わない。
しかし「異常気象」という言葉だけが、今、ひとり歩きしている。
言うなれば、「異常」という言葉を使うことによって、思考することをやめてしまっている。

●子どもの世界

 子どもの世界でも、(もちろん)、「正常」「異常」という言葉は、存在しない。
その概念もなければ、定義もない。
あるはずもないし、またあってはならない。

 「問題のある子ども」というのはいるが、しかし仮にそうであるとしても、そこには原
因がある。
理由もある。
ほとんどは子ども自身の問題というよりは、子ども自身には責任のない問題である。
また「問題」といっても、それは固定された視点から見て、「そうだ」と言うにすぎない。
別の視点から見れば、問題が問題でなくなってしまう。
言い換えると、「問題」というのは、その子どもを見る「視点の問題」ということになる。
さらに言えば、「問題のある子ども」というのは、存在しない。

 たとえば不登校にせよ、学習障害児にせよ、AD・HD児にせよ、「学校教育」という枠
(わく)の中で、「問題のある子ども」と言うにすぎない。
学校教育という枠をはずれれば、何でもない。
むしろ別のすばらしい才能を発揮することもある。

 言い換えると、「正常」「異常」、さらには、「問題」にせよ、これらはすべて人間が勝手
に作りだした言葉にすぎないということ。

●まず、認める

 そこで重要なことは、たとえば現在の気象状態を見ながら、「異常」「異常」と騒ぐこと
ではなく、冷静に原因と理由を見つめていくということ。
この世界では、思考力のない人ほど、「異常」「異常」と騒ぎやすい。
またそういう言葉を使うことによって、自らの思考力を停止してしまう。

 子どもの世界も、またしかり。
そこにそういう子どもがいるなら、そういう子どもと認めた上で、その子どもに合った指
導をする。
すべてはそこから始まり、そこで終わる。
とくに教育者は、ドクターとは立場が異なる。
診断名をつけて、治療するなどということは、ドクターに任せておけばよい。
もちろんその知識をもつことは重要なことだが、だからといって、私たちには、どうする
こともできない。
その子どもを、そこを原点として、前向きに伸ばしていく。

 実際、私の経験からしても、問題のない子どもはいない。
どんな子どもにも、それぞれ何かの問題がある。
だから「問題がある」という前提で子どもを見るのではなく、「その子はそういう子どもで
ある」と認める。
へたに「なおしてやろう」と考えると、教えるのもたいへんだが、子どもも疲れる。
指導法をまちがえると、子どもをかえって悪い方向に、追いやってしまう。
だから、「あるがまま」。

●一言

 これは、私たち自身の問題と直結している。
つまり私たちは、常に自分に問いかける。
「私は正常」と思い込んでいる人ほど、あぶない。
「私はだいじょうぶ」と思い込んでいる人も、あぶない。
たいへん興味深いことは、認知症の初期段階では、「自分はおかしい?」と思うこともある
らしいが、さらに進んでくると、それもわからなくなるらしい。
(認知症の種類にもよるが……。)

 私もこんな経験をしたことがある。
どこか認知症ぽい女性(当時、63歳くらい)に、こう言ったときのこと。
その女性のまわりくどい言い方に閉口していた。
「私は、そんなバカではないと思いますが……」と。

 するとその女性は、何をどう誤解したのかはわからないが、「私だって、そんなバカでは
ない!」と言って、叫んだ。
私はそのとき、「この女性は、本物のバカだ」(失礼!)と思った。……思ってしまった。

 「私」を知るためには、常に私を疑う。
こと「私」について言えば、「私はおかしい」という前提で考えるのがよい。
「私はまちがっている」でもよい。
ばあいによっては、「私は異常かもしれない」でもよい。
つまりそうした謙虚な姿勢が、「私」の発見につながっていく。

 「正常」「異常」という言葉が、あまりにも安易に使われているような気がしたので、(私
自身も、使っているが……)、ここでそれについて考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 正常 異常 正常論 異常論 異常気象論 異常気象)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●i7、64ビット・パソコン

++++++++++++++++++

昨日、待望の(i7、64ビット)パソコンが
届いた。
注文してから、2週間も待たされた。
もちろんOSは、WINDOW7・プロフェッショナル。

すごい!
パフォーマンス評価をしてみたら、ハードディスクの
転送速度以外は、何とスコアは、7・5~7・7!
(7・9が満点とか。)
今までのビスタパソコンは、5・5~5・9だった。
ワクワク、ドキドキ・・・。
そんなわけで、今朝は午前5時に起き。
6時間かけて、設定をすませた。
6時間だぞ!

「プロフェッショナル」にしたのには、理由がある。

WINDOW7・プロフェッショナルでは、
仮想(バーチャル)XPというのが使える。
それを使えば、ビスタで使えなくなったソフトを、
再び生き返らせることができる。
今までビスタ上で、だましだまし使っていたソフトを、
WINDOW7上で、堂々と使える。

が、ひとつ大きな問題が発生した。
Adobe(アドビ)が、64ビットパソコンに
対応していない。
そのため、YOUTUBEなどの動画が、見られない。
FLASH画像も(×)が出て、表示されない。
そこでAdobeベータ版(試作版)をダウンロード。
が、それでも動画を見ることができない。

?????の連続。

あれこれ原因をさぐったり、いじったり……。
削除したり、再インストールしたり……。
1時間ほど、回り道をした。
それが楽しかった。

【解決法:表示されない画面の状態で、
(スタート)→(すべてのプログラム)→
(Internet Explorerを右クリック)→
(管理者として実行)を順にクリック。】

終わったときには、むずかしい数学の問題を解いたような
満足感を覚えた。
ほっとした。
気持ちよかった。
そのあと少し横になったが、頭が冴えて、眠れなかった。

あとは時間をみて、ファイルを、古いパソコンから
新しいパソコンへ、ゆっくりと移すだけ。

(実際には、Dディスクにコピーして、ディスクごと、
新しいパソコンに移動する。
作業は、簡単。
それはこの正月の楽しみ。)

この原稿は、そのパソコンを使って書いた、はじめての原稿。
記念すべき原稿。

時は2009年12月23日。

晃子へ、

こんな道楽を、好き勝手にやらせてくれて、ありがとう!
プラス、パソコンの世界は、それを専門にしている人は
別として、私たちには、少し荷が重すぎる。
どんどん進歩していく。
変化していく。
ついていくだけで、たいへん。

++++++++++++++++++++

●うれしいメール

 幼児クラスで教えたことのある、Dさん(小3・女児)が、数か月前、私の教室に戻っ
てきた。
お母さんの話では、いろいろあった。
それについてはここに書けないが、ともかくも、いろいろあって、Dさんは、元気をなく
してしまった。
そこで私のところに相談があった。
お母さんが、「娘が、BWのHPを、なつかしそうに見ていました」「それで、BWへもう
一度、通ってみる?、と声をかけたら、そのとき、はじめてニコリと笑いました」と。
BWというのは、私の教室をいう。

 私はDさんを迎えるため、1か月かけて準備をした。
とくに心の暖かい子どもだけを3~4人集め、お母さんの仕事時間に合わせて、新しいク
ラスを作った。
『子どもの先生は、子ども』。
子どもは子どもの影響を受けて、変わる。
それに、私の教室で幼児期を過ごした子どもは、(心の基礎)が、しっかりとできている。
ちょっとやそっとでは、崩れない。
私はそれを信じている。

 で、Dさんは、やってきた。
ほかの生徒たちには、それとなくDさんのことを話しておいた。
みな、快く協力を申し出てくれた。
「私が抱っこして教えてあげる」と言ってくれた中学生もいた。

 ……それからちょうど3か月。
Dさんのお母さんからメールが届いた。
それを読んで、思わず涙が出た。
うれしかった。
そのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

>『はやし先生へ
>
> こんばんは。いつもDがお世話になっております。
>
> 林先生に再びお世話になるようになってから、Dの様子が変わって来ました。
>
> あれだけ無表情でやる気の無かったDが、このところテストで90点や100点を取っ
て来るようになり、話しかけても返事もしなかったのに、この頃は呼ぶと「ハイ!!」と
大きな声で返事をし、にこにこと元気があふれる表情に変って来ました。
>
> しかも、ビックリしたのが、「負けるのが嫌だからスポーツはやらない。」と言っていた
のに、自分から「バスケットボールやりたい。」と言い出し、半信半疑で体験させたところ、
「楽しい!頑張る!」と言い、練習日には自分で仕度をして元気に出かけて行きます。
>
> 今日、持久走大会があり、48人中17位になったと嬉しそうに報告してくれました。
>
>
> 以前のDに戻ってくれたと、私は感激で胸がいっぱいになりました。
>
> やっぱり、はやし先生にお願いして良かったと心から感謝しています。あまりの変わり
ように、魔法にかかったような信じられない気持です。
>
> どうしても、先生にお礼と報告がしたくて、メールさせていただきました。
> ありがとうございます。これからも宜しくお願いします。
>
> 急に寒くなりました。お体に気をつけてください。
>
> (Dの母より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 どうかBW教室の宣伝と、とらえないでほしい。
私には、もうそういう気持ちはない。
ただ、うれしかった。
それだけ。

 そうそう、昨日、先日講演をした、秋田県の横田市のみなさんから、講演の感想が届い
ていた。
みなさん、ほんとうに暖かく、迎えてくれた。
それが私は、うれしかった。
片道7時間前後の長旅だったが、疲れはまったく感じなかった。
その感想の一部を、ここに抜きださせてもらう。
(原稿は、EXCEL版なので、そのまま転載できないので……。)

SKさん、ありがとうございました!!!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●とてもすばらしいお話でした。自分自身を見つめ直す機会にもなりました。ありがとう
ございました。

●非常に良い講演でした。今日は、参加できなかった妻にも聞かせたかった。

●分かりやすく明快な講演でした。来年も是非企画してください。

●友達に誘われてきましたが、来て良かったと思います。子育てに対する情熱を感じまし
た。また子育てという視点だけでなく、自分自身を見つめる機会になりました。一番最後
の「私の○○、私の××、というものがあるから死に対して臆病になる。だったらそれを
捨てればいい」という部分が印象的でした。なかなか自分のしがらみというか、防御する
心は捨てられないし、舞い戻ってしまうけれど、「やっていこう!」と行動をおこすことが大切だと思いました。HPを見てみたいと思います。

●とてもいい講演でした。手帳にたくさんメモしました。最後のお子さんの話には、とて
も感動しました。いつか将来私の心にも子育てをやりとげたとおいう風が吹く日が来たら
幸せだろうなあと思いました。

●普段の自分の子どもへの接し方を改めて考えさせられました。親も余裕をもって接した
いなあと思いました。ありがとうございました。

●色々な深い話を聞けて大変参考になりました。遠くからどうもありがとうございました。

●とても心にしみるお話でした。子育てはもちろん、いろいろ考えさせられ、とてもよい
お話でした。ぜひHPも見たいと思います。

●とてもいいお話を聞きました。HP絶対見ます。ありがとうございました。働いている
と情報が遠いような気がします。こういった会の開催など、簡単に確実に情報を得たい。

●とても充実した時間を過ごすことができました。

●お話がおもしろくて楽しかった。子育てにはユーモアが大切なのだな~と実感しました。
あ~でも私は、子供をあたたかく見守ることができるのかな~なんて思ってしまいました。

●大変すばらしい講演会でした。ありがとうございます。

●参加して大変よかったです。先生の体験談、特に息子さんのお話に深く感銘し感動しま
した。悩みながらの子育て中ですが、参加したことが、私にとって大きな改心の第一歩に
なると思います。素晴らしいお話をありがとうございました。

●今日のお話の中にあった「東洋医学的な抵抗力を育てる」ことが、実は秋田県や横手市
の子育て支援にも大切なことだと思った。子育て中のお母さんたちを本当の意味で支援す
ること、お母さんたちの自立を促すような内容をみんなで考えていけたらいいですね。講
師の先生、すばらしかったです。実行委員の皆様お疲れ様でした。

●HPも見ておりましたが、実際に聞いて、とても感動しました。これからの子育て孫育
てに役立てたいと思います。

●自分は64歳ですが、先生のお話に大いに共感いたしました。ありがとうございました。

○チラシをコンビニなど手に取りやすい所に置いてほしい。
○資料の隅でもいいので、メモが少しあったら嬉しかったです。
○講演の内容はすばらしく、聞きやすかったです。
○講演内容からすれば、より来場者があってもいいはずで、PRの方法を、様々な団体検証した方がいいと思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【横手市のみなさんへ】

 またいつか、おうかがいしますよ!
ワイフも、たいへん喜んでいました。
SKさんにいただいた、ぜんまい、たいへん、おいしかったです。


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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Wednesday, January 27, 2010

*So-called "Game Brain"

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++

「ゲーム脳はあるのか、それともないのか?」

これについての記事を、「毎日JP」より、抜粋
してみる。

++++++++++++++++++++

●火付け役は、、森昭雄・日本大教授(脳神経科学)。
曰く、

 『・・・「15年間、ゲームを毎日7時間やってきた大学生は無表情で、約束が100%守れない」「ゲームは慣れてくると大脳の前頭前野をほとんど使わない。前頭前野が発達しないとすぐキレる」
 森教授は02年、「ゲーム脳」仮説を提唱した。テレビゲームをしている時には脳波の中のベータ波が低下し、認知症に似た状態になると指摘。その状態が続くと前頭前野の機能が衰えると警告した。単純明快なストーリーはマスコミに乗って広がり、暴力的な描写に眉(まゆ)をひそめる教育関係者や、ゲームをやめさせたい親に支持された』(毎日JPより)と。

 これに対して、「森教授の意見には、学術的な裏付けがない」と批判する人も多い。

『・・・森教授は一般向けの本や講演を通して仮説を広めてきた。本来、仮説は他の科学者が同じ条件で試すことで初めて科学的な検証を受けるが、その材料となる論文はいまだに発表されていない。
 手法にも批判がある。森教授は自ら開発した簡易型脳波計による計測で仮説を組み立てたが、複雑で繊細な脳機能をその手法でとらえるのは不可能、というのが専門家の共通した見方だ』(毎日JPより)と。

●利潤追求の世界

 こうした批判を尻目に、ゲーム業界は、大盛況。
その先頭に立たされているのが(?)、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳機能イメージング)。
ここで注意しなければならないのは、川島隆太教授自身は、「加齢医学」が専門。
その研究に基づいて、

『・・・認知症の高齢者16人に半年以上学習療法を受けてもらった結果、認知機能テストの成績が上がったと報告。何もしなかった16人の成績が低下傾向だったことから「認知機能改善に効果がある」と考察した』(2003年)(毎日JPより)と。

 これにゲーム業界が飛びついた(?)。

『・・・こうした成果を企業が応用したのが、脳を鍛えるという意味の「脳トレ」だ。06年の流行語となり、川島教授の似顔絵が登場する任天堂のゲームソフト「脳を鍛える大人のDSトレーニング」は、続編も含め1000万本以上を売り上げた』(毎日JPより)と。

 こうして今やこの日本は、上も下も、「脳トレ」ブーム。
「1000万本」という数字は、そのほんの一部でしかない。

 もちろん批判もある。

『・・・ ただ、脳トレの過熱を心配する声もある。日本神経科学学会会長の津本忠治・理化学研究所脳科学総合研究センターユニットリーダーは、「川島氏の研究は科学的な手続きを踏んでいるが、認知機能の改善が本当に学習療法だけによるかはさらなる研究が必要だ。『改善した』という部分だけが拡大解釈され広がることで、計算さえやれば認知症にならないと思い込む人が出てくるかもしれない」と話す』(毎日Jより)と。

●三つ巴の論争

 現在、「ゲーム脳支持派の森教授vsゲーム脳否定派の川島教授」という構図ができあがってしまっている。
しかし実際には、この両教授が、ゲーム脳を間に、対立しているわけではない。

 森教授は、「ゲームばかりしていると、危ない」という警鐘を鳴らした。
一方川島教授は、ここにも書いたように、「老人の認知機能」が専門。
その立場で、「脳トレは(ボケ防止には)効果がある」と、自説を発表した。

 が、一方、教育の世界には、『疑わしきは罰する』という原則がある。
(私が考えた原則だが・・・。)
完全に安全が確認されるまで、あやしげなものは、子どもの世界からは遠ざけたほうがよい。
事実、私は1日に何時間もゲームばかりしている子どもを、よく知っている。
中には、真夜中に突然起きあがって、ゲームをしている子どももいる。
もともとおかしいから、そうするのか、あるいはゲームばかりしているから、おかしいのか?
それは私にもわからないが、このタイプの子どもは、どこか、おかしい。
そういう印象を与える子どもは、少なくない。

(1)突発的に感情的な行動を繰り返す。
(2)日中、空をぼんやりと見つめるような愚鈍性が現れる、など。

「ゲーム脳」があるかないかという論争はさておき、その(おかしさ)を見たら、だれだって、こう思うにちがいない。

「ゲームは本当に安全なのか?」と。

 そうでなくても、「殺せ!」「つぶせ!」「やっつけろ!」と、心の中で叫びながらするゲームが、子どもの心の発育に、よい影響を与えるはずがない。
ものごとは常識で考えたらよい。
(もちろんゲームといっても、内容によるが・・・。)

 仮に百歩譲っても、認知症患者に効果があるからといって、子どもや、若い人たちにも効果があるとはかぎらない。

●脳トレへの疑問

 私も脳トレなるものを、さまざまな場面で経験している。
それなりに楽しんでいる。
しかし子どもの知能因子という分野で考えるなら、脳トレで扱っている部分は、きわめて狭い世界での訓練にすぎない。

 たとえば教育の世界でいう「知的教育」というのは、広大な原野。
脳トレというのは、その広大な原野を見ないで、手元の草花の見分け方をしているようなもの。
あまりよいたとえではないかもしれないが、少なくとも、脳トレというのは、「だからそれがどうしたの?」という部分につながっていかない。

 仮にある種の訓練を受けて、それまで使っていなかった脳が活性化されたとする。
それはそれで結構なことだが、「だからといって、それがどうしたの?」となる。
もう少し具体的に書いてみたい。

 たとえば脳トレで、つぎのような問題が出たとする。

+++++++++++++

【問】□には、ある共通の漢字が入る。それは何か。

 □草、□問

+++++++++++++

 答は※だが、こうした訓練を重ねたからといって、それがどうしたの?、となる。
というのも、私はこうして今、文章を書いているが、こうした訓練は、常に、しかも一文ごとにしている。
的確な言葉を使って、わかりやすくものを書く。
的確な言葉をさがすのは、ほんとうに難しい。
さらにそれを文章にし、文章どうしをつなげるのは、ほんとうに難しい。

つまりこうした脳トレを繰り返したところで、(よい文章)が書けるようになるとは、かぎらない。
・・・書けるようになるとも、思わない。

 それ以上に重要なことは、本を読むこと。
文章を自分で書くこと。

 つまり本を読んだり、文章を書くことが、先に書いた「広大な原野」ということになる。
(※の答は、「質」。)

●疑わしきは罰する

 子どもの世界では、疑わしきは罰する。
先手、先手で、そうする。
以前、ゲーム脳について書いた原稿をさがしてみた。
5年前(05年9月)に書いた原稿が見つかった。
それをそのま、手を加えないで、再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【ゲーム脳】(05年9月の原稿より)

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲーム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲーム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分)という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働かなくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明したのが、東北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。このゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、省略する。要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりすると、ものすごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせが、殺到している」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心から、そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)という本を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到した。名古屋市にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両論の討論会をつづけたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗議をしてきた人のほとんどが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてくるのか? 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編集部の男性からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多かった。「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポケモンを勉強してからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない本などない。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、そのときは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりをもちつつ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、ゲームに夢中になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらしい(?)。おかしな論理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判されたりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発したりする。教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一言、「ピカチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言で、ヒステリー状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声をあげる子どもさえいた。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たちとの間には、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか狂信的。現実と空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の生き物(?)が死んだだけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるようになるだろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死んでしまった若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十人を測定した。そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまったく発達させることはなく、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼす」という実験結果をイギリスで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見識に基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したという(NEWS WEB JAPANの記事より)。

(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。下が、M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、していることもある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった親類の人たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーティでもしているかのようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、さみしがっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。しかし別の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大けがをしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあったのですが、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、言い切れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲームを取りあげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、自分の頭をガラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをしたという。そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のところに相談にやってきた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにした。そのときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるしく変化した。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャーと騒ぐ。イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計算問題(割り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたのは、N社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能面のように無表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のようになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2~3時間はつづけるそうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時間もゲームをしていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答えた先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(14%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊をあげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年について、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30~36人のばあいでも、もう1人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校では、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。
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●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツという医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から出たとき、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、パジャマに着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当たり次第に、そこらにある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられるという。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命令の二つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令だけだと、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎると、行動そのものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い浮かべればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とするなら、「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、それなりに、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それは、これから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなったとたん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと言ったでしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし精神の抑制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子どもは、菓子を食べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。そしてこの前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理できなくなってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。一説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっているそうである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。その適齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、修正したりするということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習能力といったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけることができる。その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、異常に刺激されることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門外漢の私にさえ、容易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、先にとらえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子どもは、すでに40~50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36年になるが、36年前の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたちと区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、「活発型の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」という言葉が、雑誌などに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、約30年前ということになる。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクショナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、脳の活動そのものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」というのは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。

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Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司