Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, February 29, 2012

●弱くなる日本の子どもたち

【弱体化する日本人の精神構造】

●夢

 映画の見すぎかもしれない。
週に1度は見ている。
そのせいか、このところ私が見る夢は、かなりアクション映画ぽい。
今朝は、こんな夢を見た。

 どこかの道を、4輪サンドバギーを、体で押しながら歩いていた。
昔の東海道。
美しい川沿いをしばらく歩いたあと、山道にさしかかった。
その向こうに、なだらかだが、一直線につづいた道が見えた。
長い道で、500メートルはあった。

 が、ふとうしろを振り返ると、1組の親子連れが歩いていた。
1人は母親。
もう1人は、その娘らしかった。
2人とも、着物を着ていた。
私はサンドバギーにエンジンをかけながら、こう思った。
乗せていってあげよう、と。
が、バックミラーを見ると、2人の姿が消えていた。

 追いはぎか何かに、誘拐されたらしい。
私はサンドバギーにまたがり、道を戻った。
案の定、そこで脇道にそれる細道が見つかった。
私はサンドバギーで、その細道を突き抜けた。

 ……しばらく行くと、空き地が見つかった。
古いお堂があった。
先ほど見た2人は、近くの大木に、縄で縛られていた。
私は懐から、ピストルを取り出した。
構えた。
バリバリと連射できる、最新型のピストルである。

 が、そこで見た男たちは、みなやさしそうな顔つきをしていた。
悪党には見えなかった。
穏やかそうな雰囲気で、石の上に座り、みなで何やら話しこんでいた。

「???」と思ったところで、目が覚めた。

●分析

 サンドバギーには乗ったことがない。
ピストルは、オーストラリアにいたころ、何度か使ったことがある。
友人が、射撃の名手で、撃ち方をときどき教えてもらった。
私は夢の中で、タイムスリップしていた。
時は、江戸時代。
あの親子は、江戸時代の人たちということになる。
その親子が誘拐された?

 ……つまりこのあたりに、私の心の問題が隠されている。
ものごとを危機的な状況の中で考えやすい。
こういう感覚を、心理学の世界では、強迫観念という。
それに持病の(?)、不安神経症がからむ。
私がいう「悪夢」というのは、それをいう。

私はほとんど毎日のように、その悪夢で目が覚める。

●週刊現代vs週刊ポスト

 週刊現代(週刊誌)と、週刊ポスト(週刊誌)の、静かな戦争がつづいている。
週刊現代は、ものごとを大げさに書く。
(私は大げさとは思っていないが……。)
3・11震災、それにつづく原発事故。
さらには、都心で予想される直下型地震、さらには経済危機、などなど。
それについて、週刊ポストは、「煽(あお)り雑誌」といって、非難している。
(週刊ポストが、週刊現代を名指しして、そう書いているわけではない。
誤解のないように!)

 煽りか、煽りでないか。
それは「現状」を見ればわかる。
だれも煽られていない。
何も煽られていない。

 むしろこの静けさのほうこそ、不気味。
そこにある危機を、見ようともしない。
あえて目を伏せる。

そういうのを知ると、私はむしろ、もっと煽ってもよいのではと考えている。
日本人はキバを抜かれてしまった。
抜かれた上、その戦い方まで忘れてしまった。
昔は「平和ボケ」と言った。
今は、「NO(脳)みそ化」(はやし浩司)という。
思考力を失ったから、NO(脳)みそ。
自分で考えない。

●菅直人前首相

 あの3・11大震災のあとのこと。
菅直人前首相は、あたりかまわず怒鳴り散らしていたという。
それが今、問題になっている(?)。
「首相として、ふさわしからぬ行動だった」と。

 が、本当にそうか。
直後、福島第一原発事故が起きた。
それについて、当時官邸では、3000万人の避難計画も考えられていたという。
 
 そんな最中、冷静でいられる人などいるだろうか。
首相という責任ある立場の人物なら、なおさら。
怒鳴り散らしたといっても、自分のために怒鳴り散らしたのではない。
日本という国が、消えてしまうかもしれない。
そういう危機感があったからこそ、怒鳴り散らした。
菅直人前首相を擁護すれば、そういうことになる。

 ものごとは常に最悪のばあいを考えて、行動する。
あとは消去法的に、段階を追い、レベルをさげていく。
医師の診断法に似ている。

 もしあなたが血を吐いたとする。
そのときも、最悪の病気をまず疑う。
がんなら、がんでもよい。
が、それでないとわかれば、つぎの病気を疑う。
それを週刊ポストは、「煽り」というらしい。

●マグニチュード7?

 たとえば東京都心では、マグニチュード7の地震が心配されているという(「週刊現代」)。
だれも「マグニチュード7」という言葉を使っていない。
気象庁ですら、「そんなことは言っていない」という。
「マグニチュード6以上~」ということで、「マグニチュード7」という言葉が生まれた。
「マグニチュード7」という地震は、最悪の地震である。

 それがもし東京都内で起きれば、東京都は壊滅的な被害を受ける。
「週刊現代」の今週号は、それを特集している。
これも「煽り」ということになる。
が、私はそうは思わない。
『備えあれば、憂いなし』。
ものごとは常に最悪のばあいを考えて、準備する。
アハハと笑っているほうが、おかしい。

●気迫

 話は少し脱線する。

 今日、日本でゆいいつ最後まで残った、半導体メーカーが倒産した。
「とうとう」と書くべきか、「ついに」と書くべきか。
が、私は驚くというより、ある種の無力感を覚えた。
30年以上パソコンとつきあってきただけに、残念でならない。
理由の第一は、韓国のメーカーとの戦いに敗れたこと。

が、こんなことは、10年前、20年前に、わかっていたこと。
迫力そのものが、ちがう。
言うなれば、日本のそれは、殿様商法。
韓国のそれは、無法地帯をいく、荒くれ商法。
もとから気迫がちがう。

●浜松

 私が浜松に移り住んだときのこと。
私はこの浜松では、値段を「値切らない」ことを知って、驚いた。
ものの売買は、定価通り。
売る方も、買う方も、定価通り。
(岐阜のほうでは、「正札(しょうふだ)」という言葉を使う。)
郷里の岐阜県では当たり前の、「駆け引き」すらしない。

 たとえば岐阜県では、こういうものの買い方をする。

私「いくら?」
店「1本、500円」
私「じゃあ、2本で、800円にしてよ」
店「それはきびしい。無理だなア~」
私「わかった。3本まとめて買うから、1000円にしてよ」
店「……ウ~ン、まあ、いいでしょう」と。

 最終的には、1本、333円で買い、私のほうの勝ちということになる。

 浜松の人は知らないかもしれないが、これを駆け引きという。

 そういう浜松の人は、ほかの地方から来た人から見ると、おとなしく見える。
みな、そう言う。
つまりこの日本の国内だけでも、これだけ「性質」がちがう。
中国人や韓国人から見れば、日本人は、飼いならされた羊のように見えるかもしれない。

●危機感

 いつも強迫観念をもっている私を基準にするのも、どうかと思う。
が、現在の日本人に欠けるのは、この危機感。
日本全体が、ぬるま湯につかったような状態になっている。
お人好し。
競争すら、しない。

 たとえば夜のテレビチャンネルを、あちこち押してみればよい。
たいていいつもどこかで、韓流ドラマを放映している。
半面、韓国では、日本映画にすら、いまだに規制されている。
先日もどこかのニュースサイトには、こうあった。

「日本人は、韓流スターに、莫大なギャラを払い、竹島占領の手助けをしている」と。

 飛躍した意見のようにも聞こえるが、私にはそういう日本人が、バカに見える。
ホント!

●男児の女児化

 子どもの世界でも、似たような現象が見られる。
以前、こんな子ども(小4男児)がいた。
A君としておく。

 そのA君、見るからに穏やか。
やさしい。
体格はふつう以上だが、歩き方も、どこかナヨナヨしている。
男女の逆転現象が起きるようになって、20年以上になる。
いじめられて泣くのは男児、いじめて泣かせるのは女児。
小学校の低学年児について言えば、今では常識。
そんな中にあっても、A君はさらに、「やさしかった」。

 原因は母親にあった。
過保護と溺愛、それに過干渉が、慢性化していた。
「乱暴な遊びはさせません」
「ゲーム機はもたせません」
「戦いごっこは、禁止です」と。

 一度、おもちゃの刀(プラスチック製)を見せたときのこと。
私が何かを話しかける前に、横にいた母親が、それを先に取りあげてしまった。

 が、そういう母親にかぎって、そのつど、私にこう聞いてくる。
「うちの子、どうでしょうか?」と。
たいていの親は、顔を合わせると、そう聞く。

が、これほど答えにくい質問はない。
私は「何も問題はありませんよ」と、そのつど、答えるしかなかった。
程度の差こそあれ、今、このタイプの子どもが、主流になってきている。

●タイ

 日本人の精神構造が弱体化していると感じたのは、もう20年前も前のこと。
息子と2人で、タイへ行った。
そのとき、それを感じた。

 ここには書かなかったが、その国のもつ緊張感を知りたかったら、兵士を見ればよい。
タイで見た兵士は、みな引き締まった体で、鋭い目つきしていた。
私は帰国直後、浜松の航空ショーを見に行ったのを覚えている。
そこで見た自衛官は、どの人も、ごくふつうのサラリーマンに見えた。
そのときこう思った。
「これではとても、戦争にならない」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
この(以下の)原稿をBLOGに
載せたのは、2010年となっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人の危機意識(日本人の繁栄ボケ)

++++++++++++++++

日本は中国に抜かれて、世界第三位の
経済国になった(GDP)。
しかし国民1人当たりの所得では、
すでにシンガポールに抜かれている。
2020年ごろには、韓国にも抜かれる
だろうと言われている。

恐ろしいのは、その予想時期が、徐々に
早まっていること。
日本が中国に抜かれるのは、2015年
ごろと言われていた。
ほんの1、2年前のことである。
それが今年、つまり2010年に抜かれた。

のんきなエッセイストたちは、「生活の
中身が大切」などと言っている。
中国に抜かれても、韓国に抜かれても、
「大切なのは、生活の質」と。

こういうことばかり言っているから、日本は
どんどんと抜かれていく。
抜かれていくだけではない。
やがて食料の輸入もままならなくなるだろう。

20~30年ほど前には、「平和ボケ」という言葉を
よく耳にした。
が、今は、「繁栄ボケ」。
「経済ボケ」でもよい。

日本の学校では、いったい、何を教えているのか?
社会科の授業で、何を教えているのか?
日本人がこの「現代」という世界で生き抜くための、
その知識と経験を教えるのが社会科の授業ではないのか。
どうすればこの先、日本が生き延びていくことができるか、
それを教えるのが社会科の授業ではないのか。

つまり日本の教育では、この部分だけが、スッポリと
抜け落ちてしまっている。
つまり危機意識が、まったくない。
愚にもつかないような「知識」だけを、一生懸命、
子どもの頭の中に、詰め込んでいる!

その結果が、今。
今年は去年以上に、就職難という。
学生たちが就職先を求めて、右往左往している。
が、考えてみれば、こんなバカげた世界は、日本を
おいて、ほかにない。

就職先がなかったら、自分で仕事を作ればよい。
それこそリヤカーでも引いて、自分で稼げばよい。
私は、そうしたぞ!
リヤカーを引いて、ある画家の絵を売り歩いたぞ!
つまりそういうたくましさが、ない。
仕事はもらうものと思っている。
与えられるものと思っている。

加えて、「外国へ行きたくない」という若者が多いのには、
驚いた。
日本人全体が、ものの考え方が内向きになってしまった。
こういうときだからこそ、仕事を求めて、ブラジルや
インド、シンガポールへ飛び出して行けばよい。
中国でも韓国でもよい。

飽食とぜいたく。
それに少子化。
日本の若者たちが、キバを抜かれてしまった。
今では天下国家を論ずる若者は、ほとんどいない。
大学生でもいない。

その理由はといえば、すべて教育にある。
以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

+++++++++++++++++

今からちょうど10年前、2000年ごろに書いた原稿です。

この中で、1人の女子学生が、つぎのように述べていることに注目してほしい。
人間は甘やかすと、ここまで言うようになる。

「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。
私たちは言われるまま、まじめに勉強してきたのだから」(中日新聞投稿欄)と。

+++++++++++++++++

●日本の将来を教育に見るとき 

●人間は甘やかすと……?

 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強
で苦労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさが
すヒマもない。
(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・九九年春)と答えていた。
また別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。
私たちは言われるまま、まじめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。
人間は甘やかすと、ここまで言うようになる。

●最後はメーター付きのタクシー

 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことが
ある。
息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。
それはちょうど四〇年前の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。
あの国では誰もがギラギラとした脂汗を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。
若者とて例外ではない。
タクシーの運転手がこんな話をしてくれた。

若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。
そしてそれで白タク営業をする。料金はその場で客と交渉して決める。
そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、それでお金をためる。
さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼ぐ。
最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。

●日本には活気があった

 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれ
ていた。
子どもたちとて例外ではない。
私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行った。
そこでその磁石で金属片を集める。
そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。
それが結構、小づかい稼ぎになった。
父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。
が、今の日本にはそれはない。
「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私のところへやってきて、私とこんな会話をした。

学「どこか就職先がありませんか」、
私「君は何ができる?」、
学「翻訳ぐらいなら、何とか」、
私「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。『翻訳します』とか
書いてくれば、仕事が回ってくるかもしれない」、
学「カッコ悪いからいやだ」、
私「なぜカッコ悪い?」、
学「恥ずかしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」

 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。
「恥ずかしい」と言う。
結局その学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることにな
った。
もちろんその費用は親が出した。

●子どもを見れば、未来がわかる

 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。
言いかえると、今の日本の若たちを見れば、日本の未来がわかる。
で、その未来。
最近の経済指標を見るまでもない。
結論から先に言えば、お先まっ暗。
このままでは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国になってしまう。
いや、おおかたの経済学者は、二〇一五年前後には、日本は中国の経済圏にのみ込まれてしまうだろうと予想している。

事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くなっている。
たとえばアメリカでは、今では日本の経済ニュースは、シンガポール経由で入っている(NBC)。
どこの大学でも日本語を学ぶ学生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえている(ハーバード大学)。
私たちは飽食とぜいたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎた。
そのツケを払うのは、結局は子どもたち自身ということになるが、これもしかたのないことなのか。
私たちが子どものために、よかれと思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようとして
いる。

(参考)

●日本の中高生は将来を悲観 

 「二一世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。

日韓米仏四カ国の中高生を対象にした調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をしていることが明らかになった。
現在の自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで
生きること」。
学校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か国で最低だった。

 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが二〇〇〇年七月、東京、ソウル、ニューヨーク、パリの中学二年生と高校二年生、計約三七〇〇人を対象に実施。

「二一世紀は希望に満ちた社会になる」と答えたのは、米国で八五・七%、韓仏でも六割以上に達したが、日本は三三・八%と際立って低かった。
自分への満足度では、米国では九割近くが「満足」と答えたが、日本は二三・一%。
学校生活、友達関係、社会全体への満足度とも日本が四カ国中最低だった。

 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。
米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。
人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三二・四%)だった。

 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が二〇・二%だ
ったのに対し、米国は七八・八%。
「国のために貢献したい」でも、肯定は日本四〇・一%、米国七六・四%と米国の方が高かった。
ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利益よりわが国の利益がもっと重要だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なことも浮かんだ。

 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。
将来の夢や希望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。
一九八〇年代からの傾向で、豊かになったことに伴ったのだろう」と分析している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●10年前

 10年前(2000年ごろ)に私が書いた原稿を、どうか読み直してみてほしい。
そしてそれから10年。
何が変わったか?
日本が、その結果、どうなったか?
そういう視点で、もう一度、読み直してみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本人の危機意識 社会の責任 繁栄ボケ 経済ボケ 危機感 はやし浩司 タイ ギラギラ 日本人の弱体化)
2010年9月13日記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●希望する職種

 先に日本青少年研究所の調査結果をあげた。
その中にこうある。

「 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。
米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。
人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三二・四%)だった」と。

 この結果を、もう少しわかりやすくしてみる。

【希望する職業】

日本……公務員や看護士
アメリカ……医師や政治家
フランス……弁護士
韓国……医師や先端技術者

【人生の目標】

日本……人生を楽しむ(61・5%)
アメリカ……地位と名誉(40・6%)
フランス……円満な家庭(32・4%)

 これだけ見ても、これからの日本がどうなるか、おおかたの予想がつく。

●今日から3月1日

 さて今日から3月1日。

 今週のレッスンでは、小学1年生と2年生に、「確率」を教えてみる。
教材も用意した。
私の教室(浜松BW教室)でも、確率を教えるのは、はじめての試みである。
子どもたちが、どう反応するか、楽しみ。

 私が知るかぎり、小学1年生と2年生に、確率を教えるのは、私がはじめて。
うまくいけば、明日の年長児(幼稚園児)のクラスでも、試してみたい。

 「幼児に確率?」と疑問に思う人は、ぜひ、「BW公開教室」を見てほしい。
それを見てもらえば、そのレッスンが、どういうものであるか、またどういう意味をもつか、理解してもらえるはず。
この時期の、こうした教育こそ、重要。
計算練習ばかりしているから、算数はつまらない。
教える方もつまらないが、子どもたちにしても、同じ。
つまらない。

 どうしてこんな「つまらない教育」を、100年1律のごとく、日本は繰り返しているのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の算数教育 はやし浩司 確率 小学生に確率を教える 弱体化する日本人 はやし浩司 弱体化する日本人の精神構造 はやし浩司 BW教室 新しい算数教育)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司 

Tuesday, February 28, 2012

●やる気のある子どもにするには

●年中児に教える(記憶→数遊び)

 4~5歳児を教えてみる。
このビデオを通し、つぎのことがわかってもらえればうれしい。

 この年齢の子どもは、すでに自ら「伸びる力」をもっている。
私が伸ばすのではない。
私が教えるのでもない。
自らもっている。

で、私がすることは、そういう「力」をうまく誘導し、引き出すこと。
英語では『灯をともし、引き出す』という。
教育(Education)の語源にもなっている。

 子どもたちの発する会話の中に、そんな「力」を感じ取ってもらえれば、うれしい。

 なお子どもは、段階ごとに、適齢期というのがある。
その適齢期をのがすと、あとあと数の力を身につけようとしても、いまくいかない。
(たとえば小学校へ入学するころには、明確な「差」となって現れる。)
4~5歳がいかに重要な時期か、とくに数の力についてはそうである。
それもわかってもらえればうれしい。



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日記 はやし浩司 2012-02-29

●E社の倒産

 数日前、半導体メーカーのE社が倒産した。
(「倒産」という言い方は、正確ではないが……。)
突然の倒産だった。
ある経済サイトは、「いきなり直球を受けたような感じ」と表現していた。
かなりの「突然」だったらしい。

 で、その際、E社の株を、信用買いしていた人が、甚大な損害を被(こうむ)ったという。
そのほとんどが、個人投資家だったという。

E社の株価は、今年に入り、」300~400円前後を推移していた。
それが200円台にさがった。
そこで個人投資家(経済サイト)たちは、このときとばかり、株を買い始めた。
多くは信用買い。

●信用買い

 信用買いというのは、その金額分の損をするまで、株数をもてるというもの。
平たく言えば、証券会社からお金を借り、それで株を買う。

「株式用語解説サイト」には、つぎのようにある。

『……自分の手持ち資金以上の買い付けができるようになること。
証券会社に委託保証金として預けている現金(株券で代用することも可)を担保にして、株式の買付代金を融資してもらう。
委託保証金率が30%であれば、手持ち資金の約3倍の金額まで株式が買える。
つまり、30万円の保証金で、100万円までの取引が可能』(同サイト)と。

 たとえば株価1万円の株であれば、100万円では、100株しか買えない。
信用買いをすれば、たとえば300株とかもてる。
株価があがれば、3倍の利益。
反対にさがれば、3倍の損。
損金が100万円を超えるまで、その株をもつことができる。

 が、損金が100万円を超えたらどうなるか?
証券会社はこう言ってくる。
「放棄しますか、追い証(追加証拠金)を入れてくれますか」と。
追い証を入れなければ、100万円はパーとなる。
証券会社は、その時点で、預かっていた株を売りさばく。

 が、その株が、突然、0円になったら!
証券会社が売りさばく間もなく、0円になったら!
一次的には証券会社が、損失を被ることになる。
が、当然、その損失は、株主が負担することになる。
今回のE会社の倒産の裏では、そんなことが起きた。

●被害

 が、いったいいくらの損が出たのか。
どれくらい多くの人が、損を被ったのか。
はっきりとしたデータはまだ出ていないが、Bloombergは、つぎのように伝える。

『……東証データから算出した信用買い方の懐事情を示す評価損益率は、17日時点でマイナス10・29%と、東日本大震災発生直前の昨年3月4日(マイナス7・33%)以来の水準まで回復していたが、今回のエルピーダ・ショックで回復の流れが水を差される可能性も浮上した』と。

 「回復の流れが水をさされた可能性もある」と。
つまりそれくらい多くの投資家が、多額の損害を被ったことになる。

 おおざっぱな計算をしてみよう。

 E社は、今年に入って、300~400前後で株価が推移していた。
それが最近になって、280円前後にさがった。
「E社がつぶれるはずがない」と見込んでいた個人株主たちは、「買い時」と判断した。
「このときぞ」とばかり、ワーッと、E社の株を買い込んだ。

 280円の株を、1万株買えば、280万円。
委託保証金率を30%にすれば、3・3倍の株数を買うことができる。
つまり280万円で、3万株。
10円上がれば、30万円のもうけ。
反対に10円下がれば、30万円の損。
90円下がれば、270万円の損。
(この時点で、証券会社から、ふつうなら「どうしますか」という電話が入る。
あるいは追い証を求められる。)

 が、今回E社のばあい、280円から一気に0円にまで、株価が下がってしまった。
売り逃げる間もなかった。
つまり280円x3万株=840万円の損ということになる。
「損をしても、280万円までと思っていたのが、840万円になってしまった!」と。
……ということで、多くの個人投資家たちが、莫大な借金をかかえることになった。

●バクチ

 これをバクチと言わずして、何と言う。
バクチ以上のバクチ。
私の知っている人の中には、全財産を失ったあと、自己破産した人がいる。
だから私の祖父は、いつもこう言っていた。
「浩司、信用買いだけは、するなよ!」と。

 あるとき祖父は、こう言っていた。
「あいつら(=証券会社の連中)、オレの株を勝手に売りやがった」と。

 つまり祖父も、それなりに苦い経験をしたらしい。
だから私にそう言った。

 それもあって、私は、信用買い(先物取引も含む)なるものをしたことがない。
また昨年(2011)の3・11大震災直前の2月末には、すべての持ち株を売り払った。
当時は、日本国債の危機がさかんに叫ばれていた。
「3月に、日本は国家破綻する」とも言われていた。
それでそうした。
ギリギリのセーフだった。

●金(ゴールド)の大暴騰

 現在、行き場を失った現金(マネー)が、貴金属(金とプラチナ)に向かっている。
もうめちゃめちゃな額と言ってよい。
めちゃめちゃ。
狂っている。

 ともにグラム、5000円弱。

 金塊1キロで、ベンツが買える?
当然、その分だけ、この先、インフレが世界中を襲う。
「タクシーの初乗りが、1万円」。
やがてそうなる。
それがわかっているから、「我も、我も……」と、みなが貴金属を買いつづけている。
その結果が今。

 では、どうするか?

 私の経験では、こういうときは、騒がず、動かず、静かにしていたほうがよい。
へたに慌てると、やけどを負う。
貴金属を買うにしても、この1~2か月の間に、一度、ドスンとさがるはず。
中国などの中進国が、換金のため、大量に売りに出す。
そのときが買い時。
それまで、じっとがまん。

 株、債権には手を出してはいけない。
このところ銀行からよく電話がかかってくる。
「(休眠)預金をどうしますか」と。
「休眠」という言葉は使わないが、「預金をどうしますか」と。
が、こういうとき、銀行の言いなりになって、外債に手を出してはいけない。
手数料だけで、損をする。
そういうしくみになっている。

 ……とまあ、いっぱしの経済評論家のようなことを書いてしまった。
が、私はあくまでも庶民。
庶民の立場で、自己防衛論を書いてみた。
あまり本気にせず、参考までに。
またそのように、理解してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 信用買い 追い証)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 3月 14日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★ ★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page008.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもと遊びについて】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「子どもの遊び」については、いろいろな原稿を書いてきた。
過去に書いた原稿を、集めてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「遊びが子どもの仕事」(中日新聞発表済み) 

「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらずとも、はずれてもいない。
「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがある。
オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。
日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。
また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外で身につける。
実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。
今でいう帰宅拒否の症状もあったのかもしれない。
それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。
けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。
性教育もそこで学んだ。

 ……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。
それまでは私の過去はただの過去。
自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。
いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。
しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。
縄張りもあったし、いがみあいもあった。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離されていたということ。
たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。
石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。
相手をつかまえればリンチもしたし、つかまればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。
あいさつをして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。
目と目であいさつぐらいはした。
つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がない。
つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでいた。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。
子どもどうしの上下関係があった。
けんかの強い子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。
そして私たちはそれに従った。
親分、子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。

仲間意識もあった。
仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。
しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。
だから今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解することができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。だから私の立場で言えば、こういうことになる。
「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どものいたずら

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。
パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。
時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども(小3)がいた。

母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をしているのだ」と。

ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。
絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。
善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。

 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説がある。
アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。
で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。
で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。
この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。……と思う。

 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。
作文力だけをみたら、小学校の3、4年生以上の力があったと思う。
で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。
母親の趣味は、ドライブ。
外出するたびに、そのテープを聴かせていた。

 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もある。
子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。
その敏しょう性。

一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。
その子どもは、とにかくすばしっこかった。
で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。
雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。
子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●笑い(笑いの科学と効能)

 ついでに、「笑い」について。
何度も書いてきたので、ネットでさがし、その一部を紹介する。
 私は、幼児を教えるとき、何よりも、「笑い」を大切にしている。
ときには、50分のレッスンの間、ずっと笑いっぱなしにさせることもある。

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われるようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわかってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なおす」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしまう。

 私は、そういう経験を、何度もしている。

 大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 子どもと遊び やる気論 カテコールアミン ほめることの重要性 子どもはほめて伸ばす 子どもは笑わせて伸ばす やる気と遊び 遊びで生まれるやる気 社会性 はやし浩司 子どものやる気)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ほめることの重要性byはやし浩司

+++++++++++++++++

ほめることの重要性については、
繰り返し書いてきた。
『子どもはほめて伸ばせ』が、私の
持論にもなっている。
あちこちの本の中でも、そう書いた。
このほどその効果が、アカデミック
な立場で、証明された。
その記事を、そのままここに、
記録用として、保存させてもらう。

+++++++++++++++++

++++++++以下、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

 親にほめられたり、やさしい言葉をかけられた乳幼児ほど、主体性や思いやりなど社会
適応力の高い子に育つことが、3年以上に及ぶ科学技術振興機構の調査で分かった。父親
の育児参加も同様の効果があった。「ほめる育児」の利点が長期調査で示されたのは初という。東京都で27日午後に開かれる応用脳科学研究会で発表する。

 調査は、大阪府と三重県の親子約400組を対象に、生後4カ月の赤ちゃんが3歳半に
なる09年まで追跡。親については、子とのかかわり方などをアンケートと行動観察で調
べた。子に対しては、親に自分から働きかける「主体性」、親にほほ笑み返す「共感性」な
ど5分野30項目で評価した。

 その結果、1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼
児に比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった。また、
ほめる以外に、目をしっかり見つめる▽一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす▽
たたかない▽生活習慣を整える▽一緒に本を読んだり出かける--などが社会適応力を高
める傾向があった。

 一方、父親が1歳半から2歳半に継続して育児参加すると、そうでない親子に比べ、2
歳半の時点で社会適応力が1.8倍高いことも判明した。母親の育児負担感が低かったり、
育児の相談相手がいる場合も子の社会適応力が高くなった。

 調査を主導した安梅勅江(あんめときえ)・筑波大教授(発達心理学)は「経験として知られていたことを、科学的に明らかにできた。成果を親と子双方の支援に生かしたい」と話す。【須田桃子】

++++++++以上、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ほめる ほめる効用 子どもをほめる ほめることの大切さ はやし浩司 子どもはほめて伸ばす 伸ばせ 子供はほめて伸ばせ)

++++++++++++++++++++

●2007年4月の原稿より

【子どもを伸ばす】

●やる気論

 人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜ
っぺき)性。

 大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、
重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激
するか、だ。そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。

 自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネス
をとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学
者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価という
ことになるのか。こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言え
ば、そういうことになる。こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状
回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。

 しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。こ
れを私は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、
人ははじめてやる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も
変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわ
からない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はが
んばる。が、それがなければ、そうでない。

 さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。ただ
私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくにインターネットに原稿を載せても、
利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自
我が原動力になっていることはまちがいない。

 つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの
外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れ
れば、それでおしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。
毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限
の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そうい
う危機感の中から生まれた。もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだ
ろうと思う。

 そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その
我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考え
てみよう。

(自我の追求)

 教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけ
がうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種
をまいて、引き出す』の要領である。

 忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほどいい子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。しかしこれは誤解。まったくの誤解。

 3つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱってい
く原動力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。

(絶壁性)

 酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感をもたせすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。

 そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかし
い。仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。

 とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。

 小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はた
から見ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食
もとらず、会場へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだっ
たらしい。それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)
や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなって
いった。そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に
立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。

 つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかというこ
と。その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きがいを決めるのは、帯状回?

 脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。脳のこの部分は、人間が原始動物であった
ときからあるものらしい。イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。

その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。最近の研究によれば、
どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係していることがわかって
きた(伊藤正男氏)。

 たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。反対にみなの前でけなされた
りすると、不快感を覚える。その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感
や不快感を受けて、大脳連合野の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。

一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、
何をするのも苦痛になる。

 これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。たとえば他人
にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。しかし反対に、他人をい
じめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。この感覚は、きわめて原始的なもので、つ
まりは理屈では説明できないような感覚である。しかしそういう感覚を、人間がまだ原始
動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考えても正しい。もし人間が、もと
もと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるような感覚を
もっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。

 こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。新皮質
部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。たとえば正直に生きたとする。す
ると、そのあとすがすがしい気分になる。このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだ
が、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に生きよう」「どうすれば正直に生きられるか」とか考える。そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。

 そしていよいよ帯状回の出番である。帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の
判断を受けて、やる気を引き起こす。「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そういう前向きな姿勢を生み出す。そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、
思考や行動を活発にしたりする。

●私のばあい

 さて私のこと。こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるというこ
とは、ひょっとしたら、それだけ役にたっているということになる。(中には、「コノヤロー」と怒っている人もいるかもしれないが……。)

さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活
発化する。そしてそれが私のやる気を引き起こす。そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。が、読者が減ったり、ふえな
かったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が低下する。そしてそれ
が帯状回の機能を低下させる。

 何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子ど
ものやる気を考えることができる。よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほめて伸ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」というが、なぜそうなのかということは、脳の機能そのものが、そうなっているからである。

 さてさて私のマガジンのこと。私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらなければならない」という気持ちが強い。では、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。どこか絶壁に立たされたかのような緊張
感がある。では、その緊張感はどこから生まれるのか。

●ほどよいストレスが、その人を伸ばす

 ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。そして脳や筋肉により多くの酸素
を送りこみ、危急の行動を可能にする。こうしたストレス反応が過剰になることは、決し
て好ましいことではない。そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低
下や低体温などの、さまざまの弊害が現れてくる。しかし一方で、ほどよいストレスが、
全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの内容と量ということになる。

 たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万
円を返済するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで
違う。子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、
いつも50点しか取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子ど
ものよって、感じ方はまったく違う。

私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れる
ことができない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることがで
きない。100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。しかし445人
に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。

●子どものやる気

 子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程
度の緊張感を与える。しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるよう
な緊張感でなければならない。私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきているように感ずる。ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。あるいは交通事故にあうかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないかと思う。

 人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、
前に進むものか。そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。ただ
パンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。今、こうして自分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないか
と。よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」なのか。手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)がない。あるはずもない。

ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。だから、「私の顔」
と言えなくもない。しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。あるいは思想は。

 たとえば私は今、こうしてものを書いている。しかしなぜ書くかといえば、それがわか
らない。多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。それ
はサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。本人は自分の意思で動いている
と思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、
動かされているだけ? 

同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされて
いるだけかもしれない。となると、ますますわからなくなる。私とは何か。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャック
とローズを思い浮かべてみよう。彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。

 その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心
をとらえた。それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に
翻弄(ほんろう)されただけかもしれない。電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意
思というよりは、その意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。

いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、
もっと別の力によって、そのように動かされただけということになる。このことは、子
どもたちを観察してみると、わかる。

 幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。この時期
は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。この時期をすぎると、
子どもは急に生意気になる。人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子はこういう子だ」という、とらえどころができてくる。そのころから自意識による記憶も残るようになる。(それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。これは脳の中の、辺縁系にある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)

 で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆ
るふつうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。ここに書いた、貪欲さ
や闘争心も、それに含まれる。嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。

子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し
高い視点から見ると、どの子どもも、それほど変わらない。ある一定のワクの中で動い
ている。もちろん方向性が違うということはある。ある子どもは、作文で、あるいは別
の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争心を、昇華させていく。反
対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子ども
もいる。しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎ
ない。

 となると、私は、どうなのか。私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局
はそのハバの中で踊らされているだけなのか。もっと言えば、私は私だと思っているが、
本当に私は私なのか。もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私
ではないのか。

 ……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。ムダにした原稿も、
もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。どうやら、私はたいへんな問題にぶつか
ってしまったようだ。手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。こ
れから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 たとえば腹が減る。すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。カ
ップヌードルか、パンか。

 そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じら
れて、そうしているだけ。つまり、それは、「私」ではない。

 さらに台所へ行って、何もなければどうする? サイフからいくらかのお金を取り出し
て、近くのコンビニへ向かう。そしてそこで何かの食物を買う。これも、私であって、「私」
ではない。だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をす
る。

 が、そのとき、お金がなかったどうする? 私は何かの仕事をして、そのお金を手に入
れる。となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないという
ことになる。

 こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないことになる。そのことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。

 北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。そしてどこでどう連
絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。スズメにはそうい
う意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。
「私は私よ」と。

 ……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。私たちは、何をもって、「私」
というのか、と。

 街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。たまたま今日は日曜日で、広場には
楽器をもった人たちが集まっている。ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわりは若さで華やいでいる。

「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。

 楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。しかしそれは言葉という道具を
使って、コミュニケーションしているにすぎない。もっと言えば、スズメがチッチッと鳴
きあうのと、それほど、違わない。本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、
「私」ではない。

 私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。その
裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。

 ここまで書いて、私はワイフに相談した。「その裏になるものというのを、どう表現したらいいのかね」と。本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。私たちを、その裏から基本的に操っているもの。それは何か。ワイフは、「さあねエ……。何か、新しい言葉をつくらないといけないね」と。

 ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分が
ある。「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。いわばコンピュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプログラムと考えるとわかりやすい。コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまりにすぎない。そのスイッチを機能的に動かすのが、OSということになる。人間の脳にある神経細胞からのびる無数のシナプスも、このスイッチにたいへんよく似ている。

 そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳のOS」と表現できる。つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに支配され、その範囲で行動している。つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。

 では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。その前に、そ
れは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。

 たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったよ
うな感じだ。とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷や
してから考える。
(02-10-27)※

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人
の一人のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的というわけだ。ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623~62)も、『パンセ』の中で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。この言葉は、釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。精進というのは、「一心に仏道に修行すること。ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。釈迦は「死ぬまで精進しろ。それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。

となると、答は出たようなものか。つまり「私」というのは、その「考える部分」とい
うことになる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。そんなある日、一人の事業家がやってきて、あな
たの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をはかってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。そこであなたとい
う政治家が、人間であるためには、考えなければならない。考えて、脳のOSの外に出な
くてはいけない。そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」
と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こ
る。そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことになる。しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」
があることになる。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。考えるといっても、あまりにも漠然
(ばくぜん)としている。つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、
ループ状態に入ってしまう。同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じこ
とを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。そのヒントとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533-92)の『随想録』である。彼は、こう書いている。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたこと
がない」と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。そのために「書く」
ということか。私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。もちろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかしくない。しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができる。書くことイコール、考えることと言ってもよい。

 「私」が私であるためには、考えること。そしてその考えるためには、書くこと。今の
ところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。書いたのは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていない。

++++++++++++++++++++

~02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。

それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。

最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

++++++++++++++++++++

 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核に生ずる傷によって起きる」と結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」というのである。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『いじめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どものやる気論
【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



++++++++++++++++



子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



++++++++++++++++



●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味する(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来する。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことがあった。



 いつもより30~40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 
子どものやる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)

+++++++++++++++++++++

もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++

【子どもの中の子ども】

++++++++++++++++++++

子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。

++++++++++++++++++++

●乳幼児の記憶

+++++++++++++

子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。

+++++++++++++

「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられていた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシントン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達なため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということになる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわかりやすい。

++++++++++++++++

わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。

やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。

では、「私の意思」とは何か?

それについて書いた原稿が
つぎのもの。

++++++++++++++++

●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわかってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなたは、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、すでに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことになる。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてしまう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということになってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろう。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をする」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけということになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さからってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をしてみよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我がある。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといってもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようになる。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいたとする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そうだ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロールされている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだが、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

++++++++++++++++

そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

++++++++++++++++

●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけである。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたとしよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつようになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるということ。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせているその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないということ。

++++++++++++++++++++

では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

++++++++++++++++++++

● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

Monday, February 27, 2012

●思考回路と自動化

●浜松・ダイワ・ロイネット・ホテルにて(はやし浩司 2012-02-26夜)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今夜、『アンダーワールド』という映画を観てきた。
その帰りに、駅前のダイワロイネットホテルに泊まった。
超ハイテクホテル。
ときどき泊まらせてもらっている。
気分転換にはよい。
よい刺激になる。

で、映画『アンダーワールド』は、星1つの★。
あの手の映画は、見飽きた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●教材作り

 ポッカリと空いた、日曜日の午後。
とくに予定はなし。
あえて言えば、明日からの教材作り。
小1~2用の教材が、まだ何も用意していない。
が、今年度分は、予定通り、ほぼすべて消化した。
残るは、「確率」「密度」「空間図形」。

 「小学1年生に、確率?」と思う人もいるかもしれない。
が、心配、無用。
「どちらのクジを引いたら、得かな?」「損かな?」と。
そんなレッスンを展開すればよい。
私のばあい、「確率」という言葉も使う。
遠慮する必要はない。

 「密度」にしても、「どちらが、混んでいる?」「すいている?」と。
そういう切り口から、入っていく。
大切なのは、その糸口というか、概念を種まきの種にように、子どもの脳の中に入れておくこと。
1年後には、それが、ちゃんと頭の中で、立派な木に育っている。

 たとえば先月、「平均」を教えた。
それについてある母親から、こんなうれしいメールが届いた。
「うちの子ったら、毎日、平均、平均って、そんなことばかりを話題にしています」と。
小学1年生の女児をもつ母親からのものだった。

●東京

数日前、ほぼ1年ぶりに、東京へ行ってきた。
東京駅で新幹線を降り、タクシーで虎の門(霞が関)まで。
そこで講演。
帰りは、虎の門から新橋まで歩いた。
そこから山手線に乗り、東京駅へ。

 その東京。
大都会。
しかしこの10年、ほとんど変わっていない。
この10年間、あるいは15年間、時計は止まったまま。

その東京。
東京に住んでいる人たちには、たいへん失礼な言い方になるかもしれない。
しかしこう思った。
「こんなところに、住まなくて、よかった!」と。

 負け惜しみでも何でもない。
本気で、そう思った。
ビル、ビル、ビル……。
どちらを見ても、ビル、ビル、ビル……。

 そういう通りを歩いていると、奇妙な孤独感に襲われる。
人がいっぱい、いるはずなのに、さみしい。
どうしてだろう?
すべてが直線的。
縦と横の線ばかり。
やわらかな線がどこにもない。

通りを歩く人たちも、みな、無機質で無表情。
飲み食い屋にしても、それが「ある」というだけ。
いくつかの飲食店をのぞいてみたが、食欲そのものが、わいてこなかった。
作られた店、作られた雰囲気、作られた味……。
田舎ぽい店もあるにはあったが、それが女性の化粧のようにも見えた。

 あとはお決まりの、あの都会臭。
排気ガスとゴミの臭い。
ホコリと飲食店の臭い。

 浜松の家に帰ったとき、すでにあたりは真っ暗だったが、草の匂いがした。
若葉の匂い。
そこに甘ったるい春の気配を感じた。
ほっとした。
「ああ、これでいい」と。

●米朝会談

 数日前、米朝会議が終わった。
が、早々と、韓国の中央日報だけは、「双方が合意。協議は成功」と報じた。
それ以外の報道機関は、「たいした進展なし」と。
どちらが正しいのか?
以後、2日間、会談の内容を追いかけているが、どうもはっきりしない。

 アメリカ側の代表は、デービース北朝鮮担当特別代表。
北朝鮮側は、金桂寛(キム・ケグァン)外務次官。

 成果をあせる、デービース(?)。
それを手玉に取る、金。
その様子をテレビで見て、あのクリストファー・ヒルを、そのまま思い出した。

「私が解決してみせます」と、自ら名乗り出た、ヒル。
聞くところによると、クリントン国務長官(当時)に、直接自分を売りこんだという。
結果は、どうだった?
北朝鮮に、よいようにもてあそばれただけ。

ヒルがしたのは、北朝鮮に、現金と原油、食料と音楽(ニューヨークフィルのピョンヤン公演)を与えただけ。
それに何よりも痛かったのが、「時間」。
その時間を与えてしまった。
その間に、北朝鮮は、核兵器を完成させてしまった。

 が、今回は、やや事情が異なる。
平たく言えば、日本は、まったくのカヤの外。
中国は、さらに北朝鮮寄りになった。
たぶんアメリカは、北朝鮮に、こう言っているにちがいない。

「日本から、たんまり現金を取ってやるから、ここはアメリカの要求に応じなさい」と。

 核開発問題についても、日本や韓国が求めるのは、「完全廃棄」。
かたやアメリカは、「凍結」。
 こういうのを、「頭越し外交」という。
が、アメリカにしても、日本のご機嫌を取る必要は、もうない。
自国の利益、第一。
つまり核兵器さえ拡散しなければ、それでよい。
極東アジアの緊張にしても、緊張が高まれば高まるほど、アメリカには利益がある。
中国にしても、そうだ。
北朝鮮がもつ核兵器など、痛くもかゆくもない。
その気にさえなれば、1日で、北朝鮮を焦土と化すことができる。

 では、日本はどうすべきか?

 日本に発言権が与えられないなら、日本は6か国協議から離脱する。
それくいらいの覚悟をもつ。
北朝鮮は、どんなことがあっても、核兵器は手放さない。
核兵器あっての、金王朝。
言うなれば、独裁政権を守る本尊。

 ……というのは、書き過ぎ。
よくわかっている。

ただ、今のままでは、この閉塞感を打破することはできない。
日本は、逃げ回るだけ。
が、それだけでは、問題は解決しない。
もちろん専守防衛。
しかしやるべきときには、やる。
その覚悟を示す。

 「日本は6か国協議から離脱する。日朝協議は別枠で必要に応じてする」と。

 最後に一言。

いざとなったら、アメリカが日本を助けてくれると思っている人は、多い。
しかしアメリカ人に、そんな気は、最初から微塵(みじん)もない。
ないことは、少しでもアメリカ人とつきあったことがある人なら、わかるはず。
(アメリカ人は、そんなお人好しではないぞ!
「トモダチ作戦」なんかに、惑わされるな!)

が、アメリカ本土が攻撃されれば、話は別。
……と書きたいが、北朝鮮だって馬鹿ではない。
そんなことはしない。
そのための「米朝友好条約」。
「アメリカ本土が攻撃されなければ、アメリカは北朝鮮を攻撃しません」と。
北朝鮮の最終目標は、それ。
つまり米朝友好条約。
が、そんな友好条約が結ばれたら、日米安保条約は、そのまま死文化する。
日本は孤立無援。

 ア~ア!

●宇宙人

 今日も、ワイフと宇宙人の話になった。
今度、またそういう映画がやってくる。
題名は『バトルシップ(Battleship)』。
楽しみ。
それでまた宇宙人の話になった。

 が、どんな宇宙人であるにせよ、地球へやってくるような宇宙人は、人間など相手にしない。
科学力も、けた外れに違う。
彼らがもつ宇宙船にしても、母船は地球程度の大きさがあると思ったほうがよい。
太陽の中にだって、平気で出入りできる。

 そういう宇宙人にすれば、人間など、取るに足りない「動物」のようにも見えるかもしれない。
よく言っても、猿、悪く言えば、ネズミ。
逆に人間は、彼らそのものが、理解できない。
姿を見ても、その姿さえ理解できないだろう。
あまりにもちがいすぎる。

 言うまでもなく、科学力と武器の破壊力は、比例する。
つまり彼らは、想像を絶するような武器をもっている。
ひとたび使えば、太陽だって破壊できる。
言い換えると、それだけの科学力があるということは、それだけの自己規制力があるということ。
自己規制力がないまま、科学力をもったら、自滅、あるのみ。
今の北朝鮮を見れば、それがわかるはず。

 ……だから、人間と宇宙人が戦争をする?
そんなことは、ふつうの常識で考えても、ありえない。
ありえないが、おもしろい。

次回は、『バトルシップ』。
かならず見る。

●団塊の世代

 団塊の世代の人たちは、まだ気がついていないかもしれない。
このところ団塊の世代に対する、風当たりが強くなってきている。
「ジジババ・ゴミ論」などという、生やさしいものではない。
「団塊の世代・害悪論」まで、飛び出している。
2チャンネルに、こんな書き込みがあった。

 「あいつ(=あるタレント)も、団塊の世代だろ」
 「いちばんいい時代を、ノーノーと生きた連中だ。苦労を知らない」
 「いい気なもんだな。日本をめちゃめちゃにしやがって」と。

 意識というのは、恐ろしい。
ものの見方、考え方が、私たち団塊の世代と、180度ちがう。
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「団塊の世代は、もっと発言すべきよ。若い人たちに、そうでないと、しっかりと言うべきよ」と。

 しかし残念ながら、今の若い人たちには、それを聞く耳すら、ない。
以前、私が自分のBLOGに、こう書いたときのこと。

「ぼくたちの世代は、就職と同時に、みな、給料の半分を実家へ送った」と。
それに対して、千葉県に住む若い父親は、こう書いてきた。

「阿呆(あほう)」という題名だった。
いわく、「そういうことで、息子や娘をしばることこそ、家族崩壊だ。ぼくは自分の息子や娘には、そういうことはさせない」(EH氏)と。
 
 誤解がないように、言っておく。

 私自身は、結婚前から、収入の約半分を実家へ送った。
45歳まで、それを欠かさずつづけた。
27歳を過ぎるころから、法事などの諸費用も、すべて負担した。
実家の立て直し費用も、すべて負担した。

 そういう立場で、息子たちには、同じような苦労はさせたくないと思ってきた。
学資にしても、惜しみなく、……言われるまま、全額負担してきた。
その一方で、子どものころ、貧乏の怖ろしさを、いやというほど経験している。
息子たちにはそういう思いをさせたくないと願ってきた。

 が、こうした思いは、戦後生まれの団塊の世代なら、みな、もっている。
程度の差はあるだろうが、みな、もっている。
だからがんばった。
彼らが言うところの「家族」を犠牲にしたかもしれないが、がんばった。
がんばるしかなかった。
が、それに対して、最近の若い人たちは、こう言う。
こう言って、吐き捨てる。
「自業自得」と。

 ……この先、「風当たり」は、ますます強くなる。
弱くなることは、ありえない。
飽食とぜいたくの中で、自分を見失ってしまった。
最初から、すべてがそろっているのが、当たり前。
そこに食べ物やモノがあるのが、当たり前。
その世代の、そういった意識を変えるのは、容易なことではない。 

●私たちの責任

 その一方で、私たちの世代にも、責任がないとは言わない。
私ももうすぐ65歳になる。
が、同年齢の仲間たちをながめても、公務員と一般会社員との間に、こうまで「差」があるとは、思ってもいなかった。

 公務員だった連中は、今でも、準公務員として、天下り先で仕事をつづけている。
(もちろんそれぞれの公務員の人に、責任があるわけではない。
制度がおかしいと私は言っている。)

一般企業に勤めた連中は、50歳を過ぎるころから、つぎつぎとリストラ。
子会社、孫会社へ転職できた連中は、まだよいほう。
たいていはそのあと、職安で職をさがしながら、2~3年ごとに転職。
その繰り返し。
「60歳、定年制」などというのは、まさに絵に描いた餅。

 退職金にしても、公務員だった連中は、2700~3000万円(「おいしい公務員」(週刊ダイアモンド(11-10-15)※。
一般会社員については、おおむね、その半額。……それ以下。
今日、大阪市の橋下市長は、バスの運転手の給料をさげると言い出した。
それをそのままここに転載する。

『……大阪市の橋下徹市長が現業職員の給与を民間並みに引き下げるよう指示したのを受け、市交通局が、市バス運転手の給与を4割弱カットすることを盛り込んだ職員給与規定の改定案をまとめたことが26日、明らかになった。
4月からの実施を目指すが、改定には労使間の妥結が不可欠で、難航が予想される。

 交通局によると、市バス運転手の平均年収は、関西の同業5社(544万円)より3・5割高い739万円。
一方、市バス事業の経常損益は28年連続の赤字で、累積赤字は平成22年度決算で過去最高の604億円に達している』(MSN・2012・02・26)と。

 この事実の中に、現代社会の矛盾が集約されている。
累積赤字が604億円もありながら、給料だけは、民間より、35%も高額。

 こうした矛盾に対して、私たち団塊の世代は、何をどう行動してきたのか。
「自分さえよければ、それでいい」「今だけ、何とか、うまくすり抜ければそれでいい」と。
そういうずるい生き方を容認してきたのは、ほかならぬ私たち団塊の世代ではないのか。

 ともあれ、悲惨なのは、蓄財に失敗した個人事業主。
退職金ゼロ、年金ゼロ、貯金ゼロ……。
死ぬまで日銭を稼いで、生きていくしかない。

(注※……退職金)
 『例 北海道富良野町……3408万円、埼玉県朝霧市……3046万円、ほか』(週刊ダイアモンド誌調べ)

●ニヒリズム

 最近、私は、ときどきこう思う。
「まあ、日本も、やがて行き着くところまで行くしかないのでは……」と。
どうしようもないというか、どうにもならない。

 もっとも若い人たちだって、生活は苦しい(?)。
韓国の朝鮮日報に、こんな記事が載っていた(2月26日)。
日本の現状と、たいへんよく似ているので、驚いた。

『……雇用と所得を増やすための韓国政府の積極的対応が求められるが、韓国社会の消費形態を見直す必要もある。
借金をしてでも他人がしていることをしなければならないというのが、最近の消費形態だ。
結婚、マイホーム、子どもの教育を目的に借金をして、その返済に苦しむ人を指して、「ハネムーンプア」「ハウスプア」「エデュ(教育)プア」という新語が相次いで生まれた。
そして、老後の準備ができないまま定年を迎えると、「シルバープア」に転落す』と。

 「シルバープア」?
うまいこと言うね。
ホント!
これからは、この言葉を使わせてもらう。
「シルバープア」。

●シルバープア

 同じ貧乏でも、若いときの衝撃度は、10。
それがシルバーになると、100になる。
(数字で表しても、意味はないが……。)
先がない分だけ、深刻度は大きい。

 が、本当にこわいのは、心がむしばまれること。
心の豊かさや、余裕が消えるだけではすまない。
ものの考えかが、卑屈になる。
いやらしくなる。
ひがみやすく、じけやすくなる。
グチやイヤミが多くなる。
自分では気がつかないまま、そうなる。

 先日、ある知人(女性、55歳くらい)と、たとえばこんな会話をした。

私「……やっと今度、プリウスに乗り換えました」
知「うちなんか、軽よ、軽」
私「何とかがんばって、これからも仕事をつづけます」
知「うちのダンナなんか、倉庫番。万年、倉庫番」
私「楽しみは、温泉へ入ることです」
知「温泉……? もう4年も、旅行してないわ」と。

 自ら、人生の脇道にそれていく。
心の豊かさは、お金(マネー)では買えない。
が、お金(マネー)がない状態で、心の豊かさを維持するのは、簡単なことではない。

●思考回路

 脳みそは、加齢とともに、柔軟性をなくす。
わかりやすく言えば、思考回路が、硬直化する。
早い人で、30代から、そうなる。
40代になると、さらにそれがはっきりしてくる。

 たとえば仕事。
30代を過ぎると、転職がむずかしくなる。
40代になると、さらに転職がむずかしくなる。
たとえばそれまで、バスの運転手をしていたとする。
決めたれた時刻に、決められた路線を走っていたとする。
そんな仕事を10年とか、20年していたとする。

 そういう人が、その仕事をやめ、別の仕事に就くのは、たいへんむずかしい。
「明日から、事務職を……」というわけにはいかない。
それが思考回路。

 人は、ひとつの仕事をしながら、その分野では、専門的になる。
が、同時に、そのほかの部分を切り落としていく。
その「切り落としていく」という部分が、怖い。

そのため、自分の専門分野以外の仕事が、できなくなる。
無理をすればできなくはないが、その分だけ、大きなストレスを覚えるようになる。
実際、50歳を過ぎると、そのため分野の違う世界への転職は、不可能と考えてよい。

 私の知人は、それまで国鉄の工場で働いていた。
で、55歳で定年退職を迎え、その翌月から、市内のY楽器工場で働くことになった。
が、たった1日で、やめてしまった。
「あんなきつい(=きびしい)仕事は、わしにはできん!」と。
現在、85歳だが、以後、1日とて、外で働いた経験はない。

 その思考回路。
私にも、ある。
(もちろんあなたにも、ある。)

 では、どうすれば脳みその柔軟性を保つことができるか。
方法は、「環境適応能力」を、逆に利用する。
つまり自ら、ちがった環境の中に、自分を適応させていく。
わかりやすく言えば、「刺激」。
さらに言えば、「好奇心」と「行動力」。
もっとも効果的なのは、若い人たちと接触すること。
たとえば昨日も、こんなことがあった。

 ある中学生の机を見ると、見慣れない道具があった。
「何、これ?」と聞くと、「テープのりだよ」と。

 テープのり?

 珍しそうにそれを手に取りながめていると、ほかの中学生たちがこう言った。
「みんな知っているよ」「みんなもっているよ」と。

 で、私もひとつ買ってみることにした。
「今度、ぼくも買ってくるよ」というと、1人の中学生が、「いいよ、ぼくのをあげるから」と。
(もちろんその申し出は、断ったが……。)

 こうしてまた私の思考回路が、ひとつ訂正された。
仕事がら、のりを使うことは多い。
テープのりなるものを知らなかったら、20年前、30年前のままの(のり)を使いつづけていた。

 こまかい話を書いたが、こうして自分の脳みそを刺激する。
柔軟にする。
小さな、日々の積み重ねこそ、大切。

 思考回路……それがあるから、ほとんどの仕事は、楽にできる。
が、同時に、その思考回路があるがゆえに、脳みそは硬直化しやすい。
ときには、その思考回路を、自ら破壊してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

思考回路について書いた原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【常識の壁】

●思考のパターン化(思考回路の形成)

+++++++++++++++++++++++

同じことを繰り返す。
繰り返していると、やがて脳みそは、やがてそれを
パターン化する。
パターン化して、そのまま脳の中に叩きこむ。
これを「自動化」という。

たとえばコップを手に取り、お茶を飲む。
そのとき、手でどのようにコップを握るか、
それをいちいち考えてする人はいない。
手は自動的に動き、コップを手にし、それを
口に運ぶ。
これが自動化である。

もう少し複雑な自動化としては、タイピングがある。
パソコンに向かって、キーボードを打つときを、思い浮かべて
みればよい。

私もこうして文字をパソコンに向かって、キーボードを
打つとき、どこにどのキーがあるか、いちいち考えて打たない。
短い言葉なら、指がまとめて動く。

「まとめて」というのは、たとえば「言葉」と打つとき、
何も考えなくても、「KOTOBA」と、一気に指が動く。
「K」「O」「T」……というように、ひとつずつの
キーを意識して打つわけではない。

だからふつう、口で話すよりも速く、文字を打つことができる。
この自動化のおかげで、私は、能率よく、かつ無駄なく、自分の
仕事をこなすことができる。

++++++++++++++++++++

●思考回路

 ある作業を繰り返していると、脳はそのパターンを認識し、それを記憶する。
脳の中に、一定の回路をつくる。 
そうした回路のうち、作業に関する回路は、手続きが記憶されるという意味で、「手続き記憶」とも呼ばれている。
わかりやすく言えば、頭が覚えるのではなく、体が覚える。
(本当は、頭が覚えるのだが……。)

 たとえばここに書いたタイピングにしても、最初は、一本の指だけでパチン、パチンと
打つ。
が、慣れてくると、カチカチと打てるようになる。
さらに練習を重ねていくと、キーボードを見なくても、文字が打てるようになる。
同じような現象が、「思考」についても、起きる。

 たとえば何かの問題にぶつかったとしよう。
そのとき私たちは自分のもつ思考回路に沿って、ものを考え、問題を解決しようとする。
たとえば暴力団の人は、(暴力)という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。
(多分?)
お金や権力のある人は、お金や権力という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。
(多分?)
私のばあいは、ものを書くのが好きだし、「ペン」の力を信じている。
だからものを書くという手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。

 人それぞれだが、さらに中身をみていくと、興味深い事実に気がつく。

●常識(?)

 それぞれの人には、それぞれの(糸)が無数にからんでいる。
過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸、教育の糸、人間関係という糸、などなど。
そういう無数の糸にからまれながら、その人のものの考え方、つまり常識ができあがって
いく。

 アインシュタインは、「その人の常識は、18歳くらいまでに完成される」というようなことを書き残している。

「18歳」という年齢にこだわる必要はないが、かなり早い時期に完成されることは事実
である。
そしてその常識は、一度形成されると、よほどのことがないかぎり、生涯に渡ってそのま
ま、その人のものの考え方の基本となる。
 たとえばY氏(67歳)は、ことあるごとに、「お前は、男だろが!」「お前は、長男だろが!」「何と言っても、親は親だからな!」とか言う。

そういう言葉をよく使う。

何か問題が起こるたびに、そう言う。
それがY氏の常識ということになる。
そうした常識は、ルーツをたどっていくと、かなり若いころまで、さかのぼることができ
る。

Y氏は、若いころ、「親絶対教」として知られる、M倫理団体の青年部員として活躍していた。

●思考回路への挑戦

 私が自分のもつ思考回路を疑い始めたのは、オーストラリアに留学していたときだった。
もちろんそのときは、「思考回路」という言葉すら、知らなかった。
そのことを書いたのが、つぎの記事である(「世にも不思議な留学記」(中日新聞発表済み))。
 この中で、私は、私たちがもっている職業観ですら、環境の中で作られていくものだと
いうことを書きたかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「外交官はブタの仕事」

 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。
許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

そこで私が「おめでとう」と言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。
彼は「ブタ」という言葉を使った。
あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識
そのものが、日本人のそれとはまったくちがっていた。
同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内で、と考えていたようだ。

また別の日、フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入るのか」と。

「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。
軍人になることイコール、出世を意味していた。マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があった。
軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、家つき、運転手つきの車があてがわれた。
またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英雄だった。
これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民地になったという暗い歴史がある。

 そして私の番。
ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。
「ヒロシ、もうそんなこと言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。
私はことあるごとに、日本へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。
ほかに自慢するものがなかった。

が、国変われば、当然、価値観もちがう。
私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえ
ば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと信じていた。
しかしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い知らされた。
時まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 で、帰国後、私は大阪に本社を置く、M物産(当時は、東京と大阪の2本社制を敷いて
いた)に勤めるようになった。
そこで私は、ある日、こんな実験をした。
今にして思えば、それが、私が意識的にした最初の、思考回路への挑戦だったと思う。
私は自分の思考回路を、変えてみたかった。

 それについて書いた原稿が、つぎのもの。
少し余計なことも書いているが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。わざと、ふつうでないことをして、自分の心がどう変化
するのを、観察する。
若いときは、そんなことばかりしていた。私の趣味のようなものだ
った。

たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くのに、わざと反対回りに乗るな
ど。
あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行ったこともある。
一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。
しかし私の考え方を大きく変えたのは、つぎのような実験をしたときのことだ。

 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。
帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。
そのときのこと。
あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。
その通路を歩いていると、たいていいつも、電車の発車ベルが鳴った。
するとみな、一斉に走り出した。
私も最初のころはみなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。

しかしある夜のこと、ふと「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。
寮は伊丹(いたみ)にあったが、私を待つ人はだれもいなかった。
そこで私は心の実験をした。

 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。
それだけではない。
プラットホームについてからも、横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。

それはおもしろい実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人
が、どの人もバカ(失礼!)に見えてきた。
当時はまだコンピュータはなかったが、乗車
率が、130~150%くらいになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。
そのため急いで飛び乗ったようなときには、イスにすわれないしくみになっていた。

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。
「早く楽になろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代名詞にもなっている格言である。

その電車に飛び乗る人がそうだった。
みなは、早く楽になりたいと思って電車に飛び乗る。
が、しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。

 ……それから35年あまり。
私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度成長期をがむしゃらに生きてきた。
人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような人生だった。
どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。
しかし今、多くの仲間や知人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。
やっとヒマになったと思ったら、人生そのものが終わっていた……。そんな状態になって
いる。

私とて、そういう部分がないわけではない。
こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなことは、しばしばしてきた。
しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔しているかもしれない。

そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験が、商社をや
めるきっかけのひとつになったことは、まちがいない。

【補記2】

 やはり、「♪のんびり行こうよ……」は、いい歌です。
私は何度も、この歌と歌詞に救われました。
小林亜星さん、そしてそのコマーシャルを流してくれたM石油さん、ありがとう。

 そうそうそのM石油。
一度、入社試験を受けたことがあるんですよ。
学生時代の話ですが……。
そのあとM物産に入社が内定したので、そのままになってしまいましたが……。
ごめん!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 話は前後するが、私はこんな経験もした。

私の思考回路に、強烈な刺激を与えた事件だった。
同じく『世にも不思議な留学記』の中で、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●たった一匹のネズミを求めて(そのネズミになる)

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレード市の近くにある友人の牧場へ行って、そこで
いつも一、二週間を過ごした。
「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場だけでも浜松市の市街地より広い。
その牧場でのこと。

ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた!
見ると、おびただしい数のネズミ、またネズミ。
……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないかという程度。
しかも、それぞれのネズミに個性があった。
農機具の間で遊んでいるのもいたし、干し草の間を出入りしているのもいた。

あのパイドパイパーの物語に出てくるネズミは、一列に並んで、皆、一方向を向いている
が、そういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなことをすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。
農薬は羊の健康にも悪い影響を与える。
こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い保障制度が発達している。

そこで私たちはネズミ退治をすることにした。
方法は、こうだ。
まずドラム缶の中に水を
入れ、その上に板切れを渡す。
次に中央に腐ったチーズを置いておく。
こうすると両側から無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、水の中に落ちた。
が、何と言っても数が多い。私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、それこそ
絶え間なく、すくい出さねばならなかった。

 が、三日目の朝。
起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。
友人に理由を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向かったかのどちらかだ」と。
伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じられなかった。

移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。
ネズミには、どれも個性があった。

そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。
が、ネズミはお
ろか、その死骸もなかった。
一匹ぐらい、いてもよさそうなものだと、あちこちをさがしたが、一匹もいなかった。
ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テーマの一つは、『戦前の日本人の法意識』。
なぜに日本人は一億一丸となって、戦争に向かったか。
また向かってしまったのかというテーマだった。
が、たまたまその研究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。
あの全体主義は、心理学や社会学では説明できなかった。

そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。
そこで私は、人間にも、ネズミに作用したような「力」が作用するのではないかと考えるようになった。

わかりやすく言えば、脳の同調作用のようなものだ。
最近でもクローン技術で生まれた二頭の牛が、壁で隔てられた別々の部屋で、同じような行動をすることが知られている。
そういう「力」があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。……できた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。
それは私自身のことだが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。
「一匹ぐらい、まったくちがった生き方をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をしても、私だけ別の方角に歩いてみる。
私は、あえて、それになってやろう」と。

日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考回路 

 何度も書くが、思考回路そのものは、「悪」ではない。
思考回路があるからこそ、私たちは日常の生活の中で、ものごとをスムーズに作業し、ものごとをスムーズに考えることができる。
手続き記憶を考えてみれば、それがわかる。

 しかしこの思考回路は、ときとして、新しいものの考え方に対して、壁となって立ちはだかることがある。
新しいものの考え方を取り入れるのを、じゃまする。
それだけではない。

その返す刀で、新しいものの考え方を、「まちがっている」と排斥してしまうことがある。
ときにはそれがその人の全人格的な思考回路になっていることがある。
たとえば「義理・人情」とかいう言葉をよく使う人がいる。
そういう人は、何かにつけて、この言葉に固執する。

 そういう人がそれまでの思考回路を変更するということは、その人自身が自分の過去、つまりそれまで生きてきた人生そのものを否定することに等しい。
その分だけ、衝撃が大きい。
だからよけいにはげしく、抵抗する。
「オレは、義理・人情に命をかける」と。
 ……というような経験は、日常生活の中でもよくする。
 そこで2つのことを提案したい。

(1)常に新しい思考回路が組み込めるように、心の中に余裕(ROOM)を作っておくこと。
(2)常に新しい思考回路をもった人と接する機会を、大切にすること。

 つまり自分がもつ常識は、絶対的なものでないと、いつもどこかでそれを疑う。
一度思考回路ができてしまうと、『類は友を呼ぶ』のことわざ通り、人は居心地のよい世界を求めて、集まる傾向がある。

暴力団の人は、暴力団の人どうし。
ドクターの人は、ドクターの人どうし。
さらには老人の人は、老人の人どうし、と。
が、これは思考回路を固定化するという面で、危険なことでもある。

 私は個人的には、子どもと接するのがよいと思うが、みながみな、そういう機会がある
というわけではない。
子どもたちの思考回路は、いわば白紙の状態。
その(白紙)を見ながら、私たちは自分の思考回路に(色)がついていたり、あるいは(汚れていることを知ったりする。

 ……ということで、思考回路について、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 思考回路 手続き記憶 手続き的知識 常識の破壊 常識への挑戦 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 思考回路)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

Saturday, February 25, 2012

●不気味、ベテルギウス

●オリオン座・ベテルギウス

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

オリオン座にある、ベテルギウスが注目を集めている。
その星が、近く「爆発」するかもしれないという。
(実際には、すでに爆発している?)

星が爆発するのだぞ!

爆発すれば、何と、月ほどの大きさに見られるという。
「壮大な天体ショー」と浮かれている人もいる。
その一方で、その影響で、人類は滅亡すると説く人もいる。
どちらであるにせよ、注目を集めて当然。

そのベテルギウスについて、ウィキペディア百科事典は、つぎのように書いている。

『……2009年時点のベテルギウスは、15年前の測定時と比べると15%も小さくなっており、しかも加速的に収縮しているらしいことがわかった。
また、2010年1月にはNASAが、ベテルギウスが変型している事を示す観測写真を公開。
ガスが流出し表面温度が不均一になるなど、恒星が不安定な状態にあることが示された。近年の観測や研究により、その形状は球形ではなく、大きな瘤状のものをもった形状であるとされている』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

何やらベテルギウスでは、とんでもないことが起きているらしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ベテルギウス

 距離は、640光年(ウィキペディア百科事典)。
640光年とはいうが、銀河系の中でも、隣人のようなもの。
見かけの大きさは、太陽についで、2番目!
(夜空を見あげ、いちばん大きく、赤く輝いている星が、そのベテルギウス。)

『ベテルギウスは、地球からの見かけの大きさ(視直径)が2番目に大きい恒星である(1位は太陽)』(ウィキペディア百科事典)と。

 ベテルギウスは、実際、巨大な星らしい。

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/6784318602/



 この写真は、グーグルの「ベテルギウス写真倉庫」に掲載してあったもの。
どこに許可を求めたらよいのかわからなかったので、そのまま使わせてもらった。
詳しくは:http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%99%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%A6%E3%82%B9&hl=ja&rlz=1T4MOCJ_jaJP363JP363&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=37pJT4WxN43wmAWlnNCbDg&ved=0CE0QsAQ&biw=1622&bih=949

 太陽の大きさは、左下、豆粒というより、針の先の大きさ。
その太陽と比べると、ベテルギウスは、とてつもなく大きな星であることがわかる。

 この星が、近く(明日~100万年後)に爆発するらしい。
表面が、でこぼこし、今、加速度的に収縮しているという。
爆発すれば、もちろん太陽や地球にも、大きな影響を及ぼすとも言われている。

MSNニューズはつぎのように書いている。

『……恒星は核融合反応で輝いており、燃料の水素が燃え尽きると一生を終える。
太陽の8倍以上の質量の星は、寿命が近づくと赤色超巨星となり、最期は大爆発を起こして突然、輝く「超新星」になる』と。

●ガンマ線

 「人類が滅亡する」と説く人たちは、ガンマ線の影響を問題にする。
「強烈なガンマ線で、人類は一瞬のうちに焼き殺される」と。

 この話がデタラメでないことは、NASAが、ベテルギウスの地軸を観測していることでもわかる。
大爆発を起こしたとき、強力なガンマ線を発生する。
そのガンマ線は、ベテルギウス自体がもつ磁場によって、指向性をもつ。
わかりやすく言えば、ベテルギウスの地軸の傾きを調べれば、どの方向にガンマ線が飛び散っていくかがわかる。

 で、それによれば、幸いにも、ベテルギウスの地軸は、地球に対して、20度ほど傾いているという(NASA)。
つまり地球に向かっては、ガンマ線は、飛んでこない。

 が、何といっても、未知の世界。
ガンマ線がまったく飛んでこないとも言えないし、さらに太陽がどのような影響を受けるかとなると、まったくの未知数。
すでにその影響を受け、太陽系のほかの惑星の温暖化が進んでいるという説もある。
あるいはすでに太陽が活動期に入っていおり、猛烈な太陽風が地球を襲うという説もある。

 もしそうなったら、人類に逃げる手だてはない。
どこに隠れても、猛烈な放射線で、みな、焼き殺されてしまう……という。

●400キロ先の野球ボール

 では、実際には、どの程度の大きさと考えたらよいのか。
ウィキペディア百科事典には、こうある。

『……ベテルギウスは、400キロメートル離れた所に置いた野球ボールと同程度である』と。

 福島第一原発から東京までが、約200キロメートル。
この浜松市までが、約400キロメートル(以上、直線距離)。

 浜松市から見ると、福島第一原発のところに野球ボールを置いた距離と、大きさということになる。
それが、爆発する。

 被害はあるのか?
それともないのか?
たかがボール1個。
……と言いたいが、どうやらそうでもないらしい。

 何でも爆発すれば、月ほどの大きさと明るさになり、しかも昼間でも見えるようになるという。
ふつうの核爆発とは、桁外れに大きな核爆発ということらしい。
となると、「天体ショー」と浮かれているようなばあいでもない。

 かなり深刻!

 ベテルギウス……赤くて不気味な星。
夕方になると、東の空に、ひときわ大きく輝いて見える。
毎晩そこに、そのままあればよし。
爆発すれば、数時間後には巨大な星になるという。
が、そのあと、何が起こるかわからない。

 まことにもって、不気味な星……ということになる。
私もワイフも、夕方になると、いつもそのベテルギウスをまっ先に、見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ベテルギウス 超新星爆発 オリオン座)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●悪徳教材会社

【悪徳企業・悪徳教材会社】(ブラック企業の話)

●放射線測定器

 今日、放射線測定器を買った。
エステー社製。
日本製。
7700円。
「Air Counter S」(商品名)。
ガンマ線しか測れない。
が、それでじゅうぶん。

 昨日、東京へ行ったとき、不安でならなかった。
だから、今日、あわてて買った。

 それをもって、あちこちを調べた。
道路の上、植え込みの中、ついでに車の中、ほか。
全体に、毎時0・05μシーベルト~。
場所によっては、0・15μシーベルト~を示すところもあった。
枯草が堆積したようなところほど、高い数値を示した。
放射性物質も、そういうところで堆積される。
このことは前もって知っていたので、冷静に受け止めることができた。

 いろいろなものの上にも、直接置いて、測定してみた。
ほとんどのものは、0・05~0・10μシーベルトの範囲だった。
ただひとつ、パック入りのオレンジ・ジュースの上では、0・19μシーベルトの値が出たのには、驚いた。
そのオレンジ・ジュースは、そのまま捨てた。

 以後、ずっと、首にかけて、使っている。
そのつど、測定している。

●ブラック企業(「ブラック企業の真実」・彩図社)

 今日、「ブラック企業」という言葉を知った。
薄汚い仕事のことかと思ったが、そうではない。
新入社員の立場で、就職してはいけない職種を、「ブラック企業」というらしい。
入社したら最後、骨のズイまでしゃぶられ、最後には身も心もボロボロにされた上、放り出される。
たいていみな、うつ病などの病気になるという。
そういう会社を、ブラック企業という。

 で、そのひとつに、パソコン教室があるという(「ブラック企業の真実」・彩図社)。
生徒の上達度に合わせ、つぎつぎと(より高度なクラス)へ、生徒を移動させていく。
もちろんそのつど、月謝もあがる。
そういう方式で、パソコン教室は、生徒から月謝をむしり取る。
 
 インストラクターには、そのノルマが課せられる。
が、良心の呵責に耐えられないインストラクターもいる。
そういうインストラクターが、上司からひどい仕打ちを受ける。

 もちろんすべてのパソコン教室がそうというわけではない。
しかしパソコン教室にかぎらず、このタイプの教室は、幼児教室にもある。

●ブラック教室

 周1回のレッスンで、生徒を集める。
が、しばらくすると、親にこう言う。
「子どもには適齢期があります。今、音楽教育をしておかないと、手遅れになりますよ」と。
「受験」とか「合格」とかいう言葉を、それにまぶせる。
親は、催眠術か何かに、かかったかのようになる。
教師の言いなりになる。

 こうして、「英語教室……」「体操教室……」「算数教室……」と。
気がついたときには、週に5日、子どもはその教室に通うようになる。

 これをブラック教室と言わずして、何と言う?

●悪徳教材会社

 さらにひどいのが、教材会社。
15年ほど前、S・スタディという教材会社が、市内で事務所を構えた。
大通りに面した、ビルの6階だった。

 ……この話は、当時、原稿として記録した記憶がある。
原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

私はその教材会社の説明会に、
ワイフといっしょに出かけた。
つぎの記事が、それである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪徳化する学習産業

++++++++++++++

法外な教材を売りつける教材会社は少なくない。

そういう会社が、あなたの弱みを、虎視眈々とねらっている。

++++++++++++++

 ある教材会社の主催する説明会。
予定では九時三〇分から始まるはずだったが、黒板には、「一〇時から」と書いてある。
しばらく待っていると、席についた母親(?)の間からヒソヒソと会話が聞こえてくる。

「お宅のお子さんは、どこを受験なさいますの」「ご主人の出身大学はどこですか」と。
サクラである。
主催者がもぐりこませたサクラである。こういう女性が、さかんに受験の話を始める。
母親は受験や学歴の話になると、とたんにヒステリックになる。
しかしそれこそが、その教材会社のねらいなのだ。

 また別の進学塾の説明会。
豪華なホテルの集会ルーム。
深々としたジュータン。
漂うコーヒーの香り。
そこでは説明会に先だって、三〇分間以上もビデオを見せる。内容は、(勉強している子ども)→(受験シーン)→(合否発表の日)→(合格して喜ぶ子どもと、不合格で泣き崩れる母子の姿)。しかも(不合格で泣き崩れる母子の姿)が、延々と一〇分間近くも続く!

 ビデオを見ている母親の雰囲気が、異様なものになる。しかしそれこそが、その進学塾のねらいなのだ。

 話は変わるがカルト教団と呼ばれる宗教団体がある。
どこのどの団体だとは書けないが、あやしげな「教え」や「力」を売りものにして、結局は信者から金品を巻きあげる。
このカルト教団が、同じような手法を使う。
まず「地球が滅ぶ」「人類が滅亡する」「悪魔がおりてくる」などと言って信者を不安にする。「あなたはやがて大病になる」と脅すこともある。
そしてそのあと、「ここで信仰をすれば救われます」などと教えたりする。
人間は不安になると、正常な判断力をなくす。そしてあとは教団の言いなりになってしまう。

 その教材会社では、中学生で、年間一二〇万円の教材を親に売りつけていたし、その進学塾では、「入試直前特訓コース」と称して、二〇日間の講習会料として五〇万円をとっていた。
特にこの進学塾には、不愉快な思い出がある。
知人から「教育研修会に来ないか」という誘いを受けたので行ってみたら、研修会ではなく、父母を対象にした説明会だった。
しかも私たちのために来賓席まで用意してあった。私は会の途中で、「用事があるから」と言って席を立ったが、あのとき感じた胸クソの悪さは、いまだに消えない。

 教育には表の顔と、裏の顔がある。
それはそれとして、裏の顔の元凶は何かと言えば、それは「不安」ではないか。
「子どもの将来が心配だ」「子どもはこの社会でちゃんとやっていけるかしら」「人並みの生活ができるかしら」「何だかんだといって日本では、人は学歴によって判断される」など。
こうした不安がある以上、裏の顔はハバをきかすし、一方親は、年間一二〇万円の教材費を払ったり、五〇円の講習料を払ったりする。
しかしこういう親にしても日本の教育そのものがもつ矛盾の、その犠牲者にすぎない。
一体、だれがそういう親を笑うことができるだろうか。

 ただ私がここで言えることは、「皆さん、気をつけてくださいよ」という程度のことでしかない。
こうした教材会社や進学塾は、決して例外ではないし、あなたの周囲にもいくらでもある。それだけのことだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

が、この種の悪徳教材会社は、後を絶たない。
摘発されるたびに、会社名を変える。
教材にしても、表紙だけ、張り替える。
数年前も、浜松市内で、ある教材会社が摘発された。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●80万円の教材 

 高額な教材を売りつける教材会社がある。
悪徳商法として、ネットでも叩かれている。
これについて、少し書いておきたい。
方式はこうだ。

 「一式、80万円。中学3年分の教材」。
そんな教材を売りつける。
80万円の中には、テキスト代はもちろんのこと、FAXによる添削、電話相談料が
含まれている。
で、80万円を、3年分の36か月で割ると、月額約2万2000円となる。

ワークブックということなら、自分で書店で選んだ方がよい。
ワークブックには、「相性」というのがある。
その相性が合わないと、高価な教材と共に、「勉強心中」ということにもなりかねない。
「勉強心中」というのは、教材が負担で、方向転換できず、そのまま教材と共に、
勉強ができなくなってしまうことをいう。

 大切なのは、「達成感」。
その達成感が、子どもに自信をつけさせ、子どもを伸ばす原動力となる。

 それはともかく、月に1冊、1000円のワークブックをこなすだけでも、たいへんな
こと。
それを考えただけでも、2万2000円というのは、メチャメチャな額といってよい。
が、買う人は買う。
子どもにやらせる。

●私の経験

 私もある時期、市販の教材づくりに命をかけた。
毎晩、2時、3時まで、ワークブックの原案を考えた。
そんなある日、奇妙な仕事が飛び込んできた。

 大手出版社のX社からのものだった。
「都内の小学校の入試問題集を制作してほしい」という依頼だった。
わたしは即断で、それを承諾した。

 で、しばらくすると、ダンボール箱に入った資料が、ドサッと送られてきた。
過去問題に関する資料である。
全部で、40校あまりあった。
が、傾向はどれも似たようなもの。
たがいに隣の小学校の入試問題を見ながら、自分の学校の入試問題を制作していた。
それが私にも、よくわかった。
つまり私には、楽な仕事だった。

●別会社

 が、「?」と思われるような申し入れが、つづいた。
まずその教材は、「X社」の名前では売らない。
書店にも並ばない。
もちろん「はやし浩司」の名前は入れない、と。
そのかわり、高額な制作料を支払う、と。
私には、どういうことか理解できなかった。
が、やがてわかった。

 X社は、ダミーの子会社(販売会社)を立ち上げた。
その子会社名で、セールスマンを雇った。
そのセールスマンに、訪問販売の形で、教材を売らせた。
あとで聞いたら、40校あまりの問題集を、1セット、200万円で売っていた!
この金額には驚いた。
当時はバブル経済、華やかりしころで、200万円でも、飛ぶように売れた。

 が、この方式、つまり親会社がダミー会社を立ち上げ、自分の名前をけがさないように、悪徳商法を繰り返すという方式は、けっして珍しいものではなかった。
さらにあくどい販売会社となると、倒産した教材制作会社の教材群をまとめて買い上げ、それを再製本し、同じ方式で売っているところもあった。
(今も、それがふつうのやり方になっている。)

 昨年(09年)も、この浜松で、悪徳教材会社が摘発された。
同じような手口で、親をだまし、高額な教材を売りつけていた。
が、刑法上の罪は軽い。
表紙だけを取り替えて、また別の販売会社を立ち上げる。
社長(=責任者)は、そのつど、別の人物にすえ替える。

 いろいろな教材を手がけてきたが、これほどまでに後味の悪い仕事はなかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

先にあげたS・スタディについて、
直接書いた原稿が見つかった。
そのまま紹介する。
日付は、2006年11月9日になっているが、
この事件そのものは、それよりずっと前のことだったと記憶している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪徳商法

 数日前、関西に住む、ある女性から電話がかかってきた。
3人の子どもをもつ母親だった。いわく、「右脳教育の教材を買ってしまったが、解約したい。どうすればいいか」と。

 値段を聞いて、ビックリ! 1セット、50万円だという。

 「幼児のころ、右脳教育をしておかないと、科学者にはなれません」「あなたのお子さんも、辞書を一冊、丸暗記できるようになります」「あの卓球のIチャンも、利用していました」などなど。
そのセールスマンは、そう言ったという。

 それで50万円の教材を購入することに!

 バカめ! いや、その母親がバカと言っているのではない。
そのセールスマンが、バカ! 右脳教育の「ウ」の字も知らないで、右脳教育の教材を売りさばいている。

 私の近くにも、「S」という、これまた「?」な教材販売会社がある。
月4回の家庭教師こみで、年間、120~130万円の費用を取っている。
教材販売会社なのだが、家庭教師をセットにしているところがミソ。

 つまり教材を解約しようとすると、「うちの教材は、あくまでも家庭教師の補助教材です」と言って逃げる。
家庭教師を解約しようとすると、「家庭教師はサービスとして派遣しています。教材費実費はいただきます」と言って逃げる。

 私の生徒の親も、何人か、その被害にあっている。

 どうか、みなさん、お気をつけください!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●補記

 実は、この話には、つづきがある。

 名古屋市に、XXという教材出版会社がある。
表向きは、「教材出版会社」。
一応、表では、まともな看板をかかげている。
教材説明会などに顔を出すと、その会社のコーナーも、ちゃんとある。

 が、その子会社が、ここにあげた「S・スタディ」(当時)。
(名前は摘発されるたびに、変える。)
その手口は、先に書いた。
「教材」と「家庭教師」をセットにして、親に売りつける。

 で、09年にも、浜松市で摘発された。
そのときもこう言っていた(報道、記憶)。

 「うちは家庭教師を年間契約で雇います。途中解約のばあいは、当然、その解約料を負担していただけいます」と。

 報道でそれを知ったときは、こう思った。
「うまいこと、言うなア」と。

 家庭教師といっても、学生アルバイト。
解約など、いつだってできるはず。
それに家庭教師を解約し、解約料がかかったという話は聞いたことがない。
が、私が書きたいのは、このことではない。
こんなことがあった。

●知人の息子

 ある日、遠い親戚にあたるKさん(女性)から、電話がかかってきた。
「浜松へ行くから、ちょっと寄っていいか」と。
私は即座に、それに応じた。

 が、会ってみると、30歳前後の息子氏がそばにいた。
3人で食事をともにしたが、話すことは、教育のことばかり。
「?」と思っていると、やがておもむろに、名刺を差し出した。
その名刺に、先にあげた「XX教材会社」の名前があった。

 私は、とたん身構えた。
息子氏がついてきた理由が、それでわかった。
が、それについては言わなかった。
Kさん自身も、恐らく息子氏の勤める会社の内情を知らなかったのでないか。
ふつうの出版会社と思っていたらしい。

 で、それで別れた。
そのまま縁を切ったつもりだった。
が、それからもたびたび、息子氏のほうから連絡があった。
「会いたい」「また遊びに行っていいか」「浜松へ行く用事ができたから……」と。

 私の住む世界では、そういう人とつきあうのは、たいへんまずい。
知りあうのも、まずい。
どこでどう利用されるか、わかったものではない。
で、そのつど、断るのに苦労した。
まったくの他人ではなかった。
それだけに苦労した。

●悪徳商売

 ブラック企業……。
教育の世界とて、例外ではない。
ということで、このエッセーを書いた。
みなさんの参考になればうれしい。

 そろそろ就寝タイム。
では、おやすみなさい!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ブラック企業 悪徳商法 悪徳教材 はやし浩司 悪徳教材屋 受験産業 S・スタディ S・スタデイ はやし浩司 悪徳教材会社)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 

●学力低下(大学生と平均値)

●2月24日(講演で、東京へ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今、新幹線の中。
東京へ向かう。
虎の門近くにある、海洋船舶ビル。
そこで講演。

ワイフも同行。
「行きたいか?」と声をかけると、「うん」と。
「あんな家で、ひとりでボーッとしているのもつらいだろ?」と言うと、「うん」と。

まさに二人三脚。
2人で1人前。

たった今、講演の資料を読みなおしたところ。
ほっと一息ついたとき、静岡に着いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自転車屋

 数日前、近くのショッピングセンターへ行った。
驚いた。
驚いて、そのまま絶句。

 それまでも、100~200台前後の自転車を並べていた。
そのコーナーが、2倍近く、広くなった。
数も、300~400台!

 私の実家も自転車を売っていた。
新車が10~15台。
中古車が10~15台。
私が生まれ育った町では、それでもふつうの自転車屋だった。

 が、そのうち40台近い自転車を並べて売る店ができた。
その店が、私には、大きく、立派な店に見えた。
が、それが今では、300~400台。
関連グッズも、ズラリと並んでいる。

 ……その自転車を見ているうちに、どういうわけか、悲しくなってきた。
すぐにも涙がこぼれそうだった。
だれかに叩きのめされたかのような、無力感。
敗北感。
それがつらかった。

「親父(おやじ)が生きていたら、これを見ただけで、絶望しただろうな」と。

 押し黙ったまま歩いていると、ワイフがこう言った。
「もう、あなたの家は、ないのだから……」と。

 ワイフは、私を慰めたつもりかもしれない。
が、そんな言葉で、慰められるようなものではない。
「自転車」には、私の祖父や父、兄の血が流れている。
今の今も、私の体の中には、その血が流れている。

 ……もし、今、私が自転車屋を経営していたら、かならずカタキを取ってやる。
敵が500台なら、私は1000台、並べてやる。
ショッピングセンターを出るまで、私はそんなことを考えていた。
 
●ザマーミロ、ヘッジファンド!

 ヘッジファンド、ハゲタカ!
数日前も、そう書いた。
そのヘッジファンド。

 ヘッジファンドは、その国の国債を買い入れるときは、ふつう、同時に保険をかける。
CDS※というのがそれ。
万が一、国債が紙くずになったとしても、その保険がかけてあれば、それでカバーできる。
(実際には、もう少し複雑。
が、おおざっぱに言えば、そういうこと。)

 ふつう国が国家破綻(デフォルト)に向かうときは、国債は額面を割る。
額面が、たとえば100万円の国債でも、90万円とかになる。
価格がさがった国債を、保険をかけながら、さらに買いつづける。
破綻が近づけば近づくほど、国債は安くなる。

 こうしてその国が破綻するのを、待つ。
破綻すれば、国債は紙くず。
が、保険がかけてあれば、額面どおり、元金は保証される。
こうしてヘッジファンドは、莫大な利益を得る。
2000年のはじめ、アルゼンチンが破綻したときもそうだった。

(注※……CDS商品について)
『クレジット・デフォルト・スワップ (Credit default swap、CDS) とは、クレジットデリバティブの一種で、債権自体を移転することなく信用リスクのみを移転する取引である。最も取引が盛んなクレジットデリバティブのひとつ。銀行の自己資本比率を高める対策の一環としても利用される』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

●ギリシャ

 ギリシャは、刻一刻と、金融危機が悪化しつつあった。
国家破綻は、時間の問題だった。
が、こういうときこそ、ヘッジファンドの出番。
破綻を見越して、国債を買いつづける。
各国の金融機関がもっているギリシャ国債を、安く買いたたく。

 で、デフォルト(債務不履行=国家破綻)ともなれば、そのときこそ、ヘッジファンドの出番。
元金は、CDFで保証されている。
額面通りの金額を、それぞれの銀行から受け取ればよい。
……という手はずだった。
が、ここで思わぬ誤算!

●ザマーミロ!

 各国の銀行団、つまり民間債権者たちは、約54%の債務削減に応じてしまった※。
わかりやすく言えば、借金の帳消し。
「うちは1億円の貸金がありますが、半額だけでも返してもらえれば結構です」と。

 銀行としても、ヘッジファンドに満額の保証金を支払うくらいなら、そのほうが安くすむ。
仮に50%分の損をしても、50%分は、返ってくる。
プラス、保証金は支払わなくても、すむ。

 が、ヘッジファンドにとっては、おもしろくない。
日に日に、保証金が積み重なっていく。
が、私は、こう書きたい。

ザマーミロ!、と。

 お金(マネー)というのは、コツコツと汗水流して働いて得るもの。
そのお金(マネー)を商品にし、巨額の利益をあげるヘッジファンド。
狂っている。
いくら資本主義の世界とはいえ、こんなことが許されてよいはずがない。

 今ごろ、ヘッジファンド・ハゲタカ集団は、地団駄(じだんだ)踏んで、悔しがっているにちがいない。
54%も貸し金を棒引きにされた上、保証金も手に入らない。
だから、もう一度。
ザマーミロ!

(注※……ヘッジファンド)
Bloombergは、つぎのように伝える。
CDSが発生するかどうか、目下、きわめて微妙な段階ということらしい。

『2月24日(ブルームバーグ):ギリシャ政府が同国債保有者に債務交換を強制する集団行動条項(CAC)を発動すれば、想定元本32億ドル(約2600億円)相当のギリシャ債を保証するクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の決済が発生する可能性がある。

 ギリシャ政府は24日、投資家が保有するギリシャ債の新発債への交換を正式提案した。民間債権者は額面の53.5%を減免することに合意している。国際スワップデリバティブ協会(ISDA)の規則によれば、CACが発動されるとCDSの決済が起こる。

 米証券保管振替機関(DTCC)によると、ギリシャ債を保証するCDSの残高は17日時点で合計4263枚』(Bloomberg 2-24)と。

●ポルトガル

 もっともギリシャが、これで安泰かというと、それはどうか?
言うなれば、今回の救済策は、延命措置。
ギリシャの金融危機が、これで終わったとは、だれも思っていない。
そればかりか、今度は、ポルトガルもおかしくなり始めた。
一難去って、また一難。
それを繰り返している間に、EUは、奈落の底へと落ちていく。

●東京

 東京での講演(S&G財団)が終わった。
今は、帰りの電車の中。
先ほど、夕食の弁当を食べ終えたところ。

 正直に告白する。
今度ほど、東京を怖く思ったことはない。
今朝も、地震の夢を見た。
3年以内に、70%の確率……そんな予報も出ている。
会場から、新橋駅まで歩いたが、気が気ではなかった。
100メートル歩くごとに、「ここで地震が起きたら……」と、そんなことばかり考えていた。

 私は君子ではないが、『君子、危うきに近寄らず』。
3・11大震災(2011)以来、はじめての東京。
それ以前と何も変わらず、東京は元気だった。

●男性

 今日の講演会は、それぞれの地域で、指導員として活躍している人たちのものだった。
自動販売機のところで知りあった男性は、岩手県から来ていた。
その町の教育委員会の人だった。

 そのこともあって、……つまりほとんどが男性ということもあって、反応は鈍かった。
「笑ってくれるかな?」と思って話しても、ムッツリ、ダンマリ……。
そういう点では、話しにくかった。
が、それにも慣れた。
男性というのは、そういうもの。

●新富士

 新幹線は、たった今、新富士に着いた。
あれほど込んでいた車内も、今はガラガラ。
うしろの席に座った若い男性が、ボソボソと何やら話しあっている。
内容はわからないが、ときどきフフフ……、ハハハ……と笑っている。

 会社の同僚か、何かなのだろう。
勝ち誇ったような、自信たっぷりの声。
「私にも、ああいうときがあったなア」と。

遠い昔……というより、今の「私」とは、切り離された昔のような気がする。
うしろで話している若い男性と、私の間に、連続性がない。
言い換えると、うしろの男性が、別人種の人たちのように思えてくる。
宇宙人でもよい。

●前原誠司vs産経新聞

 前原誠司氏(民主党)と産経新聞が、喧嘩している。
ロイターは、つぎのように伝える。

 『民主党の前原誠司政調会長は23日、産経新聞の報道内容に問題があるとして、産経新聞記者の記者会見出席を拒否した。
他の報道機関が拒否理由を求めたのに対し、前原氏は「人をおとしめるための悪口、ペンの暴力の類いが続き受容限度を超えた。
記者に批判する権利はあるが、事実に基づかなければならない」と答えた。
会見場所に産経の記者がいたため、前原氏は隣室に移動して会見』(ロイター)と。

 そうであっても、またそうでなくても、これはまずい!
いくら気に入らなくても、特定の新聞社の記者を締め出すのは、まずい。
私だったら、「サンケイ(K)」というのは、「臭い、汚い、奇怪のことですか?」とやり返してやる。
あるいは、こうでもよい。

 「英語では、ありがとうは、サンキュー。結構ですは、サンケー?、ですね」と。

 私自身は、産経新聞にとくに、反感をもっているわけではない。(誤解のないように!)
が、前原誠司氏の発言は、報道の自由の観点からして、好ましくない。
身の回りにイエス・マンばかり置くようになったら、それは独裁政治の第一歩と考えてよい。

 そう言えば、昔、佐藤栄作元首相が、同じようにして、記者会見をボイコットしたことがあった。
「新聞記者は、みな、出ていけ」と。
まことにもって、見苦しい事件だった。

 で、民主党という党が、どもよくわからない。
民主とは名ばかり。
独裁的で、心が狭い。
産経新聞など相手にせず、もっと大きな敵に向かって、その矛先を向けたらどうか。

●学力

 読売新聞にこんな記事が載っていた。
いつもの記事なので、私は驚かない。
しかし今、日本の子どもの学力は、ここまで低下している。

+++++++++++++以下、読売新聞より++++++++++++++

●「平均」の意味、大学生の24%が理解せず

 大学生の24%が「平均」の意味を正しく理解していないなど、基礎的な数学力、論理力に大きな課題があることが、日本数学会が実施した初の「大学生数学基本調査」で明らかになった。

 理系学生やセンター入試で数学を受験した大学生も多数含まれており、入試のあり方も問われそうだ。

 調査は昨年4月から7月にかけ、国公立大から私立大まで48大学で実施。
主に入学直後の学生5934人が協力した。
調査では小中学校で学ぶ内容を中心に、論理的な文章の読解や記述力、基本的な作図力を問う5問が出題された。

 その結果、全問正答した学生は、わずか1・2%だった。
「偶数と奇数を足すとなぜ奇数になるか」を論理的に説明させる中3レベルの問題の正答率は19・1%。
小6で学ぶ「平均」についても、求め方は分かるが、「平均より身長が高い生徒と低い生徒は同じ数いる」などの正誤については誤答が目立ち、中堅私大では半数が誤答だった。

+++++++++++++以上、読売新聞より++++++++++++++  CM

 この記事を読んで、私は、こう思った。
「小学1年生(小学1年生だぞ!)でも、理解できるのに!」と。

 それを疑う人は、つぎのビデオを見てほしい。
実際、私が小学1年生に、平均を教えたときのものである(2012年1月)。









 子どもの学力が低下したというよりは、学校のもつ教育力が低下した。
そう考える方が、正しい。
「やるべきことはやります。しかしそれ以上のことはやりません」と。
が、教師を責めてはいけない。
教師自身が、規則、制約で、体中が、がんじがらめに縛られている。
身動きが取れない。

 もう40年前の話。
こんなことがあった。

 ある小学校(東京都)で、OHP(大型の投影機械)教育を始めた教師がいた。
私の友人の弟氏だった。
小学4年生の教室で、それを使った。
地図を何枚か重ねていくというものだった。
最初は道→川や橋→家→……、と。

当時としては、画期的な教育法だった。
弟氏は、本まで書いた。
が、それに「待った」をかけたのが、ほかならぬその学校の校長だった。
いわく「ひとつのクラスだけが、飛びぬけた教育をするのは、不公平になる」と。

 ほかの教室の親たちが騒いだこともある。
「どうしてうちの子どもの教室では、してもらえないのか!」と。

 以後、その弟氏は、OHPを使った指導をあきらめてしまった。
ここに書いた友人というのは、当時、主婦と生活社で編集長をしていた、井上清氏である。
この話が事実であることを保証するため、あえて井上清氏の名前をあげさせてもらった。

 ……今、学校教育に求められているのは、「自由」と「責任」。
この2つが両立しないかぎり、これからも子どもの学力低下は、つづく。

●浜松

 新幹線は、まもなく、浜松駅に到着する。
今日のエッセーは、ここまで。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 OHP教育 平均値 学力低下 はやし浩司 OHP 平均値がわからない大学生 CDS ギリシャ金融危機 はやし浩司 平均 平均値 小学生でもわかる平均値 平均 はやし浩司 BW教室での実践)

(追記)翌朝(25日)、主催者の方から、メールが届いていた。
今回も、みじめな気持で、会場を去った。
できは、最悪。
早口で、一方的に、まくしたてただけ。
気分はよくなかった。

が、メールを読んで、ほんの少しだけ、気分が安らいだ。

++++++++++++++++++++++++++

はやし様

昨日は大変貴重なご講演をいただき、誠にありがとうございました。

参加者からはとても勉強になった、初めて知る内容が多く新鮮で内容が分かりやすかったとの声が多かったです。

今後ともお付き合いができればと思っております。

奥様にもお越しいただき、誠にありがとうございました。よろしくお伝え下さい。

この度は大変お忙しいところ、ありがとうございました。

B&G財団 HD

+++++++++++++++++++++++++++
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

Friday, February 24, 2012

●受験競争の弊害論





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……  
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ    
.  /~~~\  ⌒ ⌒     
. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   2013年 3月 7日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★ ★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page005.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【受験競争は、子どもをつぶす&心をつぶす】

●受験競争の弊害について

++++++++++++++++++++++++

 受験戦争の害悪は、3つある。

1. 心の破壊
2. 学習の功利性
3. 虐待性

 そのほかにも、
4. 人間の優劣意識の増長
5. 挫折によるトラウマ化
6. 学習の受動化
7. 知識の偏在化、などがある。

++++++++++++++++++++++++

●受験競争の弊害

 ここでは受験戦争の害悪について考えてみたい。

1. 心の破壊

 受験競争を経験すると、子どもの心から温もりが消える。
高校生よりも中学生、中学生よりも小学生のほうが、影響を受けやすい。
受験塾の「夏の特訓教室」に参加しただけで、ガラリと人柄が変化することも珍しくない。
親は「やっと心構えができました」などと言って喜んでいるが、それ以上に大切なものを破壊されていることに気づいていない。

 子どもにとっても、不幸なことである。
ある中学2年生(男子)は、夏の間、東京にある母親の実家から、有名進学塾に通った。
(「有名」という言い方は、本当に不愉快だが……。)
で、1か月後に帰ってきたが、たしかに別人になっていた。
気取り始めたというか、仲間の中でも、「ぼくは別格」という意識を強く表に出すようになった。

 が、誤解がないように言っておく。
1か月程度、どこかの進学塾に通った程度で、学力があがるなどということは、ありえない。
絶対に、ありえない。
催眠術にでもかかったような状態にはなることはあるが、その程度。
よくカルト教団に入信した信者が、独特の優越感をもつことがある。
それに似ている。
他人の思想を注入してもらっただけで、自分が優秀になったと思い込んでしまう。
返す刀で、他人を下に見る。
そういうことはある。

2. 学習の功利性

 「功利性」というのは、極端なばあい、「親のために勉強してやる」という意識をもつことをいう。
中には、「親がうるさいから、どこかの大学に入ってやる」と言い出す子どももいる。
さらに親が「勉強しろ」と言えば言うほど、親は、その責任を取らされる。
「100点、取ったから~~を買ってよこせ」と。
実際、親に向かって、こう言った子ども(高校1年男子)がいた。
「(学費の安い)公立高校へ入ってやったから、バイクを買ってよこせ」と。

 さらには、親が事業に行き詰まり、倒産したときのこと。
親が娘を呼んでこう言った。
「お金がないから、大学進学をあきらめてくれ」と。
その娘は、この言葉に、猛反発。
「親らしく責任を取れ」「借金でも何でもして、私を大学へ出すのは、親の義務!」と。

 勉強イコール、自分の利益と結びつける。
これを「功利性」という。

3. 虐待性

 親は子どものためと思い、子どもに向かって、「勉強しろ」と言う。
その言葉自体は、日常会話的なもの。
が、同時に、無意識のうちにも、子どもを脅すことがある。
「こんな成績では、~~中学へは入れないわよ」
「あなたはダメになってしまうのよ」と。

 これはある塾教師が教えてくれた話である。
こう言った。
「ある母親は、子どもに近くの公園に住むホームレスの人たちを見せ、こう言ったという。
『あなたも勉強しなければ、ああなるのよ』と」と。
とんでもない母親ということになるが、子どもの受験競争には、そんな魔力もある。
人間としての常識を狂わす。

 恐怖と不安で、子どもを追いつめる。
その上で、「勉強しろ」と言えば、これはもう立派な、虐待である。

3. 人間の優劣意識の増長

 勉強ができる子どもは、おかしなエリート意識をもつ。
明治以来の学歴主義という、亡霊が、いまだにのさばっている。
そのエリート意識が、子どもの心をゆがめる。
私の知人の中には、会社を退職し、70歳を過ぎても学歴を振りかざし、威張っている男がいる。
私に向かって、こう言った。

 「ぼくは、努力によって、ここまでの人間になりました」と。

 私たちの世界では、こういう人間を、「バカ」と呼ぶ。

3. 挫折によるトラウマ化

 受験競争の恐ろしいところは、失敗したときにわかる。
(不合格イコール、「失敗」ということではないのだが……。)
それがトラウマになり、弱化の原理として働くようになることがある。
何をしても、ここ一番というときに、しりごみをしてしまう。

 だから私はいつもこう言う。
「子どもの受験勉強は、不合格になったときを考え、準備しなさい」と。
とくに小学受験や中学受験では、注意する。
この年齢の子どもには、その「失敗」を自己処理する能力は、まだない。
劣等感(コンプレックス)の種としてしまうことが多い。

 が、仮に不合格になったとしても、親がそれを笑ってすませば、子どもはそれをトラウマ化することはない。
子どもは親の様子を見て、「失敗した」ことを知る。
自信を失う。
それが弱化の原理として、子どもをうしろ向きに引っ張ってしまう。

3. 学習の受動化

 ある東大生が、こう言ったという。
「答のない問題を、させないでほしい」と。
これは恩師の田丸謙二先生から、聞いた話である。

 あるとき田丸謙二先生が、1人の学生に何かの研究テーマ(問題)を与えた。
で、それについてその学生がこう聞いた。
「この問題には、答があるのですか」と。
それに答えて、田丸謙二先生が、「ありません」と言うと、先の言葉が返ってきたという。

 答のない問題しか、解かない。
だれかが用意した道しか、進まない。
学習の仕方が受動的になると、そうなってしまう。
子どもの受験勉強でも、だれかに指導してもらわないと勉強できなくなってしまう。
参考書を読み、それを頭の中に叩き込むことはうまくても、自分で道を切り開くことができなくなってしまう。
だからこう言う。

 「答のない問題を、させないでほしい」と。

3. 知識の偏在化

 受験勉強で学ぶ範囲というのは、きわめて限られた範囲の「知識」でしかない。
ないことは、毎年大手の出版社から発刊される、「辞典」を見ればわかる。
私も数年前、それを調べてみた。
「イミダス」という辞典である。

 で、中学校や高校で学ぶ科目は、ドの程度のものか、その割合を調べてみた。
「イミダス」は、社会一般で使われている、広い「知識」を網羅している。
が、驚いたことに、理科、社会にしても、その数10分の1にもならなかった。

 が、受験生たちには、それがわからない。
受験教育で与えられる「知識」が、すべてと思い込んでしまう。
つまり極端化された一部の知識をもって、それが人間が生きていくために必要な、「全」知識と思い込んでしまう。
これはたいへん不幸なことでもある。

 反対にこういうこともある。

 私など文科系の大学を出たこともあるが、大学を卒業してからこのかた、実生活の中で、二次方程式はおろか、一次方程式すら、使ったことがない。
歴史の年号など、すべて忘れた。
国語にしても、この30年以上、直木賞受賞作品も、芥川賞受賞作品も、読んだことがない。

 が、この日本には、おかしな偏見が蔓延している。
学問のアカデミック性は、大切なことである。
それはよくわかるが、その一方で、「実用的なことを教えるのは、教育ではない」と。
アメリカでは、中学校の数学は、中古車の買い方から教える(プレンティス版「代数」)。
その中で、小切手の書き方も教える。
日本の教育と、指導の目的、内容そのものがちがう。

 が、受験生にはそれがわからない。
「合格するため」に、「学ぶ」。
「学ぶ」の語源は、「まねる」だそうだ。
そういう教育をもって、「教育」と思い込んでしまう。

 ついでに言えば、あの直木賞にせよ、芥川賞にせよ、そういった賞を取る作家というのは、「文章のために文章を書く作家」という印象を強くもっている。
先日も芥川賞の受賞作家がテレビで紹介された。
が、見るからに「?」。
まともでない。
私はその男を見たとき、「こんな男の書く文章など、読みたくもない」と思ってしまった。

●AO入試

 こうした受験競争の弊害をなくそうと、さまざまな努力がなされている。
AO入試と呼ばれる入試方法もそのひとつ。
が、『敵も然る者……』、その春には、予備校ではその対策講座が開かれる。
つまりイタチごっこ。

(AO入試については、何度も書いてきたので、今回は省略する。)


●終わりに

 受験競争は避けては通れない道かもしれない。
しかしここに書いてあることを知っているか、知っていないかだけでも、子どもの世界を見る目は変わるはず。

 何も考えず、一方的に子どもに受験競争を強いるような「愚」だけは、避けたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 受験競争 受験勉強の弊害 問題点 受験は子どもの心をつぶす はやし浩司 子どもの受験対策)



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●受験競争の弊害(本編)
++++++++++++++++

受験競争の弊害をあげたら、キリがない。

問題は、しかし、受験競争そのものではなく、
それがわかっていても、なお、親たちは
子どもの受験競争に狂奔するか、である。

そのあたりまでメスを入れないと、
この問題がもつ本質的な意味を
理解することはできない。

+++++++++++++++++

 精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、他人の心情でものを考えられるかということ。
つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調和性などによって決まる。

 言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。

 そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それ
だけ精神の完成度が、低いということになる。
さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることにより、その人の精神の完成度を知ることができる。

 子どもも、同じに考えてよい。

 子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。
しかしこれは遺伝子と、発育環境の問題。

 それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。
が、ここでいくつかの問題にぶつかる。

 一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでしまう要因があること。

 二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の自覚がないこと。

 内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。
この受験競争は、どこまでも個人的なものであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。
子どもにかぎらず、利己的であればあるほど、当然、「利他」から離れる。
そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。
ばあいによっては、「私」から「私」が離れてしまう、非個性化が始まることがある。

 ……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そうい
う側面がある。
ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をする子どももいるのはいる。
しかしそういう子どもは、例外。

(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。
『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。
それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化しているだけ。

 その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高邁な人たちかというと、それは疑わしい。
疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。
こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)

 実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。

(1)利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(2)打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(3)功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(4)独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(5)追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(6)見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(7)人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)

 こうして弊害をあげたら、キリがない。

 が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。
親自身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこまれている。
それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができない。

 もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的、迎合的。

 そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。
いや、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。
今でも、農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。

 一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか心が冷たい。
いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会では、生きていかれない? 

これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。
しかしこうした印象をもつのは、私だけではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。

 子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。
避けてはとおれないこと。
それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。
しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな違いが出てくる。

 一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほ
しい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある母親からの相談(2010年1月7日)

 たまたま今朝、こんな相談が届いていた。
埼玉県K市に住んでいる、MSさんという方からの
相談である。
一部を変えて、そのまま紹介させてもらう。

【MSさんからはやし浩司へ】

はじめまして。
毎日先生のブログを読んでいる者です。
私の子供はもう19才と17才になり、子育てという年齢ではなくなっていますが、それでも、何かと心に思うことがあり、子育てのブログを読ませていただいております。

今回、長女の成人式の問題と次女の大学受験のことで、私の気持ちがいっぱいになってし
まい、自分を見失ってしまいそうなので、ご相談しました。

先ず、長女の成人式ですが、着物は娘の好みに合わせレンタルしました。
今時のレンタルは早めの申し込みで、記念写真の撮影は昨年3月に済ませており、夫と私の親にはすでにアルバムを渡しております。
この写真撮影の時、着物を着て帰りましたので、双方の祖父母宅に寄り、振袖姿を披露しました。

ですが、もうすぐ成人式というのに、長女は成人式には出ないと言い出しました。
その時の私のショックは言葉に出来ません。
長女は大学2年で、学費で精一杯の家計ですが、せっかくの成人式なので好きな着物を選ばせ、トータル20万円もしました。
今、思い起こせば、着物を選ぶ時も、写真撮影の時も、娘はずっと不機嫌でした。
私は娘の様子を見ているだけで吐き気がするほど、気分が悪くなってしまいました。

これも、私がそう育ててしまったのだから・・・
 しっかりものの長女のこと、何か出席したくないよっぽどの理由があるはず、もうすでに振袖姿は見たし、祖父母にも披露し、アルバムも撮影済み。
何が問題なのか? 長女の成人式だもの、本人の好きにすればいい・・・ と自分に言い聞かせる毎日ですが、なかなか私の気持ちに折り合いが付きません。
これも、許して忘れる・・・でいいのでしょうか?

加えて、次女の大学受験で彼女のストレスが私に向けられ、毎日眼が回りそうです。
不安で不安で仕方ないようです。
私が高卒で、ずっと学歴にコンプレックスを持ち、子供には大学に行ってもらいたいと、小さい頃から学歴が大事と間違って育ててしまったのがいけないのでしょうね。
夫はいうと、我関せずとばかりに、遠巻きにしております。

こんなことで・・・と笑われてしまいそうですが、中学生の時に、長女、次女とも本当に大変な時期があり、頭の固い私が変わらざるを得ない事態となりました。
それから、子育てに自身がなくなり、これは共依存なのか?、と思うようになりました。
何かにつけ、私のしていることに自信がないのです。 

何か良いアドバイスがありましたら、よろしくお願いいたします。

【はやし浩司よりMSさんへ】

 まず先の「介護と子どもの意識」を読んでみてください。
今のあなたの考え方も、少しは変ると思います。

 簡単に言えば、親の私たちは、子どもに対して(幻想)をもちやすいということ。
その幻想を信じ、その幻想にしがみつく。
「私たち親子だけは、だいじょうぶ」と。

 しかし実際には、子どもたちの心は、親の私たちから、とっくの昔に離れてしまっているのですね。
親は子どもの将来を心配し、「何とか学歴だけは・・・」と思うかもしれない。
しかし当の本人たちにとっては、それが(ありがた迷惑)というわけです。
いまどき、親に感謝しながら大学へ通っている子どもなど、まずいないと考えてよいでしょう。
それよりも今、大切なのは、自分たちの老後の資金を切り崩さないこと。
あなたにかなりの余裕があれば、話は別ですが・・・。

 お嬢さんたちもその年齢ですから、今度は、あなた自身の年齢を振り返ってみてください。
そこにあるのは、(老後)ですよ。
今は、まだ(下)ばかり見ているから、まだ気がついていないかもしれませんが、あと5~10年もすると、あなたも老人の仲間入りです。

 では、どうするか。
つい先日、オーストラリアの友人が、メールでこう書いてきました。
「子どもたちには、やりすぎてはいけない。社会人になったら、お(現金)をぜったいに渡してはいけない」と。

 同感です。
私もずいぶんとバカなことをしましたが、それで私の子どもたちが、私に感謝しているかというと、まったくそういう(念)はないです。
息子たちを責めているのではありません。
現在、ほとんどの青年、若者たちは、同じような意識をもっています。

 だから私の結論は、こうです。

「よしなさい!」です。

 娘の晴れ着など、娘が着たくないと言ったら、「あら、そう」ですまし、そんなバカげた儀式のために20万円も浪費しないこと。
親の見栄、メンツのために、20万円も浪費しないこと。
それよりもそのお金は、自分の老後のためにとっておきなさい。

 子どもというのはおかしな存在で、そうしてめんどう(?)をみればみるほど、子どもの心は離れていきます。
それを当然と考えます。

 20年ほど前になるでしょうか。
ある父親が事業に失敗し、高校3年生の娘に、「大学への進学をあきらめてくれ」と頼んだときのこと。
その娘は、父親にこう言ったそうです。

 「借金でも何でもよいからして、責任を取れ!」と。

 そこで私がその娘さんに直接話したところ、娘さんはこう言いました。
「今まで、さんざん勉強しろ、勉強しろと言っておきながら、今度は、あきらめろ、と。
私の親は、勝手すぎる」と。

 率直に言えば、これは「共依存」の問題ではありません。
あなたはまだ「子離れ」できていない。
つまりは精神的に未熟。
それが問題です。

 あなたは子離れし、自分は自分で、好きなことをしなさい。
自分で自分で、自分の人生を見つけるのです。
つまりあなたはあなたで前向きに生きていく・・・。

 その点、あなたを(遠巻きにして)見ている、あなたの夫のほうが、正解かもしれません。

 ずいぶんときびしいことを書きましたが、そのためにも、前段で書いた部分を、どうか読んでみてください。
私たち自身の老後をどうするか?
お金の使い方も、そこから考えます。

 二女の方の学費にしても、子どものほうから頭をさげて頼みに来るまで、待ったらよいでしょう・・・といっても、今さら、手遅れかもしれませんが。
本人に勉強する気がないなら、放っておきなさい。
今のあなたには、それこそ重大な決意を要することかもしれませんが、そこまで割り切らないと、あなた自身が苦しむだけです。
どうせ大学へ入っても、勉強など、しませんよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●介護問題と子どもの意識

 介護保険は、すでにパンク状態。
政府は税金をあげることだけを考えている。
しかしそれよりも重要なのは、子どもの・・・というよりは、日本人の意識を変えていくこと。
今のままでは、日本の介護制度は、その根底部分から崩れる。
「心」がない。
心がない介護制度など、またそれによってできる施設など、刑務所のようなもの。
「死の待合室」と表現した人もいる。
そんな施設に入れられて、だれがそれを「快適」と思うだろうか。

 どうして日本人の心は、こうまで冷たくなってしまったのか?
脳のCPUの問題だから、冷たくなったことにすら、気づいていない。
みな、自分は、(ふつう)と思い込んでいる。
またそれが(あるべき本来の姿)と思い込んでいる。

 このおかしさ。
この悲しさ。

 ここに転載させてもらった、MSさんのケースは、けっして他人ごとではない。
私たち自身、あなた自身の問題と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

最後にもう一作。
ある母親の嘆きを、掲載します。
10年ほど前、中日新聞に掲載してもらった
原稿です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親が子育てで行きづまるとき

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌(Mom)に、こんな投書が載っていた。

『思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。
リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。
なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。

旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。
息子は出不精。
娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。
しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。
私の子育ては一体、何だったの?

 私はどうしたらいいの?
 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。
子どもたちとどう接したらいいの?』(K県・五〇歳の女性)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 私の子育ては何だったの 私の子育てはなんだったの 親子の断絶 はやし浩司 親子の絆が切れるとき)

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。
こんな相談があった。
ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。
が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。
どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。

これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だ
け授業を受けました。
が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。
そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。
そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。
しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。
もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。
そのつど子どもの
意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。
親の独善と独断だけが目立つ。

「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。

●親の役目

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、
(2)よき保護者としての親、
そして(3)よき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。
この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。
はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。
あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。
結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。
いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 介護問題 子どもの意識 子離れ 子離れできな
い親 私の子育ては何だったの 私の人生は何だったの 私の子育ては、何だったの 親
の悔悟 介護問題 はやし浩司 親のめんどう 親の介護 親の介護問題 内閣府調査 はやし浩司 受験という虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●終わりに(2012年1月20日記)

 ジジ・ババ・ゴミ論と、家族意識の変化。
さらには子どもを取り巻く環境と、家族意識の変化。
こうした問題が混然一体となり、この先、ジジ・ババを取り巻く環境は、さらに過酷なものとなる。
それには例外はない。
「社会の大勢」というのは、そういうもの。
いかにあなたが部分的に努力したとしても、子どもたちはやがてその「大勢」に呑み込まれていく。

むしろ、「うちはだいじょうぶ」「うちの子にかぎって」と、高をくくっている親、家族ほど、あぶない。
そういう親ほど、子どもの心の変化に気づいていない。

●では、どうするか

 最近の私の結論。
「そういう時流と思い、あきらめ、納得し、受け入れる」。

 独居老人、しかたない。
孤独死、無縁死、これまたしかたない。
それ以上に、息子や娘たちには、期待しない。
期待しなければ、失望もない。

 だったら、「限度をわきまえる」※。

 繰り返しになるが、子どもたちに向かって、「勉強しなさい」と言ってはいけない。
言えば言うほど、責任を取らされる。
その言葉自体が、虐待でもある。

 今、親に感謝しながら高校へ通っている子どもは、いない。
ゼロ!
大学生でも、いない。
社会人になってからも、親に車を買わせている子ども(若夫婦)となると、いくらでもいる。
さらには結婚式の費用から、子ども(孫)のおけいこ代まで払わせている子ども(若夫婦)までいる。

 が、当の子ども(夫婦)は、感謝などしていない。
「生活が苦しい」と言うことはあっても、感謝などしていない。

 だから限度をわきまえる。
(してやること)と(してはいけないこと)の間に、明確な一線を引く。
その一線を引くことに失敗すると、親子関係はバラバラになる。
それが全体として大勢を作り、ここに書いた「ジジ・ババ・ゴミ論」が生まれる。

 そう、私たちは、ゴミ。
今は、そういう前提で、自分たちの(現在)、そして(未来)を考えたらよい。
その上で、私たちはどうあるべきか。
若い世代とどうつきあっていくか。
それを考える。

(注※)限度論……バートランド・ラッセル(イギリスのノーベル文学賞受賞者)。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ・ババ受難時代 ゴミ論 はやし浩司 孤独死 独居老人 無縁老人 日本の子育て 育児論 はやし浩司 子育て限度論)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

(補足)

●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。
『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」という質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感することが、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。
ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。
『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめんね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)と。
つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。

親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。
申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。
 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。
 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。
 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまった」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、
『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。
(1)子どもたちに尊敬される
(2)子どもたちを尊敬する
(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない

 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬し
ていない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という
質問に対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、

  イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。

 もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。
『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。

 へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。

中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。

「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 
はやし浩司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる はやし浩司 MOM 親の嘆き 私の子育て 何だったのか はやし浩司 私の子育ては何だったのか)

(注)六趣輪廻…… 「六趣輪廻」とは、衆生が煩悩とその行為によって必然的に“趣く”六つの道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================