Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 28, 2010

*Individualism in the Mass

【集団性と個人性】

●ライブ

+++++++++++++++++

某国、某所でのライブ会場。
よくあるライブ。
が、ひとつだけ、ほかのライブ会場とはちがった。
異様な雰囲気。
それもそのはず。
よく見ると、ファンたちが、みな、何かをかぶっている。
色は様々だが、白が多い。
パンティである。
女性用のパンティである。
そのパンティを頭からかぶり、両目を、足の部分から出している。
中央部は上から下へと、鼻から口を覆っている。
写真で見る限り、女性が多い。
中には、男性らしき人もいるが、ほとんどが、女性。
若い女性。
そういう女性が、みな、パンティを頭からかぶっている!

++++++++++++++++++

●後追い自殺

 以前、後追い自殺について書いた。
ある有名なロックバンドのメンバーが自殺した。
それにつづいて、何人かの若いファンが、後追い自殺をした。
実際には、親族たちによって闇から闇へと葬られるケースもあるから、もっと数が多いはず。

 それについて、7、8年ほど前、批判記事を書いた。
それについて、数は数件程度だったが、はげしい文句を並べた抗議のメールが届いた。
内容は忘れたが、はげしい文句だった。
私はそれを読んで、「この世界も、カルト化している」と感じた。

●麻薬性

 音楽は、読んで字の通り、「音を楽しむ」ことをいう。
私も、毎日、いろいろな音楽を聴いている。
しかしそこには、限度(?)がある。
あくまでも「楽しむため」。

 脳の中には、そういう受容体があるらしい。
聴覚を通して音楽を聴いていると、脳内はやがてモルヒネ様のホルモンで満たされる。
それが甘い陶酔感を引き起こす。
その陶酔感があるから、人は、音楽を聴く。

 そのため音楽にも、習慣性、つまり麻薬性がある。
メカニズムは、ニコチン中毒、あるいはアルコール中毒と同じに考えてよい。
中には、1日中、音楽を聴いていないと、落ち着かないという人もいる。

●パンティ

 が、音楽を聴くというだけなら、だれにも迷惑をかけない。
だれしも、それを、その人の趣味と理解するだろう。
仮にあなたの子どもが、1日中、耳にヘッドフォンをあてていたところで、あなたはそれを、とがめることはない。

 しかし危険性がないわけではない。
それが冒頭にあげた例である。
(そのときのライブの写真で載せておく。)
若い女性たちが、みな、頭からパンティをかぶっている!
よく見ると、似たようなパンティが多いので、会場で配られたものかもしれない。
あるいはあらかじめ、そういうパンティをもってくるように指示されたのかもしれない。
しかしふつうの常識のある人なら、こんな奇天烈(きてれつ)な格好はしない。

 仮にあなたの子どもが、頭から女性用のパンティをかぶって歩いたら、あなたはそれをどう思うだろうか。
「若者のバカ騒ぎ」と、簡単にかたづけることができるだろうか。

img043

●集団洗脳

 それ以上の情報はわからない。
私は、1枚の写真しか見ていない。
が、その写真には、こんなコメントが添えられていた。
「ファンの娘が、一斉に(パンティを)装着。ステージから見る変態度たるや、ハンパじゃない。(これでは)男は誰しもミュージシャンに一度は、憧れるわけだ」(「B誌」)と。

 私はその写真を見たとき、即座に、カルト教団による集団洗脳会場を思い浮かべた。
どこのカルト教団とは言わない。
この日本には、届けられた宗教法人だけで、20数万団体もある。
その中には、似たような方法で、信者を獲得したり、洗脳したり、再教育しているところがある。

 一斉に読経したり、あるいは指導者の名前を連呼する、など。

 中には「宗教と音楽はちがう」と考える人もいるかもしれない。
しかし中身は、同じ。
どこがどうちがうというのか?

●魔力

 集団への帰属性と、個人的な思考性は、常に対立関係にある。
その人の集団への帰属性が強くなればなるほど、その人のもつ個人的な思考性は、犠牲になる。
カルト教団では、個人的な思考性は、徹底的に排除される。
へたに個人的な主張をしようものなら、即座にその教団からはじき飛ばされるか、「あなたの信仰心は不十分」とか言われて、のけものにされる。

 が、ここで誤解してはいけないことがある。
カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団がある。

 それぞれの人は、何らかの悩みや苦しみをもち、それから救われたいために、カルト教団に身を寄せる。
つまりはじめから個人的な思考性を捨てている。
だからそのまま洗脳されてしまう。
洗脳されていると気づかず、洗脳されてしまう。

 そこは実に心地よい世界でもある。
信者どうしが、親子以上の親子、兄弟以上の兄弟になることもある。
甘くて、心もとろけるような世界。
だから人は、そのままその世界に陶酔するようになる。

 カルトにかぎらず、集団への帰属には、そういう魅力というか、魔力がある。

●トンデモ本

 が、それはカルト教団の話。
私が見たのは、どこかのライブ会場での写真。
若い人たちといっても、それなりの教育を受けている人たちである。
またそれほど苦しみや悲しみがあるとも、思われない。
そういう若い人たちが、頭からパンティをかぶっている。
パンティをかぶって、ライブに夢中になっている!

 私はこの「集団性」こそが、問題と言っている。
またそのような本も書いたことがある。
『ポケモン・カルト』(三一書房)というのが、その本である。

 私はポケモンを攻撃したのではない。
あくまでもポケモン現象を通して見た「集団性」、さらには「カルト性」を問題にした。
が、その本は、その世界の人たちから、「トンデモ本」として、攻撃されつづけている。
(どこかの検索エンジンを使って、検索してみてほしい。
ついでにどういう人たちが、攻撃しているかも知ってほしい。)

 「人間は、ここまでバカになれる」。
言い方を変えると、「人間を指導すれば、ここまでバカにすることができる」。
その恐ろしさは、この1枚の写真を見ただけでもわかる。

 繰り返すが、「ライブだからいい。カルトは悪い」という論法は、通用しない。
(ライブ)と(カルト)。
その差は、紙一重もない。
こうした(集団性)が、いつなんどき、(カルト)に向かわないとは、だれにも言えない。

●個人的な思考性

 集団の中で、いかに個人的な思考性を守るか。
あるいはそれを育てていくか。
これは民主主義教育の根幹でもある。
戦前のあの、全体主義教育を例にあげるまでもない。

 が、実のところ、私は、日本人の集団性が、ここまで進んでいるとは思っていなかった。
集団性というより、「愚民化」と書くべきかもしれない。
最近読んだ雑誌の中には、それを特集しているのもあった。
若い人たちには辛辣(しんらつ)な意見に聞こえるかもしれない。
が、私もそう思う。
「日本の若者たちは、たしかにバカになりつつある」。

 その原因の第一が、自分の頭を使って、自分で考えないこと。
考えることそのものを放棄してしまっている若者も多い。
が、それがいかに危険なものであるかは、やはり戦前、もしくは戦時中の日本を見ればわかるはず。

 たった1枚の写真だが、その写真を見て、いろいろと考えさせられた。
あるいは、あなたなら、この写真を見て、どう思うだろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 集団性 個人的な思考性 思考能力 カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

*Gamers' Brains

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 3月 1日
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3月1日  第1327号になりました!

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●臨界期(0歳~7か月ごろ)

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生後直後から、約7月前後までの期間を、
「臨界期」という。

この臨界期には、特別の意味がある。

++++++++++++++++++

●特別な時期

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
とたえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっ
ている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しな
くなるとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話と
いうことだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、
目の機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもで
ある。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)
を取り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児~1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでい
る(ワシントン大学・メルツォフ教授ら)。

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわ
かってきた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的
にしているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれるものである。
こうした相互の働きかけを「相互アタッチメント(mutual attachmennt)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究
所の津本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果
で、人間の早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエ
ンス」で27日発表した』(10年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、
ものの細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を
個別に計測した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨
界期後のマウスは興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に
反応が落ちた。抑制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウ
スの視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがある
のではないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機
にもなるだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回
復することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す
研究として、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は
性格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってか
らも残すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らか
の治療を目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)
『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られる
ことを、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成
熟した個体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。
米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新
生が確かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質に
ついては明確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30~40歳にあたる生後6
カ月のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現し
た細胞を見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、
この細胞が約1・5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7~10日か
けて移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新
しい細胞が活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」
が存在し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チ
ームは、ヒトでも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は
抑制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り
出すことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療
法が見つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 神経細胞 臨界期 はやし浩司 臨界期 乳幼児 乳幼児の記憶 刷
り込み 神経細胞の再生 臨界期の重要性 早期教育 科学的根拠)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++

「ゲーム脳はあるのか、それともないのか?」

これについての記事を、「毎日JP」より、抜粋
してみる。

++++++++++++++++++++

●火付け役は、、森昭雄・日本大教授(脳神経科学)。
曰く、

 『・・・「15年間、ゲームを毎日7時間やってきた大学生は無表情で、約束が100%
守れない」「ゲームは慣れてくると大脳の前頭前野をほとんど使わない。前頭前野が発達し
ないとすぐキレる」
 森教授は02年、「ゲーム脳」仮説を提唱した。テレビゲームをしている時には脳波の中
のベータ波が低下し、認知症に似た状態になると指摘。その状態が続くと前頭前野の機能
が衰えると警告した。単純明快なストーリーはマスコミに乗って広がり、暴力的な描写に
眉(まゆ)をひそめる教育関係者や、ゲームをやめさせたい親に支持された』(毎日JPよ
り)と。

 これに対して、「森教授の意見には、学術的な裏付けがない」と批判する人も多い。

『・・・森教授は一般向けの本や講演を通して仮説を広めてきた。本来、仮説は他の科学
者が同じ条件で試すことで初めて科学的な検証を受けるが、その材料となる論文はいまだ
に発表されていない。
 手法にも批判がある。森教授は自ら開発した簡易型脳波計による計測で仮説を組み立て
たが、複雑で繊細な脳機能をその手法でとらえるのは不可能、というのが専門家の共通し
た見方だ』(毎日JPより)と。

●利潤追求の世界

 こうした批判を尻目に、ゲーム業界は、大盛況。
その先頭に立たされているのが(?)、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳機能イメ
ージング)。
ここで注意しなければならないのは、川島隆太教授自身は、「加齢医学」が専門。
その研究に基づいて、

『・・・認知症の高齢者16人に半年以上学習療法を受けてもらった結果、認知機能テス
トの成績が上がったと報告。何もしなかった16人の成績が低下傾向だったことから「認
知機能改善に効果がある」と考察した』(2003年)(毎日JPより)と。

 これにゲーム業界が飛びついた(?)。

『・・・こうした成果を企業が応用したのが、脳を鍛えるという意味の「脳トレ」だ。0
6年の流行語となり、川島教授の似顔絵が登場する任天堂のゲームソフト「脳を鍛える大
人のDSトレーニング」は、続編も含め1000万本以上を売り上げた』(毎日JPより)
と。

 こうして今やこの日本は、上も下も、「脳トレ」ブーム。
「1000万本」という数字は、そのほんの一部でしかない。

 もちろん批判もある。

『・・・ ただ、脳トレの過熱を心配する声もある。日本神経科学学会会長の津本忠治・
理化学研究所脳科学総合研究センターユニットリーダーは、「川島氏の研究は科学的な手続
きを踏んでいるが、認知機能の改善が本当に学習療法だけによるかはさらなる研究が必要
だ。『改善した』という部分だけが拡大解釈され広がることで、計算さえやれば認知症にな
らないと思い込む人が出てくるかもしれない」と話す』(毎日Jより)と。

●三つ巴の論争

 現在、「ゲーム脳支持派の森教授vsゲーム脳否定派の川島教授」という構図ができあが
ってしまっている。
しかし実際には、この両教授が、ゲーム脳を間に、対立しているわけではない。

 森教授は、「ゲームばかりしていると、危ない」という警鐘を鳴らした。
一方川島教授は、ここにも書いたように、「老人の認知機能」が専門。
その立場で、「脳トレは(ボケ防止には)効果がある」と、自説を発表した。

 が、一方、教育の世界には、『疑わしきは罰する』という原則がある。
(私が考えた原則だが・・・。)
完全に安全が確認されるまで、あやしげなものは、子どもの世界からは遠ざけたほうがよ
い。
事実、私は1日に何時間もゲームばかりしている子どもを、よく知っている。
中には、真夜中に突然起きあがって、ゲームをしている子どももいる。
もともとおかしいから、そうするのか、あるいはゲームばかりしているから、おかしいの
か?
それは私にもわからないが、このタイプの子どもは、どこか、おかしい。
そういう印象を与える子どもは、少なくない。

(1)突発的に感情的な行動を繰り返す。
(2)日中、空をぼんやりと見つめるような愚鈍性が現れる、など。

「ゲーム脳」があるかないかという論争はさておき、その(おかしさ)を見たら、だれだ
って、こう思うにちがいない。

「ゲームは本当に安全なのか?」と。

 そうでなくても、「殺せ!」「つぶせ!」「やっつけろ!」と、心の中で叫びながらするゲ
ームが、子どもの心の発育に、よい影響を与えるはずがない。
ものごとは常識で考えたらよい。
(もちろんゲームといっても、内容によるが・・・。)

 仮に百歩譲っても、認知症患者に効果があるからといって、子どもや、若い人たちにも
効果があるとはかぎらない。

●脳トレへの疑問

 私も脳トレなるものを、さまざまな場面で経験している。
それなりに楽しんでいる。
しかし子どもの知能因子という分野で考えるなら、脳トレで扱っている部分は、きわめて
狭い世界での訓練にすぎない。

 たとえば教育の世界でいう「知的教育」というのは、広大な原野。
脳トレというのは、その広大な原野を見ないで、手元の草花の見分け方をしているような
もの。
あまりよいたとえではないかもしれないが、少なくとも、脳トレというのは、「だからそれ
がどうしたの?」という部分につながっていかない。

 仮にある種の訓練を受けて、それまで使っていなかった脳が活性化されたとする。
それはそれで結構なことだが、「だからといって、それがどうしたの?」となる。
もう少し具体的に書いてみたい。

 たとえば脳トレで、つぎのような問題が出たとする。

+++++++++++++

【問】□には、ある共通の漢字が入る。それは何か。

 □草、□問

+++++++++++++

 答は※だが、こうした訓練を重ねたからといって、それがどうしたの?、となる。
というのも、私はこうして今、文章を書いているが、こうした訓練は、常に、しかも一文
ごとにしている。
的確な言葉を使って、わかりやすくものを書く。
的確な言葉をさがすのは、ほんとうに難しい。
さらにそれを文章にし、文章どうしをつなげるのは、ほんとうに難しい。

つまりこうした脳トレを繰り返したところで、(よい文章)が書けるようになるとは、かぎ
らない。
・・・書けるようになるとも、思わない。

 それ以上に重要なことは、本を読むこと。
文章を自分で書くこと。

 つまり本を読んだり、文章を書くことが、先に書いた「広大な原野」ということになる。
(※の答は、「質」。)

●疑わしきは罰する

 子どもの世界では、疑わしきは罰する。
先手、先手で、そうする。
以前、ゲーム脳について書いた原稿をさがしてみた。
5年前(05年9月)に書いた原稿が見つかった。
それをそのま、手を加えないで、再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【ゲーム脳】(05年9月の原稿より)

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲ
ーム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲー
ム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05
年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、
感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制を
も司る部分)という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると
働かなくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明
したのが、東北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB J
APAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。
このゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、
省略する。要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりする
と、ものすごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせ
が、殺到している」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。
どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心
から、そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)
という本を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到し
た。名古屋市にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両
論の討論会をつづけたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗
議をしてきた人のほとんどが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たち
であったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてく
るのか? 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編
集部の男性からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多か
った。「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポ
ケモンを勉強してからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない
本などない。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、
そのときは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりを
もちつつ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、
ゲームに夢中になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらし
い(?)。おかしな論理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判
されたりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発し
たりする。教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一
言、「ピカチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言
で、ヒステリー状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声
をあげる子どもさえいた。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たち
との間には、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか
狂信的。現実と空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の
生き物(?)が死んだだけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるよう
になるだろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死ん
でしまった若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI
(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十
人を測定した。そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまった
く発達させることはなく、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼ
す」という実験結果をイギリスで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見
識に基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したと
いう(NEWS WEB JAPANの記事より)。

(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをし
ている!」と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。
下が、M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、
していることもある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった
親類の人たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーテ
ィでもしているかのようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、
さみしがっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。
しかし別の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大
けがをしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあっ
たのですが、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、
言い切れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲーム
を取りあげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、
自分の頭をガラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをし
たという。そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のとこ
ろに相談にやってきた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにし
た。そのときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるし
く変化した。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャ
ーと騒ぐ。イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計
算問題(割り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと
片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたの
は、N社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能
面のように無表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のよ
うになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2~3時間はつづ
けるそうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時
間もゲームをしていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに
紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、
ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話
がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞し
ているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そ
してそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく
変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほう
がヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、
症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。
30年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。
小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの
子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えれ
ばこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」
と答えた先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、
「1名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を
出さない」子どもについては、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものを
いじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち
歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対す
る反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、そ
れが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子ども
が、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまど
い、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の
差を感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が
難しい」(14%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と
続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり
感ずる」「やや感ずる」という先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビ
やゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔
のような崩壊家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味も
なく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメ
リカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児
期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても
返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、
動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームも
そうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわ
かりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられな
くなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、
静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、
おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろい
が、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や
論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがな
い新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。そ
の一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪
弊をあげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日
教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告さ
れている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、
北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫
りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がってい
る」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在
籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年2
10人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は3
55人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、9
6年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171
人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、う
つ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者な
どの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラ
スを1クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策を
とっている(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年につい
て、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2
人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30~36人のばあいでも、も
う1人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部
の小学校では、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入
している。大分県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施して
いる(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツ
という医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から
出たとき、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、
パジャマに着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当た
り次第に、そこらにある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられ
るという。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命
令の二つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令
だけだと、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎ
ると、行動そのものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い
浮かべればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とす
るなら、「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、
それなりに、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それ
は、これから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなっ
たとたん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと
言ったでしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし
精神の抑制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子ども
は、菓子を食べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。
そしてこの前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理
できなくなってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミ
ュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。
一説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になって
いるそうである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。
その適齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、
修正したりするということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習
能力といったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけるこ
とができる。その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、
異常に刺激されることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門
外漢の私にさえ、容易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、
先にとらえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子ども
は、すでに40~50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36
年になるが、36年前の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたち
と区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、
「活発型の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」とい
う言葉が、雑誌などに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、
約30年前ということになる。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクシ
ョナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、
脳の活動そのものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」
というのは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。

(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 子供 ゲーム脳 前頭連合野 管理能力 脳に損傷
のある子ども 子供 失行 ドイツ シュルツ 医師 行動命令 抑制命令 はやし浩司 
家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし
浩司 ゲーム脳 森教授 川島教授)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●突発性難聴

++++++++++++++++++

朝、起きたら、音が聞こえない!
自分の声が、海の底でキンキンと響くだけ!

・・・ということで、私は正月早々、
突発性難聴という病気になってしまった。
幸い、処置が早かったので、現在は、80%
前後まで、聴力は回復している。
よかった!
が、この先、まだ2か月ほど、薬をのまなければならない。

++++++++++++++++++

●「波がある」

 ドクターは、「波がある」と言った。
つまり数日おきくらいに、聞こえるようになったり、聞こえなくなったする、と。
で、ドクターの言ったとおり、たしかに数日おきに、聞こえたり、聞こえなくなったりす
る。
薬のせいか、音が二重に聞こえるときもある。
反対に過敏になっているときは、ゴーゴーと、川の水が流れるような音がする。

 今朝は、調子が悪い。
(朝は、このところ毎日、そうだが・・・。)
感じとしては、70~60%前後というところではないか?
朝、目を覚ますと、まず自分の声を出してみる。

「テスティング、ワン、ツー、スリー」と。

 低音部がよく聞こえれば、OK。
そうでなければ、よくない。

●『サロゲート』

 昨日は耳の調子がよかった。
うれしかった。
・・・ということで、仕事が終わってから、久しぶりにワイフと、深夜劇場に足を運んだ。
観たのは、ブルース・ウィリス主演の『サロゲート』。
星は3つの、★★★。

(ドクターは、「できるだけ安静にしていたほうがいい」と言ったが・・・。)

 先日、『アバター』を観たので、どうしても採点がきびしくなる。
内容的には、つまりロボットに自分を代行させるという発想は、よく似ている。
個人的には、『サロゲート』のような映画は好きだが、なんと言っても、『アバター』の与
えたインパクトは大きかった。
それで、星は、3つ。

 今週から観たい映画がつぎつぎとやってくる。
忙しくなりそう。

 ・・・昨夜、家に帰ってきたのが、午前0時ごろ。
それで今朝は、耳の調子がよくないのかも?

●ストレス

 とにかくストレスはよくない。
今回の突発性難聴も、原因はストレス(?)。
いろいろあった。
たいへんだった。
そんなわけで、心はいつも明るく、朗らかに・・・。

 が、ときとして、それがむずかしくなる。
ストレスを抱え込んでしまう。
悶々と、気が晴れない日々を過ごす。
とたん、悪玉ホルモンがあれこれ悪さを始める。
体の抵抗力を落とす。
いろいろな病気になる。

●生徒たち

 この仕事をしていていちばんすばらしいのは、・・・というより、今回、改めてそれを実
感したが・・・、子どもたちからエネルギーをもらえること。
かなり落ちこんでいても、生徒たちに接したとたん、パッと気が晴れる。
どこかうつ病的な私には、たいへんありがたい。

 もしこういう仕事でなかったら、私は今ごろ、精神病院かどこかで、寝たきりになって
いるはず。
だから今では、こう思うようになった。
「生徒を教えているのではない。助けてもらっているのだ」と。

 そんなこともあって、最近では、生徒を私の孫のように思うようになった。
かわいいというより、いとおしい。
おもちゃをあれこれ買ってきて、教室に並べておく。
めざとい子どもをは、そのつどそれを見つけ、「ほしい」などと言う。

 が、1度や2度では、与えない。
3度、4度と、「ほしい」と言い、それが本気とわかったとき、そのおもちゃを、その子ど
もに与える。
子どもは宝物でも手にしたかのようにして、喜んで帰る。
それが私にとっても、うれしい。
楽しい。

 で、ワイフも同じような気持ちでいるのを知った。
このところ幼児教室のほうを、楽しそうに手伝ってくれる。

●同窓会

 近く金沢で大学の同窓会がある。
4年ぶり?
ワイフが行きたいと言うので、行くことにした。
が、まだ出席のはがきは出していない。
その前に、ホテルの予約をしなければならない。
どういうわけか、この時期、いつもホテルは、満杯。
学会や研究会がつづく。
どこか、ホテルの予約が取れたら、「出席」のはがきを投函するつもり。

●1月26日

 ・・・ということで、今日も始まった。
朝、起きるとすぐウォーキングマシーンの上で、運動。
このところ1回で20分間の運動を基準にしている。

 それがすむころ、体がジワーッと暖かくなる。
庭に朝日が差してくる。

 とくに今日の予定はなし。
いつものように、いつもの仕事をこなす。

 みなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●アインシュタインの言葉

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The
other is as though everything is a miracle.
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこにもない
と思う生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)


It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie which is being
systematically repeated. I do not believe in a personal God and I have never denied this
but have expressed it clearly. If something is in me which can be called religious then it
is the unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can
reveal it.
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図的に繰
り返されてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、このことを否定
したことは一度もない。それについては、ここではっきりしておきたい。もし私の中に、
宗教的なものがあるとするなら、それは、科学が明らかにした部分について、世界の構造
について、無限の崇拝の念でしかない。


We should take care not to make the intellect our god. It has, of course, powerful
muscles, but no personality.
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、
強い筋肉はあるが、人間性はない。

(以上、アルバート・アインシュタイン言語録より)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●奇跡

 生きていること自体が、奇跡。
そこに見えるのは、分子と光が織りなす、摩訶(まか)不思議な世界。
その世界で、音を聞き、光を見る。
肌で冬の冷気を感じ、餌をあさる小鳥のさえずりを聞く。

 60億年の瞬時の、そのまた瞬時の、この瞬間において、私は生きている。
あなたも生きている。
しかしつぎの瞬時には、私もあなたも、再び、永遠の虚の世界に戻る。
「無」ではない。
「虚」の世界である。

 人生が50年であろうが、100年であろうが、瞬時には変わりない。
その瞬時に、私たちは、今、この世界に生きている。
これを「奇跡」と言わずして、何という。

●宗教

 アインシュタインは、「a personal God(個人的な神)」を信じていなかった。
つまり、無神論者だった。
が、そのアインシュタインですら、こう言っている。
「・・・the unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can
reveal it.(科学が明らかにした範囲における、世界の構造について無限の崇拝の念)」につ
いては、宗教性を認める、と。

 わかりにくい言い方だが、こういうことではないだろうか。

 私も記憶にあるかぎり、生涯において2度、満点の星空を見上げて、涙をこぼしたこと
がある。
1度は、オーストラリアで。
もう1度は、近くの山の中で。
あのとき天空の星々に感じた神々しさは、忘れない。
それを「宗教性」というのなら、「宗教性」と言ってもよい。
言い換えると、だれにでも、つまり「私は無神論者」とがんばっている人にも、宗教性は
ある。

 大宇宙への畏敬の念と言い換えてもよい。

●人間性

 「知的な人ほど、心が冷たい」。
それはもう常識と考えてよい。
言い換えると、心の温かさは、人間的な不完全さから生まれる。
渥美清が演じた、『フー天の寅さん』を、頭の中に思い描いてみれば、それがわかる。

 ドジで、間抜けで、アホ(失礼!)。
それを知り尽くした人のみが、人間が本来的にもつ不完全さを、包容することができる。
そうでなければ、そうでない。
反対に冷酷な数学者を思い浮かべてみれば、それがわかる。
(数学者がみな、冷酷というわけではない。誤解のないように。)

 ものごとを数字だけで考えるような人に、人間的な温もりは感じない。
だからアインシュタインは、こう言った。
「知的な人間を、神にしてはいけない」と。
つまり知的な人間になることだけを、人生の目標にしてはいけない、と。

 さらに言えば、損ばかりしている人ほど、幸いなるかな。
裏切られてばかりいる人ほど、幸いなるかな。
失敗ばかりしている人ほど、幸いなるかな。
そういう人ほど、知的な人たちより、人生の真理にはるかに近いということになる。

 人間がなぜ人間であるか。
それは、その人の心の温もりで決まる。
その(温もり)を、私たちは、「人間性」と呼ぶ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 奇跡論 宗教論 人間性 人間的な温もり アインシュタイン 奇跡 
奇跡論 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●平成版、『忠臣蔵』

++++++++++++++++++

2010年という、この年。
未だに動物的隷属意識が、この日本に
残っていたとは、知らなかった。
称して、『平成版、忠臣蔵』。

あの小沢一郎は、中国人も笑うような
大名行列を演出して見せた。
300人もの国会議員と合わせて、総勢
600人!
連れていったアホもアホなら、ついて
いった国会議員も、アホ。
そのアホどもが、さらにアホの上塗り。

民主党の高嶋副幹事長は、「検察側が意図的に、
政権つぶしをしようとしている節がある」と、
かみついた(jiji.com)。

民主党は、検察側が事務ミスだけで、小沢一郎を
事情聴取したというふうに、世論を誘導しよう
としている。

バカめ!
そんなことで、東京地検が動くか!

検察側の目的は、ズバリ、贈収賄罪!
天下の大罪!
まず、3つの記事を並べて読んでみる。

++++++++++++++++++++

++++++++++以下、JIJI.COM+++++++++
 
(インタビューに答えて、高嶋副幹事長曰く、)『あくまで小沢事務所の問題だ。ただ、検
察側が意図的に政権をつぶそうとか、民主党に打撃を与えようとしている節がある。小沢
さんが怒っているのは「なぜ、党大会の前日に逮捕するのか」ということ。明らかに民主
党に対する検察の攻撃ではないか。こういう部分については党として反撃しなければなら
ない。検察の捜査の在り方に問題があれば当然、政党として言うべきだ』と。

++++++++++以上、JIJI.COM+++++++++

++++++++++以下、時事通信++++++++++

『・・・小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で、中
堅ゼネコン「水谷建設」(三重県桑名市)の元経理担当者が、東京地検特捜部に対し、「小
沢事務所に持って行くため、5000万円ずつ2回、現金を用意した」と証言していることが
27日、関係者の話で分かった。

 水谷建設元幹部は1億円を小沢氏側に裏献金したと供述。特捜部は、陸山会が購入した
土地の代金に、水谷側からの裏金が含まれていたとみて捜査している。

 水谷元幹部は特捜部の事情聴取に対し、2004年と05年に、小沢氏側に各5000万円、計
1億円の裏献金を渡したと供述している。

 関係者によると、水谷建設の元経理担当者は、「元幹部から『小沢事務所に持って行く』
と言われ、04年10月と05年4月ごろに、それぞれ現金5000万円を用意して渡した」と
証言したという。

 04年に現金を受け取ったとされる衆院議員石川知裕容疑者(36)は、翌銀行営業日に同
額を陸山会の口座に入金。ほかにも数千万円の入金を繰り返し、これらの資金で土地を購
入していた』

『・・・小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」による土地購入をめぐる事件で、
逮捕された衆院議員石川知裕容疑者(36)が、同会や関連政治団体名義の複数の口座に入
れてあった計8億円を、土地購入の前日に一つの口座に集約させていたことが26日、関係
者の話で分かった。石川容疑者はこの中から土地購入代などを支払った。

 東京地検特捜部は、ゼネコンからの裏金と、政治団体にあった「表」の資金をいったん
同じ口座に入れることで、出どころを分からなくする「資金洗浄」の狙いがあった疑いが
あるとみて捜査。一連の経理操作への小沢氏の関与も調べている。

 石川容疑者は、陸山会が2004年10月に東京都世田谷区の土地を購入した際、同会の口
座に入金した4億円を、政治資金収支報告書に記載しなかった疑いが持たれている。特捜
部はこの4億円には、水谷建設(三重県桑名市)の裏献金が含まれるとみている。

 関係者によると、石川容疑者は同月中旬以降、4億円を数千万円ずつ、陸山会の複数口座
に分けて入金。同28日に全額を一つの口座に集めた。

 石川容疑者は同日、この口座に、小沢氏関連の3団体の口座にあった計約1億8000万円
も移動。もともと口座にあった資金と合わせ、計8億円が1口座に集約された。

 翌29日午前、石川容疑者はこの8億円のうち約3億5000万円で土地を購入。午後に4
億円で定期預金を組み、これを担保に同額の融資を受けた。

 こうした経理操作により、個々の入金が何に使われたかは、口座記録上は判別できなく
なった』

++++++++++以上、時事通信++++++++++

●贈収賄

 金を送ったほうは、「送りました」と、すでに認めている。
それを「もらってない」とか、「知らない」とか、さらに「会ったこともない」と。
時事通信の記事を読めば読むほど、あきれる。

 小細工に小細工を重ね、実の巧妙に、資金隠しをした。
しかも汚い仕事の現場には、自分は顔を出さず、後々の保身のために、秘書を利用した。
で、最終的に、小沢一郎は、時価4億円という自分の個人名義の土地を、手に入れた!

 それを「検察側の政権つぶし」とは!?
この隷属意識。
畜生根性!
こんなレベルの政治家たちが、日本の政治を牛耳っている。
少しは自分の恥じたらよい。

 で、沢一郎の「続投」をいちばん喜んでいるのが、自民党。
そのため自民党は、音無(おとなし)の構え。
小沢一郎が続投すればするほど、民主党は、そのまま自滅。
自民党もそうだったが、民主党にも、これほどまでに自浄能力がなかったとは!

 それもこれも、結局は、日本人の政治意識の問題ということになる。
その政治意識は、江戸時代の封建意識のまま。
それを変えないかぎり、こうした茶番劇は、いつまでもつづく。


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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*Realism in a Dream (PART3)

●荘子(370BC~286BC)

++++++++++++++++++

荘子はある日、夢を見る。
その夢の中で、荘子は、胡蝶となり、
楽しそうに飛び回る。

その夢から覚めたとき、荘子は、
こう考える。

「荘子が夢の中で胡蝶になったのか?」、
それとも「胡蝶が夢の中で、荘子になったのか?」と。

++++++++++++++++++

●胡蝶の夢

 荘子の、この『胡蝶の夢』の逸話を読んでいると、そのうち何がなんだか、わけがわからなくなってくる。
だから荘子自身も、「どちらでもいい」と、結論づけている。
「どのみち、すべては無なのだから」と。

 もう一度、荘子の見た夢について考えてみよう。
具体的に、あなた自身が見た夢として考えてみる。
あなたはどこかの切り株にもたれて、うたた寝をする。
そのとき、夢を見る。

 あなたは一匹の蝶が空を飛ぶ夢を見る。
その蝶は、フワフワと風に乗って、楽しそうに飛んでいる。
が、ふと気がつくと、蝶だと思っていたのは、実はあなた自身であった。
あなたは蝶のように、あるいは蝶の姿のまま、空を飛んでいた。

 そこで荘子は考えた。
「自分が蝶になったのか」、それとも「蝶が自分になったのか」と。

●現実と非現実

 (現実の世界)であるにせよ、(非現実の世界)であるにせよ、どこからどこまでが(現実)で、どこから先が(非現実)なのか、よくわからないときがある。

 私自身は、現実主義者と思っている。
サルトル風に言えば、(存在)と(認識)を基本に、ものを考え、その上に論理を積み重ねている。
そのため、そうでないもの、たとえば占いとか、まじない、迷信、霊(スピリチュアル)などというものを、まったく信じていない。
星占いや、血液型による性格判定にしても、そうだ。

 しかしこのところ、(生きていること自体)が、何か、夢の中のできごとのように感ずることが、多くなった。
つまり「私たちは、ひょっとしたら、とほうもないほど非現実の世界に生きているのではないか」と。

 たとえばそこに今、見えているものについても、たまたまそう見えるから見ているにすぎない、と。
言い替えると、今、そこに見えているからといって、それをそのまま信じてもよいものか、と。
あるいは実際には、私たちには、見えないもののほうが多いのではないか、と。

 よい例が、私たち自身の(過去)ということになる。

●夢

 (現実)は、常に、(過去)の結果でしかない。
(現実)は、今、ここに(存在)するものである。
それはその通りだと思う。
しかし(過去)などというものは、どこにも存在しない。
しないが、私の記憶の中には残っている。
その(残っている部分)が、今、こうして振り返ってみると、まるで夢の中のできごとのように思えてくる。

 そう、まさに(夢)。
私は子どものころ、父の酒乱でつらい思いをしたが、そうしたドラマでさえ、今、振り返ってみると、夢の中のできごとだったように思えてくる。
結婚してからのこと、子育てを夢中でしていたころのこと……、すべてが夢の中のできごとだったように思えてくる。

 言い替えると、今、子ども時代を過ごしている子どもにしても、子育てに奮闘している親にしても、やがてすぐ、夢の中へと消えていく。
「消える」というよりは、今の私のように、(夢の中のできごと)のように思うようになる。
そしていつか、あなたも今の私と同じようなことを言うかもしれない。

「過去を振り返ってみると、すべてが夢の中のできごとのように見える」と。

●再び、現実主義

 これは老人の共通した心理かもしれない。
そこにあるのは、(過去)ばかりで、いくらさがしても、(未来)が見つからない。
だから勢い、(過去)を振り返ることが多くなる。
で、その(過去)はというと、記憶の中にあるだけ。
だから、「まるで夢のよう」となる。

 若い人なら、このあたりで思考を停止して、今度は(未来)を見る。
(過去)は(過去)として、それを踏み台にして、(未来)に目を向ける。
しかし老人には、その(未来)がない。
だから(過去)を振り返りながら、「まるで夢のよう」と思いつつ、それを拡大解釈し、今、ここにある(現実)まで、「まるで夢のよう」と考えてしまう。

(この間、1時間ほど、すぎた。
あれこれ考えた。
で、スーッと、頭の中が整理されていくのを感じた。)

 しかしこの考え方は、まちがっている。
言うなれば、ジー様のたわごと。
いくら歳をとっても、またいくら死に近づいても、私たちは、(現実)を手放してはいけない。
(現実)を手放したとたん、私たちは(死)に向かって、まっしぐら。

 そう、そういう意味では、このところ、私はたしかに弱気になっている。
そこにある(現実)から目をそらし、(夢の中の世界)で生きようとしている。
晩年の母がそうだった。

 毎日、朝夕、欠かすことなく仏壇の前で手を合わせていた。
暇さえあれば、仏壇の金具を磨いてばかりいた。
そこにある(現実)を見失うと、そういう生き様になる。

●結論

 数回にわたって、『夢と現実』について書いてきた。
中には、「林(=私)は、いったい何を考えているのだ」と思った人も多いかと思う。
事実、私自身も、一連のエッセーを書きながら、ときどき自分でも何を書いているかわからなくなった。

 だからこの話は、ここまで。
考えるだけ、無駄。
簡単に言えば、たわいもない夢を見ただけ。
その夢に振り回されただけ。
「無」といっても、荘子が説く「無」と、サルトルが説く「無」とは、概念がちがう。
「無」と考えて、けっして、虚無主義に陥ってはいけない。

 私は私で、年齢など気にせず、その日が来るまで、前向きに生きていく。
今、そこにある(現実)の中で、戦って戦って、戦い抜く。
それが私の、今までの生き様だった。
これからも、それが私の生き様。

 さあ、今日も始まった。
心機一転、がんばるぞ!
みなさん、おはようございます!

(2010年2月28日、明日から3月)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

Saturday, February 27, 2010

*Realism in a Dream

【胡蝶の夢】

●夢と現実(2)

++++++++++++++++

昨日、「夢と現実」について書いた。
うまくまとまらなかった。
そこで今日、もう一度、それについて
書いてみたい。

またまたわかりにくい文章でごめん!

++++++++++++++++

●夢

 私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
中には、指の爪ほどの大きさのあるダイアモンドもあった。
ほかに、ルビーやサファイアなどもあった。

 が、夢の途中で、私はそれが夢であることに気がついた。
ときどきそういうことがある。
夢を見ながら、「これは夢だ」と。
そこでつぎに私は、どうすれば、この宝石を、現実の世界へ持ち帰ることができるか、それを考えた。
今までにも、そういう夢をときどき見たことがある。
が、目が覚めたとたん、夢の中で手にしたものは、すべて消えていた。

●強欲

 目が覚めてから、私は私が見た夢について考えた。
夢の中の私は、見苦しいほど、強欲だった。
それに警戒心も、猜疑心も強かった。
「だれかに盗まれるのではないか」と、それを心配した。

 日ごろ、私はそういう私になるのを、避けているはず。
また身近にそういう人がいると、そういう人を人いちばい嫌っているはず。
そういう私が夢の中では、見苦しいほど、強欲だった。
それを思い出しながら、「私の知性や理性は、どこへ消えてしまったのか」と。
あるいは夢の中では、脳の活動分野がちがうため、知性や理性は機能しないのかもしれない。
知性や理性をコントロールするのは、前頭連合野。
その前頭連合野は、まだ眠ったままだったのかもしれない。
しかしそれにしても、強欲だった。
欲望のまま……というか、私は完全にドーパミンに支配されていた。

●薄もやの向こう

 一方、こんなことも言える。
ときどき小学生たちを見ながら、「私にも、小学生だった時代があるはず」と。
で、私が小学生だったころを思い出そうとする。
とくによく覚えているのは、小学3年生のころの私である。
1年間だけだが、那須(なす)先生という、よい先生に恵まれた。
思い出の数が、とくに多い。
あるが、どれも、薄もやの向こうに隠れて、よく見えない。
大画面に大きく映像が映るというよりは、脳の一部に、小さく映る。
しかもそれぞれが断片的で、輪郭がはっきりしていない。

 そういう自分を思い浮かべてみると、あのころの私が、まるで夢の中の私のように思えてくる。
眠っているときに見る夢と、区別がつかない。

さらに今のように、人生も晩年になってくると、(私自身は、「晩年」という言葉が嫌いだが……)、今までの自分、つまり過去全体が、夢の中のできごとのように思えてくる。
つまり(現実)とは言うが、その(現実)が、夢の中のできごとのように思えてくる。

●非現実主義

 現実も夢も同じようなもの。
ちがいは、どこにもない。
あるいは、どこがどうちがうというのか……。

 ……というふうに考えるのは、危険なことでもある。
現実と夢、もっと正確に言えば、現実と空想の世界を、混だくさせることは、危険なことでもある。
よい例が、神秘主義。
あやしげな宗教団体は、その神秘主義をうまく操って、信者を洗脳する。
洗脳して、操る。
だからというわけでもないが、私たちは常に、現実主義に基盤を置いて、ものを考える。
生きる。

 「人生は夢のごとし」と口で言うのは構わないが、だからといって、人生は無意味とか、現実には価値がないと考えてはいけない。
その上で、「夢と現実」のつづきを書く。

●死ねばおしまい

 あの世があるにせよ、またないにせよ、私たちは死ねば、この世から消える。
脳みそですら、分子レベルまでバラバラにされて、地球上のありとあらゆるものに、再生されていく。
もちろんその一部は、人間を含めた、ほかの生物の一部となっていく。
それを「あの世」というのなら、「あの世」はある。
「あの世」という言葉に問題があるなら、「つぎの世界」と言い替えてもよい。

 ということは、(主体)である「私」が消えるわけだから、私たちは、この現実の中のモノを、ゴミひとつ、チリひとつ、つぎの世界へもっていくことはできない。
今、億万長者になって得意になっている人も、莫大な財産を築いて喜んでいる人も、死ねばおしまい。

 つまりこの「死ねばおしまい」という部分が、「目が覚めたらおしまい」という部分と似ている。
似ているというより、同じ。
私は目が覚めたとき、それを知った。
つまり私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
しかし目が覚めたら、それらはすべて消えていた。

●夢のごとし

 繰り返しになるが、平均寿命までまで、あと15、6年と言われるようになると、とたんに、今までの人生が、まるで夢の中のできごとのように思われてくる。
先に、私は私が小学3年生のときのことを書いた。
しかし何も小学3年生のときにかぎらない。

 20代のころも、30代のころも、40代のころも、同じようなもの。
どれも脳の中では、断片的な一部の記憶でしかない。
たしかに60数年生きてきたはずなのに、その実感がない。
もともと記憶というのは、そういうものかもしれない。
「記憶がある」といっても、それは脳の中の電気信号のようなもの。
「形」があるわけではない。
言い替えると、「人生は夢のごとし」と言うのは、それほどまちがっていないということになる。

 夢と現実。
今、ここに見えている世界は、たしかに現実だが、それは今というこの一瞬にすぎない。
それ以外は、すべて夢。
眠っているときに見る夢と、どこもちがわない。

●現実=夢

 そこでこう考えたら、どうだろうか。
ここにある現実そのものが、夢である、と。
今は、「現実」かもしれないが、一瞬先には、夢になる。
10年もすれば、脳の一部の断片的な記憶でしかなくなる。

 つまり私たちは、現実という夢の中にいながら、「これは夢だ」と気がつく。
つまり私があの夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に持ちながら、「これは夢だ」と気がついたように、である。

 が、私はその夢の中で、何とかしてその宝石を、現実の世界へもってこようとした。
その方法はないかと考えた。
いちばんわかりやすい方法は、宝石の入った袋を、しっかりと手で握ること。
私は子どものころは、そうしていた。
「目が覚めても、放さないぞ」と。

 これは夢の中の話だが、しかし現実のこの世界では、私たちは、日常的に、同じようなことをしている。
お金はもちろん、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついている人は多い。
(だからといって、それが無駄と書いているのではない。誤解のないように!)

 その「しがみつく」という行為が、「目が覚めても、放さないぞ」と、手を握った行為と同じ。

●パンコ

 夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
だからといって、それがどうしたというのか。
だれしも、こう言うにちがいない。
「夢は夢。夢の中で、そういう夢を見ただけ」と。

 しかしそれと同じことを、ひょっとしたら、私たちは、この現実の世界でしているのではないだろうか。

 わかりやすい例として、もう一度、私が小学3年生だったころの話をしてみる。

 あのころは、「パンコ」という遊びが流行(はや)っていた。
地方によっては、「メンコ」とか、いろいろな呼び名がある。
地面に置いた相手のカードを、自分のカードで叩いてめくったら、自分のものになるという遊びである。
私たちは毎日のように、カードの枚数を競い、絵柄を自慢しあった。
その遊びに夢中になったということは、それだけ強欲になったことを意味する。

 が、それも今となっては、まるで夢の中のできごと。
現実にそれをしたはずなのに、今は、何も残っていない。
夢の中で手に入れた宝石も、子どものころに手に入れたパンコも、同じ。

 あえて言うなら、眠っているときに見る夢は、数分前後で、消える。
が、過去は、もう少し長い時間をかけて、消える。
しかしそれが数分であれ、10年であれ、どういうちがいがあるというのか。

●宝石を持ち帰る

 夢の中の私は、見苦しいほどまでに強欲だった。
袋いっぱいの宝石をしっかりと握りながら、「だれにも渡したくない」と考えた。
「だれかに奪われるのではないか」と警戒した。
「これは夢だ」とわかっていても、そうした。

 で、つぎに考えたことは、その宝石を、現実の世界に持ち帰ることだった。
そこで私は、子どものころの私のように、その袋をしっかりと手に握った。
幼稚というより、それ以上の理性や知性が、働かなかった。
が、当然のことながら、目が覚めたとたん、その袋は消えていた。

 ……というのは、夢の中の話だが、実は、これと同じことを、私は現実の世界でもしていることを知った。
この現実の世界全体を、「夢」と考えると、それがわかるはず。

(だからといって、非現実主義に走るのも危険である。
これについては、先に書いたとおり。)

 つまりそう考えることによって、私たちは、つぎのステップへと、自分を昇華させることができる。

●欲望の虜(とりこ)

 「私」には、無数の(しがらみ)が取り巻いている。
「私」自身が、欲望の塊(かたまり)と表現しても、さしつかえない。
もちろんだからといって、「欲望」を否定してはいけない。
この「欲望」が、生きる力の源にもなっている。

 フロイトが説いた「性的エネルギー」、ユングが説いた「生的エネルギー」といったものは、それをいう。
その(エネルギー)を取り除いたら、私たちは、ただの生きる屍(しかばね)。

 しかしこの現実世界全体を、「夢のようなもの」と考えることによって、私たちは、欲望との間に一線を引くことができる。
つまり私たちを、より客観的に、外からながめることができるようになる。

 まずいのは、現実主義に走りすぎるあまり、欲望の虜(とりこ)になりながら、そうであることに気づかないこと。
そういう人を、仏教の世界では、「餓鬼」という。
その餓鬼になってしまう。

●夢は夢

 ……あの夢を見てから、数日が過ぎた。
で、今は、こう考える。

 「私たちが『現実』と思っている、この現実世界全体にしても、夢のようなものだなあ」と。
静かに目を閉じてみると、さらにそれがよくわかる。
その現実世界の夢の中で、私たちは、日々にあたふたとしながら、生きている。
先にも書いたように、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついて生きている。
それが無意味とは言い切れない。
つまり人間がなぜ、こうして生きているかといえば、そのドラマを作るため。
そのドラマに意味がある。
価値がある。

 が、夢は夢。
どこまでいっても、夢は夢。
今の私は、そう考える。

●(補記)

 このエッセーを書きながら、脳の一方で、私は荘子の『胡蝶の夢』を、ずっと考えていた。

「荘子の思想を表す代表的な説話として『胡蝶の夢』がある。「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れている(以上、「ウィキペディア百科事典」より転載)。

荘子は神秘主義に走り、俗世間からの徹底した離脱を説いた。
「無為自然」とは、それをいう。
『胡蝶の夢』は、その象徴的な逸話として紹介されることが多い。

 「荘子が夢を見て、蝶になったのか」、それとも、「蝶が夢を見て、荘子になったのか」。
たいへんわかりにくい話だが、私も今回、同じような経験をした。
「私は、夢の中で、現実を体験したのか」、それとも、「現実の中で、夢を体験しているのか」と。

 が、再三再四書いているように、だからといって、神秘主義に走り、「現実は無意味」と考えてはいけない。
私たちは、今、ここに生きている。
生きているからこそ、夢も見る。
眠っているときの夢もそうだが、「現実も夢のよう」というときの夢も、そうである。
生きていなければ、どちらの夢であるにせよ、夢を見ることはない。
この問題を考えるときは、いつもそこを原点として考える。
 

Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

*The reality in the Dream

【夢と現実】

(注:不完全な文章で申し訳ありませんが、そのまま公開します。
読み終えたあと、「林(=私)は、何を言わんとしているのか、よくわからない」と、どうか怒らないでください。
書いた私自身が、よくわかっていないのですから……。)

●夢

++++++++++++++++

数日前、こんな夢を見た。
目を覚ます直前のことだった。

私はどこかの小道を歩いていた。
その小道のそばに、土手があった。
段々になった墓が立っていた。
3段に分かれていた。
古い墓で、墓石の間には、大きな隙間があった。

その隙間を見ると、宝石がいっぱい詰まっていた。
大きなダイアモンドもあった。
オパールやルビーもあった。
サファイアもあった。

みな、何かの呪いがかけられた宝石という。
だれかにそう言ったわけではないが、
私には、それがわかった。
宝石を持ち帰ったら、不幸になるという。
手で触れるのも、よくないという。

私は、その場を離れようとした。
が、土手の反対側を見ると、
道の下に川が流れていた。
美しく、澄んだ川だった。
それほど深くなかった。
底がよく見えた。

で、歩きながらその川を振り返ると、
川の底で、キラキラと何かが
光っているのが、わかった。
よく見ると、それも宝石だった。
私はそれ拾うべきかどうか、迷った。

が、そのときのこと。
ときどきこういうことがあるが、
私はそれが夢であることに気づいた。
「これは夢だ」と。

+++++++++++++++++

●これは夢

 夢を見ながら、それが夢であることに気づくことが、ときどきある。
眠りが浅いときに、そうなるらしい。
それはそれとして、そのときも、それが夢であることに気づいた。
それだけではない。
私はこう考えた。

 「目が覚めたら、宝石は消える」と。
そのとき私は、川の中に入っていた。
指の爪ほどもある大きなダイアモンドを、何十個も、集めていた。
「どうすれば、このダイアモンドを現実の世界に持って帰ることができるか」と、
一方で、そんなことを考え始めた。

 おそらくすでにそのとき、私は半覚半眠の状態だったと思う。
「目を覚ましたくない」という思いが、強く働いた。
同時に、「この宝石は、私のものだ」「だれにも渡したくない」と、そんなことまで考えた。

●目を覚ましてから

 目を覚ましてから、夢の中の自分について考えてみた。
心のどこかに、「惜しいことをした」という余韻が、まだ残っていた。
で、最初に考えたのは、どうして私が「呪い」を気にしたかということ。
日ごろの私は、そういった類(たぐい)のものは、まったく信じていない。
占い、予言、まじない、霊の存在など、今流行のスピリチュアル的なものは、
認めていない。
生理的な部分で、拒絶反応を示す。

 そんな私が、夢の中で、「呪い」なるものを、本気で信じていた。
これはどうしたことか?
が、これには、2つの理由が考えられる。

 私は子どものころは、幽霊の存在を信じていた。
よく覚えているのは、家の前に、「髪結いさん」という、日本髪を専門に結う美容院が
あり、その美容院の男が、よく幽霊の話をしてくれたこと。
夏の夜などは、みなが道路に長椅子を並べて、その男のする話に耳を傾けた。
楽しかったが、恐ろしかった。

 つまりそのころの「私」が、心のどこかに残っていて、それが夢の中に出てきた。

 もうひとつは、反動形成。
本来の私は、そうした霊的なものにあこがれているのかもしれない。
まじないひとつで、この世の中を思い通りに動かすことができたら、そんな楽しいこと
はない。
「超能力のようなものがほしい」と思うこともある。
しかし私の中の理性が、すかさず、それを否定する。
「そんなもの、あるか!」と。
そこで私は、自分の本心とは、まったく正反対の自分を演ずる。

 が、夢の中では、ありのままの自分が出てくる。

●エス

 つぎに私の貪欲さ。
夢の中で私は、川に戻り、ダイアモンドを拾い集める。
そのとき始終、だれかに横取りされるのではないかという不安感を覚えた。
かなり強い不安感だった。

 いやな根性!
貪欲のかたまり!
日ごろの私は、そういう根性と、いつも闘っている。
そういう自分が、夢の中では、そのまま出てきてしまう。
赤裸々というか、フロイト流に考えるなら、(超自我)(自我)(エス)うち、
(エス)の部分だけが、そのまま夢の中で、拡大して出てくる。
(エス)というのは、動物的な欲望をいう。
そのため知性や理性によるコントロールが、どこかへ吹き飛んでしまう。

 これはおもしろい現象だと思う。
が、だからといって、それが原点にある「私」というわけではない。
「私」であるとしても、それはあくまでも「私」の一部。

●現実との混だく

 が、そのうち、こんなことを考えるようになった。
「これらの宝石を、現実の世界へもってくる方法はないか」と。
私はそのとき、目が覚めれば、宝石が消えてしまうことを、知っていた。
子どものころ、そういう夢をよく見た。
夢の中で、何かほしいものを手に入れるのだが、目が覚めたとたん、それが消えて
しまう。

 貪欲さは、そのままだった。
私はだれかが川の中に入ってくるのを、警戒した。
すでに私は、袋いっぱいの宝石を手に入れていた。
それでも警戒した。
「明日の夜、もう一度、来よう」と思った。
「それまで宝石は残っているだろうか」とも、思った。

 夢の世界というバーチャルな世界(仮想世界)と、現実が、混だくしていた。
が、私は必死で、夢にしがみついた。

●連続性

 と、そのときのこと。
ふと、私はこう考えた。
今までにない経験だった。
私は、そこが夢の世界ということは、よくわかっていた。
やがて目が覚めるということも、よくわかっていた。
同時に、手にした宝石も消えることも、よくわかっていた。
そこで、「では、夢の世界の中で、目が覚めたとき残っているものはないのか」と。

 夢の中では、私は、川の中に立っていた。
その情景も、目が覚めれば、消える。
すべてのものが、消える。
が、その中でも、現実の世界と連続性をもったものはないか、と。

 私はそのときすでにほとんど目が覚めかかっていたと思う。
夢の世界から、現実の世界へ……。
そのとき私は気がついた。

 こうして(考えている部分)だけは、夢の世界から、現実の世界へとつながっている、
と。
夢の世界で、私は、「残っているものはないか」と考えた。
つまりその考えた部分は、目が覚めても、現実の世界で、残っていた。

 私は目を覚ました。
覚ましたあとも、その夢について、ずっと考えつづけた。

●生きる力

 夢の中では、深層心理の、その奥に隠された部分が露出してくる。
フロイトはそれを利用して、「夢判断」という診断法を確立した。
ふだんは心の奥に隠れ、意識としてのぼってこない意識が、夢として現れる。
数日前に見たその夢にしても、そういう夢だった。

 貪欲な私。
だれかに奪われるのではないかという不安感。
それに焦燥感。

 全体としてみると、それが私の生き様を象徴している。
つまり原点には、そういう「私」が、確かにいる。
その私を、知性や理性が、包み隠している。
表面的に見れば、私はそれなりの常識人かもしれない。
そのように、行動している。
が、私だけが特殊とは考えにくい。

 私が夢の中で見た貪欲さにしても、それはあらゆる人が共通してもっているものと
考えてよい。
フロイトは、それを「性的エネルギー」と言った。
ユングは、それを「生的エネルギー」と言った。
その貪欲さが、(生きる力)の根源になっている。
貪欲さを否定してしまったら、その人は生きることそのものをやめてしまうかもしれない。

 が、本来なら、ここで私のもつ知性や理性が、働かなければならない。
「みなと、宝石を分けあおう」とか、「少しだけ拾って、あとは残しておこう」とか。
しかしそこは夢。
脳の働きそのものに、限界がある。
私は、そこまでは考えなかった。

●あとがき

 数日前の夢だったが、今でも、その夢を思い出すたびに、ふとこう思う。
「ひょっとしたら、今のこの現実の世界も、夢のようなものではないか」と。
言い替えると、「夢の中の世界が、本当の世界であり、現実のこの世界が、バーチャルな
世界ではないか」と。
どちらが本当の世界で、どちらがバーチャルな世界と決めることはできない。

 このことは、現実を、「死」と対比させてみると、よくわかる。
私たちは、死ぬことで、すべてを失う。
「あの世」があるならなおさらで、私たちはあの世へ、ゴミひとつ、チリひとつ、もって
いくことはできない。
「死」によって、私たちはそのまま消えてなくなってしまうと考えるなら、なおさらである。

 そこでたとえば過去の強大な権力を手中に収めた独裁者たちは、(現実)を、(あの世)へもっていくことを考えた。
秦の始皇帝を例にあげるまでもない。
つまり私が夢の中で、宝石を現実の世界へ持ち込もうと考えたように、秦の始皇帝は、
現実にあるものを、(あの世)へ持っていこうと考えた。
この発想は、夢の中の宝石を、現実の世界へもってこようとした私のものと、どこも
ちがわない。

一見すると、正反対の行動に見えるかもしれないが、中身は同じ。

●虚像

 私の身の回りには、無数のモノがある。
価値のないものが多いが、中には価値のあるものもある。
しかしそのモノにしても、分子と光が織りなす、虚像に過ぎない。
それを見て、判断している、私の脳みそにしても、分子と光が織りなす虚像に過ぎない。
つまり虚像である「私」が、虚像である「モノ」を見ている。

 死んで「私」を作り上げている分子がバラバラになれば、(死ななくても、毎日、肉体の何%かは、バラバラになっているが)、私はその(モノ)すら、見ることはない。
つまり消えてなくなる。
さらに言えば、私が夢の中で見た「宝石」と、現実に今、こうして見ている「モノ」は、
どこがどうちがうというのか。
区別できないというより、区別するほうが、おかしい。

●非現実主義

 ……と考えすぎるのは、危険なことかもしれない。
こうしたものの見方を総称して、非現実主義という。
これがさらに進むと、神秘主義となる。
狂信的なカルト教団の多くは、その神秘主義の上に成り立っている。

 しかし心のどこかにそういうものの考え方を、入れておくことは、けっして無駄なことではない。
というのも、私たちは日常生活の中で、現実に、あまりにも毒されすぎてしまっている。
現実に毒され過ぎるあまり、ものごとの本質を見失ってしまっている。
そういう例は多い。

 たとえばそこに山のようにある宝石を見ながら、私は金持ちだ。
私は成功者だ。
私はすぐれた人物だ、などと思ってしまう。
そしてその返す刀で、そうでない人たちを否定する。
その人の、人間としての価値まで否定する。

●光陰、矢のごとし

 どうであるにせよ、私には、不思議な夢だった。
いろいろ考えさせられた。
目を覚ましたあとも、そのまま、夢の内容について考えた。

 で、最後に一言。

 中には、「たかが夢ではないか」と思う人もいるかもしれない。
しかし今の私のように、平均寿命まで、あと15、6年という人間にしてみると、
今まで生きてきたことが、夢の中のできごとのようにも思えてくる。
長い、短いという判断もあるが、まさに『光陰、矢のごとし』。
数日前に見た夢が短くて、今まで生きてきた人生が長かったとも、これまた言いにくい。

 つまり「現実とは何か」、それが加齢とともに、ますますわかりにくくなる。
結論を言えば、そういうことになる。

●終わりに……

 何ともまとまりのないエッセーになってしまった。
そこで最後に、改めて、このエッセーを通して、何が書きたかったかを、整理してみる。

 私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
が、途中で、それが夢とわかった。
そこで私はその宝石を、何とかして、目を覚ましたあとの現実の世界にもってこようとした。
しかし目が覚めたとたん、手に握っていたはずの、宝石の入った袋は消えていた。

 しかし人生も残り少なくなってくると、今まで生きてきたこと自体が、夢の中のできごとのように思えてくる。
実際には、(夢)と(現実)が、区別しにくくなる。
ここで私が死ねば、あの世へ入ったとたん、(あくまでもあの世があるという前提での話だが)、今、私がもっているものは、すべて消える。
あの世へは、ゴミひとつ、チリひとつ、もっていくことはできない。
ちょうど夢の中で手に入れたものを、何一つ、現実の世界にもってこれないように、だ。

 つまり私は、(夢の世界)から目を覚まし、(現実の世界)に戻ることによって、(死)を模擬体験したことになる。
言い替えると、その夢を通して、私は、宝石に象徴される、モノや財産が、いかにむなしいものであるかを、改めて知った。
人間が本来的にもつ貪欲さにしても、そうだ。
さらに言えば、名誉や地位、肩書きにしても、そうだ。

 が、その中にあっても、ゆいいつ連続性を保つものがある。
夢の世界と現実の世界の間で、つながっているものがある。
それが「意識」、あるいは「思考」ということになる。

 このことを拡大解釈すると、こうなる。

 仮に私が死に、肉体が滅んだとしても、私が今もっている意識や思考は、この文章を通して、その読んだ人に伝わっていく。
つまりその時点で、私は、この文章を読んだ人の中で、生き返ることになる。
死を克服したことになる。

 ……とまあ、突飛もない結論になってしまった。
たぶんに手前味噌的な結論で申し訳ないが、今は、そう思うことによって、自分をなぐさめることにする。
というのも、ときどき、こう思うことが多くなった。
「毎日、こんなふうに、エッセーを書いていて、何になるのだろう」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

Thursday, February 25, 2010

*Chunichi Syunzyu Column

●中日春秋(2010-2-24)「直葬についての誤解」

+++++++++++++++++

今朝の中日新聞、『中日春秋』に、こんなコラムが載っていた。
いわく「……葬儀業界には、『直葬』という言葉があるのだそうだ。
病院から火葬場へと直行、翌日葬儀なしで、荼毘(だび)に付す。
それが格安の『直葬プラン』らしい。
とにかく『省く』は、当節のキーワードだ。
第一は不況による節約ムードのせいだろうが、少し前、ある業界の卸売会社
の経営者から聞いた話には、やりきれない思いがした……」(以上、原文のまま)と。

つまり、節約ムードの中で、省く目的で、「直葬」がふえている、と。

以下、「省く」ということで、中間卸売会社が省かれる例、インターネットで、
小売店が省かれる例がつづく。

そしてしめくくりは、「……効率化の名の下、今後も一層、旧来の手順や仕組みを
「省く」方へと社会を押しやるに違いない。
そしてその都度、省くべきでない何かも一緒に省かれていくだろう」と。

+++++++++++++++++

●すでに30%以上が直葬

 要するに、「直葬というのは、省くことから生まれた」。
その理由は、「不況による節約ムードだ」と。
しかしこのコラムを書いた人は、このコラムを書くまで、「直葬」という言葉すら知らなかったらしい。
「言葉があるのだそうだ」、つまり「……そうだ」と、書いている。
たぶん、若い人か、今まで葬儀を経験したことのない人なのだろう。
が、現実は、ちがう。
「不況」、「節約」、「省く」に関係なく、すでに首都圏では、30%以上もの人たちが、その直葬により、葬儀を行っている。

 もちろんその中には、ほかの宗教を信じている人も含まれる。
無神論の人も含まれている。
さらに主義主張をもち、自己の哲学に従って、直葬を行っている人もいる。
今ごろ「……そうだ」というのは、おかしい。

●思慮

 思慮の深さは、その人の書いた文章を読んでみればわかる。
とくに、こうしたデリケートなテーマについて書いた文章を読んでみればわかる。
……というより、人の死に関する文章を書くときは、この私でも細心の注意を払う。
このコラムを書いた人は、しかし、直葬というより、それを行う遺族たちの心を、「節約」と決めつけた上、「不況によるもの」と、大上段に切り捨てている。
無神経というか、傲慢というか……?
あまりにも思慮がない。
ないというより、浅い。
浅すぎる!
私たちの世界の用語を使えば、「切り口が甘い」。

 批判はさておき、直葬について、改めて考えてなおしてみたい。

●節約が理由ではない

 その第一。
私は、(私のワイフも)、直葬を望んでいる。
理由はいくつかあるが、何といっても、現在の葬儀の仕方には、おおきな疑問を覚える。
私たちの主義、主張に反する。
「不況」、「節約」、「省く」が、理由ではない。
またそれを押しつけられても、困る。

 あえて言うなら、3人の息子たちに、迷惑をかけたくないという思いがある。
さらに言えば、僧侶による読経を拒否したからといって、どうしてそれが「省く」ことになるのか。
その前に、僧侶による読経に、どれほどの意味があるというのか。
和式仏教、さらには北伝仏教に対する疑問が、それにつづく。

●金銭的な負担

 その第二。
現実問題として、たいていの人は、それまでの介護で、クタクタになっている。
「親の介護が2年つづけば、兄弟関係は壊れる」とも言われる。
遺産相続問題がからめば、なおさら。
みながみな、裕福なわけではない。
介護により、親の財産どころか、自分の財産まで食いつぶしてしまっている人も多い。

 私も一昨年、実兄と実母を相次いで亡くした。
それまでの30年以上、生活費、税金をすべて負担してきた。
その上で、葬儀となった。

 実兄のときは、葬儀費用だけで、200万円を超えた。
加えて僧侶への供養、戒名料などなど。
計250万円以上。
一方、親族などからの香典による収入は、60万円弱。

 2か月後に今度は、母が他界した。
私は質素に葬儀を行うことを決めた。
が、それでも、……つまりいくら節約(?)しても、僧侶を呼ぶような葬儀となると、100万円をくだることはない。
僧侶のほうから、「お宅は、みな、院号がついていますから」と、戒名に、院号をつけることを求めてきた。
戒名によって、値段が異なることは、すでにみなさん、ご存知の通り。

が、それで終わるわけではない。
それにつづく、七七回忌、一周忌などなど。
今年は三回忌。
私のばあい、仏壇を新調し、「精(しょう)抜き」「精入れ」の法事もしなければならなかった。

●中身は様々

 その第三。
親子関係、親族関係といっても、中身は様々。
「親だから……」「子だから……」という『ダカラ論』ほど、いいかげんなものはない。
『ダカラ論』は、論理ではない。
その『ダカラ論』で苦しんでいる人となると、ゴマンといる。
私自身が、そうだった。

 無神経な親族は、表面的な部分だけを見て、また一方的な意見だけを聞いて、容赦なく私に『ダカラ論』をぶつけてきた。
「浩司君、君は男だろが」とか、「何と言っても、親は親だからな」とか、など。
「本家だからな」と言った人もいた。
そうした『ダカラ論』から受ける苦痛には、相当なものがある。
そのつど、自分のもっている主義主張をねじまげなければならない。
世俗に妥協しなければならない。
 
 もちろん良好な親子関係、親族関係がベースにあれば、問題はない。
またそういう人たちから見れば、直葬というのは、「とんでもない葬儀の仕方」ということになる。
またそういう人たちの感覚からすれば、「不況」、「節約」、「省く」という言葉も出てくる。
先の中日春秋のコラムを書いた人は、たぶん、きわめて恵まれた家庭環境の中で、生まれ育った人なのだろう。
が、見方を変えれば、ノー天気。

●直葬

 私の恩師のT先生も、直葬を望んでいる。
会うたびに、私にそう言う。
東京大学の副総長(総長特別補佐)も経験している。
「天皇陛下のテニス友だちなのだから、先生は、そういうわけにはいきませんよ」と、私は言う。
しかしT先生は、すでにそう決めている。
意志は固い。

 T先生がそうであるからというわけではない。
それ以前から、私は戒名なし、葬儀なしの直葬を望んでいる。
私は、葬儀そのものの意義を認めていない。
それが納得できなければ、あなたも、一応仏教徒なのだから、釈迦からはじまって、現在に至る仏教なるものを、一度は、紐解いて調べてみたらよい。

 ためしに『地蔵十王経(地蔵菩薩発心因縁十王経)』あたりから調べてみたらどうだろうか。
和式仏教が、いかにインチキにインチキを重ねてできあがったものかが、それでわかるはず。
戒名の由来について、調べてみるのもよい。
が、何よりも重要なことは、釈迦の原点に立ち返って、仏教をもう一度、見直してみること。

 私は、その結果、直葬でよい……というより、直葬を強く望むようになった。

●人の死

 「誕生」が静かなものであるように、「死」もまた静かなもの。
仰々しく、儀式を行う方が、おかしい。
たとえば親類や友の死にしても、「ああ、あの人は、もう亡くなった」で、よいではないか。
私の死にしても、私は、だれにも知らせなくてもよいと、家族に伝えてある。
いつかだれかが、「あの林(=私)は、~~年前に死んだそうだ」と言ったところで、一向にかまわない。
そのほうが自然。

 もしその人を弔う方法があるとするなら、その人の(心)に触れること。
私のばあいなら、いつか、どこかでだれかが私の書いた文章を読んでくれれば、それでよい。

 さらに言えば、葬儀というと、死者を弔うための儀式と考える人は多い。
しかし現実には、葬儀は、その人の人生に終止符を打つことによって、その人の人生に、その時点で、区切りをつけてしまう。
「ああ、あの人の人生は終わった」と。
しかしむしろそちらのほうが、その人に対する冒涜ではないのか。

 少なくとも、私は「死」という死によっては、死なない。
肉体が滅んだからといって、死んだことにはならない。
反対に、ただ息(いき)ているだけなら、生きていることにはならない。
「死」のとらえ方そのものが、ちがう。
だからこそ、今、こうして自分をさらけ出して、文章を書いている。

●中日春秋

 中日春秋の論説が、年々、浅くなっていると感ずるのは、私だけだろうか。
この「直葬」に関するコラムを読んでも、そこにあるのは、「直葬は悪である」という、きわめて通俗的なものの見方でしかない。
中には、本当に貧しくて、したくても、それができない人もいる。
さらに独居老人、孤独死の問題もある。
それらを一緒くたにして、「省く」という言葉を使って、書き殴ってよいものか。

 一読して、「おかしい?」と感じたので、こうして文章にして書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 中日春秋 直葬 葬儀の仕方 葬儀論)

*Feb. 26th 2010

【パソコンと人生論】

++++++++++++++++++++++++++

新しいパソコンを買った。
が、いくら性能がよくても、だからといって
それでよい文章が書けるようになるというわけではない。
大切なのは、使い方。
どう使うか?
磨いて飾っておくだけなら、無用の長物。

人生も、どこか、それに似ている。
ただ生きていれば、それでよいというのではない。
大切なのは、生き方。
生き方で、その人の人生の価値が決まる。

++++++++++++++++++++++++++

●新型パソコン

 先日、ある母親から、その母親の息子のために、パソコンを選んでくれと頼まれた。 
こういう依頼は、うれしい。
楽しい。
が、その生徒のパソコンを選んでいるうちに、私も同じものがほしくなった。
これは私のビョーキ。
カタログをながめているだけで、物欲がググーッとわいてくる。

そこで買ったのが、TOSHIBAのMX33(白)。
店では、7万9800円(=ほぼ8万円)。
ネットで買うと、4万6000円(税込み、手数料こみ)。
ただし09年の秋・冬モデル。
ちがいは、ハードディスクの容量だけ。
もちろんネットで買った。

 TOSHIBAは、TX(16インチ、ノート)を買って以来、ファンになった。
デスクトップ以外は、みな、TOSHIBAと決めている。
性能が、安定している。
作りもよい。
そのパソコンを使って、今、この文章を叩いている。
言うなれば、処女作。

 キーの形状が、四角で、指をすべらせたようなとき、指がひかかるような感じがする。
エンターキーが、小さく、打ちにくい。
本で言えば、余白があるわけだから、どうしてその分だけ、エンターキーを大きくしなか
ったのか。
やや不満は残るが、価格が価格だから、文句は言えない。

 書き忘れたが、バッテリーだけで、9時間半ももつという。
(9時間半!)
すごい!

●ネットショップ

 私もこのところ、数万円を超えるような買い物は、すべてネットですませている。
便利で、早い。
代引きで買うから、安全。
少し前までは、多少の不安もあったが、今では、ショップの評価までネットでわかる。
「客の満足度、80%」とか、など。
そういうふうに評価される。
それを見て、ショップを選ぶ。

 ……ということで、今、ものの売買の仕方が、大きく変わりつつある。
それがどうこうということを考えても、意味はない。
この流れは、もうだれにも、止められない。
これから先、この仕方が、当たり前というより、主流になる。
そのうち、自動車も、ネットで買えるようになるかもしれない。

●小売店

 半面、小売店が苦境に立たされている。
製造メーカーが、直接、個人客にモノを売る時代になった。
小売店だけではない。
大規模店ですら、売り上げ高が減少している。
いわんや、小売店をや、……ということになる。

 が、すべてをネットの責任になすりつけるわけには、いかない。
実のところ、小売店の窮状は、15年以上も前から始まっている。
そのころから郊外に大型店ができ、客を奪われるようになった。
町によっては、市内の商店街がゴーストタウン化したところもある。
私がよく知っているのは、岐阜県関市のH町通り。

私が子どものころは、ゾロゾロと人ごみで埋まっていた。
が、今は、見る影もない。
ほとんどの店が、シャッターをおろしたまま。
もっともそのH町にしても、もとはと言えば、郊外の大型店ができたのが理由ではない。
車社会の発展とともに、「道」が、車に占領されてしまった。
車がビュンビュンと道路を走るようになった。
同時に、駐車場問題が起きた。
「駐車場がないから、買い物ができない」となった。

●時代の流れ

 こうして過去へ、過去へとさかのぼっていくと、そのときどきに、(時代の流れ)がある
のがわかる。
そのつど、ささやかな抵抗運動のようなことは起こるが、長つづきしない。
街中に駐車場をふやしてみたり、あるいは郊外の大型店の進出に反対してみたりする。
今は、ネット。

 では、どうすればよいのか。
方法はないわけではない。

(1) 高度に専門化する。
(2) 人員による直接サービスを充実する。
(3) 特殊技術を売り物にする、など。

 たとえば理髪店のように、客が直接、店に来なければできない仕事もある。
あるいは自転車店のように、そのつど修理で稼げる仕事もある。
こうした分野で、小売店は、生き残りを図るしかない。
残念ながら、その努力を怠った小売店は、ジワジワと、衰退の一途をたどる。

●復古主義

 「昔はよかった」と言うときは、注意しなければならない。
安易な復古主義は、さらに未来に向かう(時代の流れ)をも、敵に回すことになる。
しかしこと、「心」ということになると、昔のほうが牧歌的な温もりがあった。
私の父親などは、客が来ても、別の客と平気で将棋を指して遊んでいた。
時間が、今より、はるかにゆるやかに流れていた。

 が、さらにその昔となると、どうだったのか。
大正時代とか、明治時代とかである。
おそらく時間は、もっとゆるやかに流れていたにちがいない。
ということは、今のこの時間にしても、50年後、100年後になってみると、それなり
にゆるやかに流れているのかもしれない。

 で、そこで登場するのが、私の持論。
『……だから、それがどうしたの?』論。

●『だから、それがどうしたの?』

 私は近くの店での価格の半額程度で、新しいパソコンを手に入れた。
このことは冒頭で書いた。
で、この1~2年で買ったパソコンを並べてみる。

HPの1233(故障して、放棄)、
MSのWINDBOOK(生徒にあげた)、
AcerのASPIRE・ONE、
TOSHIBAのTX、
それにUXと、今回買ったMX。
その間に、MCJの最先端デスクトップ。
もう1台、NECのLavie(故障して、放棄)。
計8台ということになる。

つまり新しく買う必要など、どこにもない。……なかった。
現に昨日まで、モバイルには、TOSHIBAのUXを使っていた。
今、使っているMXと、性能はほとんど同じ。

 簡単に言えば、買わなくてもよいものを、買った。
もっと言えば、「だからそれがどうしたの?」という答がないまま、買った。
つまり世の中が高速で回転すればするようになるほど、ものの売買も高速で回転する。
たとえばこのパソコンにしても、だからといって、よい文章が書けるようになるわけでは
ない。
パソコンの性能がよくなったからといって、また7台もっているからといって、よい文章
が書けるようになるわけではない。

●使い方
 
 「進歩とは何か?」
たとえば情報。

ネット時代になって、情報量が、それまでの量とは比較にならないほど、ふえた。
以前だと、中央の図書館へ行かなければ手に入らなかったような情報が、瞬時、瞬時に手に入るようになった。
それだけではない。
以前だと、一部の特殊な人たち(=官僚)でないと手に入らなかったような情報ですら、手に入るようになった。
まだ、ある。
ネット時代になって、(中央)と(地方)を分け隔てていた、壁が取れた。
私の中からも、地方コンプレックスが、急速に消え始めている。
「東京だけが文化の中心」という考え方も、このところ改まりつつある。

 が、ここで立ち止まる。
「だから、それがどうしたの?」と。
つまりそこにある(現実)を、いくら変えても、意味はない。
大切なのは、その現実から、どう自分を組みたてていくかということ。
パソコンを例にあげるまでもない。
いくらよいパソコンをもっていたとしても、使い方がわからないようであれば、意味はない。

 情報にしても、そうだ。
へたをすれば、情報の洪水の中で、溺れてしまう。

●人生論

 こうして考えていくと、この問題は、人生論に直結しているのがわかる。
健康だ……だから、それがどうしたの?
生きている……だから、それがどうしたの?、と。
その反対でもよい。

 病気だ……だから、それがどうしたの?
死んでしまった……だから、それがどうしたの?、と。

 今、ここに「私」が生きているなら、大切なことは、どう生きるかということ。
その視点を踏みはずすと、生きる意味そのものを見失ってしまう。

 ……ということで、今は、指慣らし。
キーを時折、指先でこすりながら、指をキーになじませる。
あるいはキーを指になじませる。
キーが体の一部になったとき、思ったことや考えたことが、そのままモニター上に、文章
となって、現れる。

 そう言えば、つまり今、こうして書いた文章を読みなおしてみたが、どこかぎこちない。
バラバラでまとまっていない(?)。
新しいパソコンを使い始めたときは、いつもそうだ。
今、しばらく、こうして使いこなしてみるしかない。
そのうち、もう少しまとまりのある文章が書けるようになるだろう。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【雑感】

●引佐町

 この引佐町に住むようになって、もう15年。
その前、6年かけて、土地の造成をした。
毎週、ここへやってきて、ユンボを動かした。
石垣を組んだ。
砂利を運んだ。
地目を変更するために、一度、植林もした。
たいへんだったのは、水道工事と下水道工事。
これらの工事は、私とワイフの2人でした。
ほかにもある。

私には、農業資格がなかった。
そのため直接、農地の売買をすることができなかった。
言い忘れたが、このあたりでは、南側の土地は、ほとんどが農地になっている。

農地を宅地にするためには、一度(山林)に転用し、法務局の検査を経て、宅地に転用
しなければならない。
家が建てられるようになるのは、そのあと。
だからこの町とのつきあいは、15+6=21年ということになる。
人生の3分の1を、ここ引佐町で過ごしたことになる。

●3分の1

 3分の1と知って、同時に私はラッキーだったと思う。
カナダやオーストラリアで住むようなわけにはいかないが、しかし自然に包まれて過ごすことができた。
「上を見れば、キリなし」。
私にしてみれば、ほどほどの人生だった。
だから「ラッキーだった」と。

 で、再び、「引佐町」の話。
「いなさ・ちょう」と読む。
この引佐町は、「引佐原人」が住んでいた部落として知られている。
何でも日本最古に原人だそうだ。
わかるかな?
引佐原人だぞ!

 しかし不思議なことに、この引佐町の人たちは、引佐原人のことをあまり話題にしたがらない。
「村興(おこ)し」に使えば、もっと観光などにも、利用できるはず。
どうしてだろう?

●四季

 この引佐町に住むようになって……といっても、週に、1、2度来る程度だが、自然の変化に敏感になった。
森に囲まれて住むと、四季が、極彩色のカラー映画のように移り変わっていく。
春は、極端に春らしくなる。
夏は、極端に夏らしくなる。
それに比べると、浜松市内での生活は、セピアとまではいかないにしても、いつも灰色のモヤに包まれている。
季節の変わり目が、はっきりしないまま、冬が終わり、春になっていく。

 私が好きなのは、5月ごろの初夏と、10月ごろの晩夏。
5月ごろには、野生のジャスミンが咲き誇り、空をホトトギスが舞う。
野いちご、ビワの収穫とつづく。
しばらくすると、今度は、ヒグラシが鳴き始める。

 10月もすばらしい。
夕日が山の端に隠れたとたん、谷底から、湿った冷気が吹きあげてくる。
そういうとき私は、虫の大合唱を聴きながら、あたりが真っ暗になるまで、ベンチに座って、時が過ぎていくのを待つ。

 で、そのつど、私はこう思う。
「生きていて、よかった」と。
大げさに聞こえるかもしれないが、そう思う。
心底、そう思う。

 引佐町という町は、私にとって、そういう町である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 引佐町 山荘ライフ 引佐)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

*Independence of the Parents

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人生の正午
________________________________________

満40歳前後を、「人生の正午」と呼ぶ。このころから、人は、老後の準備を始める。つ
まり「死」という限界状況の中で、自分のすべきことを模索するようになる。(したいこ
と)ではない。(すべきこと)を、だ。その準備を怠ると、その人の老後は、あわれで、
みじめなものになる。孫の世話、庭木の手入れ、旅行ざんまいの生活が、けっしてあるべ
き(老後の生活)ではない。

●「だから、それがどうしたの?」
________________________________________

(したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きな距離がある。それがわからなければ、
自分にこう問うてみればよい。何か、おいしいものを食べた……だから、それがどうした
の?、と。あるいは何か、ぜいたくなものを買った……だから、それがどうしたの?、と。
(したいこと)をしても、その答は返ってこない。(すべきこと)をしたときのみ、その
答が返ってくる。

●子育ては、子離れ
________________________________________

心のどこかで子育てを意識したら、すかさず、子離れを考える。もっと言えば、いかに子
どもの親離れをじょうずにさせるかを、考える。でないと、未熟な親のまま、いつまでも
子離れできなくなってしまう。そのよい例が、野口英世の母である。外国で懸命に研究生
活をしている自分の息子に向かって、「帰ってきておくれ」は、ない。言うとしたら、「私
のことは心配しなくていい」「研究が終わるまで、帰ってくるな」である。未熟な親を、
けっして美化してはいけない。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

●「釣りバカ日誌」論
________________________________________

浜ちゃんとスーさんは、いつもいっしょに釣りに行く。しかし自分の妻は連れていかない。
日本人には何でもない光景だが、欧米では、考えられない。会社の同僚たちとの飲み食い
(=パーティ)するときでも、夫婦同伴が原則。もし欧米で、男どうしが、2人でいそい
そと旅行に行こうものなら、同性愛者とまちがえられる。見なれた光景だが、日本の常識
は、けっして世界の常識ではない。

■子はかすがい論
________________________________________

たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずな
も、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係
がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさ
に「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。

■親のうしろ姿
________________________________________

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ
姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親の
うしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見
せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけ
ない。)恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿
を見せようとする。

■親の威厳
________________________________________

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、
居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だ
け上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、
百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の
権威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。

■育自論
________________________________________

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがっては
いないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、
谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もち
ろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育
てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。

■親孝行論
________________________________________

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子
どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子ども
の問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たが
いにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲
になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくま
でも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。

■「産んでいただきました」論
________________________________________

● よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えてい
ただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思
わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せ
がましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる
依存型子育てというのが、それ。

■水戸黄門論
________________________________________

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといって
も、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にど
っぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわか
らないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひ
れ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪
いことをしようとしたら、どんなことでもできる。ご注意!

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

■「釣りバカ日誌」論
________________________________________

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、
「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこ
れこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パ
ーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が
生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●三つの失敗

 子育てには失敗はつきものとは言うが、その中でもこんな失敗。

ある母親が娘(高校1年)にこう言ったときのこと。その娘はこのところ、何かにつけて
母親を無視するようになった。「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、
それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていっ
てあげたからでしょ。それがわかっているの!」と。それに答えてその娘はこう叫んだ。
「いつ、だれがあんたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。これが失敗、その1。

 父親がリストラで仕事をなくし、ついで始めた事業も失敗。そこで高校3年生になった
娘に、父親が大学への進学をあきらめてほしいと言ったときのこと。その娘はこう言った。
「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、私の学費を用意してよ! 
私を大学へやるのは、あんたの役目でしょ」と。

そこで私に相談があったので、その娘を私の家に呼んだ。呼んで、「お父さんのことをわ
かってあげようよ」と言うと、その娘はこう言った。「私は小さいときから、さんざん勉
強しろ、勉強しろと言われつづけてきた。中学生になったときも、行きたくもないのに、
進学塾へ入れさせられた。そして点数は何点だった、偏差値はどうだった、順位はどうだ
ったとそんなことばかり。この状態は高校へ入ってからも変わらなかった。その私に、『も
う勉強しなくていい』って、どういうこと。そんなことを言うの許されるの!」と。これ
が失敗、その2。

 Yさん(女性40歳)には夢があった。長い間看護婦をしていたこともあり、息子を医
者にするのが、夢であり、子育ての目標だった。そこで息子が小さいときから、しっかり
とした設計図をもち、子どもの勉強を考えてきた。が、決して楽な道ではなかった。Yさ
んにしてみれば、明けても暮れても息子の勉強のことばかり。ときには、「勉強しろ」「う
るさい」の取っ組みあいもしたという。

が、やがて親子の間には会話がなくなった。しかしそういう状態になりながらも、Yさん
は息子に勉強を強いた。あとになってYさんはこう言う。「息子に嫌われているという思
いはどこかにありましたが、無事、目標の高校へ入ってくれれば、それで息子も私を許し
てくれると思っていました」と。

で、何とか息子は目的の進学高校に入った。しかしそこでバーントアウト。燃え尽きてし
まった。何とか学校へは行くものの、毎日ただぼんやりとした様子で過ごすだけ。私に「家
庭教師でも何でもしてほしい。このままでは大学へ行けなくなってしまう」と母親は泣い
て頼んだが、程度ですめばまだよいほうだ。これが失敗、その3。

 こうした失敗は、失敗してみて、それが失敗だったと気づく。その前の段階で、その失
敗、あるいは自分が失敗しつつあると気づく親は、まずいない。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●断絶とは

 「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないな
どがある。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、
わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうという5つの機能があるが、断絶状態になる
と、家族がその機能を果たさなくなる。

親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即
発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親
で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こうい
う状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子ども
はそれに反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。

 しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認め
あわない状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は5
5%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青
少年白書』平成10年)。

もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論した
り、逆らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ
親は少なくないが、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の
何ものでもなかった。江戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまれば
そのまま佐渡の金山に送り込まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、
今でも、親の権威にしがみついている人は少なくない。

 日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。た
とえば子どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家
族」を誇る親は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入っ
てくれれば」と、子どもの受験競争に狂奔する親すらいる。

価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見よりも中身こそ、大切にすべきでは
ないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という状態は、まさに家庭教育の
大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあ
い、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべ
てマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えては
いけない。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●親子の断絶の三要素、(1)リズムの乱れ

 親子を断絶させる三つの要素に、(1)リズムの乱れ、(2)価値観の衝突、それに(3)
相互不信がある。

 まず(1)リズムの乱れ。子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、恐らく母親
が子どもを妊娠したときから始まる。中には胎児が望む前から(望むわけがないが)、お
なかにカセットレコーダーを押しつけて、英語だのクラシック音楽を聞かせる母親がいる。
さらに子どもが生まれると、今度は子どもが「ほしい」と求める前に、時計を見ながら、
ミルク瓶を無理やり子どもの口に押し込む親がいる。「もうすぐ3時間50分……おかし
いわ。どうしてうちの子、泣かないのかしら……。もう4時間なのに……」と。

 そしてさらに子どもが大きくなると、子どもの気持ちを確かめることなく、「ほら、英
語教室」「ほら、算数の教室」とやりだす。このタイプの母親は、「子どものことは私が
一番よく知っている」とばかり、何でもかんでも、母親が決めてしまう。いわゆる『ハズ
論』で子どもの心を考える。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「こうすれば子どもは感謝
するハズ」と。

このタイプの母親は、外から見ると、それがよくわかる。子どものリズムで生活している
母親は、子どもの横か、うしろを歩く。しかしこのタイプの母親は、子どもの前に立ち、
子どもの手をぐいぐいと引きながら歩く。あるいはこんな会話をする。

 私、子どもに向かって、「この前の日曜日、どこかへ行ってきたの?」、それを聞いた
母親、会話の中に割り込んできて、「おじいちゃんの家に行ってきたわよね。そうでしょ。
だったらそう言いなさい」、そこで私、再び子どもに向かって、「楽しかった?」と聞く
と、母親、また割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、楽しかっ
たと言いなさい」と。

 いつも母親のほうがワンテンポ早い。このリズムの乱れが、親子の間にキレツを入れる。
そしてそのキレツが、やがて断絶へとつながっていく。あんたはだれのおかげでピアノが
ひけるようになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、
ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」「いつ、だれが
あんたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。

つまりこのタイプの親は、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信
講座のプリントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、
3枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょう
か」と。

こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを3枚するようになれば、親は、「四枚やらせたい」と
言うようになる。子どもは、それを知っている。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自分への怒り

++++++++++++++++++

少し前だが、学生時代の友人が、がんで
他界した。
その少し前のこと。
そのときすでに末期だったということになる。
街で偶然出会い、話しかけてみたが、会話が
まったくかみ合わなかった。
よそよそしいというか、上の空というか・・・。
「いっしょに店でも、回ってみるか?」と声も
かけた。
が、どこか迷惑そうな顔をしてみせた。

その様子からそのとき私は、「何かぼくは失礼な
ことでもしたのだろうか」と、何度も自問してみた。
が、思い当たることはなかった。

+++++++++++++++++

●自分への怒り

 何かの本で読んだことがある。
人は、自分の内部で勝手に増殖するがんのような病気にかかると、自分を怒る、と。
もちろん他人を責めても意味はない。
そこでその(怒り)は、自分自身へと向かう。

 が、そのときどういう心境になるかは、やはり、その人と同じ状況に立たされてみない
とわからない。
「やりきれないだろうな」というところまでなら、私にもわかる。
他人に蹴られたとか、殴られたのではない。
自分で、自分の中に、がん細胞を作る・・・。

●あるドラ娘

 あるところに、どうしようもないドラ娘がいた。
自分勝手でわがまま。
家事はいっさい、手伝わない。
ときどきボーフレンドを家に連れてきて、母親に食事の用意までさせていた。
その母親も、同じようなことを言っていた。

 「娘に対する怒りというより、そういう娘にしてしまった自分への怒りを覚えました」
と。

 さらに似たような話だが、ワイフの友人(女性、60歳くらい)が、ワイフにこう言っ
たという。
「ときどき息子が嫁さんを連れて、家に帰ってきますが、今どきの嫁さんは、家事をまっ
たく手伝ってくれません」と。
食事の世話から、寝支度の世話まで、すべてその友人がしているという。
「息子も、共働きなので、強くは言えないようです」と。
ワイフの友人も、自分に対する怒りを覚えていた。

●ニヒリズム

 他人を怒るのは、避けた方がよい。
避けられるものなら、避けた方がよい。
しかし自分に対して怒るのは、その人を強くする。
苦しい闘いだが、その(苦しさ)が、精神をたくましくする。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●無私の愛(Unconditional Love)

++++++++++++++++

無私の愛。
損得の勘定を捨てきった愛。
英語では、「unconditional love(無条件の愛)」という。
しかし無私の愛などというものは、それを求めようとして、
求められるものではない。
無私の愛などいうものは、裏切られ、さらに裏切られ、
その上さらに裏切られ、「どうにでもなれ」という状況
になってはじめて、それがそこにあることを知る。
あるいは苦しみや悲しみの果てでもよい。
苦しんで、苦しんで、悲しんで、悲しんで、
その果てに、それがそこにあることを知る。

が、あくまでも結果。
その結果として、「無私の愛」を知る。
「知る」というよりは、そういう状況に追い込まれる。
否応なしに、追い込まれる。
追い込まれたあと、「無私の愛」がそこにあることを知る。
そこに、最後の救いを見出す。
しがみつく。

+++++++++++++++++

●本能的な愛

 「私は子どもを愛しています」などと、平気で言う人がいる。
結構なことである。
すばらしいことである。
しかしその実、「愛」が何であるか、そういう人たちは、まったくわかっていない。
「愛」という言葉に酔っているだけ(失礼!)。

 というのも本能的な部分で、親は子どもを愛する(?)ようにできている。
一方、子どもは、本能的な部分で、親に愛されるようにできている。
最近の研究によれば、そうした心のメカニズムを、「mutual attachment(相互アタッチメ
ント)」という言葉を使って、説明する。
たとえばあの赤ん坊が、オギャーオギャーと泣いたとする。
が、そうして泣くのも、計算づく。
母性愛や父性愛をくすぐるために、赤ん坊は、自分の脳にインプットされた、プログラム
に従って泣く。
つまり赤ん坊が、親を操る。
親の心を操る。
それが別の形で現れるのが、「赤ちゃん返り」ということになる。

 下の子どもが生まれたりして、愛情飢餓の状態になると、子どもはもう一度、赤ちゃん
に戻り、親の関心を自分に引き寄せようとする。
おもらしをしたり、ネチネチした言い方をするなど。
本能的な部分で起こる現象のため、子どもを叱ったり、説教したりしても意味はない。
また、それでどうこうなるような問題ではない。

 こうした愛(?)を、私は、「本能的な愛」と呼んでいる。
もちろん先に書いた、「無私の愛」とは、まったく異質のものである。

●絶望感

 時として親は、子育てをしながら、はげしい絶望感を覚える。
挫折感、失望感・・・、何でもよい。
が、そこは自分の子ども。
自分の子どもから、逃れるわけにはいかない。
いかにはげしく葛藤しても、最終的には、受け入れるしかない。

 というのも人間の心というのは、不安定な状態には、たいへんもろい。
それから生まれる緊張感には、相当なものがある。
長くは持ちこたえられない。
そのため、一気に、どちらかの側にころぼうとする。
(拒絶)か、さもなければ(受容)か、と。
夫婦のばあいは、(拒絶)=(離婚)という方法もあるが、相手が自分の子どもでは、そう
はいかない。
親は、とことん、袋小路に追い詰められる。

 もっとも(拒絶)が、まったくないかというと、そうでもない。
本気で子どもを見捨ててしまう親も、少なくない。
家庭騒動、経済問題、夫婦不和などが、原因となることもある。
が、ごくふつうの家庭でも、(見た目には、まったくふつうの家庭でも)、(拒絶)が起こる
ことがある。

 援助交際を繰り返していた中学2年生の女子を、警察官が家の母親に電話をしたところ、
その母親は、こう言った。
「私には関係ないことですから、(娘を)勝手にしてください」と。
そして娘には、「2度と、家には帰ってこないでよ」(某テレビ局の突撃番組)と。
(中学2年生の娘に、だぞ!)
現実には、そういう家庭もある。

●受容

 が、一般的なケースでは、子どものできが悪ければ悪いほど、親は、自分を責める。
他人の子どもなら、「ハイ、さようなら!」と別れることもできる。
が、相手が自分の子どもでは、そうはいかない。
義務と責任、憎悪と愛情のはざまで、親は、もがく。
苦しむ。
が、それも頂点に達すると、親は究極の選択に迫られる。

「拒絶か、受容か」と。
その(受容)の先にあるのが、冒頭にあげた、「無私の愛」ということになる。
「もうどうにでもなれ!」と。

 しかしだからといって、子どもを捨てるわけではない。
あきらめるわけでもない。
子どもを自分の中に、完全に受け入れる。
それが「無私の愛」ということになる。 

 が、そこか実におおらかで、ゆったりとした世界。
何ものにも束縛されない、自由な世界。
しかしここで誤解してはいけないことがある。
だからといって、それで親子関係が正常になるとか、心豊かになるとか、そういうことで
はない。
親子関係は、そのまま。

もしあなたの子どもが、どうしようもないドラ息子や、ドラ娘であれば、そのまま。
無私の愛といっても、その中身は一方的なもの。
見返りさえ、ない。
つまりそのことまで、受け入れてしまう。
それが「無私の愛」ということになる。

●補足

 K国による拉致被害者にYTめぐみさんがいる。
その両親は、今の今も、めぐみさんの救済活動をつづけている。
その姿を、テレビなどでかいま見るたび、金xxへの怒りがこみあげてくる。
(拉致の首謀者は、まちがいなく、あの金xxだぞ!)
と、同時に、めぐみさんの両親には、神々しいほどまでの崇高さを感ずる。

それはもう「無私の愛」などという、生やさしいものではない。
私がここで説明した「無私の愛」などというものは、めぐみさんの両親には、ただの紙切
れのようなもの。
苦しんだり、悲しんだりするといっても、そこには限度というものがある。
めぐみさんの両親は、その限度を超えている。
K国に対する非難の攻撃を、けっしてゆるめてはいけない。
もうこれ以上、めぐみさんの両親を、苦しめてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 無私の愛 無条件の愛 親の愛)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【親バカ論】

●就職率50%

 大不況。
目下、進行中。
大卒の就職率も、50~60%とか。
事務所の隣人は、個人でリクルートの会社を経営している。
その隣人が、こう言った。
「実感としては、50%前後ではないですかね?」と。
つまり大卒のうち、2人に1人しか、就職できない。
きびしい!

 浜松市といえば、昔から工業都市として知られている。
HONDA、SUZUKI、YAMAHAなどの各社は、この浜松市で生まれた。
その浜松市でも、「50%」!

●親、貧乏盛り

 『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。
私が考えた諺(ことわざ)である。
それについては、何度も書いてきた。

 で、子どもを大学へ送ることは、得か損かという計算をしてみる。
・・・といっても、学部によって、大きく、異なる。
医学部のばあい、勤務医になれば、勤務後2~3年目には、年収は2000万円を超える。
開業医になれば、月収は500万円を超える。
(月収だぞ!)

 一方、文科系の学部のばあい、学費も安いが、その分、学歴も、ティシュペーパーのよ
うに軽い。
英文学部にしても、高校の教科書より簡単なテキストで勉強しているところは、いくらで
もある。
そんな学部を出ても、実際には、何ら、役に立たない。

 全体としてみると、それなりの資格のともなった学歴であれば、得。
資格をともなわない、ただの学歴であれば、損。
その結果、就職率50%ということになれば、何のための苦労だったのかということにな
る。

●3人に1人が、高齢者

 3人に1人が、高齢者。
そんな時代が、すぐそこまでやってきている。
現在、40歳以上の人は、老後になっても、満足な介護は受けられないと知るべし。
実際には、不可能。

 となると、自分の老後は、自分でみるしかない。
つまりそれだけの蓄(たくわ)えを用意するしかない。
で、たいていの人は、「自分の子どもがめんどうをみてくれる」と考えている。
が、今、あなたが高齢になった親のめんどうをみていないように、あなたの子どもも、ま
たあなたのめんどうをみない。
60%近い若者たちは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
(この数字とて、ほぼ10年前の数字。)
実際には、みな、目一杯の生活をしている。
経済的に余裕のある人など、いない。
若い世代では、さらにいない。

●親バカ

 こうして順に考えていくと、子どもに学費をかけることが、いかに無駄かがわかってく
る。
あえて言うなら、子どもを遊ばせるために、その遊興費を提供するようなもの。
が、何よりも悲劇なのは、そのためにする親の苦労など、今時の大学生にじゃ通じない。
当たり前。
「電話をかけてくるのは、お金がほしいときだけ」というのは、親たちの共通した認識で
ある。
むしろ逆に、(してくれないこと)を、怒る。
「みなは、毎月20万円、送金してもらっている」
「どうして結婚の支度金を出してくれないのか」と。

保護、依存の関係も行き過ぎると、そうなる。
保護される側(子ども)は、保護されて当然と考える。
一方、保護するほうは、一度、そういう関係ができてしまうと、簡単には、それを崩すわ
けにはいかない。
罪の意識(?)が先に立ってしまう。

 どこか一方的な、つまり否定的な意見に聞こえるかもしれないが、こうして世の親たち
は、みな、つぎつぎと親バカになっていく。

●老後の用意

 しかし私たちの老後は、さみしい。
蓄(たくわ)えも乏しい。
社会保障制度も、立派なのは、一部の施設だけ。
3人のうちの1人が老人という世界で、手厚い介護など、期待する方がおかしい。
となると、自分の息子や娘たちに、となる。
しかし肝心の息子や娘たちには、その意識はまるでない。

 ある友人は、こう言った。
「うちの息子夫婦なんか、結婚して3年目になるが、嫁さんなど、来ても、家事はいっさ
い手伝わない。いつもお客様だよ」と。
別の友人もこう言った。
その友人の趣味は魚釣り。
そこで釣ってきた魚を、嫁に料理をさせようとしたら、こう言ったという。
「キモ~イ、こんなこと、私にさせるのオ?」と。

 この話をワイフにすると、ワイフもこう言った。
「私の友だちのSさんなんかね、長男は、歩いて数分のところに住んでいるだけどね、毎
週、実家へ子どもたちを連れて夕食を食べに来るんだってエ」と。

 で、私が、「食費はだれが出すの?」と聞くと、「もちろん友だちのSさんよ。長男たち
は、それで食費を浮かせようとしているのね」と。
さらに「料理は、だれがするの?」と聞くと、「Sさんよ。嫁さんは、デンと座っているだ
けだそうよ。たまに食器は洗ってくれるそうよ。でもそれだけ」と。

 私が「ヘエ~~」と驚いていると、さらにワイフは、驚くべきことを口にした。
「それでいて、長男は、親のめんどうをみているのは自分と、思いこんでいるみたいね」
と。

私「親のめんどう・・・?」
ワ「そうよ。弟夫婦たちが実家へ来ると、兄貴風を吹かして、弟夫婦に、『お前たちも、と
きには、親のめんどうをみろ』って言ってるんだってエ」
私「あきれるね」
ワ「そうね。孫の顔を見せるだけでも、ありがたく思えというところかしら」と。

●何かおかしい?

 何か、おかしい。
何か、まちがっている。
しかし今は、そういう時代と思って、その上でものを考えるしかない。
子どもたちというより、その上の親たちが、そういう世代になっている。
その親たちに向かって、「子育てとは・・・」と説いても、意味はない。
言うなれば、ドラ息子、ドラ娘になりきった親たちに向かって、ドラ息子論、ドラ娘論を
説くようなもの。
意味はない。

 言い換えると、私たち自身が、「甘えの構造」から脱却するしかない。
「子どもたちに依存したい」「依存できるかもしれない」「子どもたちが世話をしてくれる
かもしれない」と。
そういう(甘え)から、脱却するしかない。
さらに言えば、「私たちの老後には、息子や娘はいない」。
そういう前提で、自分たちの老後を考える。

●私のケース

 私の息子たちが特殊というわけではない。
見た目には、ごく平均的な息子たちである。
中身も、ごく平均的な息子たちである。
だからこう書くといって、息子たちを責めているわけではない。
しかしときどき会話をしながら、その中に、「老後の親たちのめんどうをみる」という発想
が、まったくないのには、驚く。
まったく、ない。
むしろ逆。
こう言う。

「相手の親(=嫁の親)は、~~してくれた」「どうしてパパ(=私)は、してくれないの
か?」と。

 息子夫婦にしても、「家族」というのは、自分と自分たちの子どもを中心とした(親子関
係)をいう。
目が下ばかり向いている。
が、それはそれでしかたのないこと。
息子たちは息子たちで、自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
私たち夫婦だって、そうだった。
が、それでも、お・か・し・い。

●満62歳にして完成

 ・・・こうして親は、子離れを成しとげる。
(甘え)を、自分の心の中から、断ち切る。
そして一個の独立した人間として、自分の老後を考える。

 というのも、私たちの世代は、まさに「両取られの世代」。
親にむしり取られ、子どもたちにむしり取られる。
最近の若い人たちに、「ぼくたちは、収入の半分を実家に送っていた」と話しても、理解で
きないだろう。
それが当たり前だった時代に、私たちは、生まれ育った。

 が、今は、それが逆転した。
今では子どもの、その子ども(つまり孫)の養育費まで、親(つまり祖父母)が援助する。
それが親(つまり祖父母)ということになっている。

 が、そこまでしてはいけない。
このあたりでブレーキをかける。
かけなければ、この日本は、本当に狂ってしまう。
(すでに狂いぱなし、狂っているが・・・。)

 少し前も、私は「車がほしい」というから、息子に、現金を渡してしまった。
それで私たちは、H社のハイブリッドカーを買うつもりだった。
それについて、まずオーストラリアの友人が、「渡してはだめだ」と忠告してくれた。
義兄も、「ぜったいに、そんなことをしてはだめだ」と言った。
「息子のほうが、今までのお礼にと、新車を買ってくれるという話ならわかるが、逆だ」
と。

 私も親バカだった。
息子たちに怒れるというよりは、自分に怒れた。
心底、自分に怒れた。
何日か眠れない日がつづいた。
が、それが終わると、私の心はさっぱりとしていた。
息子たちの姿が、心の中から消えていた。
はやし浩司、満62歳にして、子離れ完成、と。

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言って笑った。
「あなたも、やっと気がついたのね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 子離れ 親離れ 依存性 甘えの構造 甘え 子どもへの依存性 老
後 はやし浩司 親バカ論)

●親バカにならないための10か条

(1)必要なことはしろ。しかしやり過ぎるな。
(2)求めてきたら、与えろ。先回りして与えるな。
(3)一度は、頭をさげさせろ。「お願いします」と言わせろ。
(4)子どもに期待するな。甘えるな。
(5)親は親で、自分の人生を生きろ。子どもに依存するな。
(6)社会人になったら、現金は、1円も渡すな。
(7)嫁や婿の機嫌を取るな。嫌われて当然と思え。
(8)自分の老後を冷静にみろ。無駄な出費をするな。
(9)遺産は残すな。自分たちで使ってしまえ。
(10)少なくとも子どもが高校生になるころには、子離れを完成させろ。


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.       ○ ~~~\\//
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Tuesday, February 23, 2010

*Magazine dated Feb. 24th

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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   24日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

■「かあさんの歌」論
________________________________________

K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つき
になっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは
土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙
ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋
を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳
句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪だ。

■内助の功論
________________________________________

封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの
言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。
しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二三%の女
性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべき
だ」という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

●同一性の危機
________________________________________

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめ
を、非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にして
いること)の間に遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。
子どもの耐性にもよるが、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子ども
の自我の同一性は、危機に立たされる。

●夢・希望・目的
________________________________________

夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のし
たいこと)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感が
あるとき、そこから生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」
と。そしてサッカーの練習をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手に
なる」とか、「パン屋さんになる」とかいう目的は、そこから生まれる。

●子どもの忍耐力
________________________________________

同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)
を、別のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あ
るいは「したくないが、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、
忍耐力ということになる。子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。
この忍耐力は、幼児期までに、ほぼ完成される。

●同一性の崩壊
________________________________________

同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をし
たいか、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私
は何だ」「私はだれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。
それは「混乱」というような、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言
うべきもの。当然、子どもは、目的を見失う。

●顔のない自分
________________________________________

同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大き
く分けて、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻
撃型)。(2)顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避
型)。ほかに、同情型、依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケ
ースでは、そのまま自己否定(=自殺)へとつながってしまう。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

●校内暴力
________________________________________

暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭
(さと)しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分
の顔)をつくろうとする。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だから
みなが、恐れれば、怖れるほど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃
型の子どもの心理的のメカニズムは、こうして説明される。

●子どもの自殺
________________________________________

おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあ
いは、(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)
を主張する。近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットする
ことで、自分を主張し、他人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪
(しょくざい)のために、リストカットする」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。

●自虐的攻撃性
________________________________________

攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に
向って攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」
「朝から寝るまで勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しん
でいるのではない。「勉強」という場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えると
わかりやすい。近年、有名になったスポーツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。

●自我の同一性
________________________________________

(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子
どもの環境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分
がしていること)を一致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者
が一致している子どもは、夢や希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちつ
いていて、どっしりとしている。抵抗力もあるから、誘惑にも強い。

●心の抵抗力
________________________________________

「私は~~をしたい」「ぼくは~~する」と、目的と方向性をしっかりともっている子ど
もは、心の抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学
年から中学校にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、
同一性が崩壊している子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘
いがあると、スーッとその世界に入ってしまう。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●毅然とした授業

60歳を過ぎて、やっと、だ。
やっと毅然とした授業が
できるようになった。
年の功というのではない。
経験が豊かになったということでもない。

はっきり言えば、「どうでもよくなった」。
だから毅然とした授業ができるようになった。
それまでの私は、どこか、経営第一主義。
いつも親や生徒のご機嫌をうかがいながら、
授業をしていた。
それがどうしても、自分の教え方の中から抜けなかった。
親イコール、スポンサー。
生徒イコール、お客様。

しかし60歳を過ぎるころから、それが
どうでもよくなった。
「来たかったら、おいで」式の授業に変った。
「やめたければ、やめな」式の授業に変った。

親に媚(こび)を売ることも少なくなった。
なくなったわけではないが、少なくなった。
同時に親の視線を感ずることもなくなった。
「生徒がいなくなったら、おしまい」。
それでもよいと考えるようになった。

どうあがいたところで、こうした仕事ができるのも、
あと10年。
5年かもしれない。
だったら、もう他人に遠慮することはない。
私は私なりの教え方をすればよい。

もっとも仕事は仕事。
そこはギブ&テイクの世界。
生徒あっての教室。
普通人としての常識まで失ったわけではない。

が、同時に、こうも考えるようになった。
最近になって、学生時代の友人たちが、どんどんと
退職していく。
退職といっても、みな、本物の退職。
一度、リストラされたり、退職したあと、
第二、第三の就職先で働いていた。
そういう友人たちが、本当に退職していく。
つまりは、仕事から完全に離れていく。
年賀状にそう書いてきた人もいる。

そういう人たちが、それを喜んでいるのか、
それともさみしく思っているのか。
それは私にもわからない。
が、私のばあいは、年金といっても、国民年金だけ。
もらっても、月額、6万4000円前後。
しかも、もらえるとしても、まだ3年先。
隠居など、とても考えられない。

だからこう思う。
「1年でも長く働くことができたら、もうけもの」と。
つまり今年、満63歳になるから、私は、3年分、
もうけたことになる。
つまりそういう思いがあるから、「もう、いいや」
という気持ちも生まれてくる。
「仕事がなくなっても、いいや」
「3年、みなより長く働くことができただけでも
御の字」と。

が、だからといって、授業がいいかげんになった
というわけではない。
実際には、その逆。
1日、1日が、真剣勝負。
1日だって、いいかげんな授業はしたくない。
できない。
そのため、こうも考える。
「その価値がわからないような親の子どもは、教えない」と。
もっと言えば、「それでも生徒が去っていくというのなら、
それも結構」と。

こういうのを居直りというのか。

もちろんカラ元気ではいけない。
恐らく、家庭教育と呼ばれる世界で、私ほど
勉強した人間はいない。
経験も豊富。
少なくとも、「この人は、私よりすごい」と
思えるような人に、この10年以上、出会ったことがない。
が、これは私のうぬぼれか?

しかし何度心の中で反復しても、いつも結論は、同じ。
私は、うぬぼれてはいない。
だからこう思う。
「私の授業の価値がわからないような人は、いつでも
去ってもらって結構」と。

・・・ということで、この年齢になって、
はじめて毅然とした授業ができるようになった。
自分流の教え方を、押し通すことができるようになった。
やっとできるようになった。

で、今日も、こういうことがあった。

小学x年に、K君という男の子がいる。
最近、粗放な態度が目立ってきた。
反抗的というよりは、挑発的。
俗にいう、(ツッパリ症状)が出てきた。
すさんだ目つき。
ぞんざいな、ものの言い方・・・。

おとなを、なめきったような態度。
何かを指示しても、「ウッセーナー」
「ダマレヤー」と。
が、そのK君が、ルールを破った。
すかさず私は、3分の残り勉強を命じた。
「1回注意されたら、3分の残り勉強」と、
決めている。

が、みなが帰るとき、K君が、またまたルールを
破った。
私の指示を無視し、間を抜けて帰ろうとした。
私はK君をうしろから、抱きかかえるようにして、
つかまえた。
「君は、まだ帰れない」と。

するとK君は、またあの態度を、露骨に示した。
「帰らせろヤア、このバカヤロー」と。
私は、「60を3回、数えたら、放してやる」と、
それだけを繰り返した。
が、K君は、応じなかった。

ジリジリとした押し問答がつづいた。
「数えろ!」
「いやだ!」
「数えろ!」
「いやだ!」と。

と、そのときK君が、猛烈な勢いで、私の体を
蹴ってきた。
すかさず、私も、K君を抱いたまま、数倍の力で、
蹴り返した。
私という(おとな)の蹴りである。
衝撃は大きかった。
とたん、K君は、シュンとなった。
泣き声になった。
そして小さな声で、数を数え始めた。

このタイプの子どもには、一度は、おとなの
(こわさ)を示したほうがよい。
経営ということを考えるなら、そのまま
帰したほうがよい。
こういうトラブルがあると、子どもはたいてい、
塾をやめる。

もちろん体罰ということになるが、親が
それを騒ぐなら、さっさと私のところを
去ればよい。
それが塾である。
学校とは、ちがう。
学校は、去ることができない。

が、それ以上に、私は、そのときK君には、
体罰が必要と感じた。
そこは教師と生徒の関係ではない。
男と男、人間と人間の関係。
まともな指導をしていて、暴力を振るわれた、
必要なときは、やり返す。
だまって受け止めていたら、かえって
K君のためにならない。

つまりこうした指導ができるようになったのも、
「もう、いいや」という気持ちがあるからに
ほかならない。
「やめたければ、やめろ」と。

残された時間は、少ない。
だからもう妥協したくない。
私は私の教え方をする。
私は私の人生を生きる。
それで生徒がいなくなったら・・・。
そのときは、そのとき。
私も、本物の退職をする。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1月19日

+++++++++++++++++

今日は火曜日。
とくに意味があるわけではない。
予定もない。
しかし今日は、忙しかった。
いくつか、心にひかかる仕事が残っていた。
それを一気に、片づけた。

そのため朝、4時に起きた。
(朝の4時だぞ!)

で、それを終えたのが、8時ごろ。
そのころワイフが床から起きてきた。
書斎へお茶を届けてくれた。
おかげで仕事は、すべて片づいた。
すっきりした。

++++++++++++++++

●ある養子縁組の悲劇

 昨日、こんな相談があった。
少し話がわかりにくい。
こういうこと。

 Aさん夫妻には、子どもがいなかった。
その地域では、昔からの土地持ちで、かなりの資産家だった。
そこでAさん夫婦は、両もらいの形で、養子縁組をした。
その地域では、「一組(いっそ)養子」という。
(以下、「養子夫婦」と書く。)

 夫になった男性は、妻の遠い親戚にあたる人だった。
妻になった女性は、夫の遠い親戚にあたる人だった。
しばらくは、うまくいった。
が、2、3年もすると、たがいの間に不協和音が流れはじめ、10年もしないうちに、養
子夫婦は、家を出てしまった。
以来、10年以上、別居状態がつづいている。
行き来はない。

 で、最近(2年ほど前)、Aさんの妻がなくなってしまった。
Aさんも、体調を崩し、現在は、有料の老人ホームと自宅を、行ったり来たりしている。
本来なら、養子縁組で入った夫婦が、(子)として、Aさんの世話をしなければならない。
が、その夫婦は、知らぬ顔。
そこでAさんが、キレた。
「養子縁組を解消する!」と。

●孫まで・・・

Aさんには、2人の弟と妹がいた。
その2人が、Aさんを支持した。
支持したというより、「自分たちは、家を出るとき、遺産相続をしてもらっていない」「養
子夫婦に遺産を相続するな」と、騒ぎ出した。
その2人の弟と妹には、それぞれ、3人と1人の子どもがいた。
これらの孫まで、その騒動に参加してきた。
「おやじの取り分をよこせ」
「おふくろの取り分をよこせ」と。

 が、一度組んだ養子縁組は、簡単には、解消できない。
法律的にも、むずかしい。
また養子夫婦にしても、Aさんが死ねば、莫大な資産が、自分たちのものになる。
おいそれと養子縁組に解消に、応ずるわけにはいかない。
そこで相談があった。
「どうすればいいか?」と。

●修羅場

 そこはまさに泥沼の世界。
修羅場。
この種の話は、こじれると、とことんこじれる。
Aさんの弟や妹にしても、Aさんの味方というわけではない。
ここにも書いたように、「遺産分けしてもらっていないから、遺産分けしろ」と、Aさんに
迫っている。
Aさんとしてはそうしたいが、しかしその前に、養子縁組を解消しなければならない。
が、その気力もない。
元気もない。
このままでは、莫大な資産は、そのまま養子夫婦のものとなる。
少しずつ土地を売却して、弟と妹に贈与するという方法もあるが、弟や妹は、それでは満
足しない。

 さあ、どうするか?

●バラバラ

 この種の家庭騒動は、多い。
多いというより、どこの家でも起こっている。
金額の大小は、ほとんど、関係ない。
億単位の財産を争っている家庭もあれば、わずか数百万円の財産で争っている家庭もある。
その結果、たいていのばあい、兄弟関係は、バラバラになる。
親戚がからんでくると、親戚関係も、バラバラになる。

・・・という話は、以前にも書いた。                                               

 そこでこう考える。
この種の問題は、「こじれたら、どうしよう」と考えるのではなく、「こじれるのが当たり
前」という前提で考える。
つまりあなたが親で、多少なりとも残せる財産があるなら、「こじれるのが当たり前」と考
える。
またそのための準備だけは、しっかりとしておく。
たとえばほとんどのケースでは、名義書き換えが必要な、土地、建物、債権類などが原因
で、騒動が起こる。
こうした資産は、できるだけ現金化するか、あるいは、遺言書でしっかりとその処分の仕
方を決めておく。

 さらに一歩進んだ考え方をするなら、こうなる。

『兄弟は、他人の始まり』と。

 そういう前提で、兄弟のあり方を考える。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●パソコンの自作

+++++++++++++++++

前から一度は、してみたいと思っていた。
それがこのところ、グググーッと、胸の
中でふくらんできた。

「PCfan」(最新号)という雑誌を買って
きたのが、きっかけだった。

それがパソコンの自作。

+++++++++++++++++

●守りから攻めに

 今まで、パソコンと言えば、(守りの一手)。
新しいのを買うとしても、完成品を選んで買っていた。
ときどき、ハードディスクを取り換えたり、CDトレイを丸ごと交換したりはしてきた。
メモリーを増設したり、USB端子を増設したこともある。
しかしその程度。

 言うなれば、与えられた餌だけを食べている、飼い犬のようなもの。

●TK-BS時代

 私がはじめてパソコンに出会ったのは、今からもう35年以上も前になる。
TOSHIBA製だったと思うが、「TK-BS」という、パソコンというよりは、モニタ
ーもない、ただの数字を示す機械が発売になった。
命令を8進数か何かで打ち込むと、何らかの答を出してくれた。
当時は、「マシン語」という言語を使って、プログラムを組んだ。

 今から思うと、本当にチャチな機械だった。

 で、そのあとすぐ、PETとか、APPLEとかいう、モニター付きのパソコンが売り
に出された。
ともに35万円前後もした。
 私は、PET2000という機種を、買った。

●機械の臭い

 今でもそうだが、パソコンという機械は、最初電源を入れると、プーンと、独特の臭い
が返ってくる。
電線が軽く焦げるような臭いである。
あの臭いをかぐと、条件反射的に、グググーッとくる。
脳の線条体に、そうした受容体ができているらしい。
つまり、あの臭いが、たまらない。
好き!

 同時に、マザーボードの基盤。
何がなんだか、さっぱり訳が分からないが、あれを見ていても、それを感ずる。
ぞくぞくとする。
TK-BS時代の名残りである。
TK-BSという機械は、基盤がそのまま外に、むき出しのままだった。

 ・・・というわけで、雑誌を読んでいたら、無性にパソコンを自作してみたくなった。
ひとつずつ、納得のいくパーツを集めて、それを組み立てる。

●能動的に・・・

 今までパソコンが不調になるたびに、あたふたするだけ。
で、メーカーに電話をかけたりして、解決していた。
あの屈辱感というか、敗北感は、それを感ずる人にだけにしかわからないだろう。
が、考えてみれば、それも私の姿勢に原因があった。
冒頭に書いたように、(守りの一手)。
つまり依存性がついてしまった。

 が、自作すれば、その依存性を自分から抜くことができる。
わかりやすく言えば、パソコンを自分の奴隷のように、支配することができる。
この先、新しいOSが発売になっても、そのつどマザーボードを取り換えたりして、それ
に対処することができる。
省資源にもなる。

 そう言えば、あのモニター一体型のパソコンだけは、買わないほうがよい。
パソコンを捨てるとき、同時にモニターも捨てることになる。
もったいない!
同じように、パソコンを自作できるほどの力が身につけば、新製品が出ても、パーツを取
り換える程度のことで対処できる。

 ・・・とまあ、勝手なことを考えている。
プラス、ボケ防止には、よい。

 そう言えば、昨日こんなことがあった。

●A3コピー

 我が家にもコピー機はあるが、B4まで。
A3コピ-となると、近くのコンビニまで行かねばならない。
そこでのこと。

 前の男性が、コピー機を前に、おろおろしていた。
年齢は私と同じくらい。
どうやら操作方法がわからないといった様子だった。

 で、私は声をかけてくれたら助けてやろうと、一歩、前に出た。
が、それを多分、その男性は誤解したらしい。
「早くやれ!」と、私が言っているように思ったらしい(?)。
照れくさそうに笑いながら、ぶつぶつ何かを言いながら、その場を去っていった。

 私の年代には、パソコン恐怖症の人は、多い。
スイッチ類が並んでいるのを見ただけで、逃げてしまう人もいる。
タッチパネルの操作すら、苦痛の人もいる。
実際には、キーボードを見ただけで、ぞっとするという人もいる。

 そういう人がどうこうというわけではないが、この私だって、1年もパソコンと遠ざか
っていたら、そうなるかもしれない。
勘が鈍ってしまう。

 だからあえて挑戦してみたい。
パソコンの自作。
ヤルゾー!


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

【雑感・あれこれ】(1月21日)

●民主党、小沢一郎幹事長

 民主党の小沢幹事長が、東京地検の事情聴取に応ずると言いだした。
しかし・・・「遅すぎた!」。

 すでに小沢疑獄は、底なしの様相を示し始めている。
疑惑の裏金は、4億円どころか、10億円~とも言われ始めている。
小沢一郎は、裏金と銀行融資を巧みに組み合わせて、そのつどマネーロンダリングしてい
た。
最終的には、自分名義の土地を購入することによって、私腹を肥やしていた。
そのあくどさ。
醜さ。
今さら「事情聴取に応ずる」と言っても、だれも相手にしない。
すでに民意は、地滑り的に、民主党から離れ始めている。
この先、小沢幹事長が逮捕、起訴されるということにでもなれば、その流れはさらに加速
する。

 この虚脱感。
この敗北感。
そして怒り。

●イラン問題

 なりを潜めていたイスラエルが、動き出した。
裏舞台から、表舞台に出てきた。
イラン攻撃のための布石?
あるいはそのお膳立て?
どちらにせよ、イラン情勢が、急速に悪化している。
緊張感が高まっている。

 仮にイスラエルがイランを攻撃するようなことにでもなれば、一気に原油価格は高騰す
る。
が、それだけではすまない。
その波状的影響は、繰り返し、世界を襲う。
世界経済は、再び、奈落の底に。
おおかたの評論家は、リーマンショック程度ではすまないだろうと、予測している。

 ア~ア!

●上海B株

 世界経済が上下運動を繰り返しながら低迷する中、上海B株だけは、不気味な上昇をつ
づけている。
明らかにバブル。
一般大衆を巻き込んでの、狂乱状態。
おそらく今ごろ中国人たちは、仕事そっちのけで、株価の動向に一喜一憂しているにちが
いない。
その不気味さ。

 「何とかして、元だけは取り返したい」と思っているのだろう。
数字の動きだけを見ていても、それがよくわかる。
つまり先のリーマンショック、ドバイショックで損した分だけは、取り返したい、と。

 しかしそれは無理。
絶対に無理。
その1、2歩手前で、中国経済は、崩壊する。
(その日)は、刻々と近づきつつある。

 みなさん、ご用心!

●心中事件

 1月の中ごろ、近くの住宅で、一家心中事件があった。
3人が亡くなり、1人が意識不明の重体。
不幸な事件である。
が、新聞記事を読んでも、家族構成が、どうしても理解できない。
新聞には、こうある。

 死亡したのは、X氏(62歳)と、その妻(62歳)。
私と同年齢なので、たいへん気になった。
もう一人死亡したのが、「養女」(59歳)。
さらに1人、意識不明の重体なのが、「孫の長女」(中学3年生)。
新聞には、「4人家族」とあった。
(「」内は、新聞記事のまま。)

 で、それを発見したのが、「長男」(39歳)とか。
「様子がおかしい?」ということで、実家へ来てみたのだろう。
そこで一家が心中しているのを、発見したらしい。

 何があったのか?
それはだれにもわからない。
どんな事情があったのか?
それもだれにもわからない。

 ただこの家族構成だけをみても、何か、複雑な事情があったことだけは、わかる。
「家庭」というのは、そういうもの。
100の家庭があれば、100のちがった問題をかかえている。
1つとて、同じ家庭はない。
つまりこのことには、重要な教訓が隠されている。

 その家庭のことは、その家庭の人たちにしか、わからない。
あなたがいくら頭がよく、また今までの知識や経験を総動員しても、その家庭のことを理
解するのは、不可能。
それぞれの家庭がかかえる問題は、その向こうにある。
だからそっとしておいてやることこそ、肝要。
あれこれ口を出すのは、タブー中のタブー。

 もちろん向こう側から相談があったときは、別。
そのときは、親身になって相談に乗ってやればよい。

●久々にATOK

 以前、「ATOK」という日本語入力システムを利用していた。
で、今回、WINDOW7マシンにしてから、再度、ATOKを使ってみることにした。
先ほど、再インストールを終了したところ。

 そのつど辞書表示があるのが、助かる。
漢字を確定する前に、「Ctrl+end」キーを押すと、ズラリと、意味や説明が並んだりする。
よくできたソフトである。
この文章は、そのATOKを使って、書いている。

 で、またまた脳みその問題。

 私は1年ほど前、CASIOの電子辞書を買った。
今も、パソコンの左側に置いてある。
ときどきそれで漢字の使い方を調べたりしている。

 ところがである。
ATOKにも、辞書が入っている。
しかも使い勝手もよい。
楽。
ここにも書いたように、「Ctrl+end」キーだけで、用例などが、ズラリと並ぶ。
たとえば「欄」
「欄」と書いて、「Ctrl+end」キーを押すと、こうなる。

『らん【欄】
〘名〙
(1)新聞・雑誌などで、決まった記事を掲載するための区切られた部分。「投書ー・テレ
ビー」
(2)印刷物などで、罫けいなどで区切られた部分。「解答ー」
(造)てすり。「ー干」「勾ーこうらん」
明鏡国語辞典』と。

 こうしてそのままコピーすることもできる。
ATOKをもっていても、それを使わず、わざわざ電子辞書を購入する。
この愚かさ・・・。
つまり脳みそがそれだけ柔軟性を失ったことを意味する。
ATOKを再インストールして、そんなことを考えた。

 さあ、今日も始まった。
1月21日。


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.       ○ ~~~\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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*Voices from the Audience

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Monday, February 22, 2010

*Parents who lie

●親のウソ(強化の原理)

++++++++++++++++++++++

この話は以前にも書いた。
こんな話。

ある母親がこう言った。
「うちの子(年長児)は、字を書くのがへたでしょ。
みなさんは、じょうずに書けるでしょ。
だから本人もそれを気にして、BW教室(=私の教室)
へ行くのをいやがっています」と。

この話は、ウソ。
親の作り話。
が、どこがウソか、あなたはわかるだろうか?
親の話には、この種のウソが多い。

+++++++++++++++++++++

●強化の親vs弱化の親

 発達心理学の世界には、「強化の原理」「弱化の原理」という言葉がある。
何ごとも前向きに取り組んでいる子どもは、そこに強化の原理が働き、ますます前向きに伸びていく。
反対に、「いやだ」「つまらない」と思っている子どもは、そこに弱化の原理が働き、子ども自身が、自ら伸びる芽をつんでしまう。

 同じように、親にも、(子どもを伸ばす親)と、(子どもが伸びる芽を摘んでしまう親)がいる。
前者を、(強化の親)というなら、後者は、(弱化の親)ということになる。
(この言葉は、はやし浩司の造語。)

たとえばときどき教室を参観して、「うちの子はすばらしい」「できがいい」と思っている親の子どもは、どんどんと伸びていく。
反対に、「だめだ」「できない」と思っている親の子どもは、表情も暗くなり、やがて伸び悩む。

●「わざとほめてくれるのよ!」

 この話も前に書いたが、こういう話。
ある女の子(年長児)の話。
その女の子は、おかしなことに、私がほめればほめるほど、表情が固く、暗くなっていった。
ふだんから静かな子どもだった。

 私はその理由が、わからなかった。
が、ある日、レッスンが終わって廊下に出てみたときのこと。
いつも、その子どもの祖母にあたる女性が、その子どもを教室へ連れてきていた。
その女性が、その女の子(=孫)に向かって、こう言っていた。

 「どうしてあなたは、もっとハキハキしないの!
あなたができないから、先生がああしてわざとほめてくれるのよ。
どうしてそれがわからないの!」と。

●自己評価力

 自分を客観的に評価する・・・それを自己評価力という。
「現実検証能力」と言ってもよい。
この自己評価力は、小学3年生前後(10歳前後)を境にして、急速に発達する。
が、それ以前の子どもには、その力は、ない。
よくある例が、落ち着きのない子ども。
AD・HD児もそれに含まれる。

 このタイプの子どもに向かって、「もっと静かにしなさい」とか、「君が騒ぐと、みなが迷惑するよ」とか、教えても、意味はない。
自分が騒々しいことにすら、気づいていない。
その自覚がない。
またそれを気づかせる方法は、ない。

 いわんや、幼稚園児をや、ということになるが、文字についてもそうである。
自分の書いた文字を見て、それがじょうずか、へたか、それを判断できる子どもはいない。
それを判断し、子どもに伝えるのは、親ということになる。

 つまり親が、「自分の子どもの書く字がへた」と思っている。
だからそれを子どもに言う。
「あなたは、字がへた」と。

 ここで冒頭に書いた話を思い出してほしい。
私はその母親の言ったことを、ウソと書いた。
理由は、もうわかってもらえたと思う。
繰り返しになるが、年長児くらいで、自分の書いた字がじょうずか、へたか、それを客観的に判断できる子どもはいない。
子どもは、親の反応を見ながら、じょうずかへたかを知る。
しかしそれでも、どこがどうへたなのか、それがわかる子どもはいない。
つまり子どもの書いた字を、へたと決め込んでいるのは、母親自身ということになる。
が、それだけではない。
むしろ子どもの伸びる芽を、親が摘んでしまっている!

●強化の原理

 子どもが何か、文字らしきものを書いたら、ほめる。
それがどんな文字であっても、ほめる。
「ホホー、じょうずに書けるようになったね」と。

 こういう働きかけが、子どもに自信をもたせる。
その自信が、強化の原理となって、子どもを前向きに引っ張っていく。

 この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあとよく伸びる。
「私はすばらしい」という思いが、強化の原理として働く。

 最初の話に戻るが、こういうときは、その反対のことを言う。
「あなたは、字がじょうずになったわね。
先生も、ほめてくれていたわよ」と。

 以前、『欠点はほめろ』という格言を、私は考えた。
これもそのひとつ。
子どもに何か問題を見つけたら、それを指摘して、責めてはいけない。
反対に、ほめて、伸ばす。
たとえば意見を発表するとき、声が小さかったら、「もっと大きな声で!」ではなく、「あなたはこの前より、大きな声が出るようになったね」とか、「あなたの声は、いい声よ」とか、など。

 これは子どもを伸ばすための、第一の鉄則である。

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Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

●有島武郎(ありしま・たけお)

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今では、「有島武郎(ありしまたけお)」という名前を
知っている人も、少ない。
明治11年(1878)生まれ。
明治から大正にかけての文豪で、大正12年(1923)、
45歳の若さで、この世を去っている。

明治41年(1908)に、妻、安子と結婚するが、
その安子は、大正5年(1916)に、他界。
有島武郎自身は、そのあと、7年生き、大正12年(1923)に、
軽井沢の別荘で、『婦人公論』の女性記者と情死している。
「情死」というのは、「心中」のこと。

その有島武郎の代表作である、『カインの末裔』を、久しぶりに
読む。
学生時代、有島武郎の大ファンの友人がいて、彼はそののち、
有島武郎論を、あちこちの同人誌に発表している。
それで私も彼につられる形で、有島武郎に興味をもつようになった。
が、好きか嫌いかと問われれば、好きではない。
回りくどい情景描写が、ときにまだるっこい。
・・・というより、それが有島武郎。
回りの情景描写を積み重ねながら、主人公の「心」を
浮かび上がらせていく。

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●『カインの末裔(まつえい)』

 ストーリーだけを追えば、何でもない作品。
ただ昔読んだときも、それを感じたが、今回も、その謎は解けなかった。
つまり主人公の仁右衛門(小作人)は、場主(地主)を、最後のところで殺害したかどうかということ。
何度かその部分を読み返してみたが、結局、結論は、「?」。
全体としてみると、「殺害した」ということになるが、その部分は、「・・・のぼせ上がったために湯気をださんばかりに赤くなっていた」で終わる。
つづいて、いきなりシーンが変わり、仁右衛門は、そのまま自分の小屋に帰り、そのあと、自分の馬を斧でたたき殺している。

そのつながりの部分が、実のところ、よくわからない。
題名の『カインの末裔』というところから、つまり「カイン」という名前を使っているところから、それなりのことをしたということになる。
「カイン」というのは、アダムとイブの長男。
弟のアベルに嫉妬して、アベルを殺してしまう。
仁右衛門は、そのカインの末裔というわけである。

 で、こうした作品を読んでいつも感ずることがある。
そのひとつは、日本語が、当時と比べただけでも、大きく変化したということ。
私ですら、「昔の作家は、漢字をよく知っていたなあ」と感心する。
(もっとも私は、子どものころから、漢字が苦手。)

「章魚」と書いて、「たこ」と読む。
「溺(いば)る」というのは、「小便をする」こと。
「鬣」と書いて、「たてがみ」と読む。
「漢字で、『たてがみ』と書け」と言われて、この漢字を書ける人は、まずいない。

 最初の数ページを一読しただけでも、こうした漢字がズラズラと並ぶ。

●有島武郎論

 こうした文豪について、それぞれ研究者や論者がいて、無数の論文を書いている。
北海道のニセコ町には、有島記念館まであるという。
私のような素人が、有島武郎について書いたら、それこそ、八つ裂きにされてしまう。
事実、学生時代、冒頭に書いた友人は、私が何を言っても、「君は、浅い」と怒った。
「有島武郎のような文豪の書いた文章を、君のような男に、理解できるはずもない」と。

 しかしその私も63歳。
有島武郎を死んだときの年齢よりも、約20歳も、長生きをしている。
今さら、有島武郎に遠慮しなければならない理由などない。
人生経験という部分では、有島武郎にひけを取らない。
東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)の教授だったというが、肩書きにビビるような年齢は、とっくの昔に終わった。

 そういう自分と比較してみて、つまりこの『カインの末裔』が、その後の「農場解放」へとつながっていくという部分をのぞいて、若いころ、あれほどまでに畏れ多く感じた私は何だったのかと思う。
(だからといって、私のほうが上だとか、有島武郎がつまらないとか言っているのではない。
どうか誤解しないでほしい。)

この『カインの末裔』にしても、どこからともなく仁右衛門という小作人がやってきて、またどこかへと去っていくというストーリー。
最後は貧富の差に疑問を感じ、「同じ人間ではないか」と、場主(地主)を殺害し、自分たちはまたそのあと、どこかへと去っていく。
『カイン』とか、『末裔』とかいうには、少し無理がある?
私なら、『仁右衛門』という題ををつけ、それですます。

 ……こんなことを書くと、この道の研究家たちによって、袋だたきにあいそうなので、やはりこの話は、ここまで。
久しぶりに、骨太の短編小説を読んだ。
おもしろかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●『恋するベーカリー』

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メリル・ストリープの出る映画は、
『マジソン郡の橋』以来、すべて観ている。
で、昨夜は、『恋するベーカリー』を
観てきた。

星は2つか3つの、★★。

もちろん深夜劇場。
が、入ってみて、驚いた。
観客は、私とワイフの2人だけ!
完全、貸し切り!

久々に、2人で、ああでもない、
こうでもないと、ペチャペチャと
しゃべりながら、映画を観た。

帰ってきて時計を見たら、深夜の
0時を過ぎていた。

今までにたくさんの映画を観てきたが、
観客が、私たち2人だけというのは、
はじめて。
それだけに、今回の映画は、特筆すべき
映画となった。

++++++++++++++++++

●パソコン

 生徒(小4)の母親から、「息子にパソコンを買ってやってほしい」と頼まれている。
そこで選んだのが、TOSHIBAのMX33。
雑誌などでも、評価が高いパソコンである。
標準バッテリーだけで、9時間半も作動する。
私も以前から、ほしかった。

 で、近くの店で買うと、安いところで、7万6000円前後。
駅前のBショップでは、7万9800円。
が、ネットで買うと、4万5000円。
この差額は大きい。
約半額!

 今日、もう一度値段を確認に、その母親に了解してもらったあと、注文を出すつもり。
言い忘れたが、私も買う。
カラバリ(色)は、赤、黒、白の3色。
私は白、その生徒は黒。
楽しみ。

 ところでパソコンというのは、バリバリ使って、使い倒す。
使って使って、使いまくる。
磨いて、飾っておくものではない。
保証期間中に故障が起きたら、即、修理。
どうせ1~2年で、使い物にならなくなる。
(2月23日朝、記)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司