Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, January 31, 2012

●誠司(制作)ビデオ(2月1日)

【誠司(孫)製作のビデオ】(はやし浩司 2012-02-01)



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

朝、起きると、軽い頭痛。
風邪の頭痛らしい。
鼻水が出る。

で、布団の中でパソコンを立ち上げると、誠司(孫)が製作した
ビデオが届いていた(2012年02月01日)。

http://youtu.be/uZP3zb-r6FE

英語はよくわからないが、才能がキラリと光っていた。
子どももこの時期に、才能の「芽」を出す。
それがその子ども(人)の基本となることも多い。

かく言う私は、子どものころ、大工さんになりたかった。
毎日学校から帰ると、木工細工ばかりしていた。
それがどこかで狂い(?)、今の私になった。

誠司(孫)も、その才能を光らせはじめている。
そう感じた。
近く、近くのショップで、アニメが製作できるデジカメを探してみる。
以前、私も1台もっていたが、落とし、壊してしまった。

さて、今日から2月。
2月01日。
気合いを入れて、がんばろう!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


*********************************
 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司   12年  2月  1日号
 ================================  
2011年月8日1日現在……1552号
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━¬¬¬¬¬――――――――――――――
★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
マガジンを、カラー版でお楽しみください。(↓)をクリック!

http://bwhayashi2.fc2web.com/page016.html
★メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
★2009年、2010年、連続、カテゴリー部門・人気NO.1に選ばれました。

********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【冬休み】(今年は、遊ぼう!)

●第1日目

 昨日、岐阜県関市板取村にある、「山の宿・ひおき」に電話を入れた。
コテジ風の民宿である。
宿泊を申し込もうとしたが、「冬の間は、やっていません」とのこと。
つまり休業中。
残念!

 しかたがないので(失礼!)、今朝、浜名湖かんざんじ荘に電話を入れた。
「本日なら、部屋が取れます」と。
ラッキー!
……ということで、冬休み初日は、かんざんじ荘の温泉(温泉だぞ!)で、1泊。
1年のアカ落としを、そこですることにした。

●年賀状

 本日(28日)、年賀状を発送。
元旦に着くことを願いながら、本局まで行って、投函した。

 途中、DVDショップに立ち寄った。
ワイフは旅館ではいつも、DVDを観る。
そのDVDを借りた。

 ついでに郵便局の帰りに、行きつけのざるそば屋で、ざるそばを食べた。
そのとき私はこう宣言した。
「今年の冬休みは、遊んで、遊んで、遊びまくるぞ」と。

●ベトナム

 オーストラリアの友人は、今、ベトナムにいる。
オーストラリアを出発する前、そんな連絡が入った。
「ベトナムかあ……いいなあ」と。

あの国の人たちは、ヒマさえあれば、外国へ出かける。
距離に対する感覚が、日本人のそれとは、まったくちがう。
500キロ、1000キロなど、彼らにしてみれば、隣町。
加えて移民国家。
「外国」という言葉についても、私たちとはちがった概念をもっている。

●舘山寺に向かう

 舘山寺に向かう前、沼津のH会館(ホテル)に電話した。
正月X日の講演のあと、沼津の温泉に一泊する。
あれこれ迷ったあと、H会館にした。

ネットで予約できないからといって、あきらめてはいけない。
電話で直接交渉すると、繁忙期でも部屋が取れるときがある。
H会館にしても、そうだ。
ネットでは、「満室」となっていた。
「念のため……」と思って電話をすると、「空いています」と。

 ラッキー!

 X日は、そのH会館に一泊することにした。

●小食派
 
 若いころは、温泉に泊まるなどということは、考えもしなかった。
どこか老人臭い。
「温泉というのは、老人が泊まるもの」と。
(たしかにそうだが……。)
そう思っていた。
が、今はちがう。
どこへ行っても、まず温泉地をさがす。
そこで一泊する。

 料理には、あまりこだわらない。
そこそこのものであればよい。
ワイフも私も、小食派。

 ところで「小食」と書くのが正しいのか、それとも「少食」と書くのが正しいのか。
が、こういうときは、その反対を考えてみると、わかる。
「大食」とは言うが、「多食」とは言わない。
だから「小食」が正しいということになる。
理屈の上では……。

●講演

 講演をするようになってから、もう20年になる。
当初は近くの小学校や幼稚園でさせてもらった。
もちろん私のほうから頼んで講演をさせてもらったことは、一度もない。
講演というのは、そういうもの。

 ただ政治家とちがい、講演したからといって、メリットはまったくない。
講演には、(そのつぎ……)がない。
いつも話しっぱなしで、終わる。
名誉にはなるが、数週間もすれば、私の話したことなど、人々の記憶からも消えてしまうだろう。

 が、楽しいことも多い。

●講演旅行

 何が楽しいかといって、そのまま旅行ができること。
その地域の名物が食べられること。
それもあって、講演の依頼があると、すぐその地域の温泉や名物を調べる。

 最近では私たちよりワイフのほうが、楽しみにしている。
「今度、○○で講演だよ」と報告すると、「じゃあ、○○温泉ね」と。
のんきな性格で、私の苦労など、ぜんぜんわかっていない。
講演といっても、かなり神経を使う。
緊張する。
講演のあと数時間は、食欲そのものが失(う)せる。

 実際には、講演のある日は、朝から食事を抜く。
胃の中をからっぽにしておかないと、脳みその活動そのものが鈍る。
それに体調。

大きな講演会があるときは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
また当日にしても、どんなに近くても私は電車を利用する。
車だと、渋滞に巻き込まれたりする。
まだある。
約束の電車より、いつも1つ前の電車で現地へ着くようにする。
この仕事には、遅刻は許されない。

 「旅行」と浮かれることができるのは、講演が終わってから。
が、そうでないときもある。
講演のできが悪かったりすると、そのあとガクンと気分が落ち込む。
そうなると旅行気分など、どこかへ吹き飛んでしまう。

●湖上百景・浜名湖かんざんじ荘にて

 かんざんじ荘には、午後4時ごろついた。
軽い悪寒を覚えたので、そのまま温泉に。
温泉には、私、ひとりだけだった。
のんびりできた。
ほぼ夕暮れ時だったが、直線的な白い陽光が、ガラス窓を通して顔に当たった。

 部屋に戻ると、ベランダの椅子に座り、あれこれ考えた。
遠くには、山荘のある山々も見える。
が、この安心感は、どこから来るのか?
……?

 最近、気がついたことがある。
ときどき海ぎわの旅館やホテルに泊まることがある。
そのときのこと。
どうも落ち着かない。
このあたりでも3・11震災並みの大地震が起こるかもしれないという。
もし起これば、同じような津波が海岸地域を襲うはず。
海ぎわの旅館やホテルなど、ひとたまりもない。
それが私を不安にさせる。

 が、このホテルは、山の上。
津波の心配は、まったくない。
それが安心感につながっている。
たぶん……。

●特異現象

 金正日が死んだ日、北朝鮮ではいろいろな特異現象が観察されたという。
たとえば……。

『……冬空に稲妻が走り、タンチョウヅルはこうべを垂れた……。北朝鮮メディアは金正日総書記の死去発表後、特異な自然現象の発生を死去と関連付け相次いで報じている』(ロイター)と。

朝鮮中央通信という公的機関(?)が、そういうことを報道するから楽しい。
いわく『同通信はまた、東部の咸興市に建てられた金日成主席の銅像に20日夜、タンチョウヅルが飛来し、銅像の上を3回、回って木に止まった後、長時間こうべを垂れていたとも伝えた。
目撃者は「ツルも弔意を表したようだ」と話したという』(共同通信)と。

 が、こういう記事を読んで、笑ってはいけない。
この程度の記事なら、カルト教団の機関紙には、いつも載っている。
言い換えると、北朝鮮という国家そのものが、カルト化しているということ。
わかりやすく言えば、「宗教国家」。
核兵器を本尊とする、宗教国家。
またそういう前提で考えないと、あの国を真に理解することはできない。

 だからいくらアメリカや韓国が、がんばっても、北朝鮮は核兵器を放棄などしない。
いくら餓死者が出ても、それはそれ。
カルト教団では、理屈はご法度(はっと)。
理屈で考えたら、教団そのものが崩壊してしまう。
北朝鮮にしてもそうだ。

どうしてタンチョウヅルなのか?
タカやワシでは、だめなのか?
あの種の鳥はどれも、クチバシが長いから、休むときは、みな頭(こうべ)を垂れる。
が、こうして理屈で考えたら、体制そのものが崩壊してしまう。

 もし私が今、北朝鮮に住んでいたら……。
あっという間に、公開処刑!
それを考えると、ゾッとする。

●心の汗?

 肉親や親類の死を知り、ほとんどの人は、その死を悲しむ。
しかし(悲しむ)ことと、(泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。
さらに(泣く)といっても、(密かに泣く)という行為と、(公然と泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。

 一般論から言えば、人は泣くことによって、抑圧された感情を発散する。
わかりやすく言えば、泣くことによって悲しみを軽減することができる。
が、それにも臨界点がある。

 悲しみもその臨界点を超えると、泣いたくらいでは癒せなくなる。
そのため悲しみを、さらに倍加させてしまう。
このことは泣く子どもを観察してみると、わかる。

 たとえばピアノのレッスンなら、ピアノのレッスンでよい。
そのとき子どもによっては、その前になると、決まってぐずったりする。
が、このばあいの涙は、心の汗のようなもの。
ぐずることによって、心にかかった負担(=ストレス)を発散する。
だからある程度それがすむと、ケロッとし、ピアノのレッスンを始めたりする。

 だから親にはこう教える。
「子どもがぐずるときは、温かく無視し、ぐずりたいだけぐずらせてあげなさい」と。

 こういうケースのばあい、けっして無理をしてはいけない。
叱ったり、強制してはいけない。
が、それでもぐずるようであれば、本人の処理能力を超えたと判断する。
ピアノのレッスンを控える。

 金正日の葬儀の場で、ワーワーと泣く北朝鮮市民の姿をネットで見ながら、そんなことを考えた。
みなの見ているところで、おおげさに泣いて見せる。
ふつうの常識のある人なら、そんなことはしない。
たとえ本当に悲しくても、そんなことはしない。

感情をむき出しにするというのは、怒りであれ、恨みであれ、それだけその人の人格の完成度が低いことを示す。
もちろん大げさに泣くのも、そのひとつ。

●男が男湯で盗撮?

 さらに驚いた事件が、これ。

『……京都教育大学の職員の男が、東京・調布市にある温泉施設の男湯の脱衣所に、盗撮目的で侵入したとして、警視庁に現行犯逮捕されていたことがわかりました』(TBSi-。ニュース)と。

 男が男の脱衣所に侵入し、カメラで男の裸を撮ろうとした、と。
「京都教育大学の職員」という部分は、愛嬌。
私はこの記事を読んだ直後、「何かのまちがいではないか」と思った。
が、何度読んでも「男湯」。

 どうして?
そんなに見たかったら、湯船にでもつかり、ゆっくりと見ればよい。
どうして盗撮なのか?
性癖ほど、摩訶不思議なものはない。
それはよくわかっているが、この事件は、私の常識をはるかに超えている。

私「妻のために、夫が盗撮してやったのだろうか」
ワ「女性は、そんなこと、望まないわよ」
私「わからないよ。中には男の裸を見たいと、夫にねだる妻だっているかもしれないよ」
ワ「いないわよ……」
私「そう、決めつけてはいけないよ」と。

 以前、記憶にある事件には、こんなのがあった。

 男児や少年の裸を盗撮し、それを児童ポルノとして販売していた男がいた。
そういうケースも考えられなくはない。
が、この記事からだけでは、よくわからない。
何か、裏がありそう。

●男心vs女心

 ここでクェスチョン。

 男が女湯に入ってみたいというのは、よくわかる。
男は視覚的に、女性の中に、「女」を感ずる。
が、女はどうか?

 ワイフの説によれば、女にはそれがないという。
ならば聞くが、どうして女は、男に体を見られるのをいやがるのか。
「見たい」と思う男。
しかし女は、「見られたくない」と。
私は「見られても減るものではないから、もっと見せてくれてもいい」と思う。
が、現実には、そうでない。

 なぜか?
男に、「見たい」という本能があるとするなら、女には「見られたくない」という本能があるということになる。
が、これはおかしい。
「見られたくない」と言いつつ、女は無意識のうちにも、肌を露出し、男心を誘っている。
誘っておきながら、「見られたくない」とは?
そういう矛盾を、どう理解したらよいのか。

●夕食

 浜名湖かんざんじ荘の夕食は、すばらしい。
今回も、もっともスタンダードなコースを頼んだ。
が、それでも大満足。
景観、料理ともに、これで文句を言う人はいない。
ただ部屋だけは、旧国民宿舎ということもあり、狭い。
8畳+2畳ほどのベランダ。
内湯はなし。
部屋食もなし。

 が、こういうところでは、どうしても食べ過ぎてしまう。
「食べたら、損(そこ)ねる」。
それがわかっていても、食べ過ぎてしまう。

 部屋へ戻ってから、しばし後悔の念で、心が塞ぐ。

●DVD『ロシアン・ルーレット』

 ワイフは、『ロシアン・ルーレット』というDVDを観ている。
発想からして、バカげている。
意味のない殺人映画。
こんなシーンが目に留まった。

 10数人の男が、円になってぐるりと並ぶ。
それぞれがその前の人の後頭部に、ピストルの銃口を向ける。
ピストルには、弾が、1発ずつこめられている。
合図と同時に、ピストルの引き金を引く。
(ピストルは、リボルバー式。
弾が1発のときは、弾が発射される確率は、6分の1となる。)

 ……こうしてそのつど、何割かの男たちが床に倒れていく。
それを見ながら、別の男たちが、だれが生き残るか、お金を賭ける。

 問題は、その合図。
DVDの中では、天井につりさげられた電球が灯ったとき、みながピストルを撃つ。
そのときのこと。
合図の電球が灯ったら、すかさず、すぐ引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味で引き金を引いたほうが、得なのか。

(1対1のとき)……すぐ撃ったほうが、得。
(3人のとき)……すぐ撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は低くなる。
つまり自分を撃つ男の生き残る確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、高くなる。

が、反対に、遅れ気味で撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は高くなる。
つまり自分を撃つ男の死ぬ確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、低くなる。

 だから3人のときは、遅れ気味に引き金を引いたほうがよい。
敵の敵は味方。
そう考えると、わかりやすい。

(4人以上のとき)……どちらが得なのだろう?
合図と同時にすかさず引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味に引き金を引いたほうが得なのか。

 そんなことをぼんやりと考えていたら、眠くなってきた。

●鈴木M氏

 あの鈴木M氏が、仮釈放により出所してきた。
その鈴木M氏が、すかさず始めた運動が、新党結成。
届け出た名前が、ウサン臭い。
「真民主党」。

 その政党がそうというわけではない。
が、人は、自分の醜い意図を隠すため、えてして逆の名前をつけたがる。
「真」という文字も、そのひとつ。
何をもって、「真」というのか?

それに私の記憶にまちがいがなければ、鈴木M氏は、今後5年間は選挙に出られないはず。
法の趣旨からすれば、5年後であれ、今は選挙活動を自粛するのが常識。
が、ことあの鈴木M氏に関していえば、そういった常識が通じない。……らしい。

 受託収賄罪についても、当初から無罪を主張。
最高裁まで争った経緯がある。
その話は別として、私はあの鈴木M氏を見るたびに、こう思う。
「この男を動かしているエネルギーは、いったい、何なのか。どこから生まれるのか」と。

 ふつうのエネルギーではない。
すさまじいばかりのエネルギーである。
私には権力欲に狂った、ただの亡者にしか見えないのだが、亡者なら亡者でもよい。
どこからそういったエネルギーが生まれるのか。

 「日本をよくしたい」と、鈴木M氏は、本気でそう考えているのかもしれない。
それにしても、すさまじいばかりのエネルギーである。
が、フロイト風に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)が強い分だけ、サナトス(破滅的エネルギー)も強いはず。
今はまだよくわからないが、「日本をよくしたい」という思いよりは、「日本をメチャメチャにしたい」という思いのほうが強いのではないのか。
鈴木M氏の今までの言動を追ってみると、私には、そう見える。

 あのタイプの政治家の出現には、じゅうぶん注意したらよい。

●深夜

 午後10時ごろ、2回目の入浴をした。
部屋に帰ると、そのまま就寝。
だから10時半ごろ、就寝したことになる。
が、夜中に夢を見た。
……というか、のどの渇きを覚え、目が覚めた。

●リクラゼーション・ルーム

 温泉の右隣に、リクラゼーション・ルームという部屋がある。
夜中に3時に、パソコンをもち、その部屋に移動した。
その部屋でなら、思う存分、パソコンを叩ける。
そう考えた。

入り口の前には、自動販売機があった。
私は2本のペットボトルを買った。

 ルームの中には、2台のマッサージ機と、いくつかのソファ。
本棚と本箱があった。
本棚には、マンガ本がずらりと並んでいた。
本箱には、「司馬遼太郎・街道をゆく」という写真雑誌が、5冊並んでいた。

●「街道をゆく」

 3本目のペットボトルを買うため、立った。
そのついでに、「街道をゆく」を、何冊かパラパラとめくって読んでみた。
一読して、「すごい旅行記だなア」と思った。
思ったが、その中の1ページに、立松和平のコラムが載っていた。
とたん、読みたいという気持ちが、スーッと萎えてしまった。

 立松和平……1度、盗作事件が発覚してからというもの、彼の文章を読みたいとは思わなくなってしまった。
が、2度目があった。
そのとき立松和平は、テレビ画面に向かって、こう言って泣きじゃくっていた。
「許してもらえましたア」と。

 盗作した相手に許してもらえた、と。

 が、この問題は、許すとか、許されるとかいうレベルの問題ではない。
私はいつも逆の立場で考える。
こんな事件があった。

●盗作事件

 ちょうど1年ほど前のこと。
ネットで私の文章を検索していたら、私の書いた原稿がそのまま載っているサイトを見つけた。
1ページや2ページではない。
全体で、10ページ前後。
N県の県警本部が管理するサイトであった。
(N県の県警本部という、県警本部が管理するサイトだぞ!)

 私の文章が3~5段に分割され、前後を入れ替えた状態で、そこに掲載されていた。
しかも丁寧に、いちばん下に、「無断転載禁止」と。
私は即座に、そのN県の県警本部に電話を入れた。
が、電話に出た相手は、逆ギレ。
「証拠があるのか!」というようなことまで言った。

 そこで私は私が書いた文章と、そのサイトに載っている文章を、電話口で読み比べてみせた。
1時間半ほど、かかった。
結果、相手はそれを認め、一転、「浜松まで謝罪に行く」と言い出した。

 力のある者が、力のない者を利用する。
有名人が無名人を、利用する。
私は、それが許せなかった。
つまり立松和平がした行為は、まさにそれに当たる。

 もの書きの世界では、一事が万事。
万事が一事。
立松和平は、日常的に盗作をつづけていた。
そう疑われても、しかたない。
そういうことが平気でできる(作家)というのは、そうはいない。

一般の世界では、「ちょっと他人の文章を拝借して……」ということもあるかもしれない。
しかし(ものを書く人間)には、それはない。
それをしたら、おしまい。

 こんな私でも、……つまりまったく無名で、しがないもの書きの私でも、「盗作」だけはしない。
したら、おしまい。
ものを書く人間には、ものを書く人間の(魂)というものがある。
文に対する、思い入れそのものが、ちがう。

立松和平は、そんなもの書きの心を、自ら土足で踏みにじった。
立松和平はそれでよいとしても、その悲しみ、怒りは、盗作されたものでないとわからない。
「許してもらえましたア」と、泣きじゃくって喜ぶようなレベルの話ではない。

 それにもう一言、付け足すと、こうなる。

 「盗作」などというのは、偶然の、そのまた偶然が重ならないと、発覚しない。
N県の県警本部のサイトにしても、それが見つかったのは、偶然中の偶然だった。
相手がサイトにUPしていたからこそ、わかっただけで、ふつうなら、わからない。

●仮面

 人はだれしも、仮面をかぶっている。
私もかぶっているし、あなたもかぶっている。
仮面が悪いというのではない。
仮面をかぶるからこそ、円滑な人間関係が維持できる。
わかりやすいのは、ショッピングセンターの女子店員。
にこやかな顔をし、やさしい声で、こう言う。
「いらっしゃいませ」と。

 が、そういう女子店員を見て、人間的にすぐれた人と思ってはいけない。
(だれもそうは思わないが……。)
女子店員は、「店員」という仮面をかぶっているだけ。
そういう仮面をかぶりながら、私たちをよい気分にさせる。
それを利用し、私たちから、金(マネー)を、むしり取る。
(と、まあ、そこまで考える必要はないが……。)

 が、中には、仮面をかぶったまま、仮面をかぶっていることを、忘れてしまう人がいる。
仮面の自分を、本物の自分と思い込んでしまう。
「聖職者」と呼ばれる人たちに、このタイプの人が多い。

 そこで大切なことは、私たち自身も、その仮面を見抜く力を養うこと。
仮面にだまされては、いけない。
さらに言えば、仮面の向こうにある、本物の相手を見抜くこと。

 このことは子どもを教えてみると、よくわかる。
たとえば中に、従順で、私の指示にそのまま従う子どもがいる。
が、そういう子どもほど、心配。
いろいろな問題を引き起こす。
教えにくい。

 反対に、そのつど反発する子どもがいる。
プリントを渡したりすると、「また、プリント! いやだ!」と。
このタイプの子どもは、一見生意気で、教えにくい。
が、その実、心がつかみやすい。
教えやすい。

●得体の知れない人

 私の年齢になると、人間関係を総括することが多くなる。
が、それはむずかしい作業ではない。
心の中の印象をさぐってみればよい。

 そのとき、ふと温かい印象が返ってくる人もいれば、そうでない人もいる。
中には、20年とか30年もつきあっているはずなのに、得体の知れない人もいる。
いろいろ思い出してみるのだが、その人の(形)が浮かび上がってこない。
上辺(うわべ)では、よい人ぶっている。
しかしその実、心の中は、ねたみと怒り、恨みと不平不満だらけ。

 こんな人もいた。

●辛辣(しんらつ)な書き込み

 こうして文や動画を公表していると、ときどき、辛辣な批判が届く。
が、そんなことをいちいち気にしていたら、文や動画など、公表できない。
しかしその批判は、群を抜いていた。
原文のまま、ここに紹介する。

「このおっさんなんですか、全然わかってない。
本人にしかわかんないこともあるんだよ。
このおっさん何でたらめばかり言ってんだ。
ちゃんと勉強してから出直せば・・・・ って言いたいです。
とにかくでたらめ。
やってる子供は気持ちいいって何・・ xx症の娘を持つ母親ですが、この人、何者。
ドーパミン説は知っていますが、なぜ、ドーパミンが過剰分泌されるか(その反対でもよい)、そこに家庭に原因があると解いています。
今は家庭環境のせいではなく、ドーパミンの過剰発生が原因とされているようです。
親の教育が悪いというのは偏見だそうです。
偏見を助長するだけだよ。
娘は辛くて泣きそうなんだよ 浜松のおっさんへ!
育児論で障害を語るなよ」と。

 反論は別の機会にすることにして、私はこの女性に興味をもった。
そこでいろいろなチャンネルを使って、この女性を追跡してみた。

 まずハンドルネームを検索。
そこからその女性が発行している、別のBLOGをヒット。
さらにそこで使っている、別のハンドルネーム(MR)を検索。
最終的に、九州のK県に住んでいる、45歳の女性ということがわかった。
本名もわかった(TM)。
しかもその女性は、1冊だが、育児書を出版していることまで、わかった(「~~日記」)。

「ちゃんと勉強してから出直せば・・・・」という言葉も、そのあたりの(自信?)から出てきたらしい。

 「○○症」という神経症の多くが、家庭環境に原因があると書いたのが、よほど強く癇(かん)に障(さわ)ったらしい。

が、現在では、子どもの問題は、家族の問題と考えるのが常識。
子どもは家族の「代表」にすぎない。
私がそう言っているのではない。
医療機関でも、子どもに何かの問題があると家族全員を集め、家族全員を指導する。
2000年ごろから、そういう傾向がたいへん強くなった。

 それはともかくも驚いたのは、その女性が別のBLOGなどでは、まさにレディ然とした文章を書いていること。
どちらが仮面で、どちらが本物かなどということは、論ずるまでもない。
私はその(落差)に驚いた。

●仮面は仮面

 話を戻す。

 仮面は仮面。
仮面はかぶらないほうがよい。
かぶっても、それが仮面であることを、いつも自覚する。
また相手を見るときも、そうだ。
仮面の向こうにどんな顔があるかを、知る。

 こうした操作を忘れると、人間関係がメチャメチャになってしまう。
みながみな、悪人というわけではない。
しかし同時に、みながみな、善人というわけでもない。

●第2日目

 冬休み、第2日目になった。
12月29日、木曜日。
部屋のカーテンを開けると、真っ青な空が一面に飛び込んできた。
朝食まで、あと15分。
現在時刻は、午前7時15分。
そろそろ帰り支度をしなければならない。

 ……ということで、浜名湖かんざんじ荘とも、そろそろお別れ。

 では、みなさん、おはようございます!
(はやし浩司 2011-12-29朝記)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【橋下徹市長の行政改革・支持する】「がんばれ、大阪市長、橋下徹氏!」

●あわててダイエット

 ハハハ!
今日から、あわててダイエット!、プラス、運動!
体重が3キロも、オーバー。
現在、67キロ!

 ハハハ!
正月には、いつも太る。
何を食べても、おいしい。
運動も、さぼり気味。
これだから正月は、困る。

●おせち料理

 ワイフは、おせち料理の心配ばかりしている。
毎年、そうだ。
年末になると、そうだ。

HPの更新作業が終わったら、買い物に行くつもり。
まとめて買ったほうが安くつく……という説もある。
が、私たちはいつも、バラバラ。
つまり気に入ったものだけを、個別に買っている。

 今年は、岐阜の従兄(いとこ)が、餅を送ってくれた。
だから、餅つきはなし。
(もともと餅つきをするつもりは、なかったが……。)
何ともさみしい正月。
まったくふだん通りの正月。
平凡であることを、喜ぼう!

●計画

 計画はいくつか、ある。
あるが、こうしたBLOGでは、公表できない。
またしてはいけない。
公表すれば、泥棒に「おいで」を言っているようなもの。
以前は、講演日時を公開していた。
それについて、親切な人が、こう教えてくれた。
「公表しないほうが、いい」と。

 BLOGには、予定や計画を、書いてはいけない。
さて、本題。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●大阪市長

 橋下市長の意気込みには、頭がさがる。
まさに平成の坂本龍馬!
今朝の読売新聞には、「(橋下市長)、労組に闘争宣言」とある。

++++++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++++++

原稿に目を落とすことが多かった橋下徹・大阪市長が顔を上げて訴えたのは、職員労働組合との「闘争宣言」だった。

 橋下市長が就任後初の施政方針演説に臨んだ28日の市議会。橋下市長は演説で……「組合が、公の施設で政治的な発言を一言でもするようなことがあれば、断じて許さない」と職員組合批判を繰り出した。

 問題にしたのは、大阪交通労組(大交)など労組による市庁舎内の政治活動。
市長選で争った前市長の推薦者カードを、勤務時間に配布したなどとされる。

 橋下市長は、労組側がこの問題で謝罪文を提出しようとしたことを明かし、「組合は謝罪文1枚で済まそうとした。市民感覚とかけ離れている」とかみついた。
その後も「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」と敵視する発言を繰り返し、最後は「市役所の組合を改善することで、全国の公務員組合を改めることしか、日本再生の道はない」と言い切った。

 労組批判は用意した原稿にはなく、すべてアドリブで、約5分間に及んだ。
さらに、演説後の市の幹部会議でも批判は続き、橋下市長は「組合の言うことを聞かないと人事で冷遇される、という手紙やメールが中堅、若手職員から来ている」と言い放った。

 市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市民受けを狙ったんだろう」と漏らした。

++++++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++++++

●目の前で歯磨き

 だれが見ても、現在の公務員社会は、おかしい。
先日も、県の○○局へ書類を取りに行った。
そこでのこと。
12時JUSTになったら、収入印紙の販売窓口が、パタリと閉まった。
収入印紙が買えなければ、自動的にすべての業務が停止する。
……停止してしまった。

 私とワイフは、しかたがないので、午後1時まで、その前の座席で窓口が開くのを待った。
が、私が信じられないような光景を見たのは、そのあとのことだった。

 しばらくすると職員たちが、食事から戻ってきた。
が、そのうちの2人が、私たちの見える場所で、歯を磨き始めた。
そのうち1人は、歯ブラシをくわえたまま、フラフラと歩いていた。

その態度のでかいこと、でかいこと。
民間企業では、ぜったいにありえない光景である。
客である私たちの見ているところで、歯磨き?
私とワイフは、その光景を見て、心底、驚いた。

 仕事に対する感覚そのものが、ずれている。
完全に、ずれている。
市民感覚から、完全にずれている。
大阪市長は、恐らくそういう光景を、毎日のように見ているのだろう。
だからかみついた!

●橋下市長の闘争宣言

 「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」(読売新聞)と。

 現在、公務員が覆面のまま、政治活動をしている例は、たいへん多い。
そういうサイトが、(正確な数はわからないが)、何10とある。
ためしに公務員を批判したBLOGを書いてみるとよい。
そのあと、かならずと言ってよいほど、抗議の書き込みやコメントが届く。

あるいは試しに、「はやし浩司」を検索してみるとよい。
どういう連中が、どのように私をこき下ろしているか、それを読めばわかる。
それが現在の公務員社会である。

 ともかくも、今や、公務員社会に対する怒りは、爆発寸前。
1人ひとりの公務員に責任があるわけではない。
それはよくわかっているが、しかし爆発寸前。

が、悲しいかな、私たち一般庶民は、どうすることもできない。
ワイフはこう言った。

「だって、警察も機動隊も、それに自衛隊も公務員でしょ」と。
つまりいくら騒いでも、勝ち目はない。
私たちはいつの間にか、この日本をそういう国にしてしまった。
詳しくは『おいしい公務員』(週刊ダイアモンド・2011・10・15日号)を読んでみたらよい。
怒る前に、あきれてしまう。

 だからいろいろ問題はあるが、今は、橋下市長に、エールを送りたい。
「めげるな、橋下市長! その旋風を全国にまき起こせ!」と。

 なおこれに対して、読売新聞はつぎのように伝える。

『市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市民受けを狙ったんだろう」と漏らした』(読売新聞)と。

 そうじゃないよ、民主系市議さん。
あなたの感覚は、市民感覚から、完全にずれている!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 大阪市 橋下市長 がんばれ 支持 支持する はやし浩司 橋下 徹 橋下徹)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●冬休み、3日目(映画『ニュー・イヤーズ・イブ』 (New Year's Eve)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨日、『ニュー・イヤーズ・イブ』という映画を観てきた。
一言で表現すれば、ゴチャゴチャ映画。
8組の人々が新年に向け、それぞれの思いをもって、動き出す。
……という内容の映画。

最初の90%は、観るに耐えない映画。
何度も席を立って帰ろうかと思った。
ボン・ジョビや、ロバート・デニーロなど、スターは
豪華だが、駄作は駄作。
アメリカ人の軽薄さを、そのまま凝縮したような映画。
恋愛主義、セックス主義……。
星など、つけようもない。

おまけに8組の人々が、同時進行で描かれているため、
場面ごとに頭を切り換えるだけでも、たいへん。
何がなんだか、さっぱり訳が分からない。……分からなかった。
料理にたとえるなら、ラーメンと寿司、スパゲッティと
ドーナツ、(←これで4組)、カツ丼と焼き肉、シャブシャブと
豆腐料理、その8組を同時にテーブルに並べたような映画。

最後の10%は、ほどほどのできだったが、それまでがまん
できる人は、少ない。
劇場だったから最後まで観たが、家庭では無理。
家庭だったら、私なら最初の10分で、DVDをパッケージに
しまっていただろう。

頭の中がゴチャゴチャになる苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
がまんして、椅子に座っている苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。

私はその『ニュー・イヤーズ・イブ』を観ながら、改めて
こう実感した。

「日本は、完全にアメリカ文化にノックアウトされている!」と。
先に書いた恋愛主義もそのひとつ。
「恋愛がすべて」というものの考え方を、恋愛主義、あるいは恋愛
至上主義という。
(私がそういう名前をつけた)。

プラス、セックス主義……といっても、節度のないフリーセックスだが、
日本もそのセックス主義に毒されてしまった。
恋愛とセックス……それがすべて!

私はそのつど、頭の中で、昔の日本と対比させた。
(昔の日本が、かならずしもよいわけではないが……。)
「昔の日本は、こうだったのだがなあ……」と。

『ニュー・イヤーズ・イブ』の中に描かれている世界は、
そっくりそのまま、日本の現代の若い世代の世界ということになる。
享楽主義と快楽追求主義。
親には無私の愛を求めながら、自分たちは勝手し放題。
酒とセックスと金(マネー)。

人間が本来もっているはずの(まじめさ)が、どこにもない。

で、ああいう映画を無批判に観てはいけない。
気がついたつきには、そのままアメリカの低俗文化に、毒されてしまう。
(現代が、そうだが……。)
そのまま恋愛主義、金権主義、ゆがんだ家族主義、さらには
享楽主義、快楽追求主義に、洗脳されてしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ニューイヤーズ・イブ ニュー・イヤーズ・イブ ニューイヤーズイブ New Year's Eve 映画評論)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浜松の言葉

 前にも書いたが、浜松には浜松の、独特の言い方がある。
たとえば、ほかの地方で、「本当ですか?」と言うとき、浜松では、「ウッソー!」と言う。

 浜松の人たちは、ごく日常的にこの言葉を使う。
が、私はそうでなかった。
はじめて浜松へ来たときには、この言葉には心底、面食らった。
「ウソとは何だ!」「失礼ではないか!」と。
本気で、けんか腰になったこともある。

 ほかに、たとえば、「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」という言葉がある。
「ノ~?」という部分で、尻上がりになる。
「まだ、あの仕事をつづけているのですか?」という意味で、相手に、そう言う。

が、この言葉は、ときとばあいによっては、相手を激怒させる。
浜松に住んで40年以上になるが、今でも、頭にカチンと来る。……ときがある。
たとえば昔の知り合いに、久しぶりに会ったとする。
そのとき、相手が、こう言う。

「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」と。

 聞き方によっては、「まだ、(あんなつまらない仕事)、つづけているの?」とも取れる。
「いいかげんに、やめたら」とか、「くだらない仕事してるね」とか、そんなふうにも取れる。
だからカチンとくる。

 ほかにもある。

 浜松の人は、相手の行為を傍から見ながら、よくこう言う。

たとえば自転車に乗ろうとすると、それを傍から見ながら、こう言う。
「自転車に乗るのオ~?」と。
とたん、「見ればわかるだろ!」と言い返したくなる。
わかりきったことを、いちいち確認してくる。

 これも聞き方によっては、馬鹿にされたように感ずる。
「今どき、自転車で通勤するなんて!」とも取れる。
「恥ずかしくない?」とも取れる。

 全体としてみると、浜松の言葉は、ぶっきらぼう。
感情をそのままぶつけてくる。
そのため、奥ゆかしさがない。
浜松が、「街道沿いの宿場町」と言われる所以(ゆえん)は、こんなところにもある。

●恋愛主義

 映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の話に戻る。

 先に「恋愛主義(恋愛至上主義)」について、書いた。
「恋愛こそ、すべて」と考え、行動の原点にするのが、恋愛主義。
ほかにも出世主義、金権主義、家族主義などがある。

『ニュー・イヤーズ・イブ』に出てくる、8つの組のうち、7組までが、恋愛がらみ。
残り1組だけが、死にいく父親(ロバート・デニーロ)と娘の関係。 
それぞれがそれぞれの立場で、恋愛を成就していく。
が、どうしてそれが「奇跡」(映画案内)なのか。
 
 もちろん私は恋愛を否定する者ではない。
しかしそれにも、限度というものがある。
人間は恋愛のためだけに、生きているのではない。
いわんやセックスのためだけに、生きているのではない。
それぞれがそれぞれの目的や使命をもって、生きている。
が、こうしたアメリカ映画ばかり観ていると、それがわからなくなる。
そこらのイヌやネコと同じことをしながら、それが最高にすばらしいことと錯覚してしまう。

●お涙ちょうだい

 ロバート・デニーロ演ずる父親は、最後に娘と再会し、そのまま息を引き取る。
そのあとのこと。
娘が父親の遺品をみると、そこに自分の子ども時代の写真があることを知る。
娘は、じっとその写真に見入る……。

 おなじみの(お涙ちょうだいシーン)である。
が、現実は、きびしい。

 昨年、こんな話を聞いた。
この話も前に書いたことがあるが、こんな話。

 父親が臨終を迎えた。
そこで娘が、遠くにいる弟に連絡をした。
弟、つまりその父親の息子からは、15年来、音信がなかった。

 息子が病院へかけつけると、それを制したのは、母親だった。
母親はその息子に、こう言った。
「今ごろ、何をしに来たの!」と。
息子は病院の玄関先で、追い返されてしまった。

●幻想

 こういう話を聞くと、若い人ならこう思うにちがいない。
「何てひどい母親なんだ!」と。
が、本当にそうだろうか。
そう思ってよいのだろうか。

 その母親というのは、ワイフの遠い親類にあたる女性だが、ワイフにはこう言った。
「夫(息子の父親)からは、万が一、息子が会いに来ても、部屋へ通すなと言われていましたから」と。

 それぞれの家庭には、それぞれの家庭の、複雑な事情というものがある。
その事情を無視し、第三者が短絡的に判断をくだしてはいけない。
その父親と母親にしても、息子が去ったさびしさを、15年間も堪え忍んだ。
15年間だぞ!
それは想像を絶する苦しみだったにちがいない。
そのため、夫婦関係がおかしくなったこともあるという。
そういう困難を何とか、夫婦で力を合わせ、乗り越えた。
その結果の、15年間である。

 息子は、「親だから……」という幻想でもって、親をみるかもしれない。
「親だから、子どもに深い愛があるはず」と。
しかし親とて、1人の人間。
神や仏ではない。
息子のほうは、神や仏のような愛や慈悲を期待するかもしれない。
が、それは先にもかいたように、「幻想」。

 映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の中では、父親と娘が最後の瞬間、抱き合って、(許し合う)。
感動的なシーン(?)のはずだったが、私は感動しなかった。
私なら、こう思っただろう。
「このまま、そっと死なせてくれ」と。

 先に書いた父親と母親だが、ワイフが聞いたところによると、息子を忘れるため、アルバムさえ、すべて燃やしてしまったという。
私はこちらのほうが(現実)だと思う。
恋愛主義、セックス主義の若い人たちには、それが理解できないかもしれないが……。

 もちろんその逆もある。

●山城新吾

 少し前、俳優の山城新吾氏が亡くなった。
生前、山城新吾は、娘にだけは会いたがっていた。
が、娘は、それをがんとして拒否した。

 そのころ、つまり山城新吾氏が亡くなったころ書いた原稿に、こんなのがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「やさしさがないなとは思う」とは?

++++++++++++++++++

俳優の山城新伍が亡くなったことについて、
波紋が広がりつつある。
山城新伍のマネージャー氏は、次のように
語っている(ディリースポーツ・8月15日)。

++++++++++++++++++

『……山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。

 07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市内の老人ホームに入所。
その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の南夕花に連絡したが、花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという。

 その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしまったという。
S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした。

 生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。
このままひっそりとしてほしい。
人と接したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には会いたいなあ」とよくこぼしていたが、その願いはかなわなかった。

 なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が発起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお墓に分骨される……』と。

 この中でとくに気になったのは、『S雄さんは「優しさがないなとは思う。
わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした』という部分。
「S雄氏」というのは、山城新伍の弟氏をいう。

 何があったのか?
私たち部外者の知るところではないが、この記事からも、よほどの確執があったらしいことは、容易に察しがつく。
元妻ですら、「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らした』という。

 この記事を読んで、あなたなら、どう考えるだろうか?
弟のS雄氏のように、「優しさがない」と思うだろうか。
それとも別の考え方をするだろうか。

 こういうケースのばあい、まず念頭に置かねばならないことは、それぞれの家庭には、
言うに言われない複雑な事情があるということ。
表面的な部分だけをみて、それに自分の常識を当てはめて考えてはいけない。
どんなにあなたが社会経験が豊富で、常識豊かな人であっても、こと家庭の問題となると、
話は別。

 こうした問題で、安易にコメントを寄せる人というのは、それだけでノーブレインの人と考えてよい。
(S雄氏がそうであると言っているのではない。誤解のないように!)
いわんや、その家族のことを批判するのは、最小限にしたい。
元妻の花園さんについても、『……花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという』とある。

 問題は、そうした電話のやり取りを、だれが外部の人に漏らしたかである。
あるいはどうして私が知っているか、でもよい。
記事の内容からすると、マネージャー氏が、マスコミに暴露したと考えてよい。
となると、これまた背信行為ということになる。

 マネージャーという立場上、元妻や娘を批判したい気持ちはよくわかるが、一方的に、このような内容を暴露するのは、どうか?
たとえそうであっても、やはりこうした話は内々で伏せておくべきではないのか。
こんなことを暴露すれば、今度は、花園さんと弟氏の関係も、破壊されてしまう。
つまりこういうことが重なって、先の記事のような内容になったとも考えられる。

 「電話で怒鳴り散らした」とあるから、相当のわだかまりがあるとみてよい。
であるなら、なおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
何も、山城新伍の死を理由にして、ことを荒立てる必要はない。

(日本人は、葬儀という場面になると、どんな無礼なことをしても許されると考える傾向が強い。)

むしろ私も経験があるが、こうした事情をよく知らない人たちが勝手に騒ぎたてると、遺族はそれまで以上に、とことん傷つけられる。
それは身を引きちぎられるような苦痛と表現してもよい。

 恐らくディリースポーツのこの記事を読んで、花園さんや娘さんたちは、さらに激怒しているにちがいない。
傷口に塩を塗りこまれたような状態ではないか。

 私自身は、山城新伍が好きだったし、今も好きだ。
しかしそれはスクリーンを通してでの話。
もちろん実物の山城新伍を知らない。
知る必要もない。
興味もない。
元妻や娘さんに冷たくされたといって、それで私の山城新伍への気持ちが揺らぐわけではない。
どこの家にも、似たような話はある。
だったらなおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
静かに冥福を祈るだけである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アメリカ文化の侵襲

 ……かくして日本人の心の中に、今の今も、アメリカ文化が侵襲しつつある。
ありとあらゆるメディアを使って、侵襲しつつある。
それがよいものであれば、それはそれでよい。
しかしこと恋愛主義、セックス主義については、どこかでブレーキをかけないと、人間が本来的にもっている(まじめさ)まで、破壊されてしまう。

 (まじめさ)というのは、静かな牧歌的な温もりのある(まじめさ)をいう。
時間が今より、はるかにのんびりと流れていたころの(まじめさ)をいう。

私が子どものころには、恋愛といっても、そこにはいつも両親がいたし、親類、近所の人たちがいた。
そういう人たちに支えられて、恋愛というものがあった。
だから恋愛するにしても、そういう人たちの気持ちも考えて、恋愛した。
ここでいう(まじめさ)の中には、そういう人たちへの(思いやり)も含まれる。

 が、今は、ちがう。
若い人たちは、恋愛したとたん、両親はもちろん、親類、近所の人たちを蹴飛ばしてしまう。
「自分たちが幸福なら、それでいい」と。
その返す刀で、「息子や娘が幸福なら、親も喜ぶべき」と。
へたに異議を唱えようものなら、息子や娘のほうが、親を捨ててしまう。
先に書いた、父親と母親にしてもそうだ。
その結果の15年である。

 父親が死ぬ間際になって、のこのことやってきた息子。
それにおめおめと会う父親は、いない。
映画の中では、感動的なラスト・シーンということになる。
しかし映画は映画。
機関銃をバンバンと撃ち合う警官と銀行強盗。
映画の中ではおもしろいシーンだが、それと同じように、現実には、ありえない。

私「許すにも、時間がかかるよ」
ワ「そうね、会った瞬間に、許し合うということは、ありえないわよね」
私「それまでのわだかまりを溶かすというのは、容易なことではない」
ワ「……死ぬ間際だったら、余計に、無理でしょうね」
私「みんな、誤解していることがある。それはね……」と。

●死ぬ間際

 死ぬ間際に、人は、どんな心理状態になるか?

 数は多くないが、私も人に死に、何度か立ち会ってきた。
私自身も、そこに死を、直接感じたこともある。
そういうときの心理を、自分なりに解釈してみると、こうなる。

 死ぬ間際というのは、人はみな、心が抜けたような静けさと穏やかさを覚える。
私もそうだった。
ちょうど2年前、山荘の廊下で倒れたときがそうだった。
あれほどまでに死を恐れていた私だったが、こう感じた。
「ああ、これで死ねる」と。

その瞬間、うらみ、ねたみはもちろん、さみしさや孤独、さらには、家族や親類の人たちへの愛や思いまで、消える。
そこは恐ろしく何もない世界。
まったく何もない世界。

 そんな死の瞬間に、「父親と娘が抱き合って、許し合う」などということは、ありえない。
だから私は、先にこう書いた。
「映画は映画」、つまり作り話、と。

●12月30日、金曜日

 これから大掃除。
庭掃除。
正月の準備。
残すところ、今年も、あと1日。

 私の時間も、ここまで。
……ということで、今日もがんばる。

2011/12/30朝記

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 死の瞬間 臨終の心理 臨終の心理学)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                  
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

Monday, January 30, 2012

●はやし浩司 2012-01-31 今日で1月はおしまい!

【はやし浩司 2012-01-31】雑感・あれこれ

●BLOG(千葉県のE.H.氏より)

 BLOGへのアクセス数が、ふえている。
コメントもふえている。
もちろん辛らつなものも、ある。

 千葉県に住む、E.H.氏(たぶん、若い父親)からは、「呆」(「阿呆の呆」)と題して、つぎのようなものが届いている。

『老後の自分の面倒を見てもらう為に、愛情もない相手と結婚して、子供を作り、育てるって事ですかね。そんな世界で生きていて、なんの価値があるのでしょう。
世の中は地球規模で変化をし進化をしているのです。
夫婦、家族、恋愛... 全ての形が多様化しているのです。新旧色々あって良いじゃないですか。

結局、林先生は御自分の意見が正しいと思い切り主張していて、読んでいてがっかりです。
ちなみに私は、子供がどこでどんな生き方をしても良いと言える親をずっと目指します。
子供には子供の人生があるのですから。
それを家族崩壊とは思いません。

むしろ、親の面倒で子供を縛りつけている方が家族崩壊じゃないのですか?
親の近くにいようが遠くにいようが子供が良い人間で幸せなら、親としても幸せなはず。
林先生は子離れ出来ていないのですね。
そんなに親の面倒を子供が見るのが当たり前だと思うのなら、御自分のお子さんに『私の面倒をみろ』と、言ったら良いのに!

 千葉 E.H.より』と。

 ……ほかにも同氏より、5~6通、同じような内容のものが届いている。
「阿呆」という題名もすごいが、「愛情もない相手と結婚して……」と、我が家をのぞき知っているような内容が、恐ろしい。(ハハハ)


●養命酒(YOMEISHU)

 去年、オーストラリアへ行った。
そのとき、みやげに養命酒をもっていった。
が、これが大好評。
ワインには、ことさらうるさい南オーストラリア州の友人まで、「おいしい」と言った。

 ……ということで、数日前、私たちも養命酒を飲むことにした。
(本当は、衝動買い。)
が、私は、基本的には、酒は飲めない。
そういう体質だが、たしかに飲みやすい。
甘くて、おいしい。
そこで昨夜、それをグラスに一杯ほど、飲んだ。
……飲んでしまった。

 おかげで今朝は、軽い頭痛。
明らかに二日酔い。
起きるとすぐ、お湯をがぶ飲み。
今も、お茶をたてつづけに飲んでいる。


●友人のお嬢さんの結婚式

 今度、友人のお嬢さんが結婚することになった。
招待状が届いた。
2年前には、姉。
すばらしい結婚式だった。

そして今度は、妹さん。
赤ちゃんのときから、よく知っている。
2年前、友人と2人で、我が家へ来てくれた。

今のところ出席するつもりでいる。
しかし……、オーストラリアは遠い。
今回は、どうしようか?
日程の調整がむずかしい。
迷っている。
この1週間のうちに、結論を出さなければならない。


●今日で、1月も終わり

 今日は31日。
「もう31日か……」と思ったところで、思考停止。
ぼんやりと、外の明かりをながめる。
カーテン越しに、橙色の朝日が、部屋の中に注ぎ込んできた。

 今日も寒い1日に、なりそう。
……そんなことを考えていたら、庭でカラスが鳴いた。
スズメの餌をまいているが、最近は、カラスまでやってくるようになった。

 そう言えば、そろそろ畑づくりを始めなければならない。
春は近い。


●YOUTUBE

 先ほど、ビデオを4本、YOUTUBEにUPした。
が、これに30分ほど、時間がかかる。
(時間帯にもよるが……。)
しばし待つ……。

 チャンネル登録者が、30日ごとに集計される。
それを見ると、毎月、5~10人ずつ、ふえている。
現在、400人前後。
今朝も、アメリカの人が、チャンネル登録をしてくれた。
そのつど、メールでYOUTUBEから、連絡が入る。
プロフィールを見ると、22歳の女性。

 「この人も、日本語の勉強をしているのかな?」と、そんなことを考えた。


●義兄の息子

 先日、義兄と話していたら、こんなことを言った。

 息子氏が、社会人になったときのこと。
それまでは息子氏の部屋は、そのままにしておいた。
が、社会人になったということで、部屋を片づけた。
そのときのこと。

 古いパソコンや、引き出しの中から、その類の写真が、ごっそりと出てきたという。

 相手の女性は、下は中学生から、上は、40代のおばちゃんまで。
義兄は、こう言った。
「家内にも見せられない写真ばかり……」と。

 が、義兄は、そのことは息子氏には言わなかった。
一事が万事。
帰省するたびに、別の女性を連れてきたという。
旅行するたびに、別の女性を連れていったという。

 「浩司君なら、どうしますか?」と聞かれたので、「最近の若い人の行動は、私にも理解できません」と言って笑った。
笑ってごまかした。


●有料老人ホーム

 このところ各所の有料老人ホームから、案内書がよく届く。
昨日も届いていた。
どこかで私の住所と名前が、売買されているらしい。
が、選ぶ側としては、慎重にならざるをえない。
そこが「終の棲家(ついのすみか)」になる。

 有料老人ホームといっても、いろいろある。

 健常者が入居できるホームもあれば、要支援度、介護度がついた老人のみというホームもある。
さらに医療施設や、特養、さらにはレストランと連携しているホームもある。
当然、後者ほど、月額の費用も高額となる。
ワイフは、「家と土地を売れば、何とかなる」と言っている。
どこまでも楽天的。
私は私で、ピンコロを目標にしている。
どこまでも、悲観的。

 ……で、こうしてたまったパンフレットが、もう20通近くになる。
ワイフはそれをながめながら、どこか楽しそう。
私はそれをながめながら、頭の中で料金の計算ばかり。
この世の中、生きるのもたいへん。
死ぬのもたいへん。

 ……たった今、YOUTUBEへのUPが終了した。
もろもろの雑務をこなし、これから居間で運動。
一汗かいてくる。

 では、みなさん、おはようございます。
浜松の「アホウ」より。


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●リビドーvsサナトス

.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ     
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β     
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○   
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 1月 31日臨時号
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page015.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】2012年01月31日臨時号□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●寒い朝(12月27日)

++++++++++++++++++++

昨日、最後の歳暮の品を、発送した。
「最後」というのは、私はそれぞれの人に、
それぞれの歳暮の品を、送っている。
親類の人たちには、正月に口にしてもらえるのが、
いちばんよい。
そう考え、親類の人たちには、
いつもぎりぎりの年末に送っている。

今日は、12月27日。
火曜日。

昨日、日本列島は、今年いちばんの寒気に見舞われたとか。
この浜松市でもわずかだが、雪が降った。
寒いというより、冷たかった。
夕方、ワイフと市内のレストランへ行ったが、
肌が切れるような冷気を感じた。
そのころ気温は、2~3度ではなかったか。

++++++++++++++++++++

【リビドーvsサナトス】(創造vs破壊、生と死のはざまで……)

●心理学で考える、善と悪

●隕石

 昨日、子ども(中学生)たちと、隕石の話になった。
1人が、「2012年に、巨大な隕石が落下し、人類が滅亡するかもしれない」と言った。
それに答えて、ほかの子どもたちが、「おもしろい」とか、「○○国に落ちればいい」とか言った。

 「この日本に落ちるかもしれないよ」と私が言っても、本気にしない。
むしろ楽しみにしているような雰囲気さえある。
ことに深刻さが、まるでわかっていない。
が、こうした心理を、どう理解したらよいのか。
つまり危機的状況を、子どもたちは明らかに楽しんでいる。
こうした心理を、どう理解したらよいのか。

●死へのあこがれ(サナトス)

 フロイトは、「生への欲求」を、「リビドー」と定義した。
その「リビドー」に対して、人間には、「死への欲求」もあると説いた。
「死への欲求」を、「サナトス」という。

 ここでいう「サナトス」とは、自己に向かう破滅的な力を、総称していう。
必ずしも「死」もしくは、「自殺」を意味するのではない。
当然のことである。

 この2つの相反した欲求が、人間の中で、同時に起こる。
「生」と「破滅」。
このことは、年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる。
生命力(=リビドー)そのものが弱くなり、その陰から破滅的なエネルギーが顔を出してくる。
つまり(リビドー)を、生産的な生命力とするなら、(サナトス)は、破滅的な破壊力ということになる。

●創造vs破壊

 誤解してはいけないのは、(サナトス)自体が、エネルギーであるということ。
虚無的になり、逃避し、その結果として「死にたい」というのとは、中身がちがう。
ちがうことは、子どもたちの世界をのぞいてみると、わかる。

 たとえば子どもたちと、ドミノ倒しをしたとする。
ドミノを順に並べ、あとでそれを倒す。
(積み木遊びでも、何でもよい。)

 すると子どもたちの心理が、(リビドー)と(サナトス)の間で、はげしく揺れ動いているのがわかる。
「長く並べたい」という思いは、創造性によるものと考えられる。
「早く倒してみたい」という思いは、破壊性によるものと考えられる。
この両者が、交互に顔を出し、子どもたちの行動を裏から操る。

●フロイト

 フロイトの理論でたいへん興味深いのは、つぎの点である。
フロイトは、ひとつの心理状態があるとすると、他方に、それと相反する心理状態があると考える。
こうした相反する心理状態を、フロイトは、「アンビバレンツ」と名づけた。

 このことは、交感神経と副交感神経に結びつけて考えてみると、わかりやすい。
人間の脳の命令は、つねに(プラス)と(マイナス)が、同時に働く。
「動け」という命令に対して、「止まれ」という命令。
どちらか一方が強すぎると、行動はちぐはぐなものとなる。
つまりこの両者が、バランスよく働いたとき、人間の行動はスムーズなものとなる。

 人間の心理にも、同じように考えることができる。

●プラス型vsマイナス型

 幼児に接していると、常に(プラス型)と(マイナス型)があるのがわかる。
たとえば同じ赤ちゃん返りという現象にしても、下の子ども(弟、妹)に対して攻撃的になるケースがある。
嫉妬がからんでいる分だけ、執拗かつ陰湿になりやすい。
反対に、ネチネチと甘ったるい言い方をし、赤ちゃんぽく演ずることによって、親の関心をひこうとするケースもある。
5、6歳児になって、とつぜん、おもらしをしたりするなど。
(この両者の混在型もあるが……。)

 フロイトも、たぶん、同じような現象をどこかで見たにちがいない。
「生きたい」という欲求があるなら、当然、「死にたい」という欲求もあるはず。
フロイトがそう考えたところで、何もおかしくない。

●バランス

 要はバランスの問題ということになる。
そのバランスをうまくコントロールしながら、良好な人間関係を保つ。
そのコントロールする力が、「理性」ということになる。
またそれができる人のことを、人格の完成度の高い人という。
ピーター・サロベイのIQ論を引き合いに出すまでもない。

 最初の話に戻る。

 子ども(中学生)たちは、隕石の話をしながら、「そうであってはいけない」という思いと、「そうあってほしい」という思いの中で、揺れ動く。
が、子どもたちであっても、そこに理性の力が働く。
「そうであってほしい」という思いは、冗談として、脳の中で処理される。

 もっとわかりやすい例としては、銀行強盗がある。
私もよく夢想する。
「どうすれば、うまく強盗ができるか」と。
そのときも、「やってみたい」という気持ちと、「やってはだめだ」という気持ちが、同時に働く。
しかし実際に、行動に移すことはない。
脳の中で、強いブレーキが働く。
それが「理性の力」ということになる。

●距離感

 こう考えていくと、では「理性の力」とは、何かということになる。
もちろん程度の差がある。
力の強い人もいれば、そうでない人もいる。
そこでその程度を決めるのが、「距離感」ということになる。

 先に銀行強盗の例をあげた。
わかりやすいから、銀行強盗にした。

 その銀行強盗。
「一度、危険を犯せば、一生、楽な生活ができる」というのは、たしかに魅力的に聞こえる。
あとは遊んで暮らせる。
(もちろん失敗すれば、一生、刑務所の中で過ごすことになるが……。)
だれかが、「おい、林、一度してみないか?」と言ったとする。
そのとき、私は、それをどう思うだろうか。

 ……そこでこう考える。
銀行強盗をするにも、銀行強盗から遠い距離にいる人がいる。
頭の中で空想することはあっても、「実行」ということは、まったく考えない。
が、ひょっとしたら、何かのきっかけさえあれば、「実行」を考える人もいるかもしれない。
このタイプの人は、それだけ銀行強盗に近い距離にいるということになる。
つまりこの「距離感」をつくる力こそが、「理性の力」ということになる。

(私は映画が好きだから、よく映画のシナリオを自分で考える。
そのひとつとして、銀行強盗を頭の中で夢想する。
どうか誤解のないように!)

●サナトス

 さらに踏み込んで考えてみよう。

 フロイトの理論に従えば、リビドーの強い人は、当然、サナトスも強いということになる。
反対にリビドーの弱い人は、当然、サナトスも弱いということになる。

「生きよう」という力の強い人であれば、お金に困れば、銀行強盗を、より強く考えるかもしれない。
反対に、もとから「生きよう」とする力の弱い人であれば、銀行強盗を考える力も弱いということになる。

 つまり「銀行強盗を考えない」からといって、理性の力が強いということにはならない。
もとから生きる力の弱い人は、銀行強盗をしようという気力も弱い。

●善人論vs悪人論

 このことはそのまま、善人論、悪人論に結びつく。

 よいことをするから、善人というわけではない。
(善人の仮面をかぶり、悪いことをしている人はいくらでもいるぞ!)
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
(小さな世界で、小さく生きている人は、いくらでもいるぞ!)
善人が善人であるためには、そこにある「悪」と積極に闘わねばならない。
その積極性のある人を、「善人」という。

 つまり「生きる力(リビドー)」の強い人は、「死にたいという力(このばあいは、破滅的な力)」も、同時に強いとことになる。
言い換えると、その分だけ、「理性の力」も、強くなければならない。
もし生きる力だけが強く、理性の力が伴わなければ、その力は破滅的な方向に向かってしまう。
生きる力が強い人は、それだけ悪に手を染めやすいということにもなる。

●バランス感覚

 そこで重要なのが、バランス感覚。

 私たちは、(生きたいという力)と、(死にたいという力)、
(創造したいという願望)と、(破壊したいという願望)、
さらに言えば、(善)と(悪)。
その相反するエネルギーの中で、絶妙なバランスを保ちながら生きている。
このバランスが崩れたとき、悪人は悪人になる。
行動が破滅的になり、それがときとして自分に向かう。

 さて、本論。

●老人論

 私は先に、こう書いた。
「年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる」と。
その理由は、年を取ると、生きる力が弱くなる。
そのためそれまで姿を隠していた、サナトスが、姿を現すようになる。
現在の「私」についてではなく、過去の「私」について、である。

 その点、子ども(中学生)たちは、正直に自分を表現する。
自分を隠さない。
しかし同時に、それは私自身の過去の姿でもある。
私も心のどこかで、こう思ったことがある。
「隕石か何か落ちてきて、地球なんか、木っ端微塵に壊れてしまえばいい」と。

 実のところ、最近でもときどきそう思う。
そういう自分が、よく見えるようになる。

●善人vs悪人

 ……こうして考えていくと、結論はただひとつ。
善人も悪人も、違いは、紙一重。
ついでに言えば、成功者も失敗者も、違いは、紙一重。
見た目には大きな違いに見えても、紙一重、と。

 被災地で被災者のために懸命に働く人を、私たちは善人と言う。
隕石の落下を望むような人を、私たちは悪人と言う。
が、そのちがいは何かと言えば、その間には、何もない。
ちょっとしたきっかけで、善人は悪人になる。
悪人は善人になる。

 善人の裏には悪がある。
悪人の裏には善がある。
善だけの善人はいない。
悪だけの悪人はいない。

 ではそのちがいは何かと言えば、「理性の力」ということになる。

 そのきっかけを、どう作っていくかが、結局は「教育」ということになる。
先に書いた「距離感」を作っていくのが、「教育」ということになる。

 今朝は、善と悪について、心理学の立場で考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 リビドー サナトス 善人論 悪人論 善と悪 距離感 はやし浩司 心理学 善と悪)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以下、2006年にBLOGで発表した原稿です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【善と悪】(2006-04-28記)
 
●昆虫のような脳みそ

+++++++++++++++++

「昆虫のような脳みそ」と書いたことに
ついて、コメントの書きこみがあった。

「お前は、いったい、何様のつもり?」と。

+++++++++++++++++

 「昆虫のような脳みそ」という言葉を使ったことに対して、コメントの書きこみがあった。「お前は、いったい、何様のつもり?」と。

 たしかに辛(しん)らつな言葉である。私も最初聞いたとき、そう思った。恩師のT教授が、いつも口ぐせのように使っている言葉である。いつの間にか、私も、そのまま使うようになってしまった。しかし、私にも、言い分がある。

 いつだったか、私は、善と悪は、平等ではないと書いた。西欧社会では、『善は神の左手、悪は神の右手』と説く。しかし平等ではない。

 善人になるのは、意外と簡単なことである。約束を守る、ウソをつかない。この2つさえ守れば、どんな人でも、やがて善人になれる。

 しかし自分の中に潜む悪を、自分から追い出すことは、容易なことではない。とくに乳幼児期までに心にしみついた悪を追い出すことは、容易なことではない。生涯にわたって、その人の心の奥底に潜む。

 それについては、以前に書いたので、ここでは、そのつぎを考えてみたい。

 仮にここに10人の人がいたとする。が、そのうちの9人が善人でも、1人が悪人だったとする。数の上では善人のほうが、多いということになる。が、やがてその9人は、1人の悪人に、翻弄(ほんろう)されるようになる。最悪のばあいには、9人の善人たちは、たった1人の悪人の支配下に置かれるようになるかもしれない。

 悪のもつパワーには、ものすごいものがある。一方、善の力は、弱い。善人たちが集まって考えた、社会のルールやマナーが、少人数の悪人によって、こなごなに破壊されるということも、珍しくない。

 この点でも、善と悪は、平等ではない。

 恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」という言葉を使う背景には、もつろん軽蔑の念もある。しかしそれ以上に、いつも私は、そこに怒りの念がこめられているのを感ずる。「せっかく知的な世界を作ろうとしているのに、昆虫のような脳みそをもった連中が、それを容赦なくこわしてしまう」と。

 T教授は、あの東大紛争(1970)を経験している。T教授の理学部研究室は、その東大紛争の拠点となった安田講堂の向かってすぐ右側裏手にあった。そのため、T教授の研究室は、爆弾でも落とされたかのように、破壊されてしまった。うらみは大きい。日ごろは穏やかな恩師だが、こと学生運動については、手きびしい。「昆虫のような脳みそ」という言葉は、そういうところから生まれた(?)。

 「私は善人である」と、自分を悪人の世界から分けて考えることは、簡単なこと。悪いことをしないから、善人というわけでもない。よいことをするから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は、善人になれる。

 その(戦う)という部分に、この言葉がある。「昆虫のような脳みそ」と。「サルのような脳みそ」という言葉もある。そういえば数年前にベストセラーになった本に、「ケータイをもったサル」というタイトルのもあった。

 あえて言うなら、「昆虫のような脳みそ」というのは、「バカの脳みそ」ということになる。しかし誤解しないでほしい。「バカなことをする人を、バカ」(「フォレスト・ガンプ」)という。知的な能力をさして言うのではない。恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」と言うときは、「せっかくすばらしい能力をもちながらも、その能力を、悪のために使ってしまう人」を意味する。

 だから何も遠慮することはない。この言葉は、堂々と使えばよい。昆虫のような脳みそをもった人たちを見たら、そう言えばよい。何も善人が、遠慮して生きる必要はない。遠慮したとたん、私たちは、その悪人の餌食(えじき)になる。

 このエッセーが、そのコメントを書いてきた人への、反論ということになる。(コメントそのものは、即、削除してしまったが……。)

 で、私が何様のつもりかって? ハハハ、見たとおりの、ただのドンキホーテ。セルバンテスの男。ハハハ。

++++++++++++++++++

4年前に書いた原稿を、ここに添付します。

++++++++++++++++++

●善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。
(02-10-25)※

++++++++++++++++++++

●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をいう。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこに小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。

 いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)をここに転載する。

++++++++++++++++++++

●四割の善と、四割の悪
(以前、掲載したのと同じ原稿です。お許しください。)

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。

問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)

 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「子どもたちへ」より)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司






Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●数遊び

今日のテーマは、数遊び。
年中児(4~5歳児)のみなさんです。
数をテーマに、子どもの脳をいろいろな角度から、刺激してみました。


(1)


(2)


(3)


(4)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司


【2011年の終わりに】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日が仕事納め】(明日から、冬休み!)

●サイゼリアで夕食(12月27日)

 夜のクラスまでに、1時間半の空きができた。
ワイフと2人で、サイゼリア(レストラン)へ行った。
夕食をとり、1時間ほど、そこで過ごした。

 教室の外へ出ると、身を切るような冷気を感じた。
寒かった。

●正月の予定

 正月の予定は、とくになし。
温泉地も、この時期はどこも満員。
料金も高い。
だから例年、私たちは静かにしている。
たぶん、今年も、そうなるだろう。

 初詣なるものは、この数年、していない。
が、初詣の先取りというのは、している。
12月の終わりに、近くの神社へ行く。

人ごみが平気な人もいる。
そうでない人もいる。
が、私は基本的には、人ごみが苦手。
落ち着かない。
だから先取り。

「今年もよろしく」ではなく、「来年もよろしく」と。
いつもそう祈念する。

●年賀状

 「年賀状はどうするの?」とワイフ。
「明日、書くよ」と私。

 昔は手書きで、1週間仕事だった。
今は、プリンターを操作するだけ。
片手間で、できる。
楽になった。
が、同時に、ありがたみが消えた。

 それもあって、数年前、年賀状廃止宣言なるものをした。
が、それでも(人とのつながり)は、残る。
この1、2年、逆戻り。
出す枚数が、ふえてきた。

 ここは自然体で考えるしかない。
なりゆきに任せる。
それが(人生の流れ)。

●保安院

 今日のニュース。
保安院が、東京電力に対して、厳重注意をしたという。
東京電力の(いいかげんさ)を、問題にしたらしい。
が、そんなことは、当初から、わかっていたこと。
3・11大震災から、すでに9か月もたっている。
どうして、今ごろ?

 私たち一般庶民の目から見ると、保安院も東京電力も同じ。
同じ穴のムジナ。
当初はその両方が、肩を並べて、記者会見に臨んでいた。

●計画停電→料金値上げ→国有化

 3・11大震災直後、東京電力は「計画停電」なるものを、実施した。
「私たちをいじめると、停電しますよ」と。
が、そのあと、電力が不足したという事実は、まったくない。
そこであの手、この手を使って、「国」から金(マネー)を出させようとした。
が、それがうまくいかないとわかると、今度は、「料金の値上げ」という言葉を使うようになった。
「私たちをいじめると、料金を値上げしますよ」と。

 幼稚な心理。
 幼稚な発想。
 幼稚な脅迫。

 そこで政府は、伝家の宝刀を抜いた。
「国有化するぞ」と。
逆に東京電力を脅した。

 が、その前に、責任問題を明確にしてほしい。
これだけの被害を出しながら、責任者がいないでは、すまされない。
東京電力はすでに、こう言って、防波堤を立てている。

「私たちは国の基準に従い、許可を得てやっている(つまり責任はない)」
「私たちは国の指示通りに、行動している(つまり責任はない)」と。

 どこまでも狡猾(こうかつ)な東京電力。

●北朝鮮と天皇制

 だれもが、そこまでわかっている。
知っている。
しかしそれを口に出して言うことは、この日本では、タブー。

 北朝鮮の新しい指導者は、金正恩。
その金正恩……。

独裁制がおかしい?
世襲制がおかしい?
偶像化がおかしい?
権威化がおかしい?

 が、私たち日本人は、それを声に出して言うことができない。
言えば、日本という国自体が、自己矛盾の世界に落ち込んでしまう。
北朝鮮という国は、皮肉なことに、戦前、戦時中の日本とそっくり。
日本以上に、日本的?

 私が子どものときでさえ、(戦後、10年近くもたってのことだったが)、「天皇」と呼び捨てにしただけで、父に殴られた。
「陛下と言え!」と。

 「日本と北朝鮮は違う」と主張する人も多い。
しかしどこがどう違うのか?
それをきちんと説明できる人はいるのだろうか。

 日本に言論の自由があるというのは、ウソ。
言論の自由度にしても、日本は、178か国中、11位(国境なき記者団2010)。
順だけをみれば、まずまず。
が、皇室問題に関しては、どうか?

男系男子?
賛成、反対?
男はよい?
女はダメ?

 今どき、こんなアホなことを議論している国は、そうはない。
……おっと、口がすべった。
日本の言論の自由も、ここまで。
この程度。

●北朝鮮を支持?

 中国が北朝鮮支持の姿勢を、鮮明にし始めた。
が、こんなことは、最初からわかっていたこと。
6か国協議が始まったときから、私はこう書いてきた。
「茶番劇」と。
「泥棒に、泥棒の管理を任せるようなもの」とも。

 その結果が、今。

 が、いつか必ず、現在の歴史を振り返るときがやってくる。
そのとき、恥をかくのは、中国。
現在の今の今も、政治犯収容所には、約20万人もの人が収容されているという。
「10年もたたずして、みな死んでいく」(脱北者証言)とも。
単純に計算すれば、1年で、2万人。
50年で、100万人。
あるいはそれ以上。

 現在の悲惨な状況は、やがて明るみになる。
そのとき中国は、現在の中国を、どう弁解するつもりなのか。

●「窮乏者の年末」

 数日前、どこかの新聞社が、こんな社説を載せていた。
題して「窮乏者の年末」(仮称)。

 記事は読まなかった。
読むまでもなかった。
現在、「どうやって年越しをしたらいいのか」と、困っている人は多い。
お金がなくて、途方に暮れている人は多い。
そういう人たちへの、励ましの記事。
表題だけで、中身がわかった。
が、ここでパラドックス。

 そういう人たちは、新聞代を払うお金もない。
つまり新聞を読まない。
読まない人に向かって、「がんばれ」と励ましても、意味がない。

 貧乏の恐ろしさは、それを体験したものでないと、わからない。
まさに精神の拷問。
長くつづくと、心そのものが腐る。

●リビドーvsサナトス

 昨日、善悪論を、心理学の世界で考えてみた。
15枚ほど原稿を書いた。
が、どうもうまく、まとめることができなかった。
そのことを、夕食をとりながら、ワイフに話した。

 要するに、生命力が強い人ほど、同時に、破壊力も強いということ。
フロイトは、生命力を「リビドー」、破壊力を「サナトス」と呼んだ。
人は、この2つの力を、同時にもっている。
つまり飛躍した意見に聞こえるかもしれないが、こういうこと。
善への志向性が強い人ほど、悪への志向性が強いということ。

 で、それをコントロールする力が、「理性」ということになる。
が、この理性ほどアテにならないものはない。
そこで釈迦は、「精進」という言葉を使った。
正しくは「正精進」。
つまり「中正かつ公正な精進」。
この場合の「正」は、「ごくふつうの」という意味。
わかりやすく言えば、「人が総じてもっている常識的な」という意味。

 その常識を日々に、研さんし、磨く。
それが正精進。
それがないと、人は偏(かたよ)ったものの考え方をするようになる。
これが理性のコントロールを狂わせる。

●最後の一仕事

 今年も、残すところ、あと1クラス。
それが終われば、冬休み。
帰りにワイフと打ち上げ会。
毎年、そうしている。

 ……今年も、いろいろあった。
本当に、いろいろあった。
その「いろいろ」という言葉の中に、ぎっしりと思い出が詰まっている。
が、こうして無事、年を越せることに感謝する。
大きな病気は、しなかった。
みな、健康だった。
来年(2012年)も、現状維持。
それを目標に、がんばる。
がんばるしかない。

 さあ、これから教室に戻り、一仕事。

(以上、市内、サイゼリアにて、はやし浩司 2011-12-27夕方記)

Sunday, January 29, 2012

●健康的優越感(当てこすり)

【健康的優越感について】「明日は我が身」の健康論

●貧者の暖房法

 朝、起きる。
すぐウォーキングマシンに乗る。
30分、歩く。
時速は6キロ。
20分を過ぎたところで、汗が流れ始める。
ときどき、駆け足を混ぜる。
呼吸が激しくなる。
あと5分……
あと2分……
あと1分……
ピーと合図音が鳴って、マシンは停止。
タオルで顔をぬぐう。
体を乾かす。
服を着る。
ワイフが用意してくれた緑茶をググーッと飲む。

 気温は5度。
しかし暑い!

 これ称して、「貧者の暖房法」。

●ある老人

 昨日、ある老人ホームで、1人の老人と話をした。
付属のレストランで、横に並んだ。
年齢は75歳と言ったが、「???」。
何を言っているか、さっぱり理解できなかった。

「ここに住んで、何年になりますか」と私。

「……オラ、エエと、……モゾモゾ……ブツブツ……」と。

 脳梗塞か何かで、脳にダメージを受けているらしい。
見た感じでは若く、肌もツヤツヤとしていた。
質問をすれば何かを答えてはくれるが、意味がわからない。

 75歳といえば、11年後。
が、本当に75歳だったかどうかは、疑わしい。
ワイフは、「70歳くらいじゃない?」と言った。
私には、私と同年齢の、64歳に見えた。

●健康優越感

 そのときふと、私の心の中を、不愉快な感覚が横切るのを感じた。
優越感である。
「私は健康である」という優越感。
低劣な自己満足。
それが心の中を横切るのを感じた。

 といっても、それがわかるようになったのは、ごく最近のこと。
私の知人の中には、自分が健康であることを、ことさら自慢する人がいる。
健康であることに感謝するのはよい。
が、その返す刀で、相手に向かって、あれこれと説教を始める。
そのとき、先に書いた「不愉快な感覚」に襲われる。

私「最近、どうも体の調子が悪くてね」
男「ぼくは、平気だよ。毎朝、近くの湖を一周しているよ」
私「睡眠調整に、苦労することもある」
男「快眠、快便……これがぼくの健康法でね。今のところ、快眠、快便だよ、ぼくは……」
私「無理ができない体になった」
男「林君も、毎朝、ジョギングをしたらどうかね」と。

●明日の私の姿

 相手は、そう言いながら、自分が健康であることを自慢する。
同時に、私に対して、優越感を覚える。
そのときの雰囲気から、それがよくわかる。
相手はそれでよいとしても、言われた私のほうは、イヤ~ナ気分になる。
そのイヤ~ナ気分が、裏返しとなって、私の心の中を、横切る。
先に書いた「不愉快な感覚が横切るのを感じた」というのは、それをいう。

 だから……。
こと健康に関しては、優越感など、もたないほうがよい。
もてばもつほど、逆の立場に立たされたとき、その何倍も、苦しむ。
そうでなくても、私たちの健康は、加齢とともに、不可逆的に後退する。
老人ホームで会った男性にしても、それはまさに、「明日は我が身」。

●腹筋運動

 そのことを今朝、朝食のときにワイフに話すと、ワイフがこう言った。
「そう言えば、あのXXさん、あの人も、そうね」と。

 XXさん……私とほぼ同年齢。
知りあって、もう30年になる。
が、若いときから、自分の健康を自慢している。
あるときは、私に腹筋運動をさせた。
まっすぐ上を向いた状態で寝て、上半身を上に起こすという運動である。
「やってみなさい」と言うから、やってみせた。

 そのときXXさんは、私がそれをできないと思ったらしい。
が、私は軽々と、それをやってみせた。
10回、20回……。
腹筋は、自転車で鍛えてある。

 XXさんは、「ありえない」という顔をして、驚いていた。
「すごいですね」と、何度も言った。

で、つぎに今度は、自分でそれをしてみせた。
毎日鍛えているらしく、私より軽々と、それをしてみせた。
つまりXXさんは、それを自慢したくて、先に、私に腹筋運動をさせた(?)。
イヤ~ナ性格。
しばらくして、それがわかった。

私「そうなんだよな、あの人。会うたびに健康の話をする」
ワ「毎朝、3~4キロは、走っているそうよ」
私「それはその人の勝手だけど、だからといって、そうでない人を下に見てはいけないよ」
ワ「そうね」と。

 私の年齢になると、そういうイヤ~ナ人が、ふえてくる。
それとなく自分の健康を、自慢する。
そういうとき私はすかさず、こう思う。
「だから、それがどうしたの?」と。

 それは金持ちが、金をもっていることを自慢するのに、似ている。
あるいはもしあなたの隣人が、あなたにこう言ったとしたら、あなたはどう感ずるだろうか。

「私ね、宝くじで1億円を当てましたよ。それにねFX取り引きで、1億円。この年末だけで、2億円儲けましたよ」と。

 あなたはイヤ~ナ気分に襲われるはず。
明日の生活費に困っているなら、なおさら。
少しでも分けてもらえるなら、話は別。
しかしそうでないなら、あなたはこう思うだろう。
「だから、それがどうしたの?」と。

●不愉快な感覚

 健康であっても、また健康でなくても、それは個人の話。
中には、会うたびに自分の病気の話をする人もいる。
相手の同情を買うために、である。

 これもまた不愉快。
そのつど、別の同情のし方を考えなければならない。
が、それでもわからなければ、こんな会話を想像してみればよい。
あなたが、がんか梗塞か、何かの大病になったとする。
そのとき……。

私「私ね、先月、心筋梗塞で入院しました。近くバイパス手術を受けます」
相「私は健康です。昨日もプールで、2000メートル泳いできました」と。

 あなたは自分の病気のことを話したのを、後悔するはず。

 つまりこれが冒頭に書いた、「不愉快な感覚」ということになる。
言い換えると、健康的優越感など、そこらの成り金男が感ずる優越感と同じ。

人間に優劣はない。
命にも優劣はない。
健康にも優劣はない。
が、ふと油断すると、その優越感を覚えてしまう。
それがイヤ~ナ気分を引き起こす。

 ……ということで、あなたの周囲にも、1人や2人、このタイプの人がいるはず。
健康であることを、それとなく自慢する人。
長寿であることを、それとなく自慢する人。
中には、婿や嫁、さらには孫に囲まれ幸福そうな写真を送ってくる人もいる。
(そう言えば、今年の年賀状の中には、そういう年賀状があったぞ!)

気持ちはわかるが、世の中には、そうでない人も、多い。
そうでない人にとっては、そういう自慢たらしい行為は、ただの当てこすりでしかない。
そういう当てこすりが平気でできる人というのは、そのレベルの人。
成り金が、札束の上に座った自分の写真を見せびらかすのと、どこもちがわない。
あるいはどこがどうちがうというのか。

 ……というのは、私のひがみかもしれない。
しかし、健康的優越感などというものは、早晩、かならず崩壊する。
今は健康でも、いつまでもそれがつづくとは、かぎらない。

●有料老人ホーム

 有料老人ホームを出たあと、私とワイフはそのあたりを歩いてみた。
まだのどかな田園風景が、あちこちに残っていた。

私「そのうち、いっしょに、ここに入ろうか」
ワ「ここなら、私もいいわ」と。

 ただし……有料といっても、要支援度、もしくは介護度がつかないと入居できない。

私「あえて介護度をつけてもらうのもどうかと思うし……」
ワ「できるだけ、あとにしたいわね」と。

 みなさんも、そういった老人を見かけたら、こう思ったらよい。
「明日は、我が身」と。
とたん、おかしな健康的優越感は、吹き飛んでしまうはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 健康論 健康的優越感 低劣な優越感 はやし浩司 優越感 低劣性)2012/01/30記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
 

●ハッサクの収穫

●私の生存哲学byはやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨日、2つの同窓会をキャンセルした。
ホテルも予約していたが、同じくキャンセルした。
理由はそれぞれあるが、このところ何かと無理ができない。
自分の体力の限界を感ずるようになった。
そのときはよくても、疲れが、あとになってドッと出る。
それに今年は、インフルエンザの予防接種をするのを忘れた。
本当は忘れたわけではなく、医院へ行くのが遅すぎた。
「在庫はもうありません」と。
それを知りワイフは、こう言った。
「だから、早く行きなさいと、あれだけ言ったのに……」と。

重要な講演がつづく。
「風邪をひきました」という言い訳は、この世界では通用しない。
講演のキャンセルは、ぜったいに許されない。
コロリと死ねば、それなりの言い訳が立つが、そうでないかぎり無理。
……ということで、季節がら、大事を取ることにした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「日本海」の呼称問題

 今朝は、日本海の呼称問題で、頭が熱くなった。
一気に原稿をまとめた。
英文でも書いた。
一部は、オーストラリアの友人に校閲してもらった。

 総じてみれば、日本人は、おとなしすぎる。
プラス、お人好しすぎる。
豆腐型人間ばかり(失礼!)。
一億、自信喪失状態。
が、それとこれは、話は別。
言うべきことは言おうではないか。
やるべきことは、やろうではないか。

●ギリシア問題

 ギリシアの金融危機問題は、2転3転、……さらに4転、5転。
「来週中(1月30日~2月3日)には、解決する」(Bloomberg)と、ベニゼロス財務省(ギリシア)は言っている。
が、どうかな?

 ギリシアの金融危機は、第二次支援策に向け、この2、3か月で、さらに100億ユーロ近くも悪化している。

 そこでドイツは、ギリシアの財政政策に対し、露骨な介入策を提示している。
わかりやすく言えば、「ドイツの言うことを聞かなければ、これ以上、金は貸さない」と。

ブルームバーグは、つぎのように報道している。

『……ユーロ圏の当局者2人が明らかにしたところによると、ギリシャへの第2次支援策の条件として、欧州当局者はギリシャの予算決定に直接介入する計画について議論している。

  ギリシャ当局者は28日、同国政府が国家主権に反するとして、計画を拒否したと語った』と。

 ドイツ(欧州当局者)の言い分も当然だが、ギリシアの言い分も、これまた当然。
両者が、真正面から対立している。
たとえ両者が合意に達したとしても、すでにギリシアはデフォルト(債務超過)している。
「借金の棒引き」という事実そのものが、デフォルト。
が、本当の問題は、そのつぎ。
「ネクスト」。
つぎは、この日本!

●日本の金融危機

 今や、「円資産」は、風前の灯火。
これもわかりやすく言えば、円という札束が、紙くずになる。
もうメチャメチャ。
社会保障費にしても、消費税の利率アップを前提に、予算が組まれている。
(まだ利率アップは、決まったわけではない!)

 本来なら、つまり現金がないなら、人件費をカットし、支出を減らす。
が、そういうこと(=行政改革)には、いっさい手をつけず、増税だけでこの危機を乗り切ろうとしている。
その額、1000兆円。

 貿易収支は赤字。
工場はどこも青息吐息。
労働者は減少。
景気はどん底。
手取り給料の減少。
土地価格も、現在、下落中。

 今までの予測では、円は一時的に急速に円高に向かったあと、今度はドスンと円安に向かうと考えられていた。
が、最近の予測では、その中間部分が省略され、ドスンと円安に向かうかもしれないという。
つまり今が、円高の頂点。

 常識で考えても、1000兆円などという借金、返せるわけがない。
国民(1億人として)、1人あたり、1000万円!
4人家族で、4000万円!
みなが「円はあぶない」と思ったその瞬間、日本の経済は、破綻する。

●「みんなで渡れば、恐くない」

 が、日本人というのは、たいへん興味深い。
「何とかなる」「私だけではない」という論理だけで、動こうともしない。
「みんなで渡れば、恐くない」と。
集団帰属性が、きわめて強い。
言い換えると、個人プレーが苦手。

 今の今でさえ、「国が何とかしてくれる」とか、「国がつぶれるはずがない」とか、これまたのんきの、のん平。
仕事にしても、どこかにぶらさがることばかり、考えている。
社会のシステムそのものが、そうなっている。
この日本ほど、個人が生きにくい国は、そうはない。
個人で生きることすら、許さない。
たとえば税の使われ方ひとつ取りあげても、それがわかる。

 自治体は、組織を援助する。
たとえば幼稚園や保育園という組織。
園児1人あたりいくら……というようにして、組織(幼稚園や保育園)を援助する。

 一方、欧米では、子ども1人あたりいくら……というようにして、子どもをもつ親を援助する。
親に直接、現金を渡す。
親は、そのお金を手にして、幼稚園を選ぶ。
学校を選ぶ。
だから教える側のきびしさそのものが、ちがう。
へたな教え方をしていたら、そのままつぶれてしまう。

 大学生にしても、そうだ。
大学生は、1単位いくら……というように、自分でお金を出して、講座を買う。
だから欧米の大学では、スクラップ&ビルド(学部、学科の新生、廃止)は、日常茶飯事。
学ぶ側も真剣なら、教える側も真剣。
「個人」として生きる、生き様が確立している。
社会のシステムも、その「個人」を基本としている。

 田丸謙二先生(東大元副総長)が、こう話してくれた。

「向こう(アメリカ)の教授などは、2、3度、リハーサルしてから講義に臨んでいる。
休み時間になると、教授室の前には、ズラリと学生が並ぶ。
日本では、ぜったいに見られない光景だよ」と。

 これでわかったかな?
日本がもつ異常性。

●では、どうするか?

 「個人の資産は、(あればの話だが……)、自分で考え、自分で守れ」(カイル・バス氏・日経新聞)と。
「みなのあとをついていくのは、危険」とも。
さらに「政府の言うことを信ずるな」とも述べている。

 すでに世界中のヘッジ・ファンドは、日本の金利上昇、円安を見越した動きに出ているという。
「可能性の問題ではなく、時間の問題」(経済各誌)だ、そうだ。
しかも恐ろしいことに、先に延びれば延びるほど、被害が大きくなるということらしい。

 ……つい先日、アメリカ政府は、現在の超低金利政策を最低でも2年延長すると発表した。
そのためドル安、金(ゴールド)高、それに円高がつづいている。
わかりやすく言えば、アメリカはなりふり構わず、自国防衛に打って出た。
その結果、世界は、どうなるか。

アメリカも深い傷を負うが、そのためユーロが崩壊すれば、再びドルが、世界の基軸通貨として、躍り出ることができる。
日本の産業を吸収することもできる。
そのうち日本を走るTOYOTA車は、みな、アメリカ製になる。
アメリカは10年後のアメリカをすでに計画している。

 私たちはそういう世界の流れを読みながら、ささやかな資産を、自分で守るしかない。
まさに個人としての思考力が試されるときがやってきた。

●山荘にて

 昨夜(1/28)、山荘に一泊した。
朝になり、ハッサクの収穫をした。
ダンボール箱に3箱収穫したところで、終了。
つぎは、また来週。

 で、その帰り道。
近くの有料老人ホームをたずねてみた。
月額1人、18万円前後で入居できるという。
夫婦2人で、36万円。
年額にして、430万円。
いろいろ説明を聞いていると、女性が、こう言った。
「で、どなたが希望なさいますか?」と。
すかさず、「私ですよ」と答えたら、こう言った。

「冗談、言わないでください。あなたはまだ、入れません」と。

 私はどこへ行っても、若く見られる。
50代半ば?
本当は64歳。
あと5~6年で、入居しなければならなくなるかもしれない。
が、そのとき、今の料金で入居できるかどうかは、わからない。
……というより、不可能。

 老人はますますふえる。
もうすぐこの日本を、ハイパーインフレが襲う。
先ごろ「年収500万円以上になると、年金が減額される」という法案が、国会を通過した。
500万円?
ハイパーインフレが日本を襲うと、「タクシーの初乗りが、1万円になる」(経済各誌)と言われている。
大卒の初任給が、800万円?
もちろん大根1本が、2万円!
そんな時代に、500万円を基準にしたら、年金は、みなゼロ?

 言い換えると、年金など、もうアテにできない。
官僚の考えることには、かならず裏がある。
だからカイル・バス氏はこう言った。
「政府の言うことは、信用するな」と。

 こうなったら、先手、先手で、行動するしかない。
少なくとも、私は、そうしてきた。
この先も、気力がつづくかぎり、そうする。
これは一匹狼で生きてきた、私の生存哲学でもある。
みなさんの参考になれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 生存哲学 一匹オオカミ 一匹狼 はやし浩司 カイル・バス)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

● 2012-01-29夜記

夕食後、ノートパソコンの修理をした。
TOSHIBAのダイナブックUXとMX。
2台。

長い間、使っていなかった。
TOSHIBAのウルトラブック(R631)を使うようになって、これらのパソコンを使わなくなってしまった。
それで修理。
修理といっても、ウィルス対策ソフトやWINDOWのUPDATE。
ほかに、もろもろ。

もう1台、TXがあるが、これはもっぱらDVDの観賞用。
合わせて4台。
4台も!、と思う人もいるかもしれない。
私自身も、そう思っている。
が、どれも一度は、心底惚れて買ったもの。
簡単には手放せない。
あちこちをいじりながら、その感触を楽しんだ。

 で、今、久しぶりに、UXを使い、この文章を叩いている。

● DVD『バビロンの陽光』

 先ほどまで、居間でDVDを観た。
イラク映画の『バビロンの陽光』。
こういう映画には、星はつけられない。
星をつけるような失礼なことは、したくない。
できない。

 最初から最後まで、切なかった。
ワイフはその映画を観ながら、「これが現代とは思えない」と、数度、言葉を漏らした。

● 雑誌

 ワイフは雑誌を読んでいる。
そのつど話しかけてくる。
だれだれが、どうした、こうした……という話。

 私はそういう話を聞いても、右耳から左耳へ、情報がスーッと流れていく。
が、ワイフはそうでない。
そのつど名前をしっかりと記憶に刻む。
芸能人やタレントなど、有名人のことなら、何でもよく知っている。
雑誌の読み方そのものが、ちがう。

●私の読書

 では、私はどうなのか?
私の読み方を分析してみる。

 その第一。
有用な情報しか、脳にとどめない。
たとえて言うなら、家庭菜園で野菜を育てるようなもの。
いつも実利を求める。
実利を伴わない雑誌は、読まない。

 その第二。
情報の種類は問わないが、論理性のあるものを好む。
小説類は、ほとんど読まない。
雑誌の中の小説はとくにそうで、ほとんど読まない。
「これは実話」というものなら、ときどき、読む。

 その第三。
自分の仕事に関係する情報は、研究論文やニュース以外、ほとんど読まない。
他人の書いた育児書類は、あえて避けている。
これは私自身の育児論を守るため。
他人の育児論に影響されるのが、いや。

たとえて言うなら、荒野を歩くにしても、ひとりのほうがよい。
ガイドは不要。
その分だけ回り道をすることも多い。
が、それが楽しい。
それにこの年齢になって、ガイドというのも、どうか?
たぶん、私をガイドできる人間は、もうこの世にはいない。

 ワイフとちがい、「名前」には、まったくと言ってよいほど、関心がない。

●TOSHIBAのUX

 UXはよいパソコンだ。
ウルトラブックより画面は小さく、それに重い。
が、キーボードのタッチ感がよい。
「こんなパソコンをもって、旅行に行きたい。
電車の中で思う存分、旅日記でも書いていたい」と。
今、そう思った。

 ただ、バッテリーのもちが、あまりよくない。
かなり劣化している。
フル充電、ノーマル使用で、3~4時間が限度ではないか。

●化粧
 
 あくびが、何度か、たてつづけに出た。
かなり眠い。
私は居間のこたつに、半分寝たような状態で、この文章を叩いている。
いつもなら、このあたりで書きたいことがモヤモヤしてくるはずだが、今夜はそれもない。
時刻は、午後10時35分。
ワイフはいつもの就眠儀式を始めた。
顔を洗い、化粧を落とす。

 ……が、どうして毎晩、そんなことをするのだろう。
私は化粧などしたことがないし、もちろん化粧を落としたこともない。
いつもスッピンの素顔。
でかけるときも、5分もあれば、身支度を整えてしまう。
(だから女性に、若いころからもてない。)

●就寝

 「11時に寝よう」と、たった今、ワイフが言った。
「うん」と私。
結婚以来、私たちは、ずっといっしょに寝ている。
寒い冬は、さらにそうで、たがいに暖めあいながら寝ている。
そういう寝方は、欧米ではふつうだが、この日本では珍しいそうだ。
中には、別々の部屋で寝ている夫婦も多いとか。

 どれくらいの割りあいなのだろう?
ちょっと調べてみたくなった。

あるベッド会社の調査によれば、つぎのようになっている。

夫婦でいっしょのベッド……40・9%
同じ部屋だが、別々のベッド……39・3%
別々の部屋……19・7%
(以上、パラマウントベッド・調査)

 ただし年齢があがると、別々に離れるケースが多くなるとか。
「50代を過ぎると、同じ寝室の割合は、70%を切る」そうだ。

 「フ~~ン」と言っただけで、おしまい。
人は人。
夫婦でいっしょに寝るのは、貧者の暖房法。

 では、今夜はここまで。


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●Sea of Japan or Tonghae? 日本海の呼称問題(改)

To the people of USA:(アメリカの人たちへ)v.2

*Exaggerated nationalism of South Koreans(韓国人の過激な民族主義)
Why is Sea of Japan (Japan Sea) “East Sea? (どうして日本海が、「東海」なのか?)


●韓国の人たちよ、どうして「日本海」では、いけないのか?

 私の意見に賛成の人は、下記(A)~(B)までを、コピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい。
訳文は、この原稿の終わりにつけておく。

(A)

*Why is Sea of Japan (Japan Sea) “East Sea”?
Exaggerated Nationalism of South Korea


We, the Japanese, know that South Korean people dislike “Japan” and now they have been trying to alter the name of “Sea of Japan (Japan Sea)” into “Tonghae” or “East Sea”.
Sea of Japan (Japan Sea) is situated in the east of Korea Peninsula and that is the reason why they insist so.


But if so, there would be hundreds of “East Sea” in the world, since each country has “East”.
In Japan we have a well-known proverb, saying, “If you dislike a priest, you hate his robe too”.


Once A. Einstein wrote in his letter to Prof. T. Kenzi like this: “The exaggerated nationalism is very dangerous”.
Sea of Japan (Japan Sea) has been “Sea of Japan (Japan Sea)” for more than 120 years and used as a common word internationally.
Even according to the map dated in 1855, used by Commodore M.C. Perry, who came to Japan in 1853, Sea of Japan is “Japan Sea”.

http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/

Or why is Gulf of Mexico (Mexico Gulf) “Gulf of Mexico”?
Why doesn’t USA try to alter the name into “South Gulf”?
Because American people know that this type of nationalism seems to be so stupid.
So please you don’t have to listen to South Korea’s meaningless opinion.


In the website of “Sea of Japan, No East sea” someone writes as follows:


“Refute distorted Korean government and Korean nationalist distorted claims who got brainwashed propaganda in their school and mass media who they cannot master Chinese character and documents.
Those offensive brainwash propaganda spoiled Korean naughty young school kids having hostility toward Japan and Japanese.
I am protesting those stupid Korean's Structural Violence and expansionism, new fascism.”


I agree to this opinion.

Hiroshi Hayashi, Hamamatsu-city, Japan


(B)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【読者のみなさんへ】

●私たちも声をあげよう!


韓国の東亜日報は、つぎのような記事をかかげている。
「『東海・日本海』併記について、バージニア州上院は、1票差で否決した※」(2012年01月28日)と。
つまり「いろいろ働きかけてはみたが、教科書に、『東海・日本海』と併記させることについて、バージニア州では、失敗した」と。

韓国はノ大統領の時代から、世界各国に専門の特使まで派遣し、「日本海」を「東海(トンヘ)」に改名する運動を重ねている。
「日本海」という呼称が、どうにもこうにも気に入らないらしい。
その気持ちはよくわかる。
が、どうして日本海が「東海」なのか?
 
韓国から見れば、確かに「東の海」。
が、日本から見れば、「北西の海」。
ロシアから見れば、「東南の海」。
これほどまでに自己中心性丸出しの呼び方は、そうはない。
もし世界中の国々が、自分の国を中心に、東西南北の海の名前を決めたら、それこそ「東海」という名前は、国の数だけ生まれることになる。

そこで韓国はバランスをとるため、黄海を、独自に、「西海」と呼んでいる。
が、こちらのほうは、目立った運動は、まったくしていない。
つまり「おまけ」。
韓国は、要するに、「日本」という文字がよほど気に入らないらしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「日本海」問題

 日本海の呼称問題については、たびたび書いてきた。
ここでは、もう一歩、さらに話の内容を進めてみたい。
その第一。

 日本人は、あまりにも、おとなし過ぎる!

 どうして日本はもっと積極的に発言し、行動しないのか。
韓国が特使を派遣したら、日本も派遣すればよい。
韓国が騒いだら、日本も同じだけ、騒げばよい。

 昨年(2011年5月)書いた原稿を、もう一度掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「東海(トンヘ)」問題 (동해 vs. 일본해)

 『坊主憎ければ……』とかいうが、韓国は、「日本海」という名称が、よほど、気に入らないらしい。

 で、韓国政府は、全世界の各国に「特使」まで送って、「日本海」を「東海」へ変更しようと努力している。
(「特使」だぞ! わかるか!)

が、どうして「東海」なのか。
これほどまでに自己中心的な発想はない。
もしロシアが、「太平洋を『東方洋』にせよ」と主張したら、世界はロシアをどう思うだろうか。

 ついでに韓国は、黄海を、「西海」にしようとしている。
そうでも言わないと、バランス(=整合性)が取れないからだ。
が、無理は無理。
韓国政府も、やっとそれに気づき始めた。

 中央日報(韓国)は、つぎのように伝える。

『韓国政府は国際社会の東海(トンヘ、日本名・日本海)表記と関連し、「東海」と「日本海」を併記すべきだという意見を国際水路機関(IHO)に提出したと、政府当局者が1日明らかにした。

当局者は「IHO側が2日までに東海表記に関する公式意見を伝えてほしいと要求してきた」とし、「東海単独表記主張は成功する可能性がないと判断した」と説明した』(5月4日)と。

 繰り返すが、どこの国に対して、「東」なのか?
日本にとっては、日本海は、「北海」。
あるいは、「北西海」。
もしこんなメチャメチャな改名が許されるとしたら、それこそ世界は、大混乱。
「東海」だけでも、世界中に、何千も生まれる。

 ついでに……

対馬海峡→(韓国の)南海
東シナ海→(台湾の)北海
台湾海峡→中国海峡
南シナ海→北フィリッピン海
フィリッピン海→グアム海、などなどとしたら、どうか?

そのうちベンガル湾も、インドの東にあるということで、「東海」になるかもしれない。
アラビア海は、パキスタンの南にあるから、「南海」になるかもしれない。

 特使まで送って改名させようとしているところが、すごい。
……というか、バカげている。

 原稿をさがしてみたら、2007年の5月に、同じ原稿を書いているのがわかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●またまた「東海(トンヘ)」?(2007年5月記)

Why should the Japan Sea (Sea of Japan) be the Eastern Sea?
The Japan Sea (Sea of Japan) is situated to the east of Korea,
but is situated to the north to Japan.

++++++++++++++++++

韓国にとっては、東海(トンヘ)かも
しれないが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。

どうして韓国は、こうまで「東海」に
こだわるのか?

++++++++++++++++++

 『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺(ことわざ)を、地で行くような事例が、これ。
今も、つづいている。
韓国は、数年前から世界各国に特使まで送り、「日本海」を、「東海(トンヘ)」に改称しようと運動を重ねている。

 韓国にとっては、たしかに「東海」だが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。
韓国は、よほど、「日本」という名前が嫌いらしい。
「日本海」ではなく、「日本」という名称が嫌いらしい。

 しかし日本の周辺を見ただけでも、その地域や固有の名前がついた海というのは、いくらでもある。

 北から、東シベリア海、ベーリング海、オホーツク海、東シナ海、台湾海峡、フィリッピン海、南シナ海などなど。

 しかし「東海」などという、自己中心性丸出しの名前は、どこにもない。
英語で言えば、「the Eastern Sea(東海)」。
「トンヘの意味は?」と聞かれたら、韓国の人たちは、何と答えるのか。

 こんな改名がまかり通るなら、まず日本とフィリッピンの間にある「フィリッピン海」を、「南海」としたらどうか。
が、韓国にとっては、それはおもしろくないらしい。
こんな記事が、今朝の朝鮮N報に載っていた。

 『5月7日からモナコで開かれる、国際水路機構(IHO)総会に参加する、加盟国78カ国のうち、大多数が「日本海」の単独表記を支持していることが判明し、韓国政府に緊張が走っている。

 韓国政府当局者は30日、IHO総会に関するブリーフィングを開き、「現在の状況では大多数のIHO加盟国が日本海単独表記を支持しているが、どのような状況であれ、日本海が単独表記されることを絶対に容認することはできないというの、われわれの基本的な立場」と述べた』(07年5月1日)と。

 どうして容認することができないのか? 
韓国側は、その理由も述べたらよい。と、同時に、どうして日本海ではいけないのか。
その理由も述べたらよい。
さらに、どうして「東海」なのか、その理由も述べたらよい。

 仮に「東海」ということになれば、今度は、日本が猛反対するだろう。
「どうして東海なのか」と。

 さすがの韓国政府も、自分たちの愚かさに気づいたのだろう。
今度は、「平和の海」という代案を出してきた。
「平和」という名前は、K国が好んで使う名称でもある。今の今も、あの38度線をはさんで、韓国側にある村を、「自由の村」と呼び、K国側にある村を、「平和の村」と呼んでいる。

 が、その「平和の海」論も、どこかへ消えた。
そこで再び、「東海」。
「併記問題」。
今度は、「日本海と東海を併記せよ」と。

 こうした韓国側の動きを見ていると、反日運動の原点を見ているようで、興味深い。
つまり韓国にとってみれば、日本の存在そのものが、おもしろくないのだ。
理由など、ない。
まさに感情論。
彼らが主張するところの歴史認識問題にしても、そのうちの何割か以上は、その感情論と考えてよい。

 しかし一言。
韓国政府も、いちいちそんな(名称)の問題にこだわらないで、もっと大きな問題に取り組んでみたらどうか? 
たとえば国連への分担金を一人前にふやすとか、そういうことを考えてみたらどうか? あるいは政府開発援助金を、人口比に応じて、せめて日本の3分の1くらいにまで、ふやすとか……。

 そういうことはまったくせず、主張することだけは、一人前。
あるいはそれ以上!

 どちらにせよ、「東海」などという呼称そのものが、私たち日本人にとっては、言語道断。
どうして日本の北にある日本海が、東海なのか。
日本としては、絶対に容認できない呼称である。

ちなみに国際水路機構(IHO)総会では、大多数が、「日本海」の単独表記を支持しているという。
当然のことである。

(付記)今まで、直接的な批判を避け、あえて東海を「西海」などとまぶして、批判記事を書いてきましたが、今日から、正面から、「東海」とすることにしました。

(以上、2007年5月に書いた原稿より)

●グーグル翻訳でも……

 グーグル翻訳サービスを使って、「日本海」を韓国語に翻訳すると、韓国語で「東海」と翻訳される。
韓国政府は、すでにグーグルにまで、こうした手を伸ばしている。
日本よ、油断するな!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 韓国 東海(トンヘ) 日本海名称問題 日本海と東海 韓国の反日感情 反日運動 はやし浩司 日本海 東海呼称問題)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人よ、もっと声をあげよう!

 日本人よ、もっと声をあげよう。
方法は、簡単。
もしみなさんがBLOG(Twitter)を書いているなら、以下の文面をコピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい。

 ネットの世界では、同じ意見でも、数が多ければ多いほど、検索時に上位に表示される。
アメリカをはじめ、世界の人たちの目に留まる。
それが重要。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A~Bまでの訳文)

●どうして日本海が、「東海」なのか?

 私たち日本人は、韓国人(朝鮮人)が、日本を嫌っていることを知っている。
そして今、日本海という名前を、「トンヘ」つまり、「東海」と改名しようとしていることを知っている。
日本海は、朝鮮半島の東側に位置する。
それが彼らの主張の根拠になっている。

が、もしそうなら、世界中に、何百という「東海」が生まれるだろう。
というのも、それぞれの国に、「東」があるからである。

日本には、『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺がある。
あのA・アインシュタインは、田丸謙二先生への手紙の中で、こう書いている。
「過激な民族主義は危険である」と。

「日本海」という名前は、100年以上も、世界の常識として使われている。
1853年に日本に来航した、マシュー・ペリー提督が使った地図でも、日本海は「日本海」になっている。
でないというのなら、どうしてメキシコ湾が「メキシコ湾」なのか。
アメリカは、どうしてメキシコ湾を、「南湾」と改名しようとしないのか。
なぜなら、この種のナショナリズムが、馬鹿げていることをアメリカ人は、知っているからである。

どうか韓国の、馬鹿げた意見に耳を貸さないでほしい。

『日本海であって、東海ではない』(Sea of Japan, No East Sea)サイトの中には、次のような意見が載っている。

『……韓国政府および韓国の国粋主義者たちは、漢字や漢字で書かれた書類を読めない子どもやマスメディアの世界において、洗脳プロパガンダ(=政治的情宣活動)を繰り広げている。

これらの攻撃的なプロパガンダは、無邪気な子どもたちをたきつけ、日本や日本人に対する敵意を煽(あお)り立てている。
私はこれらの愚かな、構造的暴力、さらには拡張主義、つまり新しいタイプのファシズムに、抗議する』(以上、同サイトより)と。

私は、この意見に同意する。

浜松市 はやし浩司


++++++++以下、コピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A)

*Why is Sea of Japan (Japan Sea) “East Sea”?
Exaggerated Nationalism of South Korea


We, the Japanese, know that South Korean people dislike “Japan” and now they have been trying to alter the name of “Sea of Japan (Japan Sea)” into “Tonghae” or “East Sea”.
Sea of Japan (Japan Sea) is situated in the east of Korea Peninsula and that is the reason why they insist so.


But if so, there would be hundreds of “East Sea” in the world, since each country has “East”.
In Japan we have a well-known proverb, saying, “If you dislike a priest, you hate his robe too”.


Once A. Einstein wrote in his letter to Prof. T. Kenzi like this: “The exaggerated nationalism is very dangerous”.
Sea of Japan (Japan Sea) has been “Sea of Japan (Japan Sea)” for more than 120 years and used as a common word internationally.
Even according to the map dated in 1855, used by Commodore M.C. Perry, who came to Japan in 1853, Sea of Japan is “Japan Sea”.

http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/

Or why is Gulf of Mexico (Mexico Gulf) “Gulf of Mexico”?
Why doesn’t USA try to alter the name into “South Gulf”?
Because American people know that this type of nationalism seems to be so stupid.
So please you don’t have to listen to South Korea’s meaningless opinion.


In the website of “Sea of Japan, No East sea”, someone writes as follows:


“Refute distorted Korean government and Korean nationalist distorted claims who got brainwashed propaganda in their school and mass media who they cannot master Chinese character and documents.
Those offensive brainwash propaganda spoiled Korean naughty young school kids having hostility toward Japan and Japanese.
I am protesting those stupid Korean's Structural Violence and expansionism, new fascism.”
I agree to this opinion.


Hiroshi Hayashi, Hamamatsu-city, Japan


(B)

++++以上 (A)~(B)をコピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい++++++

●「教科書」

 ついでに一言。

 東亜日報紙は、この記事※の中で、「教科書」という言葉に、こだわっているのがわかる。
が、アメリカの学校には、「教科書」と呼ばれる教科書は、ない。
「テキスト」はある。
が、教科書はない。
民間の出版社が発刊する、テキストである。
それぞれの学校が、自由に、それぞれのテキストを使っている。

そもそも、日本のような検定制度そのものが、アメリカには、ない。
だから、州議会に働きかけても、意味がない。
州議会で仮に併記を議決したとしても、法的拘束力はない。
それを知ってか知らずか、「教科書」という言葉を使っているところが、恐ろしい。

日本政府は、教科書について、検定済み教科書であって、国定教科書ではないと主張している。
が、これはウソ。
「検定(authorized)」も「国定(authorised)」も、英語に翻訳すれば、同じ。

なおついでながら、オーストラリアにも検定制度はある。
民間団体が、自主的にそれを行っている。
行っているが、検定するのは、暴力と性描写のみ。
むしろ逆で、州政府は、「政治的な表現については、検定してはならない」と、釘をさしている(南オーストラリア州)。
小学低学年時には、テキストすら使っていないところもある。

 繰り返す。
アメリカには検定制度そのものがない。
ないから、「教科書」という言い方そのものが、適切ではない。
「テキスト」は「テキスト」。
どうか誤解のないように!

 日本も、教科書検定制度なるものを廃止したらよい。
戦時中の日本ならいざ知らず、2012年の今、国定教科書とは!
今どき「教科書」を使い、国民の思想統一しているのは、そこらの独裁国家くらいなもの。
日本よ、日本人よ、いいかげんに、目を覚ませ!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……東亜日報紙の記事・全文)

『米教科書の「東海・日本海」併記、バージニア州上院1票差で否決
米バージニア州議会で推進された「東海(トンヘ)と日本海の教科書併記法案(SB200)」(東海併記法案)が否決された。
15人で構成された州議会上院の教育保健委員会は26日、全体会議を開き、東海併記法案に対する採決を実施し、賛成7票、反対8票で否決した。
同日の採決では、賛成7票と反対7票で拮抗したが、キャスティングボートを握るスティーブン・マーティン委員長(共和)が反対票を投じ、否決された。

デヴィッド・マースデン議員(民主)が11日に提出した同法案は、バージニア州内の公立学校で使用される1年生から12年生用の教科書に東海と日本海を併記することを義務づける内容を含んでおり、16日に教育委小委員会を通過した。

小委員会を通過した時は、全体会議の通過が有力視されたが、共和党議員を中心に親日ムードが生まれ、否決されたという』(以上「東亜日報」より)と。

なお日本のMSN・産経ニュースは、つぎのように伝えている。

『……米ワシントン近郊のバージニア州議会で、州内の公立学校の教科書に日本海を「東海」と併記することを求める州法案の採決が行われ、1票差で否決されたことが分かった。

歴史的事実を知らない地方議員が韓国系団体のロビー活動を受けて法案を提出していた。

米国では最近、韓国系米国人らが日本の教科書の使用中止を求める動きもあり、日本政府は官民を挙げた対策が求められている』(MSNニュース・2012年1月29日)と。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 東海 日本海 呼称問題 行き過ぎたナショナリズム 過激な民族主義 韓国のはやし浩司 東海呼称問題 Tong Hae Tonghae 東海 はやし浩司 Eggerrated Nationalism of South Korea 韓国のファシズム はやし浩司 民族主義 はやし浩司 メキシコ湾を南海に ペリー提督の地図)
はやし浩司 2012-01-29朝記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

Saturday, January 28, 2012

*Why is "Sea of Japan" "East Sea (Tonghae)"?

To the people of USA:(アメリカの人たちへ)

*Exaggerated nationalism of South Koreans(韓国人の過激な民族主義)
Why is Sea of Japan (Japan Sea) “East Sea? (どうして日本海が、「東海」なのか?)


●韓国の人たちよ、どうして「日本海」では、いけないのか?

 私の意見に賛成の人は、下記(A)~(B)までを、コピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい。
訳文は、この原稿の終わりにつけておく。

(A)

*Why is Sea of Japan (Japan Sea) “East Sea”?
Exaggerated Nationalism of South Korea


We, the Japanese, know that South Korean people dislike “Japan” and now they have been trying to alter the name of “Sea of Japan (Japan Sea)” into “Tonghae” or “East Sea”.
Sea of Japan (Japan Sea) is situated in the east of Korea Peninsula and that is the reason why they insist so.


But if so, there would be hundreds of “East Sea” in the world, since each country has “East”.
In Japan we have a well-known proverb, saying, “If you dislike a priest, you hate his robe too”.


Once A. Einstein wrote in his letter to Prof. T. Kenzi like this: “The exaggerated nationalism is very dangerous”.
Sea of Japan (Japan Sea) has been “Sea of Japan (Japan Sea)” for more than 120 years and used as a common word internationally.
Even according to the map dated in 1855, used by Commodore M.C. Perry, who came to Japan in 1853, Sea of Japan is “Japan Sea”.

http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/

Or why is Gulf of Mexico (Mexico Gulf) “Gulf of Mexico”?
Why doesn’t USA try to alter the name into “South Gulf”?
Because American people know that this type of nationalism seems to be so stupid.
So please you don’t have to listen to South Korea’s meaningless opinion.


In the website of “Sea of Japan, No East sea” someone writes as follows:


“Refute distorted Korean government and Korean nationalist distorted claims who got brainwashed propaganda in their school and mass media who they cannot master Chinese character and documents.
Those offensive brainwash propaganda spoiled Korean naughty young school kids having hostility toward Japan and Japanese.
I am protesting those stupid Korean's Structural Violence and expansionism, new fascism.”


I agree to this opinion.

Hiroshi Hayashi, Hamamatsu-city, Japan


(B)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【読者のみなさんへ】

●私たちも声をあげよう!


韓国の東亜日報は、つぎのような記事をかかげている。
「『東海・日本海』併記について、バージニア州上院は、1票差で否決した※」(2012年01月28日)と。
つまり「いろいろ働きかけてはみたが、教科書に、『東海・日本海』と併記させることについて、バージニア州では、失敗した」と。

韓国はノ大統領の時代から、世界各国に専門の特使まで派遣し、「日本海」を「東海(トンヘ)」に改名する運動を重ねている。
「日本海」という呼称が、どうにもこうにも気に入らないらしい。
その気持ちはよくわかる。
が、どうして日本海が「東海」なのか?
 
韓国から見れば、確かに「東の海」。
が、日本から見れば、「北西の海」。
ロシアから見れば、「東南の海」。
これほどまでに自己中心性丸出しの呼び方は、そうはない。
もし世界中の国々が、自分の国を中心に、東西南北の海の名前を決めたら、それこそ「東海」という名前は、国の数だけ生まれることになる。

そこで韓国はバランスをとるため、黄海を、独自に、「西海」と呼んでいる。
が、こちらのほうは、目立った運動は、まったくしていない。
つまり「おまけ」。
韓国は、要するに、「日本」という文字がよほど気に入らないらしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「日本海」問題

 日本海の呼称問題については、たびたび書いてきた。
ここでは、もう一歩、さらに話の内容を進めてみたい。
その第一。

 日本人は、あまりにも、おとなし過ぎる!

 どうして日本はもっと積極的に発言し、行動しないのか。
韓国が特使を派遣したら、日本も派遣すればよい。
韓国が騒いだら、日本も同じだけ、騒げばよい。

 昨年(2011年5月)書いた原稿を、もう一度掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「東海(トンヘ)」問題 (동해 vs. 일본해)

 『坊主憎ければ……』とかいうが、韓国は、「日本海」という名称が、よほど、気に入ら
ないらしい。

 で、韓国政府は、全世界の各国に「特使」まで送って、「日本海」を「東海」へ変更しよ
うと努力している。
(「特使」だぞ! わかるか!)

が、どうして「東海」なのか。
これほどまでに自己中心的な発想はない。
もしロシアが、「太平洋を『東方洋』にせよ」と主張したら、世界はロシアをどう思うだろ
うか。

 ついでに韓国は、黄海を、「西海」にしようとしている。
そうでも言わないと、バランス(=整合性)が取れないからだ。
が、無理は無理。
韓国政府も、やっとそれに気づき始めた。

 中央日報(韓国)は、つぎのように伝える。

『韓国政府は国際社会の東海(トンヘ、日本名・日本海)表記と関連し、「東海」と「日
本海」を併記すべきだという意見を国際水路機関(IHO)に提出したと、政府当局者が
1日明らかにした。

当局者は「IHO側が2日までに東海表記に関する公式意見を伝えてほしいと要求してき
た」とし、「東海単独表記主張は成功する可能性がないと判断した」と説明した』(5月4
日)と。

 繰り返すが、どこの国に対して、「東」なのか?
日本にとっては、日本海は、「北海」。
あるいは、「北西海」。
もしこんなメチャメチャな改名が許されるとしたら、それこそ世界は、大混乱。
「東海」だけでも、世界中に、何千も生まれる。

 ついでに……

対馬海峡→(韓国の)南海
東シナ海→(台湾の)北海
台湾海峡→中国海峡
南シナ海→北フィリッピン海
フィリッピン海→グアム海、などなどとしたら、どうか?

そのうちベンガル湾も、インドの東にあるということで、「東海」になるかもしれない。
アラビア海は、パキスタンの南にあるから、「南海」になるかもしれない。

 特使まで送って改名させようとしているところが、すごい。
……というか、バカげている。

 原稿をさがしてみたら、2007年の5月に、同じ原稿を書いているのがわかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●またまた「東海(トンヘ)」?(2007年5月記)

Why should the Japan Sea (Sea of Japan) be the Eastern Sea?
The Japan Sea (Sea of Japan) is situated to the east of Korea,
but is situated to the north to Japan.

++++++++++++++++++

韓国にとっては、東海(トンヘ)かも
しれないが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。

どうして韓国は、こうまで「東海」に
こだわるのか?

++++++++++++++++++

 『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺(ことわざ)を、地で行くような事例が、これ。
今も、つづいている。
韓国は、数年前から世界各国に特使まで送り、「日本海」を、「東海(トンヘ)」に改称しようと運動を重ねている。

 韓国にとっては、たしかに「東海」だが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。
韓国は、よほど、「日本」という名前が嫌いらしい。
「日本海」ではなく、「日本」という名称が嫌いらしい。

 しかし日本の周辺を見ただけでも、その地域や固有の名前がついた海というのは、いくらでもある。

 北から、東シベリア海、ベーリング海、オホーツク海、東シナ海、台湾海峡、フィリッピン海、南シナ海などなど。

 しかし「東海」などという、自己中心性丸出しの名前は、どこにもない。
英語で言えば、「the Eastern Sea(東海)」。
「トンヘの意味は?」と聞かれたら、韓国の人たちは、何と答えるのか。

 こんな改名がまかり通るなら、まず日本とフィリッピンの間にある「フィリッピン海」を、「南海」としたらどうか。
が、韓国にとっては、それはおもしろくないらしい。
こんな記事が、今朝の朝鮮N報に載っていた。

 『5月7日からモナコで開かれる、国際水路機構(IHO)総会に参加する、加盟国78カ国のうち、大多数が「日本海」の単独表記を支持していることが判明し、韓国政府に緊張が走っている。

 韓国政府当局者は30日、IHO総会に関するブリーフィングを開き、「現在の状況では大多数のIHO加盟国が日本海単独表記を支持しているが、どのような状況であれ、日本海が単独表記されることを絶対に容認することはできないというの、われわれの基本的な立場」と述べた』(07年5月1日)と。

 どうして容認することができないのか? 
韓国側は、その理由も述べたらよい。と、同時に、どうして日本海ではいけないのか。
その理由も述べたらよい。
さらに、どうして「東海」なのか、その理由も述べたらよい。

 仮に「東海」ということになれば、今度は、日本が猛反対するだろう。
「どうして東海なのか」と。

 さすがの韓国政府も、自分たちの愚かさに気づいたのだろう。
今度は、「平和の海」という代案を出してきた。
「平和」という名前は、K国が好んで使う名称でもある。今の今も、あの38度線をはさんで、韓国側にある村を、「自由の村」と呼び、K国側にある村を、「平和の村」と呼んでいる。

 が、その「平和の海」論も、どこかへ消えた。
そこで再び、「東海」。
「併記問題」。
今度は、「日本海と東海を併記せよ」と。

 こうした韓国側の動きを見ていると、反日運動の原点を見ているようで、興味深い。
つまり韓国にとってみれば、日本の存在そのものが、おもしろくないのだ。
理由など、ない。
まさに感情論。
彼らが主張するところの歴史認識問題にしても、そのうちの何割か以上は、その感情論と考えてよい。

 しかし一言。
韓国政府も、いちいちそんな(名称)の問題にこだわらないで、もっと大きな問題に取り組んでみたらどうか? 
たとえば国連への分担金を一人前にふやすとか、そういうことを考えてみたらどうか? あるいは政府開発援助金を、人口比に応じて、せめて日本の3分の1くらいにまで、ふやすとか……。

 そういうことはまったくせず、主張することだけは、一人前。
あるいはそれ以上!

 どちらにせよ、「東海」などという呼称そのものが、私たち日本人にとっては、言語道断。
どうして日本の北にある日本海が、東海なのか。
日本としては、絶対に容認できない呼称である。

ちなみに国際水路機構(IHO)総会では、大多数が、「日本海」の単独表記を支持しているという。
当然のことである。

(付記)今まで、直接的な批判を避け、あえて東海を「西海」などとまぶして、批判記事を書いてきましたが、今日から、正面から、「東海」とすることにしました。

(以上、2007年5月に書いた原稿より)

●グーグル翻訳でも……

 グーグル翻訳サービスを使って、「日本海」を韓国語に翻訳すると、韓国語で「東海」と翻訳される。
韓国政府は、すでにグーグルにまで、こうした手を伸ばしている。
日本よ、油断するな!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 韓国 東海(トンヘ) 日本海名称問題 日本海と東海 韓国の反日感
情 反日運動 はやし浩司 日本海 東海呼称問題)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人よ、もっと声をあげよう!

 日本人よ、もっと声をあげよう。
方法は、簡単。
もしみなさんがBLOG(Twitter)を書いているなら、以下の文面をコピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい。

 ネットの世界では、同じ意見でも、数が多ければ多いほど、検索時に上位に表示される。
アメリカをはじめ、世界の人たちの目に留まる。
それが重要。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A~Bまでの訳文)

●どうして日本海が、「東海」なのか?

 私たち日本人は、韓国人(朝鮮人)が、日本を嫌っていることを知っている。
そして今、日本海という名前を、「トンヘ」つまり、「東海」と改名しようとしていることを知っている。
日本海は、朝鮮半島の東側に位置する。
それが彼らの主張の根拠になっている。

が、もしそうなら、世界中に、何百という「東海」が生まれるだろう。
というのも、それぞれの国に、「東」があるからである。

日本には、『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺がある。
あのA・アインシュタインは、田丸謙二先生への手紙の中で、こう書いている。
「過激な民族主義は危険である」と。

「日本海」という名前は、100年以上も、世界の常識として使われている。
1853年に日本に来航した、マシュー・ペリー提督が使った地図でも、日本海は「日本海」になっている。
でないというのなら、どうしてメキシコ湾が「メキシコ湾」なのか。
アメリカは、どうしてメキシコ湾を、「南湾」と改名しようとしないのか。
なぜなら、この種のナショナリズムが、馬鹿げていることを知っているからである。

どうか韓国の、馬鹿げた意見に耳を貸さないでほしい。

『日本海であって、東海ではない』(Sea of Japan, No East Sea)サイトの中には、次のような意見が載っている。

『……アメリカ人は韓国政府および韓国の国粋主義者たちは、漢字や漢字で書かれた書類を読めない子どもやマスメディアの世界において、洗脳プロパガンダ(=政治的情宣活動)を繰り広げている。

これらの攻撃的なプロパガンダは、無邪気な子どもたちをたきつけ、日本や日本人に対する敵意を煽(あお)り立てている。
私はこれらの愚かな、構造的暴力、さらには拡張主義、つまり新しいタイプのファシズムに、抗議する』(以上、同サイトより)と。

私は、この意見に同意する。

浜松市 はやし浩司


++++++++以下、コピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(A)

*Why is Sea of Japan (Japan Sea) “East Sea”?
Exaggerated Nationalism of South Korea


We, the Japanese, know that South Korean people dislike “Japan” and now they have been trying to alter the name of “Sea of Japan (Japan Sea)” into “Tonghae” or “East Sea”.
Sea of Japan (Japan Sea) is situated in the east of Korea Peninsula and that is the reason why they insist so.


But if so, there would be hundreds of “East Sea” in the world, since each country has “East”.
In Japan we have a well-known proverb, saying, “If you dislike a priest, you hate his robe too”.


Once A. Einstein wrote in his letter to Prof. T. Kenzi like this: “The exaggerated nationalism is very dangerous”.
Sea of Japan (Japan Sea) has been “Sea of Japan (Japan Sea)” for more than 120 years and used as a common word internationally.
Even according to the map dated in 1855, used by Commodore M.C. Perry, who came to Japan in 1853, Sea of Japan is “Japan Sea”.

http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/

Or why is Gulf of Mexico (Mexico Gulf) “Gulf of Mexico”?
Why doesn’t USA try to alter the name into “South Gulf”?
Because American people know that this type of nationalism seems to be so stupid.
So please you don’t have to listen to South Korea’s meaningless opinion.


In the website of “Sea of Japan, No East sea”, someone writes as follows:


“Refute distorted Korean government and Korean nationalist distorted claims who got brainwashed propaganda in their school and mass media who they cannot master Chinese character and documents.
Those offensive brainwash propaganda spoiled Korean naughty young school kids having hostility toward Japan and Japanese.
I am protesting those stupid Korean's Structural Violence and expansionism, new fascism.”
I agree to this opinion.


Hiroshi Hayashi, Hamamatsu-city, Japan


(B)

++++以上 (A)~(B)をコピーし、あなたのBLOGに貼りつけてほしい++++++

●「教科書」

 ついでに一言。

 東亜日報紙は、この記事※の中で、「教科書」という言葉に、こだわっているのがわかる。
が、アメリカの学校には、「教科書」と呼ばれる教科書は、ない。
「テキスト」はある。
が、教科書はない。
民間の出版社が発刊する、テキストである。
それぞれの学校が、自由に、それぞれのテキストを使っている。

そもそも、日本のような検定制度そのものが、アメリカには、ない。
だから、州議会に働きかけても、意味がない。
州議会で仮に併記を議決したとしても、法的拘束力はない。
それを知ってか知らずか、「教科書」という言葉を使っているところが、恐ろしい。

日本政府は、教科書について、検定済み教科書であって、国定教科書ではないと主張している。
が、これはウソ。
「検定」も「国定」も、英語に翻訳すれば、同じ。

なおついでながら、オーストラリアにも検定制度はある。
民間団体が、自主的にそれを行っている。
行っているが、検定するのは、暴力と性描写のみ。
むしろ逆で、州政府は、「政治的な表現については、検定してはならない」と、釘をさしている(南オーストラリア州)。
小学低学年時には、テキストすら使っていないところもある。

 繰り返す。
アメリカには検定制度そのものがない。
ないから、「教科書」という言い方そのものが、適切ではない。
「テキスト」は「テキスト」。
どうか誤解のないように!

 日本も、教科書制度を廃止したらよい。
戦時中の日本ならいざ知らず、2012年の今、国定教科書とは!
今どき「教科書」を使い、国民の思想統一しているのは、そこらの独裁国家くらいなもの。
日本よ、日本人よ、いいかげんに、目を覚ませ!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……東亜日報紙の記事・全文)

『米教科書の「東海・日本海」併記、バージニア州上院1票差で否決
米バージニア州議会で推進された「東海(トンヘ)と日本海の教科書併記法案(SB200)」(東海併記法案)が否決された。
15人で構成された州議会上院の教育保健委員会は26日、全体会議を開き、東海併記法案に対する採決を実施し、賛成7票、反対8票で否決した。
同日の採決では、賛成7票と反対7票で拮抗したが、キャスティングボートを握るスティーブン・マーティン委員長(共和)が反対票を投じ、否決された。

デヴィッド・マースデン議員(民主)が11日に提出した同法案は、バージニア州内の公立学校で使用される1年生から12年生用の教科書に東海と日本海を併記することを義務づける内容を含んでおり、16日に教育委小委員会を通過した。

小委員会を通過した時は、全体会議の通過が有力視されたが、共和党議員を中心に親日ムードが生まれ、否決されたという』(以上「東亜日報」より)と。

なお日本のMSN・産経ニュースは、つぎのように伝えている。

『……米ワシントン近郊のバージニア州議会で、州内の公立学校の教科書に日本海を「東海」と併記することを求める州法案の採決が行われ、1票差で否決されたことが分かった。

歴史的事実を知らない地方議員が韓国系団体のロビー活動を受けて法案を提出していた。

米国では最近、韓国系米国人らが日本の教科書の使用中止を求める動きもあり、日本政府は官民を挙げた対策が求められている』(MSNニュース・2012年1月29日)と。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 東海 日本海 呼称問題 行き過ぎたナショナリズム 過激な民族主義 韓国のはやし浩司 東海呼称問題 Tong Hae Tonghae 東海 はやし浩司 Eggerrated Nationalism of South Korea 韓国のファシズム はやし浩司 民族主義 はやし浩司 メキシコ湾を南海に ペリー提督の地図)
はやし浩司 2012-01-29朝記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司




【硬直する思考回路】

●シャッター通り

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2か月前の2011年の11月。
はからずもシャッター通りの内側から、シャッター通りを見る機会を得た。
つまりシャッター通りにある、一軒の旅館(?)に泊まった。
立派な案内書、よくできたホームページ、それにその町の観光課の女性に、だまされた。

「だまされた」という言葉を使っても、まちがっていない。
だまされた。

病臭と悪臭、それに不潔臭。
ワイフは一晩中、ダニの攻撃を受けた。
おまけに通りに面しているため、断続的に、車の走る音。
それが一晩中、ザザーッ、ザザーッと聞こえてきた。

料理も、最悪というより、口に入れることすらできなかった。
おでんが、数点、小皿の煮物が2点。
それだけ。
あとは白いご飯だけで、味噌汁はなし。
もちろんデザートも、なし。
口臭のひどい男で、その男が食事の間中、横から無駄話をしかけてきた。
ビールを頼むと、すかさず、「瓶が割れてしまいました」と。

風呂も、その家人がいっしょに使うもの。
浴室には、家人の洗濯物などが、いっしょに並んでいた。

冒頭で「2か月前」と書いたが、その2か月前には、書けなかった。
が、今なら、書ける。
それから2か月がたった。
時効が成立した。

がまん、ただひたすら、がまん……。
浴衣にも、病臭がしみ込んでいた。
重病の家人がいるとかで、その家人の衣服といっしょに、洗濯をしたらしい。
しかも、ヨレヨレ。
そう言えば、バスタオルもヨレヨレだった。

部屋のテーブルは、手垢で、ベタベタ。
ふすまの桟(さん)には、ホコリがところどころで、丸い塊(かたまり)を作っていた。
もちろん(?)便器は、大便で汚れていたが、ここまでひどいと、それどころではない。
昔のぼっとん便所を思い出しながら、それを使った。

ワイフは「お金を払って、ほかで泊まりましょう」と何度も言った。

朝を待ち、あれこれ理由をつけ、私たちはそそくさと、その旅館(?)を出た。
朝食は遠慮した。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●やる気度

 旅館にかぎらず、商店というのは左前になると、そのまま本気度が消える。
サービスが低下する。
その一方で、たまに来る客から、目一杯、儲けようとする。
そのため客が逃げる。
あとはこの悪循環の中で、商売は、ますます左前になる。
商店主は、さらにやる気をなくす。

 服装もだらしなくなる。
言葉遣いもだらしなくなる。

 今まで、私はそうしたシャッター通りの商店を擁護する原稿を書いてきた。
しかし、そうなるには、そうなるだけの理由がある。
その一例が、先に書いた旅館ということになる。

 1泊8500円だから、安いとか、そういうことではない。
反対に、5万円もらっても、泊まりたくない。
そうなる。

●思考回路

 どんな商売でもそうだが、日々に努力あるのみ。
その努力を怠ったとたん、店はほこりをかぶるようになる。
では、どうするか。

 そのためには、まず、自分のもつ思考回路に気づく。
その前に、思考回路というのが、どういうものであるかを知る。

人間の脳みそは、基本的には怠けもの。
そのつどできるだけ楽な道を選ぼうとする。
その楽な道に沿って、思考回路を作る。
が、この思考回路。
一度、それができると、変更するのは容易なことではない。
年を取ればなおさらで、思考回路そのものが、硬直化する。

●脳の別室

 そこで「学習」ということになる。
が、思考回路が硬直化していると、学習しても、ほとんど意味がない。
たとえば先に書いた旅館の男を、都会のビジネスホテルに連れて行ったとする。
「サービスというのは、こういうもの」と見せたとする。
が、効果は、ほとんどない。……はず。

 脳みそは、自分のつごうのよい情報と、自分につごうの悪い情報を、より分けてしまう。
そして自分に都合の悪い情報は、脳の別室に閉じこめてしまう。
実際、自分につごうの悪い情報を見聞きするのは、不愉快。
避けたい。
「医者嫌い」が、その一例である。

 が、それでも自分につごうの悪い情報に、耳を傾ける。
それがその人に、別の道を示す。
たとえばこんなことがある。

●辛らつなコメント

 私はこうして毎日、いろいろな文章を書いている。
それについて、毎日のように、いろいろなコメントが届く。
たいはんは好意的なものだが、中には、辛らつなものもある。

 当初は、そういう辛らつなコメントが届くたびに、かなりのショックを受けた。
そのあと、怒りと悔しさで、体が燃えるように熱くなったこともある。
恐らくみなさんの中にも、同じような体験をした人は多いと思う。
ネットの世界では、匿名で、相手を非難したり、中傷したりすることができる。

 で、そのときのこと。
実は、そういう辛らつなコメントほど、大切ということに、やがて気づいた。
が、それを読み返すのは、苦痛以外の何ものでもない。
ばあいによっては、そのページを開くだけで、ぞっとする。
が、それでも読み返す。
するとその先に、別の道が見えてくる。

 ……私はそのうち、こんな技術を身につけた。
慇懃無礼な、礼状を書くという技術である。
「あなた様のきびしいご意見は、たいへん参考になりました。これからの執筆活動に、じゅうぶん役立たせていただきます。ありがとうございました」と。

 以来、ネットの世界では、10年が過ぎた。
今ではそうした辛らつなコメントなど、何とも思わない。
またこちらから喧嘩しなければならないような相手でもない。
どうせ相手は、匿名。
犬の遠吠え。

 話が脱線したが、(つごうの悪い情報)に、あえて、身を染める。
それが「学習」ということになる。
けっして、脳の別室に、それを閉じこめてはいけない。

●「あなた殺されるわよ」

 で、もしこの文章を、先にあげた旅館の男が読んだら、どう反応するだろうか。
私の印象では、激怒するにちがいない。
ワイフは、こう言った。
「あなた、殺されるわよ」と。
だから、2か月待った。

 が、しかし、私を殺すのは待ってほしい。
もしその男が、この先も旅館業をつづけようと願うなら、私がここに書いたことについて謙虚に反省したらよい。
自分を見つめなおしたらよい。

その男にとって、何よりも重要なことは、その男自身がもつ思考回路を変えること。
組みなおすこと。
一度できあがった思考回路を変えるということは、それくらい、大変なこと。
ばあいによっては、苦しい。
つらい。
しかしその苦しさやつらさを乗り越えることなしに、その男に明日はない。

●ジー様先生

 ……と書いても、これは私自身の問題でもある。
私の現在の主なる収入源は、「幼児教室」である。
「BW幼児教室」という名前をつけている。

 この不況下、(不況だけが理由ではないのだが)、ご多分に漏れず、左前。
毎年3月になると、それだけで憂うつになる。
「4月から、やっていけるだろうか?」と。

 これには、私の年齢の問題もからんでいる。
私も64歳。
親といっても、若い母親たちばかり。
私のようなジー様先生など、お呼びではない。
それが若い母たちと接していても、よくわかる。
いくらがんばっても、若い先生には、かなわない。
生徒自身が、それを口にすることがある。
「あんた、ジジ臭い!」と。
言うなれば、私自身が、シャッター通りの店主になっている。

●BW幼児教室

 そこで私の思考回路をどう変えていくか。

 ひとつには、常に新しい教育にチャレンジしていくこと。
「今度は、これを教えてみよう」「あれを教えてみよう」と。

 そのことは、私の「BW公開教室」を見てもらえば、わかる。
http://bwopenclass.ninja-web.net/page018.html
この1年間だけでも、いろいろな分野に挑戦してみた。
たとえば幼稚園児に、方程式の解き方まで、教えてみた。
おもしろかった。
楽しかった。
この4月からは、さらに新しい分野に挑戦してみたい。

 「学校で使う教科書に沿って……」などというチンケな教育だけは、したくない。
それも必要だが、(というのも、スポンサーである親たちは、それを求めているから)、それだけには終わりたくない。

 まずいのは、「年齢だから……」というおかしな理由にこだわり、思考回路を硬直させること。
こうしてものを書くことについても、そうだ。
いつも新しい分野に向かって、道を開いていく。
それが私の仕事を、「シャッター通り」にしない、ゆいいつの方法ということになる。

●シャッター通りのみなさんへ

 私は今まで、シャッター通りについて書くたびに、その外側から、行政の不備を攻撃してきた。
私の実家も、そのシャッター通りにあった。
が、実は、どうもそれだけではないようだ。

……ということで、シャッター通りの内側からの意見を書いてみた。
私たちたちは、私たち自身で努力する。
その成功例も、ないわけではない。

 たとえば滋賀県の長浜。
長浜の町。
小さな田舎町だが、都会の~~通りほどの観光客であふれている。
若い店員たちが、思いっきり元気を発散している。
なぜそうなのか。
またそうであるためには、どうしたらよいのか。
もしあなたに学習能力が残っているなら、一度、長浜の町をのぞいてみたらよい。
たった40年前には、さびれにさびれ、「♪イノシシが、逆さまにぶらさっがっている」というような町だった。

 それが今は、あの「長浜の町」になった。

 がんばろう、シャッター通りのみなさん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 シャッター通り 思考回路 はやし浩司 長浜 硬直した思考回路)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

Friday, January 27, 2012

●「ALWAYS 3丁目の夕日」と、マザコン論

【ALWAYS、3丁目の夕日 ’64】

++++++++++++++++++++

私たちの世代には、冒頭からググーッとくる映画だった。
だから私たちの世代は、ググーッと楽しめばよい。
何も考えず、ググーッと楽しめばよい。

「ALWAYS 3丁目の夕日 ’64」は、そういう映画。
私が17歳(高校2年生)のときの映画ということになる。

(もともとそういう意図でもって作られた映画。
素直にその意図に乗って、楽しめばよい。)

星は、4つの★★★★。
身を切るような深夜の冷を、ものともせず、市内の劇場まで足を運んだ。
笑った、泣いた……。
よかった。

が、ほめてばかりいてはいけない。
気になった点は、いくつかある。

その第一。
完ぺきに近いほど、「マザコン映画」。
登場する男性は、みな、3枚目。
バカ丸出し。
その一方で、女性は、みな、マドンナ(聖母)。
人格の完成度が、きわめて高い。
それが不自然すぎるほど、極端。

プラス、権威主義。
合計で3人の医師が登場するが、3人とも神がかったほど、崇高な精神の持ち主ばかり。
人道主義者(ヒューマニスト)。
それが監督(作者)がもっている「医師観」なのだろうが、本当にそうかな?
そう考えてよいのかな?
これも極端すぎる。

さらに言えば、茶川竜之介の父親が登場するが、「こんな父親はいるのかなあ?」と。
森進一が歌う『♪おふくろさん』そのままのような、父親。
息子をあえて崖っぷちに立たせるため、演技で(?)、息子を勘当(=絶縁)したという。
勘当しながら、息子の活躍を、陰で喜んでいたという。
つまりお涙頂戴映画。

『送り人』もそうだったが、このところ、この種のお涙頂戴映画が、日本映画の流行にもなっている。

++++++++++++++++++++++++

●マドンナ(聖母)

 この映画の監督(作者)がそうというのではない。
(私自身は、コミック版の原作を、ほとんど読んでいない。)
一般論として、マザコン男性ほど、マドンナを求め、女性の間を渡り歩く。
が、マドンナと言えるような女性は、今どき、存在しない。
(存在するわけがない!)
だから、これも一般論だが、マザコン男性ほど、浮気しやすく、離婚しやすいと言われている。

 マドンナ……どんなわがままを言ったりしたりしても、いつも自分を暖かく包んでくれる、聖母のような女性をいう。
慈愛に満ちた母親のように、自分を理解し、深く愛してくれる、聖母のような女性をいう。

 それについては、いくつかの原稿を書いたことがある。
あとで紹介することにして、もう一点。

●恋愛至上主義vs恩義

 映画の中で、自動車工場に勤める若い女性が、医師に求婚される。
そのとき、若い女性(堀北真希演ずる六子)が、結婚すべきかどうかで悩み、迷う。
世話になった店の主人や妻への「恩義」のはざ間で、悩み、迷う。

 ……というか、私が若いころは、みな、そうだった。
私人も、学生時代、恋愛を経験した。
しかし収入がないこと、親や家の問題、未来が不確定であったこと、相手の女性の家の格式などなどを考え、別れた。
もちろん親への恩義も、無視することができなかった。
そういうことを考え、結婚には至らなかった。

 が、現在はちがう。
恋愛したとたん、ノーベル賞か何かでも取ったかのように、それを第一に考え、そのまま結婚へ、突っ走ってしまう。
またそうであることを、「理想」であるかのように錯覚している。
映画『タイタニック』のジャックとローズを思い浮かべればよい。
これを称して「恋愛至上主義」(はやし浩司)という。

 映画を観ながら、「今の若い人に、そういう心理は理解できないだろうな」と、そんなことを考えた。

「そういう心理」というのは、「恩義という心理」である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今までに書いた原稿をいくつか紹介します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●理想の女性

 「Y」という、雑誌を購入。
私たちの年代層をねらった雑誌。
それを読みながら、ワイフが、こう言った。

 「男って、死ぬまで、理想の女性を追い求めるって、ホント?」と。

 雑誌を横取りしてみると、それには、こうあった。
ある舞台監督と女優との対談だった。
K(監督)「男っていうのはね、死ぬまで、理想のマドンナ(聖母)を、追い求めるものなんですよね。
女性には、それがありませんか?」
S(女優)「女性には、ないと思います」と。

 私は、それを読んで、すかさずワイフにこう言った。
「理想の女性を追い求めるという姿勢は、マザコンの特徴の一つだよ」と。

 つまりマザコン性の強い男性ほど、頭の中で、理想の女性を夢想する。
つまり究極まで自分を愛してくれる女性を、だ。
わかりやすく言えば、自分の母親の代用してくれる女性を追い求める。

 言うまでもなく、このタイプの男性は、無意識のうちにも、「母親」から、自分を切り離
すことができない。

 だから一般論として、つまり心理学の常識として、マザコン性の強い男性ほど、現実の女性を愛することができない。
そのため、浮気率が高くなる。
女性から女性へと、渡り歩く傾向が強くなる。
当然のことながら、離婚率も高くなる。
 実際、このタイプの男性と、結婚生活をつづける妻は、たいへん! ……と思う。
このことは、反対の立場で考えてみると、わかる。

 もしあなたの妻が、何かにつけて、あなたに、理想の「男」を、求めたとしたら、あな
たはどうするだろうか。
たくましくて、包容力があって、生活力もある。
おまけにハンサムで、かっこいい。
どんなことをしても、許してくれる。さいごのさいごまで、あなたのめんどうをみてくれる……と。

 多分、あなたは、こう言うだろう。
「やめてくれ! オレは、ふつうの人間だ!」と。

 対談した女優が、「女性には、ないと思います」と答えたのは、しごく当然のことである。

私「この監督は、自分が、マザコンであることに気づいていないね」
ワイフ「でも、何かと、話題作を発表しているわよ」
私「だから、こういう雑誌で、対談しているんだろ」
ワ「そうね」と

 理想の女性などというのは、いない。
いるはずもない。だから追い求めるだけ、ムダ。
追い求められる女性のほうだって、疲れる。
その監督は、若くして、母親をなくしている。
だからよけいに、母親の代用をしてくれる女性を、心の中で追い求めているのかもしれない。

私「ある男性はね、会社で昇進したりするとね、奥さんに電話をする前に、実家の母親に電話をしていたそうだよ」
ワイフ「マザコンね」
私「そうだよ。しかしね、本人は、そうは思っていない。自分は、親思いの、孝行息子と思いこんでいた」
ワ「奥さんも、たいへんね」
私「そこでこのタイプの男ほど、自分の母親を美化する。『ぼくの母は、ぼくが、そうするにふさわしい人だ』とね」

ワ「自分の母親が、理想の女性というわけね」
私「そう。究極の愛で自分を包んでくれる、理想の女性というわけだよ」
ワ「でも、そうして、男は、マザコンになるの?」
私「女性にも、マザコン性の強い人はいるよ。でも、やはり男性に多い。理由は、結論を
先に言えば、父親不在だからだよ」
ワ「父親の存在感がないということ?」

私「そう。子どもは、だれしも、母親との絶対的な関係の中で、生まれ育つ。それが悪い
というのではない。それは人間の成長には、必要不可欠なものだ」
ワ「が、そのままになってしまったというわけ」
私「そうなんだよ。そこで、その絶対的な関係を、是正するのが、父親の役目ということになる。が、その父親の存在感がない。だから、濃密な母子関係のまま、おとなになってしまう」

ワ「でもね、もし、その父親が、マザコンだったら、どうするの」
私「ハハハ、それは問題だア。どうするんだろ。困った問題だね」と。
 しかし、こうまで堂々と、自分のマザコン性を主張する人がいるとは! もちろん本人は、それに気づいていない。対談の内容は、要するに、その監督は、舞台芸術をとおして、理想の女性を追い求めているということだそうだが……。
 しかし……?

 (マザーコンプレックス)いわゆるマザコン。
成人した男性が、母親との間に、依存関係を保ち続け、そのことに疑問や葛藤を感じていない状態。
このような男性は、母親からの過剰な愛情によって、青年期に達成されるべき、同年代の異性との交友関係をもつために必要な人格の確立ができなかったと考えられる(深堀元文「心理学のすべて」)。

(教訓)

 母親は、子育てをする。
それは当然だが、子どもがある年齢に達したら、子どものほうが、親離れするように、仕向けなければならない。
あるいは父親が、母子関係に割って入り、その関係を是正しなければならない。
「ある年齢」というのは、多少個人差はあるが、年齢的には、満8歳前後をいう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【女性のマザーコンプレックス】

+++++++++++++++++++++

マザコンというと、男性だけの問題と
考えている人は多い。
しかし女性のマザコンも、それと
同じくらい、多い。

+++++++++++++++++++++

●依存と愛情(Mother Complex)

+++++++++++++++++

「マザコン」というと、男性だけにある
特異な現象と思っている人は多い。

しかし女性にも、マザコンの人は
いくらでもいる。
同性というだけで、目立たない。

これについては、何度も書いてきた。
ここでは、さらにもう一歩、話を進めて
みたい。

これには男性も女性も関係ないが、
母親にベタベタと甘えているからといって、
それだけ、母親への愛情が深いかという
と、そういうことはない。

マザコン性というのは、母親への依存性を
いう。
依存性イコール、愛情の深さではない。

よくあるケースは、それまではマザコンで
あった女性が、母親が認知症になったとたん、
母親への虐待し始めるというもの。

依存できなくなったときが、縁の切れ目(?)
ということか。

もちろん、中には、そのままの状態で、見た目には
良好な(?)人間関係をつづける親子もいる。
しかしそういうケースは、少ない。

つまりマザコンタイプの人は、常に「理想の
女性像(マドンナ)」を、母親に求める。
母親は、常に、その理想の女性でなければ
ならない。

が、母親がその期待(?)に応えられなく
なったとき、マザコンタイプの人は、それを
すなおに受け入れることができない。
あるいはそれを許すことができない。

たいてい、その段階で、はげしく葛藤する。

ある女性(60歳くらい)は、自分の母親が
認知症になりつつある段階で、そのつど、
パニック状態になってしまった。

母親が、就寝中に尿を漏らしただけで、親戚中に
電話をかけたりした。

「お母さんが、オシッコを漏らしたア~!」と。

が、先にも書いたように、依存性イコール、愛情の
深さではない。

たとえば夫婦についても、そうで、配偶者に
強い依存性があるからといって、つまり見た目には
ベタベタに仲のよい夫婦に見えたとしても、
たがいに深い愛情があるとはかぎらない。

言うまでもなく、「愛」というのは、どこまで
相手を「許して忘れるか」、その度量の深さで決まる。
つまりその分だけ、愛には、常に孤独と苦しみが
ともなう。

さらに言えば、愛には熟成期間が必要。
たがいに困苦を乗り越え、その結果として、
人は「愛」を自覚することができるようになる。

一方、依存性は、その人自身の情緒的欠陥、精神的
未熟性に起因する。
情緒的欠陥、精神的未熟性をカバーするために、
相手、つまり母親(父親、配偶者)に依存する。

「母親に依存する」ということと、「母親を愛する」
ということは、まったく異質なものである。

このことは子どもの世界を見れば、よくわかる。

親に依存している子どもは多いが、親を愛している
子どもというのは、皆無とみてよい。
あっても、「思いやり」程度。
たとえば病気になった親を、看病するとか、など。
年少の子どもであれば、なおさらである。

子どもが「愛」を自覚するのは、思春期前夜から
思春期にかけてである。

また話は少しそれるが、よく「マザコン男性ほど、
離婚率が高い」と、言われる。
それもそのはずで、つまりその分だけ、マザコン男性は、
配偶者に、理想の女性(マドンナ)像を求めすぎる。
あるいは押しつけすぎる。
それが夫婦の間に、キレツを入れる。

さらにマザコンタイプの人ほど、自分がマザコン的で
あることを正当化したり、ごまかすため、
母親を、ことさら美化する傾向が強い。

(ファザコンも同じように考えてよい。)

「私の親を批判したり、悪口言ったりするヤツは、
たとえ女房、子どもでも許せない」と息巻くのは、
たいていこのタイプの男性と考えてよい。
(男性にかぎらない。女性でもよい。)

話をもどす。

人間関係、とくに親子関係、夫婦関係を見るときは、
この(依存)と(愛情)に焦点をあてて考えて
みるとよい。

また別の人間関係が見えてくるはず。

+++++++++++++++++++

以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++

●マザコンの果てにあるもの

++++++++++++++++

マザコンについて、補記します。

++++++++++++++++

 子どもをでき愛する親は、少なくない。
しかしでき愛は、(愛)ではない。
自分の心のすき間を埋めるために、親は、子どもをでき愛する。
自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うために、子どもを利用する。
つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。
代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。
つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。
このタイプの親は、自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。
無意識のまま、そうする。こうしてたがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。
いくつかの特徴がある。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
でき愛ぶりを、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。
ベタベタというか、ドロドロしている。
自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。
ある母親は、私にこう言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子どもをなぐりつけたくなります。
その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。
しかし概して言えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。
父親がいるかいないかわからないといった、状態。

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコンになるケースは少なくない。
むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになるよりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっしょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。
が、それが40歳の娘であったりすると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏見が、娘のマザコン性を見逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。
したがって、それから生まれるマザコン性もまた、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。
いつも、心のどこかで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取られた」と、みなに訴えた。
そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。
マザコンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというのは、心の奥の内側の問題である。
外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人はいくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それに気づくことは少ない。
……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘したりすると、こう答えたりする。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサになれと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視しやすい。
美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、正当化するために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。
また親は親で、子どもが中学生くらいになったら、子離れをする。
こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならなくなることがある。
そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。
宗教にたとえるなら、本尊のようなもの。
その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定することに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。
マザコンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。
親は、悪人であってはならないのである。
また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すことができない。

 そして母親が死んだとする。
依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこそ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ~ん」と、泣き叫ぶようになる。

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるようになる。
そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。
ある男性(映画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そういうものです」と。
(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困るが……。)
自ら、「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。
子どもをマザコンにして、よいことは、何もない。

(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 マドンナ 映画監督 マザコン マザコン映画)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんどうをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。

(はやし浩司 マザコン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘 はやし浩司 マザーコンプレックス マドンナ 女性のマドンナ化 偶像化 理想の女性形)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司