Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, June 30, 2011

●人間の依存性

●人間どうしをつなぐ粘着力

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心理学の世界には、「共依存」という言葉がある。
それについては、たびたび、書いてきた。
よくあるケース。
暴力的な夫と、その夫に、涙ぐましいほどまでに、
献身的に仕える妻。
「ふつうなら……」ということになるが、一度、
共依存関係ができてしまうと、その関係を
断ち切るのは容易なことではない。

まず、共依存について書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●共依存(改)2011-06-29

酒に酔って暴れる夫。殴られても蹴られても、そういう夫に尽くす妻。
典型的な共依存関係である。
妻に依存することで、自分の立場を確保する夫。
依存されることで、自分の立場を確保する妻。
妻を殴ったり蹴ったりすることで、妻の従順性を確かめる夫。
殴られたり蹴られたりすることに耐えながら、夫への従順性を証明しようとする妻。
たがいに依存しあいながら、自分を支える。
傍から見ると何とも痛ましい夫婦関係だが、親子の間でもときとして、同じことが起きることもある。
家庭内暴力を繰り返す息子と親の関係。
ニートとなり家の中に引きこもる子どもと親の関係。
子どもを突き放すことができない。
親自身も、無意識のうちに子どもに依存しているからである。

(補記)

●共依存

 依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症など。

もちろん、人間が人間に依存することもある。
さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。
それを「共依存」という。典型的な例としては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。
仕事はしない。
何かいやなことがあると、妻に怒鳴り散らす。
しかし決定的なところまでは、しない。
妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前でやめる。
(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。
日ごろは、やさしい夫といった感じ。
サービス精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。
お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。
私は、この人には必要なのだ。
だからこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と思い込み、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。
そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。
そして仕事から帰ってくるときは、必ず、夕食の材料を買って帰るという。

それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところがあった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。
本来なら、夫に、依存性をもたせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だった。
当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってしまうかもしれない。
そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をもたせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きなキズを負うことが知られている。
「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。
このような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないかという不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを身につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェルドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症とも考えられなくはない。
もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような症状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……という疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。
このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。
だからますます、夫に依存するようになる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。
これが「共依存」であるが、しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。
他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。
親子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。
わざと、弱々しい母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買ってきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存していたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたりするなど。
前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いている自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。

その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりながら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。
その同じ母親が、その翌日には、友人たちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。
「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。
言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。
決して珍しくない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像するが、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。
むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。
母と成人した息子がいっしょに風呂に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題にはならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

このつづきは、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティックバイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読み返してみて……

 前述の原稿は、ずいぶん前に書いた原稿である。
「ずいぶんと勝手な解釈をしているな」と思うところもないわけではない。
しかしこれは心理学一般に共通することだが、心理学の世界では、数学でいえば、いわゆる「公式」的なことしか書いてない。
具体例が書いてある本というのは、少ない。
さらに「では、どうすればいいか」というところまで書いてある本は、さらに少ない。
「心理学」というのは、そういうものかもしれない。
言うなれば、心の作用を、結晶化したもの。
それを並べて説明したのが、心理学。

 言い換えると、心の作用は複雑。
複雑というより、もろもろの心理作用が、複雑にからみあって、その人の心理作用を決める。
共依存についても、純粋な意味での「共依存」というのは、ない。
だからそのあとは、「それぞれの人の解釈で……」となる。

 こうした勝手な解釈は、アカデミックな世界では許されないことかもしれない。
自分の意見を付け足すことについても、そうだ。
が、しかし逆に言えば、心理学だけで、人間の心の採用をすべて説明できるわけではない。
たとえば、こんな例で考えてみよう。

●仮面夫婦

 「仮面夫婦」という言葉がある。
私たち夫婦もそれかもしれない。
あなたがた夫婦も、それかもしれない。
表面的には夫婦だが、中身は空っぽ。
形だけの夫婦をいう。

 が、そういう夫婦の方が多いことを思えば、「それが夫婦」ということになる。
結婚当初のように、ラブラブの関係にある夫婦というのは、まず、いない。
またそういう夫婦を基準にしていはいけない。
恋愛は、ロマンス(=夢の中のできごと)だが、結婚は、現実である。

●悪妻

 私は率直に言うが、Nさん(女性、45歳)ほどの悪妻を、ほかに知らない。
まさに悪妻中の悪妻。

 突発的に錯乱状態になり、夫を蹴る、殴るは当たり前。
一足数万円もするようなハイヒールの靴を、夫に投げつけたりする。
さらにはげしくなると、台所からフライパンをもってきて、それを夫に投げつけたりする。

 見るに見かねて、夫の両親と夫の兄が、Nさんを精神病院へ連れて行こうとしたことがある。
しかしNさんは、さらに暴れて、それを拒否。
近所中に聞こえるような声で、泣きわめいた。

 が、一晩……というより、数時間もすると、まったく別人になってしまう。
まったくの別人である。
穏やかで、やさしい。
言葉の使い方も、ていねい。

が、よく観察すると、どこか不自然。
どこか演技ぽい。
別の心を、どこかで押し殺しながら、そうする。

 こんなことがあった。

 夫は、宅配便の運転手をしている。
稼ぎは、それほど、多くない。
そのこともあり、生活費が足りなくなると、Nさんは、夫の実家へ行く。
やや痴呆症になりかけた父親と病弱な母親がいる。
それをよいことに、「100万円、出せ!」「200万円、出せ!」と。

 夫の両親は、ともに80歳を超えている。
会計士として蓄えた財産はあるが、それにも限度がある。
そこで母親が、「5万円くらいなら……」と言うと、Nさんは、その現金を、母親の顔に叩きつけて、その場を去っていったという。

 が、夫は、Nさんと離婚はしない。
2人の子どもがいた。
それにNさんの夫は、心のやさしい男性だった。
妻に蹴られたり、殴られたりしても、オロオロと逃げ回るだけ。

●心の病気

 こういう関係を、どう理解するか。
「共依存」という言葉だけでは、説明がつかない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、多分に心の病気がからんでいる。
夫にしても、そういう妻であるにしても、孤独であるよりはよい。
あるいは夫自身も、何かの心の病気をかかえているのかもしれない。
それに毎日がそうであるというわけでもない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、10日に1度くらい。
多くて、5日に1度くらい。
それ以外のときは、先にも書いたように、むしろおだやかで、やさしい。

 そこで私は、……つまりNさんの夫のことを思いめぐらすうち、「心の粘着力」という言葉を思いついた。
もちろん心理学上の言葉ではない。
私が勝手につけた名前である。

●心の粘着力

 人間関係には、ある程度の粘着力がある。
強弱の差はあるかもしれない。
粘着力の強い人間関係もあるだろうし、弱い人間関係もある。
強い人間関係は、「ネバネバ」ということになる。
弱い人間関係は、「パサパサ」ということになる。

 夫婦の関係。
友人の関係。
親類、縁者の関係。
近隣の人たちとの関係。
もちろん親子の関係、などなど。

 最近の若い人たちの傾向としては、前にも書いたが、デジタル型の人間関係が目立つ。
人間関係を、「ON」と「OFF」だけで、割り切ってしまう。
一度、「OFF」にすると、まったくのゼロにしてしまう。

 で、ここではもう一歩、話を進めて、ではどういうときにネバネバになり、またどういうときにパサパサになるか。
それについて考えてみたい。

●ネバネバ

 最近、私とワイフの関係は、加齢とともに、よりネバネバになってきたように感ずる。
「先が短くなった」という思いもある。
積み重ねてきた思い出も多い。
とくに私たち夫婦は、すべてを、2人だけでしなければならなかった。
だれの助けも期待できなかったし、だれも助けてくれなかった。

 3人の息子たちにしても、ワイフは自分で助産院に行き、ひとりで子どもたちを産んだ。
そのあとも、だれにも助けてもらわなかった。

 一方、私は仕事オンリー。
それでも家計は苦しかった。
当時はそういう時代だった。
だから余計に、私はがむしゃらに働いた。
20~30代のころは、休日は、月に1日だけ。
そんな年が何年もつづいた。

 だからというわけでもないが、私たち夫婦は、言うなれば「ネバネバ夫婦」。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、1~2日のうちには、もとに戻る。
もとに戻って、また手をつないで歩く。
が、私がここで書きたい「ネバネバ」は、それとは意味が少しちがう。

 先のNさん夫婦のばあいである。
「ふつうなら、離婚」ということになるが、離婚しない。
「子はかすがい」とは言うが、それもあるのかもしれない。
が、何が2人をつないでいるのか。
そのつないでいるものが、ここでいう「ネバネバ」ということになる。

●理解のワク

 もう一度、共依存の話に戻る。
共依存の関係にある夫婦は、たしかにネバネバしている。
ほかにも、夫婦の間の会話が完全に途切れてしまった知り合いもいる。
まったく、しない。
そこでその夫婦のばあい、息子たちが、夫婦の、(つまり両親の)、連絡係をしている。
が、それでも夫婦。
離婚しないのか、できないのか、あるいはなぜそうなのか。

 そういうのを「仮面夫婦」というが、仮面の向こうに隠されたネバネバには、常識では理解できない(思い)が隠されている。
それこそ私のような人間が、いくら想像力を働かせても、理解できるようなものではない。
理解のワクを超えている。
「私なら、即、離婚」と口で言うのは、たやすい。
しかし、問題は、そんな簡単なことでもない。

●離婚率35・4%

 もちろん反対に、「パサパサ夫婦」というのも、いる。
昔、「成田離婚」というのも、あった。
新婚旅行から帰ってきたそのとき、成田空港で離婚する。
だから「成田離婚」。

 パサパサといえば、パサパサ。
成田離婚は別として、さしたる理由もないまま、簡単に離婚していく人も、これまた少なくない。
一般論からいうと、(統計的にもそういう数字が出ているが)、身近に離婚経験者がいると、その影響を受けて、その夫婦も離婚しやすいという。
姉夫婦が離婚したとたん、妹夫婦も、離婚する。
親が離婚経験者だと、子も離婚しやすくなる、など。

 何も離婚することが悪いと書いているのではない。
離婚など、今どき、珍しくも何ともない。

厚生労働省が発表している人口動態総のデータによれば、平成19年度に結婚した人の数が約72万人に対して、離婚した人の数は25万5000人ということになっている※。
72万人に対して、25万人。
離婚率でみるかぎり、254832÷719822=35・4%!

 この数字をどう読むかだが、意外と、都会に住む人ほど、離婚率が低いというのも、興味深い(同、統計)。

(注※)結婚届を出す数が、毎年72万人。
離婚届けを出す人が、毎年25万人ということ。
結婚年数や、結婚→離婚を繰り返す人の数などは、考慮に入っていない。

●二人三脚

 私の考えでは、夫婦でも、「形」にしばられることなく、人間関係が破綻したら、さっさと離婚したほうがよいのでは、と思う。
思うだけで、では、実際、自分たちがそうなったら……というときのことを考えると、自信はない。
それでもネバネバとがんばるかもしれない。

 世間体もある?
もちろん子どもたちのこともある?
が、それ以上に、今は、もう夫婦でありつづけるしかない。
二人三脚でも生きていくのがむずかしい。
ひとりになって、どうやって生きていくというのか。

 が、結論から先に言うと、つまり、これがこのエッセーの結論ということになるが、人間関係が、近年、ますますパサパサになってきた。
ネバネバ感が消え、パサパサになってきた。
つまり人間どうしをつなぐ、粘着力が、弱くなってきた。
それがよいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
その結果は、もう少し先になってみないとわからない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 粘着力 パサパサ人間 ネバネバ人間 離婚率 日本人の離婚率)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【浜名湖かんざんじ荘にて】2011年6月29日

●ストレス解消

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過度の精神的ストレスが、脳ストレスを引き起こすと言われている。
免疫細胞がサイトカインという悪玉ホルモンを分泌する。
どちらが先で、どちらがあとでもよい。
同時進行の形で、脳ストレスが起こる。

脳ストレス(脳内ストレス)になると、気分が沈む。
重くなる。
ゆううつになる。

で、こうなったら、気分転換を試みるのがよい。
いろいろな解決策があるが、そのひとつとして、ドーパミンの分泌を促すという方法が考えられる。
つまり何らかの形で、欲望を満たす。
ドーパミンは、欲望と快楽を司るホルモン。

(これは私という人間の、素人考え。
しかし現象的には、たいへんうまく説明できる。)

 私のばあい、何か新製品を買うこと。
何でもよい。
説明書が、分厚いものほど、よい。
買うことによって、欲望を満足させる。
サイトカインとドーパミンの関係については、知らない。
ほしいものを手に入れたという満足感が、脳ストレスを軽減する。

しかし脳ストレスを甘く考えてはいけない。
うつ病などさまざまな精神的疾患を引き起こす。
長引けば長引くほど、慢性化、重症化する。

 だから私には、買い物依存症の人の気持ちがよく理解できる。
買い物依存症の人は、それがほしいから、買うのではない。
買うことによって、欲望を満足させる。
言うなれば条件反射。
アルコール中毒やニコチン中毒と同じ。
同じメカニズムが、脳内で働く。
だから逆に言うと、そういう人たちは、(私も)、すでに何らかの心の病気をかかえているということになる。
心の病気を代償的に解消するために、ものを買う。

 先にも書いたように、これは私という人間の素人考え。
あくまでも参考程度に考えてほしい。

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●温泉

 このところ、温泉巡りがつづく。
講演に招かれるたびに、それにかこつけて、温泉に泊まる。
先週は、伊豆長岡温泉に一泊した。
「正平荘」という、伊豆でも10本の指に入る名旅館である。
そこで京風割烹料理というのを食べた。
おいしかった。
温泉もよかった。
中庭もすばらしかった。
その私、京料理など、食べたことがない。
どういうものを京料理というのかさえ知らなかった。
遠い昔、一度食べたことがあったはずだが、味は、覚えていない。

 で、そのことを、先日、Mさん(女性)に話した。
生徒の母親で、今でも京都弁を話す。
「鴨(丸)ナスのグラタンを食べました」と話すと、「鴨ナスは、京都のものどす」と。
Mさんは、本当に美しい。
父母の間でも、よく話題になる。

 で、今日は、ここ浜名湖かんざんじ荘。
先日、ワイフの誕生会をかねて、ここへ来た。
よかった。
それでまた来た。
何と言っても、展望風呂がよい。
浜松イチのローケーション。
温泉で、ゆっくりと体を温める。
浜名湖かんざんじ荘は、いつ来ても、私の期待を裏切らない。
脳ストレスの解消には、最高!

●喧嘩

 脳ストレスの話を書いたので、もう少し、その前後を書く。

 このところ何かと不愉快なことがつづく。
災難は忘れたころやってくるという。
私がまいた種が原因なら、まだあきらめもつく。
対処の仕方もある。
しかし災難という災難は、私とは関係なく、やってくる。
原発事故もそうだが、頭のおかしな人にからまれるのも、そのひとつ。
先週は、その頭のおかしな人に、2度もからまれた。
そういう人というのは、まともな論理が通用しない。
話しても、無駄。
突発的に錯乱状態になる。
あたりかまわず、怒鳴り散らす。

 私は逃げたが、本来なら、殴り飛ばしてやりたかった。
ポカーンと一発、殴り飛ばしてやりたかった。

そういう私は子どものころ、喧嘩が得意だった。
10人くらいの子どもを相手に、たった1人で戦ったこともある。
小学5年生か、6年生のときのことだった。
相手が「決闘したい」と言うから、そこへ行った。
学校の裏手の、山のふもとだた。
そこに10人ほどがずらりと並んで、私を待っていた。

 私はそれを見た瞬間、真ん中の親分格の子どもに、頭から突っ込んでいった。
相手に逃げるスキを与えなかった。
相手は、私の頭突きを受け、そのままうしろへひっくり返った。
たぶんそのとき、相手は後頭部をぶったのだろう。
そのまま大声でうめいた。

 私は相手を頭突きした勢いを借りて、そのままその場を走り去った。
あとのことは知らない。
知らないが、その相手は、それ以後、私の姿を見ると私におびえるようになった。

 そういう思考回路や行動回路が今でも残っている。
だからそういうわけのわからない連中に出会うと、先に書いたように、殴り飛ばしたい衝動にかられる。

●キーボード

 もうひとつの解消法として、こうしてパソコンを使って文章を叩き出すという方法がある。
今、使っているのは、ドコモの携帯端末を買ったとき、おまけでもらったパソコン。
TOSHIBAのダイナブック。
性能はそれなり。
しかしワープロとして使う分には、問題はない。
キーボードのタッチ感が心地よい。
私は、パソコンは、キーボードのタッチ感で選んでいる。

 ……そういえば、将来的には、現在のようなキーボード付のノート(ミニ)パソコンは、姿を消す運命にあるそうだ。
あと4~5年で、タッチパッド式のパソコン(iPadなど)に置き換わるとか。
何かのパソコン雑誌に、そう書いてあった。

 が、それはどうかな?
そうなるかな?
キーボードの感触を楽しむために、パソコンを使う人もいる。
ピアノだって、そうだ。
タッチパッド式の鍵盤など、どう考えても、おもしろくない。
たぶん私はそういう時代になっても、キーボード付のノート(ミニ)パソコンを使いつづけるだろう。

●モヤモヤ

 思いついたことを、つぎつぎと書いていく。
頭の中にたまったモヤモヤを吐き出す。
これが私には、よいストレス解消法になる。
今が、そうだ。

 読んでくれる人には、申し訳ない。
しかし読者の方を利用しようなどという、失礼な思いは毛頭ない。
できるだけ何か、役に立てることを書きたいという気持ちは、ある。
たとえば今、私がここに書いたストレス解消法が、だれかの役に立てばよいと願っている。
脳ストレスにしても、それが脳ストレスによるものと気づかないまま、それに振り回されている人は多い。

 が、少し慣れてくれば、(もちろんその知識も必要だが)、自分で自分の脳の中の様子を客観的に知ることができるようになる。
脳の機能そのものが、重ぼったくなってくる。
不平、不満が多くなる。
こだわりが強くなり、ささいなことで悶々と悩んだりする。
ものごとを悪いほうへ、悪いほうへと考える。

 ……まさにうつ病の症状?

 が、甘く考えてはいけない。
サイトカインの分泌が慢性化すると、免疫細胞の活動が鈍くなる。
免疫機能が低下する。
その結果、がん細胞が活性化する。
最近では、「がんも生活習慣病」と位置づけられるようになった。
原因の第一は、もちろん、ストレス。

●孤独

 最大のストレスと言えば、もちろん「孤独」。
孤独から生まれる、絶望感。
疎外感。
虚無感。

「孤独は心のがん細胞」。
孤独感が高ずると、人は自殺まで企てるようになる。
だから「がん細胞」。

 その孤独。
逃げる方法と、闘う方法がある。
ひとつは、自分をごまかして、孤独であることを忘れる。
しかしこれは邪道。
もうひとつは、生きがいを確保する。
が、これがむずかしい。
一朝一夕には、できない。
10年単位の準備も必要。
「定年退職しました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木の植樹をしてきます」というわけには、いかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、長つづきしない。

●老人、お断り

 老後の最大の問題は、「孤独」ということになる。
今朝も、友人のR先生と話した。
R先生は、産婦人科医として、10年ほど前まで、医者をしていた。
5年ほど前、夫をなくし、それを機会に、現役から引退した。
そのR先生が、こう言った。

「息子がね、タクシーにでも乗って、温泉へ行って来いとよく言います。
でもね、ひとりで温泉に行っても、つまらないし……」と。

 そこでピンときた。
ひらめいた。
「そういう1人ぼっちの老人は多い。そういう人たち用の、特別コースを用意すればよい」と。
送迎は、タクシーですればよい。
旅館では、そういう老人たちのための親睦会を開けばよい。
カラオケ大会やダンス教室でもよい。

 この先、旅館業が生き残ろうとするなら、老人を考える。
老人をどう取り込むか、それを考える。
方法はいくらでもある。
が、こんなさみしい話もある。
隣の韓国では、こんな旅館がふえてきたそうだ。
旅館にも年齢制限のようなものがあって、「介護者なしの老人の1人客は、お断り」と。
つまり老人は、この先、敬遠される。
そういう流れができつつある。

●金貨金融

 先ほど、ニュースサイトをのぞいた。
TBS・News-iに、こんな記事が載っていた。

いわく『2人は、「金貨金融」と呼ばれる新たなヤミ金業を営んでいたのです。
その仕組みはこうです。
和田容疑者の店はまず、金を借りにきた客に相場より高い価格で、かつ後払いで金貨を買い取らせます。

 客は、金貨を買い取り業者に持ちこんで現金を受け取る。最終的には、客が後払い金を店に戻す。客は現金を手にするものの、法外な金利を負担する形です』と。

 ゆっくりと読んでみたが、(しくみ)がよくわからなかった。
で、2度、3度、読みなおしてみた。
「金」を「ゴールド」の意味と、「マネー」の意味で使っている。
まぎらわしい。

 つまりこういうことらしい。

 お金(マネー)を借りに来た客に、金貨(ゴールド)を買わせる。
たとえば時価20万円の金貨(ゴールド)を、法定金利の83倍というから、……ウーン、かなりの金額になる。
15~20%(法定金利)の83倍として、4万x約80倍=約320万円。
320万円で買わせる。
客は、その金貨を、別の業者のところへもっていき、そこで売る。
20万円の現金を受け取る。
客は20万円の現金を手にすることができるが、同時に、320万円の借金を背負うことになる。
(法定金利内であれば、1年後に23・6万円だけ返せばよい。)

(注)金銭消費貸借契約における上限金利は、基本的には利息制限法で定めている金利(元本10万円未満は20%、元本10万円以上100万円未満は18%、元本100万円以上は15%)が適用される(All About マネーサイトより)。

 しかしこうしたインチキ高利貸しは、30年前にもあった。
手口は、こうだ。

 1人の客が、金融業者のところへ、たとえば100万円を借りに行く。
すると金融業者は、その場では金(マネー)を貸さないで、電気店へ客を連れて行く。
そこで片っぱしから、電気製品を買わせる。
高額なパソコンなど。
支払いは、すべてローン。

 で、その電気製品を、そのまま買い取り屋へもっていく。
そのとき客も連れていく。
値段の30~50%で、買い取り屋に買わせる。
それで得た現金を、客に渡す。
200万円で売れたら、100万円を客に渡し、残りの100万円を自分のものにする。
買い取り屋は、買い取った電気製品を、「未開封の新古品」として、別の業者に安く売る。

 客は、さらなる多額の借金をかかえ込み、やがて自己破産。
私の知人は、最初の借金は、たったの700万円。
1年半後には、それが1億5000万円になり、結局は自己破産に追い込まれた。
 
●ワル

 ワルはいつの世にもいる。
が、こんなワルは、そうはいない。

 自分の腎臓がだめになった。
そこで若い男と養子縁組。
その若い男から腎臓を摘出し、自分の体に移植した。
大病院の院長だったというから、開いた口がふさがらない。
なお現在、その若い男は、行方不明。
その若い男は、もうこの世にいないかもしれない。
が、もしそうなら、この医師こそ、本物のワル。
前代未聞のワル。
そのワルと比べたら、金貨金融をするワルなど、……何と表現したらよいのか。
私にはよくわからない。
どちらも、ワルはワルだが、レベルがちがう。

Yahooニュースより、一部転載。

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生体腎移植を巡る臓器売買事件で、逮捕された開業医、堀内利信容疑者(55)が移植を受けた宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)を運営する医療法人沖縄徳洲会の顧問弁護士は29日、堀内容疑者が同病院に提出した書類などを公開した。

養子縁組したドナー(臓器提供者)男性(21)が提供を決めた心情を記した手書き文書など7点で、同病院で移植の可否を判断する倫理委員会にも提出された。

弁護士は「倫理委はできる限りのことをした結果、親子関係はあったと判断した」と説明している。(以上、Yahooニュース・2011・6・30日より)

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●6月30日

 6月30日になった。
風呂へは、朝5時半から入れる。
朝食は7時半。

 家までは20分足らずで帰れるから、9時以後は、ふだんの日常生活。
ちょうど月末。
毎月月末には、ワイフとどこかのレストランで、月末の打ち上げ会をすることにしている。
「今月も、無事、終了!」と。

 窓のカーテンを開けると、朝モヤに包まれた浜名湖が目に飛び込んできた。
窓の下の浜名湖では、水上スキーを楽しんでいる人がいた。
ボートが、走る。
そのあとを、波を切りながら、じぐざぐに別の人がスキーを走らせる。
幻想的だった。
ビデオに収めようとしたが、あいにくのバッテリー切れ。
残念!
今日も、暑くなりそう。
昨日は、全国的に、39度近くまで気温があがった。

 39度!

 もうメチャメチャな気温だが、今ではだれも驚かない。
私が子どものころは、30度を超えたら、真夏日。
それに夏も短かった。
盆の8月15日を過ぎると、秋風が吹くようになり、川の水も冷たくなった。
それが今では、6月に39度!

●新しい試み

 数日前から、新しい試みを始めた。

 まず動画を撮影する。
教室の子どもたちの様子や、町の風景など。
(昨日は、浜名湖の風景を撮った。)

 その風景を背景に、マイクを使って、子育て論を講演風に録音して重ねる。
そうすれば、ビデオを観てくれる人は、私の子育て論を聞きながら、観光も楽しめる。
私のジジ臭い顔も観ないですむ。

 で、今度の休みに、浜松市内のあちこちの観光地の様子を、ビデオカメラに収めてみるつもり。
とりあえず浜松城公園あたりがよい。
あのあたりには、いくつかの観光スポットがある。
YOUTUBEでは、最長15分までという制約がある。
そのため録画も15分前後に収める。
それに同じく15分前後の子育て論を、マイクを使って、載せる。
なかなかよい企画だと、自分ではそう思っている。

●生きた証(あかし)

 が、ここでふと考える。
「この世界は、どこまで進歩するのだろう」と。
今、私が今、書いていることにしても、10年後には、消えてなくなってしまうかもしれない。
現に、10年間つづけた、Eマガ(電子マガジン)は、この5月末をもって廃刊にした。
Eマガ社(無料版)そのものが、閉鎖になってしまった。

 こういうとき大切なことは、過去が消えたことを嘆かないこと。
新しいものに向かって、また歩き出すこと。
今はFACEBOOKとか、TWITTERが、全盛を極めている。
が、それもやがて別のサービスに置き換わっていくだろう。
ただ私のばあい、インターネットを利用する目的がちがう。
FACEBOOKやTWITTERでは、私の目的を達成することはできない。
「文」を書いて、「文」を伝えたい。
「心」を書いて、「心」を残したい。

 人間関係の拡大や情報の拡散を図る、FACEBOOKやTWITTERでは、それができない。
だからしばらくはかじってはみたものの、そのまま遠ざかったままになっている。
ただふとさみしさを覚えるのは、先が見えないこと。

 「10年後はどうなっているのだろう」「20年後はどうなっているのだろう」と。
それを考えると、さみしくなる。
現在使っているHP(ホームページ)にしても、「金の切れ目が縁の切れ目」。
むしろ無料HPサービスのほうが、より長く原稿を保持してくれるかもしれない。
読者がいるかぎり、つまりアクセスする人がいるかぎり、サービスは存続する。
今すぐというわけではないが、そういうことも考えながら、HPのあり方を考えていきたい。

 名誉や地位、それに肩書など、とっくの昔に捨てた。
私は、「はやし浩司がこの世に生きてきたという証(あかし)」を、この世に残したい。
が、それとて、10年もつか、どうか?

●読者からのメール

 ネットを開くと、こんなメールが届いていた。
私のYOUTUBEを見ている人からのものだった。
うれしかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Hi, I am B's father, say hello to you from Shanghai China. My son enjoys your great lesson very much and learns lot from it. He is now in Japan visiting his grandparents (at Ixxxx) and his great grandparents (at Ixxx). You are a great teacher, it's a good luck for children to have a teacher like you. Children have their own little worlds and their own languages, you are the one who can go into their worlds. As a father, I also think it is meaningful to watch your video. Thank you!

私はBの父親です。
上海からあいさつします。
私の息子は、あなたのレッスンをたいへん楽しんでいます。
たくさんのことを学んでいます。
彼は今、祖父母を訪問しながら、日本にいます。
あなたはすばらしい先生です。
あなたのような先生をもった生徒は幸福です。
子どもには子どもの世界が、子どもの言語があります。
あなたはそういう子どもの世界に入れる1人です。
父として、あなたのビデオを見ることに、意味を感じています。
ありがとう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 ここに書いてある、「子どもには子どもの世界が、子どもの言語があります」というのは、事実。
子どもを教えるときは、その世界へ入らなければならない。
それができなければ、教えていても、疲れるだけ。
また子どもも反応してこない。

 私が言うのもおかしなことだが、私には、それができる。
たとえばショッピングセンターなどでも、目と目が合った瞬間、その子どもの心を、私は捕えることができる。
これは私の特技のようなもの。
つぎの瞬間、子どものほうが、私を見て、ニコッと笑ったりする。

 ワイフはそういう様子を見て、よくこう言う。
「あの子、知っている子?」と。
が、私はいつもこう言う。
「知らない子だよ」と。

(付記)

 その日の午後、K君兄弟が、私の教室へ来た。
お父さんとお母さんが、水上スキーをしているという話を聞いていた。
で、浜名湖で見た人たちの話をした。
するとあっさりと、こう認めた。

「うん、それ、ぼくのパパとママだよ。
赤と白のボートだろ。
朝、4時半ごろ出かけていって、7時ぐらいに帰ってくるよ」と。

 K君の父親は、日本でも1、2位を争う、水上スキーの選手だった。
「トロフィーが、50個くらいあったけど、この前、20個くらい、捨てたよ」とも。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 浜名湖かんざんじ荘)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Wednesday, June 29, 2011

●声で子育て論byはやし浩司

【子育てポイント】

++++++++++++++++++

新しい試みとして、音声で、子育て
ポイントを、送ります。

++++++++++++++++++

(1)子どもの横に立つ




(2)幼児教育の誤解




(3)あと始末とあと片づけ




(4)




(5)





(6)




Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Tuesday, June 28, 2011

●マガジン(6-19日号)

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司      6月   29日号
 ================================  
★メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
★2009年、2010年、連続、カテゴリー部門・人気NO.1に選ばれました。

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http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日は6月10日、ワイフの誕生日

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今日は6月10日、ワイフの誕生日。
ワイフは、満xx歳になる。

仕事の帰りに、弁当とケーキを買った。
家に帰って、息子と3人で祝った。
が、すぐ外出。
今夜は、『X-Men』の先行上映会があった。
午後8時から。

ワイフの誕生日プレゼント(?)をかねて、それを観た。
星は、3つの★★★。

その映画の帰り。
今夜は田町(浜松市の中心街)にある、
クレタケ・インというビジネスホテルに
泊まることにした。
誕生日には、特別割引ということで、
一泊2800円で泊まれる。
それにポイント割引が200円ついて、
2600円!

2人で、2600円。
クレタケ・インさん、ありがとう。

・・・ということで、今、この原稿を
そのホテルの中で書いている。

時刻はまもなく11時になるところ。
ワイフは、風呂に入っている。

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●出かける(=外出する勇気)

 先日、近くの温泉で出会った男性が、こう教えてくれた。
70歳くらいの男性だが、精悍な顔つきをしていた。
「秘訣は何ですか?」と聞くと、こう教えてくれた。
「出かける勇気をもつことです」と。

私「出かける勇気?」
男「そうです。出かける勇気です。年を取ると、出かけるのがおっくうになります。でき
れば家の中で、ゴロゴロしていたいと思うようになります。そういう自分にムチを打って、
あえて出かけます。その出かけるとき、勇気がいります。だから出かける勇気なのです」
と。

 ナルホド!
その通り!

 年を取ったら、あえて外出する。
その努力を怠らない。
用がなくても、外出する。
その勇気を失ってはならない。

 実は、今夜もそうだった。
「X-Men」(ファースト・ジェネレーション)については、あまり観たいという欲求が
起きてこなかった。
似たような映画はたくさん観た。
「アイアンマン」もそのひとつ。
しかしあえて外出。
映画は、ボケ防止によい(?)。
証明された事実ではないが、そんな気がする。

●ミュータント(突然変異体)

 猿人に対して、人類がいる。
その人類に対して、ミュータント(突然変異体)がいる。
人類とミュータントの関係をわかりやすく説明すると、そうなる。
そのミュータント。
さまざまな超能力(特殊能力)をもっている。……そうだ。
映画「X-Men」の中では、そうなっていた。

 が、観ているうちに疑問、また疑問。
ただの娯楽映画なのだから、楽しめばよい。
それはよくわかっているが、疑問、また疑問。
で、結論はこう。

 「あんな程度のミュータントたちが出現したら、世界は大変なことになる」と。
「あんな程度」というのは、あんな程度。
そこらのチンピラに少し毛が生えたような人間(?)。
欲望のかたまり。
仮にそんな能力があったとしても、安易に使ってもらっては困る。
映画の中で、ミュータントたちはこう言う。
「我々が王となって、世界を支配する」と。

 しかし、だ。
私なら人間の世界など相手にしない。
冒頭に書いたことを思い出してほしい。
こう書いた。

「猿人に対して、人類がいる。
その人類に対して、ミュータントがいる」と。

 猿が島へ行って、猿の「王」になったところで、どんな意味があるというのか。
あんな猿どもを相手にし、王様気分になったところで、それで満足できるというのか。

 たとえば私の山荘近辺には、数10匹もの野生の猿が住んでいる。
動物は嫌いではないが、猿たちといっしょに生活しろと言われても、私にはできない。
断わる。

 ミュータントにしても、そうだ。
自由に空を飛べる。
すさまじい破壊力で、ビルごと吹っ飛ばすこともできる。
どんな人間にも変身できる。
そんなミュータントが、人間の世界など、相手にするだろうか。
相手にされる人間だって、困る。

 つまり脳みそのレベルは、そのまま。
人間のまま。
だから「世界はたいへんなことになる」。

●「お茶にすれば、8分の1」?

 まず民間の販売会社から、指摘をされた。
それを受けて、県側はこう言った。
「混乱を招くから、公表を差し控えてほしい。県も独自で検査をするから」(中日新聞)と。

 その結果、静岡県の本山茶から、基準値以上の放射線が観測された。
それを受けて、県側は、「出荷自粛を要請した」。

 が、このあとの説明が、ヘン!
「検査したのは、5倍に濃縮された荒茶。お茶にしてのむときは、(湯で薄められるので)、
8分の1になる」と。
だから「基本的には安全」(静岡県知事・談話)と。

 私はこれを読んだとき、「日本の数学教育は何のためにあるのか?」と、思わず考え込ん
でしまった。
微分や積分の問題は解けても、簡単なかけ算ができない?
もう一度、よく読んでみてほしい。
製茶組合(=県)の言い分は、こうだ。

(1)5倍の濃縮した荒茶で検査したのだから、放射線濃度も5倍になった。
(2)しかし飲むときは、お湯で薄めて飲むので、8分の1になる。と。

●放射線量に「しきい値」はない

 しきい値……つまり「これ以下の量なら、安全」という基準は、こと放射線に関しては
ない。
ほかの薬物、毒物には、それがある。
しかし放射線に関しては、ない。
つまり「20ミリシーベルト以下なら安全」という、言い方そのものが、ナンセンス。
それを百も承知の上で、「8分の1になるから、安全」とは?

 では、同じお茶を8杯飲んだら、どうなるのか。
お茶というのは、毎日、飲む。
飲む量にも、個人差がある。
多い人だと、(私のばあい)、1日に1~2リットルも飲む。
体内に蓄積される放射性物質は、当然、その分だけ、多くなる。

●10シーベルトで即死

 10シーベルトの放射線を浴びたら、即死と言われている(「原発事故」宝島社)。
もう少し正確には、こうある。
(ベクレルとシーベルトちがいについては、何度も書いてきたので、ここでは省略する。)

『4シーベルトで、50%が急性傷害死。
 これは国際放射線防護委員会(ICRP)の認めた(半数致死)に相当する。
 ちなみに、2・2シーベルトで、5%が、急性傷害死、9・3シーベルトで、99%が
 急性傷害死する』(同書、P24)と。

 もう少し数字を整理してみよう。

2・2シーベルト…… 5%が急性傷害死
4シーベルト  ……50%が急性傷害死
9・3シーベルト……99%が急性傷害死

 そこで問題なのは、では1シーベルトなら安全かという問題。
もちろん答えは「NO!」。
「急性」から「晩発性」へと移行するだけである。
仮に1シーベルトの放射線を受けた人が、平均1年後に死亡したとする。
では、半分の0・5シーベルト(500ミリシーベルト)の人はどうなるのか。
単純に計算すれば、2倍の平均2年後に死亡することになる。
「しきい値はない」というのは、そういう意味である。

●風評?

 すでにオーストラリアでは、「静岡県も汚染された」というニュースが飛び交っている。
さっそく、オーストラリアのK君からメールが入った。
「静岡県も汚染されたというニュースが流れているが、これは誇張なのか、それとも事実
なのか」と。

 私はこう返事を書いた。
「残念ながら、事実だ」と。

 こうした事実を、何とか「風評」とした片づけたがる県や製茶業界。
気持ちはわかるが、これはもう風評の段階を超えている。
風評というのは、根も葉もないデマをいう。
つまりもうデマではない。
事実である。

 そこで重要なことは、事実は事実として受け入れた上で、たとえばこうする。

(1)これから出荷するお茶については、すべて検査し、それがもつ放射線量を表示する。

 今のように、(たまたま販売会社から指摘され、県が検査した製茶工場だけをさして)、「ほ
かの製茶工場では、基準値を下回っていました」では、国民は納得しない。
言い換えると、こういうごまかしを繰り返すから、国民は不信感をもつ。
政府の言うことを信用しなくなる。
結果として、風評(?)だけが、ひとり歩きするようになる。

●数学

 ともあれ、お湯に溶かして飲むから、8分の1の放射線濃度になるというのは、インチ
キもよいところ。
繰り返すが、そういうお茶を、8杯飲んだら、同じ。
どうしてこんな簡単なかけ算も、できないのか?
言い換えると、学校教育というのは、何のためにあるのか。

 計算はできる。
問題も解ける。
しかし自分で考える力がない。
またそういう力を育てていない。
だからこういう説明を受けると、そのまま鵜呑みにしてしまう。
「5倍に濃縮したのだから、放射線量が5倍になって当たり前」
「お湯に溶かすから、8分の1になるから、安全」と。

 繰り返すが、荒茶であろうが製茶であろうが、私たちはそれを「お茶」という。
私たちは、そのお茶を飲む。
「濃縮したから、放射線量が5倍になった」というのは、言い訳にもならない。

 ともあれ、福島第一原発では、多くの人たちが事故処理の作業に当たっている。
今の今も、大量の放射線を、全身に浴びながら、作業に当たっている。
そういう人たちには、本当に頭がさがる。
申し訳ない気分にすらなる。
が、「どうかがんばってください」と言ったところで、言葉が詰まってしまう。

 つまりそういう人たちと比べると、私たちが心配している放射線の量などというのは、
微々たるもの。
それに10年後、20年後にがんになるとしても、ちょうどそのころ平均寿命も尽きる。
たいへん悲しいことだが、そこまで割り切らないと、この先、お茶すら飲めなくなる。
ただ一言。

 政府も自治体も、ウソや隠しごとをしないで、「事実」をありのまま公表してほしい。
あとは私たち自身が、自分で考え、行動する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 X-MEN 放射線と致死量 ワイフの誕生日 はやし浩司 出かける勇
気)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)

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韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっていると
いう(韓国・東亞日報)。

申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。

『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろう
か」という質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感す
ることが、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。

ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。

浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。

が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。

『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ご
めんね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育った
この言葉は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気
がした』(同)と。

つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。

申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。

今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

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●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではな
い。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、
今度は依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、
毎月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書
く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。

 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。

 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's
Village)」というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてし
まった」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年
以上、会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。

いわく、

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、
けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』
と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。

(1)子どもたちに尊敬される

(2)子どもたちを尊敬する

(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない

 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬し
ていない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。


★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という
質問に対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、

  イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。

 もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。

『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。

 へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。

「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 
はやし浩司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●静岡県茶が、出荷自粛?

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静岡県内で生産された製茶の一部から、
国の暫定規制値を超える放射性セシウムが検出
されたという(6月9日)。

「とうとう」と書くべきか。
「ついに」と書くべきか。

しかし記事の内容をよく読むと、おかしな点が
いくつかある。

(1)民間の販売店からの検査が先?

まず静岡県は、民間による自主検査からの指摘を
受けたあと、調査したという点。
つまり民間の販売店から、「基準値を超えている」という
指摘を受けたあと、静岡県は検査をした。
もし民間の販売店からの指摘がなかったら、静岡県は
再検査などしなかったであろうし、汚染された静岡茶は
そのまま市中へ流通していたであろう。

(2)静岡県は、安全圏ではなかったのか

文科省の放射線測定データをみるかぎり、
この静岡県は、「安全圏」に入っているはず。
日々の観測データには、ほとんど変化はない。
3月11日以来、一時、0・05マイクロシーベルトを
越えたことはあったが、それ以後は、0・04
マイクロシーベルト前後(最大平常値以下)を推移している
(文科省調査・中日新聞)。

この測定結果は、岐阜県や愛知県、福井県での測定結果
よりも、低い。
なのに、どうしてこの静岡県で?
ならば岐阜県や愛知県はどうなのか?
福井県はどうなのか?

(3)飲む場合には、影響はない?

これに対して製茶業界は、「安全」宣言を
繰り返している。
「飲む場合には、影響はない」と。
その論法が、おかしい。

製茶業界の言い分はこうだ。

  (1)基準値を超えたのは、ある特定の製茶工場にすぎない。
  (2)荒茶にすれば、濃度は5倍になる。製茶の段階でも5倍。
     5倍になった状態で、国の基準値を超えた。
     しかし実際に飲用するときには、お湯で薄めるので、8分の1になる。

が、すべての製茶工場で検査したという事実はない。
にもかかわらず、「特定の」という言葉を使ってよいのか。

また「薄めて飲むからだいじょうぶ」という論法は、
こと放射性物質に関していえば、ナンセンス。
もしこんな論法がまかり通るなら、どんな放射性物質も、
素通りになってしまう。

逆に言えば、こうだ。
いくら飲むときに薄められても、体内では逆に濃縮される。
内部被爆を引き起こす。

(4)放射性物質は、本当に福島第一原発から来たものなのか。

静岡市のすぐ近くには、御前崎原発がある。
今回、基準値を超えた放射性物質が検出された「本山(ほんやま)茶」
の産地である、静岡市葵区から、浜岡原発までは、
直線距離にして、たったの43キロ(グーグルアース上で測定)。

その御前崎原発は、停止措置を取ったとたん、冷却装置の
故障が起きている。

+++++++++++++以下、TBS-iより+++++++++++++++

 静岡県内で生産された製茶の一部から国の暫定規制値を超える放射性セシウムが検出さ
れました。静岡県はこの製茶を生産した工場に対し、出荷の自粛を要請しました。

 静岡県によりますと、静岡市藁科地区の工場で生産された「本山茶」から国の暫定規制
値の1キログラム当たり500ベクレルを超える679ベクレルの放射性セシウムが検出
されました。

 民間の販売店による自主検査で規制値を超えたとの報告を受け、県が同じ製茶工場で再
検査をして確認しました。

 「飲む場合には健康に影響はないと考えている」(静岡県の担当者)

+++++++++++++以上、TBS-iより+++++++++++++++

●茹(ゆ)でガエル

 こうして私たちは少しずつ、情報に対して、敏感に反応しなくなる。
こうした心理状態は、『茹でガエル』理論によって、説明される。

生きたカエルをいきなり熱湯に入れれば、カエルは飛びはねて逃げてしまう。
しかし最初は水の中に入れ、徐々に熱を加えていけば、カエルはそれに気づかず、最終的
には茹であがってしまう。……という。

 これが茹でガエル理論だが、実際には、こういうことはないそうだ。
カエルは水温があがれば、そこから逃げ出してしまうそうだ。
ともあれ、私たちは今、その茹でガエルの状態にある。
つい先日、神奈川県の足柄茶で、放射性物質が検出された。
東京を越えて、神奈川県で!

が、今度は伊豆半島を一気に越えて、この静岡県で!
やがてこの浜松市(三方原茶)でも、放射性物質が検出されるようになるだろう。
時間の問題というよりは、福島第一原発からの放射性物質は、今の今も、たれ流されたま
ま。
事態は、悪化の一途をたどっている。

●風評被害

 「風評被害」という言葉をよく耳にする。
しかしこの言葉は、不愉快。
あたかも私たち一般庶民が、加害者であるかのような印象を受ける。
風評か、風評でないかは、そんなことは一般庶民が決めること。
いくら県側が「基本的に安全」(静岡県知事)と言っても、私たちは「本山茶」は買わない。
飲まない。
そこに別の産地のお茶が並んでいれば、そちらを買う。

 つまりこれは「風評」の問題ではなく、「選択」の問題。
また「風評」というのは、根も葉もない「デマ」をさす。
今回の放射性物質の発見は、その「デマ」ではない。
「事実」である。
その「事実」を、「風評」という言葉で、置き換えてよいものか。
さらに言えば、当該製茶組合は、風評被害による損害賠償を県や国に求めていくという。
が、ここでも大きな疑問。

 どうして東京電力にではなく、国や県に対してなのか。
東京電力では、賠償能力に限界がある。
だから国や県に対してなのか。

 今、多くの人たちは言いようのない不安、やりようのない怒りを感じている。
こうした不安や怒りを、だれにぶつけたらよいのか。
……というか、その不安や怒りは、そのまま自分に対して向かってくる。
「私たちがバカだった」と。
無念といえば、無念。

 私自身も、今回の3・11大震災が起こるまで、大津波のことはもちろん、原発事故の
可能性についても、ほとんど考えなかった。
どこかで原発反対運動があっても、他人ごととして、それを心の中で片づけていた。
そういう私たちがバカだった。
その「バカ」を棚に上げて、今、「国が悪い」「電力会社が悪い」と、どうして言えるのか。
こと電力についていえば、私たちは、使い放題電気を使ってきた。

●汚染

 とても残念なことだが、これからもしばらく、放射能汚染はつづく。
放射性物質が風に乗るたびに、それは全国各地にばらまかれていく。
それがどんどんと蓄積されていく。
原子力発電所事故というのは、そういうもの。
あのチェルノブイリ事故でも、500~600キロ単位で、被害は拡大した。
600キロといえば、福島第一原発から、大阪の関西国際空港までの距離に等しい。

 それだけではない。
同じくチェルノブイリ事故のあと、1000キロ以上離れたヨーロッパでも、がん患者は
100万人単位でふえているという(宝島社「原発事故」)。

 残念ながら、これが「事実」である。
風評ではない。
事実である。
「被害」ということになれば、すでに日本中のすべての日本人が被害を受けている。
今はまだ「国」も何とかもちこたえているが、やがてその国の力にも限界が出てくる。
「国が……」「国が……」と言っておられるのも、いまのうち。
つまり今回の福島第一原発の事故は、それほどまでに深刻であるということ。
私たちが想像しているより、はるかに深刻であるということ。
言うなれば、戦争状態。

 今回、その爆弾が、静岡市にも投下された。
それが葵地区で爆発した。
願わくは、ともかくも1日も早く、福島第一原発事故が収束すること。
放射性物質の放出が、止まること。
ただただそれを心から願うしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【日中経済戦争】(はやし浩司 2011-06-10)

●中国のバブル経済の崩壊

 2011年に入ってから、中国経済が
急速のおかしくなってきた。

「11月、北京市の賃貸家賃と住宅価格の比率は500倍を突破、国際的な基準とみなさ
れている200倍を大きく上回るなどバブルが懸念されている」(「ネットの声」より)と。

500倍?
200倍?

 その国の経済はさまざまな統計的データをもとに、算定される。
しかしこんな経済指標があるとは、私は知らなかった。
わかりやすく言えば、こうだ。

 国際的な基準によれば、一戸あたり2000万円で建設された高層住宅であれば、家賃
は、200分の
1の、約10万円(月額)が、相場、それが中国では、4万円。
「安い」というのではない。
貸し手は、住宅価格の高騰を見込んで、つまり投資として高層住宅を建設する。
が、10万円では高すぎる。
だから4万円。
が、これでは元は取れない。
つまり無理がある。
その無理が、今、まさにはじけようとしている。

 ……というのは、一例。
今、「中国経済 バブル崩壊」で検索すると、60万件もヒットする。
中国経済の崩壊は、きわめて近い。
サーチチャイナのHPには、つぎのようにある。

「……投資調査会社A・ゲーリー・シリングのシリング氏はこのほど、「中国経済は201
2年に『ハードランディング』することでバブルがはじけ、世界経済が衰退する可能性が
ある」との見解を示した。環球時報が報じた」(サーチチャイナ)と。

 日本のときとちがい、中国では土地バブルは、起きない。
土地はすべて国家に帰属する。
それで「住宅」となる。
が、それにしても……!

●被害を最小限に

 とはいっても、私は何も中国経済のことを心配しているわけではない。
ただいつもこう、思っている。
「日本よ、日本人よ、お人好しはやめよう」と。

 こと経済に関して言えば、食うか食われるか。
それが現実。
サッカーの試合を思い浮かべればよい。
それが巨大化したのが、国際経済。
勝つか、負けるか。
そういう世界では、「お人好し」は通用しない。
よい例が、オウンゴール。
相手チームがヘマで、オウンゴールにしてくれれば、私たちはそれを喜ぶ。
もちろんその反対もある。
それが国際経済。

 中国のバブル経済が崩壊すれば、もちろん日本経済も大打撃を被る。
しかし日本は、中国の、これ以上の台頭を許してはいけない。
経済的脅威だけが問題ではない。
軍事的脅威もある。
そのためにも、中国のバブル経済崩壊を、歓迎はしないまでも、日本はうまく利用する。
あるいは被害を最小限に抑えるための準備だけは、今から、しっかりとしておく。

●アメリカ経済

 中国経済だけではない。
アメリカ経済もおかしい。
このままではデフォルト(債務超過=国家破綻)すると言われている。
この8月にも、第一の危機がやってくるという(2011)。

が、アメリカのばあい、いざとなったら、札・印刷機を回せばよい。
お金はいくらでもある。
その一方で、アメリカ・ドルをほしがっている国は、いくらでもある。
そういう意味で、「基軸通貨」というのは、強い。
強いが、いつまでも強いというわけではない。
ドルへの不信感は、そのまま貴金属価格の高騰へとつながっている。
現在、金はグラム4000円以上、プラチナは、グラム5000円以上。

 が、それだけではない。
加えてEU経済もおかしい。
もちろん日本経済もおかしい。
おかしいが、こうして書き出したら切りがないので、この話はここまで。

●上海の現状

 上海に住むMさん(友人、女性)が、こんなレポートを送ってくれた。
中国の実態経済をかいま見るようで、たいへん興味深い。

【上海のMさんより】

●不動産について:

不動産を買う事がないので、また、周囲の日本人駐在員で不動産を買う人も聞いたことが
無いので何ともいえませんが。。。
知り合いの中国人は既に上海市内に3物件、日本に2件あるそうです。
更に、もう1件、日本に買うとか。
我が家の家賃はこの3年上がっていませんが、上海市内では、少し前から家賃は上昇傾向
にあります。
賃貸に関してはまだまだ強気だと思います。

大家が店子を追い出したいがためにビルの電気を止めてしまって、お店を移転せざるを得
なくなった。。。なんて話はよくあります。
分譲は、先にも書いたように、具体例を知らないので何も言えません。
ただ、億ションは未だ、たくさんあります。

今まで住んでいたところが更新を機に値上がりするので、引っ越す、という知人が最近2
件ありました。
2人ともマンションは別の場所です。

携帯にマンションの宣伝がよく送られてきます。
今日来た物件は「72平米。頭金46万元(=570万円)」。
物件の値段は書かれてません。場所は未だ開通してない地下鉄の駅のそば、というだけ。
昨日きたのは「100万元(=1240万円)より。
地下鉄○号線××駅そば。
サービスアパートメント」。
決して上海市中心部ではありません。

ちなみにスターバックスのカフェラテ(トールサイズ)、25元(310円)。
タクシーの初乗り料金12元(149円)。
朝日が中国で生産販売している牛乳、1L、25元(310円)。
近所の果物屋の今日のスイカ、1.7元(21円)(500gあたり)。
近所のローカルパン屋の食パン、1斤7元(87円)。

2006年当時は4、5本しか通ってなかった地下鉄がいまや建設中のものを含めて13本あり
ます。
(あっという間に出来てしまう上海の地下鉄!)

Mより

1元=12・4円(2011年6月10日現在)
(以上、(かっこ)内は、私の方で計算。)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


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Monday, June 27, 2011

●ポポンS ●浜名湖かんざんじ荘

●蛍(ほたる)Fire Fly ●浜名湖かんざんじ荘 ●ポポンS信者

+++++++++++++++++++++

オーストラリアには、蛍はいない。
オーストラリアの友人が、そう言っていた。
英語では、「Fire Fly(火のハエ)」と言う。

その蛍が、今ごろ、山荘の周辺で飛び交う。
静かに、ひたすら静かに、羽音もなく、
静かに飛び交う。

2011年6月26日(日曜日)の夜、
私とワイフは、庭先で、蛍を追いかけた。
時刻は午後11時ごろ。
1匹、2匹……。
追いかけていくと、その先のヤブの中で、
10~15匹が飛び交っていた。
クリアな光だった。
白い、鋭い光だった。
ホーッとため息が出るほど、美しかった。

毎年、今ごろ、ときどき蛍を見かける。
しかし今年は、格別。
私も、もちろんワイフも、これほどまでの数の
蛍を見たことがない。
何匹かは、それぞれがペアになり、まるで
戯れるように飛んでいた。
ときどき、スーッと庭を横切るのもいた。
横切るときは、一直線。
結構、速い。

懐中電灯を照らしたとたん、姿が消える。
見失う。

オーストラリアの友人にそれについて書くと、
「一度でいいから、見てみたい」と。

ビデオカメラに収めようと思ったが、
「たぶん、だめだろう……」ということで、
あきらめた。

(記録)

蛍……毎年6月の末。
今年は6月26日。
曇天で、雨がつづいたような夜。
霧のような小雨が降っているか、湿っぽい夜。
そんな夜に、山草の周辺では、蛍が出没する。

(はやし浩司 蛍 ほたる ホタル 山荘の蛍 山荘のほたる)

++++++++++++++++++

●ポポンS・信者

 友人のO医師が、こう言った。
前立腺ガンの権威である。
PSA検査の普及に努めている。
「私はポポンSの信者です」と。

 その言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
それもあって、昨日、ワイフがポポンSを買ってくれた。
総合ビタミン剤である。

 ……というのも、その前の数日、体の疲れが取れなかった。
睡眠時間もじゅうぶん。
それほど体重がふえたわけでもない。
しかし何とも言えない疲労感。
横になっていても、だるい。
集中力もつづかない。

 そんなときワイフがO医師の言葉を思い出した。
「ポポンSを買ってきましょうか?」と。
即座に私は、ワイフにそれを頼んだ。

 で、その結果。

 昨夜は夕食後に2錠、のんだ。
今朝は、朝食後に1錠、のんだ。
たぶん、ポポンSが効いたのだと思う。
体のだるさが、消えた。
口から、ジョークがポンポンと飛び出るようになった。

 よかった!

私「きっと、ビタミン不足だったんだね」
ワ「夏になると、どうしても不足しがちになるからね」と。

 ということで、私もポポンSの信者になった。
これからは毎日、のむようにする。
死ぬまで、……たぶん。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浜名湖かんざんじ荘

++++++++++++++++++

昨夜、浜名湖かんざんじ荘に電話する。
浜名湖周辺では、一押しの簡易旅館。
清潔で、温泉もすばらしい。
浴衣にも丹前にも、アイロンがしっかりと
かかっている。
料理も、よい。
この旅館だけは、いつ行っても、期待を
裏切らない。
とくにカラオケスタジオがすばらしい。
一流の劇場並み。

で、X日の夜の予約を入れる。
常連と言ってよいほど、よく利用させてもらう。
それもあって、料金は、いつも特別料金。
xxxx円(1人一泊)。
「今度もその料金でいいですか」と聞くと、
「浜松の林さんですね、いいですよ」と。

こういう交渉が、電話でできるところがすばらしい。

「また、HPで、かんざんじ荘を宣伝しておきますから」と
言うと、「お願いしますね」と。
電話口の向こうの男性は、うれしそうだった。

みなさん、浜名湖かんざんじ荘へ行こう!
はやし浩司推薦の簡易旅館。
「簡易」をつけるのは、旅館街にある、ホテル九重や、花乃井
のような豪華なホテルではないという意味。

が、浜松イチのローケーション。
ほかにない!
ホント!
料金も、たいへんリ-ズナブル。
ウソでないことは、泊まってみればわかる。

〒431-1202
静岡県浜松市西区呉松町1768-1
TEL053-487-0330(予約専用)
   053-487-0257(代)

http://www.kanzanji.com/

夏休みに利用する人は、早めに予約するとよい。

もちろんふところに余裕がある人には、ホテル九重、あるいは花乃井がお勧め。
温泉で選ぶなら、ホテル・ウェルシーズン浜名湖。
あとの旅館やホテルは、どうかな?、といったところ。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●マガジン先取り(7ー1)





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 7月 1日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの心、親知らず】

●「うちに帰って相談して決めます」

 幼稚園でいうと、今、「入れて(=入園させて)もらえますか?」と聞いてくる親は、ま
ずいない。
生徒、様々。
「入れる」という前提で、見学に来たりする。
で、幼稚園側も、そうした親や子にていねいに対処する。
今では給食を提供するのも、当たり前。
手のあいている教師に、マンツーマンでガイドさせることもある。

 が、親の方はどうかというと、帰りがけに、こう言う。
「入園するかどうか、うちへ帰って相談してから決めます」と。
中には、「明日、もう一度、見学させてください」と言う親もいるという。

 親にしてみれば、何げない一言かもしれないが、この一言が、グサリと園側の園長や教
師の心を刺す。
ある教師(教師歴20年以上)は、こう言った。
「いくら慣れたとはいえ、この言葉だけには、慣れることができません」と。

●自動販売機

 こうした傾向は、私の教室でもある。
あるいはもっと、ひどい(?)。
お金さえ払えば、だれでも入れると思っている。
立場が「塾」だから、それはしかたない。
以前は、「自動販売機」と揶揄(やゆ)された。
いちいちそんなことで傷ついていたら、この仕事はできない。
慣れたわけではないが、その瞬間、その親や子どものことは忘れる。
私のばあい、「縁があったら、またおいでください」というような言い方をして、別れる。

 そう、この世界は、「縁」で始まり、「縁」で終わる。

 小さな種かもしれないが、それを蒔いておけば、いつか芽が出る。
そう思って、別れる。

 が、反対に、こういうこともある。
ときどき何かの問題をもった子どもがやってくる。
若いときは、そういう子どもでも引き受けた。
が、50歳を過ぎるころから、それができなくなった。
体力的な限界を覚えるようになった。
で、それとなく断ることもある。
が、その断り方がむずかしい。
いくらていねいな言い方をしても、たいていの親は、店で販売拒否にでもあったかのよう
に激怒する。
「どうして、うちの子は入れてもらえないのですかア!」と。

 一度だけだが昔、こう言われたこともある。
「お高くとまって、あなたは何様のつもりですか!」と。

●「メイリークリスモース」

 親といっても、若い女性の世界。
若い女性がみな、そうだというのではない。
しかし中には、テレビのバラエティ番組からそのまま出てきたような若い女性もいる。
モンスターママというよりは、プチ・モンスターママ。
電話のかけ方どころか、話し方までおかしい(失礼!)。

「オタクウ(お宅は)、ヤウジウ(幼児)キャオウシツウ(教室)?」と。
口をほとんど閉じたまま、鼻から音を出して話す。
たとえば「メリークリスマス」を、「メイリークリスモース」というような言い方をする。
都会(東京)などで、接客業をしている女性に、そういう話し方をする人が多い。
この浜松市でも、ふえてきた。

 そういう女性のばあい、私は電話の問い合わせの段階で、入会を断ることにしている。
一事が万事。
万事が一事。
母親がそういう話し方をしていて、どうして子どもにまともな国語力が育つというのか。

●ジー様

 ……とはいえ、私の仕事もいよいよ秒読み段階に入ってきた。
よく「あと何年、この仕事ができるだろうか」と考える。
若い母親たちからみると、私はとんでもないほど遠くにいるジー様に見えるはず。
私も若いとき、そう思っていた。
30代のころは、50歳の人でも、ひどくジー様に見えた。
そのジー様。
こと幼児教育の世界では、ジー様はお呼びではない。
子どもも小さいが、親も若い。
それがよくわかっているから、否応なしに、私は謙虚になる。
……ならざるをえない。
「来てもらえるだけも、ありがたい」と。

 で、残り2年か、それとも3年か?
ワイフはいつもこう言っている。
「できるところまでしましょうよ」と。

●「あんなヤツ、早く死ねばいい」

 ……と書くと、私の愚痴で終わってしまう。
で、ここから先は、育児論。

 こうしたケースで注意しなければならないのは、親たちは、子どもの心をどれだけ大切
にしているかということ。
「うちの子は、まだ判断力がないから」という理由だけで、親側がすべてを決めてしまう
ケースが目立つ。
あるいは「うちの子のことは、私がいちばんよく知っている」と思い込んでいる親も多い。
幼稚園やおけいこ塾のみならず、学校や進路、進学についても、である。

 教師というのは、当然のことながら、親と子どもの(間)に立つ。
だから双方の気持ちや考え方がよくわかる。
が、こんなケース。

 親は、(母親であることが多いが)、「私は子ども思いのいい母親」と思い込んでいる。
子どもの生活のあらゆる場面に介入してきては、親が一方的にすべてを決めてしまう。
「今度からあの塾へ行きなさい」
「来週からは、A塾をやめ、B塾へ移りなさい」など。

 で、そういう親に対して、子どもの側が、それなりに感謝しているかというと、それは
ない。
ある男児(小6)は、口癖のように、いつもこう言っていた。
「あんなヤツ、早く死ねばいい」と。
ふつうの言い方ではない。
顔を引きつらせ、体をこわばらせて、そう言った。
「あんなヤツ」というのは、彼の母親をいう。

 が、こんなケースもある。

●成績は最下位

 S君はそのとき中学1年生だった。
進学校にはいたが、成績はいつも最下位。
1学年2クラスしかない小さな中学校だった。
S君は、悪い意味で、目立った。

 が、母親はプライドが高く、メンツを重んじた。
で、S君を、半ば強制的に転校させようとした。
隣の町に、全寮制の中高一貫校があった。
そこへ転校させようとした。
理由は、「今の学校は、うちの息子には合っていない」だった。

 で、手続きがほぼ完了したところで、S君が反撃に出た。
「ぼくは転校しない!」と。
そのあと、私に母親から相談があった。
「どうしたらいいか?」と。

 私はS君と一対一で、話した。
その中で、S君は、こう言った。
「今の学校のままでいい」と。

私「今の学校に入ったことを、後悔していないか?」
S「していない」
私「どうしてお母さんが、君を転校させようとしているか、君は知っているか」
S「知っている。ぼくが、バカだから……」
私「君は、バカではないよ」
S「でも、お母さんは、そう言っている」

私「学校はそれで、楽しいか」
S「楽しいよ。友だちもたくさんいる」
私「みんなに、いじめられないか」
S「いないよ。ぼくは人気者なんだ」
私「そうだろうな。君はユーモアのセンスもいいし……」と。
 
●悪玉親意識

 結局、S君は中学3年生までその学校に籍を置き、そのあと市内の公立高校へと進学し
ていった。
……というようなケースは、多い。
本当に多い。
親意識だけが、(親意識といっても、悪玉親意識だが)、やたらと強い。
子どもの気持ちを確かめることもなく、子どもの(すべて)を親が決めてしまう。
結果、親子の心は、バラバラ。

 が、こうなると断絶は、時間の問題。
というより、すでに断絶状態。
それに気づかぬのは、親ばかり……といった状態になる。

 では、どうしたらよいか?

 簡単に言えば、そのつど子どもの気持ちを確かめる。
その一言に尽きる。
が、こうした関係は、簡単には是正されない。
それがその親の、子育てのリズムになっているから。
しかもそのリズムは、恐らく、子どもを妊娠したときから始まっている。
つまり根が深い。

悪玉親意識が強い。
権威主義者。
家父長意識も強い。

 こうした子育て観が、しっかりとできあがってしまっているため、それを直すのは、簡
単ではない。
簡単ではない……というより、ほぼ不可能。
親自身が行き着くところまで行き、それを「失敗だった!」と認めて、はじめてわかるこ
と。

 が、方法がないわけではない。
たとえばこうした私のエッセーを読むのも、そのひとつ。
読んで、自分の姿を客観的に知る。
(そのために、私は今、こうしてそれを書いている。)

 繰り返しになるが、私の長い経験から、これだけははっきりと言える。
「うちの子のことは、私という親がいちばんよく知っている」と思っている親ほど、失敗
しやすい。
その実、自分の子どものことなど、まるで知らない。

 ということで、幼稚園やおけいこ塾を選ぶときも、子どもの心を大切にする。
そういう習慣をそのころから、身につける。
その第一が、「謙虚さ」ということになる。

 「この幼稚園へ(おけいこ塾へ)、入れていただけますか」と聞く親は、それだけ子ども
に対しても謙虚ということになる。
その謙虚さを、忘れてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 謙虚 悪玉親意識 親風 子どもの心、親知らず 断絶の始まり)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【国民の不信感、目下、増大中!】

●風邪が抜けた!

 この数日間、体がだるくてしかたなかった。
全体に熱っぽいというか、いつもホカホカ、フワフワした状態だった。
が、体温計で体温を測定しても、36・5度前後。
私は低体温症だから、私にしては、いつもより高温。
ふだんは36度以下。
「風邪薬をのむまでもないな……」と思いつつ、数日間が過ぎた。

 が、今朝(6月15日)は、それがない。
気分はさわやか。
スッキリ。
やっと風邪が抜けた。
みなさん、おはようございます!

●集団ヒステリー

 「当然、あれだけ大きなアクシデントがあったわけですから、集団ヒステリー状態にな
る……分かります、それは。心情としては」(TBS NEWSーi)と。
自民党・石原伸晃幹事長は、そう語った。

 集団ヒステリー?

 私は逆のことを考えていた。
むしろこの(静けさ)こそが、信じられなかった。
「もの言わぬ従順な民、ここに極まれり」と。

 欧米では、日本の原発事故に触発され、各地で原発反対の運動が燃えさかっている。
が、肝心のこの日本では、みなさん、ご存知の通り。
静か。
静かすぎる。
集団ヒステリーが起きて当然。
その当然の国が、かくも、静か?

 石原氏ものんきな人だ。
このたび筑波大学が中心となって、「放射能による土壌汚染地図」が公表された。
それによれば、福島第一原発から200キロも離れた、千葉県の取手市や流山市などで、
1平方メートル4万ベクレル、通常の400倍もの放射線が観測されている。
千葉県から東京まで50キロ。
放射能汚染の世界では、50キロなど、誤差の範囲。
ことの深刻さが、まるでわかっていない。

●1平方メートル当たり、4万ベクレル?

 チェルノブイリ原発事故のときは、遠く離れたスウェーデンにまで、大きな影響を与え
た。
そのスウェーデンは、かなり詳しい汚染地図を公表している。
ちなみにチェルノブイリからストックホルムまでは、約1200キロ。
この距離は、福島第一原発から、鹿児島までの距離に等しい。

 それを見ても、つまり汚染地図を見ても、汚染は、同心円状に汚染されるのではなく、
スポット的に汚染されているのがわかる(「原発事故」宝島社)。
たとえて言うなら、ミサイルに攻撃されたかのように、あちこちが虫食い的に汚染されて
いる。
遠いから安全……というのは、こと原発事故には当てはまらない。
ヨーロッパ全体でみれば、がん患者は、80万人単位でふえていると推定されている(京
都大学・今中氏)。

 が、福島第一原発から東京までは、たったの200キロ!
集団ヒステリーどころか、集団暴動が起きても何らおかしくない。
その東京に住む石原氏が、「集団ヒステリー」とは?

 もちろんチェルノブイリと福島第一原発とでは、原子炉の形そのものがちがう。
「だからチェルノブイリのときのような爆発は起きません」と説く学者もいる。
しかしその一方で、福島第一原発のほうは、発電量でみるかぎり、チェルノブイリの4~
5倍以上もの規模があることを忘れてはいけない。
(チェルノブイリでは、4号炉のみ、出力100万キロワットが爆発した。)

 今後のことは、だれにもわからない。
しかしこんな事実もある。

 チェルノブイリでは、事故から3年たってから、やっと詳細な汚染地図が公表された。
その結果、原発事故現場から、300キロも離れたところまで高汚染地域が広がっている
ことがわかった。
その結果、チェルノブイリから200~300キロ離れた、ベラルーシ共和国でさえ、1
1万人の人々が強制的に移住させられた。

 3年もたってからだぞ!
200~300キロも離れていても、だぞ!

 さて本題。
簡単な算数。

 1平方メートル当たり、4万ベクレルは、1キロ平方メートルにすると、何ベクレルに
なるか。

 4万x1000x1000=40000000000ベクレル=400億ベクレル!

 しかしこんな数字を見ても、ピンとこない。
が、こういう言い方をすれば、深刻さがもう少し理解できるのでは?

●X線撮影室

 1キューリー=約3万7000ベクレルで計算する。
それでみると、4万ベクレルは、約1キューリー強に相当する。
この値は、X線撮影室の放射線量に等しい。
つまり千葉県の取手市や流山市の人たちは、日常的に、X線撮影室の中にいるのと同じ放
射線を受けていることになる。
 
 いわく「1キューリー以上の地帯には、かならずそのドアの前には、黄色の警告マーク
が描かれ、『関係者以外、立ち入り禁ず』と書かれています。
京大原子炉実験所の性質上、僕もその中に入ることがあるが、その際かならず放射線測定
器を身につける。
仕事が終われば、さっさと出る。
中に入ったが最後、水も飲めない。
もちろんそんな場所に子どもを連れて入ってはいけないし、子どもを産んではいけない。
妊娠の可能性のある女性は、医者の相談なしに入ってはいけない。
ましてやそこで人々は生活してはいけない。
1キューリー以上の汚染域というのは、そういうイエローゾーンのことなんです」(「原発
事故」)と。

●さらにおかしな論理

 静岡県のお茶から、規制値以上の放射線が観測された。
これに対して、静岡県の川勝平太知事は、こう言った。

「(飲用茶について)それぞれ1キロ当たり、5・8~7・3ベクレルと、飲用茶の規制値
(1キログラム当たり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調。……飲用茶は数
ベクレルで安心して飲んでほしい」(中日新聞・6・15)と。

 川勝知事は学者であったはず。
その川勝知事が、こういう「?」なことを堂々と言うところがおかしい。
言うまでもなく放射性物質は、ほかの薬物や毒物とちがい、一度体の中に取り込まれたら
最後、体の中でどんどんと蓄積されていく。
尿となって排出される分や、半減期を経て、半減して分もある。
しかし基本的には蓄積されていく。

そういうお茶を、20キロ(20リットル)飲んだら、どうなるのか?
40キロ飲んだら、どうなるのか?
お茶にも濃さがある。
逆にこんな論理がまかり通るなら、どんなに汚染されたお茶でも、お湯で薄めれば安全と
いうことになってしまう。
さらに「?」なことがある。

 先日の報道では、(原茶)→(製茶)にした段階で、放射線の濃度は5倍になる。
しかし飲用する段階では、(お湯で薄めるので)、8分の1になると言っていた。

 どうして規制値内(500ベクレル以下)の製茶が、お湯で薄めたら、「5・8~7・3
ベクレル」になるのか?
単純に計算すれば、83分の1になったことになる(500÷6・0で計算)。
何度も計算しなおしてみたが、やはり83分の1。

 念のため、新聞記事をそのまま紹介する。
私の書いていることを疑う人がいたら、自分で計算してみたらよい。

「……一方で、規制値(500ベクレル)を超えた2工場の製茶を、飲用茶として独自検
査したことを(川勝知事は)明かし、それぞれ5・8~7・3ベクレルと、飲用茶の規制
値(1キログラムあたり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調」と。

 つまり製茶の段階で、500ベクレルを超えていたお茶だったが、お湯で溶かしてみた
ら、6・0ベクレル前後になった。
だから、安全、と。

 こんなバカな、手品みたいなことが、どうして起こるのか?
さらに今回の検査では、重大な見落としがある。
こうある。

「放射性セシウムの検出量は、581~654ベクレルで……」と。

 わかるかな?
放射性物質といっても、その種類は、無数にある。
毒性がきわめて強いプルトニウム、ストロンチュームもそれに含まれる。
放射性ヨウ素もその1つだが、そのヨウ素にしても、134,132,135,133,
131などの種類がある。
調べたのは、たったの1種類。
放射性セシウムだけ。

 さらに県の報告が1日遅れたことについて、川勝知事は、こう居直っている。
「(遅れたことで、どういう)損害が出たのか言ってみてください」(中日新聞)と。

 こういうバカなことを平気で言うところが恐ろしい。
あのね、損害は、これから出るの!
1日遅れれば、その分だけ、工場からの出荷が野放しになるの。
正確な数字はわからないが、仮に1日、1トンの出荷量のある工場だったら、その1トン
が、市中に出回ることになるの!
それを日本人が、飲むことになるの!

●やがて否応なしに……

 東京に住む石原氏にしても、静岡市に住む川勝氏にしても、やがて否応なしにその事実
を突きつけられる日がやってくる。
私はけっしてそれを望む者ではないが、しかしこんなごまかしは、いつまでもつづかない。
やがて東京都全体に避難勧告が発布されるようになるかもしれない。
静岡県茶が全面、出荷禁止になるかもしれない。
だったら今は、「?」なコメントは控え、事実の収集だけに心がけるべきではないのか。
が、現実は、逆行している。
同じ中日新聞には、こうある。

「(すでに)一番茶の出荷を終えた工場も多いことから、地区内にある約100工場すべて
を検査する当初の方針を変更し、今後は要望のある工場のみを検査する」と。

 「今後は、要望のある工場のみを検査する」と。

 そうでなくても、静岡県茶については、農薬汚染が問題になっている。
ご存知の方も多いかと思うが、茶の産地にある、ため池、川からは、生物という生物が、
ほとんど姿を消した。
そういう事実を、隠しに隠しつづけている。
そういう地域で、「今後は、要望のある工場のみを検査する」?
どこの工場が、あえて「要望」など、するものか?
バカも休み休み言え。

 ……つまりこうして私たちの不信感は、募(つの)っていく。
庶民の代表として、本来なら庶民の側に立つべき人間が、企業側の利益の保護だけを考え
て発言する。
行動する。

 私の予想では、この日本は、このまま行き着くところまで行く。
またそこまで行かないと、気がつかない。
本来なら、ヒステリー状態ではなく、パニック状態になっていてもおかしくないのだが…
…。
2011/06/15記


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【舘山寺温泉・浜名湖かんざんじ荘にて】(2011年6月)

●今日は6月xx日、ワイフの誕生日

++++++++++++++++++

今日は、ワイフの誕生日。
仕事を早めに切り上げ、舘山寺温泉へ。
大草山頂上にある、「浜名湖かんざんじ荘」
へやってきた。
「常連」とまでは言わないが、よく利用
させてもらう。

ワイフと息子、それに私。
Happy B-Day, Akiko!

浜松市内では、一押しの簡易旅館。
いつ来ても、この旅館だけは、期待を裏切らない。
サービスも料理も安定している。
もし浜松へ来るようなことがあれば、
この旅館を推薦する。
最近、内装をリニューアルしたよう。
清潔!
(もともとは国民宿舎ということもあり、
作りは豪華だが、部屋はやや狭い。念のため。)

が、何といっても、展望風呂がすばらしい。
全面ガラス張りで、舘山寺温泉街が眼下に
一望できる。

料金も手ごろ。
3名一室のばあい、1人、8800円前後で泊まれる。
曜日によって料金が微妙に異なる。
ネットで調べてから予約を入れるとよい。
(当然のことだが・・・。)

電話は、053-487-0330。

+++++++++++++++++++

●Y温泉

 先週泊まった、Y温泉のS旅館は、最悪。
こういうよい旅館に泊まってみると、それがよくわかる。
カビ臭く、料理もまずかった。
デザートが、オレンジ一切というだけでも、料理の内容がわかろうというもの。

 「二度と来ない」と心に誓う。
が、幼稚園を選ぶときも、これは参考になる。
要するに幼稚園のよしあしは、園長のやる気。
それで決まる。

 が、先日、ある母親が私にこう言った。
「うちの幼稚園のY園長は、知育教育に反対だそうです」と。
それを聞いて、私は私の教室が攻撃されたように感じた。
だからこう思った。

「知育教育が何であるかもわかっていないのに」と。
そう思ったが、言わなかった。
その母親の子どもは、まだそのX幼稚園に通っている。

もう少しきびしい言い方をすると、「知育教育をするノウハウも知らない。
その能力もない。だからやみくもに反対する」となる。
ギルフォードという学者が知能因子論を唱えて、もう35年以上になる(注※)。
(私が知ったのが、35年ほど前のことだから、35年以上と書いた。)

 そのころから世界の科学者たちは、幼児の脳の発達を、懸命に研究し始めた。
知能教育の重要性も認識され始めている。
「臨界期」という言葉も、常識化している。
にもかかわらず、「反対」とは!
「賛成しない」という意見はわかる。
しかしあえて「反対」すべきようなことではない。
子どもが親に、「漢字を教えて」とくれば、いくらでも教えてよい。

 「反対」というのは、要するに、やる気なしという意味。

●臨界期

 臨界期という言葉を使ったので、少し説明しておく。

 幼児は、それぞれの発達段階において、やっておくべきことがある。
その時期を逃すと、健全な心身の発達そのものが、障害を受けることがある。
その時期を、「臨界期」という。
よい例が、野生児。
(しかしインドで発見された野生児については、最近の研究では、疑問視されている。
もともと精神に障害をもった子どもが、野生に捨てられたという説である。
詳しくは後述。)

 その一方で、たとえば音楽教育などは、かなり早い時期に臨界期が来ると言われている。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●特別な時期(臨界期)

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
たとえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっ
ている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しな
くなるとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話と
いうことだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、
目の機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもで
ある。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)
を取り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児~1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでい
る(ワシントン大学・メルツォフ教授ら)。

●ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわ
かってきた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的
にしているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれる。
こうした相互の働きかけを「相互愛着(アタッチメント・mutual attachment)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究
所の津本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果
で、人間の早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエ
ンス」で27日発表した』(2010年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、
ものの細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を
個別に計測した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨
界期後のマウスは興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に
反応が落ちた。抑制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウ
スの視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがある
のではないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機
にもなるだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回
復することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す
研究として、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は
性格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってか
らも残すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らか
の治療を目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)

『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られる
ことを、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成
熟した個体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。
米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新
生が確かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質に
ついては明確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30~40歳にあたる生後6
カ月のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現し
た細胞を見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、
この細胞が約1・5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7~10日か
けて移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新
しい細胞が活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」
が存在し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チ
ームは、ヒトでも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は
抑制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り
出すことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療
法が見つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 神経細胞 臨界期 はやし浩司 臨界期 乳幼児 乳幼児の記憶 刷
り込み 神経細胞の再生 臨界期の重要性 早期教育 科学的根拠)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●先取り教育

 平たく言えば、(1)知能教育と、(2)早期教育と、(3)先取り教育はちがうというこ
と。
多くの人は、先取り教育をもって、知能教育と誤解している。
早期教育でもよい。
たとえば幼児に掛け算の九九を暗記させるのは、先取り教育ということになる。
意味のない教育である。

 ついでながら、オオカミ少女(野生児)についての疑問について書いた原稿を添付する。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●野生児(タマラとアマラ)

 ひとつの情報に出会い、つぎに同じような情報に出会うのは、
こちら側が求めてそうするばあいをのぞき、めったにない。
たとえば最近、私はタマラとアマラに関する文献を目にすることが
できた。
偶然だった。
もしその偶然がなかったら、私は自分がもつ知識を修正することは
なかっただろう。

俗に言う、『オオカミ少女』と呼ばれる2人の少女である。
そののち、心理学の本でもたびたび取りあげられている。
「野生児」という言葉も、そこから生まれた。

要点をまとめると、こうだ(「オオカミ少女はいなかった」鈴木光太郎
(新曜社))。

(1) オオカミの乳は、人間には飲めない。……だから少女たちがオオカミの
乳で育つはずがない。
(2) オオカミは、人間の子どもを連れ歩くのは不可能……オオカミはどうやって
赤子を運んだのか。
(3) ウィリアム・オグバーンというアメリカの社会学者が、
1951年に現地に入った。
が、オオカミ姉妹が発見されたという「ゴダムリ」という村は存在しなかった。
(4) 現地に新聞が残っていて、「少女たちが見つかったのは、トラの
穴」と記述されていた。
(5) 少女たちを発見したのは、シング牧師ではなく、サンタル族の住民
だった。
(6) 写真を詳しく調べてみたが、推定年齢(カマラは8歳半、アマラは
1歳半)が合わない。

 私はたびたびオオカミ姉妹(少女)について書いてきた。
この本だけで、すべてを否定するものではないが、しかし大きな疑念が
生まれたのは事実。
さらにその本は、シング牧師夫妻が寄付金集めのためにしくんだ作り話の
可能性があると説く。
実際、現在の今でも、欧米ではこの手の詐欺が後を絶たない。
(ついでに書き添えると、欧米では、孤児院経営を看板に、この種の詐欺が
日常化している。
じゅうぶん、注意したらよい。)

 で、結論としては、「自閉症か何かの障害をもった姉妹が、親に捨てられた。
その姉妹が、何年かあとに見つかった。村人たちは世話に困り、シング牧師の
ところへ連れていった」ということらしい。

 ・・・となると、私が今まで引用してきた話は、すべて訂正しなければ
ならない。
野生児の話は、ウソだったのか?

が、ここで注意したいのは、だからといって子育て論の本筋、たとえば
人間性と臨界期の問題、言語発達と臨界期の問題まで否定されるというのでは
ない。
人間はそれぞれの成長期に、それぞれの適切な環境で、適切に育てられなければ
ならない。
人間性にしても、言葉にしても、さらにたとえば音感やもろもろの美的感覚
にしても、その時期を逃すと、その後、修復がたいへんむずかしくなる。
たとえオオカミ少女の話がウソであったとしても、その重要性は変わらない。
またまったくのデタラメだったとしたら、こうまで長く、多くの心理学者や
精神学者、さらには哲学者たちの支持は受けなかっただろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 オオカミ少女の謎 オオカミ姉妹の謎 野生児への疑問 オオカミ少
女は存在しなかった はやし浩司 タマラ アマラ シング牧師 疑惑 野生児疑惑 オ
オカミ少女疑惑 オオカミ姉妹疑惑)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●幼児の脳は、底なし

 こうした事実を知った上で、「知育教育反対」というのであれば、私も納得する。
しかしそうでなければそうでない。
むしろ文科省が定めるカリキュラムなるものが、いかに幼児(子ども)の能力を伸ばす障
壁になっていることか。
30年も前のことだが、当時の文部省の技官と対談したことがある。
そのときその技官も、こう言っていた。
「幼児教育では、文字、数は教えてはいけません。
へたに教えると、小学校の先生が、やりにくくなります」と。

私は自分の幼児教室で、幼児たちに分数は小数、正負の数、割合、確率などを教えてい
る。
要は、教え方の問題。
幼児の脳は、まさに底なし。
教えていて、そういう印象をもつ。

 わかりやすく言えば、自分がピアノを弾けないからといって、幼児にできるわけがない
と考えてはいけない。
「早すぎる」と考えるのは、まちがっている。
いわんや、「ピアノ教育、反対!」を唱えてはいけない。
反対に、私の実感としては、6歳を過ぎてからピアノ教室へ通ったばあい、それなりにピ
アノを弾けるようにはなるかもしれない。
しかし「それなりに」というレベルで、進歩は停止する。

●やる気

 話はそれたが、やる気のあるなしで、旅館のよさは決まる。
たとえばこの部屋。
テーブルの上には、水の入ったポットと、お湯の入ったポットが2つ並べてある。
お茶を入れる急須も茶碗も、ピカピカに磨いてある。
客の私たちは、そういうのを見て、やる気度、つまり本気度を知る。

 で、一事が万事。
浴衣もノリがきいて、パリパリ。
丹前も新品のよう。
アイロンもしっかりとかかっている。
掃除も部屋の隅々まで行きとどいている。
空調の音も、ほとんどしない。

 幼稚園にしても、そうだ。
やる気を感ずる幼稚園には、園長の哲学を感ずる。
その哲学があれば、よし。
そうでなければ、そうでない。
園長は毎日、幼稚園と銀行の間を行ったり来たりしているだけ。
そういう幼稚園へは、子どもをやってはいけない。
これは私の意見というよりは、常識。

 それにしても「知育教育、反対」とは!
論法としては、「日本語すら満足に話せない子どもに、英語教育反対」と言うのに似ている。
あるいは「日本のこともよく知らないのに、外国へ行っても意味がない」と言うのにも似
ている。
さらに「お尻も拭けない子どもが、バイオリンを弾くのはおかしい」でもよい。

 もしこんな論法がまかり通るなら、こうも言える。

「先の短い老人が、英語の勉強などしても無駄」
「旅行しても、お金が無駄になるだけ」
「足腰が曲がった老人が、ミュージカルを観劇して、何になる」と。

 幼児のもつ可能性に、もう少し目を向けてほしい。
・・・というのが、このエッセーの主題。
ちょうど食事時間になったので、この話はここまで。

+++++++++++++++++++++++

●手紙

 食事中、こんなことが話題になった。
ワイフのクラブ仲間に、Uさんという女性がいる。
そのUさんの息子(26歳)が結婚することになった。
相手の女性が妊娠したらしい。
それであわてて籍だけ入れることになった。
が、Uさんは、その結婚に反対。
相手の女性が、世間ズレしすぎているという。
Uさんの夫を、いきなり「パパ」と呼んでいるという。

ワ「でもね、おかしいのよ」
私「どこが?」
ワ「相手の女性が、子宮外妊娠を心配しているんだって・・・」
私「初産の人が、子宮外妊娠?」
ワ「そうでしょ。ふつうそんなこと心配しないわね」
私「そうだな。ぼくも聞いたことがない」
ワ「……」

 まあ、人それぞれ。
結婚も、それぞれ。
それでたがいに幸福になれば(?)、それでよい。

 ついでに言えば、「知育教育・賛成・反対」にしても、最終的には親や子どもが決めるこ
と。
そういう幼稚園を選ぶ親もいれば、そうでない親もいる。
あとは親の判断に任せればよい。
それでたがいに納得すれば(?)、それでよい。

●後記

 たった今、カラオケルームから帰ってきた。
ワイフと息子、それに私の3人で、歌を20曲近く歌った。
この旅館のカラオケルームは、超一流。
まるで豪華な劇場のよう。
照明も、四方八方から調整できる。
楽しかった。

 で、夕食だが、もちろん5つ星。
★★★★★。

 改めて確認。
浜松で、一押しの簡易旅館は、この「浜名湖かんざんじ荘」。
家族連れに最適。
はやし浩司は、ウソは申しません。
ぜひ、おいでください。
では、おやすみなさい!


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 知育教育 幼児教育の重要性 2011-06)

(参考※)2004年11月に書いた原稿より

●ギルフォードの立体知能モデル

 ギルフォードは、知能因子を、4x5x6=120の立体モデルで、表現した。196
7年のことだった。

 私が、最初に、その立体モデルの模式図を見たのは、ある出版社でのこと。そこの編集
部員が、「林さん、こんなのがありますよ」と言って見せてくれた。

 それが1978年ごろのころではなかったか。私は、その立体モデルを見たとき、強い
衝撃を受けた。

 そこで私は、その120の知能因子にそった、教材というか、知恵ワークを考えた。そ
れらはすぐ、学研の『幼児の学習』という雑誌に、採用された。その雑誌は、やがて、『な
かよし学習』という雑誌とともに、毎月47万部も売れた。

 ギルフォードの「立体知能モデル」。

 今では、もう古典的なモデルになっている。というのも、縦軸に、認知能力、記憶、拡
散的思考……、横軸に、図形、記号、言語……、高さに、単位、類、関係……と分けてい
るが、具体性が、ほとんどなかった。

 今から思うと、「どこか思いつき?」という印象すら、もつ。しかしそれはともかくも、
知能因子を、このように分けた意義は大きい。

 というのも、それまでは、知能因子は、スピアマンの「知能因子、2因子説」や、サー
ストンの「多因子説」などがあった程度。知能因子のとらえ方そのものが、まだばくぜん
としていた。

 それを120の知能因子に分けた! それ自体、画期的なことだった!

 で、それから25年以上。今では、この分野の研究が進み、IQとか、さらにはEQと
いう言葉も生まれ、常識化している。さらには、これらの数値では、測定できない、つま
り因子と言えない因子も考えられるようになった。

 たとえばヒラメキや、直感力、直観性、創造性、思考の柔軟性など。そこで教育の分野
だけではなく、大脳生理学の分野でも、因子についての研究が、始まっている。昨今、右
脳教育という言葉がもてはやされているが、それもその一つ。

 今の段階では、知能の内容も、複雑で、奥が深いということ、その程度しか、ここに書
くことができない。あるいはもともと思考の内容を、パターン化しようとするほうが、無
理なのかもしれない。

 人間の脳の中には、約100億個の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞が、1
0万個のシナプスをもっている。つまりこれだけで、10の15乗のシナプスの数になる。
その数は、10の9乗~10乗と言われているDNAの遺伝情報の数を超えている! 思
考の可能性を、ワクの中で考えることのほうが、おかしい。

 ギルフォードの立体知能モデルを見るたびに、そう思う。

(はやし浩司 ギルフォード 立体知能モデル 神経細胞 シナプス 子どもの知能 知
能教育 早期教育と先取り教育 臨界期 敏感期)


Hiroshi Hayashi++++++++June 2011+++++++++はやし浩司

【欲望(煩悩)論】(今朝のキーワードは、「怒り」)はやし浩司 2011-06-17

●希望と期待

 希望にせよ、期待にせよ、それが「欲望」から発したものであれば、それは未来を約束
した希望や期待にはならない。
よく「光」という言葉を使う人がいる。
「希望は光」と。

 しかしそれは光ではない。
身を焦がす炎(ほのお)である。
たとえば子を育てる親の希望や期待には、際限がない。
受験にしても、やっとB高校へ入る力がついてくると、「何とかしてA高校へ」となる。
そのA高校が視野に入ってくると、今度は、「S高校へ」となる。

 こうして希望や期待は、際限なくふくらんでいく。
その結果、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
ひとつの希望や期待がかなえられるたびに、その先でまた新たなる苦悩がやってくる。
処し方をまちがえると、家庭騒動、親子断絶、さらには家族崩壊へとつづく。
ただの「光」ではすまない。
つまり「炎」。
なぜか?
それが冒頭に書いたことである。
欲望から発しているからである。

●老後の希望

 若いうちは、まだよい。
それが意味のないものであっても、その希望や期待に、酔いしれることができる。
時間を無駄にしても、そこにはありあまるほどの余裕がある。
(本当は、余裕などないのだが……。)

 が、歳を取ると、そういうわけにはいかない。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
無駄にできる時間など、一瞬一秒もない。
そこで何度も書くが、エリクソンという学者は、「統合性の確立」という言葉を使った。
老齢期の生き方を説いたものである。
3年前に書いた原稿だが、参考になると思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)08年記
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統
合性の確立 無私 無我)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。
身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無」

 統合性を確立するためには、欲望を捨て、「無」の状態でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は、霧散する。
ボランティア活動にしても、「無」でするから、意味がある。
何も期待しない。
見返りを求めない。
ただひたすら自分がすべきことをする。
それが「無」ということになる。

 で、2500年前に釈迦が説いた「無」と、近代に入ってサルトルが説いた「無の概念」
が、一致するということは、たいへん興味深い。
宗教の世界を、「観念論の世界」という。
一方、サルトルらが説いた世界を、「実存主義の世界」という。
まったく相反する世界の哲学が、最終的には、ひとつの世界に融合する。

(私自身は、釈迦は、宗教ではなく、現在に通ずる実存主義を説いたものと解釈している。
その釈迦の教えを、無理に宗教化したのは、後世の学者たちと解釈している。)

 釈迦は、「無」を哲学の根幹に置いた。
(いろいろ異論もあろうが……。)
一方、サルトルは、自由へのあくなき追求を経て、最終的には「無の概念」にたどりつく。
これについても、私はたびたび原稿を書いてきた。

 サルトルについて書いた原稿をさがしてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【自由であること】2009年記

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、
『自らに由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自
分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても
暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞ
かし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日
本人だけ。(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・
1905~1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間か
ら、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、
自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂
信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信する
という例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出
歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハ
ッピー。ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、
それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」
をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫
んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、
私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放さ
せることができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を
解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の
問題を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問
題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるとき
がくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の
立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取
り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、
布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概
念」をもって、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの
問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由
論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていた
ため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪
う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。
しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐
怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経
験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる
習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイ
と押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、
さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆ
えに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しか
しその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、
許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文
なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うこ
とができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れ
たことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、
しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ
自由はある。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。し
かしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実
自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがま
まにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任
をとることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをい
う。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●釈迦の説く「無」

 では、釈迦は、「無」をどのように考えていたのか。
直接的には「空(くう)」という言葉を使った。
つぎの原稿は2006年に発表したものである。
が、本当は、もっと前に書いたかもしれない。
私はよく過去に書いた原稿を呼び出し、その原稿を改めるということをよくする。
しかし少なくとも、仏教と実存主義の融合に気づいたのは、このころということになる。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】2006年記

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」であ
る。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることに
よる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦し
みをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをい
う。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間
の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認
識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し
前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)
→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、
説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦
しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。
無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり
涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということ
になる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正
業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

+++++++++++++++

●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっ
ても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるもの
は、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータ
の中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の
目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面
には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在し
て、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経
て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われて
いる。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされて
いる。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、6
00年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経
などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではない
かと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひ
ょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこ
れが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされ
ている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるもの
を、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、
同じに考えてよいのではないか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限ら
れた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、
「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。
億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、
この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と
思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味
であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかと
いうこと。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。
そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄に
することになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうど
う)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、
正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、
布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、
「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。
こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考
え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」とい
う程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。
中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そう
いう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、
その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自
分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格
が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になっ
たとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですとい
うような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、
私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)
に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんな
ことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まち
がったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間とし
て、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考
えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識 無の概念 空)

+++++++++++++++++++

もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

+++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」とい
うことになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中
正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味で
ある。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほど
ほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんとい
う意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)
正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言
葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というの
は、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられ
たような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進に
ついても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦
は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんば
る。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重
要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得
た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝
に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のう
ちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「や
る!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中に
は、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その
考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生
活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちが
いが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人から
は、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、
利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考え
る人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思って
いないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサ
をよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心
の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、
カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自
分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のもの
である。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、
一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすれ
ばよい。


++++++++++++++++++

 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自
由であることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私
はここに、東洋哲学と西洋近代哲学の融合を見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 東洋哲学と西洋哲学の融合 無の概念 無 はやし浩司 空)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●欲望の克服

 私たちが「欲望」と呼んでいるもの。
それらはすべて「無」に発する。
「性欲」を例にあげるまでもない。
ただの排泄欲にすぎない性欲が、人間社会そのものを支配している。
フロイトですら、「性的エネルギー」という言葉を使っている。
つまり「性的エネルギー」が、あらゆる動物(もちろん人間も含む)の生命力の根幹にな
っている、と。
(これに対して、フロイトの弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使っている。

 人間は絶え間なく、この欲望の支配下に置かれ、奴隷となり、それに振り回される。
が、たいへん悲しいことに、そうでありながら、ほとんどの人は、それに気づくこともな
い。
「私は私」と思い込んでいる。
ただの奴隷でありながら、それが「私」と思い込んでいる。
よい例が、電車の中で化粧をする若い女性。

 自分の意思で化粧していると本人は思い込んでいる。
「あなたは自分の意思で化粧をしているのですか」と聞いても、その女性はこう答えるだ
ろう。
「もちろん、そうです」と。

 が、その女性とて、その奥深くから発せられる「性的エネルギー」の奴隷でしかない。
その「奴隷である」という部分が、加齢とともに、やがてわかってくる。

●では、どうするか

 ここから先は、製品で言えば、まだ試作品(プロトタイプ)。
が、今の私は、こう考える。
希望や期待が、欲望に根ざすものであるなら、希望や期待をもたないこと。
へたに希望や期待をもつから、そのつど壁にぶつかり、葛藤を繰り返す。
怒りもそこから生まれる。
恨みも、ねたみも、そこから生まれる。

 ある賢人は、こう言った。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
あとでそれについて書いた原稿をさがしてみるが、怒りが強ければ強いほど、あるいは恨
みやねたみが強ければ強いほど、その人自身の人間性が破壊される。

 が、希望や期待を捨てれば、怒ることはない。
人を恨んだり、ねたんだりすることもない。
……と書くと、では、「人は何のために、何を目標に生きればいいのか」と考える人もいる。
が、答は、シンプル。
『そのとき、その場で、やるべきことを、けんめいにすればいい』と。
トルストイをはじめ、多くの賢人たちも、異口同音に、「そこに生きる意味がある」と説く。
つまり懸命に生きるところに意味がある、と。
釈迦もその1人。

 結局は、そこへ行き着く。
「結果」というのは、かならず、あとからついてくる。

 ここにも書いたように、これは試作品としての結論ということになる。
このつづきは、一度、頭を冷やしたあとに、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 欲望(煩悩)論 煩悩論 欲望論)


(補記)2010年7月記

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディッ
ク)

+++++++++++++++++++++

人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

+++++++++++++++++++++++++

●ある女性(67歳)

 ついでながら、東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上
古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、
恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みず
からの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもな
く、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。

「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。

そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8~10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
『怒りは、人格を崩壊させる』と説く賢者もいる。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)

●結論

 いろいろ書いてきたが、人間は欲望の奴隷と考えてよい。
その欲望が、さまざまな感情を生む。
東洋医学でも、そう教える。
その感情の中でも、「怒り」「うらみ」「ねたみ」は、心を腐らす。
ときには人格を崩壊させる。

 そこで重要なことは、つまり日々の生活の中で重要なことは、この怒りをどう手なずけ
ていくかということ。
それを自己管理能力といい、その能力のあるなしで、その人の人格の完成度が決まる。

 釈迦も「怒り」をきびしく戒めている。
フォスディックの言葉を借りると、こうなる。

●『Anger is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を怒るということは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 今朝のキーワードは、「怒り」ということになる。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●管直人首相、がんばれ!(I support Mr. Naoto KAN, the Prime Minister of Japan)改

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

善人は悪人に嫌われる。
……ということでもないが、管直人首相は、目下、四面楚歌。

内閣官房副長官ですら、こう述べている。

『仙谷由人官房副長官は12日、東日本大震災の本格的復興のための2011年度第2次
補正予算案の編成について、「与野党の広い枠組みで共同作業でやっていく方がいい」と述
べ、菅首相の退陣後の新体制で行うべきだとの考えを示した』(読売新聞・6月12日)。

何という、官房副長官!
ほかのところでは、「2次補正編成はつぎの総理で」とか、「6月末が退陣のタイミング」(同、
読売新聞)などとも述べている。

首相を支えるべき官房副長官が、堂々とこういうことを公言するところが恐ろしい。
常識をはずれている。
だったら、まず官房副長官の職を退いてから、それを口にすべき。
まさに自らが乗る船に穴を開けるような行為をしながら、みじんも恥じない。
この愚かさ。
低劣さ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●管直人首相が何をした?

 私は毎日新聞やテレビ、ネットや雑誌、ついでにタブロイド版の新聞にも目を通してい
る。
が、今回の管直人首相の「引き下ろし劇」の理由がよくわからない。
約束を守らないとか、約束を破ったとか。
そういうレベルの話しばかり。

 私が見るかぎり、管直人首相は、よくやっている。
すばらしい。
どこかうさん臭い、悪臭漂う政治家の中にあって、管直人首相だけが、その誠実さを光ら
せている。
思い出すのは、あの三木武夫元首相。
同じような経緯を経て、政界の場から引きずり下ろされた。
が、ああいう人物こそ、政治家の中の政治家。
政治の世界では、まともなことを口にした政治家ほど、袋だたきにあう。
今回の「浜岡原子炉停止」にしても、そうだ。

 今までの政治家たちは、電力業界=官僚がこわくて、それを口にすることもできなかっ
た。
が、管直人首相は、それを断行した。
浜岡原子炉を停止させた。
まさに大英断!
もっとも過激に管直人首相を口汚く攻撃しているのが、あのSK新聞、ということも、私
には納得できる。
自民党よりの最右翼!

●今は、そんなときではない!

 仙谷由人官房副長官……私には彼がどういう人物か、よくわからない。
しかし「ペテン師まがい」という言葉を使った、鳩山氏同様、かえって自らの品位を落と
していることに、どうして気がつかないのか。
こういう例は、教育の世界にも多い。

 かなり前のことだが、ある母親が私のところに来て、こう言った。

「先生、うちのダンナは高卒なんです。給料も少ないし、生活も苦しいです。息子にはあ
あいう父親のような人間にはなってほしくないです。だから何としても大学へ……」と。

 こういう母親を、「バカ!」という。
本物のバカという。
が、自分のバカさかげんに、気づいていない。
仙谷由人官房副長官も、その1人。

 官房副長官なら、まず、何をさておき、首相を支えるべき立場の人間。
世間の批判があれば、盾となって、それを振り払うべき立場の人間。
その人間が、内閣という(内側)にいて、管直人首相下ろしに、一役買っている。
「うちのダンナは高卒なんです……」と言った母親と、精神構造は同じ。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

 もし不満があるなら、最初から結婚など、しないこと。
あるいは離婚してから、それを言え!
さらに言えば、結婚などというものは、たがいにふさわしい人間どうしが結びつくもの。
ダンナがもし、本当にその程度なら、妻であるその母親もその程度。
自分の脳みそと学歴を棚にあげ、「ああいう父親のような人間にはなってほしくない」は、
ない!

 私はその話を聞いたとき、(私も男、夫)、唖然とした。
開いた口がふさがらなかった。
今の今もそうだ。

 みなさん、今一度、冷静になろう。
今は、そんなときではない。
このままでは、日本本土の3分の1以上が、人が住めない場所になる。
東京だって、危ない。
名古屋だって、危ない。
今の今も、放射性物質は、空中に放出されたまま。
3・11大震災以来、原発事故は、何一つ解決していない。
どうしてその深刻さが、わからないのか!

 みなが一致団結して、原発事故の処理に当たらねばならないとき。
言うなれば戦時。
つぎの総理がだれであっても、まただれでなくても、今は管直人首相に集結すべき時。
みなが知恵を出しあい、協力すべき時。
原因や責任を追及するのは、あとの、そのまたあとでよい。

 管直人首相!
私はヘソ曲がりかもしれないが、あなたを支持する。
どうか今の日本の危機を救うため、全力を尽くしてがんばってほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 管直人首相 愚かな政治劇 権力闘争)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Mさんからのコメント(ココBLOG)

はじめまして。こんにちは
私もまったく、同意見です。  なんで、こんな非常時に、菅さんを助けて協力しないの
でしょう。 政治家ってほんとになさけない。

何の為に政治家になったのでしょう?
 
こんな、災害が多重に起こってる中すべて、管総理に押し付けている人たちは、日本人を
やめればいいのに。 

 マスコミだって、レベルが低すぎる。総理変えて、原発がおさまるのでしょうか。     

管さんは間違ったことしていない。 ただ、あまりの困難なのだと、思います。  
 私も応援しています。同意見の人がいてよかった。 ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

++++++++++++++++++++

●DROPBOX

++++++++++++++++++++

Dropboxという、インターネットストーレッジのサービスがある。
今朝、それをドウンロードし、試しに使ってみた。
で、使い勝手は、最高!
今まで、BOXとか、WINDOW LIVEとか、ほかに3つ、インターネットストー
レッジを使ってきたが、使い勝手のよさでは、群を抜く。

まだ本格的に使っているわけではないが、この先、世話になりそう。

そうそう「インターネット・ストーレッジ」というのは、言うなれば、仮想のハードディ
スクのようなもの。
わかりやく言えば、ネット上の原稿倉庫。
原稿や写真、動画などを、その中に保管しておくことができる。
そこへ保管しておけば、いつでも、どこでも、またどのパソコンを使っていても、自分の
原稿や写真、動画を呼び出すことができる。

が、Dropboxのすごいところは、それだけではない。
それだけなら、今までのインターネットストレッジと同じ。
Dropboxでは、たとえば呼び出したあと、書き足したり、変更したりすると、その
まま上書きをしてくれる。
今までのように、いちいち改めて保存をかけなくてもよい。

利点は、まだある。
「Public」(公開)フォルダーに保管しておけば、だれとでもファイルを共有するこ
とができる。
電子メールに張りつけ、相手にそのまま原稿を送ることもできる。
容量に制限はあるものの、ふつうに使う分なら、不便はない。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●6月14日、今朝は4時半起き!

++++++++++++++++++

数日前から、扁桃腺が痛かった。
軽い風邪をひいた。
悪寒と倦怠感。

で、昨日は合計して、10時間ほど眠った。
それもあって、今朝は、4時半起き!
すでに外は明るかった。
いつもならそのまま目を閉じ、眠りなおし。
が、今朝は起きた。
起きて、そのままウォーキングマシンに!

一汗かいて、そのまま書斎に。
たった今、動画のUPLOADが終わったところ。
時刻は6時30分。
あっという間に、2時間が過ぎてしまった。

朝食後に、再び寝る予定。
このところ睡眠調整が、どうもうまくいかない。
が、ここは自然体。
犬のハナに倣(なら)って、自然体。
ハナは、好きなときに眠り、好きなときに
遊んでいる。

きっと人間も、太古の昔には、そうであったに
ちがいない。

++++++++++++++++++

●国によってちがう、生活時間

 どこの国の人も日本人と同じように、朝、起き、夜、眠っていると考えている人は多い。
しかしこれは誤解。
南米や地中海地方では、昼寝時間を取るところが多い。
そのため夜が長い。
午後10時から夕食、という家庭も少なくない。
あるいは夜12時ごろまで、通りで子どもが遊ぶ声が聞こえたりする。
少し前、スペインにいる友人が、こう話してくれた。
「コンサートが夜10時から、というのには、驚きました」と。

 私もアルゼンチンで似たような経験をしている。
土曜日の夜などは、夜12時を過ぎても、人々がぞろぞろと通りを歩いている。
店にしても、夜中の2時、3時まで開いている。
つまり私たちが、日本人として考える生活時間などというものは、日本人のものであって、
けっして世界の標準ではないということ。
言い換えると、こと生活時間についていうなら、日本人はもう少し自然体で考えたほうが
よいのではないか。
子どもが幼稚園で過ごす時間にしても、そうだ。
どうして8時30に登園し、午後2時00分に降園するのか。
昼の1時から午後5時までだって、いっこうに構わない。

 ……というのは弁解にしかならないが、人間もある年齢を超えたら、自然体で時間を過
ごしたらよい。
寝たいときに寝、起きたいときに起きる。
不規則がよいというのではない。
それが一定の規則性をもっていれば、それも「規則正しい生活」ということになる。

 なお詳しくは、総務省統計局が、「社会生活基本調査」というので調査している。
興味のある人は、そちらを見ればよい。
が、私は興味がない。
私は私、人は人。
私は若いときから、一般の人たちよりは、はるかに自由気ままに生きてきた。
要は、「睡眠時間」。
累計して、ある一定以上の睡眠時間を確保できれば、それでよい。
それさえきちんと守れば、あとは自然体。

●ワイフと私

 ワイフは子どもころから、母親を早く亡くしたということもあり、独立心が旺盛。
兄弟も7人もいた。
それもあって、いつも独りで寝る。……寝ていた。

 一方、私は祖父母の子。
寒い夜などは、小学6年生になっても、よく祖父母のふとんの中に潜り込んで寝ていた。
(私の家は、北西の角地にあって、とくに寒かった。)

 そういう2人が不幸にも(?)、結婚した。
だから結婚当初から、こと寝ることについては、不協和音がつづいている。
「独りで寝たい」というワイフ。
「いっしょに寝たい」という私。
60歳を過ぎた今もそうだ。

 で、おかしな人間関係ができてしまった。
私の方は、毎晩のように、「いっしょに寝てもいいか?」と、ワイフの機嫌をうかがう立場。
それに対してワイフのほうは、いつもこう言う。
「寝たければ、寝れば」と。
結婚して40年になるが、ワイフのほうから、「一緒に寝よう」と声をかけられたことは、一度もない。

 だから正直に告白するが、いつも寝心地はよくない。
遠慮がちに横になる私。
体が触れあうのさえ、気が引ける。
つまり窮屈。
で、ときどき、別のふとんで寝る。

 が、そういうときというのは、悪夢ばかり見る。
落ち着かない。
が、ワイフといえば、私がいないほうが、よく眠られるといったふう。
朝なども、すがすがしい様子で、起きてくる。

 が、こんな生活に、やや疲れを覚えるようになった。
で、今は、できるだけ独りで寝るように心がけている。
しかし悪夢だけは、何ともしようがない。
が、ワイフには、それが理解できない。
のんきな性格の人で、「そんな夢を見る方がおかしい」と片づけてしまう。

 では、どうするか?
……と悩みつつ、もう40年が過ぎた。
どうしようもない。
どうすることもできない。
これも「性格の不一致」ということになるのか。

 どうであるにせよ、たがいの平均余命も、15年近くになってしまった。
どこかチグハグな夫婦だが、私たちのような夫婦も少なくないはず。
「みんな、どうしているのだろう?」と思うが、そんなことを話してくれる人はいない。
これは生活の中でも、きわめてプライベートな部分。

 私の印象では、みんなそれぞれ、いろいろな問題をかかえながら、何とかうまくやっている……。
夫婦というのは、そういうものか。

 睡眠時間のことを書いたので、私とワイフのことを書いてみた。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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●親子の逆転現象(子どもに謝る親たち)

【親と子の逆転現象】(狂った日本の親子関係)

●妙な光景

 近くの大型ショッピングセンターに行った。
ドッグフードと野鳥の餌、それに水入りのペットボトルを、一箱買った。
合計すれば、70キロ近くになった。
それをカートに乗せ、車まで運んだ。
そのときのこと。
1人の男性が、気ぜわしく車と車の間を動き回っていた。
年齢は私と同じくらい。
60歳前後。
何をしているのだろうと思った。
荷物を車に入れながら、その男性が気になった。
顔には緊張感が漂っていた。
うっすらと汗ばんでいた。

 で、ハッチバックを閉じ、車のドアを開けたところで理由がわかった。
反対側に並んだ車の間から、中学1年生くらいの子どもが、どこか不機嫌そうな顔をして出て来た。
男性はその中学生らしき子どもを見つけると、すかさず、こう言った。
「ごめん、ごめん」と。
子どもは表情を緩めることもなく、何も返事をしなかった。
ふてくされていた。

 男性は、その子どもの祖父らしかった。
どこかで迷子になった。
それでその男性は、その子どもを探していた。

●祖父と孫

 どこにでもある光景である。
よく見かける。
が、私はその光景を見ていたとき、ムラムラと怒りに似たものを感じた。
見たくもない暴力映画を見せつけられたような気分?

 2人が、どこかで行き違いになったのは、わかる。
大きなショッピングセンターである。
が、探していたのは、祖父らしき男性。
子どもの方はと言えば、「どうして迷子にしたんだ」と、どこか怒っているような様子。
私には、そう見えた。
が、問題は、そのあと。
男性は、子どもを見つけると、開口一番、「ごめん、ごめん」と。
子どもが「ごめん、ごめん」と言ったのではない。
祖父らしき男性のほうが、そう言った。

●本末転倒

 こういうケースのばあい、祖父のほうが、謝る。
威張っているのは、子ども、つまり孫のほう。
頭の中の記憶をいろいろさぐってみても、子どものほうが謝っている光景を、私は見たことがない。
この文章を読んでいる、あなたにしてもそうだろう。
謝るべきは、子どものほう・・・とまでは、書けない。
何か、私の知らない事情があるのかもしれない。
しかし同時に、たがいに謝ったところで、何もおかしくない。
が、私の見た光景は、それとはちがっていた。

 一方的に、祖父らしき男性は謝っていた。
一方的に、子どものほうは、ふてくされ、男性を睨(にら)み返していた。

●謝る親たち

 親は、いつも子どもに謝りながら、子育てをする。
子どもにできないことを、謝る。
子どもはそれに対して、つまり親に対して、(してくれないこと)を怒る。
ある男性(30歳くらい)は、退職したばかりの親に対して、こう言って叫んだ。
「こんなオレにしたのは、テメエだろ。オレなんか、産んでくれなかったほうがよかった」と。

 前後のいきさつを省略したので、わかりにくいかもしれない。
が、どんな理由があるにせよ、この言い方は、おかしい。
今の若い人たちは、日常的に、不平、不満をかかえている。
それもそのはず。
今の若い人たちは、(そこにモノがある)という前提で生きている。
(してもらうのが当たり前)という前提で生きている。
食べ物、家、車・・・などなど。
豊かな生活を、「豊か」ともわからない。
それが(当り前)。
当り前の生活。
だから足りないモノ、不足しているモノがあると、それを不平や不満に転化してしまう。
だから「こんなオレにしたのは・・・!」となる。

●ドラ息子

 今の日本の子育ては、おかしい。
たしかにおかしい。
ある父親(私と同年齢)は、こう言った。

「息子は、一応、東京の一流大学を卒業しました。
が、学費と生活費だけでは足りず、毎月のように、10~15万円、余分に送りました。
息子は、そのつど、『就職したら返す』と。
で、就職しましたが、この不況。
今度は『給料があがったら、返す』と。
その貸した額だけでも、1000万円近くになります。
が、結婚すると同時に、ハイ、さようなら。
子ども(孫)ができたことをよいことに、借金の話は、忘れてしまったようです」と。

 こういうケースのばあい、親側の意識と、子ども側(息子側)の意識は、180度ちがう。
親は、「子どもに感謝してくれているはず」と考える。
しかし子どものほうは、感謝などしていない。
むしろその逆。
「あれをしてくれない」「これをしてくれない」と、不平、不満ばかりを並べる。
とどまるところを知らない。
不平、不満の上に、さらに不平、不満を重ねる。
たとえば「孫を産んでやったのに、それらしい祝い金もくれない」「世話もしてくれない」「妻(嫁)に、ねぎらいの電話、一本くれない」と。

●意識論

 そこで登場するのが、意識論ということになる。
常識論と言い換えてもよい。
意識にせよ、常識にせよ、それは「偏見のかたまり」(アインシュタイン)。

最近の若い人たちは、赤ん坊のときから、蝶よ花よと育てられている。
ある程度大きくなれば、「そら、音楽教室」「そら、英語教室」と育てられている。
そのこともあって、今、高校生でも、親に感謝しながら、高校に通っている子どもなど、まず、いない。
100%いないと、断言してよいほど、いない。
大学生でも、いない。
お金を親からもらうときだけは、「ありがとう」と言う。
しかし大半は、そのまま遊興費。
アルバイトで稼ぐお金も、遊興費。
そんな子どもに感謝の念を求める方が、おかしい。
無理。

 ある子どもは、結婚式の費用を親にせびった。
が、親にはその余力は、もうなかった。
定年退職をしてから、4年が過ぎていた。
そこでその親が、「少しくらいなら・・・」と、重い口を開いて言うと、その子どもは、こう言った。
「親なら、結婚式の費用くらい、出してくれてもいいだろ!」と。

 意識がちがうと、ものの考え方も、そこまでちがう。
たとえば私たちの時代には、実家への仕送りは、当り前だった。
私自身も、結婚をする前から、収入の約半分を実家へ送った。
結婚式についても、その費用がなく、断念せざるをえなかった。
私だけではない。
当時の日本では、それが常識だった。

 が、今は、ちがう。
そんな話をしただけで、若い人たちは、反発する。
「オレたちに恩を着せるのか!」と。

●逆転現象

 親が子どもに謝る。
子どもは、親を責める。
おかしな逆転現象だが、今、それが常識化している。
保護と依存の関係だけでは、説明できない。
つまりこの現象は、論理では説明できない。
つまり「狂っている」。

 行き違いになった孫を探す祖父。
それを怒る孫。
祖父は孫を見つける。
「ごめん、ごめん」と言って謝る。
それを見て、孫は、ふてくされる。
祖父を睨みつける。

 今では、こんな光景は、珍しくも何ともない。
この日本では、ごくふつうの、当り前の光景である。
恐らくその子どもは、こう思っているにちがいない。
「オレを、迷子にしやがって。この馬鹿ジジイ!」と。
子どもの顔からは、そんな言葉が読み取れた。

●では、どうするか

 私たちは、飽食とぜいたくの中で、子育てのあり方そのものを見失ってしまった。
その第一。

子どもに楽をさせることが、親の愛の証(あかし)と考えるようになってしまった。
楽しい思いをさせればさせるほど、親子の絆(きずな)は太くなると考えるようになってしまった。
たとえばより高価なものを買い与えれば与えるほど、子どもは喜ぶはず、と。

 が、その一方で、先にも書いたように、子どもに向かっては、「ほら、音楽教室」「ほら、英語教室」と。
子どもの意思を無視したまま、それを子どもに押しつける。
こうしたアンバランスな子育て観が、子どもの心を狂わせる。
が、親にはその意識はない。
「子どものため」と錯覚している。

 つまりこうした日常的な不協和音が、10年単位でつづき、親子の関係が逆転する。
今という時代が、そうだ。
が、これは子どものためにならない。
親のためにも、ならない。
子どもはますますドラ息子、ドラ娘化する。
そのドラ息子、ドラ娘が、つぎのドラ息子、ドラ娘を育てる……。
その一方で、親は、ますます社会の隅に追いやられる。

現在40代の人たちにしても、うち約60%の人が、やがて無縁老人、孤独老人になる。
その先で待っているのは、無縁死、孤独死。
発見までの平均日数は、約6日。
中には30日という人もいる。
(50代、60代の人の話ではない。
40代の人の話だぞ!)

 ・・・ということで、この問題は、いかに早い時期に、かついかにじょうずに子離れするかという問題に行きつく。
先日も、ある雑誌社から、こんな質問が届いた。
「子ども(小5)に勉強しなさいと言ってもしません。どうしたらいいですか」と。

 私はそれに答えて、こう返事を書いた。
「そんなヒマがあったら、自分の老後のことを心配しなさい」と。
つまりそのあたりまで割り切らないと、子離れは、完成しない。
が、それができないとどうなるか。

 あなたは一生、それこそヨボヨボの老人になるまで、「ごめん、ごめん」と子どもに謝って暮らさなければならなくなる。
それでもよいなら、私には、もう何も言うことはない。


Hiroshi Hayashi++++++++June.2011+++++++++はやし浩司

●珍奇な事件

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意識のちがいと言えば、それまで。
しかし時として、常識では計り知りえない
事件が起きる。

あらすじは、こうだ。

ある温泉街で、ある男性が、温泉をのぞき見していて逮捕された。
年齢は75歳前後。
それを見つけたのは男性。
65歳前後。
ともに同じ旅館に泊まる客。
(以上、事実とは少し内容を変えた。)

ここまではよくある事件。
似たような話はよく聞く。
が、さらに話を聞くと、頭が混乱してくる。

温泉といっても、男性客用の温泉。
つまり75歳の男性は、同性である男性の温泉をのぞいて逮捕された。
男性が男性の浴室をのぞいて、どうする?、と聞きたいが、そこが意識の問題。
だれしも、「そんならいっしょに、入浴すればいい」と考える。
そうすれば堂々と、男性の裸を見ることができる。

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●のぞき見

 「のぞく」という行為には、不思議な快感をともなう。
相手の秘密を知るという快感である。
それはわかる。

 私のばあいも、同じ女性でも、入浴後の女性には、そうでない女性よりも色気を覚える。
なまめかしい。
清潔感が漂う。
これは私だけの感覚かもしれない。

 が、だからといって、それがそのまま(のぞき)につながるというわけではない。
のぞきは、犯罪。
相手のプライバシーを盗むという点で、窃盗罪に準じて考える。

が、(のぞき)願望というのは、だれにでもある?
英語では「Peeping Tom」という。
英語にも常用語があることからもわかるように、これは世界人類共通の性癖と考えてもよい。

 が、それとて、相手が異性のばあい。
日本のように公衆浴場が発達したところで、どうして男性が男性の浴室をのぞくのか。
その必要性すら、ない。
つまりここがこの事件の最大の謎。

●男にもいろいろ

 男にも、いろいろある。
若いころは、それがわからなかった。
しかし半世紀も生きてくると、それがわかるようになる。
「濃い男」もいれば、「薄い男」もいる。
濃い男というのは、女性だけにしか興味をもたない男。
薄い男というのは、男性でも、女性でも……という男。
境界がはっきりしない。

 が、さらに進んで、同性愛というのもある。
温泉などに行くと、ときどきそれらしきカップルを見かけるときがある。
何となく雰囲気があやしい。
それで、それがわかる。

 が、男性が男性の浴室をのぞき、逮捕された。
しかし罪状は、何か?
罪状を、どうするのか?

●多様性

 ただ想像することは、できる。
私たちが、女性の裸体を見て、それなりに性的に刺激されるように、同性愛の男性たちは、男性の裸体を見て、それなりに性的に刺激される。
「見たい」という欲望も、生まれる。

 だから同性愛の人たちが、温泉に入るということは、私たちが混浴に入るのと同じと考えてよい。……のか?
あるいは、それとはちがうのか?

 人間の心理は、かなりの部分まで類型化されている。
心理学という学問に体系化されている。
しかしそれですべて説明できるかというと、そうでない部分もある。
そのひとつが、男女の問題。
性の問題。
1000人いれば、1000様の個性があると思われるほど、この世界は、多様性に富んでいる。
私がそれを最初に知ったのは、20歳のはじめのころ。
ある男性(当時、30歳くらい)が、こう話してくれた。

「ぼくはね、関取のような太った女性が好きだ。そういう女性の尻で、顔を踏みつけてもらうのが好きだ」と。

 私はそれを冗談か思った。
が、その男性の妻は、本当に関取のような人だった!
言い換えると、「自分が理解できない」という理由だけで、相手の心を否定してはいけないということ。
人、それぞれ。
私は、私。
あなたは、あなた。

●夫婦問題

 夫婦にしても、そうだ。
いろいろある。
千差万別。
私のワイフは、ああいう女性だから、結婚当初は、何をしても、私は「変態!」と言われた。
石部金吉(カタブツ男)という人がいた。
私のワイフは、その石部金吉。
石部金子。

 まじめなのはよいが、融通がきかない。
今でも、ときどき、こう言う。
「ほかの人は、そんなことしないわよ」と。

 そこで私が、「どうしてそんなことを知っているのか?」と聞く。
つまりワイフは、自分の常識だけで、他人を判断しようとする。
が、こと「性」の世界では、それは通用しない。
言い換えると、この多様性こそが、おもしろい。

 ……もう20年ほど前のこと。
ある会合で会った女性(当時30歳前の美しい女性)が、こう言った。
「私、毎月1回、70歳の男性の相手をしています」と。

 相手の男性には、妻もいる。
子どももいる。
孫もいる。
みなの前で、臆面もなく、そう言った。
私が驚いていると、その女性は、10歳以上も年上の私にこう言った。

「あなたは、まだお若いですね」と。

 この世界は、そういう世界。
それにしても、冒頭の事件。
いろいろ想像力を働かせてみるが、私には、どうしても理解できない。
(理解する必要もないが……。)
私には、実に珍奇な事件ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++June.2011+++++++++はやし浩司

●礼状

++++++++++++++++

先日、虐待についての相談があった。
その返事を書いた。
それについて、つぎのような礼状が
届いた。
こうして礼状をくれる人は、珍しい。
つまりこの礼状を書いた段階で、
その人の心の問題の大半は解決したと
みてよい。
自分を知るということは、そういうこと。

子育ての世界では、「うちの子のことは、
私がいちばんよく知っている」と思っている
親ほど、実は、自分の子どものことを知らない。

が、謙虚になったとたん、そこに自分の
姿が見えてくる。
「子どもは家族の代表」にすぎない。
それがよくわかるようになる。

++++++++++++++++++

【埼玉県のSTさんより、はやし浩司へ】(一部、プライバシーに関する部分は、改変)

何をどのように調べていいのか検索方法も正直わからないまま、先生のホームページにたどり着いた時はすがるような思いで今思っていることを書き連ねました。

その後・・・メルマガの廃止・相談は現在休止していることを知りました。
お忙しいのに、突然のメールに丁寧に返信して頂き、読みながら涙が止まりませんでした。
子どものこの状態を作ったのは、明らかに私だ!早く何とかしなくては!!と感じながら、なかなか一歩を踏み出せないまま、毎日を送りまたバトルをする・・・の繰り返しでした。

自分を振り返っても母との楽しい思い出はほとんど思い出せず、叩かれたりののしられたり・・・辛い悲しい思い出しか浮かばず、虐待は連鎖すると聞いていたけれど、子どもを授かった時に『絶対に優しいお母さんになる!!私は絶対手を出さない!』と理想の母になると決めたはずでした。

ところが子育てはマニュアルどおりには全くいかず・・・それもわかっていたはずなのにイライラは募るばかりでした。
主人は、大変子育てには協力的で、母乳以外の事はすべてやってくれます。
むしろ私以上に母親です。
子どもの事もこんな私ですら大切にしてくれます。子どもたちももちろんいうまでもなく二人ともパパっ子です。

主人は私にとっては、初めて嫌われるかどうかなど気にせず心を開ける唯一の人です。

主人の優しさに私の心はやっと開き、前向きに生きれるようになり、主人と生活するようになり生まれて初めて毎日が楽しく充実した日々をすごせるようになりました。

私と母との関係も知っています。
子どもに怪我した跡が見つかり、怪我するほど叱ってはだめだ!!とここ数年言われていましたが、
今年に入り子ども自身も今まで父親にはべたべた甘えていたのに、反抗的な態度をとる様になり、段々このままでは家族が崩壊すると心を痛めていました。
私はその主人の悲しそうな姿を見てこの人の為にも私自身が何とかしないと、本当に親子も夫婦も・・・家族がバラバラになる。
それぞれが壊れてしまう・・・ニュースで取り上げているようなことがいつか我が家にも起こる・・・・主人に申し訳ないと。

以前テレビで見た【Mツリー】に問い合わせました。
しかし自分でもこれだけいいのか???子どももどこかにかからなくていいのか???とても不安でした。

ネットを見ると【虐待】【アダルトチルドレン】【パーソナリティ障害】・・・・どれも当てはまりすぎるぐらい当てはまります。
子どもの荒れや自傷行為も私の関わりからだとはっきりしていますが・・・どこかわかっているのに子どもに素直に謝る事も出来ず、自分を正す事も出来ません。

先生からの返事で戸惑っている場合でないことがよくわかり、心療内科の門をくぐろうと思います。〔薬には正直抵抗がありますが・・・・〕
そして何より・・・・私たち家族の進むべき道が示されたような気がしてず~っと先に光が見えるように思えます。

私は母に色々相談したり、手をつないで出かけたり、ショッピングに行くとこはありませんでしたが娘といつか笑って並んで歩ける日がくるように頑張ります。

それとあつかましいのですが、M市でこのような心の問題に詳しい心療内科をご存知でしたら教えて頂けないでしょうか??
紹介という形ではなく、特殊な問題ですので、ご存知であればそちらにかかろうかと思いまして・・・。
勝手なお願いばかりで申し訳ありません。なにとぞよろしくお願いします。
お忙しいところ本当にありがとうございました。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司