Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, January 31, 2009

*BW Lessons for Open Public

●BW公開教室

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今年1年をかけて、BW教室のすべてを
公開することにした。
今まで培(つちか)ってきたノウハウを
そのまま公開する。
これには、2つの意味がある。

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(1) 全世界の子どもたちが、BW教室に
直接、触れられるようにする。
(少し大げさかな?)

(2) 私の過去を、未来に残す。
(残さなければならないような過去でもないが……。)

が、それ以上に、こうした実験をするのが、楽しい。
あとの反応は、それを見る人に任せればよい。
つまらないものであれば、やがて消える。
そうでなければ、残る。
少しは、残る。

たとえばこんなことがある。

今では、無料のHPサービスはたくさん、ある。
以前はというと、プロバイダーと契約して、サイズに
応じて、料金を払っていた。
(今も、払っているが……。)
たとえば30MBまでは、無料。
それ以上のサイズになると、10MBごとに、
月々500円とか(SW社)、など。

その点、無料は無料。
ありがたい。
その無料のHPサービスを使って、新しくHPを開設する。
が、サービスの内容は、会社によって異なる。
たとえば私が世話になっているN社のばあい、
「3か月間、アクセスがゼロのときは、削除する」とある。

つまりHPを開設しても、3か月間、だれも
見てくれなかったら、おしまい、と。

そういった制約はあるが、無料というところが
魅力的。
N社だけでも、15前後のHPを開設させて
もらっている。
そんなわけで、だれもアクセスをしてくれないようなHPを
開設しても意味がない。
当然、それなりに見てもらえるHPを開設しなければ
ならない。

そのとき大きな目安になるのが、毎日報告される
アクセス数である。

このアクセス数が、週ごと、月ごとにふえていくと、
大きな励みになる。
反対に減っていくと、更新するのも、いやになる。
つまりこうしてHPが、自分の中でも自然淘汰されて
いく。

人気のあるHPには、力を入れる。
そうでないHPからは、撤退する。

(昨年、『音楽と私』というHPを開設したが、これなどは、
その後まもなく、1日のアクセス数が500~700件を
超えるようになった。
当初は、軽いHPを考えていたが、その数の励まされて、
どんどん大きくしていった。)

で、新しい企画。
それが冒頭にあげた、『BW公開教室』が、それ。
きっかけは、孫の芽衣に、日本語の勉強をしてもらいたかった
こと。
「一度は、孫を、自分の教室で教えてみたい」という思いが
つのって、こうなった。
つまり開設する気になった。

このHPについても、見てくれる人がふえれば、どんどんと
更新していきたい。
そうでなければ、そうでない。
あとの判断は、それを見てくれる人に任せればよい。
それに応じて、行動すればよい。
万事、自然体。
「おもしろい」と思ってくれる人がいれば、よし。
「つまらない」と思う人がいても、しかたない。
つまり、それが私の実験ということになる。

どうなることやら?
今しばらく、様子をみてみよう。

そうそう、今朝も5時に起きて、『BW公開教室』に、
動画を10本ほど、アプロードした。

興味のある人は、ぜひのぞいてみてほしい。
幼児をもっている人には、たいへん役に立つはず。

【BW公開教室・芽衣の部屋(Mae’s Room)】へは……、
http://bwhayashi.ninja-web.net/
をクリック!

では、みなさん、よろしくお願いします。
みなさんに支持されれば、この先1年、このHPに
力を入れてみます。
約束します。

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(付記)

若いころ、幼児向けの教材づくりを手伝ったことがある。
『なかよしがくしゅう』『幼児の学習』(学研)ほか。
で、そのうちビデオが普及し、ビデオ教材も手がけるようになった。
しかしどうもテンポが合わない。
かったるいというか、間延びしているというか……。

それもそのはず。
幼児を実際に教えたことがない、どこかのプロダクションが、
想像だけで教材を作っていた。
「幼児というのは、この程度だろう」とか、「相手は幼児だから、
こうすれば喜ぶだろう」とか。

が、実際には、幼児のクロック数は、おとなの私たちが
考えるより、はるかに速い。
おとなの2倍は、速い。
幼児イコール、幼稚と考えてはいけない。
そのテンポに合わせないと、子どもたちは、あきてしまう。

今回、私の教示教室を、そのまま紹介することにしたが、
ビデオを通して、幼児のもつテンポを理解してもらえればうれしい。

Friday, January 30, 2009

Financial Assitence Sysytem of Japan

【保存版】



【子育て支援・助成金】



 現在、子どもをもつ親に、国や自治体は、以下のような

子育て支援・助成金を支給している。受領が可能と思われる

方は、遠慮せず、各窓口へ、相談してみたらよい。





●私立幼稚園就園奨励費



 資格……私立幼稚園へ通っている園児のいる家庭

 金額……年額、5万6500円(所得制限あり)

     (国と自治体から)

 届け出先……幼稚園、もしくは、各市町村村役場

       申請書を提出する。

     (現在、各私立幼稚園で代行。幼稚園に問いあわせてみること。)





●児童手当



 資格……小学校3学年修了前

金額……月額5000円

     第3子以降……月額1万円(所得制限あり)

 届け出先……各市町村村役場





●児童扶養手当



 資格……ひとり親

 金額……第1子……4万1880円

     第2子……プラス5000円

     第3子……プラス3000円

 届け出先……各市町村役場





●児童育成手当て



 資格……ひとり親

 金額……1万3500円前後(自治体によってちがう)

 届け出先……各市町村役場





●特別児童扶養手当



 資格……身体障害者1級手帳の子ども

 金額……月額5万1550円

 届け出先……各市町村村役場

 



 ほかに、乳幼児医療費助成金、ひとり親家庭医療費助成などがある。助成金の額は、自治
体によって、異なる。医療費の全額もしくは、ほとんどを助成してくれる。



 すべて届け出先は、各市町村村役場になっているので、こまめに足を運んで相談することが
大切。これらの中には、届け出を出さないと受領できないものもが多く、また届け出を出した時
点からしか支給されないものもある。



 上限の年齢制限もあるので注意。児童扶養手当、児童育成手当ては、子どもが満18歳にな
るまで。子どもが生まれたらすぐ、相談してみる。

*My G-son and G-daughter

Mae's Room

2009-1期HP 表紙

2009-1(Jan)

2008 Christmas Card

Thursday, January 29, 2009

*Contradiction *Freedom of Education

●矛盾
(45% of the people in the world are working with only 2 dollars payment a day. Ans acording to the newspaper of today, an old man of the age 80 had been stolen money of 360000000 yen. The money is equivalent to the payment of 5500 years to one poor man.)
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世界に45%の人が、1日2ドルで
働いているという。
一方、日本で、4億円近い現金を
盗まれた人がいた。

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今朝の朝刊に、お金にまつわる、2つのニュースが載っていた。
ひとつは、世界の45%の人が、1日2ドル以下で働いているというニュース。
そういう人たちが、14億人にもなるという(ILO・090128)。

もうひとつは、ある県の老人が、庭に埋めておいた、4億円※近い現金を
盗まれたというニュース(以上、中日新聞)。
盗まれたのは、80歳の老人だったという。
(しかもそのあとまもなく、亡くなっているという。)

これら2つのニュースを並べて読んでいると、あまりにも両極端すぎて、どう理解したら
よいか、わからなくなる。
たったの2ドル!、と思ったあとに、4億円も!、となる。

そこで……。

4億円(警察の発表では、3億6000万円)を、ドルに換算すると、約400万ドル。
400万ドルを2ドルで割ると、200万日分。
200万日を365日で割ると、約5500年分。
このあたりまでくると、少し、理解できるようになる。

つまり貧しい人が、5500年働いて稼ぐお金を、どこかの1人の老人が、
盗まれた。

5500年分だぞ!

ところがおかしなことに、こうして考えていくと、その老人のほうが、まちがっている
ように思ってしまう。
老人というより、世界のしくみのほうが、まちがっているように思ってしまう。
もちろんだからといって、盗まれてよかったと書いているのではない。
それはそれ。
しかし同情すべきなのだろうが、正直に書くが、その同情心が、わいてこない。
むしろ「80歳の老人が、4億円ももっていて、どうするの?」と、そんなふうに、
考えてしまう。

実際、この日本では、お金をもっている人は、もっている。
10億円単位でもっている。
しかしその一方で、月額20万円以下の給料で働いている人も多い。
そういう人たちは、毎日、爪に灯をともすような生活を強いられている。
これを社会の矛盾と言わずして、何と言う?

……というような話をしていたら、こんな広告が目に留まった。
何でも、今度、有料の老人ホームができたという。
介護度が4とか5の老人でも、入居できるという。
それを見ると、入居金が500万円。
月々の費用が、部屋代、食事代を含めると、約20万円。
私とワイフが、2人で入居したとすると、入居金が1000万円。
月々の費用が、40万円。
ほかに医療費などもある。

そういう計算をしながら、「死ぬのも楽ではないな」と、まあ、
そんなような会話を、ワイフと交わす。
何かおかしいが、こればかりはどうしようもない。
これでいいとは思わないが、だからといって、何ができるのか。
先の2つのニュースを読んだ直後だけに、矛盾だけが、あとに強く残った。

私「それにしてもさあ、だれが盗んだのだろう?」
ワ「そこに現金が埋まっていると知っていた人よ」
私「どこかで見ていたのだろうか?」
ワ「どこかで見ていたのよ、きっと……」

私「そのあとすぐ、その老人は亡くなったそうだ」
ワ「おかしいわね。何か、事件性を感ずるわ」
私「ぼくも、そう。感ずる、感ずる……。」
ワ「そのあたりも、警察は調べていると思うわ」と。

実は、お金というのは、稼ぎ方よりも、使い方のほうが、むずかしい。
ところがほとんどの人は、どう稼ぐかということばかりを考える。
どう使うかということは、あまり考えない。
「お金は、あればあるほどいい」と考えて、そこで思考を停止してしまう。
その老人がそうだったとは言わないが、やはり結論は、先の話に戻って
しまう。

「そんな老人が、4億円ももっていて、どうするの?」と。
しかしこれは、私のひがみか?

(注※)警察が追認できた金額が、3億6000万円。
盗まれた金額は、それ以上と考えられる。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●おわび
(When I write essays I have to pay much attention not to offend or insult people in the essays, and therefore I write like this way: in most cases I change names and their relations with me, or stories themselves as fictions. Otherwise I am to get involved in unexpected troubles. Please understand this when you read my esseys for which I thnak you very much.)
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定期的に、こうしたおわび文を掲載しています。

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私が書くエッセー(文章)について、つぎのことを、どうか、
ご理解ください。

こうしたエッセーでは、他人の話を、身内の人の話にしたり、
1つの話を2つに分けたり、あるいは反対に、2つの話を
1つの話にしたりすることは、よくあります。
もちろん身内の話を、他人の話にすることもあります。

またそれをしないと、たいへんなことになるからです。

ほかに、その人から聞いた話でも、その人とわからないように、
別のストーリーを組み立てることもあります。

さらに過去の話を現在風に仕立てたり、現在の話を、過去の話に
仕立てたりするときもあります。
その人の家族構成を変えたり、職業を変えたりすることは、
この世界では常識です。

ただ現在、私と交友関係にある人については、原則として
その人については、書きません。
批判も、しません。
またそういうことのために、(ものを書く)という手段を、
使いたくありません。
ものを書くことによって、交友関係を破壊したくないからです。

一方、一度でも批判したことがある人とは、交際しないことに
しています。
これは私が決めた、信義則のようなものです。
一方でその人を批判しながら、他方でにこやかな笑みを浮かべてつきあう
というような芸当は、私にはできないからです。

ただし政治家などの公人は、別です。
しかしそのばあいでも、できるだけ実名は避けています。
「麻生総理大臣」は、「AS総理大臣」と表記しています、など。

というわけで、中には、「あの林は私のことを書いた」とか、何とか
言って、不愉快に思う人もいらっしゃるかもしれません。
しかしそれは誤解です。

私は、個人攻撃はしませんし、そういうことをしても意味がないことを、
よく知っています。
せっかく私の文章を読んでくれる人にも、それでは申し訳ありません。
そういう人を、利用することになるからです。

以上のことを、どうかご理解の上、私の書いたエッセーを
読んでくだされば、うれしいです。
よろしくお願いします。

                 はやし浩司



Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

● 従順な子ども(Obedient Children)
(Has the Japanese education changed a lot since the end og the WW2? The answer should be “No”. Still now most of the teachers want more obedient children, so-called “obedient children without mouths”. The biggest problem we have is that there is only one course provided for children in Japan.

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日本の学校、つまり日本の教育は、基本的に、
「もの言わぬ、従順な子ども」ほど、いい子と考える。
またそういう子どもにすることを、教育の(柱)に
している。

(少し過激かな?
しかしこれくらい過激に書かないと、みな、
目を覚まさない。)

明治以来、国策としてつづけられてきた、こうした
教育観は、ほとんど変わっていない。
代々、教師から生徒、さらにつぎの生徒へと、
受け継がれている。

こう書くと、「私はちがう」と反発する教師も
いるかもしれない。
しかし反発する前に、外国の学校と、比較して
みたらよい。
あるいはあなたが入学試験の試験官だったら、
どういう生徒を望むか、それをほんの少しだけ、
考えてみたらよい。
直接、日本人を、外国の子どもたちと比較してみるのも
よいかもしれない。
私がここに書いていることが、大筋ではまちがっていない
ことを、あなたは知るはずだ。

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●一定のワク

幼稚園教育には、「6領域」という言葉がある。
「健康」「社会」「自然」「言語」「音楽リズム」「絵画制作」の
6つを、「6領域と」いう。
「6つの分野にわたって子どもを指導する」というものだが、
要するに、何を教えてもよいということ。

が、この「6領域」という言葉は、日本人が考えたものではない。
アメリカの学校にも、同じ言葉がある。
しかも小学校で、それを使っている。

アメリカが日本の教育のまねをした形跡はないから、
日本がアメリカのまねをした。
あるいは戦後、GHQとともに、日本へもたらされた。
そう考えてよい。

要するに、アメリカの小学校では、何を教えてもよい
ということになっている。
「州政府の指導はきわめて緩やかなものです」と、
ある小学校の校長が、私に、話してくれた(アメリカ・A州S小学校)。
(念のため申し添えると、その校長の部屋の前には。
鯉のぼりが飾ってあった。
日本の学校を視察したこともあるという。
そういう立場、つまり日本の教育がどういうものであるかを
知った上で、そう言った。)

言うなれば、日本の教育には、メニューはひとつしかない。
一方、アメリカの小学校には、メニューがいくつもある。
入学年度すら、それぞれの小学校が、自由に決められる。

だから教師にしても、日本では、与えられたワクの中に、
子どもに押し込めようとする。
またそれからはずれる子どもは、嫌われる(?)。
嫌われるという言葉がきついなら、敬遠される。
アメリカには、最初から、そのワクそのものがない。
だったら、どうするか?

教育を自由化する。
自由化に始まって、自由化で終わる。
「それでは国がバラバラになってしまう」と考える人が
いるかもしれない。
もしそうなら、それこそ全体主義。
中国やK国の指導者がそう言うなら、まだわかる。
が、どうしてこの日本が、そんなことを心配するのか。

あるいは、以前、私にこう反論した教師がいた。
「日本は、まだそのレベルに達していない」と。
「自由化してよいほど、日本人の教育観は熟成していない」と。

しかし本当にそうだろうか?
あるいは、そう思い込んでいるだけではないのか?
もしそうなら、文部科学省が、率先して、教育の
自由化を推し進めたらよい。
それでこそ、「教育」である。

アメリカでは、学校の設立そのものが、自由化されている。
さらに進んで、カナダでは学校で使う言語すら、自由。
(アメリカの学校は、英語で教えるが基本になっている。)

カリキュラムにしても、「6領域」※を定める程度にする。
もちろん教科書の検定などというものは、廃止。
もとからあのようなバカげた制度があるほうが、おかしい。
もうやめたらよい。
現在、教科書の検定制度をもっている国は、欧米先進国
の中では、この日本だけ。
どうしてそういう事実に、日本人は、もっと目を向けないのか。

子どもたちが学校で使うテキストにまちがいがあるなら、
そのつど、教師がそれを正せば、それですむこと。
それに今は、インターネットという、すばらしい文明の
利器がある。
やがてコンピュータも、ノート大になり、ノートの
ように気軽に使える時代がやってくる。
言うなれば、巨大な図書館が、ノートの中に、
収まることになる。
教科書に書いてあることが正しいかどうかは、瞬時に、
自分で判断できるようになる。
そういう時代も想定して、では教育はどうあるべきかを、
考えたらよい。

人間の生き方は、けっして、ひとつではない。
同じように、子どもの教育も、けっして、ひとつで
あってはいけない。
多様な道を用意することこそ、教育者の義務では
ないのか。

たまたま今も、窓の外に、学校の校舎が見える。
真四角の箱にしか見えない校舎である。
あの箱の中で、今、どんな教育がなされているのか。
またなされていないのか。

ふと手を休めて、私はそんなことを考えた。
かなり過激な書き方をしたが、しかしこれくらい
過激に書かないと、みな、目を覚まさない。
私自身も、一足飛びに自由化せよと考えているわけではない。
ひとつの努力目標として、前にかかげるべきではないかと、
考えている。

(補記※)「幼稚園教育の六領域」(以下、文部科学省HPより抜粋・転載)
●幼稚園教育要領の制定
文部省は保育要領実施後の経験と、研究の結果に基づき、また現場の要望にこたえて、昭和三十一年度に「幼稚園教育要領」を作成した。幼稚園教育要領においては、教育内容を「健康」、「社会」、「自然」、「言語」、「音楽リズム」、「絵画制作」の六領域に分類し、さらにその領域区分ごとに「幼児の発達上の特質」およびそれぞれの内容領域において予想される「望ましい経験」とを示した。さらに、三十九年度には、それまでの経験や研究の結果を生かして、教育課程の編成や指導計画の作成をよりいっそう適切にするために「幼稚園教育要領」の改訂を行ない、小・中・高校と同様、文部省告示をもってこれを公示し現在に至っている。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
幼稚園教育 幼児教育 六領域 6領域 教育の自由化 教育自由論)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

● 文字と思考
(The invention of letters has changed the world a lot and so did in Japan, too.)
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文字は、論理を組み立てる上において、
必要不可欠なものである。
言うなれば、子どもが遊ぶ、ブロックのようなもの。
そのブロックを組み合わせて、人は、論理の世界をつくる。

つまり(言葉)という抽象的概念を、(文字)化することによって、
人はそれを、(思考)(思想)にまとめることができる。

たとえば「怒り」。
カーッとなって不愉快な状態になったことを、(怒り)という。
それを「怒り」という言葉を使って、表現する。
「私は怒っている」と。

が、そのままでは、怒りを分析したり、論理的に
解明したりすることはできない。
「なぜ私は怒っているのか」「怒りを静めるためには、
どうすればいいのか」と。

そこで「怒っている」という言葉を、「怒り」という
文字に置き換える。
文字にすれば、遠く離れた人に、自分の感情を伝える
ことができる。
「私はあなたを怒っています」と。
が、それだけではない。
理由も、書くことができる。
「あなたは、私をだましました。それで怒っているのです」と。

こうして人は文字を使って、情報の伝達を行い、感情を
共有することができる。

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● 万葉仮名

あなたは、つぎの漢字をどう読むだろうか。

『皮留久佐乃皮斯米之刀斯』

ウ~~ン!

謎解きのような文章である。
しかしこれは、「はるくさのはじめのとし」(春草の始めの年)と読むのだそうだ
(「日本古代史・謎とミステリー」・リイド社)。

2006年10月、大阪中央区の難波宮(なにわのみや)跡で見つかった、
木簡に、そう記されていたという(同)。

文字は漢字を使い、読みと文法は、日本語に従った。
こういうのを、万葉仮名という。

そこで私も考えてみた。







上から、「あいうえお」と読む。
その万葉仮名から、平仮名やカタカナが生まれた。
今さら説明するまでもないことである。

「は」は、「波」から生まれた?
「や」は、「矢」から生まれた?
「し」は、「氏」から生まれた?

よく平仮名やカタカナは、日本人の発明したすばらしい文字であると
説く人がいる。
しかし本(もと)を正せば、中国語。
それを簡略化したにすぎない。
いちいち漢字で書いていたら、それこそたいへん。
時間の無駄。
だれだって、簡略化することを考えただろう。
「日本人の発明」というような、おおげさなものではない。

……で、今、改めてしげしげと、自分の書いた文章を見つめなおす。
そこには平仮名と漢字が入り交ざった文章が、並んでいる。
当たり前のようにして使っている(文字)だが、それにもいろいろな歴史があるらしい。

たまたま横で別の本(「日本史」・河出書房新社)を読んでいたワイフが、こんな
おもしろい事実を話してくれた。

あの紀貫之(きのつらゆき)の幼名は、「阿古久曽麻呂(あこのくそまろ)」と
言ったそうだ。
「くそ」は、そのままズバリ、「ウンチ」のこと。
そんな名前をつける親も親だが、まだ名前があっただけ、よかったほうなのかもしれない。
これも万葉仮名ということになるが、「阿」が、「あ」になり、一部を取って、「ア」
になった。
「久」は、わかりやすい。
「久」が、「く」になり、「ク」になった。

難波宮跡で見つかった木簡でも、「久」が、「く」と読まれていた。

……しかしこういう話は、あまり深入りしないほうがよい。
へたなことを書くと、その道の専門家たちの袋叩きにあう。
こういうことを一生懸命調べている人もいるわけだから、ここは謙虚になったほうがよい。

で、話を戻す。
(戻すといっても、どこへ戻したらよいか、わからないが……。)

● 文字

文字を知って、日本人は、飛躍的に進歩した。
文字があるからこそ、人から人へと、情報を伝えることができる。
言いかえると、もし文字がなかったら、……というよりそれ以前の日本人は、
きわめて原始的な民族だったということになる。
進歩をしたくても、進歩のしようが、ない。

私の近辺にも、本をほとんど読んだことがないという人がいる※。
率直に言って、そういう人は、どこか変?
だから私は、こう推察する。
(文字を読んだり書いたりすること)で、脳のある部分が
刺激され、それが(思考力)に結びついているのではないか、と。

だから文字を読んだり書いたりすることがない人は、思考力そのものが、育たない。
私自身も、こうしてパソコンに向かっていないときは、深くものを
考えることができない。
こうして文字を打ち始めて、はじめて脳みそのある部分が、アクティブになる。
そのとき思考力が働き始める。

もう少し、わかりやすく説明しよう。

たとえばあなたが、何かのことでだれかに、怒りを感じたとしよう。
怒りそのものは、悶々とした感情で、それには(形)はない。
その(怒り)に形を与えるのが、言葉ということになる。

「なぜ私は怒っているのか」と。

つまり言葉で表すことによって、人間は感情的感覚を、抽象的概念にする。
そしてそのとき、それを(文字)で表現することによって、(怒り)を
分析し、内容を論理的に考えることができる。
もちろん他人に伝えることもできる。

が、それはかなりめんどうな作業である。
たいていの人は、できるならそれを避けようとする。
難解な数学の問題を押しつけられたときの状態に似ている。
もし文字を書くことがなかったら、「バカヤロー」「コノヤロー」程度の、
感情的表現で、終わってしまっていたかもしれない。
またそのほうが、ずっと楽(?)。

事実、本を読んだことがないという人は、情報だけが脳みその表面をかすっている
といったような印象を受ける。
感情のおもむくまま行動しているといった感じもする。
言葉にしても、頭の中で反すうするということを、しない。
そういう意味で、(文字)には、特別の意味がある。

ただ「使う」とか「使わない」とかいうレベルの問題ではない。
万葉仮名を使うことによって、日本人は、日本人としての「個」を確立した。
また文字を使ったからこそ、その時代を今に、伝えることができた。
だからこそ、その時代を、私たちは「個」としてとらえることができる。

冒頭にあげた難波宮跡から見つかった木簡は、7世紀中ごろのものとみられている(同書)。
つまり日本人が日本人としての「個」をもち始めたのも、そのころと考えてよい。

それまでの日本人は、言うなれば、「個」のない、ただの原住民に過ぎなかった。
……というのは言い過ぎかもしれないが、隣の中国から見れば、そう見えたにちがいない。
そのころすでに中国では、何千もの漢字を自由に操って、文学や思想の世界だけではなく、
科学や医学の分野においても、世界をリードしていた。

(※付記)

昔、私の知っている女性に、こんな人がいた。
口は達者で、よくしゃべる。
情報量も多く、何かを質問すると、即座に答がはね返ってくる。
が、その女性(当時、50歳くらい)の家を訪れてみて、驚いた。
新聞はとっているようなのだが、本とか、雑誌が、ほとんどなかった!

で、ある日のこと。
その女性が、ある問題で困っているようだったので、私は資料を届けることにした。
本をコピーしたので、それが20~30枚になった。
ところが、である。
私がその資料をテーブルの上に置いたとたん、その女性はヒステリックな声を
あげて、こう叫んだ。

「私は、そんなものは、読みません!」と。

で、そのときは、そのまま私のほうが引きさがった。
私のほうが何か悪いことでもしたような気分になった。

が、そのあとも、似たようなことが、2度、3度とつづいた。
私は、その女性が、何かの障害をもっているのではないかと疑うようになった。

識字能力……読み書きできる人のことを、識字者という。
それができない人を、非識字者という。
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関=UNESCO)では、識字について、
「日常生活における短い簡単な文章の読み書きができる人を識字者、できない人を非識字者」と定義している。

日本では、昔、文字を読めない人を、「文盲」と呼んだ。
しかしその後の教育の整備が進んで、今では、文盲の人はいないということになっている。
そこで近年では、(1)文字は読めても、(2)それを理解できない人を、非識字者と
位置づける学者も多い。

ポイントは、一応の読み書きはできる。
しかし読んでも、それを理解することができない、というところにある。

で、たとえばその女性のばあい、(1)文字を目で拾って、読むことはできる。
簡単な手紙を書くことはできる。
しかし、(2)論説的な文章になると、それを理解することができない。
それができる人には、何でもないことかもしれないが、文字が活字として、
こうまで一般に普及したのは、ここ100年前後のことである。
能力が、それについていないという人がいたとしても、おかしくない。

たとえば工事中の現場を見たとする。
地面が掘り返され、工事車両が並んでいる。
私たちは、そうした様子から、そこが工事中であると知る。

が、「工事中」という文字を見たときはどうだろうか。
大脳後頭部の視覚野に映し出された映像の中から、まず文字だけを選び出さなければ
ならない。
つづいてその情報を、今度は、側東部や頭頂部が、
そこでそれまでに蓄積してあった情報と照合する。
さらに記憶となって残っている情報と照合する。
そこではじめて「工事中」という文字の意味を知る。
つまり文字を理解するというのは、それまでにたいへんなことだということ。
それができる人には、何でもないことかもしれないが、そうでない人にはそうでない。

このことは、LD児(学習障害児)をみると、わかる。
ある一定の割合で、文字を読んでも理解できない子どもがいる。
たとえば算数の応用問題が、できない、など。
そこで私が「声を出して読んでいい」と言って、声を出して読ませたり、
別の紙に書き写させたりすると、とたん、「わかった!」とか、言う。
一度、自分の声で読み、それが耳を経由すれば、理解できるというわけである。

ただし程度の差もあり、また診断方法も確立されていないため、このタイプの
子どもが、どれくらいの割合でいるかということについては、わからない。

さらに言えば、文字を読んでも理解できない点について、識字能力に問題があるのか、
それとも、知的能力そのものに問題があるのか、その判別もむずかしい。

しかしそういう子どもがいるのは、事実。
20人に1人くらいではないか。
だとするなら、その延長線上に、文字を読んでも理解できないおとながいると考えても、
おかしくない。

私は、その女性が、そうではないかと疑った。
と、同時に、いろいろな面で、思い当たることがあった。
先に書いたように、その女性の周辺には、本だとか雑誌など、そういったものが、
ほとんどなかったということ。
反対に、私のばあい、本に埋もれて生活をしているので、そういう生活そのものが、
たいへん奇異に見えた。

またビデオ・デッキも、なかった。
「ビデオは見ないのですか?」と聞くと、「ああいうものは、疲れるだけ」と。
とくに洋画は、まったく見ないと言った。
あとから思うと、字幕を読むのが苦痛だったためではないか。

……そうこうしながら、それから10年ほど、たった。
話を聞くと、その女性は、この10年間、ほぼ同じような状態ということがわかった。
が、そこに認知症が加わってきた。
周囲の人たちの話では、的をはずれた言動や、はげしい物忘れが目立つようになってきた
という。
今のところ、日常の生活に支障をきたすようなことはないそうだが、「どこか、
おかしい?」と。

となると、当然のことながら、識字力は、衰退する。
(文字を読まない)→(文字から遠ざかる)の悪循環の中で、文字を読んでも
ますます理解できなくなる。

ワイフはその女性について、最近、こう言った。
「あの人には、文化性を感じないわ」と。
文化性というのは、生活を心豊かに楽しむための、高い知性や理性をいう。
その逆でもよい。
高い知性や理性をもった人は、生活を心豊かに楽しむことができる。
つまり文化性のある人は、音楽を楽しんだり、本を読んだりする。
それがその女性には、「ない」と。

私もそう感じていたので、本文の中で、「率直に言って、そういう人は、どこか変?」
と書いた。

なおあのモンテーニュ(フランスの哲学者、1533~92)も、こう書いている。

「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、
考えたことはない」(随想録)と。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 識字
識字者 非識字者 文字 文盲 文章の読めない子ども 文を理解できない子供)

*Jan 30th 2009

.  mQQQm            発行人 はやし浩司(ひろし)
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
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. みなさん、   o o β     
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○   
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 1月 30日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●三日酔い闘病記

++++++++++++++++++

息子が、アメリカのNAPAのワインを、
みやげにもってきてくれた。

「あぶないかな?」と思いつつ、それを
フルーツ・ジュースで割って飲んでしまった。

飲みやすかった。
おいしかった。
で、調子にのって、その翌日も、飲んでしまった。
今度は、コップ3分の1ほどを、それを野菜
ジュースで薄めて飲んだ。

が、これが悪夢の始まりだった。
三日酔いの始まりだった。

++++++++++++++++++

翌朝、実はその日、愛知県のほうへ、グルメ観光に行く予定だったが、はげしい頭痛で
目が覚めた。
旅行は、そのままキャンセル。
頭痛だけではない。
症状を列挙してみる。

目が回る。
じっと見ているだけで、目の奥が痛くなる。
動きのあるものを見つめていると、吐き気を催す。
音がだめ。
音楽もだめ。
それがガンガンと頭に響く。

頭を動かすと、同じように吐き気を催す。
脈数を計ってみると、105~110もある。
こめかみを指で触れてみると、そこでドクン、ドクンしているのがわかる。

食欲はなし。
インターネットで調べてみると、「水分補給がいい」とあった。
しかし胃そのものが、水分を受けつけない。
アレルギー反応を示している。
少しお茶を口にしてみたが、そのままゲーッ!

加えて、下痢、また下痢。
昨日だけでも、10回近く、トイレへ走った。
腸全体も、アレルギー反応を示している。
(これは素人判断だが……。)

昼過ぎになって、息子が二日酔いの薬を買ってきてくれた。
「2000円のワインを飲んで、薬代が2000円では、
赤字だね」と、おかしなことを言いながら、薬をのむ。
胃の不快感は、しばらくすると、軽くなった。
そこではじめて、ぬるいお湯に、蜂蜜を溶かして飲む。

が、食欲は、ゼロ。

起きていても目が回る。
しかたないので、そのままふとんの中へ。
こうして私は、約24時間も、つづけて眠ることに……。
ときどき体を起こしたが、24時間というのは、すごい。

そして三日目の今朝、やっとパソコンに電源を入れた。
頭を動かすと目が回るので、頭は椅子に固定したまま。
今朝になって、お茶を2杯飲むことができた。
が、飲んだとたん、またあの頭痛。
摂取した水分で、血管が拡張したためらしい。
それが神経を圧迫した。
片頭痛のときの頭痛に似ている(?)。

が、何よりもつらかったのは、厭世気分。
「二日酔いになると、厭世気分が増大する」という。
「生きていることそのものが、いやになる」……というのは、少し大袈裟だが、
しかしそれに近い。
犬のハナを見ても、いつものような愛情を感じない。
そこにいるのは、ただの動物。
あれこれグチを言うと、ワイフがこう言った。
「二日酔いを私のせいにしないでよ」と。

いつだったか、友人のT氏がこう言ったのを思いだした。
「酒で、憂(う)さが晴れるというのは、ウソだよ。
そのときは、酒で自分を忘れることができても、そのあと、何倍も、落ち込むよ」よ。

二日酔いと厭世気分。
悶々とした不快感。
暗く沈んだ夕方の景色を見ただけで、気分が落ち込む。
しかたないので、また床に横になる。
あとはこの繰り返し。

そして今。
こうしてキーボードを叩いているだけで、頭が痛くなる。
先ほど飲んだお茶が、胃の中でガボガボしている。
風邪をひいているわけでもないのに、背中がゾクゾクする。

だから称して、三日酔い。
酒と縁を切って、もう14年になる。
その私が、またまた失敗を繰り返してしまった。

だからこう誓う。
もう2度と、酒は飲まないぞ!、と。

12月31日。
大みそか。
何たるザマ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
二日酔い 三日酔い)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●三日酔いから学んだこと

++++++++++++++++++

二日酔いの症状のひとつに、「厭世的気分」
(ウィキペディア百科事典)というのが
ある。

「厭世」というのは、「世の中をいやなものと
思うこと」(広辞苑)とある。

++++++++++++++++++

●飲めないワイン

43、44歳のころ、私は村の祭りに呼ばれ、そこでビールを飲んでしまった。
断りきれなかった。
まるで砂を飲むかのような感触だった。
コップにすれば、3分の1も飲まなかった。
が、それがあの悪夢のような三日酔いの始まりだった。

で、以来、アルコールとは縁を切った。
宴会の席などでも、「飲めません」と最初に断るようにした。

が、まったく飲まないわけではない。
ときどき、ワイフから分けてもらい、大さじにいっぱいほどをなめることはある。
しかしその程度。

が、先日、息子がアメリカから帰ってきた。
みやげにNAPAのワインをもってきた。
私は、フルーツ・ジュースで、それを薄めて飲んだ。
「あぶないかな?」とは思ったが、おいしかった。

で、翌日は、さらに量をふやし、コップ3分の1ほどのワインを、野菜ジュースで
割って飲んだ。
これもまたおいしかった。
しかしこれが三日酔い、実際には、四日酔いの始まりだった。

●下痢

厭世的気分は、その翌日、つまり12月30日から始まった。
(ワインを飲み始めたのが、12月28日。)

今回は頭痛はそれほどひどくはなかったが、吐き気と腹部の膨満感、それに下痢。
とくに下痢がひどかった。

しかもその下痢の色が、(赤)→(緑)→(白)→(黄色)と変化していくのには、
驚いた。
「まるで道路の信号みたい」と私は笑ったが、それには理由がある。

赤い便が出たのは、ワイン、もしくは、二日酔い用の飲み薬が赤かったため。
緑色の便が出たのは、緑色の胃腸薬を飲んだため。
つづいて白い便が出たのは、もう腹の中には何もなくなってしまったためではないか。
いや、少し牛乳を飲んだ。
それがそのまま出てきた(?)。
で、少しずつ体が回復して、黄色い便が出るようになった。

●厭世的気分

「厭世」というのは、「世の中をいやなものと思うこと」(広辞苑)とある。
たしかにそうで、それは二日酔いの最中から始まった。
最初に、「アレッ?」と思ったのは、犬のハナに対しての接し方が変わったこと。
庭へ出ると、いつものようにハナが私の足元にじゃれてきた。
が、そのハナに対して、「かわいい」とか、そういう感情がわいてこなかった。
ただの(犬)。
そんな感じだった。

つづいてワイフや息子たちにも、それが広がっていった。
居間でいっしょにいるときも、「そこに人がいるだけ」という感じになった。
あれこれと気になることはあったが、「どうでもいい」という気分ばかりが先に立った。

投げやり?
無責任?
無関心?
自暴自棄?

12月30日は、そういうわけで、ほぼ24時間、床の中にいた。
が、横になってばかりは、いられない。
夜中に起きて、書斎に入った。
で、そのとき、厭世的気分がどういうものであるか、それを知った。
ふと、死んでしまおうかとさえ思った。

息子たちはもちろんのこと、ワイフにしても、私の苦しみなど、どこ吹く風。
そんな雰囲気で、そのときそれぞれの部屋で眠っていた。
おまけに腹の膨満感がひどく、掛け布団が、ひどく重く感じられた。
そこでワイフに「布団が重い」とこぼすと、ワイフは、「二日酔いを
私のせいにしないでよ」と怒った。

それでますます私は、落ち込んでしまった。

●気分は作られるもの

で、今日は1月2日。
やっと食欲も戻ってきた。
(そうそう、体重は、64キロ台から、62キロ台へと、激減!)

今も少し、厭世的気分は残っている。
こうして文章を打ちながらも、だれとも顔を合わせたくないと思っている。
ワイフにも、息子たちとも顔を合わせたくない。
ただひとり、ぼんやりとしていたい。

言うなれば、うつ状態の気分に似ている。
ただうつ状態のときとちがうのは、ものごとを悪い方へ、悪い方へとは考えないこと。
うつ状態になると、ひとつのことが頭の中に張りつき、それについて悶々と悩むように
なる。
しかし二日酔いには、それはない。
一方的な落ち込み。
一方的な厭世気分。

そこで私は発見した。
「気分というのは、作られるもの」と。

●脳のCPU

脳のCPU(中央演算装置)がいかれるから、自分で自分をおかしい(?)と自覚
するのは、むずかしい。
たとえばサングラスにしても、それをしばらくかけたままにしておくと、赤色はそれ
なりに赤色に見え、青色はそれなりに青色に見えるようになってくる。
さらに長くかけていると、サングラスをかけていることそのものを忘れてしまう。

それに似たような現象が起きてくる。

一度厭世的気分に襲われると、そうである(私)が正しいと思い込んでしまう。
世の中はいやなものという前提で、ものごとを考え始めてしまう。
そしてそれまでの自分を、否定するようになる。
「今まで楽しかったのは、みんな、自分がそう思い込んでいただけだ」と。

心にサングラスがかかっていることすら、忘れてしまう。
つまり私たちがいう(心)というのは、(作られるもの)ということになる。
そしてこのことは、重要な教訓を私たちに教えている。

「心を信じすぎては、だめだ」という教訓である。

たとえば……。

「私は死にたい」という感情にしても、本当にその人がそう思っているのではなく、
そう思うように、脳が勝手にその人を仕向けているだけ。
おそらく、脳内の脳間伝達物質が、何らかの作用を起こしているのだろう。
つまりそういった感情が生まれたとしても、それは(私)ではない。
(作られた私)でしかない。

では、どうするか?

●これから買い物

1月2日。
あちこちのショッピングセンターでは、初売りが始まる。
私とワイフは、これから全快祝いをかねて、その初売りに行ってくる。
ほしいものは、昨夜、チラシに丸印を描いておいた。

予算は、XX万円。
手当たり次第に買ってくる。
まったくの無駄買いである。
しかしそういうことをして、パッと気分を晴らす。
たしかに今の私は正常ではない。
だから、そうする。
そうして、脳みそを一度、正常にもどす。

大切なことは、厭世的気分にせよ、うつ状態であるにせよ、さらには自殺願望が
あるにせよ、それは(本来の私)ではないと知ること。
そんな気分になるのは、最期の最期でよい。

……以上、今回の三日酔いで学んだこと。
喪中とはいえ、みなさん、新年明けまして、おめでとうございます。
(少し、不謹慎かな?)

(付記)
今日の収穫。
羽毛布団、ハードディスク(320GB)、SDカード2枚、
圧力なべ、電熱レンジ、5000円の福袋、洗浄装置付きシェーバーほか、数点。
しめてXX万円弱。



【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【2009年まで、あと1日】

●BLOG

数日前、楽天BLOGへのアクセス数が、(楽天BLOGだけで)、1600件を超えた。
アクセスランキングでも、上位14~5位に入った。
その数字を見ながら、しばらく手の動きを休める。
「どんな人が読んでくれているのだろう?」と。
が、そこにあるのは、数字だけ。
「1600」という数字だけ。

そこで「1600」を、30倍してみる。
1600x30=4万8000件となる。
約5万件ということになる。
「5万件」というと、実感がわいてくる。

本でも、5万部も売れれば、ベストセラーとまではいかなくても、そこそこに
評判の高い本ということになる。
もの書きとしては、それなりの収入が得られる数字ということになる。

HPやBLOGが、私の生きがいとなって、もう7、8年になる。
この間、電子マガジンも、1100号を超えた。
願わくは、2009年も、今のままつづけたい。
HPもBLOGも、そして電子マガジンも!
私の今の生活は、(ものを書くこと)で、回っている。
その努力が、少しずつだが、報われてきたように思う。

読者のみなさん、ありがとうございました。
2009年も、よろしくお願いします。


●2008年を振り返って……

2008年、実兄と母が、相次いで、他界した。
兄については、それなりに覚悟をしていたが、母は、そうではなかった。
まわりの介護士さんたちも、「100歳までは生きられますよ」と言ってくれていた。
つまりそれくらい、元気だった。
体の故障も、なかった。
ホームでも、薬をのんでいなかったのは、母だけだった。

が、2月の終わりに、脳梗塞を起こしてからは、そのまま寝たきりになってしまった。
毎月のように、ホームへ呼び出されるようになった。
そして兄は8月に、つづいて母は10月に、この世を去った。

そのときは、長く感じられた毎日だったが、振り返ってみると、あっという間だった。
母にしても、約2年、この浜松にいたことなるが、その実感は、まったくない。
こと母についていえば、時間は止まったまま。
そしてその時間は、すっぽりと抜けてしまっている。
思い出といっても、断片的なもの。
その断片が、みな、同じ。
何枚も何枚も同じ絵が重なり、1枚の絵になってしまった。

で、時おり、さみしくなることはある。
ふと「兄や母は、何だったのだろう」と思うことはある。
あるいは「つぎは、私」と、心細くなることもある。
が、それ以上に、ほっとした気持ちも否定できない。
この安堵感は、いったい、どうしたものか。

最後に兄を見舞ったときには、兄は、胃に穴をあけ、そこから食物を
摂取していた。
あまりにも痛々しい姿に、驚いた。
声をかけると、細いまぶたの中で、三角の目が、左右に動いた。

母のばあいは、私は、経済的重圧感というよりは、社会的重圧感に苦しんだ。
とくにこの40年間、そうだった。
心理学の世界にも、「家族自我群」という言葉がある。
私はそれに苦しんだ。
が、けっして、母を恨んでいたわけではない。
母は母で、あの時代を懸命に生きた。
あの時代を、そのひとつ前の時代を背負いながら、懸命に生きた。

「家意識」「家父長意識」「権威主義」「親絶対教」などなど。
私は母の心理を解きほぐすことで、それがどういうものであるかを知った。
反面教師というよりは、母は教師そのものだった。

しかしそれも終わった。
長くつづいた重圧感だったが、ともかくも、終わった。
私にとっては、長い長い、40年間だった。
いや、本当は、60年間だったかもしれない。
父が酒を飲んで暴れ始めたのは、私が3、4歳くらいのときだった。
ゆうつつで、暗い毎日だった。
幼児だった私にも、それがよくわかった。
そういう生活の中で、兄が犠牲になった。

もし私が兄だったら、私も兄と同じ運命をたどっていたことだろう。
心の傷は同じ。
どこもちがわない。
だから兄の葬儀のとき、私はうれしかった。
兄が死んだことがうれしかったのではない。
兄が、私の心の傷を持ち去ってくれたようで、うれしかった。
どこかで、「浩司、あの世までもっていってやるよ」と言ってくれたようで、
うれしかった。

そう、母も、そう言っていた。
ある夜、私が横で添い寝をしてやっているとき、ふと、母がこう言った。
私が「何がいややった?」と聞いたときのこと。
母は、「父ちゃんの酒はいややった」と。
母も、同じような傷を受けていた。

ともかくも、それも終わった。
そしてあの時代は、遠い、遠い、暗闇の中に消えた。
裸電球が、どんどんと遠ざかり、そのまま小さな点となって、消えた。
私にとって、「終わった」というのは、そういうことをいう。

2009年からは、私は私の人生を、思う存分、生きてみたい。
「家」や「家族」にとらわれることなく、思う存分、生きてみたい。
が、残り少ないというか、気がついてみたら、もうあと10年、ないかもしれない。
がんばろう!
がんばるしかない!
がんばります!
……ということで、2009年まであと2時間10分。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【12月29日】

●息子が帰ってきた

++++++++++++++++++++

夜遅く、三男が東京から帰ってきた。
夕食後、2時間ほど、あれこれ話す。

「エアバスと、767はどう見分けるか」とか、
「GEのエンジンと、ロールスロイスのエンジンはどうちがうか」とか、
さらに「ブラジルの航空機メーカーは、どうしてすぐれているか」とか、など。

B-777は、2基のエンジンをつけているが、1基だけで、1万1000ポンド
もの推力があるそうだ。
(そう言われても、ピンとこないが……。)
だから1基だけで、じゅうぶん離陸とのこと。

「1基が故障しても、楽に片肺飛行できるということだね」と念を押すと、
「そのため垂直尾翼が大きくなる」と。

今度の787の納期引渡しが遅れているのも、そのあたりに本当の理由があるらしい。
エンジンを担当したGE社が、予定より大型のエンジンを製作してしまった。
(エンジンを大型にする)→(垂直尾翼大きくする)→(重量が変化する)→
(設計の全面見直し)と。

言い忘れたが、片肺飛行のとき、垂直尾翼が小さいと、飛行機をコントロール
することができなくなる。
エンジンの推力と垂直尾翼の大きさは、比例する。

ほかにもこんな話を聞いた。

コックピットでは、3系統の電源が用意されているそうだ。
どれかひとつでも故障すれば、自動的につぎつぎと電源が作動する。
が、その3系統とも故障したら……?

そのときは、B-777の場合は、コックピット下の窓が開き、
風力で発電機を回して電力起こすそうだ。
なお水平儀など、飛行に絶対必要な機器については、7段階まで、予備が
用意されているそうだ。

「コンピュータにOSが7つ、ついているようなものだね」と私が言うと、
「まあ、そんなとこ」と息子は言った。

飛行機の話は、いつ聞いても楽しい。
J社のカレンダーを、みやげにもってきてくれた。

++++++++++++++++++++

●40%が債務不履行状態

現在、韓国の企業の約40%が、債務不履行状態にあるという(東亜N報・
12・29)。
そのパーセンテイジは、日増しに大きくなっている(同)。
先の97年危機のときは、50数%だったというから、かなり危険な状況に
近づきつつある。

が、その一方で、韓国は、今度は「対馬(つしま)は韓国の領土だ。
文献もそろっている」と言い出した。
竹島(独島)どころではない。
対馬、だぞ!

今はまだよい。
もし日韓の経済関係が逆転するようなことにでもなれば、「九州まで……」とまでは
言わないにしても、きわめて強硬な姿勢で、日本に臨んでくるはず。
そのことは、先のN前大統領時代を思い出してみればわかるはず。
そんな韓国を、どうして日本が救済しなければならないのか。

小泉総理は、日韓間で、100億ドルのスワップ協定を結んだ。
それを今度のAS総理は、300億ドルにふやし、さらに倍増しようとしている。
「スワップ協定」というのは、資金の融通制度をいう。
どちらか一方が債務不履行に陥ったとき、資金を融通しあう。
借りたときの為替レートで、借りたほうは、あとあとゆっくりと、お金を返せばよい。
それがスワップ協定である。

しかしこれほど不平等な協定はない!

大企業(日本)と、中企業(韓国)が、資金の融通を相互に約束しあうようなもの。
韓国にとっては、大助かりだが、日本にとっては、ほとんど役にたたない。
経済規模そのものがちがう。
仮に500億ドルもあれば、それで韓国は立ち直ることができる。
が、日本にとっては、500億ドルなど、(もし日本がデフォルトを宣言すれば
の話だが)、焼け石に水。

AS総理のことだから、こと韓国に対しては慎重な姿勢を見せるかと思っていたが、
韓国の大統領に会ったとたん、ホイホイとそれを決めてしまった。
「おバカ首相」(週刊B春)と言われるゆえんは、こんなところにもある。
一貫性が、まったくない!


●緊迫するパレスチナ問題

イスラエル軍の空爆で、300人近くのガザ地区の人たちが死んだという。
何度も書くが、この戦争は、ただの領土問題が原因ではない。
宗教がからんだ宗教戦争である。
だからやっかい。
宗教がからむと、人は、命までかけるようになる。

小さな家庭の中でさえ、宗教が理由で離婚騒動をしている夫婦となると、
ゴマンといる。
実際、離婚した人も多い。
たいていはある日突然、妻がどこかの新興宗教団体に身を寄せるところから、
それは始まる。
最初は夫に隠れて、静かに信仰している。
が、そのうち、おおっぴらにやるようになる。
「信仰は個人の自由」などというような、なまやさしいものではない。
妻は、夫の価値観、哲学、人生観すべてを、否定するようになる。
価値のないものとして、退けてしまう。
が、この程度ですめば、まだよいほう。

やがて妻は、とんでもないことを言い出す。
「あなたと私は、前世の因縁では結ばれていなかったのよ」とか、何とか。

妻だけではない。
夫のほうが入信するケースもある。
ある夫は、こう言って、日々に、おびえていた。

「私の妻は悪魔の手先だ。妻といっしょにいるだけで、私はやがて地獄に落ちる」と。

実際、そのような相談を、その夫の妻の側から受けたことがある。

私「本気であなたの夫は、そんなことを信じているのですか」
妻「そうです。本気です。宗教の話になると、体をガタガタ震わせて、おびえます」
私「どうしてあなたにおびえるのですか」
妻「私のことを、悪魔と思い込んでいるからです」
私「どうして?」
妻「私がその宗教に反対しているからです」と。

こう書くと、かなり「?」な夫を想像するかもしれない。
が、妻の話では、国立大学の理科系の学部を出た、ごくふつうのサラリーマンとのこと。
そのときは、どこかの設計事務所で、機械設計をしていた。

パレスチナ問題は、その延長線上にある。
だから、やっかい。
複雑。
アメリカのライス国務長官程度の人が、停戦を呼びかけて、それで停戦できるような
戦争ではない。
(ライス氏にしても、またあのヒル氏にしても、そういうことがまるでわかっていない。)

今はまだロケット弾程度による攻撃ですんでいるが、核兵器が登場するのは、
時間の問題。
イランは今、急ピッチで核兵器の製造をつづけている。
シリアもそうだろう。
ロシアの核兵器が使われる心配もある。
宗教戦争であるだけに、妥協がない。
もしそうなれば、それこそまさにハルマゲドン!

いちばんよい方法は、イスラエルが負けを認めて、あの地から出て行くこと。
2000年前の聖地を理由に、あの地に居座っていること自体、おかしい。
どこかに土地を買って、そこに集団移住するということは、できないものか。
……と言っても、イスラエルも建国してから、もう60年近くになる。
「いつまで戦争をやっているのだろう」と思うと同時に、「この戦争は、まだまだ
つづくだろうな」と思う。

宗教戦争というのは、そういうもの。
「妥協」という言葉は、通用しない。

(イギリスの植民地を、イギリスから買い取る形で、現在のイスラエルは、
あの地にイスラエルという国を建国した。
パレスチナ人を追い出して建国したというところが、まずかった。)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【散歩】

+++++++++++++++++

「運動不足」。
この言葉がこのところ、恐ろしいものに
聞こえるようになった。

運動不足イコール、不健康。
不健康イコール、病気へとつながっていく。

+++++++++++++++++

●冬の山荘

今日は、山荘のまわりを散歩した。
距離は、ぐるりと一周して、4~5キロ。
山坂はあるが、「歩こう会」の基準では、初心者コースということになる。
ゆっくりとあるいて、1時間。
ふだんなら、運動にならない運動である。

が、こうした山の散歩は、冬場しかできない。
少し暖かくなると、ハチやヘビが出る。
今はイノシシの季節だが、イノシシとなら、まだ対峙できる。
まっすぐイノシシに向かって、杖を向ければよい。
あるいは棒で払えばよい。

しかし相手がハチのばあいは、打つ手がない。
ヘビもこわい。
だから山の散歩は、冬場だけ。
もっともこのあたりでは、冬といっても、どこかまだ秋の風情(ふぜい)が
残っている。
枯れた木々の間で、まだ葉も落とさず、冬の陽光を浴びて、黄金色に輝いている
のもある。
それに少し歩くと、背中がほんのりと熱くなってくる。
寒さも、消える。
冬というよりは、晩秋。
ここ浜松では、このまま冬らしい冬もなく、やがてすぐ春になる。

村道から脇道へそれる。
そこからさらに進むと、杉林。
「すごい落ち葉ね」とワイフが、数度、同じセリフを繰り返す。
私は杖でその落ち葉を適当に払いながら、先へ進む。
大木が、根をむきだしにしたまま、一列に横に並んでいる。
その横を、カサカサと、大きな音を立てて、歩く。
深々とした感触。
それを足で左右に払う。
波を切るような爽快感。

山道は、谷の下にあるUさんの庭端のところで、再び、通りに出る。
「下りるのは楽だけど……。帰りがたいへんだね」と私。
杖を持ちなおす。
腹に力を入れなおす。

この4日間で食べたものといえば、おかゆ一杯と、スープ一皿。
それに今日になって、やっと焼いた秋刀魚(さんま)一匹と、ご飯を茶碗に半分。
出てくる(力)もない。
それにしてもひどい二日酔いだった。
三日酔いが、そのまま四日酔いになってしまった。

●悲壮感

とにかく運動をするしかない。
私の年齢になると、楽しむというよりは、そこに悲壮感が漂うようになる。
数日も運動をサボっていると、そのまま体がサビついてしまう。
頭のサエも消えてしまう。
文が書けなくなってしまう。

「あと9年。何とか、9年はがんばる」と私。
しかしこのところ、その自信がなくなってきた。
ときどき「まだ9年もあるのかア」と思ったり、「無理かもしれない」と思ったりする。
とくにここ数日は、今まで経験したことのない厭世気分に包まれた。
二日酔いの症状のひとつという。
ふと「このまま死んでしまったら、楽だろうな」と思う。
やはり厭世気分(?)。

が、それに負けたら、おしまい。
少しぐらい調子が悪くても、そこは気力。
気力で、自分を立てなおす。
ということで、あえて、今日は散歩に出た。

歩きながら、うしろから、ワイフが何度も「あなた、だいじょうぶ?」と
声をかけてくれる。
が、それに答えて、返事のしようがない。
何と答えたら、よいのか。
だいじょうぶなわけがない。

……が、ともかくも、無事散歩は終わった。
山荘へ戻ると、細い息が、ハーハーと喉を鳴らしているのがわかった。
足は宙に浮いたような感じ。
軽いめまいもある。

途中、私とワイフは、自分の畑からいくつかのミカンをもぎとった。
まったく野生のままのミカン。
そのためサルも手を出せない。
固くて、皮もめくれない。
そのミカンを、山荘の横のイスに座って、食べた。

食べながら、「やはり散歩は無理だったかな」と、思った。
弱気な自分が顔を出した。
しかしそれはワイフには、言わなかった。

●一羽の鳶(トンビ)

白い雲の間に、最初に黒い小さな点を見つけたのは、私だった。
ワイフは、長いすに座り、反対側の空に消える飛行機を、目で追いかけていた。
私はそれを飛行機と思った。
が、飛行機にしては、小さすぎる。
それに今は、真冬。
肌を刺すような冷気が、谷底から枯れた草木を揺らしている。
上空は、もっと冷たいはず。

「トンビかなあ?」と言うと、ワイフも、「そうねえ……」と。
しかし確信はもてなかった。
私はぼんやりとその黒い点をながめていた。
高さは、その横のM山とくらべても、600メートル近くはある。
そんな高いところを、鳶が飛ぶだろうか。
ぽっかりと浮かんだ白い雲の下あたりを、ゆっくりと右や左に飛んでいた。

「あんなところから餌をさがしているのかしら?」とワイフ。
「まさか!」と私。
二日酔いの後遺症だと思うが、まだ頭のを振ると、胸の奥がむかつく。

私「トンビも、自分を試しているのかもしれないよ」
ワ「かもめのジョナサンみたいね」
私「トンビは、頭がいいから、そういうことを考えてもおかしくない」
ワ「自分の限界を知りたいのね」と。

と、そんとき、その黒い点が、M山の方向に向かって、急に動き出した。
風に乗ったというよりは、急降下だった。
ものすごいスピードだった。

私「あれじゃあ、時速100キロは出ているよ」
ワ「速いわねえ……」
私「今度は、スピードに挑戦しているみたい」
ワ「あら、やっぱりトンビだった」
私「トンビだな」と。

天空を真一文字に横切ったあと、鳶は、M山の頂上あたりで、ゆっくりと小さな
円を描いたあと、M山の向こう側へ、消えた。

それを見届けたあと、ワイフがこう言った。
「部屋に入って、お茶でものみましょう」と。
私はイスから立ち上がると、ワイフのうしろにつづいた。

●山荘

山荘へ入ると、日本間にあるコタツに電源を入れた。
もってきたミニ・パソコンを開いた。
台所で、ワイフがお茶をわかす音がする。
静かな夕刻。
穏やかな夕刻。

私はたった今見かけた、鳶のことを書く。
しかし集中力がつづかない。
眠い。
体がだるい。
指が重い。
タイプミスがつづく。

「たった4日なのに……」と、私。
そう、たった4日間、パソコンに向かっていなかっただけ。
が、もうこんな状態。
脳みそがサビつくのは、本当に早い。

気がつくと、いつの間にかワイフは、お茶を飲むのをやめ、となりで
スヤスヤと眠っていた。
こたつのふとんを、目一杯自分のほうに引き寄せていた。

何もかもいっしょにやってきた、ワイフ。
すっかりバーさん顔になってしまった、ワイフ。
そう思いながら、横のふとんをもちあげて、ワイフにかけてやる。

……ここまで書いたとき、村のチャイムが5時を知らせた。
「あら、もう5時……」と独り言を言ったあと、大きなあくびを1度したあと、
ワイフは、今度は、本当に居眠りモードに入ってしまった。
こうなると、あと1~2時間は、起きない。

「晃子へ、今日は、散歩につきあってくれて、ありがとう!」。

P.S.

明日は、散歩の距離を、2倍に延ばすぞ!
明後日は、そのまた2倍!
我ら、ヤング・オールド・マンは、絶対に負けない!


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++はやし浩司

●老化の確認

+++++++++++++++++

こんなことは、50代のころにはなかった。
しかし60代になると、だれと会っても、
まず老化の確認から始まる。

「この人は、だいじょうぶかな?」と。

++++++++++++++++

というのも、認知症にしても、ある日突然、
人はそうなるのではない。
徐々に、徐々に、しかも少しずつ、10年単位という
長い時間をかけて、そうなる。

それに認知症といっても、千差万別。
定型はない。
程度の差もある。

たとえば話し方が、妙にかったるくなる人。
反応が鈍くなる人。
繊細な会話ができなくなる人。
ときどきぼんやりする人。

さらにおかしな行動を見せるようになる人もいる。

がんこになったり、わがままになったり……。
家の中に引きこもってしまう人もいる。
見苦しいまでにケチになったり、こまかいことを言う人もいる。
が、本当にこわいのは、そのことではない。

加齢とともに、それまでその人を隠していた仮面がはずれる。
自分を飾ろうという気力そのものが、弱くなる。
とたん、その人の(地)が、表にそのまま出てくる。
モロに出てくる。
そのとき、それなりの人格が備わっている人は、恐れることはない。
しかしそれが備わっている人は、少ない。

「60歳を過ぎたら、円熟の境地に達する」というのは、ウソ。
自分がその年齢に達してみて、それがわかった。
むしろ、この年齢を境に、あさましいほどまでに貪欲になる人がいる。
一片の哲学ももちえず、「世間体」という渦の中で、自分を見失う人もいる。

ウソだと思うなら、電車や観光バスの中で、ゲラゲラ、ギャーギャーと
騒ぎまくる、あのオバチャンたちを見ればよい。
大半の人たちは、みな、ああなる。
油断すると、みな、ああなる。
ああなったあと、それぞれがボケ老人の道へと入っていく。

だからというわけでもないが、久しぶりに会ったりすると、まず、
「この人は、だいじょうぶかな?」と思うところから、会話が始まる。
「どこかおかしいところはないかな?」とも。

だからといって、そういう人たちを、どうこう思うわけではない。
差別するわけではない。
私自身だって、おかしい(?)。
おかしくない人は、いない。
現に、昨日やおとといの私は、「死んでも構わない」と思っていた。
うつ病と診断されても、おかしくない状態だった。

大切なことは、それぞれの(おかしさ)を認めあいながら、接すること。
相手がかったるい話し方をするなら、こちらも、それに合わせて、かったるく
話せばよい。
繊細な会話ができないなら、こちらも、それをしなければよい。
相手に合わせて、おおざっぱな話をして、それですませばよい。

そう言えば、今年の正月、小さな事件が起きた。

親戚のG氏から年賀状が届いた。
私の家が喪中であることは、よく承知のはず。
最初は、「まちがいかな?」と思ったが、しかしG氏は昔から、冠婚葬祭には
うるさい人。
まちがえるはずはない。
で、よくよく思い出してみると、葬儀の席でも、法要の席でも、どこか妙な
行動が気になった。
会話そのものが、間延びしたような感じ。
ア~~ウ~~、と。
反応も鈍かった。
僧侶の読経に合わせて、何かしら踊るようなしぐさをして見せた。
それにもらった香典も、会食1食分にもならないような、小額だった、などなど。

だからいって、G氏があぶない……ということではない。
先にも書いたように、多かれ少なかれ、私たちの年代は、みな、あぶない。
G氏を批判しても、意味はない。
まさに「明日は、わが身」。
4、5年後には、私も、同じようなことをするようになるかもしれない。
非常識なことをしながら、それが非常識とも、わからなくなる(?)。
つまりこうして相手の脳みその中身を確かめながら、つき合う。
そしてその人はその人として、そっと暖かく見守る。

それが私たちの年代ということになる。


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Tuesday, January 27, 2009

*Nursary Homes for Aged People

●特養ホーム、待機者、全国で38万人(?)

+++++++++++++++++++++++

共同通信社の調べによれば、現在、特別養護老人
ホーム(以下、特養ホーム)に入れず、待機している人が、
38万人もいるという。
入所者は現在40万人前後(中日新聞)というから、
ほぼ同じ数だけの人が、入所を希望しながら、入所
できない状態ということになる。
しかしこの「38万人」という数字は、どこから
みても、おかしい(?)。
そんなはずはない!

たとえば近くの特養ホームでも、入所待ちという人が、
100~150人はいる。
私の母のケースでもそうだったが、当初、その数を
聞いただけで、あきらめてしまった。

また実際には、要介護度が4~5の人でないと入所
できないと言われ、申し込みそのものをやめる人も
多いはず。

+++++++++++++++++++++++

記事には、こうある。

「国が社会保障費抑制策を続けてきた結果、需要の高まりに施設整備が追いついていない
現状が裏付けられた」(同、新聞)と。

しかしこの意見も、おかしい。

特養ホームを訪れてみて、まず驚くのが、その「豪華さ」。
「ここまで必要なのか?」と疑問に思うほど、豪華である。
冷暖房完備なのはわかる。
大型のエレベーターが必要なのも、わかる。
地震対策として、耐震性の鉄筋の建物にすることも、わかる。
しかしあそこまで豪華にする必要はあるのか?
私の意見がおかしいと思うなら、あなたの家の近くにある特養ホームを、一度でよいから、
のぞいてみたらよい。

国がいう「社会保障費」といっても、その中身は、施設の建設費。
箱モノ。
そういうことばかりに、金をかける。
が、これでは、社会保障費がいくらあっても、足りない。

また老人たちを利用して、営利を求める組織の多いのには、驚いた。
たとえば要介護度にもよるが、要介護度4くらいになると、年間20万円程度の
補助金が出る。
その補助金を使って、家の改築などができる。
で、私も、母の車椅子の出入りのためにと思って、玄関先にスロープをつけることにした。
が、ケアマネの紹介してくれた業者に見積もってもらったら、ギリギリの20万円!

つまり「スロープをつけるには、いくらかかるか?」という発想ではなく、最初から、
「20万円を使うためには、どこまでできるか?」という発想で、業者は動く。

そのため、手すりを付けるとか、歩行者用にすべり止めをつけるとか、言い出した。
私は、「そんなものは、必要ない」ということで、断った。
断って、自分で、段差のあるところを、コンクリートで埋めた。
その費用、たったの1000円弱!
(砂入りのコンクリート、一袋分。)

つまり社会保障費なるものが、無駄なところで無駄に使われている。
そういう事実をさておいて、「需要の高まりに、施設整備が追いついていない」は、ない。
つまりバカげている!

が、それだけではない。
これはあくまでも私の推察だが、特養ホームでは、面接を通して、ある程度の人選を
しているのではないか。
特養ホームによっては、医療設備がないところも多い。
常駐する看護士の数もかぎられている。
そういうこともあるのだろうが、世話のかかる老人は、敬遠されている(?)。
(だからといって、特養ホームを責めているのではない。
中には夜中じゅう、大声で騒いで暴れる老人もいる。
毎日医師の診断を受けなければならない老人もいる。
世の中、きれいごとばかりでは、動かない。)

一方、去年、オーストラリアで、友人の母親がいるケア・センターを訪れてみた。
町の中のビルの一角にあったが、もともとはオフィスビルであったとか。
病院のように、個室に分けられていた。
(というより、病院そのものという印象をもった。)
友人はこう言った。

「お金のある人は、若いときから積み立てをして、いい施設に入れる。
そうでない(=国の支給する年金しかない)老人は、こういう施設に入る」と。

ついでに言うと、向こうでは、「親は親、子は子」という考え方をする。
日本のように、子どもが親のめんどうをみるという発想は、ない。
……というより、はるかに希薄。
「在宅介護」という発想は、子どもにもないが、親にもない。
「君が少しお金を足して、もう少し快適な施設に入れてやったら」と言いたかったが、
それは言わなかった。

日本の特養ホームを、都会のホテルにたとえるなら、友人の母親の入っていた
施設は、町の雑居ビル。
それくらいの落差は感じた。

話はそれたが、社会保障費が足りないというわけではない。
莫大な予算が、そこに注ぎ込まれている。

2006年度だけでも、国の社会保障費(社会保障給付費)は、89兆1098億円。
国民1人あたり、69万円。
69万円だぞ!
3人家族で、210万円!
4人家族で、280万円!

内訳は、医療……28兆1027億円(31・5%)
年金……47兆3253億円(53・1%)、
福祉……その他、13兆6818億円(15・4%)、
高齢者関係給付金……62兆2297億円(69・8%)(以上、ウィキペディア百科事典)。
(参考:国の国家税収は、約40兆~43兆円。)※

ないよりは、あったほうがよい。
不完全よりは、完全なほうがよい。
それは、よくわかる。
しかしそういう発想だけで、税金を湯水のごとく使ってよいものか。
また使っているから、こういう矛盾が噴出する。

基本的に、日本は貧乏国である。
少なくとも、これからは、そうなる。
欧米にもないような豪華な施設ばかり作って、どうする?
むしろ見習うべきは、日本より貧しい国々が、どのようにしているか、である。

もっと言えば、箱モノではなく、中身。
その充実にこそ、お金を使うべきではないのか。

(注※)……これに対して、日本保険医団体連合会は、つぎのように反論している。

『福祉先進国といわれる北欧のスウェーデンが32.0%、ドイツ28.2%、公的医療保険未整備のアメリカが14.5%なのに対し、日本は13.1%という水準でしかありません。日本の水準はドイツの約半分、スウェーデンの約3分の1しかないことが分かります。
今求められているのは、他の先進国なみに、国力にふさわしい社会保障給付を充実させることです』(同団体・HP)と。

つまりスウェーデンやドイツは、30%前後使っている。
しかし日本は13%に過ぎない。
だからまだ日本の社会保障費は、少ない、と。
しかしこの論法は、まちがっている。

スウェーデンやドイツは、1人あたり、69万円も使っていない。
それにこれらの国々は、ほかの支出を極力、低く抑えている。
「%」だけをみて比較するところが、怖ろしい。

しかしこのままいったら、社会保障費は、1025年前後には、
141兆円(国民所得比26・1%)になるという(ウィキペディア百科事典)。
もうメチャメチャな額といってよい。

それにしても、日本では、公共施設ばかりが、飛びぬけて立派である。
「飛びぬけて」で、ある。
官僚と政治家、それに大手建設会社が、三位一体となって、日本を、
こういう国にしてしまった。
国民は、青息吐息で、苦しんでいるというのに……!

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 特別養護
特別養護老人ホーム 特養ホーム 社会保障費 日本の社会保障費 社会保障制度
社会保障給付金)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●大丸デパート、出店を断念

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市の中心部にあるMデパートが倒産したとき、
私たちは心底、驚いた。
2001年の11月のことである。
が、それから7年。
Mデパートは、そのまま幽霊ビルとなった。
が、これではいけないと、元Mデパートの再開発策が
あれこれと練られた。
結果、一時は、大丸デパートが出店をするという話も
あった。
が、それがこのたび(09年1月)、出店を断念したという(中日新聞)。
折からの大不況が理由というが、実際には、
全国的にみても、デパートでの売り上げが激減している。
この浜松市でも、駅前にあったIYドーも、数年前、
撤退したばかり。

そんな浜松市で、新たにデパートを、という発想そのものが、無理。

Mデパートが再開発されたとしても、また同じ道を歩むだけ。
そんなことは、浜松市民なら、だれでも知っている。
が、市は、「市街化区域の活性化」を、十年一律のごとく叫びつづけている。
それはそれで結構なことだが、そのため、どれほどの税金が無駄になったことか。
一度、自然の成り行きに、町のあり方を任せてみたらどうなのか?

たとえば浜松市では、郊外に、大型店がつぎつぎと進出してきている。
私の住むI町の近くにも、東海イチと言われる、超大きなショッピングセンターができた。
とたん、車の流れが逆になった。
町のほうから、郊外へ車が流れるようになった。

++++++++++++++++++++++

こういうのを「城下町思考」という。
「駅前は立派でなければならない」と。
つまり駅前はその市の看板だから、それなりに立派でなければならない、と。
しかしこれは世界の常識ではない。
どこの国の、どこの大都市へ行っても、駅前というのは、閑散としている。
あたりが工場街というところも、少なくない。
(日本のように鉄道網が発達している国も、少ないが……。)

しかし化粧にいくら化粧を重ねても、化粧は化粧。
(ありのままの市)を見せていく。
そんな勇気も、浜松市には、必要ではないか。

つまりこれは生き様の問題。
一人ひとりの生き様が集約され、それがやがて市の行政に反映されていく。
浜松市が悪いというよりは、私たち自身が、意識を改めていかねばならない。
その意識を変えないかぎり、行政の姿勢も、変わらない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●ダイハツ・NAKED

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ダイハツ・NAKEDという車がある。
「NAKED」というのは、「裸の」という意味である。
どちらかというと、下品な言葉に属する。
「naked girl」といえば、ズバリ、「素っ裸の女」を意味する。
しかしどうしてそんな形容詞を、車につけたのか。
そのまま読めば、「素っ裸のダイハツ」という意味になる。

そこで家に帰って、もう一度、辞書で確かめてみた。
ほかに意味があるのかもしれないと思った。
しかしNAKEDはNAKED。
ほかに意味はなかった。
(あるいは英語ではない?)

++++++++++++++++++++++

1970年代のはじめ、日産が、セドリックという名前の車を発売した。
それを知って、オーストラリアの友人が、ゲラゲラと笑った。
オーストラリアでは、セドリックというのは、「同性愛者の貴公子」という意味である。
「同性愛者」の代名詞にもなっていた。

こうしたミス・マッチは、ときどきある。
富士通のファコムにしても、そうだ。
「ファコム」という名前は、外国ではまことにもってまずかった。
40年前には、「Fuxx」(ひわい語)という単語の意味を知っている日本人は、
ゼロに等しいほど、ほとんどいなかった。
だからそういう名前にしたのだろう。
で、そののち、富士通は、その名前を変えた。

ほかにもいろいろある。
あるが、そうした大会社の中には、英語のわかる人もいるはず。
どうしてそういう人たちが、もっと声をあげないのか?
「ダイハツ・NAKED」というのは、私の英語力からみると、おかしい。
(それとも私の英語力が、不足しているのか?)

また地元にも、「HARD OFF」という、中古品店がある。
「The Grave」というホテルもある。
「○○ターミナル・ホテル」というのも、そうだ。
また、その学校の校長の退任式を、「○○先生、メモーリアル・パーティ」と
書いていた学校もあった。

それぞれがどういう意味か、近くに外人がいたら、聞いてみるとよい。
(ただし自己責任で! 私は責任を取らない!)

これ以上のことは、ここには書けない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●『慰めの報酬』

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今夜、仕事が終わったら、映画『慰めの報酬』を
見てくる。
10代のころから、007シリーズは、すべて見てきた。
今回は、その最新作。

しかしタイトルがよく理解できない。

「慰めたから、報酬をもらうのか」、それとも
「慰められたから、報酬を与えるのか」、と。
いろいろ考える。

……とまあ、映画を見る前に、あれこれと内容を
考えるのは、楽しい。
それが私の趣味にもなっている。

予告編は、劇場で何度か、見た。
それによれば、007は、恋人をどうやら殺されるらしい。
それでその復讐劇が始まる(?)。
が、どうしてそれが、「慰めの報酬」につながるのか。
ひょっとしたら、『慰めの復讐』ではないのか。
いや、そんなはずはない。
タイトルは、何度も、見た。

で、今度の007は、ウクライナ系の美男子。
どこかロシアのプーチンに似ている。
おもしろそう。
プラス、楽しみ。

(追記)

『慰めの報酬』の評価は、星2つの★★。
主演した、ダニエル・クレイグは別として、脇をかためる女優たちがみな、
かっこのつけすぎ。
不自然。
日本映画に出てくる、女優たちのよう。
007特有の、新兵器もなければ、地下の大要塞もなし。
ただのアクション映画(失礼!)。
それにストーリーも不自然。
無理に無理を重ねたような流れ。
だから星は、2つ。
ついでながら、ワイフの評価は、星3つ。

帰りにこんな会話をした。
「ショーンコネリーの007がなつかしいね」
「そうね」と。

つぎの楽しみは、何といっても、『オーストラリア』。
ぜったいに見るぞ!

その前に、『チェンジリング』『レボリューショナリー・ロード』もある。
ワイフは、『ママミーヤ』(ABBA)が見たいと言っている。
ぜんぶ、見るぞ!

*Jan 28th 2009

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゆとり教育

+++++++++++++++++

時として、外国から日本をながめてみたほうが、
日本のことがよくわかる。
韓国の東亜N報は、つぎのように伝える。

+++++++++++以下、東亜N報より++++++++++++++++++++

日本は、小中学校に続き、高校教育にも「脱ゆとり教育」を導入することを決めた。
日本の文部科学省は22日、国語、英語、数学を大幅に強化する内容を盛り込んだ新たな
高校学習指導要領の改正案を発表した。

改正案は、「英語の授業は英語で行うのが基本」と明示した上で、「生活で使われる英語」
の習得を目標にし、高校3年間、生徒に教える英単語数も1300語から1800語へ約
40%増やすことにした。

(中略)

また、科学と数学は、これまで「ゆとり教育」路線に沿って、「○○は(難しいので)教え
ない」とし、教育内容に制限を置いた規定を撤廃し、学校や教師の判断で難度の高い授業
もできるようにした。

高校の授業時数も現行基準の週30単位時間(1単位時間は50分)の越えてもよいとし
た。

新たな高校学習指導要領は、これから各界の意見を汲み上げる過程を経て、来年3月に告
示され、13年度入学生から適用される。
ただし、科学と数学は12年度入学生から先に適用される。

+++++++++++以上、東亜N報より++++++++++++++++++++

教育は、国の要(かなめ)。
理由は、簡単。
国は、人によって作られる。
人なくして、国は成りたたない。

「ゆとり教育」なるものが、いかに日本の教育を後退させたかは、今さら説明するまでも
ない。
教育全体が、小学校も、中学校も、そして高校も、だらしなくなってしまった。
たとえば小2で習う掛け算にしても、今では、(教えるだけ)。
本当に教えるだけ。
「覚えたい人は、覚えなさい。覚えたくない人は、覚えなくても結構です」と。
それでおしまい。

ほんの10年、20年前には、先生たちは、子どもたちに残り勉強をさせてでも、掛け算
の九九を暗記させた。
それでも暗記できない子どもは、宿題につづく宿題で暗記させた。
子どもが泣いても、暗記させた。
この段階で掛け算ができないと、そのあと、算数の学習すべてに影響がおよぶ。

一事が万事。
こういう緊張感が、今、消えてしまった。
ゴムにたとえるなら、伸びて、ゆるんでしまった感じ。
私たちが受けた教育がよいとは思わないが、私たちは中学2年生で、三角関数を学んだ。
サイン、コサイン、タンジェントという、あれである。
それがどんどんと削られ、今に見る教育になった。

この責任は、いったい、だれが負うのか?

教育というのは、そのときはわからない。
結果が出るのは、20年後とか30年後。

つい先日の報道によれば、国民1人あたりのGDPは、とうとう世界13位になってしま
った。
「日本は先進国だ」「金持ちだ」と言っていたのは、当の昔の話。
先進国中でも最下位。

日本の(ゆとり教育)を、いちばん喜んだのは、おそらく隣の韓国ではなかったか。
「これで日本を追い抜ける!」と。

そこで(ゆとり教育)の見直しが始まったが、一度ゆるんだゴムは、もとには戻らない。
ここ10年~15年は、日本の1人あたりのGDPは、さらにさがる。
今から、覚悟しておこう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ゆとり教育 国の要)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●神棚を整理する

++++++++++++++++++

先日、実家に帰って、神棚を整理してきた。
何しろ、それが3つもある。
大黒様、稲荷様、それに八幡神社の神様。
大きな神棚で、その中に神札などが、祖父母の
時代から、3代分、ぎっしりとつまっていた。

ダンボール箱に詰めかえたら、ちょうど1杯分に
なった。

その道に詳しい人に相談すると、○○神社へもっていけとか、
一度お祓(はら)いをしてもらってから、処分したらいいとか言う。

しかし、どうしたらよいものか。

++++++++++++++++++

●信仰論

神であるにせよ、仏であるにせよ、さらにキリスト教でいう神であるにせよ、
信仰は、(教え)でするもの。
モノや形でするものではない。
モノや形に拝んでも意味はない。
あの釈迦だって、「私に似せて偶像を作るな」(法句経)と教えている。

が、か弱き人間たちは、それでは自分を支えることができない。
そこかしこで偶像を立て、それに向かって信仰する。
その結果のひとつが、大黒様であり、稲荷様ということになる。
仏教でいう仏像も、その類(たぐい)かもしれない。

が、だからといって、私は、それを否定しているわけではない。
人はみな、それぞれ。
それぞれの人が、幸福を求めて、それぞれの道を歩む。
その方法はみなちがう。
心の拠(よ)り所として、それぞれの神や仏を信仰する。
それはそれとして、そっとしておいてやることこそ、大切。
「あなたはまちがっている」とか、「あなたがしていることは、おかしい」などとは、
言ってはならない。
言う必要もない。

●バチ論

私は、ずっと無神論で通してきた。
家には仏壇もなければ、神棚もなかった。
よく墓参りもしたし、初詣もした。
全国の神社や仏閣へ行けば、手を合わせて、拝んだ。
しかしそこまで。

が、今度、私の家に仏壇が入った。
それについては、前にも書いた。
が、冒頭に書いた、神棚までは考えていなかった。
そこで、ハタとどうするか、困ってしまった。
「どうしよう?」「どうしたらいい?」と。
で、その道に詳しい人に相談すると、あれこれと教えてくれた。
中には、「それをしないと、バチが当たりますよ」と言った人もいた。

しかし(バチ)などというものは、ない。
そんなことをいちいち考えている神や仏がいるとしたら、その神や仏は、
エセと考えてよい。
インチキでもよい。
よくカルト教団では、「この教団を抜けると、バチが当たる」と教えるが、
もしそうなら、その教団自体が、魔の巣窟と考えてよい。
勇気を出して遠ざかったらよい。

だいたいバチを与えるほどの、パワーがあるなら、そのパワーは、もっと
別のところに使えばよい。
常識で考えれば、そうなる。

こうしてその箱は、私の居間の隅に置かれた。
1か月、2か月と過ぎた。

●処分

で、私は私のやり方で、処分した。
その日は、午後までワイフは家にいなかった。
クラブとその忘年会で、家をあけた。

帰ってきてからワイフが、私にこう聞いた。
「あの箱は、どうしたの?」と。
私は、それに答えて、「知らない」と言った。
ついでに、「お前にはバチは当たらないから……」と。
ワイフもそれ以上のことは聞かなかった。

のどかな、白い日差しがまぶしい午後のことだった。
私は居間で茶を飲みながら、栗の木から枯れ葉が舞い落ちるのを
ぼんやりとながめていた。

祖父母や両親、それに兄には、それぞれの思いがあったことだろう。
それはわかる。
わかるが、こんなことで心を煩(わずら)わすのは、私の代でやめにしたい。
どこまでいっても、私は私。
息子たちは息子たち。
そんな私をまちがって言うというのなら、それを言う神や仏のほうがまちがっている。
先にも書いたように、そんな私にバチを与えるようなパワーがあるなら、
そのパワーを、たとえば、アフリカや中東で、戦争で苦しんでいる人たちのために
使えばよい。

繰り返すが、信仰はモノに向かってするものではない。
形でもない。
信仰は(教え)に従ってするもの。
(教え)に始まって、(教え)で終わる。
もしその(教え)がないとするなら、それこそその信仰は(イワシの頭)。

……それにしても、日本も日本だが、世界へ行くと、珍奇な宗教が多いのには、
驚かされる。
マレーシアのアモック(悪霊)信仰、マレーシアのラタ信仰、アイヌのイム信仰、
北アメリカ先住民のウェンディゴ信仰、アフリカ、ポリネシアのブードー教などなど。
それぞれの国の人たちもまた、それぞれの信仰をしながら、自分を支えている。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●信仰

+++++++++++++++++

世界にはいろいろな信仰がある。
その多くは、(おかしな現象)が起きると、
それを(何かのたたり)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく……という
プロセスを経て生まれる。

+++++++++++++++++

信仰論(宗教論ではない)を考えていて、興味深いのは、
それぞれの国の信仰は、それぞれの文化や、伝統、さらには
風土的特徴と結びついているとうこと。
とくに風土。

どこの国のどの宗教とは、ここには書けないが、ある国では、
ある季節のある時期になると、女性を中心に、おかしな症状が
現れる。

別人格になってしまい、理性のコントロールがきかなくなってしまう、など。
奇妙な動作で踊りだすこともあり、ときに村全体の女性たちが、集団で
踊りだすこともあるという。

そこでその国では、それを悪霊のたたりとして、独特の
悪霊信仰が生まれた。
そのときの動作が、ある動物のそれと似ていることから、
その国でも、その動物を信仰の中心に置いている。
ついで、その信仰から祭りが生まれ、文化や伝統も生まれている。

が、こうした症状は、精神医学の世界では、「ヒステリー」という
言葉を使って説明される。
集団で起これば、「集団ヒステリー」ということになる。
が、それぞれに原因があることが、最近、科学的につきとめられている。
(日本語でいう「ヒステリー」というときの意味とはちがい、またよく
混同されるので、最近では、精神医学の世界では、あまり使われなくなった。
以前は、同じような症状を、転換症状とか解離症状とか呼んでいた。)

たとえばその国では、冬の間、国全体が氷と雪に閉ざされ、その
国の人たちは、極端なカルシウム不足に陥る。
その結果、とくに出産直後の女性たちが、カルシウム不足による
ヒステリー症状を示すようになる。

この話と似たような現象は、日本のみならず、世界中で起きている。

(おかしな現象)が起きると、それを(何かのしわざ)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく。
言うなれば、(思いこみ)の世界ということになる。

こうした信仰には、当然のことながら、(教え)はない。
つまり私たちがいう、「宗教」とは、一線を画すものである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
宗教 信仰 宗教と信仰 思い込み 迷信 信仰論 ヒステリー 集団ヒステリー)

●ただし「宗教といえども、その99%は、思い込みによるもの」(はやし浩司)。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●冬休み

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明日から私も冬休みに入る。
そこで決意。
毎年、ほぼ例外なく、私は冬休みが
終わるころには、運動不足が重なって、
体重がふえる。
そして休み明けに自転車に乗るのだが、
そのとき、体がそれについてこない。
ふだんなら何でもない坂道ですら、
降りて歩く。
そこで今年こそは、その愚を繰り返したくない。

……ということで、明日からではなく、
実は昨日から、運動量をふやした。
今日も、とりあえず、片道、7キロを
歩いた。
仕事の帰りはどうしようかと、今の
ところ迷っているが、たぶん、歩くことに
なるだろう。
(12月26日記)

+++++++++++++++++

●映画「ワールド・オブ・ライズ(噓の世界)」

+++++++++++++++++

デュカプリオ主演の『ワールド・オブ・ライズ(噓の世界)』を見てきた。
原題は、「Body of Lies」。
久々に迫力のあるスパイ映画を見た。
そんな感じの映画だった。
星は4つの★★★★。

ただ題名の翻訳がおかしい。
「ボデイ・オブ・ライズ」のままでよかったのではないか?
「ワールド・オブ・ライズ」というと、何かしら「噓の博覧会」というイメージを
もってしまう。

映画は、謀略に謀略を重ねるアメリカCIAを中心に、ストーリーが展開する。
迫力はそれなりにあるが、あちこちで、「?」と思った。
私の友人にこんな人たちがいた。

1人は、メルボルン大学時代の友人で、大学を中退して、イギリスの諜報専門学校
へ転学していった。
そのまま諜報部員になるということだった。
オーストラリアの友人たちは何とも思っていなかったようだが、私は驚いた。
諜報専門学校?
日本では、そういうコースは、さがしても見つからない。

もう1人は、I国のアメリカ大使館直属の諜報部員をしていた。
同じカレッジにいたが、その友人とは、その10数年後、東京で会ったことがある。
そのときホテルに彼を訪ねると、彼は胸のホルスターに拳銃をもっていた。
それを無造作に、ベッドの上に投げ置いた。
私は驚いたが、彼にしてみれば、何でもない行為だったようだ。

現実にワールド・オブ・ライズのような世界はある。
しかし今、諜報活動といっても、スパイどうしが拳銃をバンバンと撃ちあうようなことは、
しない(?)。
諜報活動そのもののやり方が、変わってきた……と、私は思う。
何しろ、私とはまったく無縁の世界の話である。
だからこれ以上のことはわからない。
ただ映画のはじめに、「これはフィクションだが、実際にあったことに基づいている」
というような説明があったような気がする。

ありえない話ではないが、現実にあんなことがあれば、私ならたった数日で、
PTSD(心的外傷後ストレス症候群)になってしまうだろう。
再起不能の精神病患者になってしまうかもしれない。
やはりあれは、映画の世界の話ということにしておこう。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●暖房器具(Heating System of Fu-ton (Japanese Thick Blenket)

++++++++++++++++++++

最近の家は、密閉性がよいため、部屋暖房
が常識化している。
しかし私の家は、築40年のボロ家。
隙間風が、あちこちから入ってくる。
で、冬になると、暖房方法に苦労する。
とくに寝床になっている、ふとん。

今年の冬は、電気毛布(かけふとん)と、
電気敷き毛布を併用している。
床につく1時間ほど前に電源を入れ、床に入る
ときに電源を切る。
しかしそれでもこのところ、寒いと感ずることがある。
そこで一案!

ふとん乾燥機を購入してきた。
これで一度ふとんを乾燥させる。
床につく30分~1時間前に、電源を入れる。
が、これがたいへん、暖かい。
つまりうまくいった。

が、それだけではない。
数日前、風呂から出たあと、散歩をしてしまった。
「まずい」とは思いつつ、それをしてしまった。
で、そのあと、予感どおり、鼻かぜをひいてしまった。
ゾクゾクとした悪寒もあり、腰のあたりも
痛くなってきた。

こうなるとふつうの暖房方法では、ふとんは
暖まらない。
そこでふとん乾燥機を、毛布と、かけぶとんの間にはさみ、
そのまま寝た。

しかしこれがよかった。

というのも、人間は眠っているときも、肌を通して、
皮膚呼吸をしている。
そのため通気性の悪いふとんだと、そのまま
寝苦しくなってしまう。
寝るときはできるだけ薄着で、ふとんも通気性の
よいものがよい。

この点、ふとん乾燥機はよい。
通気性がよいどころか、通気そのものをしてくれる。
もちろん暖かい。
それに電熱器が発する、あの電磁波特有の
不快感もない。
さわやかで、軽い風がふとんの中に入ってくるような感じ。

そのときは、額に汗がじんわりと出てくるような
熱さだったが、これがよかった。
朝起きると、鼻かぜは治っていた!

そこで提案。

電気毛布、電気敷きぶとんもよいが、この方法、
つまりふとん乾燥機方式で、ふとんを暖める
製品を開発してほしい。
外から暖かい空気を注入しながら、ふとんを
暖めるという方式である。

ふとんの温もりも自然で、寝心地もよい。
もちろん通気性もよく、厚いふとんで感ずるような
寝苦しさもない。

モーターによる騒音もあるが、あの程度の騒音
なら、気にならない。
飛行機のエンジン音、あるいは車のエンジン音
のようで、かえって快眠を誘うのではないか。

(注:ふとん乾燥機をふとんの暖房に使って
いる人も多いかと思うが、しかし熱くなりすぎるので、
注意する。
ふとんの中で汗をかくほどだと、今度は、眠って
いる間に、脱水状態になるかもしれない。
高血圧の人や、血栓性の何かの病気をもっている
人は、注意してほしい。)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

【撤退する外国企業、規制緩和の必要性】

●この現実を、知っているか?

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日本の証券取引所から、外国企業の撤退が
つづいている。
現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、
「16社と、ピークだった1991年(127社)の
8分の1減少した」
(時事通信・08・12・27)。

かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。
(2002年には36社。3分の1に減った。
さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)

その理由として第一にあげられるのが、
「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)
ということ。

+++++++++++++++++++

時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になっ
た。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コ
ストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上
場の外国企業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?
今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。
すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、
シンガポール経由。
東京ではない。
シンガポール。
東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。
いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。
深刻にとらえているのか。

言葉の問題だけではない。

シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの
医療機関が整っている。
医療保険も、そのまま使える。

だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、
東京ではなく、シンガポールを選ぶ。
逆の立場で、考えてみればわかる。

もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。
そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。
それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。

日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」
も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。
が、この負担が大きい。
日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。

だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。

こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は
消えることになる。
(事実、すでに消えかかっているが……。)

日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。
「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の
ようなもの。
日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。

東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。
どうして羽田空港であっては、いけないのか?

もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。

++++++++++++++++++

●日本から逃げる外資

 今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。終値で61
6円安。それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が
出遅れていることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を
失いつつあることを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新
聞)。

 この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。つぎのが、それである。日付は、
2002年になっている。

+++++++++++++++

【みんなで考えよう、日本の教育改革】(Open the door and liberate the market)

More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125
enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The
number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money
for translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world
and liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan.
Here is my article which I wrote 6 years ago in 2002.

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。こ
の数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2003年に入って、マクドナ
ルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、
コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用
しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)に
よる情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとす
れば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ
二を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試
験で、日本人の成績は、165か国中、150位・99年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や
理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。
今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レ
ベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそ
うだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000
近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。し
かし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメ
リカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たい
へんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の
参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まる
でプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立
高校の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを
言った。いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。
すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているの
がいる」と。そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「み
んな、自動車の教習本を読んでいる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。
日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生
はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、
疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を
支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも
崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内
閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2
000年)。98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌク
と生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比では
ない。護送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」
を作らねばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに
10年以上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市に
ある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイツ語、
インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。

もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、
コンピュータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さ
らに環境保護の科目もある。

もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科
目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減
しているという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教え
てくれた。「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを
閉鎖した学校もあります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っている
のだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。も
っとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方
に任す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかし
い。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、
それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をの
さばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良
な会社人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会
社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から
生まれた。が、これからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのよ
うな教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「ま
だ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英
語教育は、ムダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく
旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、
火星に探査機を送るのはムダ」と。

私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかり
とした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校
では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。たとえば
ルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児か
ら子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。

近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教
えてくれた。「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを
育てるのが、教育の目標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べてい
る。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者
協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達し
ていて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こ
ういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文
法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者
になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体
系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはも
っとかわいそうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使
って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単
数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いにな
る。ちなみに中学1年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、
一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なも
のなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切
なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つ
というのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生
活を営む上で必要な基礎学力だ」と。もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それが
どう必要なのか」、それを説明してほしい。「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で
二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。その
説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなけ
ればいけないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第
3回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がな
い。こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから
英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子ど
もがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人が
いる。早くから教える必要はないという人もいる。

大切なことは、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生が
やる気をなくしてしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家
庭教育まで押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。

ある教師(小学5年担任、女性)はこう言った。「授業中だけが、体を休める場所です」
と。「子どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨て
た教師もいた。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそ
れができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもあ
りき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。
教師は学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたない
という制度が徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えな
い。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。す
るとしばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいの
か悪いのかについては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほ
うが多いことも忘れてはいけない。

+++++++++++++++

 6年前に書いた原稿だが、この6年の間に、日本の教育も大きく変わった。しかし、そ
れでは不十分。

 同じように、日本の経済構造も、旧態依然のまま。東証のS社長の言葉が、それを如実
に表している。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●さわやかに生きるために

++++++++++++++++++

1人、気になる人(男性、55歳)がいる。
去年、離婚したという。
3人の子どもがいたが、子どもたちはみな、
妻とともに、T県の実家に移り住んだという。
その上、昨年、コンピュータの改造事務所を
開いたが、今度の大不況で、あえなく閉鎖。
おまけに、持病の糖尿病が悪化。
「腎臓の透析を受けなければならなくなるかも」
とのこと。
55歳といえば、まだ若い。

電話での、一方的な、かつボソボソとした言い方だったので、
返事のしようがなかった。
が、それからちょうど1か月。
その人のことが、やたらと気になるようになった。

++++++++++++++++++

●気になる

相手のことが気になる……ということには、いろいろな意味がある。
心配して気になることもある。
好奇心で気になることもある。
こういうとき、どちらなのだろうと、ふと迷う。
心配しているのか、それとも好奇心からなのか、と。
迷うが、そこまで。

どうであるにせよ、こういうばあい、そっとしておいてやることこそ、大切。
相手のほうから、相談でもあれば話は別。
こちらから、電話をかけて、聞きだすようなことはしてはいけない。
そんな残酷なことはしてはいけない。
また、そんな残酷なことは、私にはできない。

●そこで私のこと

私も過去において、つらいことがあった。
きびしい時もあった。
そういうときのことを思い出してみると、ほとんどの人たちは、
私たちをそっとしておいてくれた。
それはそれでありがたかった。
が、中には、私たちのことを聞きだそうと、わざと近づいてきた人もいた。
たとえば理由もなく、1000円とか2000円の菓子を送り届けてきたりした。
私が礼の電話を入れるのを見込んで、つまりそれをきっかけに、私の家の内情を
さぐろうとした(?)。

が、そういうことが平気でできる人というのは、相当の悪(ワル)と考えてよい。
人間性そのものが崩壊している。
反対の立場になってみると、それがよくわかる。

●仮に……

先に書いた人の(不幸)について、興味がないと言えば、ウソになる。
奥さんとも、何度か会ったことがある。
子どもの教育のことで、相談にのってやったこともある。
コンピュータの改造事務所を開いたと聞いたとき、私も、何か仕事を
頼もうと考えたこともある。
しかしそれ以上のことを知ったところで、それがどうなのか。
私が金銭的に援助するとか、治療費を負担するというのであれば、
それはそれ。
しかし私には、そのつもりはない。
またこちらから、「援助しようか」と話しかけるのも、失礼。

が、仮に私がこんなことをしたらどうだろうか。
好奇心が増大し、その人が今ごろどうしているか、知りたくなったとする。
そこで私は、まず、1000円かそこらの菓子を送る。
相手は、それに礼を言ってくるはず。
送った理由を聞かれたら、「いろいろ君には世話になったから」とか、何とか言えばよい。
で、相手が話に乗ってきたら、「その後は、どう?」と聞けばよい。

しかしそれができるというのは、先にも書いたように、相当の悪(ワル)と考えてよい。
少なくとも、私にはできない。

●酒の肴(さかな)

が、世の中には、他人の不幸を酒の肴にして、楽しむ人がいる。
さも同情したフリをしながら、ああでもない、こうでもないと、他人の不幸話に
花を咲かせる。
中には、「あいつも、かわいそうだよな」と、沈んだ声で言いながら、その人の
悪口を言いふらしたりする。
このタイプの人は、元来ゴシップ好き。
情報を得るために、用もないのに電話をかけてきたりする。
探りを入れてきたりする。
「林君、昨夜、君の夢を見たよ」とか、何とか言って……。

こういう人に、こちらの内情をうっかり話したりすると、その話は、あっという間に、
みなに伝わってしまう。
「あの林は……」と。

●あなたに告げ口をする人は……

『あなたに告げ口をする人は、あなたのことを、また別のだれかに告げ口する』。
イギリスの格言だが、そういう人のことを、「つげ口屋(タトラー)」という。
英語国の世界では、もっとも軽蔑されるべき人間の1人ということになっている。

そこであなたの周囲を見回してみてほしい。
あなたの周囲にも、1人や2人、かならずそういう人がいるはず。
で、私のばあいだが、私に何か告げ口をしてくる人がいたら、こう思うようにしている。
「ああ、この人は、つぎに私のことを、だれかに告げ口をするぞ」と。
つまり相手にしない。
遠ざかる。

好きか、嫌いかということになれば、私は(告げ口)が、大嫌い。
だから子どもを指導するときも、だれかが告げ口をしてきたら、すかさず、
こう言い返すようにしている。

「ぼくは告げ口が嫌いだ。聞きたくない」と。

●そっとしておく

今の今も、不幸のどん底であえいでいる人は、多い。
しかしその人がその人なりにがんばっているなら、そっとしておいてやることこそ大切。
またそれが思いやりというもの。
いわんやその人の不幸を、酒の肴にしてはいけない。
そんな残酷なことを、してはいけない。

これはたがいの人間関係をさわやかにするための、大鉄則ということになる。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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Monday, January 26, 2009

*Depression *Muderous Impulse

●景気回復

++++++++++++++++++++++++++

おおかたの経済学者たちは、「今年(09)いっぱいは、
だめだろう」と言う。
「景気回復は見込めない」と言う。
よくて今年の夏以降、あるいは来年、と。
このまま不況は、5年つづくと主張する学者もいる。
日本のばあい、バブル景気が崩壊したあと、それが10年もつづいた。

しかし経済なんてものは、その兆候が見られただけで、
パッと動く。
だから私は、それほど悲観していない。

「今年いっぱいは、だめだろう」と思っていても、
「来年からよくなる」という兆候をつかんだだけで、
その時点から好転する。
それがこの春になるか、夏になるかはわからない。
しかし秋まで、この状態がつづくとは思っていない。

あるいはその直前までドン底でも、数日単位で
好転するということもある。
そのカギを握るのが、中国であり、アメリカという
ことになる。
中国やアメリカが動けば、世界も動く。

だからここは、じっとがまんのとき。
成り行きを静かに見守る。
穴にこもって、嵐が過ぎ去るのを待つ。

+++++++++++++++++++++++++

●大不況の発端

だんだん日がたつにつれて、今回の大不況の輪郭が、おぼろげながら、わかってきた。

原因は、やはりアメリカの住宅バブル。
ひとつのモデルケースを考えて、説明してみよう。

A氏は、10万ドルで、家を買った。
しかし半年後には、その家の価値が、15万ドルになった。
そこでA氏は、自分の家を担保に、銀行から15万ドルを借りて、
となりの15万ドルの家を買った。
が、その半年後には、最初に買った家と、新しく買った家が、それぞれ20万ドルに
なった。
計40万ドルの資産ということになる。
気をよくしたA氏は、さらに25万ドルを銀行から借りた。
その25万ドルで、3軒目の家を買った。
今度は、すこしばかり豪華な家である。

が、さらに半年後、住宅の価値があがった。
住宅バブルがつづいた。
その結果……

1軒目……20万ドル→25万ドル
2軒目……25万ドル→30万ドル
3軒目……25万ドル→30万ドル、になった。

この時点で、借金の総額は、40万ドル。
資産の総額は、85万ドル。
A氏は、差し引き、45万ドルの資産家になった。
そこでそのお金で、車を買ったり、海外旅行を楽しんだりした。
住宅の値上がりを見込んで、45万ドルのうち、大半を使い果たしてしまった。
A氏は、こう思った。
「オレは住宅を3軒も、もっている。値上がりすれば、その分で、取り返せる」と。

が、ある日、それが限界にやってきた。
住宅価格の値上がりが止まった。
この点は、日本のバブル景気(1980年代の後半→90年代の前半)の
崩壊したときの様子に似ている。
とたん、A氏の資金計画に誤算が生ずるようになった。
ローンの支払いに、苦労するようになった。
銀行も、お金を貸してくれなくなった。

で、さらにしばらくすると、今度は、住宅価格が下落し始めた。
経済の逆回転が始まった。
こうなると、今度は逆に、A氏は損害に損害を重ねることになる。
経済のこわいところは、みなが「まさか」と思っていると、その(まさかの状態)に
なること。
その(まさかの状態)になってしまった。
A氏についていうと、こうなる。

1軒目……25万ドル→10万ドル
2軒目……30万ドル→20万ドル
3軒目……30万ドル→20万ドル、になった。

資産価値は、50万ドル。
借金は、85万ドル。

あっという間にA氏は、奈落の底に転落!
それが今度の、世界大恐慌の引き金を引いた。

最初に、住宅金融会社が炎上した。
その中でも、最大手のリーマン・ブラザーズが、倒産した。

世界中の投資会社や投資家が、住宅金融会社に金を貸していた。
そのため、世界中の投資会社や投資家が、被害をこうむった。
何しろ、ケタはずれ。
ざっとみて、1000兆円。
日本の国家予算の約15倍!
アメリカが100兆円、日本が50兆円、ドイツが50兆円ほか、
それぞれお金をばらまいた。
が、とてもそれで足りる額ではない。

……ということで、経済そのものが、麻痺状態に陥ってしまった。

が、本当の問題は、これから起きる。

(1) 社会不安の増大
(2) ハイパー・インフレの到来

失業率が10%を超えると、町に失業者が現れるようになる。
15%を超えると、それがだれの目にもわかるようになる。
20%を超えると、略奪、暴行が起こるようになる。
おおざっぱに言えば、そう考えてよい。
職を失った人たちは、社会から見捨てられたと、とる。
それがそういう人たちの心をゆがめる。
犯罪を犯すことを、悪いことと思わなくなる。

またこれだけお金をばらまいて、無事ですむはずがない。
世界中が、お金でジャブジャブになる。
現在の「100円ショップ」が、やがて「200円ショップ」になり、
最終的には、「500円ショップ」になる。
戦後のあの混乱期と同じような状況が、やってくる。

借金をかかえている人にとってはよい話かもしれない。
しかし退職して、退職金を手にした人は、どうか。
実質、退職金が、5分の1、つまりたとえば2000万円の退職金でも、
400万円にまで目減りすることになる。
中には、退職金を、債権投資や株式投資に回した人もいる。
そういう人は、今度の大不況で、そのほとんどを失った。

住宅バブルがはじけて、損をした人のことは、心配しなくてもよい。
それこそまさに、自業自得。
が、まじめにコツコツ働いてきた人はどうか。
回りまわって、そういう人たちが、結局、いちばん損をすることになる。
バカげた話だが、これが現実。

日本人の平均貯蓄額を、仮に1073万円(金融広報中央委員会・06)とすると、
何とか1年くらいは、もちこたえることができるかもしれない。
しかし2年は、無理。
だから日本は、それまでには、この大不況から脱しなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●人が殺意を感ずるとき

+++++++++++++++++++++

先日、知人のZさん(55歳、女性)と話して
いたら、「殺意」という、おどろおどろしい言葉が話題になった。
何でもその女性は、ときどき、義理の父親に
殺意を覚えるという。

冗談ではない。
本気である。

++++++++++++++++++++

同居している義理の父親は、かなりわがままな人らしい。
今年、85歳になるという。
こまかい話はさておき、実の息子や娘が正月などで
やってくると、それとなくZさんの悪口を言うという。
たとえば息子が何かの食べ物をもってきたりする。
それについて、「こんなおいしいものは、この半年、
食べていない」とか言うなど。

事実は、どうも逆らしい。
Zさんの趣味は、料理。
だからそれなりにおいしいものを食べてもらおうと
努力しているという。
が、そういう努力は完全に無視。
その上で、そう言うという。

「あたかも私が何も料理していないような言い方をします。
頭にカチンときます」
「ときどき、包丁を義父の腹に突き刺してやりたく
なることもあります」と。

そういうZさんの気持ちを察して、Zさんの息子(30歳、
税理士)は、ときどきZさんにこう言うという。
「お母さん、事件だけは起こさないでくれよな」と。

で、殺意論。

「殺意」がどういうものか、それを知っている人は、
心のどこかに傷のある人とみる。
それは研ぎ澄まされた感覚で、憎しみや嫌悪感とはちがう。
ふつうなら、(殺人)→(犯罪)→(反社会的行為)と
いうふうに、つなげていく。
だから「殺したい」とは思っても、実行まではしない。
その一歩手前で、踏みとどまる。

しかし人が殺意を覚えるときは、そういった理性の
ブレーキすら、どこかへ消えてしまう。
「相手を殺すことによって、自分を取り戻す」。
「相手がいたら、自分が成り立たなくなってしまう」
「相手を殺すというよりは、相手を無にしたい」と。

そういう感覚になる。

Zさんは、そういった気持ちを、ていねいに説明してくれた。
で、「林さんは、そういう殺意を感じたことがありますか?」と
聞いた。

実は、私も生涯において、二度ほど、殺意を覚えたことがある。
詳しくは書けないが、一度は、私が27、8歳のとき。
相手は仕事先の人だった。
もう一度は、4、5年前。
このときは、近親の人だった。
つまりそういう殺意を覚えるということは、私の心がかなり
ゆがんでいることを示す。
成長過程のどこかで、はげしい憎悪、恐怖、不安を感じたのが原因と思われる。
それがトラウマとなり、ある状況下で、殺意へとつながっていく(?)。
だからZさんの気持ちが、よく理解できる。

そこで話は、今度は、「殺人論」になった。

私「殺人事件というのは、よくありますが、無差別な殺人事件は別として、
親戚、兄弟、あるいは親子の間で起きる事件には、それなりの背景が
あるということです」
Z「そうですよ。長い時間をかけて、悲しみや苦しみが、圧縮されますから。
他人なら、距離を置くことで、その人を忘れることができます。
しかし近親者だと、そうはいきません」
私「今はなくなりましたが、私が学生のころには、尊属殺というのがありました。
尊属殺というのは、ふつうの殺人よりも、ワンランク、刑が重かったのです。
しかし、これはおかしい。人が殺人に走るときというのは、それなりの背景
というものがある。親子であるがゆえに、確執も深いと考えるべきです。
やむにやまれず、親を殺したという事件も、数多くあります」と。

が、殺意を覚えたことがない人もいる。
私のワイフも、その中の1人である。
何度も確かめたが、ワイフには、それがない。
反対に、殺意というものがどういうものか、理解できないらしい。
「本当にお前は、人を殺したいと思ったことはないのか?」と私が聞いても、
「あなたのほうが、おかしいわよ」で、終わってしまう。

もちろんこう書いたからといって、殺人を肯定するわけでも、支持するわけでもない。
犯罪は、犯罪。
しかも最悪の犯罪。
しかし同時に、こうも言える。

殺人を犯す人には、それなりの過去があり、心に傷をもった人が多いということ。
刑法の世界では、よく『罪を憎んで、人を憎まず』という。
悪いのはその人のした行為であって、その人自身ではないという意味である。
もう少し深くいうと、こうなる。

だれしも同じような境遇で生まれ、同じような状況に置かれたら、同じような立場
に立たされたら、同じような行動をとるようになるということ。
善人も悪人も、基本的には、どこもちがわない。
殺人という犯罪についても、そのひとつ。

繰り返すが、だからといって、殺人という反社会的行為を容認するわけではない。
反社会的行為は、反社会的行為として、罰していかねばならない。

そこでクエスチョン。

あなたはどうだろうか?
今までに、だれかに対して、ここに書いたような殺意を覚えたことがあるだろうか。
もしそうなら、あなたの不幸な過去を、さぐってみるとよい。
そこに何かあるはずである。

最後にZさんは、こう言った。

「でも、後味のわるいことだけは、したくありませんね。
たった一度しかない人生ですから……。
死ぬときは気持ちよく死にたいです。
だから『殺してやりたい』と思っても、その一歩手前で、踏みとどまるのです」と。

まったくの同感である。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●歩く

+++++++++++++++++++++

今日も、街までの7・5キロを歩いた。
毎回、コースを変えている。
今日は、南を流れる、川沿いに、歩いた。
昔は、その両横は、うなぎの養殖池になっていた。
が、今は、荒れ放題。
その面影すら、残っていない。

+++++++++++++++++++++

全国のみなさん、「浜松のうなぎ」は、今は昔の物語。
「浜松産のうなぎ」とか、「浜名湖産のうなぎ」という文字を見ても、
信用しないほうがよい。
養殖池は残ってはいるが、しかし今では、さがさなければ見つからないほど、少ない。
もちろん天然のうなぎなど、庶民の口に届くことは、めったに、ない。

そんな話をしながら、街までの距離を歩いた。
大回りしたので、8、9キロは歩いたかもしれない。
万歩計では、9900歩になっていたが、私の万歩計は100円ショップで買ったもの。
アテにならない。

今度の「歩こう会」では、10キロを歩くことになっている。
だいじょうぶかな?
トップランナーをキープできるかな?

とにかくこうして足腰を鍛えるしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

*Depression *Muderous Impulse

●景気回復

++++++++++++++++++++++++++

おおかたの経済学者たちは、「今年(09)いっぱいは、
だめだろう」と言う。
「景気回復は見込めない」と言う。
よくて今年の夏以降、あるいは来年、と。
このまま不況は、5年つづくと主張する学者もいる。
日本のばあい、バブル景気が崩壊したあと、それが10年もつづいた。

しかし経済なんてものは、その兆候が見られただけで、
パッと動く。
だから私は、それほど悲観していない。

「今年いっぱいは、だめだろう」と思っていても、
「来年からよくなる」という兆候をつかんだだけで、
その時点から好転する。
それがこの春になるか、夏になるかはわからない。
しかし秋まで、この状態がつづくとは思っていない。

あるいはその直前までドン底でも、数日単位で
好転するということもある。
そのカギを握るのが、中国であり、アメリカという
ことになる。
中国やアメリカが動けば、世界も動く。

だからここは、じっとがまんのとき。
成り行きを静かに見守る。
穴にこもって、嵐が過ぎ去るのを待つ。

+++++++++++++++++++++++++

●大不況の発端

だんだん日がたつにつれて、今回の大不況の輪郭が、おぼろげながら、わかってきた。

原因は、やはりアメリカの住宅バブル。
ひとつのモデルケースを考えて、説明してみよう。

A氏は、10万ドルで、家を買った。
しかし半年後には、その家の価値が、15万ドルになった。
そこでA氏は、自分の家を担保に、銀行から15万ドルを借りて、
となりの15万ドルの家を買った。
が、その半年後には、最初に買った家と、新しく買った家が、それぞれ20万ドルに
なった。
計40万ドルの資産ということになる。
気をよくしたA氏は、さらに25万ドルを銀行から借りた。
その25万ドルで、3軒目の家を買った。
今度は、すこしばかり豪華な家である。

が、さらに半年後、住宅の価値があがった。
住宅バブルがつづいた。
その結果……

1軒目……20万ドル→25万ドル
2軒目……25万ドル→30万ドル
3軒目……25万ドル→30万ドル、になった。

この時点で、借金の総額は、40万ドル。
資産の総額は、85万ドル。
A氏は、差し引き、45万ドルの資産家になった。
そこでそのお金で、車を買ったり、海外旅行を楽しんだりした。
住宅の値上がりを見込んで、45万ドルのうち、大半を使い果たしてしまった。
A氏は、こう思った。
「オレは住宅を3軒も、もっている。値上がりすれば、その分で、取り返せる」と。

が、ある日、それが限界にやってきた。
住宅価格の値上がりが止まった。
この点は、日本のバブル景気(1980年代の後半→90年代の前半)の
崩壊したときの様子に似ている。
とたん、A氏の資金計画に誤算が生ずるようになった。
ローンの支払いに、苦労するようになった。
銀行も、お金を貸してくれなくなった。

で、さらにしばらくすると、今度は、住宅価格が下落し始めた。
経済の逆回転が始まった。
こうなると、今度は逆に、A氏は損害に損害を重ねることになる。
経済のこわいところは、みなが「まさか」と思っていると、その(まさかの状態)に
なること。
その(まさかの状態)になってしまった。
A氏についていうと、こうなる。

1軒目……25万ドル→10万ドル
2軒目……30万ドル→20万ドル
3軒目……30万ドル→20万ドル、になった。

資産価値は、50万ドル。
借金は、85万ドル。

あっという間にA氏は、奈落の底に転落!
それが今度の、世界大恐慌の引き金を引いた。

最初に、住宅金融会社が炎上した。
その中でも、最大手のリーマン・ブラザーズが、倒産した。

世界中の投資会社や投資家が、住宅金融会社に金を貸していた。
そのため、世界中の投資会社や投資家が、被害をこうむった。
何しろ、ケタはずれ。
ざっとみて、1000兆円。
日本の国家予算の約15倍!
アメリカが100兆円、日本が50兆円、ドイツが50兆円ほか、
それぞれお金をばらまいた。
が、とてもそれで足りる額ではない。

……ということで、経済そのものが、麻痺状態に陥ってしまった。

が、本当の問題は、これから起きる。

(1) 社会不安の増大
(2) ハイパー・インフレの到来

失業率が10%を超えると、町に失業者が現れるようになる。
15%を超えると、それがだれの目にもわかるようになる。
20%を超えると、略奪、暴行が起こるようになる。
おおざっぱに言えば、そう考えてよい。
職を失った人たちは、社会から見捨てられたと、とる。
それがそういう人たちの心をゆがめる。
犯罪を犯すことを、悪いことと思わなくなる。

またこれだけお金をばらまいて、無事ですむはずがない。
世界中が、お金でジャブジャブになる。
現在の「100円ショップ」が、やがて「200円ショップ」になり、
最終的には、「500円ショップ」になる。
戦後のあの混乱期と同じような状況が、やってくる。

借金をかかえている人にとってはよい話かもしれない。
しかし退職して、退職金を手にした人は、どうか。
実質、退職金が、5分の1、つまりたとえば2000万円の退職金でも、
400万円にまで目減りすることになる。
中には、退職金を、債権投資や株式投資に回した人もいる。
そういう人は、今度の大不況で、そのほとんどを失った。

住宅バブルがはじけて、損をした人のことは、心配しなくてもよい。
それこそまさに、自業自得。
が、まじめにコツコツ働いてきた人はどうか。
回りまわって、そういう人たちが、結局、いちばん損をすることになる。
バカげた話だが、これが現実。

日本人の平均貯蓄額を、仮に1073万円(金融広報中央委員会・06)とすると、
何とか1年くらいは、もちこたえることができるかもしれない。
しかし2年は、無理。
だから日本は、それまでには、この大不況から脱しなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●人が殺意を感ずるとき

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先日、知人のZさん(55歳、女性)と話して
いたら、「殺意」という、おどろおどろしい言葉が話題になった。
何でもその女性は、ときどき、義理の父親に
殺意を覚えるという。

冗談ではない。
本気である。

++++++++++++++++++++

同居している義理の父親は、かなりわがままな人らしい。
今年、85歳になるという。
こまかい話はさておき、実の息子や娘が正月などで
やってくると、それとなくZさんの悪口を言うという。
たとえば息子が何かの食べ物をもってきたりする。
それについて、「こんなおいしいものは、この半年、
食べていない」とか言うなど。

事実は、どうも逆らしい。
Zさんの趣味は、料理。
だからそれなりにおいしいものを食べてもらおうと
努力しているという。
が、そういう努力は完全に無視。
その上で、そう言うという。

「あたかも私が何も料理していないような言い方をします。
頭にカチンときます」
「ときどき、包丁を義父の腹に突き刺してやりたく
なることもあります」と。

そういうZさんの気持ちを察して、Zさんの息子(30歳、
税理士)は、ときどきZさんにこう言うという。
「お母さん、事件だけは起こさないでくれよな」と。

で、殺意論。

「殺意」がどういうものか、それを知っている人は、
心のどこかに傷のある人とみる。
それは研ぎ澄まされた感覚で、憎しみや嫌悪感とはちがう。
ふつうなら、(殺人)→(犯罪)→(反社会的行為)と
いうふうに、つなげていく。
だから「殺したい」とは思っても、実行まではしない。
その一歩手前で、踏みとどまる。

しかし人が殺意を覚えるときは、そういった理性の
ブレーキすら、どこかへ消えてしまう。
「相手を殺すことによって、自分を取り戻す」。
「相手がいたら、自分が成り立たなくなってしまう」
「相手を殺すというよりは、相手を無にしたい」と。

そういう感覚になる。

Zさんは、そういった気持ちを、ていねいに説明してくれた。
で、「林さんは、そういう殺意を感じたことがありますか?」と
聞いた。

実は、私も生涯において、二度ほど、殺意を覚えたことがある。
詳しくは書けないが、一度は、私が27、8歳のとき。
相手は仕事先の人だった。
もう一度は、4、5年前。
このときは、近親の人だった。
つまりそういう殺意を覚えるということは、私の心がかなり
ゆがんでいることを示す。
成長過程のどこかで、はげしい憎悪、恐怖、不安を感じたのが原因と思われる。
それがトラウマとなり、ある状況下で、殺意へとつながっていく(?)。
だからZさんの気持ちが、よく理解できる。

そこで話は、今度は、「殺人論」になった。

私「殺人事件というのは、よくありますが、無差別な殺人事件は別として、
親戚、兄弟、あるいは親子の間で起きる事件には、それなりの背景が
あるということです」
Z「そうですよ。長い時間をかけて、悲しみや苦しみが、圧縮されますから。
他人なら、距離を置くことで、その人を忘れることができます。
しかし近親者だと、そうはいきません」
私「今はなくなりましたが、私が学生のころには、尊属殺というのがありました。
尊属殺というのは、ふつうの殺人よりも、ワンランク、刑が重かったのです。
しかし、これはおかしい。人が殺人に走るときというのは、それなりの背景
というものがある。親子であるがゆえに、確執も深いと考えるべきです。
やむにやまれず、親を殺したという事件も、数多くあります」と。

が、殺意を覚えたことがない人もいる。
私のワイフも、その中の1人である。
何度も確かめたが、ワイフには、それがない。
反対に、殺意というものがどういうものか、理解できないらしい。
「本当にお前は、人を殺したいと思ったことはないのか?」と私が聞いても、
「あなたのほうが、おかしいわよ」で、終わってしまう。

もちろんこう書いたからといって、殺人を肯定するわけでも、支持するわけでもない。
犯罪は、犯罪。
しかも最悪の犯罪。
しかし同時に、こうも言える。

殺人を犯す人には、それなりの過去があり、心に傷をもった人が多いということ。
刑法の世界では、よく『罪を憎んで、人を憎まず』という。
悪いのはその人のした行為であって、その人自身ではないという意味である。
もう少し深くいうと、こうなる。

だれしも同じような境遇で生まれ、同じような状況に置かれたら、同じような立場
に立たされたら、同じような行動をとるようになるということ。
善人も悪人も、基本的には、どこもちがわない。
殺人という犯罪についても、そのひとつ。

繰り返すが、だからといって、殺人という反社会的行為を容認するわけではない。
反社会的行為は、反社会的行為として、罰していかねばならない。

そこでクエスチョン。

あなたはどうだろうか?
今までに、だれかに対して、ここに書いたような殺意を覚えたことがあるだろうか。
もしそうなら、あなたの不幸な過去を、さぐってみるとよい。
そこに何かあるはずである。

最後にZさんは、こう言った。

「でも、後味のわるいことだけは、したくありませんね。
たった一度しかない人生ですから……。
死ぬときは気持ちよく死にたいです。
だから『殺してやりたい』と思っても、その一歩手前で、踏みとどまるのです」と。

まったくの同感である。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●歩く

+++++++++++++++++++++

今日も、街までの7・5キロを歩いた。
毎回、コースを変えている。
今日は、南を流れる、川沿いに、歩いた。
昔は、その両横は、うなぎの養殖池になっていた。
が、今は、荒れ放題。
その面影すら、残っていない。

+++++++++++++++++++++

全国のみなさん、「浜松のうなぎ」は、今は昔の物語。
「浜松産のうなぎ」とか、「浜名湖産のうなぎ」という文字を見ても、
信用しないほうがよい。
養殖池は残ってはいるが、しかし今では、さがさなければ見つからないほど、少ない。
もちろん天然のうなぎなど、庶民の口に届くことは、めったに、ない。

そんな話をしながら、街までの距離を歩いた。
大回りしたので、8、9キロは歩いたかもしれない。
万歩計では、9900歩になっていたが、私の万歩計は100円ショップで買ったもの。
アテにならない。

今度の「歩こう会」では、10キロを歩くことになっている。
だいじょうぶかな?
トップランナーをキープできるかな?

とにかくこうして足腰を鍛えるしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

Sunday, January 25, 2009

*ADHD

【1月26日】2009

●年賀状・当選番号

+++++++++++++++++++++

昨日、お年玉つき年賀はがきの、当選番号の
発表があった。
当選番号は、つぎのとおり。

【1等6ケタ×1本】345898
【2等6ケタ×3本】663829/908796/028962
【C組限定賞6ケタ×2本】882347/223109
【3等下4ケタ×1本】5070
【4等下2ケタ×2本】94/46 

それに私は、勝手に一等の番号を、ひとつ、つけ足した。

【1等6ケタ×2本】345898/821819
【2等6ケタ×3本】663829/908796/028962
【C組限定賞6ケタ×2本】882347/223109
【3等下4ケタ×1本】5070
【4等下2ケタ×2本】94/46 

この中の1等、「821819」は、ウソである。
私のところへ届いた年賀状の1枚に、
「821818」というのがあった。
それに「1」を加えて、「821819」とした。
それを1等につけ足した。

(「821818」としようかと思ったが、それでは
ワイフがかわいそう。
あとであの当選番号はウソでしたとは、ちょっと
言いづらい。)

あとでワイフにプリントアウトしたのを見せる。
きっとワイフはこう言うにちがいない。

「アラ~~、残念、1番違い!」と。
がっかりするだろう。
それが楽しみ。

ヒヒヒ+ハハハ!

今日も、こうして私の1日が始まった。
1月26日、月曜日。

++++++++++++++++++++

●呼吸法

息を吐き出しながら、声を出す。
当たり前の動作である。
しかしちょっと練習すると、息を吸いながらでも、声が出るようになる。
甲高い声になるが、それで話をすることもできるし、歌を歌うこともできる。
つまりこの方法を使うと、息つぎなしで、長~イ歌も歌うことができる。
私の得意芸のひとつである。

子どもたちとは、こんな競争をする。

私「ピーポー、ピーポーと、長く言いつづけた人が勝ち。やってみるか?」と。

最初は、見本で、息を吐き出しながら、「ピーポー、ピーポー」と言って見せる。
そしてつぎに、「ヨーイドン!」で始める。

私は息を吐いて「ピー」と言い、すかさず吸いながら「ポー」と言う。
これを繰り返す。
この方法だと、永遠に(?)、私は言いつづけることができる。

ただし息を吸っていることがわからないように、体をやや丸め、腕組をして
やるのがコツ。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【AD・HD児、今、アメリカでは……?】
●unmanageable class(収拾不能の学級)
by michael, posted on 5/11/2006 at 11:37.

There is a class of young children (6-10) in the children psychiatric where I work. The class is out of control. If a closet is open they crawl in. An open window-they crawl out. They open board and throw them on the floor. There is one child who breaks computers without the slightest hesitation. If two of these kids do not agree then is the answer.
私は現在、精神病棟で働いています。その中に、6-10歳の子どもたちがいる学級があります。その教室は、収拾不能です。クロゼットがあいていると、子どもたちはそこへ入ります。窓があいていれば、そこから出ていきます。ボードをあけて、それらを床に投げつけます。まったくためらわずに、コンピュータをこわした子どももいます。これらの中の2人の子どもが同意しなければ(以下、意味不明)……。

The Dr. feels that there are no medications that can address their problems. They are too damaged or too young. Each one of the children has learning and psychological pathologies and at least 5 of the 6 children are mildly retarded. This statement is based on psychological testing. So far I have not seen the class participate appropriately for longer than five minutes.
医師は、これらの問題を解決するための医薬品はないと感じています。彼らはあまりにも障害の程度がひどく、若すぎます。それぞれの子どもは、学習および精神的な病理をかかえていて、少なくとも、6人のうち5人は、軽い障害をかかえています。ここに書いたことは、心理テストに基づいたものです。今のところ、学級が、5分以上、適正に運営されたのを見たことがありません。

There are six children, one new teacher and two staff members in the class. There are always two s for six kids. The staff members in the class are not paras. They are therapy aides and they are not responsible for helping with education. They are there to see that no one gets hurt and that the physical needs of the children are met. I would appreciate any suggestion for working with an incredibly infantile and violent group.
6人の子どもがいます。それに対して1人の新しい教師と、2人のスタッフが付き添っています。6人の生徒にいつもは2人です。教室にいるスタッフは、parasではありません。彼らは、介護ヘルパーで、子どもたちの教育には、責任をもっていません。彼らはそこにいて、子どもたちがけがをしないように、見ているだけか、行動面で助けたりしているだけです。こうした暴力的な学級で、仕事をすることについて、何らかの提案をいただければ、うれしいです。

We need new ideas for management. How can I reinforce the positive behavior I see? How can I extinguish the hitting and kicking? These kids can hurt each other! We have a behavior management plan based on points. It is a system used by the whole hospital. It is used by all the state hospitals. But it does not seem to be working here. ANY IDEAS?
学級運営の新しいアイデアを必要としています。どうすれば、前向きな行動を強化できるでしょうか。殴ったり、蹴ったりすることを消すことができるでしょうか。これらの子どもたちは、たがいに傷つけあっています。この点に関する運営プランはあるにはあります。それはすべての病院で使われているシステムです。しかしここでは役に立っていません。何かアイデアは?

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

disruptive student who cannot focus
by joy kuemmerle, posted on 5/5/2006 at 21:6.

I have a student who has the attention span of about 5 seconds. I constantly have to redirect him and keep him on task, which leaves the rest of my class neglected and free to get off task as well. When I ask him why he constantly gets distracted, he tells me that he had a brain injury and can't help it. I am wondering if there are any tips out there for me whether he had a brain injury or not.
私は、5秒も注意力を集中できない学生をかかえています。常に彼を学習に向けさせなければなりませんが、そうしていると、ほかの子どもたちが、学習から逃げてしまいます。私がどうしてあなたは集中できないのかと聞くと、彼は、ぼくには脳の障害があって、自分ではどうしようもないと言います。彼に脳の障害があるかどうか、それを知る方法はあるのでしょうか。

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●AD・HD児、体力との勝負

こうした子どもと接するときは、まさに体力との勝負。
私も、ずっと、こうした子どもたちの指導をしてきた。
1クラス2人にまで減らして、対応したこともある。
それでも、1~2時間で、ヘトヘト。
小学1~3年生の子どもなら、まだ何とかなる。
しかし4~6年生となると、そうはいかない。
(もっとも、小学3年前後を境として、このタイプの子どもも、
急速に落ちついてくる。
自己管理能力が育ってくるためである。)

「1クラス、6人」とあるが、6人というのは、もとから不可能。
仮にそういう子どもが、12人中、1人いただけで、数か月後には、そのクラスは
バラバラになってしまう。
またその子どもだけを集中的に指導していると、ほかの子どもたちが神経質に
なってしまう。
もちろん「教育」など、どこかへ吹き飛んでしまう。

が、何よりもつらいのは、たいていのばあい、親に、その自覚がないということ。
「何とかしてほしい」と言うだけで、それ以上の協力は、ほとんどない。
そういった子どものかかえる問題点を、理解しようともしない。
「うち(=家の中)では、静かです」とか、「学校の先生と相性が悪いだけです」とか、
言って、子どもをかばったりする。

●制度の問題

ことAD・HD児に関していうなら、それは「教育の問題」ではなく、「制度の問題」
ということになる。
そういう制度を用意しないまま、AD・HD児を、(ふつうの学級)へ押し込むほうが、
まちがっている。
投薬によって、落ちつかせるという方法もとられているが、こうした精神薬の投与には、
慎重であったほうがよい。

治る(直る)とか、治らない(直らない)とか、いう問題ではない。
AD・HD児は、その症状が出ているときは、基本的には、治らない(直らない)。
むしろ幼児~小学3年生の間は、それ以上に、症状をこじらせないことだけを考えて、
その子どもに合った、学習システムを用意するほうがよい。
それ以後は、ここにも書いたように、このタイプの子どもでも、急速に落ちついてくる。

そして高学年(小5、6~中学生)になると、もちまえのバイタリィティが、よい方向
に向き始める。
学習面やスポーツ面で、飛躍的に伸びたりする。
が、無理な学習や、強制、投薬などによって、症状をこじらせると、かえって、その
あと、その影響が長くつづいたりする。
だから「制度の問題」ということになる。

現行の制度には、つぎのような問題点がある。

(1) 親の抵抗……親が、それに抵抗する。「特別学級」イコール、「排除」「差別」と
ととらえる。無知、無学な親も多い。
(2) 強制権がない……学校側に強制権がない。子どもを専門医に診断させることに
ついても、学校側は、あくまでもそれを提案する立場でしかない。

そこで、好ましい制度としては、

(1) 専門医による診断を、就学前に義務づける。その診断結果をもとに、
教師は、行動を開始する。
(2) AD・HD児については、小学3年生までは、ほかの子どもたちと分離し、
別の学級を用意する。アメリカでは、現にそうしている。
(3)(学習)よりも、(運動)を中心にした教育、あるいは(運動を利用した学習)
   に、指導の中心を置く。別のカリキュラムを用意する。
(4)子どもよりも、親への指導を徹底する。「子育て学級」を立ち上げ、親には
   強制的に参加してもらう。

今、多くの学校で、多くの教師たちが悲鳴をあげている。
そうした現実に、社会はもっとすなおに、目を向けるべきではないか。
アメリカのBLOGを読んで、そんなことを感じた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ADHD  AD・HD児 集中力欠如 多動性 子どもの多動 子供の多動 多動児)

*ADHD

【1月26日】2009

●年賀状・当選番号

+++++++++++++++++++++

昨日、お年玉つき年賀はがきの、当選番号の
発表があった。
当選番号は、つぎのとおり。

【1等6ケタ×1本】345898
【2等6ケタ×3本】663829/908796/028962
【C組限定賞6ケタ×2本】882347/223109
【3等下4ケタ×1本】5070
【4等下2ケタ×2本】94/46 

それに私は、勝手に一等の番号を、ひとつ、つけ足した。

【1等6ケタ×2本】345898/821819
【2等6ケタ×3本】663829/908796/028962
【C組限定賞6ケタ×2本】882347/223109
【3等下4ケタ×1本】5070
【4等下2ケタ×2本】94/46 

この中の1等、「821819」は、ウソである。
私のところへ届いた年賀状の1枚に、
「821818」というのがあった。
それに「1」を加えて、「821819」とした。
それを1等につけ足した。

(「821818」としようかと思ったが、それでは
ワイフがかわいそう。
あとであの当選番号はウソでしたとは、ちょっと
言いづらい。)

あとでワイフにプリントアウトしたのを見せる。
きっとワイフはこう言うにちがいない。

「アラ~~、残念、1番違い!」と。
がっかりするだろう。
それが楽しみ。

ヒヒヒ+ハハハ!

今日も、こうして私の1日が始まった。
1月26日、月曜日。

++++++++++++++++++++

●呼吸法

息を吐き出しながら、声を出す。
当たり前の動作である。
しかしちょっと練習すると、息を吸いながらでも、声が出るようになる。
甲高い声になるが、それで話をすることもできるし、歌を歌うこともできる。
つまりこの方法を使うと、息つぎなしで、長~イ歌も歌うことができる。
私の得意芸のひとつである。

子どもたちとは、こんな競争をする。

私「ピーポー、ピーポーと、長く言いつづけた人が勝ち。やってみるか?」と。

最初は、見本で、息を吐き出しながら、「ピーポー、ピーポー」と言って見せる。
そしてつぎに、「ヨーイドン!」で始める。

私は息を吐いて「ピー」と言い、すかさず吸いながら「ポー」と言う。
これを繰り返す。
この方法だと、永遠に(?)、私は言いつづけることができる。

ただし息を吸っていることがわからないように、体をやや丸め、腕組をして
やるのがコツ。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【AD・HD児、今、アメリカでは……?】
●unmanageable class(収拾不能の学級)
by michael, posted on 5/11/2006 at 11:37.

There is a class of young children (6-10) in the children psychiatric where I work. The class is out of control. If a closet is open they crawl in. An open window-they crawl out. They open board and throw them on the floor. There is one child who breaks computers without the slightest hesitation. If two of these kids do not agree then is the answer.
私は現在、精神病棟で働いています。その中に、6-10歳の子どもたちがいる学級があります。その教室は、収拾不能です。クロゼットがあいていると、子どもたちはそこへ入ります。窓があいていれば、そこから出ていきます。ボードをあけて、それらを床に投げつけます。まったくためらわずに、コンピュータをこわした子どももいます。これらの中の2人の子どもが同意しなければ(以下、意味不明)……。

The Dr. feels that there are no medications that can address their problems. They are too damaged or too young. Each one of the children has learning and psychological pathologies and at least 5 of the 6 children are mildly retarded. This statement is based on psychological testing. So far I have not seen the class participate appropriately for longer than five minutes.
医師は、これらの問題を解決するための医薬品はないと感じています。彼らはあまりにも障害の程度がひどく、若すぎます。それぞれの子どもは、学習および精神的な病理をかかえていて、少なくとも、6人のうち5人は、軽い障害をかかえています。ここに書いたことは、心理テストに基づいたものです。今のところ、学級が、5分以上、適正に運営されたのを見たことがありません。

There are six children, one new teacher and two staff members in the class. There are always two s for six kids. The staff members in the class are not paras. They are therapy aides and they are not responsible for helping with education. They are there to see that no one gets hurt and that the physical needs of the children are met. I would appreciate any suggestion for working with an incredibly infantile and violent group.
6人の子どもがいます。それに対して1人の新しい教師と、2人のスタッフが付き添っています。6人の生徒にいつもは2人です。教室にいるスタッフは、parasではありません。彼らは、介護ヘルパーで、子どもたちの教育には、責任をもっていません。彼らはそこにいて、子どもたちがけがをしないように、見ているだけか、行動面で助けたりしているだけです。こうした暴力的な学級で、仕事をすることについて、何らかの提案をいただければ、うれしいです。

We need new ideas for management. How can I reinforce the positive behavior I see? How can I extinguish the hitting and kicking? These kids can hurt each other! We have a behavior management plan based on points. It is a system used by the whole hospital. It is used by all the state hospitals. But it does not seem to be working here. ANY IDEAS?
学級運営の新しいアイデアを必要としています。どうすれば、前向きな行動を強化できるでしょうか。殴ったり、蹴ったりすることを消すことができるでしょうか。これらの子どもたちは、たがいに傷つけあっています。この点に関する運営プランはあるにはあります。それはすべての病院で使われているシステムです。しかしここでは役に立っていません。何かアイデアは?

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

disruptive student who cannot focus
by joy kuemmerle, posted on 5/5/2006 at 21:6.

I have a student who has the attention span of about 5 seconds. I constantly have to redirect him and keep him on task, which leaves the rest of my class neglected and free to get off task as well. When I ask him why he constantly gets distracted, he tells me that he had a brain injury and can't help it. I am wondering if there are any tips out there for me whether he had a brain injury or not.
私は、5秒も注意力を集中できない学生をかかえています。常に彼を学習に向けさせなければなりませんが、そうしていると、ほかの子どもたちが、学習から逃げてしまいます。私がどうしてあなたは集中できないのかと聞くと、彼は、ぼくには脳の障害があって、自分ではどうしようもないと言います。彼に脳の障害があるかどうか、それを知る方法はあるのでしょうか。

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●AD・HD児、体力との勝負

こうした子どもと接するときは、まさに体力との勝負。
私も、ずっと、こうした子どもたちの指導をしてきた。
1クラス2人にまで減らして、対応したこともある。
それでも、1~2時間で、ヘトヘト。
小学1~3年生の子どもなら、まだ何とかなる。
しかし4~6年生となると、そうはいかない。
(もっとも、小学3年前後を境として、このタイプの子どもも、
急速に落ちついてくる。
自己管理能力が育ってくるためである。)

「1クラス、6人」とあるが、6人というのは、もとから不可能。
仮にそういう子どもが、12人中、1人いただけで、数か月後には、そのクラスは
バラバラになってしまう。
またその子どもだけを集中的に指導していると、ほかの子どもたちが神経質に
なってしまう。
もちろん「教育」など、どこかへ吹き飛んでしまう。

が、何よりもつらいのは、たいていのばあい、親に、その自覚がないということ。
「何とかしてほしい」と言うだけで、それ以上の協力は、ほとんどない。
そういった子どものかかえる問題点を、理解しようともしない。
「うち(=家の中)では、静かです」とか、「学校の先生と相性が悪いだけです」とか、
言って、子どもをかばったりする。

●制度の問題

ことAD・HD児に関していうなら、それは「教育の問題」ではなく、「制度の問題」
ということになる。
そういう制度を用意しないまま、AD・HD児を、(ふつうの学級)へ押し込むほうが、
まちがっている。
投薬によって、落ちつかせるという方法もとられているが、こうした精神薬の投与には、
慎重であったほうがよい。

治る(直る)とか、治らない(直らない)とか、いう問題ではない。
AD・HD児は、その症状が出ているときは、基本的には、治らない(直らない)。
むしろ幼児~小学3年生の間は、それ以上に、症状をこじらせないことだけを考えて、
その子どもに合った、学習システムを用意するほうがよい。
それ以後は、ここにも書いたように、このタイプの子どもでも、急速に落ちついてくる。

そして高学年(小5、6~中学生)になると、もちまえのバイタリィティが、よい方向
に向き始める。
学習面やスポーツ面で、飛躍的に伸びたりする。
が、無理な学習や、強制、投薬などによって、症状をこじらせると、かえって、その
あと、その影響が長くつづいたりする。
だから「制度の問題」ということになる。

現行の制度には、つぎのような問題点がある。

(1) 親の抵抗……親が、それに抵抗する。「特別学級」イコール、「排除」「差別」と
ととらえる。無知、無学な親も多い。
(2) 強制権がない……学校側に強制権がない。子どもを専門医に診断させることに
ついても、学校側は、あくまでもそれを提案する立場でしかない。

そこで、好ましい制度としては、

(1) 専門医による診断を、就学前に義務づける。その診断結果をもとに、
教師は、行動を開始する。
(2) AD・HD児については、小学3年生までは、ほかの子どもたちと分離し、
別の学級を用意する。アメリカでは、現にそうしている。
(3)(学習)よりも、(運動)を中心にした教育、あるいは(運動を利用した学習)
   に、指導の中心を置く。別のカリキュラムを用意する。
(4)子どもよりも、親への指導を徹底する。「子育て学級」を立ち上げ、親には
   強制的に参加してもらう。

今、多くの学校で、多くの教師たちが悲鳴をあげている。
そうした現実に、社会はもっとすなおに、目を向けるべきではないか。
アメリカのBLOGを読んで、そんなことを感じた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ADHD  AD・HD児 集中力欠如 多動性 子どもの多動 子供の多動 多動児)

*A Dietwoman named Satsuki Katayama

●片Yさつき氏という国会議員

++++++++++++++

片Yさつき氏は、私の選挙区選出の
国会議員である。

その片Yさつき氏が、佐鳴湖の湖畔で
なされた花火大会の会場にやってきた。

従者として、2~3人のカメラマンと
数人の秘書! おかしな連中を連れて
やってきた。

++++++++++++++

 8月11日の夜、佐鳴湖の湖畔で、花火大会が開かれた。私とワイフは、その花火を見に行った。ワイフは夕食も食べず、「屋台のやきそばが食べたい」と言った。そこで大会の本部のある佐鳴湖の南端に行ってみた。みると……。

 そこに何と、あの片Yさつき氏が来ていた。私の選挙区出身の国会議員である。見ると、煌々(こうこう)と照らされた、ライトの中に立っていた。どこかの人と、立って、インタビューらしきものをしていた。私とワイフは、その場を通り過ぎた。

 が、おかしなことに、たいへんおかしなことに、片Yさつき氏が歩くところ、どこへでもそのライトがついていくではないか! カメラで収録するだけなら、ライトをともすのは、インタビューする、その瞬間だけでよいはず。どこのテレビ局でも、そうしている。

 まさに見え見えの演出! 私は腹の中に、言いようのない怒りが充満するのを覚えた。地元では、何ら、活動らしい活動もせず、こういうところに来て、選挙運動用のためだけのパフォーマンスを繰りかえす。

 たまたま焼きそば売り場のところに、知りあいの市会議員の議員がいた。汗を流しながら、焼きそばを焼いていた。

 「あれ、どう思いますか?」と声をかけると、その議員は、こう言った。「ぼくには、関係ありませんから」と。

 私は片Yさつき氏に質問をぶつけるつもりで、彼女のほうへ歩いていった。ここにも書いたように、片Yさつき氏の位置は、すぐわかる。そのあたりだけ、煌々と明るい! 強烈なライトだ。

 片Yさつき氏は、どこかのおばあちゃんと並んで記念撮影していた。私は横に立っているテレビ局の人間とおぼしき男に声をかけた。「これはヤラセですか?」と。

男「ヤラセ? ヤラセではありません」
私「本当にテレビ局ですか・」
男「朝日テレビの者です。2~3時間分、収録しますが、実際に放映されるのは、2、3分ですが……」
私「だったら、そういうのをヤラセというのです」と。

 テレビ局の人間と思ったが、片Yさつき氏の秘書だった。テレビ局(?)の男たちは、これ見よがしに胸に、ひもでつりさげたカードをぶらさげていた。

 私は数歩、前に出て、片Yさつき氏に近づいた。インチキ・インタビュー(まさに「インチキ」と断言してよいのだが)、それが一休止したとき、声をかけるつもりだった。

 「あなたは、『私が土下座すれば、このあたりの田舎者は、(私に)イチコロ』と東京では言っているそうだが、それは事実か」と。

 もし片Yさつき氏がそれを否定したら、「では、あなたは雑誌(諸君)に書かれた記事に対して、抗議なり、そういうことをしたのか」と。

 が、そのときうしろから強く私のワイフが、私のシャツを引いた。「やめましょうよ。あんな女、本気で相手にする価値はないわよ」と。

私「でも、ぼくは許せない」
ワ「みんな無視しているでしょ。冷たい視線を感じないのかしら」
私「そうだね」と。

 その前、片Yさつき氏は、本部のマイクを借りて、5分ほどあいさつらしきものをしたが、拍手はなかった。どこかでブー音すら聞こえた。

私「こういうときだけ、東京からやってきて、あいさつする。ぼくはああいうインチキな選挙運動が許せない」
ワ「そうね」と。

 私が住む地区の子供会にしても、30年前に、私たちがたちあげたもの。会長はS氏。私が会計。それまで子どものリトルリーグ(野球チーム)をいっしょにしていた仲間である。近くの公園で、焼きそばや、フランクフルトを売ったのが、始まりだった。だから今でも、子供会が、毎年より盛大になっていくのを見るたびに、心のどこかで誇らしげに思う。

 そういう会場へ、あとからノコノコとやってきて、「みなさん、こんばんは!」と大声であいさつをする。煌々とライトを照らす手法は、昔、ドイツのヒットラーが用いた手法と同じである。私は、そういうインチキを許さない。

 今まで、片Yさつき氏の実名は伏せて批評してきたが、もうこれからは遠慮しない。

 1年前に書いた原稿を添付します。

+++++++++++

●田舎者はイチコロよ!


+++++++++++++++++++++++

片Yさつき氏は、私の選挙区から選出された、
国会議員である。

ふつうは、こうしたエッセーでは、実名を伏せる
ことにしているが、ここでは、あえて、実名で
書かせてもらう。

雑誌「諸君」の中に、こんな記事があった。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」(片Yさつき談)と!

++++++++++++++++++++++

 06年の8月。先の衆議院議員選挙(05年8月)が終わって、ちょうど1年になる。同じ自民党の城内実氏を僅差で破って、衆議院議員になった。それが片Yさつき氏である。城内実氏は、郵政民営化に反対して、K首相の反感をくらった。

 つまり片Yさつき氏は、城内実氏をたたき落とすために、中央から送り込まれた、刺客ということになる。片Yさつき氏は、財務省主計局主計官(防衛担当)を退官し、静岡県7区から立候補した。

 私が住む、この選挙区で、である。

 その片Yさつき氏について、倉田真由美氏(マンガ家)が、こんな気になる記事を書いている。

 『……片Yさつきさんの地元代議士への土下座は、毒々しさすら漂っていた。謝罪ではない、媚(こび)の土下座は見苦しいし、世間からズレている。未だに「ミス東大→財務省キャリア」という自意識に浸(つ)かり、「謙虚」のケの字もわからないまま、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」と高を括(くく)る。

 そうしたバランス感覚の欠如も、いくら揶揄(やゆ)されても変えない髪型や化粧も、自分が客観視できない、強すぎる主観の表れだ。

 「私いいオンナだから、これでいいの」という思い込みに対して、周りの人間も、もはやお手上げなのだろう』(以上、原文のまま。雑誌「諸君」・05年11月号・P87)と。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」という部分である。本当にそう言ったかどうかは、この記事を書いた、倉田真由美氏に責任を取ってもらうことにして、これほど、頭にカチンときた記事はない。

 片Yさつき氏が、どこかの席で、土下座をして、「当選させてほしい」と頼んだという話は、当時、私も耳にしたことがある。しかしそのあと、東京に戻って、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」と話した部分については、私は知らなかった。

 何が、「田舎者」だ! 「イチコロ」とは何だ! しかしこれほど、選挙民をバカにした発言はない。民主主義そのものを否定した発言はない。そういうタイプの女性ではないかとは疑っていたが、片Yさつき氏は、まさにその通りの女性だった。

 私たちが、田舎者? ならば聞くが、いまだにあちこちに張ってある、あのポスターは何か? あれが都会人の顔か? あれが元ミス東大の顔か? 笑わせるな!

 もしこれらの発言が事実とするなら、私は片Yさつき氏を許さない。片Yさつき氏は、まさに選挙のために地元へやってきて、私たち選挙民を利用しただけ。しかも利用するだけ利用しておきながら、その私たちを、「田舎者」とは!

 そして先の選挙からちょうど1年になるが、片Yさつき氏が、この1年間、この地元に帰ってきて、何かをしたという話を、私は、まったく知らない。念のためワイフにも聞いてみたが、ワイフも、「知らない」と言った。ワイフの知人も、「知らない」と言った。

 つまり、片Yさつき氏は、選挙のために、私たちを利用しただけ。もっとはっきり言えば、自己の名聞名利のために、私たちを利用しただけ。

 しかしこれがはたして、民主主義と言えるのか? こんな民主主義が、この日本で、まかり通ってよいのか?

 ある日、突然、中央から、天下り官僚がやってくる。それまで名前のナの字も知らない。もちろん地元のために、何かをしてきた人でもない。そういう人が、うまく選挙だけをくぐりぬけて、国会議員になり、また中央へ戻っていく! どうしてそういう人が、地元の代表なのか?

 そののち片Yさつき氏は、派手なパフォーマンスを繰りかえし、政界ではさまざまな話題をふりまいている。しかしそれらは、あくまでも、自分のため。私たちの住むこの地元の利益につながったという話は、まったく聞いていない。少なくとも、私は、まったく知らない。

+++++++++++++

同じようなテーマで書いたエッセー
がつぎのものです。

先のエッセーの直後に書いたもの
です。

+++++++++++++

●仕事開始!

 夏休みも終わって、仕事開始。とはいっても、これとて大きな変化はない。淡々と、その日のルーティーン(茶飯事)をこなすだけ。

 やりたいことは、いろいろある。しかしどれも、時間がかかることばかり。そのため、とりかかる前に、何かと、おっくうになる。

 そういえば、昨日(19日)は、頭にカチンとくることがあった。あの片Yさつき氏(静岡県7区から立候補、当選)のことだ。

 片Yさつき氏は、この選挙区(地方区)で敗れても、全国区の比例区で当選する段取りになっていた。だから当時から、(熱意に欠ける選挙運動)が、問題になっていた。その片Yさつき氏が、東京へ戻ってから、こんなことを言っていたという。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(倉田真由美氏指摘・「諸君」)。

 ここまで書いて思い出したことがある。昔、中央官庁で部長をしていた知人が、私にこう言った。

 「定年退職をしたら、郷里の長野県のS市に帰って、市長でもしようかな」と。「……でも」というところが、恐ろしい!

 片Yさつき氏の発言は、その部長の発想の延長線上にある。何が、市長だ! バカヤロー!

 何でもかんでも、「東京からきた」というだけで、ありがたがる田舎根性。それはたしかに、この浜松市にもある。私は、否定しない。

 しかしその田舎根性を逆に利用して、中央からやってくる政治家たち。私は、そういう政治家というより、そういう政治家を生み出す、この日本のシステムに腹が立つ。

 わかりやすく言えば、日本の民主主義も、この程度。みなが、何かに動かされるまま、動かされてしまう。自分で、考えようとしない。自分で考えて、行動しようとしない。

 近く、もう少し涼しくなったら、この問題に取り組んでみよう。今は、暑くて、脳みそも、だらけがち。それに明日から、仕事が待っている。まず、私の生活を優先させなければならない。

 がんばろう! がんばります!
(2006年8月記)