Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, December 30, 2010

●子育てポイント

電子マガジン(2011年1月号)





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 1月 31日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもを非行から守る法】

●時事・雑感(Yahoo Newsより)


●性描写漫画の規制条例が成立(東京都)(注※1)


 石原都知事が言っているように、こんなことは、当たり前。
石原都知事は、こう言った。「当たり前。日本人の良識だ。
子どもにあんなものを見せられるのか」と。


ただし今となっては、焼け石に水。
手遅れ。
子どもたちの世界は、さらにその先に進んでいる。
漫画やアニメではなく、そのものズバリのDVDを見ている。


 また近くに高校があるが、日暮れ時になると、目のやり場に困る。
高校生たちが、木陰の隅のあちこちで抱き合っている。
少し前までは、まだ隠れながらしていた。
が、今は、堂々というか、車のライトに照らされても、平気。


 で、その話を、ある中学校教師(中高一貫校)に話すと、こう言った。
「ここ数年、さらに低年齢化してますよ」と。
驚いていると、「放課後なんか、使われていない部屋や道具置き場は、ラブホテル
みたいです」とも。
ほとんどの男子高校生は、コンドームを持ち歩いている。
携帯電話と同じ。
必携品。
「何も今さら……」というのが、私の実感。


 こうした規制は、20年近く前、「PT」という女子向き雑誌が、
国会で問題になったとき、しておくべきだった。
が、これに対して、いくつかの団体が、猛反発。
「表現の自由、言論の自由の侵害」「捜索活動を萎縮させる」と。


 しかしこういうのを、表現の自由とは言わない。
言論の自由を盾に取って守らなければならない、自由でもない。
むしろ逆。
表現の自由とか、言論の自由とか、そういう言葉を使って、自分たちの
醜い商業主義をカモフラージュしているだけ。


 日本には、モラル、哲学、宗教がない。
ないから、法律で規制するしかない。
たとえば援助交際にしても、話題にのぼらなくなったのは、それがなくなったからでは
ない。
あまりにも日常的になり過ぎたからにほかならない。
それがわからなければ、その時間帯(夕暮れ時)に、コンビニをのぞいてみること。
コンビニが待ち合わせ場所になっている。
携帯電話を片手に、女子中学生や高校生が、あやしげな車につぎつぎと乗り込んでいく。


 世界でも、ここまで退廃した国は、そうはない。


+++++++++++++以下、Yahoo Newsより++++++++++++


(注※1)【性描写漫画の規制条例が成立】=付帯決議で「慎重な運用を」


 過激な性描写のある漫画やアニメの販売規制を目的に、東京都が12月議会に提出してい
た青少年健全育成条例改正案が、15日の都議会本会議で民主、自民、公明各党の賛成多数
により可決、成立した。ただ、「創作活動を萎縮させる」との指摘もあるため、条例の慎重
な運用を求める付帯決議も行った。条例は来年7月1日までに施行される。共産党と生活
者ネットワーク・みらいは反対した。


+++++++++++++以上、Yahoo Newsより++++++++++++


●では、どうすれなよいか


 こうした風潮を改めるには、つまりあなたの子どもをこうした風潮から守るためには、
方法は、ただひとつ。
子どもに心の抵抗力をつける。
方法は簡単。
子どもに夢と希望をもたせ、その先に目標をもたせる。


 わかりやすく言えば、子どもが好きなことをできる環境を用意する。
それについては、何度も書いてきたので、その原稿を、このあとに添付する。
が、残念なことに、現在の教育環境は、子どものもつ多様性に答えるしくみになって
いない。
「学校以外に道はなく、学校を離れて、夢や希望を育てる方法もない」。
どうして欧米がみなしているように、教育を自由化しないのか。
多様な教育方法を認めないのか。
たとえばドイツやフランスでは、子どもたちはみな、クラブに通っている。
いろいろなクラブがある。
英数国社理のような基本科目は、学校で教えればよい。
しかしそれ以外の科目は、民間に任せればよい。


 私が言う「自由化」というのは、それをいう。
何も学校を解体せよと言っているのではない。


+++++++++++++++


心の抵抗力について書いた
原稿をさがしてみました。
2007年10月に書いた原稿です。


+++++++++++++++


【心を支える、3つの物語】
2006年5月期、講演レジュメ(要旨)より


●私が「私」であるためには、3つの柱が必要です。


(1)(したいこと)を、現実に(している)という実感、つまりは自我の同一性
(2)「いつも、私は、私でいられる」という連続性、一貫性
(3)他者との関係で、いつも良好な人間関係をもつことができるという社会性。


+++++++++++++++++++


  「したいことをする」という姿勢の中から、夢や希望、それに目標が生まれます。自
分の描いた自己概念と、現実の自分が一致している。それが「私」でいるための第一条件
ですね。
  つぎに、どんなばあいも、私は、自分でいられる。動じない。それが「私」というこ
とになります。
  また「私」は、いつも、社会というカガミの中で、映し出されます。そもそも社会性
をもたない「私」は、私ではないということです。
  今回は、これら3つの柱を中心に、時間が許すかぎり、私の個人的な過去もふまえて、
子どもの心を伸ばす、3つの物語を、みなさんに、お伝えしたいです。どうか、よろしく
お願いします。


+++++++++++++++++


【意外とシンプルな、心をはぐくむメカニズム】


●(自分のしたいことをする)……それが子ども自身を伸ばす原動力となります。
●(したいこと)をしている子どもは、生き生きとしています。夢や希望もそこから生まれ、
その先には、目標が生まれます。
●子どもを守るのは、子ども自身の中の、(心の抵抗力)です。目的がしっかりしている子
どもは、その抵抗力も強くなります。

 
***************************


●同一性の危機(1)


万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめ
を、非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしている
こと)の間に遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子
どもの耐性にもよるが、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの
自我の同一性は、危機に立たされる。


●夢・希望・目的(2)


夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のした
いこと)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感がある
とき、そこから生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。
そしてサッカーの練習をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」
とか、「パン屋さんになる」とかいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力(3)


同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)
を、別のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。ある
いは「したくないが、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、
忍耐力ということになる。子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。
この忍耐力は、幼児期までに、ほぼ完成される。


●同一性の崩壊(4)


同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をし
たいか、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私
は何だ」「私はだれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それ
は「混乱」というような、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべ
きもの。当然、子どもは、目的を見失う。


●顔のない自分(5)


同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大き
く分けて、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻
撃型)。(2)顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。
ほかに、同情型、依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースで
は、そのまま自己否定(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力(6)


暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さ
と)しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)
をつくろうとする。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐
れれば、怖れるほど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子ども
の心理的のメカニズムは、こうして説明される。


●子どもの自殺(7)


おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあ
いは、(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)
を主張する。近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットする
ことで、自分を主張し、他人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(し
ょくざい)のために、リストカットする」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。


●自虐的攻撃性(8)


攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に
向って攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝
から寝るまで勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでい
るのではない。「勉強」という場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかり
やすい。近年、有名になったスポーツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性(9)
 

(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子
どもの環境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分が
していること)を一致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が
一致している子どもは、夢や希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちつい
ていて、どっしりとしている。抵抗力もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力(10)


「私は~~をしたい」「ぼくは~~する」と、目的と方向性をしっかりともっている子ども
は、心の抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年
から中学校にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同
一性が崩壊している子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘い
があると、スーッとその世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる(11)


たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、
それに答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみまし
ょうか」「お花の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。
が、たいていの親は、この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言
う。「花屋さんも、いいけど、ちゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器(12)


子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学
会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸
ばすのは、親の義務と、心得る。


●役割混乱(13)


子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時
に、「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間
にか、自分の周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸
ばすコツは、その役割形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役
割混乱」を起こし、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)(14)


しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんば
っていた子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。
しかし幼いときに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロ
セスは、そのまま残る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入
る。中身はかわるかもしれないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんば
り始める。


●進学校と受験勉強(15)


たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的
になりえたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのも
のが崩壊してしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考え
やすいが、子どもにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好
きな)サッカーをやめて、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢
をつぶす。「つぶしている」という意識すらないまま……。


●これからはプロの時代(16)


これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでた
プロのほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君
は何ができるか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生
きと、自分の人生を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだ
けは、だれにも負けない」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸
ばす。


●大学生の問題(17)


現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んで
いる。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力
になってしまったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、
荷おろし症候群といって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、
誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成(18)


子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在しているこ
と)に一致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまら
ない仕事」「そんなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子ども
が、「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。
こういう育児姿勢が、子どもを、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司●
同一性の危機●夢・希望・目的●子どもの忍耐力●同一性の崩壊●顔のない自分●校内暴力●子
どもの自殺●自虐的攻撃性●自我の同一性●心の抵抗力●夢や希望を育てる●子どもを伸ばす
三種の神器●役割混乱●思考プロセス(回路)●進学校と受験勉強●これからはプロの時代●
大学生の問題●自我の同一性と役割形成)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 心の抵抗力 子どもを非行から守る法 子どもの心を守る。)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●はやし浩司 2010-12-16

●寒い

++++++++++++++++++

今朝も、ふとんの中で、1時間ほど、
時間をつぶした。
寒かった。
が、ほんのりと外が明るくなったころ、
ふとんから飛び出した。
時計を見ると、すでに午前7時。
そのままウォーキングマシンへ。

このところ朝は、30分と決めている。
が、30分も運動すると、体中が汗ばむ。
ついで額から汗が吹き出る。

そうそう今朝は、その前にハナ(犬)に、
牛乳を温めて与えた。
白内障が進んでいるためか、目が白い。
が、そこは猟犬。
嗅覚だけはすぐれている。
庭に肉団子を数個放り投げてやると、
臭いだけで、それを見つけて食べる。
すごいね!

+++++++++++++++++

●日課

 パソコンに電源を入れながら、まず目薬をさす。
3種類、いつも用意してある。
どれがどれというわけではないが、色もちょうど3種類。
ライオン社のスマイル40(緑)、ロート社のクールEX(青)、滋賀県製薬会社の
B12(赤)。
その日の気分に応じて、使い分けている。

(ところで「滋賀県製薬会社」という会社名は、いいのかな?
こういうケースで、民間の一会社が、「県」という文字を入れるのは、たしか禁止のはず?
公的機関と誤解される。
あるいは紛らわしい?)

 そのあとメールに目を通して、返事を書く。
今朝はアメリカに住む二男と、オーストラリアの友人からの2通。
それがすむと、ニュースに目を通す。
昨日のアクセス数を調べる。

 おもむろに原稿を書き始めるのは、そのあと。
今朝は、東京都が可決した、性描写漫画の規制条例についての原稿をまとめた。

●「滋賀県」

 原稿を書き終え、一服したところで、「滋賀県製薬会社」なる会社に電話を入れてみた。
その前にインターネットを使って調べてみると、「昭和18年設立」とあった。
そのころから、その会社は、「滋賀県」と、「県」の文字を入れていたのだろうか?

 電話を入れると、女性が応答してくれた。
「県という文字を入れるのは、静岡県ではきびしく規制されていますが、滋賀県では
だいじょうなのでしょうか」と聞いた。
それについてその女性は、「私にはわかりません」「折り返し、わかるものに電話させます」
と。
それで終わってしまった。

 昭和18年には、規制が甘かったのかもしれない。
しかしこんなことは、現在は、許されない。
たとえば「静岡県運送会社」という会社があったとする。
名前を聞いたら、だれでも、静岡県という県が運営している公的な運送会社と思って
しまう。
「浜松市幼児教室」でもよい。
名前だけを見たら、「市」が運営している幼児教室と思ってしまう。

 電話をくれるということだから、もう少し待ってみる。

●朝食のとき

 朝食のときワイフと、名古屋市議会のゴタゴタ劇が話題になった。
新聞を読んでも、内容がよくわからない。
市長と市議会が、はげしく対立しているらしい。
少し前、名古屋市民も、すごい市長を選んだものと、感心していた。
何しろ、名古屋弁、丸出し。
名古屋市民の代表ということはよくわかる。
が、それも度を超すと、イヤミに聞こえる。

市民向けにはそれでよいとしても、外の世界、つまり全国に向けては、やはり
きちんとした標準語を使ってほしい。
テレビカメラが向けられたようなとき、など。

 オーストラリアの政治家なども、内の世界ではオーストラリア英語を使う。
しかし公的な場では、きちんとしたクイーンズ英語を使う。
それが知性の証(あかし)にもなっている。

 日本の政治家も、外国人にマイクを向けられたら、英語で答えたらよい。
それがその政治家の知性ということになる。

 今回の名古屋市のゴタゴタ劇の内容については、私にはよくわからない。
どうしてこうまでこじれてしまったのだろう。
あとでゆっくりと、それについて調べてみたい。

●東京と名古屋

 私が住む浜松市は、東京よりも、名古屋に近い。
浜松市から名古屋市まで、直線距離で、80キロ。
浜松市から東京都まで、直線距離で、210キロ。
グーグル・アースのスケール(ものさし)を使って調べてみた。

 が、浜松市は、東京都の文化圏に入る。
東京のほうばかり、目が向いている。
だから「東京から来た」というだけで、何でもかんでもありがたがる。
悲しき田舎根性かな。

 一方、「名古屋から来た」といったときには、ほとんど相手にされない。
浜松市に昔から住んでいる人には、それがわからないかもしれない。
しかし私のように、岐阜県という、名古屋市の文化圏から来たものには、それがよく
わかる。

 たとえば転勤族の人たちにしても、そうだ。
東京から来た人は、いつも浜松市を「田舎」(=下)に見る。
あの片山S氏(浜松市選出の国会議員)にしても、私たちを「田舎者」(雑誌「諸君」)
と呼んだ。
つまり、威張っている。

 こういうのを中央集権意識という。
奈良時代の昔から、日本人は、その中央集権意識が、骨のズイまで叩き込まれている。
列車にしても、方向によって、「上り列車」とか「下り列車」とかいう。
こういうバカげた言い方は、もうやめにしたらよい。
何も東京だけが日本ではない。
東京人だけが、文化人でもない。
おかしな上下意識が、こんなところにも、はびこっている。

(追記)

 たった今、滋賀県製薬会社という会社から電話が入った。
いわく、「昭和18年という戦時中から、この名前を使っている。
滋賀県とは、関係ありません。
滋賀県から行政指導が入ったということもありません」と。

 ……ということで、では、みなさん、おはようございます。
今日の予定。
ワイフと、午後に歩いて教室に向かう。
運動のため。
ほかに、大きな予定はなし。


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●新家族主義






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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【歌をみなの前で、ひとりで歌う】

何でもないことのようですが、みなの前で、ひとりで、立って歌を
歌うというのは、幼児にとっては、たいへんなことです。
またそれができる子どもは、少ないです。

で、今日は、歌を歌うというレッスンをしてみました。
みなが、「歌いたい」「歌わせろ」と言うようになるよう、指導してみました。
結果は、大成功でした。
最初は、「歌いたくない」と言っていた子どもも、中盤くらいから、「歌いたい!」と
自分から言うようになりました。
その変化を、どうかご覧ください。

なおこうして歌うことによって、子どもは、発表力、発言力を身につけていきます。
幼児のこの時期に、そういう力が一度身につくと、一生の財産になります。

またこの時期に、それができる子どもは、その後、心を開放できるようになります。
何でもないことのようですが、みなの前で、ひとりで、立って歌を
歌うというのは、幼児にとっては、とても大切なことです。

●年長児クラス(12月13日)

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type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always"
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value="http://www.youtube.com/v/fYjp8EaeDik?hl=ja&fs=1">name="allowFullScreen" value="true">value="always">src="http://www.youtube.com/v/fYjp8EaeDik?hl=ja&fs=1"
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value="http://www.youtube.com/v/YK0eCkgmxhY?hl=ja&fs=1">name="allowFullScreen" value="true">value="always">src="http://www.youtube.com/v/YK0eCkgmxhY?hl=ja&fs=1"
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always"
allowfullscreen="true" width="425" height="344">


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児 独りで歌を歌う ひとりで歌を歌う 幼児の発表力 発言力)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●家族主義の限界(新・家族主義に向かって)What is Family for us?

++++++++++++++++++

家族主義にも条件がある。
家族主義が、ベストというわけではない。
問題がないわけではない。

「核家族」からさらには、「カプセル家族」へ。
それがさらに極限化した家族主義。
もしそれを家族主義と呼ぶなら、
家族主義など、クソ食らえ(尾崎豊)!

私が説く「家族主義」には、2つの条件が
ある。

(1)家族に、両親を加えること。
(2)「私の住む世界だけが大切」という壁を
取り払うこと。

それが家族主義ということになる。

+++++++++++++++++++

●利己主義としての、家族主義

 利己主義がワクを広げる。
その中に家族を取り込む。
多くの人たちは、その状態を、「家族主義」と誤解している。
しかしそれは家族主義ではない。
私が20年に渡って説いてきた、家族主義ではない。

 「自分だけがよければ、それでいい」と。
そこに家族が入ると、「私の家族だけがよければ、それでいい」となる。
平たく言えば、個人的な利己主義が、少しワクを広げて、家族主義になっただけ。
「家族主義」という言葉が利用されただけ。

●出世主義から家族主義へ

 当初、私は日本にはびこる出世主義を批判した。
その反対側に位置する「主義」として、「家族主義」を説いた。
とくに団塊の世代は、「家族よりも仕事」と考えた。
戦後の経済高度成長の荒波の中で、家族を犠牲にした。
が、2000年を境に、日本人の心は大きく変化した。
「サイレント革命」という名前を使った人もいる。

 「仕事より家族が大切」と考える人が、アンケート調査をするたびに、多くなった。
40%から50%に。
50%から80%に。
1年単位で、変化した。

 こうした変化は当然であるとしても、ここにきて、大きな曲がり角にやってきた。
「家族主義」が誤解され、変形した。
それが「利己主義的家族主義」ということになる。

●親不在の家族主義

 今、若者たちの中で、「将来、親のめんどうをみる」と考えている人は、驚くほど少ない。
内閣府(総理府)の調査結果を見るまでもない。
それについては何度も書いてきた。

 若い人たちがいう「家族主義」の中には、「両親」は含まれていない。
彼らが第一に考える「家族」というのは、自分たち夫婦と、その子どもたちだけの
世界をさす。
核家族からカプセル家族へ。
人間関係だけではない。
価値観も、自分たちの中だけで熟成させる。
世代から世代に連続する価値観の橋渡しをしない。
「カプセル家族」という名前は、そういうところから生まれた。

 が、これは若人たちにとっても、不幸なことである。
「私たちは古い世代とはちがう」と言いながら、古い世代がしてきた経験や、得てきた
知恵を生かさない。
そしてすべてをゼロから始めてしまう。

 私たちの世代の60%が、やがて独居老人となり、孤独死、あるいは無縁死をする。
そういう運命にある。
それはそれで構わない。
自業自得と心得る。
しかし自分たちもまた、同じ道をたどることになる。
それに気づいていない。
「私たちだけはだいじょうぶ」と。
それがいかに幻想であるかは、もう少し時間がたってみるとわかる。

●利己主義

 若い人たちがますます利己主義的になってきている。
私はそれを強く感じている。
あなたも心のどこかで、それを感じているはず。
自分のことしか考えない。
自分の利益しか考えない。
それが高じて、自分さえよければ、それでよいと考える。
またそれでもって、「個人主義」と誤解する。

 誤解がないように書いておきたい。
個人主義というのは、生き様の問題。
「私は私」と、自分の生き方を貫く。
それが個人主義。

 その「自分さえよければ、それでよい」という世界に、家族が加わる。
夫や妻、子どもが加わる。
そこで「私たち家族がよければ、それでよい」となる。
しかし繰り返すが、これは家族主義ではない。
利己主義という。
利己主義をごまかすために、家族主義という言葉を使ってはいけない。

●家制度

 昔ながらの「家制度」にどっぷりとつかっている人には、それがわからないかもしれ
ない。
しかし家制度ほど、利己主義でかたまった世界はない。
「家を守る」ということは、同時に、他者の侵入を徹底的に排除することを意味する。
「家」がもつ権限と利得にしがみつく。
「家」の一員であるかどうかで、明確な差別意識をもつ。

 中には「家制度など、残っていない」と主張する人がいる。
本当にそうか?
そう断言できるか?
あと数週間で2011年になろうという今、いまだに家制度を意識として引きずっている
人は、ゴマンといる。
私の実家がそうだった。
私の親類がそうだった。
地方の町や村へ行くと、いまだに血縁だけで動いているところは、いくらである。

 方向はまったく別かもしれないが、この家制度と、利己主義的な家族制度は、どこか
よく似ている。
自分の周囲に厚い壁を作り、その中だけで生きている。
一見、居心地のよい世界だが、その分だけ風通しが悪い。
悪い分だけ、思想が極端化しやすい。

 たとえば子どもの世界。
同じ過保護、過干渉、過関心でも、カプセル家族の中では、それが極端化しやすい。
子どもに現れる症状も、当然のことながら極端化する。

●家族主義の是正

 何ごとも「中庸」が肝心。
過ぎたるは、及ばざるがごとし。
家族主義も、度が過ぎると、かえって弊害が現れる。
その2つが、(1)世代間の断絶と、(2)極端な利己主義化。

 自己愛者といえば、個人の問題。
それが家族にもワクを広げることがある。
言うなれば、「自己愛家族」ということになる。
言い忘れたが、自己中心性が極端化した状態を、「自己愛」という。
恥ずべきことであって、何ら自慢すべきことではない。
では、どうするか。

●意識改革

 家族主義というのは、意識の問題。
それだけに、その意識を改革するのは、むずかしい。
「改革」というよりも、自分でそれに気づくまでがたいへん。
脳のCPU(中央演算装置)にかかわる問題だけに、ほとんどの人は、自分を基準にする。
つまり「私は正しい」という前提で、ものを考える。
だから気づかない。

 自分が利己主義的であるかどうか。
それを知るためには、2つの方法がある。
ひとつは、他人と比較してみる。
もうひとつは、絶え間ない自己改革を繰り返し、10年単位、20年単位で、自分を
振り返ってみる。
早ければ早いほど、よい。
若ければ若いほど、よい。
ある程度の年齢になると、自己改革そのものがむずかしくなる。
「私は正しい」と思う刀で、そうでない相手を、「まちがっている」と言って切り捨てる。
ある男性は、私にこう言った。

「無料で原稿を読ませている? 道楽でも、私にはそんなことはできません」と。

 ものを書くということは、自分の経験を切り売りするようなもの。
自分の命を削りながら、それを収入に換えていく。
が、その人は、私がそれを無私無欲でしていることに、驚いていた。

(ただし誤解がないように、断っておく。
いくら無料でも、無断転載、盗用、盗作は、ぜったいに許さない!)

 しかしこうした心境に到るまでには、いろいろあった。
簡単な道ではなかった。
私は人一倍、利己主義的であった。
若いころは、お金のためにものを書いた。
それが当たり前という世界で、生きていた。

 家族にしてもそうだ。
最近になってやっと、私と世間を隔てる壁を取り払うことができるようになった。
(最近だぞ!)
そこにいる子どもたち(生徒たち)が、私の息子や娘、孫に見えるようになった。
言い替えると、意識を変えるということは、それくらいむずかしい。
アインシュタインは、常識について、「常識などというものは、その人が18歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と言った。
その偏見を取り除くのは、さらにむずかしい。

●終わりに

 金融街で、金融ビジネスをしている人には、ボランティア活動をしている人が
バカでアホに見えるかもしれない。
しかしその一方で、ボランティア活動をしている人には、金融街で血眼(ちまなこ)に
なっている人が、バカでアホに見える。

 意識というのはそういうもの。
立場によって、相対的に変化する。
そのひとつが、家族主義ということになる。

 あなたは今、どのような家族像をもっているだろうか。
家族はどうあるべきと、考えているだろうか。
一度、ここで立ち止まって考えてみてほしい。
よりよい家族をもつために。
より太い家族の絆で結ばれるために。
(あるいは私のように失敗しないため……と書いた方が、正直なところかもしれない。)

 今朝は、家族主義について考え方を訂正してみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 家族主義 新家族主義 新・家族主義 家族主義の訂正、悪玉家族主義、
善玉家族主義)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●クリスマス

 クリスマスが近くなってきた。
この5~6年、ワイフと2人だけで、クリスマスを祝っている。
正月も、似たようなもの。
それを今朝、ワイフに話すと、ワイフはこう言った。

「別にいいんじゃな~い。私たち、クリスチャンというわけでもないから」と。

 ワイフは、どこまでも楽天的。
うらやましい。
「2人だけというのも、さみしいね」と追い打ちをかけると、さらにこう言った。
「私の友だちなんかも、みんな、そうよ」と。

 もっともその分だけ、教室での行事が多くなる。
忙しくなる。
年末には、生徒たちを連れて、近くのレストランへ行くことにしている。

 で、スケジュールを見ると、12月24日は金曜日。
この日の最終クラスは、小4クラス。
私がいちばん大切にしているクラス。
このクラスのあとに、クリスマスパーティができる。
決定!

 私には、すばらしい友だちが、たくさんいる。
その友だちと、パーティをすればよい。
ものごとは何でも、前向きに考えよう!


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●友情(はやし浩司 2010-12-14朝記)

++++++++++++++++++

私はひとりぼっちではなかった。
それを知ったとき、熱い涙が、とめども
なく流れた。

++++++++++++++++++

●友の死

 この広い世界で、自分の心の内を話せる友人は、私のワイフだけ。
この浜松市では、ワイフだけ。
今は、そういう状態。
学生時代からの友人の1人は、2年前に他界した。
それほど親しくはなかったが、何かにつけ、彼が近くにいるというだけで、心の支えに
なっていた。

 もう1人いたが、この12月1日(2010年)に、同じく他界した。
だれも予想すらしなかった、突然の死だった。
それまでは毎日のように、その朝に書いた原稿を、メールで送っていた。

 ほかに3人の息子たちがいるが、「心の内」を話すといっても、どうしても愚痴になって
しまう。
息子たちにしても、不愉快だろう。
老後の不安を口にしただけで、顔をそむける。
何も、めんどうをみてほしいと言っているわけではないのだが……。

●老後

 そんな中、最近ワイフがよくこう言う。
「オーストラリアへ移住しない?」と。
移住といっても、数年、あるいはもう少し長く、オーストラリアに住んでみないか、と。
ワイフ自身のためというよりは、私のことを考えてのことらしい。
このところずっと落ち込んでいる。
気分が重い。
老後のことはできるだけ考えないようにしている。
が、いつも心から離れない。
打ち寄せる渚(なぎさ)の波のように、折につけ、心を塞(ふさ)ぐ。
ザザー、ザザーと。

 それに……。
ワイフは、こう言う。
「人生も短いのだから、したいことをしましょうよ」と。
そういう話の流れの中で、「オーストラリア」という名前が浮かんできた。

●解放

 オーストラリアといっても、今は大きく変わった。
私の知っているオーストラリアは、昔のオーストラリア。
あのメルボルン市(当時の人口は300万人)にでさえ、日本人の留学生は、私、
1人だけだった。
そんな時代のオーストラリア。
が、今は、多くのアジア人たちが、ひしめくように住んでいる。
犯罪も多くなり、男性でも夜のひとり歩きは危険になったという。

私「今のオーストラリアは、ぼくが知っているオーストラリアとはちがうよ」
ワ「知っているわ」
私「向こうの人は、日本人といっても、ほかのアジア人と区別しないよ」
ワ「知っているわ」
私「それでも、お前は、オーストラリアに住みたいのか?」
ワ「……あなたのためよ」と。

 私の夢は、いつかオーストラリアに移住することだった。
しかしそれができなかった。
郷里に母と、病弱な兄がいた。
生活力が、ほとんどなかった。
が、2年前、兄が。
つづいて母が、他界した。

 私はやっと「家」から解放された。

●孤独

 私は孤独だった。
ずっと孤独だった。
今も、孤独。
「友」と呼べるような人は、ワイフしかいない。
それが不満というのではない。
私にとって老後の不安というのは、ワイフのいない世界をいう。
もしワイフが先に逝ってしまったら、私はどうなるのか。
どうしたらよいのか。

 親類といっても、面従腹背。
つきあいといっても表面的なもの。
家庭の事情を話すと、その話は、1、2週間のうちに、みなに伝わってしまう。
みながみな、私に好意的というわけではない。
いつも私が話す話は脚色され、どこかでゆがめられてしまう。
たとえばいとこの1人に、(いとこといっても、60数人のいとこがいるが)、今日、
電話で、「最近、腰がこわばることがあって、痛い」と話したとする。
すると1週間後には、別のいとこから、こんな電話が入る。
「浩司君、あんたは車椅子に乗っているのか?」と。

 言うなれば、私の親類たちは、自分を「家」という砦で囲み、その中だけで生きている。
その「ワク」から外れる者を許さない。
昔ながらの利己主義的な「家意識」。
それが亡霊となって、そのまま生きている。
つまり私が住む世界ではない。

●限界

 私とワイフが出した結論は、こうだ。
もし来年(2011年)、仕事に限界を感じたら、オーストラリアへ行こう、と。
私も来年64歳になる。
自由業に定年はないとはいうものの、しかしここ数年、限界を感ずることが多くなった。
少子化に不景気。
加えて私の教え方は、どこか古典的。
古臭い。
今の若い親たちには、受けない(?)。

私「でもね、ぼくは慎重の上に、慎重に考えたい。住んでみたが、やっぱり日本のほう
がいいというのでは、困る。若いときならまだいい。しかしこれからはやり直しがきか
ない」
ワ「……」
私「行くのは簡単なこと。しかし向こうで、ぼくは何をすればいいのかな。毎日、景色
だけを見て過ごすわけにはいかない。仕事をしたい。が、ぼくの年齢では無理」

 私はそういうとき、すぐ「死に方」を考えてしまう。
死ぬのがこわいというのではない。
死ぬまでのプロセスがこわい。
どう死ぬか。
つまり「死に方」。
それを考えると、こわい。

ワ「じゃあ、こうしたら……。つまりね、とにかく1週間だけでも行ってみるのよ。
2人で、住めるかどうか、確かめてきましょうよ」
私「そうだな。それがいいかな。それを何度か繰り返したあと、その後、どうするかを
決める……っていうことだね」
ワ「そうよ……」と。

●準備

 パスポートの準備を始めた。
が、これは第一歩……というより、ほんの一部。
ほかの国とはちがう。
ただの旅行ともちがう。
私にとってオーストラリアというのは、そういう国。
私の青春時代、そのもの。

 あの時代はたしかに私の出発点だった。
すべてがそこから始まった。
が、今、この40年を振り返ってみると、あの時代が、そのまま私のゴールになって
いるのを知る。
私の人生のすべてが、加齢とともに、そのゴールに向かい動き出している。

 ……あの時代が、つぎつぎと私の脳裏に浮かんでくる。
しかも遠い昔の日々としてではなく、つい昨日のように浮かんでくる。
「オ~イ」と声をかければ、すぐそこから返事が返ってくる。
この空の向こうには、同じ別の空があって、そこに私の青春時代がある。
私はあの世界で、1日1日を1年のようにして生きた。
ウソでも誇張でもない。
本当に、1日1日を、1年のように長く感じた。

 オーストラリアへ行くということは、いつもそうだが、私にとっては、その青春時代
に戻ることを意味する。
それなりの心の準備なくして、私にはオーストラリアへ行くことはできない。

●友情

 で、昨日、2人の友人にメールを出した。
メルボルン市に住む、D君。
それにアデレードの近郊の町に住む、R君。
軽い気持ちで、連絡した。
少なくとも、メールでは、そう書いた。
「来年X月XX日、1週間の予定で、オーストラリアへ行く」と。

 簡単な予定も書いた。
アデレードで2泊、列車の中で1泊、そしてメルボルンで2泊、と。
往復の飛行機の中で、1泊ずつ過ごす。
すかさず、返事が入った。
が、その返事を読んだとき、私の心の内から熱いものが、こみあげてくるのがわかった。
「私は、ひとりぼっちではなかった」と。

 D君は、ちょうどそのころ、中国→韓国→日本への旅行を計画していた。
「ヒロシがオーストラリアへ来るなら、それをとりやめる」と。
R君は、「小型飛行機でアウトバック(荒野)を案内する」と。
それに「アデレードからメルボルンまで、車で行こう」とも。

 40年前と何も変わっていなかった。
オーストラリアには、私を迎えてくれる人たちがいる。
それを知ったとき、大粒の涙が、とめどもなく頬を伝わった。

●「♪Rosin the Beau(ロウザン・ザ・ボー)」

 学生時代、そのD君が、こんな歌を教えてくれた。
アイルランドのドリンキング・ソング(民謡)である。
私はその歌を、全部、ソラで歌える。
が、歌の題名が長くわからなかった。

 アイルランドへ行くという人が近くにいると、いつもその人にこう頼んだ。
「もし、こんなメロディ(歌詞)をどこかで聞いたら、題名を調べてきてほしい」と。
そんなこともあって、いつだったか、SKさん(前S大学教授)が、アイルランドで
CDを何枚か買ってきてくれた。
が、その中には、その歌はなかった。

 が、簡単なことだった。
旅行の連絡をするとき、その歌のことを書いた。
「君が教えてくれた、あの歌の題名を教えてほしい」と。
するとD君が、同じメールの中でこう教えてくれた。
「♪Rosin the Beau(ロウザン・ザ・ボー)だよ」と。

 30年もさがしつづけてきた歌が、たった1日でわかった。
1日というより、一瞬!
そのあっけなさに、驚いた。
「♪Rosin the Beau(ロウザン・ザ・ボー)」!

http://www.youtube.com/watch?v=kI8bPVw3scA&feature=related

♪オレは、この世界中を旅してきた。
 今、オレは、もうひとつの世界に行く。
 オレにはわかっている。
 そこでは親友だちが、みな、待っている。
 ローザン・ザ・ボーを迎えるために。
 ローザン・ザ・ボーを迎えるために。

♪オレが死んで、バーのカウンターの
 上に置かれたら、みんなはその下から
 声が聞こえてくるのを知るだろう。
 オレにウィスキーのブタ樽をもってこい、と。
 オレとウィスキーを飲むために。
 オレとウィスキーを飲むために。

 YOUTUBEに題名を書き込むと、すぐその歌が見つかった。
「ザ・ダブリナーズ」というグループが、それを歌っていた。
2、3度、それを聴いていると、またあの涙が、とめどもなくあふれ出てきた。
いっしょに歌っていたが、声にならなかった。

 ……あのノートンの酒場で、私たちは顔を合わせると、いつもこの歌を歌っていた。
それが昨日とか、おとといとかではなく、その瞬間の現実として、よみがってきた。

 ……そういう私をワイフがどこで見ていたのかは知らない。
が、そのあと、横から私にこう言った。

「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。
私はためらわず、頭を小刻みに、何度も縦に振った。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ローザン・ザ・ボー Rosin the Beau Roisin the 
Bowアイルランド民謡 青春時代International House Melbourne University Australia
241 Royal Parade)

(追記、SKさんへ)

 ご無沙汰しています。
お元気ですか。
京都も寒いですか。
今朝、久しぶりにSKさんのことを書きました。
この原稿を送ります。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●オーストラリア(2)

+++++++++++++++++++++

2011年、X月XX日。
ワイフと私はオーストラリアへ「行く」。
「行く」と構えるほど、私にとっては、重大事。
サケが長い回遊を経て、ふるさとの源流に
もどるようなもの。
私にとっては、オーストラリアは心の源流。

それをメールで知らせると、2人の友人から、すかさず
返事が届いた。
アデレードで2泊の予定だった。
が、2泊ではとても足りそうにない。
それにアデレードからメルボルンまでは、列車で移動する予定だった。
が、友人が言うには、車でオーストラリア大陸を縦断しよう、と。
そうなると、とても2泊では足りない。

+++++++++++++++++++++

●Rosin the Beau

 オーストラリアの友人が教えてくれた歌に、「ローザン・ザ・ボー」
というのがある。
アイルランドの民謡(drinking song)ということだが、私はその歌を
今でもソラで歌える。
しかし歌の題名がわからない。
YOUTUBEで調べてみた。
「Rosan the Ballか?」・・・ということで、調べてみたが、
うまくヒットできなかった。

 が、今日、その歌を教えてくれた友人から、返事が届いた。
正しくは、「Rosin the Beau」。
さっそくYOUTUBEで検索。
いくつかのシンガー・グループが歌っているのがわかった。
その中でも、「ザ・ダブリンズ」のが、そのままの歌い方だった。
こうした民謡は、歌手によって、アレンジの仕方がまちまち。
その歌を聴いていると、ポロポロと涙がこぼれた。
そのときの情景が、そのままそこにあった。
私はちょうど40年前に、タイムスリップした。

 それを横で見ていて、ワイフがこう言った。
「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。

 私は名前を教えてくれた友人に、返事を書いた。
「30年間、ぼくはこの歌をさがしつづけた。
やっとこの歌に、めぐり会えた。
ありがとう」と。

●1日が1年

 あのころの私は、1日を1年のように長く感じながら生きていた。
けっして大げさな言い方ではない。
本当に、そう感じた。
1日が終わり、ベッドに体を横たえた瞬間、そう感じた。
そんなある日のこと。
ちょうど3か月目のことだった。
私はこう思った。
「まだこの先、こんな生活が9か月もつづくのか!」と。
うれしかった。
それがたまらなく、うれしかった。

 私は留学する前、4年間、金沢の大学に通った。
そういう自分を振り返りながら、その密度のちがいに驚いた。
4年間、通ったはずなのに、その4年間の重みがどこにもない。
思い出がない。
あるにはあるが、オーストラリアでの経験があまりにも濃密すぎた。
そのため金沢での学生生活がかすんでしまった。
その感覚は、今でもそうで、青春時代というと、あの時代ばかりが光り輝く。
金沢での4年間もそうだが、さらに高校時代の3年間となると何も残っていない。
単調な生活。
スケールの小さな生活。
刺激のない生活。

「勉強」と言っても、暗記また暗記。
受験のための暗記。
あの時代には、(今でもそうだが)、自分で考えるということすら許されなかった。
疑問をもてば、なおさら。
疑問をもったとたん、「学校」というコースからはじき飛ばされてしまった。

●不思議な世界

 そうした様子は、『世にも不思議な留学記』に書いた。
地元の中日新聞と、金沢学生新聞に、あしかけ5年に渡って、連載させてもらった。
興味のある方は、ぜひ、読んでほしい。
私のホームページ(ウェブサイト)から、『世にも不思議な留学記』へと進んでもらえば
よい。

 が、時代が変わった。
今では高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。
私たちが学生のころには、考えられなかった。
往復の旅費(羽田・シドニー間)だけで、42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超え始めた時代である。

 私には、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
日本には綿棒すら、まだなかった。
バンドエイドもなかった。
風邪を引けば、風呂へ入ることを勧められた。
医学部の学生が部屋までやってきて、注射を打ってくれた。
こんなこともあった。

 カレッジ対抗で、演劇会をもつことになった。
大学の構内では、壁紙を張ることが、きびしく禁じられていた。
が、友だちが、「これからその案内のポスターを貼りに行く」と。
驚いてついていくと、彼らはそれを地面に貼っていた。
(地面だぞ!)

 あるいは冬の寒い日。
1人の女の子が私を、海へ誘ってくれた。
水着をもってくるように言われた。
今となっては本当かウソかよくわからないが、・・・というのも、
オーストラリア人は、この種のウソを平気でつくので、・・・名前をタマラ・ファクター
といった。
自分で、「私は、(化粧品の)マックス・ファクターの孫」と話していた。

 で、海へ行くと、・・・そういえばそこで私ははじめて、「ミート・パイ」という
パイを食べた。
オーストラリアでもっともよく食べられているパイである。
それを食べていると、彼女は、水着姿になってしまった。
泳ぐためではない。
「サン・ベイジング(日光浴)」のためだった。
・・・などなど。

言い忘れたが、冬に浜辺でサン・ベイジングなるものをするという
習慣は、当時の日本人にはなかった。
そう言えば、同じカレッジにいた友人は、冬の日でも、また雨の日でも、
金曜日の夕方になると、キャンピング道具をもって、近くの森へキャンプ
に出かけていた。
そういう習慣も、当時の日本人にはなかった。

 こうして書き出したら、キリがない。

●常識論

 アインシュタインは、常識について、「常識などというものは、その人が18歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と言った。
たしかにそれはそうで、子どもたちにしても、綿棒を見て驚く子どもはいない。
そこにあるものを、当然のものとして、受け入れていく。
が、それは18歳ごろ、常識として脳の中で、固まる。
それ以後は、その常識に反するものを、「異質なもの」として処理しようとする。
ときにそれが脳の中で、それまでの常識とはげしく対立することもある。

 たとえば私は向こうの女子学生たちが、みなノーブラで、それこそ乳首が飛び出て
いるような状態で、薄いシャツを着ているのを見て驚いたことがある。
その(驚いた部分)というのが、私の常識ということになる。

 では、何歳くらいの子どもだったら、驚かなかっただろうか。
15歳くらいか。
16歳くらいか。
それともアインシュタインが言うように、18歳くらいだろうか。
少なくとも私は驚いた。
そのとき私は23歳だった。
ということは、やはり18歳前後ということになる。
(アインシュタインという人は、本当にすごい!)

 そのころまでに「常識」が形成される。
それがその人の意識の基盤になる。

●自由

 が、今では、高校生でも驚かない。
綿棒を見ても、バンドエイドを見ても、驚かない。
むしろそちらのほうこそ、不思議!、ということになる。
彼らもまた、生まれながらにして、そこにあるものを、当然と思い込んでいる。

 話は大きく脱線したが、私には毎日が驚きの連続だった。
が、その中でも最大の驚きといえば、彼らの「自由」に対するものの考え方だった。
彼らがもっている自由の意識は、私がもっていた意識とは、明らかに異質のもの
だった。
たとえば職業観。
たとえば家族観。
たとえば人生観。
それを知るたびに、私の頭の中で火花がバチバチと飛び散るのを感じた。

 当時の私たちは職業といえば、迷わず、大企業への就職を選んだ。
「寄らば大樹の影」。
それが常識だった。
が、オーストラリア人には、それがなかった、などなど。
私などは、友人の父親たちが、収入に応じて、つぎつぎと家を移り替えていく。
「家」に対する意識も、ちがっていた。

 また私が大学で使ったテキストには、こうあった。
「日本は、君主(Royal=天皇)官僚主義国家」と。
が、これには私は反発した。
「日本は民主主義国家だ」と。
しかしだれも相手にしてくれなかった。

 日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、官僚主義国家。
首相以下、国会議員の大半は、元官僚。
県知事の大半も、元官僚。
大都市の知事も、これまた元官僚。
40年前の日本は、さらにそうだった!

●自由の意識

 もちろんオーストラリアでの生活は、私の人生観に大きな影響を与えた。
それがよかったのか、悪かったのか。
現在の私が、その「結果」とするなら、よい面もあるし、悪い面もある。
この日本は、組織社会。
組織に属している人は、実力以上の「得」をする。
たいした努力をしなくても、「得」をする。
今の公務員たちをみれば、それがわかる。
組織に属していない人は、実力があっても、「損」をする。
努力に努力を重ねても、「損」をする。
今の商工店主の人たちをみれば、それがわかる。

 「自由」を知らない国民には、それが常識かもしれない。
しかもそうした常識は、遠く江戸時代の昔から、しっかりと日本の社会に根を
おろしている。
そう簡単には、なおらない。
この国で組織に背を向けて生きるなどということ自体、常識ハズレ。
ほとんどのばあい、生きていくことすら、むずかしい。

 が、あえて私は自由の道を選んだ。
たいへんな道だったが、私は私の生き様を貫くことができた。
その原点が、あのオーストラリアでの学生生活にある。

 人は、友だちや師、さらには社会や国から、さまざまなものを学ぶ。
何を学ぶかは、それぞれの人によってちがう。
私のばあい、「生き様」を学んだ。
一編の論文を書いたわけではない。
もしあの時代の論文があるとすれば、今の私自身ということになる。
オーストラリアという国は、私にはそういう国。
・・・というより、「オーストラリア」という国の名前には、そういう意味がある。

 「旅行に行こう」「はい、行きます」と、安易に考えることは、私にはできない。
(International House in Melbourne Univ.)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 1月 24日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【変化する日本語】

●子どもたちの日本語

++++++++++++++

10年単位で、子どもたちの
使う日本語が大きく変化する。
そのつど、「アレッ!」と思う。

で、最近、気になるのは、2語言葉。
たいていのことを、2語だけで
表現しようとする。
基本的に、形容詞から「~い」を
省略する。
「寒い」は「サム」となる。

ほかに・・・。

++++++++++++++

●2語言葉

キモ・・・気持ち悪い
ウザ・・・うざい(うるさい)
ダサ・・・ださい
エロ・・・変態
カタ・・・固い
ヤワ・・・やわらかい
ウマ・・・うまい
チョウ・・・(超)たいへん
スゴ・・・すごい
ヤバ・・・やばい
クサ・・・臭い
マジ・・・本当に?
アツ・・・熱い
サム・・・寒い
アマ・・・甘い
カラ・・・からい
イタ・・・痛い

 やがて日本人は、こういう会話をするようになる。

A「あれ、ダサ!」
B「マジ、ダサ!」
A「スゴ、ヤバ!」
B「マジ・・・エロくねえ?」
A「チョウ、エロ!」と。

 さらに気になるのは、ネット用語。
今朝も私のYOUTUBEにコメントが入っていた。
「ダコ」と。
意味はわからないが、かなりけなした言葉であることはわかる。
若者たち、とくにネットユーザーたちにしかわからない用語も多い。

●変化

 少し前、こんな原稿を書いたことがある。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「先生は、S? それともM?」

+++++++++++++++++

中学生のSさんが、突然、私にこう
聞いた。

「先生、先生は、S? それとも
M?」と。

ギョッとした。が、そこはとぼけて、
「服はみんな、Mサイズだよ。下着は
Sかな?」と。

が、その子どもの方が一枚、上手だった。

するとSさんは、「そうじゃないわよ。
先生は、サド? それともマゾ?」と。

+++++++++++++++++

 学生言葉というのがある。学生しか通じない言葉である。あとで以前、それについて書
いた原稿を添付しておくが、今度は、「SとM」。

 そこでSさんに、話を聞くと、こう教えてくれた。

 「いじめる側に回って、いじめるのが好きな人を、Sというのよ。反対に、いじめられ
る側に回って、いじめられるのを楽しむ人を、Mというのよ」と。

私「いじめられて楽しい人なんているの?」
S「いるわよ。そういう趣味の人も」
私「それはおかしいよ。趣味だなんて……」
S「いじめられる側って、結構、気楽なものよ」
私「あのねえ、そういう考え方をするバカがいるから、いじめの問題は、いつまでもつづ
くんだよ」と。

 しかしサドとか、マゾとか、そういう言葉が、中学生の子どもの口から出てくるとは、
想像もしていなかった。ホント!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心をつかむために

 あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、
意味を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。

●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い

 8問のうち、5~6問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心
をしっかりと、つかんでいる。

 正解は、つぎ。

○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴ
ンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」

 あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・
ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、
ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。

あなたの子どもは目を白黒させて、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試して
みてほしい。女子だったら、「私、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、
やっぱりかごちゃんが一番、すてきだと思うわ」と。コツは、さりげなく、サラリと子
どもの前で言うこと。

●子どもの言葉

●子どもの言語能力(Language Ability of Children)
What is the difference between men and apes? T. Sawaguchi says it is the difference
between men who has language ability and the apes which do not have language abilit
y.
It means to improve the language ability is an essential part of education, especially
when the boys or girls are at the proper age for the education.

++++++++++++++++

ついでに……、
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」
と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

私も、そう思う。

++++++++++++++++

澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルにな
ってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、
要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたという
ことか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうは
ともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかか
わりがあることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達
時期には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある
時期がくると、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかく
も、ある時期に、適切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまり
ない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳か
ら5・5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考
えることができる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、
定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わから
ないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成
されるのではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このことは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ツイッター

 ネット・サービスのひとつに、「ツイッター」というのがある。
「つぶやき」という意味である。
参加者は、一行程度の言葉を書き込む。
それに応えて別のだれかが、やはり一行程度の言葉を書き込む。
言うなれば、文字による一口会話。
それが無限の連鎖をともなって、どんどんと広がっていく。

 そんなサービスだが、社会的な影響力となると、計り知れない。
最近では、政治そのものを動かすほどの力をもつまでになった。
「2チャンネル」というサービスもある。
似たようなサービスだが、2チャンネルというのは、テーマ別。
それについて意見を書くことによって、ズラズラと書き込みが連なっていく。

 それはともかくとして、つまりツイッターにせよ、2チャンネルにせよ、
文化か文化でないかということになると、答は「NO!」。
恐ろしく無の世界。
虚無の世界と言ってもよい。
言葉としての、価値は、ゼロ。
幼児がだれかに、「バカ」と言うのと同じ。
言うなれば、虚無の世界だけが、不気味に広がりつつある。

●英語をやめて、論語?

 ところで昨日、書店で文藝春秋を立ち読みした。
その中に、こんなアーティクル(記事)が載っていた。

「英語教育は不要。代わりに論語を教えろ」と。

 2人の学者の対談形式のアーティクルだった。
が、どこかおかしい?

(1)仕事で英語を使っている人は、20%前後(記憶)。
だから全員に英語教育をする必要はない。
(2)会社の社内で、英語を公用語としている会社がある。
そういう会社は、やがてつぶれる。
一生懸命そういう会社を応援しよう。
そしてつぶれるのを待って、他山の石としよう。
(3)イギリスでは、全員英語を話せる。
そのイギリスが今、どういう国かを知れば、英語教育の無駄がわかるはず。
(4)日本語も満足に話せないのに、何が英語教育か、と。

 そしてここで英語教育と論語教育をバーター(交換取り引き)。
「学校では論語を教えろ」と。

 どうして英語と論語が、バーター?

(1)中学校の教科書で漢文のページが2ページしかないのはおかしい(記憶)。
(2)論語のすばらしさを、教えるべき、と。

 中国では、孔子信仰と言って、孔子そのものが、日本でいう宗教団体の対象に
なっている。
思想的にもすぐれているかもしれないが、「学校で聖書を教えろ」というぐらい、
微妙な問題を含んでいる。
どうして今、論語なのか。
それについては、たびたび書いてきたのでここでは省略する。

 話は逆。
日本の英語教育は、30年は後れた。
だからこの先、日本はますます国際化の波に乗れず、没落していく。
一読して、「何を今さら」という印象をもった。
それに日本語が変化し、ますますだらしなくなっているのは、英語教育が
始まったからではない。
論語教育をしなかったからでもない。
日本語そのものがもつ、多様性というか、未熟性に起因する。
10年単位で、若者たちが使う日本語を追いかけてみると、それがよくわかる。
それともあなたは、明治時代(たった100年前)に書かれた文章を、スラスラと
読むことができるだろうか。

 文藝春秋で対談した両氏には悪いが、あまりにも常識外れな論法。
ちなみにオーストラリアのグラマースクールでは、中1レベルで、外国語として、
中国語、日本語、インドネシア語、ドイツ語、フランス語から選択学習できる。
もちろんラテン語を教えているところもある。
 
 もし両氏の論法が正しいとするなら、両氏は世界に向けて、こう言えばよい。
「みなさん、日本語を勉強するのは、やめなさい。
勉強しても無駄になりますよ。
どうせ今後、没落していきます。
その代わり、中国語、なかんずく論語を勉強しなさい」と。

 暴論と言うことは、よくわかっている。
しかし文藝春秋を読んで、私はそう感じた。

 「世に暴論、数々あれど、暴論というのがどういうものか知りたかったら、文藝春秋
の今月発売後を読んでみたらよい」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 英語教育 論語教育 文藝春秋 変化する日本語)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【参考】(2005,6年ごろに書いた原稿)

++++++++++++++++

たしかに、日本語が乱れている。
それはわかる。しかし……。
いろいろ議論されているが、どれも
どこか的をはずれているようにも、
感ずる。
本当に、日本語は乱れているのか?

+++++++++++++++++

 中学生レベルの国語力しかない学生が、国立大で   …… 6%
                   4年生私立大で  ……20%
                   短大で    ……35%

「大学生の日本語力が低下し、中学生レベルの国語力しかない学生が国立大で6%、四年
制私立大で20%、短大では35%にのぼることがわかった」というのだ。

調査したのは、独立行政法人「メディア教育開発センター」(千葉市)のON教授(コミュ
ニケーション科学)ら。(注……04年度に入学した33大学・短大の学生約1万3000
人を対象に、中1から高3相当の問題を盛り込んだテストを行い、02年度に中高生に実
施したテスト結果と照らし合わせて、レベルを判定したという。)

たとえば「憂える」の意味を「喜ぶ」と思いこんでいる学生が多いなど、外国人留学生よ
り劣る実態で、授業に支障が出るケースもあるという。同教授は「入学後の日本語のリメ
ディアル(やり直し)教育が必要」と指摘する。

その結果、中学生レベルと判定された学生は、5年前に行われた調査と比較して、国立大
が0・3%から6%、私立大が6・8%から20%、短大が18・7%から35%と、数
年間で大きく増加していることが分かったという。

Yahoo・ニュースは、「テストでは『憂える』の意味を問う設問で、『中学生レベル」』
と判定された学生の3人に2人が『うれしい』に音感が近いためか『喜ぶ』を選択。『大学
生レベル』とされた学生の中でも正答率は50%にとどまり、文字通り“憂える”結果となっ
た」と伝えている。

【問題の例】

 ☆露骨に

(1)ためらいがちに     (0%)
(2)おおげさに    (83.3%)
〔3〕あらわに     (16.7%)
(4)下品に         (0%)
(5)ひそかに        (0%)
       
 ☆憂える

(1)うとましく思う  (16.7%)
(2)たじろぐ        (0%)
(3)喜ぶ       (66.7%)
〔4〕心配する        (0%)
(5)進歩する     (16.7%)

 ☆懐柔する

(1)賄賂をもらう   (50.0%)
(2)気持ちを落ち着ける(33.3%)
(3)優しくいたわる  (16.7%)
〔4〕手なずける       (0%)
(5)抱きしめる       (0%)
(カッコ内は中学生レベルと判定された学生が回答した割合、〔 〕数字が正解)
 *小数点計算で合計は必ずしも100にならない
(以上、Yahoo ニュースより)

 私も、最近の子どもたちが口にする日本語には、かなり問題があると考えている。しか
しそれは、個々の言葉の使われ方にあるのではなく、文全体として、問題があると考えて
いる。数日前にも、それについて書いた。「先生、終わったら、どうするのですか?」と言
った子どもがいたので、私は、こう答えてやった。

「先生は、まだ終わらない。元気でピンピンしている。先生が終わったら、葬式でもして
くれればいい」と。

 こうした言い方の代表的なもののひとつに、「先生、オシッコ!」というのがある。「ト
イレへ行きたい」と言うべきときでも、子どもたちは、「先生、オシッコ!」と言う。だか
ら、すかさず、私は、こう言う。「私は、オシッコではない。人間だア!」と。
 で、最初の話題。つまり国語力。

 「日本の論点」(04)は、「国語に関する世論調査」(04)の結果について、報告して
いる。そして「誤った敬語を含む例文を、正しいと思う人が目立つ」と。
 たとえば……
 「先ほど、中村さんがお話しされたように、この本は、とても役にたちます」(まちがい)
→正しくは「お話しになったように」
 「先生が、お見えになります」(まちがい)→正しくは「先生が、見えます」
 「ご乗車できません」(まちがい)→正しくは「ご乗車になれません」
 
 しかしこうした議論を一巡すると、つまり、あれこれ議論をしつくすと、そこに、ふと、
こんな疑念がわいてくる。つまり、これは国語力の問題ではなく、日本語そのものがもつ、
欠陥(けっかん)ではないか、と。
 たとえば英語で、「I go to Tokyo.」は、
 「私、東京、行く」
 「東京、私、行く」
 「東京、行く、私」と、どんな言い方をしても、意味が通じてしまう。私が住む浜松市
では、こうした言葉の間に、(ジャン)(ダニ)を入れる。たとえば、「私、東京、行く」は、
「私、東京、行くジャン」と。

 こうした言葉としての欠陥は、100年単位でみると、さらによくわかる。この日本で
は、たった100年前に書かれた文章ですら、辞書なしでは、理解することができない。
200年前、300年前の文章となると、さらに、そうである。

 流動的というよりも、言葉としての一貫性が、まだ確立されていない。だから今の今も、
日本語は、乱れつづけている。

 で、問題は、それが悪いことなのかどうかということ。最近では、コンビニ言葉につづ
いて、オタク言葉、さらにはネット言葉というのも、生まれている。そしてそういう言葉
が、表に出てきて、日常会話の中でも使われるようになってきている。

 ためしに中学生たちが話している会話に、そっと耳を傾けてみるとよい。多分、あなた
は、彼らが、何を話しているか、その意味すらわからないのではないだろうか。たとえば、
彼らは、こんな話し方をする。

「私、あいつにコクられて、いやだった。だって、フタマタよ。それをXXのヤツ、チク
ってね。あとは、シュラバ。私には、ラブな人、ちゃんといるのよ。私、マッチョは嫌い。
腹筋が、8つに分かれている男なんて、サイテー。頭にきたから、デニルしてね。あとは、
シカト……」と。

 ついでに、若い人たちの間で、よく使われる言葉について、調べてみた。私が中学生た
ちから、直接、聞き取り調査したものである。

 コクル……告白する。
 デニル……デニーズ(レストラン)に行く。
 マクル……マクドナルドに行く。
 カリパク……借りたあと、返さないで、もっていること。
 パクル……盗む。
 シュラバ……自分のまずいところを見られること。
 フタマタ……浮気のこと。二人の異性とつきあうこと。
 チクル……告げ口をする。
 パシリ……下っ端のこと。子分的な人のこと。
 アリガチ……ありえること。
 シカト……無視する。
 ラブな人……好きな人。
 A(エイ)……手を握るつぎの段階。(つぎに、B、Cへと進む。)
 マッチョ……筋肉質の人。
 
  もっとも、今の若い人たちは、日常的に、そういう言葉、つまり、「テメエ、殺すぞ」
式の言葉を使っている。ドキッとする言い方だが、これも、ごく日常的な言い方で、特別
な言い方ではない。が、その一方で、旧来型の日本語を知らないからといって、国語力が
落ちていると判断するのも、どうかと思う。

 つまり言葉というのは、いつも大衆が先導して決めるもの。そしてその大衆は、いつも、
若い世代によって、先導される。つまり一部の学者が、おかしいと言うなら、それを言う
学者のほうが、おかしいということになる。「国語に関する世論調査」(04、ON教授ほ
か)でも、敬語の使われ方を問題にしている。

 これについても、「敬語は、日本語の美しさを代表するものだから、守るべき」という意
見と、「敬語など、もうどうでもよいではないか」という意見の2つが、するどく対立して
いる。私自身は、めったに敬語など使わない。天皇についても、「天皇が浜松へ来た」と書
くことはあっても、「天皇陛下が、浜松へ、おいでになりました」と書いたことは、一度も
ない。

 敬意を表す、表さないということではなく、どこでどのように一線を引くか、それを考
えるのが、めんどうだからに過ぎない。いちいちそういうことを考えながら文を書くとい
うのも、たいへん疲れる。それに敬語の底流にあるのは、日本人独特の、上下意識。敬語
を考えるときは、いつも、その上下関係を考えなければならない。だから敬語は、無視。
大きな流れとしても、敬語は、この先、消えゆく運命にある。

 だから「国語に関する世論調査」そのものが、どこか、おかしい。その調査では、「敬語
の使われ方がおかしいから、日本語が乱れている」というような結論を出したかったのか
もしれない。しかし最近の若い人に言わせると、「今どき、敬語なんて……」ということに
なる。

 だから視点を変えてみたら、どうだろうか。つまりここにも書いたように、個々の言葉
の使われ方を問題とするのではなく、文全体として、的確に自分の意思を相手に伝えるこ
とができるかどうかという視点で、である。その際、どんな言葉が使われようが、それは
問題ではない。

 「今日、学校あった」(まちがい)→「今日、学校で、授業がありました」
 「これは、パパが建てた家」(まちがい)→「これはパパが、買った家」
 「これは、私の学校」(まちがい)→「これは、私が通っている学校」と。
 で、反対に、これを調査した、「メディア教育開発センター」のON教授に、こんなテス
トをしてみたら、どうだろうか。はたして、ON教授は、何点取れるだろうか?

【問題の例】

☆ムッチョ
(1)むっつりしているさま
(2)貯金がないこと
〔3〕筋肉がモリモリしているさま
(4)いやがっていること
(5)怒っている様子

☆コクル
(1)告発する
(2)忠告する
(3)密告する
〔4〕告白する
(5)納得する

☆カリパク
(1)食べ物の名前
(2)借りて返すこと
(3)カリカリと怒ること
(4)道路で座ってものを食べること
〔5〕借りて返さないこと

☆アリガチ
(1)ありがた迷惑
(2)ありがとう
〔3〕ありえること
(4)ありえないこと
(5)いらぬ節介のこと

☆フタマタ
(1)2つのことを同時にすること
(2)2人の人と、同時につきあうこと
〔3〕浮気すること
(4)2つの選択肢のこと
(5)いやなこと

☆シュラバ
(1)喧嘩すること
(2)がんばること
(3)ここ一番というとき
(4)苦労すること
〔5〕何か、まずいことがバレること

 日本語も、どんどんと変化している。もともと日本語という言語は、そういう言語であ
るということ。調査では、「憂える」の意味を知らないことを問題にしているが、実際、若
い人たちが使わない言葉であれば、それもしかたないのではないか。

 さらに一言つけ加えるなら、私自身は、旧世代の人たちは、もう少し、若い人たちに、
謙虚であるべきではないかと思っている。繰りかえしになるが、「自分たちは知っている。
しかし今の若い人たちは知らない。だから今の若い人たちは、おかしい」という論法自体
が、おかしいということになる。どこかものの考え方が、復古主義的?

 ただし世の親たちに一言。

 高校入試にせよ、大学入試にせよ、そこで使われる入試問題は、こうしたどこか頭の古
い、旧世代の人たちによって作られている。だから、子どもの(進学)ということを考え
るなら、体制に迎合したほうがよい。そのほうが、あなたの子どももスイスイと、学歴社
会を生きぬくことができる。

 そのためにも、あなたの子どもには、ここに書いたように、正しい言葉で、かつ豊かな
言葉で話しかけるとよい。「テメエ、殺すぞ」ではなく、「あなたが、そうすれば、あなた
は、私によって、殺されますよ」と。
 なお、上から(3)(4)(5)(3)(3)(5)の、〔かっこ〕が正解。

(はやし浩司 国語力 日本人の国語力 表現力 敬語 日本語の乱れ はやし浩司 子
供の国語力 子どもの国語力 変化する日本語 言語能力 はやし浩司 若者言葉 シカ
ト)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●道路の落ち葉(没落する日本、いいのか、このままで!)

+++++++++++++++++++++

このあたりでも、道路の落ち葉を、「ゴミ」と
考える人が増えてきた。
落ち葉といっても、街路樹からの落ち葉。
そのたびに、市の担当課に電話が入る。
「ゴミを何とかしてほしい」と。

が、落ち葉はゴミではない。
自然の循環物。
それが気になるなら、自分で掃除すればよい。
つまりそれをしないから、役人の数ばかり増える。
外郭団体の数ばかり増える。
つまりその分だけ、税金が高くなる。

今、日本の求められている最大の課題は、行政改革。
公務員の削減。
簡単に言えば、公務員の人件費の削減。
本来なら自分たちですべき仕事まで、役所に
させてしまう。
頼んでしまう。
それをよいことに、役所は役所で、どんどんと
権限を拡大し、天下り先としての外郭団体を
増やしていく。
その結果が、今。

日本の法人税の表面税率は、40%(40・7%)を
超えている。
世界でも、最高額!
「日本の論点」(文藝春秋)は、キャノンを例に
あげている。
キャノンの法人税率は、38%。

韓国のLG電子が、19・2%。
アメリカのインテル社が、27・6%(「同書」)。

しかしこれでは勝ち目はない。
はっきり言えば、日本の民間企業は、役人を
食べさせるために金(マネー)を稼いでいるようなもの。

が、これだけではない。
一事が万事。
「日本の論点」は、ほかに、港湾のコンテナ
取り扱い料金、空港の着陸料などの例もあげている。
すべて高額。
ついでに食料品も高額。
他国のそれと比較するまでもない。

さらに悲しむべきことに、東証一部の外国企業は、
とうとう10社になってしまった(2010年9月現在、同書)。
ニューヨーク、ロンドン、シンガポールの
証券取引所には、それぞれ数百社以上もの外国企業が
上場しているというのに、10社以下(同書)。
理由は、翻訳料の負担。

……しかし日本の現状が、ここまで悲惨なものとは、
私も思っていなかった。
想像以上。
あまりにもひどい!

+++++++++++++++++++++

●公務員の給料

 いまだに闇に包まれているのが、公務員の給料。
給料というより人件費。
諸手当を含む、総人件費。
総額38兆円とも言われている(某経済学者推算)。
国家税収とほぼ同額。
が、いったいいくら使われているのか、使われていないのか、それすらわからない。

 さらに驚くべきことに、公務員の給料をあれこれ書いただけで、批判の嵐にさらされる。
が、何も私は無理なことを書いているのではない。
「公表したらいい」と書いているだけ。
またそれですべての問題が解決する。
どうしてそんな、当然とも言えるべきようなことが、この日本ではできないのか。

●立派なのは……

 もう20年ほど前になるだろうか。
飛騨高山線で高山から名古屋に向かっているときのこと。
断続的に、ひなびた町や農村がつづいた。
農村というより、寒村。
そんな町や村の中に、ときどき場違いなほど立派なビルがあるのを知った。
それが私にはちょうど、虫歯だらけの口の中にある、金歯のように見えた。
おかしな例(たと)えに思う人もいるかもしれないが、私には、そう見えた。

 で、つぎの駅から、私は目を凝らして、そういう建物が何であるかを見た。
結果……。
もうここに書くまでもない。
公共施設の建物である。

 どうしてこの日本では、公共施設ばかりが立派なのか。
豪華というより、札束を敷き詰めて建てたようなものばかり。
会館にはじまって、図書館、公民館、道路などなど。
最近開港した静岡空港にしても、そうだ。
わずかな利用客のために、静岡県は目の玉が飛び出るようなビルや関連施設を建てた。
オーストラリアにも地方空港はあるが、どこも小さなビルだけ。
雑草の中に滑走路が走っているだけという空港も、少なくない。

●おかしな完ぺき主義

 少し前、シドニーでオリンピックが開催された。
そのときのこと。
私はマラソンコースを、テレビで見ていて、唖然とした。
日本ではまず、見かけられない道路である。
スタートやゴール付近の道ですら、でこぼこというか、つぎはぎだらけ。
私の住む団地内の道路でも、それよりもはるかに立派。

 土木技術の差というよりは、金(マネー)のかけかたのちがいということになる。
掘っては埋め、掘っては埋め、それを毎年のように繰り返している。
この状況は、あなたが住んでいる市町村でも同じのはず。
そして意味のない道路標識が、角によっては、5~7本ずつ、立っている。
あの道路標識にしても、1本が120万円前後とか(20年ほど前に聞いた話、伝聞)。

 粗悪なものよりは、良質なもののほうがよいに決まっている。
しかしそれにも限度がある。
「公共」という呼び名がつくと、それが「超豪華」なものに変身する。
これ称して、「おかしな完ぺき主義」。
やらなくてよいようなところまで、完ぺきに仕上げる。
が、これではいくらお金があっても、足りない。
その結果が、今。

●原点

 一方、私は浜松市内と、郊外の山荘での、二重生活をしている。
距離にして20キロ足らず。
車で35~40分の距離。
しかし生活姿勢は、まったくちがう。

 山荘の周辺では、道路工事ですら村の人たちが出て、自分たちでする。
道路沿いの草刈りですら、自分たちでする。
落ち葉など、気にする人はいない。
あっても、自分たちで、清掃する。

 それがその村の人たちの基本的な生活姿勢。
が、どちらが原点かと言えば、当然、こちらのほう。
つまり自分たちの生活環境は、自分たちで守る。

●質素革命

 日本の政府は、お金をかけるべきところを、完全に見誤った。
かけなくてもよいようなところに、無駄なお金をかけ、かけるべきところにかけない。
その結果が、今。

 もう一度、ここを読んでほしい。

「……さらに悲しむべきことに、東証一部の外国企業は、
とうとう10社になってしまった(2010年9月現在、同書)。
ニューヨーク、ロンドン、シンガポールの
証券取引所には、それぞれ数百社以上もの外国企業が
上場しているというのに、10社以下(同書)。
理由は、翻訳料の負担」。

時事通信社は、「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を
かけている」と報道している(2008年)。

いいのか、このままで!
……と叫んで、この話は、おしまい。
既得権益者、つまり官僚政治の壁を破るのは、容易なことではない。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●はやし浩司 2010-12-13

+++++++++++++++++++++

今朝は、目覚めがよくなかった。
軽い頭痛。
不快感。
寝不足感。
「起きようか」と迷ったが、朝の冷気を頬に感じて、
そのままじっとしていた。

1時間半は、無駄にした。

ワイフが起き上がるのを感じて、私も布団から出た。
時刻は午前7時を過ぎていた。

私はそのままウォーキングマシンへ。
30分の運動。
終わったときには、かなりの汗をかいていた。
頭痛は消えていた。

よかった!

みなさん、おはようございます。
今日は12月13日、月曜日。
曇り空。

++++++++++++++++++++

●コメントへの反論

 若い人だと思うが、こんな反論がBLOGに、書き込まれていた。
「外資企業が日本から撤退するのはよいことだ。それによって日本は、持ち前の
底力を発揮できるようになる」と。

 もう一度、数年前の時事通信社の記事を読んでほしい。
この記事に対する、書き込みである。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になっ
た。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コ
ストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上
場の外国企業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

 現在は、さらに減り、一桁台にまで落ち込んでいる。
この投稿者はその深刻さが、まったく理解できていないようだ。
外国企業が日本から撤退するということは、同時に、それだけ日本が投資先としての
魅力を失いつつあるということ。
もっとわかりやすく言えば、日本は外国に相手にされなくなってきているということ。
時事通信社は、つぎのようにも伝えている。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

 外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍に
なった。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車をかけている。
東証上場の外国企業は16社と、ピークだった1991年(127社)の8分の1に減少
した。(以上、時事通信(2008年12・27))

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

 深刻さが理解できないようなら、こういうたとえで考えてみればよい。

 あなたの町には、良質な温泉がある。
それを囲んで、ホテルや旅館がいくつかある。
以前は、あなたの町には、いろいろな旅行会社の支店(=外資企業)があった。
その支店が、客(=投資)を全国各地(=全世界)から呼び込んでくれた。
が、この長引く不景気とコスト高。
旅行会社の支店は、つぎつぎとシャッターをおろした。
支店を、別の町(=シンガポール)に移した。

 が、中に、ノー天気な若者がいて、こう言った。
「旅館の入浴料が安くなった。これからは毎日、銭湯がわりに、温泉へ通える」と。

 かなり荒っぽいたとえだが、おおざっぱに言えば、そういうこと。

だから日経新聞は、つぎのようにつづける。

『……今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。
終値で616円安。
それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れて
いることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつ
あることを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという』(日本経済新聞)と。
 
 さらに一歩進んで、「外国人労働者を、追い出せ」と主張する人もいる。
「日本人の職場を奪っている」というのがその理由だが、これこそまさに暴論。
どう暴論かは、もう何度も書いてきた。
外国人労働者の助けなしには、日本経済はもう成り立たない。
そういう状態にある。
目先の損得論に振り回され、短絡的なものの考え方をしてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司 

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 1月 21日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●はやし浩司 2010-12-10

●消えたキジバト

 二羽のキジバトの雛がいた。
数日前、一羽が行方不明になった。
昨日、もう一羽も行方不明になった。
まだじゅうぶん、飛べないはず。

 昨日もワイフが、しばらくあちこちをさがした。
私もさがした。
が、どこにもいなかった。

 『ドラえもん』の中に出てくる、タンポポの種の話を思い出した。

●子どもの巣立ち

 子どもは巣立ったあと、無数の父親に出会い、無数の母親に出会う。子どもはたしかに
あなたから生まれ、あなたによって育てられるが、決してあなたのモノではない。あなた
が育てるのは、あくまでも一人の人間。そしてその人間は、やがてあなたから巣立ち、そ
の子ども自身の人生を始める。



 親としては、うれしくも、どこかもの悲しい瞬間でもある。自分の手で子どもの心をす
くっているはずなのに、その心が、指の間からポタポタともれていく。その切なさ。その
はがゆさ。しかし親としてできることはもうない。ただ黙って、その背中を見送るだけ。



 子どもは、子どもの世界で、それから先、無数の父親に出会い、無数の母親に出会って
いく。私ひとりが、子どもの父親ではない。母親でもない。そう思うのは、それは同時に、
私たちが子離れの、最後の仕あげをするときでもある。「お前の人生は、お前のもの。たっ
た一度しかない人生だから、思う存分、この世界を羽ばたいてみなさい」と。



 が、振りかえると、そこには秋の乾いた風。ヒューヒューと乾いたホコリを巻きあげて、
枯れた木々の間で舞っている。心のどこかで、「こんなはずではなかった」と思う。あるい
は「どうしてこういうことになってしまったのか」とも思う。しかし子どもは、もうそこ
にはいない。



 願わくば、幸せに。願わくば、無事に。願わくば、健康に。



 親孝行? ……そんなくだらないことは考えるな。家の心配? ……そんなくだらない
ことも考えるな。私たちは私たちで、最後の最後まで、幸福に生きるから、お前はお前た
ちで、自分の人生を思いっきり生きなさい。この世界中の人が、お前の父親だ。お前の母
親だ。遠慮することはない。



 精一杯、親としてそう強がってはみるものの、さみしいものはさみしい。しかしそのさ
みしさをぐっとこらえて、また言ってみる。「元気でな。体を大切にするんだよ」と。あの
藤子・F・不二雄の「ドラえもん」の中にも、こんなシーンがある。「タンポポ、空をゆく」
(第一八巻・一七六ページ)というのが、それ。



 タンポポがガラスバチの中で咲く。それをのび太が捨てようとすると、ドラえもんが、「や
っと育った花の命を、……愛する心を失ってはいけない」と、さとす。物語はここから始
まるが、つぎにドラえもんは、のび太に、花の心がわかるグラス(メガネ)を与える。の
び太は、そのグラスを使って、花の心を知る。



 タンポポの心を知ったのび太は、タンポポを日当たりのよい庭に植えかえる。が、しば
らくすると、嵐がやってくる。のび太はタンポポをすくうため、嵐の中で、そのタンポポ
に植木バチをかぶせる。こうした努力があって、タンポポはやがてきれいな花を咲かせる。
のび太が「きれいに咲いたね」と声をかけると、タンポポは、「のび太さんのおかげよ」と、
礼を言う。「こんないい場所へ植えかえていただいて、嵐から守ってもらって。のび太さん
は、ほんとうにやさしくて、たのもしい男の子だわ」と。



 そのタンポポの種が、空を飛び始めるとき、のび太は、こう言う。「いよいよだね」と。
小さなコマだが、のび太が手をうしろに組み、誇らしげに空を見ているシーンが、すばら
しい(一八六ページ)。そのあと、のび太はこうつづける。

 「子どもたちが、ひとりだちして、広い世界へ飛び出していって……、きれいな花を咲
かすんだね」と。 

 一人(一本)だけ、母親のタンポポから離れていくのをいやがる種がいる。「いやだあ、
いつまでもママといるんだあ」と。それを見てのび太が、またこうつぶやく。「いくじなし
が、一人残っている……」と。



 タンポポの母親「勇気を出さなきゃ、だめ! みんなにできることが、どうしてできな
いの」

 子どもの種「やだあ、やだあ」

 のび太「一生懸命、言い聞かせているらしい。タンポポのお母さんも、たいへんだなあ」

 タンポポの母親「そうよ、ママも風にのって、飛んできたのよ」

 子どもの種「どこから? ママのママって、どこに生えていたの?」

 タンポポの母親「遠い、遠い、山奥の駅のそば……。ある晴れた日、おおぜいの兄弟た
ちと、一緒に飛びたったの」

 子どもの種「こわくなかった?」



 タンポポの母親「ううん、ちっとも。はじめて見る広い世界が、楽しみだったわ。疲れ
ると。列車の屋根におりて、ゴトゴト揺られながら、昼寝をしたの。夜になると、ちょっ
ぴりさびしくなって、泣いたけど、お月さまがなぐさめてくれたっけ。高くのぼって、海
を見たこともあるわ。青くて、とってもきれいだったわよ。やがてこの町について……。
のび太さんの、お部屋に飛び込んだの」

 子どもの種「ママ、旅をして、よかったと思う?」

 タンポポの母親「もちろんよ。おかげできれいな花を咲かせ、ぼうやたちも生まれたん
ですもの」



 子どもの種「眠くなっちゃった」

 タンポポの母親「じゃあね。歌を歌ってあげますからね。ねんねしなさい」



 子どもの種が旅立つ日。のび太はその種を、タケコプターで追いかける。



 のび太「おおい、だいじょうぶか」

 子どもの種「うん。思ったほど、こわくない」

 のび太「どこへ行くつもり?」

 子どもの種「わかんないけど……。だけどきっと、どこかできれいな花を咲かせるよ。
ママに心配しないでと伝えて」

 のび太「がんばれよ」



 この物語は、全体として、美しい響きに包まれている。何度読み返しても、読後感がさ
わやかである。それだけではない。巣立っていく子どもを見送る親の切なさが、ジーンと
胸に伝わってくる。子どもの種はこう言う。「ママに心配しないでと伝えて」と。タンポポ
の親子にしてみれば、それは永遠の別れを意味する。それを知ってか知らずか、のび太は
こう言ってタンポポの種を見送る。「がんばれよ」と。私はこの一言に、藤子・F氏の親と
しての姿勢のすべてが集約されているように感ずる。



 あなたの子育てもいつか、子どもの巣立ちという形で終わる。しかしその巣立ちは決し
て美しいものばかりではない。たがいにののしりあいながら、別れる親子も多い。しかし
それでも巣立ちは巣立ち。子どもたちは、その先で、無数の父親や母親たちを求めながら、
あなたから巣立っていく。あなたはそういう親たちの一人に過ぎない。あなたがせいぜい
できることといえば、そういう親たちに、あなたの子どもを託すことでしかない。またそ
うすることで、あなたは子どもの巣立ちを、一人の人間として見送ることができる。



 さあて、あなたはいったい、どんな形で、子どもの巣立ちを見送ることになるだろうか。
それを心のどこかで考えるのも、子育てのひとつかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の巣立ち 巣立ち論 子どもの巣立ち 藤子・F たんぽぽ はやし浩司 家庭教育 
育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ドラ
えもん タンポポ 巣立ち)


●キジバト

 断言するが、うちのハナ(ポインター種、猟犬)は、けっして雛を襲わない。
枝から雛が落ちてくると、ワンワンとほえて私たちに知らせるが、襲うことはない。
(子犬のときは。雛と戯れて、雛を殺してしまったことはあるが……。)
ハナは、人相はよくないが、心のやさしい犬である。
今では、キジバトのほうでもそれをよく知っていて、数メートル先でも平気で、エサを
食べている。

 しかし、どこへ行ってしまったのか?

 で、残るは、猫ということになる。
このあたりでも、猫を放し飼いにしている家は多い。
無責任極まりない飼い方ということになる。
猫だって、犬と同じように家の中で飼うべき。
外では、ひもをつけて飼うべき。
欧米の人たちは、みな、そうしている。

 ハナの目を盗んでは、私の家の庭にやってくる。
猫に見つかったら、雛は逃げようがない。
どこかの猫に殺されたのかもしれない。
巣立ちとは言うが、あまりにも過酷な巣立ち。

 窓の外の空にになった巣には、今朝も冬の白い光がさしこんでいる。
静かな朝だ。
色を変え始めた栗の葉が、小刻みに揺れている。


みなさん、おはようございます。
 

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

2010年3月11日木曜日
*What is Wisdom for Man

++++++++++++++++

この原稿が、グーグルの「知恵」サイトに
正式に紹介されるようになりました。
それを記念して、ここに再掲載します。

++++++++++++++++

●知恵

++++++++++++++++++++++

布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密(ハラミツ)」という。
このうちの「布施、持戒、忍辱、精進、善定」については、
たびたび書いてきた。
が、「知恵」については、あまりにも当たり前のことと
思い、書いたことがない。

++++++++++++++++++++++

●知恵の重要性

 教育の世界では、「無知は罪」と考えてよい。
親の無知が、子どもの心をゆがめるというケースは少なくない。
相手がいないばあいなら、無知であることも許される。
しかし相手がいて、その相手に影響を及ぼすなら、「無知は罪」となる。
しかもその相手というのが、無抵抗な子どもというのなら、なおさらである。
そういう意味では、総じて言えば、愚鈍は恥ずべきことであって、けっして誇るべきこと
ではない。

 で、六波羅密においては、「知恵」を6番目の徳目としてあげた。
もちろんこれは私の勝手な解釈によるもので、仏教学者の人たちなら、顔を真っ赤にして
怒るかもしれない。
六波羅密は、大乗仏教(北伝仏教)の修行法の根幹をなすものである。
「はやし(=私)ごときに、何がわかるか!」と。

●善と悪

 そこで私の善悪論の根幹をなす考え方について。
私はいつもこう書いている。

「悪いことをしないからといって、善人というわけではない」
「よいことをするから、善人というわけでもない」
「人は、悪と積極的に戦ってこそ、善人である」※と。

 「悪と戦う」というのは、(外部の悪)はもちろんのこと、(自分自身の内部に潜む悪)
もいう。
このことも、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

 何もしないで、静かにおとなしくしている子どもを、よい子どもとは言わない。
あいさつをきちんとし、先生の言うことをハイハイと、従順に従う子どもを、よい子ども
とは言わない。
身近でだれかが悪いことをしたとき、それを制したり、戒める子どもを、よい子どもとい
う。

 実際、よいこともしなければ、悪いこともしないという人は、少なくない。
万事、ことなかれ主義。
小さな世界で、丸く、こじんまりと生きる。
しかしそういう人を、善人とは言わない。
「つまらない人」という。
ハイデッガー風に言えば、「ただの人(das Mann)」。

 で、私たちは、積極的に悪と戦っていく。
そのとき最大の武器となるのが、「知恵」ということになる。
知恵なくして、人は、悪と戦うことはできない。
「悪」のもつ愚鈍性を見抜いたとき、善は悪に打ち勝ったことになる。
これには、(外部の悪)、(内部の悪)もない。

●知恵を磨く

 愚鈍の反対側にあるものが、「知恵」ということになる。
そう考えると、知恵が何であるかが、わかる。
言い替えると、「考える力」、その結果として得られるのが、「知恵」ということになる。

 誤解してはいけないのは、知識イコール、知恵ではないということ。
いくら知識があっても、それを反芻し、消化しなければ、知恵にはならない。
その「反芻し、消化する力」が、「考える力」ということになる。

 このことは反対に、老人の世界を観察してみると、よくわかる。
認知症か何かになって、考える力そのものを喪失したような老人である。
口にすることと言えば、過去の愚痴ばかり。
そういう老人には、ここでいう「悪と戦う力」は、もうない。
もちろん善人ではない。
善人とは、言いがたい。

 が、だからといって、善人になるのは、難しいことではない。
自分で考えて、おかしいと思うことについては、「おかしい」と声をあげるだけでよい。
たったそれだけのことだが、その人をして、善人にする。

+++++++++++++++++

(注※)3年前に書いた原稿を添付します。
日付は、2007年9月26日(水)と
なっていますが、この原稿自体、
さらにその6、7年前の2000年ごろ
書いたものです。

+++++++++++++++++

●善と悪

●神の右手と左手
 
 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。
善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないと
いうことらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの
努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをす
るのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということに
なる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、
たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳ということになる。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思
い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そうい
ったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差
点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもな
いことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考
えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにし
ても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使
うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小3)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、2つに分かれることがわかる。

1つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理とい
うことになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう1つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間にな
る方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どち
らを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問
題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていく
と、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 善と悪 善人と悪人 考える力 知恵 智慧 知性 知識)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

はやし浩司 2010-12-11

●映画『ロビン・フッド』★★★★+

+++++++++++++++++++++++++

昨夜、仕事が終わってから、映画『ロビンフッド』を
観てきた。
主演は、ラッセル・クロウ。
久々に、痛快な映画を観た。
胸がスカッとした。
「娯楽映画は、こうでなくちゃあ!」という映画だった。
ストレス解消には、最高!
星は4つの、★★★★+。

「カンヌ国際映画祭オープニング上映作品」というだけに、
期待も大きかった。
で、その通りの映画だった。
観終わった後の爽快感がすばらしかった。
映画館を出た後、ワイフと2人で、「よかった」「よかったね」と。

が、観客は、私たち(ワイフと私)を含めて、4人だけ。
金曜日の夜というのに……。

ワイフはこう言った。
「あんなすばらしい映画なのに、4人だけ?」と。

不景気なのか。
寒いからなのか。

何かのことでムシャクシャしている人は、『ロビンフッド』を
観たらよい。
先にも書いたように、ストレス解消には、最高!

つぎはいよいよ、『トロン』。
30年近く前に、前作を観た。
当時としては、衝撃的な作品だった。
その続作。
楽しみ!

帰る途中に、回転寿司屋で、遅い夕食。
私が4皿。
ワイフが4皿。
寿司がこんなに気軽に食べられるようになるとは、
想像もしていなかった。

++++++++++++++++++++++++


●読者の方より

 昨日、京都に住んでいる23歳の女性から、メールをもらった。
うれしかった。
それには私の書いた原稿を読んで、「救われました」とあった。
「文」を通して、心が通い合う。

浜松に住む私と、京都に住むその女性。
63歳の私と、23歳の女性。
その原稿を書いたのは、ずっと前。
過去の私と、現在のその女性。
こんなすばらしいことはない。
そのすばらしさを、実感した。

 Gさん、ありがとう!


●「文藝春秋」

 私が学生のころは、「文藝春秋」と言えば、「権威」そのものだった。
「文藝春秋を読んでいる」と言うだけで、ステータスだった。
雑誌といっても、捨てる人はいなかった。
たいていみな、本箱にずらりと並べていた。
今でもその地位は不動。

先週も、「日本の論点2011」(文藝春秋版)を買った。
「日本の論点」というような良書となると、今は、少ない。
が、影響力となると、相対的に、低くなった。
若い人たちで、文藝春秋を読んでいる人は、ほとんどいない。

 が、昨日、こんな経験をした。
「英語教育は不要、論語教育を」という記事を読んだときのこと。
「こんな暴論を載せるようでは、文藝春秋もおしまいだな」と。
つまり私のような人間でも、文藝春秋を批判できるようになった。
アラというか、ボロがわかるようになった。

 40年前はどうだったか、知らない。
しかし今は、マスコミの世界で知名度をあげた人だけが、名前を連ねている。
つまり有名人にぶらさがったような記事ばかりを、並べている。
内容よりも、そのときの知名度?
こうなると、雑誌としての命は、短い。
手っ取り早く、話題性だけを追求している。
編集者が、(本気)を喪失している。

 数年前までは、「現代」「諸君」そして「文藝春秋」、そのうちのどれかを、毎月
買っていた。
が、ここ数年、ほとんど買っていない。
それには理由がある。

 あるとき文藝春秋を読んでいたとき、こう感じた。
「文藝春秋は、私たち庶民を相手に雑誌を売りながら、その実、私たち庶民をゴミの
ように思っている」と。
つまり私やあなたのような無名人は、もとからお呼びではない、と。
わかりやすく言えば、過去の亡霊にとりつかれたまま、庶民性を見失ってしまった。
「文藝春秋の名前が目に入らぬか! 控え折ろう!」と。

 が、これでは庶民にそっぽを向かれて当然。
だから私はこう思った。
「私など、もとから相手にされていない。だったら、私も文藝春秋など相手にするか」と。
しかし庶民だって黙っていない。

 昨日も、BLOGへのアクセス数(5誌合計)だけで、6000件を超えた。
ホームページへのアクセス数は、毎日、平均して、5000件はある。
ほかに電子マガジン。
毎月12回、発行している。
この読者が、計3500人。
YOUTUBEへのアクセス数が、毎日600件以上。
みながみな、好意的な読者とはかぎらない。
しかしアクセス数だけをみるかぎり、毎月30万件をはるかに超えている。
月によっては、50万件を超えることもある。
かたや文藝春秋は、毎月の発行部数は60万部前後。
あと一歩で、文藝春秋の発行部数を超えることができる。
 
 一寸の無名人にも、五分の魂。
どうか忘れないでほしい。

●出版社

 インターネットの普及とともに、どこの出版社も青息吐息。
本そのものが、売れなくなった。
そこで出版社は、「話題性」という言葉をよく使う。
つまり「売れる本」。

 私もある英語月刊雑誌の創刊企画を手伝ったことがある。
『ハローワールド』(学研)という雑誌である。
そのあと編集企画の仕事もした。
当時、その雑誌は一時、月間27万部の売り上げを記録した。
だから編集者の気持ちも、よくわかる。
が、雑誌社というところは、不思議な世界で、「人を育てない」。
わかりやすく言えば、雑誌社でいくら仕事をしても、そのあとの仕事につながって
いかない。
社内のしくみそのものが、そうなっていない。

 一方、有名になるのだったら、テレビに顔を出すのがいちばん。
有名になれば、仕事は、外から舞い込んでくる。
その「外」のひとつが、雑誌社。
雑誌社ほど、有名人に弱い。
だからその有名人たちは、いつもこう言う。
「中央で有名になって、地方で稼げ」と。

 「話題性」の中には、当然、著名性が含まれる。
肩書き、地位、キャリアもそれに含まれる。
雑誌社はそれらをうまく利用して、売り上げを伸ばす。
「本」といっても、雑誌社の世界では、「商品」。
「この人が話題になっている。この人を使ってみよう」
「あの人は、肩書きをもっている。その肩書きを利用させてもらおう」と。

 が、ここにきて強敵が現れてきた。
「インターネット」と呼ばれる強敵である。
言うなれば、「商品でない文章」が、自由に、しかもタダで手に入るようになった。
少し前までは、「安かろう、悪かろう」の文章がほとんどだった。
実際、つぎのように書いていた出版社もあった。

「本というのは、編集者や校正者などの手を経て、ていねいに作られる。
つまりインターネットに氾濫する文章とは、格ががちがう」と。

 しかし今では、それも逆転した。
インターネットでも、良質な文章を読むことができるようになった。
情報にしても、自分のほしいのを、ねらい打ちできる。

 広告費の増減をみるまでもなく、勝敗はすでに決まっている。
結論から言えば、雑誌の時代は、終わった。
……ということなら、だれにでも書ける。

 そこでどうだろう、こう考えては?
これは新聞社についても言えることだが、記事にはQRコードをつける。
「もっと詳しく知りたい人は、ここからアクセスしてください」と。
つまり雑誌をインターネットと連動させる。

 たとえば「英語教育廃止論に対して、はやし浩司という人が、反論記事を書いている。
それを読みたい人は、ここからアクセスしてください」と。
つまりインターネットを「敵」と位置づけるのではなく、インターネットを雑誌の
中に取り込んでいく。
裾野を広げる。
そうすれば、庶民性もぐんと広がる。
発行部数も伸びる。
知恵を働かせば、方法はいくらでもあるはず。

 文藝春秋に話を戻すが、団塊の世代の一員として、文藝春秋には、もっとがんばって
もらいたい。
今でも私は、「文藝春秋」という名前を聞いただけで、ズシリと重いものを感ずる。

++++++++++++++++

今日も始まった。
がんばろう。
おはようございます!

12月11日。
2011年まで、残り20日。
この20日を、完全燃焼させるぞ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 文藝春秋 雑誌vsインターネット)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●「日本の論点・2011」(文芸春秋)を読みながら……

●危機の経済

+++++++++++++++++

「日本の論点・2011」を開く。
真っ先に読んだのが、「危機の経済」
(P82~)。
経済関連記事が、P~135までつづく。

+++++++++++++++++

●不公平感

 村上尚己氏は、こう述べている。
「(このデフレ下で、もっとも恩恵を受けているのは)、多額の現金を蓄財する
ことに成功した高齢者と、公務員である」(P91)と。
こういう人たちを、「デフレ既得権益者」と呼ぶのだそうだ。
同感!
私の知人などは、もう15年以上も前から、こう言っていた。
当時H市の市役所で、課長職にあった。
「林さん(=私)、こうなってみると、公務員になっていて、本当によかった
と思いますよ」と。

 給料はさがらない。
生活は安定している。
その一方で物価だけは、どんどんと下がる。
もちろん失業の心配は、まったくない。

 村上氏は、「若年世代の不公平感は極度に強まっているが……」と書いている。
が、実際には「爆発寸前」、もしくは、すでに爆発している。
たとえばこのところ若年世代の高齢者叩きが、ますますはげしくなってきている。
高齢者に対する意識そのものが、大きく変化している。
若者たちが意見を交換するBLOGを読んでみれば、それがよくわかる。
虐待どころか、「ジジババ不要論」まで飛び出してきている。

 公務員について言えば、今のところは、まだ平穏。
しかし彼らを見つめる世間の目は、冷ややか。
先に書いた知人にしても、満額の退職金の上に、現在は月額30万円を超える年金を
手にしている。
「うらやましい」と思う前に、私などは、怒りのほうを先に覚えてしまう。

●数百年に一度の……世界同時不況

 「日本の論点」の中で、もっともショックを受けた記事が、これ。
「数百年に一度の構造変化が生み出す世界同時不況。……円高はその序奏だ」と。
榊原英資氏がそう書いている。

 で、日本の景気だが、榊原氏は結論として、こう書いている。

「……しかし先行きは暗い。欧米の経済の構造的不況は、時間差をもっていずれ日本に
およんでくるだろう。2010年末から2011年にかけて、大きく景気が後退する
可能性が高い」(P87)と。

 今でさえ、体感景気は最悪。
それが2011年にかけて、さらに悪くなるという。

 では榊原氏が説くような、「大量に国債を発行し、強力な景気対策を打つべきだろう」
という方法が有効かというと、これにも問題がある。
いくらお金をバラまいても、投資先がなければ、マネーは投機に回るだけ。
タンスの中に眠るだけ。
別のところで、岩本康志氏は、こう書いている。

「……大規模な財政出動をすれば、デフレは終わり、インフレに転ずる。
しかしそれだけの規模の有効な使い道がなければ、財政支出のもたらす害のほうが大きい
かもしれない。
また先進国最悪の政府債務残高をもつ状況では、国債の信認を失いかねない危険な行為
である」(P97)と。

 つまり世界経済も、日本経済も、今、真っ暗な袋小路に入ってしまった。

●では、どうするか?

 経済学者は、国家としての戦略、戦術を考える。
しかし私たち庶民には、関係ない!
我が身は我が身で、守るしかない。
つまりここは、自己防衛に徹するのみ。

 ただひたすら、まじめに働き、ただひたすら、静かに過ごす。
(=仕事を失わない。)
少しでも小銭が貯まったら、ただひたすらタンス預金。
(=仮にハイパーインフレがやってきても、無いよりはマシ。)
その小銭がある程度貯まったら、金(地金)、土地などの金融資産に替える。
(=ハイパーインフレは時間の問題。ハイパーインフレになれば、
タクシーの初乗りが、100万円になるという(藤巻健史氏・P109))。
嵐が吹きすさぶ夜は、雨戸を閉めて、それが通り過ぎるのをじっと待つ。
(=嵐もいつかは去る。)

 もちろんみながみな、同じことをしたら、日本経済は萎縮するのみ。
が、私たちがそれを心配しても、どうしようもない。
「内需拡大」という声に踊らされたら、その翌年には餓死するかも。
そんなことでは困る。

 ……ということで、「日本の論点」を読んでいたら、何とも暗~イ気分になって
しまった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本の論点 経済問題 文藝春秋 日本の論点 2011)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●12月9日(木曜日)

+++++++++++++++

小寒い朝。
ウォーキングマシンで一汗。
そのまま、つまりパジャマ姿で書斎へ。

メールを読む。
孫たちへのプレゼントが届いたよう。
よかった!

ところで栗の木の上に、二羽のキジバトの雛がいたが、
今朝見たら、一羽しかいない?
よくさがしてみたが、やはり一羽。
どうしたのだろう。

食事のときワイフもそれを心配していた。
「巣立ったのかしら?」と。

+++++++++++++++

●手元にない

 昨夜も床に入ってから、「日本の論点」を読んだ。
そのためその本は、書斎にはない。
「どうしよう?」。
何度も悩む。
寝室へ取りにいくべきか、否か。
取りに行くのも、めんどう。

 しかし今、いちばんおもしろい本は、「日本の論点2011」(文藝春秋)。
日本の現状が、地図でその場所を見るように、よくわかる。
それに私の知らないことが、山のように書いてある。
何というか、未開の原野を前にしたような気分になる。
それが楽しい。

 そんなわけで、手元がさみしくてならない。
やはり取ってこよう。

●JAL問題(整理解雇すべきは、天下り官僚たち)

 JALもANAも、結局は「日本」という「温室」の中で、細々と経営をつづける
しかない。
日本の空だけを飛びつづけるしかない。
それが唯一、生き残る道。
「日本の論点2011」を読んで、そう感じた。

 今や世界は、LCC(低コスト航空会社)時代。
EUでは、バス料金並、電車料金並……というか、バスや電車と同じように利用されて
いる。
しかも料金は、ばあいによっては、300円、700円(日本円)になることもあると
いう(フランスの地方空港から、パリ・オルリー空港までの料金)。

……利用者はネットを見ながら、徐々に料金がさがっていくのを見る。
満席直前になると、ばあいによっては、300円、700円になる。
その直前に航空券の申し込みをする。
あとはそれをプリントアウトし、急いで空港へ。
席は早い者勝ち。
バス、あるいは電車(自由席)に乗るような感覚で、飛行機に乗る。

 で、そのうちこんな珍現象が見られるようになるかもしれない。
たとえば羽田から沖縄へ行くとき、羽田から一度マニラまで飛ぶ。
マニラから沖縄へ戻る。
それでも料金は、JALやANAの2分の1、と。

 日本を取り巻く環境は、すでにその段階へ来ている。
が、JALは、(ANAも)、あまりにも腰が重い。
国の施策に振り回され、身動きさえままならない。
つまり小回りができない。

 「日本の論点」によると、残された時間は、あと2年。
2年たつと、支援機構の後ろ盾を失う。
「その先は新たなスポンサーが必要であり、その手段が再上場。
その絶対条件が、黒字体質への転換である」(P374)と。

 それについて中条潮氏は、こう書いている。

「(JALの)再建は、国の規制からの解放による経営の独立性の確保と、自己責任
の徹底が必須であるにもかかわらず、政府は日本航空の広告の過大さを指摘したり、
LCC子会社を設立するよう圧力をかけたりしてきた。

 これでは日本航空自身がいくら努力をしても、結局は国の施策に押しつぶされて
再倒産してしまい、機構の資金は無駄になる」(P370)と。

 今日、12月9日を期限に、JALは、強制的な整理解雇に踏み切るという。
しかし整理解雇すべきは、天下りしてやってきた元官僚たちである。
JALを、がんじがらめにしているこうした元官僚たちから、まずJALという鳥を
解き放つ。
それなくして、JALの再建はありえない。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

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●鬱状態とは





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 1月 19日
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●うつ病、私のばあい(Depression for my Case)

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今朝、うつ病についてのエッセーを書いた。
いくつかのBLOGに載せた。
で、驚いた。
昼までに、10件近い書き込みや、コメントが
あった。
こんなことは、めったにない。

改めて、みなさんの関心の深さに驚く。

++++++++++++++++

●病識

 精神疾患の世界では、「病識のある・なし」で、症状の軽重が決まるという。
「私はおかしい?」と思っている人は、症状はまだ軽い。
治りやすい。
半面「私はだいじょうぶ!」とがんばっている人ほど、症状は重い。
治りにくい。
病識があれば、自分で自分の精神をコントロールすることができる。
自ら「治療」を考えることができる。
病識がないと、それができない。

 肉体の病気とちがって、精神の病気は、脳のCPU(中央演算部)が変調するため、
自分でそれに気づくことがむずかしい。
そこで大切なことは、まず自分でそれに気づくこと。
それがうつ病にかぎらず、ほかの精神疾患も含めて、この種の病気と闘う第一歩
ということになる。

●擬似病識

「擬似病識」という言葉は、私が考えた。
つまり病識は病識でも、病識がありながらも、中には精神疾患に振り回されてしまって
いる人がいる。
病院へも通っている。
薬ものんでいる。
しかしそれ以上に、自分の精神の変調を分析することができない。
「おかしい」「おかしい」と思いながらも、その段階で思考を停止してしまう。
それを「擬似病識」という。

 このタイプの人は、薬を常用しているだけに、かえって症状を悪化させてしまう。
言い忘れたが、向精神薬というのは、できるだけ最小限にとどめたほうがよい。
とくに脳間伝達物質や脳内ホルモンをコントロールするような薬物には、気をつけた
ほうがよい。
相手が子どもなら、なおさらである。
よい例が、リタリン。

一時はAD・HDの治療薬として、たいへんもてはやされた(2000年ごろ)。
しかし今は、治療薬としては、ほとんど使われていない。

●フィードバック

 脳には「フィードバック」と呼ばれる特殊な反応がある。
たとえば脳内にAという脳内ホルモンが分泌されると、同時に、それを打ち消す
別の脳内ホルモンBが分泌される。
つまり(+)と(-)のホルモンが、たがいに打ち消しあう状態になる。
こうして脳は、脳内をいつもクリア(クリーン)な状態に保とうする。

 脳科学の世界では、常識である。

 よく似た例に、副腎皮質ホルモンと呼ばれる「治療薬」がある。
「魔法のホルモン」と、これも一時は、よく言われた。
「ステロイド」と言えば、「ああ、あれか」と思い起こす人は多いだろう。
しかし最近では、「悪魔の毒薬」という名前で呼ばれるようになった。
ステロイド剤を常用すると、肝心の副腎がホルモンを分泌しなくなってしまう。
つまり一時的には顕著な効果を得られても、そのあと猛烈な反作用が働く。
副作用も出てくる。
症状がかえって重くなってしまうことも多い。

 こうした現象を知れば知るほど、脳内ホルモンの人為的操作には、慎重にならざる
をえない。
が、ここでひとつの重大な問題が生じてくる。
精神科医たちにしても、薬を処方しないことには、収入が得られない。
あるドクターはこう言った。
「カウンセリングだけでは、お金は取れません」と。
「5人近い看護士たちを、どうやって養っていくのですか」とも。

 こうして薬漬けの患者がふえる。

●うつ病

 私も30歳になったころ、不眠に悩んだ。
朝早く、目が覚めるようになってしまった。
そこで行きつけの内科へ行くと、いくつかの薬を処方してくれた。
が、カルテを見て、驚いた。
そこには日本語で、「うつ病」と書き込まれていた。

 私はそれに反論した。
「先生、私はその病気ではないと思います」と。
するとそのドクターは、つぎつぎと私の症状を言い当てていった。
「数日前から仕事が気になることがあるでしょ!」
「何でも完ぺきにしないと気がすまないでしょ!」
「人に頼まれたりすると、断われないでしょ!」と。

「さすが!」と驚いていると、そのドクターはこう言った。
「実はね、林さん、私もそうなんですよ」と。

●心の風邪

 うつ病を恥じることはない。
「まじめ病」ともいう。
軽重の違いはあるが、現代病のひとつ。
たった50年前とくらべても、日本人を包む社会は、大きく変わった。
たとえば私が子どものころは、父親たちは客と将棋をさしながら、仕事を
していた。
社会全体が、今よりはるかにゆったりとしていた。
家業は自転車屋だった。

 それに比べ、今は、目まぐるしいなどというものではない。
分単位、秒単位で社会が動いている。
つまり人間がおかしくなったのではない。
社会が狂った。
事実、アメリカ人の3分の1が、うつ病もしくはうつ病状態にあると言われている。
日本人にしても、ほぼ同じ割合で患者がいると考えてよい。
だからこう居直ればよい。

ハハハ、我ら、天下のうつ病族よ!
まじめな人間ほど、そうなるのよ!、と。

うつ病といっても、今では何でもない病気。
「心の風邪」という言葉を使う人もいる。
つまりそれだけありふれた病気ということ。
気にすることはない。
仲よくつきあえばよい。
この道40年の患者がそう言うのだから、まちがいない。

●こだわり

 うつ病との闘いを一言で言えば、「こだわりとの闘い」ということになる。
いかに、こだわりと闘うか。
それがポイント。
これには2つの方法がある。
(あくまでも素人判断。)

 (1)ひとつは、ものごとにこだわり始めたら、できるだけ早い段階で、それを止め
ること。
もうひとつは、(2)(こだわり)を、別の分野に拡散させること。

 とくに重要なのが、人間関係。
近親や家族関係。
悶々と悩み始めたら、要注意。
できるだけ早い段階で、考えるのをやめ、気分転換を図る。
映画に行ったり、旅行に行ったりする。
が、それだけでは足りない。
「こだわり」を拡散させる。

 私のばあい、ほかの分野に興味をもつことで、こだわりを拡散させている。
社会問題、政治問題、教育問題など。
効果的なのは、UFO問題。
視野がぐんと広くなる。
宇宙的な視野から自分をながめることは、それだけでも楽しい。
つまりそういう形で、こだわりが一点に集中するのを防ぐ。

 ほかに買い物もよい。
昨日も、SONYのPSP(ゲーム機)を、衝動買いした。
ネットの閲覧もできる、スグレもの。
私のばあい、(あくまでも私のばあいだが)、買い物依存症的なところがある。
新しい電子製品をいじっていると、それだけで気分がよくなる。
脳内でモルヒネ系のホルモンが分泌されるためらしい。

●仲よくつきあう

 大切なことは、自分を異常と思わないこと。
前にも書いたが、「心の風邪」と呼んでいる人もいる。
あなたもなるし、私もなる。
だれだって、なる。
なって当たり前。

日本では「精神疾患」というと、偏見と誤解で、特別視する傾向がある。
もちろん軽重はあるが、基本的には、同じ。
つまり「私はうつ病」と、居直ればよい。
居直って、あとは仲よくつきあえばよい。
悪いことばかりではない。

 私もうつ病を経験して、他人の心の苦しみや悲しみ、それに孤独が、よく理解
できるようになった。
それまでの私は、どこかチャラチャラした現代人(?)だった。
が、今は、四季折々の変化を見ながらも、そのつど、それをズシリと心の中で
受け止めることができるようになった。
もちろん人生の重みも、理解できるようになった。

++++++++++++++++++++

2010年の1月にも、同じような原稿を
書いていたのがわかりました。

それをそのまま掲載します。

++++++++++++++++++++

●うつ

++++++++++++++++++

うつ状態というのは、それになった人でないと、
どういう症状なのか、わからない。
とくに心の健康な人には、わからない。
「気のせい」とか、「心の持ち方の問題」とか言って、
簡単に片づけてしまう。

そういう人に出会うと、うつ状態の人は、
絶望感すら覚える。
この病気だけは、理屈だけで割り切ることができない。
脳間伝達物質の偏(かたよ)りで発症するため、
本人自身の力では、コントロールできない。

たとえばよくある早朝覚醒。
これにしても、朝早く目が覚めてしまう。
目が覚めてしまうから、どうしようもない。
「もっと眠っていよう」と思えば思うほど、
頭が冴えてしまう。
たった今が、そうだ。

++++++++++++++++++++

●私のばあい

 うつ病にも、さまざまなタイプがある。
が、それについて書くのが、ここでの目的ではない。
また書いても、参考にならない。
それに私は、その病気の専門家ではない。

 が、私のばあいは、ひとつのことにこだわり始めると、どんどんとその深みにはまってしまう。
ふだんなら笑ってすませるような話でも、「ぜったいに許せない」とか、「あいつはまちがっている」とか、そういうふうになる。
神経は緊張状態にあるため、ささいなことで激怒したり、大声をあげたりする。

 で、精神安定剤が効果的かというと、そうとも言い切れない。
そのときはぼんやりとした睡魔に襲われるが、1、2日もすると、かえって神経がいらだってしまう。
だからやや長期的な視点で考えると、こうした「精神薬」は、必要最小限にしたほうがよい。
とくに脳間伝達物質をいじるときは、そうしたほうがよい。

●タネ

 うつ病には、かならず原因となっている(タネ)がある。
そのタネを、まず取り除くこと。
そのタネさえ取り除けば、ときとして、パッと気が晴れる。

 で、私のばあい、精神的な負担感には、たいへん弱い。
心が過度に緊張するあまり、数時間もすると、ヘトヘトに疲れてしまう。
実際には、数時間はともかくも、1日もつづかない。
攻撃的に爆発するか、反対に、あきらめて、心の整理を先にしてしまう。
投げやりになることもある。
「負けるが勝ち」と逃げてしまうこともある。

 どうであるにせよ、うつ状態というのは、本人にとっても、いやな状態である。
悶々とすればするほど、心が蝕(むしば)まれていく。
いじけたり、くじけたり、ひがみやすくなったりする。

●買い物

 で、私のばあい、そういう状態になったら、こうする。
若いころから、何かほしいものがあったら、パッとそれを買う。
買ったとたん、胸がスカッとする。
(反対にほしいものを、長い間がまんしていると、悶々とした気分になる。
それがうつ状態を引き起こすこともある。)
これは脳の中の、どういう反応によるものか?

 多分、ドーパミンがドッと分泌され、それが物欲を満たす。
その満足感が、脳内を甘い陶酔感で満たす。
言うなれば、麻薬をのんだような状態になる(?)。

 これはあくまでも、私という素人の判断だが、たとえば買い物依存症なども、
似たような現象を引き起こす。
何かの依存症になる人には、うつ病の人が多い。
そのモノがほしいから買うのではなく、買うことにより、物欲を満たす。
喫煙者がタバコを吸ったり、アルコール依存症の人が酒を飲むようなもの。

●発散

 どうであるにせよ、加齢とともに、うつ状態は、ひどくなる。
「初老性のうつ病」という言葉もある。
若いときとちがって、気分の転換がむずかしくなる。
一度、落ち込むと、それが長くつづく。
それに最近気がついたが、いろいろな病気を併発する。

 頭痛、胃炎、それに心痛などなど。
体の弱い部分が、表に出てくる。

 で、私のばあい、そうなったら、子どもを相手に心を発散するようにしている。
ときどきレッスンで、メチャメチャ、羽目をはずすことがある。
(YOUTUBEで、紹介中!)
落ち込んでいるときほど、そうする。
子どもたちも喜んでくれるが、同時に、それは私自身のためでもある。
レッスンが終わったあと、気分が変わっているのが、自分でもよくわかる。

●仲良くする

 要するに、まじめな人ほど、この世の中では、うつ病になる。
そういう点では、この世の中は、うつ病のタネだらけ!
(たぶんに、弁解がましいが・・・。)

 しかし私の印象では、うつ病というのは、仲良くつきあう病気で、闘うべき病気
ではないということ。
もちろん症状がひどくなれば、それなりの対処もしなければならない。
しかし症状も軽く、ときどき、慢性的に起こる程度いうのであれば、仲良く、つきあう。
だれだって、落ち込んだり、反対にハイになったりすることはある。
そう考えて、ジタバタしないこと。
できるだけ薬物の世話になることは、避ける。
一度、世話になると、それこそ、薬なしでは生活できなくなる。

 私のばあいは、精神安定剤と熟睡剤、あとは市販のハーブ系の薬をうまく使って、
自分をコントロールしている。
漢方薬にも、よいのがある。
脳間伝達物質を調整するような薬は、よく効くのかもしれないが、そのあと起こる
フィードバックを考えると、こ・わ・い。

 「フィードバック」というのは、ある種のホルモンを、人工的に体内へ取り入れると、
そのホルモンを中和しようとして、相対立するホルモンが分泌されることをいう。
それが長くつづくと、本来そのホルモンを分泌している器官が、ホルモンの分泌を
やめてしまう。
副作用のほうが、大きい。
ステロイド剤も、そのひとつ。

●長い間、ありがとう(?)

 どうであるにせよ、老後は、みな、そのうつ病に直面することになる。
言うなれば天井の低い、袋小路に入るようなもの。
薄日は差すことはあっても、青い空など、もとから求めようもない。
友の死、知人の死がつづけば、なおさら。
大病になれば、さらになおさら。

 で、おかしなことだが、私はこの正月、狭心痛(?)なるものを、覚えた。
そのときのこと。
「心筋梗塞で死ねるなら、本望」と。
いわゆるポックリ死である。
ふだんの私なら、心気症ということもあって、何かの病気を宣告されたら、それだけで
ガタガタになってしまう。
が、こと心筋梗塞について言えば、こわくない。
私の父親も、その心筋梗塞で命を落としている。

 私は、やるべきことは、やった。
今さら、思い残すことは、ほとんどない。
これから先、10年長生きしたとしても、状況は同じだろう。
10年後に、今よりすばらしい文章が書けるという保証はない。
反対に脳みそは、不可逆的にボケていく。

 息子たちは、みな、去っていった。
去っていっただけではなく、心も離れてしまった。
ワイフとの関係にしても、今は、どこかギクシャクしている。
落ちつかない。
ただオーストラリアの友人のB君だけが、このところ毎日のように、「オーストラリア
へ来い」「いっしょに住もう」と、提案してくれている。
希望といえば、それだけ(?)。

 だから今は、こう思う。
「いつ、死んでも構わない」と。
一時の激痛ですむなら、それでよい。
それで死ねるなら、それでよい、と。

 ・・・しかしそう考えること自体、うつ病なのかも?
脳のCPU(中央演算装置)が狂ってくるから、自分ではその(狂い)はわからない。
「正常」と思いつつ、「異常」な考えをもつ。
「死んでもいい」というのは、どう考えても、異常である。
おかしい。
しかしこればかりは、どうしようもない。
心臓という、私の手の届かないところにある臓器の問題である。

 あとは運命に命を任すしかない。
もし私がポックリと死んだら・・・。
そのときは、そのとき。
電子マガジンも、そこでおしまい。
BLOGも、そこでおしまい。

 みなさん、長い間、購読、ありがとう!
(前もって、言っておきます。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注)向精神薬

●向精神薬

 何らかの精神的な病気をもっていて、薬(向精神薬)を服用している子どもがふえてい
る。そんな一人の母親から、「だいじょうぶでしょうか?」という相談をもらった。

 もちろん私には、それについて答える権利はない。その立場にも、ない。

 しかし私の経験では、「できるだけ、薬の世話にはならないほうがよい」とだけは、言え
る。こうした向精神薬は、それがきいている間よりも、その服用をやめたときの、反作用
がこわい。

 もちろん副作用があるときもある。しかもこの種の薬には、悪性症候群を引き起こすも
のが多い。悪性症候群というのは、投与中に起こる、重い病態を総称していう。発熱、発
刊、頻脈など。

 相手が子どものばあい、ドクターも、それなりに、きわめて弱い薬を使うといわれてい
る。もし不安なら、ドクターに直接、相談してみるのがよい。

 なお今の診療システムの中では、精神科のドクターにしても、薬を処方しないことには、
金銭的な収入が入らないしくみになっている。だからどうしても、(治療)イコール(薬の
投与)ということになる。そういう事情も、どこかで知っておくとよい。


●児童相談所

 このところ児童相談所の役割が、クローズアップされてきている。しかし、今ひとつ、
その活動がよく見えてこない……?

 その児童相談所には、大きく分けて、4つの部門がある。実際には、こうして窓口が分
かれているわけではないので、「相談したいことがあります」という言い方で、窓口で話し
てみるとよい。

(1) 養育相談(養育が困難なばあい)
(2) 育児相談(非行問題など)
(3) 障害相談(子どもに何らかの障害があるとき)
(4) 育成相談(不登校、家庭でのしつけ問題など)

 こうした問題が起きたら、迷わず、児童相談所に相談してみるとよい。決して、ひとり
で悩まないこと。苦しまないこと。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

● ありのままの自分(2004年10月に書いた原稿より)

 (現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)。この二つが遊離すればするほど、そ
の人は、心理的に緊張状態におかれ、内面世界で、はげしく葛藤することが知られている。

 よい例が、「役割形成」である。(本当の私)と、(現実にしている私)が、大きくちがっ
たりすると、精神状態は、きわめて不安定になる。大嫌いな男性と、無理やり結婚させら
れ、毎晩その男性に肌をさわられるような状況を思い浮かべてみればよい。そういった精
神状態になる。

 遊離する理由は、いくつかある。

(1) 理想の自分を描き過ぎる。(こうでありたいという思いが強過ぎる。)
(2) そうでなければという思い込みが強過ぎる。(自意識が強力すぎる。)
(3) 自分をさらけ出すことができない。(人間関係をうまく結べない。)
(4) いい子ぶる。世間体、見栄を気にする。(仮面をかぶる。無理をする。)
(5) 自分に自信がもてない。(悪く思われることに、恐怖心をもつ。)

 こうした状態が慢性的につづくと、ここでいう遊離が、始まる。が、それは心の健康の
ためには、たいへん危険なことでもある。

 そのため、(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)は、できるだけ、近ければ
近いほど、よい。ある程度の仮面は、必要だが、その仮面を、夫(妻)や、子どもにかぶ
るようになったら、お・し・ま・い。

 だから良好な夫婦関係、良好な親子関係をつくりたかったら、まず、ありのままの自分
をさらけ出す。が、一見、簡単そうだが、実は、これがむずかしい。ばあいによっては、
生活のリズムそのものを、根本的な部分で変えなければならないこともある。

 しかも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、自分で気が
つくのがむずかしい。本当の自分を知ったときはじめて、それまでの自分が、本当の自分
でなかったことを知る。それまでは、わからない。

 私たちの体には、無数のクサリが巻きついている。同じように、心にも無数のクサリが
巻きついている。本当の自分の姿が見えないほどまでに、巻きついている。そういうクサ
リの一本、一本を知る。そしてそれらを、やはり一本、一本、ほぐしていく。本当の自分
が見えてくるのは、そのあとである。



●役割混乱

 役割が混乱してくると、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが、わからなくなっ
てくる。これを、「自我同一性(アイデンティティ)の拡散」と言うらしい。

 私も、高校時代の後半に、この「拡散」を経験している。(と言っても、そのとき、それ
がわかっていたわけではない。今から思い出すと、そうだったということになる。)

 自分で、自分の進むべき方向性を見失ってしまった。

 自信喪失、集中力の欠如、精神的不安、それに抑うつ感に悩まされた。自意識も過剰に
なり、人前に出たりすると、失敗してはいけないという思いばかりが先にたち、かえって
何も話せなくなってしまったこともある。

 私は、「私が何をしたいのか」さえ、わからなくなってしまった。ただ毎日、学校へ行く
だけ。勉強するだけ。そんな生活になってしまった。今、思い出しても、おもしろいと思
うのは、当時、心のどこかで、ヤクザの世界に、あこがれたこと。あるいは戦争か何かが
起きて、日本中が、こなごなにこわれてしまえばよいと思ったこと。生きザマが、かなり
否定的になっていたようである。

 しかしこうした現象は、決して、私だけのものではない。今でも、多くの中学生や高校
生は、同じような悩みをかかえて、苦しんでいる。

 本来なら、そういう状態に子どもを追いこまないようにする。そのためにも、思春期に
入るころから、子どもの方向性をみきわめ、その方向性に沿った子どもの生きザマを、子
ども自身がもてるように、指導する。

 私のことだが、私は、高校2年生の終わりまで、ずっと大工になるのが、夢だった。そ
のため大学にしても、工学部建築学科を考えていた。

 その私が、高校3年生になるとき、文学部へと進路を変更した。つまりこのとき、私に、
「拡散」という現象が襲った。自我同一性、つまり「私」が、大混乱してしまった。

 そんな私だが、今でも、ときどき、こう思う。あのとき、ニ流でも三流でもよい。どこ
かの大学の工学部へ入学していたら、そののちの私は、もっと生き生きと、自分の人生を
生きることがでいたのではないか、と。大工でもよかった。子どものころから、泥んこ遊
びが大好きだった。そういう仕事でもよかった。

 今、多くの子どもたちを指導している。しかしときどき、こう思う。私がしたような失
敗だけは、してほしくない、と。だから幼稚園児にせよ、小学生や中学生にせよ、子ども
が、「~~になりたい」と言ったら、すかさず、私は、こう言うようにしている。「それは、
いい。すばらしい仕事だ。その仕事は、君にピッタリだ」と。

 そういう前向きのストロークをいつも、子どもにかけていく。それがあって、子どもは、
自分の進むべき道を、自分で選ぶことができるようになる。自己の同一性を、確立するこ
とができる。


●自意識過剰
 
 自意識が過剰の人は、少なくない。

 だれも注目など、していないのに、自分では注目されていると思いこんでしまう。みな
が、自分に関心をもち、自分のことを気にしていると、思いこんでしまう。

 このタイプの人は、もともと人間関係がうまく調整できない人とみてよい。自分を、す
なおにさらけ出すことができない。だからますます、自意識だけが、過剰になっていく。

 この自意識は、悪玉なのか。それとも善玉なのか。昔からよく議論されるところである。
しかし自意識がまったくないのも、困る。しかし過剰なのも、困る。ほどほどの自意識が、
好ましいということになる。

 自意識のおかげで、私たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。「他人の中の自分」
を意識することができる。しかし度を超すと、今度は、かぎりなく自分だけの世界に入っ
てしまう。

 そこでその自意識が過剰な人を分析してみると、その人の幼稚な自己中心性と関係して
いるのが、わかる。

 「私は私」と考える原点にあるのが、自意識ということになる。しかし「私は私。だか
ら私は絶対」と考えるのは、自己中心性の表れということになる。その自己中心性がさら
に肥大化し、その返す刀で、他人の価値を認めなくなってしまうと、自己愛へと発展する。

 自分は完ぺきと思うところから、完ぺき主義に陥ることもある。そしてそれが転じて、
自意識過剰となる(?)。自己愛の特徴の一つに、この完ぺき主義が、よく取りあげられる。

 むずかしい話はさておき、自意識が過剰になると、社会生活(学校生活)に支障をきた
すようになる。こんなことがあった。

 A君(小5)を何かのことでほめたときのこと。突然、そのうしろにすわっていたB君
が混乱状態になり、「ぼくだって、できているのに!」と言って、怒り出してしまった。B
君の顔は、どこかひきつっていた。

 そのときは、ただ単なるねたみか、誤解かと思った。B君は、何かにつけて目だちたり
がり屋で、かつ、そうでないと、すぐ不機嫌になるタイプの子どもだった。

 そこで自己診断。

 つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、自意識過剰な人(子ども)とみてよい。

(  )いつも自分は目立った存在でありたいと思う。またそのように振る舞う。
(  )自分をだれかが軽く扱ったり、軽く見たりすると、バカにされたと思う。
(  )意見などを求められたとき、すばらしい意見を言わなくてはと、かえって
    何も言えなくなる。自分で何を言っているかわからなくなってしまう。
(  )いつも世間が、自分の注目しているように思う。自分は、そうした世間
    の期待に答える義務がある。
(  )私の価値は、私が一番よく知っている。それを認めない世間のほうが、
    まちがっている。
(  )自分が絶対正しいと思うことが多い。みなは、自分に従うべきと思う。
(  )他人がほめられたり、他人の作品が賞賛されたりするのを見ると、自分
    のほうが、すぐれているとか、自分ならもっとうまくできると思うこと
    がある。

 ほかにもいろいろ考えられるが、自意識過剰な人は、それだけ精神の発達度が、低い人
とみてよい。

 反対に精神の発達度が高い人ほど、他人の喜びや悲しみを、すなおに受けいれることが
できる(共鳴性)。たとえばAさんが、「Bさんって、ステキな人ね」とあなたに話しかけ
たとする。

 その瞬間、自意識の過剰な人ほど、「私のほうが……」という反発心を覚えやすい。「そ
うね」と言う前に、それを否定するような発言をする。「でもねえ……」と。だから結果的
に、自意識の過剰な人は、他人から嫌われるようになる。だからますます、他人から孤立
することになる。あとは、この悪循環。

 自意識も、ほどほどに……ということになる。

(はやし浩司 自意識 自意識過剰)


●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにい
れば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)


●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)があ
る。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」
ということになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなること
によって、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろ
な人と、広く交際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる。※)

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さ
くなると考えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小
さいということになる。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、
みんな、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く
人もいるが、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味で
ある。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こ
ちらが教えたいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで
水をすくうような感じの子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がつい
ていない部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気
がついていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がつ
いていないときは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。
そして私に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして
子どもが逆立ちしてもできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」
と言う。私に向っては、「できるようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさ
がる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)
が大きいということになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐ
はぐになりやすいということになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらに
むずかしい。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなお
してみてはどうだろうか。

(注※)
 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親し
くなることで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっ
と言えば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それが
できる人は、ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをし
てみる。コツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判される
たびに、カリカリしていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判さ
れただけで、狂乱状態になることが多い。

(はやし浩司 ジョーハリー理論 ジョンハリ理論)


●さらば、もう一人の『私』

 自意識が過剰すぎると、(本当の自分)と、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、
遊離し始める。そのときどきにおいて、別々の自分に苦しむ。

 そこで自意識過剰ぎみの人の多くは、自分の中の、二重人格性に苦しむことが多い。と
きどき、「本当の自分はどちらなのか」、それが、わからなくなる。

 実は、私がそうだった。

 私も、自分の中の二重人格性に苦しんだ。苦しむだけならともかくも、その二つが、私
の中で、よく衝突した。

 私の中には、たしかに(本当の私)がいる。ずぼらで、いいかげんで、無責任。ぐうた
らで、鈍感で、自分勝手。その上、わがまま。まさにいいことなしの「私」である。

 そういう私をを、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、否定する。だからよけいに、
衝突した。

 しかしあるときから、自分の中で、(本当の自分)を、すなおに表現するようにした。「私
は私」と、居なおるようにした。
 
 「父親だから……」「夫だから……」という気負いを、はずした。ついでに、肩書きも、
はずした。ありのままの私を、そのつど、そのまま表現するようにした。だから一時期は、
人にこう言われたこともある。

 「君は、教育者を名乗っているが、とても教育者らしからぬね」と。

 が、そこが私の原点だった。私は、そこから出発した。

 で、今だが、最近、やっと私は、もう一人の「私」と、決別することができた。そのこ
とだが、実は、こんなことがあった。

 そのもう一人の「私」が、私に、何と、あいさつをして、私の中から、出て行ったのだ! 
「長い間、お世話になりました」と。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「それは、『お世話になりました』
ではなく、『ご迷惑をおかけしました』でしょう」と。

 実は、この2人の「私」が、私の中で衝突するたびに、私は、かなり精神的に不安にな
った。そしてそのトバッチリは、ワイフに向った。ワイフは、そういう私をよく知ってい
る。だから、「長い間、ご迷惑をおかけしましたのほうが、正しい」と。

 さあ、あなたも、気負いをはずしてみよう!

 あなたは、どこまでいっても、あなただ。

 そう思ったとたん、あなたも、言いようのない解放感を味わうはず。あとは、そこを原
点として、前に進めばよい。

 心を解き放て。体はあとからついてくる(英語の格言)。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●PSP(SONY)(はやし浩司 2020-12-08)

++++++++++++++++++

昨日、近くの書店へ行った折、ソニーの
PSPなるゲーム機を買った。
メモリーカード込みで、1万8000円前後。
まったくの衝動買い。

が、買ってみて、びっくり。
ただのゲーム機と思っていたが、パソコンに
近い電子機器。
ネットの閲覧もできる。
(目下、設定で手こずっているが……。)

で、ソフトも1本、買ってみた。
「空戦」をシミュレートしたゲーム。
床に就いてからふとんの中でしてみた。
が、これはチャチ。
どうしようもないほど、チャチ。
パソコンのフライトシミュレーター(MS社)
とは比較にならない。
映画と紙芝居ほどの「差」を感じた。
まあ、これも授業料。
あきたら、アメリカに住む孫に送ってやるつもり。

なお書店では、『日本の論点・2011』(文藝春秋)
を買った。
毎年、買っている。
正月までに、読破したい。

++++++++++++++++++++

●12月8日

 朝起きて、30分、ウォーキングマシンの上で歩く。
寒い朝は、これがよい。
30分も運動をすると、体中からジワーと汗が出てくるのがわかる。

 それから書斎に入り、パソコンを立ち上げる。
メールを読んだあと、昨日書いた原稿を、BLOGにアップ。
ニュースサイトに目を通し、今日の日誌(今書いている、この原稿)を書く。
手元には、もちろんPSP。
60歳を過ぎたジーさんが、PSP?
ワイフはこう言った。

「今度電車にでも乗ったら、若い人たちの前で、ゲームでもしてみせたら?
かっこいいわよ」と。

ハハハ!
かっこいいだろうな。


●老人よ、パソコンを抱いて、街に出ろ!

 ……というわけでもないが、私は老人たちにこう言いたい。
「老人たちよ、パソコンを抱いて、街に出ろ!」と。
携帯電話でもいい。
ゲーム機でもいい。
我々の存在感を、若者たちにもっと、見せつけてやろうではないか。

ジジ臭い顔をして、あるいはババ臭い顔をして、家の中に引っ込んでいてはいけない。
さらに言えば、仏壇の金具など、磨いていてはいけない。
老人だからこそ、新しい世界に、チャレンジしていく。
それは言うなれば、防波堤のようなもの。
その精神を忘れたとたん、我々は本当に、老人になってしまう。


●NG先生が亡くなって1週間

 早いものだ。
NG先生が亡くなって、もう1週間が過ぎた。
通夜、葬儀、あわただしく過ぎた。

それまで毎朝、その前日に書いた原稿を、NG先生に送っていた。
その習慣が今でも残っている。
今朝も、NG先生に原稿を送りそうになった。

 瞬間、つんとした寂しさが、心をつぶす。
「先生は、もういないんだ」と。

(庭の栗の木を見ながら、ぼんやりと時間を過ごす。)

 栗の木の巣の中では、キジバトの雛たちが、羽をパタパタさせている。
巣立ちの練習をしているよう。
あと数日もすれば、巣から離れ、枝に止って日を過ごすようになる。

 生まれる命。
去っていく命。
こうして私たちは、絶え間ない輪廻(りんね)を繰り返していく。

……ということで、今日も始まった!
みなさん、おはようございます。
今朝は、山荘まで行き、草刈りをしてこなければならない。
気分一新、忙しい1日になりそう……。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司


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