Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, October 31, 2008

*Japanese Proverbs for Mothers and Fathers

img221

img222

img223

img224

img225

img226

img227

img228

img229

img230

img231

img232

img233

img234

img235

img236

img237

img238

img239

img240

img241

img242

img243

img244

img245

Thursday, October 30, 2008

*Cofession *Brain-Exam

●「懺悔(ざんげ)」(つぐない)

+++++++++++++++++

昨夜、DVD『つぐない』を見た。
星は4つの★★★★。

そのDVDを見ながら、いろいろな
ことを考えた。

+++++++++++++++++

先日、母の葬儀で、弔辞を述べさせて
もらった。
私はこうした弔辞では、原稿を書かない。
そのとき、思ったことを、そのまま
話すようにしている。

+++++++++++++++++

【弔辞】

人は、夢と希望を前にぶらさげて歩くもの。
人は、こだわりとわだかまりを、あとに引きずって歩くもの。
私と母の間にも、いろいろありました。
しかしその母が、私の家に来た時のこと。
母は体調を崩したのか、それから一週間ほど、毎日、
下痢を繰り返しました。

便の始末は、私の仕事でした。
その母のお尻を拭いているとき、母が、ふと、こう言いました。
「お前に、こんなことをしてもらうようになるとは思わなかった」と。

私もそれに応えて、こう言いました。
「ぼくも、お前に、こんなことをしてやるようになるとは、思わなかった」と。
とたん、それまでのこだわりと、わだかまりが、ウソのように消えました。

で、それからの母は、子どもにたとえるなら、優等生。
デイサービスにも、ショートステイにも、ただの一度も不平、不満を漏らすことも
なく、すなおに行ってくれました。

が、いくつかの事故が重なり、近くの老人センターに入居することになりました。
(M幸の園)という、このあたりでも、いちばん人気のセンターです。
母は、そこに1年と4か月いましたが、亡くなる2日前の10月11日の夜のことです。
時刻は11時を回っていました。

見ると、母の右目のつけ根に、小さな真珠のような涙がたまっているのがわかりました。
それが枕もとのライトの光を受けて、輝いていました。
「なんだろう?」と思っていると、ワイフがベッドの向こう側に回って、こう言いました。
「あら、お母さん、目を覚ましている」と。

母は、向こうの窓側のほうに顔を傾けて眠っていました。
私も向こう側に回ってみると、母は、左目を半分、開けていました。

私はライトをつけると、それで自分を照らし、私の顔を、母の視線の中に置きました。
「母ちゃん、ぼくだよ、浩司だよ、わかるか、母ちゃん」と。

数度、それを繰り返したときのことです。
あの母が、酸素マスクの向こうで、ウォー、ウォー、ウォー、ウォーと、4、5回
大きなうめき声をあげました。
同時に、幾筋もの涙が、頬を伝って流れ落ちていくのがわかりました。

そのあと母はすぐ、再び何ごともなかったかのように、静かに眠り始めましたが、
それが私と母の最後の会話でした。

また当日は、朝から容態がよくないという連絡を受け、ワイフがそばにいてくれました。
が、午後になって安定したということで一度、自宅に戻ってきたのですが、直後、
センターから電話があり、「様子が変わったから来てくれ」と。

今度は私とワイフで、2人で行きました。

看護士さんが、「呼吸がおかしいでしょう」と言いましたが、私には、よくわかり
ませんでした。
母は、数度呼吸を繰り返したあと、無呼吸状態を繰り返していました。
私は母の横にいて、その数をずっと、数えていました。

そうして午後5時半ごろのこと。
それまでさがりつづけていた血圧が、5時を過ぎるころから上昇し始めたので、
やれやれと思いながら、その夜の準備にとりかかりました。
看護士さんは、「今夜が山です」と言いました。
それを聞いて、介護士の方たちが、私たちのためにベッドを、横に並べてくれました。

ワイフはそれまでの3日間、ほとんど眠っていませんでした。
それで私が、「一度、自宅に帰って仮眠してきます」と。
母には、耳のそばで、こう言いました。

「母ちゃん、1時間ほど、家で寝てくるからな。
すぐ戻ってくるから、それまでがんばっていてよ」と。

たまたま見舞いに来てくれていたワイフの兄と姉に、その場を頼んで、私たちは
自宅に戻りました。
が、戻るやいなやセンターから電話。
「血圧が測れません。すぐ来てください」と。

折り返しかけつけると、母はすでに息を引き取っていました。
それが母の最期でした。

そばで見ていた看護士さんの話では、「無呼吸状態が長いな……と感じていたら、
そのまま眠るように息を引き取られました」とのこと。
静かな、どこまでも静かな最期だったようです。

ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴るなり』の冒頭には、こんな詩が
飾られています。

「誰の死なれど、わが胸痛む。
 われも人の子なれば、それ故に問うことなかれ。
 誰がために、あのとむらいの鐘は鳴るなりや、と。
 あの鐘は汝がために鳴るなりや」

こうして人々は去り、母も去っていきました。
あたかも何ごともなかったかのように。

人は、夢と希望を前にぶらさげて歩くもの。
人は、こだわりとわだかまりを、あとに引きずって歩くもの。
しかし今、母は、すべてのものから解放され、あの世へと旅立ちました。
あとに残された私たちは、それをいつまでも心温かく見送りたいと願っています。

本日、母の葬儀に参列くださいました皆様には、母にかわり、
心から厚く、お礼申しあげます。
本当にありがとうございました。

++++++++++++++++++

DVD『つぐない』を見ながら、私はずっと母のことを思い浮かべていた。
「あれでよかったのかなあ」という思いが、ずっと心から離れなかった。
そのときどきにおいては、できるかぎりのことをした。
……したと思う。
自分で自分にそう言って聞かせるが、しかし思い残すことも多い。
「ああしてやればよかった」とか、「こうしてやればよかった」と。
そういう無数の、小さな後悔が積み重なり、心を重くする。

たとえばそれがどうであれ、母自身は、信心深い人だった。
その遺志を尊重するなら、私は一通りの仏事をやり遂げねばならない。
49日の法要も、100か日の法要も、さらに一周忌、三周期の法要も。

DVD『つぐない』を見終わったとき、自分で自分に、再び、そう言って聞かせた。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2914)

【10月31日】(知力)

+++++++++++++++++

昨日、こんなうれしいことがあった。
小学生と中学生たちと、(私の生徒たちは、みんな頭がキレるぞ!)
脳トレ競争をして、ほぼ5勝した。……5勝できた!

問題は、年齢によるハンディのないものを選んだ。

(1) 文章の早読み競争
(2) 数字の暗記競争
(3) 迷路問題(大人用の、超難解迷路)
(4) 暗算テスト
(5) ナンバーズ・ゲーム(市販のもの)

「ほぼ5勝」というのは、迷路問題で、最初に私ができていたのだが、「できた!」と
声をあげなかったことによる。
2位のD君が先に声をあげた。
それで私が2位になってしまった。

(1) 文章の早読み競争……30秒で、どこまで読めるかを、競争した。
私は全文を読み終えることができた。
しかも「先生は大人だから、大きな声で読め」とみなが言ったので、
私なりに大きな声で読んだ。
さらに全文を読み終えるのに、まだ数秒ほどの余裕があった。
子どもたちは、早い子どもで、全文の8~9割を読んだ。

(2) 数字の暗記競争
ランダムに、10桁の数字を、5列並べ、3分前後で、いくつ暗記
できるかを競った。
私が30点、2位のM君が、20点。
あとの子どもたちは10~15点ほど。
みんな、「先生は、すごい!」と言った。……言ってくれた。

(3) 迷路(大人用の、超難解迷路)
迷路については、先に書いた。

(4) 暗算テスト
足し算、引き算、掛け算、割り算などの混合問題。
答は2桁まで。
全部で、200問ほど。
これはダントツに私が一番でできた。
2番の子どもで、私の量の半分ほどしかできなかった。

(5) ナンバーズ・ゲーム(市販のもの)
私は1、2度したことがある。
しかし子どもたちのほとんどは、はじめて。
だから私が勝つに決まっていた。
……ということで、これは評価外。

+++++++++++++++++

若いころは、子どもたちとこうした競争をすることはなかった。
私が勝つに決まっていた。
しかし昨日は、ちがった。
私のほうが真剣だった。
「満61歳」という数字が、気になった。

たとえば体力というものを考えてみよう。
今では、かけっこですら、子どもたちにはかなわない。
小学2~3年の子どもたちにすら、負ける。

が、知力では、そういうわけにはいかない。
もし私がこうしたテストで子どもたちに負けるようになれば、私は、(教える)という
職そのものを、やめなければならない。
子どもたちも、そう言った。
「先生がボケたら、BW(=私の教室)は、おしまいだね」と。

が、それだけではない。

音楽家にとって「耳」が命であるように、
また画家にとって「目」が命であるように、
私にとっては、「知力」が命。
たとえばものを書くときも、その知力が勝負。

が、加齢とともに、脳みその働きは、鈍ってくる。
とくにこわいのが、微細脳梗塞。
(もちろん大きな脳梗塞もこわいが……。)
こまかい脳こうそくが重なって、脳みそ全体の機能を低下させる。
たとえば話し方がかったるくなったり、繊細な会話ができなくなったりする。
当然、頭のキレも、鈍ってくる。

こうした競争をする背景には、自分で自分の脳みその状態を知るという意味がある。
というのも、脳みそというのは、全体に機能が低下したばあい、自分でそれを
知るのは不可能と考えてよい。
たとえば試しに、少し頭のボケかかった人に、こう聞いてみるとよい。
「あなたの頭は、だいじょうぶですか?」と。

するとほとんどの人は、こう答える。
「問題ないですよ」と。
中には、ムキになって、それを否定してくる人もいる。
自分がボケてきたことを、他人に悟られないようにするために、である。

そこでこうした競争が役に立つ。
こうした競争をすることで、自分の脳みその状態を知ることができる。

で、その競争で、私の脳みそは、そこそこにまだ健康であることがわかった。
よかった!
うれしかった!

……というわけで、昨夜は、いつもになく気分がよかった。
夜床に入ってからワイフにそのことを話すと、ワイフもうれしそうだった。

私「これなら70歳まで、がんばれそうだね」
ワ「そうね」と。

Wednesday, October 29, 2008

*The Accident

●10月29日

+++++++++++++++++++

今日、ワイフと2人で、近くの富幕山に
登った。
「とんまっくざん」と読む。
標高563メートル。
今回が、3度目。

自宅から車で、40分。
そこから歩いて登山。
片道、登り、50分。

午前中に出かければ、昼過ぎには家に
戻ってこられる。
軽い運動には、よい。

++++++++++++++++++++

●誕生日プレゼント

迷いに迷ったあげく、今年の私の誕生日プレゼントは、電気毛布になった。
書斎で、足を覆って使う。
今まではコタツを使っていたが、コタツだと、すぐ眠くなってしまう。
電気ストーブだと、頭だけがほてってしまう。

床暖房とか、部屋暖房とかいうような、ぜいたくなものは、使わない。
……ということで、電気毛布になった。

足にそれをかぶせ、その上に薄い夏ぶとんをかける。
しばらくは、これで寒さをしのいでみる。


●偶然と確率

この前、息子と、車の中でこんな会話をした。
私が、「事故というのは、確率と偶然が重なって起きる」と言った。
つまり事故というのは、起きるときには、起きる。
起きないときには、起きない。

たとえば交通事故にしても、毎年約1万人の人が、それで命を落としている。
それぞれの人がみな、注意していても、それだけの人が死ぬ。

そこで息子が、こう聞いた。
「パパの意見だと、事故というのは、防げないということになる。
そう考えていいのか?」と。

が、私の意見は、逆。
「事故というのは、確実に防げる」と。

確率と偶然が重なって事故が起きるとするなら、事故というのは、
どんなばあいにでも、起きると考えたほうがよい。

「いいか、今、この瞬間を考えてみろ。
前後には車はいない。
直進道路だ。
見晴らしもよい。
だれしも、こんなところでは事故は起きないと考える。
しかし実際には、その反対。
こういうところでも、確率と偶然が重なると、事故は起きる。
だから、こう考えたらよい。
『事故は、つねに起きる』と」と。

すると息子はこう聞いた。

では、「どうやって事故を防げばいいのか?」と。

私「答は簡単だ。
つねに事故を起こさないように走る」
息「パパの言っている意味がわからない」
私「そうだな。
別のたとえ話をしてみよう。
たとえば学校のテストでも、いい点を取ってやろうと意気込むと、
たいてい失敗する。
正しい答を書こうと思ったときもそうだ。
そういうときは、まちがえないことだけを考えながら、答を書く。
まちがえなければ、正解、つまり丸(まる)ということになる」と。

どんなばあいも、どんな瞬間にも、事故は起きる。
そういう前提で、車を運転する。
大切なことは、事故を起こさないことだけを考えて走る。
どんなばあいも、どんな瞬間にも、だ。
結果として、それが安全運転につながる。

「うまく運転してやろう」などと考えてはいけない。
運転だけではない。
「うまくやってやろう」などと考えてはいけない。
失敗しないことだけを考えてする。
結果として、それで、うまくいく。

車の運転についても、事故を起こさないことだけをいつも考えて走る。
それが確率と偶然を打ち破る、ゆいいつの方法ということになる。

(付記)

講演のときもそうだ。
「今日はいい話をしてやろう」と力むと、たいてい失敗する。
そういうときは、「今日は、失敗しないように話をしよう」と考える。

スポーツのときもそうだ。
「今日はうまく決めてやろう」と力むと、たいてい失敗する。
そういうときは、「今日はミスしないようにやろう」と考える。

結果は、そのあと、自然な形で、ついてくる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

Tuesday, October 28, 2008

*How to live more fruitfully

●密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七~八人の老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」と思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思う部分は、「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人になっても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだけなら、それは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。そういう人生だったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を生きたくらいの価値にしかならない。しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の何倍も長く生きることができる。仮に密度を一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分にして生きることができる。人生の長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間をムダにしていることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな私でも、つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。いわんや、七〇歳や八〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その「山」があるのかないのかということもわからない。が、あるらしいということだけはわかる。いつも一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからもそれが繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだけ先へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で考えられなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは思わない。ボケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私はもう真理に近づくことはできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今の私がこう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつづけたい。だから空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしというふうにして過ごす人生だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02-10-5)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●よい人・いやな人

 その人のもつやさしさに触れたとき、私の心はなごむ。そしてそういうとき、私は心のどこかで覚悟する。「この人を大切にしよう」と。何かができるわけではない。友情を温めるといっても、もうその時間もない。だから私は、ふと、後悔する。「こういう人と、もっと早く知りあいになっておけばよかった」と。

 先日、T市で講演をしたとき、Mさんという女性に会った。「もうすぐ六〇歳です」と言っていたが、本当に心のおだやかな人だった。「人間関係で悩んでいる人も多いようですが、私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と笑っていたが、まったくそのとおりの人だった。短い時間だったが、私は、どうすれば人はMさんのようになれるのか、それを懸命にさぐろうとしていた。

 人の心はカガミのようなものだ。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。もしあなたがAさんならAさんを、よい人だと思っているなら、Aさんもあなたのことをよい人だと思っているもの。反対に、あなたがAさんをいやな人と思っているなら、Aさんもあなたをいやな人だと思っているもの。人間の関係というのはそういうもので、長い時間をかけてそうなる。

 そのMさんだが、他人のために、実に軽やかに動きまわっていた。私は講演のあと、別の講演の打ちあわせで人を待っていたのだが、その世話までしてくれた。さらに待っている間、自分でもサンドイッチを注文し、さかんに私にそれをすすめてくれた。こまやかな気配りをしながら、それでいてよくありがちな押しつけがましさは、どこにもなかった。時間にすれば三〇分ほどの時間だったが、私は、「なるほど」と、思った。

 教師と生徒、さらには親と子の関係も、これによく似ている。短い期間ならたがいにごまかしてつきあうこともできる。が、半年、一年となると、そうはいかない。ここにも書いたように、心はカガミのようなもので、やがて自分の心の中に、相手の心を写すようになる。もしあなたがB先生ならB先生を、「いい先生だ」と思っていると、B先生も、あなたの子どもを介して、あなたのことを、「いい親だ」と思うようになる。そしてそういうたがいの心の相乗効果が、よりよい人間関係をつくる。

 親と子も、例外ではない。あなたが今、「うちの子はすばらしい。どこへ出しても恥ずかしくない」と思っているなら、あなたの子どもも、あなたのことをそう思うようになる。「うちの親はすばらしい親だ」と。そうでなければ、そうでない。そこでもしそうなら、つまり、もしあなたが「うちの子は、何をしても心配」と思っているなら、あなたがすべきことは、ただ一つ。自分の心をつくりなおす。子どもをなおすのではない。自分の心をつくりなおす。

 一つの方法としては、子どもに対する口グセを変える。今日からでも、そしてたった今からでも遅くないから、子どもに向かっては、「あなたはいい子ね」「この前より、ずっとよくなったわ」「あなたはすばらしい子よ。お母さんはうれしいわ」と。最初はウソでもよい。ウソでもよいから、それを繰り返す。こうした口グセというのは不思議なもので、それが自然な形で言えるようになったとき、あなたの子どもも、その「いい子」になっている。

 Mさんのまわりの人に、悪い人はいない。これもまた不思議なもので、よい人のまわりには、よい人しか集まらない。仮に悪い人でも、そのよい人になってしまう。人間が本来的にもっている「善」の力には、そういう作用がある。そしてそういう作用が、その人のまわりを、明るく、過ごしやすいものにする。Mさんが、「私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と言った言葉の背景には、そういう環境がある。

 さて、最後に私のこと。私はまちがいなく、いやな人間だ。自分でもそれがわかっている。心はゆがんでいるし、性格も悪い。全体的にみれば、平均的な人間かもしれないが、とてもMさんのようにはなれない。私と会った人は、どの人も、私にあきれて去っていく。「何だ、はやし浩司って、こんな程度の男だったのか」と。実際に、そう言った人はいないが、私にはそれがわかる。過去を悔やむわけではないが、私はそれに気がつくのが、あまりにも遅すぎた。もっと早く、つまりもっと若いときにそれに気がついていれば、今、これほどまでに後悔することはないだろうと思う。私のまわりにも、すばらしい人はたくさんいたはずだ。しかし私は、それに気づかなかった。そういう人たちを、あまりにも粗末にしすぎた。それが今、心底、悔やまれる。
(02-10-6)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●こんな事件

 ビデオのレンタルショップの前でのこと。一台の車が、通路をふさぐように駐車してあった。その横の駐車場には、まだ空いているところがたくさんある。ほかの車が通れない。そこで私はそのときふと、つまりそれほど深く考えないで、ワイフにこう言った。「あんなところに、車を止めているバカがいる」と。ワイフがその方向を見たその瞬間、ななめうしろに立っていた女性(五〇歳くらい)が、私たちをものすごい目つきでにらみながら、その車のほうに走っていった。そこに車を止めていたのは、その女性だった。

 私は瞬間、なぜ私たちがにらまれるのか、その理由がわからなかった。しかし再度、にらまれたとき、理由がわかった。わかったとたん、何とも言えない気まずさが心をふさいだ。まさか私たちのうしろに立っていた人が、その人だったとは! 私はたしかに、「バカ」という言葉を使った。……使ってしまった。

 口は災(わざわ)いのもととは、よくいう。私はその女性とはショップの中で、できるだけ顔を合わせないようにしていた。が、それでも数度、視線が合ってしまった。いやな気分だった。その女性は、駐車場でないところに車を止めた。それはささいなことだが、ルール違反はルール違反だ。しかしそれと同じくらい、「バカ」という言葉を使った、私も悪い。それはちょうど、泥棒に入ったコソ泥を、棒でたたいてケガをさせたようなものだ。相手が悪いからといって、こちらが何をしてもよいというわけではない。私にしてみれば、私の「地」が、思わず出てしまったということになる。

 私はもともと、生まれも育ちも、よくない。子どものころは、喧嘩(けんか)ばかりしていた。かなりの問題児だったようだ。いつも通知表に、「落ち着きがない」と書かれていた。それもそのはず。私が生まれ育った家庭は、「家庭」としての機能を果たしていなかった。私がここでいう「地」というのは、そういう素性をいう。

 で、こういう状態になると、ゆっくりとビデオを選ぶという気分には、とてもなれない。早くその場を離れたかった。そういう思いはあったが、ではなぜ私が「バカ」という言葉を使ったか、それには理由がある。弁解がましく聞こえるかもしれないが、まあ、話だけは聞いてほしい。

 今、この地球は、たいへんな危機的状況にある。あと一〇〇年で、地球の平均気温は、三~四度ほどあがるという。まだ零点何度かあがっただけで、この地球上では、無数の異変が起きている。こういう異変を見ただけでも、三~四度あがるということがどういうことだか、わかるはず。しかし、だ。その一〇〇年で、気温上昇が止まるわけではない。つぎの一〇〇年では、もっとあがる。このまま上昇しつづければ、二〇〇年後には、一〇度、二〇度と上昇するかもしれない。そうなればなったで、人類どころか、あらゆる生物は死滅する。

 で、こうした異変がなぜ起き始めたかだが、私は、その責任は、それぞれの人すべてにあると思う。必要なことを、必要な範囲でしていて、それで地球の気温があがるというのであれば、これはやむをえない。まだ救われる。しかし人間自身の愚かさが原因だとするなら、悔やんでも悔やみきれない。

●小型ジーゼル車のマフラーを改造して、燃費をよくする人がいる。そういう人の車は、モクモクと黒煙をあげて走る。私はそのたびに、ハンカチで口を押さえて、自転車をこぐ。

●信号が赤になっても、しかも一呼吸おいたあと、その信号を無視して、走り抜けようとする人がいる。私も先日、あやうくそういう車にはねられそうになった。

●私の家の塀の内側は、かっこうのゴミ捨て場になっている。ポリ袋、弁当の食べかす、タバコの空箱、ペットボトルなどが、いつも投げ込まれる。そのたびに、しなくてもよい掃除をする。

●小さな車やバイクだが、やはりマフラーを改造し、ものすごい音をたてて走る若者がいる。そういう車やバイクが走りすぎるたびに、恐怖感を覚える、などなど。

 そういう無数の「ルール違反」が重なって、結局は、この地球の環境を破壊する。それもここに書いたように、生きるために必要なことをしていてそうなったのなら、まだ救われる。しかし人間の愚かな行為が積み重なってそうなったとしたら、それはもう、弁解の余地はない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母親は、こう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。

 私は駐車場でもないところに平気で駐車している人は、そのバカな人ということになる。こういう人たちの「ルール違反」が、積もりに積もって、この地球の環境を破壊する。むすかしいことではない。その破壊は、私たちの、ごく日常的な、何でもない行為から始まる。だから私は「バカ」という言葉を使ってしまった。心のどこかで、地球温暖化の問題と、その車が結びついてしまったからだ。が、しかし、あまりよい言葉ではないこともたしかだ。これからは外の世界では使わないようにする。もう少し別の方法で、こうしたルール違反と戦いたい。
(02-10-6)※

*When we know the truth in the morning, we are ready to die.

●朝に道を聞かば……

+++++++++++++++++

論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。

それについて以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あなたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五~一九一〇)も、こう書いている。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口三〇〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そんなある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02-10-5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、ニ倍の人生を生きることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生きることができる。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。

*Confucius

●孔子の60代(Confucius on 60’s)

+++++++++++++++++++

60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。

孔子(前551~前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。

その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。

『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。

+++++++++++++++++++++

計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。

ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。

それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。

が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。

もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。

私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。

このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。

老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。

ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!

さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
孔子 春秋時代 Confucius)

Monday, October 27, 2008

*dishonest Man

●10月28日(My B-Day)

++++++++++++++++++

10月28日、今日は、私の誕生日。
すなおに喜べばよいのに、どうも
喜べない。

子どもというのは、誕生日ごとに、
大きく成長する。
しかし私たちは、誕生日ごとに、
大きく衰退する。

ただこの1年間、無事、元気に過ごせた
ことについては、感謝する。
「よかった」と思いつつ、ほっとする。

満61歳。
つぎの誕生日をめざして、今日から、
がんばる!

来年の今日、同じような文章が書けたら、
うれしい。

++++++++++++++++++

●61歳の抱負

61歳の抱負といっても、とくにない。
今は、とにかく現状維持。
それで精一杯。

ただ世の中の動きと逆行して、仕事
そのものは、上向き。
徐々に、より忙しくなりつつあるのを、
肌で感ずる。
加えて、やりたいことが、山のように
ある。

どれからこなしていってよいのか、
自分でもわからないときがある。
たいへんありがたいことだと思う。


●悪人とはつきあうな

新しく買った電子辞書の中に、こんな言葉が載っていた。

『今与不善人処、則所聞者欺誣詐偽也』(荀子・性悪)と。

意味は「今、不善の人と処(を)れば、則(すなわ)ち、
聞くところの者は、欺誣(きふ)詐偽なり」ということだ
そうだ。

わかりやすく言えば、「ずるい人とつきあえば、それと
つきあう人もずるい人」という意味らしい。

たとえば世の中には、口のうまい人がいる。
「口がうまい」というのは、軽蔑されるべきことでは
あっても、けっして、褒められるべきことではない。

そのときどきにおいて、相手の歓心を買ったり、
媚(こび)を売るため、適当なことを言う。
適当なことを言うから、矛盾を追及されたりすると、
その場その場で、これまた適当なことを言う。

言い逃れ、言いわけ、つじつま合わせなど。

これを繰り返している間に、信用をなくしていく。
が、世の中には、そういう人を求めて、集まって
いく人たちがいる。
『類は友を呼ぶ』ということわざもある。
が、当の本人たちは、それでも結構、楽しそう。
仲もよい。

たとえばたがいに浮気の成果を誇りあったりする。
詐欺で儲けた金額を、自慢しあったりする。
ずるいことをして、法を逃れたことを、得意に
なって、話したりする。
もっともそれなりに、それらしい哲学(?)を
口にすることもある。
こうした現象を、いったい、どう理解したらよいのか。

ひとつの理由として、(心が崩れた世界)は、
それなりに居心地がよいということ。
仮面をかぶる必要がない。
無理な気負いもない。
あるがままの自分を、そのままさらけ出すことができる。

これはそのまま子どもの世界についても、当てはまる。
たとえば非行を繰り返す子どもは、その「類」の
子どもどうしで集まる傾向が強い。
グループを作ったり、徒党を組んだりする。
やはりそのほうが、居心地がよいからである。

が、ひとたびこうなると、あとは、退廃に向かって、
まっしぐら!

で、それを荀子は戒(いまし)めた。
『今与不善人処、則所聞者欺誣詐偽也』と。
簡単にいえば、「不善な人とはつきあうな」という意味。
実際、不善な人とつきあっていると、こちらまで、
おかしくなる。
善悪の判断が、鈍くなる。
とくに私など、もともとそれほどよい環境に生まれ
育っていない。
悪に触れると、そのままスーッと、悪の道に入って
しまいそうなところがある。
そんな(弱さ)がある。

実際、20歳前後のころのこと、
(やくざ)の世界にあこがれたこともある。
で、その反動形成というか、今では、不善な人を、
必要以上に忌み嫌うようになってしまった。
たとえば「ウソ」に出会うと、生理的な嫌悪感を
覚える。
はっきり言えば、ウソは、嫌い。
大嫌い。
現実には、ウソをつく人とは、交際しない。
「適当につきあって、適当にあしらう」ということが
できない。

が、ウソと無縁で生きるのは難しい。
そこで私は、いつも自分にこう言い聞かせている。

ウソはつかない。
ウソをつきたいときは、黙っている、と。
ウソをついて、あとで気分を悪くするくらいなら、
黙っていたほうがよい。

不善についても、同じ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 不善 荀子 悪人論)

Sunday, October 26, 2008

*Women's Sex

●女の性(さが)

++++++++++++++++++

久しぶりに実の娘(60歳)が、実家の
母親(83歳)を訪問した。
すると、その母親が
娘に、こう言ったそうだ。

「ああ、イライラする。私に、ひとり男を
あてがってよ!」と。
つまり「セックスをしたいから、男を連れて
来てよ!」と。

その母親は、この10年近く、ひとり住まい。
娘は近くに住んでいて、週に1、2度、実家へ
通っている。
母親の世話をしている。

+++++++++++++++++++

男の性については、私自身が男だから、ある程度、理解もできるし、
どうなるかについても、予想ができる。
しかし当然のことながら、女性については、わからない。
予想もできない。

しかし基本的には、男も女も同じ。
とくに更年期を過ぎてからの男と女は、同じ。
だから80歳を過ぎた女性が、「男が欲しい」と言ったとしても、
おかしくない。
男だって、50歳になっても、60歳になっても、性欲はある。
Sックスに興味をなくすわけではない。

しかしいくらなんでも、実の娘にそんなことを言う母親がいるだろうか。
実の娘に向かって、「男とセックスしたいから、男を連れてきてほしい」と。
私はそれを聞いて、自分の耳を疑った。
「本当ですか?」と、数度繰り返した。

が、そう言われてみて、思い当たるフシがいくつかある。

これはある特別擁護老人ホームで働く職員に聞いた話だが、そのホームでは、
老人たちの第一の関心ごとは、男女関係という。
1人の男性(もしくは女性)を取りあって、女性どうし(男性どうし)が、
血みどろの戦いを繰り返すことも珍しくないそうだ。
この話をワイフに伝えると、「どこでもそうみたいよ」と。

フ~~~ンと感心しているとき、あのフロイトが使った「性的エネルギー」
という言葉を思い出した。
多分フロイトも、どこかでそういう老人たちの姿を見たのかもしれない。
そこで彼は、こう言いだした。
「人間を動かす原動力は、性的エネルギーである」と。

言いかえると、男も女も、死ぬまで、性(さが)から解放されることはないという
ことか?

しかし現実問題として、女性のばあいは知らないが、男性のばあいは、機能の問題
がある。
使い物になるかどうかという問題である。
あれがフニャフニャしていたのでは、使い物にならない。
(これに対して、女性のほうは、袋のようになっているわけだから、機能はあまり
関係ないということになるのか?)

ついでながら、2006年度版、「高齢社会白書」を見てみよう。

++++++++++++++++++

●高齢化率の推移=26.0%(2015年)、35.7%(2050年)
●平均寿命=78.32年(男性)、85.23年(女性)
●平均余命(65歳時)=17.96年(男性)、22.96年(女性)
●65歳以上の世帯数=1,685万世帯(2002年)全世帯の36.6%
●65歳以上の単独世帯=341万世帯(20.2%)
●65歳以上の「夫婦のみの世帯」=482万世帯(28.6%)
●65歳以上の「親と未婚の子のみの世帯」=263万世帯(15.6%)
●65歳以上の「三世代世帯」=400万世帯(23.7%)
●65歳以上の労働力人口=489万人(全労働力人口の7.3%)
●65歳以上世帯の貯蓄現在高=2,420万円(2002年)
●65~69歳男性の就業状況=51.6%
●65~69歳女性の就業状況=28.7%
(「高齢社会白書」2006年度版より)

これらの数字を見てまず感ずることは、「ふつうの生活を送ることのむずかしさ」
である。
もちろん生活には、標準もなければ、基準もない。
(ふつう)についても、定義があるわけではない。
私は私。
あなたはあなた。
人、それぞれ。
(ふつう)など、気にすることはない。

が、それでも、心のどこかで(ふつう)を考えてしまう。
ふつうの家族として、ふつうに生活する……。
その(ふつう)であることは、本当にむずかしい。
そんな印象をもった。

ただ勇気づけられた点は、65~70歳の男性で、働いている人が、50%もいるという
こと。
もちろん中には、「働かざるをえなくて働いている」という人もいるだろう。
それに「働く」といっても、中身もある。
毎日働いている人もいるし、週1~2回程度働いている人もいる。
しかし「元気で働けることこそ財産」と考えるなら、家の中でブラブラしている人
(失礼!)よりは、働けるだけでも、御の字。
田丸謙二先生の言葉を借りるなら、「感謝、感謝、感謝」。

私自身も、最近、大きな目標を立てた。
「満70歳まで、元気で働く」という目標である。
もちろん、フルタイムで働く。
が、このままでは先は、あぶない(?)。

義兄(ワイフの姉の夫)は昨夜、私にこう言った。
「人間というのは、65歳にもなると、やる気が失せてくる。
70歳になると、体がおいつかなくなってくる」と。

私も、薄々だが、それがわかる。
少しずつだが、私自身が、そういう状態になりつつあるのを知る。
そこでそのための体力づくりというか、健康づくりも、始めた。
運動量も、1日2単位。
(1単位=40分のサイクリング。)
それだけは最低でも、確実に実行する。

11月は講演がつづく。
法事もある。
何かと忙しい。
しかし12月からは、月2回の(歩こう会)を兼ねた旅行に参加する。
肉体の健康だけではない。
精神と脳みその健康も大切。

そこで週2回は、劇場で映画を見る。
さらに12月からは、電子マガジンの発行に、さらに本腰を入れる、などなど。

仕事ができる、できないは、その結果として決まる。
仕事をする、しないは、さらにその結果として決まる。

+++++++++++++++++++

話を戻す。

……となると、いくつになっても、性的エネルギーを保つということは、
重要なことかもしれない。
「80歳になったから、男に興味をもつのはおかしい」とか、「Sックスの
話をするのは、まちがっている」と決めつけるほうがおかしい(?)。

その女性(60歳)は、「私の母は、おかしい」と言っていたが、動物としての
人間は、もともとそういうものかもしれない。
つまりその母親だけがおかしいと考えるのではなく、私やあなたもそうである
という前提で考えたほうが、よいということ。
「そんなことを考えてはだめ」と決めつけるのではなく、80歳の女性でも
Sックスを楽しめるような環境というか、場所を用意してやることこそ、
大切ということになる。

この私だって、もしワイフに先立たれてしまったら、そのあとは、どうすれば
よいのか。
そのあとは、聖人のような生活をしなければならないのか。
またそうでなければ、ならないのか。
自分だけがほかの老人たちとちがうと考えるほうが、おかしい。
私もいつか、老人ホームへ入れば、そこで女性を取りあって、血みどろの戦いを
繰り広げるようになるかもしれない。
そういうことはしないという自信は、まったくない。

その女性とその女性の話を聞いて、いろいろと考えさせられた。


(追記)
昨日、田丸先生からメールが届いた。
先生は、直葬を望んでおられるようだ。
「自分が死んだら、そのまま火葬してもらい、葬儀はしてほしくない」と。
「先生が亡くなったら、全国ニュースになりますよ」と返事を書いたが、
都会では、その直葬にする人が、どんどんとふえている。
30%を超えた(中日新聞)とも言われている。

Saturday, October 25, 2008

*Don't repeat the stupid access toward South Korea

●10月26日(『97年の愚』を繰り返すな!)

+++++++++++++++++

小寒い朝。
起きると同時に、朝風呂。
「ぼくら老人臭がするかもね」と。
が、たがいに臭(くさ)いときには、それはわからない。
やはり最低でも、2日に1度は、風呂に入って、
体をゴシゴシ、洗う。
3日も入らないでいると、自分で、その臭(にお)いが、
わかるときがある。

それで今朝、起きると同時に風呂に入った。

+++++++++++++++++

【日韓経済戦争】(10月26日)

韓国のイ大統領が、今月の初め、「日中韓による通貨安定協議」なるものを提唱した。
わかりやすく言えば、「韓国を助けてくれ!」と。
しかし日本も中国も、それを無視。
韓国の新聞は、「恥をかいた」と報道している。
それもそのはず。
韓国など、もとからお呼びではない!

……という事実に、韓国は気づいていなかった。
同じ自由主義貿易圏の中に身を置きながら、反米、反日を唱えれば、どうなるか。
そんなことは自明の理ではないか。

現在、1ドルは1424ウォン。
ドル安で、世界の通貨が相対的に上昇している中、韓国ウォンだけは、価値が下降。
現在、世界中からウォン売りの猛攻勢を受けている。
当然のことながら、株価も大暴落。

何も韓国のことを心配して、こう書いているのではない。
私たち日本人は、あの『97年の愚』を繰り返してはいけないと書いている。

1997年の当時、韓国が通貨危機に陥ったとき、日本政府(とくに時のK外務大臣)は、
頼まれもしないうちから、しかもアメリカの反対を押し切って、韓国救済に走った。
その額、500億ドル!

が、そのあと、韓国はどうなったか?
日本に対して、どうしたか?
株価(KOSPI)が、2000ポイントに近づいてくると、「世界第11位の
経済大国」になったと大はしゃぎ。
「自分たちも、サミット主要国会議のメンバーになる資格がある」とまで言い出した。

もちろんその間も、反日、反日の大合唱!
日本のA新聞社が竹島に向けてセスナ機を飛ばしただけで、韓国は戦闘機でそれを迎えた。
さらに最近にいたっては、対馬(つしま)まで、韓国領土だと言い出している。
日本が国連の安保理事国入りをめざしたときは、世界各国に特使まで派遣して、それに
反対した。

当時も、そして今の今も、韓国は、最悪の反日国家であることにはちがいない。
もちろん韓国がそうなった責任の一端は日本にもあるし、日韓の間で、友好に努力
している人も少なくない。
しかしそうした(甘さ)は、こと韓国に対しては、通用しない。
それが『97年の愚』ということになる。

韓国経済はすでに破産状態。
無理にがんばればがんばるほど、さらに傷口は大きくなる。
日本の知ったことではないが、これだけは、確か。

日本よ、日本人よ、それにAS総理大臣よ、あの『97年の愚』だけは、ぜったいに
繰りかえしてはいけない!

*The Japanese has been getting more and more no-brain people

【一億総ギャグ化】

●ものごとを茶化す子ども

++++++++++++++++++++++

何かテーマを与えても、すぐそれをギャク化して
しまう子どもは、少なくない。

小学3~4年生レベルで、20~30%はいる。
その傾向のある子どもとなると、もっと多い。
1人の子どもが茶化し始めると、ほかの子どもたちも
同調して、クラスがめちゃめちゃになってしまうこともある。

こうした傾向は、年中児くらいのときに、すでに現れる。

私「秋になると、どんな果物が出ますか?」
子「出る、出る、出るのは、お化け!」
ほかの子「お化けだってエ~」「ギャーッ」と。

++++++++++++++++++++++

ここ20年の傾向として、いわゆる(まじめに考える子ども)が少なくなったことが
あげられる。
論理を積み重ねあわせるということができない。
静かにものごとを推理したり、分析したりすることができない。
ひらめき思考というか、直感(直観)ばかりが、異常に発達している。
反応は速いが、言うことなすこと、支離滅裂。
まるでテレビのバラエティ番組の出演者のようなしゃべり方をする。
脳に飛来した情報を、そのままペラペラと口にしているだけ。

私「世界の食糧が足りなくなるそうだ」
子(小4男児)「大きな動物を飼育すればいい」
私「大きな動物って?」
子「ゴジラとか、恐竜とか、さあ」
私「そんな動物はいないよ」
子「じゃあ、クジラでもいい。浜名湖で、養殖すればいい」と。

先にも書いたように、こうした傾向は、年中児くらいから見られるようになる。

何か問題を与えても、まじめに考えようとしない。
「お父さんの顔を描いてね」と紙を渡しても、怪獣の絵を描いたりする。
しかもゲラゲラと笑いながら、それを描く。
だから私のほうは、「まじめに考えなさい」と注意するのだが、もちろん「まじめ」
という言葉の意味そのものが、理解できない。
ほかに、視線が定まらない。(フワフワとした感じになる。)
興奮しやすい。(キャッ、キャッと騒ぐ。)
静かに考えるという習慣そのものがない。(ソワソワし、刺激を求める。)
言い方が乱暴、などの特徴が見られる。

で、子どもがそうなるには、いろいろな原因が考えられる。
右脳の過度な刺激?
テレビのギャグ(バラエティ)番組の見すぎ?
家庭における、親の過干渉?
が、何よりも大きな影響を与えるのは、母親と考えてよい。

子どもというのは、生まれながらにして、無数の接触を通して、親、とくに母親の
影響を大きく受ける。
「受ける」というより、母親と一体化する。
こと親子に関していえば、(教えずして教える)部分のほうが、(教えようとして
教える)部分より、はるかに多い。

その(教えずして教える)部分を通して、子どもは親の考え方そのものを
身につけてしまう。
たとえば母親が毎晩、ギャグ番組を見ながら、ゲラゲラと笑いこけていたとする。
当然、母親は、番組の影響を受ける。
そして子どもは、母親の影響を受ける。
タバコにたとえるなら、母親がタバコを吸い、子どもがその副流煙を吸い込む。

ほかにも、たとえば母親がいつも頭ごなしなものの言い方をしていると、
当然のことながら、子どもは、(考える)という習慣そのものを失う。
たとえば、粗放型の過干渉児も、(親の過干渉によって萎縮するタイプと、
反対に粗放化するタイプがある)、似たような症状を示すこともある。

態度が大きく、ものの言い方が、乱暴。
存在感はあるが、静かな落ち着きが見られない。

が、こうした習慣は、先にも書いたように、かなり早い時期に決まる。
(反対に、論理力のある子どもかどうかも、年中児くらいのときにはっきりしてくる。)
そしてここからが重要だが、そうした問題点が見つかったからといって、また
親がそれに気づいたからといって、簡単にはなおらない。

子どもはあくまでも(家族の代表)でしかない。
子どもを変える(?)のは、むずかしい。
が、親を変える(?)のは、さらにむずかしい。

過干渉児にしても、一度そういう症状が現れてしまうと、(親は、「どうすれば
ハキハキした子にすることができるでしょうか」と相談してくるが)、子どもを
なおすのは、不可能と考えてよい。

ふつう私がアドバイスしたくらいでは、効果はほとんど、ない。
論理力の欠如にせよ、過干渉にせよ、それを親に自覚させるのは、たいへんむずかしい。
ほとんどの親は、自分では、「ふつう」と思いこんでいる。
その(ふつう)を、まず打破しなければならない。

さらに言えば、「お母さん自身が、もっと論理力を養ってください」と言っても、
困るのはその親自身というということになる。
少し前にもある母親とそういう会話をしたが、「では、どうすればいいですか?」と
聞かれて、私は、ハタと困ってしまった。

また親の過干渉についていえば、親自身の情緒的欠陥に起因しているケースが多い。
(心の病気)が、原因となることもある。

(よく誤解されるが、口うるさいことを過干渉というのではない。
口うるさいだけなら、子どもには、それほど大きな影響はない。
「過干渉」というときは、そこに親に(とらえどころのない情緒的な不安定さ)が
あることをいう。
気分によって、子どもをはげしく叱ったかと思うと、その直後には、子どもの前で
涙を出しながら、「ごめん」と謝ったりするなど。)

だから、「不可能と考えてよい」ということになる。
つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、親の問題。
親の問題というよりは、社会全体がかかえる、(社会問題)と考えてよい。

(社会)そのものから、(まじめに考える)という習慣が欠落し始めている。
あの大宅壮一は、『一億総白C化』という言葉を使ったが、現在は、『一億総ギャク化』
の時代ということになる。

日本を代表する総理大臣が、「私の愛読書は、ゴルゴ13(コミック)」と発言しても、
みじんも恥じない。
だれもそれをおかしいとも思わない。
そんな風潮が、この日本には、できてしまった。

その結果が、冒頭に書いた(ものごとを茶化す子ども)ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問題 家庭教育 はやし浩司 Education ギャク化する子供 子供のギャク化 茶化す子供 茶化す子ども)

++++++++++++++++++

6年前にも同じようなことを書きましたので、
紹介させてもらいます。

++++++++++++++++++


●学ぶ心のない子どもたち

 能力がないというわけではない。ほかに問題があるというわけでもない。しかし今、まじめに考えようとする態度そのものがない、そんな子どもがふえている。

 「享楽的」と言うこともできるが、それとも少し違う。ものごとを、すべて茶化してしまう。ギャグ化してしまう。「これは大切な話だよ」「これはまじめな話だよ」と前置きしても、そういう話は、耳に入らない。

私「今、日本と北朝鮮は、たいへん危険な関係にあるんだよ」
子「三角関係だ、三角関係だ!」
私「何、それ?」
子「先生、知らないの? 男一人と女二人の関係。危険な関係!」
私「いや、そんな話ではない。戦争になるかもしれないという話だよ」
子「ギャー、戦争だ。やっちまえ、やっちまえ、あんな北朝鮮!」
私「やっちまえ、って、どういうこと?」
子「原爆か水爆、使えばいい。アメリカに貸してもらえばいい」と。

 これは小学5年生たちと、実際した会話である。

 すべてがテレビの影響とは言えないが、テレビの影響ではないとは、もっと言えない。今、テレビを、毎日4~5時間見ている子どもは、いくらでもいる。高校生ともなると、1日中、テレビを見ている子どももいる。

よく平均値が調査されるが、ああした平均値には、ほとんど意味がない。たとえば毎日4時間テレビを見ている子どもと、毎日まったくテレビを見ない子どもの平均値は、2時間となる。だから「平均的な子どもは、2時間、テレビを見ている」などというのは、ナンセンス。毎日、4時間、テレビを見ている子どもがいることが問題なのである。平均値にだまされてはいけない。

 このタイプの子どもは、情報の吸収力と加工力は、ふつうの子ども以上に、ある。しかしその一方、自分で、静かに考えるという力が、ほとんど、ない。よく観察すると、その部分が、脳ミソの中から、欠落してしまっているかのようでもある。「まじめさ」が、まったく、ない。まじめに考えようとする姿勢そのものが、ない。

 もっとも小学校の高学年や、中学生になって、こうした症状が見られたら、「手遅れ」。少なくとも、「教育的な指導」で、どうこうなる問題ではない。

このタイプの子どもは、自分自身が何らかの形で、どん底に落とされて、その中で、つまり切羽(せっぱ)つまった状態の中で、自分で、その「まじめに考える道」をさがすしかない。結論を先に言えば、そういうことになるが、問題は、ではどうすれば、そういう子どもにしないですむかということ。K君(小5男児)を例にとって、考えてみよう。

 K君の父親は、惣菜(そうざい)屋を経営している。父親も、母親も、そのため、朝早くから加工場に行き、夜遅くまで、仕事をしている。K君はそのため、家では、1日中、テレビを見ている。夜遅くまで、毎日のように、低劣なバラエティ番組を見ている。

 が、テレビだけではない。父親は、どこかヤクザ的な人で、けんか早く、短気で、ものの考え方が短絡的。そのためK君に対しては、威圧的で、かつ暴力的である。K君は、「ぼくは子どものときから、いつもオヤジに殴られてばかりいた」と言っている。

 K君の環境を、いまさら分析するまでもない。K君は、そういう環境の中で、今のK君になった。つまり子どもをK君のようにしないためには、その反対のことをすればよいということになる。もっと言えば、「自ら考える子ども」にする。これについては、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 全体の風潮として、程度の差もあるが、今、このタイプの子どもが、ふえている。ふだんはそうでなくても、だれかがギャグを口にすると、ギャーギャーと、それに乗じてしまう。そういう子どもも含めると、約半数の子どもが、そうではないかと言える。

とても残念なことだが、こうした子どもたちが、今、日本の子どもたちの主流になりつつある。そして新しいタイプの日本人像をつくりつつある。もっともこうした風潮は、子どもたちの世界だけではない。おとなの世界でも、ギャグばかりを口にしているような低俗タレントはいくらでもいる。中には、あちこちから「文化人」(?)として表彰されているタレントもいる。日本人全体が、ますます「白痴化」(大宅壮一)しつつあるとみてよい。とても残念なことだが……。
(02-12-21)

● まじめに生きている人が、もっと正当に評価される、そんな日本にしよう。
● あなたのまわりにも、まじめに生きている人はいくらでもいる。そういう人を正当に評価しよう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●裸の王様(02年に書いた原稿です)

 アンデルセンの童話に、「裸の王様」(原題は、「王様の新しい衣服」)という物語がある。王様や、その側近のウソやインチキを、純真な子どもたちが見抜くという物語である。しかし現実にも、そういう例は、いくらでもある。

 先日も、私が、「今度、埼玉県のT市で講演することになったよ」と言うと、「へエ~、どうしてあんたなんかが?」と、思わず口にした中学生(女子)がいた。その中学生は、まさに裸の王様を見抜いた、純真な心ということになる。

 反対に、何かのことで思い悩んでいると、子どものほうからその答を教えてくれることがある。H市は、市の中心部に、400億円とか500億円とかをかけて、商業開発ビルを建設した。映画館やおもちゃ屋のほか、若い女性向けの洋品店などが並んだ。

当初は、結構なにぎわいをみせたが、それは数か月の間だけ。2フロアをぶちぬいて、子ども向けの児童館も作ったが、まだ1年そこそこというのに、今では閑古鳥が鳴いている。内装にかけた費用が5億円というから、それはそれは豪華な児童館である。どこもピカピカの大理石でおおわれている。もちろん一年中、冷暖房。まばゆいばかりのライトに包まれている。

で、その児童館について、ふと、私は、こう聞いてみた。「みんなは、あそこをどう思う?」と。すると子どもたち(小学生)は、「行かなア~イ」「つまらなア~イ」「一度、行っただけエ~」と。

 私の教室は、18坪しかない。たった18坪だが、部屋代はもちろんのこと、光熱費の使い方にまで気をつかっている。机やイスは、厚手のベニヤ板を買ってきて、自分で作った。アルバイトの学生を使いたくても、予算に余裕がなく、それもできない。が、それでも私の生活費を稼ぐだけで精一杯。が、私にとっては、それが現実。

 しかし同じH市に住みながら、行政にいちいちたてつくことは、損になることはあっても、得になることは何もない。それに文句を言うくらいなら、だれにだってできる。しかもすでに完成している。いまさら文句を言っても始まらない。それで思い悩んでいた。が、子どもたちは、あっさりと、「つまらナ~イ!」と。それで私も、ホッとした。「そうだよな、つまらないよね。そうだ、そうだ」と。

 仮に百歩譲っても、日本がかかえる借金は、もうすぐ1000兆円になる。日本人1人あたり、1億円の借金と言ったほうが、わかりやすい。あなたの家族が、4人家族なら、4億円の借金ということになる。そんなお金、返せるわけがない。ないのに、まだ日本は借金に借金を重ねて、道路や建物ばかり作っている。いったい、この国はどうなるのか? 政治家たちは、この国を、どうしようとしているのか?

 もう、私にはわからない。「なるようにしか、ならないだろうな」という程度しか、わからない。が、かわいそうなのは、つぎの世代の子どもたちである。知らず知らずのうちに、巨額の借金を背負わされている。

いつかあの児童館には、5億円もかかったことを知らされたとき、子どもたちは何と思うだろうか。果たして「ありがとう」と言うだろうか。それとも「こんなバカなことをしたからだ」と、怒るだろうか。今の今でも、子どもたちが「あそこは楽しい」と言ってくれれば、私も救われるのだが……。まあ、本音を言えば、結局は、役人の、快適な天下り先が、また一つ、ふえただけ? あああ。

 では、どうするか。私たちは、何を、どうすればよいのか?

 私はすでに、崩壊後の日本を考えている。遅かれ早かれ、日本の経済は、破綻する。その可能性はきわめて高い。その破綻を回避するためには、金利をかぎりなくゼロにして、国民のもつ財産を、銀行救済にあてるしかない。が、仮に破綻したとすると、日本はかつて経験したことがないような大混乱を通り抜けたあと、今度は、再生の道をさぐることになる。

が、皮肉なことに、その時期は早ければ早いほど、よい。今のように行き当たりばったりの、つまりはその場しのぎの延命策ばかりを繰りかえしていれば、被害はますます大きくなるだけ。となると、答は一つしかない。日本人も、ここらで一度、腹を決めて、自らを崩壊させるしかない。そしてそのあと、日本は暗くて長いトンネルに入ることになるが、それはもうしかたのないこと。私たち自身が、そういう国をつくってしまった!

 ただ願わくは、今度日本が再生するにしても、そのときは、今のような官僚政治とは決別しなければならない。日本は真の民主主義国家をめざさねばならない。新しい日本は、私たち自身が設計し、私たち自身が建設する。そのためにも、まず私たち自身が賢くなり、自分で考える。自由とは何か、平等とは何か、正義とは何か、と。それを自分たちで考えて、実行する。またそういう国でなければならない。そのための準備を、今から、みんなで始めるしかない。

 少し熱い話になってしまったが、子どもたちは、意外と正義を見抜いている。しかしその目は、裸の王様を見抜いた目。ときどきは、子どもたちの言うことにも、耳を傾けてみたらよい。すなおな気持ちで……。
(02-12-21)

● 子どもには、もっと税金の話、税金の使われ方の話をしよう。
● おかしいことについては、「おかしい」と、みなが、もっと声をあげよう。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

【一億総ギャグ化】

●ハンガーのない県

 昨夜、バラエティー番組を見た。クイズ番組だった。

 「日本で、ハンガーを使わない県がある。どこか?」と。

 何人かの出演者。それに司会者。たがいに「こうだ」「ああだ」と、意見をかわしていた。が、そのうち、だれもわからないとわかると、司会者がヒント。「ハンガーは、何をするためのものですか?」と。

 私は、その番組を見ながら、ふと、「いったい、日本で、今、何%の人が、こういう番組を見ているのだろう」と思った。平均視聴率からすると、5~10%ということになる。

 間の7・5%をとると、約1000万人の人が見ていることになる。(視聴率イコール、視聴者の数ではない。この計算は、正しくないかもしれないが、おおむね、そんなもの。)

 もともと娯楽番組だから、深く考える必要はない。出演者も、見るからに、その程度の人たち。

 しかしその瞬間、日本中で、約1000万人の人が、この問題を考える。1000万人だぞ!

 が、本当のところ、考えているのではない。情報を、頭の中で加工しているだけ。広く誤解されているが、思考と情報は、まったく別。物知りだから、頭がよいということにはならない。情報の加工は、あくまでも情報の加工。思考とは、区別する。

 このクイズの正解は、「福岡県」だそうだ。「服をかけない」=「ふくおかけん」=「福岡県」と。

 こうした駄ジャレは、子どもの世界では、日常の会話のようにもなっている。たがいに言いあっては、キャッ、キャッと笑いあっている。

 「ブツゾー(仏像)」「ドウゾー(銅像)」という定番ものから、「左右とは言うけど、右左(ユウ・サ)とは言わない」「ユーサー(言うさア)」というのまで、ズラリとある。

 子どもの世界では、こうしたジャレは、いわば、遊び。娯楽は、娯楽。あくまでも一部。

 そこで改めて、『一億、総ハxチ化』(大宅壮一)について考えてみる。

 一億の人たちが、ノーブレインになる前提として、(1)単一化と、(2)バランスの欠如をあげる。

 無数の駄ジャレがあって、無数のバリエーションがあればよい。それが一つの駄ジャレに、約1000万人の人が、共鳴する。これを単一化という。

 つぎに娯楽は、一方に、理知的な活動があってはじめて、娯楽となる。一方的に娯楽ばかり追求していたのでは、バランスがとれなくなる。子どもにたとえて言うなら、一方で、勉強をし、その合間に、駄ジャレを楽しむというのであれば、問題はない。大切なのは、バランスである。

 そのバランスがなくなったとき、人は、ノーブレインの状態になる。

 私の印象としては、日本人は、ますますノーブレインになってきていると思う。ときどき私自身はどうであったか。私の若いころはどうであったかと考えるが、今の若い人たちよりは、もう少し、私たちは、ものを考えたように思う。根拠はないが、そう思う。

 「服をかけん」=「福岡県」か? なるほどと思うと同時に、こんなくだらないことで、日本中が、騒いでいる? 私はそちらのほうこそ、問題ではないかと思った。それがわかったところで、考える人にはならない。またわかったからといって、頭のよい人ということにはならない。

 いいのかな……? それともテレビ局は、日本人を、わざとノーブレインするために、こういう番組を流しているのだろうか? ……とまあ、番組を見ながら、いろいろ、そこまで考えてしまった。

【追記】

思考……自分で考えること。思考には、独特の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い夜、自分の体にムチを打って、ジョギングに出かけるような苦痛である。そのため、ほとんど人は、その苦痛を避けようとする。

情報……いわゆる知識をいう。経験として知っていることも、それに含まれる。いくらその人の情報量が多いからといって、思考力のある人ということにはならない。この情報は、思考と、はっきりと区別する。

情報の加工……知っている情報を、足したり引いたり、足して2で割ったりするのを、情報の加工という。今まで、この情報の加工は、思考力の一つと考えられてきた。しかし情報の加工は、思考力とは関係ない。学校で習う、数学の証明問題を考えてみれば、それがわかる。パスルでもよい。それがいくらすばやく解けたところで、頭のよい人ということにはならない。それについては、また別のところで考えてみたい。

 
●情報の加工

 中学2年生で、三角形の合同を学ぶ。「2辺とその間の角が、それぞれ等しいので、△ABC≡△DEF」という、あれである。

 こうした問題には、得意、不得意がある。得意な子どもは、スイスイと解く。そうでない子どもは、いくら教えても、コツを飲みこめない。

 しかしこうした問題には、そのコツがある。たくさん量をこなせば、よりむずかしい問題が解けるようになる。が、それが解けたところで、思考力のある子どもということには、ならない。

 私は、若いころ、一人の高校生(男子)を教えていて、それを知った。ある予備校でアルバイトをしていたとき、その予備校の校長に、頼まれて、家庭教師をした。その高校生だった。

 その高校生は、こう言った。「この世の中のことは、すべて数学で証明できる」と。そう、彼は「人間関係も、すべて証明できる」と言った。「その公式が見つからないだけだ」とも。

 実にヘンチクリンな高校生だった。常識に欠けるというか、常識そのものを感じなかった。もちろん恋などとは、無縁。音楽も聞かなかった。ただひたすら、勉強、また勉強。

 だから日本でいう(勉強)は、実によくできた。当然のことながら、数学だけは、とくに、よくできた。三角関数の微分問題でも、子どもが、掛け算の九九を唱えるように簡単に解いていた。

 しかし私たちは、そういう子どもを、思考力のある子どもとは、言わない。数学という情報を、組み合わせ、分解し、あるいは、集合させているだけ。あるいはそのつど、必要な情報を、臨機応変に取り出しているだけ。

 わかりやすく言えば、ここで「掛け算の九九」と書いたが、いくら掛け算の九九をソラでスラスラと言っても、思考力のある子どもとは言わない。掛け算の問題がスラスラと解けたからといって、思考力のある子どもということにもならない。

 数学のレベルこそ、ちがうが、その高校生も、そうだった。

 だから私は、あえて言う。情報の加工と、思考力は、区別して考える。

 思考力というのは、心の常識に静かに耳を傾け、自分がすべきことと、してはいけないことを、冷静に考え、判断する能力をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●超能力捜査官(?)

 おとといも、そして昨夜も、民放のテレビ局が、超能力捜査官なる人物を登場させて、わけのわからない番組を流していた。

 で、最後までしっかりと見たが、結局は、みな、ハズレ! おとといの番組は、超能力捜査官なる人物を使って、生き別れになった母親を探し出すというもの。昨日の番組は、アメリカで失踪した、女子大学生の行方を探し出すというもの。

 ものごとは、常識で考えろ! そんなことで、生き別れになった人や、失踪した人の居場所など、わかるはずがない。多少の科学性があるとするなら、ダウジングだが、しかし、私は、信じない。ダウジングというのは、針金のような棒をもって、地下に埋まっているものをさがしだすという、あれである。

 その(モノ)の上に、何かの棒(これをダウジングロッドという)をもってやってくると、その棒が地下にあるものと反応して、動いたりするという。その動きを見ながら、地下にあるものをさがしだす。

磁場や磁力の微妙な変化を感じ取ってそうなるらしいが、しかし水脈や鉱脈のような大きなものについては、その可能性もないとは言えないが、地下に埋まった筒や箱程度のものに、それほどまでに大きな力があるとは、思われない。つまり手にもった棒を動かすほどの力があるとは、思われない。

 番組の中では、学校の校庭に埋められたタイムカプセルをさがし出すというようなことをしていたが、逆に考えてみれば、トリックは、簡単にわかるはず。

 あなたがタイムカプセルを埋めるとしたら、どんな場所に埋めるだろうか。まさか校庭に中央ということはあるまい。たいていは、校庭のすみで、木とか、鉄棒とか、何かの目印になるものの横に埋める。そうした常識を働かせば、タイムカプセルがどこに埋められているかは、おおよその見当がつくはず。

 ああいう番組を、何の疑いももたず、全国に垂れ流す、その愚かさを知れ。当たりもしないのに、そのつど、ギャーギャーと騒いでみせる、その愚かさを知れ。さらにこうした番組が、それを見る子どもたちにどのような影響を与えるか、その恐ろしさを知れ。

 超能力捜査官を名乗る男たちは、その過程で、道路の様子や、風景について、あれこれと言い当てて見せたりする。しかしそんなことは、あらかじめ簡単な下調べをすれば、わかること。

男「近くに湖があります」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」
男「学校があるはずです」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」と。

 しかし肝心の遺骨は出てこなかった。が、それ以上に許せないのは、遺族ともまだ言えない家族を前にして、「殺されています」「埋められています」と、口に出して、それを言うこと。他人の不幸を、こういう形で、娯楽番組にしてしまう、その冷酷さを知れ。残酷さを知れ!

 本当に、日本人はバカになっていく。昔、「一億、総xxx」と言った、著名な評論家がいたが、日本人は、ますますそのxxxになっていく。「xxx」というのは、ノーブレインの状態をいう。脳死の状態と言ってもよい。

 こういうことを書くと、それを信じている人は、猛烈に怒る。その気持ちは、わかる。しかしそれこそカルト信仰ではないのか。あるいはカルト信仰の前段階と言ってもよい。そういうものを信ずることによって、知らず知らずのうちに、その人は、カルト信仰の下地を、自ら、作っていることになる。

(付記)

 そうであるとは断言できないが、テレビ局は、たまたま当たったばあいだけを、編集して放送しているのではないかという疑いもある。もしそうなら、それこそ、まさに詐欺と断言してよい。国民の良識を愚弄(ぐろう)する、詐欺である。こうした番組を見るときは、そういう目で見ることも忘れてはならない。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●アメリカ追従外交(?)

 少し前、小泉政権を総括して、政治評論家たちは、みな、異口同音にこう言う。「アメリカ追従外交だった」と。

 しかし浜松市という、この地方都市に住んでいると、少しちがった印象をもつ。アメリカ、アメリカというが、どこに、アメリカがあるのか?

 むしろ、この浜松市に住んでいると、アメリカよりも、「東京」という都市がもつ傲慢さというか、独善性のほうばかりが、目につく。何でもかんでも、「東京」「東京」、また「東京」。

 おそらく東京に住んでいる人は、それに気づいていないだろう。もちろん、東京に住んでいる人に、責任があるわけではない。しかし地方から見ると、そうではない。「東京」は、どこか、遊離している。私たちが、この浜松で感じている日本とは、どこかがちがう。

 実際、「東京」から流れてくる文化には、「?」なものが多い。この浜松という地方都市とくらべても、どこか、低劣、低俗、低レベル! こう書くと、東京に住んでいる人は怒るかもしれない。が、私は、何も、東京に住んでいる人が、そうであると言っているのではない。

 東京から流れてくる文化が、そうであると言っている。言いかえると、東京に住んで、東京で文化をリードしている人たちは、もう少し、その自覚をもってほしいということ。つまり「私たちが日本をリードしているのだ」という自覚である。東京が日本の中心だというのなら、それはそれで構わない。だとするなら、それだけの責任を心のどこかで、感じてほしいということ。

 その「東京」が、率先して、どこかアホなことばかりしている。どこかバカなことばかりをしている。よい例が、テレビのギャーギャー番組。見るからに軽薄そうな男女が、意味もないギャグを飛ばし、ギャーギャーと騒いでいる。

 あとは、右へならへ! 全国の道府県が、それにならう。

 日本は、奈良時代の昔から、中央集権国家。それはわかる。しかしそれは政治の話。文化まで、中央集権国家になっているというのは、実に、おかしい。中央には中央の文化がある。それは否定しない。しかし地方には地方の文化がある。優劣は、ない!

 構造主義をうちたてた、あのレヴィ・ストロース(1908~、サルトルと激論したことで有名)も、こう述べている。

 都市で近代的な生活をする人も、ジャングルの中で野性的な生活する人も、どちらにも優劣はない、と。つまり「もともと別の価値観をもった文明である」と。

ジャングルの中で生活している人は、パソコンや近代機器についての知識はないかもしれない。が、自然については豊富な知識をもっている。そのちがいに、優劣はないというのだ。

 が、この日本では、何かにつけて、都会文明ばかりが、優先される。そしてそれが容赦なく、この浜松市という地方都市にまで、流れこんでくる。よい例が、講演。

 このあたりでは、講演の講師でも、「東京から来た」というだけで、相場は100~200万円。幼児教室でも、「東京の幼児教室と同じ教材を使っています」というだけで、月謝は、2~4万円にハネあがる。(週2回の指導で、5万円もとっているところがあるぞ!)

 さらに今では、小学生たちと何かのパーティを開いても、どれもバラエティ番組風になってしまう。結婚式の披露宴もそうだ。みな、意味もなく、ギャーギャーと騒ぐだけ。ギャクにつづく、ギャグ、またギャグ。

 楽しむということは、そういうことだと、おとなはもとより、子どもたちですら、思いこんでいるといったふう。そして今に見る、この日本になった。

 全国の、道府県のみなさん、(東京)に追従するのを、もうやめませんか?、……と提案したところで、この話は、おしまい。どうせ、どうにもならない。私が書いたくらいでは、この日本は、ビクともしない。

 「アメリカ追従外交」と、小泉政権を批判する、「東京」人たち。しかしその「東京」人たちは、私たち地方人を追従させて、平気な顔をしている。このおかしさを、いったい、どう理解すればよいのか。

Friday, October 24, 2008

*How do children re-act?

●子どもの心理

+++++++++++++++++++++

『子どもの先生は、子ども』というのは、私が
考えた格言である。

子どもは、子供どうし、たがいに大きく影響を
受けあいながら、成長する。

最近、こんな経験をしたので、ここに記録して
おく。

+++++++++++++++++++++

●R君(小2)のケース

R君は、幼稚園の年中児のときから、私の教室(BWこどもクラブ)に
通ってくれた。
聡明で、性格も落ち着いていて、ほかにこれといった問題はなかった。
が、いつも遠慮がち。
皆がワイワイ騒いでいるときも、ひとりだけ、みなのうしろで、静かに
それを楽しむといったふうだった。

そのR君は、小学校へ入ってからも、私の教室(算数クラブ)へ通ってくれた。
様子は、そのままだった。
目立たず、おっとりしたままだった。

で、私は、1~2年おきに、「言葉クラブ」という教室を開く。
以前は毎年開いていたが、このところ体力の限界を感ずることが多くなった。
だから、1、2年おきに、ということになった。

その言葉クラブ(英語と作文を交互に教える)には、K君(小3)という、
きわめて活発な子どもがいる。
好奇心がきわめて旺盛で、行動派。
何か新しいテーマを出すと、「やりたい!」「やりたい!」と、即座にくいついて
くる。
もちろん頭もキレる。
鋭い。

その言葉クラブに、R君も入ることになった。
最初、(これは母親からあとで聞いたことだが)、R君は、それにたいへん抵抗したという。
が、入ったとたん、水を得た魚のように、楽しみ始めた。
と、言っても、その言葉クラブのほうでは、相変わらず遠慮がちだったが、先の
算数クラブのほうで、大きな変化が現れてきた。

こういうことは、珍しくない。
(1+1=2)ではなく、(1+1=3)となる。
私は「1+1=3効果」と、勝手に呼んでいる。
クラスを2つにふやすと、その効果が、2倍以上になる。

それまで遠慮がちに行動していたR君が、見違えるほど積極的になってきたのだ。
これには驚いた。
(1+1=4とか、5)の変化といってもよい。

1~2か月もすると、算数クラブのほうでのR君は、むしろリーダー核的な存在になった。
みなと騒ぐようなときでも、先頭に立って騒ぐようになった。
(騒ぐことがよいわけではないが、どこか萎縮している子どもは、騒がせることによって、
エネルギーを外に発散させる。)

学校での様子も変わってきたという。
学校の先生が、K君の母親にそう言ったという。

もう一度、今までのことを整理しておく。

(1) R君(小2男児)は、年中児のときから、私の教室へ来ていた。
(2) 小1のときから、算数クラブに入った。
(3) R君は、おとなしく、目立たない子どもであった。
(4) 小2になるとき、R君は、言葉クラブにも、入った。
(5) そこで小3のK君に出会った。
(6) 国語クラブでのR君は、以前のままだった。
(7) しかし算数クラブでのR君は、まるで別人のように変化した。

R君(小2)が、K君(小3)の影響を受けたことは、すぐわかった。
動作(たとえば、手を小ぶりに振ったあと、相手を指差すなどのしぐさ)や、
友だちに話しかける言い方(「おいやあ」と言って、相手の肩を叩く)など、
K君そっくりの動作をし始めたからである。

もちろんK君のもっていた積極性も、そのまま受け継いでしまった。
「まるで別人」というのは、そういう意味である。

そのことを参観していたR君の母親に話すと、母親は、うれしそうに笑っていた。
私が「子どもの先生は、子どもですよ」と言うと、「そうですね」と。

もちろんどの子どもも、そうなるわけではない。
それまでの下地もある。
素養もある。
それらが積み重なって、そういう現象が現れる。
しかしこうした現象は、子どもの世界では、先ほども書いたように、よくある。
珍しくない。

子どもというのは、しばらくの間、観察学習を通して、周囲の情報を蓄積する。
そしてそれが満を期したとき、まるで爆発するかのように、飛躍的に成長する。
よい例が「言葉」である。

0~2歳まで、ほとんど話さなかった子どもが、2歳前後から、急に言葉を話し
始める。
文字についても、そうだ。
それまでいくら教えても、グニャグニュの線しか書かなかった子どもが、満4・5
歳を境に、急に文字を書き始める。
心理学の世界では、そういう(時点)を、「臨界点」とか、「臨界期」とかいう。

R君も、K君に出会って、それまで蓄積していたものを、一気に爆発させた。
結果的にみれば、「影響を受けた」ということになるが、実際には、K君がR君を
爆発させるきっかけになった。

ただ興味深いことに、言葉クラブのほうでのR君は、どちらかというと、静かで
おだやかな子どものままということ。
が、そうでいながら、どこかでいつも、K君を観察しているのかもしれない。
(少しずつ、活発になりつつあるが……。)
つまりR君は、言葉クラブで見ているK君を、算数クラブのほうで、再現して
いる。
この現象を簡単に説明すれば、そういうことになる。

子どもの世界をあまり知らない人のために、ここに、R君のことを、
記録として残しておく。

(はやし浩司 子どもの成長 子供の成長 子供の先生は子供 子どもの先生は、子ども 子どもの先生は子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●お金と健康

+++++++++++++++++++

お金にしても、健康にしても、それに能力にしても、
大切なことは、それをどう使うか、である。
「時間」も、それに含まれる。

使い方をまちがえると、無駄にするばかりか、
精神のものを、後退させてしまう。

+++++++++++++++++++

能力を例にあげて、考えてみよう。
たとえばコンピュータにウィルスをばらまいて楽しんでいる(多分?)人がいる。
たいした知識などなくても、ウィルスは簡単にできる。
しかしそれでも能力は、能力。

人は、他人に迷惑をかけた分だけ、自分の精神を後退させる。
一度後退した精神を取りもどすのは、容易なことではない。
その何倍もの努力をしなければならない。
あるいは、その前に、人生そのものが、終わってしまう。

お金にしても、そうだ。
健康にしても、そうだ。

知人に、今年、80歳になる女性がいる。
若いときから、小銭にうるさく、インチキばかりしていた。
父親は戦死していたので、その遺族年金が、ずっと入っていた。
夫は公務員だった。
その6年ほど前に他界していたが、転籍特権というのがあって、その年金も
ずっと入っていた。

お金には苦労をしなかったはず。
というより、そのとき、すでに数千万円(現金、貯金など)の財産をもっていた。
が、ただ「財産をもっていた」というだけ。
ふつうなら「何かに使う」ということを考えるが、その女性のばあい、ことあるごとに、
こう言っているという。
「そんなことをすれば、貯金が減ってしまう!」と。

同じよう話に、健康がある。
健康であることはすばらしいことである。
だれも、それを疑わない。
しかしいくら健康であるからといって、暴飲暴食を繰りかえしたり、
タバコを吸っていたのでは、意味がない。

冒頭に書いたように、「大切なのは、その使い方」ということになる。
つまりお金にしても、健康にしても、能力にしても、さらに時間にしても、
どう賢く使うかが、問題。
もっとも若いときは、どれも豊富にあり、無駄にしても、悔いは残らない。
お金にしても、「またつぎに稼げばいい」となる。

しかしそこに(先)が見えてくると、そうはいかない。
とくに(時間)は、砂時計から、金の砂がこぼれ落ちていくような状態になる。
能力にしても、健康にしても、不可逆的に退化する。
お金については、それがなければたしかに不幸にはなる。
しかしいくらあっても、お金で幸福は買えない。

「孤独」にしても、若いときは、それほどこわいものではない。
しかし50歳を過ぎると、孤独のもつおそろしさが、しみじみとわかるようになる。
さらに60歳を過ぎると、(今の私がそうだが)、孤独は恐怖以外の何ものでもない。
この先のことはわからないが、70歳になれば、さらにそうだろう。
80歳になれば、さらにさらにそうだろう。

あのイエス・キリストですら、孤独に苦しんだという(マザーテレサ)。

孤独を前にしたら、巨億の富ですら、砂漠の砂のようになる。
死を前にしても、そうだ。
健康を害しただけでも、そうなる。

そこで(能力)ということになる。
能力が知恵を生み、その知恵が、私たちの生き様を決める。
私たちがもちえる、ゆいいつの武器といってもよい。

賢い人は、それを失う前にその価値に気づき、愚かな人は、
それを失ってから、その価値に気づく。
つまり使い方をまちがえると、それを失いながら、失っている
ことにすら、気づかなくなる。
だからこのタイプの人ほど、ワーワーと大騒ぎをする。
泣き叫んだり、わめいたりする。

まず、お金。

見得やメンツ、体裁のためにお金を使う人は、多い。
世間体を気にする人も、そうだ。

このタイプの人は、つねに他人の目を気にする。
他人の目の中で生きる。
だから自分がない。
「私は私」という生き様そのものが、ない。
だからつねにささいなことに振り回されて、ワーワーと騒ぐ。

実際、価値観の定まらない人と交際するのは、容易なことではない。
交際しても、どうしても上辺(うわべ)だけのつきあいになる。
が、それだけではない。
長くつきあっていると、何がなんだか、わけがわからなくなる。

健康については、いまさら説明すべくもない。
が、それにしてもわからないのが、喫煙。
お金を出して、病気を買うようなものだが、それについては最近の脳科学は、
ドーパミンの作用によるものだというところまで解明している。
脳の線条体というところに一度、受容体ができると、喫煙習慣をやめるのは
容易なことではないそうだ。

残りは、「時間」ということになる。

「時間」イコール、「命」、「命」イコール、「時間」。

たった今、居間のガラス窓に、ドバトが体を打ちつけて、そのまま死んでしまった。
まだ子どものようなハトだった。
ワイフがかけつけたときには、すでに息がなかった。

あっけない最期だった。

……庭の隅に穴を掘って埋葬した。
手を合わせて祈った……

あのハトは、どこから来て、どこへ去っていったのか。
そのハトにしても、この宇宙もろとも、この世から消えたことになる。
つまり、こうして生きていること自体に、価値がある。
意味がある。
人間もしかり。

身分や生まれは、関係ない。
金持ちも貧乏人も、関係ない。
まさに『死ねば、おしまい』。

その死ぬまでの時間を「命」とするなら、刻々と過ぎていく時間には、無限の
価値がある。
言いかえると、今、あなたがここにいて、ここに生きているなら、無駄にできる
時間など、一瞬一秒もないはず。

が、遊べ、楽しめ……ということではない。
(すべきこと)を見つけ、それをする。

こうしてそれぞれの人が、それぞれの生き様を見つけ、確立していく。
もちろん私の生き様は、私だけのものであって、人とはちがう。
この問題だけは、人それぞれ。
人、さまざま。

では、どうするか?

私のばあいは、50歳をすぎたころから、何をするにも、自分にこう問いかけてみた。
「だから、それがどうしたの?」と。

おいしいものを食べる……だから、それがどうしたの?
新しい車を買う……だから、それがどうしたの?
みんなと遊ぶ……だから、それがどうしたの?、と。

その結果、私は、意味のないものに、けっこうわずらわされたり、
まどわされたりしているのを知った。
価値のないものを、価値があるものと思いこんでいることも知った。

だからといって、それで生き様が確立したわけではない。
今の今も、その過程の中にある。

お金にしても、健康にしても、それに能力にしても、
大切なことは、それをどう使うか、である。
「時間」も、それに含まれる。

このところ、ますますそれが真剣勝負になってきた。

(追記)

私はもうすぐ満61歳になる。
ところが、つい先日書いた文章を読むと、「満62歳」となっている。
自分で自分の年齢をまちがえたことになる。

これはいったい、どういう現象なのか。

昨年、私は満60歳になった。
1947年の10月生まれだから、それはまちがいない。

が、「62歳」と書いた。
60歳から1年間生きて、その60歳から2年目に入ったから、
「62歳」と書いた。

年齢がわからなくなるというのは、ボケの始まりである。

クワバラ、クワバラ……。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

Wednesday, October 22, 2008

*One-leg Peogeon

●片足のシロ

数日見かけなかったと思っていたら、シロが再び、
庭にもどってきた。

どこか様子がおかしい……と思いながら見ると、シロの
左足がなくなっていた。

ネコかイタチか、あるいはリスに、左足を取られて
しまったらしい。
庭に、いつもより多く餌をまいてやると、シロは
体を地面においたまま、ヨタヨタとそれを食べ始めた。

我が家の庭の主のようなドバトだった。
その少し前には、嫁さんを連れてきた。
そのシロが、またひとりぼっちになってしまった。

シロに、「おい、だいじょうぶか?」と声をかける。
シロは、じっと、こちらを見ている。
「足は痛いのか?」と声をかける。
シロは、やはり、じっと、こちらを見ている。
何ともつらい光景だが、どうしようもない。

ところで今、別の一羽が、クルミの木の中で、子育てを
している。
ひょっとしたら、シロの奥さんかもしれない。
「そうだったらいいな」と思っていると、シロは、
そのまま塀の上まで飛んでいった。
飛びかたまで、ヨタヨタとした感じだった。

ツンとした肌寒さを感ずる。
下着の下まで、冷たさが伝わってくる。
しかしこれは、エネルギー不足のせいか……?
このところ、どうも食欲がない。
シロを見て、ますます食欲がなくなった。


●医療機関

医療機関全体が、最近、冷たくなってきている(?)。
そう感じているのは、はたして私だけだろうか。

今朝も、朝刊に、7つの病院をたらい回しにされたあげく、
死亡した妊婦の記事が載っていた。
死因は、脳内出血であったという。
その間中、妊婦は、はげしい頭痛を訴えていたという。
が、だれも脳内出血とまでは疑っていなかったという。

医療制度そのものが、一般社会から遊離している(?)。
昔は、医者といえば、町医者。
近所のこわいオジサンという感じだった。
が、今は、厚いコンクリートの壁の向こうに、医者がいるといった感じ。
たとえばいろいろなうわさが、(あくまでもうわさだが……)、耳に入ってくる。
「75歳以上の人は、がんになっても手術をしてもらえない」
「90歳以上の人は、延命処置をしてもらえない」などなど。

こうした年齢は、この先、引き下げられることはあっても、引き上げられることはない。
やがて人口の約3分の1が、満75歳以上の超高齢者になるという。
老人に対する見方、考え方、ついでに医療のあり方も、これからは変わってくるだろう。
「役にたたない老人は、どんどんと死んでいってもらいます」という時代に、なるかも
しれない。

まあ、しかし、そう思うのは、若い人たちの勝手だが、しかし私たちが、
それに応ずる必要はない。
我々は我々で、しぶとく、最後の最後まで生きてやる。
80歳になっても、90歳になっても、若い人たちの見本となるような生き様を示して
やる。

……ということで、もとの話にもどる。

結局は、自分の健康は自分で守るしかない。
たらい回し事件のようなことが起きると、それをした医師側ばかりが責められる。
しかしそこまで医師に責任をかぶせるのも、酷というもの。
現に数日前、医療訴訟が原因と思われる重荷からか、自殺した医師すらいる。

問題の「根」は、もっと深いところにある。
そしてその根を作っているのは、私であり、あなたであるということになる。
もしあなたがそのときの医師なら、その患者をていねいに診察しただろうか。
時は、10月4日、土曜日。
時刻は、午後6~7時。
この時間帯だと、ふつうのサラリーマンでも、仕事をしている人は、まずいない。

つまりこれは制度の問題というよりは、「心」の問題。
日本人全体が、その「心」を失いつつある。
医療機関全体が、最近、冷たくなってきていると感ずるのは、あくまでも、
その結果にすぎない。

*Oct 23rd 2008

●マガジンが、10日遅れ

++++++++++++++++++++

この10日間、忙しかった。
本当に忙しかった。
自分の時間など、ほとんど、なかった。
母の葬儀が終わるまで、緊張の連続。
何がなんだかわからないまま、過ぎて
しまった。
が、終わったとたん、どっと疲労感。
虚脱感。
プラス無気力感。
それが2日もつづいた。

で、今日になって、やっと、ほっと一息。
体の調子も、もどってきた。

見ると、マガジンの発行が、10日も
遅れているのがわかった。
本来なら、今ごろは、11月24日号の
発行予約を入れていなければならない。

しかし実際には、先ほど、やっと11月
14日号を入れたところ。

どうしよう?

まあ、ここはがんばるしかない!

++++++++++++++++++++

●今朝の新聞から

++++++++++++++++++

今度、静岡県にも空港ができることになった。
それについて今朝の新聞は、つぎのように
伝える。

「3月開港、遅れる公算」と。
理由は、滑走路先に、高さ制限を超える立ち木が
残っているため、という。

空港建設反対派の人たちが、立ち木を残した。

そのため「滑走路の一部は、当面使用せず、
暫定的な運用で開港に踏み切ることにした」(同紙)とか。
そのための工事費が、プラス1億円!

++++++++++++++++++

つづいて3面を読むと、全体に、県の対応を批判する記事が目立つ。
「こういう問題が起きることがわかっていたのに、先送りしてきた県は悪い」と。
見出しには「県は隠ぺい体質」とある。
つまりこういう問題が起きることがわかっていたのに、「1年も前から、県は
(同紙)隠していた」、と。

●民主主義とは何か?

こういう記事を読むと、ではいったい、民主主義とは何か、改めて考えさせられる。
「私権とは何か」というテーマでもよい。

実は私も、空港建設についての是非を問われたとき、「反対」の意見を書いていた。
建設反対の署名もした。
もう10年以上も前のことである。

しかしそれから10年以上。
かなり強引なやり方ではあったが、空港建設は決まり、工事が始まった。
そして空港は、新聞記事にもあるように、開港間近にまで完成した。

が、たった40本前後のひのきが障害となって、「3月開港、遅れる公算」と。

これは私個人の意見だが、私は空港建設には反対した。
しかしそれは、「できるだけ税金の無駄遣いはやめてほしい」という気持ちを
こめてそうした。
が、「何がなんでも、反対」という意味で、そうしたのではない。

多少強引なやり方ではあったものの、県議会という議会で決まった以上、今度は
反対に、私たちにはその議決に従う義務が生まれる。
もちろん多数決には、欠陥がある。
ときに多数決の陰に隠れて、弱者や少数派の人たちの利益がふみにじられる。
その弱者や少数派の人たちの利益をいかに保護するかで、民主主義の熟成度は決まる。

しかしこと、(立ち木)については、この論理は当てはまらない。

40本前後の立ち木について言えば、「それほどまでにして、守らなければ
ならない木なのか」ということになる。
仮に伐採したところで、だれが、どこで、どのような不利益をこうむるという
のか。

空港建設に反対する人の気持ちもわからないわけではないが、ここまでくると、
「反対のための反対」、もっと率直に言えば、(いやがらせ)にしか思えない。
さらに言えば、弱者や少数派に与えられた特権が、逆に悪用されている(?)。
そんな印象すらもってしまう。

たとえば約40本の立ち木を守っている人たちが、ほかの世界でも、自然保護
運動か何かをしていて、その一環として、立ち木を守っているという話なら、
私にも理解できる。
しかし新聞記事を読むかぎり、そういう話は浮かびあがってこない。

で、同じような問題が、あの成田空港にもある。……あった。
しかし開港から40年。
成田空港は、いまだに暫定開港という状態にある。

では、民主主義とは何か?

多数決を原則としながらも、(弱者や少数派の意見を尊重する)→(話しあう)
→(弱者や少数派の人たちの利益や利権を保護する)という段階を経て、
(弱者や少数派の人たちも同意できるところでは同意して、多数決に従う)。

「何がなんでも反対」という態度は、「どんなことをしてでも空港を建設する」という
態度と、どこもちがわない。
力のモーメント(=方向性をもったエネルギー)は逆でも、中身は同じ。
すでにここまで空港が完成した今、空港建設反対運動はすでに空文化している。
それとも「建設反対運動」が、今度は、「飛行阻止運動」に変わったとでもいうのだろうか。

「私権」といっても、けっして絶対的なものではない。
「私権」は、同時に「公権」によって守られる。
その相互作用の中で、私権にも(制限)が加えられる。
もっとわかりやすい例で言えば、いくら自分の土地だからといって、好き勝手な
建物を建設することはできない。
反対に、たった一人でも道路建設に反対すれば、その道路全体が使えなくなって
しまう。
「私権」と「公権」は、相互に守りあうものであって、けっして対立を前提とするもので
はない。
が、仮に対立しあうようなことになれば、そのはざまで、それを調整するのが、(話しあい)
ということになる。
「補償」という方法もある。
つまりそれが民主主義の基本ルールということになる。

……しかし成田空港にせよ、静岡空港にせよ、空港問題というと、どうしてこうまで
たがいに、関係がこじれてしまうのだろう?

私たちの知らないところで、私の知らない人たちによる、別のモーメントが働いている
としか、私には考えられない。


●「世界大破局」(「ダイアモンド誌」)

+++++++++++++++++

座右に、週刊ダイアモンド誌、10・11月号が
置いてある。
3~4週間前に買った雑誌である。
表紙に、「世界大破局」とある。
その文字が気になって、そのままにしておいた。

映画なら、おもしろい映画となるだろう。
『ハルマゲドン』にしても、『宇宙大戦争』にしても、
映画は映画。
『エアポートXX』にしても、映画は映画。

しかし「世界大破局」は、現実。
「おもしろい」などと、楽しんでいたら、
(そういうバカはいないと思うが)、とんでもない
ことになる。

+++++++++++++++++

こんな中、「100年に一度のチャンス」とばかり、
たとえば「野村ホールディングズは、リーマン・ブラザーズの欧州、中東、アジア・
太平洋部門を飲み込んだ」(同誌)。

「今回の買収に野村が費やした資金は、アジアに2億2500万ドル、欧州は、
ほんの2ドル、わずか250億円程度で、積年の課題だった海外強化の扉をこじあけた」
(同誌)と。

さらに「三菱UFJフィナンシャルグループは、モルガン・スタンレーに最大90
億ドル(21%)を出資することで、最終合意した」(同誌)という。

一方「三井住友フィナンシャルグループは、ゴールドマン・サックスへの出資を
見送った」(同誌)という情報もあるから、野村や三菱UFJだけの動きを見て、「日本の
快進撃」と評価するわけにはいかない。
さらに底なしの損失が発生すれば、野村も三菱UFJも、道ずれ……ということにも、
なりかねない。

一見、平和でのどかに見える秋の空だが、この秋の空の下で、いったい何が起きて
いるのか?
目に見えない世界であるだけに、不気味。
不気味きわまりない。

なお「公的資金の注入」ということは、わかりやすく言えば、印刷機を回して、紙幣を
市中にバラまくことをいう。
すでにこの日本でも、2~3%のインフレが始まっていると説く学者もいる。
つまり1000万円の現金を持っている人は、すでに、20~30万円、損をしたと
いうことになる。
「現金をもっているから、安心」というわけでもなさそうだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●狂った世界

+++++++++++++++++

たとえば野菜を作る。
半年くらいをかけて、野菜を作る。
しかし1反や2反程度の畑を耕したところで、
利益など、それほどあがるものではない。

このあたりのミカン農家でも、専業で
していても、年収が、300~400万円
もあればよいほうとのこと。
現実は、そんなもの。

しかしその一方で、スーツで身を包んだ
サラリーマンが、コンピュータの画面を
ながめながら、1億、2億のお金を、
右から左へ、左から右へと動かしている。

同じ(お金)のはずなのだが、私は
このギャップをどうしても、頭の中で
埋めることができない。

私の仕事も、基本的には、農家の人たちの
仕事と同じ。
1人、1万円前後の月謝で、子どもたちを
教えさせてもらっている。
中には1クラス、2人だけというクラスも
ある。
赤字というわけではないが、しかし好きでなければ、
とてもこんな仕事はできない。

おそらくコンピュータの画面をながめながら、
1億、2億のお金を動かしている人たちから
見れば、私はバカに見えることだろう。

しかし本当にバカなのは、どちらか。
つまり本当に狂っているのは、どちらか。

本来は裏方であるはずの、銀行や証券会社が、
逆に(表の社会)を食い物にしている。
「だから資本主義はまちがっている」とは、
今の私でも、とても言えないが、しかし
どこか、おかしい。

今日は午前中、ワイフと三男と山荘に行くことに
なっている。
そこでもう一度、資本主義についての本を、
読んでみるつもり。

Tuesday, October 21, 2008

*Efficiency of the Brain

● 10月21日

+++++++++++++++++++++++

4、5年前に、『マズローの欲望段階論』について
書いた。
その原稿を読みなおしながら、今日、自分で「なるほど」と
思った。
しかし自分で書いた原稿を読みなおして、「なるほど」は、ない。
つまりそれだけ記憶力が弱くなったということか。

+++++++++++++++++++++++

●「愚か」になる人たち

同年代以上の人たちを見ていて、ときどき、こう感ずることがある。
「この人たちは、日々に愚かになっているのに、それに気づいているのだろうか」と。

「愚かになる」というのは、知的能力の総合的な低下を、いう。
知識や経験のみならず、知恵や思考力そのものを失うことをいう。

しかしこれは脳のCPU(中央演算装置)の問題。
脳みそ全体の機能が衰えてくれば、知的能力の低下そのものも、わからなくなる。
自分が愚かになりつつあることすら、わからなくなる。
わからないならまだしも、知的能力が低下していても、「自分は、まとも」と誤解
する人もいる。

私の知人に、今年、85歳になる男性がいる。
軽い脳梗塞を繰り返していることもあり、話し方そのものが、かなり、おかしい。
ろれつが回らない。
そんな男性でも、あちこちに電話をかけて、説教がましいことを言う。
私のところにも、かかってきた。
「親のめんどうは、最後まで、しっかり見ろよな」とか、何とか。

一応言っていることは(まとも)だから、それなりの会話はできるが、繊細な
話しあいは、できない。
深い話もできない。
そのため私のほうは、適当に話を聞いて、適当に合わせるということになる。

が、これはそのまま、私自身の問題ということになる。
遠い未来の話ではない。
5年とか、10年とか、それくらい程度の、先の話ということになる。

●愚かさの確認

どうすれば、自分の(愚かさ)を、自分で知ることができるか。
あるいはどうすれば、(愚かになっていく程度)を、自分で知ることができるか。

肉体的な衰えは、たとえば体力テストなどで、かなり正確に知ることができる。
同じように、知的能力の衰えも、たとえば知能テストなどで、かなり正確に知ることが
できる。

しかしそれを知ったところで、自分では、けっして、そうは思わないだろう。 
たとえば昨夜も、こんなことがあった。

たまたま帰省している三男がパソコンをいじっていた。
音楽を、二男のインターネット・ストーレッジ(倉庫)から、ダウンロードしていた。
私もキー操作に関しては、かなり速いほうだ。
そう思っていたが、三男は、それこそ目にも止まらぬ速さで、キー操作をしていた。

私が、パチパチ……なら、三男は、その間に、パパパ……と、キーをたたく。
「この画面は何だ?」と質問している間に、すでに数枚先の画面を表示してしまう。

脳みそのクロック数そのものが、ちがう。
私のは、たとえて言うなら、1・0GH(ギガヘルツ)。
三男のは、たとえて言うなら、3・1GH(ギガヘルツ)。

クロック数そのものがちがうから、自分で自分の(愚かさ)を知ることはない。
しかし三男には、それがわかる。
もたもたしている私の指先を見つめながら、「イーxxx」と。
使っているソフトが、「イーxxx」という意味らしい。

では、自分の脳みそのクロック数を知るためには、どうしたらよいのか。

●子どもとの競争

ひとつの方法としては、知能テストもある。
しかしこの方法では、思考力のある・なしはわかるが、クロック数まではわからない。
そこでもうひとつの方法として、子どもと競争するという方法がある。

実のところ、私はいつも、この方法で自分のクロック数を確かめさせてもらっている。

レベル的には、中学生~高校受験用の問題がよい。
そういった問題で、子どもと競争する。

ただし私のように、仕事上、毎回訓練しているほうが、有利。
問題を見ただけで、解答の道筋が見えてしまう。
(子どものほうは、最初、手さぐり状態になる。)

……ウ~~ン……

何かよい方法はないものか。

たとえば脳みその中を走る電気信号を、計数的にとらえることはできないものか?
たとえば右脳のA点から出た信号が、左脳のB点に達するまでの時間を計測する、とか。
「あなたは、0・03秒かかりました」「あなたは、0・13秒かかりました」とか、など。
そこであなたの脳みそのクロック数は、「0・02GH」「0・003GH」と。

家庭でできる方法としては、(1)速算、(2)早読みなどでもわかるかもしれない。
(これも訓練で、速くなるだろうが……。早読みにしても、声の大きさによっても、変化
するにちがいない。)

脳みそのクロック数が落ちてくると、「アウ~~」「エ~~ト」という言葉が多くなり、
話し方も、かったるくなる。
昔、大平総理大臣という人がいたが、ああなる。

が、結論から先に言えば、脳みそも、肉体の健康と同じ。
鍛練してこそ、能力を維持できる。
……ということで、今日は、これから仕事に行く。
もちろん自転車で。

夜は、ワイフとデート。
楽しみ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi 脳のクロック数)

●E-Magazin Nov.14th





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   08年 11月 14日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★ ★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page008.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの心の奥にあるもの】

++++++++++++++++

よく誤解されるが、情緒不安というのは、
情緒が不安定になることではない。
(心の緊張感)がとれないことを、情緒
不安という。

心が緊張しているとき、不安や心配ごとがあると、
心は一気に不安定になる。
結果として情緒は不安定になる。
つまり情緒不安というのは、(心の緊張感)が
とれない、その結果として現れる症状をいう。

子どもの情緒不安を感じたら、まず、心の
緊張感が、いつ、どのように発生し、どのように
作用しているかを、観察する。

慢性化すれば、神経症(症状は千差万別)を
発症するようになる。
疑惑症、嫌悪症、潔癖症なども、そのひとつ。

対処法としては、(心の緊張感)をほぐすことを
第一に考える。

+++++++++++++++++

【AKさんより、はやし浩司へ】

 6歳の娘と、4歳の息子がいます。6歳の娘についての、相談です。

長女はいい子で優しく素直な子です。神経質で、きっちりしている(言いつけを守る)
ところもあります。5歳くらいまで母子分離不安が強く近所で多数の子供たちと遊ぶと、
うちの子はなかなか私から離れず、みんなの中に入って行くのを尻込みするタイプでし
た。何か心にストレスを感じるとすぐ身体症状が出る子で、幼稚園入園後半年で円形脱
毛になり、年長に上がった時に神経因性頻尿になりました。いずれもたくさん構ってあ
げたりスキンシップや気分転換させると自然に治りました。

 今困っている症状は、手を洗っても汚れがついている気がする・その手で蛇口を触れな
い(蛇口をずっと長いこと洗います)・手に触れるものや口に入れるもの全てにおいて清潔
か、触っても大丈夫かの確認を何度もする・チック(目をぱちぱちする)です。手洗い
に関しては、私が指摘したせいか本人も自覚してしまってつらがっています。手洗いの
際私が手を包み込んで一緒に洗うと、ましなようです。

 弟の方はマイペースで長女のようにきっちりせず、のびのびしています。母親に対する
独占欲が強く長女といつも私を取り合う感じです。3歳頃まで泣きひきつけがひどく、あ
まり泣かせないようにしてきたからか、長女は我慢をすることも多かったと思います。
次男出産後1年半は保育所に預けていました。

 私自身にも問題があります。一度火がつくと自分でもコントロールできない程激しく叱
ってしまうのです。私の母親が普段は優しく愛情深いのですが、怒るとすごくこわく、
いわゆるヒステリータイプで、毎日夫婦喧嘩の声(母の怒った声)に子供の頃から心が
休まらない家庭でした。母の顔色を伺いながら生きてきた自分を考え、自分は絶対そん
な思いは子供にさせまいと思い続けて母親になりましたが、時々自分の中に母親の影を
みることがあります。

特に生理前などはイライラが強く、子供にきつく怒ってしまいます。その度に自己嫌悪
に陥り反省し、よし明日からはとがんばるのですが、1ヶ月くらいたったある日それまで
の努力を自分で台無しにするような怒り方をして、また反省し繰り返しです。こんな自
分も嫌です。どうにかして治したいのですが。夫に私がきつく怒りすぎて子供が萎縮し
ていると指摘を受けました。

 今回長女の強迫的な行動におろおろし、いろいろ調べたところ、はやし先生の相談者に
対するアドバイスを読み、今まで長女は繊細であれこれ困ったことが起きるなと思って
いたのは、すべて私が原因だったのでは?、と思いました。長女に対して今最大限のス
キンシップをはかるようにしていますが、このまま続けて行けば良くなるでしょうか? 
ひどい時は10分おきくらいに、「足を触ったかもしれないけどその手を舐めたかもしれ
ないけど大丈夫?」といった質問を繰り返したり、手洗い場で「洗っても洗っても汚れ
てるみたいな気がする」と泣いている娘をみると、早く治してあげたくて受診させたほ
うがいいのかと悩んでいます。

主人は自分の実家で気分転換させたら?、といいます。(主人の実家は長女びいきで行く
といつも娘の表情が穏やかでわがまま言い放題、のびのびしています。)先生、どうか返
答は遅くても構いません。是非アドバイスをお願いします。私自身はメールアドレスを
持っていないので主人の名前で出しています。(相談者・AK) 

【はやし浩司よりAKさんへ】

 まずAKさん、あなた自身の心が、なぜいつも緊張状態にあるかを、静かに観察してみ
てください。いつもピリピリしているというようであれば、そのもとになっている、原因
をさぐります。

 私の印象では、AKさん自身が、心を開けない人のように思います。他人の前に出ると、
緊張してしまうとか、(結果的に疲れやすい)、仮面をかぶってしまうとか、そういう状態
ではないかと思います。

 さらにその原因はといえば、AKさん自身の母子関係にあります。AKさんと、AKさ
んの母親との関係です。AKさん自身も、子どものころ、(いい子)ぶることで、いつも自
分をごまかしていた。現在のあなたの長女のように、です。

 で、相談の件ですが、年齢的に、つまり2歳下の弟がいるということですから、長女は、
まだ人見知り、後追いのはげしかったころ、下の弟が生まれたことになります。下の弟が
生まれたことによって、大きな愛情の変化を感じたと思われます。対処の仕方を誤ると、
赤ちゃん返りという症状が生まれます。

 長女は、現在も、その(赤ちゃん返り)の流れの中にあると思ってください。

 子どもというのは、環境の変化にはたいへんタフですが、愛情の変化には、敏感に反応
します。親は「平等にかわいがっている」と言いますが、子どもには、そういった論理は
通用しません。あなたの夫が、ある日突然、愛人を家に連れ込んできたようなばあいを、
想像してみてください。

 もうおわかりかと思いますが、長女は、慢性的な愛情飢餓状態にあると考えて対処しま
す。濃密なスキンシップ、添い寝、手つなぎなど、こまめに実行してみてください。ポイ
ントは、『求めてきたときが、与えどき』です。

 長女のほうから、スキンシップを求めてきたようなときは、すかさず、(すかさず、です)、
それに応じてあげます。「あとでね……」「忙しいから……」は、禁句です。ほんの数分、
応じてあげるだけで、子どもは、落ちつくはずです。

 ほかに食生活にこころがけてみてください。CA、MG、Kの多い食生活(=海産物中
心の献立)にするだけでも、かなり効果があります。(薬物に頼るのは、この時期、勧めま
せん。)とくにCAの多い食生活を大切にしてみてください。市販の子ども用錠剤なども、
効果的です。
(薬局へ行くと、高価な錠剤を勧めますが、安いものもあります。安いのでも効果は同じ
です。服用量を注意して、与えます。)
私自身も、心の緊張感がほぐれないときは、CAの錠剤をバリバリと口の中で割ってのん
だりしています。ほかにハーブ系の錠剤をのむこともあります。

偏食、とくに白砂糖の多い食品は、避けます。(家庭では、精製してない黒砂糖を料理に使
うとよいでしょう。)

家庭生活の要(かなめ)は、子どもの側からみて、(心の休まる)環境です。
長女は、おそらく外の世界(幼稚園など)では、いい子ぶることで、自分の立場を保持し
ているはずです。つまりそれだけ神経疲れを起こしやすいということです。ですからその
反動として、家の中で、ぞんざいな態度、横柄な態度を見せるかもしれませんが、そこは
許してやってください。
「うちの子は、外でがんばっているから、家の中ではこうなのだ」と、です。

6歳ともなると、(家)は、(しつけの場)ではなく、(憩いの場)とならなくてはいけませ
ん。疲れた心を休める場所です。

手洗いグセについては、『暖かい無視』に心がけます。心の緊張感(わだかまり、こだわり)
がほぐれてくれば、自然になおります。親がカリカリすればするほど、逆効果です。なお
子どもの神経症については、私のHP→(ここが子育て最前線)→(子ども診断)→(神
経症)に収録してありますから、参考にしてください。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html

で、問題は、AKさん、あなた自身です。

遠くは、あなたとあなたの母親との関係にまで、原因がさかのぼります。あなた自身が、
全幅に、あなたの母親に受け入れてもらえなかった……。それが今、あなたの対人関係(も
ちろん子どもに対しても)に、影響を与えています。さみしがり屋で孤独なくせに、しか
し集団の中に入っていくと、すぐ神経づかれを起こしてしまう、と。他人を信ずることが
できない……つまり、他人に心を開くことができない。自分をつくってしまう。ありのま
まをさらけ出すことができない、など。
(あるいは何かの原因で、長女を愛することができないのかもしれませんね。「長女を愛し
なければならない」「しかしどうも好きになれない」と、AKさん自身が、心の中で葛藤し
ているということも考えられます。あなた自身も、親に愛されていなかった……。その世
代連鎖が、今もつづいている可能性も否定できません。)

ともかくも、こうした緊張感が、ちょっとしたきっかけで、爆発してしまう。長女に対し
て、です。

症状としては、AKさん自身が、(うつ病質)であると考えられますが、専門的な判断は、
ドクターにしてもらってください。同時にAKさん自身も、CAの多い食生活に心がけて
みてください。

ほとんどの親は、子どもに、ふつうでない症状が現れると、子どもに原因を求め、子ども
を治そうとか、直そうとか考えます。しかし子どもは、(家族の代表)でしかありません。
幸いなことに、AKさんは、今、それに気づきつつあります。つまりすでに問題は、半分
以上、解決したということです。

あとは、長女のよいところだけを見て、長女といっしょに、もう一度人生を楽しむつもり
で、子育てをすればよいでしょう。あるいはもうそろそろ長女から離れ、あなた自身が自
分でしたいことをすべき時期に来ているかもしれません。夫の実家でめんどうをみてくれ
るというのですから、そういう場をうまく利用して、あなたはあなたで、好き勝手なこと
をすればよいのです。

また、子どもを愛せないなら愛せないで、気負うことはありません。実際そうした母親は、
7~10%はいます。まず、あるがままの、自然体で、子どもに接することを大切にしま
す。「親だから……」と気負ってはいけないということです。(メールによれば、AKさん
は、かなり親意識の強い方のようですから……。)子どもの「友」になることだけを考えて
対処します。

どうであるにせよ、症状としては、この時期、たいへん多いですから、あまり深刻に考え
ないこと。ただし環境を改善したとしても、すぐには症状は消えません。あせらないこと。
チックにしても、家庭環境が改善されても、ばあいによっては、そのあと、数年つづくこ
ともあります。(手洗いグセは、比較的早く、症状は消えます。)

詳しくは、「はやし浩司 神経症」「はやし浩司 手洗いグセ」で、検索してみてください。
またAKさん自身の問題は、「はやし浩司 基本的信頼関係」が、参考になると思います。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi 子どもの神経症 手洗いグセ)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●マズローの欲求段階説を参考に

【より高い人間性を求めて】(1)

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として
生きることはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・
H・マズローの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後に
かけて活躍した、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任
している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。
その現実をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それ
はそれとして、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自
由に生きていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよ
りよい人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。
新しい人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。
そこに問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよい
から、それをテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、
より親密になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法
は簡単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわり
を明るくして生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬すること
によって、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間
性を維持することができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まっ
たときから、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、
加齢とともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。
しかしそんなことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄
関)に立ってみて、わかった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。
つまりそれまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点
である。「生」へのいとおしさというか、それが、鮮明にわかるようになる。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍
くなる。問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、
どうであるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考
えることができるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、
多いことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考
えるだろうか。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。
人間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願う
ようになる、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマ
ズローの「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi

最前線の子育て論byはやし浩司(444)

【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生き
ることの重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこで
そういうときは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的
に生きるという意味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始
まって、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定すること
はできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人
というよりは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということにな
る。いつもその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単
に乗り越えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの
人は、悲しみ、苦しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世
で、また会える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、
底なしに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこ
にいる以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要
はない。言ってはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、
それをいちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己
概念=自分はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離して
しまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自
己概念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心
を守るためでもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、
叫べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念
(?)に反するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪
く思っている人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからとい
って、それがどうなのか? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて
生きることを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をい
う。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動
はともかくも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、が
んこになり、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミ
ソの中でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに
気づくことは、まず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、
自分の硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若い
ときから養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対
にすばらしいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったり
してはいけない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せると
いうこと。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
はやし浩司 Hiroshi Hayashi マズロー 欲求段階説)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2904)

【老人・段階論】

+++++++++++++++++++++

キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、
よく知られている。

「死」を受容する過程で、人はさまざまな反応を
示すが、それをキューブラー・ロスは段階論として
それを示した。

しかしこの「死の受容段階論」は、そのまま
「老人段階論」にあてはめることができる。

+++++++++++++++++++++

●キューブラー・ロスの「死の受容段階論」(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

キューブラー・ロスの「死の受容段階論」について。
ロスは、死に至る過程について、つぎの5期に分けて考えた。

(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病
気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健
康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引
きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の
終わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●私の母のばあい

私の母のばあい、ひざに故障が起きて、歩くのもままならなくなったとき、
ひどく医者をうらんだ時期があった。

「どうして治らない」「どうして治せない」と。

つぎに自分が老いていくことを許せなかった時期もあった。
たとえば温泉に行くことについても、「恥ずかしいからいやだ」と、かたくなに、
それを拒んだりした。

つぎに自分が動けなくなったことに腹をたて、私の兄に、八つ当りをしたこともある。
兄をののしり、兄を理由もなく、叱ったりした。

が、それも一巡すると、(あるいはその前後から)、ちぎり絵に没頭するようになった。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵をしていた。

さらにこれは、私にも信じられないことだったが、私の家に来てからは、まるで別人の
ように、静かで、おとなしくなった。

ざっと、母の様子を振り返ってみた。
が、それ以前の母はというと、ふつうの女性以上に、勝気で虚栄心が強く、わがまま
だった。

こうした母の変化を順に並べてみると、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」に、
恐ろしいほどまでに、当てはまるのがわかる。

(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病
気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。
母は、毎日のように治療に専念するようになった。
病院通いのほか、知人、友人の勧めに応じて、いろいろな治療法を試みた。

(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健
康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。
が、治療の効果がないとわかると、一転、「どうして治らない!」と、周囲の人
たちに当たり散らすようになった。

(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引
きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。
もともと信心深い人だったが、ますます信仰にのめりこんでいった。

(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵に没頭するようになった。

(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の
終わりを静かに受け入れる。
私の家に来てからは、すべてを観念したかのように、静かに、おとなしくなっ
た。
デイサービスなど、一度とて、それを拒否したことはない。
センター(特別養護老人ホーム)へ入居するときも、すなおに入居した。

母だけの例で、すべての老人もそうであると考えるのは、もちろん正しくない。
しかしほかの老人たちの話を聞いても、それほど、ちがっていない。
つまりキューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、そのまま、これから先の私たち自身
の老後の姿と考えてよい。

(第1期) 否認……老人であることを否定する。「私は、まだ若い」と主張する。
(第2期) 怒り……老人扱いする周囲に怒りを覚える。「老人を大切にしない」と怒る。
(第3期) 取り引き……若い人に妥協したり、媚びを売ったりする。
(第4期) 抑うつ……身体的な症状が顕著になってくると、うつ状態になる。
(第5期) 受容……老人であることを受け入れ、死に対する心の準備を始める。

この段階論で、自己分析を試みると、私は、現在(第1期)~(第2期)ということにな
る。
しかしこれも心の持ち方で、かなり変化する。
というのも、「老人というのは、自ら老人になるのではなく、周囲の人たちによって、老人
につくられていくから」である。
定年という制度も、そのひとつ。

同じ満60歳といっても、健康状態は、みなちがう。
肉体年齢や精神年齢にしても、そうだ。
そういう人たちを、ひとまとめにして、「定年」と決めるほうが、おかしい。
まちがっている。

55歳でヨボヨボの人もいれば、70歳でテニスのコーチをしている人もいる。
私も「あなたも定年の年齢になりましたね」と言われることくらい、不愉快なことはなか
った。
定年であるかどうか、もっと言えば、老人であるかどうかは、自分で決めること。
しかし世間全体が、大きな(波)の中で動いている。
私ひとりが、それに抵抗しても、その力は、弱い。
私もいつしか、……と書きたいが、実際には、このところ逆のパワーが強くなってきた。
「生きて、生きて、生き抜いてやる」というパワーが、大きく作用するようになった。
と、同時に、「私は老人である」という考えが、どんどんと薄れていった。

コツがある。

(1) 過去を振り返らない。
(2) 未来だけを見ていく。
(3) 他人に遠慮しない。

あえて(第1期)の否認や、(第2期)の怒りを、経験する必要はない。
身体的な不調がないわけではないが、それについては、運動で克服する。
これは私の経験だが、加齢とともに、運動量をふやすことは、とても重要なことである。
歳をとったから、運動量を減らすなどいうことをすれば、かえって老化を早めてしまう。

また「健康」といっても、3つある。

肉体の健康、精神の健康、それに脳みその健康である。

肉体の健康は、運動で。
精神の健康は、人と接することで。とくに子どもたちと接するのがよい。
また脳みその健康は、脳みそを刺激することで、それぞれ維持する。
具体的には、私夫婦は、つぎのように目標をかかげている。

(1) 1日、2単位の運動をする。
(2) 月に2回は、日帰りの旅行をする。
(3) 週に1度は、劇場で映画を見る。

「人(子ども)と接する」ことについては、私の仕事を利用させてもらっている。
最近は、ワイフも、いっしょに仕事をすることも多くなった。
さらに私のばあい、月に4~5回の講演活動をしているが、これはたいへん脳みその刺激
によい。
会場で1~2時間、大声でしゃべりつづけるだけでも、ボケ防止になるのでは(?)。

要するに、何もあわてて老人になることはない。
年齢という(数字)に影響を受ける必要もない。
またそんなものを気にしてはいけない。
「私は私」。
キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、あくまでも一般論。
何も、それに従う必要はない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi Hamamatsu 林浩司 林 浩司 教育評論家 キューブラー ロス 死
の受容段階論 死の受忍 死の受容 死を受け入れる 老後段階論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●10月19日

+++++++++++++++++++++

私の誕生日まで、カウントダウンが始まった。
毎年、誕生日には、やや高価なものを
買ってもらうことになっている。

「買ってもらう」というのは、我が家の財布は、
すべてワイフが握っている。
小遣いにしても、そのつど、ワイフからもらうように
している。

私自身は、37歳くらいのときから、収入がいくら
あって、支出がいくらあるかなどということは、
知らない。

だから「買ってもらう」という言い方になる。

+++++++++++++++++++++

●プレゼント

ワ「何が、ほしいの?」
私「それがね、ほしいのが、ないのだよ……」
ワ「パソコンは……?」
私「この前、買ったばかりだし……」と。

本当は、「9650」搭載のデスクトップがほしい。
しかしまだ値段が高い。
もう少し待てば、安くなるはず。
この世界では、値崩れが珍しくない。
値崩れをしたとたん、半額になることもある。

今は、じっとがまんのとき。

●喜び

もうすぐ満62歳になる。
今のところ、すこぶる体の調子はよい。
このところ、毎日、2単位の運動をこなしている。
明日からも、欠かさず、毎日、2単位するつもり。
が、何よりもうれしいことは、40歳のときと同じように、
50歳のときと同じように、元気で、仕事ができること。

歩ける。
走れる。
話せる。
息ができる。

どのひとつを取りあげても、すべてが喜びにつながる。
そういう自分が、うれしい。

そこで満62歳の抱負。

●満62歳

目標は、満70歳!
70歳まで、現役で働く!
そのため、明日からも、健康づくり!
その健康は、運動のみによって、維持される!

お金は嫌いではないが、もちろんお金儲けが目的ではない。
大切なのは、「生きているという緊張感」。
「生きているという実感」。
その緊張感や実感を得るために、仕事をする。
たとえば文章を書くといっても、その緊張感がなければ、書けない。
書いても、ただの駄文。
(この文章もそうだが……。)

あとはワイフと3人の息子たちの幸福を第一に考えたい。
おかげで……というか、私たち家族は、今まで、本当にラッキーだった。
それぞれが、それぞれの夢と希望を、それなりに追い求め、手にした。
ワイフはいつも、こう言う。
「あなたは、ほんとうに恵まれた人ね」と。
私もそう思う。
たいしたことはできなかったが、みな、健康であったことだけでも、
感謝しなければならない。

ただこの先のことはわからない。
わからないから、慎重に、ただひたすら慎重に、生きていきたい。
つまりそれを70歳まで、つづける。

ひとつだけ目標があるとすれば、「自由」ということになる。
これからも自由だけは、大切にして生きていきたい。

私は自由に生きてきたし、今も、自由に生きている。
これからも自由に生きていく。


●SKYPE

昼ごろ、二男夫婦と、久しぶりにSKYPE(テレビ電話)で話をする。
誠司(孫)、芽衣(孫)も元気そうだった。
二男も、元気そうだった。

途中から長男、三男、それにワイフも加わってきた。
家族全員が、パソコンのまわりに集合した。

「仕事は何時から?」と聞くと、「10時ごろかなあ……。3時には終わるよ」と。
あの国は、何からなにまで、日本の常識では、理解できない。
「クビにならないのか?」と聞くと、「犯罪でも犯さないかぎり、だいじょうぶだよ」と。
「それにいちばんの上司が、ぼくよりコンピュータのことを知らない」とも。

そういえば、プリンストン大学で教授をしている知人も同じようなことを
言っていた。
そのとき、日本に2か月程度滞在していたので、「仕事はだいじょうぶか?」と
聞くと、「助手が代わりにしてくれているからいい」と。

やるべきことをやり、それなりの成果を出せば、それでよいというわけである。
二男も、「給料は、できだか払いのようなもの」というようなことを言っていた。
大学へ出かけていき、そこでいくつかの仕事を指示される。
二男は、その仕事をする。
終わったら、それでおしまい。
そのあと、途中で2人の子どもを拾って、家に帰る。

言い忘れたが、二男は、現在、インディアナポリス大学でコンピュータ技師を
している。
プラス主夫業をしている。
インディアナポリスといえば、昨日見た映画、『イーグル・アイ』の舞台になった
都市である。

誠司に会いたい。
芽衣に会いたい。

誠司が、ぐんと大きくなったような感じがした。
幼児というよりは、少年という感じになった。
芽衣は、毎回、どんどんとかわいくなっていく。
驚くほど頭のよい孫である。

嫁のデニーズは、来週から1週間、休暇に入るという。
現在、インディアナポリス大学のロースクールで、
弁護士になるための研修を受けている。

子どもや孫に負けてはおれない。
私もがんばる。
こうして親というのは、息子や孫たちに励まされながら生きるものか。


●従兄弟

毎年、この時期になると、岐阜県の下呂に住む従兄弟が、
天然の鮎を送ってくれる。

木曽川の鮎は、長良川の鮎の数倍は大きい。
(長さが小さいので、25センチ。大きいので、30センチ弱。)
メスが4匹、オスが3匹。
メスには、腹の中に卵がぎっしりと詰まっていた。

さっそく、今日、お返しの魚(=海の魚)を買って送る。


●三男のDVD

三男は、昔から、ホラーものが好き。
数日前も、DVDを借りてきたが、その類のものばかり。
性格はすなおで、明るいが、どうしてああいう映画を好むか、わからない。
しかも自分がパイロットのくせに、飛行機が墜落する映画ばかり見ている。
数日前も、あの日航123便墜落事故をテーマにした、『クライマーズ・ハイ』と
いう映画を見ていた。

「どうしてこんな映画を見るのか?」と聞いたら、「会社のほうで見るように
言われているから」とのこと。

座学では、飛行機事故の勉強が、大切な科目のひとつになっているという。

同期で大学を卒業した仲間の中には、ほかの航空会社で、すでに副機長として
空を飛んでいる人もいるという。
しかし三男は、まだこれから先、1年半も訓練をつづけなければならない。
J社のパイロット訓練は、ほかの会社より、ずっと長い。
(だからみなさん、飛行機に乗るなら、JALにしなさい!)


●親の介護

今、親の介護で苦しんでいる人がいる。
女性である。
年齢は65歳という。
親は、母親。
87歳という。

その母親が、たいへんわがままな人で、その女性を
奴隷のように、こき使っているという。
しかも最近、その母親に、奇行が目立ってきたという。
いわゆる(注察妄想)というのらしい。

「他人に見られるのがいや」ということで、カーテンを閉め、
すだれをおろし、さらにもう一枚、カーテンを閉めているという。
そして部屋の中で、箱から衣服を取り出したり、しまったりしている
という。
おかげで、部屋という部屋は、衣服が散乱し、足の踏み場もないという。

私はいくつかのアドバイスをした。

(1) まず戸籍を分離すること。(同一住所でできる。)
(2) 母親を、無収入の独居老人とする。
(3) ケアマネのところに、こまめに足を運び、相談する。
(4) 最終的には、特別老人介護センターに入れる。

幸運なことに、その母親には、月7万円程度の遺族年金があるという。
それだけあれば、むしろ(おつり)が返ってくるはず。

「施設へ入れるとなると、母は抵抗すると思います」と、その女性は言った。
私は、「みなで強引に入れるしかない。でないと、あなたのほうが、先に
倒れてしまいます」と。

そのあたりのことも、ケアマネの人は心得ているはず。

明日(20日)、介護認定の人がやってきて、介護審査をするという。
その女性は、「ありのままを見てもらいます」と言った。
私も、「それがいい」と答えた。

その女性が母親を、施設に入れるときは、手伝うことになっている。
ワイフと2人で、でかけて行って、いっしょに施設に入れる。
母親の体重は、80キロ前後もあるという。

「あのね、こういうときは、説得するだけはして、あとは強引に行動に移すしか
ないですよ」と。

老人にもいろいろあるが、わがままで、手がつけられない人もいる。
言い忘れたが、その女性(65歳)は、夫と離別して、現在は、ひとり住まい。
息子氏は、広島市に住んでいるという。

最後にこうアドバイスした。
その女性(65歳)には、ほかに3人の兄、妹がいる。
「どんなことがあっても、その3人に、愚痴の電話を入れたり、悪口を
言ってはいけませんよ。
淡々と、やるべきことをやって、無視することです。
やり方をまちがえると、兄弟の間に、取り返しのつかない、大きな溝を作って
しまいますからね」と。

その女性(65歳)は、「わかった」と言って、すなおに従ってくれた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

Monday, October 20, 2008

*A Nervous Daughter

【子どもの心の奥にあるもの】

++++++++++++++++

よく誤解されるが、情緒不安というのは、
情緒が不安定になることではない。
(心の緊張感)がとれないことを、情緒
不安という。

心が緊張しているとき、不安や心配ごとがあると、
心は一気に不安定になる。
結果として情緒は不安定になる。
つまり情緒不安というのは、(心の緊張感)が
とれない、その結果として現れる症状をいう。

子どもの情緒不安を感じたら、まず、心の
緊張感が、いつ、どのように発生し、どのように
作用しているかを、観察する。

慢性化すれば、神経症(症状は千差万別)を
発症するようになる。
疑惑症、嫌悪症、潔癖症なども、そのひとつ。

対処法としては、(心の緊張感)をほぐすことを
第一に考える。

+++++++++++++++++

【AKさんより、はやし浩司へ】

 6歳の娘と、4歳の息子がいます。6歳の娘についての、相談です。

長女はいい子で優しく素直な子です。神経質で、きっちりしている(言いつけを守る)ところもあります。5歳くらいまで母子分離不安が強く近所で多数の子供たちと遊ぶと、うちの子はなかなか私から離れず、みんなの中に入って行くのを尻込みするタイプでした。何か心にストレスを感じるとすぐ身体症状が出る子で、幼稚園入園後半年で円形脱毛になり、年長に上がった時に神経因性頻尿になりました。いずれもたくさん構ってあげたりスキンシップや気分転換させると自然に治りました。

 今困っている症状は、手を洗っても汚れがついている気がする・その手で蛇口を触れない(蛇口をずっと長いこと洗います)・手に触れるものや口に入れるもの全てにおいて清潔か、触っても大丈夫かの確認を何度もする・チック(目をぱちぱちする)です。手洗いに関しては、私が指摘したせいか本人も自覚してしまってつらがっています。手洗いの際私が手を包み込んで一緒に洗うと、ましなようです。

 弟の方はマイペースで長女のようにきっちりせず、のびのびしています。母親に対する独占欲が強く長女といつも私を取り合う感じです。3歳頃まで泣きひきつけがひどく、あまり泣かせないようにしてきたからか、長女は我慢をすることも多かったと思います。次男出産後1年半は保育所に預けていました。

 私自身にも問題があります。一度火がつくと自分でもコントロールできない程激しく叱ってしまうのです。私の母親が普段は優しく愛情深いのですが、怒るとすごくこわく、いわゆるヒステリータイプで、毎日夫婦喧嘩の声(母の怒った声)に子供の頃から心が休まらない家庭でした。母の顔色を伺いながら生きてきた自分を考え、自分は絶対そんな思いは子供にさせまいと思い続けて母親になりましたが、時々自分の中に母親の影をみることがあります。

特に生理前などはイライラが強く、子供にきつく怒ってしまいます。その度に自己嫌悪に陥り反省し、よし明日からはとがんばるのですが、1ヶ月くらいたったある日それまでの努力を自分で台無しにするような怒り方をして、また反省し繰り返しです。こんな自分も嫌です。どうにかして治したいのですが。夫に私がきつく怒りすぎて子供が萎縮していると指摘を受けました。

 今回長女の強迫的な行動におろおろし、いろいろ調べたところ、はやし先生の相談者に対するアドバイスを読み、今まで長女は繊細であれこれ困ったことが起きるなと思っていたのは、すべて私が原因だったのでは?、と思いました。長女に対して今最大限のスキンシップをはかるようにしていますが、このまま続けて行けば良くなるでしょうか? ひどい時は10分おきくらいに、「足を触ったかもしれないけどその手を舐めたかもしれないけど大丈夫?」といった質問を繰り返したり、手洗い場で「洗っても洗っても汚れてるみたいな気がする」と泣いている娘をみると、早く治してあげたくて受診させたほうがいいのかと悩んでいます。

主人は自分の実家で気分転換させたら?、といいます。(主人の実家は長女びいきで行くといつも娘の表情が穏やかでわがまま言い放題、のびのびしています。)先生、どうか返答は遅くても構いません。是非アドバイスをお願いします。私自身はメールアドレスを持っていないので主人の名前で出しています。(相談者・AK) 

【はやし浩司よりAKさんへ】

 まずAKさん、あなた自身の心が、なぜいつも緊張状態にあるかを、静かに観察してみてください。いつもピリピリしているというようであれば、そのもとになっている、原因をさぐります。

 私の印象では、AKさん自身が、心を開けない人のように思います。他人の前に出ると、緊張してしまうとか、(結果的に疲れやすい)、仮面をかぶってしまうとか、そういう状態ではないかと思います。

 さらにその原因はといえば、AKさん自身の母子関係にあります。AKさんと、AKさんの母親との関係です。AKさん自身も、子どものころ、(いい子)ぶることで、いつも自分をごまかしていた。現在のあなたの長女のように、です。

 で、相談の件ですが、年齢的に、つまり2歳下の弟がいるということですから、長女は、まだ人見知り、後追いのはげしかったころ、下の弟が生まれたことになります。下の弟が生まれたことによって、大きな愛情の変化を感じたと思われます。対処の仕方を誤ると、赤ちゃん返りという症状が生まれます。

 長女は、現在も、その(赤ちゃん返り)の流れの中にあると思ってください。

 子どもというのは、環境の変化にはたいへんタフですが、愛情の変化には、敏感に反応します。親は「平等にかわいがっている」と言いますが、子どもには、そういった論理は通用しません。あなたの夫が、ある日突然、愛人を家に連れ込んできたようなばあいを、想像してみてください。

 もうおわかりかと思いますが、長女は、慢性的な愛情飢餓状態にあると考えて対処します。濃密なスキンシップ、添い寝、手つなぎなど、こまめに実行してみてください。ポイントは、『求めてきたときが、与えどき』です。

 長女のほうから、スキンシップを求めてきたようなときは、すかさず、(すかさず、です)、それに応じてあげます。「あとでね……」「忙しいから……」は、禁句です。ほんの数分、応じてあげるだけで、子どもは、落ちつくはずです。

 ほかに食生活にこころがけてみてください。CA、MG、Kの多い食生活(=海産物中心の献立)にするだけでも、かなり効果があります。(薬物に頼るのは、この時期、勧めません。)とくにCAの多い食生活を大切にしてみてください。市販の子ども用錠剤なども、効果的です。
(薬局へ行くと、高価な錠剤を勧めますが、安いものもあります。安いのでも効果は同じです。服用量を注意して、与えます。)
私自身も、心の緊張感がほぐれないときは、CAの錠剤をバリバリと口の中で割ってのんだりしています。ほかにハーブ系の錠剤をのむこともあります。

偏食、とくに白砂糖の多い食品は、避けます。(家庭では、精製してない黒砂糖を料理に使うとよいでしょう。)

家庭生活の要(かなめ)は、子どもの側からみて、(心の休まる)環境です。
長女は、おそらく外の世界(幼稚園など)では、いい子ぶることで、自分の立場を保持しているはずです。つまりそれだけ神経疲れを起こしやすいということです。ですからその反動として、家の中で、ぞんざいな態度、横柄な態度を見せるかもしれませんが、そこは許してやってください。
「うちの子は、外でがんばっているから、家の中ではこうなのだ」と、です。

6歳ともなると、(家)は、(しつけの場)ではなく、(憩いの場)とならなくてはいけません。疲れた心を休める場所です。

手洗いグセについては、『暖かい無視』に心がけます。心の緊張感(わだかまり、こだわり)がほぐれてくれば、自然になおります。親がカリカリすればするほど、逆効果です。なお子どもの神経症については、私のHP→(ここが子育て最前線)→(子ども診断)→(神経症)に収録してありますから、参考にしてください。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html

で、問題は、AKさん、あなた自身です。

遠くは、あなたとあなたの母親との関係にまで、原因がさかのぼります。あなた自身が、全幅に、あなたの母親に受け入れてもらえなかった……。それが今、あなたの対人関係(もちろん子どもに対しても)に、影響を与えています。さみしがり屋で孤独なくせに、しかし集団の中に入っていくと、すぐ神経づかれを起こしてしまう、と。他人を信ずることができない……つまり、他人に心を開くことができない。自分をつくってしまう。ありのままをさらけ出すことができない、など。
(あるいは何かの原因で、長女を愛することができないのかもしれませんね。「長女を愛しなければならない」「しかしどうも好きになれない」と、AKさん自身が、心の中で葛藤しているということも考えられます。あなた自身も、親に愛されていなかった……。その世代連鎖が、今もつづいている可能性も否定できません。)

ともかくも、こうした緊張感が、ちょっとしたきっかけで、爆発してしまう。長女に対して、です。

症状としては、AKさん自身が、(うつ病質)であると考えられますが、専門的な判断は、ドクターにしてもらってください。同時にAKさん自身も、CAの多い食生活に心がけてみてください。

ほとんどの親は、子どもに、ふつうでない症状が現れると、子どもに原因を求め、子どもを治そうとか、直そうとか考えます。しかし子どもは、(家族の代表)でしかありません。
幸いなことに、AKさんは、今、それに気づきつつあります。つまりすでに問題は、半分以上、解決したということです。

あとは、長女のよいところだけを見て、長女といっしょに、もう一度人生を楽しむつもりで、子育てをすればよいでしょう。あるいはもうそろそろ長女から離れ、あなた自身が自分でしたいことをすべき時期に来ているかもしれません。夫の実家でめんどうをみてくれるというのですから、そういう場をうまく利用して、あなたはあなたで、好き勝手なことをすればよいのです。

また、子どもを愛せないなら愛せないで、気負うことはありません。実際そうした母親は、7~10%はいます。まず、あるがままの、自然体で、子どもに接することを大切にします。「親だから……」と気負ってはいけないということです。(メールによれば、AKさんは、かなり親意識の強い方のようですから……。)子どもの「友」になることだけを考えて対処します。

どうであるにせよ、症状としては、この時期、たいへん多いですから、あまり深刻に考えないこと。ただし環境を改善したとしても、すぐには症状は消えません。あせらないこと。チックにしても、家庭環境が改善されても、ばあいによっては、そのあと、数年つづくこともあります。(手洗いグセは、比較的早く、症状は消えます。)

詳しくは、「はやし浩司 神経症」「はやし浩司 手洗いグセ」で、検索してみてください。
またAKさん自身の問題は、「はやし浩司 基本的信頼関係」が、参考になると思います。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 子どもの神経症 手洗いグセ)

Sunday, October 19, 2008

*Don'T be old men by yourselves!

【老人・段階論】

+++++++++++++++++++++

キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、
よく知られている。

「死」を受容する過程で、人はさまざまな反応を
示すが、それをキューブラー・ロスは段階論として
それを示した。

しかしこの「死の受容段階論」は、そのまま
「老人段階論」にあてはめることができる。

+++++++++++++++++++++

●キューブラー・ロスの「死の受容段階論」(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

キューブラー・ロスの「死の受容段階論」について。
ロスは、死に至る過程について、つぎの5期に分けて考えた。

(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●私の母のばあい

私の母のばあい、ひざに故障が起きて、歩くのもままならなくなったとき、
ひどく医者をうらんだ時期があった。

「どうして治らない」「どうして治せない」と。

つぎに自分が老いていくことを許せなかった時期もあった。
たとえば温泉に行くことについても、「恥ずかしいからいやだ」と、かたくなに、
それを拒んだりした。

つぎに自分が動けなくなったことに腹をたて、私の兄に、八つ当りをしたこともある。
兄をののしり、兄を理由もなく、叱ったりした。

が、それも一巡すると、(あるいはその前後から)、ちぎり絵に没頭するようになった。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵をしていた。

さらにこれは、私にも信じられないことだったが、私の家に来てからは、まるで別人の
ように、静かで、おとなしくなった。

ざっと、母の様子を振り返ってみた。
が、それ以前の母はというと、ふつうの女性以上に、勝気で虚栄心が強く、わがまま
だった。

こうした母の変化を順に並べてみると、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」に、
恐ろしいほどまでに、当てはまるのがわかる。

(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。
母は、毎日のように治療に専念するようになった。
病院通いのほか、知人、友人の勧めに応じて、いろいろな治療法を試みた。

(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。
が、治療の効果がないとわかると、一転、「どうして治らない!」と、周囲の人たちに当たり散らすようになった。

(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。
もともと信心深い人だったが、ますます信仰にのめりこんでいった。

(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵に没頭するようになった。

(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わりを静かに受け入れる。
私の家に来てからは、すべてを観念したかのように、静かに、おとなしくなった。
デイサービスなど、一度とて、それを拒否したことはない。
センター(特別養護老人ホーム)へ入居するときも、すなおに入居した。

母だけの例で、すべての老人もそうであると考えるのは、もちろん正しくない。
しかしほかの老人たちの話を聞いても、それほど、ちがっていない。
つまりキューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、そのまま、これから先の私たち自身の老後の姿と考えてよい。

(第1期) 否認……老人であることを否定する。「私は、まだ若い」と主張する。
(第2期) 怒り……老人扱いする周囲に怒りを覚える。「老人を大切にしない」と怒る。
(第3期) 取り引き……若い人に妥協したり、媚びを売ったりする。
(第4期) 抑うつ……身体的な症状が顕著になってくると、うつ状態になる。
(第5期) 受容……老人であることを受け入れ、死に対する心の準備を始める。

この段階論で、自己分析を試みると、私は、現在(第1期)~(第2期)ということになる。
しかしこれも心の持ち方で、かなり変化する。
というのも、「老人というのは、自ら老人になるのではなく、周囲の人たちによって、老人につくられていくから」である。
定年という制度も、そのひとつ。

同じ満60歳といっても、健康状態は、みなちがう。
肉体年齢や精神年齢にしても、そうだ。
そういう人たちを、ひとまとめにして、「定年」と決めるほうが、おかしい。
まちがっている。

55歳でヨボヨボの人もいれば、70歳でテニスのコーチをしている人もいる。
私も「あなたも定年の年齢になりましたね」と言われることくらい、不愉快なことはなかった。
定年であるかどうか、もっと言えば、老人であるかどうかは、自分で決めること。
しかし世間全体が、大きな(波)の中で動いている。
私ひとりが、それに抵抗しても、その力は、弱い。
私もいつしか、……と書きたいが、実際には、このところ逆のパワーが強くなってきた。
「生きて、生きて、生き抜いてやる」というパワーが、大きく作用するようになった。
と、同時に、「私は老人である」という考えが、どんどんと薄れていった。

コツがある。

(1) 過去を振り返らない。
(2) 未来だけを見ていく。
(3) 他人に遠慮しない。

あえて(第1期)の否認や、(第2期)の怒りを、経験する必要はない。
身体的な不調がないわけではないが、それについては、運動で克服する。
これは私の経験だが、加齢とともに、運動量をふやすことは、とても重要なことである。
歳をとったから、運動量を減らすなどいうことをすれば、かえって老化を早めてしまう。

また「健康」といっても、3つある。

肉体の健康、精神の健康、それに脳みその健康である。

肉体の健康は、運動で。
精神の健康は、人と接することで。とくに子どもたちと接するのがよい。
また脳みその健康は、脳みそを刺激することで、それぞれ維持する。
具体的には、私夫婦は、つぎのように目標をかかげている。

(1) 1日、2単位の運動をする。
(2) 月に2回は、日帰りの旅行をする。
(3) 週に1度は、劇場で映画を見る。

「人(子ども)と接する」ことについては、私の仕事を利用させてもらっている。
最近は、ワイフも、いっしょに仕事をすることも多くなった。
さらに私のばあい、月に4~5回の講演活動をしているが、これはたいへん脳みその刺激によい。
会場で1~2時間、大声でしゃべりつづけるだけでも、ボケ防止になるのでは(?)。

要するに、何もあわてて老人になることはない。
年齢という(数字)に影響を受ける必要もない。
またそんなものを気にしてはいけない。
「私は私」。
キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、あくまでも一般論。
何も、それに従う必要はない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi Hamamatsu 林浩司 林 浩司 教育評論家 キューブラー ロス 死の受容段階論 死の受忍 死の受容 死を受け入れる 老後段階論)

*Where does our desire come from?

●マズローの欲求段階説を参考に

【より高い人間性を求めて】(1)

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として生きることはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・H・マズローの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後にかけて活躍した、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。その現実をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それはそれとして、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自由に生きていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよりよい人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。新しい人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。そこに問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよいから、それをテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、より親密になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法は簡単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわりを明るくして生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬することによって、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間性を維持することができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まったときから、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、加齢とともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんなことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わかった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。つまりそれまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点である。「生」へのいとおしさというか、それが、鮮明にわかるようになる。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍くなる。問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、どうであるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考えることができるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、多いことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考えるだろうか。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。人間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようになる、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマズローの「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi

最前線の子育て論byはやし浩司(444)

【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きることの重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうときは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まって、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよりは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつもその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底なしに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言ってはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それをいちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るためでもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思っている人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなのか? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きることを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともかくも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこになり、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、まず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばらしいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはいけない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。

はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi マズロー 欲求段階説)