Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, November 30, 2009

*Excessive Active Children

【キレる子ども】

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こんな記事が、読売新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

キレる子どもの背景には、「抑圧」がある。
その抑圧の恐ろしさを、改めてこの記事を
読んで知った。

つまり日ごろ、(いい子)でいる子どもほど、
心に別室を作り、その中に不平、不満を
押し込める。
それがときとばあいに応じて、突然、爆発する。

(心の別室)には、いわゆる(心の上書き)が
働かない。
ふつう心というのは、何かいやなことがあっても、
そのあと楽しいことがあると、上書きされ、
いやなことを忘れる。
しかし心の別室に入った思い出には、その
上書きが働かない。

だから何年も、あるいは何十年もたっている
にもかかわらず、それが爆発する。

「いい子ほど心配」という意味が、わかって
もらえれば、うれしい。

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++++++++++以下、読売新聞より++++++++++++

●無抵抗の教師殴るける、子供の暴力エスカレート

12月1日9時13分配信 読売新聞

 子供の暴力の4件に1件は、相手を負傷させるほどエスカレートしていた。文部科学省が30日公表した問題行動に関する調査は、暴力行為が過去最多を記録。内容も悪質化していた。

 今年9月、栃木県日光市の市立中学校。放課後の教室で、3年男子が女性教諭の顔などを殴り全治1週間のけがを負わせた。市教委によると、宿題の作文を書いておらず、その場で書くよう指導されただけで突然キレたといい、無抵抗の教諭を殴ったりけったりした。

 「意思疎通が下手で、言葉にする前に手が出る子供はますます増えている」。神奈川県の中学校の女性スクールカウンセラー(45)は話す。今回の調査で、同県は暴力行為の件数が9232件と全国最多だった。カウンセラーは、家庭の経済的な困窮を背景に、ストレスをため込んでいる子供が増えたと指摘。「ささいなことで感情を爆発させる子にそうした子供が多い」と話した。

 一方、学校がいじめを把握した件数は大幅に減ったが、山形県高畠町の会社員渋谷登喜男さん(57)は「いじめを把握できないのは、子供が本音を明かさないためです」と語る。

 高校2年だった長女の美穂さん(当時16歳)は2006年11月、校内で飛び降り自殺した。死後、美穂さんの携帯電話から、いじめを受け自殺を決意したことをうかがわせる本人の書き込みが見つかったが、県教委は「いじめは確認できない」とした。

 今回の調査で「いじめゼロ」だった学校は、個別面談や家庭訪問の実施率が低い傾向があった。学校側の責任を問い、県と裁判で争っている渋谷さんは、「教師が忙し過ぎて子供と向き合えていない。学校現場で心や命の問題がおろそかになっている」と訴えている

++++++++++++++++以上、読売新聞より++++++++++++++

【子どもとストレス】

●キレる子ども 

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キレる子どもについては、たびたび、
取りあげてきた。

その「キレる」という行為だが、通常の
「激怒」とは、いくつかの点で、異なる。

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 子どもでも怒る。激怒することはある。しかし「キレる」という行為とは、明確に、区別される。「キレる」という行為には、つぎのような特徴がある。

(1)突発的に錯乱状態になる。
(2)暴力行為に、見境がなくなる。
(3)脳の抑制命令が、欠落する。
(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。
(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 順に考えてみる。

(1)突発的に錯乱状態になる。

 キレる子どもの特徴は、突発的に錯乱状態になること。その少し前から、ピリピリとした緊張状態がつづくことがあるが、暴れ出すときは、突発的である。瞬間、人格の変化を感じたと思ったとたん、「コノヤロー」と金切り声をあげて、相手に飛びかかっていったりする。

(2)暴力行為に、見境がなくなる。

 キレる子どものする暴力には、見境がない。ふつうの暴力には、(手かげん)というものがある。しかしキレる子どものする暴力には、その(手かげん)がない。全力をこめて、相手を殴ったり、蹴ったりする。

(3)脳の抑制命令が、欠落する。

 言動が、まるでカミソリでものをスパスパと切ったようになる。動きが直線的になり、なめらかさが消える。脳の抑制命令が欠落したような状態になる。当然、言葉もはげしいものになる。

(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。

 その瞬間、子どもの顔を観察すると、顔色は青ざめ、目つきが別人のように鋭く、冷めたものになっているのがわかる。憎しみや怒りを表現しながら相手に殴りかかるというよりは、無表情のまま。ときに、そのあまりにもすごんだ顔を見て、ゾッとすることさえある。

(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 キレるとき、その理由が、よくわからない。A君(小3男児)は、順番を待って並んでいるとき、突然、キレて暴れ出した。近くにあった机や椅子を、ギャーッという叫び声とともに、手当たり次第、足で蹴って倒した。

 B子さん(小5女児)は、私が「こんにちは」と声をかけて肩をたたいたその瞬間、突然、キレた。私に向かって、「このヘンタイ野郎!」と言って、私の腹に足蹴りを入れてきた。ものすごい足蹴りである。私は、その場で、息もできなくなり、しばらくうずくまってしまった。

 C君(小4男児)は、問題を解いているとき、私がそれを手助けしてやろうと声をかけたとたん、キレた。「テメエ、ウッセー!」と叫んで、そばにあったワークブックで、私の頭を、つづけざまに、狂ったように叩きつづけた。

 こういうケースのばあい、私ができることと言えば、男児のばあいは、抱きかかえ、子どもを抑えることでしかない。しかし相手が女児のばあいだと、それもできない。両手でまるく、自分の頭をおおうことでしかない。子どもの世界では、おとなの私のほうが、やり返すなどというのは、タブー。(当然だが……。)

 こうした子どもを観察してみると、先にも書いたように、脳の抑制命令そのものが、欠落したような状態になっていることがわかる。脳の機能そのものが、異常に亢進し、狂ったような状態になる。

 原因のほとんどは、慢性的なストレス、日常的な緊張感、抑圧感の蓄積と考えてよい。それが脳間伝達物質の過剰分泌を促し、瞬間的に脳の機能が異常に亢進するためと考えられる。

 さらにその原因はといえば、脳の微細障害説などもあるが、家庭環境も、大きく作用していることは否定できない。

 子どもがこういう症状を示したら、親は、家庭環境を猛省しなければならない。が、こういう子どもにかぎって、親の前では、むしろ静かでいい子ぶっていることが多い。つまりそのはけ口を、弱い人や、やさしい人に向ける。

 だからたいていのばあい、私がそれを指摘しても、親は、その深刻さを理解しようとする前に、子どもを叱ったり、さらに子どもを抑えつけようとしたりする。これがますます症状をこじらせる。あとは、この悪循環。最後は、行き着くところまで行く。それまで気がつかない。

 対処法としては、過剰行動児に準ずる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以前書いた原稿より……

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ストレス学説

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適度なストレスは、生活のスパイス。
それは常識だが、では「適度なストレス」
とは、どの程度のストレスのことを
いうのか。

称して、「はやし浩司のストレス学説」

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 適度なストレスは、生活のスパイス。それが、生活に、ある種の緊張感をもたらす。それは常識だが、では「適度なストレス」とは、どの程度のストレスのことをいうのか。それがわからない。

●正のストレス、負のストレス

 ストレス(生理的ひずみ)にも、2種類ある。たまたま、私は、それを同時に経験しつつある。

 来月(10月)から、数年ぶりに、言葉クラブをもつ。生徒も、5、6人、集まった。で、これが今、ある種の緊張感となって、私の心を包んでいる。これが正のストレス。

 一方、この先ずっと、私は、グループ・ホームへ入った兄のめんどうをみなければならない。ひょっとしたら、兄のほうが、私より長生きをするかもしれない。途中、いろいろな医療費も負担することになるだろう。それを考えると、気が重くなる。これが負のストレス。

 つまり前向きに、自分を発展させていくストレスが、正のストレスということになる。一方、袋小路に入ったように、先が見えないストレスが、負のストレスということになる。

 適度なストレスとはいうものの、正のストレスなら、まだ何とかなる。ここでいう、生活のスパイスになる。

 しかし負のストレスは、そうではない。それがいくら軽いものであっても、(重いものなら、当然だが)、心の内側にペタッと入りついて、その心を、重く苦しいものにする。

●住んでいる世界で異なるストレス

 心の広さというのは、千差万別。人によって、みな、異なる。

 井戸のような世界に住んでいる人は、小さな石ころが落ちただけで、それを大きなストレス(ストレッサー)にしてしまう。

 一方、大きな海のような世界に住んでいる人は、渦巻く台風のような風が起きても、平気。

 つまりは住んでいる世界、あるいはその人の心の広さによって、同じストレスでも、感じ方まで、異なってくる。

 それが正のストレスであれ、負のストレスであれ、事情は同じ。

 では、私たちは、ストレスに対して、どのように考え、どのように対処すればよいのか。

●ストレス学説 

 ストレスというのは、もともとは「圧力」を意味する(セリエ)。その圧力が、心理的負担になり、心理的反応を示した状態を、「ストレス」という。「生理的ひずみ」と考えると、わかりやすい。

 しかしそのストレスの受け方には、ここにも書いたように、個人差がある。たとえば同じストレス(圧力)でも、人によって、それを重圧に思う人もいれば、そうでない人もいる。そこで今では、ストレスに個人差、つまり個人変数を加えて考えるのが常識になっている(ラザラスとフォルクスマン)。

 同じストレスであるにもかかわらず、人によって個人差が出るのは、それぞれの人がもつ認知プロセスがちがうからと考えられている。わかりにくい言葉だが、要するに、その人が置かれた環境、心理状態、精神状態、経験などにより、その処理方法が異なるということ。

 たとえばある男性(40歳)は、こう言った。「オレは、借金がないと仕事をする気が起きない」と。

 また別の男性(40歳)は、こう言った。「オレは、借金に追われるようになると、仕事が手につかなくなる」と。

 同じ(借金)でも、それを受け取る側の認知プロセスによって、ストレスにするかしないかが決まってくる。こうしたストレスへの対処方法を総称して、「コーピング(coping)」と呼ぶ学者もいる。

●では、どうするか?

 ストレスと戦うためには、2つの方法が考えられる。ひとつは、そのストレスそのものと戦うという方法。もう1つは、自分の住む世界を、より広く、大きくすることによって対処するという方法である。
 
つまり心理的圧力となるような原因を取り除くのが、前者。広い海のような心をもち、小石が落ちたくらいでは、ビクともしない。そういう状態にもっていくのが、後者ということになる。

 で、私のばあいは、ストレスの原因となるようなストレッサー、とくに冒頭にあげた負のストレスを、心のどこかで感じたばあいには、できるだけ早い段階で、それを解消するように努めている。もともとあまりストレスに強い精神構造にはできていない。

 つぎに、できるだけ広い心を用意する。具体的には、さまざまな経験をすることによって、広い心をもつようにする。そのためには、情報が重要な役割をになうことが多い。そういう意味では、無知、無学は、ストレスの大敵と考えてよい。

 ほかに、たとえば、心の防衛機制に準じて、(1)合理化、(2)反動形成、(3)同一視、(4)代償行動、(5)逃避、(6)退行、(7)補償、(8)投影、(9)抑圧、(10)置換、(11)否認、(12)知性化という方法などがある。

どう反応するかは、もちろんそれぞれの人によって異なる。が、人というのは、それをストレスと感じたときから、それに長く耐える力は、あまりない。これは幼児のばあいだが、日中、ほんの5~10分間程度ストレスを感じただけで、精神疲労症状を起こす子どもは、少なくない。

 子どもによっては、頭痛、腹痛を訴えることもある。吐く息が臭くなったり、下痢症状を示すこともある。それが周期的に長くつづいたりすると、心をゆがめることも少なくない。神経症を発症したり、さらに情緒障害、精神障害に発展することも珍しくない。

 話が脱線したが、今、あなたが何かのストレスを感じているなら、まずその中身を知る。敵を知る。それがストレスと立ち向かう、第1歩ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ストレ
ス、ストレッサー ストレス学説 正のストレス、負のストレス)

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ストレスについて、以前書いた原稿の
中から、いくつかを集めてみました。

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子どもが自慰をするとき

●ある母親からの質問

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。6歳になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなっているのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつけるように感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。

こういうとき、どう対処したらいいのでしょうか」(32歳母親)と。

●罪悪感をもたせないように

 フロイトは幼児の性欲について、次の3段階に分けている。(1)口唇期……口の中にいろいろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満4歳くらいから、性器に特別の関心をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレス(生理的ひずみ)を疑ってみる。

子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為をする。これを代償行為という。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自慰もその一つと考える。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレッサー)となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさぎ込み、ぐずぐず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)をともなうことが多い。そのため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を悪化させることもあるので注意する。

●スキンシップは大切に

 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、訳のわからないことを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗するそぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうしても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供の性教育 性教育 子供の性 性 自慰 子供の自慰 自慰行為)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。

たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。

ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。「尿」についても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。

私がそれを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸びやかな子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神経。その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサー(ストレスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。

つまり子どもによって、それぞれ認知プロセス(=ストレスに対する耐性)は異なる。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほとんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)

大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、またストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。

ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、その結果、言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。

 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。

たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょについても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。

そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供の夜尿症 おねしょ 頻尿 子どものおねしょ おねしょう)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私のストレス発散法

 ストレス(生理的なひずみ、あるいは「気」のうっ積)で苦しんでいる人は、多い。実のところ、私は30歳~35歳のころ、偏頭痛で苦しんだ。年に数回、あるいはもっと多い頻度で、偏頭痛の発作が起きた。それこそ四転八転の苦しみを味わった。「頭を切ってくれ!」と叫んで、ふとんの中でもがいたことも多い。その苦しみは、偏頭痛を味わったものでないとわかるまい。

 もっとも当時は、偏頭痛に対する理解も治療法もなく、(あったかもしれないが、私が相談した医師は、別の診断名をくだしていた。ある大病院では、脳腫瘍と診断し、開頭手術まで予定した)、市販の薬をのんでは、ゲーゲーとそれを吐き出していた。そういう意味では、まさに毎日がストレスとの戦いでもあった。

 そんな中、やがて自分なりの対処法を身につけるようになった。

 まず第一に自分はストレスに弱いことを自覚した。そのため、ストレッサー(ストレスの原因)となりやすいものは、できるだけ避けるようにした。たとえば人と会う約束も、1日1回にするとか、など。あるいはスケジュールには、余裕をもたせるなど。

 つぎに、当然のことながら、治療法をさがした。たまたま東洋医学の勉強もしていたので、あらゆる漢方薬を試してみた。しかし結局は、そのうち、たいへんよく効く西洋薬が開発されて、それでなおるようになった。ただその薬は、のむと胃を荒らすので、できるだけのまないようにしている。

 が、最善の治療法は、汗をかくこと。ただし、偏頭痛がひどくなってからでは、汗をかくと、かえって……というより、運動することそのものができない。軽い段階で、思い切って汗をかく。

運動がよいことは言うまでもないが、その中でも、私のばあい、エンジン付の草刈り機で、バンバンと草を刈るのが効果的。一汗かくと、偏頭痛そのものが消える。だから「おかしい」と感じたら、あたりかまわず草を刈ることにしている。理由はよくわからないが、下半身は毎日、自転車できたえているため、走ったり、自転車にのっても、あまり汗をかかない。しかし反対に、上半身は、ほとんど鍛えていないので、草を刈るとその上半身を使うため、汗をかくのではないか……と、勝手にそう解釈している。

 今でも、少し油断すると、頭重が起きる。しかしそれは同時に、私の健康のバロメーターでもある。持病もうまくつきあうと、それを反対に利用することができる。「少し頭が重くなったから、仕事を減らせ」とか。そういうふうに、利用できる。

 この話は、子育てとは関係ないが、育児疲れや育児ノイローゼで、偏頭痛になる人も多いので、参考のために書いた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●わずらわしい世界

 情報の時代というが、本当に、この世界、わずらわしい。昨夜も、居間でお茶を飲んでいたら、若い女性から電話がかかってきて、息子の電話番号を教えろ、と。私が断ると、「何を偉そうに!」と。勝手に他人の家に電話をかけてきて、「何を偉そうに!」は、ない。

 ひとり静かに生きることは、一見、楽なようにみえて、楽ではない。「一日」という時間帯をみても、ひとり静かでのんびりできる時間のほうが、少ない。つぎからつぎへと、いろいろな事件が起きる。そのほとんどは、向こうからやってくる。

できるなら、そういうわずらわしさから、解放されたい。しかし、それは死ぬまで、不可能だろう。ただ私のばあい、朝、5時ごろ目が覚めて、それから7時、8時まで、こうして原稿を書いているが、その時間ほど、「ひとり」でいられる時間はない。貴重な時間だ。しかし、それでわずらわしさが消えるわけではない。

 こうしたわずらわしさがあれば、それと戦うしかない。受け身になったとき、そのわずらわしさは、ストレッサーとなる。問題は戦い方だ。しかしひとたび情緒が不安定になると、それも簡単ではない。

子どものばあい、大きく分けて、三つのタイプに分かれる。(1)攻撃型、激情型、暴力型、(2)内閉型、オドオド型、萎縮型、(3)執着型、こだわり型、依存型。

思いついたまま書いたので、正しくないかもしれないが、要するに、大声を出して暴れるタイプと、グズグズして引きこもるタイプ、それにモノにこだわって、それを異常にこだわるタイプがある。

 おとなもそうで、私のばあいは、(1)の攻撃型と、(2)内閉型の間をいったりきたりする。精神状態がフワフワし、自分でもつかみどころがなくなってしまう。爆発しそうな自分を必死でこらえたり、反対に、電話に出るのも、おっくうになったりする。

あるいはときどき、(3)のモノにこだわるときもある。そういうときは、それまでほしかった高価なものを、パッと買ったりする。それで気分が晴れることもある。あとはカルシウム剤をたっぷりと飲んで、風呂に入って、よく眠る。「明日は明日の風が吹く」と、そう思いながら、床につく。

 昨日も一日、何かとわずらわしいことがつづいた。そのため朝なのに、少し頭が痛い。しかし考えても始まらない。「何とかなるだろう」と、自分をなぐさめながら、前に進むしかない。がんばりましょう。がんばります。では、みなさん、おはようございます。
(02-11-16)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のメカニズム

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少し不謹慎な話で恐縮だが、セックス
をすると、言いようのない快感が、脳
全体をおおうのがわかる。これはセッ
クスという行為によって刺激され、脳
にモルヒネ様の物質が放出されるため
である。しかしこういう快感があるか
ら人は、セックスをする。つまり、種
族を私たちは維持できる。同じように、
よいことをしても、脳の中で、同様の
変化が起きる? それについて考えて
みた。

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 まず、数か月前に私はこんなエッセーを書いた。その中で、私は「気持ちよさ」とか、「ここちよさ」という言葉を使って、「正直に生きることの大切さ」について書いてみた。

●常識の心地よさ 

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかるようになる。

無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るものか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町のT市のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくこと、そのものと言ってもよい。

●なぜ気持ちよいのか

 少し話が専門的になるが、大脳の中心部(大脳半球の内側面)に、辺縁系(大脳辺縁系)と呼ばれる組織がある。「辺縁系」というのは、このあたりが、間脳や脳梁(のうりょう)を、ちょうど包むようにフチどっていることから、そう名づけられた。

 その辺縁系の中には、認知記憶をつかさどる海馬(かいば)や、動機づけをする帯状回(たいじょうかい)、さらに価値判断をする扁桃体(へんとうたい・扁桃核ともいう)がある。

その扁桃体が、どうやら、人間の善悪の感覚をつかさどっているらしいことが、最近の研究でわかってきた。もう少しわかりやすく言うと、大脳(新皮質部)でのさまざまな活動が、扁桃体に信号を送り、それを受けて、扁桃体が、麻薬様の物質を放出する。その結果、脳全体が快感に包まれるというのだ。

ここに書いたケースで言えば、私が店員さんに50円のお金を渡したことが、扁桃体に信号を送り、その扁桃体が、私の脳の中で、麻薬様の物質を放出したことになる。

 もっとも脳の中でも麻薬様の物質が作られているということは、前から知られていた。そのひとつに、たとえばハリ麻酔がある。体のある特定の部位に刺激を与えると、その刺激が神経を経て、脳に伝えられる。すると脳の中で、その麻薬様物質が放出され、痛みが緩和される。私は23、4歳のころからこのハリ麻酔に興味をもち、一時は、ある研究所(社団法人)から、「教授」という肩書きをもらったこともある。

 それはそれとして、麻薬様物質としては、現在数10種類ほど発見されている。その麻薬様物質は、大きく分けて、エンドルフィン類と、エンケファリン類の二つに分類される。これらの物質は、いわば脳の中で生産される自家製のモルヒネと思えばよい。こうした物質が放出されることで、その人はここちよい陶酔感を覚えることができる。

 つまりよいことをすると、ここちよい感じがするのは、大脳(新皮質部)が、思考としてそう感ずるのではなく、辺縁系の中にある扁桃体が、大脳からの信号を得て、麻薬様の物質を放出するためと考えられる。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、心の働きというのも、こうして、ある程度は、大脳生理学の分野で説明できるようになった。

 で、その辺縁系は、もともとは動物が生きていくための機能をもった原始的な脳と考えられていた。私が学生時代には、だれかからは忘れたが、この部分は意味のない脳だと教えられたこともある。

しかしその後の研究で、この辺縁系は、ここにも書いたように、生命維持と種族維持だけではなく、もろもろの心の活動とも、深いかかわりをもっていることがわかってきた。そうなると人間は、「心」を、かなりはやい段階、たとえばきわめて原始的な生物のときからもっていたということになる。ということは、同属である、犬やネコにも「心」があると考えてよい。実際、こんなことがある。

 私は飼い犬のポインター犬を連れて、よく散歩に行く。あの犬というのは、知的なレベルは別としても、情動活動(心の働き)は、人間に劣らずともあると言ってよい。喜怒哀楽の情はもちろんのこと、嫉妬もするし、それにどうやら自尊心もあるらしい。

たとえば散歩をしていても、どこかの飼い犬がそれを見つけて、ワンワンとほえたりすると、突然、背筋をピンとのばしたりする。人間風に言えば、「かっこづける」ということになる。そして何か、よいことをしたようなとき、頭をなでてやり、それをほめたりすると、実にうれしそうに、そして誇らしそうな様子を見せる。恐らく、……というより、ほぼまちがいなく、犬の脳の中でも、人間の脳の中の活動と同じことが起きていると考えてよい。つまり大脳(新皮質部)から送られた信号が、辺縁系の扁桃体に送られ、そこで麻薬様の物質が放出されている!

●心の反応を決めるもの

 こう考えていくと、善悪の判断にも、扁桃体が深くかかわっているのではないかということになる。それを裏づける、こんなおもしろい実験がある。

 アメリカのある科学者(ラリー・カーヒル)は、扁桃体を何らかの事情で失ってしまった男性に、つぎのようなナレーションつきのスライドを見せた。そのスライドというのは、ある少年が母親といっしょに歩いているとき、その少年が交通事故にあい、重症を負って、もがき苦しむという内容のものであった。

 そしてラリー・カーヒルは、そのスライドを見せたあと、ちょうど一週間後に再び、その人に病院へ来てもらい、どんなことを覚えているかを質問してみた。

 ふつう健康な人は、それがショッキングであればあるほど、その内容をよく覚えているもの。が、その扁桃体を失ってしまった男性は、スライドを見た直後は、そのショッキングな内容をふつうの人のように覚えていたが、一週間後には、そのショッキングな部分について、ふつうの人のように、とくに覚えているということはなかったというのだ。

 これらの実験から、山元大輔氏は『脳と記憶の謎』(講談社現代新書)の中でつぎのように書いている。

(1)(扁桃体のない男性でも)できごとの記憶、陳述記憶はちゃんと保たれている。
(2)扁桃体がなくても、情動反応はまだ起こる。これはたぶん、大脳皮質がある程度、その働きを、「代行」するためではないか。
(3)しかし情動記憶の保持は、致命的なほど、失われてしまう。

 わかりやすく言えば、ショッキングな場面を見て、ショックを受けるという、私たちが「心の反応」と呼んでいる部分は、扁桃体がつかさどっているということになる。

●心の反応を阻害(そがい)するもの

 こうした事実を、子育ての場で考えると、つぎのように応用できる。つまり子どもの「心」というのも、大脳生理学の分野で説明できるし、それが説明できるということは、「心」は、教育によって、はぐくむことができるということになる。

 そこで少し話がそれるが、こうした脳の機能を阻害するものに、「ストレス」がある。たとえばニューロンの死を引き起こす最大の原因は、アルツハイマー型などの病気は別として、ストレスだと言われている。

何かの精神的圧迫感が加わると、副腎皮質から、グルココルチコイドという物質が分泌される。そしてその物質が、ストレッサーから身を守るため、さまざまな反応を体の中で引き起こすことが知られている。

 このストレスが、一時的なものなら問題はないが、それが、長期間にわたって持続的につづくと、グルココルチコイドの濃度があがりっぱなしになって、ニューロンに致命的なダメージを与える。そしてその影響をもっとも強く受けるのが、辺縁系の中の海馬だという(山元大輔氏)。

 もちろんこれだけで、ストレスが、子どもの心をむしばむ結論づけることはできない。あくまでも「それた話」ということになる。しかし子育ての現場では、経験的に、長期間何らかのストレスにさらされた子どもが、心の冷たい子どもになることはよく知られている。

イギリスにも、『抑圧は悪魔を生む』という格言がある。この先は、もう一度、いつか機会があれば煮つめてみるが、そういう意味でも、子どもは、心豊かな、かつ穏やかな環境で育てるのがよい。そしてそれが、子どもの心を育てる、「王道」ということになる。

 ついでに、昨年書いたエッセーを、ここに転載しておく。ここまでに書いたことと、少し内容が重複するが、許してほしい。

●子どもの心が破壊されるとき

 A小学校のA先生(小1担当女性)が、こんな話をしてくれた。「1年生のT君が、トカゲをつかまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてきて、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな経験がある。もう20年ほど前のことだが、1人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見ると、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が凍りつくのを覚えた。

よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。

また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみて息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因となることもある。要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあるとみる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊することもある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなくすのが知られている。

「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。昔、こう言った高校生がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減らせばいい。そうすれば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心もやさしくなる。

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもない。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そういう残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解されるが、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。
非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほしい。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したらよい。

子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れている子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復するとしても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(02-11-23)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心をゆがめる子供 扁桃体 ストレスと子供 子供とストレス)


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ここまでの原稿に関連して、
以前にマガジンで配送した原稿を、送ります。
前に読んでくださった方は、とばしてください。

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●性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数10万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、魚そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰り返す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせる場面に、よく出会う。

たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれて、さまざまな感情をもつようになる。よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがある。眠っている赤子が、何を思うのか、ニコニコと笑うことがある。こうした「心」の発達を段階的に繰り返しながら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、扁桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。

たしかに知的活動(大脳連合野の新新皮質部)と、情動活動は、違う。たとえば1人の幼児を、皆の前でほめたとする。するとその幼児は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮かべる。その表情を観察してみると、それは知的な判断がそうさせているというよりは、もっと根源的な、つまり本能的な部分によってそうしていることがわかる。が、それだけではない。

 幼児、なかんずく4^6歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であることがわかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、生まれながらにそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなったと考えるのが正しい。

子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、絶対に悪い子どもにはならない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよくわかる。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺しても、それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚えるとか。新生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早くミルクをよこしやがれ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間はとっくの昔に、絶滅していたはずである。

つまり今、私たちがここに存在するということは、とりもなおさず、私たちが善人であるという証拠ということになる。私はこのことを、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、この1、2年で一度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、場合によっては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣の中の幼虫を地面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば10分もたたないうちに、無数の小さなアリが集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかかっているのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあるハチの幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っているだけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうもそれだけではないように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる排泄行為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考える。そして相手が楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。同じように、私はアリたちにも、同じような作用が働いているのではないかと思った。つまりアリたちは、ただ単に行動本能に従っているだけではなく、「皆と力を合わせて行動する喜び」を感じているのではないか、と。またその喜びがあるからこそ、そういった重労働をすることができる、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔に絶滅していたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜びを感じているに違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しかも過酷な肉体労働をすることができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それとも悪なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存在」なのである。私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠である。繰り返すが、もし私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔に、恐らくアメーバのような生物にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じてよい。自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それに従って行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。
(02-8-3)

参考文献……『脳と記憶の謎』山元大輔(講談社現代新書)
      『脳のしくみ』新井康允(日本実業出版社)ほか

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 性善説 ストレスとは ストレス学説)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●キレる子供

【特集・キレる子ども】(1)


【キレる子ども】(再録)

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夏場になると、キレる子どもが
多くなる。

暑いせいか?

しかしそれだけとは言えない。

以前書いた原稿を、手なおして
して、ここに掲載する。

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●暴れまわる子ども(キレる子ども)

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アメリカのBLOGサイトに、こんな
相談があった。

預かっている子どもについての相談だが、
暴れまわって、困るという内容のもの。

Bulletin Board for EDSPC 753より転載。

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We have had custody of my 6 year old stepson for 9 months now, and I am truly worn out
and need help ASAP. I went to the school today to pick him up for a doctor appointment
(for his behavior & yes he is on medications for this)and upon seeing me in the hallway he became hysterical and ran in the oposite direction screaming. The principal and I caught up with him and he began punching, kicking, slapping, biting, and pulling several handfulls of my hair out of my head before the principal could restrain him. When he seemed calmed a bit i tried to calmly let him know that I was just picking him up for his doctor's appointment, at that point he kicked me in the face and continued to scream as loud as he could, disrupting several classrooms. The principal tried to carry him out to my vehicle, but once in he began kicking the daylights out of my car, he then got out and threw himself on the ground screaming. Please tell me what in the world to do and how should this be handled if it should occur at school again. The only facts we know about his life with his real mother is that she admitted in court to having heavily used methamphetamines daily throughout the pregnancy. I am not a teacher, but I fell terrible that the staff at his school had to go through this. He had an episode eight weeks ago where he did the same thing to his teacher that he did to me, I am in fearthat his abuse will only escalate. He is scheduled for a psych evaluation in Tacoma in 2 weeks, please give me advice for the mean time, we have 5 other well behaved children in our home, how do I keep them safe?

6歳の子どもを預かるようになって、9か月になる。私は本当に疲れた。今日も、ドクターの診察を受けるため、学校へ子どもを迎えに行った。

玄関で私を見るやいなや、子どもはヒステリックになり、反対方向へ走って逃げていった。校長と2人で、追いついたものの、殴ったり、蹴ったり、ひっぱたいたり、髪の毛を引っぱったりした。少し落ち着いたところで、今日は、病院へ行くだけだと話して聞かせた。

そのときも、私の顔を蹴り、大声で泣き叫び、いくつかの教室の授業を混乱させてしまった。どうしたらよいのか、どうか、教えてほしい。また学校で同じようなことが起きたら、どうすればよいのか。8週間ほど前も同じようなことをしたとき、このままエスカレートしたら、どうしようかと悩んだ。

彼は、タコマで、心理教育を受けることになっている。この間、どうすればよいのか、教えてほしい。私のところには、ほかにも5人の子どもを預かっているが、みな、行儀がよい。

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ある教育者からの返事

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It sounds like you are dealing with an extremely difficult situation. So far the other
suggestions posted by Dina and Bear should be helpful. I have two more techniques that
may be helpful for your stepson. One technique that you might want to try is creating a
behavior contract with your stepson. First, you can figure out what behaviors you would like to see him exhibit in school and at home. Some suggestions would be he needs to draw when he is feeling angry or he needs to follow directions the first time that they are given. Set a time frame for each time you or the teacher will be evaluating his behavior. Start small to encourage his success with the technique. You might want to say, if you can do this for 30 minutes you will receive a reward. And, keep track of whether or not he is exhibiting this behavior every 30 minutes. You will talk to him about what kinds of rewards he is willing to work for. If he loves to play with his toy trucks maybe you can use extra play time as a reward or getting to watch a favorite movie. It is important to figure out what rewards matter to him. You can find more information on using behavior contracting on this website. Go to the main behavioradvisor.com screen and you will find the link for contracts.

たいへん困難な状況にあると思う。先にコメントを書いた、DさんやBさんの意見も、役に立つでしょう。で、私は、役にたつであろう2つの技術をもっている。

1つは、まず試してみるべきことは、その子どもとの、(行動契約)を結ぶこと。まず、学校や家で、彼がどうあるべきかを、あなたがそれを具体的に頭の中で描いてみる。彼が怒っているときや、最初に指示に従う必要にあるとき、どうするかを決めるのもよい。それぞれのときに、時間のワクをつくれば、先生が、子どもの行動を(客観的に)評価するだろう。

もし30分以内にできれば、ほうびを与えるなどとする。30分ごとに、その契約が守れるかどうかを、観察する。またその子どもがどのようなほうびを求めているかを、子どもと話しあう。たとえばおもちゃのトラックと遊びたいとか、好きな映画を見たいというのであれば、それらをほうびとする。その子どもが何をしたがっているかを知ることが、重要。

このサイトで、(行動契約)についてのさらなる情報を、手に入れることができる。そちらを訪問してみたらよい。

The second technique that you might want to try is having your stepson self monitor his
own behavior. You will start out when he is calm to identify a behavior that you would like to encourage. Be confident in his ability to master this technique. It may sound unlike you, but give him excessive amounts of your confidence that he can master this behavior. Many children take their cues from the adults in their lives. Once you have figured out what behavior you will be working on, create a sheet with smily faces and frowning faces. At designated times, ask him to circle the smiling face if he is exhibiting this behavior or the frowning face if he is not. This will build his own motivation to exhibit appropriate behaviors.
And, celebrate when he is improving!!! I know this can be difficult to do, as some of the
improvements will seem small in relation to the problems; however, it is good for you and him to recognize when changes are occuring. It seems like you are really commited to helping this child and he is lucky to have such a
stable adult in his life. Good luck with this situation.

Keely

2番目の技術は、子ども自身の行動について、自己監視させること。子どもがあなたから見て、落ち着いていて、好ましい状態にあるときから、始める。この技術をマスターするための能力が子どもにあると、自信をもつこと。

子どもが自分で自分を管理できると、あなたが、(今のあなたには、そうではなくても)、自身をもっていることを、子どもに強く印象づける。多くの子どもたちは、彼らの生活において、おとなたちから、その手がかりを得る。どんな様子が望ましいかがわかったら、(ニコニコマーク)と(しかめっつらマーク)を描いたシートを用意する。

このことで、子どもに自覚を促す。そしてうまくいったときは、その子どもをほめたたえる。このことはむずかしいことは、わかっている。この問題に関しては、進歩は、少ないだろう。しかしあなたとその子どもにとって、変化が起きつつあることを気がつくためには、よい。その子どもにとって、あなたのような安定したおとなをもっているということは、すばらしいことだ。

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●子どもの過剰行動性について

 子どもの突発的な過剰行動性、いわゆるキレる子どもについては、いろいろな分野から考察が繰りかえされている。

 大脳の微細障害説、環境ホルモン説、食生活説など。それらについて、数年前に書いた原稿を、ここに添付する。

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【子どもがキレるとき】

●ふえるキレる子ども

 2000年、全国の教育委員会から報告された校内での暴力行為は、前年度より11.4%ふえて、34595件に達したことがわかった(文部科学省)。「対外的に問題の見られなかった子どもが、突発的に暴力をふるうケースが目立つ」と指摘。同省・児童生徒課は、キレる子どもへの対応の必要性を強調した(中日新聞)。

 暴力行為が報告された学校の割合は、小学校が全体の2・2%だったが、中学校が35・
8%、高校が47・3%にのぼった。また学校外の暴力行為は、小中高校で、計5779件だった。私が住む静岡県でも、前年度より210件ふえて、1132件だった。マスコミで騒がれることは少なくなったが、この問題は、まだ未解決のままと考えてよい。

 こうしたキレる子どもの原因について、各方面からさまざまな角度から議論されている。教育的な分野からの考察については言うまでもないが、それ以外の分野として、たとえば(1)精神医学、(2)栄養学の分野がある。さらに最近では(3)環境ホルモンの分野からも問題が提起されている。これは、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)が、子どもの脳に影響を与え、それが子どもがキレる原因の一つになっているという説である。以下、これらの問題点について、考えてみる。

(1)精神医学の分野からの考察

●躁状態における錯乱状態 

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」と位置づけられている。躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・1856~1926)だが、一般的には躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによっては、重複して起こることが多いからである。それはそれとして、このキレた状態になると、子どもは突発的に攻撃的になったり、大声でわめいたりする。

(これに対して若い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りをコントロールできなくなった状態を、「キレる」と言うことが多い。ここでは区別して考える。)私にもこんな経験がある。

●恐ろしく冷たい目

 子どもたち(小3児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まったく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出した。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった机とイスを足げりにしてひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、その目は恐ろしいほど冷たく、すごんでいた……。

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定な状態そのものを問題にする人がいる。しかしそれはあくまでも表面的な症状に過ぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に不安が入りこむと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。先のF君のばあいも、「問題が解けなかった」という思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではないか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。

言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さない。
周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。

これを心理学の世界では、「遊離」という。「遊離現象」というときもある。心(情意)と表情がミスマッチを起こした状態をいう。一度こういう状態になると、教える側からすると、「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。

 その引き金となる原因はいくつかあるが、その第一に考えるのが、欲求不満である。欲求不満が日常的に続くと、それがストレッサー(ストレスの原因)となり、心をふさぐ。その閉塞感が、子どもの心を緊張させる。子どもの心について、こんな調査結果がある(98年・文部省調査)。

 「いらいら、むしゃくしゃすることがあるか」という質問に対して、小学6年生の18.6%が、「日常的によくある」と答え、59.8%が、「ときどきある」と答えている。その理由としては、

(1)友だちとの人間関係がうまくいかないとき……51.8%
(2)人に叱られたとき……45.7%
(3)家族関係がうまくいかないとき……35.5%
(4)授業がわからないとき……34.1%
(5)意味もなくむしゃくしゃするときがある……18.5%

また「不安を感ずることがあるか」という質問に対しては、やはり小学六年生の7.8%が、「日常的によくある」と答え、47.7%が、「ときどきある」と答えている。その理由としては、

(1)友だちとの関係がうまくいかないとき……51.0%
(2)授業がわからないとき……47.7%
(3)時間的なゆとりがないとき……29.3%
(4)落ち着ける居場所がないとき……22.4%
(5)進路、進学について……20.4%
 
 この調査結果から、現代の子どもたちは、およそ20人に一人が日常的に、いらいらしたり、むしゃくしゃし、10人に一人が日常的にある種の不安を感じていることがわかる。

●子どもの欲求不満

 子どもの欲求不満については、その原因となるストレスの大小はもちろんのこと、それを受け取る子ども側の、リセプターとしての問題もある。同じストレスを与えても、それをストレスと感じない子どももいれば、それに敏感に反応する子どももいる。そんなわけで、子どものストレスを考えるときは、対個人ではどうなのかというレベルで考える必要がある。それはさておき、子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満になる。この欲求不満に対する反応は、ふつう、次の三つに分けて考える。

(1)攻撃・暴力タイプ

 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と話しかけただけで、包丁を投げつけた女の子(年長児)がいた。

私が「今日は元気?」と声をかけて、肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を足げりにした女の子(小5)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)に分けて考えることができる。

(2)退行・依存タイプ

 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったりする(退行性)。あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。このタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

(3)固執・執着タイプ

 ある特定の「物」にこだわったりする(固執性)。あるいはささいなことを気にして、悶々と悩んだりする(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。最近多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす。ある男の子(小5)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、まだ大切そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子どもはこう言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」と。

 ものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすための代償行為と考えるとわかりやすい。よく知られているのに、指しゃぶりや、爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで指の快感を覚えることで、自分の欲求不満を解消しようとする。

 キレる子どもは、このうち、(1)攻撃・暴力タイプということになるが、しかし同時に退行性や依存性、さらには固着性や執着性をみせることが多い。 

●すなおな子ども論

 補足だが、従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子どもという。うれしいときにはうれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。しかし心と表情が遊離すると、ここに書いたようにそれがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。

中に従順な子どもを、「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、よくできた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大きなストレスを心の中でため、そのためた分だけ、別のところで「心のひずみ」となって現われる。よく知られた例として、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借りてきたネコのようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追いこまないように、穏やかな生活を何よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、(1)濃厚なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ち着かせる。カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがけ、リン酸食品をひかえる。リン酸は、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もちろんストレスの原因(ストレッサー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れてはならない。

●子どもの感情障害

 ほかに自閉症やかん黙児、さらには小児うつ病など、脳に機能的な障害をもつ子ども、さらに近年問題になっている集中力欠如型多動性児(ADHD)は、感情のコントロールができないことがよく知られている。これらのタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、突発的に(1)激怒する、(2)興奮、混乱状態になる、(3)暴言を吐いたり、暴力行為に及ぶ。攻撃的に外に向って暴力行為を及ぶタイプを、プラス型、内にこもり混乱状態になるのをマイナス型と私はわけている。どちらにせよその行動は予想がつきにくく、たいていは子どもの「ギャーッ」という動物的な叫び声でそれに気づくことが多い。こちらが「どうしたの?」と声をかけるときには、すでに手がつけられない状態になっている。

(2)栄養学の分野からの考察

●過剰行動性のある子ども

 もう20年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプの子どもである。日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によるナイフの殺傷事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取りあげられたことがある(98年)。

日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、この分野の研究者
として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私にこう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱していて、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意すると、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなった。私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断したり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。

仮にその子どもが過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそれを口にすることは許されない。診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。この過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

 ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安になり、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」という。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にしてしまうという(大沢)。そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、(2)無気力、(3)疲れやすい、(4)(体が)震える、(5)頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞98年2・12)。これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそういう報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つかめ」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。この二つの命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低血糖になると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝手に小刻みに動いてしまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコントロールもできなくなり、一度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それがキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内のブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。体内のカルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の発育が不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた回復が遅くなるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく言えば、カルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こしやすいというのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリング」81年7号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている白砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入ったジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶など、あらゆるものにつけて食べています」と。私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。が、異変はその直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビスケットがほしい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状のようで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力状態になってしまったという。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、H君はまるで別人のようになっていた。ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそういうH君を横目で見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょうか」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリスでは、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じたら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころがける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与するだけでなおる」(「マザーリング」81年7号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲む量に等しい。おとなでも缶ジュースを4本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製されていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、ここでいう弊害はない。
 
●多動児(ADHD児)との違い

 この過剰行動性のある子どもと症状が似ている子どもに。多動児と呼ばれる子どもがいる。前もって注意しなければならないのは、多動児(集中力欠如型多動性児、ADHD児)の診断基準は、2001年の春、厚生労働省の研究班が国立精神神経センター上林靖子氏ら委託して、そのひな型が作成されたばかりで、いまだこの日本では、多動児の診断基準はないというのが正しい。つまり正確には、この日本には多動児という子どもは存在しないということになる。一般に多動児というときは、落ち着きなく動き回るという多動性のある子どもをいうことになる。そういう意味では、活発型の自閉症児なども多動児ということになるが、ここでは区別して考える。

 ちなみに厚生労働省がまとめた診断基準(親と教師向けの「子どもの行動チェックリスト」)は、次のようになっている。

(チェック項目)
1行動が幼い
2注意が続かない
3落ち着きがない
4混乱する
5考えにふける
6衝動的
7神経質
8体がひきつる
9成績が悪い
10不器用
11一点をみつめる

たいへんまたはよくあてはまる……2点、
ややまたは時々あてはまる……1点、
当てはまらない……0点として、
男子で4~15歳児のばあい、
12点以上は障害があることを意味する「臨床域」、
9~11点が「境界域」、
8点以下なら「正常」

この診断基準で一番気になるところは、「抑え」について触れられていない点である。多動児が多動児なのは、抑え、つまり指導による制止がきかない点である。教師による抑えがきけば、多動児は多動児でないということになる。一方、過剰行動児は行動が突発的に過剰になるというだけで、抑えがきく。その抑えがきくという点で、多動児と区別される。また活発型の自閉症児について言えば、多動性はあくまでも随伴的な症状であって、主症状ではないという点で、この多動児とは区別される。またチェック項目の中の(1)行動が幼い(退行性)は、過保護児、溺愛児にも共通して見られる症状であり、(7)神経質は、敏感児、過敏児にも共通して見られる症状である。さらに(9)成績が悪い、および(10)不器用については、多動児の症状というよりは、それから派生する随伴症状であって、多動児の症状とするには、常識的に考えてもおかしい。

ついでに私は私の経験から、次のような診断基準をつくってみた。

(チェック項目)
1抑えがきかない
2言動に秩序感がない
3他人に無遠慮、無頓着
4雑然とした騒々しさがある
5注意力が散漫
6行動が突発的で衝動的
7視線が定まらない
8情報の吸収性がない
9鋭いひらめきと愚鈍性の同居
10論理的な思考ができない 
11思考力が弱い

 このADHD児については、脳の機能障害説が有力で、そのために指導にも限界がある……という前提で、それぞれの市町村レベルの教育委員会が対処している。たとえば静岡県のK市では、指導補助員を配置して、ADHD児の指導に当っている。ただしこの場合でも、あくまでも「現場教師を補助する」(K市)という名目で配置されている。

(3)環境ホルモンの分野からの考察

●シシリー宣言

1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣言を行った。これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)なものであった。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではなく、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適応性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いて
いてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を引き起こす。多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーンピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷する」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

(4)教育の分野からの考察

 前後が逆になったが、当然、教育の分野からも「キルる子ども」の考察がなされている。しかしながら教育の分野では、キレる子どもの定義すらなされていない。なされないままキレる子どもの議論だけが先行している。ただその原因としては、(1)親の過剰期待、そしてそれに呼応する子どもの過負担。(2)学歴社会、そしてそれに呼応する受験競争から生まれる子ども側の過負担などが、考えられる。こうした過負担がストレッサーとなって、子どもの心を圧迫する。ただこの段階で問題になるのが、子ども側の耐性である。最近の子どもは、飽食とぜいたくの中で、この耐性を急速に喪失しつつあると言える。わずかな負担だけで、それを過負担と感じ、そしてそれに耐えることがないまま、怒りを爆発させてしまう。親の期待にせよ、学歴社会にせよ、それは子どもを取り巻く環境の中では、ある程度は容認されるべきものであり、こうした環境を子どもの世界から完全に取り除くことはできない。これらを整理すると、次のようになる。

(1)環境の問題
(2)子どもの耐性の問題。

 この二つについて、次に考える。

●環境の問題
●子どもの耐性の問題

終わりに……

以上のように、「キレる子ども」と言っても、その内容や原因はさまざまであり、その分野に応じて考える必要がある。またこうした考察をしてのみ、キレる子どもの問題を正面からとらえることができる。一番危険なのは、キレる子どもを、ただばくぜんと、もっと言えば感傷的にとらえ、それを論ずることである。こうした問題のとらえ方は、問題の本質を見誤るばかりか、かえって教育現場を混乱させることになりかねない。
(はやし浩司 キレる子ども 過剰行動性 突発的に暴れる子供 暴れる子ども)

*To know ourselve better

●英語の言葉(メタ認知能力)

++++++++++++++++++

精神医学には精神医学特有の言葉がある。
もとはと言えば、外国からきたもの。
で、英語の文献を読む機会が多くなった。
そのこともあって、ここで英語の単語を
整理してみる。

こうして並べて書き出してみると、受験生に
なったような気分である。

+++++++++++++++++

Mental retardation (精神遅滞)
Learning disability (学習障害)
Autism (自閉症)
Dementia (痴呆)
Histeria (ヒステリー)
Anxiety neurosis (不安神経症)
Hypochondoria (心気症)
Phobia (恐怖症)
Obsessive compulsive neurosis (強迫神経症)
Seclusive neurosis (内閉神経症)
Tic (チック)
Selective mutism (場面かん黙)
Enuresis (遺尿)
Encopresis (遺糞)
Anorexia nervosa (神経性無食欲症)
Psychosomatic disease (心身症)
Drug dependence (薬物依存症)
Borderline personality disorder (境界性人格障害)
Antisocial personality disorder (反社会性人格障害)
(以上、日本語名は、無藤隆著「心理学とは何だろうか」新曜社より)

+++++++++++++++

●暗記法

 どれも聞きなれた言葉だが、今、単語のテストをされたら何点を取れるだろうか。
本当のところ、自信がない。
英語の意味はわかるが、日本語を英語に訳せと言われると困る。
高校生になったつもりで、暗記してみる。

で、こういうときは、まずいちばん難解な単語に目をつける。
この中で言えば、Obsessive compulsive neurosis (強迫神経症)と、Anorexia nervosa 
(神経性無食欲症)。
最初に、この2つを徹底的に暗記する。
学生時代からの、私の英単語攻略法である。

そのとき重要なのは、単語という無機質な文字の上に、具体的に人の顔をダブらせるとよいということ。
たとえば「bicycle」と書いて、「自転車」と、直接、日本語に置き換えて覚えるのではなく、自転車の形を思い浮かべる。
自転車が走っている様子でもよい。

ここでは「Obsessive compulsive neurosis(強迫神経症)」のばあいは、今まで出会った人の中で、そのタイプの人を、少しデフォルメして覚える。
「Anorexia nervosa(神経性無食欲症)」も、そうである。
私たちが「摂食障害」と呼んでいる人を、想像すればよい。

 その「Obsessive compulsive neurosis(強迫神経症)」で思い出すのが、私の実兄。
夜寝るときになると、一度、1センチ単位でふとんのズレを直さないと、床に入ることができなかった。
「こうでなくてはならない」という思いだけが、勝手にどんどんとふくらんでしまい、それが強迫観念となる。
だから兄の顔を思い浮かべながら、「Obsessive compulsive neurosis」という単語を覚える。

(で、10分ほど、時間が過ぎた。
昨日撮ったビデオを、YOUTUBEにアプロードした。)

 で、2つの単語を思い出してみる。
ハハハ。
何を隠そう、2つとも忘れた。
「神経性無食欲症」のほうが、まったく、思い出せない。
学生時代なら、10回ほど復唱すれば、すぐ覚えられたのに……。
明らかに記銘力が低下している。
こうなったら、しかたない。
「あのオ~歴史や、なんぼさ?(=アノレキシア・ナーボーサ=Anorexia nervosa)」で覚えるしかない。
奥の手である。

●老化と闘う

 加齢とともに、新しいことが覚えられなくなる。
これは事実である。
若い人は、「そんなはずはない」と思うかもしれないが、(私も若いとき、そう思っていた)、これは事実である。

 単語だけではない。
歌も、歌詞も、である。
先週は、『スノーマン』に出てくる、『♪We’re waliking in the air』に挑戦してみた。
結構苦労した。
で、今は、やっと半分程度、歌えるようになった。

 言い換えると、脳の老化はやむをえないものかもしれないが、老化に任せて、そのままにしておいてはいけない。
闘って闘って、闘いぬく。
そうでなくても、バケツに穴があいたような状態になる。
知恵や知識や経験が、どんどんと下へ、こぼれ落ちて行く。
たった今覚えた2つの言葉にしても、「エ~ト、何だったかな?」となる。

 こわいのは、そうした老化に気づかないまま、老いていくこと。
心理学の世界には、「メタ認知能力」という言葉がある。

 たとえば勉強が苦手な子どもでも、どこがどうして苦手か、わかっている子どもは、指導しやすい。
が、中には、どこがどうして苦手なのか、それすらわかっていない子どももいる。
子ども自身が闇の中に入ってしまったような状態になる。
そういう子どもは、指導しにくい。
つまり自分の姿を、自分を超えた視点から認知する能力。
それが「メタ認知能力」ということになる。

 加齢とともに、そのメタ認知能力も、衰えてくる。
やがて自分で自分がわからなくなってくる。
そうなると、あとはボケに向かって、まっしぐら!
以前、こんな女性に出会ったことがある。

●メタ認知能力

 何かのことで電話をしていたときのこと。
こまごまと、どうでもよいようなことで私に説教した。
で、私は、こう言った。
「私は……あなたが思っているほど、バカじゃ、ないと思います」と。
すると何を勘違いしたのか、その女性は金切声をあげて、こう言って叫んだ。
「私だって、バカじゃ、ありません!」と。

 その女性は、そのあとしばらくしてから、認知症か何かの相談で、夫とともに、病院を訪れている。
つまり頭がボケてくると、自分がボケていることさえ、わからなくなる(失礼!)。
メタ認知能力そのものを、失う。
けっして他人ごとではない。
これは私やあなたの、近未来像そのものと考えてよい。

●単語のテスト 

 さて、単語のテスト。
受験生よろしく、英語のほうを隠して、自分で単語を書いてみる。
ハハハ……。
笑ってごまかす。

 実のところ、上記19問中、x点しか、取れなかった。
ハハハ……。
英語を日本語に訳すのは楽だが、その反対ができない。
「まっ、いいか。外国の病院で働くことは、ないから……」と言って、自分で自分をなぐさめる。

 が、ここで重要なことは、先にも書いたように、バケツの底の穴を、自分でしっかりと自覚すること。
それができなくなったら、つまりメタ認知能力がなくなったら、私もおしまい。
そういう意味でも、こうして英語の単語を書き出してみたのは、役に立った(?)。

 今日1日、コピーを片手にがんばってみる。
がんばって、暗記してみる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 メタ認知能力 記銘力 強迫神経症 Anorexia nervosa)

Sunday, November 29, 2009

Too Early for Retirement

●今朝は風邪

++++++++++++++++++

朝、頭痛で目が覚めた。
時計を見ると、午前6時。

しばらく目を閉じていたが、
思い切って起き上った。

台所へ行き、コーンスープを温める。
それをザーッと飲んだあと、
鎮痛剤と、ビタミンC(アスコルビン酸)を
のむ。
ふとんに入ってから、睡眠導入剤と、
精神安定剤。
それと葛根湯。
ついでに頭に湿布薬を張る。

幸い、風邪のようだ。
昨夜風呂から出て、1時間半あまり、
こたつに入っていたのが、まずかった。

つぎに目を覚ましたのが、午前10時過ぎ。
頭痛が消えていた。
悪寒も消えていた。

で、今のところ風邪の症状はなし。
インフルエンザでなくて、よかった!
というのも、インフルエンザだったら、
こんなに簡単には、治らない。

+++++++++++++++++

●満62歳

満62歳。
私の年齢。
その年齢で、隠居生活に入った人が多いのには、驚いた。
ワイフが属するクラブ仲間(全員女性)には、現在、満62歳の夫をもつ人が、
4人いる。
それに私の近辺にいる満62歳の知人(やはり満62歳の男性)を含めると、計6人。
その中で、現在、仕事をしている人は、たったの1人!
私を含めると、7人中、たったの2人!

残りの5人は、「オサンドン」とか。
「おさんどん」というのは、昔の言葉で、「女中」「下女」をいう。
それが転じて、「台所仕事」という意味になった(以上、広辞苑)。
「お三どん」と書く人もいる。
「みんな、何してるの?」と聞くと、「みんな、家でブラブラしているだけみたいよ」と。
しかし、待ったア!

62歳という年齢は、まだ隠居する年齢ではない。
隠居してはいけない。
隠居したとたん、脳も体もサビつく。
使い物にならなくなる。
私の年齢になると、「1年くらい休んで、来年からまた仕事」ということができなくなる。
理由がある。

50歳を過ぎると、適応能力が、極端に低下する。
新しい環境に適応できなくなる。
新し仕事を始めても、ストレスばかりを感じて、それに適応できなくなる。
慣れ親しんだ仕事ならともかくも、そうでないなら、手続きを記憶するだけでも、
たいへん。
それ以上に、バケツの底に穴があいたような状態になる。
自分では気がつかない間に、知識や知恵、経験が、容赦なく、下へ流れ落ちて行く。

東洋医学では、『流水は腐らず』という。
健康法を説いたものだが、精神面でも、同じことが言える。
隠居したとたん、心がよどむ。
腐る。
そういう人も少なくない。

健康に問題があるならともかくも、そうでないなら、仕事を分担する。
働く。
私たち団塊の世代が、満75歳まで働けば、日本の少子化問題は解決できる。
が、それは同時に、私たちのためでもある。
寿命まで20年あるとする。
20年と言えば、赤ん坊が成人するまでの年数ということになる。
その気になれば、何かができる。

こんな状態では、私たち団塊の世代は、やがて若い人たちから、粗大ゴミと
言われるようになる。
すでに「老害」という言葉が、あちこちでささやかれ始めるようになてきた。
そうなったら、私たちの居場所そのものが、なくなる。

現に、医療の世界では、「75歳」に、一本の線を引きつつある。
「75歳以上は、がん治療でも、手術はしない」と。
暗黙の了解のようなものだが、それがやがて70歳に引き下げられても、私たちは、
文句を言えない。
生きていても、どうせ何の役にも立たない老人なのだから!

……という状態にしてはいけない。

7人のうち、5人が働いているというのはわかる。
しかし7人のうち、5人が、「オサンドン」というのは、尋常ではない!
個人的には、「遊んでいるのは、私だけ」と思っているかもしれないが、そういう世界から
一歩外に出て、私たち団塊の世代を、今一度、客観的に見てほしい。

けっして穴の中に身を潜め、小さな世界に閉じこもってはいけない。

あなたにも、(私にも)、何かやるべきことがあるはず。
この世に生を受けた以上、やるべきことがあるはず。
そのやるべきことをやりながら、自分の(命)を、若い人たちに還元していく。
「還元」という言葉は、F市に住む、I先生が教えてくれた言葉だが、
その一言に、私たちの世代の生きざまが、集約されている。
つまり自分の命を、若い人たちに、感謝の念をこめて、返していく。
けっして自分だけで、食いつぶしてはいけない!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

*E-Magazine(Nov.30th)

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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○   
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 30日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●睡眠障害(ナルコレプシー)

このところ、朝早く、目が覚める。
理由が、ある。
もともとそういうことはあったが、
昼寝の時間が長くなった。
以前は、昼寝といっても、うたた寝程度。
時間にすれば、30分前後。
それが最近では、長いときは、1時間半ほど、
眠ってしまう。
それで、その分だけ、朝早く目が覚めるようになった。
(あるいは、その逆かもしれない。)

で、今朝も、午前4時に起きた。
先週くらいまでは、それでも……と思って、
目を閉じたまま、横になっていた。
加えて、外気が冷たかった。
起き上がるのが、つらかった。
が、そうしていても、頭の中は、どんどんと、冴えていくばかり。
だからこうして思い切って、起きることにした。
だから、午前4時。

睡眠障害といえば、ナルコレプシーがある。
日中、感情が高ぶったようなときに、ふいに眠ったような状態になる。
かくんと全身から、力が抜けたような状態になる。
が、本人は、「眠っていない」と、言い張る。
意識はしっかりとしている。

幼児では珍しい。
私も過去40年間に、1例しか経験していない。
しかし中高校生になると、急にふえてくる。
何かのことで強く叱ったり、あるいは本人自身が興奮状態に
なったようなとき、そうなる。

そのとき子どもによっては、(もちろんおとなもそうだが……)、
勝手な行動をすることもある。
つまり体が、勝手に動いてしまう。
こういうのを、「自動行動」と呼ぶ。

大切なお知らせを、ふいにゴミ箱へ捨てたりする。
「A先生に渡して」と言って、渡したメモを、B先生に渡してしまったりする。
「どうしてそんなことをするの?」と、たしなめても、
本人には、その自覚がない。
意識的な行為というよりは、無意識的な行為である。

健常者でも、似たような行為をすることがある。
たとえば、そこにかなり背の低い人がいたとする。
だから内心では、「身長の話題は避けよう」と思っている。
が、何かの拍子に、ふいに、身長の話をしてしまう。

こうした現象が、ナルコレプシーでは、極端な形で現れる。

原因は、睡眠障害と考えられている。

ふつう人は、睡眠中、ノン・レム睡眠→レム睡眠を、5~6回繰り返す。
そのリズムが乱れる。
それが慢性化する。
結果として、特異な症状を表すようになる。

そういう意味でも、規則正しい生活は、重要である。
夜遅くまで、興奮性の強いゲームをする。
徹夜で、受験勉強をする。
このタイプの子どもが、ナルコレプシーになりやすい(?)。

で、私のばあい、迷っている。
このまま今のように、昼寝時間を長くして調整するか。
それとも昼寝時間を短くして、夜の睡眠時間を長くするか。
たまたまおとといは、昼寝なしで、がんばってみた。
昨日も、昼寝をしないようにと、がんばってみた。
(夕方、15分程度、椅子に座ったまま、うたた寝をしてしまったが……。)

が、こういう日が数日もつづくと、頭の中がモヤモヤとするだけで、
ものが書けなくなってしまう。
注意力が散漫になってしまう。

やはり体のことは、自然に任せるのがよい。
何ごとにつけても、自然体。
それが一番。
国によっては、昼寝を日課にしているところもある。

ただ気になっていることが、ひとつ、ある。

私とワイフは、ときどき、仕事が終わってから、深夜劇場に足を運んでいる。
時間的には、午後9時以後~ということになる。
家に帰ってくるのは、そういう日は、夜中の12時前後。
そういう生活は、あまり好ましくない。
自分でも、よくわかっている。
これからは別の方法を考えよう。

++++++++++++++++++++

以前、ナルコレプシーではないかと思われる女性がいた。
その人について、その雇い主の方から、相談があった。
その女性は子どものころ、ADHDと診断され、
薬をのんでいたという。
で、今もそれではないか、と。
女性の年齢はわからないが、20歳前後と思われる。

で、立ち話だったので、私は「おとなのADHDは
珍しい。女性のばあい、多弁性が残ることが多いが、
症状としては、落ち着いてくる。子どものころ、
ADHDではなく、活発型自閉症児ではなかったのか」
と話した。

で、翌朝、その女性に症状について詳しく書かれた
メールが、届いていた。

その返事。

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(補足)ナルコレプシー

SW様へ

おはようございます!

メール、ありがとうございました。

「活発型自閉症」というのは、もう20~30年前までの用語です。
今は、「自閉症スペクトラム」と言います。

当時は、(今もそうですが)、活発型自閉症児と、ADHD児の区別は、
たいへんむずかしいです。
ADHD児は、思考や行動は明晰であるという点で、区別していました。


で、いただいた女性の件ですが、私は、「ADHDではないと思う」と言いました。
おとなになると、表面的な症状はわかりにくくなります。
女性のばあい、ふつうでない多弁性だけは残りますが、ほかの症状は、落ち着いて
きます。

しかしメールによれば、主症状は、注意力散漫、居眠りということですから、
活発型自閉症のおとな型というよりは、ナルコレプシーではないかと
思いました。

ご存知のように、私たちの年齢層には、睡眠時無呼吸症候群という
恐ろしいのもありますが、これは私たちの年代で、かつ肥満型の人に多いものです。
このタイプの人も、日中、突然の睡眠に襲われたりします。

ナルコレプシーのばあいも、突然眠ったような状態になります。
が、そのとき、意識は残ったままになるので、「私は眠っていません」となるのです。

で、ナルコレプシーについては、
以下のHPをさがしてみました。
いちばん詳しく書かれていると思います。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~narukohp/3100.html#Q102

(↑)をクリックしてみてください。

その女性のばあい、(内面的な激怒)が引き金となり、ナルコレプシーを
引き起こすのではないかと思われます。
過去のADHDは、関係ないと思われます。
というのも、ADHD児(子どものばあい)でも、居眠りは、起きません。
ADHDの症状はあったかもしれませんが……。
それは現在の症状とは、関係ないと思われます。

また子どもの世界にも、勝手に別の行動をしてしまう(自動行動)子どもも
ときどき見られます。
ふつう激怒をともないますので、かんしゃく発作ということで、
片づけてしまうことも多いです。
(というのも、私には診断権はないものですから……。)

その女性のばあいも、自動行動が見られるようですね。
もしそうだとするなら、医療従事者としては、不向きかもしれません。
薬をまちがえられたら、こわいですから……。

話は変わりますが、活発型自閉症児と呼んでいた子どもは、
始終、動き回り、勝手な行動を繰り返します。
健常児のような会話ができません。
ADHD児は、そのつど、会話はできます。
強く叱れば、瞬間ですが、シュンとおとなしくなったりします。

が、今では、自閉症による症状が、きわめて多岐にわたり、
また千差万別。
境界がはっきりしないということで、「自閉症スペクトラム」という
言葉を使います。

この点については、立ち話での応答ということもあり、いいかげんな
ものでした。
どうかお許しください。
つまり「おとなのADHDは珍しい」ということで、同じような
症状としては……ということで、「活発型自閉症児」という
言葉をあげました。

しかしメールによれば、ナルコレプシーでは(?)と思うように
なりました。
もちろんこれは私のひとつの意見にすぎません。

以前、そういう子ども(年長・女児)がいました。
睡眠指導をあれこれしてみましたが、効果はありませんでした。
しかしナルコレプシーは、子どもには、たいへん珍しく、
中学、高校くらいから、多くなります。
強く叱ったとたん、かくんと眠ったような状態になる、
あるいは、気を失ったような状態になります。

以上ですが、おとなの世界のことは、本当のところ、
よくわかりません。
ごめんなさい。

では、

はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●満62歳の誕生日に

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明日、私は満62歳になる。
62歳?
62歳ねエ~?

「62歳」と言って、
最初に思い浮かんだ言葉が、これ。
「もう2年も、たったのかア」と。

つい先日、「還暦」という言葉に踊らされたばかり。
そんな感じがする。

つまり加齢とともに、脳のクロック数が
落ちるため(はやし浩司説)、
すべての活動のテンポが遅くなる。
そのため、時間が早く進むように感ずるように
なる(これも、はやし浩司説)。

たとえば若いころの脳のクロック数を、
毎秒100ヘルツとする。
現在は、半分の毎秒50ヘルツとする。
すると見かけは同じ状態でも、実感時間は、
若いころの半分になる。
つまり2倍、早く時間が過ぎることになる。

しかし脳全体の機能が速度的に落ちるため、それを
自分で実感することはできない。
(どこか、アインシュタインの相対性理論に似ている?)
このことは、幼児を教えてみると、よくわかる。

もし幼児を、私のもつテンポで教えたら、幼児は、
あっという間に、私のレッスンに飽きてしまうだろう。
そこで私は、幼児のもつクロック数で、教える。

幼児のもつクロック数は、おとなのそれよりも、
はるかに速い。
教える側が、もたもたしていると、すぐ、「つまんナ~イ」
という言葉がはね返ってくる。
(こうした様子は、HP(BW公開教室)で、公開中!)

一方、高齢者のクロック数は、低い。
50どころか、20とか、10にまで下がる。
見た目には、ゆったりと時間が流れるが、
その分だけ、高齢者にとっては、早く時間が過ぎる。

……というわけで、もう2年も過ぎた。
あっという間だった。

この2年間で、私は何をしたか?
何ができたか?
中身を見ていくと、結構いろいろあったような気がする。
母の介護と死去。
その間に、兄の死去。
先月は実家を売却して、故郷とは縁を切った。
精神的には、激動の2年間だった。
(少しおおげさかな?)
が、それでもあっという間に過ぎた。
そんな感じがする。

が、過去は過去。
私には、つぎの1年間が待っている。
いろいろ計画がある。
したいこともある。
すべきこともある。
しかし1年といっても、日々の積み重ねで決まる。
その日々は、今という、一瞬、一瞬の積み重ねで決まる。

大切なことは、クロック数を落とさないこと。
鋭敏さを失わないこと。
それは何度も書くが、健康論と同じ。
日々の体力づくりのみが、明日の健康を約束する。
立ち止まったとたん、そのときから、
健康は、下り坂に向かって、まっしぐら!

新聞を読もう。
本を読もう。
音楽を聴こう。
映画を見よう。
旅をしよう。
人に会おう。
新しいものに興味をもとう。
仕事をしよう。
体を動かそう。

それでクロック数があがるとは思わない。
が、しかし維持することはできる。
50ヘルツなら、50ヘルツでもよい。
その50ヘルツを、できるだけ長く維持する。
つまり長生きするといっても、クロック数が
5ヘルツや10ヘルツでは、しかたない。

で、今日、小学5年生の子どもたちに会うから、
つぎのような問題を出してみよう。

【問】

 脳のクロック数が、毎秒100ヘルツの人が、
10年、生きたとする。
一方、脳のクロック数が、毎秒50ヘルツの人が、
20年、生きたとする。
どちらの人が、長生きをしたことになるか。

 きっと子どもたちは、「20年、生きた人」と
答えるだろう。
そこで私は、コンピュータを例にあげて説明したあと、
おもむろに、こう教える。
 
100x10=1000
 50x20=1000で、
「実は中身は、同じだよ」と。

平たく言えば、人生の長さは、年数の長さでは
決まらない。
大切なのは、密度。
密度で決まる。

それがわからなければ、あなたも一度でよいから、
あの特別擁護老人ホームにいる老人たちを
のぞいて見てみたらよい。

ホームのテレビの前に座っている老人たちは、
ぼんやりとしたまま、その日、その日を、
過ごしているだけ。
あとは食事をしているか、眠っているだけ。
毎日、同じことしか言わない老人もいる。
1年を1日のようにして、生きている。

やがて私たちも、ああなる。
まちがいなく、ああなる。
が、その時期は、できるだけ先に延ばしたい。
先に延ばして、自分の人生を、2倍にしたい。
3倍にしたい。
どうせ、たった1回しかない人生だから。

……というのが、満62歳の私の抱負と
いうことになる。
けっして立ち止まらない。
ただひたすら前に向かって進む。

そう、あのスティーブンソン(「宝島」の著者)も
こう書いている。

『我らが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』と。

この言葉をもじると、こうなる。

『我らが目的は、年齢に応じた生き方をすることではない。
年齢を無視して、前に進むことである』と。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

● 10月28日

平凡は美徳だが、その美徳に溺れてはいけない。
溺れたとたん、平凡のワナにはまる。
マンネリの世界に陥る。
そこは「虚」の世界。
変化がなく、退屈な世界。

そこで重要なことは、平凡を感じたら、平凡を旨(むね)としつつ、
変化と刺激を求める。
その変化と刺激が、人生を、潤い豊かなものにする。

……とまあ、自分にそう言い聞かせながら、今日も始まった。

昨夜は遅くまで、温泉へ行ってきた。
舘山寺にそういう温泉があって、1~2時間、そこで過ごすことができる。
「静岡県最大級の浴場」という。
平日の、午後7時以後に行くと、ガラガラ。
昨夜も、男湯のほうは、私と長男だけ。
途中、外人の男が2人、入ってきたが、サウナにしばらく入ったあと、すぐ、
出て行ってしまった。
雰囲気的に、同性愛者という感じがした。

その疲れというか、気(け)だるさがまだ残っている。
脳みその緊張感は緩んだまま。
いろいろ書きたいことはあるが、それが頭の中でまとまらない。
言うなれば、霧のよう。
それがモヤモヤと漂っている。

そうそう、ワイフの話では、昨日、山鳩の雛が2羽、私の家の庭に
戻ってきたという。
よかった!
おとといは雨。
冷たい雨だった。
その雨を見ながら、雛のことを心配していた。

で、今日は、私の誕生日。
どうということのない誕生日。
いつもと変わらぬ、1日。
昨夜、三男から電話があった。
「明日は、ぼくの誕生日だから、電話してよ」と言ったら、「わかった」と。
まあ、その程度。
昔から、誕生日は、家族だけで祝うようにしてきた。
それでここ10年は、さみしい誕生日になってしまった。

Happy Birthday to Me!


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●絶望

++++++++++++++++++

Aさん(女性)が、こう言った。
「うちの母(87歳)は、特養(特別養護
老人ホーム)へ入れたとたん、歩かなく
なってしまった。
車椅子に座ったまま、動こうともしない」と。

それを聞いて、「しまった!」と思った。
ショックだった。
うすうす、そうではないかと感じてはいたが、
やはりそうだった!

+++++++++++++++++++++

●私の母

 そのときは、そのつもりはなかった。
予約するつもりだけだった。
そのつもりで、近くの特養へ行くと、たまたま園長が応対してくれた。
そのときは、その女性が、園長ということも知らなかった。
で、園長はこう言った。
「ちょうど1人、病院へ移りました。
今なら、すぐ入れます」と。

 家に帰って迷っていると、義姉がこう言った。
「すぐ、入れなさい。
順番を待っていたら、早くても1年後とか2年後になるわよ」と。

 そこで母を、特養に入れることにした。

●特養の問題

 最初、1週間は、毎日、母のところへ通った。
そのたびに、母は、こう言った。
「K村(=母の実家のある村)へ、帰りたい」と。
私とワイフは、そういう母を懸命になだめた。
が、それも一巡すると、母から急速に元気がなくなっていった。
それまでは、デイサービスのときも、どこかに緊張感があった。
その緊張感が、消えた。

 その母も、特養では、まったくといってよいほど、運動をしなくなった。
私はそれは、特養のシステムのせいだと思っていた。
介護度が低い高齢者については、いろいろな療法がしてもらえる。
しかし介護度4以上の入所者については、しない、と。
が、いくら介護度が高くても、何かの療法は、必要ではないのか。
ただ座らせておくだけの特養に、心のどこかで不満を感じていた。

●絶望感

 が、もし、あなたが、(私が)、ああいう部屋に閉じ込められたら、
あなたは、(私は)、どう思うだろうか。
 まわりは、ぼんやりとした高齢者ばかり。
大きなベッドに、鼻からチューブを通されて寝ている高齢者もいる。
会話も通じない。
やることは、何もない。
昼間は、ガンガンと、見たくもないテレビを見せつけられる。

 あなたなら、(私なら)、その瞬間、絶望感を覚えるにちがいない。
絶望感だ。
その絶望感を、母は覚えた。
確信はないが、入所したとき、母は、まだ冗談が通ずるほど、頭のほうは、
しっかりとしていた。
私の家でも、パイプをつたって、歩いていた。
が、特養に入ったとたん、元気がなくなった。

●死の待合室

 絶望……その恐ろしさは、それを経験したものでないとわからない。
心が自分の体から、抜けてしまったかのようになる。
生きる気力そのものが、消えうせる。
「もうダメだ」という思いが、大波のように打ち寄せては消える。
しかしなす術(すべ)は、ない。
虚脱感。
空虚感。
やがて「死」が、すぐそこに見えてくるようになる。
死への恐怖は、そのときには、もう、ない。

 特養へ入った母は、恐らくその絶望感を覚えたにちがいない。
もともと気が強い人だった。
プライドも高く、おまけに虚栄心も強かった。
そんな母だったから、まわりに、そういう人たちを見たとき、
自分がそういう立場であることを知った。

 もしそれがあなたなら、(私なら)、そのとたん、生きる気力をなくすだろう。
まさにそこは、死の待合室。

●母の様子

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「私にも、わからなかったわ。
お母さんには、快適な場所のように見えたわ」と。

 しかしいくら歳をとっても、いくら頭の働きが鈍くなっても、
死への恐怖心はある。
死の恐怖心がある以上、絶望感もある。
(生きたい)という思いと、(死にたくない)という思いが、はげしくぶつかる。
その(生きたい)という思いが消えたとき、(死んでもいい)となる。
絶望した状態というのは、それをいう。

 たしかに特養での母は、おだやかで、やさしかった。
すべてを受け入れ、すべてを許しているかのように見えた。
しかしそれはあくまでも、結果。
母は、絶望感を覚えた。
同時に、生きることをあきらめた。

●ワイフの意見

私「今の特養制度にも、大きな問題があるよ」
ワ「そうね」
私「老人をただ生かしておくだけ、という感じがする」
ワ「そう、そう言えば、そうね」
私「どんな老人にも、生きがいが必要だ。その生きがいを用意し、
それを助けてやるシステムが必要だ」

ワ「でも、みんな、精一杯よ。できるかぎりのことをしてるわ」
私「そうかもしれない。でも、もっとできることは、あるはず。
今のような隔離病棟のようなシステムにするのではなく、元気になって、
退所していくような人の姿が見えるようなシステムにする」と。

 母も、毎月のように、特養で亡くなっていく人を、見ていたはず。
母にとっては、それがいかにつらいものであったことか。
私には、知る由もなかった。
目先のサービス、たとえば24時間看護、個別の献立、完全冷暖房、
近代的な入浴システム……。
そういったものばかりに目を奪われて、
母の心の中までは見なかった。

 しかしそれでは高齢者の心は救えない。
あなただって、(私だって)、それも運がよければの話だが、
いつか、そういうところへ入る。
早いか遅いかのちがいだけ。
そのとき、あなたは、(私は)、どうしてほしいか。
それを考えれば、特養はどうあるべきか、それがわかるはず。

 Aさんの母親も、特養へ入ったとたん、元気をなくしたという。
同じような話は、あちこちでも聞く。
しかしそれは、あなたの、(私の)、近未来の姿でもある。
それとも、あなたは、(私は)、もしだれかに、「君たち老人は、だまって
静かに死ね」と言われたら、それに耐えられるだろうか。

 まだ言葉も話せない幼児にも、人権はある。
同じように、寝たきりになった高齢者にも、人権はある。
その視点をふみはずして、老人問題を語ることはできない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 老人の人権 高齢者の人権 特別養護老人ホーム 特養 絶望に
ついて 絶望論)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●マッサージ

今日、生まれてはじめて、マッサージ・パーラーなるものに行ってきた。
外国で、「マッサージ・パーラー」というと、男性に、(最近では女性専用
の所もあるそうだが)、性的なサービスをするところを意味する。

私が行ったのは、もっと健康的なところ。
息子が、サービス券を贈ってくれた。
2枚、あった。

で、私が1枚、ワイフが1枚、使った。
外国のホテルに泊まったようなときは、よくマッサージをしてもらう。
が、今回のように、市中にあるマッサージ・パーラーに行ったのは、はじめて。
私たちも、いよいよ老人の仲間入り!

 リラックス・コースというのを選んだが、リラックスできたかどうかは、
わからない。
体中を、いじくり回されただけ。
あとで私が、「どうせするなら、チxチxのほうもしてくれたらよかった」と
言うと、ワイフが、「そんなことしたら、風俗店になってしまうわ」と。

 とにかく楽しい経験だった。
料金は、1分で100円。
30分コースで、3000円+消費税。
50分コースで、5000円+消費税。
あとは希望に応じて、料金が決まる。

 生まれてはじめての経験だったので、ここに記録しておく。
62歳の誕生日に、よい経験をさせてもらった。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2012年

2012年に、なにやら、とんでもないことが起こるらしい。
それをテーマにした映画が、ローランド・エメリッヒ監督の、『2012』。
11月21日に、劇場で公開されるという。
楽しみ。
ぜったい、見に行く。

 で、つぎからつぎへとこういう映画ができる。
ハリウッドに集まる映画マンには、本当に感心する。
まとめて、「ハルマゲドン映画」という。

迫り来る、危機。
人類滅亡の危機。
みなが恐怖におびえ、逃げまどう。
「もうだめだ」と思ったところに、勇敢なヒーローが現れる。
そのヒーローが地球を救う。

基本的には、ウルトラマン映画と変わらない。
月光仮面でもよい。
筋書きとしては、そういうもの。
あとはどう、それをおもしろおかしく演出するかということ。
で、今回は、真実味をつけるために、マヤの暦を利用した。
が、私はこういう映画が好き。
「2012年に、マヤの予言通り、世界は終わる」と。

 映画案内には、こうある。

 「高度な天文学、数学の知識をもち、栄えていたマヤ人。
彼らが残した暦には、ある時を境に、それ以降の記述がない。
昔から「世界終末の日」と言われてきた、その暦最後の日は……
2012年12月21日。
あと3年に迫った現在、マヤの予言だけではなく、現代科学も、「2012年
終末説」を裏づけるデータをつぎつぎと、発表している。

 太陽の黒点問題。
 地球温暖化。
 度重なる、自然大災害……。

 占星術師は星の中にその兆候を発見し、
数秘術師はそれを予言するパターンを見つけ、
地質学者は、それがいつ起きても不思議でないと言い、
政府関係者や科学者さえも、それを言及している。
もはや、このことを否定できる者はいない」と。

 マヤの暦は、2012年12月21日」で終わっているという。
私の家のカレンダーは、2009年12月31日で終わっている。
……というような冗談はさておき、こうした予言は、当たったためしがない。
(当たってもらっては、困るが……。)
10年前には、ノストラダムスの大予言というのが、話題になった。
あれも、完全に、ハズレ!

 興味深いのは、こうした予言をもとにして、デタラメな本を書いた人が、
1人とて、責任を取ったことがないこと。
世の中を不安にするだけ不安にしておいて、かつ莫大な印税を手にしておいて、
あとは「知らない」は、ない。
儲けた分くらいは、社会に還元してほしい。

 もっとも、本気でそれを信ずる人は、いなかったが……(?)。

 で、2012年。
マヤ文明は宇宙人とつながっているという。
私も若いころ、デニケンの本は、何冊か、読んだ。
おもしろかった。
人間だけが、宇宙の、ゆいいつの知的生物という考え方は、おかしい。
人間以外にも、知的生物は、いる。
しかもその知的生物は、私たちの想像をはるかに超えるほど、知的と
考えるのが、正しい。

 人間と、庭に遊ぶ山鳩くらいの差は、あるかも。
そういう知的生物なら、かなり正確に、地球の未来を予測することができるはず。
(予言ではなく、予測。)
その予測を、宇宙人は、マヤの人々に伝えた。
デニケンなら、そう判断するだろう。
それが2012年ということになる。

 しかしおかしなことに、「2012」という数字がどこから出てきたかというと、
それがよくわからない。
「マヤの暦によれば……」ということらしい。
しかし私が知るかぎり、彼らの文字は、いまだに解読されていないはず。
で、あちこちを調べてみたが、よくわからない。
仮に2012年で暦が終わっているからといって、それが「終末」を意味すると
考えるのは、おかしい。
カレンダーにも限界があるように、マヤの暦にも限界がある。
あったところで、おかしくない。
ひょっとしたら、その程度のことではないのか。

 ……とは言っても、楽しみ。
私は学生時代から、SF小説が大好き。
その類の本ばかり、読んでいた。
当時は、地球人と木星人との戦争とか、そういう単純なものばかりだった。
が、それでもおもしろかった。

 脳みそを刺激するには、この種の映画が、いちばんよい。

 なお占星術という言葉が出てきたので、一言。
以前、それについて書いた原稿をさがしてみた。

+++++++++++++++++++++++

●占星術

+++++++++++++++++

今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

+++++++++++++++++

 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)
占星術」である。今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。星が見えるところ、すべての世界に、それが
ある。興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。ならば、その万物の構成要素から、
神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。わかりやす
く言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。だからそれら
万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。ついで、それらと一体と
して連動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て
誕生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。原理的には、
男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。例
がないわけではない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。つまり生まれたとき、すでに1歳とす
るのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。イス
ラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書い
たように、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。少なくとも、占星術
では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判
断する、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体
占星術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の
動きを参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。あるいは生物
という単位で、ものを考えるべきではないのか。たとえば公園の広場に住む、アリを考え
てみればよい。もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、
清掃作業によるもの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわ
けではない。公園に住むアリ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二
次元、つまり天空という平面で見ているにすぎない。星々までの距離は、計算に入れてい
ない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎな
い。サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。宇宙船で、10
0光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。1000光年も先に行けば、も
っと、変わる。星位という概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。占星術イ
コール、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八
丁で、占星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。
しかしこれだけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きる
ことを放棄することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するよ
うなもの。それでもよいと言うのなら、それはそれでかまわない。そのあとの判断は、そ
れぞれの人の勝手。私の知ったことではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
占星術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術)


【追記】

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。つまり占
星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが
一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性
がある。事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。つま
り、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味を
なくす。たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算
盤を見つめながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、
ローソクを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。……というより、それはあなたの宗教性によ
る。意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたい
して、それを超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということに
なる。笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。信仰心といっても、おおざっ
ぱに言えば、2種類ある。ひとつは、教えを重要視するもの。もうひとつは、超自然的な
パワーを盲信するもの。前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということにな
る。

 もちろん、その中間もある。色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。宗派によ
っても、ちがう。しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、
絶対的な存在を、信仰の中心に置く。「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭で
は、信者を黙らせることはできない。

 神や仏がよい。あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいる
から、宗教が生まれる。そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給の
バランス関係によって、発展したり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。ど
こかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかっ
た。ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本で
も、中国でもあったようだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、
私の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。こと「星」について言えば、
日本人は、元来、無頓着な民族と言える。星座、それにつづく天文学については、それに
ついて研究したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。(これは多分に、
私の認識不足によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。(発達したのではなく、発
展した。誤解のないように。)もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、も
っともらしい(占い)に飛びついた。占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うま
く答えたということになる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のス
キマを埋めていた。私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見
ながら、その年の計画を立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」
そのものがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。そして今に見る、占星術、
全盛期を迎えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。占星術師なる人物が、テレビに顔
を出さない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、そ
れは疑わしい。占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、
占いは、神秘主義と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が
高い。あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的
宗教団体は、表向きは、なりを潜めている。が、しかし今の今も、社会の水面下で、その
勢力を拡大していることを忘れてはならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、
わかったものではない。忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。しかもその
信仰は、神秘主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(か
っぽ)している。それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。また外見上、
いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
占星
術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●受験生国家

+++++++++++++++++++++

韓国の受験教育の激しさは、日本の比ではない。
そういうこともあって、韓国のエリートたちは、
いつも(順位)にこだわる。
日本ではニュースにならないようなニュースでも、
彼らには一大事。
ときとして韓国系の新聞に目を通していると。
気分が重くなる。

それはそれとして、朝鮮N報(09・10・27)に、
こんな記事が載っていた。

「世界の豊かさ評価」というのである。
この中で、「日本は、16位」だ、そうだ。

+++++++++++++++++++++

+++++以下、朝鮮N報より+++++

 英民間研究機関のレガタム研究所が世界104カ国・地域を対象に「豊かさ」の指標とし
て発表している「レガタム繁栄指数」で、フィンランドがトップとなり、韓国は26位に入
った。韓国経済新聞が26日、英フィナンシャル・タイムズ(FT)を引用して報じた。

 フィンランドは経済基盤、統治能力などの側面で最も豊かな国と評価された。レガタム
は、▲経済基盤▲安全保障と治安▲企業家精神と革新▲民主主義▲統治能力▲個人の自由
など九つの要素を考慮し、指数を算出した。

 フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェーデン、デンマ
ーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた。上位20カ国のうち80%
は北米、欧州の国々で、米国は9位、英国は12位、フランスは17位、イタリアは21位だ
った。

 アジアでは日本が16位でトップ。シンガポールが23位、台湾が24位で続いた。韓国は
26位で、アジアでは4番目だった。韓国は▲経済基盤▲企業家精神と革新▲教育▲統治能
力で高い評価を受けたが、個人の自由に対する評価は振るわなかった。

 今回の調査では、新興のBRICs各国の間で格差が目立った。ブラジルが41位、インド
が45位に入ったのに対し、ロシアは69位、中国は75位にとどまった。レガタムのインボ
ーデン副会長は「ブラジルとインドは法治、透明性、責任性などでロシア、中国を上回っ
た」と説明した。内戦に苦しむジンバブエが最下位となり、イエメン、スーダンなども最
下位圏だった。

+++++以上、朝鮮N報より+++++

●豊かさ

 「豊かさ」というのは、それを知っている人は、知っている。
知らない人は、知らない。
知らない人は、自分のレベルで、それを(豊かさ)と思い込む。
お金があるから、「豊か」ということにはならない。
モノがあふれかえっているから、「豊か」ということにもならない。
わかりきったことだが、それを知るためには、一度、自分の(豊かさ)を、
日本の外からながめてみる必要がある。

 そういう点では、英民間研究機関のレガタム研究所の公表した順位には、
それなりの意味がある。
日本が16位というのを聞いて、「そうかなあ?」と思ってみたり、
「そんなものだろうな」と思ってみたりする。

 記事には、「フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェー
デン、デンマーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた」とある。

 この記事に異論はない。
その一方で、「中国が75位」というのも、よ~く、わかる。
ここ10年以上、中国本土からやってきた中国人とは、どうも相性が合わない。
会えば、マネーの話ばかり。
その上、自信を持ち始めたのか、威張っている。
日本人を毛嫌いしていて、それを露骨に表現する。

 そういう点では、日本人は、おとなになりつつある。
(豊かさ)というのが、どういうものか、知り始めている。
30~40年前の日本人は、現在の中国人に劣らぬほど、心が貧しかった。
今にして思うと、それがよ~く、わかる。

 それにしても、韓国人は、何かにつけ、順位を気にする。
つまりそれだけ、心が貧しいということ。
「韓国は26位」というが、実際には、もう少し低いのでは?

たとえば市内には、最近韓国からやってきた人が開いた飲食店が、いくつかある。
韓国料理は嫌いではないが、どうも、入りづらい。
そういう店は、どこか雰囲気がちがう。
店の中の座敷に、その飲食店の店主の子どもが、寝そべって本を読んでいたりする。
そういうのに、違和感を覚える。
その(違和感)こそが、(豊かさ)のちがいということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●WINDOW7

WINDOW7が発売になって、ちょうど1週間が過ぎた。
評判は、よい。
昨日、コンビニで、『日経PC21』(12月号)を買ってきた。
表紙に、「全部見せます! Window7」とあった。

寝床へ入ってから、特集記事を読んだ。

(パート1)新機能編
(パート2)乗り換え編
(パート3)環境設定編
(パート4)互換性編
(パート5)PC購入編

ざっと読んでみたが、この世界、ついていくだけでも、たいへん。
それなりの専門家ならまだしも、私のような(ふつうの人)には、
その時間さえない。

読み終えたとき、「ますます二極化が進むだろうな」と思った。
(パソコンを使う人)と(まったく使わない人)。
それが両極端に分かれる。
とくに50代以上の人の間で、それが進む。

たとえばWINDOW7では、メールソフトなど、いわゆる定番ソフトは、
自分でインストールして使う。
しかし今の今でさえ、メールアカウントを、自分で設定できない人は多い。
それを、「自分でインストールして……」となると、さらにハードルが
高くなる。

インターネットをするといえば、メールのやり取りをいう。
どうしてWINDOW7では、それをはずしたのか。
理解に苦しむ。

なお、インターネット・エクスプローラ(IE)や、メディアプレーヤー
などは、最初から組み込まれているという。

やっとビスタを使い慣れてきたというのに、今度は、WINDOW7。
頭の刺激にはなるが、一方で、お金の問題も起きてくる。

ほんの10年前には、パソコンというと、20~30万円が相場だった。
高価なものだから大切に使ったが、今では周辺機器も含めて、すべてガラクタ。
だから今では、ことパソコンについて言えば、「大切に使っても意味がない」
という、おかしな感覚が働く。
「どうせ、4、5年もすれば、ガラクタになるから……」と。

パソコンというのは、(ビデオカメラもデジタルカメラも、そうだが)、
保証期間中は、使って使って使いまくる。
ボロボロになるまで、使いまくる。
少なくとも、磨いて、棚にしまっておくようなものではない。
もちろん骨董的価値が出てくるということは、ぜったいに、ない。

かく言う私も、今度の日曜日に、WINDOW7に、乗り換えるつもり。
その作業をするつもり。
楽しみ!


●同窓会名簿

 昨日、同窓会名簿を、戸棚にしまった。
ああいうのは、あまり見ない方がよい。
一度見出すと、気になってしかたなくなる。
「あの人は、どうなった?」「この人は、どうなった?」と。
しかしその動機が問題。
のぞき趣味的な、イヤーナ好奇心。
それが自分でも、よくわかる。

 私は私。
人は人。
それで、よい。
たぶん、中には、同窓会名簿を見て、私のことを調べている人もいるかも
しれない。
どうせ2度と会うこともないから、「ご勝手に!」と言いたいが、本音を
言えば、「放っておいてほしい」。

 一度調べたことがあるが、アメリカやオーストラリアを含む欧米の学校には、
同窓会(Class Reunion Party)というのは、ない。
学校のシステムそのものが、ちがう。
(ただしカレッジごと、大学ごとの、同窓会はある。)

日本では、年齢別に学年が分かれ(学年制度)、かつ1つのクラスに担任の
教師がつく(担任制度)。
が、欧米には、そういった制度そのものがない。

 が、日本では、同窓会を大切にする。
その中における、先輩、後輩意識も強い。
江戸時代の身分制度が、学歴制度に置き換わったという経緯(いきさつ)もある。
その人の出身校で、その人を判断するという意識も、いまだに根強く残っている。
が、同窓会には、もうひとつの意味が隠されている。

 人も晩年になると、回顧性が強くなる。
未来を見る展望性より、過去をなつかしむ回顧性が強くなる。
そのために50歳をすぎると、同窓会の回数が、急速にふえてくる。
しかしそれをよしとしてはいけない。
回顧性などというものは、戦うべきものであって、受け入れるべきものではない。
私たちは常に、未来に向かって、前向きに生きていく。

そうでなくても、私たちの年代になると、くじけやすくなる。
過去を振り返りたくなる。
が、一度回顧性に毒されると、それこそ、毎日仏壇の金具を磨いて過ごすようになる。
そうなったら、片足を棺おけに入れたも、同然。
そこで時間は止まる。

 回顧性に浸るのは、最後の最後でよい。
……ということで、同窓会名簿は、戸棚にしまった。
そうでなくても、他人の動向を詮索するのは、よくない。
昼のワイドショーのように、低劣で、不快。
タレントの私生活を暴いては、ワイワイと騒いでいる。
ああいう人たちのまねだけは、したくない。


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*Nov. 29th

(11月29日‘09)

●義兄

 昨夜(091128)は、義兄の家で、ちょうど真夜中の12時まで、話し込んだ。
ときどき世話になる。
行くたびに、いろいろな話を聞き、それが、私の脳みそを、バチバチと刺激する。
義兄は私の知らない世界の話を、山のように知っている。
「もう帰ります」と言って、中腰になったのが、11時ごろ。
その中腰のまま、30分ほど話す。
さらに玄関先で、30分ほど話す。
こうして夜中の12時……。

 今朝は、日曜日ということもあって、朝、8時ごろまで寝ていた。
ワイフは、9時ごろまで寝ていた。


●猟師

 同じく昨日(091128)、山荘の近くの店で、猟師の男と出会った。
意気投合して、1時間ほど、いろいろな話を聞いた。
おもしろかった。
とくに猿の話は、興味深かった。
このあたりでは、一匹殺すと、1万円の報奨金が出るのだそうだ。
「かわいそうだな」と思いつつ、しかし猿害も、深刻になってきている。
山荘の近くでは、農作物を作っている人は、もういない。
イノシシとハクビシン、それに猿。
何を作っても、これらの動物に食べられてしまう。
しかし猿が出没するようになったのは、ここ3、4年のこと。
奥の山では、第二東名の工事が、急ピッチで進んでいる。

その猿害。
家も、被害を受ける。
テレビのアンテナは、ボキボキ。
雨どいも、あちこちで折られる、など。
私の家も、猿の餌になるような実のできる木は、すべて切った。
栗の木、梨の木、みかんの木など。
それからは猿も来なくなったが……。

 「猿はね、いちばん高い所に陣取って、威張っているやつから、撃ち殺すんだよ。
そうすると、あとは統制を失って、バラバラになって逃げるから」と。

 ナルホド!


●散歩

 今日は、3キロほど先にある、ビデオショップまで歩いた。
途中、佐鳴湖で、写真を撮った。
水面は、鏡のように静かだった。
「今年は、紅葉を撮り損ねた」と言うと、ワイフが、「今年はおかしな季節だったわ」と。
暖かい日と、寒い日が、交互につづき、いつの間にか、冬になってしまった。
気がついたときには、紅葉の季節は終わっていた。

 ビデオショップといっても、1階が書店。
軽食も食べられる。
立ち読みどころか、椅子に座って、軽食をとりながら、新刊本を読み放題。
2階が、ビデオショップとゲームソフトコーナー。
アメリカに住む孫の誠司と芽衣に、ニンテンドーのDS用ソフトを1枚、買う。

 その息子夫婦から、ワイフのところに、写真が届いていた。
10日ほど前に送った、日本のせんべいを食べている写真だった。
みんな元気でやっているようだ。

 帰りはバス。
家に着いたら、厚い曇り空ということもあって、とっぷりと日が暮れていた。


●ドバイショック

 ドバイが、こけた。
それがドバイショックとなって、世界を駆け巡った。
つぎは、メキシコ。
メキシコもあぶない。
ドバイで多額の損出を被った、イギリスもあぶない。

 日本も無事ではすまない。
急激な円高で、輸出企業は、思考停止状態。
こんな状態が1か月もつづけば、2010年早々、株価は暴落する。

 ひとり元気なのは、金相場。
世界中が、我も我もと、札の印刷機を回している。
そのマネーが、金に向かっている。
しかしバブルは、バブル。
金相場がはじけたとき、世界は、例外なく、ハイパーインフレに見舞われる。

 2010年というより、明日からの経済から目が離せない。
この12月の動向を見ていれば、2010年の経済がどうなるか、その方向性が
見えてくるはず。

 それにしても、あんなバカな国に投資をしつづけた、イギリス、ドイツ、フランス、
それに日本は、アホ!
金持ちの遊び場を作るために、湯水のようにマネーを使った。
人工島にしても、ヤシの形をしているそうだ。

 ところで韓国の各紙を読んでいて、笑ってしまった。
「円高の津波……恐慌に陥った日本の輸出メーカー」(東亜日報・11・27)などと、
日本の困窮を、おもしろおかしく、はやしたてている。

韓国は、相対的に、ウォン安。
自動車産業を中心とする輸出企業が、ホクホクとか。
しかしそれはどうか?
今回の急激な円高で、韓国の銀行のかかえる借金は、雪だるま式にふえる。
円キャリートレードの恐ろしさは、このあとにつづく。
私のような素人にも、その程度のことはわかる。
韓国の各紙の経済記者は、私以上に、ド素人ということ。

 日本あっての、韓国。
そういうことが、まるでわかっていない。

 フンと笑って、この話は、おしまい。

Saturday, November 28, 2009

*Real Stingy People

●あとから理由(無意識下の思考)

+++++++++++++++

何かを言う。
言ったときは、何も考えていない。
直感的というか、反射運動的に、言う。
言ったあと、理由を言う。
こういうのを「あとから理由」という。
わかりやすく言えば、「こじつけ」。

たとえば運転をしていて、道をまちがえたとする。
そのとき横に乗っていた人が、「この道じゃ、ない」と
言ったとする。
軽い気持ちで、そう言った。

が、すかさず、そのまちがえた人が、こう言い返す。
「うしろから車が来ていたから、そちらに
気を取られていた」と。

子どもの世界でも、似たような現象は、よく起きる。
たとえば子どもが、何かを不注意で落としたとする。
教師が、アッと声をあげる。
とたん、その子どもはこう反論する。
「先生が、こんなところにものを置いておくから悪い!」と。

+++++++++++++++

●こじつけ論

 人はなぜ、あとから理由を言うか。
あるいは自分の行為を正当化するために、あとからこじつけをすることは多い。
が、そういう言い方を、「ずるい」と決めてかかってはいけない。
脳には、どうやらそういう機能が、もとからあると考えてよい。

 たとえば(意識)。
この意識として働いている部分は、脳の中でも、数10万分の1程度と言われている。
たとえば今、あなたはパソコンの画面上で、私の書いた文章を読んでいる。
が、同時に、目の中には、無数の情報が、いっしょに入っているはず。

 画面の色、モニターの色、机の上に雑然と置かれたモノ、周囲の温度、光の強さ、
時計などなど。
そういったものを、あなたの目は同時にとらえている。
その中から、文字だけを選び、それを選んでいる。
意識している部分は、その部分だけ。
ごくかぎられた部分だけ。

●「うしろから車が……」

 その人は、実は道をまちがえる前から、無意識の世界で、車を見ていたのかも
しれない。
そして意識している脳とは別の脳、つまり無意識の世界で、「うしろから車が来たぞ」
「運転が乱暴だ」「気をつけろ」と考えていたかもしれない。
が、こうした無意識下での反応は、意識の世界までは、あがってこない。

 が、そこで道をまちがえた。
隣の席にいた人に、「道が違う」と指摘された。
とたん、無意識下で考えていたことが、意識の世界にあがってくる。
だからすかさず、こう言う。

「うしろから車が来ていたから、そちらに気を取られていた」と。

 先の子どもの例で考えるなら、その子どもはそのものを落とす前から、無意識の世界で
こう考えていたかもしれない。
「あんなところに先生は、ものを置いたが、先生は、あんなところにものを置いては
いけない」と。

●反対の現象

 たまたま昨日、こんなことがあった。

 自分の部屋を出るとき、何か、心がすっきりしなかった。
忘れ物をしたような気分が残った。
が、それが何だか、そのときはわからなかった。
しかし何かを、忘れた。
その意識は、軽く残っていた。

 居間で椅子に座っているときも、気になった。
が、わからなかった。
思い出せなかった。

 が、しばらくしてワイフが、テレビの番組の話をした。
とたん、それを思い出した。
テレビのリモコンを、うっかり自分の部屋にもっていってしまった、と。

 私は自分の部屋にあわてて戻り、リモコンをもってきた。

 このばあいは、「テレビのリモコンを自分の部屋にもっていってしまったから、
もってこなくてはいけない」という意識が、無意識の世界にとどまっていたことになる。

 このことと、先に書いた、(こじつけ)と対比させて考えてみると、無意識下の
心の反応が理解しやすくなる。

●頭の中のモヤモヤ

 私たちはいつも、同時に、意識の世界と無意識の世界で生きている。
意識している世界だけが、すべてではない。
むしろ無意識の世界のほうが、はるかに広い。
意識の世界で考えていることよりも、はるかに多くのことを考えている。

 もうひとつの例だが、たとえば私のばあい、何か書きたいテーマがあると、まず
それは頭の中で、モヤモヤとした感じとなって現れてくる。
そのときは何か、よくわからない。
今、書いているこの文章にしても、そうだ。
最初から、今、ここに書いていることがわかっていたわけではない。

 そこで何かを書き始める。
するとやがて、そのモヤモヤの正体がわかってくる。
輪郭が見えてくる。

 そこでこうも考えられる。

 実は私はこうしてものを書き始める前に、無意識の世界で、つまり別の脳が、すでに
ものを考え始めていた、と。
それがモヤモヤといった感じとなって、頭の中に充満する。

●無意識の世界

 今まで、私はあとから理由を述べたり、自分を正当化するために(こじつけ)を
する人を、ずるい人と考えていた。
しかしこの考え方は、ここで修正しなければならない。

 わかりやすく言えば、意識の世界だけが、すべての世界ではないということ。
私たちは同時進行の形で、無意識の世界でも、いろいろとものを考えている。
それが表に出てくるかどうかは、(きっかけ)の問題ということになる。
きっかけに応じて、無意識の世界の(思い)が、表、つまり意識の世界に飛び出して
くる。

 それがあとから理由になったり、こじつけになったりする。
ワイフがテレビの番組の話をしたとたん、リモコンのことを思い出したのも、そうだ。
あるいは、私がものを書くときもそうだ。

 反応としては、すべて、同じワクの中で考えてよい。

●付記

 私はよく「モヤモヤ」という言葉を使う。
ワイフと話していても、「頭の中がモヤモヤとしてきた」と言うなど。

 それが何だかそのときは、よくわからない。
無意識の世界の中にとどまったままの状態で、外に出てこない。
ちょうどリモコンを忘れて、自分の部屋を出たときのような気分である。
が、何かのきっかけで、その片鱗をつかむ。
たとえばこの文章を書き始めたときも、そうだ。

「あとから理由を並べて、自分を正当化するということは、よくある」と考える。
とたん、そのモヤモヤの中から、書きたいことが姿を現す。
あとはそれについて、一気に書きあげる。
時間的にすれば、20~30分程度。
この文章が、それである。

 つまり私のばあい、頭の中にモヤモヤがあると、それが気になってしかたない。
しかしそのモヤモヤを吐き出したときのそう快感は、何物にも代えがたい。
たとえて言うなら、(汚いたとえで恐縮だが)、長い間便秘で苦しんでいた腸が、
一気に便を排出したときのようなそう快感である。

 またそれがあるから、こうして文章を書く。
楽しい。
反対に、モヤモヤをそのままにしておくと、気分が悪くなる。
ときにイライラしてくることもある。

 で、今は、どうか?

 実は、もうひとつ、頭の中でモヤモヤしているものがある。
先日、「ケチ論」について書いた。
が、「ケチ」といっても、お金だけの問題ではない。
心の問題もあるし、時間の問題もある。
さらに言えば、命の問題もある。

 モヤモヤの中に、私はその片鱗を見つけた。

 ……ということで、つぎに、「ケチ論」について、補足してみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●本物のケチ

++++++++++++++++

金銭的な面でのケチというのは、わかりやすい。
またふつう「ケチ」というときは、金銭的な面での
ケチをいう。
しかしどうも、それだけではないようだ。
「ケチな人」について、思いつくまま、まず、書いてみる。

++++++++++++++++

●ケチな人

自分の時間を、自分のためだけに使う人。

自分の時間を、自分の欲望を満足させるためだけに使う人。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

自分の人生を、自分だけのために生きる人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

自分勝手でわがまま、他人の失敗を許さない人。

視野が狭く、欲望の虜(とりこ)になっている人。

自分の欲望を満足させるためにしか、頭を働かせない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

愛されることだけを考え、人を愛することを考えない人。

自分の得だけを考え、相手に得をさせることを考えない人。

失うことを恐れ、ものを失うと、ギャーギャーと大騒ぎする人。

相手の欠点を指摘しても、自分の欠点を指摘されることを許さない人。

小さな欲望を内へ内へと引き寄せ、外に向かって、冒険しない人。

来年の100万円より、明日の1000円を、大切にする人。

他人の失敗を酒の肴にして笑っても、自分では何もしない人。

臆病で、自分の勇気を外の世界で試さない人。

わずかな財産にしがみつき、自分は成功者といばる人。

無難な道だけを歩き、その道を他人に歩かせない人。

無私、無欲の世界を、知らない人。

自分の才能や健康を、自分だけのために使う人。

心よりも、金、モノを大切にする人。

自分より劣っている人には尊大ぶっても、自分よりすぐれている人が理解できない人。

自分の欲望を満足させるためだけに、時間と才能を使う人。

他人の幸福をねたみ、それを邪魔する人。

心にやさしさがなく、損得計算でいつも心が緊張状態にある人。

●心のケチ

 いくつか箇条書きにしているうちに、同じような内容のことを書いた部分もある。
しかし冒頭にも書いたように、「ケチ」と言っても、けっしてお金だけの問題ではない。
最悪のケチは、「心のケチ」ということになる。

 この中でも、たとえば、つぎのものが、それ。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

 わかりやすく言えば、心に余裕がない。
いつも緊張しているというか、ピリピリしている。
一方、若いころ、こんな人に出会ったことがある。

 その男性(75歳くらい)は、若いころから、無精子症だったという。
それについて、「オレにはね、種(=精子)がないんだよね」と。
で、「いつからですか?」と聞くと、「もう20歳になるころには、なかったよ」と。

 が、そんなはずはない。
その男性には、息子さんがいた。
そこですかさず私が、その男性に、「だってあなたには、40歳になる息子さんが
いるではありませんか」と言うと、その男性は、カラカラと笑った。
笑いながら、何度も、「いいじゃ、ねエ~カ、いいじゃ、ねエ~カ」と言った。

●寛大さ

 ケチの反対側にあるのが、「寛大さ」ということになる。
お金でもない。
モノでもない。
心である。

 で、あのマザーテレサは、「愛」を人に、惜しみなく与えた人という。

“It is not how much we do, but how much love we put in the doing.
It is not how much we give, but how much love we put in the giving.”
どれだけのことをしたかは、問題ではありません。
することについて、どれだけ愛を込めたかが大切なのです。
どれだけのものを与えたのかは、問題ではありません。
与えることに、どれだけの愛をこめたかが、大切なのです。

“I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only more love”.
私はパラドックスを発見しました。
もしあなたが苦しいほどまでに人を愛するのなら、もう苦しみはありません。
そこにあるのは、さらに深い愛です。

 これ以上のことは、書く必要はない。
書けない。
マザーテレサがすべてを、語ってくれた。

つまりどこまで、人を許し、忘れるか。
その度量の深さこそが、その人の寛大さを決める。

 卑俗な言い方で申し訳ないが、これでモヤモヤが消えた。
書きたいことを吐き出した。
今日は、すばらしい一日になりそう。

2009年11月29日早朝

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マザーテレサ パラドックス 心のケチ論)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

Friday, November 27, 2009

*What is the Career for Men?

【高学歴の条件(逆流的教育論)】

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「高学歴」のもつ意味が、大きく変化
しつつある。
「高学歴者」イコール、「成功者」あるいは
「人格者」と考えるのは、今では幻想以外の
何物でもない。

が、高学歴への志向性がなくなったわけではない。
ここでは、どうすれば高学歴をめざせるのか
について考えると同時に、高学歴者のもつ
責務について、考えてみたい。

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(1) 環境
親の学歴(親の思考パターンが、世代連鎖する)
親の収入(高品質の教育を受けられる)(※1)
教育環境(地方よりも、都会のほうが有利)
育児環境(親の育児姿勢、育児観、教育観が影響する)

(2) 能力
遺伝的要素(否定する人も多いが、実際には遺伝的要素は否定できない)

●高学歴者の問題点

(1) 合理主義的なものの考え方(情感的なものの考え方ができない)
(2) 自己中心的なニヒリズム(自分勝手で、他者の犠牲を過小評価する)
(3) 点数主義(順位、成果、数字、成績に大きくこだわる)
(4) 優越・劣等感覚(低学歴者に対して、優越感をもつ)
(5) 社会性の欠落(家庭人としての常識の欠落) 

●権威主義の崩壊

(1) 高学歴の意義の変化(EUに見る、大学の権威の崩壊)
(2) 学歴から実力主義への転換。(「何ができるか」が評価される)
(3) 教育制度の自由化(大学間の単位の共通化、入学後の学部学科の変更の自由など)
(4) その一方で、受験競争の低年齢化(小学受験、中学受験が、関門になっている)
(5) 子どもたちの二極化(学力試験の形骸化とともに、学力の低下が指摘されている)
(6) 新家族主義の台頭(2000年を境に、親たちの意識が大きく変化した)
(7) 大卒から大学院卒への高学歴化(「大卒」程度では役にたたない)

●高学歴者を見る社会の変化

(1) 学歴から専門評価へ(「何ができるか」が問題)
(2) 人格評価の変化(AO入試の採用など)(※2)
(3) 大卒後の各組織体による再教育制度の充実(とくに文系出身者)
(4) 高学歴をありがたがる官僚制度(学歴制度温床の場としての官僚制度)

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以下、順に、考察を加えてみたい。

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(※1)【年収と学力】(Parent’ s Income and their Children’s Ability of Studying)

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予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。
文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。

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●年収200万円層

 時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。
 
『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託研究で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初めて。

 委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護者から家庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力テストの結果と照合した。

 学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、世帯年収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だった。

 正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満だと、200万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答率が微減に転じた』(以上、原文のまま)と。

●数字の整理

 数字を整理してみる。

(1) 年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2) 年収が1200万円~1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイント、高かった。
(3) ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。
 
つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。
 
が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。
 
しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならないこと。

しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。

●学歴と親の年収

 それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなると言えなくもない。

(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。
子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)

 つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベルが低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということではないのか。

 もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの学外教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。

●親の知的レベル

 「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。
 親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。

(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)

 「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。

●知的レベルの怖ろしく低い親

3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
 
 が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。

 別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。
 
子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。

●ともあれ……

 ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。

しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。

 年収が1200~1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの学力調査 はやし浩司 全国学力調査)

(付記)

 都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのものが、少し極端すぎるのでは?

仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※2)●AO入試

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アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。


 簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。

 従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。

 当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。

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●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試と並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)です。

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990年のことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2001年度には、207大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途をたどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務局とやりとりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かなものもあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事前面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びたい」受験生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が許可されたり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授業についていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考えられますから、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミッションズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれています。 AOとは(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行っているというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の能力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよらない新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」(同サイトより)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募できる「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や日数をかけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方法に従来の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のようである。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を課したり、出願時に2000~3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面接はそれをもとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学力の成績がモノをいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1~2回の予備面接やインタビューを行うもので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や面談は大学主催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自己アピールを大学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 このタイプの場合は、大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意志の確認が重視されます。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

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 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これからの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。ただ現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用することについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 AO入試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※3)【カナダの幼稚園】

++++++++++++++++

少し前まで、カナダで暮らして
おられた、GSさん(静岡市在住)から、
こんなメールが届きました。

そのまま紹介させていただきます。
カナダの幼稚園の様子がよくわかる、
たいへん興味深いメールです。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【GSさんより、はやし浩司へ】

カナダの幼稚園についての原稿ですが、もちろん引用してくださって構いません。

カナダでの育児状況について、もし参考になるようでしたらと思い、もう少し、お話させ
ていただきます。

私も含め皆さんが、とても利用していたのが、フリー(無料)で行われる、『プレイグルー
プ』(確か州で運営)というものでした。

会場は、各地域にある大きなスーパーの2階です。そこが日本でいう公民館的な空間にな
っていて、大き目の会場とキッチン付きの部屋などもあり、そこで様々な集会、会議、講
習、お稽古などが催されています。

プレイグループは週2回、予約、会費なども一切なく、本当にフリーに出入りできるので、
人気がありました。ベテラン保母さん(たぶん退職されたであろう年齢の方々)が来てい
て、午前中の間開放されます。

その時間内、入りたいときに入り、出たいときに出るというやり方です。子どもだけ置い
ていっても構いませんが、親が一緒に入っているケースがほとんどです。(親がいない子ど
もは、数人いるかいないかという程度です。)それでも、定員を超えるとドアは閉められ、
誰かが抜けるまで、入れず、外で待ちます。 

お絵かき、粘土、パズル、玩具、絵の具、はさみ遊び等等、たくさんの物が用意されてい
て、どれでも好きな物で遊べます。最後に、みんなが円になり、絵本の時間と歌遊びがあ
って、最後までいた子ども達は先生からご褒美シールをもらって終了。

そのシールって好きなところに張ってくれるのだけれど、だいたい、手とか腕とかホッペ
とかでカワイイ(笑)です。

本当に産まれたばかりのような赤ちゃんから、(日本ではきっと外に連れ出さない程の月
齢)、PreSchoolの年齢の子までいます。 

そこで、玩具の貸し借り、順番、ケンカした時の対応などが、自然に意識することなく経
験できたように思います。 

1歳、2歳でもその環境で習得する力はすざましく、林先生の何かの原稿にあったように、
親、先生よりも周りにいる年上の子の真似事が一番の影響を持ちますね。

もちろん、様々な子ども達がいるし、人種も宗教も肌の色も本当に様々なはずですが、子
どもの世界はさほど変わりありません。先生達は特別な指導はなく、何かもめている子ど
ものところへ行っては解決させ、後は良くできているね!と褒めて歩いたり、相談を聞い
たりといった感じです。

息子は、そのプレイグループが大好きで、先生にもすっかり名前を覚えてもらい帰国前に
は涙してサヨナラして来た程でした。

公園の違いについて。

小さな幼児用の遊具と、大きい子用の遊具がしっかり分かれていました。
下は転んでもさほど問題のないように2~3センチの木片や大鋸屑がひきつめられているか、
滑らないゴムのようなものになっていて、滑り台への階段も、1歳児がハイハイして登って
行けるほど、広く段差が低いものです。一か所の公園だけでのことではありません。

また、夏には幼児向けプールが開かれます。 だいたい遊具の近くの芝生の真ん中にあり
ます。

大きな円のプールで中心へむかい深くなっていて、一番深い所で大人の膝程度です。 な
ので端の浅い所では、1歳未満の子が水着で遊んでいたりする中、4~5歳の子が大はしゃ
ぎで走り回るという感じです。週末は短パンで水に入りながら一緒に遊び、周囲の芝生で
ランチしている家族が多く見られます。

高校生のボランティアが監視役として必ず一人ついていて、時間になると水遊び用の玩具
をぶら下げながらやってきて、プール内を掃除して水をはります。決まった時間になると
笛をふき、全員プールから出し水の消毒にかかります。 

毎度、プールから全員上がらせるまでに時間がかかりますが、出てしまった後は、みんな、
まだかまだかと持参したフルーツやおやつを食べたりしながら、しっかり待っています。

以上、特に印象が強かった良い環境だなあと思った2点です。 

私は、妊娠6か月の時にカナダへ行き、親や友達は海外での出産と育児でとても大変だと
心配してもらいましたが、かえって日本よりとっても精神的にもリラックスできていた気
がしますし、子育てはむしろ日本よりもしやすい環境だったと感じています。

もちろん、出産は日本のようにいたれりつくせりではないし、身体的に問題が起きて大変
な思いもしたし、いわゆる子どもを預けてつかのまの休息というものは一切なかったので、
大変は大変でしたけど(笑)。 
だからといって、子どもと少し離れたい!、と思ったこともありませんが。

小学、中学、高校になると、スポーツ系のクラブが数多くあり所属している事が多いよう
です。夏は日が長いせいもあるのか、9時過ぎまでグランドで練習、試合をしている姿が
よく見られます。また、クラブ活動を通しての縦割りのボランティア活動も多いようです。 

女の子のチームも多くあります。ある中学生の子どもを持つ銀行員のお母さんは、やっと
の週末のお休みも、子どものクラブの活動で朝から大忙しだと話していました。でも、そ
の家族の時間も嬉しいと楽しんでいました。 

どちらにせよ、カナダでは、ハッキリと言えることは、家族で過ごす時間をとても大切に
しているというのが強いですよね。日本ではそうではないとは決して言えませんが、平均
的にそれに対する比重はとても違うように感じます。

なんだかまた長々と書いてしまいましたが、少しでも参考になれば幸いです。

【はやし浩司より、GSさんへ】

カナダの教育についての情報、ありがとうございました。
「幼稚園」と構えないで、「(無料の)プレイグループ」というのは、すばらしいですね。
保育時間も、親自身が決められるところも、すばらしいですね。

私の孫も、アメリカで、おおむねそのようなやり方で、少しずつ、集団教育に慣れていっ
たようです。
最初は、週に1、2回程度。
様子をみながら、回数をふやしていきました。

どうして日本では、そういうことをしないのか、不思議でなりません。
いきなり集団教育の場に子どもを放り込んで、それでよしとしています。
考えてみれば、これほど、乱暴な教育もないわけです。

またいろいろ教えてください。
イギリス→カナダは、さすが教育の先進国だけあって、日本とは、ちがいますね!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カナダ カナダの幼児教育
 カナダの教育事情 カナダの幼児教育 プレーグループ プレイグルー play group は
やし浩司 カナダ 幼児教育 幼稚園)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※4)●教育の自由化

アメリカに限らず、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの小学校を訪れて驚くのは、その「楽しさ」。まるでおもちゃ箱に入ったかのような錯覚にさえとらわれる。百聞は一見にしかず。この写真は、アメリカ中南部の、ある公立小学校で撮影したもの。アメリカでは、ごく一般的な、ふつうの学校とみてよい。

●アーカンソー州、アーカデルフィア、ルイサ・E・ぺリット・プライマリー・スクール。ブルー・リボン賞受賞校。四歳児(年中)から七歳児(小一)までを教える。全校生徒三七五名。公立学校だが、朝食代と昼食代など、必要実費が、週六〇ドル必要。
 
(写真ABC)は、小一クラス。一クラス二〇名。この日は、教師、大学からきたインターンの学生、それに当番制で学校に手伝いに来ている母親の三名が、指導に当たっていた。写真右端にあるのが、教師のデスク。教師のデスクは、それぞれの教室の内部にあり、日本でいう職員室のような部屋はない。写真左端で床に座っているのが、当番制でやってきた、母親。奥のほうでマンツーマンの指導をしているのが教師。インターンの学生は、私と並んでいたので、この写真には収まっていない。

(写真D)は、図書室の様子。アメリカでは、そして他の国々でも、図書室の充実が、学校教育の柱になっている。たいていどこの学校にも、専門の司書がいて、子どもの読書指導にあたっている。写真の女性は、ボランティアでやってきた母親。

(写真E)は、コンピュータ学習ルーム。この日は、四歳児が授業を受けていた。この学校では、四歳児からコンピュータの学習を実施している。ちなみにオーストラリアでも、すでに一五年前から、コンピュータ学習は、小学三年生から必須科目になり、現在では、幼稚園レベルから教育を行っている(南オーストラリア州)。

●アメリカの学校制度

 こうした公立、私立の学校のほか、アメリカには、チャータースクール(親たちが自ら教師を雇い、学校そのものをチャーターする)、バウチャ(学校券)スクール(親に配布した学校券で、学校を運営する)、さらにはホームスクール(学校へ通わないで、家庭で学習する)などの学校がある。ホームスクールというと、日本では不登校児のための制度と誤解している人が多いが、それはまちがい。九七年度にはアメリカだけで、ホームスクーラーは、一〇〇万人になり、毎年約一五%程度の割合でふえている。「真に自由な教育は家庭でできる」(「LEARN IN FREEDOM」)という理念のもと、この運動は、全世界的に拡大している。アメリカでは、親の希望に応じて、公的な機関が、専門の教師やアドバイザーを、定期的に派遣するという制度も確立している。また地域のホームスクールの親や子どもたちは、ひんぱんに会合を開き、合同で教育活動も行っている。そして現在、世界で一〇〇〇以上もの大学が、ホームスクーラーの子どもの受け入れ態勢を整えている(前述、L.I.F)。

●教育の自由化

 アメリカの学校では、公立、私立に限らず、カリキュラムの作成は、州政府のガイドラインに従い、親と教師が、「カリキュラム作成委員会」の席で、決定している。日本でいう全国一律の学習指導要領なようなものはない。(たとえば中学校レベルでも、三年間で所定の単位学習をすませばよいことになっていて、一年生だから、一年の学習を、という拘束性はない。)また当然のことながら、アメリカには、日本でいう「文部省検定済教科書」のようなものはない。検定制度そのものがない。子どもたちが使っているのは、あくまでも「テキスト」である。よくテキストを「教科書」と訳す人がいるが、欧米でいう「テキスト」と、日本の「教科書」とは、本質的にまったく異質なものと考えてよい。

 ついでながら検定制度について、たとえばオーストラリアには、民間団体による検定委員会はある。しかし検定する範囲は、過激な性的描写、暴力的表現に限られていて、特に「歴史的分野」については、検定してはならないことになっている(南オーストラリア州)。
 欧米では、「教育の目標は、将来、多様な社会に、柔軟に適応できる子どもを育てること」(オーストラリア)が柱になっている。アメリカでは行き過ぎた自由化が、一部で問題になっている部分もあるが、しかしこうした自由な発想が、学校教育そのものをダイナミック

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 アメリカ 教育制度 実情 教育の自由化)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※5)教育の自由化

【教育再生会議・中間報告原案】

++++++++++++++++++

06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。

「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?

いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。

案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。

かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。

++++++++++++++++++

 06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下のようなもの。

(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学

 このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。

 どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この原案なるものを、検討してみたい。

●ダメ教員の問題

 どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認定された教師の10倍以上はいるとみてよい。

 しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師となると、それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自信をもっている教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。

 だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講習を受けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、無理。

 もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること。「あの先生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。

 アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。

 だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。

 ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であるかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性が、あちこちで光っている。

 しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だということ。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねている。

●美しい国づくり 

 提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づくり」が、教育と関係があるのか。

 あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。

 外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。

 雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモの巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。

 その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。

 が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その自然を生かすことさえできないでいる。

 教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。

●いじめを許さない

 提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。

 方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。

 好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れることができる。

 たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になっている。

 以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。

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【学校神話を打ち破る法】

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が18歳のときにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえば……。

●日本の常識は世界の非常識

★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。

ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。

こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。

日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。

どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組んでくれる。

たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めることができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
 
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。

学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
 
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 世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞した偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。

 「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化(=民営化)をこぞって選択している。

 カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化している。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作りたいと思えば、それもできる。

 (これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になっている。またそういう学校しか認可されていない。)

 ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。

 教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけているが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●逆流的教育論

昔は町内で東大生が生まれたとすると、その
町内の人が、ちょうちん行列までして、その
学生と家族を祝った。

しかしそれから100年。
尾崎豊が「卒業」を歌ったころから、こうした
日本独特の権威主義、それを支える学歴制度は、
大きな転機を迎えるところとなった。

「学歴」よりも、「中身」「実力」をみる時代へと
変化した。
そのため大学の選抜方法も、AO入試に見られる
ように、時代の流れの中で変化しつつある。

たとえばEUでは、大学の単位そのものが、
共通化されている。
学生たちは、自由に各大学間を渡りあるいている。
最終的にどこの大学で、学位、博士号を認定される
かということは、重要なことだが、少なくとも
「出身大学」という概念は、もうない。

日本でも同レベル(?)の大学間で実験的に
単位の交換がなされているが、あまりパッとしない。
ブランド志向は、過去の亡霊として、まだ残っている。

もちろん小中高校生の教育制度も、大きく変化
しつつある。
ドイツにおけるクラブ制度を例にあげるまでもない。
EUでは、子どもたち(中学生)は、学校での
カリキュラム(ほとんどが単位制)を終えると、
午後は、それぞれが自分の好きなクラブに通って
いる。
それを支えるための、「チャイルド・マネー」も
支給されている。

(高学歴者)イコール、(成功者)という発想そのもの
が、陳腐化している。
もちろん(高学歴者)イコール、(人格者)という
わけでもない。

もし(高学歴)に求められるものがあるとするなら、
真・善・美の追求者としての、社会的責務である。
その責務を果たしてこそ、高学歴者は高学歴者としての
意味をもつ。
そうでなければ、高学歴といえども、卒業証書は、
ただの紙切れ。
自己利益の追求のための道具でしかない。

ちょうど2000年を境にして、日本人の学歴意識は
大きく変化した。
(出世主義)から(新・家族主義)への変化である。
このころ、「仕事より家族のほうが大切」と考える
人が、50~80%へと変化した。
こうした変化を、「サイレント革命」と名づけた人もいる。

今後この(流れ)は加速することはあっても、逆行する
ことはありえない。
理由は簡単。

世界はすでにその先を走っている。
日本は今、それを追いかけなければならない立場にある。
単位の共通化にしても、今では、世界の常識。
インドネシアのジャカルタ大学で1年、中国の北京大学で
1年、3年目と4年目は、EUのソルボンヌ大学と、
ハイデベルグ大学で。
合計して必要単位を履修していれば、あとはどこかの大学で
単位を認定してもらう……。

日本だけが、そのカヤの外。
日本の医師免許は、日本以外の国では通用しない。
アメリカの医師は、日本で開業することができない。
これはほんの一例だが、こうした閉鎖性を打破しない
かぎり、日本の未来に明日はない。

大切なのは、学歴の追求ではなく、実力の追求。
それができる社会システムを、早急に立ち上げる。
(学歴)というキャリアは、あくまでもあとから
ついてくるもの。
(学歴)を目的とする時代は、すでに終わっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 逆流的教育論 教育の自由化 日本の教育)