Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, December 30, 2008

Hangover!

●三日酔い闘病記

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息子が、アメリカのNAPAのワインを、
みやげにもってきてくれた。

「あぶないかな?」と思いつつ、それを
フルーツ・ジュースで割って飲んでしまった。

飲みやすかった。
おいしかった。
で、調子にのって、その翌日も、飲んでしまった。
今度は、コップ3分の1ほどを、それを野菜
ジュースで薄めて飲んだ。

が、これが三日酔いの始まりだった。

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翌朝、実はその日、愛知県のほうへ、グルメ観光に行く予定だったが、はげしい頭痛で
目が覚めた。
旅行は、そのままキャンセル。
頭痛だけではない。
症状を列挙してみる。

目が回る。
じっと見ているだけで、目の奥が痛くなる。
動きのあるものを見つめていると、吐き気を催す。
うるさい音がだめ。
音楽もだめ。
それがガンガンと頭に響く。

頭を動かすと、同じように吐き気を催す。
脈数を計ってみると、105~110もある。
こめかみを指で触れてみると、そこでドクン、ドクンしているのがわかる。

食欲はなし。
インターネットで調べてみると、「水分補給がいい」とあった。
しかし胃そのものが、水分を受けつけない。
アレルギー反応を示している。
少しお茶を口にしてみたが、そのままゲーッ!

加えて、下痢、また下痢。
昨日だけでも、10回近く、トイレへ走った。
腸全体も、アレルギー反応を示している。
(これは素人判断だが……。)

昼過ぎになって、息子が二日酔いの薬を買ってきてくれた。
「2000円のワインを飲んで、薬代が2000円では、
赤字だね」と、おかしなことを言いながら、薬をのむ。
胃の不快感は、しばらくすると、軽くなった。
そこではじめて、ぬるいお湯に、蜂蜜を溶かして飲む。

が、食欲は、ゼロ。

起きていても目が回るだけ。
しかたないので、そのままふとんの中へ。
こうして私は、約24時間も、つづけて眠ることに……。
ときどき起きたが、24時間というのは、すごい。

そして三日目の今朝、やっとパソコンに電源を入れた。
頭を動かすと目が回るので、頭は椅子に固定したまま。
今朝になって、お茶を2杯飲むことができた。
が、飲んだとたん、またあの頭痛。
摂取した水分で、血管が拡張したためらしい。
それが神経を圧迫した。
片頭痛のときの頭痛に似ている(?)。

が、何よりもつらかったのは、厭世気分。
「二日酔いになると、厭世気分が増大する」ということらしい。
「生きていることそのものが、いやになる」……というのは、少し大袈裟だが、
しかしそれに近い。
あれこれグチを言うと、ワイフがこう言った。
「二日酔いを私のせいにしないでよ」と。

いつだったか、友人のT氏がこう言ったのを思いだした。
「酒で、憂(う)さが晴れるというのは、ウソだよ。
そのときは、酒で自分を忘れることができても、そのあと、何倍も、落ち込むよ」よ。

二日酔いと厭世気分。
悶々とした不快感。
暗く沈んだ夕方の景色を見ただけで、気分が落ち込む。
しかたないので、また床に横になる。
あとはこの繰り返し。

そして今。
こうしてキーボードを叩いているだけで、頭が痛くなる。
先ほど飲んだお茶が、胃の中でガボガボしている。
風邪をひいているわけでもないのに、背中がゾクゾクする。

だから称して、三日酔い。
酒と縁を切って、もう14年になる。
その私が、またまた失敗を繰り返してしまった。

だからこう誓う。
もう2度と、酒は飲まないぞ!、と。

12月31日。
大みそか。
何たるザマ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
二日酔い 三日酔い)

Sunday, December 28, 2008

*To live beautiful

●さわやかに生きるために

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1人、気になる人(男性、55歳)がいる。
去年、離婚したという。
3人の子どもがいたが、子どもたちはみな、
妻とともに、T県の実家に移り住んだという。
その上、昨年、コンピュータの改造事務所を
開いたが、今度の大不況で、あえなく閉鎖。
おまけに、持病の糖尿病が悪化。
「腎臓の透析を受けなければならなくなるかも」
とのこと。
55歳といえば、まだ若い。

電話での、一方的な、かつボソボソとした言い方だったので、
返事のしようがなかった。
が、それからちょうど1か月。
その人のことが、やたらと気になるようになった。

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●気になる

相手のことが気になる……ということには、いろいろな意味がある。
心配して気になることもある。
好奇心で気になることもある。
こういうとき、どちらなのだろうと、ふと迷う。
心配しているのか、それとも好奇心からなのか、と。
迷うが、そこまで。

どうであるにせよ、こういうばあい、そっとしておいてやることこそ、大切。
相手のほうから、相談でもあれば話は別。
こちらから、電話をかけて、聞きだすようなことはしてはいけない。
そんな残酷なことはしてはいけない。
また、そんな残酷なことは、私にはできない。

●そこで私のこと

私も過去において、つらいことがあった。
きびしい時もあった。
そういうときのことを思い出してみると、ほとんどの人たちは、
私たちをそっとしておいてくれた。
それはそれでありがたかった。
が、中には、私たちのことを聞きだそうと、わざと近づいてきた人もいた。
たとえば理由もなく、1000円とか2000円の菓子を送り届けてきたりした。
私が礼の電話を入れるのを見込んで、つまりそれをきっかけに、私の家の内情を
さぐろうとした(?)。

が、そういうことが平気でできる人というのは、相当の悪(ワル)と考えてよい。
人間性そのものが崩壊している。
反対の立場になってみると、それがよくわかる。

●仮に……

先に書いた人の(不幸)について、興味がないと言えば、ウソになる。
奥さんとも、何度か会ったことがある。
子どもの教育のことで、相談にのってやったこともある。
コンピュータの改造事務所を開いたと聞いたとき、私も、何か仕事を
頼もうと考えたこともある。
しかしそれ以上のことを知ったところで、それがどうなのか。
私が金銭的に援助するとか、治療費を負担するというのであれば、
それはそれ。
しかし私には、そのつもりはない。
またこちらから、「援助しようか」と話しかけるのも、失礼。

が、仮に私がこんなことをしたらどうだろうか。
好奇心が増大し、その人が今ごろどうしているか、知りたくなったとする。
そこで私は、まず、1000円かそこらの菓子を送る。
相手は、それに礼を言ってくるはず。
送った理由を聞かれたら、「いろいろ君には世話になったから」とか、何とか言えばよい。
で、相手が話に乗ってきたら、「その後は、どう?」と聞けばよい。

しかしそれができるというのは、先にも書いたように、相当の悪(ワル)と考えてよい。
少なくとも、私にはできない。

●酒の肴(さかな)

が、世の中には、他人の不幸を酒の肴にして、楽しむ人がいる。
さも同情したフリをしながら、ああでもない、こうでもないと、他人の不幸話に
花を咲かせる。
中には、「あいつも、かわいそうだよな」と、沈んだ声で言いながら、その人の
悪口を言いふらしたりする。
このタイプの人は、元来ゴシップ好き。
情報を得るために、用もないのに電話をかけてきたりする。
探りを入れてきたりする。
「林君、昨夜、君の夢を見たよ」とか、何とか言って……。

こういう人に、こちらの内情をうっかり話したりすると、その話は、あっという間に、
みなに伝わってしまう。
「あの林は……」と。

●あなたに告げ口をする人は……

『あなたに告げ口をする人は、あなたのことを、また別のだれかに告げ口する』。
イギリスの格言だが、そういう人のことを、「つげ口屋(タトラー)」という。
英語国の世界では、もっとも軽蔑されるべき人間の1人ということになっている。

そこであなたの周囲を見回してみてほしい。
あなたの周囲にも、1人や2人、かならずそういう人がいるはず。
で、私のばあいだが、私に何か告げ口をしてくる人がいたら、こう思うようにしている。
「ああ、この人は、つぎに私のことを、だれかに告げ口をするぞ」と。
つまり相手にしない。
遠ざかる。

好きか、嫌いかということになれば、私は(告げ口)が、大嫌い。
だから子どもを指導するときも、だれかが告げ口をしてきたら、すかさず、
こう言い返すようにしている。

「ぼくは告げ口が嫌いだ。聞きたくない」と。

●そっとしておく

今の今も、不幸のどん底であえいでいる人は、多い。
しかしその人がその人なりにがんばっているなら、そっとしておいてやることこそ大切。
またそれが思いやりというもの。
いわんやその人の不幸を、酒の肴にしてはいけない。
そんな残酷なことを、してはいけない。

これはたがいの人間関係をさわやかにするための、大鉄則ということになる。

*Japan would be isolated more and more

【撤退する外国企業、規制緩和の必要性】

●この現実を、知っているか?

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日本の証券取引所から、外国企業の撤退が
つづいている。
現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、
「16社と、ピークだった1991年(127社)の
8分の1減少した」
(時事通信・08・12・27)。

かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。
(2002年には36社。3分の1に減った。
さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)

その理由として第一にあげられるのが、
「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)
ということ。

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時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上場の外国企業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?
今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。
すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、
シンガポール経由。
東京ではない。
シンガポール。
東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。
いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。
深刻にとらえているのか。

言葉の問題だけではない。

シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの
医療機関が整っている。
医療保険も、そのまま使える。

だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、
東京ではなく、シンガポールを選ぶ。
逆の立場で、考えてみればわかる。

もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。
そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。
それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。

日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」
も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。
が、この負担が大きい。
日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。

だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。

こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は
消えることになる。
(事実、すでに消えかかっているが……。)

日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。
「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の
ようなもの。
日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。

東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。
どうして羽田空港であっては、いけないのか?

もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。

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●日本から逃げる外資

 今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。終値で616円安。それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れていることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつあることを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新聞)。

 この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。つぎのが、それである。日付は、2002年になっている。

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【みんなで考えよう、日本の教育改革】(Open the door and liberate the market)

More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125 enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money for translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world and liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan. Here is my article which I wrote 6 years ago in 2002.

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、165か国中、150位・99年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んでいる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに10年以上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。

もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。

もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減しているという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを閉鎖した学校もあります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方に任す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、これからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。

私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。

近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営む上で必要な基礎学力だ」と。もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第3回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要はないという人もいる。

大切なことは、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気をなくしてしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育まで押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。

ある教師(小学5年担任、女性)はこう言った。「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もいた。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。教師は学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとしばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいのか悪いのかについては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れてはいけない。

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 6年前に書いた原稿だが、この6年の間に、日本の教育も大きく変わった。しかし、それでは不十分。

 同じように、日本の経済構造も、旧態依然のまま。東証のS社長の言葉が、それを如実に表している。

Saturday, December 27, 2008

*Heating of Fu-ton

● 暖房器具(Heating System of Fu-ton (Japanese Thick Blenket)

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最近の家は、密閉性がよいため、部屋暖房
が常識化している。
しかし私の家は、築40年のボロ家。
隙間風が、あちこちから入ってくる。
で、冬になると、暖房方法に苦労する。
とくに寝床になっている、ふとん。

今年の冬は、電気毛布(かけふとん)と、
電気敷き毛布を併用している。
床につく1時間ほど前に電源を入れ、床に入る
ときに電源を切る。
しかしそれでもこのところ、寒いと感ずることがある。
そこで一案!

ふとん乾燥機を購入してきた。
これで一度ふとんを乾燥させる。
床につく30分~1時間前に、電源を入れる。
が、これがたいへん、暖かい。
つまりうまくいった。

が、それだけではない。
数日前、風呂から出たあと、散歩をしてしまった。
「まずい」とは思いつつ、それをしてしまった。
で、そのあと、予感どおり、鼻かぜをひいてしまった。
ゾクゾクとした悪寒もあり、腰のあたりも
痛くなってきた。

こうなるとふつうの暖房方法では、ふとんは
暖まらない。
そこでふとん乾燥機を、毛布と、かけぶとんの間にはさみ、
そのまま寝た。

しかしこれがよかった。

というのも、人間は眠っているときも、肌を通して、
皮膚呼吸をしている。
そのため通気性の悪いふとんだと、そのまま
寝苦しくなってしまう。
寝るときはできるだけ薄着で、ふとんも通気性の
よいものがよい。

この点、ふとん乾燥機はよい。
通気性がよいどころか、通気そのものをしてくれる。
もちろん暖かい。
それに電熱器が発する、あの電磁波特有の
不快感もない。
さわやかで、軽い風がふとんの中に入ってくるような感じ。

そのときは、額に汗がじんわりと出てくるような
熱さだったが、これがよかった。
朝起きると、鼻かぜは治っていた!

そこで提案。

電気毛布、電気敷きぶとんもよいが、この方法、
つまりふとん乾燥機方式で、ふとんを暖める
製品を開発してほしい。
外から暖かい空気を注入しながら、ふとんを
暖めるという方式である。

ふとんの温もりも自然で、寝心地もよい。
もちろん通気性もよく、厚いふとんで感ずるような
寝苦しさもない。

モーターによる騒音もあるが、あの程度の騒音
なら、気にならない。
飛行機のエンジン音、あるいは車のエンジン音
のようで、かえって快眠を誘うのではないか。

(注:ふとん乾燥機をふとんの暖房に使って
いる人も多いかと思うが、しかし熱くなりすぎるので、
注意する。
ふとんの中で汗をかくほどだと、今度は、眠って
いる間に、脱水状態になるかもしれない。
高血圧の人や、血栓性の何かの病気をもっている
人は、注意してほしい。)

Friday, December 26, 2008

*What is the belief for Believers?

●信仰

+++++++++++++++++

世界にはいろいろな信仰がある。
その多くは、(おかしな現象)が起きると、
それを(何かのたたり)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく……という
プロセスを経て生まれる。

+++++++++++++++++

信仰論(宗教論ではない)を考えていて、興味深いのは、
それぞれの国の信仰は、それぞれの文化や、伝統、さらには
風土的特徴と結びついているとうこと。
とくに風土。

どこの国のどの宗教とは、ここには書けないが、ある国では、
ある季節のある時期になると、女性を中心に、おかしな症状が
現れる。

別人格になってしまい、理性のコントロールがきかなくなってしまう、など。
奇妙な動作で踊りだすこともあり、ときに村全体の女性たちが、集団で
踊りだすこともあるという。

そこでその国では、それを悪霊のたたりとして、独特の
悪霊信仰が生まれた。
そのときの動作が、ある動物のそれと似ていることから、
その国でも、その動物を信仰の中心に置いている。
ついで、その信仰から祭りが生まれ、文化や伝統も生まれている。

が、こうした症状は、精神医学の世界では、「ヒステリー」という
言葉を使って説明される。
集団で起これば、「集団ヒステリー」ということになる。
が、それぞれに原因があることが、最近、科学的につきとめられている。
(日本語でいう「ヒステリー」というときの意味とはちがい、またよく
混同されるので、最近では、精神医学の世界では、あまり使われなくなった。
以前は、同じような症状を、転換症状とか解離症状とか呼んでいた。)

たとえばその国では、冬の間、国全体が氷と雪に閉ざされ、その
国の人たちは、極端なカルシウム不足に陥る。
その結果、とくに出産直後の女性たちが、カルシウム不足による
ヒステリー症状を示すようになる。

この話と似たような現象は、日本のみならず、世界中で起きている。

(おかしな現象)が起きると、それを(何かのしわざ)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく。
言うなれば、(思いこみ)の世界ということになる。

こうした信仰には、当然のことながら、(教え)はない。
つまり私たちがいう、「宗教」とは、一線を画すものである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
宗教 信仰 宗教と信仰 思い込み 迷信 信仰論 ヒステリー 集団ヒステリー)

●ただし「宗教といえども、その99%は、思い込みによるもの」(はやし浩司)。

*Portable Shrine in my House

●冬休み

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明日から私も冬休みに入る。
そこで決意。
毎年、ほぼ例外なく、私は冬休みが
終わるころには、運動不足が重なって、
体重がふえる。
そして休み明けに自転車に乗るのだが、
そのとき、体がそれについてこない。
ふだんなら何でもない坂道ですら、
降りて歩く。
そこで今年こそは、その愚を繰り返したくない。

……ということで、明日からではなく、
実は昨日から、運動量をふやした。
今日も、とりあえず、片道、7キロを
歩いた。
仕事の帰りはどうしようかと、今の
ところ迷っているが、たぶん、歩くことに
なるだろう。
(12月26日記)

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●映画「ワールド・オブ・ライズ(噓の世界)」

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デュカプリオ主演の『ワールド・オブ・ライズ(噓の世界)』を見てきた。
原題は、「Body of Lies」。
久々に迫力のあるスパイ映画を見た。
そんな感じの映画だった。
星は4つの★★★★。

ただ題名の翻訳がおかしい。
「ボデイ・オブ・ライズ」のままでよかったのではないか?
「ワールド・オブ・ライズ」というと、何かしら「噓の博覧会」というイメージを
もってしまう。

映画は、謀略に謀略を重ねるアメリカCIAを中心に、ストーリーが展開する。
迫力はそれなりにあるが、あちこちで、「?」と思った。
私の友人にこんな人たちがいた。

1人は、メルボルン大学時代の友人で、大学を中退して、イギリスの諜報専門学校
へ転学していった。
そのまま諜報部員になるということだった。
オーストラリアの友人たちは何とも思っていなかったようだが、私は驚いた。
諜報専門学校?
日本では、そういうコースは、さがしても見つからない。

もう1人は、I国のアメリカ大使館直属の諜報部員をしていた。
同じカレッジにいたが、その友人とは、その10数年後、東京で会ったことがある。
そのときホテルに彼を訪ねると、彼は胸のホルスターに拳銃をもっていた。
それを無造作に、ベッドの上に投げ置いた。
私は驚いたが、彼にしてみれば、何でもない行為だったようだ。

現実にワールド・オブ・ライズのような世界はある。
しかし今、諜報活動といっても、スパイどうしが拳銃をバンバンと撃ちあうようなことは、
しない(?)。
諜報活動そのもののやり方が、変わってきた……と、私は思う。
何しろ、私とはまったく無縁の世界の話である。
だからこれ以上のことはわからない。
ただ映画のはじめに、「これはフィクションだが、実際にあったことに基づいている」
というような説明があったような気がする。

ありえない話ではないが、現実にあんなことがあれば、私ならたった数日で、
PTSD(心的外傷後ストレス症候群)になってしまうだろう。
再起不能の精神病患者になってしまうかもしれない。
やはりあれは、映画の世界の話ということにしておこう。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●神棚を整理する

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先日、実家に帰って、神棚を整理してきた。
何しろ、それが3つもある。
大黒様、稲荷様、それに八幡神社の神様。
大きな神棚で、その中に神札などが、祖父母の
時代から、3代分、ぎっしりとつまっていた。

ダンボール箱に詰めかえたら、ちょうど1杯分に
なった。

その道に詳しい人に相談すると、○○神社へもっていけとか、
一度お祓(はら)いをしてもらってから、処分したらいいとか言う。

しかし、どうしたらよいものか。

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●信仰論

神であるにせよ、仏であるにせよ、さらにキリスト教でいう神であるにせよ、
信仰は、(教え)でするもの。
モノや形でするものではない。
モノや形に拝んでも意味はない。
あの釈迦だって、「私に似せて偶像を作るな」(法句経)と教えている。

が、か弱き人間たちは、それでは自分を支えることができない。
そこかしこで偶像を立て、それに向かって信仰する。
その結果のひとつが、大黒様であり、稲荷様ということになる。
仏教でいう仏像も、その類(たぐい)かもしれない。

が、だからといって、私は、それを否定しているわけではない。
人はみな、それぞれ。
それぞれの人が、幸福を求めて、それぞれの道を歩む。
その方法はみなちがう。
心の拠(よ)り所として、それぞれの神や仏を信仰する。
それはそれとして、そっとしておいてやることこそ、大切。
「あなたはまちがっている」とか、「あなたがしていることは、おかしい」などとは、
言ってはならない。
言う必要もない。

●バチ論

私は、ずっと無神論で通してきた。
家には仏壇もなければ、神棚もなかった。
よく墓参りもしたし、初詣もした。
全国の神社や仏閣へ行けば、手を合わせて、拝んだ。
しかしそこまで。

が、今度、私の家に仏壇が入った。
それについては、前にも書いた。
が、冒頭に書いた、神棚までは考えていなかった。
そこで、ハタとどうするか、困ってしまった。
「どうしよう?」「どうしたらいい?」と。
で、その道に詳しい人に相談すると、あれこれと教えてくれた。
中には、「それをしないと、バチが当たりますよ」と言った人もいた。

しかし(バチ)などというものは、ない。
そんなことをいちいち考えている神や仏がいるとしたら、その神や仏は、
エセと考えてよい。
インチキでもよい。
よくカルト教団では、「この教団を抜けると、バチが当たる」と教えるが、
もしそうなら、その教団自体が、魔の巣窟と考えてよい。
勇気を出して遠ざかったらよい。

だいたいバチを与えるほどの、パワーがあるなら、そのパワーは、もっと
別のところに使えばよい。
常識で考えれば、そうなる。

こうしてその箱は、私の居間の隅に置かれた。
1か月、2か月と過ぎた。

●処分

で、私は私のやり方で、処分した。
その日は、午後までワイフは家にいなかった。
クラブとその忘年会で、家をあけた。

帰ってきてからワイフが、私にこう聞いた。
「あの箱は、どうしたの?」と。
私は、それに答えて、「知らない」と言った。
ついでに、「お前にはバチは当たらないから……」と。
ワイフもそれ以上のことは聞かなかった。

のどかな、白い日差しがまぶしい午後のことだった。
私は居間で茶を飲みながら、栗の木から枯れ葉が舞い落ちるのを
ぼんやりとながめていた。

祖父母や両親、それに兄には、それぞれの思いがあったことだろう。
それはわかる。
わかるが、こんなことで心を煩(わずら)わすのは、私の代でやめにしたい。
どこまでいっても、私は私。
息子たちは息子たち。
そんな私をまちがって言うというのなら、それを言う神や仏のほうがまちがっている。
先にも書いたように、そんな私にバチを与えるようなパワーがあるなら、
そのパワーを、たとえば、アフリカや中東で、戦争で苦しんでいる人たちのために
使えばよい。

繰り返すが、信仰はモノに向かってするものではない。
形でもない。
信仰は(教え)に従ってするもの。
(教え)に始まって、(教え)で終わる。
もしその(教え)がないとするなら、それこそその信仰は(イワシの頭)。

……それにしても、日本も日本だが、世界へ行くと、珍奇な宗教が多いのには、
驚かされる。
マレーシアのアモック(悪霊)信仰、マレーシアのラタ信仰、アイヌのイム信仰、
北アメリカ先住民のウェンディゴ信仰、アフリカ、ポリネシアのブードー教などなど。
それぞれの国の人たちもまた、それぞれの信仰をしながら、自分を支えている。

Thursday, December 25, 2008

*Loosened Rubber Band will never be recovered

●ゆとり教育

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時として、外国から日本をながめてみたほうが、
日本のことがよくわかる。
韓国の東亜N報は、つぎのように伝える。

+++++++++++以下、東亜N報より++++++++++++++++++++

日本は、小中学校に続き、高校教育にも「脱ゆとり教育」を導入することを決めた。
日本の文部科学省は22日、国語、英語、数学を大幅に強化する内容を盛り込んだ新たな
高校学習指導要領の改正案を発表した。

改正案は、「英語の授業は英語で行うのが基本」と明示した上で、「生活で使われる英語」
の習得を目標にし、高校3年間、生徒に教える英単語数も1300語から1800語へ約
40%増やすことにした。

(中略)

また、科学と数学は、これまで「ゆとり教育」路線に沿って、「○○は(難しいので)教え
ない」とし、教育内容に制限を置いた規定を撤廃し、学校や教師の判断で難度の高い授業
もできるようにした。

高校の授業時数も現行基準の週30単位時間(1単位時間は50分)の越えてもよいとし
た。

新たな高校学習指導要領は、これから各界の意見を汲み上げる過程を経て、来年3月に告
示され、13年度入学生から適用される。
ただし、科学と数学は12年度入学生から先に適用される。

+++++++++++以上、東亜N報より++++++++++++++++++++

教育は、国の要(かなめ)。
理由は、簡単。
国は、人によって作られる。
人なくして、国は成りたたない。

「ゆとり教育」なるものが、いかに日本の教育を後退させたかは、今さら説明するまでもない。
教育全体が、小学校も、中学校も、そして高校も、だらしなくなってしまった。
たとえば小2で習う掛け算にしても、今では、(教えるだけ)。
本当に教えるだけ。
「覚えたい人は、覚えなさい。覚えたくない人は、覚えなくても結構です」と。
それでおしまい。

ほんの10年、20年前には、先生たちは、子どもたちに残り勉強をさせてでも、掛け算の九九を暗記させた。
それでも暗記できない子どもは、宿題につづく宿題で暗記させた。
子どもが泣いても、暗記させた。
この段階で掛け算ができないと、そのあと、算数の学習すべてに影響がおよぶ。

一事が万事。
こういう緊張感が、今、消えてしまった。
ゴムにたとえるなら、伸びて、ゆるんでしまった感じ。
私たちが受けた教育がよいとは思わないが、私たちは中学2年生で、三角関数を学んだ。
サイン、コサイン、タンジェントという、あれである。
それがどんどんと削られ、今に見る教育になった。

この責任は、いったい、だれが負うのか?

教育というのは、そのときはわからない。
結果が出るのは、20年後とか30年後。

つい先日の報道によれば、国民1人あたりのGDPは、とうとう世界13位になってしまった。
「日本は先進国だ」「金持ちだ」と言っていたのは、当の昔の話。
先進国中でも最下位。

日本の(ゆとり教育)を、いちばん喜んだのは、おそらく隣の韓国ではなかったか。
「これで日本を追い抜ける!」と。

そこで(ゆとり教育)の見直しが始まったが、一度ゆるんだゴムは、もとには戻らない。
ここ10年~15年は、日本の1人あたりのGDPは、さらにさがる。
今から、覚悟しておこう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ゆとり教育 国の要)

*Too young to die *Na,e-dropping

●36歳!

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数日前、タレントのIAという女性が、
自宅で死んでいるのが見つかったという。
AV女優で売り出した女性である。
享年、36歳。
その年齢を聞いて、あまりの若さに、私は驚いた。
死因は病死か自殺か、今のところ不明。
私は、「IA」という名前を、『クレヨンしんちゃん』
を読んでいたときに知った。
クレヨンしんちゃんは、そのIAのファンだった。
(あるいは父親のヒロシのファンだったかもしれない。)
私はそのとき、『野原家の子育て論』という本を書いて
いた。
「野原」というのは、クレヨンしんちゃんの姓
である。

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こう書くと不謹慎に思われるかもしれないが、(実際、不謹慎だが……)、女性がもっとも
美しく輝くのは、35歳前後ではないだろうか。
このころ、女性は、肉体的にもっとも充実した時期を迎える。
これは私の個人的な好みというよりは、世間の常識的ではないか。
ただしその35歳を過ぎると、女性は1年ごとに急速に、変化する。
急速にというより、急激に、である。
40歳を超えたとたん、おばあさん顔になる(失礼!)。
私は職業を通して、そうした女性の変化を、ずっと目(ま)の当たりに見てきた。

で、そのIAというタレントは、36歳だったという。
ネットニュースには顔写真が紹介されていたが、たしかに見覚えがある。
細い顔の、美しい女性である。
『クレヨンしんちゃん野原家の子育て論』(三一書房)という本を書いていたとき、
その名前が出てきた。
それで、私はその女性に興味をもつようになった。
IAは、父親のヒロシが好きなタレントだったように記憶している。
クレヨンしんちゃんが好きなタレントだったかもしれない。
(調べてまで書くような話ではないので、いいかげんなまま、ごめん!)

で、またまた私は、「自分が36歳のときは何をしていたか」と考えてしまう。
自分の年齢ではそれがわからないが、三男が3歳くらいのときといえば、わかる。
計算してみると、そうなる。
壁にそのころみんなでディズニーランドへ行ったときの写真が張ってある。

私には、遠い遠い昔の、幻のように消えた過去だが、IAというタレントにとっては、
(今が現実)なのだろう。

ワイフの話では、結婚はしていなかったらしい。
また体調を崩していたともある(週刊誌の見出し)。
芸能界からは、昨年の終わりごろ、引退していたという。
いろいろあって、こういうことになったらしい(?)。

しかしこういうことは言える。
36歳といえば、それまでに作りあげた土台の上で、いよいよ自分の花を
咲かせる年齢。
仮に失敗しても、やり直しができる。
そのころの1年は、50代、60代の人の、2年分、あるいは3年分はある。
それに先にも書いたように、女性がもっとも美しく輝く年齢でもある。
けっして死に急ぐような年齢ではない。

私たちが知りえない、(何か)がIAというタレントにあったにちがいない。
その事情は深く、そして複雑。
もし自殺ということであれば、なおさらだ。
私のような部外者が、いくら推理しようとしても、推理しきれるものではない。
だからこの話は、ここまで。

ただ、生きようによっては、人は他人の2倍、生きることができる。
中身を濃くすれば、3倍、4倍と長く、生きることができる。
繰り返すが、決して、死に急いではいけない。
苦しくても、つらくても、たった一度しかない人生。
たった一度しかないなら、じっくりと最後の最後まで見届けてやろうではないか。
そのときが来たら、人はどうせ否応(いやおう)なしに死ぬ。
死ねば、どうせこの世のもろとも、私たちは消える。

36歳という年齢は、人生の結論を出すには、あまりにも若すぎる。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●ネームドロッピング

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それとなく会話の中に、有名人の名前を
混ぜ、それでもって、「自分は有名人と
親交がある」「……あった」と相手に思わせる
ことを、「ネームドロッピング」というらしい。

私はこの言葉を、今日、はじめて知った。

……と書くと、「何だ、林浩司は、
そんな言葉すら知らなかったのか」と
思われそうだが、事実は事実。

虚偽性人格障害者と呼ばれる人が、この手法を
よく用いるそうである。
そしてそれが犯罪に結びつくと、詐欺師と
いうことになる。

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しかし私には、その反対の経験がある。
名前を出したくても、出せなかった。
出したところで、だれも本気にはしなかっただろう。
今でこそ、「ネームドロッピング」という言葉もあるが、ネームドロッピングそのもの。
だれしもみな、そう思ったことだろう。

私はSH氏に後見人(身元引受人)になってもらい、オーストラリアへ渡った。
1970年の3月のことである。
SH氏というのは、現在の皇后陛下の父君である。
そのSH氏は、そういう関係もあって、留学する前も、そしてそのあとも、電話一本で、
気軽に会ってくれた。
会うといつも、東京商工会議所の横の路地にあるそば屋へ、私を連れていってくれた。
そばのたいへん好きな人だった。

が、そのSH氏の名前をこうして書くようになったのは、私が47歳も過ぎてからのこと。
そのころから猛烈に本を書き始めた。
それまでは、名前を口にするだけでも、畏(おそ)れ多かった。
その状況は、今でも変わらない。

先日も友人と電話で話しているとき、何かの話のついでに、SH氏が話題になった。
そのときもつい、口がすべりそうになった。
しかし言えば言ったで、まさにネームドロッピング。
その友人は、そう思っただろう。
だから言わなかった。

で、詐欺師といっても、いろいろある。
相手を意図的に騙そうとする詐欺師もいれば、その意識もないまま騙そうとする
詐欺師もいる。
前者はまだ救われるが、後者は、人格障害の一つで、虚偽性人格障害とも呼ばれる。
もちろん軽重はある。
軽い人は、「境界性~」という名前がつく。
「パーソナル障害」と呼ぶときもある。

このタイプの人は、頭の中で虚構の世界を作りあげ、虚構が虚構であることさえ、
わからなくなってしまう。
「私の父親は、SH氏」「だから私も皇族」と。
本人自身が本気でそう信じているから、相手も騙されやすい。
(噓をついているという)スキがない。

しかし世の中には、ネームドロッピングの、(ネーム)そのものの人もいる。
そういう人が詐欺を働くときもある。
アメリカで起きた、元Nダック会長による詐欺事件である。
被害額は数兆円にのぼるとされる。
数兆円である。
仮に2兆円として、1万円札が100枚で1センチの高さになるとして計算
してみると、何と、その高さは、20キロメートル!
それもそうだろう。
「元Nダック会長」と言えば、だれだって信用してしまう。
そんな人がまさか詐欺を働くとは、だれも思わない。

話はそれたが、虚偽性人格障害と位置づけられる人は、このネームドロッピングという
手法をよく用いるそうである。
有名人の名前を、会話の中に織り込むのは、ほどほどに!、ということになる。
かえってあなたの人格を疑われることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ネームドロッピング 虚偽性人格障害 パーソナル障害 ペルソナ人格障害)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●感覚的未来論

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7年ほど前、息子の結婚式のため、アメリカへ行った。
そのときアメリカ人が、目の玉が飛び出るような
大豪邸に住んでいるのを知って、驚いた。
それこそ、(こういう書き方は失礼ということは
よく知っているが)、そこらの銀行員ですら、
映画『ホームアローン』に出てくるような大豪邸に
住んでいた。

また去年、友人のお嬢さんの結婚式に出席するため、
オーストラリアのメルボルンへ行った。
そこでホテルの料金を聞いて、これまた驚いた。
メルボルン市内のごくふつうのホテルですら、
一泊4万円~5万円。
少し高級なホテルになると、7万円~8万円。

日本人の私にとっては、もうメチャメチャな料金と
言ってもよい。
そう、そのメチャメチャが、今度の大不況で、是正
されつつある(?)。

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日本のバブル経済が最盛期のころのこと。
私は近くのデパートへ、ワイフの誕生日プレゼントを買いに行った。
そこで私は、小さな財布(さいふ)ですら、1つ、4万~5万円もすることを知った。
それを手に取り、「私が1日働いても、こんな財布1つ買えないのか」と、
自分が情けなくなった。

が、そのバブル経済は崩壊した。
当然である。
東京では、小さな、それこそ10坪とか20坪とかいう土地が、1億円、2億円で
取り引きされていた。
メチャメチャというが、それにも程度というものがある。
そんなメチャメチャが、いつまでもつづくはずがない。
ないことは、(現実の自分の生活)を、そこに置いてみると、わかる。
いつかどこかで、何らかの形で、是正される。
その動きは、必ず、生まれる。
これが私がいう「感覚的未来論」である。

その感覚的未来論を使って、今回の大不況を評価してみると、こうなる。
ただしどこか、過激?
そういう見方もあるという程度に、読んでほしい。

(1)自動車産業

今では、ほんの300~500メートル先のショッピングセンターに行くにも、
車に乗っていく人は多い。
その一方で、「太りすぎた」「運動不足だ」「ダイエットだ」と騒ぐ。
基本的な部分で、どこか狂っている。
その狂いが収まるまで、自動車産業は衰退する。
もっともだからといって、車社会を否定しているのではない。
しかしこうした矛盾は、あちこちで感じる。
たとえば車そのものにしても、たった1人や2人の人間を運ぶために、
丸々部屋ごと、いっしょに運んでいるようなもの。
これをエネルギーの無駄づかいと言わずして、何という?

(2)外国為替

対オーストラリア・ドルの為替レートがおかしいことは、ホテル代をみただけでもわかる。
昨年は、1豪州ドルが、110円前後だった。
それが今は、60円前後にまで下がっている。
この為替レートで計算すると、ホテル代は、約半額になったことになる。
1泊2万~2万5000円。
それでも安いとは思わないが、ほぼリーズナブル。
「円高になった」と世間は騒いでいるが、適正になったと考えても、おかしくない。

(3)景気判断

世の中には今、モノがあふれかえっている。
私が住む浜松市にしても、今度周辺の市町村と合併して、政令都市になった。
これはあくまでも一説だが、なぜ周辺都市がすなおに合併に応じたかというと、
ゴミの処分場の問題があったから、という。

が、ゴミの捨て場がないほど、モノがあふれかえるほうが、おかしい。
ゴミの処分場が満杯になるほど、モノがあふれかえるほど、おかしい。
が、一方で、どんどんとモノを製造している。
そのモノが売れなくなったとたん、景気が悪くなったという。
多くの人は失業し、中には生活するための住居もないという。
しかし考えてみれば、これほどおかしな話はない。
つまり、この(おかしさ)が是正されるまで、景気は悪くなる。

(4)世界情勢

1時間働いて、アメリカドルで、70ドル(日本円で7000円、
GM、フォードの会社員)という国もあれば、1か月働いて、たったの2ドル(日本円で200円、北朝鮮・開城で働く労働者の実質的な受け取り額)という国もある。

これは両極端なケースだが、こうした不均衡があるかぎり、世界情勢は不安定のまま
つづく。
それが臨界点に達したとき、あるいはその下でどす黒い欲望が渦巻いたとき、戦争が
起きる。

今回の不況で、金持ちの国というよりは、国に関係なく、金持ちが、総じておおきな
損失をこうむっている。
「戦争を選ぶか、大不況を選ぶか」ということになれば、賢明な人なら、大不況を
選ぶだろう。
(過去の歴史の中では、大不況を打破するために、大国は外国に向けて戦争をしかけて
いった。今回も、それがないとは、だれも言えない。)

(5)食糧問題

食糧問題ほど、需要と供給の関係がはっきりしている問題はない。
限界を超えて、食糧は生産できない。
生産できる食糧以上に、それを消費する人間はふえない。
10億人分の食糧しか生産できないのなら、10億人しか生きられない。
が、現実はかなりいびつである。

世界の3分の1以上が、現在、食糧難に苦しんでいる。
その一方で、ありあまる食糧を、食い散らしている国民もいる。
これも一説だが、日本人がペットに与える食糧をすべてアフリカへ送ったとすると、
それでアフリカの食糧問題は解決すると言われている。

この(おかしさ)がつづくかぎり、世界は安定しない。

(6)宇宙開発

人間はぜったいに、宇宙の住人にはなれない。
人工衛星を飛ばし、地球、あるいは太陽系の一角を、ごく少数の人間が、探検的に
行き来はできるようにはなるかもしれないが、そこまで。

理由は明白。
もし人間が宇宙へ出られるほどの科学技術を手にしたとすると、(現に今がそうだが……)、
同時にさらに大型の破壊兵器を手にすることになる。
人間にとって、(あくまでも人間についてだが)、科学技術の進歩と、破壊技術の
進歩は、比例関係にある。
これだけ科学技術が進歩した今でも、世界中のいたるところで、戦争はつづいている。
そんな人間が宇宙へ出たらどうなるか。
今度は、宇宙で戦争をするようになる。
が、その戦争は、すさまじい破壊力をもった兵器でなされる。
つまりたがいに生き残ることはできない。
だから人間は、宇宙の住人となることは、将来的に、ありえない。

(7)温暖化

温暖化は解決しない。
そのことがわからなければ、目を宇宙にやればよい。
もし知的生物がいるとするなら、この宇宙は、今ごろは宇宙人だらけになっているはず。
何千、何万という、大小さまざま、形もさまざまな宇宙人が、まるで東京の
ラッシュアワーのように宇宙を行き交っているはず。

しかし現実の宇宙は、静か。
静かということは、ほとんどゼロ。

もう少し確率論的に言うと、1000分の1の星が、地球のような惑星をもっていた
とする。
その地球のような惑星のうち、1000分の1が、やや知的な生物をもっていたとする。
……と順に考えていっても、この銀河系だけでも……、おそらく、何万、何十万という
知的生物がいることになる。
そしてその知的生物が、1万年単位で進化し、宇宙へ飛び出したとすると、今ごろは、
「ラッシュアワーのように」になっているはず。

が、現実に、いない。
いないということは、つまり知的生物は、それ自体、自滅プログラムを内包している
ということになる。
よい例が火星である。
だから人類の自滅プログラムは、すでに起動されている。
それが温暖化ということになる。

(注:もし宇宙人がいるとするなら、その宇宙人は、きわめて平和主義的な生物
と考えてよい。
でなければ、この宇宙では、生き残れなかったはず。)

(8)宗教

宗教と信仰は、別。
宗教はそれ自体、哲学であり、学問である。
しかし信仰には、それがない。
だから一般の人は、宗教は、宗教プロに任せ、それを信仰するという形で、宗教の
片鱗(へんりん)に参加している。

しかし信仰には、理屈は必要ない。
そこはまさに、『イワシの頭も信心から』という世界である。
これから先、世界が不安定になればなるほど、宗教と信仰の2極化が進むだろう。
同時に無数のカルトも、勢力を伸ばす。
すでにUFOや、地球温暖化にかこつけたカルトの存在も、確認されている。
信者となって信仰するのは、その人の勝手。
それなりの理由があって、人は、信仰に走るようになる。
しかしこれだけは覚えておいたほうがよい。
けっして、人間ロボットだけには、なってはいけない。
おかしいものは、おかしいと思う心だけは、なくしてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

Wednesday, December 24, 2008

*Peronality Disiorder

【代理ミュンヒハウゼン症候群】(Personality Disorder)

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献身的な介護者を装いながら、
その裏で、被介護者を虐待する。
相手は夫であったり、祖父母で
あったりする。
兄弟のこともある。
自分の子どもであることも多い。

++++++++++++++

12月24日に、こんなニュースがヤフー・ニュースサイトに載っていた。

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

病気で入院している五女(1歳10カ月)の点滴に異物を混入し殺害しようとしたとして、K府警捜査1課と川端署は24日、岐阜県S市の無職の女(35)を、殺人未遂容疑で逮捕した。女は「子供の病気が悪化すれば付き添ってやれると思った」と供述し、殺意を否認しているという。

(中略)

 23日午後5時半ごろ、女が点滴の管を触ったり、ポケットから何かを取り出したりする仕草がビデオに映ったことから、警察官が職務質問し、所持品から注射器を発見。24日になって、腐りやすいようスポーツドリンクを混ぜた水を7~10日放置し、混入したことを認めたという。

 府警によると、逮捕された女は、人の注意を引きつけるために病気の症状をまねる精神疾患の一種ではないかと医療関係者から指摘されていた。この疾患では、子供を病人に仕立て、献身的な介護者を演じることもあると報告されているという。(ヤフーニュース081224)

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

このニュースの中で注目すべき点は、終わりあたりに書いてある、「人の注意を引きつけるために、病気の症状をまねる精神疾患の一種ではないかと医療関係者から指摘されていた。この疾患では、子供を病人に仕立て、献身的な介護者を演じることもあると報告されているという」という部分。

典型的な「代理ミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれる、精神疾患のひとつである。
近年、虚偽性人格障害(演技性人格障害)※の一種として位置づけられ、治療の対象に
もなっている。

●フリをする母親

昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーという学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。
ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた男爵の名に由来する。
ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。
そういう母親を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(以上、参考、「心理学用語辞典」かんき出版)。

このタイプの母親というか、女性は、多い。

自分に対して(演技する)のが、ミュンヒハウゼン症候群。
子どもなど、だれかを代理させて(演技する)のが、代理ミュンヒハウゼン症候群。
しかし代理になる対象は、けっして(子ども)だけではない。
実の親、兄弟ということもある。
また(病院)だけが舞台とはかぎらない。
家庭や介護センターなどでも、ある。

「ミュンヒハウゼン症候群」と私の立場では断言できないが、私の知っている女性(当時
50歳くらい)に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的
に仕える、(よい嫁)を演じていた人がいた。

その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。
しかしたった一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談していた人がいた。
それがその姑の実の長女(当時50歳くらい)だった。

そのため、その女性は、姑と長女が話しあうのを、何よりも、警戒した。
当然のことながら、その長女を、嫌った。

さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせていた女性(当時60歳くらい)もいた。

虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」というようなことを、一方で言いながら、子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。
仮面をかぶっているというより、人格そのものが、バラバラ。
何を考えているか、それがつかめない。
どこか不気味。
そんな印象をもつ。

もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないのか、わからなくなってしまう。
たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮してしまっている。
母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える気力もない。
あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。

●私の知っている例

ヤフー・ニュースにもあるように、このタイプの女性は、(圧倒的に女性が多い)、
(1) 他人の注意をひくため
(2) 他人の同情をかうため
(3) 他人から自分を、高く評価してもらうために、そうする。

今回の事件は、母親が実の子どもに対してした事件である。
点滴の中に、腐った水を注入していたという。
しかし殺すのが目的ではない。
(殺すなら、そんな回りくどい方法は、とらない。
またその度胸もない。
元来、気の小さい人とみる。)
このタイプの女性は、献身的な介護ぶりを演じ、それでもって自分をよく見せる
のが、目的である。

私が知っているケースに、実の弟に対して、それを繰り返していた女性(当時、
60歳くらい)がいた。
私が見舞いに行ったりすると、私たちが見ている前で、大げさに背中をさすって
みせたり、かいがいしく看病している様子をみせたりした。
が、それがどこか演技ぽい(?)。
あるいはその周辺から聞こえてくるうわさと、どうも一致しない(?)。

(たとえば献身的なボランティア活動をしていると本人は言うのだが、その一方で、100円、200円単位のお金のことで、ケチケチするなど。)

で、しばらく連絡を取らないでいたりすると、その女性のほうから電話がかかってきて、
看病で苦労しているというような話を、長々とする。
ささいなことでも、大げさに言う。
たとえば「歯ブラシがなくなってしまったので、冬の寒い日だったが、あちこちの店
を回って、買ってきた」とか、など。
そういうことをこと細かく話す。
ついでに「実の息子が東京にいるのだが、何もしない」とこぼしたりする。

そこで「それはたいへんですね」「あなたは偉い」と私が言っている間は、どこか機嫌がよい。
しかし批判めいたことを言ったりすると、そのままパニック状態になってしまう。
そのときも、「今では歯ブラシなど、コンビニでも売っていますよ」と私が言うと、
急に理由にもならない理由をつけて、怒りだしてしまった。

で、その弟氏は、10年ほど前にある病気で亡くなったが、葬儀場から出棺というとき、
その女性は、気が狂ったように大泣きしてみせた。
サメザメと泣くというよりは、ギャーギャーと泣きわめくといったふうだった。
が、そのあと、初七日の法事も同日の夕刻にしたのだが、逆に躁状態になってしまった。
喪主は、その弟氏の息子が一応、務めていたが、無視。
自分が葬儀の喪主であるかのように、はしゃいでいた。

●ごくふつうの人

これは代理ミュンヒハウゼン症候群の人に共通することと言ってもよいかもしれないが、
どの人も、一対一で会って話すと、ごくふつうの人という印象を受ける。
どこか「?」という印象をもつこともあるが、会っているときには、わからない。
「おしゃべりな人」「よく気がつく人」という印象をもつことが多い。
こちらが代理ミュンヒハウゼン症候群ではないかと疑いながら観察してみたとき、
はじめてそれがわかる。
もちろん代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉すら知らない人も多い。

(ただし人前では献身的な介護者を演ずるため、まわりの人たちは、「やさしい人」「できた人」「人格者」という評価をくだすことが多い。)

共通する特徴を列挙してみる。

(1) 人格のつかみどころがない(どういう人なのか、よくわからない。)
(2) わざとらしい介護、看病を繰り返す(人が見ているときだけ、それをする。)
(3) 自己中心性が強く、一貫性がない(いつも目立った言動を繰り返す。)
(4) 世間体、見栄、体裁にこだわる(いつも他人の目を気にしている。)
(5) 口がうまく、依存性が強い(相手にへつらう、相手の機嫌をとる。)
(6) 自分への批判を許さない(批判されたとき、パニック状態になる。)

が、何よりも最大の特徴は、(5)「私は私」という生きざま、あるいは哲学が
ないということ。
そういったものをもつだけの、知的能力もない。
が、ここでも誤解してはいけないことは、情報量が多いとか、頭の回転が速いとか、
そういうのは、ここでいう知的能力ではない。

たとえばその病気については、医者も驚くほどの知識をもっていたりする。

ここでいう知的能力というのは、深い思考性、深い洞察力、他人との共鳴性に
裏づけられた、哲学的な一貫性をいう。
わかりやすく言えば、その人らしい生きざまをいう。
またそれがないから、結果として、代理ミュンヒハウゼン症候群としての症状を
示すことになる。

……と書くと、このタイプの人は、全面的に加害者かというと、そうでもない。
同時に、このタイプの人自身も、何らかのトラウマをかかえていると考えてよい。
過去における心のキズが遠因となって、代理ミュンヒハウゼン症候群的な症状を
引き起こすようになったと考える。

なおウィキペディア百科事典によれば、演技性人格障害※については、つぎのような
特徴をあげている。

(1)他人から美化され注目されることを望む
(2)自分は他人に対して関心を払わない。
(3)他人を尊敬することもしない。
(4)他人の心身の痛みを理解できない、とある。

(注※:以下、ウィキペディア百科事典より抜粋)

●虚偽性人格障害

この障害の持ち主は、自分の病気の遍歴を劇的に語るが、詳細に問われるとその中身が急に曖昧で、一貫性が無くなる。また、病気に関してきわめて聞き手の興味を持たせる話をすることが多い。

一般的に医学用語や病院に関する知識が豊富であり、これらの用語を駆使して嘘の病状を訴える空想虚言癖を持つ事が多い。最初に訴えた症状が陰性だと分かると新たな訴えを始め、虚偽症状を作り出す。また病院によって、症状を否定・虚偽だと通告されると、即座に退院し、別の病院へ放浪したりすることもある。

この症状をもつ人の根本的な動機は、被虐嗜好や幼児期の満たされなかった愛情を満たすことであり、そのため、一般の人が避ける手術などを、世話をしてもらえるという理由で、積極的に受けたがる。

しかし、嘘はいつまでも通用せず、矛盾した検査結果などで作為的な身体症状である事が暴露される。反応は、多くの場合逃げ出す事で、他の病院で新たな身体症状を作り上げて入院するといったことを繰り返す。医者は、治療の努力を裏切られた事から怒りをもつ事が多い。身体症状領域だけでなく、精神病領域でも約0.7%の虚偽性障害の人がいる。

この障害では、本人だけでなく子供などを利用する場合があり、そのときも騙すための手口は同じである。騙すための手段や、不必要な手術を経ることによって、実際に子供がダメージを負う事が多く、死に至る場合もある。母親と引き離すことによって"病状"は回復する。これは『代理ミュンヒハウゼン症候群』と呼ばれる。

●演技性人格障害

演技性人格障害(えんぎせいじんかくしょうがい)は、日常生活の中において役者の演技のような行動をし、その結果自分が注目の的とならなければ大きなストレスを受けるため、自己破壊的な行動や、或いは自己破壊的なまでに挑発的な性行動を取ったりする精神疾患である。

もともと人は、ウィリアム・シェイクスピアが「物みな舞台、人みな役者」(『お気に召すまま』)と表現したように、職業人として、家庭人として、友人として、或いは行きずりの他人としてのペルソナを場合によって被り分けるものである。だが本症に於いては、こうしたペルソナの使い分けができず、ある一つのペルソナにこだわる事によって社会生活に支障を来たす。

9割が女性であるが、これに対し反社会性人格障害では生涯罹患率が、それぞれの文化圏で本症と同程度であり、こちらは9割が男性である(他に、いずれの疾患も「他人から美化され注目されることを望むが、自分は他人に対して関心を払わず、他人を尊敬することもしない」、「他人の心身の痛みを理解できない」などの病像が似ている)ことから、同じ疾患が性差として現れた物であるという解釈もあり、その原因となる神経伝達物質や遺伝子の探索が行われている。

演技性人格障害と関連する精神疾患にプソイドロギア・ファンタスティカ、いわゆる病的虚言症がある。自分を実際以上に見せるために、あらゆる妄想虚言を吐く、一群の病者である。有名人や権力者と知り合いであるかのように、会話中にはネーム・ドロッピングを行う。高い知性を伴えば、スタンドプレイの好きな、権力志向の人物と言う評価内に納まる事もあるが、多くは周囲との利害を調整できず、詐欺などの犯罪を犯すこともある(以上、ウィキペディア百科事典より抜粋)。

+++++++++++++++++

同じ代理ミュンヒハウゼン症候群でも、相手が子どものばあいは、まだ対処もしやすい。
しかし相手が祖父母や両親、さらには兄弟のばあいは、介入そのものが、むずかしい。
家庭の事情が複雑にからんでいることが多い。
またそれ以外に介護者(看護者)がいないというケースもある。
子どものように強制的に保護施設に収容するということができない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
代理ミュンヒハウゼン症候群 虚偽性人格障害 演技性人格障害 虐待)

Tuesday, December 23, 2008

*Dec 24th,2008

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●チン問答(正方形)

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ましかく(真四角)を見せて、子どもたち(年長児)に、
「この形は何ですか?」と聞くと、中に、「正方形!」と
答える子どもがいる。

私「ウヌ、何だって? シェイホウケイ?」
子「シェイホウケイじゃないよ、さしすせその、セイホウケイ」
私「セホウケイ?」
子「だからさあ、セイホウケイだってばさア」
私「ホウケエ?(=遠州地方の方言で、「そうですか?」の意)」
子「……?」と。

私はこういうやり取りが、大好き。
子どもたちの脳みそを、ひっかき回すことができる。

++++++++++++++++++++

子どもにとって、(おとなにとっても、そうだが)、大切なことは、自分で考えること。
その習慣があること。
その力があること。

それがないと、知識はただの知識で終わってしまう。
あるいは中には、(物知りな子ども)イコール、(頭のいい子)と誤解している人がいる。
しかしこれは誤解。
たいへんな誤解。

今どき情報などというものは、インターネットを介せば、いくらでも手に入る。
情報イコール、知識。
大切なのは、その情報を、自分の力で、いかに加工し、知恵として消化するかということ。
それをしないでいると、あっという間に、情報の洪水の中に溺れてしまう。
私の知人の中にも、こんな女性(55歳くらい)がいる。

たいへんな物知りで、何かを質問すると、こちらの話をじゅうぶん聞かないうちから、
ペラペラといろいろ話し始める。
しかしよく聞いていると、情報が脳みその表面をかすっているだけ。
中身がないというより、深みがない。
情報の洪水の中に溺れるというのは、そういうことをいう。

さて幼児の話に戻る。

掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、その子どもに、算数の力があるという
ことにはならない。
さらにお経をペラペラと口にしたからといって、その子どもに、仏教がわかっているとは
かぎらない。
(おとなの中にも、いるぞ! 知ったかぶりというか、それでもって、優越感を覚えて
いるような人だ。)

では、どうすれば、子どもをして、(考える子ども)にすることができるか?
しかしこれは教育の問題ではなく、家庭環境の問題。
親の習慣の問題。
親にその(力)がなくて、どうして子どもにその(力)をもてと言うことができるのか。
結局は、そこへ行き着く。

たとえば子どもがあなたに何かを話しかけたとする。
そのとき大切なことは、子どもの言葉に耳を傾け、それについて考えてやること。
そして自分なりの意見を、それに添(そ)えてやること。
そういう親の習慣を見ながら、子どもは、(考える力)を身につける。

で、冒頭の話に戻る。
どこかの幼稚園では、子どもに掛け算の九九を教えている。
暗記させている。
そして「ましかく」を、「正方形」と言うように、指導している。
しかしこんなのは、幼児教育でも何でもない。
サルの訓練でも、そこまでしない。

「4つの角があるから、四角」「それがきれいに並んでいるから、ましかく」と、
どうしてそういうふうに、教えないのか。
それでよいではないか。
「方形」というのは、「四角形」をいう(広辞苑)。
だから「正方形」というのは、「どちらの方角から見ても同じに見える、四角形」という
ことになる。
しかしそこまで「セイホウケイ」の意味のわかる子どもは、いない。
だから私は、こう言って、子どもたちをからかう。

私「セイホウケイ……ねえ。どこかで聞いたような名前だなあ」
子「先生、正方形も知らないの?」
私「だからさ、どこかで聞いたような気がする。正方形というのは、ましかくのことか?」
子「そうだよ。ましかくのことだよ」
私「フ~~~ン、知らなかったなあ。覚えておくよ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●ウソをつく

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犬でも、ウソをつく。
うちのハナが、そうだ。
何かかまってほしいときに、かまってやらないと、ウソをつく。

ワンワンと軽くほえたあと、庭の端まで行って、じっと
体を固める。
「そこに何かがいる」という素振りをして見せる。

ハナの心理をよく知っているから、だまされたフリを
して、庭の端に立つ。
じっと体を固めて、その先を見る。

私「何かいるか?」
犬「……」
私「何かいるか?」と。

こうするとハナのほうも、バツが悪いのか、さらに右へ走ったり、
左へ走ったりして、身を固める。
(身を固めるのは、ポインター種の猟犬の特徴と聞いている。)

こうしてハナは、私をかつぐ。
私は、かつがれたフリをする。
これを発達心理学的に解釈すると、こうなる。

子どもというのは、ウソをつくことで、おとなの優位性を破ろうとする。
年齢的には、2歳前後から始まるとされる。
よく知られているのが、噓寝、噓泣き。

噓寝、噓泣きをすることによって、おとなを操作する。
それがおとなの優位性の打破につながる。
で、こういうとき大切なことは、それを「ウソ」と決めつけ、子どもを叱っては
いけないということ。
「ああ、うちの子は、おとなの優位性を打破しようとしている」と考えて、
一歩、退いてやる。
そのおおらかさが、子どもを伸ばす。

反対におとなの優位性に押し込められてしまうと、(あるいはおとなの優位性を
押しつけ過ぎると)、子どもはハキのない子どもになってしまう。
ひどいばあいには、おとなになりきれないおとなになったり、おとなになることに
恐怖心を抱いたりする。
赤ちゃん返りならぬ、幼児返りをする子どもも、珍しくない。

時には子どもに負けてやる。
「おとなを負かした」という自負心が、自信につながる。
未来に向かって、前向きな姿勢も、そこから生まれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子どもの噓 子供の噓 噓と優位性 おとなの優位性 発達心理)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●発想の転換(ロメオ・シンドローム、ジュリエット・シンドローム)

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ワイフがこう言った。
「今年も、あと少しで終わりね」と。
カレンダーを垣間見ながら、そう言った。
言い方が、どこか暗かった。
沈んでいた。

そこで私はこう言った。
「そういう、うしろ向きな言い方をしてはだめだ。
そういうときは、『もうすぐ新しい年ね』と
言わなくちゃア」と。

こういうのを発想の転換という。
「あと少し……」と言うよりは、「もうすぐ……」と
言ったほうが、心がずっと軽くなる。
明るくなる。
(12月22日記)

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●私は71歳だ

子どもたちに、「ぼくは51歳だ」というと、子どもたちはすかさず「ウソだ、
ウソだ」と騒ぐ。
中に私の生年月日を知っている子どもがいて、(たぶん、親がそう教えているのだろうが)、
「先生は、本当は61歳だよ」と言うのもいる。

自分の年齢をごまかすということは、よくある。
私も少し前まで、10歳ほど、年齢を引いて、子どもたちに言っていた。
「ぼくは、51歳だよ」と。
しかしこういうウソは、疲れる。
どこかで無理をしなければならない。
(本当の年齢は、1947年生まれ、今年、満61歳。)

そこで最近は、こう言うようにしている。
「あのね、本当は、71歳なんだよ」と。
ときどき「81歳だよ」と言うときもある。

すると子どもたちは、「そんなジジイには見えないよ。……先生は、ぼくのパパ
くらいかな」とか言う。

●年齢をごまかす

自分の年齢を若く言うか、それとも、古く言うかで、生き方そのものが変ってくる。
最近、そんな発見をした。

自分の年齢を若く言う人は、「まだ若いから、仕事ができる」と人に思わせたいのかも
しれない。
あるいは若い女性(あるいは男性)に、相手にしてもらいたいという潜在的な
願望があって、そう言うのかもしれない。
それに若さと決別するには、それなりの勇気がいる。
が、中には、異常なまでに、(若さ)にこだわる人もいる。
タレントの中には、40歳を過ぎているはずなのに、どう見ても20代後半かな(?)
と思うような人もいる。
このタイプの人は、自分の年齢を受け入れることができない。
だからそれに抵抗する。
ホルモン剤を顔に注入し、化粧に化粧を重ねる。
整形手術などというのは、この世界では常識。

そういう心理状態を総称して、「ロメオ・シンドローム」、あるいは
「ジュリエット・シンドローム」※という。
私がつけた名前である。

で、女性のばあいは、化粧で年齢をごまかす。
(最近では、こうしたごまかしを、「アンチ・エイジング(抗年齢)」と呼ぶ。)
そのつじつま合わせのために、年齢という(数字)もごまかす。
しかしこの方法は、無意味。

仮に35歳のとき、30歳に見られても、5年後の40歳のときには、35歳に
見られるだけ。
そのつど5歳ほど年齢をごまかすことはできても、10歳は、無理。
それに(若さ)というのは、外見や年齢という数字では決まらない。
中身だ。
中身で決まる。

だったら、35歳だったら、35歳と正直に言いながら、生きればよい……ということに
なる。
が、現実には、だれしも若く見られたい。

が、そこで発想の転換。

●人生、50年

少し前、がんで闘病生活をしている大学の友人が、電話でこう言った。
「ぼくはね、50歳すぎてからの人生は、1年ごと、もうけものと思うようにしているよ」
と。

そのとき彼は、織田信長の話をした。
織田信長は、「人生、50年」と言ったとか。
だから「それからの命は、(もうけもの)」と。
「50歳で、がんで死ぬことを考える必要はない。
悲観的になることはない。
50歳で死んだと思って、残りの人生を楽しく生きる」と。

だったら、これはあくまでも私のばあいだが、「51歳」と言うよりは、「71歳」と
言ったほうが、よいということになる。
「71歳なのだが、61歳の人のように、若々しい」と。
そのほうが、感謝の念も強くなる。
生き方にも、力が入る。
あるいは余命を計算しながら、「残りの人生は、よくて10年」と、生きていることその
ものを大切にするようになる。

それに先にも書いたように、私が「ぼくは71歳だ」と言っても、だれも信用しないだろう。
「あなたは、どう見ても、71歳には見えない」と。
しかし「51歳だ」と言うと、みなが、疑う。

●1年ごと、(もうけもの)

2008年も無事、終わろうとしている。
いろいろあったが、私や私の家族は、ともかくも無事だった。
仕事も楽しかった。
やりがいもあった。
これを(もうけもの)と言わずして、何と言う?
つまりそういう意識をもつためにも、「71歳」と言う。

「71歳」と言えば、60歳から計算すると、11年も「もうけた」ということになる。
その分だけ、心を広くすることもできる。
が、それだけではない。

「71歳」と言うことによって、人生を先取りすることができる。
ジジ臭くなれということではない。
71歳らしく生きろということでもない。
71歳の人が、61歳の人のように、あるいは51歳の人のように、
若々しく生きたところで、おかしくない。

それに本当に71歳になったとき、10年分、前もって心の準備しておくことができる。
81歳になったときも、そうだろう。
91歳になったときも、そうだろう。
そのつど、10年分、得をしたような気分になる。
その(得をした)という気分こそが、大切。

●私は71歳なのだ

「私は71歳」と思うことによって、71歳の高齢者の人たちと、同じレベルに
自分を置く。
そして自分にこう言って聞かせる。
「ぼくは71歳だけど、中身は61歳」と。

そのほうが、ずっと楽しい。
無理をして、51歳のまねをするような、うしろめたさというか、イヤミがない。
ウソはウソだが、「51歳」と言うときは、他人を欺くため。
しかし「71歳」と言うときは、自分を欺くため。
むしろ他人を楽しませるかもしれない。

簡単に言えば、「年齢を若く言って無理をするより、年齢を古く言って、余裕を
もって生きたほうがいい」ということ。

あとのことは、天命に任せる。
そのときが来たら、そのとき。
ジタバタしない。
……ということで、最近、私は子どもたちから年齢を聞かれるたびに、「ぼくは71歳だよ」
と答えることにしている。

(付記)
「♪もういくつ寝ると、お正月……」という歌は、前向きな歌ということになる。
しかしジー様、バー様は、(私も含めて)、暗い顔をして、こう歌う。
「♪もういくつ寝ると、今年もおしまい……」と。
しかしそれではいけない。
いけないということで、このエッセーを書いた。

さあ、ここは童心に返って、『お正月』の歌を、明るく、楽しく歌ってみよう。

♪もういくつ寝ると、お正月
 お正月には、凧あげて、コマを回して遊びましょう。
 早く来い来い、お正月

(付記)
ところであなたはどうだろうか?
新年が近づくたびに、「今年も、もうおしまい?」とか、「もうお正月?」とか
言って、暗い顔をするだろうか。
もしそうなら、あなたはすでに、片足を棺おけにつっこんでいるようなもの!

同じ1年でも、やりたいことを思う存分しながら、有意義に過ごした人は、
その1年を長く感ずる。
新年が来ることを、喜ぶことができる。
そうでない人は、そうでない。
大切なのは、前向きに生きること。
中身の濃い人生を送ること。
が、ふと油断すると、すぐうしろ向きになってしまう。
わかりやすい例が、同窓会。

50歳を過ぎると、とたんに同窓会の回数がふえる。
心理学でも、こうした現象を、「回顧性」という言葉を使って説明する。
過去を懐かしむことが、多くなる。

その反対の位置にあるのが、「展望性」という言葉。
未来に向かって夢や希望をいだきながら、生きることをいう。
その回顧性と展望性は、満55歳くらいのときに、クロス交差するという。
つまり満55歳くらいのときに、前向きな生き方と、うしろ向きな生き方が、交差する。
それからは生き方そのものが、うしろ向きになる。

が、回顧性など、くそ食らえ!
回顧性にしばられるようになると、未来よりも過去ばかりを気にするようになる。
過去の肩書きや、学歴、名誉、地位にしがみついて生きる人もいる。
もっと言えば、そういう人たちは、「年齢の奴隷」ということになる。
若かったころの自分から、自分を解放することができない。

今は今。
年齢という数字にまどわされてはいけない。
私たちは、どこまでも前向きに生きる。
死ぬまで前向きに生きる。
けっしてうしろ向きになってはいけない。
いつか書いたが、年齢というのは、ただの数字。
そんな数字に、どんな意味があるというのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
前向きな人生 展望性 回顧性 後ろ向きな人生 ロメオ シンドローム 
ロメオ症候群 ジュリエットシンドローム ジュリエット・シンドローム)

(注※)ロメオ・シンドローム……若かりしころの自分に、人生の基点を置く。
それから遠ざかることに、強迫観念をもつ。そのため(若さ)の
維持に何よりも注意を払う。自分をロメオに見立て、常にそこに悲劇性を
もたせる。『ピーターパン・シンドローム』を、(おとなになりきれない、
おとな)とするなら、『ロメオ・シンドローム』は、(加齢を受け入れ
ることができないおとな)ということになる。そのため年配者や老人をことさら
嫌ったりする。あるいは年配者や老人の価値観、思想を、ことさら否定したり
する。顔にシワやシミ、白髪が現われたりすると、人一倍、狼狽(ろうばい)
したりする。ロメオ・シンドロームというのは、(ピーターパン・シンドローム
もそうだが)、結局は、その人の精神的未熟性に起因すると考えられる。

 
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【学歴制度】

● 5か条の御誓文

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1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、 政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、 みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、 みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、 これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、 新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

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明治維新の中でもっとも大切なのは、『四民平等』ではなかったか。
天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。
それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)
きたい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を
選びたい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカ
ラー志向が強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に
人気があり、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公
務員試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を
受けるための予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろ
ん退職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保
されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5
年間勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつう
の自衛官ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、
その人個人を責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市
役所の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、
公務員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本
では、今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけなら
まだしも、公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管
理されることを意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおい
て、ほかにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しか
し本当に、そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなの
か。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、
今一度、「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。
(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】
ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員
の子どもが、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがあ
る』と答えた。日本と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもに
は、それがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れ
る学部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハ
ッパをかけても、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのであ
る。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。
そういう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たい
へん便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始め
ている。現状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、
いざ知らず、今は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものでは
ないということ。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年に
なってから勉強するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づける
ことによって、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、
「勉強しなさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育
制度の欠陥である。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使わ
れるようになった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい
身分を手に入れる」という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、
あなたたちも勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。
なのに、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を
使った。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時
代に温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けた
かったにちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教
科書や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、
士族や華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生の
うち、約75~80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、
派遣されていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、
あなた自身が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜
松市の市長も、そして国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまち
がっていると言っているのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半
の日本人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのでは
ないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、
つくづくと、そう思う。

++++++++++++++++++++++
つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト
信仰を笑う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっている
と、自分の姿が見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制
度をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それ
がわかる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別し
た。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15~30円、
県令(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学
歴制度ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校
が、末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だった
し、学校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。
日本の学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何か
につけて、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日
常の生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係
なく、職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっ
ちもいかないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後
閉鎖論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいると
いうことになる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、
この時点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子ど
もたちが、苦しみ、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多
くのおとなたちが、今も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あな
たの、あるいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

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●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、
自分の鼻先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻
先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子ども
は年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうこと
になる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解さ
れるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるか
に多い。どれくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらに
はもっと多いかしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教
えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子ども
というのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しか
しむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大
半の子どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てる
というのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以
上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはって
いく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行
士になるという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言っ
た。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別の
ところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろう
か。そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいる
だろうか。それを少しだけここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評
論 幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●従兄弟(いとこ)

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昨夜、従兄弟(いとこ)と、電話で1時間ほど、話す。
このところいつも、健康談義になる。
その従兄弟は、人一倍、健康に気をつかっている。
話を聞くだけで、よい勉強になる。

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●健康

健康というのは、作るものではなく、守るもの。
しかも健康であるときには、健康の価値がわからない。
それを失ったとき、はじめて、その価値がわかる。

従兄弟は、機会を見つけては、体を鍛えている。
趣味は登山、水泳、競歩、自転車……。
まさに何でもござれのスーパーマン。
私と同じ歳だが、そのため今でも筋肉が隆々としている。

加えて健康診断は、欠かしたことがない。
脳ドックから、最近は前立腺がんの検査まで。
話の内容からして、毎月のように何らかの検査を受けているらしい。
親しい友人に、ドクターがいるという。
そのドクターから、いろいろアドバイスを受けている。

一方、私は、検査という検査が、嫌い。
嫌いというより、あきらめている。
もし(がん)と診断されたら、そのときは、そのとき。
「年貢の納めどき」と考えて、仕事もやめる。
やめなければならない。
闘病生活を繰り返すくらいなら、死んだほうがまし。
私はずっと、そういう考え方をしてきたし、これからもその考えは変わらない。

前立腺がんにしても、おとなしいがんだそうだ。
じょうずにつきあえば、10~15年は生きられるという。
そのころには、ちょうど寿命も尽きる。

ただしそれには、条件がある。

ぐうたらな生活をしていて、「そのときは、そのとき」は、ない。
常に健康に気をつかう。
努力する。
やれることは、何でもやる。

私も、やれることは、何でもやっている。
寒い夜でも、サイクリングを欠かしたことがない。
つまりそれでも病気になるとしたら、あきらめるしかない。
あきらめもつく。
つまり日ごろから、そういう状態にしておく。

●不況

ついでに、不況の話になった。
が、この不況下でも、10万~20万円の自転車に乗っている人がいるという。
「ぼくのは、2万円だ」と言うと、笑っていた。

私「ぼくはどんな自転車でも、乗りこなすことができるよ」
従「ぼくは、今、7万円の自転車に乗っている。いい自転車は、足腰がしっかりと
している」
私「ぼくは、それは感じない」
従「ベンツにしても、BMWにしても、高速を走ってみるとわかる。スーッと、
アクセルが地面になじんでいくのがわかる」
私「そういうものかなあ」
従「そういうものだよ。自転車もそうだ」と。

ところで従兄弟の友人たちも、今度の株価の暴落で、大損をしたらしい。
「も」というのは、私も損をしたし、従兄弟も損をしたということ。
損をしなかった人は、いないのではないか。
理由がある。

銀行へ現金を預けておいても、すずめの涙ほどの利息しかつかない。
そこである程度の小銭をもっている人は、証券会社へ走った。
利息もよい。
世界には、5~10%もの利息をつけてくれる国がある。……あった。
為替でも稼げる。
1ドル110円のとき買って、120円になったとき売れば、プラス約9%の
利息、ということになる。

が、今度のサブプライム・ショック、それにリーマンブラザーズ・ショック。
打つ手もなかった。
「まさか」「まさか」と思っているうちに、世界の株価は、どんどんとさがっていった。
あまりにも急激だった。
ほとんどの人は、売る機会を失ってしまった。
結果、資産を3~4割失った人は、いくらでもいる。
平均して、5割?
中には、資産を、10分の1にしてしまった人もいる。

その影響が出てくるのは、これから。
倒産、失業、自己破産などなど。
犯罪もふえるだろう。
それを想像するだけで、そら恐ろしくなる。

2009年は、はたしてどんな年になることやら?
従兄弟も、それを心配していた。

●浜松の外国人

浜松市には、ブラジル人を中心に、約3万人の外国人が住んでいる。
仕事をしている。
そういう人たちが、今回の大不況で仕事をなくし、寮などを追い出されている。
……と書くと、「たいへんだな」と思う。
またこう書くからとって、みながみな、そうであると言っているのではない。
たしかに職を失い、寮などを追い出される人もいる。
しかしここ数年、そういう外国人たちの存在感が大きくなったのは、事実。

10年前には、まだ車をもっている人は少なかった。
しかし今は、みな、大型の車を運転し、猛スピードで道路を走ったりしている。
交通法規がちがうのか、日本の交通ルールを守らない。
そういった人たちの(たまり場)のようなところがあって、夜中まで騒ぐ。
アパートによっては、外国人に占拠されてしまったところもある。

で、これはあくまでも私の印象だが、彼らは日本へ来て、日本で働きながら、
少しばかり、日本に同化しようという努力が足りないのではないか?
外国人は、外国人どうしが集まってしまい、日本人の社会に入ってこない。
もちろん言葉も覚えない。
習慣も覚えない。
もちろん町内の自治活動などには、参加しない。
本当はそうではないのかもしれないが、私には、そう見える。

たとえばどこの小学校へ言っても、校長たちは、異口同音にこう言う。
「彼らはある日突然、子どもをつれてきて、『この子に日本語を教えてくれ』という。
そこでボランティアの人たちの力を借りて、特別レッスンをほどこす。
しかしまたある日突然、学校をやめていく。
家に連絡しても、まわりの人たちが、『今度、新潟に引越しました』と言うだけ。
現状では、外国人を教えるためのカリキュラムも、予算もない。
学校教育自体が、危機的状況にあります」と。

そういう人たちが、「職を失った」「寮を追い出された」「だから何とかしろ」と
言っても、どうもピンとこない。
同情心というのが、わいてこない。

これは外国の人にとっても不幸なことだが、私たち日本人にとっても、不幸なことである。

彼らも、この日本で生きていかねばならない。
日本は、彼らの労働力を必要としている。
私たちは、たがいに、仲よくしたほうがよい。

そんなわけで、一言。
日本へ来るなら来るで、それなりの覚悟と準備をしてきてほしい。
あるいは日本の社会に、もう少し敬意を表してほしい。

そうそうついでに一言。
いろいろな人に話しかけてみたが、英語を話せる人は、ほとんどいない。
これもひとつの問題点ではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●大型自転車店

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関西地方を中心に、「AS」という大型自転車店がある。
「サイクル・ベース」という名前がついている。
全国に約150店舗を構え、常時、800台前後の
自転車を並べている。
この浜松市にも、2店舗、ある。
折からの自転車ブームに乗り、店舗数もさることながら、
売り上げ高も急激に伸びている。
売る上げも、前年度比17%増の、173億円(08年2月)。
ふつう自転車の利益率は、30~35%と言われている。
個人の自転車店(従業員2人以下)でも、40%前後と言
われている、
そういう中で、ASは、50%前後の利益率を確保しているという。
(日経ビジネス)
それだけ値段が高いかというと、事実は、逆。
中間マージンを排しているため、かえって安い!
中国を中心に、自社ブランドの製品を開発している。

そのASに入ってみてまず驚くのは、品数の多さ。
まるで遊園地のようにカラフルである。
そういうのを見ると、……というより、私が若いころ頭の中で
描いていた自転車店そっくりなので、驚く。
私も商社マンだったころ、すでに同じような商売を考えていた。
1971~2年のころである。

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●がんばれ、町の自転車店!

私の実家も自転車屋だった。
しかし子どものころから、いつもこう考えていた。
「どうせ商売をするなら、大きいほうが勝ち」と。
しかも全国ネットで、大量に仕入れて、薄利多売で勝負する。

M物産という商社にいたときから。そしてそのあと10年ほど。
あちこちで貿易の顧問をしていたときから、私は密かに、大型自転車店の
構想を考えていた。

当時は中国本土までは行けなかったが、台湾、香港で、自転車の製造を
始めつつあった。
品質は、おせじにも、よいとは言えなかった。
しかし値段が安かった。
私自身も、香港や台湾へ行ったついでに、向こうの自転車を、20~30台、
実家へ仕入れてやったことがある。
おとな用の自転車でも、5000円前後で仕入れ、店で、7000~8000円で、
売ることができた。
(品質が悪すぎて、かえって評判を落としてしまった面もあるが……。)

が、それから20~30年。
ASという名前の自転車店を知った。
ふつうなら、悔しいと思わなければならないはずだが、私にはそれはない。
私の夢を実現してくれた、ASの経営者の方たちに、むしろ敬意を表したい。

で、こういう店ができると、町の個人の自転車屋は、大打撃を受ける。
もし私が今でも自転車店を経営していたら、そのままつぶれてしまっただろう。
が、それでも、ASに恨みをもつことはなかっただろう。
規模そのものがちがう。
それには、こんな話がある。

自転車屋には、ランクがある。
いちばん小さい、田舎町の自転車店。
それよりやや大きい、町の自転車店。
さらに大きい、町の自転車店。
さらに大きな、中堅の自転車店。

自転車店の世界には、大型店というのは、ない。……なかった。

どんぐりの背比べというか、わずかの(ちがい)の中で、「うちの店は大きい」
「あの店は小さい」と、張りあっている。……いた。
縄張り意識も強かった。
私には、それがバカげて見えるほど、おかしかった。
大きな中堅の自転車店といっても、従業員は1~2人。
妻や祖父母がそれを手伝っていた。

言うなれば、小さな、どうしようないほど小さな世界で、それぞれが張りあっていた。
そういうところへ、ASというとてつもないほど大きな店が現われた。
勝つとか、負けるとか、そういうレベルの話ではない。
みなが大八車を引きながら、たがいに足の引っ張りあいをしていたところへ、
大型トラックがやってきた。
そんな感じである。

自転車業は技術職と言う人もいるが、昔とちがって、今では自転車は、
完成品として各店に届けられる。
(私が子どものころには、自転車は、スポークで車輪を組み立てるところから、
手作業だった。)
また自転車業には、自転車技師の認定書が必要と言われているが、あんなものは
あってもなくても、同じようなもの。
自転車店組合が、自分たちの職業を権威づけるために、資格試験にまで
祭りあげた。
そのあたりの経緯(いきさつ)を私は知っているが、私の祖父も、父も、
あえてその試験を受けなかった。
きっとプライドが許さなかったのだろう。

現に大半の自転車屋では、妻や、年老いた祖父母が、修理を手伝っている。
言い換えると、今までの自転車店は、あまりにも居心地のよい世界に、
安住しすぎた。
つまりなぜ、今まで自転車店業界が無風地帯であったかというと、(技術)の
問題ではなく、(油)の問題だった。
自転車店というのは、どこでもそうだが、トイレのドアのノブまで油で黒く
なっている。
パンクの修理にしても、やり方をまちがえると、服やズボンが、油で汚れてしまう。
一般の人は、それを嫌った。

つまりこの点だけクリアできれば、自転車店といっても、ほかの商店と、どこも
ちがわない。
が、Sの店内は、明るく、清潔。
油臭さが、どこにもない。

そういうASに対抗する方法があるとするなら、自転車店の店主が、きわめて
専門的な知識人になることでしかない。
健康哲学とか、自転車工学とか、あるいは自然哲学とか、そういうものをもって、
勝負する。
自前でサイクリング・クラブを運営するのもよいだろう。
ただの(もの売り屋)ではないという、差別化。
マニアを相手にした、高級店化。
それを前面に押し出すしかない。

が、それもしないというのであれば、市場から退散するしかない。
かなりきびしい意見を書いたが、これは町の自転車店のために書いた。
ASだけではない。
ここ5年前後で、あなたの町にも、大型店がやってくる。
その準備と覚悟だけは、しておいたほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●過剰な妥協(Excessive Compromise by C. Rice and C. Hill toward North Korea)

Nobody denies in Japan, that C. Rice and C. Hill has done too much excessive
compromise toward North Korea, or these two people are too innocent to be cheated by
them during the conferences. What they have done is just to give them money, oil, food,
music and time. The biggest show was the “Explosion Show of Junk Yard in Yonbyon”,
which means nothing to them.

+++++++++++++++++

C・ライスとC・ヒルのコンビが、
K国に対して、「過剰な妥協」をしたのは、
だれの目にも明らか。

この5年間で、この2人がしたことは、
K国に、マネー、原油、食糧、音楽、それに
時間を与えたことだけ。
あとは、もとからガラクタだったヨンビョンの
核施設の爆破ショーを演じて見せただけ。

それに対して、当のC・ライスは、
「80%は合意していた」と、わけのわからない
ことを言っている。
何をもって、「80%」というのか?

++++++++++++++++++

時事通信、08年12月22日は、つぎのように伝える。

『ライス米国務長官は21日、NBCテレビのインタビュー番組で、「もちろんK国を信用
していない」と述べ、K国の非核化をめぐる交渉で、米政府がK国の約束を信頼して過剰
に譲歩しているとの批判に反論した。

 ライス長官は「誰もK国を信頼していないからこそ、核検証の枠組みを交渉している」
と指摘。「枠組みの80%は合意したが、K国は科学的手続きの要素を明確にする最後の2
0%に同意しようとしない」と述べ、核検証枠組みの文書化失敗は、K国側に原因がある
と強調した』(時事通信・12月22日)と。

この報道を読んで、まず気になったのが、「80%」という数字。
いかにもアメリカ人らしい発想だが、同時に、何をもって「80%」というのか。
外交交渉は、すべて結果で決まる。
その結果が何もない今、「80%は合意した」とは、どういうことなのだろう。
まさか原油の提供が、80%済んだということでもあるまい。

各検証枠組みの文書化失敗は、K国にあるのではない。
米朝2か国だけで、秘密会議を開いてきた、C・ライスとC・ヒルにある。
6か国協議を形骸化してしまった。
結果として、C・ヒルは、K国に、いいように、もてあそばれてしまった。
しかもあろうことか、C・ライスは、この日本を脅した。
「K国援助に加われ。さもなくば、K国をテロ支援国家リストからはずす」と。

が、日本はそれに応じず、K国は、テロ支援国家リストからはずされてしまった。
さらにその前には、「拉致問題を6か国協議からはずせ」と迫ったこともある。
拉致問題については、C・ヒルが話し合った形跡は、ゼロ。
成果も、もちろんゼロ。
さらに最近に至っては、「日本は日本で、勝手にやれ」とまで、言いだした。

C・ライスは、頭のよい女性かもしれないが、自分の能力を過信するあまり、独断と
偏見だけで、K国との外交を進めてしまった。
加えてC・ヒルの(思いこみ外交)。
「アメリカはここまでしたのだから、K国も、応じてくれるはず」と。
よい例が、08年の正月に、K国に派遣した、ニューヨーク・フィル。
いったい、あれは何だったのか?

いまだにC・ヒルは、こう言って、K国をかばっている。
「原油の提供が完了すれば、K国は、核検証に応じてくるはず」と。
さらにその原油支援についても、支援中断は、5か国も承諾していると、
ここでもまた(思いこみ外交)を展開した。

これに対して、中国、ロシアは、「これからも支援をつづける」と表明。
日本と韓国は、「そんな話は聞いていない」と表明。
いったい、C・ヒルの脳みそは、どうなっているのか。

現在、日米関係は、こと日本側でみるかぎり、最悪の状態になっている。
その責任の大半は、C・ライスとC・ヒルにあることは、言うまでもない。

それにしても、「80%」?
K国の核開発関連施設は、ヨンビョンだけではないというのは、常識なのだが……。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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*The Value of Man depends on his Career?

【学歴制度】

● 5か条の御誓文

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1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、 政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、 みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、 みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、 これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、 新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

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明治維新の中でもっとも大切なのは、『四民平等』ではなかったか。
天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。
それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

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●子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)きたい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選びたい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に人気があり、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公務員試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を受けるための予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろん退職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5年間勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつうの自衛官ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、その人個人を責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市役所の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、公務員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本では、今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけならまだしも、公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管理されることを意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほかにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しかし本当に、そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。
(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】
ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子どもが、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。日本と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもには、それがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけても、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。そういう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。現状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないということ。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによって、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥である。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるようになった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、あなたたちも勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。なのに、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使った。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったにちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教科書や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、士族や華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約75~80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、派遣されていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、あなた自身が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そして国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまちがっていると言っているのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半の日本人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、つくづくと、そう思う。

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つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
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●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト信仰を笑う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわかる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15~30円、県令(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学歴制度ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校が、末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だったし、学校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何かにつけて、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日常の生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもいかないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいるということになる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、この時点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子どもたちが、苦しみ、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あなたの、あるいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

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●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解されるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。どれくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いかしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士になるという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それを少しだけここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会)

*Dignity of Parents

●親の品格

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賢明な親もいれば、
そうでない親もいる。

子どもを伸ばそうと考えたら、
親も、子どもといっしょに、
伸びなければならない。

賢明な親というのは、
それが自然な形でできる親をいう。

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 「親」といっても、いろいろなレベルの人がいる。賢明な親もいれば、そうでない親も
いる。

 昔、幼稚園で働いていたころのこと。こんなことがあった。

 ある子ども(年長児)が、掛け算の九九を、ソラで言うようになった。「ニニンが4、ニ
サンが6……」と。多分、兄かだれかがいて、その兄を見ながら、九九を覚えてしまった
らしい。

 その子どもを見て、ある親が、「あの子は、天才!」と騒ぎ出した。「幼稚園児なのに、
もう掛け算ができる!」と。

 しかし掛け算の九九をソラで言えるからといって、その子どもが、本当に掛け算を理解
しているとはかぎらない。その子どもにとっては、歌のようなもの。しかしレベルの低い
親は(失礼!)、表面的な部分だけをみて、子どものレベル、さらには教育のレベルまで、
自分で決めてしまう。

 あるいは、こんなこともあった。

 あるとき、職員室へ、若い母親が飛びこんできた。そしていきなり、こう言った。

 「うちの子は、3年保育で、この幼稚園に入った。どうして2年保育で入った○○さん
より、できが悪いのか!」と。つまり「3年保育で入園してきた自分の子どもが、2年保
育で入園してきた○○さんより、できが悪いのは、おかしい」と。

 その母親の子どもは、何かにつけて、できが悪かった(失礼!)。しかしその親は、自分
のできの悪さには、気づいていなかった(失礼!)。

 ……とまあ、実は、こういうケースは、多い。幼稚園や保育園という世界では、日常茶
飯事。そういう話を見聞きするたびに、「幼稚園の先生も、たいへんだな」と思う。

 で、今では少なくなったが、当時は、子どもの能力を、テストの点数だけで判断する親
がいた。学校のテストでつけられる点数である。その点数を見て、一喜一憂するのはしか
たないとしても、そのたびに、家の中で、大騒動。「勉強しろ!」「いやだ!」と。

 しかし親でも、小学3、4年生の問題を解けない人は、いくらでもいる。高校を出たあ
と、(勉強)から遠ざかった人なら、みな、そうではないか。そういう親が、子どもを叱り
ながら、「どうしてこんな問題が解けないの!」「何よ、この点数は!」と言うから、おか
しい。

 (本当に、そういうことがあったぞ!)

 そこで私が、やんわりとその母親に、こう言った。「この問題は、むずかしいですよ。何
なら、一度、お母さん、あなたが解いてみたら、どうでしょう?」と。すると、その母親
は、はにかみながら、こう言った。「私は、もう終わりましたから……」と。

 子どもを産むことで、親は親になる。しかし親になったからといって、別の人間になる
わけではない。環境は変わるが、中身まで変わるわけではない。つまりその時点から、親
は、今度は、親になる努力をしなければならない。それを怠ると、名ばかりの親になって
しまう。

 勉強にしても、しかり。

 ほとんどの親は、中学や高校で勉強したことは、そのまま頭の中に残っていると誤解し
ている。しかし実際には、卒業すると同時に、忘れていく。どんどんと忘れていく。英語
の単語や、算数の計算問題を、例にあげるまでもない。

 さらに分数の足し算、引き算のできない大学生となると、いまどき、珍しくもなんとも
ない。

 そこで賢明な親と、そうでない親とは、どこがちがうかといえば、賢明な親ほど、子ど
もに対して謙虚。自分も子どもといっしょに、伸びようとする姿勢が見られる。

 が、そうでない親は、そうでない。「自分は絶対」という自己中心性ばかりが強い。目立
つ。自分の世界だけで、自分の子どもを判断しようとする。先にあげた、テストの点数だ
けで、子どもの能力を判断する親も、そうである。

 どこをどうまちがえたか。どうしてまちがえたか。どこに弱点があるか。そういうこと
は、まったく、みない。だからつぎにどうしたらよいのか、それを的確に判断することが
できない。その判断ができないから、いきなり、子どもに向かって、「もっと、勉強しなさ
い!」となる。

 正直に告白するが、教育をする側の者の意欲、つまり教師としての意欲を引き出すのは、
親である。子どもではない。教師は、親を見て、「教えたい」と思うようになったり、「教
えたくない」と思うようになったりする。とくに、「教えたくない」と思うときは、そうで
ある。親をみて、そう思うようになる。

 「こういう親の子どもは、教えたくない」と思うことは、しばしばある。親をみただけ
で、絶望感を覚えるときもある。たがいの間に、あまりにも遠い距離感を覚えるからであ
る。

 そうそう、たまたま、昨日も、そういうことがあった。

 教室にいると、電話がかかってきた。そして電話口の向こうで、その母親は、いきなり、
こう言った。

 「うちの子を、今度、SS小学校に入れたいのですが、お宅の塾へ入れていただけます
か?」「お宅では、どんなことを教えているのですか?」と。

 私が、「うちは、受験塾ではありませんので、どこかほかのところを当たってみてくださ
い」と言うと、その母親は、「あら、そう」と言って、そのまま電話を切ってしまった。

 名前も言わない。あいさつもしない。おまけに、私の教室を、受験塾と誤解している。
電話の切り方も、ふつうではない。

 そういう母親の子どもは、私は、ぜったいに、教えたくない。その前に、そういう母親
とは、つきあいたくない。時間のムダ。人生のムダ。

 ……と話が脱線したが、最後にこれだけは、気をつけた方がよい。

 あなたの子どもも、やがておとなになる。そのとき、あなたという親が、自分の子ども
に何かを示せれば、それでよし。しかしそうでなければ、あなたという親は、その時点で、
容赦なく、あなたの子どもによって、評価される。

 そのときのためにも、あなたという親は、親として、自分をみがいていかなければなら
ない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
親論 親のあり方 親のレベル)

*Sexual Perversion

【女児願望の男児(?)】

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掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

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 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

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【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、
それをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありまし
た。強く否定していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいい
のでしょうか? どう返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら
病院に行ったほうがいいのでしょうか?

+++++++++

 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知
られている。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、そ
の結果として、性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。
また女子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自
己の変化そのものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあ
れ、ほとんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとな
への脱皮をはかるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を
見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、
自意識が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネ
ガティブ)な世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、
そのひとつである。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱
としての「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させること
ができない「性同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++++

★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の
身体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の
身体の性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容
できず、更にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状
態を指して性同一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」
という表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちで
あるため、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性
が食い違った状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多
くの場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致
しているが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や
遺伝子的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観
察される。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれか
に正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考え
られない症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。
また、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づく
ケースもある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障
害者は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状
の一形態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、
(代表的な症例では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 という
のは、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決
して多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまった
くなかったと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者
が、何らかの性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウ
ンセリングの場では、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうとこ
ろのニューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、
売春以外観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、
男性型の身体より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去
勢をし、十代後半になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、
それを防ぐための文言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々
を、性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドライ
ンの第2版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明
記された。

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●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりも
しそうであるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」
というよりも、個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たち
にとっては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということにな
る。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、か
えって追いつめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオース
トラリアで学生生活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもって
いると考えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかという
ことさえ、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うこと
さえ、許されなくなる。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたの
は、X君が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあ
ったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあ
るのを見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたよう
に、ほかに気になることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んで
しまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の
母親は、その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、
わからなくなってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでない
ものを見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうす
ることもできませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方
のないことと、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあ
っていません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問
題だけは、なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なこ
とは、息子が自分で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3
~4年生くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両
手をすりあわせて、イヤ~ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、
そうした冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでに
Y君に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱ
りと言った。「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてく
ると、Y君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめ
かしいというか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、こ
こに書いたY君である。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校
生と、恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部
の席で、手をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、
それで終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性
同一性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性
障害者ということにはならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、
「自分は女性」と思いこんんでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と
思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」
である。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに
添付する。

+++++++++++++

(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が
生まれてくる。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職
に応じたものの考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性
をもつ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、
失敗など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混
乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観
に大きな影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そ
ういう方向で勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を
勧められ、文科系コースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさ
からうなどということは、できなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにも
こうにも、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そ
のときですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自
分の職業を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えて
よい。ほとんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そ
して、その性別にふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まっ
たくの「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなっ
たということもある。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因について
は、いろいろな説があるが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、
いじめられて泣くのは、男児、いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってし
まっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」
になりきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事を
しなさい」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、
自我そのものまで軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代
に押しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだというこ
とになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなけれ
ばならない。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞ
き、男女差別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べ
る学校もふえている。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線
の運転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そうい
う問題も、考えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差
別してはならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、
今後は、性による差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日
本を変えていく。意識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなけれ
ばならない。
(030622)

++++++++++++++

●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書い
てきたことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。
残念ながら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを
見たこともないし、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無
だった。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、
そうした服装を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、
からかわれた時代もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思
う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、
子どもは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そ
ういう部分で、親として、できることはしなければならない。反対に、してならないこと
は、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、
狩りの仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要であ
る。男児が男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、
考えられる。(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化
するケースもある。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視
点で、一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもし
れない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思わ
れる。仮に性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどな
い。いわんや病院へ連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日
本では、たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、
もがき苦しんでいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、
もがき苦しんでいる人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
同性愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。
しかし現実には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」
を自覚することが多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果と
して、「自分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳を
とってからの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、
若いときに見た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、
女を意識するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自
身のことでよく覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなっ
てしまった。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の
下着を見てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよく
おぼえていない。しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、
私は、そのとき強烈な衝撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致
を起こしたとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるな
ら、問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出て
くるようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だ
けで、こうした人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視
点で、こうした人たちを、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うこと
はできない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的
には、自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしか
に、自分の子どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがあ
る。しかしそれは、(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけ
ながら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が
同居していることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」
というようなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているよ
うにも思う。もしあのとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、
私を病院へつれていくと言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。


 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あ
るいはどんな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児~小学低学年児につ
いて言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」と
いう図式が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそ
うした原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同
一性障害を問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

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以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

+++++++++++++++

●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生
がいたので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、
真顔でこう答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生
もいた。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。
その高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう
書くと、軟弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞
台でギター独奏したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞く
と、「こわかった……」と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣く
のはたいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがってい
る。先日も一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、
ウンチを教室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。
母親はいじめられていることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもら
し」と呼ばれたら、相手の子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決
するはずである。しかもその相手というのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポ
カリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はな
にも、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は
女子らしくという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいく
らがんばっても、妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべき
だというのは、おかしい。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教
師は皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(9
8年、浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐
怖症になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、
今、新時代の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加し
なさい」と指導しても、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう
日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランス
は第一次大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男
性は限りなく女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツ
の侵略には、ひとたまりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
男児の女児化 男性の女性化)

Monday, December 22, 2008

*Excessive Compromise

●過剰な妥協(Excessive Compromise by C. Rice and C. Hill toward North Korea)

Nobody denies in Japan, that C. Rice and C. Hill has done too much excessive compromise toward North Korea, or these two people are too innocent to be cheated by them during the conferences. What they have done is just to give them money, oil, food, music and time. The biggest show was the “Explosion Show of Junk Yard in Yonbyon”, which means nothing to them.

+++++++++++++++++

C・ライスとC・ヒルのコンビが、
K国に対して、「過剰な妥協」をしたのは、
だれの目にも明らか。

この5年間で、この2人がしたことは、
K国に、マネー、原油、食糧、音楽、それに
時間を与えたことだけ。
あとは、もとからガラクタだったヨンビョンの
核施設の爆破ショーを演じて見せただけ。

それに対して、当のC・ライスは、
「80%は合意していた」と、わけのわからない
ことを言っている。
何をもって、「80%」というのか?

++++++++++++++++++

時事通信、08年12月22日は、つぎのように伝える。

『ライス米国務長官は21日、NBCテレビのインタビュー番組で、「もちろんK国を信用していない」と述べ、K国の非核化をめぐる交渉で、米政府がK国の約束を信頼して過剰に譲歩しているとの批判に反論した。

 ライス長官は「誰もK国を信頼していないからこそ、核検証の枠組みを交渉している」と指摘。「枠組みの80%は合意したが、K国は科学的手続きの要素を明確にする最後の20%に同意しようとしない」と述べ、核検証枠組みの文書化失敗は、K国側に原因があると強調した』(時事通信・12月22日)と。

この報道を読んで、まず気になったのが、「80%」という数字。
いかにもアメリカ人らしい発想だが、同時に、何をもって「80%」というのか。
外交交渉は、すべて結果で決まる。
その結果が何もない今、「80%は合意した」とは、どういうことなのだろう。
まさか原油の提供が、80%済んだということでもあるまい。

各検証枠組みの文書化失敗は、K国にあるのではない。
米朝2か国だけで、秘密会議を開いてきた、C・ライスとC・ヒルにある。
6か国協議を形骸化してしまった。
結果として、C・ヒルは、K国に、いいように、もてあそばれてしまった。
しかもあろうことか、C・ライスは、この日本を脅した。
「K国援助に加われ。さもなくば、K国をテロ支援国家リストからはずす」と。

が、日本はそれに応じず、K国は、テロ支援国家リストからはずされてしまった。
さらにその前には、「拉致問題を6か国協議からはずせ」と迫ったこともある。
拉致問題については、C・ヒルが話し合った形跡は、ゼロ。
成果も、もちろんゼロ。
さらに最近に至っては、「日本は日本で、勝手にやれ」とまで、言いだした。

C・ライスは、頭のよい女性かもしれないが、自分の能力を過信するあまり、独断と
偏見だけで、K国との外交を進めてしまった。
加えてC・ヒルの(思いこみ外交)。
「アメリカはここまでしたのだから、K国も、応じてくれるはず」と。
よい例が、08年の正月に、K国に派遣した、ニューヨーク・フィル。
いったい、あれは何だったのか?

いまだにC・ヒルは、こう言って、K国をかばっている。
「原油の提供が完了すれば、K国は、核検証に応じてくるはず」と。
さらにその原油支援についても、支援中断は、5か国も承諾していると、
ここでもまた(思いこみ外交)を展開した。

これに対して、中国、ロシアは、「これからも支援をつづける」と表明。
日本と韓国は、「そんな話は聞いていない」と表明。
いったい、C・ヒルの脳みそは、どうなっているのか。

現在、日米関係は、こと日本側でみるかぎり、最悪の状態になっている。
その責任の大半は、C・ライスとC・ヒルにあることは、言うまでもない。

それにしても、「80%」?
K国の核開発関連施設は、ヨンビョンだけではないというのは、常識なのだが……。

*Romeo Syndorome

●発想の転換(ロメオ・シンドローム、ジュリエット・シンドローム)

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ワイフがこう言った。
「今年も、あと少しで終わりね」と。
カレンダーを垣間見ながら、そう言った。
言い方が、どこか暗かった。
沈んでいた。

そこで私はこう言った。
「そういう、うしろ向きな言い方をしてはだめだ。
そういうときは、『もうすぐ新しい年ね』と
言わなくちゃア」と。

こういうのを発想の転換という。
「あと少し……」と言うよりは、「もうすぐ……」と
言ったほうが、心がずっと軽くなる。
明るくなる。
(12月22日記)

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●私は71歳だ

子どもたちに、「ぼくは51歳だ」というと、子どもたちはすかさず「ウソだ、
ウソだ」と騒ぐ。
中に私の生年月日を知っている子どもがいて、(たぶん、親がそう教えているのだろうが)、
「先生は、本当は61歳だよ」と言うのもいる。

自分の年齢をごまかすということは、よくある。
私も少し前まで、10歳ほど、年齢を引いて、子どもたちに言っていた。
「ぼくは、51歳だよ」と。
しかしこういうウソは、疲れる。
どこかで無理をしなければならない。
(本当の年齢は、1947年生まれ、今年、満61歳。)

そこで最近は、こう言うようにしている。
「あのね、本当は、71歳なんだよ」と。
ときどき「81歳だよ」と言うときもある。

すると子どもたちは、「そんなジジイには見えないよ。……先生は、ぼくのパパ
くらいかな」とか言う。

●年齢をごまかす

自分の年齢を若く言うか、それとも、古く言うかで、生き方そのものが変ってくる。
最近、そんな発見をした。

自分の年齢を若く言う人は、「まだ若いから、仕事ができる」と人に思わせたいのかも
しれない。
あるいは若い女性(あるいは男性)に、相手にしてもらいたいという潜在的な
願望があって、そう言うのかもしれない。
それに若さと決別するには、それなりの勇気がいる。
が、中には、異常なまでに、(若さ)にこだわる人もいる。
タレントの中には、40歳を過ぎているはずなのに、どう見ても20代後半かな(?)
と思うような人もいる。
このタイプの人は、自分の年齢を受け入れることができない。
だからそれに抵抗する。
ホルモン剤を顔に注入し、化粧に化粧を重ねる。
整形手術などというのは、この世界では常識。

そういう心理状態を総称して、「ロメオ・シンドローム」、あるいは
「ジュリエット・シンドローム」※という。
私がつけた名前である。

で、女性のばあいは、化粧で年齢をごまかす。
(最近では、こうしたごまかしを、「アンチ・エイジング(抗年齢)」と呼ぶ。)
そのつじつま合わせのために、年齢という(数字)もごまかす。
しかしこの方法は、無意味。

仮に35歳のとき、30歳に見られても、5年後の40歳のときには、35歳に
見られるだけ。
そのつど5歳ほど年齢をごまかすことはできても、10歳は、無理。
それに(若さ)というのは、外見や年齢という数字では決まらない。
中身だ。
中身で決まる。

だったら、35歳だったら、35歳と正直に言いながら、生きればよい……ということに
なる。
が、現実には、だれしも若く見られたい。

が、そこで発想の転換。

●人生、50年

少し前、がんで闘病生活をしている大学の友人が、電話でこう言った。
「ぼくはね、50歳すぎてからの人生は、1年ごと、もうけものと思うようにしているよ」
と。

そのとき彼は、織田信長の話をした。
織田信長は、「人生、50年」と言ったとか。
だから「それからの命は、(もうけもの)」と。
「50歳で、がんで死ぬことを考える必要はない。
悲観的になることはない。
50歳で死んだと思って、残りの人生を楽しく生きる」と。

だったら、これはあくまでも私のばあいだが、「51歳」と言うよりは、「71歳」と
言ったほうが、よいということになる。
「71歳なのだが、61歳の人のように、若々しい」と。
そのほうが、感謝の念も強くなる。
生き方にも、力が入る。
あるいは余命を計算しながら、「残りの人生は、よくて10年」と、生きていることその
ものを大切にするようになる。

それに先にも書いたように、私が「ぼくは71歳だ」と言っても、だれも信用しないだろう。
「あなたは、どう見ても、71歳には見えない」と。
しかし「51歳だ」と言うと、みなが、疑う。

●1年ごと、(もうけもの)

2008年も無事、終わろうとしている。
いろいろあったが、私や私の家族は、ともかくも無事だった。
仕事も楽しかった。
やりがいもあった。
これを(もうけもの)と言わずして、何と言う?
つまりそういう意識をもつためにも、「71歳」と言う。

「71歳」と言えば、60歳から計算すると、11年も「もうけた」ということになる。
その分だけ、心を広くすることもできる。
が、それだけではない。

「71歳」と言うことによって、人生を先取りすることができる。
ジジ臭くなれということではない。
71歳らしく生きろということでもない。
71歳の人が、61歳の人のように、あるいは51歳の人のように、
若々しく生きたところで、おかしくない。

それに本当に71歳になったとき、10年分、前もって心の準備しておくことができる。
81歳になったときも、そうだろう。
91歳になったときも、そうだろう。
そのつど、10年分、得をしたような気分になる。
その(得をした)という気分こそが、大切。

●私は71歳なのだ

「私は71歳」と思うことによって、71歳の高齢者の人たちと、同じレベルに
自分を置く。
そして自分にこう言って聞かせる。
「ぼくは71歳だけど、中身は61歳」と。

そのほうが、ずっと楽しい。
無理をして、51歳のまねをするような、うしろめたさというか、イヤミがない。
ウソはウソだが、「51歳」と言うときは、他人を欺くため。
しかし「71歳」と言うときは、自分を欺くため。
むしろ他人を楽しませるかもしれない。

簡単に言えば、「年齢を若く言って無理をするより、年齢を古く言って、余裕を
もって生きたほうがいい」ということ。

あとのことは、天命に任せる。
そのときが来たら、そのとき。
ジタバタしない。
……ということで、最近、私は子どもたちから年齢を聞かれるたびに、「ぼくは71歳だよ」
と答えることにしている。

(付記)
「♪もういくつ寝ると、お正月……」という歌は、前向きな歌ということになる。
しかしジー様、バー様は、(私も含めて)、暗い顔をして、こう歌う。
「♪もういくつ寝ると、今年もおしまい……」と。
しかしそれではいけない。
いけないということで、このエッセーを書いた。

さあ、ここは童心に返って、『お正月』の歌を、明るく、楽しく歌ってみよう。

♪もういくつ寝ると、お正月
 お正月には、凧あげて、コマを回して遊びましょう。
 早く来い来い、お正月

(付記)
ところであなたはどうだろうか?
新年が近づくたびに、「今年も、もうおしまい?」とか、「もうお正月?」とか
言って、暗い顔をするだろうか。
もしそうなら、あなたはすでに、片足を棺おけにつっこんでいるようなもの!

同じ1年でも、やりたいことを思う存分しながら、有意義に過ごした人は、
その1年を長く感ずる。
新年が来ることを、喜ぶことができる。
そうでない人は、そうでない。
大切なのは、前向きに生きること。
中身の濃い人生を送ること。
が、ふと油断すると、すぐうしろ向きになってしまう。
わかりやすい例が、同窓会。

50歳を過ぎると、とたんに同窓会の回数がふえる。
心理学でも、こうした現象を、「回顧性」という言葉を使って説明する。
過去を懐かしむことが、多くなる。

その反対の位置にあるのが、「展望性」という言葉。
未来に向かって夢や希望をいだきながら、生きることをいう。
その回顧性と展望性は、満55歳くらいのときに、クロス交差するという。
つまり満55歳くらいのときに、前向きな生き方と、うしろ向きな生き方が、交差する。
それからは生き方そのものが、うしろ向きになる。

が、回顧性など、くそ食らえ!
回顧性にしばられるようになると、未来よりも過去ばかりを気にするようになる。
過去の肩書きや、学歴、名誉、地位にしがみついて生きる人もいる。
もっと言えば、そういう人たちは、「年齢の奴隷」ということになる。
若かったころの自分から、自分を解放することができない。

今は今。
年齢という数字にまどわされてはいけない。
私たちは、どこまでも前向きに生きる。
死ぬまで前向きに生きる。
けっしてうしろ向きになってはいけない。
いつか書いたが、年齢というのは、ただの数字。
そんな数字に、どんな意味があるというのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
前向きな人生 展望性 回顧性 後ろ向きな人生 ロメオ シンドローム 
ロメオ症候群 ジュリエットシンドローム ジュリエット・シンドローム)

(注※)ロメオ・シンドローム……若かりしころの自分に、人生の基点を置く。
それから遠ざかることに、強迫観念をもつ。そのため(若さ)の
維持に何よりも注意を払う。自分をロメオに見立て、常にそこに悲劇性を
もたせる。『ピーターパン・シンドローム』を、(おとなになりきれない、
おとな)とするなら、『ロメオ・シンドローム』は、(加齢を受け入れ
ることができないおとな)ということになる。そのため年配者や老人をことさら
嫌ったりする。あるいは年配者や老人の価値観、思想を、ことさら否定したり
する。顔にシワやシミ、白髪が現われたりすると、人一倍、狼狽(ろうばい)
したりする。ロメオ・シンドロームというのは、(ピーターパン・シンドローム
もそうだが)、結局は、その人の精神的未熟性に起因すると考えられる。

 
Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●大型自転車店

+++++++++++++++++++++++++++

関西地方を中心に、「AS」という大型自転車店がある。
「サイクル・ベース」という名前がついている。
全国に約150店舗を構え、常時、800台前後の
自転車を並べている。
この浜松市にも、2店舗、ある。
折からの自転車ブームに乗り、店舗数もさることながら、
売り上げ高も急激に伸びている。
売る上げも、前年度比17%増の、173億円(08年2月)。
ふつう自転車の利益率は、30~35%と言われている。
個人の自転車店(従業員2人以下)でも、40%前後と言
われている、
そういう中で、ASは、50%前後の利益率を確保しているという。
(日経ビジネス)
それだけ値段が高いかというと、事実は、逆。
中間マージンを排しているため、かえって安い!
中国を中心に、自社ブランドの製品を開発している。

そのASに入ってみてまず驚くのは、品数の多さ。
まるで遊園地のようにカラフルである。
そういうのを見ると、……というより、私が若いころ頭の中で
描いていた自転車店そっくりなので、驚く。
私も商社マンだったころ、すでに同じような商売を考えていた。
1971~2年のころである。

++++++++++++++++++++++++++++

●がんばれ、町の自転車店!

私の実家も自転車屋だった。
しかし子どものころから、いつもこう考えていた。
「どうせ商売をするなら、大きいほうが勝ち」と。
しかも全国ネットで、大量に仕入れて、薄利多売で勝負する。

M物産という商社にいたときから。そしてそのあと10年ほど。
あちこちで貿易の顧問をしていたときから、私は密かに、大型自転車店の
構想を考えていた。

当時は中国本土までは行けなかったが、台湾、香港で、自転車の製造を
始めつつあった。
品質は、おせじにも、よいとは言えなかった。
しかし値段が安かった。
私自身も、香港や台湾へ行ったついでに、向こうの自転車を、20~30台、
実家へ仕入れてやったことがある。
おとな用の自転車でも、5000円前後で仕入れ、店で、7000~8000円で、
売ることができた。
(品質が悪すぎて、かえって評判を落としてしまった面もあるが……。)

が、それから20~30年。
ASという名前の自転車店を知った。
ふつうなら、悔しいと思わなければならないはずだが、私にはそれはない。
私の夢を実現してくれた、ASの経営者の方たちに、むしろ敬意を表したい。

で、こういう店ができると、町の個人の自転車屋は、大打撃を受ける。
もし私が今でも自転車店を経営していたら、そのままつぶれてしまっただろう。
が、それでも、ASに恨みをもつことはなかっただろう。
規模そのものがちがう。
それには、こんな話がある。

自転車屋には、ランクがある。
いちばん小さい、田舎町の自転車店。
それよりやや大きい、町の自転車店。
さらに大きい、町の自転車店。
さらに大きな、中堅の自転車店。

自転車店の世界には、大型店というのは、ない。……なかった。

どんぐりの背比べというか、わずかの(ちがい)の中で、「うちの店は大きい」
「あの店は小さい」と、張りあっている。……いた。
縄張り意識も強かった。
私には、それがバカげて見えるほど、おかしかった。
大きな中堅の自転車店といっても、従業員は1~2人。
妻や祖父母がそれを手伝っていた。

言うなれば、小さな、どうしようないほど小さな世界で、それぞれが張りあっていた。
そういうところへ、ASというとてつもないほど大きな店が現われた。
勝つとか、負けるとか、そういうレベルの話ではない。
みなが大八車を引きながら、たがいに足の引っ張りあいをしていたところへ、
大型トラックがやってきた。
そんな感じである。

自転車業は技術職と言う人もいるが、昔とちがって、今では自転車は、
完成品として各店に届けられる。
(私が子どものころには、自転車は、スポークで車輪を組み立てるところから、
手作業だった。)
また自転車業には、自転車技師の認定書が必要と言われているが、あんなものは
あってもなくても、同じようなもの。
自転車店組合が、自分たちの職業を権威づけるために、資格試験にまで
祭りあげた。
そのあたりの経緯(いきさつ)を私は知っているが、私の祖父も、父も、
あえてその試験を受けなかった。
きっとプライドが許さなかったのだろう。

現に大半の自転車屋では、妻や、年老いた祖父母が、修理を手伝っている。
言い換えると、今までの自転車店は、あまりにも居心地のよい世界に、
安住しすぎた。
つまりなぜ、今まで自転車店業界が無風地帯であったかというと、(技術)の
問題ではなく、(油)の問題だった。
自転車店というのは、どこでもそうだが、トイレのドアのノブまで油で黒く
なっている。
パンクの修理にしても、やり方をまちがえると、服やズボンが、油で汚れてしまう。
一般の人は、それを嫌った。

つまりこの点だけクリアできれば、自転車店といっても、ほかの商店と、どこも
ちがわない。
が、Sの店内は、明るく、清潔。
油臭さが、どこにもない。

そういうASに対抗する方法があるとするなら、自転車店の店主が、きわめて
専門的な知識人になることでしかない。
健康哲学とか、自転車工学とか、あるいは自然哲学とか、そういうものをもって、
勝負する。
自前でサイクリング・クラブを運営するのもよいだろう。
ただの(もの売り屋)ではないという、差別化。
マニアを相手にした、高級店化。
それを前面に押し出すしかない。

が、それもしないというのであれば、市場から退散するしかない。
かなりきびしい意見を書いたが、これは町の自転車店のために書いた。
ASだけではない。
ここ5年前後で、あなたの町にも、大型店がやってくる。
その準備と覚悟だけは、しておいたほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

*Romeo Syndorome

●発想の転換(ロメオ・シンドローム、ジュリエット・シンドローム)

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ワイフがこう言った。
「今年も、あと少しで終わりね」と。
カレンダーを垣間見ながら、そう言った。
言い方が、どこか暗かった。
沈んでいた。

そこで私はこう言った。
「そういう、うしろ向きな言い方をしてはだめだ。
そういうときは、『もうすぐ新しい年ね』と
言わなくちゃア」と。

こういうのを発想の転換という。
「あと少し……」と言うよりは、「もうすぐ……」と
言ったほうが、心がずっと軽くなる。
明るくなる。
(12月22日記)

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●私は71歳だ

子どもたちに、「ぼくは51歳だ」というと、子どもたちはすかさず「ウソだ、
ウソだ」と騒ぐ。
中に私の生年月日を知っている子どもがいて、(たぶん、親がそう教えているのだろうが)、
「先生は、本当は61歳だよ」と言うのもいる。

自分の年齢をごまかすということは、よくある。
私も少し前まで、10歳ほど、年齢を引いて、子どもたちに言っていた。
「ぼくは、51歳だよ」と。
しかしこういうウソは、疲れる。
どこかで無理をしなければならない。
(本当の年齢は、1947年生まれ、今年、満61歳。)

そこで最近は、こう言うようにしている。
「あのね、本当は、71歳なんだよ」と。
ときどき「81歳だよ」と言うときもある。

すると子どもたちは、「そんなジジイには見えないよ。……先生は、ぼくのパパ
くらいかな」とか言う。

●年齢をごまかす

自分の年齢を若く言うか、それとも、古く言うかで、生き方そのものが変ってくる。
最近、そんな発見をした。

自分の年齢を若く言う人は、「まだ若いから、仕事ができる」と人に思わせたいのかも
しれない。
あるいは若い女性(あるいは男性)に、相手にしてもらいたいという潜在的な
願望があって、そう言うのかもしれない。
それに若さと決別するには、それなりの勇気がいる。
が、中には、異常なまでに、(若さ)にこだわる人もいる。
タレントの中には、40歳を過ぎているはずなのに、どう見ても20代後半かな(?)
と思うような人もいる。
このタイプの人は、自分の年齢を受け入れることができない。
だからそれに抵抗する。
ホルモン剤を顔に注入し、化粧に化粧を重ねる。
整形手術などというのは、この世界では常識。

そういう心理状態を総称して、「ロメオ・シンドローム」、あるいは
「ジュリエット・シンドローム」※という。
私がつけた名前である。

で、女性のばあいは、化粧で年齢をごまかす。
(最近では、こうしたごまかしを、「アンチ・エイジング(抗年齢)」と呼ぶ。)
そのつじつま合わせのために、年齢という(数字)もごまかす。
しかしこの方法は、無意味。

仮に35歳のとき、30歳に見られても、5年後の40歳のときには、35歳に
見られるだけ。
そのつど5歳ほど年齢をごまかすことはできても、10歳は、無理。
それに(若さ)というのは、外見や年齢という数字では決まらない。
中身だ。
中身で決まる。

だったら、35歳だったら、35歳と正直に言いながら、生きればよい……ということに
なる。
が、現実には、だれしも若く見られたい。

が、そこで発想の転換。

●人生、50年

少し前、がんで闘病生活をしている大学の友人が、電話でこう言った。
「ぼくはね、50歳すぎてからの人生は、1年ごと、もうけものと思うようにしているよ」
と。

そのとき彼は、織田信長の話をした。
織田信長は、「人生、50年」と言ったとか。
だから「それからの命は、(もうけもの)」と。
「50歳で、がんで死ぬことを考える必要はない。
悲観的になることはない。
50歳で死んだと思って、残りの人生を楽しく生きる」と。

だったら、これはあくまでも私のばあいだが、「51歳」と言うよりは、「71歳」と
言ったほうが、よいということになる。
「71歳なのだが、61歳の人のように、若々しい」と。
そのほうが、感謝の念も強くなる。
生き方にも、力が入る。
あるいは余命を計算しながら、「残りの人生は、よくて10年」と、生きていることその
ものを大切にするようになる。

それに先にも書いたように、私が「ぼくは71歳だ」と言っても、だれも信用しないだろう。
「あなたは、どう見ても、71歳には見えない」と。
しかし「51歳だ」と言うと、みなが、疑う。

●1年ごと、(もうけもの)

2008年も無事、終わろうとしている。
いろいろあったが、私や私の家族は、ともかくも無事だった。
仕事も楽しかった。
やりがいもあった。
これを(もうけもの)と言わずして、何と言う?
つまりそういう意識をもつためにも、「71歳」と言う。

「71歳」と言えば、60歳から計算すると、11年も「もうけた」ということになる。
その分だけ、心を広くすることもできる。
が、それだけではない。

「71歳」と言うことによって、人生を先取りすることができる。
ジジ臭くなれということではない。
71歳らしく生きろということでもない。
71歳の人が、61歳の人のように、あるいは51歳の人のように、
若々しく生きたところで、おかしくない。

それに本当に71歳になったとき、10年分、前もって心の準備しておくことができる。
81歳になったときも、そうだろう。
91歳になったときも、そうだろう。
そのつど、10年分、得をしたような気分になる。
その(得をした)という気分こそが、大切。

●私は71歳なのだ

「私は71歳」と思うことによって、71歳の高齢者の人たちと、同じレベルに
自分を置く。
そして自分にこう言って聞かせる。
「ぼくは71歳だけど、中身は61歳」と。

そのほうが、ずっと楽しい。
無理をして、51歳のまねをするような、うしろめたさというか、イヤミがない。
ウソはウソだが、「51歳」と言うときは、他人を欺くため。
しかし「71歳」と言うときは、自分を欺くため。
むしろ他人を楽しませるかもしれない。

簡単に言えば、「年齢を若く言って無理をするより、年齢を古く言って、余裕を
もって生きたほうがいい」ということ。

あとのことは、天命に任せる。
そのときが来たら、そのとき。
ジタバタしない。
……ということで、最近、私は子どもたちから年齢を聞かれるたびに、「ぼくは71歳だよ」
と答えることにしている。

(付記)
「♪もういくつ寝ると、お正月……」という歌は、前向きな歌ということになる。
しかしジー様、バー様は、(私も含めて)、暗い顔をして、こう歌う。
「♪もういくつ寝ると、今年もおしまい……」と。
しかしそれではいけない。
いけないということで、このエッセーを書いた。

さあ、ここは童心に返って、『お正月』の歌を、明るく、楽しく歌ってみよう。

♪もういくつ寝ると、お正月
 お正月には、凧あげて、コマを回して遊びましょう。
 早く来い来い、お正月

(付記)
ところであなたはどうだろうか?
新年が近づくたびに、「今年も、もうおしまい?」とか、「もうお正月?」とか
言って、暗い顔をするだろうか。
もしそうなら、あなたはすでに、片足を棺おけにつっこんでいるようなもの!

同じ1年でも、やりたいことを思う存分しながら、有意義に過ごした人は、
その1年を長く感ずる。
新年が来ることを、喜ぶことができる。
そうでない人は、そうでない。
大切なのは、前向きに生きること。
中身の濃い人生を送ること。
が、ふと油断すると、すぐうしろ向きになってしまう。
わかりやすい例が、同窓会。

50歳を過ぎると、とたんに同窓会の回数がふえる。
心理学でも、こうした現象を、「回顧性」という言葉を使って説明する。
過去を懐かしむことが、多くなる。

その反対の位置にあるのが、「展望性」という言葉。
未来に向かって夢や希望をいだきながら、生きることをいう。
その回顧性と展望性は、満55歳くらいのときに、クロス交差するという。
つまり満55歳くらいのときに、前向きな生き方と、うしろ向きな生き方が、交差する。
それからは生き方そのものが、うしろ向きになる。

が、回顧性など、くそ食らえ!
回顧性にしばられるようになると、未来よりも過去ばかりを気にするようになる。
過去の肩書きや、学歴、名誉、地位にしがみついて生きる人もいる。
もっと言えば、そういう人たちは、「年齢の奴隷」ということになる。
若かったころの自分から、自分を解放することができない。

今は今。
年齢という数字にまどわされてはいけない。
私たちは、どこまでも前向きに生きる。
死ぬまで前向きに生きる。
けっしてうしろ向きになってはいけない。
いつか書いたが、年齢というのは、ただの数字。
そんな数字に、どんな意味があるというのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
前向きな人生 展望性 回顧性 後ろ向きな人生 ロメオ シンドローム 
ロメオ症候群 ジュリエットシンドローム ジュリエット・シンドローム)

(注※)ロメオ・シンドローム……若かりしころの自分に、人生の基点を置く。
それから遠ざかることに、強迫観念をもつ。そのため(若さ)の
維持に何よりも注意を払う。自分をロメオに見立て、常にそこに悲劇性を
もたせる。『ピーターパン・シンドローム』を、(おとなになりきれない、
おとな)とするなら、『ロメオ・シンドローム』は、(加齢を受け入れ
ることができないおとな)ということになる。そのため年配者や老人をことさら
嫌ったりする。あるいは年配者や老人の価値観、思想を、ことさら否定したり
する。顔にシワやシミ、白髪が現われたりすると、人一倍、狼狽(ろうばい)
したりする。ロメオ・シンドロームというのは、(ピーターパン・シンドローム
もそうだが)、結局は、その人の精神的未熟性に起因すると考えられる。

 
Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●大型自転車店

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関西地方を中心に、「AS」という大型自転車店がある。
「サイクル・ベース」という名前がついている。
全国に約150店舗を構え、常時、800台前後の
自転車を並べている。
この浜松市にも、2店舗、ある。
折からの自転車ブームに乗り、店舗数もさることながら、
売り上げ高も急激に伸びている。
売る上げも、前年度比17%増の、173億円(08年2月)。
ふつう自転車の利益率は、30~35%と言われている。
個人の自転車店(従業員2人以下)でも、40%前後と言
われている、
そういう中で、ASは、50%前後の利益率を確保しているという。
(日経ビジネス)
それだけ値段が高いかというと、事実は、逆。
中間マージンを排しているため、かえって安い!
中国を中心に、自社ブランドの製品を開発している。

そのASに入ってみてまず驚くのは、品数の多さ。
まるで遊園地のようにカラフルである。
そういうのを見ると、……というより、私が若いころ頭の中で
描いていた自転車店そっくりなので、驚く。
私も商社マンだったころ、すでに同じような商売を考えていた。
1971~2年のころである。

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●がんばれ、町の自転車店!

私の実家も自転車屋だった。
しかし子どものころから、いつもこう考えていた。
「どうせ商売をするなら、大きいほうが勝ち」と。
しかも全国ネットで、大量に仕入れて、薄利多売で勝負する。

M物産という商社にいたときから。そしてそのあと10年ほど。
あちこちで貿易の顧問をしていたときから、私は密かに、大型自転車店の
構想を考えていた。

当時は中国本土までは行けなかったが、台湾、香港で、自転車の製造を
始めつつあった。
品質は、おせじにも、よいとは言えなかった。
しかし値段が安かった。
私自身も、香港や台湾へ行ったついでに、向こうの自転車を、20~30台、
実家へ仕入れてやったことがある。
おとな用の自転車でも、5000円前後で仕入れ、店で、7000~8000円で、
売ることができた。
(品質が悪すぎて、かえって評判を落としてしまった面もあるが……。)

が、それから20~30年。
ASという名前の自転車店を知った。
ふつうなら、悔しいと思わなければならないはずだが、私にはそれはない。
私の夢を実現してくれた、ASの経営者の方たちに、むしろ敬意を表したい。

で、こういう店ができると、町の個人の自転車屋は、大打撃を受ける。
もし私が今でも自転車店を経営していたら、そのままつぶれてしまっただろう。
が、それでも、ASに恨みをもつことはなかっただろう。
規模そのものがちがう。
それには、こんな話がある。

自転車屋には、ランクがある。
いちばん小さい、田舎町の自転車店。
それよりやや大きい、町の自転車店。
さらに大きい、町の自転車店。
さらに大きな、中堅の自転車店。

自転車店の世界には、大型店というのは、ない。……なかった。

どんぐりの背比べというか、わずかの(ちがい)の中で、「うちの店は大きい」
「あの店は小さい」と、張りあっている。……いた。
縄張り意識も強かった。
私には、それがバカげて見えるほど、おかしかった。
大きな中堅の自転車店といっても、従業員は1~2人。
妻や祖父母がそれを手伝っていた。

言うなれば、小さな、どうしようないほど小さな世界で、それぞれが張りあっていた。
そういうところへ、ASというとてつもないほど大きな店が現われた。
勝つとか、負けるとか、そういうレベルの話ではない。
みなが大八車を引きながら、たがいに足の引っ張りあいをしていたところへ、
大型トラックがやってきた。
そんな感じである。

自転車業は技術職と言う人もいるが、昔とちがって、今では自転車は、
完成品として各店に届けられる。
(私が子どものころには、自転車は、スポークで車輪を組み立てるところから、
手作業だった。)
また自転車業には、自転車技師の認定書が必要と言われているが、あんなものは
あってもなくても、同じようなもの。
自転車店組合が、自分たちの職業を権威づけるために、資格試験にまで
祭りあげた。
そのあたりの経緯(いきさつ)を私は知っているが、私の祖父も、父も、
あえてその試験を受けなかった。
きっとプライドが許さなかったのだろう。

現に大半の自転車屋では、妻や、年老いた祖父母が、修理を手伝っている。
言い換えると、今までの自転車店は、あまりにも居心地のよい世界に、
安住しすぎた。
つまりなぜ、今まで自転車店業界が無風地帯であったかというと、(技術)の
問題ではなく、(油)の問題だった。
自転車店というのは、どこでもそうだが、トイレのドアのノブまで油で黒く
なっている。
パンクの修理にしても、やり方をまちがえると、服やズボンが、油で汚れてしまう。
一般の人は、それを嫌った。

つまりこの点だけクリアできれば、自転車店といっても、ほかの商店と、どこも
ちがわない。
が、Sの店内は、明るく、清潔。
油臭さが、どこにもない。

そういうASに対抗する方法があるとするなら、自転車店の店主が、きわめて
専門的な知識人になることでしかない。
健康哲学とか、自転車工学とか、あるいは自然哲学とか、そういうものをもって、
勝負する。
自前でサイクリング・クラブを運営するのもよいだろう。
ただの(もの売り屋)ではないという、差別化。
マニアを相手にした、高級店化。
それを前面に押し出すしかない。

が、それもしないというのであれば、市場から退散するしかない。
かなりきびしい意見を書いたが、これは町の自転車店のために書いた。
ASだけではない。
ここ5年前後で、あなたの町にも、大型店がやってくる。
その準備と覚悟だけは、しておいたほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司