Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, August 31, 2008

*How to keep good relationship between husbands and wives

●夫婦円満のコツ

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夫婦も長い間いっしょにいると、
たがいに相手に合わせようとする。
いがみあっているよりは、妥協できる
ところは妥協し、相手に合わせたほうが
よいと考えるようになる。
そのほうがストレスもたまらない。

こうして夫婦の間には、同調関係
が生まれる。

+++++++++++++++++

仲がよい夫婦でいるためには、たがいに好感をもっていなければならない。
これは必要条件だが、しかしそれだけではじゅうぶんではない。

たとえばこんな例で考えてみよう。

夫は、岐阜県出身で、岐阜S高校の野球チームを応援。
妻は、静岡県出身で、静岡A高校の野球チームを応援。

夏の甲子園で、岐阜S高校と静岡A高校が対戦することになった。

こういうとき夫婦として、いろいろな解決策が考えられる。

(1) 妥協…どちらかがどちらかに、合わせる。
(2) 合理化…「たかが高校野球」と考え、対立を避ける。
(3) 受容…たがいにたがいを認めあう。

これは実際、ある知人から聞いた話だが、日本人男性と結婚した
ブラジル人女性がいた。
その夫婦のばあい、ワールドカップで日本とブラジルが対戦したとき、
そのまま対立関係になってしまったという。
(実際には、妻は、ブラジル人が集まる会場で、ブラジルを応援し、
夫は家で、子どもたちと日本を応援したという。)

が、スポーツならまだしも、宗教がからむと、ことは簡単ではない。
とくに妻が、どこかのカルト教団(狂信的な信仰をする団体)に
入信したようなばあい、である。

こういうケースのばあい、(2)の合理化は、むずかしい。(3)の
受容についても、たいてい妻のほうが一方的に夫の価値観を否定する
ようになるので、それもむずかしい。

残るのは、(1)の妥協ということになるが、妻のほうが夫に妥協する
ということは、信仰そのものがもつ性質上、ありえない。
夫の側の一方的な妥協が強いられる。

が、その妥協に失敗すると、ストレスは急速に増大し、やがて限界を超える。
具体的には、「離婚」という言葉が、夫婦の間から出てくるようになる。
これは夫だけの問題ではない。
中には、「離婚はぜったいだめ」と教えるカルト教団もある。
妻自身も、信仰と離婚のはざまで、もがき苦しむことになる。

実際、その処理に失敗して、42歳という若さで、亡くなってしまった
男性がいる。
くも膜下出血だったという。
その話を聞いたとき、私はその背後で起きた、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。

さらによくあるケースとしては、不倫がある。

夫婦、どちらか一方の不倫が発覚したようなばあいを考えてみよう。

こういうケースでは、(1)の妥協ということは考えられない。
「あなたが不倫をしたから、私も不倫をしてきます」というわけにはいかない。
そこで(2)の合理化、もしくは(3)の受容ということになる。

合理化というのは、高校野球と同じように、「たかが不倫ではないか」と考え、
自分を納得させることをいう。
受容というのは、「夫婦といっても、たがいに束縛しあうのはよくない」などと
考えて、相手の行為を認めることをいう。
しかしそれにはかなり高度な、精神的操作が必要である。
昔、見たフランス映画に、そういうテーマを扱ったのがあった。

晩年に近づいた男性が、若い女性と結婚した。
しかし男性は、性的な満足感を妻に与えることができなかった。
そこで男性は妻の不倫を容認することによって、夫婦の愛情をさらに昇華させた。

……以上のケースは、いわば特殊な例ということになる。
こういうケースは別として、私たちは日常生活において、つねに、選択を迫られる。
妥協か、合理化か、さもなくば受容か、と。

それがじょうずに処理できる夫婦を、(仲のよい夫婦)といい、そうでない
夫婦を、そうでないという。
表面的な様子だけを見て、たとえば夫婦げんかが少ないから、仲がよいとか、
少ないからそうでないとか判断してはいけない。

あとは、たがいに前だけを見ながら、前に向かって進む。
夫婦というのは、けっして見つめあってはいけない。
それが夫婦円満のコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 夫婦論 夫婦円満)

*To get tired before we have a rest

●ブルー・マンディ

どうして「ブルー・マンディ(憂鬱な月曜日)になるかといえば、
日曜日の過ごしかたに問題があるから」(ある女性精神科医の書いた本)と。

つまり日曜日にだらしない生活をしてしまうと、その夜は、熟睡できない。
だから翌、月曜日は、朝から気分が晴れない。
それがブルー・マンディにつながる、と。

つまり日曜日こそ、スポーツをしたり運動をしたりしなければならない。
そしてその夜は、ぐっすりと眠る。

とは言われても、日曜日だけでも、ダラリとしてみたい。
ヒゲも剃らず、髪の毛もとかさず、時間にしばられず……。
その結果として、ブルー・マンディがあるとするなら、
ブルー・マンディを受け入れるしかない。

で、私はブルー・マンディというのは、もっと生き様に関連しているもの
ではないかと思う。
日曜日にゆっくり休む。
そのときついでに、自分のしていることが、生物としての人間の(基本)と
ズレていることを知る。
つまり休むことによって、(自分を取り戻す)。
が、月曜日に待っている世界は、何もかもが、その(基本)とはズレている(?)。
その調整がストレッサーとなって、その人を憂鬱にする。

ここでいう(基本)というのは、私の目前に広がっているような世界をいう。
もともと人間というのは、こういう世界に住んでいた。
が、実際の生活は、その(基本)から、かなりズレている。

都会に住んでいる人には失礼な言い方になるかもしれないが、都会の生活は、あれは
人間の生活ではない。

先日も横浜で通勤列車に乗り合わせたが、あれはひどい。
電車の中の人たちは、トラックに詰め込まれた家畜のよう。
窓の外に垣間見える景色は、まるで巨大な墓石のよう。
聞こえるのは、ゴーゴー、キンキンという機械的な音。

そういう生活に慣れろと言われても、今の私には、もうできない。
おそらく毎日が、ブルー・マンディになってしまうだろう。

その本を書いた女性精神科医は、ブルー・マンディを「悪」として、とらえている。
「悪」というより、それを治すには、どうしたらよいかという立場で、本を
書いている。
しかしもし私が社会学者なら、こう考えるだろう。

「人がブルー・マンディになるのは、その人に原因があるからではない。
社会のほうが、ゆがんでいるからだ」と。
またそういう視点で、この問題を考える。

何も日曜日は、月曜日のためにあるのではない!
その日曜日すらも、翌日の仕事のための準備に使うとしたら、では、
人は、いつ、どこで心と体を休めればよいのか?

ブルー・マンディというのが、それほど深刻な問題であるとするなら、
月曜日は、仕事は午後から、とすればよい。
私が政治家なら、そう提案する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ブルー・マンディ ブルーマンデー ブルーマンディ)

(補記)

日本人と、たとえばオーストラリア人の生き方を比較してみたばあい、
大きくちがう点が、ひとつ、ある。

日本人というのは、常に、未来のために現在を犠牲にするという生き方をする。
子どもの教育についても、幼稚園教育は、小学校での勉強のために。
小学校教育は、中学校での勉強のために。
中学や高校での教育は、その先の大学受験のために、と。

こうした意識は、社会へ入ってからも、変わらない。
つまり日本人は、いつも鼻先にニンジンをぶらさげながら、生きる。

で、やっと仕事から解放され、自由になったと思ったとたん、そこに
待っているのは、「老後」と。
そういうことになる。

一方、オーストラリア人は、そうではない。
常に「今」の生活を大切にする。
そういうものの考え方が、子どものときから徹底している。
『休息を求めて疲れる』というのが、愚かな生き方の代名詞のようにも
なっている。
(これについて書いた原稿があるので、あとでさがしてみる。)
私の友人のP君にしても、42歳ごろまでに稼ぐだけ稼いで、
全豪一の高所得者になったあと、会社を売り払い、現在は、
レーシングカー・チームをつくり、世界を渡り歩いている。
P君のようなケースは例外であるとしても、そういう生き方が
自然にできるような下地が、オーストラリアにはある。

要するに、この問題は、「働くために休むか」、それとも
「休むために働くか」という、択一の問題に行き着く。

意識のもち方が、180度ちがうから、たがいにたがいを理解するのは、
不可能と考えてよい。
実のところ、この私にしても、いまだに日本式の仕事観が心の中に居座っている。
長い休暇があっても、その休暇を楽しむというよりは、いつも心のどこかで、
休み明けの仕事のことを心配している。
しかしこれではいつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
それこそ『やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた』という
ことになりかねない。

しかしそんな愚かな生き方が、あるだろうか?

さらに中には、40年前、50年前の学歴をぶらさげて生きている人がいる。
自分では「偉い」と思っているのかもしれない。
「自分はみなに、尊敬されている」「尊敬されるべき」と考えている(?)。
しかし中身が、まったく、ない。
「これが私だ」というものが、何もない。
ないから、ますます過去の学歴にしがみつく。

現在を常に未来のために犠牲にして生きていると、そういう(愚かさ)に
気がつくということもない。

かわいそうな人だと、私は思う。

【休息を求めて疲れる】

子どものやる気

 最近の研究では、やる気(動機づけ)をコントロールするのは、脳の辺縁系にある、帯状回という組織が関係しているらしいということがわかってきた(伊東正男氏による「思考システム」)。脳のこの部分が変調すると、子どもに限らず、人は、やる気をなくし、無気力になるという。もっとも、そうなるのは重症(?)のケース。しかし重症のケースを念頭におきながら、子どもの心をみるのは、大切なことである。

 こんな相談があった。

●栃木県のYUさんより

私は、小六の男子と小一の男子をもつ母です。小六の子どもの事で悩んでいます。

 低学年の頃から勉強やスポーツが嫌いで、テレビゲームと絵を描く以外には、興味がなく、それ以外の事をさせようとしても、やる気を出してくれません。勉強の成績も悪く家で教えていても、塾や家庭教師を頼んでみても、とにかく嫌々なので、本人の苦痛になっているだけのようです。何も言わないで好きなようにさせていると、全く勉強もしないし、ゲームや絵を描いたりしていて、外へ出て友達と遊ぶ事すらしないで家の中でゴロゴロしています。

 学校では、友達と仲良く遊んだりできているし、性格も温和で、明るいのですが、のんびりしすぎてて、マイペースなので協調性に欠けるところが、あります。

 幼児の時から、軽い発語障害があり、難聴の検査をしたりして心配していたのですが、異常もありませんでした。しかし、いまだに、言葉の使い方がおかしくてその都度注意しても、なおりません。知能的に問題があるのか、精神的なところで問題があるのかわからず、悩んでいます。
 
 もし、通塾しながら教育方法や学習方法について、ご相談できるところがあれば教えて頂きたいのですが、よろしくお願いいたします。
(栃木県U市、YUより)

●二番底に注意                               
 このYUさんのケースで注意しなければならないのは、たいていの親は、「今が最悪」、つまり「底」と思う。しかしその底の下には、もうひとつ別の底がある。これを二番底という。が、それで終わるわけではない。さらにその下には、三番底がある。

 相談のケースで、親が「何とかしよう」「なおそう」と思えば思うほど、子どもは、つぎの底をめざして落ちていく。(勉強しない)→(塾へやる)→(やる気をなくす)→(家庭教師をつける)→(さらにやる気をなくす)→……と。こういうのを悪循環というが、その悪循環をどこかで感じたら、鉄則は、ただひとつ。「あきらめる」。「やってここまで」と思い、あきらめる。こういうケースでは、「まだ、以前のほうが症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、ますます状態が悪くなる。

●リズムの乱れ
 つぎに注意しなければならないのは、親子のリズム。YUさんのケースでは、親子のリズムがまったくあっていない。「のんびりしすぎてて……」というYUさんの言葉が、それを表している。つまり心配先行型というか、何でもかんでも、親が一歩、子どもの先を歩いているのがわかる。せっかちママから見れば、どんな子どもでも、のんびり屋に見える。そういうYUさんだが、子どもの心を確かめた形跡がどこにもない。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」「子どものため」という親のエゴばかりが目立つ。

 恐らくこのリズムは、子どもが乳幼児のときから始まっている。そして今も、そのリズムのなかにあり、これから先も、ずっとつづく。リズムというのは、そういうもので、そのリズムの乱れに気づいたとしても、それを改めるのは容易ではない。

●強引な押しつけ
 「勉強」は大切なものだが、YUさんは、勉強という視点でしか、子どもを見ていない? だからといって勉強を否定しているわけではないが、「何とか勉強させよう」という強引さだけが、目立つ。

 親の愛には三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。このYUさんのケースでは、「子どものため」を口実にしながら、その実、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。こういう愛もどきの愛のことを、代償的愛という。決して真の愛ではない。

 さらにでは、なぜYUさんが、こうした強引の押しつけをするかといえば、いわゆる学歴信仰が疑われる。「学校は絶対」「勉強は重要」「何といっても学歴」と。信仰といっても、カルト。脳のCPU(中央演算装置)がおかしいから、自分でそれに気づくことはない。以前、「勉強にこだわってはだめですよ」と、私がアドバイスしたとき、ある母親はこう言った。「他人の子どものことだと思って、よくそういう言いたいことを言いますね!」と。

●まず反省
 子どもに何か問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」と考える。しかしなおすべきは、親のほう。たとえばYUさんは、「子どもがゴロゴロしている」ことを問題にしている。しかし学校から帰ってきたとき、あるいは土日に、子どもが家で、どうしてゴロゴロしていてはいけないのか。学校という「場」は、まさに「監獄」(あるイギリスの教育者の言葉)。そこで一日を過ごすということが、いかに重労働であるかは、実は、あなた自身が一番、よく知っているはず。そんな子どもに向かって、「ゴロゴロしていてはダメ」と、どうして言えるのか。あるいはYUさんは、夫にも、そう言っているのか?

 それだけではない。こういう生き方、つまり、「未来のためにいつも現在を犠牲にする」という生き方は、結局は愚かな生きかたと言ってもよい。まさにそれこそ、『休息を求めて疲れる』生き方と言ってもよい。こういう生きかたを子どもに強いれば強いるほど、子どもはいつまでたっても、「今」というときを、つかめなくなる。そしていつか、「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

●塾のエサになってはいけない
 こういう生きザマが確立しないまま、塾や家庭教師に頼れば、それこそ、塾や家庭教師の、よいカモ。こういうところは、親の不安や心配を逆手にとって、結局は、金儲けにつなげる。しかしそれはたとえて言うなら、熱を出して苦しんでいる子どもや親に向かって、冷水を浴びせかけるようなもの。基本的な部分を何もなおさないまま、問題を先送りするだけ。その場だけを何とかやりすごし、あとはまたつぎの受験屋にバトンタッチする。が、必ず、いつか、こういう子育て観は、破局を迎える。二番底、三番底どころか、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊する。

●ふつうの子ども論
 YUさんは、「おかしいので……悩んでいます」と書いている。その気持ちはわからないでもないが、しかし残念ながら、こういう悩み方をしていると、問題は何も解決しない。そればかりか、さらに問題は複雑になる。

 日本人は、昔から「型」にあてはめて子どもを考える傾向が強い。ある一定のパターンを子どもに想定する。そしてその型からはずれた子どもを、「おかしい」と言う。しかしそれ以上に大切なことは、その子どもはその子どもとして、その中に「よさ」を見つけること。しかし心のどこかに、「ふつうの子」を想像し、その子どもに近づけようとすればするほど、親は、子どものもつ「よさ」までつぶしてしまう。だから、ここでいうように複雑になる。このYUさんのケースで言うなら、「あなたの発音はおかしい」と言ったところで、子どもにその自覚がない以上、なおるはずもない。またそれだけの自意識がければ、自分でなおすこともできない。小学六年生といえば、すでに言葉の問題をうんぬんする時期を過ぎている。ラジオかテレビのアナウンサーにでもなるというのなら話は別だが、そうでないなら、あきらめる。それ以上に心配されるのは、こうした親の姿勢が、文字嫌い、本嫌いを誘発し、さらには作文力から読解力まで奪っているということ。そうでないことを望むが、その可能性は、きわめて高い。

●では、どうするか?
 絵を描き、テレビゲームばかりしているというなら、それ以上に心配しなければならないことは、引きこもりである。もしそうなってしまうと、それこそ、あとがたいへん。多分、絵といっても、アニメのキャラクターを描くか、あるいはマンガ的なものだろう。しかしそれとて伸ばせば、一芸になる。そしてその可能性があるなら、私は絵の才能を伸ばしたらよい。今の段階で、絵やゲームを取りあげたら、子どもはそのまま、まちがいなく、二番底に落ちていく。

 成績が悪いということについては、今の段階では、手遅れ。仮に受験指導をしても、それはまさにつけ刃(やいば)。問題を先送りするだけ。むしろ子どもに言うべきことは、逆。「もっと勉強しなさい」ではなく、「あなたは、よくがんばっている」だ。「何も言わなければ、勉強をしようとしない」ということなら、すでに家庭教育は失敗している。理由は山のようにあるのだろうが、その失敗をしたのは、子どもではない。親のYUさんだ。その責任をおおい隠し、子どもに押しつけても、それは酷というもの。

 こういうケースでは、あきらめる。あきらめて、子どもを受け入れる。そして子どもの立場で、子どもの視点で、子どもの勉強を考える。「お母さんといっしょに、この問題を解いてみようね」と。「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」ではない。子どもといっしょに、悩む。そういう姿勢が、子どもの心に風穴をあける。

 しかし本当のところ、それで子どもが立ちなおる可能性は、ほとんどない。立ちなおるころには、すでに子どもはおとなになっている。受験時代は終わっている。本来なら、YUさんは、もっと早く子どもの限界に気づき、そして受け入れるべきだった。そのつど、「何とかなる」「何とかしよう」と、子どもを、いじりすぎた。その結果が今であり、小学六年生なのだ。が、ここでまた「何とかなる」「何とかしよう」と考えれば考えるほど、さらに大きな底へと子どもは落ちていく。

●子どもへの愛
 この返事を読んで、YUさんが、怒るようなら、YUさんは、子どもを愛していないとみてよい。私はこの返事を、YUさんというより、YUさんの子どものために書いた。そういう私の意図がわかれば、YUさんは、怒らないはず。しかし反対に、「言いたいことをよくも、言うものだ!」と怒るようなら、YUさんは、自分の愛情をもう一度、疑ってみたほうがよい。何か、大きなわだかまりがあるかもしれない。望まない結婚だった。望まない子どもだった。あるいは生活が不安定だった。夫に、大きな不満があったなど。そういうわだかまりが姿を変えて、ときには子どもへの過干渉や過関心になる。その背景には、親の子どもに対する不信感がある。

 そこでどうだろう。もう小学六年生なのだから、子どもを子どもと思うのではなく、一人の友として受け入れてみては……。親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横をあるく。この三つ目は、実は日本人が、もっとも苦手とするところ。だからこそ、一度、友として、子どもの横を歩いてみる。これは今からでも遅くない。これからでも間にあう。子どもが絵を描いていたら、YUさん、あなたもいっしょに絵を描けばよい。子どもがテレビゲームをしていたら、YUさん、あなたもいっしょにゲームをすればよい。そういう姿勢が子どもの心を開く。そしてあなたが子どもの立場にたったとき、あなたが「勉強しようね」と言えば、必ず、子どもは勉強をするようになる。今のように、一方で子どもの世界を否定しておきながら、どうして、親の世界に子どもを引き込むことができるというのか。こういうのを、親の身勝手という。お笑い草という。

●最後に……
 きびしいことを書いたが、ここに書いたのは、あくまでもひとつの参考意見。「そういう考え方もあるのかな」というふうに、とらえてくれればよい。ただ私がここで言えることは、私はYUさんとの間に、あまりにも遠い距離を感じたこと。恐らくYUさんも、私との間に、遠い距離を感じたことと思う。意識の差というのはそういうもの。

 しかしこう考えてほしい。私たちは今、こうしてここに生きている。その尊さというか、その価値に気づいてほしい。あなたがここにいて、子どもがそこにいるということが、奇跡なのだ。そういう視点で子どもを見ると、また子どもの見方も変わってくるはず。

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●YUさんへ、

最後になりましたが、今、私は無料で電子マガジンを発行しています。そのマガジンへ、ここに書いた原稿(YUさんからのメールの部分も含めて)の掲載をお許しください。掲載予定日は、二月五日を予定しています。ご都合の悪い部分は改めますので、至急、連絡ください。連絡がなければ、了解していただいたものを判断させていただきます。よろしいでしょうか。はやし浩司
(03-1-28)

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●YUさんより

早々のお返事ありがとうございます。
主人と二人で読んでいるうちに、胸が締めつけられ、涙があふれてきました。
今まで学校の先生や地域の相談所、親戚、知人などに相談してみましたが、結局、答えが見出せないまま、今日までズルズルときてしまいました。
でも、今日は違います。
はやし先生のお考えは、まさに私の中で一番恐れていた 一番確かであろう答えそのものでした。

もう、手遅れであろう という言葉を目にしたとき、いままで自分が子供にしてきた事が悔やまれ、この一二年間、ずっと苦しめてきたのだと思うと申し訳なくて、どう償えばよいのかわかりません。
私はきっと、この子を一人の人間としてではなく、私の所有物のように見ていたのだと思います。

これから、この子にどのように接していかなくてはならないのかは、わかりました。
ただ、私自身がちゃんとやっていけるのか不安でたまりません。

これからは、友として子供の横を歩いていけるよう がんばってみます。
また、ご相談させていただく事があると思いますがよろしいですか?

はやし先生、今日は、本当に 本当にありがとうございました。

(追伸)メール、転載の件は了解しました。

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●はやし浩司より、栃木のYUさんへ、

だいじょうぶですよ!
あなたはもう、すばらしいお母さんですよ!
勇気をもって、前に進んでください。
あなたの涙が、あなたの心を溶かし、
子どもの心を溶かします。
あとは、時間が解決してくれます。
しばらくすると、安らいだ心になりますよ。
子どもは、「許して、忘れる」ですよ。
あなたが真の愛にめざめたとき、
あなたや子どもに、笑顔が戻ります。
そのときから子どもは、学習面でも
伸び始めます。約束します。

子どもというのは、不思議なものでね。
「やりなさい」「がんばれ」と親が言う間は、伸びません。
しかしね、「よくやったわね」「気を楽にね」と言ってあげると、
不思議と伸びる始めるものです。
私も、何人かの子ども(生徒)を預かっていて、
どうにもこうにも、先へ進めなくなったようなときには、
近くの町の中を、みんなで、あちこち散歩します。
そうするとですね、とたんに、子どもたちの表情が
明るくなるのです。

あるいはね、子どもたちが、コソコソと隠れてカードゲームをしているでしょ。
そういうときは、「あのな、ブルーアイズ三枚と、融合カード一枚で、
パワーが一〇倍になることを知っているか?」と話しかけてやるのです。
これはハッタリです。するとですね、とたんに子どもたちの目つきが、
尊敬の目つきに変わるのです。子どもの心をつかむためには、
子どもの世界に、一度、自分を置いてみることです。

しかしね、同時に、そこはすばらしい世界ですよ。
純粋で、純朴で、そこは清らかな世界です。
おとなの私たちが忘れてしまった世界です。
あなたも、もう一度、少女期、青年期を楽しむつもりで、
子どもの世界に入ってみたらどうでしょうか?
あなたの子どもの心と目を通して、もう一度、
少女期と、青年期を楽しむのです。楽しいですよ!
「私は親だ」と気負うことはありません。
そんな親意識など、クソ食らえ、です。
肩の力を抜いて、子どもともう一度、人生を楽しむのです。

英語の格言に、『(子どもの心をつかみたかったら)、
釣りザを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』
というのがあります。その心意気です。

さあ、あなたも勇気を出して、こう言ってみてください。
「そうね、勉強なんて、いやなものねえ。お母さんも
子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」と。
あなた自身も、あなたの心をふさいでいた、
心の重石(おもし)を吹き飛ばすことができますよ。
いえね、そのときから、親子の絆(きずな)を太くなり、
そのときから、あなたの子どもは伸び始め、
そしてそのときから、あなたは真の愛をもった、真の親になるのです。
そう、それはすばらしい世界ですよ。
小さな、小さな世界かもしれませんが、
神の愛、仏の慈悲を体験できる、すばらしい世界ですよ。

だから勇気をもって、一歩、前に進んでください。
すばらしい親子になるために。応援します! 

ではね。
また、何かあれば力になります。
どうかまたお便りをください。

はやし浩司

*Senail Experiment

●擬似認知症

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今日、おもしろい実験をしてみた。
称して、「擬似認知症」。

記憶障害というのが、どういうものか
それが私にも、わかった。

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近所に、よくしゃべる女性がいる。
悪い人ではないが、話し始めると、止まらない。
その女性が、台所へおりていくと、そこにいた。
ワイフと楽しそうに会話をしていた。
お茶を飲みながら、少し離れたところに座った。

ほんとうはすぐ書斎へ戻りたかったが、その
女性に呼びとめられた。

そのときのこと。
はじめはその女性といくつか言葉を交わした。
が、そのあと私は目を閉じて、心の中で、歌を
歌い始めた。

「♪アメージング・グレイス」である。
50~60%は歌えるが、あとは
懸命に思い出しながら歌った。
もちろん口は動かさなかった。

そのとき私はその女性が何を話しているか、
よく理解できた。
そのつど、「そうだな」とか、「なるほど」と
思った。

しかし、だ。
そのあと、おもしろい現象が起きた。

その女性はそのまま帰ったが、私は私が心の中で
歌を歌っていたとき、その女性がどんな話をしたか、
まったく、思い出せなかった。

私「あのね、ぼくね、あの人が話をしているとき、
ずっと心の中で、歌を歌っていたよ」
ワ「わかっていたわ。あなた足で、リズムをとっていたから」
私「それでね、そのときは、その女性がどんな話をしていたか
よくわかったはずなんだけど、どんな話をしたか、今、
まったく思い出せないんだよ」と。

記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)という3つの
プロセスを経て、脳の中に記憶として残る。
(記銘)というのは、「書き込み」のこと。
(保持)というのは、「保存する能力」のこと。
(想起)というのは、「思い出す能力」のこと。

たとえば私たちは乳幼児期の記憶について、思い出すことができない。
が、だからといって、記憶がないわけではない。
このばあい、(記銘)と(保持)はしているが、(想起)することはできないだけ。
つまり記憶はどこかに残っているのだが、それを記憶として取り出す
ことができない。

そこで今回の実験。
私はその女性が話をしている間、心の中で歌を歌っていた。
歌詞はうろ覚えだったから、懸命に思い出しながら、
それを歌っていた。

その女性の話は、私の脳には届いていた。
だからそのときは、その女性がどんな話をしているか、理解できた。
しかし私は歌を歌うことで、脳の中にその女性の話を刻まなかった。
脳の立場でいうなら、(記銘)が、阻害された。

だからその女性が帰ったあと、その女性がどんな話をしたか、
思い出せなかった。
この現象は、認知症の患者に起こる記憶障害とよく似ている(?)。

ワ「どんな話をしたのか、覚えていないの?」
私「思い出せない・・・」
ワ「あの人の叔父の話をしていたのよ。あの人の叔父がね、イタリアへ
行ってきたんだって」
私「そんな話をしていたの・・・」と。

そこで同じ実験を、今度は、ビデオを見ながらしてみた。
古いビデオを見ながら、私は、心の中で、歌を歌ってみた。
今度はよく知っている、「♪サウンド・オブ・サイレンス」にしてみた。

が、これはうまくいかなかった。
映画の字幕を読んでいたためだと思う。

つぎにワイフが何かを勝手に話し始めたときに、してみた。
夕食のあとのことだった。
私はまた心の中で、歌を歌ってみた。
「♪アメージング・グレイス」にしてみた。
そしてあの女性のときのように、目を閉じて、そうしてみた。

ワイフが何を話しているかは、理解できた。
そのときは、「そうだな」とか、「フ~ン」とか、思った。
しかししばらくしてから、ワイフの話したことを思い出そうと
してみたときのこと。
私は何も覚えていないことを知った。

実験、成功!

こうして私は、認知症の擬似体験をすることができた。

(方法)
(1) 目を閉じて、視覚的な情報を遮断すること。
(2) 相手が話しているとき、心の中で歌を歌う。あまり歌詞を知らない歌がよい。

(応用)
(1) いやな相手と話をするときは、目を閉じて、心の中で歌を歌う。
(2) 聞きたくない話を聞くときは、目を閉じて、心の中で歌を歌う。

・・・しかしこれはあくまでも実験。
実際、認知症か何かで記憶障害に悩んでいる人には、たいへん失礼な
実験かもしれない。
それはわかっている。
それにこんなことが日常的に起きている人には、たいへん深刻な
問題である。
それもわかっている。
しかしこういう実験をしてみることによって、記憶障害というのが
どういうものか、具体的に理解できる。
深刻さも理解できる。

なおこの実験のヒントをくれたのは、小学生の子どもだった。
その子どもがある日、こう教えてくれた。

「ぼくは、ママに叱られているときは、いつも心の中でポケモンの歌を
歌っている」と。
何でもそうしていると、母親に叱られても、気にならないのだそうだ。

不謹慎な応用かもしれないが、もしあなたの近くに口うるさい人が
いて、何か、小言を言い始めたら、この方法を応用してみるとよい。

記憶に残らないから、その分だけ、あとで気にしないですむ。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●北朝鮮の女スパイ

+++++++++++++++++++

このたび、北朝鮮の女スパイが、韓国で
逮捕された。
この日本にもたびたび、来ていたという。
与えられた任務のひとつは、脱北して
日本へ移り住んでいる人たちの住所と
名前を調べるというものだったという。
(韓国紙、報道)

+++++++++++++++++++

●とんでもない話!

もしこれが事実とするなら、とんでもない話である。
北朝鮮はその女スパイからの情報をもとに、北朝鮮から
逃げてきた人たちに対して、何かをするつもりだった。

中国へ逃げた人たちに対しては、拉致した上、北朝鮮へ連れ戻して
いたという事実もある。
その女スパイが関係した人たちだけでも、かなりの数になるという。

もしこんなことが実行されていたとしたら、(すでに実行された
かもしれないが)、日本は同じ過ちを繰り返すことに
なった。
日本人が北朝鮮の特殊部隊に拉致されたのは、日本政府にも責任がある。
かんたんに言えば、「日本政府がだらしないから、こういうことが起きた」。

そしてまた今度、こういう女スパイを摘発できなかったということは、
やはり、「日本政府がだらしないから」ということになる。

もちろん最大の悪は北朝鮮の金xxだが、彼の犯罪を許してしまった
日本政府にも、責任がある。
が、どうして日本政府は、こうまで甘いのか?
だらしないのか?

日本には日本の特殊な事情がある。
それはわかる。
しかし世界は、もっと別の基準で動いている。
緊張感そのものがちがう。

韓国筋の情報によると、その女スパイは、朝鮮S連の幹部とも
連絡を取りあっていたという。
(当の幹部は、「名前を使われただけ」と弁解しているが……。)
もしこれが事実なら、朝鮮S連そのものが、北朝鮮スパイ団の
中心的拠点ということになる。
(わかりきったことだが……。)

そういう団体が、堂々と日本国内で、北朝鮮から逃げてきた人たちを
拉致し、再び北朝鮮へ送り返そうとしていた。
順に考えていけば、そういうことになる。

こんなとんでもない話が、どこにある?
それにもう一言。
こんなとんでもないことに対して何もできない、だらしない国が
どこにある?

繰り返しになるが、拉致問題にしても、日本政府にも責任がある。
その責任を忘れてはいけない。

(補記)
この2~3年はないが、それ以前は、こういう記事を書くと
必ずといってよいほど、ハングル文字で書かれた抗議文が
メールで届いた。
幸いなことに、私は、朝鮮語がほとんどわからない。
さらに最近では、韓国、北朝鮮からのメールは、すべてフィルターを
かけて処理している。

「この日本が安全で自由な国だ」と、もし、あなたが思っているとしたら、
それはとんでもないまちがいである。

*We like you, Shingo Yamashiro!

●8月30日(土曜日)

●山城新伍のこと(がんばれ、山城新伍!)

+++++++++++++++++

昨日、俳優の山城新伍のことを書いた。
若い人たちは知らないかもしれないが、団塊の世代につづく、つぎの世代の人たちの間では、絶大な人気があった。
『白馬童子』という名前を知らない人はいない。

実は私も、山城新伍のファン。
飾り気のない、あの毒舌が好きだった。
ちょっと、(あるいは、かなり)、スケベぽい俳優だったが、憎めなかった。

その山城新伍は、現在、特別養護老人ホームに入居しているという。
69歳という。
糖尿病の悪化で、体が不自由になったらしい。
「週刊B春」誌によれば、悪化し始めたのは、離婚問題がこじれた10年ほど前からという。
逆算すると、現在の私の年齢ということになる。
だから、よけいに山城新伍のことが気になる。

どうしてだろう?
どうしてこうも、気になるのだろう?

山城新伍という俳優は、世俗的な見方をすれば、大成功者(?)ということになる。
収入にしても、私たち庶民とは、2桁はちがう。(……と思う。)
ああいう人たちは、私たちが1万円稼ぐような場面で、100万円単位のお金を稼ぐ。
交友関係も広い。
そういう大成功者でも、現在は、「昔のマネージャーと弟氏が、2か月に一度くらい面会に来る程度」(同誌)という。
本人もリハビリをつづけているとはいうが、「治る見込みもない」「そっとしておいてほしい」(同誌)とのこと。

ファンの1人としては、「がんばって復帰してほしい」ということになるが、同時に、「長い間、ごくろうさん」という気持ちもある。

山城新伍とは比較にならないが、現在の山城新伍の姿は、10年後、あるいは20年後の私自身の姿いうことになる。

その山城新伍のことを思い浮かべながら、「人生って、こういうものかなあ」と思う。
「こういうものであったいいのかなあ」とも思う。
言いかえると、「人生って、何なのか」とも。

あるいはこうは考えられないだろうか。

山城新伍の人生を、誕生のときと今のときを、一本の線でつなぐなら、その間の人生は幻のようなもの、と。
ひょっとしたら、私たちは、この光と、分子の織り成す世界で、踊らされているだけかもしれない。
もともと価値のないものを価値あるものと信じ、価値のあるものを、価値のないものと思い込んでいる。
マスコミの世界では、とくにそうだ。

こうした世界を、「夢」と表現する人も多い。
日蓮もそう言ったし、織田信長も、そう言った。
実体があるようで、その実、実体がない。
「私」にしても、どこからどこまで私で、またどこから先が私でないかも、わからない。

が、意識そのものがズレているから、それにすら気づくこともない。
だからといって、山城新伍の人生が無駄だったとか、そういうことを
言っているのではない。
私たち自身もまた、程度の差こそあれ、山城新伍と同じことをしているということ。

山城新伍は、私よりもはるかにダイナミックな人生を歩んできた。
しかし老後を迎えた今、そこに待っていたのは、『恍惚の世界』だった。
有吉佐和子の言葉を借りるまでもなく、こんな皮肉なことがあるのだろうか。
「長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老もうが待ち受けているとしたら、人間は何のために生きたことになるのだろう」(有吉佐和子「恍惚の人」)と。

では、どうすればよいのか。
どうすれば「夢」を夢と気づき、どうすればその「夢」から自分を
解放することができるか。

それについては、私は、「ゴールのない旅のようなもの」と思っている。
老後はだれしも避けられないものであり、夢から自分を解放することはできない。
が、老後になっても、何かの希望をもち、その希望に向かって生きていくことができる。

ゴールできないからといって、あきらめてはいけない。
つねに旅をすることこそ、重要。
けっして立ち止まってはいけない。
死ぬまで、歩きつづける。

釈迦はそれを『精進』という言葉を使って説明した。
それは健康論に似ている。
究極の健康論などというものは、ない。
日々に努力をしてはじめて、健康というのは維持できる。
その努力をやめたとたん、健康は下り坂に向かう。

で、私自身は、『怪傑ハリマオ』や、『月光仮面』の世代である。
『鉄腕アトム』や、『鉄人28号』、さらには『赤胴鈴之助』の世代である。
しかしその結果、今の私があるとしても、あの世界は、「夢」だったのかもしれない。

山城新伍にしても、そうだ。
『白馬童子』で世に出たが、その流れの中で、踊らされただけ。
むしろ現在の山城新伍のほうが、(本物)かもしれない。

週刊B春誌によれば、こうある。

「……こちらではどんな生活をされているのですか」という質問に対して、「週末なんかは、みんなでパーティをやったりね。まあ、楽しいってことはないけれど、皆さんと明るく交流はしていますよ。ここでは『山城新伍がいる』なんて言う人は、だれもおらんから。ここが終(つい)の棲家(すみか)ですよ」と。

山城新伍は、与えられた世界を受け入れ、その世界で、今、懸命に生きようとしている。
ひょっとしたら、山城新伍は、その世界で、本当の「私」を発見しつつあるのかもしれない。
山城新伍という俳優が、ますます好きになった。
芸能界に復帰したら、私はまっさきに、彼を応援する。

++++++++++++++++

(補記)
まとまりのない文章で、すみません。
私もこうした問題になると、どう考えたらよいのか、よくわかりません。
仮に70歳まで元気で生きたとしても、あるいは80歳まで元気で生きたとしても、その先で待っているのは、『恍惚の世界』(有吉佐和子)。
できるだけ長く、元気で生きたいとは思ってはいますが、無益に10年、生きながらえたとして、それにどういう意味があるというのでしょうか。
20年でも、同じです。

遅かれ早かれ、どうせ老後はやってきます。

大切なのは、「長く生きる」ことではなく、「どう深く生きるか」ということなのですね。
あとはその目標に向かって生きるだけ。
がんばるだけ。
その先に何があるか、本当のところ、私にもわかりません。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●「何を言いたいのか、さっぱり、わかりません」

++++++++++++++++++++

先日、私のBLOG(Yブログ)に、こんなコメントが寄せられていた。
「あなたの書いている文を読んでも、意味がわかりません。何を言いたいのか、それもさっぱり、わかりません」と。

++++++++++++++++++++

文の感じからして、若い女性のコメントだと思う。
事実、そのとおりだから、反論の使用がない。

で、私はそのコメントを読んだあと、その女性がコメントをつけた自分の記事を読みなおしてみた。
時代は変わっても、それぞれの世代に人たちがすることは、似たようなものという内容のものだった。
たとえば流行についても、私たちは私たちの時代で、流行を追った。
今の若い人たちから見れば、かび臭い流行だったかもしれないが、それでも流行だった。
同じように、今の若い人たちが追いかけている流行にしても、つぎの世代の人たちは、同じようにいつか、かび臭く思うだろう。
つまり中身はちがっても、やっていることは同じ。
時代ごとに、みな、それを繰り返しているだけ、と。

が、その人は、それについて、「理解できない」と。

私は何度も自分の書いた文章を読みなおしながら、「どこに問題があるのだろう」と考えた。
私は自分なりに、わかりやすく、読みやすい文章を考えて書いているつもりである。
しかしそう思っているのは、私だけ(?)。
このところ頭のサエも、鈍ってきた。
その分だけ、文章がまとまらなくなってきた。

言うまでもなく、文章というのは、人に読んでもらってはじめて、命を得る。
これを段階的にチャート化すると、こうなる。

(1) 読んでもらう。
(2) 理解してもらう。
(3) 賛同してもらう。

読んでもらえるだけでも、感謝。
理解してもらえれば、うれしい。
賛同してもらうということは、ほとんど期待していない。

そこで私はこう決心した。
これからは、若い女性にももっと理解してもらえるような文章を書こう、と。
「理解できないのは、君たちのほうに原因がある」などという、高慢な気持ちはもってはいけない。

では、どうすればよいのか。

私はこの文章もそうだが、こんなことに注意している。

(1)句読点をふやしている。(2)1文ずつ、改行している。(3)1文を、できるだけ短くしている。(4)できるだけ漢字を使わないようにしている。(5)難解な言葉を、使わないようにしている、などなど。

あとは、(6)具体的なエピソードを多くし、(7)読者の人に楽しんでもらえるようにしている。

読者の人あっての、文章である。
私はそのコメントを読んで、改めて、それを肝に銘じた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●異変? 少なくなったスズメ!

+++++++++++++++++++

今年、私の家の庭にやってくるスズメの数が、
激減している。

+++++++++++++++++++

例年だと、数10羽単位の群れが、ときに2つ、3つ
とやってくるのだが、今年は、やってきても、5、6羽。
ときおりやってきて、あとは閑散としている。

夏前には、子連れのスズメもやってきたが、それでも
10組とか20組程度?

そのため与える餌の量も、ぐんと減った。
例年だと、近くの農協で、20キロ入りの飼料が、春先から夏までに
2、3袋、必要だった。
今年はまだ、1袋が、3分の1も残っている。

「どこかで、だれかが、スズメを殺している」と、私は思っている。
だれとは言わないが、スズメを害鳥と思っている人は多い。
とくに秋の米の収穫時にはそうだろう。

それはわかるが、その時期をのぞけば、スズメは、益鳥である。
農作物に害を与える害虫を、食べてくる。

これは私の邪推かもしれないが、もしどこかでスズメを殺して
いる人がいたら、どうかそういうことはやめてほしい。

そうでなくても野鳥の住む区域が、どんどんと狭くなっている!

*We

●8月30日(土曜日)

●山城新伍のこと(がんばれ、山城新伍!)

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昨日、俳優の山城新伍のことを書いた。
若い人たちは知らないかもしれないが、団塊の世代につづく、つぎの世代の人たちの間では、絶大な人気があった。
『白馬童子』という名前を知らない人はいない。

実は私も、山城新伍のファン。
飾り気のない、あの毒舌が好きだった。
ちょっと、(あるいは、かなり)、スケベぽい俳優だったが、憎めなかった。

その山城新伍は、現在、特別養護老人ホームに入居しているという。
69歳という。
糖尿病の悪化で、体が不自由になったらしい。
「週刊B春」誌によれば、悪化し始めたのは、離婚問題がこじれた10年ほど前からという。
逆算すると、現在の私の年齢ということになる。
だから、よけいに山城新伍のことが気になる。

どうしてだろう?
どうしてこうも、気になるのだろう?

山城新伍という俳優は、世俗的な見方をすれば、大成功者(?)ということになる。
収入にしても、私たち庶民とは、2桁はちがう。(……と思う。)
ああいう人たちは、私たちが1万円稼ぐような場面で、100万円単位のお金を稼ぐ。
交友関係も広い。
そういう大成功者でも、現在は、「昔のマネージャーと弟氏が、2か月に一度くらい面会に来る程度」(同誌)という。
本人もリハビリをつづけているとはいうが、「治る見込みもない」「そっとしておいてほしい」(同誌)とのこと。

ファンの1人としては、「がんばって復帰してほしい」ということになるが、同時に、「長い間、ごくろうさん」という気持ちもある。

山城新伍とは比較にならないが、現在の山城新伍の姿は、10年後、あるいは20年後の私自身の姿いうことになる。

その山城新伍のことを思い浮かべながら、「人生って、こういうものかなあ」と思う。
「こういうものであったいいのかなあ」とも思う。
言いかえると、「人生って、何なのか」とも。

あるいはこうは考えられないだろうか。

山城新伍の人生を、誕生のときと今のときを、一本の線でつなぐなら、その間の人生は幻のようなもの、と。
ひょっとしたら、私たちは、この光と、分子の織り成す世界で、踊らされているだけかもしれない。
もともと価値のないものを価値あるものと信じ、価値のあるものを、価値のないものと思い込んでいる。
マスコミの世界では、とくにそうだ。

こうした世界を、「夢」と表現する人も多い。
日蓮もそう言ったし、織田信長も、そう言った。
実体があるようで、その実、実体がない。
「私」にしても、どこからどこまで私で、またどこから先が私でないかも、わからない。

が、意識そのものがズレているから、それにすら気づくこともない。
だからといって、山城新伍の人生が無駄だったとか、そういうことを
言っているのではない。
私たち自身もまた、程度の差こそあれ、山城新伍と同じことをしているということ。

山城新伍は、私よりもはるかにダイナミックな人生を歩んできた。
しかし老後を迎えた今、そこに待っていたのは、『恍惚の世界』だった。
有吉佐和子の言葉を借りるまでもなく、こんな皮肉なことがあるのだろうか。
「長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老もうが待ち受けているとしたら、人間は何のために生きたことになるのだろう」(有吉佐和子「恍惚の人」)と。

では、どうすればよいのか。
どうすれば「夢」を夢と気づき、どうすればその「夢」から自分を
解放することができるか。

それについては、私は、「ゴールのない旅のようなもの」と思っている。
老後はだれしも避けられないものであり、夢から自分を解放することはできない。
が、老後になっても、何かの希望をもち、その希望に向かって生きていくことができる。

ゴールできないからといって、あきらめてはいけない。
つねに旅をすることこそ、重要。
けっして立ち止まってはいけない。
死ぬまで、歩きつづける。

釈迦はそれを『精進』という言葉を使って説明した。
それは健康論に似ている。
究極の健康論などというものは、ない。
日々に努力をしてはじめて、健康というのは維持できる。
その努力をやめたとたん、健康は下り坂に向かう。

で、私自身は、『怪傑ハリマオ』や、『月光仮面』の世代である。
『鉄腕アトム』や、『鉄人28号』、さらには『赤胴鈴之助』の世代である。
しかしその結果、今の私があるとしても、あの世界は、「夢」だったのかもしれない。

山城新伍にしても、そうだ。
『白馬童子』で世に出たが、その流れの中で、踊らされただけ。
むしろ現在の山城新伍のほうが、(本物)かもしれない。

週刊B春誌によれば、こうある。

「……こちらではどんな生活をされているのですか」という質問に対して、「週末なんかは、みんなでパーティをやったりね。まあ、楽しいってことはないけれど、皆さんと明るく交流はしていますよ。ここでは『山城新伍がいる』なんて言う人は、だれもおらんから。ここが終(つい)の棲家(すみか)ですよ」と。

山城新伍は、与えられた世界を受け入れ、その世界で、今、懸命に生きようとしている。
ひょっとしたら、山城新伍は、その世界で、本当の「私」を発見しつつあるのかもしれない。
山城新伍という俳優が、ますます好きになった。
芸能界に復帰したら、私はまっさきに、彼を応援する。

++++++++++++++++

(補記)
まとまりのない文章で、すみません。
私もこうした問題になると、どう考えたらよいのか、よくわかりません。
仮に70歳まで元気で生きたとしても、あるいは80歳まで元気で生きたとしても、その先で待っているのは、『恍惚の世界』(有吉佐和子)。
できるだけ長く、元気で生きたいとは思ってはいますが、無益に10年、生きながらえたとして、それにどういう意味があるというのでしょうか。
20年でも、同じです。

遅かれ早かれ、どうせ老後はやってきます。

大切なのは、「長く生きる」ことではなく、「どう深く生きるか」ということなのですね。
あとはその目標に向かって生きるだけ。
がんばるだけ。
その先に何があるか、本当のところ、私にもわかりません。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●「何を言いたいのか、さっぱり、わかりません」

++++++++++++++++++++

先日、私のBLOG(Yブログ)に、こんなコメントが寄せられていた。
「あなたの書いている文を読んでも、意味がわかりません。何を言いたいのか、それもさっぱり、わかりません」と。

++++++++++++++++++++

文の感じからして、若い女性のコメントだと思う。
事実、そのとおりだから、反論の使用がない。

で、私はそのコメントを読んだあと、その女性がコメントをつけた自分の記事を読みなおしてみた。
時代は変わっても、それぞれの世代に人たちがすることは、似たようなものという内容のものだった。
たとえば流行についても、私たちは私たちの時代で、流行を追った。
今の若い人たちから見れば、かび臭い流行だったかもしれないが、それでも流行だった。
同じように、今の若い人たちが追いかけている流行にしても、つぎの世代の人たちは、同じようにいつか、かび臭く思うだろう。
つまり中身はちがっても、やっていることは同じ。
時代ごとに、みな、それを繰り返しているだけ、と。

が、その人は、それについて、「理解できない」と。

私は何度も自分の書いた文章を読みなおしながら、「どこに問題があるのだろう」と考えた。
私は自分なりに、わかりやすく、読みやすい文章を考えて書いているつもりである。
しかしそう思っているのは、私だけ(?)。
このところ頭のサエも、鈍ってきた。
その分だけ、文章がまとまらなくなってきた。

言うまでもなく、文章というのは、人に読んでもらってはじめて、命を得る。
これを段階的にチャート化すると、こうなる。

(1) 読んでもらう。
(2) 理解してもらう。
(3) 賛同してもらう。

読んでもらえるだけでも、感謝。
理解してもらえれば、うれしい。
賛同してもらうということは、ほとんど期待していない。

そこで私はこう決心した。
これからは、若い女性にももっと理解してもらえるような文章を書こう、と。
「理解できないのは、君たちのほうに原因がある」などという、高慢な気持ちはもってはいけない。

では、どうすればよいのか。

私はこの文章もそうだが、こんなことに注意している。

(1)句読点をふやしている。(2)1文ずつ、改行している。(3)1文を、できるだけ短くしている。(4)できるだけ漢字を使わないようにしている。(5)難解な言葉を、使わないようにしている、などなど。

あとは、(6)具体的なエピソードを多くし、(7)読者の人に楽しんでもらえるようにしている。

読者の人あっての、文章である。
私はそのコメントを読んで、改めて、それを肝に銘じた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●異変? 少なくなったスズメ!

+++++++++++++++++++

今年、私の家の庭にやってくるスズメの数が、
激減している。

+++++++++++++++++++

例年だと、数10羽単位の群れが、ときに2つ、3つ
とやってくるのだが、今年は、やってきても、5、6羽。
ときおりやってきて、あとは閑散としている。

夏前には、子連れのスズメもやってきたが、それでも
10組とか20組程度?

そのため与える餌の量も、ぐんと減った。
例年だと、近くの農協で、20キロ入りの飼料が、春先から夏までに
2、3袋、必要だった。
今年はまだ、1袋が、3分の1も残っている。

「どこかで、だれかが、スズメを殺している」と、私は思っている。
だれとは言わないが、スズメを害鳥と思っている人は多い。
とくに秋の米の収穫時にはそうだろう。

それはわかるが、その時期をのぞけば、スズメは、益鳥である。
農作物に害を与える害虫を、食べてくる。

これは私の邪推かもしれないが、もしどこかでスズメを殺して
いる人がいたら、どうかそういうことはやめてほしい。

そうでなくても野鳥の住む区域が、どんどんと狭くなっている!

*Eagerness

●物欲

++++++++++++++++++

物欲のメカニズムについては、前にも
書いた。
何かの刺激が与えられると、脳の視床下部というところから、
強力なシグナルが発せられる。
このシグナルに応じて、ドーパミンという
ホルモンが分泌される。
このドーパミンが、線条体というところを
刺激する。
すると、「欲望」が、ググッと湧き起こってくる。

この欲望について、最終的には、大脳の前頭前野
がコントロールすることになるが、理性だけの
力でコントロールするのは、不可能と考えてよい。

よい例に、アルコール中毒やニコチン中毒がある。
過食症もそのひとつと言われている。

中身はちがうが、脳内で起こるメカニズムは同じ。

で、今夜その物欲の恐ろしさを経験した。
理性を超えた、物欲の恐ろしさ、である。
ということで、ハハハ、何を隠そう、
新しいパソコンを買ってしまった。
「買ってしまった」というくらい、まったくの衝動買い。

FAXの印字リボンを買いに行ったのだが、そこで、
「エイサー」のミニ・パソコンが目についた。
「ASPIRE ONE」。
思わず手にとってみた。
キーボードを軽く叩いてみた。
とたん、あの物欲。

ガガーンと脳みそを刺激した。
とたん、がまんできなくなった。

で、買ってしまった。

では、少し前に買った、HP社の2133は、どうなったか?
どちらも今、流行のミニ・パソコン。

が、HP社の2133は、英字式キーボード。
ワープロ中心に使う私にしてみれば、どこか使いにくい。

ということで、買ってしまった。
キーサイズは、やや狭いかなというところだが、私の指は、平均的な人より細い。
あとは「慣れ」の問題。

で、今、そのパソコンを使って、この文章を書いている。
デスクトップのようなわけにはいかないが、サクサクと文章が
打つことができる。
気持ちよい。

しかしそれにしても、物欲には、ものすごい力がある。
で、ワイフにこう言った。

「浮気性の男というのがいるだろ。そういう男は、『女性の肉体』
を見ると、あるいは想像すると、物欲と同じメカニズムが
脳内で働くのではないか。『欲しい』と思ったとたん、ブレーキが
きかなくなる。ぼくのばあいは、電気製品だが、電気製品で
ほんとうによかったね」と。

ワイフは「何、言っているの!」というような顔で、私を見つめ返したが、
無言のままだった。

言い忘れたが、HPの2133は、しばらく書斎のサブノートとして
使うことにする。
現在、書斎では、大型のデスクトップパソコンを2台使っているが、
XPパソコンのほうは、どうも調子がよくない。
ときどき、予期しないところで、フリーズしてしまう。
マザーボードに故障があると思われるが、よくわからない。

そのXPパソコンのかわりに、しばらく使う。
しかし2台は、いらない。
たぶん、そのあとは、息子たちのだれかに、払い下げることになる。
いつものことだが……。

(補記)

ほしいものを手に入れたとき、ほっとしたような安堵感を覚える。
心地よい満足感である。
この満足感を冷静に観察してみると、何かの試合で勝ったときに感ずる
満足感に似ている。
甘い陶酔感もともなっているから、きっと脳内で、モルヒネ系のホルモンが分泌
されているにちがいない。

この陶酔感が、新しい受容体を形成する。
あるいはそれまでにあった受容体を補強する。
そのため、こうした欲望には、反復性が生まれる。
ちょうどアルコール中毒の人が、酒のコマーシャルを見ただけで、酒を
飲みたくなるのと同じように、新しいパソコンを見ただけで、それが
ほしくなる。

今日、新しいパソコンを買ったからといって、ここで終わるわけではない。
しばらくすると、また新しいパソコンがほしくなる。
あとは、この繰り返し。

では、こうした受容体が「悪」かといえば、そうでもない。
サッカーボールを見ただけで、足がウズウズする人だっているはず。
欲望は、よい方向に導けば、その人を前向きに伸ばしていく。
スポーツ選手などが、そのよい例ということになる。
が、導き方が悪いと、多くのばあい、その人をかえって後退させてしまう。

欲望は、つねに両刃の剣であることを忘れてはいけない。

Friday, August 29, 2008

*Japan vs South Korea Economic War

●日韓経済戦争(08年8月29日版)
Japan vs. South Korea, Economic War
(Aug. 29th, 2008)

+++++++++++++++

反日も結構だが、現在の韓国に
とって、反日政策は、損になることは
あっても、得になることは何もない。

今、韓国経済は、危機的な状況にある。
まず朝鮮N報の記事を紹介する(8月29日)。

+++++++++++++++

韓国政府や金融機関、企業が外国の政府、金融機関、企業などに返さなければならない対外債務は6月末現在で4197億6000万ドル(約45兆8000億円)。
これに対し、外国為替市場が注目しているのは1年以内に償還しなければならない流動対外債務(短期対外債務と償還時期まで1年以内の長期対外債務の合計)になった。

流動対外債務は6月末現在で2223億2000万ドル(約24兆2600億円)に達し、3月末よりも61億9000万ドル(約6754億円)増えた。対外債務に占める流動対外債務の比率も昨年末の75.8%から6月末には86.1%に上昇した。当面返さなければならない借金による圧力が大きくなっている計算だ。

 対外債務が増加しているのに対し、政府が万一の際に対外債務償還に当てるための「実弾」に当たる外貨準備高は年初来減少傾向だ。外貨準備高は3月末の2642億ドル(約28兆8300億円)をピークに6月末に2581億ドル(約28兆1600億円)、7月末に2475億ドル(約27兆円)へと減少。8月末も2400億ドル(約26兆1800億円)をやや上回る水準になるとみられる。
(以上、朝鮮N報、8月29日)。

数字が並ぶので、わかりやすく解説しよう。

あなたは小さな町工場の社長。
現在、あなたは、4200万円の借金をかかえている。

そのうち今年中に返さなければならない借金が、2200万円。
この額は、毎月約20万円ずつ、ふえている。

が、会社の資産、つまり家庭で言えば貯金は、現在、2400万円しかない。
去年(07年)には、2600万円あったので、200万円も減ったことになる。

今の状態で、2200万円の借金を返したら、残りは、たったの200万円という
ことになる。

仕事は、このところ赤字つづき。
しかも原油高で、支払い額もふえつづけている。
先月7月だけでも、107万円も、何かと出費がふえた。

そこであなたという社長は、二者択一問題に迫られている。

「既に危険水準に到達しており、為替安定か外貨準備高確保かという二者択一が必要だ」
(朝鮮N報)と。

会社の経営のため、貯金を切り崩して赤字を補うか、それとも、将来に備えて貯金を維持するか。

つまり為替を安定させるために外貨を使うか、それとも外貨を確保するか、と。
しかし為替を安定させるとしても、その額は、残り、200億円分程度しかない。

以上が韓国の現状ということになるが、悲劇は重なる。

世界的に、とくにアメリカ系の銀行は、外資を引きあげる動きを見せている。
つまり「貸した金は返せ」と。

ところが、である。
つぎの数字を冷静に見てほしい。

第一銀行  外資比率100% (筆頭株主:スタンダード・チャータード)
 韓美銀行  外資比率 99% (筆頭株主:シティ・グループ)
 国民銀行  外資比率 86% (筆頭株主:バンク・オブ・ニューヨーク)
 外換銀行  外資比率 74% (筆頭株主:ローンスター)
 ハナ銀行  外資比率 72% (筆頭株主:ゴールドマンサックス)

わかるかな? エッ、まだわからない?

国策銀行のウリ銀行をのぞいて、韓国の銀行は、すべて、外資の支配下にあるということ。国民銀行を例にあげてみると、86%が、外資。
しかもその筆頭株主は、バンク・オブ・ニューヨーク! 
アメリカの銀行である。わかりやすく言えば、韓国の銀行は、アメリカの銀行、もしくはその支店と考えてよい。

つまり韓国の銀行は、そのほとんどが外資銀行(=アメリカの銀行)ということ。
97年のデフォルトのあと、そうなった。

本家の本店で、外貨がショート(不足)すれば、当然、これらの銀行は、各国から外資をまっさきに、引きあげる。
朝鮮N報も、こう書いている。

「米国の住宅景気低迷とそれに伴う金融不安は回復の兆しを見せていない。その上、メリルリンチ、リーマン・ブラザーズなどウォール街の金融機関は住宅景気低迷で不良債権が増え、全世界から資金を引き揚げている。万一の際に使える豊富な外貨準備がない状況で外国資本が一気に還流すれば、韓国の外貨準備高は流動性危機に直面する可能性がある」と。

私の知ったことではないが、アメリカの銀行は、甘くないぞ!

この日本も借金だらけ。
しかし日本が韓国とちがう点は、日本は外国からは金を借りていない。
いわば身内の借金ということになる。
わかりやすく言えば、親(=国)が、子(=国民)から借金している。
その国民が、1100兆円という莫大な金融資産を保有している。

一方韓国は、外国から借金をしている。
いわば街なかのサラ金からの借金ということになる。
しかも個人負債が、1世帯当たり、500万円に迫っている。

韓国銀行と民間経済研究所の分析によると、06年の9月末現在、韓国の家計の金融負債は過去最大の558兆ウォン(約71兆円)に達したという。
日本の人口で計算しなおすと、4倍の280兆円! (日本の人口は、韓国の人口の約3倍。)

これだけでも、韓国では、1世帯当たり3500万ウォン(約445万円)の借金を抱えているということになる。そのため1世帯当たりの年間返済利子負担額だけでも、300万ウォン(約38万円)に迫ることになる。

ついで、家計負債の規模は昨年1年間で10・4%増加。一方、同じ期間の国民所得は2・2%の増加にとどまっているという。

危険度という点では、日本と韓国とでは、比較にならない。

なお今日、1ドル、1085ウォンにまで下落している。
外資の流出が止まらない状況と考えてよい。

なお韓国政府は、このところ立て続けに、大本営発表を繰りかえしている。
「韓国経済は安定している」という大本営発表である。
こうした大本営発表には、くれぐれも注意したほうがよい。
2008/08/29記

*Japan vs South Korea Economic War

●日韓経済戦争(08年8月29日版)
Japan vs. South Korea, Economic War
(Aug. 29th, 2008)

+++++++++++++++

反日も結構だが、現在の韓国に
とって、反日政策は、損になることは
あっても、得になることは何もない。

今、韓国経済は、危機的な状況にある。
まず朝鮮N報の記事を紹介する(8月29日)。

+++++++++++++++

韓国政府や金融機関、企業が外国の政府、金融機関、企業などに返さなければならない対外債務は6月末現在で4197億6000万ドル(約45兆8000億円)。
これに対し、外国為替市場が注目しているのは1年以内に償還しなければならない流動対外債務(短期対外債務と償還時期まで1年以内の長期対外債務の合計)になった。

流動対外債務は6月末現在で2223億2000万ドル(約24兆2600億円)に達し、3月末よりも61億9000万ドル(約6754億円)増えた。対外債務に占める流動対外債務の比率も昨年末の75.8%から6月末には86.1%に上昇した。当面返さなければならない借金による圧力が大きくなっている計算だ。

 対外債務が増加しているのに対し、政府が万一の際に対外債務償還に当てるための「実弾」に当たる外貨準備高は年初来減少傾向だ。外貨準備高は3月末の2642億ドル(約28兆8300億円)をピークに6月末に2581億ドル(約28兆1600億円)、7月末に2475億ドル(約27兆円)へと減少。8月末も2400億ドル(約26兆1800億円)をやや上回る水準になるとみられる。
(以上、朝鮮N報、8月29日)。

数字が並ぶので、わかりやすく解説しよう。

あなたは小さな町工場の社長。
現在、あなたは、4200万円の借金をかかえている。

そのうち今年中に返さなければならない借金が、2200万円。
この額は、毎月約20万円ずつ、ふえている。

が、会社の資産、つまり家庭で言えば貯金は、現在、2400万円しかない。
去年(07年)には、2600万円あったので、200万円も減ったことになる。

今の状態で、2200万円の借金を返したら、残りは、たったの200万円という
ことになる。

仕事は、このところ赤字つづき。
しかも原油高で、支払い額もふえつづけている。
先月7月だけでも、107万円も、何かと出費がふえた。

そこであなたという社長は、二者択一問題に迫られている。

「既に危険水準に到達しており、為替安定か外貨準備高確保かという二者択一が必要だ」
(朝鮮N報)と。

会社の経営のため、貯金を切り崩して赤字を補うか、それとも、将来に備えて貯金を維持するか。

つまり為替を安定させるために外貨を使うか、それとも外貨を確保するか、と。
しかし為替を安定させるとしても、その額は、残り、200億円分程度しかない。

以上が韓国の現状ということになるが、悲劇は重なる。

世界的に、とくにアメリカ系の銀行は、外資を引きあげる動きを見せている。
つまり「貸した金は返せ」と。

ところが、である。
つぎの数字を冷静に見てほしい。

第一銀行  外資比率100% (筆頭株主:スタンダード・チャータード)
 韓美銀行  外資比率 99% (筆頭株主:シティ・グループ)
 国民銀行  外資比率 86% (筆頭株主:バンク・オブ・ニューヨーク)
 外換銀行  外資比率 74% (筆頭株主:ローンスター)
 ハナ銀行  外資比率 72% (筆頭株主:ゴールドマンサックス)

わかるかな? エッ、まだわからない?

国策銀行のウリ銀行をのぞいて、韓国の銀行は、すべて、外資の支配下にあるということ。国民銀行を例にあげてみると、86%が、外資。
しかもその筆頭株主は、バンク・オブ・ニューヨーク! 
アメリカの銀行である。わかりやすく言えば、韓国の銀行は、アメリカの銀行、もしくはその支店と考えてよい。

つまり韓国の銀行は、そのほとんどが外資銀行(=アメリカの銀行)ということ。
97年のデフォルトのあと、そうなった。

本家の本店で、外貨がショート(不足)すれば、当然、これらの銀行は、各国から外資をまっさきに、引きあげる。
朝鮮N報も、こう書いている。

「米国の住宅景気低迷とそれに伴う金融不安は回復の兆しを見せていない。その上、メリルリンチ、リーマン・ブラザーズなどウォール街の金融機関は住宅景気低迷で不良債権が増え、全世界から資金を引き揚げている。万一の際に使える豊富な外貨準備がない状況で外国資本が一気に還流すれば、韓国の外貨準備高は流動性危機に直面する可能性がある」と。

私の知ったことではないが、アメリカの銀行は、甘くないぞ!

この日本も借金だらけ。
しかし日本が韓国とちがう点は、日本は外国からは金を借りていない。
いわば身内の借金ということになる。
わかりやすく言えば、親(=国)が、子(=国民)から借金している。
その国民が、1100兆円という莫大な金融資産を保有している。

一方韓国は、外国から借金をしている。
いわば街なかのサラ金からの借金ということになる。
しかも個人負債が、1世帯当たり、500万円に迫っている。

韓国銀行と民間経済研究所の分析によると、06年の9月末現在、韓国の家計の金融負債は過去最大の558兆ウォン(約71兆円)に達したという。
日本の人口で計算しなおすと、4倍の280兆円! (日本の人口は、韓国の人口の約3倍。)

これだけでも、韓国では、1世帯当たり3500万ウォン(約445万円)の借金を抱えているということになる。そのため1世帯当たりの年間返済利子負担額だけでも、300万ウォン(約38万円)に迫ることになる。

ついで、家計負債の規模は昨年1年間で10・4%増加。一方、同じ期間の国民所得は2・2%の増加にとどまっているという。

危険度という点では、日本と韓国とでは、比較にならない。

なお今日、1ドル、1085ウォンにまで下落している。
外資の流出が止まらない状況と考えてよい。

なお韓国政府は、このところ立て続けに、大本営発表を繰りかえしている。
「韓国経済は安定している」という大本営発表である。
こうした大本営発表には、くれぐれも注意したほうがよい。
2008/08/29記

Thursday, August 28, 2008

*About Health *Hypocrasy

●有酸素運動

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運動にも2種類ある。
有酸素運動と、無酸素運動である。
有酸素運動というのは、運動しているとき、
呼吸が荒くなるような運動をいう。

ランニングやジョギング、散歩や
サイクリングなど。

無酸素運動というのは、瞬発的に動いて、
それで終わるような運動をいう。
たとえば、ウェイトリフティングなどが
その例として、よくあげられる。

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「健康のためには、有酸素運動がよい」と、よく言われる。
運動しながら、呼吸によって体内へ取り入れた酸素で、
脂肪を燃焼させるような運動をいう。
わかりやすく言えば、最低でも30~40分程度、
体をいつもよりはげしく動かす運動がよい。
そういう運動をしていると、ジンワリと汗をかく。

では、無酸素運動では、どうしてだめなのか。
だめというより、どうして健康につながらないのか。

……これについては、私はまったくの門外漢なので、話はここまで。
しかしそんな私でも、有酸素運動が大切なことは、よく知っている。
数日も有酸素運動をしないでいると、体中がだるくなるのが、自分でもよくわかる。
思考力も減退する。

が、だからといって、運動が好きというわけではない。
できるなら、しないですませたい。
私はもともと怠け者。
寒い朝や、暑い昼などは、とくにそうである。
しかしそういう自分を押し切って、外に出る。
自転車にまたがる。
とたん、いつもの私に戻る。

おかしなもので、サイクリングを30年以上もつづけていると、
体のほうがいくら疲れていても、脚だけは、しっかりと動く。
ありがたいことだと思う。

で、30~40分も走っていると、真冬の手足が凍るような
夜でも、体中が、燃えるように熱くなる。
これが有酸素運動ということになる。

さらに最近の研究によれば、運動をすることによって、
筋肉自体が、ある種のホルモンを分泌するのだそうだ。
簡単に言えば、「若返りのホルモン」だそうだ。

持続的に運動を長い間つづけている人は、どこか若々しい。
そういった(ちがい)となって、外に現われる。

漢方(東洋医学)でも、『流水は腐らず』と教える。
サラサラと流れる水は、腐らないという意味である。

有酸素運動というのは、要するに体を腐らせないための
運動と考えればよい。


はやし浩司+++++++++Aug 2008++++++++++Hiroshi Hayashi

● 見舞い

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週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城S伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。

週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。

「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。

それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。

私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。
母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。

母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。

さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。

母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。

治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。

相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。

これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

++++++++++++++++++++

形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。

ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。

身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

++++++++++++++++++++

総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がり、複雑になったとも考えられる。

そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。
葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。

何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。
線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。

それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。

「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄な人だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。

そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。

母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、年齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。

むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。
経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。
それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。

だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と
答える。

形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。

だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。
そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。

で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)
死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。

それも「形」なのかもしれない。
が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。

こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。
その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。

葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

Wednesday, August 27, 2008

*Where was the Yamatai-Koku?

●邪馬台国(Yamatai-Koku, the root of the Japanese)

++++++++++++++++++

まぼろしの邪馬台国は、どこにあったのか?
その結論が出そうな、ビッグ・ニュースが、今日(8月27日)、
報道された。

++++++++++++++++++

奈良県桜井市の近くにある、「箸墓古墳(はしはか・こふん)」が、ひょっとしたら、ひょっとして、その卑弥呼の墓ではないかというのだ。

もし箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとするなら、邪馬台国は、奈良県にあったことになる。
まだ調査中なので、何とも結論は出せないが、

(1) 3世紀半ばの古墳である。
(2) 全長280メートル、幅60~70メートルの巨大な墓である。
(3) 内濠と外濠のある豪華な墓である、ということから、かなり有力視されている。

しかし「箸墓古墳は宮内庁の陵墓指定のため、立ち入りできない」(中日新聞)とのこと。
どうして?

3世紀半ばの古墳であるなら、少なくとも現在の天皇家とは関係ないはず。
どうしてそんな墓まで、「宮内庁の陵墓指定」になっているのか?
その前に、宮内庁って、いったい、何?
どうしてそうまで、秘密主義なのか?
何か、発見されたらまずいものでも、隠されているというのか?
何を恐れているのか?
何を守ろうとしているのか?

箸墓古墳についての記事を読みながら、別の心で、私はそんなことを考えた。

(付記)

仮に邪馬台国、近畿説が有力になってくると、もう一つ、無視できない謎が浮かびあがってくる。

「金印、贋作説」である。

金印というのは、『漢の倭の奴の国の王』と書かれた、あの金印である。
社会科の教科書にも広く紹介されている。
美術の教科書にも紹介されている。
国宝にも指定されている。

だいたいにおいて、あの金印の出所があやしい(?)。

江戸時代に記録された口上書によれば、金印を発見したのは、志賀島(しかのしま)の百姓、甚兵衛ということになっている。
「田の溝を掘り返しているとき、小さな岩の間だから発見された」(「日本古代史の謎とミステリー」リイド社)という。

百姓の甚兵衛が、小さな岩の間だから発見したというのだ!
しかも「甚兵衛の素性が、よくわからない」(同)という。

また志賀島というのは、正確には、現在の福岡市東区志賀島叶崎をいう。
そして金印の実物は、福岡博物館に、常設展示室で展示されているという。

で、この金印贋作説に対して、本家の中国で、何と、その姉妹とも言うべき、もう1個の金印が発見された。
昭和56年(1981年)のことである。
金印本物説を唱える人たちは、この発見で、一気に勢いづいた。

「金印は本物である」
「邪馬台国は、北九州にあった」と。

しかし、である。
中国で見つかったこの金印について、「千葉大学の三浦S氏が、贋作である」(同)と主張した。
そして「(日本で発見された)金印は、金印を鑑定した儒学者、亀井南冥こそが金印の贋作者だと推定し、贋作された背景には、当時の古印ブームがあったと推測」(同書)と。

だいたい後漢の光武帝が、日本からの使者に与えたのは、「印綬」(「後漢書・正史」)。
どこにも「金印」とは書いてない。

一方卑弥呼が受けとったのは、金印(魏の記録)。

今回の箸墓古墳が卑弥呼ゆかりの墓であるとするなら、もし金印が残っているとするなら、近畿地方ということになる。
あるいは箸墓古墳の中に、それはあるかもしれない。

興味のある人は、「志賀島 金印」で検索してみるとよい。
いくつかのサイトをヒットすることができる。
で、私の印象としては、金印は、やはり偽物である。
もちろん中国で発見されたという金印も、偽物である。

が、最大の謎は、どうして金印のような最重要印鑑が、志賀島のようなへんぴな、小さな島で見つかったかということ。
その島では、金印以外の重要歴史物は、何も見つかっていないという。

どうであるにせよ、箸墓古墳には、この謎を解く鍵が隠されているかもしれない。
興味津々と言ったところか。
箸墓古墳の発掘を、是非、やってほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 箸墓 箸墓古墳 金印 邪馬台国 卑弥呼)

*My Home Town

●故郷(My Home Town, M-city, Gifu-pref.)

++++++++++++++++++H.Hayashi

私の故郷については、たびたび書いてきた。
悪口ばかり書いてきた。
が、だからといって、それは私の個人的な意見。
どこまでも個人的な意見。

いつだったからある週刊誌で、日本でいちばん住みやすい町として、
私の故郷が選ばれたことがある。

そのときは「そんなバカな!」と思ったが、冷静になって見つめなおしてみると、
そうかもしれない。
よい町かもしれない。
ほとんどの人は、M町は、すばらしい町と思っている。
それはそれとして、尊重しなければならない。
私のもっている意見のほうが、おかしい(?)。

私には、そうではなかったというだけ。
たとえば私は、いつもあの町には、息苦しさを覚えていた。
低いが四方を山に囲まれ、小さな家々が軒を並べていた。
古い因習や文化も色濃く残っていた。

そこに住む人たちは、明らかに進歩的というよりも保守的、
新しいものよりも、古いものを大切にしていた。
が、何よりも私にとって不愉快だったのは、M町の人たちが、
自分たちこそが、世界の中心にいるような考え方をしていたこと。

外の世界から異文化が入ってくるのを、何よりも嫌った(?)。

こんなことがあった。

歌手に野口五郎という人がいる。
本名を佐藤Y氏という。
野口五郎の実家は、私の家からも歩いて5分足らず。
伯父の家からは、目と鼻の先。
歩いて数十メートルというところであった。

その野口五郎が、一躍、日本の大歌手になったとき、私はそれを
たいへん喜んだ。
彼の兄とは、中学時代、いっしょにコーラス部で歌を歌っていたこともある。

その当時のこと。
ときどきM町へ帰ると、町の様子は一変していた。
町中が若い女性たちで、ごったがえしていた。
野口五郎の町や生家を一目見ようという、ファンの人たちだった。

が、驚いたことに、いちばん反応を示さなかったのが、実はM町の
人たちだった。
私が市長なら、イのいちばんに野口五郎に、町興しのために働いてもらっただろう。
しかしM町の人たちは、不思議なほど冷静だった。
むしろ反対に、野口五郎に対して、「出て行った人間」というレッテルを張っている人も
いた。
あのM町では、昔から、「出て行った人間」を、半ば軽蔑する。
何しろここにも書いたように、M町は世界の中心!
私はM町のもつ、閉鎖性、独善性、うぬぼれ意識に驚いた。
(今でも野口五郎にまつわる銅像はおろか、その記録さえ、
町の中には、まったく残っていない!)

さらにしばらくすると、今度は海部(かいふ)という名前の首相が誕生した。
海部首相の妻は、私の実家の近くの、薬局の娘だった。
その弟とは、子どものころ、よくいっしょに遊んだ。
そのときも、同じような経験をした。
そして同じように思った。

「M町の人たちは、世界を見ようともしない」
「小さな井戸の中だけで生きている」と。

……またまたM町の悪口を書いてしまったが、
死んだ兄のことで、あれこれと事務手続きが必要になった。
それで今日、故郷のM町へ行ってきた。

++++++++++++++++++H.Hayashi

兄の貯金通帳に、○○円の残があった。
葬儀費用として引き出すためには、1か月以内に、
手続きをすまさねばならない。
それでM町へ行ってきた。

今、この原稿は、帰りの電車の中で書いている。
名鉄電車、新岐阜発、豊橋行き。
ワイフは先ほどから、頭痛がするといって、目を閉じている。

そのM町。
いつ来ても、いやな町だ(ごめん!)。
一応観光地ということになっているが、町全体が、
暗く沈んでいる(ごめん!)。
帰りに少し時間があったので、町中のレストランで、
xx定食なるものを食べた。

しかし、まずかった(ごめん!)。
とくにx肉が、生(なま)調理ぽかった。
値段も高い。……というより、一人前。
やる気なさそうな年配の女性が、ずっと鼻先の脂汗を指で
こすっていた。
テーブルも、手垢で汚れていた。
きざんだキャベツの横に、ひとつかみのマカロニが置いてあったが、
一口食べただけで、ゲーッ!

「今どき、こういうレストランがあるんだね」と、小声でワイフが言った。
しかしそのM町では、何もかもがそう。
40年前から、時計は止まったまま。
町はそれでよいとしても、そこに住む人たちの意識は、どうなのか。
それを想像したとき、正直言って、ゾーッとした(ごめん!)。

もし私が、あのままM町に住んでいたら、私は、今ごろは、
あの町の人たちと同じになっていただろう。
今の私とはまったくちがった生き方をしていただろう。
考え方にしても、そうだ。
ゾーッとしたのは、そこに今とはまったく別の自分を想像したからにほかならない。

それこそあの年配の女性のように、客の前で、鼻先の脂汗を指で
こすりながら、それを何とも思わないような人生を送っているに
ちがいない(ごめん!)。

「食」を売るというのなら、それなりのプロ根性をもたねばならない。
スーパーで買ってきたようなxxを、電子レンジで温めただけ。
あるいは作り置きしていたxxを、サッと、調理しなおしただけ。
私には、そんな感じがした。

だいたい、こうしたxx定食屋で、xxを店の奥の、客の見えないところで
調理するというところが、おかしい。
M町の人たちは、それでだませるとしても、私をだますことはできない。

「古い町」と言えば聞こえはまだよいが、中身は、未成熟なまま。
進歩をそこで止めてしまっている。
世界を知らない人というのは、そういう人たちをいう。

もちろんM町には、M町としての、よい面もある。
それは知っている。
のんびりと余生を過ごすには、よい町かもしれない。
しかし私はまだまだ前向きに生きていきたい。
だからワイフには、先ほど、こう言った。

「ぼくは死んでも、この町にはもどりたくない」と。

……とまあ、ひどいことを書いてしまったが、M町がこれから
発展するためには、どうしたらよいか、それを考えてみたい。

●M町のために

観光地として生き残りたいのなら、一度、滋賀県の長浜の町を見てきたらよい。
長浜の町では、若い人たちが、率先して町興しに取り組んでいる。
が、M町には、それがない。
若い人たちの「力」を感じないばかりか、反対に長老たちの「古臭さ」ばかりが目立つ。
「古い町」イコール、「老人の町」であってはいけない。

それに問題なのは、交通アクセスの問題。

長浜のばあいは、JR長浜駅のすぐそば。
若い人たちが、大阪や京都から電車で、ゾロゾロとやってくる。
そして一通り遊んだあとは、またゾロゾロと帰っていく。
同じような光景を、京都の嵐山でも見た。

が、M町のばあいは、岐阜からでも、車で30~40分はかかってしまう。
奥に、郡上八幡、さらにその奥に白川郷がある。
ひるがの高原もある。
隣には、「刃物の町」と知られる、関市がひかえている。
しかし郡上八幡と比較しても、観光地としては、見劣りがする。
つまり中途半端。

おまけに人を集めるための「目玉」がない。
同じ和紙の町で人を集めている山口県の萩市は、森鴎外の故郷としても、知られている。
森鴎外の生家がそのまま残っている。

この中途半端さをなくすためには、徹底した差別化をしなければならない。
が、そのためには、アイデアが必要。
町の人たちに江戸時代や明治時代の衣装を着てもらうとか、ちょんまげを結ってもらうとか。
刀をさして酒を飲む武士の姿があってもよい。
そうした衣装を、町は希望者に、無料で貸し出す……。

それにM町は「和紙の町」ということになっているが、何も和紙にこだわる必要はない。
長浜のばあい、町の中心部にあるのは、ガラス工芸館である。
ひょうたんだけを売っている店もある。
和紙だけで、人を集めるのは、魅力不足というより、不可能。
若い人たちは、和紙にたいして、ほとんどなじみがない。

惜しまれるのは、「チンチン電車」と呼ばれる、あの路面電車を廃止したこと。
今、もしあのチンチン電車が、旧M駅から、市内に向かって、数百メートルだけでも走っていたら、今ごろは、全国から観光客が押し寄せているかもしれない。
岐阜市ですら、チンチン電車を廃止してしまったのだから……。

さらに言えば、やっとやってきた観光客にしても、お金を使う場所がない。
つまり町の中に、お金を落としていかない。
先ほども書いたように、「和紙」だけでは、若い人は集まらない。

古い町並みも結構だが、そこに若い人たちの息吹がなければ、ただの古い町で終わってしまう。

今日もM町の中を、歩いてみた。
どの店も、客もなく、静まりかえっていた。
通りに、人影さえ見られなかった。
もちろん町を見て歩く観光客は、私たち2人をのぞけば、ゼロ。
ほとんどの商店は、シャッターをおろしたまま。
観光地としての「やる気」を、まったく感じなかった。

「どうして野口五郎の歌碑がないのだ!」と叫んだところで、M町の話はおしまい。
野口五郎とは比較にならないが、私自身も、「町を出た人間」。
私などのような者の意見に耳を傾けるような人は、M町にはいない。

*When you win, you are the Justice

【8月26日】(火曜日)

++++++++++++++++++

●勝てば官軍(When you win, you are the justice)

『勝てば官軍』という。
しかし『負ければ賊軍』(?)。
「ホシノ・JAPAN」の、無様(ぶざま)な結果に、日本中ががっかり。
もともと野球というのは、スポーツというより、興行。
「力」というより、「運」に左右されやすい。
しかしここまで叩かれると、星野氏も、かわいそう……。

「北京では、選手村ではなく、最高級ホテルに宿泊。
ロクな練習もしなかった」(某ニュースサイト・解説)とか。
これに対して、当の星野氏は、「午前10時半からの試合は経験なかった」とか、
「審判もプロを出すべき」とか言って、弁解しているという(同)。
「ナイターか、空調設備のついたドームの中でしか試合をしたことがない
日本選手には、北京はきつかった」(同)ということか。

ところでオリンピックという、個人を超えた世界の大会に、「ホシノ」という個人名を
つけること自体、おかしい。
発想そのものが、権威主義的。
バカげている。
真剣みが足りない。
当の星野氏は、ベンチで立っていただけではないか。

個人名をつけるならつけるで、たとえば「イチロー・JAPAN」
「マツイ・JAPAN」と、せめて3チームぐらいはつくり、
リーグ戦をし、優勝したところを、オリンピックに出したらよい。

へたに「ホシノ」という名前をつけたものだから、裏目に出てしまった。
星野氏だけが、袋叩き……。
やっぱり、かわいそう……。


●正直な人(Honest People)

++++++++++++++++++H.Hayashi

正直な人と出会うと、気持ちがよい。
胸が、スカッとする。

少し前だが、こんな会話をしたことがある。
その人の父親が、特別養護老人センターに入居していた。
父親の年齢は、90歳だった。
その父親について、私が、「見舞いに行っていますか」と聞くと、
「もう、3か月、行ってないかなあ。いや、4か月かなあ……?」と。

見舞いに行っていないことはともかくも、そういうことを正直に言える人は、
うらやましい。
ふつうなら、(こういうケースのばあい、「ふつう」という言葉を使うのは
適切ではないかもしれないが)、少なくとも、世間体を多少なりとも気にする人は、
そういう言い方はしない。

「ええ、しばらく行っていません」とか、「ときどき行っています」とか言って、
その場をごまかす。
中には、「毎週(毎日)、行っています」などと、ウソをつく人もいる。
私は、その男性の、私にはない(?)正直さに驚いた。
驚いたというより、胸がスカッとした。

で、昨日もこんなことがあった。

その女性の実父が、アルツハイマー病になってしまったという。
年齢を聞くと、69歳という。
6年前に発病したという。

そういう話を聞くと、ツンとした緊張感が走る。
他人ごととはとても、思えない。

私「私もあぶないです」
女「先生は、だいじょうぶですよ」
私「そうですかねえ……。ときどき男と女の区別ができなくなるときがあります」
女「あら、私もそうですよ」
私「エッ、あなたもそうですか?」
女「そうなんですよ」
私「じゃあ、いっしょに風呂にはいってもだいじょうぶですね」
女「いいですね、先生。いっしょに入りましょうか」と。

もちろんたがいに冗談を言ったまで。
しかし自分の心の内を、そのままケラケラと話せる人は、すばらしい。
父親の病気は病気として、つまり病気なのだから、どうしようもない。
今では、その女性(=実の娘)の顔もわからないという。
それについては、何度も、「切ないです」と言っていたが、病気が病気だから、
あきらめるしかない。
「治療法もないそうでね」と、その女性も言っていた。。

正直に生きる。
ありのままの自分をさらけ出しながら生きる。
それは心の風通しをよくするための鉄則でもある。
もちろん何もかも、さらけ出すというのではない。
言わなくてもよいことは言わない。
しかし人は、一度、見栄、メンツ、世間体に毒されると、自分の姿を見失ってしまう。
とたん、心がよどむ。
腐る。
生き様そのものが、見苦しくなる。

さて冒頭に書いた男性だが、実はつきあうようになって、もう20年になる。
で、数日前も、こんなことがあった。

「元気?」と声をかけると、「やあ、それがね、胆石になりましてね」と。

私「胆石?」
男「痛かったですよ。本当に!」
私「そりゃあ、たいへんでしたね」
男「で、3日間、E病院で寝てましたよ」
私「E病院? どうして弟さんの病院へ行かなかったのですか?」
男「あいつは、ヤブですよ。ヤブ。あんなやつの病院へ入ったら、殺されますよ」と。

その男性の弟氏は、内科医師である。
浜松市の郊外で、医院を経営している。

私「ハハハ」
男「ハハハ」と。

正直に生きるということは、私のばあい、正直に書くということにつながる。
あとから読み直しても、自分を飾った文章ほど、不愉快なものはない。
日記にもならない。

しかし正直に書いた文章というのは、それだけで時を超えて自分の心にひびく。
ただし一言。

文に残すということは、危険なことでもある。
その人とわかるような内容は、極力、避けなければならない。
そのため2つの話を1つにまとめたり、あるいは他人の話を、自分の身内の
話にしたりというようなことは、よかある。
名前や場所、その人の職業についても、そうである。

しかしそれは(ウソ)ということではない。
どうか、誤解のないように!


++++++++++++++++++H.Hayashi

● 生きる美学(how to live, as to my own case)

++++++++++++++++++

1か月分の収入に当たる損をしたら、
1か月、さらに健康で働けることを考えればよい。
半年分の収入に当たる損をしたら、
半年、さらに健康で働けることを考えればよい。

……というのが、私の人生哲学だった。

同じようなことだが、1万円の損をしたら、
2万円、どこかで取り返す。
10万円の損をしたら、20万円、どこかで取り返す。
そんなふうに考えたこともある。

若いときは、そんなわけで、がむしゃらに働いた。
いつだったか、ワイフが、「あなたはお金の亡者みたい」
と言ったことがある。
ワイフには、そう見えたかもしれない。

その私も、今では60歳。
この年齢になっても、損をすることはあっても、得をすることは
ほとんどない。
(「得」といっても、宝くじか何かに当たったような得をいうが……。)

だから今は、とにかく健康で、できるだけ今の仕事をつづけたいと
願っている。
いや、本当のところ、こうして健康でいられるだけで、御の字。
それ以上、何を望むのか?

考えてみれば、健康にまさる「得」はない。
そんなわけで今、いちばんこわいのは、病気。
順にあげてみる。

(1) 脳梗塞
(2) がん
(3) 認知症

成成人病も含めて、これらはみな、生活習慣病と言われている。
つまりその気になれば、防げる。
その鍵を握るのが、運動ということになる。
だから最近は、私はこう思う。

1日、しっかり運動をすれば、少なくとも明日1日は、健康でいられる、と。
1週間、しっかりと運動すれば、少なくとも来週1週間は、健康でいられる、と。
運動をしながらも、そんなわけで心のどこかに悲壮感が漂うになった。

富山県のT市に住むS君は、こう言った。
S君は、すでに5年近く、がんと闘っている。
「林君、転移が見つかったら、切ればいいんだよ。切ったときから、5年は生きられんだよ」と。

別の人は、手記の中で、こう書いている。
「どうせ死ぬなら、がんで死にたい。がんなら、すぐ死ぬということはないから、身のまわりの整理をすることができる」と。

私も最近、この考え方に同調するようになってきた。
「脳梗塞よりは、がんのほうがいいかな」と。

だから今は、こう考える。
「今日、脳梗塞やがんにならなかった。だから明日も、たぶん、脳梗塞やがんにはならないだろう」と。
今日の健康を、恐る恐る、明日に延ばしながら生きていく……。
いつだったか、『健康というのは、ゴムひものようなもの』と書いたことがある。
が、それはそういった思いをゴムひもにたとえたもの。

で、あとは、その健康を、どう使うかということ。
明日が今日の繰り返しだったら、意味はない。
来年が今年の繰り返しだったら、意味はない。
体力にせよ、知力にせよ、不可逆的に悪くなる。
今よりよくなるなどということは、ありえない。
だったら、今日できることは、今日、する。
今できることは、今、する。

たいていの人は、(私もそうだが)、「明日は何かいいことがあるだろう」
「来月は何かいいことがあるだろう」と考える。
しかし実際には、(いいこと)よりも、(悪いこと)が起きる確率のほうが高い。
だれしも長生きをしたいと思っているが、長生きすればそれでよいというものでもない。

大切なのは、「今を、どう生きるか」である。
1日は、この言葉に始まって、この言葉に終わる。
結果は気にしない。
今日1日を懸命に生きれば、明日はかならず、やってくる。
(そのとき)がきても、ジタバタしない。
(ジタバタしないという自信はないが。そのとき、できるだけ後悔しないよう、つまりやり残した思いをもたないよう、今というときを、燃焼させる。)

もし「生きる美学」というものがあるとするなら、それが私にとっての美学ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 生きる美学 林流生きる美学)

*men work outside?

●男は仕事、女は家庭?(Men work outside and Women work inside?)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほどの間、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%
そうは思わない                                ……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに対して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

これらの数字をまとめると、こうなる。

「結婚したほうがよい」と考える人がふえる一方で、旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観をもっている人は、約3割にすぎないということ。

3割だぞ!

問題はこうした変化もさることながら、こうした変化についていけない人も、多いということ。
あるいはこうした意識変化が起きつつあることにすら、気がついていない。
とくに世代間の(ちがい)が、大きい。

「男は仕事、女は家庭」と、旧来型の固定観念にしばられる旧世代。
「今どき、そんなバカなことを言っていると相手にされない」と反発する新世代。

先日も兄の葬儀でのこと。
裏方で、お茶や食事の用意をしていたのは、すべて女性。
広間で、でんと座って、それを待っていたのは、すべて男性(プラス、一部の女性)。
私が裏方で、味噌汁を作っていたら、逆に、私のほうが追い出されてしまった!

こういうバカげた段村社会が残っている国は、そうはない。
またそういう男女観をもっている人ほど、今回の読売新聞社の公表した意識調査結果を、
一度、真剣に読んでみる必要がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 男は仕事 女は家庭 男女観 結婚観 サイレント革命)

+++++++++++++

7年前に書いた原稿を
紹介します。

+++++++++++++

●親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 
日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、そのよい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつながっている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツなのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざしている。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民らしく、と。それだけではない。日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥された。

要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、12%もいるという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も変わってきた。「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。30年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。それとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※ ……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、
 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型 
            ……15%、だそうだ。
●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」ことを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すらいる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではない。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。いつまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist フリーター撲滅論 まともな仕事論)

Tuesday, August 26, 2008

*Japanese have been changing very rapidly

●男は仕事、女は家庭?

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このほど読売新聞社(8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

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こうした変化は、私も、ここ10年ほど、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%
そうは思わない                                ……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに
対して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

これらの数字をまとめると、こうなる。

「結婚したほうがよい」と考える人がふえる一方で、旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観をもっている人は、約3割にすぎないということ。

3割だぞ!

問題はこうした変化もさることながら、こうした変化についていけない人も、多いということ。
あるいはこうした意識変化が起きつつあることにすら、気がついていない。
とくに世代間の(ちがい)が、大きい。

「男は仕事、女は家庭」と、旧来型の固定観念にしばられる旧世代。
「今どき、そんなバカなことを言っていると相手にされない」と反発する新世代。

先日も兄の葬儀でのこと。
裏方で、お茶や食事の用意をしていたのは、すべて女性。
広間で、でんと座って、それを待っていたのは、すべて男性(プラス、一部の女性)。
私が裏方で、味噌汁を作っていたら、逆に、私のほうが追い出されてしまった!

こういうバカげた男女観が残っている国は、そうはない。
またそういう男女観をもっている人ほど、今回の読売新聞社の公表した意識調査結果を、
一度、真剣に読んでみる必要がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 男は仕事 女は家庭 男女観 結婚観 サイレント革命)

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7年前に書いた原稿を
紹介します。

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●親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 
日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、そのよい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつながっている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツなのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざしている。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民らしく、と。それだけではない。日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥された。

要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、12%もいるという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も変わってきた。「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。30年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。それとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※ ……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、
 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型 
            ……15%、だそうだ。
●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」ことを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すらいる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではない。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。いつまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist フリーター撲滅論 まともな仕事論)

Monday, August 25, 2008

*Mr. C. Hill, and his betrayal Act

●6か国協議(An Incompetent Diplomat & his Betrayal Act)
What C. Hill has done is just to give North Korea, money, oil, food, music as well as time, without receiving anything except the explosion show of Yon-byon. Moreover he has destroyed the relationship between Japan and USA. In the meantime more and more Japanese have become to dislike USA. Why should we assist Iraq War? Does Mr. G. Bush know this fact?
Mr. C. Hill, you are cheated again but we don’t have to sympathize with him at all.

++++++++++++++++++

テロ支援国家指定解除は、延期された。
当然である。
が、ここにきて、北朝鮮は、韓国内での
核査察をさせろと逆提案。
またまた例によって例の、難グセである。

……ということで、6か国協議は行き詰まって
しまった。
にっちもさっちも、いかなくなってしまった。
しかしこうなることは、最初からわかって
いた。

で、結果としてみると、6か国協議は、
北朝鮮というより、C・ヒルに、よいように
もてあそばれただけ。
C・ヒルは、「外交官というよりは、政治家」
(朝鮮N報)。
マスコミをフルに利用して、自分の知名度を
あげることに執心しただけ(同紙)。

結果、今は、C・ヒルの辞任説まで出てきた
(同紙・8月24日)。
これまた当然である。

++++++++++++++++++

C・ヒルは、最初から、異例の外交官だった。
公僕意識など、もとからない。
まるで政治家かスター。
「午前0時にホテルに帰ってきても、マスコミの
取材には、きちんと応じていた」(朝鮮N報)という。
そしていつの間にか、6か国協議を、米朝会議に
すりかえてしまった。

もちろん日本など、最初から、カヤの外!
最近に至るまで、拉致問題を取りあげた形跡は
まったく、なし。
ないばかりか、C.ヒルは、「テロ国家支援解除」をにおわせながら、
つまり日本を脅しながら、拉致問題を棚上げした上、
北朝鮮への援助に加わるよう、日本に圧力を加えた。

しかもだ、こうした事実を、C・ヒルは、上司である
C・ライスに報告していなかった事実も浮上している。

先の洞爺湖サミットで、日本のT外務大臣が、C・ライス
と直談判したとき、C・ライスはそれを聞いて驚いた様子
だったという報道も伝えられている。

日本人のアメリカに対する好感度は、急速に低下して
いる。
インド洋上における補給活動にしても、政府高官は
「昨年とは、国内の雰囲気が変わりつつ」と言い出した。
つまり「これからはもう、アメリカの言いなりには
ならないぞ」と。
今、そこまで日米関係は悪化している。

G・ブッシュ大統領は、こうした事実を、どこまで
知っているのか?
(08年8月26日)

Sunday, August 24, 2008

*Democracy in Japan

【B・ツアーと、民主主義】

●ビデオと多数決

++++++++++++++++++++

少し前まで、B・ツアーといえば、帰りの
バスの中でのビデオが、定番だった。

しかし最近は、「見るか、見ないか」で多数決を
採ってくれるようになった。

しかし……?

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● B・ツアー

地元のバス会社が運営するバス・ツアーに、B・ツアーというのがある。
値段も安く、良心的。
安心して旅行できるという点で、私たち夫婦は、月に2~3回は、利用させてもらっている。

が、そのB・ツアー、30~40年ほど前には、タバコの煙とカラオケに悩まされた。
最近は、帰りのバスの中でのビデオに悩まされた。

ビデオといっても、『寅さん』ものか、『釣りバカ日誌』もの。
定番になっていることもあり、同じビデオを何回も見せられることもある。
しかし同じビデオを3回、4回……と見せられると、うんざりというよりは、拷問に近くなる。
そのため私とワイフは、B・ツアーを利用するときは、それぞれ、騒音軽減装置付きのウォークマンをかならず持参する。

●多数決

ところが最近、そのB・ツアーが急速に洗練されつつある。
多数決を採るようになった。

「ビデオを見たい人と、見たくない人で、多数決を採ります」と。

実は今日も、帰りのバスの中で、それがあった。

ガイド「ビデオを見たい人」……4人
ガイド「ビデオを見たくない人」……7~8人。

私は最後部の座席にいたので、その数を知ることができた。

しかしこの採決は、基本的な部分で、おかしい。
まちがっている。

● 弱者の立場

こんな例で考えてみよう。
今でこそ、観光バスの中で、カラオケを歌う人はいない。
歌う人にとってはそうでなくても、聴くほうにしてみれば、騒音。
騒音以外の何ものでもない。

そのカラオケについて、もしガイドが、つぎのような採決を採ったとする。

ガイド「カラオケを歌いたい人」……10人
ガイド「カラオケを歌いたくない人」……5人
ガイド「では、カラオケをみなで、歌うことにします」と。

この採決のばあい、それで迷惑を受ける人の立場を、まったく無視している。

こういうときは、つぎのように採決を採るのがよい。

ガイド「カラオケを楽しみたい人」……10人
ガイド「カラオケで迷惑する人」……5人
ガイド「楽しみたい人が多いので、カラオケを歌うことにします」と。

しかしそれでも、おかしい。
こういうケースのばあい、それによって迷惑を受ける人がいるなら、カラオケは中止すべきである。
なぜなら、理由は、明白。
カラオケなど、しなければならないものではないからである。
バス旅行に必要なものであれば、こうした採決を採ることにも意味がある。
しかしカラオケがなければ、バスが止まるというものでもない。
観光が台なしになるということでもない。

● ビデオのばあい

では、ビデオはどうか?

ビデオのばあいも、やはり同じように採決を採る。

ガイド「ビデオを楽しみたい人」……10人
ガイド「ビデオで迷惑を受ける人」……5人
ガイド「楽しみたい人が多いので、ビデオを見ます」と。

が、このばあいも、ビデオの騒音によって迷惑を受ける人の立場はどうなるのか。
旅行の帰りともなれば、疲れて静かに休みたい人もいるはず。
50歳以上の人ともなれば、なおさらである。
数は少なくても、5人の人が迷惑するというのであれば、5人の人を優先すべきである。

が、それでもわからないという人がいたら、こんな例で考えてみよう。

●喫煙

先にも書いたように、以前は、観光バスの中でも、喫煙は自由にできた。
冬場などは、バスの中は、もうもうたる煙が充満した。
である日、私はB・ツアー会社に手紙を書いた。

前部と後部で、喫煙者と非喫煙者を分けてほしい、と。
しかしこの提案は完全に無視された。
と、同時に、私たちは10年近く、B・ツアーから遠ざかった。

その喫煙について、ガイドがこんな採決を採ったとする。

ガイド「タバコを吸いたい人」……10人
ガイド「タバコの煙で、迷惑を受ける人」……5人
ガイド「タバコを吸いたいという人が多いので、タバコを吸ってもいいということにします」と。

●弱者の世界

弱者は、多くのばあい、少数派である。
もし多数決だけで、ものごとが決まっていったら、それこそ、この世界は闇。
闇というより、民主主義そのものが、崩壊する。

そこで民主主義の世界では、いかに弱者にやさしいかで、その完成度を計る。
当然のことながら、弱者にやさしい世界を、より完成された世界という。
そうでない世界を、そうでないという。

ビデオに話をもどす。

なぜ、帰りのバスの中で、ビデオを流すか?
ビデオというのは、見なければならないものなのか?

ビデオのかわりに、音楽ではだめなのか?
音楽のかわりに、無音の写真集ではだめなのか?
たとえばガイドがデジタルカメラで撮った写真を、スライド方式で流すという方法もある。
今では、それが2~3万円のデジタルカメラでできる。

何もビデオにこだわる必要はない。
が、さらに問題はつづく。

● ビデオの選択

ご存知のように国際便の飛行機の中では、10~20の番組の中から、好きなビデオを選んで見ることができる。
個人の好みは、みなちがう。
それならまだ話もわかる。
そういうとき、(今回もそうだったが)、2種類だけのビデオを取り出し、「見ますか、見ませんか?」は、ない。

今日は、『寅さん』ものだったが、国民的映画だから、みなが喜ぶはずと考えるのは、おかしい。
『寅さん』もののようなビデオともなると、同じものを以前にも見たという人が多いはず。
2度目ならまだしも、3度目、4度目となると、いくら寅さんのファンでも、うんざりするだろう。

繰り返すが、ビデオというのは、見なければならないものなのか?

● 日本人と騒音

介護を必要とする老人専用のケア・センターでは、どの部屋でも、しかもいつも、大型のテレビがかけっぱなしになっている。

いろいろ理由があるらしい。

老人に刺激を与えるためとか、老人を退屈させないためとか。
そういう表立った理由のほか、昼間は老人たちを、できるだけ起こしておくという目的もある。

夜間は、介護をする人の人数が、ぐんと減る。
そのため昼間はできるだけ起こしておき、夜間は、できるだけ眠ってもらう。
それはともかくも、ケア・センターでは、ほとんど意味もなく、テレビをかけっぱなしにしている。
実際、テレビを見ている老人は、ほとんどいない。

……と同じようなことを、地元のバス会社も考えているとしたら、これはまちがい。
「ビデオを流しておけば、老人は退屈しないだろう」
「その間、ガイドは、休息を取ることができる」と。

しかし騒音は、騒音。
日本人は、その騒音に、たいへん鈍感な民族と考えてよい。

で、私なりの結論。
観光バスに、ビデオは不要。
もしそれでも……という人がいたら、各自、ポータブルDVD鑑賞機を、もちこんだらよい。
これからはそういう時代である。

*Salary of Public Officers in Japan

●小銭の奴隷たち

欲望は行動の原動力。
「~~したい」「~~がほしい」という思いが、行動につながっていく。
それはそのとおりだが、
しかし元来、欲望というのは、その先で目的とつながっている。
「おなかがすいた……だから食事を食べたい」とか、など。

「お金がほしい」という思いとは、異質のもの。

こんな例で考えてみよう。
これは私が実際、経験したことである。

以前、中学生たちに、「おとなになったら、何がしたいか?」と聞いたことがある。
手をあげて答える子どもがいなかった。
そこで私が強く促すと、1人の中学生(男子)が、こう答えた。

「1億円がほしい」と。
そこで私が「その1億円でどうするの?」と聞くと、「机の上に飾っておく。毎日、ながめて過ごす」と。

つまりお金というのは、常に手段でしかない。
たとえば「パソコンがほしい」という思いが、「お金がほしい」という思いにつながっていく。
が、その目的もなく、欲望を満足するための手段としてのお金がほしいというのであれば、その人は、すでにお金の奴隷になっていることを示す。

すると中には、こう反論する人もいるかもしれない。
「お金というのは、あればあるほどいい」「いつか何かのときに役立つから」と。

しかし本当にそうだろうか。
つまり、それでその人の欲望は、それで満足するのだろうか。

このことは前にも書いたが、こんなことがあった。

ある日、郵便局へ行くと、老人たちがズラリと並んでいた。
見ると、それぞれが100万円の札束を手づかみでつかんで、もって帰っていくではないか!
驚いてあとで、郵便局長に聞くと、こう教えてくれた。
「みんな年金ですよ。年金は3か月ごとに支給されますから」と。
このあたりには、旧国鉄村と呼ばれるほど、旧国鉄の職員たちがたくさん住んでいる。
旧国鉄の職員たちの年金額は、旧三公社五現業の中でもとくに、高い。

私は何も年金族が悪いというのではない。
しかし社会保障費と呼ばれる国家支出の80%以上が、こうした年金であるというのは、どう考えてもおかしい。

たとえば毎年88兆円(05年)もの社会保障費の約80%は、年金、医療、介護など、高齢者に向けられている。
子ども向けは、4兆円にすぎない(東洋経済・5/17、08)。
とくに年金への支出が、す・ご・いことに注目!

どうしてそういうお金を、子どもをもつ親たちに振り分けないのか?

生活費とはいうが、老人たちはそんな高額の年金を、何に使うのか。
私の家の近所には、今年80~90歳になる人たちがたくさん住んでいる。
が、満55歳で役所や国鉄を退職したあと、ただの一度も働いたことがない人は多い。

そういう人たちを見ていると、何のための年金制度かということになる。

……少し頭が熱くなったが、欲望というのは、そういうもの。
子どもでも、「ピアノをうまく弾けるようになりたい」というのは、私にも理解できる。
「そのために、すばらしいピアノがほしい」というのであれば、それも理解できる。
しかしただ「お金がほしい」というのは、私には理解できない。
つまりその時点で、お金の奴隷、つまりここでいう「小銭の奴隷」になっていることを示す。

お金の奴隷というのは、アルコール中毒、ニコチン中毒と並んで、脳の中に特殊な受容体が形成されるため、一度、その奴隷になると、それから自らを解放するのは、容易なことではない。

このタイプの人は、つぎのような言い方をするので、そうであると知ることができる。

(1)お金の計算が、こまかい。ケチ。ずるい。
(2)何かの支払いの話となると、決まって、「ぼくにはお金がないから」を口ぐせにする。
(3)自己中心的で、お金の使い方が自己愛的。家族の治療費ですら、ケチる。

そうでない人には、信じられないような話だが、実際、そういう人は少なくない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●無給の国家公務員?

そんな国家公務員がいることなど、
私は、今まで知らなかった!

私は、今まで、国家公務員の給料というのは、
(総人件費)÷(国家公務員数)で計算する
ものばかりと思っていた。

しかし無給の国家公務員がいるとなれば、
この算出方法は、役に立たなくなる!

つまり国家公務員の給料は、無休の国家公務員をふやすこと(=分母を大きくすること)で、ごまかされている?

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 保護司という役職(?)は、「無給の国家公務員」だそうだ。「法務大臣から委嘱(いしょく)されたボランティアで、保護監察官と協力して、環境調整と、保護観察の仕事に当たっています」(保護観察所配布パンフ)とある。

 そしてここが重要だが、別のパンフには、こうある。「保護司は、非常勤で一般職の国家公務員とされています。給料は、至急されません」と。

 全国のみなさん、わかるか? この不透明感。

 現在、国家公務員や地方公務員が、いったい、いくらの給料を手にしているか、それを正確に知っている人は、ほとんどいない。公表している団体も、自治体もない。しかし計算方法がないわけではない。

 そこで国家公務員の給料を知るための、もっとも簡単な方法は、(総人件費)を(公務員数)で割るというもの。産経新聞は、この方法で、国家公務員(行政職国家公務員)の給料を算出している。それによれば、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6571億円だそうだ(産経新聞・05・06)。

 この数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算)そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

    (国家公務員)          ……1403万円(上記算出方法)
     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近いもの給料を手にしていることになる。

 しかし保護司のような、無給の国家公務員までいるとは知らなかった。ということは、(総人件費)÷(国家公務員数)で、国家公務員の給料を算出しても、意味がないということになる。

 その保護司だけでも、全国に、5万2500人(保護司法、第2条第2項、定数)もいる。この無給の国家公務員、5万2500人を国家公務員に加えて、総人件費を割れば、当然のことながら、みかけ上、国家公務員の給料は、低く算出される。

 言いかえると、その分だけ、さらに国家公務員は、手厚く保護されることになる。つまりもし保護司のような無給の国家公務員を、国家公務員としてその数に算入すれば、国家公務員の給料は、さらにあがることになる! わかりやすく言えば、1403万円という数字そのものが、あやしくなる! 保護司のほか、無給の国家公務員は、いったい、何人いるのか? 無給ではなくても、非常勤で、安い給料に甘んじながら、身分だけは国家公務員という人は、何人いるのか?

 知らなかった!

 しかしまあ、いろいろなところに、カラクリがあるものだ。日本は官僚主義国家ということになっているが、ここまでやっているとは、夢にも思わなかった。全国には、まじめな気持ちで保護司というボランティア活動をしている人も多いはず。

 が、その仕事そのものが、別のところで、官僚たちの利益に利用されていると知ったら、保護司の人たちは、どう思うだろうか。考えれば考えるほど、頭にくる話ではないか!

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昨年(05)書いた原稿を、ここに
そのまま添付します。

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●国家公務員の給料

 このほど、はじめて、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・05・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6571億円だそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表されているが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも紛れ込んでいる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算。)そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言ってよい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、たとえば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3~18%を上積みし、地方の出先機関に出向した職員も、基本給の3~6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受給できる」(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカラクリがわかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近いもの給料を手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、官僚主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%を使っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知らない。おまけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全国津々浦々、どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤字国債(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約40倍! それでも足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護保険制度に例をみるまでもなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をもとに、計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということになる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知~らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額四17兆2829億円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出になることが6月15日、財務省などの調べでわかった。公表ベースの歳出項目ごとの人件費はこれまで明らかにされておらず、それぞれの人件費が「隠れみの」(首相官邸筋)になって予算を圧迫してきた形だ。政府は人件費削減によって財政再建を加速させたい考えだが、省庁側の抵抗は激しさを増しそうだ(産経新聞)。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)

*I read the Bible

●聖書を読む

++++++++++++++++++

私も含めてだが、ほとんどの人は、
小銭の奴隷となり、小銭の奴隷のままで死ぬ。

それでよいとはだれも思っていないが、
しかしほかに道を示してくれる人もいない。

そこで久しぶりに、聖書を開く。
Ryrie版「Study Bible」。
友人のJimがくれたもの。

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●Matthew(マタイ)

聖書によれば、マタイ(姓はLevi)は、税官吏(tax collector)だったという。そのため同じユダヤ人たちからは嫌われていたという。が、イエスの呼びかけにすぐ応じ、イエスの弟子となる。12使徒の1人ではあったが、そのため立場は特殊だったらしい。しかしイエスの再臨後、マタイは、パレスチナ(Palestine)で、12年間、布教活動をする。そのあと他の地に移ったと言われているが、確かではない(同書、p1455)。

●マリアの処女懐胎

マタイ伝(1:15)には、こう記述されている。

(1)生誕告知

これがイエス・キリストが生まれたいきさつである。
マリアはヨセフとの結婚が約束されていた。
しかし2人がいっしょになる前に、マリアが聖霊(Holy Spirit)によって、身ごもっていることがわかる。
ヨセフは誠実な人であったから、マリアを辱めないよう、そのことを公にしなかった。
マリアとは静かに離婚するつもりでいた。
が、そう決心したとき、主の天使が現われて、夢の中でヨセフにこう言った。
「ダビドの息子のヨセフよ、マリアを妻として家に連れて帰ることを恐れてはいけない。
なぜならマリアが身ごもっているのは、聖霊の子であるから。
あなたはその子どもを産みなさい。
名前をイエス(JESUS)としなさい。
なぜならその子は、人々を罪(SIN)から救うからです」と。

これはすべて「処女が身ごもり、子どもを産むだろう。
みなは、その子を、“Immanuel”、つまり“神とともの子(God with us)”と呼ぶだろう」という、予言そのものであった。

ヨセフは目覚めたあと、主の天使の命令どおりにした。
そしてマリアを妻として、家に連れて帰った。
しかし子どもが生まれるまで、マリアと関係(union)をもたなかった。
生まれた子どもを、「イエス」と名づけた。

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ここで誤解が一つ、解けた。
ヨセフは、天使から、夢の中で、「生まれてくる子どもは神の子である」という告知を受けていたことになる。

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(2)赤子の崇拝

イエスがJudeaのベツレヘムで生まれたあと、当時はヘロド王の時代であったが、東方から、マギ(Magi)が、エルサレムへやってきて、「ユダヤの王として生まれた赤子はどこにいるか? 私たちは東に彼の星を見た。その赤子を崇拝するためにやってきた」と言った。

注……「Magi」、東方の博士。キリスト降臨のとき、東方から贈り物を携えてやってきた3人の博士(小学館・ランダムハウス辞典)。

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聖書を疑うことはよくないことだが、この話には、小さな矛盾がある。
マギは、東方(東洋)から、東に、彼の星を見たから、イエスのところへ来たという。
もしそうなら、マギは、西方に彼の星を見て、東方から来たというのが正しいのではないか。

また聖書では、「the east」(東方)となっている。
今まで私は、「東洋の聖人」と理解していた。
これは私の誤解だった。

+++++++++++++++++++

ヘロド王は、このことを知り、すべてのJerusalemが、(イエスとともに)いることに、心を乱された。
ヘロド王は、主だった僧や教師を呼び集めたとき、どこでその赤子が生まれたかをたずねた。
彼らは「Judiaのベツレヘム」と答えた。
なぜならそのように予言書に書かれていたからである。

『Judahの土地は、あなたがけっして統治するものではない。
(=...by no means least among the rulers of Judah...)なぜならあなたがたの中から、統治者が現われ、イスラエルの人々の羊飼いとなるであろうから』と。

++++++++++++++++++

イエスの誕生の前には、いくつかの予言があったようだ。
その予言に従って……というより、予言のとおりに、イエスは生まれた。

++++++++++++++++++

ヘロド王はひそかにマギを呼びつけ、星が現われた正確な時間を知った。
ヘロド王は部下たちをベツレヘムに送り、「その赤子を注意深くさがせ。見つけ次第、私に報告しろ。私もその赤子を崇拝するため、ベツレヘムへ行くだろう」と言った。

王の言葉を聞いたあと、部下たちは途中で、東に見たその星が、彼らの行く手前方にあり、その赤子のいるところで止まっているのを知った。
その星を見たとき、彼らは歓喜した。
家に着くやいなや、彼らは聖母マリアとともにいる赤子を見た。
彼らはひざまづき、その赤子を崇拝した。
それから宝箱を開け、金と香料とmyrrh(芳香性の樹脂、香料)の贈り物を与えた。
そして夢の中で警告を受けていたように、彼らはヘロド王のところへは戻らず、別の道を通って、彼らの国へと帰っていった。

++++++++++++++++

またまた疑問が解けた。
3人の聖人は、ヘロド王の命令によって、ベツレヘムへ行き、そこでイエスを見たという。
贈り物を与えたあと、ヘロド王のところへは戻らず、別の道を通って、それぞれの国へ帰ったという。

先ほど、「小さな矛盾」と書いたが、これで謎(?)が解けた。

マギは東からやってきた人物である。
そのときマギは、ヘロデ王のもとにいた。
で、ヘロデ王の命令を受けて、イエスをさがしに行く。
そのとき東の空に、星を見る。
その星についていくと、イエスのところにたどりついた。

これなら矛盾はない。

+++++++++++以上、1461Pまで+++++++++++

なお、某HPには、つぎのようにある。

「キリストがベツレヘムの商隊の旅篭(はたご)で生まれて間もなく、東の国、そうアラブやペルシャ辺りでしょうか。その東の国で見慣れない星が、西の空に輝いたの見た。今で言う占い博士達が見ました」(「星の神殿」)と。

この中では、「西の空に輝いた」と書いてある。

「?」。

ともかくも、重箱の底をほじくりかえすような議論は、あまりよくない。
しかしキリスト教のことで何かわからないことがあったら、聖書にもどるのがいちばんよい。

このつづきは、また別の機会に書いてみたい。
これから朝食。
それがすんだら、母を見舞いに行かねばならない。
昨日、担当のドクターから、「ターミナル・ケア(末期治療)」について話し合いたい」という連絡が入った。
何かの書類に、印鑑を押すように言われている。

「とうとうそのときが来たか」という、ツンとした緊張感を覚える。

● 小銭の奴隷

冒頭で小銭の奴隷について書いた。
わかりやすく言えば、ケチで、小ずるい。
ささいなことに振り回され、大局的なものの見方ができない。
目先の損得勘定はできるが、その先ができない。
つまり思考力が浅い。

小銭の奴隷になると、視野がどんどんと狭くなる。
狭くなりながら、それに気がつかない。
気がつかないまま、自分を基準にしてものを考えるようになる。

とくに私たちの世代、つまり戦後の高度成長期を生きてきた人は、小銭の奴隷になりやすい。
「お金がすべて」「お金だけが信じられる」と。
さらにそれが進むと、「お金がないと不安」とか言い出す。
人やものの価値も、金銭的な基準で判断する。
「金持ちほど、偉い」とか、「この絵は○○万円だから、価値がある」とか、など。

こうなると立派なカルトなのだが、もちろん本人には、その自覚はない。
小銭の奴隷には、じゅうぶん、注意したほうがよい。

*Old men who are liked or disliked

● 老人観察

~~~~~~~~~~~~~~H. Hayashi

40歳を過ぎたら、老人観察を始めたらよい。
どんな人が、どんな老人になっていくかを観察する。
生き方は人さまざまだが、老人のなり方も、これまたさまざま。
当然のことながら、老人になればなるほど、その人の生き様が集約されてくる。

認知症とか、脳血栓症の病気は別にして、老人にもいろいろある。
大きく大別すると、(1)好かれる老人と、(2)嫌われる老人がいる。
どんな老人が好かれ、どんな老人が嫌われるか、それを観察する。
つぎにそれがわかったら、ではどうすれば好かれる老人になり、
またどうすれば嫌われない老人になるかを、知る。

「好かれようが、嫌われようが、そんなことは気にしない」と言う人も
いるかもしれないが、こと老人に関しては、これは深刻な問題と考えてよい。

嫌われるということは、即、周囲の人たちに迷惑をかけることを意味する。
老人のケア・センターにしても、そうした基準を公表してはいないが、
ある程度は面接をした上で、入居を認めたり、認めなかったりしている(?)。

大声で泣き叫んだり、暴力を振るうような老人は、嫌われる。
入居を敬遠される。
しかしそうした老人にしても、1年とか2年でそうなるわけではない。
10年とか20年をかけてそうなる。
だからこそ、老人観察が必要ということになる。

で、昔から『老いては子に従え』という。
つまりくだらない権威主義はできるだけ早い時期に、捨てたほうがよい。
「私は親だ」「親は偉い」「子は親に従うべき」などと考えていると、嫌われるのは、
親のほうということになる。

つぎに重要なことは、エリクソンも説いているように、『自我(自己)の統合性』。
「老後になったら、孫の相手と庭いじり」というのは、けっしてあるべき老後の姿
ではない。
老後になったら、(すべきこと)を(する)。
その(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
(やりたいこと)ではない。
むしろ(やりたいこと)をしていると、むなしさを覚えることが多い。
が、それでは自分の老後はない。

また(金儲け)と、(すべきこと)は、どこかで区別したほうがよい。
多くの人は「死ぬまで仕事」と考えている。
それはそれとして必要なことかもしれないが、どこかで一線を引く。
というのも、(すべきこと)は、常に(無)でなければならない。

損得を考えたとたん、「自我の統合性」は、霧散する。

「教育」というと、私たちは(子どもの教育)を考える。
しかしそれ以上に大切なのは、(おとなの教育)。
しかも(自分自身の教育)ということになる。

それを怠ったとたん、(嫌われる老人)に向かってまっしぐら。
その先で待っているのは、みじめで暗い世界。

そこで再び、老人観察ということになるが、あなたの周辺で、どんな人が
どんな老人になっていくかを観察する。
その時期は、40歳ごろから始めても、早すぎるということはない。

(補記)1

前にも書いたが、母が入居しているセンターの1階は、デイ・ケア・センターに
なっている。日帰りの老人たちが集まる部屋である。

そこに1人、たいへん威張った老人がいる。
年齢は70歳くらいではないか。
昔の武士を思わせるような人で、とにかく威張っている。
介護師の人が機嫌をとろうとして話しかけても、「うるさい!」「いらぬ!」と。
自分は座っていても、介護師の人を上から見おろすような言い方をする。

話を聞くと、東京の某有名私大を出たあと、イギリスへの留学経験もある人という。
現役のときには、会社の中でもかなりの地位にいた人らしい。
しかし今は、だれにも相手にされない。
家族にも嫌われているのだろう。
いつも部屋の隅でポツンと孤立している。

また母がいる同じフロアには、若いころはさぞかし美人だっただろうなと
思わせる老人がいる。
背も高く、スラリとしている。
年齢は80歳くらいか。
そういう老人が、ときおりフロア中に聞こえるような大声で叫ぶ。
「飯(めし)は、まだかア!」「わっちゃア(=私は)、何も食べておらんゾ!」と。
その老人のばあい、認知症にかかっているということだが、こうした老人たちを見て、
だれが笑うことができるだろうか。

(補記)2

老人になればなるほど、遺伝的要素が前に出てくるようになるという。
わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、自分の親に似てくるということ。
自分はそれでよいとしても、自分の子どもが自分に似るのは、不幸なこと(?)
かもしれない。
そのためにも、つまり子どもに老後の見本を見せるという意味においても、
老後になればなるほど、生き様を確立しなければならない。

これはひとつの例だが、たとえば(健康)という問題にしても、私は若いころから
小雨の日でも、自転車通勤をつづけている。
そういう姿を、息子たちはどこかで見ていたのだろう。
気がつくと息子たちもまた、同じようなことをしている。
つまりこうして親の生き様というのは、とくに教えなくても、(また教えるという
意識がなくても)、子どもに伝わっていく。

あなたの子どももいつか、あなたが歩んだのと同じ道を歩む。
歩んで老人になる。
そういうときのために、私たちはその(見本)を見せておかねばならない。
が、もし今、あなたが小銭の奴隷なら、あなたの子どもたちもまた、その小銭の
奴隷になる。
そういう例は、あなたのまわりにも、いくらでもあるはず。

(補記)3

ここまで書いて思い出した人がいる。
私が子どものころのことだが、近所に、金の亡者のような人がいた。
当時としては、かなりの成功者だった。
毎日、私の家にやってきては、「今日はいくら儲けた」「先週は株で
いくら儲けた」と、そんな話ばかりをしていた。

が、それから50年。
最近、その息子氏に会うことがあった。
近所でも評判のケチということは、前から知っていたが、顔つきやしぐさは
もちろんのこと、50年前のあの人そっくりになっていたのには、驚いた。
時代も変わったから、露骨に金(マネー)の話をするということはなかったが、
何かにつけて、自分の自慢話ばかりしていた。
またそれをいろいろな言い方で、誇示していた。

「税金が高くて困るよ。このあたりでも、私がいちばんの高額納税者でね」
「毎週、つき合いでコースを回っているよ」と。

さらに驚いたのは、私がその人の父親について、批判めいたことを口にしたときのこと。
私は「あなたの父親は、いつも私の家で、金儲けの自慢をしていましたよ」と。
とたんその人は血相を変えてこう言い切った。

「林君、いくら君でも、親父(おやじ)の悪口を言うやつは許さん!」と。

かなりのファザコンとみた。

*Saba-Road to Kyoto

● 鯖街道(Saba Road)

++++++++++++++++++H.Hayashi

8月24日、鯖街道、熊川宿へ向かう。
今日はここで、8キロの道のりを歩く。
8キロというのは、かなりきつい。

1万歩で、約7キロ(私の計算)。
ついでに人間というのは、おにぎり1個で、1万歩、歩けるそうだ。
(カロリー計算をしてみると、そうなる。)

歩いてみるしかない。
これも運動のため。
健康のため

++++++++++++++++++H.Hayashi

鯖街道、熊川宿へ。
バスは今、鯖街道、熊川宿へと向かっている。
「くまがわじゅく」と読む。
その昔、日本海側にある若狭(わかさ)から、京へ、鯖(さば)を届けた街道という。
名前がよい。
「鯖街道」。
その鯖街道の中継地として栄えた町が、熊川宿。
鯖街道というからには、鯖料理がおいしいにちがいない。
鯖寿司もあるというから、楽しみ。
今朝は軽くお茶漬けだけにして、腹をそれに備えた。

このところ何かにつけて、こちらの方面へ来ることが多くなった。
窓の外は見慣れた景色だが、どういうわけか、こちらへ来るといつもほっとする。
緑が美しい。
それに深い。

たった今、北陸自動車道から敦賀(つるが)で一般国道に出たところ。
雨上がりの霧が、山々から天に向けていっせいに、白い帯をなびかせている。
やや黄みのかかった田んぼの稲が美しい。

……ここから見ると、浜松市は遠い地の果てという感じがする。
(少しおおげさかな?)
つまり旅のよいところは、ここにある。
地元を離れるだけで、視野が広がる。
農家の家々にしても、浜松の農家とは、どこか雰囲気がちがう。
よく見ると、田んぼの様子もちがう。
たとえば瓦(かわら)にしても、このあたりでは、「若狭瓦(わかさがわら)」というのを使っているという。
上薬をかけないで焼くため、全体がどこかくすんだ色になっている、などなど。
こうした刺激が、頭の中の固定観念をつぎつぎと破壊してくれる。
ときにバチバチと火花を飛ばすこともある。

といっても、ここは日本。
もしこれが外国だったら、どうだろうか?
息子の1人は、もうすぐJ社のパイロットとして、世界中を飛び回ることになる。
そういう生活をつづけていたら、日本を見る目も変わるにちがいない。
あるいは身近にいる、バスの運転手さんはどうだろうか?

こうして毎日のように、日本中をあちこち回っている。
私とはいろいろな面で、人生観がちがうはず。
私の知らない世界を、たくさん見ている。

またもう1人の息子は、アメリカに住むようになって、もう12年になる。
世界を知っているというよりは、日本のことなど忘れてしまったにちがいない。
今では、私も「日本人の私の息子」というよりは、「アメリカ人の友人」という見方をしている。

前回も日本へ来るとき、私やワイフへのみやげは、何も買ってこなかった。
それについて、「どうして買ってこなかったのか?」と聞くと、それが原因で大げんかになってしまった。

「何かほしいものがあったら、きちんと言ってくれ。そうすれば、ちゃんと買ってくるから」と。

ナルホド!

しかしこれは日本人の発想ではない。
日本では親子でも、実家へ帰るときは、何かしらのみやげをもっていく。
どうやらアメリカでは、そうではないらしい。
つまりそういうことで、たがいに気をつかわないのが、親子?
考えてみれば、アメリカ流のほうが、気が楽。

むしろ私たちが注意しなければならないことは、自分の常識をもって、それを世界の標準と思ってはいけないということ。
つねに自分がもつ常識を疑う。
旅行は、そういう場として、最適である。

……ここでバスは、三浜町に入った。
右側に鉛色の日本海が見えてきた。
福井県という表示が見えた。
ここはまだ福井県らしい。
学生時代の1年先輩が、現在、福井県の副知事をしている。
10年ほど前までは年賀状を交換していた。

で、日本海側のこのあたりは、1年のうち3分の1は、曇り空という。
先ほどバスのガイドさんが、そう言っていた。
とたん、私は学生時代を思い出した。
私は石川県の金沢市で、4年間を過ごした。
が、こと天候に関しては、ゆううつな毎日だった。
「曇り空」どころか、1年の3分の1は、「長靴」で過ごした。

こうした天候が、そこに住む人の気質に影響を与えることは、じゅうぶん考えられる。
天候が暗いから、性格まで暗くなるということではない。
その分だけ、晴れわたった日の美しさが鮮明にわかるようになる。
そしてその分だけ、曇天の日は、じっと何かに耐える。
「北陸の人は、がまん強い」とよく言われるが、その理由は、こんなところにあるのかも」しれない。

しかし天候のせいもあるのか、田んぼの間に点在する農家は、湿った空気の中で、静かに眠っているよう。
動きもない。
もちろんにぎやかさもない。

バスは一路、熊川宿へ……。

熊川宿……観光地としては、星2つの★★。
ここだけを目的に来るというような観光地ではない。
旅の途中とか、どこかへ行く途中ということであれば、いいかも。
なお名物の「鯖寿司」は、道の駅レストランで食べるよりも、宿場町の中に
ある寿司屋で食べたほうがよい。
値段も安いし、サービスもよい。
(道の駅のほうは、セルフサービス。
鯖寿司4巻と吸い物で、1500円だった。)

(補記)
鯖街道を歩いているとき、「昔の人はこうして歩いて通ったのだな」と、何度も思った。
大八車ができたのは、江戸時代の中ごろとされる。
「大八」という名前の穂人が発明したのが、はじまりと言われている。

そういう車でもあれば鯖を運ぶのも楽だっただろう。
しかしそれには道路事情もある。
今と違って、石でゴロゴロした道であったにちがいない。
やはり背中に負って運ぶのがいちばん楽だったかもしれない。
ガイドさんの話によると、若狭から京まで、約70~80キロの道を、当時の人たちは1日半で歩いたという。

75÷1・5で、50キロ!
荷物をかついで、1日50キロ!

ヘ~~~~エ、と驚くこと、しばし。

9月は、富士山麓を10キロ歩くことになっている。
「上級コース」とか。
がんばるぞ!

(補記)2
熊川宿の端に、「番所」と呼ばれる小さな関所があった。
小さな関所で、間口が、3間ほどではなかったか。
「こんな関所ならかんたんに破れる」と、私は持った。
弓矢と槍、それに火縄銃が4丁、飾られていた。

「昔の人は、こんな関所でも、恐れたのか」と思った。
つまりそれだけ人間が小さかったというか、従順だったというか。
今なら、たとえば暴走族の若い人なら、数人で、こんな関所を粉々に破壊してしまうかもしれない。
言い換えると、日本も小さな国だった。

あちこちの関所を見るたびに、そう思う。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【8月24日】(日曜日)

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今朝は、遠くの雷鳴で、目が覚めた。
天気予報によれば、局地的な豪雨が
あるという。

前線の向こう側にあるのは何か?
再び、猛暑か?

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●軽快に生きるために

軽快に生きるためには、いくつかのコツがある。

(1) まず敵を作らないということ。

敵というのは、あとあと、わずらわしい関係になるような問題を作らないということ。
たとえば近隣の人たちや、親類の人たちとのトラブルは、極力避ける。
「避ける」というより、タブー。

(2)生活は常に余裕をもつこと。

1万円の収入があったら、5~6000円どまりの生活に心がける。
無理をしない。
ぜいたくをしない。
ほどほどの生活をして、その範囲ですます。

(3) 運動を欠かさないこと。

運動の重要さは、運動をしているものでないとわからない。
長い休みがつづいて、運動不足になったりすると、日に日に、体がナマっていくのがわかる。
水にたとえるなら、体全体が、よどんだ水のようになる。
さらに運動不足になると、腐った水のようになる。
それが実感として、よくわかる。
が、運動をした翌朝は、体中の細胞がプチプチとはじけるような感じがする。

(4)人と会うこと。

人と会うだけで、心の中のモヤモヤが晴れることはよくある。
悶々と悩んだら、人と会って、話をする。
子どもたちのもつ、あの純粋さに触れることも大切だが、最近、私は参観にやってくる父母と、できるだけ会話をするようにしている。
けっして小さな殻(から)の中に閉じこもってはいけない。

今日も、それを目標にして、がんばる!

Friday, August 22, 2008

*Hypocrisy

●John 8:34

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この世は偽善のかたまり。
以前、アメリカに住む息子が、そう言った。

しかし偽善こそ、人間がもっとも卑しむべき
行為。

日ごろは、美しい着物に身を包み、バラエティ
番組でケラケラと笑っている女性が、別のところで
は、作業服を着て、アフリカの難民運動の
指導者になる。

これを「偽善」と言わずして、何という?

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●偽善
聖書(RYRIE版)を、ひもとく。

John(8:34)には、こうある。

Jesus replies:
I tell you the truth, everyone who sins is a slave of sin.
Now a slave has no permanent place in the family, but a son belongs to it forever.
So if the Son sets you free, you will be free indeed.

イエスは、こう答えた。 
あなたに真実を話そう。罪ある人は、罪の奴隷である。
(罪の)奴隷には、家族の中に安住の場所はなく、息子が、永遠にそこにとりつく。
もし、その息子が、あなたを自由にするなら、あなたは本当に、自由になるだろう。

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 キリスト教でいう(sin=罪)という言葉には、独特のものがある。昔、オーストラリアの友人に、一度、その意味を聞いたことがあるが、彼は、こう言った。「キリスト教徒でないと、理解できないだろうね」と。

 しかしニュアンスとしては、私にも、理解できるような気がする。

 邪悪な思想をもっている人は、いつもその邪悪な思想に振りまわされてしまう。そして自分が邪悪なことをしていることにすら、気がつかなくなってしまう。つまり、邪悪な思想の奴隷になる。

 こんな勝手な解釈をすると、息子は怒るかもしれないが、私なりの解釈によれば、そうなる。

 つまり邪悪な思想に一度、とりつかれると、その時点で、自分の人生をムダにすることになる。一時の快楽を得ることはできるかもしれないが、一度キズついた人間性を取りもどすことは、容易なことではない。

 人生を、(真理への旅)にたとえるなら、その旅で、遠回りすることになる。あるいは道からはずれてしまう。だから、永遠に、その(真理)に、たどりつけなくなる。

 息子は、「真理を知れば、罪の奴隷から解放される」と言う。つまり罪の奴隷から、自らを解放することが、自由である、と。

 しかし私の心の中には、邪悪なゴミがいっぱいある。ゴミだらけ。

 私は、平気で、人をうらむし、ねたむし、バカにするし、嫌うし、さげすむ。お金もほしいし、若くて美しい女性を見れば、性的魅力を感じてしまう。まさに私は、(罪の奴隷、a slave of sin)ということになる。

 私は、決して、善人でもないし、聖人でもない。

 だから私のような人間は、その臨終のとき、無間の孤独地獄の中で、もがき、苦しむ。失意と悔恨。恐怖と不安。絶望と苦痛。そのどん底で、もがき、苦しむ。

 ……それがわかっているから、正直に告白するが、死ぬのが、こわい。こわくてならない。

 他人から見れば、私は、懸命にがんばっている人間に見えるかもしれない。一応、まじめだし、社会のルールは守っている。ウソはつかないし、健康にも注意している。いつも家族には、誠実に接している。

 しかしそれとて、(自分がよい人間)だから、そうしているのではなく、臨終のときの自分が、こわいから、そうしているだけ。それはたとえて言うなら、借金取りに追いたてられるのがいやだから、仕事をしているようなもの。

 ほかに、私は、過去40年以上にわたって、人からお金を借りたことがない。それは私に何かの哲学があって、それで借金をするのがいやだからではなく、頭をさげて、借りるのがいやだからにほかならない。根拠となる思想があって、そうしているのではない。

 同じように、本当に、同じように、私がいくら「私は自由だ」と叫んでも、そう叫んでいるだけで、本当に自由かどうかということになると、自分でも、まったく自信がない。

 やはり息子が言うように、本当に自由になるためには、自分の中にある、邪悪さから解放されなければならない。お金がほしいくせいに、さもお金など興味はありませんというような顔をしてみせる。それでは、真の自由を手にいれることはできない。

 しかしそれこそ、まさに偽善。その偽善のかたまりでは、真理には、到達できないということ。

 が、残された時間は、あまりにも、短い。今は、57歳。そのうち、兄のように頭もボケるだろう。そうなったら、おしまい。私は、何としても急がなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 偽善)

*National Default

【今朝・あれこれ】(8月23日)

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「涼しい!」
どうしたことだ?
気象庁によると、10月中旬の気候という。

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韓国の国家破綻は時間の問題だが、しかしこの日本とて、あぶない(?)。
私が6年前に書いた原稿だと思うが、こんな原稿が出てきた。

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● 国家破綻・これからの子育ては?

浜松市には、南米出身者を中心として、約2万4000人の外国人労働者たちが働いている(01年度)。あちこちに、小さな街ができるほどである。ある一角へ行くと、「ここは日本?」と思うようなところさえある。

 そういう外国人労働者を見ると、私たち日本人は、心のどこかで、「彼らは外国人」と思ってしまう。しかし、本当に、そうか。そう言いきってよいのか。つまり彼らは、本当に、外国人労働者なのか。ひょっとしたら、その姿は、近い未来の、日本人の姿ではないのか。

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ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろうとしていた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ドルを援助した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。総計で、550億ドル!

 その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年には、失業者は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の日本円になおせば、わずか5~6兆円。それで、救済できたこと。(日本のばあい、あのN銀行救済のためだけに、4兆円も、お金をドブに捨てている。C総連系列のC銀には、1兆円!)

 なおかつ、韓国は、その国家破綻をうまく利用して、韓国の経済を牛耳っていた、財閥を、解体してしまった。つまり、韓国は、ゼロからやりなおすことで、生きかえり、若がえった。

 そしてその後の韓国の発展は、これまたご存知のように、めざましい!

 で、そういう韓国だが、教育という面でとらえると、どうなのか。

 たとえば今、韓国では、事実上の定年が、38歳ということになっている。58歳や、48歳ではない。38歳である。

 それまでは韓国も、日本にならって、終身雇用、年功序列型の社会システムを営んできた。しかし国家破綻をきっかけに、38歳とした。

 これはほんの一例だが、こうして韓国は、そのあと、世界でもまれに見る、競争型社会へと激変した。復活した。日本のように、受験勉強だけして、合格すれば、あとは死ぬまで安泰といいう社会を、自ら破棄したわけである。

 こうした競争主義は、冷徹な論理にもとづくものだが、しかし、この国際社会で生き残るためには、必然である。能力と、実力と、やる気のあるものだけが、社会をひっぱる原動力となって働く。

 もちろんその結果、多くの社会的ひずみが生まれたことも、否定できない。が、今、韓国は、そうした問題をも、着々と解決しつつある。

 しかし、一方、この日本は、どうなのか?

 以前にも書いたが、あるテレビのレポーターが、当時の大蔵省の役人幹部に、こう聞いたことがある。「あなたがたが、天下りをどう思いますか?」と。

 それに答えて、その役人幹部は、平然とこう言ってのけた。「私ら、今の仕事につくのに、それ相当の苦労をしたのだから、当然です」と。

 彼らがいう「苦労」というには、受験競争をいう。今もそうだが、その受験競争というのは、ペーパーテストをいう。

 で、この傾向は改まったかといえば、そうでもない。

 おととし(03)も、こんなシーンを、テレビで見た。「天下りをどう思うか?」という質問に対して、ある財務省の役人幹部は、こう答えていた。「私ら、仕事が忙しいから、退職後の就職先さがしができないのです。(だからしかたない)」と。

 私はウソを書いているのではない。ちゃんと、この耳で聞いた。

 こうした役人独特のエリート意識というのは、総じて、役人と言われる人たちは、みな、もっている。「役人が上で、庶民が下」と。だからその給料にしても、総じてみれば、役人の給料は、民間の労働者の約2倍。

 平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の企業で働く勤労者の平均。つまり民間企業の中でも、恵まれた労働者。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 ここでいう「公務員」には、官公庁のトップ役人から、清掃に従事する自治体の職員まで含まれる。平均が1018万円ということは、1500万円の給料の人もいれば、500万円の人もいるということ。

 こうした人たちが、たがいに仕事を回しあい、外部からの参入を、ぜったいに認めない。ためしに、あなたの近くにある公営の図書館や公民館の人たちが、どういう人事異動で、今の職場にいるか、聞いてみるとよい。

 能力ではない。実力ではない。経験でも知識でもない。この日本では、一度、受験競争という関門を通ってしまえば、あとは、すべてトコロテン方式で、死ぬまで安泰。

 それはそういう世界にどっぷりとつかっている人には、きわめて居心地のよい世界かもしれないが、同時に、それは、日本の社会構造そのものを、硬直化させる元凶となっている。

 が、もし韓国のように、定年を38歳にして、実力主義にしたらどうだろうか。当然のことながら、役人たちの世界から、猛反対が起きるにちがいない。何といっても、日本は、奈良時代の昔から、世界に名だたる、官僚主義国家。そうは簡単には、動かない。

 それはわかるが、国家破綻してからでは、遅い。言うなれば、日本中が、廃墟となってからでは遅い。

 あの先の戦争にしても、最後の最後まで、官僚たちが、へたにがんばるから、その最後の最後で、原爆まで落とされた。今の日本は、当時の状況にたいへんよく似ている。あるいはそうにでもならないと、日本人は気がつかないのか。

 結局は、この重いツケは、子どもたちの時代にのしかかる。というより、これからの子育ては、そういう時代を見越して、していかなければならない。

 国家破綻ということになれば、今の韓国のように、若者たちが、こぞって、外国に移住するようになる。出稼ぎというのではなく、移住である。韓国では、ここ数年、毎年、1万4000人前後が、アメリカを中心として、海外へ移住している。海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を越えた。もちろん日本の学歴など、外国では通用しない。学歴ではない、中身だ。

 「あなたは何ができるか」という視点で、今度は、外国の人が日本人を見るようになる。そういう中、臨機応変に環境に対応し、モビリィティ(機動性)のある子どもだけが、生き残ることができる。

そういう時代がやってくることを見越して、自分の子どもを育てる。

 最後に、一言。「じゃあ、せめてうちの子だけでも、公務員に……」と、もし、あなたが考えているなら、それは甘い。

仮にIMFが、日本に介入してくるような事態になれば、イの一番に、その公務員たちがリストラされる。仮に公務員として残ることができても、もちろん給料は、最低限におさえられる。

 そういうことも考えて、子どもの教育を組みたてたらよい。

++++++++++++++

 今日も、近くの公営アパートの前を通ると、南米からやってきた労働者たちが、家族らしき人たちと集まって、何やら大声で騒いでいた。陽気な人たちだ。これから春になると、さらににぎやかになる。

 その明るさだけが、ふと、私の重い心を軽くする。

*Japan vs. South Korea Economic War on Aug 23rd

【日韓経済戦争】(8月23日)Japan vs Korea, Economic War!

●97年の愚

「97年の愚」というのは、1997年、韓国がデフォルト(=債務不履行=国家破綻)に陥ったとき、日本政府が、韓国政府から頼まれもしないうちから、IMF、世界銀行、アジア開発銀行などを総動員して、総額で500~600億ドルかき集めて、韓国を救済したことをいう※。しかもアメリカの反対を押し切ってまで! 同じころ、日本政府は、120万トンという穀物援助(主に米)を、北朝鮮に対してしている。時のK外務大臣は、「これで(朝鮮半島が)動かなければ、責任と取る」と明言したが、結局、何も動かなかった。動かなかったばかりか、かえって反日運動が激化した。竹島問題を例にあげるまでもない。もちろんそのあと、K外務大臣が責任を取ったという話もない。さらに最近に至っては、「借金は返しから、問題はない」(=日本に頭をさげる必要はない)と、韓国政府は居直っている。

※……ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろうとしていた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ドルを援助した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。総計で、550億ドル!

 その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年には、失業者は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の日本円になおせば、わずか5~6兆円。それで、救済できたこと。

(日本のばあい、あのN銀行救済のためだけに、4兆円も、お金をドブに捨てている。C総連系列のC銀には、1兆円!)

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8月20日に、1ドル=1053ウォンだった、韓国ウォンは、さらに下落。
今朝、8月23日朝は、1ドル=1063ウォンにまで、下落!

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韓国銀行の「猛烈な」ドル売り、ウォン買いにもかかわらず、
とうとう1ドル=1050ウォンを突破!
(08年7月だけでも、そのため、107億ドルも、外貨を減らしている。)
今朝(8月20日)は、1ドル=1053ウォン前後で、相場が始まった。

「猛烈な」勢いで、外資が韓国から逃げ始めている。
簡単に言えば、そういうことになる。

で、昨年の終わりごろには、900ウォン前後だったから、900ウォン→1050ウォンへと、約17%もウォン安になったことになる。
(この間、日本は、1ドル=120円→110円と、円高方向に推移している。世界的にドル安傾向がつづいているから、これは自然な流れとみてよい。)

で、時はからずも、数日前、キューバが、デフォルト(債務不履行)を宣言した。
手持ちの外貨が不足して、輸出代金が決済できなくなってしまった。
では、韓国はどうか?

先月から今月にかけての「猛烈な」ドル売り、ウォン買いで、手持ち外貨は、そろそろ底をついているはず。
(すでに韓国の手持ちの外貨が、底をついている可能性も高い。)

今週のはじめには、1ドル=1040ウォンが、ひとつの壁になっていたが、それをあっさりと割り込んでしまった。
原油価格がさがったとはいえ、今年度末までに返済しなければならない短期外債(=借金)は、膨らむ一方。

このままウォン安を放置すれば、韓国内の物価は上昇。
輸出代金を決済できなくなれば、韓国は、第二回目のデフォルトを経験することになる。

そこで韓国政府は、公定金利(日本の公定歩合)を、先週、5・0%から、5・25%へとあげた(08年8月)。
苦渋の選択だった。
金利をあげれば、国内企業に打撃を与える。
しかしそれ以上に、外貨の流出がこわい……。

が、こうしてがんばればがんばるほど、つまり無理を重ねれば重ねるほど、そのあとにやってくる「谷」は深い。
1ドルが何ウォンになったら危機……ということは、今の段階では言えない。
すでにその危機ラインを突破している。
1ドル=1050ウォンというのは、そういう数字である。

つまり「今、いくら?」ではなく、「短期間に、いくら変動するか?」をみる。
韓国のばあい、今週に入って、すでに12ウォンもウォン安が進んでいる。
これが今週末から来週にかけて、さらに10~20ウォンもウォン安が進むようなことにでもなれば、韓国経済は、おしまい。
お陀仏!

日本の輸出業者も、今からそのときを覚悟し、準備しておいたほうがよい。

【日本政府へ】

相手が頭をさげて日本に頼みにくるまで、けっして、こちらから救いの手を出してはいけない。
97年に日本がした「97年の愚」※を、繰りかえしてはいけない。


+++++++++++++++

(補記)(先月、7月20日に書いた記事より)

現在の韓国の外貨準備高は、2581億ドル。(=貯金)
今年中に返済しなければならない対外債務は、2156億ドル。(=借金)
原油の高騰で、昨年よりも、500億ドルも、輸入コストの増加が見込まれる。(=負担)
その上、経常収支は、今年(08年)、100億ドルの赤字。(=収入源)
加えてこの7月だけでも、ドル売り、ウォン買いで、107億ドルも外貨を減らしている。

これだけの数字を並べただけでも、現在、韓国がどういう状況にあるか、わかるはず。

加えて現在、外資が猛烈な勢いで、韓国から逃避し始めている。
韓国の株式市場でも、今年に入ってから、すでに20兆ウォン(約2兆円)も、売り越されている。

そこへもってきて、政情不安。
「ローソク・デモ」に見られるように、あの国は、何かが、おかしい。

かんたんに説明すると、こうだ。

あなたには、260万円の貯金がある。
しかし今年中に、220万円の借金を返済しなければならない。
しかし子どもの教育費で、今年は、さらに50万円の負担増。
7月だけでも、11万円近い、臨時出費が重なった。
加えて夫の給料だけでは、赤字。
仕事も減ってきた。
夫婦関係も、おかしい?

あとは、どうなるか?
みなさん、ご想像のとおり!

*A Letter form a Reader

【8月22日】

● 掲示板への投稿より

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久しぶりに私の掲示板をのぞいたら、
こんな書き込みがありました。

私の書いた返事が少しは役にたったようです。
うれしかったです。

そのまま転載させてもらいます。

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【Uさんから、はやし浩司へ】

7月18日の投稿に対し回答を頂き、心から感謝いたします。
はやし先生の原稿も読ませていただきました。
心の整理がつくまで時間がかかりましたが、何故でしょう、今は心静かに投稿させていただいています。

「不安」の原因は0~2才前後と言うご指摘に震えました。私の母は2才の時に母親(私からすると祖母)と死に別れていたからです。
私の中にも私の母の中にも母親像が無かった・・・。
幼い頃の私の記憶では、酒に酔った父と母はしょっちゅう包丁を持ち出して夫婦喧嘩をしていて、母は、私が小学校に上がると同時に家でしていた内職の仕事を辞め、外に働きに出るようになり、夜遅くならないと帰って来ませんでした。
私は自分の食事を自分で作って食べ、お弁当も自分で詰めていました。
そんな家庭が当たり前と思っていた部分が今日までありました。

はやし先生のおっしゃるとおり私の心の中には母親像が無かったのです。
そう気がついた今、両親を恨んでも自分の運命を嘆いても仕方が無い。運命を受け入れようと心に決めました。
私が日本人であるように、女に生まれたように、この性格は自分の運命。受け入れるしかない。覚悟しました。

はやし先生が「治そう」とか「直そう」と思う必要はない、うまく付き合え、と言ってくださったので何だか心が楽になりました。

娘の事も“元気で生きていてくれればそれで十分”と思うようにし、「求めてきたときが、与えどき」と気楽に考えるようにしてゆきます。

何だか気負いが嘘のように抜けてゆきました。訳も無く涙があふれてたまりません。気持ちがすごく楽になりました。

はやし先生、本当にありがとうございました。
(08年7月23日)

++++++++++++++++++H.Hayashi

以下、そのときの掲示板への相談を、
そのまま添付します。

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掲示板のほうへ、
こんな相談がありました。
毎日子育てをしながら、
不安でならない……。
そんな内容の投稿です。

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【Uさんから、はやし浩司へ】

小学一年生(6歳)の娘と、私自身のことで毎日、戸惑っています。

私自身も自分の心に問題、(わがまま、恩着せがましい依存性など、幼児的願望が強い)を抱えていることを自覚しています。まだ、それを克服することができず心の中で、のた打ち回っているのが現状です。

そのこともあり、娘には三歳まで私の母や姉、主人の手を借りて何とか一切怒ることはもちろん、叱ることもせず過ごしました。(娘を出産した病院の院長先生に、三歳までは何があっても怒ってはいけないと忠告されたためです。)

けれど、娘が四歳を過ぎてからそれまでのがまんが限界にきたのか、自分でもどうしようもなくヒステリックに娘に怒ることが多くなり、このままでは娘が壊れてしまうような危機感を感じていたところ、はやし先生のこのリンクに出会い、近ごろは娘と距離を置くようにしています。

ただ、そうすればそうするほど娘が私に、絡んでくるのです。例えば、ひらがなの『や』が、「これは『か』に見えるから直しなさい。」と言うと、「やだ、これでいい。」とか、「お母さんがこんな風に教えた」とか、そこから始まり、その後の食事もお風呂もそれ以後ずっと機嫌が悪くなり、手がつけられなくなるのです。

また、娘がふてくされていたり、つまらなそうな顔をしていても、その心をうまく汲み取れず、いつもどおりに「帽子もちゃんと片付けなさい」など言ってしまい、それでもぐずぐずしている娘に、「はやくしなさい」などと、追い討ちをかけてしまうのです。そうなると、その日はそれでもう何もかも動かなくなるのです。

今朝娘が、「今日もお父さんは夜遅いから嫌だな、怒りんぼ母さんと一緒は嫌だ」と涙をためて言う姿を見ると、私は私自身を蹴飛ばしてやりたい気持ちで一杯になりました。何故でしょうか。気負いが強すぎるのでしょうか。

『1日1回、娘をゲラゲラ笑わせてやる』という私自身の目標も、全然実現しないし、本当に私は娘に優しくないんです。いつも何かに追いかけられているような気がして、(ゆっくり)ができないのです。

夕方娘と庭に水をまき、ゆっくり娘が育てているアサガを見ながら、冗談でも言ってゲラゲラ笑いたいのに、「さ、早く手と足を洗って部屋に入ろう」などと言ってしまうのです。何か、いつも自分がガツガツ急き立てられていて、心にゆとりがもてない。こんなことしていたら娘もそうなる。だから「急き立てたり、『早くしなさい』を言わずにいよう」と、そう毎日心で唱えていても、極端な話、口が勝手に言ってしまう感じで・・・その後、自己嫌悪で胸が苦しくなります。その繰り返しです。

娘に優しくゆったり接することができない私と、一度こじれたら修復できない娘のぐずぐず・・・。『こんな母親死んでしまえ』と心で自分に怒鳴りつけているのですが、どうしていいのかわかりません。

林先生がおっしゃる「一貫性」は本当に難しい、と言うより苦しいです。毎日、朝と学校から帰ってきたら、娘を抱きしめています。けれど、娘にしていることはそれだけです。私の心のどこをどう整理をしたら、優しい母親、娘に優しく接することができる母親になるのか、私自身がわがままで、甘えているのは重々わっているのですが、何か一筋のくもの糸でもかまいません。何か助言がありましたらどうか教えて下さい。お願いします。

【はやし浩司より、Uさんへ】

あなたを、Uさんとしておきます。
Uさん自身も、不幸にして不幸な家庭環境で、育っているとみてください。
「不安」の原因は何かわかりませんが、恐らくUさんが0~2歳前後ごろ、その(種)ができたものと思われます。

Uさんからみて、安心して、のんびりと過ごせる家庭環境になかった。
とくに母子関係(Uさんと、Uさんの母親の関係)を疑ってみてください。
Uさんの母親もいつも不安で、その不安を、Uさんにぶつけていたと思います。
それが今の、Uさんのパニック障害(少し前まで、「不安神経症」と呼ばれていました)につながっていると考えられます。

(心の緊張感が取れないことを、以前は、不安神経症と呼んでいました。
いつも心は緊張状態にあって、その状態のところへ何らかの不安や心配が重なると、一気に、緊張状態が加速され、そこでパニック状態になるというわけです。)

ショッキングなことを書きましたが、まずUさん自身の過去と、真正面から向き合うことが大切です。
Uさん自身の心の奥深くを、自分でのぞいてみることです。
この問題は、そういった問題があるということではなく、Uさん自身が、自分の過去に気づくことなく、その過去に振り回されるところに問題があります。

Uさんは、心豊かで、愛情に満ちた乳幼児期を過ごしましたか?
全幅の(さらけ出し)をしながら、幼児期を過ごしましたか?
恐らく、そうではなかったと思います。
Uさんは、親の前で、いつも(いい子)でいた(?)。

もっとはっきり言えば、あなた自身の中に、(母親像)が育っていないということです。
あるいはUさんは、いつも母親を拒絶してきたというケースも考えられます。
その結果が、「今」ということです。

この問題は、子どもの問題ではありません。
Uさん自身の中の、(不安)の問題です。
この(不安)がなくならないかぎり、Uさんは、つきからつぎへと自分で問題をつくり、それに振り回されることになります。
取り越し苦労とぬか喜びの繰りかえし……というわけです。

で、さらに問題をほりさげると、何が、今、Uさんを不安にさせているかということになります。
もちろん子育てについての不安もあるでしょう。
家庭問題? 夫婦問題? 経済問題? 家族の問題?

こういうケースでは、夫の協力が不可欠です。
しかしUさんは、その協力をじゅうぶん、得られず、それ故にさらに悶々と悩んでしまっています。
袋小路に入ってしまっているのかもしれません。

実のところ私にも似たようなところがありますので、Uさんの精神状態がよく理解できます。
で、私のばあい、できるだけ食生活で、自分の心を安定させるようにしています。
海産物中心の献立にするなど。
Ca、Mg、Kが効果的です。
私の友人は、精神が不安定になると、いつもポケットからカルシウム剤を取り出して、ボリボリと口の中で、それをかんでいます。

あとは薬局で売っているハーブ系の安定剤を、よく口にします。
内科でも、副作用の少ない安定剤を処方してくれますので、一度、そういうところで相談なさってみられたらどうでしょうか。
薬名はここでは書けませんが、私はときどき、それを2つに割って、口の中で溶かしながら、服用することもあります。
(本当は1錠なのだそうですが、こうした精神薬は、いつも半分にして、口の中で溶かして服用することにしています。
このあたりのことは、医師とよく相談して決めてください。)

Uさんにはつらいでしょうが、この問題は、これから先、一生つづきます。
たまたま今は、それが小1の子どもに向かっているだけ、ということです。
ではどうするか?

あとはそういう自分とうまくつきあうだけです。
「治そう」とか、「直そう」と思う必要はありません。
うまくつきあうのです。
みんな、どんな人でも、その程度のキズというか、トラウマというか、そういうものをもっています。
Uさんだけが特別というわけではありません。
Uさんが言っておられるように、Uさんは、心配先行型、不安先行型の子育てをしています。
ちゃんとした(母親像)が入っていないため、どうしても気負いが強くなります。
「いい母親でいよう」という思いが強すぎるため、かえってそれが重荷になってしまうというわけです。
それが今のような、どこかギクシャクとした子育てにつながっている。

そういうときは、肩の力を抜くことです。
(本当は、Uさんが子育てから離れて、自分の好きなことをし、その結果として、子育てから離れられるようにするのが、よいですが……。)

「ほどよい親」「暖かい無視」を繰りかえしながら、あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。
仮に子どもを愛せないなら、愛せないでも構わないのです。
実際、約10%の母親たちは、(10%ですよ!)、子どもを愛せないということも、わかっています。
万事、自然体で、子育てをすればよいのです。
頭の中で、「こうでなくてはいけない」とか、「そうであってはいけない」とか、思う必要はないのです。
「子どもを愛せないから、私は失格人間」と思う必要もありません。

あなたはあなた。
子どもは子ども。

毎日、学校から帰ってきた子どもを抱く……それだけでじゅうぶん、Uさんは、すばらしい母親です。
私など、一度も、そういうことはありませんでした。
あとは「求めてきたときが、与えどき」と心得てください。
Uさんの子どもが何かを求めてきたら、すかさず、与える。
それでよいのです。

それから投稿にありました、子どもの反抗ですが、この時期の子どもに、ごくふつうに見られる反抗ですから、気にしてはいけません。
いわゆる(口答え)です。
(幼児期から、少年少女期への移行期に見られる、ふつうの口答えです。)
いちいち本気にするから、おおげさになってしまいます。
(このあたりにも、あなた自身の母親像のなさが、見受けられます。)

私の書いた原稿で参考になるようなものとしては、(好意の返報性)(親像)(育児ノイローゼ)(悪玉親意識)(気負い先行型)などがあります。
ヤフーなどの検索エンジンを使って、「はやし浩司 好意の返報性」というように検索してみてください。記事をいくつかヒットできるはずです。

Uさん、あなたはすばらしい母親ですよ。
これほどまでに、自分をみつめ、真剣に悩む母親は、そうはいない。
まず、そういうあなた自身に自信をもってください。
その自信が、あなたの子どもに伝わったとき、あなたの子どももまた、安心感をあたなにもつようになるでしょう。

どのみち、あと2、3年で、あなたの子どもは、親離れを始めます。
今はがまんのとき。
じょうずに子どもが親離れできるように、子どもをし向けます。

繰りかえしますが、Uさんが今経験しているような、親子騒動(?)は、珍しくも何ともありません。
ごくふつうの、一般の親たちが経験する、何でもない問題です。
(みんな、外から見ると、うまくやっているように見えますが、そう見えるだけです。)
できれば小学2、3年の子どもをもつ親に相談してみることです。
「うちもそうですよ」というようなアドバイスをもらって、たいていそれで解決するはずです。

そしてここが大切ですが、Uさんも子どもが親離れするのに合わせて、自分のしたいことを追求します。
あなたにはあなたの人生があります。
子どものために犠牲になるのは、美徳でも何でもありません。
そういう姿を見て、あなたの子どももまた、たくましく成長していきます。

子どもの機嫌など、取らないこと。
嫌われてもいいじゃないですか。
中学生でも、約60%の子どもは、「親のようになりたくない」「尊敬できない」と答えていますよ。

それでよいのです。
子育てに幻想をいだかないこと。
子どもに尊敬されようとか、好きになってもらおうとか、思わないこと。
それともあなたは、自分の母親や父親を尊敬していますか。
好きですか。
文面を読むかぎり、答は「ノー」のはずです。

ついでに「はやし浩司 レット・イット・ビー」という原稿も読んでみてください。
参考になると思います。
(たった今、自分で検索してみたら、18件、ヒットしました。)

「レット・イット・ビー」というのは、「あるがままに……」という意味です。
では、また……。

はやし浩司

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掲示板へは、(はやし浩司のHPのトップページ)より、(メール)→(掲示板)へと、おいでください。)

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Uさんへ

読むのが遅くなり、失礼しました。
今日は8月22日です。