Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, August 31, 2011

●紫外線の恐怖

●はやし浩司 2011-09-01

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はげしい雨音で、目が覚めた。
午前5時。
台風12号が、目下接近中。
その影響か。

幸い、台風は、この東海地方をはずれた。
紀伊半島方面~大阪方面に向かっているという。
(そちらの地方の方には、申し訳ないが……。)

かなり大型の台風らしい。
速度が遅いから、雨の量が心配される。
場所によっては、300ミリの雨量が予想されている。
1時間当たり、300ミリ!
それだけの雨が、ドッと下流地域に向かったら、どうなるか?

そんなことも心配になり、そのまま起きてしまった。
書斎に入った。
朝のウォーキング運動は、ワイフが起きてから。
(騒音がはげしい。)
つまり今朝は、運動、なし。
そのせいか、頭は半ば眠った状態。
ボーッとしている。

最初に見たのが、台風進路。
昨夜寝る前に見た進路と、ほとんど変化なし。
ただしやや速度があがったかな?
当初の予想では、3日の午前9時ごろ、名古屋市上空に中心部がやってくるということだった。
今朝、見ると、3日の午前9時には、北陸のほうへ抜けている。
被害が心配される。
……というか、このところ日本は、災難つづき。
地震も、再び、活発になってきたような感じがする。

ともあれ、今日から9月。
2011年、9月1日。
今月こそ、充実した1か月にしたい。

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●紫外線

 おととい、中学3年生のSG君が、目を真っ赤にして教室へやってきた。
「どうしたんだ?」と聞くと、「紫外線にやられた」と。

 話を聞くと、午後1時ごろから3時ごろまで、野外でテニスをしたという。
日差しの強い1日だった。

私「今すぐには症状は出ないかもしれないが、あとになって症状が出てくるぞ」
S「わかっている……」と。

 SG君はそのあと眼科へ行き、目薬をもらってきたという。
炎症を抑える薬だと思うが、しかし紫外線で破壊されたDNAを修復する薬はない。
白内障の遠因になるだけではない。
皮膚ガンの原因にもなる。

 紫外線……オーストラリアでは、2000年ごろから、深刻な問題になっている。
以前、書いた原稿(中日新聞発表済み)を掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●疑わしきは罰する(紫外線の恐怖)

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。
四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。

六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。
あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしまう。
反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。
原因は、紙オムツ。
最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。
子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌88年)。
「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。
根拠があるもないもない。
こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。
紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。
疑わしいが、はっきりとは言えないというようなことである。その一つが住環境。
高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい…? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。

たとえば妊婦の流産率は、6階以上では24%、10階以上では39%(1~5階は5~7%)。流・死産率でも6階以上では21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂氏)。
マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティーブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。

母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。
さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ黒に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよい。
私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、1校もない。
無頓(とん)着といえば無頓着。無頓着過ぎる。
オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚がんの発生率は4~6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。
実際、オーストラリアでは,1992年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年10%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。
オーストラリアの友人は、こう言った。
「何も対策をとっていない? 信じられない」と。
ちなみにこの北半球でも、オゾン層は、すでに10~40%(日本上空で10%)も減少している(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では「疑わしきは罰せず」という。
しかし教育の世界では「疑わしきは罰する」。
子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。
害が具体的に出るようになってからでは、手遅れ。
たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●放射線と紫外線

 原発事故以来、放射線ばかりが、問題になっている。
しかし紫外線だって、放射線だぞ!
区別する方が、おかしい。
多量に紫外線を浴びれば、皮膚ガンを誘発する。
オーストラリアの例をもう一度、しっかりと読んでみてほしい。
日本だけ安全ということはありえない。
事実、SG君のように、目を赤くする子どもが、急増している。
ウソだと思うなら、中学や高校の野球部の子どもたちを見ればよい。
ほとんどみな、例外なく、目を赤くしている。

 で、私はSG君に、サングラスをかけるように提案した。
つぎに帽子。
肩までかかるような、つばの広い帽子がよい。
オーストラリアでは、背中を覆うような帽子をかぶっている。
長袖のシャツ、長ズボンは、常識。

 そう言えば、今回の原発事故でも、こんなことがあった。
半径30キロ圏内にある、ある中学校のテニス部でのこと。
(現在は、避難勧告が出ている地域になっている。)
原発事故当初は、「今、ただちに健康に害を及ぼすことはない」ということで、学校での部活動も、ごくふつうになされていたという。

 が、やがて……やがてといっても、2か月以上もたってから、放射線量が測定されるようになった。
「ホットスポット」という言葉も、そのころ出てきた。

 その中学校では、(どこでもそうだが)、中学1年生は、球拾いをしていた。
球というのは、あとになってホットスポットと呼ばれるようになる、溝や窪地に落ちる。
その球拾いをしていた。
それを知り、親たちが動揺した(報道記事)。
当然である。
つまり動揺して、当然である。

 で、こういう問題が起きるたびに、私はこう思う。
「指導の教師は、自分の子どもだったら、そういうことをさせるだろうか」と。

 SG君にしてもそうだ。
「自分の子どもだったら、目が真っ赤になるまで、野外でテニスをさせるだろうか」と。
つまりこうした問題は、「自分の子どもなら……」という視点で考えなければならない。
ともすれば、私たちは「他人の子どもだから……」と、ものごとを安易に考えがちである。
どこか無責任になる。
が、これではいけない。

 私の教室のような小さな教室でも、雨の日は、当初、全員に雨合羽を配っていた。
最近は、気温の高い日には、150ミリリットル入りの、アメリカ製の飲料水を配っている。
熱中症の予防のためである。
「もし自分の子どもなら……」「孫なら……」と考えていくと、どうしてもそういうことをせざるをえなくなる。

 もちろん学校の先生たちも、その程度のことならしている……と思う。
が、「まだ足りない」。
SG君の真っ赤な目をみて、私はそう感じた。

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Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ホメオスタシス効果&メタ認知能力

●自分を知る

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ほとんどの人は、「私のことは
私がいちばんよく知っている」
と思っている。
しかしその実、自分のことは、
まったくわかっていない。そう、
自分で思いこんでいるだけ。
よい例が、「病識」。「私は病気で
ある」という意識があることを、
病識という。
精神疾患の世界でも、この病識
のあるなしで、病気の軽重が
決まるという。
同じように、心理学の世界には、
「メタ認知」という言葉がある。
自分の思考プロセスを客観的に
知り、それを意識化することをいう。
「なぜ、私はこう考えるのか」と。
考えている内容ではない。なぜ、
そのように考えるか、そのプロセスを
意識化することをいう。
さらに哲学の世界では、「汝自身を
知れ」が、究極の目標になっている。
精神医学、心理学、そして哲学の
世界で、それぞれ言っていることは、
みな、同じ。
つまり、「私を知ること」は、それほど
までにむずかしい。
……それでもあなたは、「私のことは
私がいちばんよく知っている」と、
言い張ることができるだろうか?

+++++++++++++

 たとえば若い女性が、胸や太ももをあらわにした服を着たとする。その女性にしてみれば、それが流行であり、そのほうが自分に似合うと思うから、そうする。
 そこでさらに、店にでかけ、あれこれ迷いながら、自分に合った(?)服を買おうとする。そういう女性に向かって、「どうしてそういう服を買うのですか」と質問しても、意味はない。その女性はその女性なりに、懸命に考えながら、色やデザインを選んでいる。
 が、もしその女性が、こう考えたらどうだろうか。
 「私はフロイトが説いたところの、イド、つまり性的エネルギーに支配されているだけ」と。
 そう、その女性は、無意識の世界からの命令によって動かされているだけ。そしてその命令は、種の保存本能に根ざしている。胸や太ももをあらわにするのも、結局は、(男)という異性をを意識しているからにほかならない。が、もちろんその女性には、その意識はない。

私「男を意識するから、そういう服を着るの?」
女「男なんて、関係ないわよ。ファッションよ」
私「ファッションって?」
女「自分に似合った服を選んで、身につけることよ」と。

 つまり精神疾患でいうところの「病識」が、その女性には、まったくないということになる。「私は正常だ」「ふつうだ」と思いこんでいる。しかし若い男性にとっては、そうではない。あらわになった胸や太ももを見ただけで、性的な情欲にかられる。女性には、その意識はなくても、男性は、そうなる。
 「どんな服装をしようとも、女性の勝手」というわけにはいかない。
 もっとも、その女性が、性的エネルギーにすべて支配されていると考えるのも、まちがいである。動機の原点に、性的エネルギーがあるとしても、そこから先は、(美の追求)ということになる。ファッションショーに、その例を見るまでもない。

 しかしそのつど、もし私たちが、自分の思考プロセスを、客観的に認知することができるようになったら、またそういう習慣を身につけることができたら、自分の見方が大きく変わるかもしれない。それを心理学の世界では、「メタ(高次)認知」という。
 たとえばこの私。毎日、ヒマさえあれば、こうしてパソコンのキーボードをたたいている。実際には楽しいから、そうしている。頭の中の未知の世界を探索するのは、ほんとうに楽しい。毎日、何か、新しいことを発見することができる。

 が、なぜ、そうするかというと、そこからが、「メタ認知」の領域ということになる。哲学の世界でいう、「私自身を、知る」という世界ということになる。
 基本的には、大きな欲求不満があるのかもしれない。あるいは心のどこかで女性という読者を意識しているのかもしれない。さらに言えば、(生)に対して、最後の戦いをいどんでいるのかもしれない。フロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使ったが、弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使った。

 「性」も「生」の一部と考えるなら、私は、今の自分が、その生的エネルギーによって支配されているということになる。
 その生的エネルギーが姿を変えて、私を動かしている。それを知るということが、つまりは、メタ認知ということになる。「私自身を知る」ということになる。

(補記)
 子どもの世界をながめていると、メタ認知というものが、どういうものか、よくわかる。
 たとえば心理学の世界にも、「防衛機制」という言葉がある。自我が危機的な状況に置かれると、子どもは、(おとなもそうだが)、その崩壊を防ぐために、さまざまな行動に出ることが知られている。
 たとえば学習面では目立たない子どもが、スポーツ面でがんばるなど。非行や暴力、つっぱりも、その一部として理解されている。
 が、当の本人たちには、その意識はない。「私は私」と思って、(思いこんで)、そういう行動を繰りかえす。
 相手は子どもだから、ここでいうメタ認知を求めても、意味はない。心を知り尽くした心理学者でもむずかしい。あのソクラテスですら、「汝自身を知れ」という言葉にぶつかってはじめて、「無知の知」という言葉を導いた。
 しかしメタ認知は、同時に、他人をよく知る手助けにもなる。
 出世主義に邁進する人も、金儲けに血眼になっている人も、あるいはスポーツの世界で華々しい成果をあげている人も、心のどこかで、何かによって動かされている。それが手に取るように、よくわかるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 メタ認知 認識 病識 汝自身を知れ 汝自身を、知れ)

Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●空腹のメカニズム(メタ認識・メタ認知)

+++++++++++++

昨夜、床につく前、猛烈な空腹感
に襲われた。
「パンでも食べようか……」と思ったが、
やめた。
そういうときの空腹感は、幻覚の
ようなもの。
朝、起きると、空腹感は消える。
今までの経験で、それがよくわかって
いる。
それに寝る前に食べると、肥満に
つながる。

+++++++++++++

 人間の空腹感は、(ほ乳動物もみなそうだが)、2つの相反する作用によって決まるということがわかっている。「食べたい」という作用と、「食べたくない」という作用である。「食べたい」という作用が、「食べたくない」という作用よりも強くなったとき、空腹感が起きてくる。順に考えてみよう。
 大脳の視床下部に、血糖値を感知するセンサーがある。一般的には、血糖値がさがると、そのセンサーが機能し、空腹感をもたらすと考えられている。
 しかし空腹感のメカニズムは、そんな単純なものではない。私の例で、考えてみよう。
 たとえば昨夜、私は寝る前に、猛烈な空腹感に襲われた。人間には、(ほ乳動物はみなそうだが)、ホメオスタシス効果というのがある。「ホメオスタシス」というのは、人間内部の生理的環境を一定に保とうとする機能を総称したもの(付記、参照)。
 もっともわかりやすい例が、食欲である。体内のエネルギーが不足してくると、生理的バランスを一定に保つために、ホメオスタシス効果が機能し始める。それが食欲につながる。

 猛烈な空腹感に襲われたのは、血中の血糖値がさがったため。それを大脳の視床下部のセンサーが感知した。それが猛烈な空腹感へとつながった。
 しかしならば、朝になると、どうしてその空腹感が消えるのか? 血糖値は、昨夜のままのはず。あるいは睡眠中に、ホメオスタシス効果が機能して、血糖値を調整したのか。その可能性は、ある。あるが、どうも合点がいかない。血糖値だけで、食欲の有無は、決まるのか?

 この謎を解くカギが、拒食症や過食症の患者にある。
 食欲……正確には、「摂食行動」というが、その摂食行動は、2つの相反する作用によって、決まるという。ネズミの実験だが、ネズミの視床下部の外側野に電気刺激を与えると、摂食行動が活発化し、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が停止するという(春木豊氏「心理学の基礎」)。

 が、反対に、その視床下部の外側野に隣接した、腹内側核を刺激すると、摂食行動が起きなくなり、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が止まらなくなり、ネズミは過食し始めるという(同)。
 わかりやすく言えば、視床下部の外側野と、それに隣接する腹内側核が、たがいに相反した機能をもちながら、人間の食欲を調整しているということになる。以上の話を、もう一度、まとめると、こうなる。

(1) 視床下部の外側野……(刺激すると)→(摂食行動が起きる)
               (破壊すると)→(摂食行動が停止する)

(2) 視床下部に隣接する腹内側核……(刺激すると)→(摂食行動が起きなくなる)
                    (破壊すると)→(過食が始まる)   

 脳の機能も外部からの刺激で、変調しやすい。ここに書いたマウスの実験では、脳の一部を破壊することによって、摂食行動の変化を確かめたが、機能が変調しても、同じことが起きると考えるのは、ごく自然なことである。 

 たとえば拒食症の人は、視床下部の外側野の機能が、低下した人ということになる。一方、過食症の人は、腹内側核の機能が、低下した人ということになる。(かなり乱暴な書き方で、ごめん!)

 で、私のばあいは、どうか?
 昨夜、猛烈な空腹感が、私を襲った。原因として考えられるのは、夕食を、一気に食べたこと。つまり短時間で食べた。
 短時間で食べたため、血糖値が、急激に上昇した。それと並行して、(ややタイムラグ=時間的なズレはあるが)、インシュリンが分泌された。昨夜は、それがやや多めに分泌されたらしい。

 結果、血糖値はさがったが、インシュリンは、血中に残って、さらに血糖値をさげつづけた。そのため寝る前に、私は、低血糖の状態になった。それを大脳の視床下部にあるセンサーが感知した。そしてその信号を、視床下部の外側野に伝えた。
 私は猛烈な空腹感に襲われた。
 しかし私は、それをがまんした。一連のメカニズムがわかっていると、がまんするのも、それほどつらいことではない。「この空腹感は、幻覚」と自分で自分に、言って聞かせることができる。

 眠っている間に、ホメオスタシス効果が機能した。体内の生理的バランスを調整した。結果として、朝起きたとき、空腹感は消えていた。
 ……というように、自分の欲望や行動を、客観的に意識化することを、「メタ認知」という。人間がもつ認知力の中でも、最高度のものである。少し前、ワイフが、「それ(=メタ認知)ができたからといって、それがどうなの?」と聞いた。私は、それに答えて、「メタ認知ができるようになれば、さらに自分がよくわかる。自分で自分をコントロールできるようになる」と答えた。

 以上、「空腹のメカニズム」。おしまい!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 空腹のメカニズム 過食症 拒食症 ホメオスタシス メタ認知 視床下部 外側野 腹内側核 はやし浩司 メタ認識)

(付記)
ホメオスタシス……「平衡状態」「定常状態」の意。生物が環境のさまざまな変化に対応し、生物体内の形態的、生理的状態を安定な範囲に保ち、生存を維持する性質。アメリカの生理学者のキャノンが提唱(国語大辞典)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ホメオスタシス ホメオスタシス効果 メタ認知 はやし浩司 メタ認知能力 空腹のメカニズム 視床下部 はやし浩司 無知の知)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●人を恨むということ

●8月31日夜記

●ゆがむ心

 恨み、妬(ねた)み、怒り、不満、不平……そういった感情を日常的に抱いていると、心がゆがむ。
ゆがむと気づかないまま、ゆがむ。

 わかりやすく言えば、他人の不幸を楽しむようになる。
ものの考え方が、悪魔的になる。
常識の感覚が疎くなり、軽重はあるものの、反社会的な行為を平気でするようになる。

 とくに気をつけたいのが、恨みと妬み。
ともに原始的な感情であるだけに、心、つまり脳に与えるダメージも大きい。
脳自体が、慢性的な脳ストレス状態になる。
そのため思考回路そのものが、ゆがんでくる。
また一度ゆがんだ心は、簡単には、元に戻らない。

 が、これは子どもの世界の話ではない。
おとなの世界の話でもある。
しかも50代、60代の人にとっても、けっして、無縁の話ではない。

●X氏

 自治会で親しくしている人に、A氏(65歳)がいる。
そのA氏が、こんな話をしてくれた。

 A氏の隣に、X氏(83歳)という男性が住んでいる。
定年(55歳)まで、国の出先機関の副長クラスの仕事をしていた。
以後、30年近く、仕事は、いっさいしていない。
近所づきあいもしていない。
裏に畑があり、毎日庭いじりと畑での作業だけを繰り返しているだけ。
A氏は、そのX氏に、現在に至るまで、いやがらせ(いじめ)を受けているという。

ふつうの意地悪ではない。
放火、殺人未遂、虚偽の通報、暴力行為などなど。
どれもスレスレの行為で、そのつど警察に通報したというが、どれも証拠不十分で、警察沙汰にはなっていない。

★放火……塀を燃やされた。
 燃え残った枯れ草や、小枝などが、その下に残っていた。
★殺人未遂……生きたマムシを飼っていて、数度、それを投げ込まれたことがある。
 A氏が問いただすと、強精用のマムシ焼酎を作っているだけと逃げられたという。
★虚偽の通報……A氏の名前を勝手に使い、市役所や近所の地主に、苦情を訴えたりする。
 そのためA氏が、悪者扱いになる、など。
★暴力行為……夜中に、屋根にビンを投げられたり、パチンコでエアコンの室外機を破壊された、などなど。
窓ガラスも割られたことがあるが、そのときA氏が通報するよりも先に、X氏のほうが、「うちの窓ガラスが割られた」と、警察に通報していたという。
実際、X氏の家のガラスには、いくつかの穴があいていた。

 A氏は、あきらめ顔。
「やり方が実に巧妙で……」と。
X氏は、A氏の家の動きをいつも、どこかで観察しているという。
そこでA氏は、監視カメラまで設置したが、いつも電源を入れているわけではない。
その電源を切ったときに、いやがらせをするという。

 心のゆがんだ人というのは、X氏のような人をいう。
ゆがんでいるというより、腐っている。

●『抑圧は悪魔を作る』

 なぜX氏の心が、そこまでゆがんだか。
それについてもA氏は、いろいろ話してくれた。
が、ここでは割愛する。

 問題は、日ごろの生活態度ということになる。
イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
わかりやすく言えば、不平や不満があるにせよ、それをうまく発散できればよい。
それができないと、つまり抑圧されると、心は悪魔的になる。

 X氏は、もろもろの不平、不満を、A氏の責任にした。
あるいは何かいやなことがあると、それをA氏に転嫁した。

 子どもの世界では、それが顕著に表れる。
以前(2009年8月)、書いた原稿を、ここに載せる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●痛ましい事件(抑圧は悪魔を作る)

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またまた13歳の少年が、父親を殺害する
という事件が起きた。
まず、その記事(産経新聞・7月18日)を
読んでみたい。

++++++++++++++++++

+++++++++++++以下、産経新聞より、抜粋転載+++++++++++++

島根県I市で中学2年の少年(13)が、父親(43)を殺害した事件で、少年の付添人
となった弁護士が17日、M市内で会見し、少年が「父親の勉強に対する指導が厳しかっ
た」との内容を話していることを明らかにした。

 付添人によると、これまで4回、少年に面会しているが、落ち着いた様子で応じている
という。付添人は「父親に対する恐怖心が拒絶感になり、事件に至ったのではないかと考
えている」と話した。今後は、少年の主張を代弁するなど少年の権利を保障するとともに、
聞き取りをしていくなかで更生に助力するとしている。

 I市教委などによると、少年は昨年11月、スクールカウンセラーに「成績のことで父
親に頭などをたたかれる」と訴え、竹刀でたたかれる体罰行為もあったという。

 県警のこれまでの調べに、少年は「父親を殺すしかないと思った」と説明。さらに、同
級生には事件前、「おやじ殺しちゃう」と殺害を予告し、当日朝には、「殺した」と伝えて
いた。少年の部屋からは、殺害方法などが書かれたメモやナイフ数本が見つかっており、
県警は少年が計画的に父親を殺害した可能性があるとみて慎重に調べている。

+++++++++++++以上、産経新聞より、抜粋転載+++++++++++++

●「抑圧」の恐ろしさ

 イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
心理的に抑圧状態が慢性的につづくと、人の心が悪魔的になることを言ったもの。
子どものばあい、それが顕著に現れる。

 まずつぎのテストを受けてみてほしい。
このテストは、表面的には、穏やかで従順な子どもを対象にしたものである。
あなたの子どもは……、

(  )表面的には穏やかで従順である。(親の前では、見た目には静か。)
(  )感情表現、とくに喜びの表現が乏しい。
(  )ときにツンとした人間的な冷たさを感ずる。
(  )ものの考え方が、消費的で刹那的。(小遣いなどもすぐ、使ってしまう。)
(  )「殺す」「死ぬ」という言葉をよく使う。(あるいはあちこちに、書く。)  
(  )「銃(ガン)」「戦争」などに興味をもっている。
(  )ノートなどに残酷な絵を描くことが多い。(「血」をテーマにした絵が多い。)
(  )善悪の判断にうとく、ときに常識はずれなことをする。
(  )何を考えているのか、親にもわからないときが多い。
(  )小動物や人形などに興味を示さない。

 もしこのテストで、5個以上思い当るところがあれば、あなたの子どもの心は
かなりゆがんでいるとみてよい。
(即席で作成したテストなので、信頼性はあまりない。)

 表面的に穏やかで従順であるからといって、「いい子」とは限らない。
それは子どもの世界では常識。
表面的な様子に、だまされてはいけない。
とくにあなた自身が権威主義的なものの考え方をしているなら、注意したらよい。

(権威主義:悪玉親意識が強く、上下意識も強い。
子どもが口応えしただけで、「親に向かって、何てこと言うか!」と怒鳴りつけるような
タイプの親をいう。

「産んでやった」「育ててやった」と、親風を吹かすことも多い。
妻に向かっては、「食べさせてやる」「稼いでやる」とか言う。
家父長意識も強い。)

 今回、I市で起きた事件の背景が、そうであったというのではない。
しかしこの種の事件は、まさに氷山の一角。
その一歩、あるいは二歩手前で、あやうく事件にならないで、闇に隠れている
ケースとなると、ゴマンとある。
ひょっとしたら、あなたの親子関係も、そうかもしれない。

 もしそうなら、(1)権威主義的発想を捨てること。
(2)友として、子どもの横に立つこと。
(3)今の状態を、これ以上悪くしないことだけを考えて、対処すること。
 この3つに心がけてみてほしい。

時間はかかるが、(というのも、この種の心の問題は、一朝一夕には解決しないので)、
やがて子どものほうから、心を開いてくる。
 それにしても、「『成績のことで父親に頭などをたたかれる』と訴え、竹刀でたたかれる
体罰行為もあった」とは!

 そこまでひどくなくても、毎日、毎晩、「勉強しろ!」「うるさい!」の大乱闘を
繰り返している親子は、少なくない。
もしあなたがそうなら……。
 
「子どもの成績があがったら、どうなのか?」
「それがどうしたというのか?」
そのあたりからもう一度、考え直してみてほしい。
 もし殺された父親に、そういうものの見方の一片でもあれば、少なくとも今回の
ような悲劇は避けられたはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 父親殺害 抑圧は悪魔を作る)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●もまし

 実は私は、「もまし」という言葉を、10年前まで知らなかった。
ある知人(女性、60歳)が、教えてくれた。
その女性は、こう言った。
「あら、あなた、モマシという言葉も知らなかったの?」と。

 もちろん知っている人は、知っている。
それができる人は、日常的に、平気でできる。

もまし……Aさんには、Bさんの悪口を言う。
「Bさんね、あなたのことを、バカって言ってたわよ」と。
一方、Bさんには、Aさんの悪口を言う。
「Aさんね、あなたのことを、イヤな人って、言ってたわよ」と。

 会話の内容は、実際には、もう少し複雑。
告げ口、密告、暴露、ウソなどを混在させる。

つまりこうしてAさんとBさんの間にトラブルを引き起こす。
仲たがいを誘引する。
これを「モマシ」という。

 男の世界では、あまり聞いたことがない。
しかし女性の世界では、モマシがたいへん多いという。
つまり女性のほうが、それだけ社会的に、抑圧されているということか?

私も親類の女性(69歳)に、モマシをされたことがある。
その女性をうっかりと信じてしまった。
信じて、内輪の話をしてしまった。
が、数週間もたたないうちに、その話は親戚中に広がってしまった。

 (こういうモマシにあったら、弁解せず、説明せず、ただひたすら沈黙を守るのがよい。
これは私がそのとき学習した鉄則。)

 こういうモマシが平気でできる人というのも、心がかなる腐っているとみてよい。
ふつうの心では、できない。
というか、ふつうではない。

●根が深い

 心のゆがんだ人を、どうするかということについては、私にはわからない。
牧師のような聖職者の人にとっては、大きなテーマかもしれないが、私には荷が重すぎる。
つまり私のばあい、そういう心のゆがんだ人、腐った人に出会ったら、距離を置き、遠ざかるようにしている。

 つきあってよいことは何もない。
ないばかりか、こちらまで影響を受けてしまう。

 もちろん相手が子どもで、私の指導下にあれば、それなりの指導はする。
しかしこの問題は、ふつう、根が深い。
それに先にも書いたように、(もちろん軽重の問題もあるが)、指導により「直す」のは、簡単ではない。
子どもでも、5年単位の時間が必要。
攻撃的なつっぱり症状を見せる子どもを想像してみればよい。
一度ゆがんだ心は、簡単には戻らない。
さらに歳を取ると、仮面をかぶるようになる。
いい人ぶり、外からはわかりにくくなる。
それこそ80歳を過ぎても、近所の人に意地悪を繰り返すこともある。

●ネズミを殺すために、家を燃やす

 そこで重要なことは、自分の心を抑圧しないこと。
ゆがみを感じたら、できるだけ早い段階で、それに気づき、原因を取り除くこと。
たいていは人間関係に起因する。
その人間関係を是正する。

 だからある賢人はこう言った。

『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディック)

 つまり人を恨んでいると、心、つまりその人の人間性全体まで、大きな影響を受ける、と。

 それについて書いた原稿を添付し、このエッセーを終える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

+++++++++++++++++++++

人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

+++++++++++++++++++++++++

●ある女性(67歳)

 東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。
「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。
そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に処理して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

●深み

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた知人に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8~10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その知人はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
人間性そのものまで破壊する。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」ということを知り、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●大阪・『シティ・ライフ』誌よりbyはやし浩司

『シティライフ』誌(大阪府・北摂・高槻・茨木・摂津版)

●巻頭特集の記事より

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【シティライフ編集部のみなさんへ】

 記事を掲載してくださり、ありがとうございました。

シティライフ……アクセスは
http://kurasi.citylife-new.com/e12121.html


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Tuesday, August 30, 2011

●このごろのニュースから

●もうすぐ64歳(8月30日の夜に)「今日のできごと、あれこれ」

●タレントのS

 タレントのSが、マスコミでボロクソに叩かれている。
同情の余地はない。
もともと・・・というか、見るからにその程度の男。
「国民の宝」と、どこかのバカ知事はもちあげたが、国民の宝?

 「つながりがあった」というより、準構成員そのもの。
が、問題は、マスコミそのもの。
ああいう人間を無批判に、もちあげてきた。
その責任は、どうなるのか。

 が、まだSはよい。
暴力団とのつながりがあったというだけで、社会にそれほど大きな影響を与えたというわけではない。
陰に隠れて、コソコソ、行動していた。

 で、そのタレントSを見ながら、こう思う。
もしSが悪いというなら、あのBTはどうなのか?、と。
ワイフが、昨夜、そう言った。
見るからに、その程度の男。
映画監督もしているが、作るのは暴力映画ばかり。
暴力団そのものを題材にした映画も多い。
その男が、今、タレントの王者として、日本のマスコミの上に君臨している。

 日本人や日本の若者たちに与えた影響となると、計り知れない。
もちろん悪い影響である。
そんな男が、東京都から、「都を代表する文化人」として表彰されている。
フランス政府からは、「日本を代表する文化人」として表彰されている。

 Sというタレントがおかしいのではない。
マスコミ全体が、狂っている。
日本人全体が、狂っている。

●日債銀の破綻処理、4・8兆円!

 最高裁判所は、「シロ」と判断した。
いわく「貸出金が多少でも回収できれば、
支援に合理性が認められるとの判断を示し、
決算に粉飾はなかった」と。

 わかりやすく言えば、日債銀がした
もろもろの融資は、「回収の見込みがなかったとは
評価できない」※と。

実にあやしげな融資だった。
にもかかわらず、「回収の見込みがなかったとは言えない」と。

 が、本当の問題は、そのことではない。
こんな一銀行のために、4・8兆円もの公的資金が使われたということ。

4・8兆円を数字で表してみる。

4800000000000円!

 もし預金者保護ということなら、
預金者だけを保護すればよかった。
その保護だけにとどめ、銀行を解体すればよかった。
何も、銀行がかかえた債務まで、国が負担することはなかった。

 が、日債銀は、事実上、救済された。
日債銀というより、行員たちが救済された。
当時の日債銀の行員は、約2000人。
4・8兆円を2000人で割ると、
1人当たり、24億円。

 つまり国は、行員1人当たり、24億円もの
公的資金(=税金)を投入し、日債銀なるものを
救済した。

以後、日債銀の行員たちは、だれひとり責任を
問われることもなく、満額の退職金(=企業年金)
を受け取り、それぞれ子会社(主に独立系ノンバンク)
へと散った。

 もちろん1人当たり、24億円の現金を手にしたわけではない。
しかしふつうなら、会社の倒産と同じように、行員は全員解雇、
無一文で、野に放り出されてもおかしくなかった。

が、ここからがまたおかしい。

 検察庁は、「乱脈融資に直接かかわったわけでもない、
国税庁長官のK氏のみを訴追」(Yahoo・ニュース)した。
結果、乱脈融資そのものを、うやむやにしてしまった。

が、もう一度、4・8兆円という数字をよく見てほしい。
日本人の人口を、1億2000万人とすると、国民1人当たり、4万円!
それだけのお金が、闇から闇へと消えたことになる。
つまりだれかが、その一方で、儲けた!

 百貨店のそごう倒産劇のときも、債務(=借金)の付け替えが、
頻繁に行われていた。
日債銀の経営破綻劇の裏でも、同じことが行われていた。

それが無罪!
シロ!

 こんなバカなことが、この日本では堂々と行われている。
捜査といっても、「国策捜査」(同・ニュース)。
はじめから結果は、わかっていた。
つまり茶番劇。

 日本が民主主義国家と思っているのは、そこらのオジチャン、オバチャンたちだけ。
日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
世界に名だたる官僚主義国家。
その官僚たちが、政治、経済、さらには裁判まで、自分たちの
思い通りに動かしている。

今度の判決を見て、私はそう感じた。

(注※)
 数学の問題でも、解答のある問題を解くのは簡単。
しかし「この問題は解けません」ということを証明するのは、むずかしい。
同じように、回収の見込みについて、なかったことを証明するのは、むずかしい。
要するに、詐欺であったかどうかということ。
が、「回収の見込みがなかったとは評価できない」ということで、詐欺ではないということになった。
回りくどい言い方だが、こんな論法がまかり通るなら、どんな詐欺でも、無罪になって
しまう。
今、問題になっている「○X牧場」の和牛預託商法にしても、そうだ。
「(資金の)回収の見込みがなかったとは評価できない。よって無罪」と。

●どこかの川で……

 どこかの川で、28歳の男性が、橋から川に飛び込んで、死んだ。
私はその川も、橋も、よく知っている。
私はその川のほとりで、生まれ育った。

 死因はまだ報道されていないが、心臓麻痺か何かではなかったか。
あの川の恐ろしいところは、(どこの川でもそうだが)、山の清水が、いたるところで川の中でわき出ていること。
川に沿って泳いでいると、それがよくわかる。
ときどき、氷のように冷たい清水を、帯のように感ずる。
そういう清水の中に入ると、かなり泳ぎ慣れた人でも、キーンと心臓が縮むのがわかる。

 今は、温暖化も進んだ。
しかし私が子どものころは、8月15日の盆を過ぎたら、あの川には入らなかった。
寒くて、入れなかった。
そんな川に、8月末の今ごろ、橋から飛び込むなどというのは、正気の沙汰ではない。

 28歳といえば、若い。
残念な事件である。

●生き埋め

 もうひとつの事件は、若い夫婦が生き埋めになったというもの。
どういういきさつでそうなったかは知らないが、運が悪かっただけではすまされない。
何か、やりきれない。

 どこかの若い妻が、夫を驚かそうと、砂浜に穴を掘った。
落とし穴を作った。
「誕生日を祝うためだった」というから、さらに「?」。
そに落とし穴に、夫婦ともども落ちて、2人とも窒息して死んだ。

 穴の深さも、常識をはずれている。
2・5メートル!
ほんの少しでも思考力があれば、こんな危険な遊びはしなかったはず。

 が、私の年齢になると、どうしても親の心のほうを先に考えてしまう。
「さぞかし、やりきれないだろうな」と。

 川に飛び込んで死んだ若者にも、砂浜で窒息して死んだ若者にも、親がいるはず。
そういう息子や娘をもった親は、どうか。
悲しいというより、やりきれない思いでいっぱいだろう。
無念というか、何というか……。

 人というのは、他人のことなら、「許して忘れる」ことができる。
しかし自分のこととなると、それができない。
それが親の気持ちということになる。

 だから今は、こう思う。

 若者たちよ、無謀なことをするのは、君たちの勝手。
しかしときには、親の気持ちも少しは考えて行動せよ。
君たちの命はもちろん、幸福にせよ、結婚にせよ、それは君たちだけのものではない。
君たちの背中には、君たちを、苦労に苦労を重ねて育ててきた、父親がいる。
母親がいる。
ときには、回れ右をし、背中の側にいる人間を見てほしい。

●民主党

 野田首相が生まれた。
その話をしながら、昨夜も参観に来ていた父親と、こんな話をした。
「どうして管さん(=管直人首相)では、だめなんですかねエ?」と。
するとすかさずその父親も、こう言った。
「私も、そう思います」と。

 わかりやすく言えば、みなが寄ってたかって、管直人前首相の足を引っ張った。
官僚、ゼネコン、そして同族の一派。

この日本では、行政改革(=脱官僚政治)を訴えただけで、その政治家は干される。
ゼネコン(=原発建設業者)を叩いただけで、経済界からはじき飛ばされる。
民主党といっても、中身は、派閥政治。
「数」がものをいう、派閥政治。
野党時代は、あれほど自民党の派閥政治を批判していたにもかかわらず、政権与党になったとたん、この体たらく。

 もちろんその原点は、忠臣蔵。
私たちが若いころは、毎年12月になるたびに、忠臣蔵がテレビで放映されていた。
恒例番組にもなっていた。
それがそのまま日本人の精神的バックボーンになっている。
政治の世界でも、そうだ。

 ・・・というのは、考えすぎかもしれない。
しかし今の民主党、とくに小沢一派の議員の動きを見ていると、忠臣蔵そのもの。
称して「平成の忠臣蔵」。
権力を背負っているだけに、暴力団より始末が悪い。
日本人は、あの封建時代の遺物を、いまだに色濃く引きずっている。

●武士道

 ・・・もし江戸時代の武士道なるものが、どういうものかを知りたかったら、現在の「ヤクザ(暴力団ではない)の世界」を見ればよい。
皮肉なことに、ヤクザの世界は、封建時代における武士の世界そのものといってよい。
忠実に過去を踏襲している。

いまだにその武士道なるものを礼賛する人は多い。
「武士道こそ、日本が世界に誇るべき精神的バックボーン」と説く学者もいる。
しかし封建時代がもつ「負の遺産」に目を当てることもなく、一方的に礼賛するのもどうか?

 5%にも満たない武士が日本の社会を牛耳り、95%の日本人が、その暴政に苦しんだ。
江戸時代という時代にしても、世界に類を見ないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代だった。
が、何よりも忘れていけないことは、私たちの先祖は、その95%の農民であったということ。
(工人、商人は、数がぐんと少なかった。)

 もしあのまま今でも封建時代がつづいていたら、私たちはまちがいなく、農民だった。
その農民が、武士のまねごとを説いて、どうなる?
どうする?

●迷ったら・・・

 先ほど、ワイフがこう言った。
「明日は、どうする?」と。

 水曜日は、温泉に行くことにしている。
回数券で買うと、1回分800円で入浴できる。
それに映画も観たい。
が、あまりよいのがない。
見るとすれば、『ピラニア』。
昔の『ジョーズ』に似た映画と思う。
サメが、ピラニアに変わった。

 もうひとつは、温水器のパイプに穴があいた。
その修理。
「明日は、どうする?」と再びワイフが聞いたので、私はこう答えた。
「ぜんぶ、する」と。

 このところ「迷ったら、すべてする」が、私のモットーになっている。

●スピリチュアル(霊感商法)

 数日前、「?」はチラシが新聞に入っていた。
「スピリチュアル講演会」という。
見ると、もろもろの悩みを解消します、とある。
ついでにもろもろの予知、予言もします、とある。

 当日券は3500円とか。(前売り券は3000円。)

 気になったのは、小中学生の入場料金も書いてあったこと。
もしそれがカルト教団なら、(カルト教団と断言してよいが)、これは見過ごせない。
フランスでもベルギーでも、未成年者への勧誘は、法律によりきびしく禁止されている。
甘いのは、この日本だけ。
政治活動も野放し。(アメリカでは禁止。)
営利活動も野放し。(世界的に禁止。)
もちろん子どもの勧誘も、野放し。

 憲法で保障されている「信仰の自由」が、カルト教団のよいように拡大解釈されている。
その結果が、今。
だいたいにおいて、「スピリチュアル」とは何か。
訳せば「霊」ということになる。

 あのホーキング博士は、「天国などというものは、死を恐れる人のおとぎ話」と言い切った。
が、人間は、それほど強くない。
ウソでもよいから、天国を信じたい人もいる。
そういう人たちの思いは思いとして、そっとしておいてやる。
「あなたはまちがっている!」と言って、ハシゴをはずすのは簡単なこと。
はずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してやる。
それができないなら、そっとしておいてやる。

 が、あえてウソを広めてはいけない。
お金を取り、人を集め、インチキ説法まではしていけない。
その先にあるのが、霊感商法。
こういうのを野放しにするから、被害者が後を絶たない。

 もし、ここに私が書いたことがまちがっているというのなら、ヤ~イ、インチキ教団の連中どもよ、今すぐ、私にバチを当ててみろ。
そのスピリチュアル何とかというパワーを使って、私にバチを当ててみろ!

 大地震が予言できるくらいなら、はやし浩司1人くらい、つぶすのは、わけないはず。

●勇気

 今年は平成23年だから、ちょうど23年前。
私はあるカルト教団を攻撃した本を、5冊、書いた。
それがあって、私のところへ、毎週のように、10~20人の信者たちが押しかけてきた。
みな、口々に、こう言った。
「今に、お前は地獄へ落ちる」「5年後に結果が出る」「楽しみにしている」と。

 が、5年たっても、10年たっても、20年たっても、私は地獄へ落ちなかった。
今の今も、そこそこに元気で暮らしている。

 愚かな連中だ。
「信じたものだけが救われる」とか、「悪口を書いたら、地獄へ落ちる」とか言う。
私が神や仏なら、いちいちそんなことは気にしない。
神や仏に甘えるわけではないが、心が無料無辺に広いから、神といい、仏という。

 が、正直に告白するが、当初は怖かった。
仲のよい友人でさえも、「殺されないように注意してください」と忠告してくれた。
そう言えば、こんなことを言った信者もいた。
「夜道を歩くときは、注意したほうがいいですよ」と。

 が、今は、反対に、こわいものがなくなった。
小心で臆病だった私が、平気でものを書けるようになった。
あの一連の事件を通して、私は「勇気」を手に入れた。
今にして思うと、それがよくわかる。

●もうすぐ64歳

 もうすぐ64歳。
平均余命から逆算すると、運がよくても、私の
寿命は、残り15年。
15年。
たったの15年。

 で、反対にこんな計算をしてみる。
現在の年齢から15年を引いてみると、49歳。
49歳から64歳。・・・15年
64歳から79歳。・・・15年
49歳のときから、現在までの年数がたつと、
私もあの世行き。

 そこで考える。
49歳のとき、私は何をしていたか、と。
よく覚えているのは、中日新聞で、連載が始まったこと。
『子どもの世界、こんな問題』というコラムだった。
それから15年。
あっという間の15年。
同じように、これからの15年も、あっという間に過ぎていく。
あるいは、もっと早いかもしれない。

 が、それとて、先に書いたように、「運がよければ」の話。
平均余命から10年を引いた年齢を、健康年齢という。
晩年の10年は、病魔との闘い。
徐々に病魔に侵されながら、人は、やがて死を迎える。
その健康年齢まで、あと4年。
たったの4年。

 長生きはしたいが、私のような国民年金族(=無年金族)は、
長生きをすればするほど、みなに、迷惑をかける。
迷惑をかけてまで、長生きはしたくない。
また長生きしたところで、どういう意味があるのか。
できれば、ピンコロ。
無縁死でも孤独死でもよい。
できれば、ピンコロ。

 ・・・かなり悲観的な考え方だが、私が書きたいのは、その逆。
それだけに、このところ、生きていることに、いとおしさを覚える。

美しい空。
白い雲。
深い緑の木々。
死ねば、この世もろとも、私は消える。
その切なさ。
そのなごり惜しさ。

 今夜もワイフとドライブをしながら、そんなことを考えた。
暗い夜空だったが、淡い雲が幾重にも重なって見えた。
その下に、黒いシルエットとなった山々。
そして明かりを灯す、民家。
その切なさ。
そのなごり惜しさ。

 今や一瞬一秒が、砂時計の砂のように、過ぎていく。
無駄にできる「命」は、もうない。
回り道をしている時間もない。
迷っている暇もない。
結果がどうであれ、その結果を気にしている余裕もない。

 ただ前に進むこと。
ただひたすら前に向かって生きていくこと。
正しくても、またまちがっていても、これが私の人生。
私の選んだ人生。
今さら過去を悔やんだところで、どうにもならない。
軌道修正することもできない。
だから前に進む。

 世の中に、私のようなバカが1人くらい、いてもよい。
言うなれば、バカの実験台。
もし私の生き方がまちがっていると思うなら、それはそれで結構。
あとにつづく人たちは、別の道を進めばよい。
もし私の生き方にも、価値があると思うなら、それはそれで結構。
あとにつづく人たちは、私を乗り越えて進めばよい。

 今夜の私は、ワイフの深い愛を感ずる。
息子の深い愛を感ずる。
それ以上、私は何を望むというのか。
仮に今、ピンコロということになっても、今の私なら、今を信ずる。
信じて、そのまま静かに死ぬことができる。
やすらかに。
穏やかに。

今夜の私は、いつもになく、満ち足りている。
人を憎まず。
人を恨まず。
平和な心で、満たされている。

 ・・・このまま静かに眠ろう。
すでにワイフは、奥の寝室で寝息をたてている。
先ほどまで横で話していた息子も、寝室へ入った。

では、みなさん、おやすみ。
日付は変わって、2011年8月31日。

引佐町・山荘にて。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug 2011+++++++++はやし浩司

【楽しく学ぶ子は、よく学ぶ】

●1年生に、センチとミリを教える

(1)


(2)



Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Monday, August 29, 2011

●行動に予想のつかない子ども

●子ども、あれこれ(突発的に衝動的な行動を繰り返す子ども)

++++++++++++++++++++

 親の過干渉が日常化すると、子どもは、
自分で考えるということができなくなる。
とくに善悪の判断に疎くなる。
いろいろなケースがある。

++++++++++++++++++++

(N君、小2男児)

 私の教室には、いくつかの模型飛行機が飾ってある。
ダイキャスト製の、大きさが15センチ前後の飛行機である。
その飛行機の、プロペラや脚が折られるという事件がつづいた。
模型のアンテナが折られたのもある。

が、だれが折るのか、当初はわからなかった。
私も、それほど注意していたわけではない。
気がついたときには、模型飛行機のほとんどが、壊されていた。

 が、ある日、レッスンが終わり参観にやってきた母親と話しているとき、ふとそちらのほうを見ると、N君(小2男児)がその前に立っていた。
模型飛行機をじっと見ているといったふうだった。
が、つぎの瞬間、N君は、さっと手を伸ばすと、指先でプロペラを折った。
ものすごい早業(はやわざ)だった。
それが終わると、再びN君は、こちらの様子を警戒するといったふうでもなく、じっと模型飛行機に見入っていた。

 ほかにコンセントに粘土を詰めていた子ども(幼稚園男児)や、色水を溶かして、2階のベランダから、下の子どもに向かって、それをかけていた子ども(幼稚園男児)などがいた。

●特徴

 こうした子どもの話をすると、頭の良し悪しと結びつけて考える人は多い。
しかし頭の良し悪しとは、関係ない。
先にあげたN君にしても、学校のクラスでも、1、2を争うほど、算数が得意だった。
つまり頭が良い子どもでも、善悪の判断に疎い子どもは、いくらでもいる。
他方、頭が悪いからといって、善悪の判断が疎いということにもならない。

 それはちょうど、男子だから、料理や洗濯がへたとか、反対に女子だから、料理や洗濯がじょうずと決めつけて考えるようなもの。
料理や洗濯のじょうず、へたに、男子も女子も、ない。
同じように、「頭が悪いから、善悪の判断に疎い」と考えてはいけない。
(もちろん、頭の悪い子どもで、善悪の判断に疎い子どももいるが……。)

 前提として、善悪の判断能力と、頭の良し悪しは、関係ない。

●突発性

 このタイプの子どもの特徴としては、突発性があげられる。
日ごろから、行動が突発的で、静かな落ち着きに欠ける。
その瞬間に、「とんでもない行動」を引き起こす。
少し前も、私のうしろから、私の後頭部を、いきなり発泡スチロールの棒で叩いてきた子ども(小6男児)がいた。

 発泡スチロールとはいえ、6年生の腕力である。
しかも水平に、右耳をめがけて叩いてきた。
幸いにも、ほんの少しだけ位置がずれていたからよかった。
もしまともに右耳に当たっていたら、私の鼓膜は吹き飛んでいたはず。
(それでも、そのあと4、5日間、耳がポーンとしたままだったが……。)

 この子どもも、頭の良い子どもだった。
が、時として発作的に、衝動的行動に走る。
で、叱ると、その場ではシュンとうなだれ、いかにも反省していますといった様子をしてみせる。

●原因

 年齢的には、満4・5歳前までの幼児期前期における、子育ての失敗とみる。
この時期を「自律期」と呼ぶ(エリクソン)。
この時期を通して、子どもは、善悪の感覚を身につける。
先生や親の指導を忠実に守ろうとする。

 たとえば母親が、幼稚園の先生の指導と違ったことをしたりすると、すかさず、「幼稚園の先生がねえ……」と言い返し、母親をたしなめたりする。

 あるいは部屋の様子がいつもとちがっていただけでも、敏感にそれを発見する。
元に戻そうとする。
たとえば花瓶の位置がずれていただけでも、元通りにする、など。

 この時期までに、子どもの基本的な習慣づけが決まると断言してよい。
が、反対に、この時期を、「だらしなく」過ごすと、子どもは、「だらしない子ども」になる。
生活態度がだらしなくなり、ものを散らかすなど。
服装や、身だしなみに無頓着になることもある。

原因は言うまでもなく、親の溺愛(甘やかし)、過干渉(親がガミガミ、コマゴマと言う)など。
それが日常化すると、子どもは自分で考え、自分で行動するということができなくなる。

 しかしそれがすべてよいというわけではない。
反対にそれが度を越したりすると、子どもは、いわゆる融通の利かない、頭の固い子どもになる。
たとえばユーモア、冗談が通じなくなる、など。
たとえばアスペルガー児のばあい、相手の言葉を忠実にとらえすぎるあまり、柔軟な行動がとれないことがよく知られている。

 満4・5歳を過ぎたら、「融通性(ユーモア)の指導」も、家庭教育におけるひとつのテーマと考えてよい。
 
●善悪判断

 言い換えると、年長児(5~6歳児)をていねいに観察すると、善悪の判断能力(=常識的な判断能力)が、正しく身についているかどうかが、わかる。
善悪の判断能力が正しく身についている子どもは、的確にそれを判断することができる。
衝動的、突発的な行動は、見られない。

 一方、そうでない子どもは、そうでない。
ひどくなると、「何をしでかすか、予想が立たない子ども」になる。
ほんの少し目を離したすきに、「とんでもないこと」をする。
しかも本人には、悪いことをしているという意識は、ほとんどない。
笑いながら、あるいはおもしろ半分に、それをする。

 私の目に、シャープペンシルを突き刺した子ども(中3・男子)、同じようにシャープペンシルの先で、私の目を突き刺そうとした子ども(小4・男児)などがいた※。
ともに頭のキレる子どもで、とくに数学においては、並外れた才能を光らせていた。

(注※)この子どもは、私が振り向くのを待ち、シャーペンシルを手で握り、私に声をかけた。
「先生、先生」と。
私はそのとき反対の方向を向いていたが、そのまま顔を、その子どものほうに向けていたら、シャーペンシルの先は、確実に私の目を突き刺していた。
たまたまその直前、別の子どもが、「先生!」と声をかけてくれたから、私は難を逃れることができた。

●どうするか

 先にも書いたように、年長児(6歳、幼児期後期)になると、その子どもの方向性が決まってくる。
親は、こうした症状を子どもの中に見つけると、はげしく叱ったりする。
が、これが悪循環となり、子どもはますます「常識外れな行動」を繰り返すようになる。

 「子どもは家族の代表」と考え、原因は家庭環境、とくに母親の育児姿勢にあると考え、猛省する。
静かな語りかけ、話し合いが、重要。
しかし実際には、親自身が情緒的な不安定さ、精神的な欠陥をかかえているケースが多く、指導はむずかしい。

●過干渉児

 よく誤解されるが、口うるさいのは、過干渉ではない。
過干渉が過干渉になるためには、親側の情緒的な不安定があるばあいである。
親の機嫌、あるいはそのときの気分によって、子どもへの接し方が大きく変化する。
ギャーと興奮して子どもを叱ったり、反対に、妙に穏やかに接したりするなど。
つまり子どもの側から見て、とらえどころのない親の「心」が原因となり、子どもは、いわゆる過干渉児になる。

 私の経験では、小学3~4年生以後、こうした行動が見られるようになったら、指導による改善はほぼ不可能とみる。
言うべきことは言いながらも、本人の現実を検証する能力と、自己を管理する能力が育つのを待つしかない。
言い換えると、おとなでも、こうした衝動的、かつ突発的な、「非常識な行動」を繰り返す人は少なくない。
どういう人がそういう人であるかは、あなたの周辺にも、1人や2人はいるはず。
観察してみるとよい。
出現率としては、子ども(小学高学年児)のばあい、7~8人に1人とみる(はやし浩司)。

●AD・HD児とのちがい

 それなりの集中力と、その場に応じた静かさ(たとえばテスト中などは、静かに学習できる)があるという点で、AD・HD児とは区別される。

●過剰行動児とのちがい

 行動に目的性があるという点で、突発的に錯乱状態になる過剰行動児とは区別される。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 突飛もない行動を繰り返す子ども 何をしでかすか、わからない子ども 衝動的 子どもの衝動性 子どもの突飛性)


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【幼稚園児に「形」を教えてみる】

●新入会のMG君がいましたので、ガイダンス的に、「形」の学習をしてみました。
「楽しく学ぶ子は、よく学ぶ」ですね。

(1)


(2)


(3)


(4)


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 年中児の知育教育 知能教育 BW教室 BW子どもクラブ BWbyはやし浩司 形の学習 形の勉強 刺激教育 才能教育)


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Sunday, August 28, 2011

●映画「ツリー・オブ・ライフ」





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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司     8月 29日号
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選ばれました!
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree of the Life)

●夏休み(8月12日)

 私も明日から、夏休み。
10日間の夏休み。
自由、気ままな夏休み。

 ……と、子どもの書くような文を書く。
何歳になっても、休みは、うれしいもの。
ワイフも、今朝、こう言った。
「思う存分、遊びましょう」と。

 やりたいことがあったら、その場で決定。
迷わない。
行きたいところがあったら、その場で決定。
すぐ行く。

 が、明日まで待てない。
今夜は、仕事が終わったら、深夜劇場へ。
今日から公開の、「ツリー・オブ・ライフ」。
それを観る。
チケットは、すでに購入済み。

 明日は、ビスタ・パソコンのアップグレード。
夕方は、Mさん家族と会食。
山荘へ招待する。
明後日は……。

 こういうことはあまり詳しく書かないほうがよい。
空き巣に、おいでくださいと言っているようなもの。
以前、そういう忠告を、ある人から受けた。
「家を空けるという話は書かない方がいい」と。
以来、HPでもBLOGでも、予定については、書かないようにしている。

●浜松で35度!

 昨日は暑かった。
しかし今日は、もっと暑い。
昼寝をしていたが、ドカッとした熱気で目が覚めた。
起きて居間へ行くと、ワイフが、「34度よ」と。
家の中で、34度!

 が、私は自転車に乗って、教室へ向かった。
運動は欠かせない。
が、それにしても暑かった。
途中、飲み水としてもってきた水を、頭からかける。
地面から、乾いた熱気が、容赦なく伝わってくる。
白い日差しが、まぶしい。

 ……おかげで軽い熱中症に。
吐き気と頭痛。
クーラーの前に立ち、扇風機をかける。
頭を水で冷やす。

 今日のレッスンは、年長児。
「形」の学習。



(つづきは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/のほうで……。please!)

●したいこと

 新しいパソコン。
高性能であればあるほど、よい。
まず、それがほしい。

 つぎにそのパソコンをもって、どこかへ行きたい。
温泉がよい。
静かで、人がいないところがよい。
そこで一日中、本を読んだり、キーボードを叩いて過ごしたい。

 ……というか、今夜から、思う存分、徹夜ができる。
眠くなって、どうしようもなくなったら、床に就く。
それまでパソコンに向かって、文を書く。
それが私の休みの過ごし方。

●麦わら帽子

 夏休みと言えば、麦わら帽子。
そんなイメージが脳に焼き付いている。
ワイフと私は、そんな季節に出会った。
1972年の夏。

 その直後、知り合った直後、私は弁天島にあった友人の別荘を借り、パーティを開いた。
7~8人が集まってくれた。
その中に、「とべ・ひろし」(漢字名は忘れた)というフォークシンガーもいた。
そのとべ君が、吉田拓郎の『♪夏休み』を歌ってくれた。

 そう言えば、仲間に「なぎら・けんいち」というフォークシンガーもいた。
が、その夜は、どこかのビアガーデンで弾き語りをするということで、来なかった。
当時は「なぎら健一」と書いていたと記憶している。
今は「なぎら健壱」と書く。

 「♪……あんたがた死ねねえだろう。葬式費用もないからね……」というような歌を歌
っていた。

 遠い遠い昔の話。
あのころのワイフは、美しかった。
今でも、「♪麦わら帽子は、もう消えた……」と口ずさむたびに、それを歌ってくれた、と
べ君を思い出す。
ワイフを思い出す。
親友だった、今井修さんを思い出す。

 今井修さんは、今の市立図書館の前あたりで、小さなデザイン事務所を開いていた。
イベント事業も手がけていた。
その関係で、とべ君やなぎら健壱を、紹介してくれた。
もちろんそのパーティに、今井修さんも来ていた。
ワイフも、その夜のことを、よく覚えている。
ワイフと私は、パーティが終わると、海のそばの堤防に座り、夜遅くまであれこれ話した。

 夏休み……私にとっては、麦わら帽子の夏休み。

(映画を観て、夜、12時ごろ帰宅)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『ツリー・オブ・ライフ(The Tree of the Life)』

 映画、『ツリー・オブ・ライフ(生命の樹)』を観てきた。
美しい画像と美しい音楽。
そのものすごさに、圧倒された。
ストーリーの運び方にも、独創性があった。
よかった。
よかったが、そこまで。
何か、釈然としない。

 冒頭のところで、こう言う。

「キリスト教を信ずる者は、愛に包まれ、時間を長く生きる。
そうでない人は、利得に毒され、つまらない人生を生きる」(記憶)と。

 つまりこの映画は、最初から最後まで、キリスト教のプロパガンダ映画。
キリスト教の信者の人(=大多数のアメリカ人)が観れば、涙を流して感激するだろう。
しかし残念ながら、私はその信者ではない。

 つまり最初の段階で、「そうかなあ?」という疑問をもってしまった。
その疑問が、最後の最後までつづいた。

 で、なぜ「ツリー(木)」なのか?

 映画の中では、大宇宙と、地球の歴史を交互にからませ、やがて人間世界に、「神の意志」
を投影させていく。
二男を19歳で失った父親と母親の悲しみを、その上に料理のトッピングのように載せて
いく……。
「生命というのは、人間の悲しみや苦しみを超えたところで、大宇宙や地球の歴史と、大
きな木のようになってつながっている」と。

しかし、それが大げさ。
深い(?)宗教哲学を織り込んだのはよいが、かえってそれが映画自体をわかりにくいも
のにしている。
「これがキリスト教だ」と言わんばかりの、高慢な製作姿勢。
観ていて、私は疲れた。
肩が凝った。
少なくとも、娯楽映画ではない。
辛らつな言い方をすれば、キリスト教の洗脳映画を見せつけられたような感じ。

 2000円(シルバー料金、2人分)も出して観に行ったのだから、もう少し楽しませ
てほしかった。

 映画館を出たあと、私はワイフに、こんな会話をした。
「日本では、大震災で、2万5000人もの人たちが、亡くなった。
1人ひとりについてみれば、それも神の意志だったのだろうか」と。

 なおブラッド・ピットが演ずる父親について一言。

 アメリカにも、ああいう権威主義で、代償的過保護(子どもを自分の支配下において、
自分の思い通りにしたいと思う、身勝手な過保護)な親はいる。……いたと思う。
1910年代~は、そうだっただろう。
その親が、映画の中では、一方的に、「悪人」に仕立てられていた。
その反動として(?)、母親はマリア様のように仕立てられていた。

 たしかに子ども側(=3人の息子)の視点から捕えれば、そうだろう。
しかし同時に、父親には、「家族を支えていかねばならない」という重圧感もある。
ものすごい重圧感である。
最近の若い人たちは、その重圧感の経験もないまま、「そんなのは親の義務」と、簡単に片
づけてしまう。
私はむしろそちらのほうに反発を覚える。
もちろんブラッド・ピットが演ずる父親には、問題がないわけではない。
が、しかし映画を観ているうちに、私はむしろ父親のほうに同情してしまった。
「偉そうなことを言うなら、自分で家族をもち、自分で支えてみなさい」と。

 さらに付け加えるなら、私の知る範囲でも、映画に出てくるブラッド・ピット以上に、
年がら年中、ガミガミ言っている母親だっているぞ!

 星は、もし私がキリスト教信者であれば、文句なしの5つの、★★★★★。
が、私は信者ではないから、かえって疎外感を覚えてしまった。
2度目は観たくないという意味で、星は2つの、★★。

 キリスト教国のアメリカでは、当然、アカデミー賞を受賞するだろう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree of the Life)(補足的意見)

(注:この原稿は、今朝書いた原稿の補足部分です。)2011/08/13

●善と悪、進化論

++++++++++++++++++++++++

映画『ツリー・オブ・ライフ』の中で、
善と悪について、あれこれ述べている。
キリスト教信者は、絶対的な善人であり、
そうでない人は、善人にはなりえない(記憶)と。
この映画の主題と言ってもよい。

これについて日ごろの私の考えを記録しておきたい。

++++++++++++++++++++++++

●進化論の否定

 アメリカには、いまだに進化論を信じていない人が、70~80%前後もいるという。
熱心なキリスト教信者ほど、そうらしい。
が、もし私が、「善と悪」も、進化論の過程で生まれたと言ったら、どうだろう。
キリスト教の信者の人たちは、顔を真っ赤にして、怒るにちがいない。
「善と悪」を、進化論にからめて考えること自体、神への冒涜ということになる。
が、怒る前に、私の意見に、ほんの少しだけ、耳を傾けてほしい。

●仮定

 よくこんな仮定が、話題になる。
「もし蚊が、ハチの大きさだったら……」という仮定である。
もし蚊がハチの大きさだったが、蚊そのものが、絶滅していたはず。

蚊のもつ毒は、きわめて強力。
もし蚊がハチほどの大きさだったとすると、蚊の一刺しで、人間はもちろん、かなり大き
な動物(牛や馬)も、ショック状態になる。

ハチ(スズメバチ)は、約40ミリ。
蚊は、約5ミリ。
体積比でみると、8の3乗。
つまりハチは、蚊の512倍。
毒の量も512倍。

 毒の量が2倍になれば、抗原抗体反応は、4倍~10倍になる。
500倍ともなれば、一刺しで、人間だったら、体中が真っ赤に膨れ上がり、死んでしま
うかもしれない。
そんな蚊が人間を襲う。
集団で襲う。
ばあいによっては、人間は、絶滅。
(ハチも襲うが、それは自衛のため。)

 が、ここで蚊にとっても、深刻な問題が起きる。
もし刺す相手が絶滅し、いなくなってしまえば、自分も死ぬことになる。
血を吸う、相手がいなくなる。
そこで自然界では、絶妙なバランスが働く。

 蚊はほどよい大きさを保ち、刺した相手が絶滅するまでの毒は注射しない。
つまり同じことが、善と悪についても言える。

●絶妙なバランス

 もし人間がその進化の始まりで、絶対的な善人だったとする。
20万年前でもよいし、10万年前でもよい。
人類の歴史は、20万年と言われている。

 もしそうなら、人間は、とっくの昔に絶滅していたことになる。
たとえば自分の妻や子どもたちが、別の動物に襲われたとする。
が、絶対的な善人である人間は、やり返すということをしない。
つまり無抵抗のまま、つぎに我が身を差し出す。
「どうか、私も食べてください」と。

 一方、人間が、絶対的な悪人だったとする。
それこそ腹が減れば、平気で自分の妻や子どもですらも、肉にして食べてしまう。
それを見ても、周りの人間も何も言わない。
スキさえあれば、今度は、自分たちも、そうする。
このばあいも、人間は、とっくの昔に絶滅していたことになる。

 つまりここで善と悪の間に、絶妙なバランス感覚が生まれる。
絶対的な善人であっても、また絶対的な悪人であっても、人間は、とっくの昔に絶滅して
いたことになる。
だから人間は、適当に善人であり、適当に悪人であるということになる。

 自分の妻や子どもが襲われれば、反撃もする。
ばあいによっては、復讐もする。
相手を襲う。

 人間だけではない。
この地球上に住む、ありとあらゆる生物が、その絶妙なバランスの上で、成り立っている。
生きている。
長い進化の過程で、そういうバランスが生まれ、定着した。

●善と悪

 先にあげた例は、話をわかりやすくするため、極端な内容にした。
しかしこのことは、実生活の中で考えてみれば、よくわかる。
私たちは常に、善人と悪人の間を、行ったりきたりしながら、生きている。

 商売にしてもそうだ。
より大型店を作れば、小さな商店は閉店に追い込まれる。
大型店で、ものを安く売れば、貧しい人たちは、助かる。
この時点では、大型店を作った人は、善人ということになる。
しかし小さな商店の経営者にとっては、そうでない。
悪人ということになる。

 こんな話を、商売を経験したことのない人に話しても、無駄かもしれない。
ジワジワと斜陽の道をたどり、やがて閉店に追い込まれる商店主の気持ちは、理解できな
いだろう。
が、私は経験している。

私が中学生ののころ、近くに大きなショッピングセンターができた。
そこで自転車を安売りを始めたとき、心底、そのショッピングセンターを恨んだ。
この恨んだ部分が、「悪」ということになる。

 で、つぎに私がこう考えたとする。
「ようし、私はさらに大きな店を作り、あのショッピングセンターを叩きつぶしてやる」
と。
つまり、仕返しということになる。
これも「悪」ということになる。

 が、こうした心の作用を「悪」と決めつけてはいけない。
それがあるからこそ、人間は、今までこうして生き延びることができた。
今の、あなたにしてもそうだ。
今まで、こうして生き延びることができた。
「お人好しだけでは、生きていかれない」(映画の中のセリフ)。

●進化論

 善と悪は、絶妙なバランスの上で成り立っている。
つまり絶対的な善というのは、存在しない。
絶対的な悪というのも、存在しない。

 同じように、絶対的な善人というのも存在しない。
絶対的な悪人というのも存在しない。
どちらであるにせよ、もしそうなら、人類はとっくの昔に絶滅していたということになる。
逆に言うと、今、ここに存在するということは、私たちはそのバランスの上で生きてきた
ということになる。

 もちろん善人、悪人といっても、程度の問題もある。
割合の問題といったほうが、よいかもしれない。
善と悪の割合が、70:30の人もいれば、反対に30:70の人もいる。
人は努力によって、善の割合をふやすことはできる。
しかし100%……というわけにはいかない。
100%になったとたん、その人は、社会から、はじき飛ばされてしまう。

 で、もしそれが本来の人間の姿であるとするなら、善と悪を峻別し、たとえば善を「神」
と結びつけ、悪を「悪魔」と結びつけることは、あまりにも短絡的な考え方ということに
なる。

●私たちの心

 私は若いころ、『4割の善と4割の悪』という第で、エッセーを書いたことがある。
中日新聞にも発表させてもらった。
それをそのまま、ここに掲載する。
少しちがった視点から書いたエッセーである。
そこは許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●4割の善と、4割の悪(中日新聞掲載済み)

 社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4
割の悪がある。
子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。
おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。
子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする
(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。

 ただし一言。
悪があることが悪いと言っているのではない。
人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいな
いというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。
言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。
無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。
「希望を与えるため」と。
もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望
をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間にな
ることもできる。
旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。
それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子ども
の世界だけをどうこうしようとしても意味がない。
たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。
そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいるこ
とについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生
の娘もいる。
そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君
は許せるか」と。
するとその男は笑いながら、こう言った。
「うちの娘は、そういうことはしないよ。
うちの娘はまともだからね」と。
私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性
が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。
子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。
子どもの世界も変わる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪の否定

 要するに、悪は悪として存在する。
それを否定しても、意味はない。
大切なことは、悪と戦うのではない。
悪とどうやってうまく、つきあっていくかということ。

 相手が人間でも、そうである。
悪人は、いつの世界にも存在する。
どこにでもいる。
大切なことは、そういう悪人と戦うことではない。
悪人とどうやってうまく、つきあっていくかということ。

 もちろん反社会的な行為を繰り返すような悪人は、別。
しかし今、この文章を読んでいるあなたにしても、「私は善人」と言い切ることができる人
は、いったい、どれだけいるだろうか。

 私にしてもそうだ。
私は、自分を善人と思ったことは、一度もない。
ものの考え方は、たしかにゆがんでいる。
嫉妬深く、いつも心の底流では、恨みや、つらみが渦を巻いている。
それに自己中心的。
だからもしだれかに、「あなたは善人か」と聞かれたら、私はこう答える。
「ハハハ、ありえない」と。

 が、こうした善と悪のハバが、人間社会を、おもしろく豊かなものにしている。
もし人間がすべて天使になってしまったら、この世の中、ほんとうにつまらなくなる。
……というか、そのほうが、不気味。

私たちがなぜ、今、ここに生きているかといえば、そこにドラマを残すため。
そのドラマに生きる価値がある。
そのドラマの中に、生きる意味がある。

●神とは

 映画『ツリー・オブ・ライフ』の中では、得体の知れない、何やらモヤモヤしたものが、
「神」として描かれていた。
日本のどこかのカルト教団も、同じようなことを言っている。

 私はもちろん、神がどんなものであるか、知らない。
しかし今、昨夜見た映画を思い出してみると、どう考えても、あの映画は、どこかのキリ
スト教団体の、プロパガンダ(情宣)映画にしか思えない。
つまり洗脳映画。
(映画『ベン・ハー』を、洗脳に利用しているカルト教団もあるぞ!
勧誘してやってきた人たちに、まずあの映画を見せているそうだ。)

 あの映画の中で述べていることを本気でとらえてしまうと、そのままキリスト教に入信
してしまうかもしれない。
随所で、「入信してよかった」「新しい世界が開けた」と述べるセリフもあった(記憶)。

 その点、私たち日本人は、一歩退いたところからあの映画を観ることができる。
形だけかもしれないが、一応、仏教徒。
しかし油断は禁物。
そんな警戒心をもっても、おかしくない映画ということになる。

 最後に、試しにアメリカ人にこう聞いてみるとよい。
「あなたがたの国は、キリスト教国か?」と。
ほとんどのアメリカ人は、きっぱりとこう言う。
「No!」と。

 ドル札すべての裏に、「We trust in God(私たちは神の存在を信ずる)」と刷り込んでい
ても、「No!」という。
そのおかしさ。
映画『ツリ-・オブ・ライフ』は、そういう国の、そういう人たちによって作られた映画
である。

 インパクトが強烈な映画だけに、要注意!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ツリーオブライフ 
ツリー・オブ・ライフ The Tree of the Life 善と悪の進化論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●8月13日

 明けて今朝は、8月13日。
土曜日。
昨日のサイクリングがたたって、今でも筋肉痛がひどい。
が、負けてはいけない。
今朝は、起きるとすぐ、30分のウォーキング。
全身に、ビッショリと汗をかいた。

 が、痛さは、そのまま。
水を1リットルほど飲んで、そのまま書斎へ。
今が、そのとき。

 これから近くのショッピングセンターへ行き、買い物。
友人を、山荘に招待している。
その食材さがし。

 また午後イチバンに、WINDOW7のUPGRADEソフトが届くはず。
サブで使っている、ビスタマシンを、それを使ってUPGRADEしなければならない。
簡単な作業のように見えるが、時間はかかる。

 ……今日も猛暑日という。
パソコンがそれに耐えられるだろうか。
少し心配になってきた。

 では、これから買い物。
みなさん、おはようございます。

はやし浩司 2011-08-13


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●子育て相談(2件)2011/08/14

【掲示板より】

こんにちは。そして初めまして。子育てについて色々検索していた所、はやし浩司さんの
HPに辿り着きました。どうかよろしくお願いします。

 小3の娘が、近所の小2の女の子と娘と同じクラスの女の子(その二人はとても仲良し)
に意地悪をされます。娘は本当は気が強いと思うのですが、外では割と大人しくお友達と
軽いおしゃべりが出来るタイプではありません。そのせいか馬鹿にされやすいようで、ま
だヒドイいじめまではなっていませんが、コソコソばかにしたり、走って逃げたり嫌な顔
で娘を見たり・・・。 本人も私もとても辛い気持ちでいます。

 そこで、ある方に相談したところ、「娘さんを守る為にその子達の母親に話した方が良
い!」とおっしゃるのですが、娘と同じく臆病な私はでもな~・・・と悩んでおります。
やはりここは私が勇気を出してちゃんと話した方が良いのでしょうか?
もし他に良い方法があったら教えて頂けないでしょうか?
どうかどうか宜しくお願いします。

【はやし浩司よりクック様へ】

●YOUTUBEのほうで、私の考えを述べておきます。
 下をクリックしてみてください。

 なおYOUTUBEを、ご覧いただけないかたは、(はやし浩司のメインサイト)→(子育
てQ&A)へとお進みください。



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●学校の先生の指導の仕方に問題があるが……

 直接、相談いただきました。
私の考えを、YOUTUBEのほうで、述べさせていただきます。



2011/08/14
Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●宇宙とトカゲ(人間は、どちらに近いか?)

+++++++++++++++++

このところ毎晩眠る前に、床の中で、
1冊の小冊子を読んでいる。
「ニュートン」(雑誌)の付録についてきた小冊子である。
その冊子を読んでいると、宇宙の広大さに、
ときとして気が遠くなる。

私たちが住んでいるこの宇宙は、広い。
どう広いかは、改めて、ここに書くまでもない。

が、その一方で、こんな話もある。
私の家に住む、トカゲの話。

+++++++++++++++++

●小便用の穴

 私の家の居間の前には、70~80坪前後の広さの庭がある。
庭といっても、「ガーデン」ではない。
英語でいう、「バック・ヤード」。
その一角に、10坪ほどの畑があり、その手前に、アロエなどが植えてある。
ほかにも数種類の木が立っている。
そのアロエの横に、小さな穴が掘ってある。
驚かないでほしい。
つまり私の小便用の穴。
その「穴」の話。

●穴

 深さは、50センチほど。
下のほうに砂を敷き、上は、庭木を切ったときに出た太い枝をかぶせてある。
が、数年もすると、枝は腐る。
腐って、穴につまる。
そこで数年ごとに、小便用の穴を掘りかえす。
太い枝で、その上をかぶせる。

 こんな話を書けば、みなこう思うにちがいない。
「行儀の悪い話だ」と。

たしかに行儀が悪い。
庭で立ち小便!
私も何度か、それをやめようと思った。

●水気

 夏場はまだよい。
畑も近くにあって、水気がある。
しかし冬場になると、庭の草も枯れ果てる。
もちろん畑も、枯れ果てる。
庭の前に、小さな森があり、それが日陰を作る。
畑は、その日陰にかかってしまう。

 ところが、である。
10年ほど前だったか、夏の暑い日のこと。
ふと見ると、小さなトカゲの子どもがいるではないか。
穴にかぶせた、半ば腐った枝の間から、チョロッと顔を出して、サッと身を隠す。
大きさは、1~2センチほど。
ときどき大きなトカゲを見かけることもある。
それは親のトカゲということになる。

●トカゲの世界

 つまりトカゲの親子は、その穴を自分たちの世界として、生きていた。
冬場だと、ほかに水気のあるところはない。
春先や秋の終わりにもない。
そこで私は努めて、そこで立ち小便をするようになった。
もし私がそこでそれをするのをやめたら、トカゲの親子は、そのまま飢え死にしてしまう。
深い穴だから、適度な湿気もあるのだろう。
私は、そう考えた。

 以来、小便用の穴は、そこに残った。
小便が足りないと感じたときは、そこに水をまいた。

●誤差の範囲

 トカゲは、小さな穴の中に住んでいる。
庭といっても、まわりは2段のブロック塀で囲まれている。
外に出ることはできないはず。
親のトカゲは別としても、小さな子どものトカゲには、それを乗り越えることはできない。
つまり彼らの住む世界は、この、せいぜい70~80坪の庭だけ。

 その向こうに広大な陸地が広がっていることなど、知るよしもない。
いわんや海があり、地球が丸いなどということも、知るよしもない。
(知ったところで、どうしようもないが……。)
しかも彼らは、私という人間が排出する小便で生き延びている!
もし私がほんの少しでも自分に恥じ、立ち小便をすることをやめてしまったら、どうなる
か?
もちろんトカゲたちは、そんな私の迷いなど、知らない。
知ったら、不安で、とてもそんなところには、暮らせないだろう。
しかしそんなトカゲたちを、私たちは、笑うことはできない。

●小さな世界

 私たちだって、その小さな世界に住んでいる。
どうしようもないほど、小さな世界である。
もしあなたが人間は大きな世界に住み、トカゲは小さな世界に住んでいると思っているな
ら、それこそ、傲慢というもの。

 冒頭にあげた宇宙の大きさから見れば、人間の住む世界も、トカゲの住む世界も、誤差
の範囲。
子どもたちに向かって、「紙の表と裏とでは、どちらが東京に近いか?」と聞くようなもの。
子どもたちは「紙の表のほうが、東京に近い」と答えるかもしれない。
表が東京側にあれば、そう答える。
しかしどちらも、同じ。

●ダークマター&ダークエネルギー

 この宇宙には、ダークマターと呼ばれる、目に見えない「マター(物質?)」が、ぎっし
りと詰まっているという。
まだ発見されるには至ってはいないが、「ある」のは、確実だそうだ。

 同じように、「ダークエネルギー」というのもの、あるそうだ。
宇宙は膨張しているが、いわゆる等速運動ではない。
加速度的に膨張している。
その「加速」させている力が、また発見されていない「エネルギー」ということになる。
考えれば考えるほど、不思議な世界だが、仮にそれが発見されたとしても、さらにその向
こうには未知の世界が、広大に広がっている。

●私の空想

 私は子どものころ、こう考えた。

 宇宙が無限ということはありえない。
いつか大きな壁にぶつかるはず。
しかしその壁に穴をあけ、さらに先に進んだら、どうなるか。
壁にもハバ(厚さ)があるはず。
その壁を突き抜けたら、どうなるか。
さらにその向こうには、別の世界があるのか、と。

 が、その宇宙が、今の今も、膨張しつづけているという。
しかもそれが137億年も前から!

 となると、またあの子どものころの疑問が、わいてくる。
反対に137億年前でもよい。
一説によると、ビッグバンによって現在の大宇宙が始まる前には、この宇宙の大きさは、
1立方メートルほどだったという。
1立法メートルなら、1立方メートルでよい。
問題は、その外はどうなっていたかということ。

 が、科学者たちは、みな、こう言う。
「無の世界だった」と。
「ヒモのような世界だった」と説く科学者もいる。
理屈づめで考えていくと、そうなるのだそうだ。

●人間とトカゲ

 私はトカゲを見ながら、いつもこう思う。
人間とトカゲ。
大きくちがうようで、どこもちがわない、と。
知恵や知識にしても、そうだ。
人間は利口で、トカゲは、そうでないと考えたいが、これも宇宙的規模で考えるなら、誤
差の範囲。
トカゲとチョウ、どちらが利口かと聞くのと同じくらい、ナンセンス。

 最近になって、つまりごく最近になって、月は地球の衛星ということがわかった。
しかしそれ以前はというと、私たち人間ですら、月は見るだけのものだった。
星々にしても、そうだ。
が、そんな程度のことなら、トカゲだってしているかもしれない。

●人間だけが特別ではない

 もちろんだからといって、私は科学を否定する者ではない。
科学は科学。
が、こう考えることは、とても重要なこと。
つまりいかなるばあいも、人間だけが特別な存在と考えてはいけない。
たとえばトカゲは小さな世界に住み、人間は広い世界に住んでいる。
トカゲには知恵や知識はないが、人間には、それがある、と。
人間も動物の一種であるし、その範囲では、上下関係はない。

●宇宙を知る

 飛躍した結論に聞こえるかもしれないが、宇宙を知るということは、そういうことでは
ないか。
解釈の仕方は、それぞれの人によって、ちがうだろう。
ダークマターにしても、ダークエネルギーにしても、「はい、それがあります」で終わって
しまったら、宇宙学も、何とつまらないものになることだろう。
宇宙学によって、反対に遠い宇宙から、私たち人間を見る。
それが宇宙学では、ないか。

 ニュートンの付録を読みながら、このところ毎晩、同じことを考える。


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●「The Australians」に載った、日本非難の記事(偏見と事実誤認)

+++++++++++++++++++++++++++

要旨:南米(ブラジル)からの出稼ぎ労働者に対して、日本政府は
「3年以内の再入国禁止」政策を打ち出している。
このため恋人や家族と別れ離れになってしまった人たちも多い。
新聞は、「Yuriさん」のケースをあげ、日本を非難している。
これはきわめて非人道的な政策である、と。

オーストラリアの代表的新聞である「ジ・オーストラリアン」は、
いくつかの例をあげて、日本を批判している。
が、大きな誤解が2つある。

ひとつは、この制度は、浜松市全体が不況に見舞われた、数年前からある。
3・11大地震(2011)とは、直接には関係ない。
それに自費でブラジルへ帰国した人については、「3年間、入国禁止」の措置は
とられていない。

当初、この制度は、「仕事先で解雇されたが、帰国費用がない」と訴える
人たちを救済するために設けられた制度である。
もし「3年」という期限を設けなければ、それを利用して、自由に行ったり
来たりする人が出てくる。
帰国費用があっても、その制度を利用し、無料で帰国する人も多い。

ゆっくりと原文を読みたい人は、一度、自分で読んでみるとよい。
いかにいいかげんな記事であるかは、「出稼ぎ」を「degasegi(デガセギ)」と
誤読しているところからもわかる。

+++++++++++++++++++++++++++

THE huge Japanese earthquake and the contrasting fortunes of the Japanese and
Brazilian economies have sent many BrazilianーJapanese back to Brazil.


But Japanese with roots in Latin America are finding that despite the economic boom in
Brazil, wealth and jobs are yet to trickle down to the poor.
And the unpleasant existence they endured in Japan ー discriminated against and
ostracised ーis often no better in Brazil.
日本へやってきた(日系)移民たちにとって、日本はブラジルより、よい国ではなかった。

Academic and documentaryーmaker Kimihiro Tsumura has made a film on these
people,
trapped between two radically different societies.

As Japan's economy sinks while Latin America's rises, such people are questioning
where their future lies.
日本の経済が沈下し、ブラジルの経済が上昇したとき、これらの人々は、どちらに自分た
ちの未来があるかを問うた。
The Japanese government has offered to pay for their tickets out of the country ー
provided they don't return.
日本政府は、もし彼らが戻らないなら、旅費を出すと申し出た。

For Professor Tsumura, this policy is unfair. "Morally, it's against human rights," he
said. "For the families who choose to take the grant, they can't come back to Japan for
three years, if at all. It's just so opportunistic."
ツムラ氏は、(こうした施策を)人間性に反すると言った。
その申し出を受け入れると、3年間、日本には戻れないからである。

The degasegi, as they are known, are usually employed on threeーmonth contracts and
are the first fired whenthere's a downturn. The children are allowed ー and in the case
of some families, expected ー to work in factories from the age of 15.
こうした労働者は、ふつう3か月契約で働く。
子どもたちは15歳から、工場で働くことができる。

Several hundred thousand people in Japan have roots in Latin America. They come
from a 2.5 millionーstrong Japanese diaspora based mainly in Brazil. Their life can be
a dispiriting process of bouncing between two worlds as the economic circumstances
and immigration laws change.
ラテンアメリカには数十万人の日系人がいる。

The March 11 earthquake and tsunami, coming after the 2008 economic crisis, has
meant more Latin American Japanese workers thrown out of work in the auto and
electronics plants. Families are torn apart as different generations choose different
paths.
2008年の経済危機と3・11震災のあと、これらの労働者は、職場を追われた。
家族はばらばらになった。

The Japanese diaspora in South America was established in the first half of last century
by impoverished farm workers who fled overcrowding and economic hardship for a
better life abroad.
日系人たちは貧しい農夫として働いた。

Fast forward to the 1980s, and Japan, at the height of its a bubble economy and
desperate for workers, began encouraging these Latin American Japanese back to work
in the factories.
1980年代、バブル経済のとき、日本政府は、これらの人々を日本の工場で働くよう奨
励した。

Professor Tsumura, who teaches English at Hamamatsu Gakuin University, noticed the
alienation of degasegi youth when he was posted to the industrial city south of Tokyo
as Japan's economy began its decline in the 1990s.
しかし1990年に入ると、日本経済は下降した。

The parents were less visible ー either working in the factories or tucked up in bed. But
he noticed the kids out on the street letting off steam in a way that often jarred with
the conformity of Japanese life.
両親たちは、子どもたちがどんな世界にいるかを知らなかった。

Often the way these youths carry themselves stamps them as foreigners, although
they might be ethnically Japanese. Many of the young men have tattoos or wear
chunky chains and rings, and rap or hipーhop style clothing.
子どもたちは、自らを「外国人」と位置づけた。
多くの若者はイレズミを入れ、ホップスタイルの衣服を身につけた。

Janete da Silva Oliveira, a Brazilian friend of Professor Tsumura's who helped with the
documentary, called Lonely Swallows, said many degasegi felt caught between two
worlds. "Here they are foreigners and don't know quite how to act, and they can't get
proper jobs," she said. "In Brazil they're foreigners too."
外国人であるという相互の意識のため、適切な仕事に就くことができなかった。

In Hamamatsu's degasegi community, which comprises about 15,000 of the town's
800,000 people, the divorce rate is high and family breakdown common. The local
government is sympathetic and runs programs to help them survive and plan a future.

Still, many have been lured back to South America in the belief their savings will help
them buy a business.
人口80万人の浜松市に1万5000人のブラジル人がいたが、高い離婚率、家庭崩壊を
多くが経験している。

Others have been tempted by Brazil's economic miracle. But those who know Brazil
beyond the economic statistics say ordinary Brazilians are still battling violence,
unemployment and corruption.
ブラジルの高い経済成長は魅力的だが、ふつうのブラジル人にとっては、ブラジルという
のは、闘争と失業、それに崩壊の国である。

In the Tsumura film, the problems of staying and going are illustrated through the story
of Yuri, 19, a former gang leader who finds Brazil no pushover, and Paula, a young girl
fighting to build a life.
Yuri says he has been abandoned by his parents and girlfriend after he was busted for
stealing a car navigation system.
ユリ(19歳)は、ギャングのリーダーだった。
彼はカーナビを盗んだとき、彼の両親とガールフレンドに見捨てられた。

His parents return to Brazil, leaving him alone in Japan with a changing group of
friends who drift from town to town picking up factory work. Yuri moves to Brazil to
reconcile with his father but can't get work.
両親はブラジルへ帰り、ユリは、ひとり、日本に残された。

When his girlfriend falls pregnant, they go back to Japan. Paula, 15, is forced to bid her
boyfriend goodbye when her parents decide to leave for Brazil.
彼のガールフレンドは妊娠したが、両親がブラジルへ帰るとき、ユリに別れを告げなけれ
ばならなかった。

"He sometimes cries, saying 'You're going back'," she says. "I want to stay here, but my
parents have decided and once I go to Brazil, I can't come back here."
ユリは、「もどってきてほしい」と泣く。
が、ガールフレンドはこう言う。
一度、ブラジルに戻ったら、ここへは来ることはできない、と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●3年再入国禁止措置

 私もこの政策が打ち出されたとき、当初は、「3年再入国禁止措置」に、反対した。
しかしそのあと実情を調べるにつれ、「仕方ない」という方向に、徐々に傾いていった。
もしそういう措置をとらなければ、日本政府は、往復費用の半分を負担することになる。
(このため、たいていの先進国では、帰国用の飛行機のチケットがないばあいには、入国
を認めないという措置をとっている。)
入国前、入国時についても、日本政府はかなりの優遇策を講じている。

 つまり南米からのほとんどの労働者たちは、片道切符だけで、日本に入国している。
が、ここにそもそもの問題点が隠されていた。
もともと貧しい日系人、日系人の子孫である。
そういう人たちであるということがわかっていたから、なおさら、南米からの労働者に甘
かったということもある。
そして一時は、この浜松市にも、3万人近い、南米からの労働者があふれるようになった。

●問題

 いちばん大きな問題は、教育の問題である。
日本とブラジルとでは、教育制度が大きくちがう。
「教育」に対する考え方もちがう。

 だから当時は、つまり南米からの労働者がピークを迎えたころには、どこの学校も、学
級崩壊に苦しんだ。
教育そのものが、成り立たなくなってしまった学校も多い。
近くの菊川市では、小学校の児童の、5人に1人が、日本語のまったく話せない南米から
の労働者の子どもたちになってしまったこともある。
しかしそういう子どもたちのための、専門の講師もいなければ、カリキュラムもなかった。
もちろん特別な予算もなかった(K小学校校長談)。
しかたないので、どこでも、そういった子どもたちを、普通学級へと編入させていった。

 が、こうなると、授業そのものが、成り立たない。
それが学級崩壊へとつながっていった。
もちろんこれは彼らの責任ではない。
先のことをよく考えないまま、無分別にブラジルからの労働者を受け入れた国の責任であ
る。
彼らもまた人間である。
単なる「労働力」としか考えなかったところに、失敗の原因がある。

●The Australiansへの反論

 私は、即、The Australiansへ反論を送った。
以下、その反論。

「This article is wrong in some points and misleads your readers.
この原稿は、いくつかの点でまちがっている。読者に誤解を与えている。

Hamamatsu Government pays the fares by planes back to Brazil . (Whole
fare back to Brazil from Hamamatsu)
浜松市は、ブラジルへの航空運賃を支払っている。(浜松からの全額航空運賃である。)

Because Many Brazilians complain that they have no money to go back to Brazil after
they have lost their jobs. And they try to stay in Japan as illegal immigrants.
なぜなら、仕事を失ったとき、彼らは、帰国の費用がないと不満をもらし、不法移民のま
ま日本に滞在しようとしたからである。
In this case they can not come back to Japan for three years.
この場合は、彼らは3年間、日本へ戻ってくることはできない。
This is true.
これは事実である。
Otherwise they can go and come back between Japan and Brazil free of
charge anytime.
そうでなければ、彼らは日本とブラジルの間を、航空運賃が無料のまま行き来できること
になる。
As a matter of fact there are also many cunning Brazilians to utilize this systm.
事実、この施策を利用する多くのずるいブラジル人もいる。
Some are very too poor to pay the fare but some are very rich of course.
もちろん中には、運賃も払えないような貧しいブラジル人もいる。
が、金持ちのブラジル人もいる。
They can pay the fare but they pretends to be poor.
運賃を払えるにもかかわらず、貧しいフリをする。
They receive the fare from Hamamatsu-city government an go back free of charge.
But no one can check it.)
彼らは浜松市から料金を受け取り、無料で帰る。
しかしだれもそれをチェックできない。
But when they go back to Brazil by temselves , paying the fare by themselves,
it is no problem to re-enter Japan anytime as they like even next week or next month.
しかしもし自費でブラジルへ帰国すれば、日本への再入国には、問題はない。
来週でも、来月でも、入国できる。
The writer of this article does not know such these facts or did not investigate the fact
deep enough.
この原稿を書いた記者は、これらの事実を知らないか、じゅうぶん深く調査をしていない。
It is also true, however, that the citizens of Hamamatsu did not try to welcome these
people from Brazil warm-enough, or rather we looked at the just foreigners than
use-to-be Japanese one two or three generations ago.
しかし浜松市民が、これらの人々を、じゅうぶん温かく迎えなかったのは事実であり、私
たちは彼らを日系人というよりは、外国人として見た。
I am sure that for them Japan was such a contry too fifferent from their own cultures.
私は彼らにしてみれば、自分たちのもつ文化とはあまりにも違った国であったということ
は確信している。
On reflection we cannot say that we have been kind enough for these people.
反省してみると、私たちはかれらにじゅうぶん親切だったとは言えない。

Hiroshi Hayashi, Hamamatsu, Japan
浜松・はやし浩司
 


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●何でも一番でないと気が済まない親

●8月28日夜

+++++++++++++++++++++++++

夕食後、ビスタ・パソコンのOSを、WINDOW7に交換した。
サブ・マシンで使っているパソコンである。

(近く、ビスタのUPDATEサービスが終了する。
現在、ビスタ・マシンを使っている人は、早めにWINDOW7
に乗り換えたほうがよい。)

今、時刻は7時40分だから、2時間あまりもかかった
ことになる。

が、まだ作業が終わったわけではない。
いろいろなUPDATEがつづく。
またOSを変更すると、パソコン全体がリセット(リカバリー)
された状態になる。
プログラムのインストールをはじめ、すべてイチから始めなければ
ならない。

で、このビスタ・マシン、購入してから4年になる。
2・40GHzというから、今ではごくふつうのパソコン。
ノートパソコンでも、10万円台のものなら、みな、
2・40GHz程度のOSを積んでいる。

最新のパソコン(デスクトップ)になると、3・33GHz
程度の速度を誇る。
3・46GHzというのもある。(すごいね!)

目下更新プログラムをDOWNLOAD中。
その間、別画面で、こうして文章を書いている。
この作業が終わったら、ワイフと散歩に行くつもり。

+++++++++++++++++++++++++++

●草刈り

 今日は午前中は、山荘の雑木を切り倒した。
家に帰り、午後は庭の草刈りをした。
が、そこでダウン!
2時間あまりの昼寝。
乾いた風が、気持ちよかった。

 起きたのが、夕方。
ネットに目を通す。
いろいろなコメントが、書き込まれていた。

その中のひとつ。
「子どもの自慰」について、YOUTUBEに、こんなのがあった。

「スケベじじい」と。

 神経症のひとつとしての自慰を、述べたものである。
たぶんその視聴者は、別の何かを期待して、そのYOUTUBEを開いたのだろう。
が、期待したものとはちがった?
そこで腹いせに、「スケベじじい」と書いた。
が、どちらがスケベなのか?

 もうひとつは、「幼児の知能テスト」についてのもの。
今週は、BW教室(=私の教室)では、「知能テスト」をテーマにした。
テストそのものをしたわけではなく、テストの仕方を学習した。
それにはこうあった。
「筋力テスト、腕力テストもしたら?」と。

 イヤミとはわかっていたが、「機会があれば、いたします」という返事を書いておいた。
つまりこういう連中は、軽くあしらってすます。
本気で相手にしてはいけない。
本気で相手にしなければならないような相手でもない。
言うなれば、(つぶやき)のようなもの。
いちいち反応していたら、神経が燃え尽きてしまう。

●何でもイチバン

 母親の中には、自分の息子や娘が、何でもイチバンにできないと気が済まない人がいる。
2番ではいけない。
イチバン!

 勝気な性格の親ということになるが、どうもそれだけではないようだ。
プライドだけは、異常に高い。
高学歴とはかぎらない。
とくに目立ちたがり屋というわけでもない。
が、自分の子どもがイチバンでないと、気が済まない。
そのため自分の子どもに、何か問題を見つけたりすると、子どもを叱る。
「どうしてあんな問題ができなかったの!」と。
同じクラスに自分の子どもよりできのよい子どもがいたりすると、その子どもを徹底的に嫌ったりする。

 過干渉。
プラス過関心。
それに加えて、代償的過保護。
自分の子どもを自分の支配下におき、自分のよいように子どもを操る。
自分のかなわなかった夢や希望を、子どもに託す。
それ自体は、悪いことではない。
が、それを強要する。
それが高じて、代償的過保護となる。

 過保護は過保護だが、過保護特有の温かい愛情が感じられない。
だから過保護もどきの過保護……という意味で、代償的過保護という。

 もちろん子どもに弊害が表れる。
さらにはげしい情緒不安があると、子どもは委縮する。
ナヨナヨし、ハキがなくなる。
いつも親の目を気にし、よい子ぶる。
ときにそれが痛々しいほどになる。

 これが悪循環となり、代償的過保護は、さらにはげしくなる。
が、結果は、……。

 子どもを伸びやかにするためには、「2番でいい」という余裕が大切。
教える側にしても、そうだ。
「何でもイチバン」と構えている親は、話していても、本当に疲れる。
心に余裕がないから、息が詰まる。
レッスン中も、その親の視線が、スターウォーズの中に出てくる光線銃のように、私の神経を貫く。
教えにくい。
やりにくい。

 幼児教室には、そんな問題もある。
あるから、ほとんどの幼児教室では、親の参観を断っている。


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Saturday, August 27, 2011

●Library @ Monash University

●8月27日(土曜日)(はやし浩司 2011-08ー27)

++++++++++++++++++

旅の疲れが出たのか?
それとも運動のせいか?
今日も、2時間も昼寝をした。
それなりにぐっすりと眠った。
目覚めも悪くなかった。

が、寝起きに夢を見た。
しばらく、ぼんやりしていた。
その夢について、あれこれと考えていた。
しかし夢は夢。
頭から振り切ると、そのまま起きあがった。
足下がフラフラした。
台所へ行くと、
ワイフが、そこにいた。

「2時間も眠ったみたい」と声をかけると、
「よく寝たわね」と。

++++++++++++++++++

●運動

 昨日は、(今朝も)、朝起きると、ウォーキングマシンの上で、30分、歩いた。
マシンでは、30分が、MAX(=限度)になっている。
が、30分程度がよい。
20分を過ぎるころから呼吸が激しくなり、さわやかな汗が全身を流れ始める。

 ほかに昨日の午後は、サイクリングを2単位。
1単位は、30~40分前後。
ほどよい疲れが、心地よかった。

●Kさん

 40年来の友人に、Kさんという人がいる。
私と同じ、昭和22年(1947)生まれ。

役所を退職したあと、3反(900坪)の畑を買い求め、今は「百姓」(Kさん弁)をしている。
そのKさんは、無農薬農業を心がけている。
「無農薬農業」といっても、実際には、不可能。
数年もかけて、ミカンの木を栽培したが、カミキリムシが入り、全滅。
海水をくんできて、それで消毒していたが、あまり効果はなかったという。
今は、野菜作りに専念している。

 そのKさんに、ニンニクを分けてもらえないかと、昨夜電話をかけた。
東北産も中国産も、安心できない。
そこでKさんに助けを求めた。
が、この暑さ。
できは、よくないとのこと。
そしてこうも言った。

「あと何年かすると、この日本では野菜作りもできなくなるかもしれないね」と。
気候が温暖化すると、野菜もできなくなるという。

 言い忘れたが、Kさんは東京農大を出た、エリート中のエリート。
役所でも、その道、一筋に生きてきた人である。
そのKさんが、そう言った。

●総入れ歯

K「林さん(=私)、私ね、総入れ歯になりましたよ」
私「総入れ歯?」
K「昔から虫歯だらけでね。それで歯周炎に苦しみました。で、歯がみんな抜けてしまって……」
私「……!」
K「明日、その入れ歯を入れてもらうことになっています。話していても、フニャフニャします。聞きづらいでしょう?」と。

 その話を聞いて、ツンとしたさみしさが、私の心を包んだ。
Kさんだけではない。
こうして私たちは、老いていく。
老い方は、人それぞれだが、みな、例外なく老いていく。

私「私も、しばらく同じ姿勢をつづけていると、体が固まって、動けなくなくなります」
K「あら、それはいけないな」
私「正座なんか、もう私にはできません。10分もしただけで、歩けなくなります」
K「ハハ、ぼくもね、腰が弱くて、映画館で映画を観ることができませんよ」
私「どうして?」
K「映画館で映画を観ていると、腰が痛くなります。太りすぎです」
私「それも、いけないですね」と。

 ニンニクの話をするつもりだったが、健康の話になってしまった。
私の年代の人たちは、みな、そうなる。
最後には、結局は健康の話になる。

●夏のレッスン

 今日は土曜日だったが、レッスンをひとつこなしてきた。
「夏期講座」と呼んでいる。
このレッスンを通して、子どもたちに自信をつけさせる。
それを第一のテーマにしている。

 何かを教えるのではなく、自信をもたせる。
そんな目的を、このビデオを通して、理解してもらえれば、うれしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【Summer Lesson @ BW Children's Club Hamamatsu Japan Aug. 27th 2011】

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Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●残暑

 残暑もきびしいが、朝夕は、めっきり涼しくなった。
ときに寒いほど。
このところ風邪をひく人が多くなった。
そんな話をよく耳にする。
 
 実は私も、あぶなかった。
寝る前はそれなりに暑い。
が、夜中に、急に気温がさがる。
それで風邪をひく。
今朝もそうだった。
それに気がつき、ワイフにしがみついていった。
 
●職業観

 1970年のころのこと。
今は、どうか、知らない。
当時のオーストラリアでは、大卒の資格がないと、ユンボやブルドーザーを操作できなかった。
それだけその仕事は、技術職として重要視されていた。

 一方、私たち、団塊の世代にとっては、商社マン、証券マンというのは、それなりの職業だった。
私たちが大学を卒業するころ、日本は高度成長の波に乗った。
すべてがマネー、マネーという時代だった。
が、その時代は、あの山一証券の倒産劇で、終わった。
つまり「それなりの職業」という幻想が、つぶれた。
ほかの世代の人たちには、それがわからないかもしれない。
しかし社長が、テレビカメラに向かって、「私が悪いんです。みんな私が悪いんです」と泣きじゃくって見せたとき、その幻想は、つぶれた。
私たち団塊の世代に与えた衝撃は、大きかった。

 が、一方、オーストラリアでは、日本の商社マンは、「軽蔑」されていた。
軽蔑ということは、軽蔑。
どう軽蔑されていたかについては、すでに何度も書いた。

 つまり私たちがもっている「職業観」というのは、国によってちがう。
たとえば「軍事国家」「独裁国家」と呼ばれている国々では、軍人がエリートということになっている。
現在のフィリッピンがそう。
北朝鮮もそう。
戦時中の日本も、そうだった。
弁護士にしても、アメリカでは、資格をもちながら、失業している人はゴマンといる。
さらに言えば、パイロット。

 日本航空のばあい、ほんの4、5年前までは、機長といえば、年収2400万円以上。
しかしアメリカでは、国際線の機長ですら、月収12万円前後(「超大恐慌の時代」)で飛んでいる。
しかも雇用契約は、一年ごとの更新制。

多くの国では、空軍のパイロットが転職し、民間機のパイロットになるケースが多い。
が、ここにきて、全裸の機長が、女性の下着を盗みに入り、逮捕されるという事件が起きた(2011年8月)。
日本航空の現役の機長だったというから、驚きである。
つまりそういう頭のおかしな人が、飛行機の中で、操縦かんを握っていた!
想像するだけで、ゾッとする。

 地に落ちた・・・というか、こうして私たちがもっている幻想は、つぶれていく。
というか、職業に上下はない。
あるはずもない。
が、日本には、江戸時代の身分制度が、いまだに残っている。
身分制度そのものは崩れたが、その「意識」が残っている。
その意識でもって、職業の上下を判断する。
それが今、音をたてて崩れ始めている。

●学歴制度の崩壊

 もう7、8年前の話だから、現在の実情とは違っているかもしれない。
しかしこんな話を、ある中学校の校長(浜北区H中学校)の校長から聞いた。

「今では、60%の中学生は、受験勉強などしていません。部活でがんばって、推薦で高校へ入ると考えています」と。
それから7、8年。
60%より多くなったのか。
それとも少なくなったのか。
が、一度緩んだバネは、もとには戻らない。

 中学生ですら、意識が変わった。
高校生も、変わった。
大学生も、変わった。

 変わらないのは、40代以上の古い世代。
中には、60歳になっても、70歳になっても、過去の学歴を頭に載せて歩いている人さえいる。
それはそれとして、こうした変化も時代の流れ(?)。
が、これは同時に深刻な問題でもある。
学問の軽視は、そのまま学力の低下につながる。

 先日もこんなことがあった。
事務機器屋の男に、背の高い本箱を据え付けてもらった。
そのとき私が、「地震のとき倒れるから心配だ」と言ったら、その男(40歳くらい)は、こう言った。
「この本箱(スチール製)は、重いから、倒れませんよ」と。
私がいう「学力」というのは、それをいう。
学力のない人は、平気で、そう言ったりする。
こんな国が、これから先、どうやって外国と戦っていくというのか。

●学ぶ力

 繰り返し書く。

(もの知り)と(思考)は、まったく別のもの。

ものをよく知っている=情報量が多いからといって、賢い人ということにはならない。
利口な人かもしれないが、賢い人ではない。
たとえば幼稚園児でも、掛け算の九九を暗記している子どもがいる。
だからといって、そういう子どもをさして、「賢い子ども」とは、言わない。

 昔、宮沢俊義という憲法学者がいた。
私が法学生のころには、神様のような存在だった。
その宮沢俊義が、あるとき、ある小学校で憲法についての講演をした。
その直後のこと。
1人の子どもが手をあげて、宮沢俊義にこう質問した。
「憲法は、いくつ(何条)まであるのですか?」と。

 この質問に宮沢俊義は、即答できなかった。
宮沢俊義は、側近の者に六法全書をもってこさせ、憲法の条文の数を調べて答えたという。
「宮沢先生ともあろう方が・・・」とだれしも思う。
しかしこれは法科の学生ならみな知っている、有名な逸話である。

 つまり情報というのは、そういうもの。
思考というのは、そういうもの。

 このところ学校教育の内容が変わってきた。
(もの知り)から、(賢い子ども)へ。
「遅すぎた」という感はゆがめないが、今後の日本の教育に期待したい。

●身分制度

 若い人たちは、江戸時代と聞くと、遠い昔のことのように思うかもしれない。
しかし人は、加齢とともに、過去に近づいていく。
たとえば20歳の人には、130年前というと、自分の年齢の6倍以上も昔の話ということになる。
しかし65歳の人には、たったの2倍。
(たったの2倍!)
私の祖父母にしても、明治生まれとはいえ、江戸時代をそのまま引きずっていた。

 若いころはそうは思わなかった。
しかしこの年齢になってみると、江戸時代がすぐそこにあるのがわかる。
遠い昔ではない。
そこにある。
だから今、「江戸時代がそのまま残っている」と、だれかに言われても、驚かない。
私自身も、往々にして、それを感ずる。
先に書いた、身分制度もそのひとつ。
私たち日本人は、いまだにその身分制度を、色濃くひきずっている。

●追跡

 いつとは書けないが、最近、こんなことがあった。

 あるビデオショップへ行ったときのこと。
駐車場が空いていなくて、そこに車を止めていると、一台の車がサーッと横を通り過ぎていった。
そのまま見ていると、その車は、身体障害者の人用の駐車場に、迷わず停止した。
見ると、中から、60歳前後の男女が出てきた。
シャキシャキと歩いている。
とても障害のある人には、見えなかった。

 ワイフはその男性の名前を知っていた。
以前、町内会の仕事をいっしょにしたことがあるという。
私はその男性にたいへん興味をもった。

 ・・・というより、以前からもっていた。
「そういうことが平気でできる人というのは、どういう人なのだろう」と。

●電話帳 

 電話帳から、その人の住所はすぐわかった。
私は車のナビに、その人の住所を入力した。
ビデオショップからに帰り道、その人の家を訪ねてみることにした。

 ビデオショップから、5分ほどのところだった。
細い路地を入った、一軒家。
庭先に、4畳ほどの小さな家があり、「xxピアノ教室」と書いてあった。
「娘さんかだれかが、ピアノの先生をしているのか」と、私は思った。
が、先生をしているのは、その妻のほうだった。
たまたま通りがかった女性から、それを聞いた。
また年齢も60歳くらいと思ったが、ともに、50歳前後という。
もちろん身体障害者ではない。

 その家を離れるとき、私はこう思った。
「そういうものかなあ?」と。

●速度制限

 「日本人は交通ルールを守らない」と、オーストラリアの友人は、言った。
そこで私は、「君はどういうところを見て、そう言うのか」と聞くと、こう話してくれた。
「(四つ角などで)、停止線のところできちんと止まらない」と。

 以来、よく車を観察するようになった。
ナルホド!
停止線のところできちんと止まっている車は、ほとんど、ない。
停止線を飛び出す、あるいは反対に数メートル手前で止まる。
日本人には、何でもない光景だが、オーストラリア人には、「信じられない」となる。

 そこで今回(2011年4月)、同じオーストラリア人と、ハイウェイを走ってみた。
そこでのこと。
驚いたことに、友人だけではなく、どの車も、速度表示に従い、ぴったりとその速度で走っている。
これには驚いた!

 たとえば80キロの標識・・・どの車も時速80キロで走る。
60キロの標識・・・速度を、がくんと落とす。(やがて道路わきの木々を切り倒す作業車とすれちがう)。
100キロの標識・・・とたん車は速度をあげ、100キロまで加速!

 ハイウェイを走るとき、みな、このルールを守る。
「まるで列車ゲームのよう」と、私は感じた。
列車ゲームでは、表示された速度を忠実に守らないと、即、減点になる。
実際の列車の運行でも、そうなっているらしいが・・・。

 で、そのときはじめて私は、以前、友人の言った言葉の意味がわかった。
「日本人は交通ルールを守らない」と。

●民主党の党首選挙

 民主党の党首選挙が始まった。
(実際には、まだ始まったわけではないが・・・。)

 しかしそれを見ながら、こう考えた。
もちろん政策論争などというのは、そっちのけ。
「数」。
数だけの勝負。

 それを見ながら、私は「関ヶ原の戦いと同じ」と思った。
関ヶ原の戦い(1600年)でも、「数」だけが、ものを言った。
それを同じことを、400年以上たった、今も、している。

 関ヶ原の戦いでは、西軍の小早川秀秋の裏切りにより、東軍が大勝し、徳川家康が政権の座につく。
今度の選挙でも、同じようなことが起こるかもしれない。
しかし本当の問題は、このことではない。
どうしてこういう愚かなことが繰り返されるかということ。

 政治が「数」で動く。
中身ではなく、「数」。
が、これではいつになっても、日本の民主主義は、完成しない。
つまりは、私たち有権者自身が賢くならないと、民主主義は完成しない。
地方選挙のレベルから、オジチャン、オバチャンたちによる談合選挙。
その頂点に国政選挙があり、党首選挙がある。

 民主主義とはいうものの、「賢さ」をはぶいたら、ただの祭り。
まわりくどい書き方をしたが、今朝の私は、そんなことを考えた。

2011年8月28日


Hiroshi Hayashi++++++++Aug  2011+++++++++はやし浩司

●オーストラリアの友人の論文(モナーシュ大学図書館)

 オーストラリアの友人(モナーシュ大学Librarian)が、論文を送ってくれた。
キャンベラ大学での講演に使ったという。
それを読んで、先週、「これを日本語に翻訳して、日本で紹介していいか」と聞くと、「感謝する」という返事が届いた。

 今日は、土曜日。
このあとワイフと山荘に行くことになっている。
昼寝もした。
今夜は、その翻訳に挑戦してみたい。

オーストラリアにおける中国人の動きがわかって、興味深い。

Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

EAST ASIAN LIBRARY RESOURCES GROUP OF AUSTRALIA
オーストラリアにおける東洋学図書館の資料
Newsletter No. 58 (July 2011)
2011年7月号(No.58)

Special Materials Relating to Chinese Studies at Monash University Library
モナーシュ大学における、中国研究に関する特別資料
Dennis Kishere
デニス・キシア
Chinese Studies Librarian
Monash University
中国研究・ライブラリアン
モナーシュ大学
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A painting of Dinghai 定海 by William Alexander in his Costume of China. London, 1805
中国服を着た、W.アレクサンダーによる定海の絵(1805)
This article is based on my presentation at the Library Panel during the Chinese Studies Association of Australia conference on 15 July 2011.
この原稿は、2011年7月15日に、オーストラリア・中国研究会の図書パネルの席での講演に基づいている。
In the presentation I used Powerpoint slides to highlight a selection of less common and sometimes unique materials which are held in closed areas of the library at Monash University and which are of interest to researchers in Chinese Studies.
この講演会で、私はパワーポイントによるスライドを用い、モナーシュ大学内部という限られた世界における、あまり世に知られていないか、ユニークなものを紹介した。

I have included some of those images in this article.
この原稿の中で、それらの中のいくつかを紹介する。

At the Asian Studies Research Collection we acquire mainstream books, journals and audiovisual materials as well as databases relating to Chinese Studies in a similar manner to other libraries with Asian language collections.
アジア研究の蒐集物においては、他のアジア研究図書館と同じように、中国研究に関するデータベースのほか、主要出版物、刊行物および音声・映像などを手に入れている。

However, what makes our collection unique, and indeed what makes other library collections unique, is the extent to which we are able to collect important and unusual materials which are not available via the usual acquisition streams.
しかしながら、私たちの蒐集物、並びに大学図書館の蒐集物をユニークなものにしているのは、それだけではなく、通常な流れの中で手に入れることができないような、重要かつふつうでない(unusual)な資料も含まれているということである。

These materials include rare books, pamphlets, films and ephemera.
これらの資料の中には、希少価値のある本、パンフレット、映像、価値が乏しいと思われる資料(ephemera)も含まれる。
Most academic libraries have some unique, rare or special materials which can be usefully described and drawn to the attention of students and researchers.
ほとんどの学術性を重んじる図書館では、学生や研究者の注意をひくような、つまり研究にそのまま役立つような、ユニークで、希少価値があるような、特別な資料を集めている。

Since such materials are not kept on the open shelves they cannot be browsed and they are not always easily discoverable from the catalogue.
これらの資料は、公開されていないため、参照したり、また簡単には目録などから、いつも知りうるものではない。

I do not want such valuable materials to be overlooked by researchers.
私はこうした価値のある資料が、研究者によって、見過ごされるのを望む者ではない。
These special materials are mainly kept in the locked areas of the Asian Studies Research Collection.
これらの特別資料は、研究資料として、アジア研究の分野に、主に、ロックされた状態で保管されている。
These collections include Special Materials Collection, the Australia Tibet Council Collection, Norodom Sihanouk Collection, Indonesian Historical Collection and Southeast Asian Pamphlets. これらの蒐集物の中には、特別資料も含まれている。
たとえば、オーストラリアーチベット会議資料、N.シアヌーク資料、インドネシア歴史コレクション、そして東南アジアパンフレット類など。

Other relevant materials are kept in the library’s Rare Books Collection.
他の関連資料は、当図書館の稀少本コレクションの中に保管されている。
Newspapers(新聞)
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The Chinese Melbourne Daily 墨爾本日報.
(中国語版・メルボルン・デイリィ紙)
The newspaper’s office is in Wellington Street, Collingwood.
当新聞社の事務所は、コリングウッドのウェリングトン通りにある。
Our holdings start from 2004.
2004年から、保管を始めた。
The newspaper is periodically donated to our library by the newspaper’s proprietor.
当新聞は、新聞社の所有者から、図書館に定期的に寄付されている。
The Chinese Melbourne Daily features general news about Australia and news about Chinese communities in Australia as well as news about mainland China, Hong Kong, Taiwan and other overseas Chinese communities.
「チャニニーズ・メルボルン・デイリー」は、中国本土、香港、台湾、それに海外同胞のニュースのみならず、オーストラリア、オーストラリア内の中国人共同体のニュースなどを報道している。

The advertisements in the newspaper are an interesting reflection of ethnic Chinese life in Australia and include such categories of services as feng shui consultants.
新聞の載っている広告は、たとえば、“フェン・シュイ”コンサルタントなどのサービスを含むなど、オーストラリアにおける中国人の民族性を反映していて興味深い。

Community announcements reflect the lifestyle and observances of Chinese people and commercial advertisements record ethnic Chinese business activity in Australia.
告知板にしても、海外在住の中国人のライフスタイルを反映しているし、広告宣伝にしても、オーストラリアにおける中国人のビジネス活動を記録している。

Unlike some other papers, The Chinese Melbourne Daily is prepared to feature “sensitive” topics about China, such as Ai Weiwei’s detention and citizen protests.
ほかの新聞と異なり、“チャニーズ・メルボルン・デイリー”は、アイ・ウェイウェイの拘束やそれに対する市民の抗議など、中国における敏感な問題をも記事として提供している。

School Texts
学校のテキスト

In my presentation I described the Chinese school textbooks which we collect and which have been sought after by researchers.
今回の講演では、私たちや研究者たちによって求められた、中国で使われている教科書について説明した。

Apart from purchasing contemporary textbooks, we have been able to acquire older textbooks such as 1980s high school textbooks from Taiwan for the study of Chinese literature.
現在の教科書を購入することとは別に、中国文学の研究のため、台湾から手に入れた1980年代の高校の教科書も手に入れることができた。

They contain excerpts from classical authors with explanatory notes.
それらの中には、説明文についた古典からの抜粋文も含まれている。

They have prefatory pieces by Chiang Kaishek, Sun Yatsen, and Chiang Chingkuo.
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We also have school textbooks for studying Chinese literature published in 1930.
また1930年に出版された、中国文学を研究するための学校の教科書も所有している。


Astrological Almanacs.
占星・暦

There are various names in Chinese for this genre of publication including :
tong shu 通書 and min li 民曆.
中国の出版物のジャンルには、多様なものがある。
たとえば通書、民暦など。

These almanacs are an important source of traditional Chinese beliefs regarding annual events.
これらの暦を通して、年間の行事に関して、中国人の伝統的な信仰の重要な源泉を知ることができる。

It was originally an agricultural almanac but it also includes advice on geomancy (feng shui風水, kan yu 堪輿), physiognomy (xiang shu相術), auspicious naming (mingming 命名) and similar topics.
もともとは農業暦であったものだが、それらは、風水、堪輿、相術、姓名判断および類似の話題を含む。

The booklets also contain auspicious and invocatory paper strips for affixing to walls.
小冊子は、吉凶を占ったり、壁に貼り付ける紙の記念書なども含む。

In recent years the content of these almanacs have become adapted to the requirements of urban lifestyles.
近年になって、これらの暦は、都市生活のライフスタイルにも、採用されるようになってきている。

They are an important guide to how traditionally minded Chinese people lead their daily life.
それによって、伝統的なものの考え方をする中国人は日々の生活をどのように過ごすかを決める。

It is a widely purchased book and yet one not systematically collected and retained by libraries.
これらの冊子は広く購入できるものであり、図書館によって、組織的に収集されたり保持されているものではない。

Traditionally, superseded copies of the almanac are burned in temple ritual incinerators.
伝統的に、古い暦は、寺の儀式として、燃やされ、埋められる。

Almanacs can be purchased but they are also quite often published and distributed for free.
暦は、購入することもできるが、それらはしばしば、無料で印刷され、配布される。

Community Publications
共同体・出版

We hold issues of the magazine produced by a local Melbourne Taiwanese community association.
私たちはメルボルンの台湾共同体協会に発刊されている雑誌も保有している。

The magazine is a record of Taiwanese community activities in Melbourne:
その雑誌は、メルボルンにおける台湾人の活動を記録している。

Moerben Taiwan Tong Xiang Hui Hui Xun 墨爾本臺灣同鄉會會訊.


The Suetsugu Collection
「スエツグ」コレクション
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This copy of the Guo Yu 國語 was published in Osaka in 1854 and is part of the library’s Suetsugu Collection.
このコピーは、1854年に、大阪で出版された「国語」であり、当図書館のスエツグ・コレクションの一部である。

The Guo Yu consisted of historical records of states between the Western Zhou and 453 BC.
この「国語」には、西洋「Zhou」と紀元前453年の間の歴史的記録も含まれている。

This copy has Japanese annotations and punctuation which preserve a traditional interpretation and analysis of Chinese classics which would be otherwise lost.
この冊子には、日本語の注釈や句読点が付けられていて、それによって、中国の古典の伝統的な翻訳や分析を保全している。もしそうでなければ、失われていたであろう。

This and other texts are from the personal library of Mr Susumu Suetsugu of Matsue in Western Japan who donated the books to his friend Captain Shepherd of the Australian Army in the late 1970s.
この冊子および他のテキストは、西日本の松江にいたスエツグ・ススムの個人的な蔵書からのもので、1970年代の後半に、彼の友達であるオーストラリア人のシェファード大佐に寄贈されたものである。

Shepherd later donated them to Monash University Library.
後になって、シェファードは、モナーシュ大学に、これらの蔵書を寄贈した。

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A copy of the Cai Zi Gu Wen 才子古, 文also from the Suetsugu Collection.
これはスエツグ・コレクションの一部と、その文である。

This copy was published in China in 1684.
これは1684年に、中国で出版されたものである。

At some stage it found its way to Japan .
初期の段階では、日本へも伝わった。

The Cai Zi Gu Wen was a collection of essays published during the Qing dynasty.
才子古は、Qing王朝の時代に、出版された、随筆集である。

South East Asian Pamphlets and Serials Collection
東南アジアのパフレットおよび連載物コレクション

Monash University Library acquired this large collection of nineteenth and twentieth century Indonesian and Dutch language pamphlets partly by purchases by the Asian Studies Librarian on her visits to the Netherlands in the 1960s and 1970s and partly from donations by Monash scholars who collected the publications during field trips to Southeast Asia.
モナーシュ大学は、19世紀および20世紀のインドネシアおよびオランダの膨大なコレクションを蔵しているが、一部は、アジア研究のライブラリアンにより、1960年代および1970年代に、オランダを訪問した折、購入されたものであり、また別の一部は、東南アジアを旅行した折、モナーシュの学者たちによって集められたものを、寄贈されたものである。

Most of these pamphlets are in Indonesian, Dutch, or regional languages.
これらのパンフレットのほとんどは、インドネシア語かオランダ語、もしくは地方の言語によるものである。

At present the collection is only partially catalogued.
現在、このコレクションは、部分的に、カタログ化されているにすぎない。

Many of them are unique as library materials.
それらの多くは、図書館の資料としては、ユニークなものである。

Some of them bear the names of the scholars who collected them.
それらのいくつかには、それを蒐集した学者の名前が記されている。

The collection includes publications about the Indonesian Chinese communities.
このコレクションには、インドネシアン中国人社会の出版物も含む。

There are also publications of various Chinese community organizations and studies of ethnic Chinese in Indonesia from the eighteenth to twentieth centuries.
そのほかにも、18世紀から20世紀にかけてのインドネシアにおける中国民族の共同体組織や研究に関する多様な出版物もある。

The library has other publications relating to Indonesian Chinese, including the Dutch language weekly news periodical Sin Po .
また当図書館は、週刊刊行物であるオランダ語の「Sin Po」を含む、インドネシアン中国人に関する出版物も蔵している。

This weekly was published by Indonesian Chinese and featured articles by Chinese on various topics including Chinese community affairs.
このインドネシアン中国人によって発行されている週刊刊行物は、中国人社会の事件など、広い分野の話題に関して、中国人によって記事が書かれている。

It also contains photographs of local events.
その地域のできごとの写真もまた載せられている。

Other materials in this collection relevant to Chinese Sudies inlucde Nanyang Post, a pro-Communist newspaper containing articles mainly in Indonesian but also in Chinese.
中国研究に関する、私たちが所蔵している資料には、Nanyang Post、つまりインドネシアのみならず、中国で発行された、親共産主義新聞も含まれている。

I also highlighted these pamphlets during my talk:
私は今回の講演で、このパンフレットについても、焦点をあてて述べた。

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Chinesche Aanteekeningen omtrent Nederlandsch Indie. ‘sGravenhage, 1858.
(書名)
This book contains information on Chinese activities and customs around the Dutch East Indies.
この本は、オランダ領東インド周辺の中国人の活動と習慣に関する情報を含む。

It also contains Chinese language linguistic information pertaining to Indonesia.
この本はまた、中国言語のインドネシアへの浸透についての情報も含む。

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Chung Hua Tsing Nien Hui. Djakarta : 1946 – 9 Juni 1951. This booklet was produced on the fifth anniversary of the establishment of the Zhonghua Qing Nian Hui 中華青年會.
(書名)
この小冊子は、第5回、中華青年会の創立祭に際して発行されたものである。

It contains articles, advertisements and photographs of the ethnic Chinese community in Jakarta.
この本は、ジャカルタにおける中国民族の原稿ならびに、宣伝と写真を含む。

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Buku Peringatan Ulang Tahun ke X, Thian Lie Hwee.[Tenth Birthday Commemorative Book of the Thian Lie Hwee]. Djakarta. 1957.
(書名)

This book in Indonesian records the activities of another community organisation, the Thian Lie Hwee.
この本は、インドネシアにおける、もうひとつの共同社会である「Thian Lie Hwee」における活動を記録している。

Indonesian Historical Collection
インドネシア・歴史的コレクション

The Indonesian Historical Collection consists of early twentieth century and pre-twentieth century books mainly in the Dutch language.

Amongst the books are many which have detailed information on the life of ethnic Chinese in the Netherlands East Indies.

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I showed images of a selection of such books in my talk.

These included the Chineesch-Hollandsch Woordenboek van het Emoi-Dialekt / J Francken. Batavia. 1882.

This is a dictionary of the Xiamen 夏門 variety of Minnanyu 閩南語.

The dictionary includes non-standard characters which are peculiar to Minnanyu.

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Beschrijving van den Koan Iem Tempel “Tiao-Kak-Sie” te Cheribon / J. Ezerman. Batavia, 1919.

This book desribes a Guanyin 觀 音 temple in Ceribon in north Java.

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In en om de Chineesche Kamp / J. Moerman. Weltevreden, 1929.

This book was published in Weltevreden which was a new city centre for Batavia (Jakarta) built in the nineteenth century.

This book is concerned with the Chinese quarter of the city and the diagram here is of the layout of a typical Chinese house.

One needs to be able to interpret the Dutch romanisation of Minnanyu words, for example “Thian Tjiang” is the Mandarin tianjing 天井 .

Australia Tibet Council Collection

Several years ago the Australia Tibet Council donated some of their older materials to our library.

This collection contains 200 magazine titles and various videos.

Some of the videos feature Jiang Zemin’s visit to Australia in 1999 and the big pro-Tibet protest rallies.

Democracy activist Wei Jingsheng took part in the protests.


Rare Books Collection

China Illustrata by Anathasius Kircher. Amsterdam,1667.

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The library’s Rare Books Collection holds a wide selection of books and other materials relating to Chinese Studies.

The book in this slide China Illustrata was written by Athanasius Kircher, a seventeenth century German Jesuit scholar who was interested in Oriental Studies.

It includes a transcription of the Nestorian Stele at Chang’an (Xi’an) of 781 in Chinese and Syriac with a Latin translation by Kircher.

This is considered to be the first publication of the text of the stele in Europe.

The text discusses the Nestorian Christian clergy in China.

The book also contains a romanised list of the Chinese characters in an older type of Mandarin pronunciation.

Athanasius Kircher drew on the works of Jesuits working in China for his writings.

The full title is of the book:

Athanasii Kircheri e Soc. Jesu China monumentis quà sacris quà profanis, nec non variis naturae & artis spectaculis, aliarumque rerum memorabilium argumentis illustrata, auspiciis Leopoldi Prime, roman. imper Amstelodami, apud Joannem Janssonium a Waesberge & Elizeum Weyerstraet ,1667.

Original editions of this book sell for several thousand dollars from internet booksellers
Another important book in our Rare Books collection is the official account of the 1793 British mission to the court of the Qianlong emperor:

An abridged account of the embassy to the emperor of China, undertaken by order of the king of Great Britain : from the papers of Earl Macartney / as compiled by Sir George Staunton. London, 1797

We also have a copy of the French translation published a couple of years later: This indicates something of the wider European impact of the book:

Voyage dans l'intérieur de la Chine, et en Tartarie, fair dans les années 1792, 1793 et 1794 / par Lord Macartney ... redigés sur Les papiers de Lord Macartney sur ceux de Sir Erasme Gower ; par Sir Georges Staunton ; traduit de l'anglais ; avec des notes, par J. Castéra. Paris, 1799.

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This is an illustration of the Great Wall of China in the French translation of the Macartney book.

The Macartney led to the publication of other interesting books.

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This is a painting of Dinghai 定海 (now part of Zhoushan City) by William Alexander in his Costume of China. London, 1805.

Alexander was a draughtsman on the Macartney mission.

This book contains numerous illustrations by Alexander of daily life in China. See the front of this handout for the image.

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Illustration title : ”Examination of a culprit before a Mandarin”
This is also from the Costume of China.

The caption reads:
“The subject represents a female charged with prostitution.

Such an offender is generally punished publicly with a pan-tsee or bamboo. “

Missionary Books
We have a range of books by and about Christian missionaries in China.

Many of these books came from the personal library of Monash academic, the later Pete Clarke.
One of the earlier ones is:

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Mrs Henrietta Shuck : the First American Female Missionary to China / by J.B. Jeter.

This biography of Henrietta Shuck (1817-1844) includes information and perceptions of China and Southeast Asia by the author based on Shuck’s personal papers.

The genre of missionary books is interesting not only for the illustrations and photographs but also for the observations of missionaries who were often close to the common people:

Childrens’ Publications

We have collected a number of Chinese childrens’ publications from the period of the Great Proletarian Cultural Revolution (1966-1976).

This genre of publication, xiao ren shu 小人书 , seems not to be something which is published anymore.

Kang Ri Xiao Ying Xiong 抗日小英雄. This is an example of the sort of materials which both reflect and contribute to anti-Japanese feelings in China.

They can be viewed alongside contemporary (and ephemeral?) Chinese web site postings which have called for boycotts and demonstrations as part of the ongoing anti-Japanese narrative in China.

The other booklets feature the theme of anti-Confucianism and the Criticise Confucius and Lin Biao campaign of the early 1970s.

These are a contrast to the position Confucius now enjoys in China.

Norodom Sihanouk Film Collection.

This is a collection of videos copied from 16mm films made by Chinese film studios of various official visits by Norodom Sihanouk to China and visits by Chinese leaders to Cambodia.

The video copies of the films, which were made by Xinhua News Agency for the King, were donated to Monash University Library by the King-Father of Cambodia Norodom Sihanouk.

The library has had many of the videos converted to DVD and the collection is being documented and inventoried for the library by Norodom Sihanouk’s official biographer and ambassador Mr Julio Jeldres who is a researcher at Monash Asia Institute.


In my presentation I selected some clips from films of the King’s visits to China dating from 1956.

Liu Shaoqi is prominent in the films (he was later purged in 1969).

The last clip is from a video cassette marked 1970.

It is not clear exactly which month in 1970.

Neither Mao nor Lin Biao is in this film but I have not viewed all the other relevant films yet.
Other films feature later visits to China by Norodom Sihanouk and visits to Cambodia by Prime Minister Zhou Enlai in 1960 and President Liu Shaoqi in 1963.


The films are an important record of the political strength of various leaders at the time of the King’s several visits and also the level of development and cityscapes of Beijing and other parts of China from the 1950s to the 1980s.


In this article I have just featured a small selection of the interesting material relating to Chinese Studies which can be found in our library.


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 2011+++++++++はやし浩司・林浩司

Friday, August 26, 2011

●民主党の権力闘争

●豊かさは、金(マネー)、仕事、家族、健康?(豊かさについてbyはやし浩司)

 インターネット専業証券会社のインヴァスト証券が、たいへん興味深い調査結果を公表した(産経新聞・2011年8月25日、配信)
それをそのまま紹介させてもらう。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++++

●「家族」?「お金」?世代、男女間で意識に大きな差 
 インターネット専業証券会社のインヴァスト証券が25日発表した「豊かさとお金に関する意識調査」によると、現在の生活について「とても豊かに暮らしている」と「まあ豊かに暮らしている」が合わせて全体の50・8%と半数を超えた。

一方で「まったく豊かに暮らしていない」が10・2%など、豊かに暮らしていないと回答した人も49・2%となり、二極分化している状況が浮き彫りとなった。

 世代や男女間で見ると、「豊かに暮らしている」と回答したのは30代女性が7割、60代男性が62%と高い一方、30代男性は34%、60代女性は42%と低めで、世代によっては男女間で大きな差が出た。

 「豊かさを考える際に思い浮かべたもの」については、全体のトップは「家族」で27%。
以下「お金」(22・6%)、「時間」(10・6%)、「健康」(10・4%)、「趣味・教養」(7・2%)が続いた。

 30代に限ると、女性は半数が「家族」と回答し、「お金」はわずか6%。
これに対し、男性は「お金」が40%で最も多く、「家族」は18%にとどまり、男女間で大きく異なる結果となった。

 「生活を豊かにするために足りないと感じているもの」については、男女とも「お金」が4割超でトップだった。
世代別では20~40代は「お金」が最多だったが、50、60代は「健康」がそれぞれ38%、41%で最も高かった。

 調査は今月3~5日に、インターネットで全国の20~60代男女計500人(各世代100人)に実施した。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++++

●調査結果のまとめ

 この結果をもとに、鈴木さん(架空の人物)家族を考えてみる。

 鈴木氏は、現在、35歳。
妻も35歳。
子どもは2人。
上が5歳、下が2歳。

奥さんは現在の生活に満足し、「自分は幸福」と実感している。
が、鈴木氏自身は、やや不満。
自分の力に見合った収入を得ていないと考えている。
子どもたちと楽しそうに生活している自分の妻を見ながら、軽い疎外感を覚えている。
小遣いも少ない。
妻や子どもたちは、自分がしている苦労を、理解してくれていないと感じている。

●択一の問題?

 ただこの調査結果をみて、誤解していけないことがある。
たとえば「家族」。
「家族さえしっかりしていれば、時間や健康がなくてもいい」ということにはならない。
欲張りな人であれば、「家族も大切」「お金も大切」「健康であればさらによい」と考えるだろう。
ここに出てきた数字は、あくまでも比率ということになる。
「どれかひとつ」という択一的に考えてはいけない。

 たとえば私はもうすぐ64歳になる。
そういう私にしていれば、健康が第一と考える。
老後の不安もある。
「幸福」についても、幸福と感ずるときもあれば、そうでないときもある。
さらに言えば、「お金」。

 仕事をしている男性にとっては、「お金」というのは、「仕事」をいう。
とくに戦後生まれの、団塊の世代にとっては、そうであろう。
私たちは、何かにつけ、ひもじかった。
(そう言えば、先日、私が子ども時代の写真を見たが、太っている人は、ひとりもいなかった!)

専業主婦には、この感覚は薄い?
だから私のワイフも、ときどきこう言う。
「あなたは、仕事のことばかり考えている」と。
が、私は、「仕事をするから、収入を得られる」と考える。

 この調査結果を見て、いろいろと考えさせられた。
しかし「心」ろいうのは、ここに表されるほど、単純ではない。
そんなことも、別の心で考えた。

 私のばあい、健康で仕事ができること。
生きがいを感ずることができること。
それができれば、私は幸福。
そうでなければ、そうでない。

 何よりも恐いのが、孤独。
だから目標は、ピンコロ。
死ぬのは恐いが、その瞬間は、何でもない。
死を感じたら、さっさと死にたい。

 これは余談だが……。
ついでに一言。

 「とても豊かに暮らしている」と「まあ豊かに暮らしている」が合わせて全体の50・8%と半数を超えたというが、本当か?
私の周囲の人たちを見るにつけ、私には、とてもそうは思えない。


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●Mというタレント(2011/08/27)

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Mというタレントが、暴力団とのつながりが
バレ、自ら引退を宣言した。
少し前、公の場で、「関係ありません」
「写真などあるわけありません」と断言していた。
が、それはウソだった。
つまり今度の引退宣言も、ウソと考えてよい。

一事が万事。
万事が一事。

タレントという職業の人がみな、そうであると
いうのではない。
しかしあの職業ほど、仮面をかぶった職業はない。
また仮面をかぶらないと、できない。

が、仮面を仮面と意識している間は、まだよい。
そのうち、その仮面が仮面とわからなくなる。

私も、今度の引退会見の様子をテレビで見ていた。
ときどきうっすらと涙をこぼしていた。
M氏ほどのタレントになると、あの程度の演技など、
朝飯前。
平気。
そんな涙を見て、「Mは反省している」などと、
思ってはいけない。

真相はまだヤブの中だが、Mはもっと大きなウソを、
隠している。
私はそう感じた。

やがてほとぼりが冷め、その時期が来たら、
Mは、再びタレントの世界に復帰するはず。
その場、その場で、適当なウソをついて、
その場を逃げる。
復帰するときも、そうだろう。

Mが悪いというのではない。
Mを見る、国民の側に、その一貫性がない。
つまり日本人は、「ウソ」に甘い。
だからウソを見抜くことすら、できない。

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●権力闘争

 管直人首相が辞職したからといって、民主党は、何も変わらない。
日本の政治は何も変わらない。
もともと政策そっちのけの、権力闘争。
「数」だけがものをいう、権力闘争。
政治の場を、「国盗り物語」の舞台のように考えている輩(やから)は多い。
またそう考えて、みじんも恥じない。

 悲しいことに、日本人は、あの江戸時代という封建時代を、一度も精算していない。
今に、それを引きずっている。
この静岡県では、徳川家康を悪く言うだけで、袋叩きにあう。
豊臣秀吉や織田信長を信奉している人も多い。
その結果が今。

 日本人は日本人独特の「権力志向」をもっている。
いまだに「出世」という言葉が、ハバをきかせている。
「偉い」という言葉も、残っている。

 もう20年ほど前になるだろうか。
M首相(自民党)という人がいた。
その首相がある幼稚園を訪れ、園児の前で、堂々とこう言い放った。

「私、日本でいちばん偉い人。……わかるかな? 日本でいちばん偉い人だよ」と。

 こういうのを、本物のバカという。
が、当の本人には、それがわからない。

 だれが時期首相になっても、なったとたん、再び権力闘争。
日本の政治は、その繰り返し。
しかし政治家が悪いのではない。
それを支える、私たちが悪い。
私たちが、意識を変えないかぎり、こうした政治家はつぎつぎと現れる。

 またまたその茶番劇が始まった!


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司