Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, March 31, 2008

*At Himeji Castle, one of the most beautiful castle in Japan

08-03-31

*Un-seeable World beyond this seeable World

●4月1日(火曜日)、2008(April 1st, 2008)
I think of an un-seeable world beyond this seeable world.

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今朝、ワイフより少しだけ早く起きて、
ワイフにこう言った。

「オ~、外は雪だ。
雪が積もっている!」と。

それを聞いて、ワイフがフトンの中で、
首をすくめながら、こう言った。

「おかしな天気ね」と。

エイプリル・フール!

……という冗談が通じるほど、
今朝は寒かった。
冬に逆戻り?

そんな感じがした。

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●姫路城

昨日(3月31日)は、兵庫県は、姫路城まで行ってきた。
朝方、天気が心配されたが、行ってみると、晴。
ほどよく白い雲が浮かんでいて、写真撮影には、申し分なし。

おまけに桜が、部分的に、満開。
さすが、世界遺産。天下の名城。
まるで夢を見ているかのような、(ホント!)、景色だった。

あとでYOU TUBE用に、動画を編集してみるつもり。

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●光と分子の織りなす世界で……(Un-seeable Another World)
There may be another un-seeable world beyond this seeable world. What we can see now is not everything. Or we had better not think this seeable world is all.

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今、こうして見えるものだけを見て、
「これがすべて」と思ってはいけない。

この(見えるもの)の向こうには、
まったく別の世界がある?

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昨日、バスの中で、こんなことを考えた。
「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」と。

たとえば長野県の野辺山には、電波望遠鏡というものがある。
電波望遠鏡というのは、その名のとおり、宇宙からの電波をとらえて、それを(見る)
望遠鏡である。

もちろん人間の目では、電波を見ることはできない。
一度その電波を、人間の目にも(わかる)ように、画像に変換して、(見る)。

さらに(見る)といっても、実際には、大脳の後頭部にある視覚野に映った映像を、
脳が感知しているにすぎない。
わかりやすく言えば、視覚野というのは、パソコンのモニターのようなもの。
そこに映った映像を、脳が、(見る)。

そこにある物体にしても、そうだ。

どれも分子のかたまり。
かたまりというよりは、集まり。
しかし分子ということになれば、その間にある、空気(酸素や窒素)にしても、
これまた分子の集まり。

が、私たちは、空気を、直接見ることはできない。
「見ることができない」というよりは、「見えないようにできている」。

こうしておおざっぱに考えてみると、「見る」ということにしても、「そこに
物がある」ということにしても、たいへんあやふやなことであることがわかる。
私たちは、すべてのものを見ているように思っているかもしれないが、
その実、私たちのまわりには、見えないものも多い。

そこで私は、あらためて、周囲にある(物)を見てみる。

青い空、白い雲、若葉を吹き始めた山の木々……。
そこにある(色)にしても、これまたたいへん、あやふやなものである。
どうして青が、青なのか。
どうして緑が、緑なのか。
どうして白が、白なのか。

たとえば昆虫などは、人間にとっては同じ赤でも、いろいろな赤に見分けることが
できるという。
中には、人間には見えない、紫外線や赤外線を見ることができる動物もいるという。
つまり、私たちが見ている(色)にしても、絶対的なものではない。

……というふうに考えていくと、「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」
ということになってくる。
このことを逆に言うと、「見えているものだけがすべてではない」イコール、「見えて
いるものの向こうに、もっといろいろなものがある」ということになる。

このことをバスの中でワイフに話すと、ワイフはこう言った。

「でも、物は、ちゃんと、そこにあるわよ」「手でつかむことができるから」と。

それは、そうだ。

物は分子の(集まり)なら、手も分子の(集まり)。
ほどよく(硬さ)が同じなら、私たちは、その物を手でつかむことができる。
しかし「ほどよい」と言っても、たいへん微妙なもの。
たとえば空気などは、手でつかむことはできない。

反対に、人間の手が、空気のようなものだったら、これまたそこにある物を、
手でつかむことはできない。

(物)といっても、人間にとっての(物)であって、そこに「物がある」と断言
するのは、どうか?

たとえばこの宇宙には、電波の集合体のような、巨大な生物がいるかもしれない。
もしそんな生物がいたとするなら、地球など、スルスルとすり抜けてしまう
かもしれない。

……というのは、荒唐無稽な話だが、たとえばイルカなどは、超音波を発信して、
その反射波をとらえて、脳の中に映像らしきものを映し出すことができるという。
(見る)といっても、いろいろな見方があるということ。
またそれによって、見えるものも、すべてちがうということ。

つまり人間について言うなら、私たちは、人間という生物の目を通して、
それを見ているにすぎない。
しかもその見えるものと言えば、あくまでも人間にとって、見えるものにすぎない。

もし人間が、紫外線まで見ることができたとするなら、青い空は、紫色に見えるはず。
そしてそこにオゾンホールのようなものがあれば、私たちが白い雲を見るように、
紫色の雲を、そこに見るはず。

さらに赤外線まで見ることができたとするなら、光のない真夜中でも、熱を発する
生物を見ることができるはず。
ちょうど軍隊が使っている、赤外線スコープのように、だ。

(物)といっても、光が反射しているから、物としてわかるにすぎない。

私「この世界は、映画、『マトリックス』の世界のようなものかもしれないね」
ワ「どういうこと?」
私「つまりね、ぼくたち自身が、実は仮想現実の世界で生きているかもしれない
ということ」
ワ「別のところに、別の世界があるということ?」

私「そうかもしれない。しかしその別の世界というのは、この世界とは、まったく
異質の世界かもしれないよ」
ワ「まるで、ホーキング博士みたい……」
私「何が?」
ワ「ホーキング博士も、私たちが住んでいるような大宇宙は、ここにも、そこにも、
無数にあると言っているわ」

私「そう……。でもぼくたちは、それを見ることができない。さわることもできない」
ワ「不思議な世界ね」
私「いやね、そういう世界が不思議というわけではないんだよ。ぼくたちが生きている、
この世界もまた、不思議な世界だということだよ」
ワ「……?」
私「いいか。こちらから向こうの世界を見ると、不思議な世界と思うかもしれないが、
向こうの世界からこちらの世界を見ると、不思議な世界に見えるはず」と。

考えれば考えるほど、私たちは、不思議な世界に生きている。
この大宇宙にしても、もとはと言えば、(無)がふたつに分かれてできたという説が
ある。(線)のような世界が、爆発してできたという説もある。

どうやってこの宇宙が生まれたかは別にして、ともかくも、私たちは、風船
(=バブル)のような大宇宙の中で生きている。

この風船のような大宇宙の向こうには、何があるのか。
その向こうは、どうなっているのか。
あるいはひょっとしたら、私たちは、(無)の世界で、生きているのかもしれない。
繰りかえすが、あのホーキング博士は、そうした大宇宙が、ここにも、そこにも、
無数にあると説いている。

しかしそうした世界は、人間が見るかぎり、(無)である。
仮に私の横に、そうした大宇宙があるとしても、私は見ることも、さわることもできない。

さらに仮にその大宇宙の中に、無数の銀河があり、その銀河の一角に地球に似た惑星
があり、そこに生物がいるとしても、それを見ることも、さわることもできない。
私たちにしてみれば、その大宇宙も、世界も、そこに住む生物も、(無)ということになる。

しかし反対に、向こう側の宇宙から見れば、私たちが住む大宇宙も、世界も、ここに
住む私たちも(無)ということになる。

今、私たちが見ている世界の向こうに、いったい、どんな世界があるのか?
それは私にもわからない。
わからないが、これだけは事実である。

そこには、私たちの知らない、まったく別の世界がある。
想像もつかないような、まったく別の世界で、ある。
私たちが見ているこの世界だけを、けっして、すべてと思ってはいけない。

Sunday, March 30, 2008

*Sulky North Korea

●いじけるK国(Sulky North Korea)
South Korea on Sunday reacted calmly to North Korea's threat to suspend all inter-Korean dialogue in protest over remarks by Seoul's top general.(UPI)

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「テロ支援国家指定を解除しなければ、
核開発リストを提出しない」と、
理由にもならない理由をこじつけて、
ノラリクラリと、約束を反故(ほご)
にしようとしているK国。

テロ支援国家指定といっても、国連という
国際的な機関が、そう指定しているわけで
はない。

アメリカという一国が、その国内で、
いわば勝手に、そう指定しているに
すぎない。

もしそれが気にくわないというのであれば、
K国はK国で、たとえば「金権腐敗国家」
として、アメリカを指定したりすればよい。

それに仮に解除したところで、国際社会が、
それで同調するわけではない。
国際社会は、国際社会として、独自の
判断で、独自に行動する。

こうした、つまり理由にもならない理由を
こじつけて、ああでもない、こうでもない
とゴネるのが、K国の常套手段。
そのゴネ方は、うつ病質の人のゴネ方と、
どこか似ている?

ささいなことにこだわり、それを針小棒大に
問題にして、おおげさに騒いだりする。

そこへもってきて、このところ、南北関係
が、少し、おかしくなってきた。

おかしくなってきたといっても、韓国が
おかしくなったわけではない。
韓国は韓国として、やっと(まとも)な
ことを言い出した。

それにK国が、反発し始めている。
例によって例のごとく、理由にもならない
理由をこじつけて……。

++++++++++++++++++

ことの発端は、韓国の統合参謀本部議長が、「K国に核攻撃のきざしがあれば、
先制攻撃も辞さない」と発言したことにあるとされる。

しかし当の統合参謀本部議長は、そんなことは言っていない。

正確に統合参謀本部議長の言葉を、拾ってみる。
統合参謀本部議長は、つぎのように言っている。
朝鮮N報の記事をそのまま紹介する(3月29日付)。

++++++++++++以下、朝鮮N報+++++++++++++++

K議長は26日、就任前の国会人事聴聞会で、「K国が核兵器で韓国を攻撃しようとした時、どう対応するか」との質問に、「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃することで、その次にミサイル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにすること」と答弁し、緊急時の軍事攻撃の可能性を示唆した。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

K国はこれを、「宣戦布告も同然の無分別な挑発行為」と解釈し、韓国の先制攻撃の動きに対しては、「より迅速かつ強力な先制打撃で応じる」と断言したという(同)。

++++++++++++++++++

核攻撃を受ければ、ソウルの市民は、一瞬にして、その600万人が命を失うとされる(アメリカ国防省の推算)。

問題は、「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃することで、その次にミサイル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにすること」の部分。

同じく朝鮮N報は、30日付のほうでは、つぎのように報道している。

「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃することで、その次にミサイル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにすること」と。

30日付の記事のほうが、正確ということになる。

この発言をよく読んでも、「先制攻撃」という感じは、あまりしない。
少なくとも「先制攻撃する」とは、言っていない。
しかも核兵器をもたない韓国としては、常識的な発言ということになる。
今の今ですら、もしK国が韓国を核攻撃する様子を見せたら、韓国としては、
K国のその場所を攻撃するしかない。

何しろ、たった一発で、600万人の人たちが命を失う。
ソウル市はそれで壊滅し、韓国経済は、そのまま崩壊する。
それを「だまって見ていろ」というほうがおかしい。

つまりは、核兵器というのは、それほどまでに恐ろしい武器であるということ。
その(おそろしさ)を棚にあげて、「先制攻撃は許さない」とがんばるK国のほうが、
おかしい。
狂っている。

で、そのあと、K国は、矢継ぎ早に、ケソン工業団地から当局者を撤退させ、
ミサイルを東シナ海に発射し、さらに今度は、韓国当局者が、軍事境界線を渡る
ことを禁止するという措置に出た(08年3月)。

どれも、自分で自分のクビを絞めるような行為ばかりである。

K国は、今、完全に、現実検証能力を、喪失している。
つまりまるで自分で、自分のことが、わかっていない。
この08年には、穀物だけでも、150万トン以上もの不足が
予想されている。

こうしたK国の動きに対して、韓国政府は、今のところ、正式に返答するか
どうかを検討しているという。
2、3日のうちに、その結論を出すという。

まったくもって、わけのわからない国、それがK国ということになる。
が、言いかえると、それだけK国内部が、今、大混乱しているということになる。
恐らくもう、収拾がつかない状態になっているのでは?

「殿、ご乱心!」と。

Saturday, March 29, 2008

Rekigion to depend on

●依存宗教(Religion to depend on)

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何かの宗教を信仰し、その宗教に
依存する。
それを依存信仰という。
母体となる宗教を、依存宗教という。

たとえば「病気が治りますように」
「お金が儲かりますように」
「子どもが目的の大学に合格しますように」
と祈るのが、それ。

またそれを受け入れる宗教を、
依存宗教という。

++++++++++++++++

日本でいう宗教の多くは、依存宗教と考えてよい。
信仰することによって、信者は、その宗教団体に、絶対的な忠誠を誓う。
彼らの世界で言うところの「熱心な信者」というのは、「従順で、もの言わぬ信者」をいう。
で、その反射的効果として、何らかの利益(りやく)を受け取る。

こんな例で考えてみよう。

現在、私の母は、介護度5で、あるケア・センターに入居している。
そこでのこと。

このところ見るたびに、テーブルをはさんで、別の女性と喧嘩ばかりしている。
よほど相性が合わないらしい。
ときに物を投げあったりする。
私が見たときには、ティッシュペーパーを丸めて、投げあっていた。
ともに耳が悪いので、大声を出して叫びあうこともある。

理由は、ささいなことである。
母は、そういう状態になりながらも、食欲だけは旺盛。
相手の女性が食べようとしている菓子などが、ほしくてたまらない……らしい。

「それは、あんたのじゃない!」「お客さんのだから、食べるんじゃない!」とか言いながら、相手の女性に向かって、ティシュペーパーなど投げつける。

私はそういう光景を見ながら、ふと、こんなことを考えた。

「神は、母を助けるか?」と。
仮に母が敬虔なクリスチャンで、神に熱心に祈ったとする。
「そのとき神なら神がいて、母を助けるか」と。

たとえば母は母なりのレベルで、こう祈ったとする。

「何とか、あの菓子がほしい」「相手の女性から、それを奪ってほしい」と。
ついでに、「何とか、相手の女性をこらしめてほしい」と、祈るかもしれない。

しかし、残念ながら、そんなことに耳を貸す神などいない。
いたら、エセ。インチキ。アホ。バカ。

母にとっては、「地獄のようなところ」(母の言葉)かもしれないが、365日、室温は一定に保たれている。
食事も、それぞれの入居者に合わせて調理されている。
もちろん24時間態勢で、看護してもらっている。
もちろん費用だって、かかる。

今、この瞬間においても、この世界には、飢えで死んでいく人や子どもは、多い。
そういう状況と比較すれば、母が置かれている境遇は、きわめて恵まれていると考えてよい。
母1人に、1か月かける費用だけで、アフリカの貧しい国でなら、数百人が1年間は暮らせるかもしれない。

そんなわけで、もし神の立場で優先順位をつけるなら、母を助けるのは、最後の最後ということになる。

……というふうに考えながら、今度は、私自身を見つめてみる。
「もし、私が神に祈ったら、神は、私の言うことを聞いてくれるか?」と。

答は、「NO!」。
第一、私の方が遠慮する。
私は健康だし、いろいろあったが、とにかくここまで無事に生きてくることができた。
60歳という年齢にしても、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
そんな私が神に祈って、それで私の言うことを聞いてくれたとしたら、その神は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

この世界には、私よりもっと神の助けを必要とする人たちがいる。
私よりも、はるかに熱心に、神に祈っている人たちがいる。
私がする信仰など、仮にしたところで、遊びのようなもの。

さらに中には、「この信仰をすれば、アルマゲドン(ヨハネの黙示録による終末)のとき、神によって救われる」と説く宗教団体もある。
しかし日本のような、(アメリカでもよいが)、これほどまでに恵まれた国で、どうして、アルマゲドンなのか?

仮に巨大隕石の衝突や、巨大地震のような天変地異が起きたとしても、それを悪と決めてかかるほうがおかしい。
私やあなたが、今、ここにいるのも、自然現象。
仮に巨大隕石の衝突や、巨大隕石のような天変地異が起きたとしても、それも自然現象。
それをアルマゲドンというのなら、では、いったい、私たちは何かということになってしまう。

ものごとを人間中心に考えてはいけない。
また人間が宇宙の中心にいるわけでもない。

地球温暖化(地球火星化)にしても、そうだ。

神に祈ったところで、どうこうなるような問題ではない。
またどうにもならない。
さらに言えば、ヌクヌクと恵まれた環境の中で生活をしながら、「救われる」も、何もない。

少し話が脱線したが、信仰は、思想でするもの。
もし宗教団体がすべきことがあるとするなら、思想で、信者を指導する。
おかしなパワーや、超自然現象を信じ込ませて、信者を誘導してはならない。
いわんや利益(りやく)を目的として、信者を誘導するとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

さらに愚劣なバチ論をふりかざし、「この信仰を(途中で)やめた者は、地獄へ堕ちる」と脅すとしたら、その宗教団体は、エセ。インチキ。アホ。バカ。

こんなことは常識で考えれば、だれにだってわかる。
子どもにだって、わかる。

さらに、そのことは、ケアセンターにいる老人たちを見れば、よくわかる。
私たち自身が、地球という巨大なケアセンターの中にいるようなもの。
たしかに私たちから見れば、母たちは、レベルが低い。
しかし神の目から見れば、私たちも、そしてケアセンターにいる老人たちも、同じように見えるはず。

たとえばあのK国は、せっこらせっこらと、核兵器ばかり、作っている。
一方で民を飢えさせて、みじんも、恥じない。
その姿は、菓子を取りあって喧嘩している母たちの姿と、どこもちがわない。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

さて、冒頭の話。
それについて、私は、こんな説話を思い出した。

法句経にこんな話がのっている。
ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。
それに答えて釈迦は、こう答える。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私のエッセーで、よく取りあげる説話だが、この説話をもう少していねいに読むと、こういうふうにも、解釈できる。

釈迦のそのときの気持ちになってみると、それがよくわかる。
釈迦は、こう言ったのだ。

「今まで、お前は生かしてもらったではないか。
まず、それに感謝しなさい。
それを忘れて、いつまでも、私に頼ってもらっては困る。
もういいかげんにしなさい」と。

さて、結論。

依存宗教は、どこまでいっても、依存宗教。
それを信仰したからといって、中身は、気休め。
またその程度の意味しかない。

宗教を信ずるのは、それぞれの人の自由。勝手。
しかし宗教に依存してはいけない。

もし祈ることがあるとするなら、自分を離れたところで、他人のために祈る。
宇宙や自然のために、祈る。

どこまでも生きるのは、私であり、あなたである。
それを忘れて信仰をしては、いけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 依存宗教 依存信仰 宗教とは 宗教論)

*Integration of Ourselves

●自己の統合性(The integration of ourselves)
When we get old, we should integrate ourselves to what we should do.

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どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キングである。

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 マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティン・ルーサー・キング・Jr)

わかりぬくい言い回しだが、キング博士はこう言っている。

「私は何をすべきか、それをつかむのに失敗した人は、生きている価値はない」と。

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらりと、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わかったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいはんが、そうではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、そのままここに紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)と出会う。彼女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞している。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」(「きれい塾hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自己の統合性 老後の統合性 生きざま)

*Royal Bureaucratic Country

【君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)】
Japan has been originally a royal bureaucratic country since the Nara Period and still now it is. From now on children at schools would be forced to sing an anthem to worship the Emperor’s Family.

●愛国心?

++++++++++++++++++

中央教育審議会のある委員は、こう
言った。

「今までの議論は、何だったんだ。
非常に気分が悪い」(中日新聞・3月28日
朝刊)と。

最後の最後の土壇場になって、突然、
文科省は「字句修正」(?)を行った。

そしてそこに「我が国を…愛し」という文言を
挿入し、「(君が代を)歌えるよう指導する
こと」とした。

文科省は、「政治家の圧力」を臭わせて
いるが、審議会そのものがもつ性質上、
それはありえない。

自分たちのよいように審議会を誘導し、
それがうまくいかなくなると、今度は、
外部の圧力を理由にする。

いつもの常套手段である。

国際基督教大学のFH教授も、
「愛国心重視の文言を最後の修正で
加える手法はけしからん。

改正教育基本法は強行採決で成立した。
パブコメ(=パブリック・コメント)は
民意を代表していない。

こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは
まちがっている」(同)とコメントを寄せている。

まったく、……100%、同感である!

++++++++++++++++++

日本の中央教育審議会の答申は、海外ではどのように受け取られているか。
まず、韓国の朝鮮N報の記事を紹介しよう。

『日本の文部科学省は28日、義務教育の小中学校での教育内容に直接影響を与える学習指導要領を、愛国心を強調する方向で見直し、正式に発表した。

政界の圧力を受け、新指導要領には総則に、「我が国と郷土を愛し」という文言が新たに加えられ、音楽の教育方針には「(君が代は)いずれの学年においても歌えるよう指導する」と明記した。

2月に発表された改訂案には、「愛国心」に関する記述はなかった。また、(君が代)をめぐっては「指導する」としただけで、「歌えるようにする」との文言はなかった。朝日新聞は「保守系の国会議員らから改訂案への不満が出ていたこともあり、文科省は異例の修正に踏み切った」と伝えた。

一方、渡海紀三朗文部科学相は、27日、国公立小中学校の生徒たちの靖国神社訪問などを禁じた1949年の政府通達について、「既に失効している」と明言した。靖国神社は太平洋戦争の戦死者を祭る宗教施設で、日本の戦争史を正当化する戦争博物館(遊就館)が境内にある』(東京発、N報特派員・朝鮮N報・3月29日)と。

++++++++++++++++++

もう少し修正内容を、詳しく見てみよう。

(小中学校総則)では、

【改正案】「道徳教育は…伝統と文化を継承し、発展させ、…道徳性を養うことを目標とする」。

【修正案】「道徳教育は…伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し、…道徳性を養うことを目標とする」。

(小・国語)では、

【改正案】「昔話や伝説などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりすること」。

【修正案】「昔話や神話・伝承などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりすること」。

(小・音楽)では、

【改正案】「君が代」は、いずれの学年においても指導する。

【修正案】「君が代」は、いずれの学年においても、歌えるように指導する。

(中・社会)では、

【改正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化を…理解させる」。

【修正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰…を理解させる」など。(以上、中日新聞・08・3月28日より)

++++++++++++++++++

これだけ並べてみてもわかるように、修正案なるものは、全体として、「天皇中心の神話国家」を目指していることがわかる。
その意図が、見え見え。
つまり「国を愛する」という言葉を使いながら、何とかして、それを「天皇家を愛する」ことにもっていこうとしている。

が、どうして(君が代)を歌うことが、愛国心につながるのか?
(君が代)を歌うから、愛国心があるということにもならないし、反対に(君が代)を歌わないから、愛国心がないということにもならない。

たかが、ひとつの(歌)ではないか。

もしそれほどまでに国民の愛国心なるものを確かめたかったら、北朝鮮のように、バッジ制にすればよい。
階級、功績、レベルに応じて、色分けするのもよい。何度も繰りかえすが、(君が代)の「君」は、「天皇」を指す。

だったら、思い切って、改正案をこう修正すればよい。
「バッジは、いずれの学年においても、胸に着けるように指導する」と。
そのほうが、よほどわかりやすいし、いずれ、日本もそうなるだろう。

で、かつてあの小泉首相は、「君が代の(君)は、(国民)をさす」と説明したが、私はこれほどまでの珍解釈を、聞いたことがない。

そこで(君が代)を擁護する人たちは、「君が代は、日本独特の古典音階を使用している、世界に類のない曲である」と主張する。
それは私も認める。
世界の国家を並べて聞いても、日本の(君が代)には、独自性がある。
すばらしい!

しかし私たちが問題にしているのは、(曲)ではない! 
(歌詞)である!
つまり(君が代)を擁護する人たちは、こうして巧みに、(曲)と(歌詞)を混同させながら、私たちを煙に巻いている、などなど。

さらに憲法を改正して、天皇を現行の(象徴)から、(元首)にするという動きも、目立ってきている。
それが「国としての品格である」と説く人もいる。

しかし21世紀の今、どうしてこの日本で、王政復古(Restoration)なのか?
その必要はあるのか? 
どうして(象徴)であっては、いけないのか? 
その前に、天皇家の人たちが、それを望んでいるのか? 
その了解を取っているのか?

日本が民主主義国家だと思っているのは、悲しいかな、私たち日本人だけ。
ウソだと思うなら、外国の人たちに聞いてみることだ。

日本は、奈良時代の昔から、君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)。
今の今も、君主官僚主義国家。
あの北朝鮮だって、一応、「民主主義国家」ということになっている。
(北朝鮮の正式国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」だぞ!)

「審議会」なるものは、彼らの行動を正当化するための、道具。方便。
だいたいどういう基準でメンバーが選ばれるか、それすら明確ではない。
たいていのばあい、YES・MANだけを集め、自分たちにとって都合のよいように、結論を出させる。
これを「答申」というが、あとはその答申に基づいて、好き勝手なことをする。
そのためにも、答申の文言は、おおざっぱであればあるほど、また抽象的であればあるほど、よい。
いかようにも解釈できる。

あとはその答申に基づいて、「控えおろう!」と。
が、今回は、そんな審議会から出された答申ですら、さらに修正した!

……というわけで、たかが【修正案】と、あなどっていてはいけない。
文科省は、こうした答申が出たことをよいことに、これから先、矢継ぎ早に、(君が代)の強制を、全国津々浦々の学校にまでしてくるはず。
ついでに靖国神社参拝を、修学旅行の日程に入れるよう強要してくるはず。
各学校では、「天照大神」の神話が、堂々と語られるようになるはず。

徐々に徐々に、少しずつ、しかし長い時間をかけて、日本という国は、そういう方向に導かれていく。

もちろんその目的は、ただひとつ

天皇を頂点にいだく、官僚主義国家の完成!

もう一度、国際基督教大学のFH教授の言葉を、かみしめてみよう。

「こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは、まちがっている」と。

+++++++++++++++++

●日本の神話

(修正案)の中に出てくる「神話」とは何か。
ウィキペディア百科事典から、そのまま抜粋、引用させてもらう。

+++++++(以下、ウィキペディア百科事典より)++++++++++

『古事記』においては、イザナキがイザナミの居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際に、左目を洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれたツクヨミ、鼻から生まれたスサノオと共に、三貴子と呼ばれる。このときイザナキは天照大御神に高天原を治めるように指示した。

海原を委任されたスサノオは、イザナミのいる根の国に行きたいと言って泣き続けたため、イザナキによって追放された。スサノオは根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。スサノオの潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、スサノオの物実から三柱の女神が生まれ、スサノオは勝利を宣言する。

天照大神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神である。

アメノオシホミミ
アメノホヒ
アマツヒコネ
イクツヒコネ
クマノクスビ

これで気を良くしたスサノオは高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は天岩戸に隠れてしまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。(知恵の神様の秩父の神様天の八意思金命(やごころおもいかねのみこと)と天の児屋根命など八百万の神々は天照大御神を岩戸から出す事に成功し、スサノオは高天原から追放された。

葦原中国に子のアメノオシホミミを降臨させることにし、天つ神を派遣した。葦原中国が平定され、いよいよアメノオシホミミが降臨することになったが、その間にニニギが生まれたので、孫に当たるニニギを降臨させた。

+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++

こうした神話をもとに、紀元後645年の大化の改新以後、天皇家は、天照大神をまつるようになる(ウィキペディア百科事典)。

「……ちなみに、男神アマテルとは、アマテラスの孫のアメノホアカリの別名で、アメノホアカリは尾張氏・津守氏・海部氏の始祖でもある。また、このアメノホアカリの弟がニニギで、神武天皇の曽祖父にあたる」と。

やがてすぐ、小学校で、こうした神話について、読み聞かせが始まることになる。
子どもの受験勉強に熱心な親たちは、今から、しっかりと予習しておいたほうがよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 中央教育審議会 愛国心 国歌 国歌論 神話 神話教育 官僚主義 官僚主義国家)

*Children and TV Games

●子どもとゲーム(Children & their TV Games)
TV games apparently affect children badly. The English Government has submitted a report, regarding TV games and its possible dangerousness to children.)

+++++++++++++++++

「ゲームは安全だ」と、がんばっている、愚か者どもよ、
少しは、世界に目を開き、世界の人の意見を聞け!

イギリス政府は、つぎのような報告書を提出した。
まず、それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++++

【ロンドン27日・時事通信】

イギリス政府は3月27日(2008)、ビデオゲームやインターネットが、子どもに及ぼす影響に関する報告書を公表、産業界や家庭と協力して対策に取り組む方針を明らかにした。

ゲームのパッケージに「子どもの健康を害する恐れがある」といった警告文が印刷される可能性もありそうだ。

報告書は政府の委託を受けた臨床心理学者が作成。ゲームによって子供は暴力に対して鈍感になるなどと結論づけた。また、英国では性と極端な暴力描写を含むゲームについてのみ、年齢制限が設けられているが、制限の拡大を求めた。(ヤフー・ニュースより抜粋)

+++++++++++++++++

この日本でも、「ゲーム脳」という言葉を使って、
その危険性を説いた教授がいた。

が、その直後から、その教授のところには、抗議の
嵐!

どうして? 

一方、「ゲーム脳というのは、ない」「安全です」と
説く教授も現れた。
こちらの教授は、ゲームの世界では、今、神様の
ような存在になっている。

どうして?

危険か、危険でないか、そんなことは、ゲームに
夢中になっている子どもを見れば、わかる。
(もちろんゲームの内容にもよるが……。)

明らかに、どこかヘン。おかしい。
様子もおかしいが、目つきもおかしい。
そうなる。

あるいはあなた自身が、あのテレビゲームを
してみればよい。

数分もしないうちに、頭の中がクラクラしてくるはず。

「殺せ!」「やっつけろ!」と騒ぐ子どもは、まだよいほう。
ほとんどは、無表情のまま。
無表情のまま、うつろな目つきで、指先だけを動かしている。

隣の韓国では、その中毒性が問題になり、各学校に、
カウンセラーまで配置される状況になっている。
(知っているか?)

が、この日本では、野放し! まったくの野放し!

私が書いた「ポケモン・カルト」(三一書房)にしても、
書いてから9年にもなるのに、いまだに、抗議の書き込みが
あとを絶たない。

どうして?

いったい、この日本は、どうなっているのだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳 子どもとゲーム 子供とゲーム ゲームの危険性 テレビゲーム)

*What is "Me"? This is my conclusion so far.

【私とは?】(What is “Me”?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have found in these ten years.

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ~~~~~ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論)

Friday, March 28, 2008

*What is "Me"?

● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1~2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分 視床下部 大脳前頭前野)

Thursday, March 27, 2008

*Raw Energy from the Brain inside

● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向性が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が。いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?)
(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症など。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
あっても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店がそこにあった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。
一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみては?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)

*Raw Energy from the Brain inside

● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向性が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が。いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?)
(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症など。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
あっても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店がそこにあった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。
一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみては?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)

Wednesday, March 26, 2008

Brains that is to be rusted

●ボケといく頭(Brains that is to be rusted)
I saw a movie last night with my wife, which is about Alzheimer's disease. It was a nice one and I thought about again what is the brain.)

昨夜、渡辺健、樋口可南子主演の「明日の記憶」(邦画)を見た。
若年性アルツハイマー病をテーマにした映画だった。
よい映画だった。
(あえて星はつけないでおく。)

ヤフーの映画紹介欄には、つぎのようにある。

『第18回山本周五郎賞を受賞した、荻原浩の同名長編を原作に、
『トリック』や『ケイゾク』の堤幸彦監督が映画化した人間ドラマ。
若年性アルツハイマー病に侵された男と、ともに喪失を乗り越えようとする
妻の夫婦の情愛をたおやかに描く。互いを受け止め合い、痛みを共有する
熟年夫婦を、渡辺謙と樋口可南子が好演。人を愛することの根源的な意味を
問いかける重厚なテーマを、ソフトな語り口でつづる堤監督の演出手腕が
冴え渡る感動作』と。

その映画を見ながら、随所で、「明日は、わが身」を実感した。

ただ、私もこのところ、アルツハイマー病になった人たちを、見る機会がよくある。
が、症状は、もっと深刻。
顔つき、そのものが、変化する。
顔じゅうから、緊張感が消え、ダラーッとした感じになる。

映画の中の渡辺謙は、最後の最後まで、りりしい(?)表情をしていたが、
そのあたりでは、少し違和感を覚えた。

で、そのあと、私とワイフは、脳みその検査をしあった。
ああでもない、こうでもない、と。

私「なあ、最近、ぼくの様子、少し、ヘンじゃないか?」
ワ「ヘンじゃ、ないわよ」
私「ボケたとか、そういうふうに思うことはないか?」
ワ「ないわねエ……」
私「でもさ、お前も、同じようにボケ始めていたら、たがいにそれがわからないよ」と。

映画の中でも、最初、渡辺謙は、自分が病気であることに、強く反発する。
ものを投げつけたり、机を蹴飛ばしたり、怒鳴ったりして、反発する。
それもそのはず。
脳みその中枢部分が変化する。
パソコンでいえば、クロック数そのものが、落ちる。
だから自分で自分の変化を知るのは、(理論的には)、不可能。

これは何も、アルツハイマー病にかぎらない。

加齢とともに、脳みその機能が低下する。
しかし低下したことを自分で知るのは、(理論的には)、不可能。
ほとんどの人は、低下していることにすら気づかない。
気づかないだけならまだしも、「私はふつう」「私はまとも」と、がんばる。

それを繰り返しながら、徐々に、5年、10年単位で、ボケていく。

で、最近、私は、こんな経験をした。

6年前の生徒たちの写真を見たときのこと。
全員、幼児教室の生徒たちである。
そこには、5人の子どもたちの顔が写っていた。
が、うち4人まで、名前どころか、そういう子どもがいたことすら、思い出せなかった。

たった、6年前である!

この数字で計算すると、私は、6年前の記憶のうち、80%を失ったことになる。
6年前といえば、2002年。
「2002年には、どんなことをしたか?」と聞かれると、さらに困る。
何があったかさえも、思い出せない。

言い換えると、今という(現在)にしても、6年後には、そのうちの80%が
消えることになる。
さらにその2倍の12年後には、残りの20%のうちの、さらに80%を失う。
ざっと計算してみると、残っているのは、たったの4%!
私が、72歳になるころには、今という(現在)の記憶は、4%しか、残っていない?
生徒数で考えると、100人の生徒のうち、4人しか、覚えていない?

この数字を見て、ゾーッとしない人は、いないと思う。
いや、中には、「私はだいじょうぶ」と思っている人もいるかもしれない。

しかしほんとうに、そうか?
そう信じてよいのか?
むしろ、そういう人のほうが、あぶない?

……と書いただけで終わったのでは、エッセーにならない。
問題は、では、どうしたらよいか、ということ。
どうすれば、ボケていく自分の脳みそと、戦うことができるかということ。

映画「明日の記憶」の中では、妻を演ずる樋口加奈子が、アルバムから写真を
抜き取って、それを部屋中に、張ったり、並べたりする。
この方法は、アルツハイマー病には効果は、あまりないかもしれない。
しかしボケ防止には、よいかもしれない。
記憶を繰り返し再燃させることによって、脳みそ活性化する。
が、問題がないわけではない。
活性化できるとしても、その部分だけ?
ほかの記憶は、どうしたらよいのか?

さらに思考力の維持となると、もっとむずかしい?
思考力が低下すれば、表面的な会話しか、できなくなる。
現在の私の母が、そうである。
「元気?」
「元気だよ」と。
それでおしまい。

(そう言えば、あの母にしても、ほんの5、6前までは、「私はボケていない!」と
がんばっていたゾ。
私が、「おまえ、少しボケたんじゃ、ない?」と言ったときも、そうだった。
母は、ムキになって、それに反発した。)

……ということで、この問題だけは、考えれば考えるほど、袋小路に入ってしまう。
わけがわからなくなってしまう。

そこで映画の中で、だれかが、こう言う。
私のボケかけた脳みその記憶によるものなので、不正確かもしれないが、こう言う。

「ものごとには、始まりがあれば、終わりがある」と。
つまりそういう状態になることを、(終わり)ととらえれば、よい、と。

「終わりねエ……」と思ったところで、この話は、おしまい。
考えたところで、どうにもならないし……。

*What is Edo Period for the Japanese?

●社会科の春休みの宿題(浜松市、某中学校)
(Edo period was one of the most dark and terrifying period even in the world as well as in the history of Japan. Only 6~7% of Samurai warriors governed the rest of people and 80~85% of Japanese population was farmers. The farmers should provide Samurai warriors with 40~50% (sometimes 60%) of their products. Farmers did not at all have freedom of moving or changing their jobs, of course no freedom of speech. So it was one of the most dark and terrifying period.

+++++++++++++++++++++++

(1) 共通テーマは、武士、700年間の時代の中で、
人々が、幸せに暮らしたのは、いつか。

(2) 社会の安定、自由、繁栄、平和、家族という視点
の中から、ひとつ選んで、追究する。

+++++++++++++++++++++++

中学1年生のKさんが、こんな宿題をもってきた。
春休みの宿題だという。

日本の教育も変わってきた。
もちろん宿題の内容も変わってきた。
これを見たとき、私は、「日本の教育は確実に欧米化している」と感じた。

(暗記)から(思考力)へ。
(ジェネラリスト)から(スペシャリスト)へ。
(従順な子ども)から(問題意識をもった子ども)へ。

その変化は、いろいろな言い方で説明できる。
しかし教育というのは、「学校で学んだことを、すべて忘れてしまったあとに
残っているもの」とするなら、こうした教育は、その(残るもの)を目指した
教育と言える。

すばらしいことだと思う。

で、Kさんには、こう説明した。

(1) 武士の時代といっても、きびしい身分制度が敷かれていた。
武士の立場で考えるか、農民の立場で考えるか、それによって、
見方が大きく変わる。

(2)「幸せ」の定義をしっかりとしておくこと。何をもって「幸せ」というか。
   それによっても、見方が、大きく変わる。

(3)「安定、自由、繁栄、平和、家族」の中から、何を選ぶか。
   もちろんそのうちのどれを選ぶかで、見方が、これまた大きく変わる。

私「基本的には、あの江戸時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの
暗黒かつ恐怖政治の時代だった。それを忘れてはいけない」
K「結構、みな、楽しそうだったみたい」
私「だれが、そう教えたの?」
K「……教科書……?」

私「移動の自由もなく、職業選択の自由もない。もちろん言論の自由もない。
きびしい身分制度の中で、生まれながらにして、みな、職業が決まっていたんだよ」
K「武士にとっては、住みやすい時代だったかもしれないわね」
私「そう、武士にとってはね。でも、その武士は、6~7%。農民は、80~85%。
その農民たちは、武士に虐げられていた」
K「そう? 武士って、そんなに少なかったの?」と。

ちなみに、ヤフー・知恵袋によれば、つぎのようにある。

「幕末の人口約3200万人のうちわけは、諸藩の統計を平均して、武士6~7%、農民
80~85%、工商を含む町人5~6%、神官・僧侶1.5%、穢多・非人1.6%と、
推測されている」と。

つまり人口の6~7%に過ぎない武士が、人口の80~85%もいる農民を虐げ、
好き勝手な生活を楽しんでいた。
「好き勝手」というのは、農民の納める年貢にしても、収穫高の4~5割を自分たちの
ものにしていたことをいう。

身分制度については、こんな話が残っている。

浜松市の西に、江戸時代に代々、庄屋として栄えた農家がある。
そんな農家ですらも、上から下まで、厳格な身分制度が敷かれていた。
小間使いは、一生、小間使い。
代々、小間使い、と。

また恐怖政治については、こんな話が残っている。

私の山荘のある地域では、明治時代に入ってからも、士族たちは、
刀をさして歩いていたという。
歩くたびに、刀の鞘(さや)が、カチャカチャと音をたてたという。

農家の人たちは、その音が聞こえてくると、道路の脇に正座して、頭をさげ、
その氏族という人が通り過ぎるのを待ったという。

この話は、10年ほど前、90歳でなくなった女性から、直接、私が
聞いた話である。

こういう(事実)をすべて無視して、「江戸時代は、自由な時代だった」とは、
私はぜったいに言わせない。

Kさんが、どんなレポートを書くかは、私は知らない。
しかしそれが、江戸時代を考える、新しいきっかけになればよい。

……私はKさんが数学の問題を解いている間、「幸せな暮らし」と何か、
それを考えていた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 武士 農民 比率 江戸時代)

++++++++++++++++++

前にも取りあげたが、あの信長ですら、
この日本では、英雄(?)になっている。
それについて書いたのが、つぎの原稿。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++

「偉い」を廃語にしよう

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。よく似たよ
うな言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉
い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?  
  
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。

もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。

Tuesday, March 25, 2008

*Mismatch of Mind *Whatever he is ....

●心と表情のミスマッチ(mismatch between mind and facial expression) 
 
 子どもの心は風船玉のようなものだ。「家庭」で圧力を加えると、「園や学校」で荒れる。反対に「園や学校」で圧力を加えると、「家庭」で荒れる。友人との「外の世界」で荒れることもある。

問題は、荒れることではなく、こうした子どもたちが、いわゆる仮面をかぶり、二重人格性をもつことだ。親の前では、恐ろしくよい子ぶりながら、その裏で、陰湿な弟や妹いじめを繰り返す、など。家庭内暴力を起こす子どもなどは、外の世界では、信じられないほど、よい子を演ずることが多い。

 一般論として、情意(心)と表情が遊離し始めると、心に膜がかかったかのようになる。教える側から見ると、「何を考えているかわからない子ども」、親から見ると、「ぐずな子ども」ということになる。あるいは「静かで、おとなしい子ども」という評価をくだすこともある。ともかくも心と表情が、ミスマッチ(遊離)するようになる。

ブランコを横取りされても、笑みを浮かべながら渡す。失敗して皆に笑われているようなときでも、表情を変えず平然としている、など。「ふつうの子どもならこういうとき、こうするだろうな」という自然さが消える。が、問題はそれで終わらない。

 このタイプの子どもは、表情のおだやかさとは別に、その裏で、虚構の世界を作ることが多い。作るだけならまだしも、その世界に住んでしまう。ゲームのキャラクターにハマりこんでしまい、現実と空想の区別がつかなくなってしまう、など。

ある中学生は、毎晩、ゲームで覚えた呪文を、空に向かって唱えていた。「超能力をください」と。あるいはものの考え方が極端化し、先鋭化することもある。異常な嫉妬心や自尊心をもつことも多い。

 原因の多くは、家庭環境にある。威圧的な過干渉、権威主義的な子育て、親のはげしい情緒不安、虐待など。異常な教育的過関心も原因になることがある。子どもの側からみて、息を抜けない環境が、子どもの心をゆがめる。子どもは、先ほども書いたように、一見「よい子」になるが、それはあくまでも仮面。この仮面にだまされてはいけない。

 子育ては、『まじめ八割、いいかげん二割』と覚えておく。これは車のハンドルの遊びのようなもの。子どもはこの「いいかげんな部分」で、羽をのばし、自分を伸ばす。が、その「いいかげん」を許さない人がいる。許さないというより、妥協しない。外から帰ってきたら、必ず手洗いさせるとか、うがいさせるなど。

このタイプの親は、何ごとにつけ完ぺきさを求め、それを子どもに強要する。そしてそれが子どもの心をゆがめる。が、悲劇はまだ続く。このタイプの親に限って、その自覚がない。ないばかりか、自分は理想的な親だと思い込んでしまう。中には父母会の席などで、堂々とそれを誇示する人もいる。

 子どもの二重人格性を知るのは、それほど難しいことではない。園や学校の参観日に行ってみて、家庭における子どもと、園や学校での子どもの「違い」を見ればわかる。もしあなたの子どもが、家庭でも園や学校でも、同じようであれば、問題はない。

しかし園や学校では、別人のようであれば、ここに書いた子どもを疑ってみる。そしてもしそうなら、心の開放を、何よりも大切にする。一人静かにぼんやりとできる時間を大切にする。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●生命力を大切に(Whatever your child is, it is your child.)

 昔から、『できの悪い子どもほど、かわいい』という。それはその通りで、できのよい子どもほど、自分で勝手に成長していく。……成長してしまう。そのためどうしても親子の情が薄くなる。しかしできの悪い子は、そうではない。

 I君(小二)は、そのできの悪い子どもだった。言葉の発達もおくれ、その年齢になっても、文字や数にほとんど興味を示さなかった。I君の父親は心やさしい人だったが、学習面でI君に無理を強いた。しかしそれがかえって逆効果。(無理をする)→(逃げる)→(もっと無理をする)の悪循環の中で、I君はますます勉強から遠ざかっていった。

 時に父親はI君をはげしく叱った。あるいは脅した。「こんなことでは、勉強におくれてしまうぞ」と。そのたびにI君は、涙をポロポロとこぼしながら、父親にあやまった。一方、父親は父親で、そういうI君を見ながら、はがゆさと切なさで身を焦がした。「泣きながら私の胸に飛び込んできてくれれば、どれほど私も気が楽になることか。叱れば叱るほど、Iの気持ちが遠ざかっていくのがわかった。それがまた、私にはつらかった」と。

 このI君のケースでは、母親がおだやかでやさしい人だったのが幸いした。父親が暴走しそうになると、間に入って、父親とI君の間を調整した。母親はこう言った。「主人は主人なりに息子のことを心配して、そういう行動に出るのですね。息子もそれがわかっているから、つらがるのでしょう」と。

形こそ多少いびつだが、それも親の愛。子どものできが悪いがゆえに燃えあがる、親の愛。その父親が私を食事に誘ってくれた。私はその席で意を決して、父親にこう告げた。

 「お父さん、もうあきらめましょう。お父さんががんばればがんばるほど、I君は、ますます勉強から遠ざかっていきます。心がゆがむかもしれません。しかし今ならまだ間にあいます。あきらめて、I君の好きなようにさせましょう」と。

 そのとき父親の箸をもつ手が、小刻みに震えるのを、私は見た。

「先生、そうはおっしゃるが、このままでは息子は、ダメになってしまいます」
「しかしI君の顔から、笑顔が消えたら、どうしますか」
「私は嫌われてもいい。嫌われるぐらいですむなら、がまんできます。しかしこのまま息子が、落ちこぼれていくのには耐えられません」
「落ちこぼれる? 何から落ちこぼれるのですか」
「先生は、他人の子どもだから、そういうふうに言うことができる」
「他人の子ども? 実は私はその問題で、一〇年以上も悩んだのです。自分の子ども、他人の子ども、ということでね。しかし今は、もうありません。今は、そういう区別をしていません」

 いかに子どものできが悪くても、子ども自身がもつ生命力さえ残っていれば、必ずその子どもは自立する。そして何十年後かには、心豊かな家庭を築くことができる。しかし親があせって、その生命力までつぶしてしまうと、ことは簡単ではない。一生ナヨナヨとした人間になってしまう。立ちなおるということは、たいへん難しい。I君はそのとき、その瀬戸ぎわにいた。

*"Mirror Phenomenon" among boys and girls

●ミラー反応(mirror phenomenon)
When a boy or girl wants to leave a learning center or a Jyuku, he or she would never say straightly “I want to quit it”. Or he or she starts speaking ill of teachers, in order to let their parents think “Stop going there.” This is a common phenomenon but recently I have found a kind of “Mirror Phenomenon” in a boy or a girl. He or she reacts badly against teachers at the same time they start speaking ill of their teachers. So I call it “Mirror Phenomenon”.

++++++++++++++++++

子どもというのは、塾や、おけいこ塾を
やめたくなっても、「やめたい」とは
言わない。

そういうときは、まず塾や、おけいこ塾の先生の
悪口を言い始める。

「教え方が悪い」
「ていねいに教えてくれない」
「先生が、サボっている」など。

親をして、「そんな塾などやめなさい」と
言わせるように、しむける。

こうした現象は、学校教育の場では、顕著に
現れる。

それについては、たびたび書いてきた。

が、最近、これとは別に、もうひとつ、
興味ある現象が起きることを発見した。
称して、「ミラー反応」。

子どもというのは、親をして、そういう
ふうに思わせる一方、今度は、先生当人に
対しては、ぞんざいな態度を示すようになる。

子どもなりに、一貫性を保とうとするわけ
である。

つまり、親には、先生の悪口を言いながら、
その一方で、先生に対しては、「私も親も
怒っている」という様子をして、見せる。

だから、ミラー反応。

先生に対して、反抗的になる。
つっぱったしぐさを、して見せる。
言い方が乱暴になる。
先生の指示に従わなくなる。
すなおさが、消える、など。

つまりこういうプロセスを経て、子どもは、
塾や、おけいこ塾を去っていく。

このタイプの子どもは、(親もそうだが)、
あたかも教室を蹴飛ばすかのようにして
去っていくので、それがわかる。

親は、子どもの言い分のみを、一方的に
信じてしまう。

で、このタイプの子どもが、もっとも
恐れるのは、先生と親が直接対話をすること。

「一度、お母さんと話がしたい」などと
言ってみると、それがわかる。

ああでもない、こうでもないという理由を
並べて、取りあってくれない。

「お母さんは、仕事をしている」(ウソ!)
「夜は、おばあちゃんの家に行っている」(ウソ!)
「携帯電話の番号は知らない」(ウソ!)と。

「電話をかけてもいいか」と言って、受話器を
取ったとたん、それに飛びかかってきた子ども
(小5女児)もいた。

『子どもを信じる』ことは、大切なことだが、
ことこういうケースでは、まず子どもを疑って
みること。

で、私のばあい、こうしたケースを毎年の
ように経験している。
だから、その流れが、おおまかにわかる。

(1) まず私に対して、反抗的になる。理由は、
いろいろあるのだろうが、この時期の子どもの心理は、
かなり複雑。

過負担、親の過剰期待、過干渉などが、子どもの
心をゆがめることもある。
それに家庭事情が、からんでくる。

外からでは、理由は、わからない。

(2) 親に対して悪口を言い始める。
悪口の内容は、さまざま。かなり知的な操作をするので、
親には、それが見抜けない。

反対に、「私は、もっと勉強したい」「あの教室では
勉強できない」などと言うこともある。

親の態度が、ぐんと冷ややかになることもある。

(3) 親から連絡がある。
子どもの言い分だけを聞いているから、いつも
一方的。

先にも書いたように、「蹴飛ばすようにして」やめていく。
たがいの(あいさつ)すら、ないことも多い。
子どもが、そういうふうになるよう、しむけてしまう。

……ということは、何も珍しい現象ではない。
たいへんよくある現象と言っても、よい。

若いころは、それなりに気にしたが、今は、ちがう。
年の功というか、(フン)と笑って、それで
すますことができる。

ときに、「なかなか、やるなあ」と感心することもある。

というのも、この年齢になると、おかしなことだが、
子どもも、親も、同年齢に見えるようになる。
子どもだから、親より劣っているというふうには、
見えない。
親だから、子どもよりすぐれているとも、これまた
見えない。

親に説明して、誤解を解いたところで、どうこうなる
問題ではない。
その時点で、子どもの心は、すでに私から離れて
しまっている。

だからこういうミラー反応を子どもが示し始めた
ときには、私は、こう言うようにしている。

「ここ(=私の教室)をやめたかったら、やめたいと
先生(=私)に話してよ。お父さんとお母さんに、うまく
話してあげるから」と。

ほとんどのばあい、それに応ずる子どもはいない。
いないが、そういうふうに、こちらが一歩、退いて、
話をする。

子どもを追い込むのだけは、私は、避けたい。

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8年前に書いた原稿を、そのまま載せる。
(中日新聞、発表済み)

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●単純でない子どもの心

 ある朝、通りでAさんとすれ違ったとき、Aさんはこう言った。「これから学校へ抗議に行くところです」と。話を聞くと、こうだ。「うちの息子(小4)の先生は、点の悪い子どものテストは、投げて返す。そういうことは許せない」と。しかし本当にそうか?

 子どもは塾などをやめたくなっても、決して「やめたい」とは言わない。そういうときはまず、先生の悪口を言い始める。

「まじめに教えてくれない」「えこひいきする」「授業中、居眠りをしている」など。

つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思うようにしむける。ほかに、学校の先生に、「今度、君のお母さんに、全部、本当のことを話すぞ」と脅かされたのがきっかけで、学校の先生の悪口を言うようになった子ども(小3女児)もいた。

その子どもはいわば先手を打ったわけだが、こうした手口は、子どもの常套手段。子どもの言い分だけを聞いて真に受けると、とんでもないことになる。こんな例もある。

 たいていの親は「うちの子はやればできるはず」と思っている。それはそうだが、しかし一方で、この言葉ほど子どもを苦しめる言葉はない。B君(中1)も、その言葉で苦しんでいるはずだった。そこである日私は、B君にこうアドバイスした。

「君の力は君が一番よく知っているはずではないか。だったら、お父さんに正直にそう言ったらどうか」と。

しかしB君は、決してそのことを父親に言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなってしまう。B君は、親に「やればできるはず」と思わせつつ、いろいろな場面で自分のわがままを通していた。あるいは自分のずるさをごまかすための、逃げ口上にしていた。

 子どもの心だから単純だと考えるのは、正しくない。私の教育観を変えた事件にこんなのがある。幼稚園で教師になったころのことである。

 Kさん(年長児)は静かで目立たない子どもだった。教室の中でも自分から意見を発表するということは、ほとんどなかった。が、その日は違っていた。Kさんの母親が授業参観にきていた。Kさんは、「ハイ!」と言って手をあげて、自分の意見を言った。そこで私は少し大げさにKさんをほめた。ほめてほかの子どもたちに手を叩かせた。

と、そのときである。Kさんがスーッと涙を流したのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても合点がいかない。そこで教室が終わってから、Kさんにその理由を聞いた。するとKさんはこう言った。「私がほめられたから、お母さんが喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出てきちゃった」と。Kさんは、母親の気持ちになって、涙をこぼしていたのだ!

 さて話をもとに戻す。Aさんは、「テストを投げて返すというのは、子どもの心を踏みにじる行為だ」と息巻いていた。が、本当にそうか? 先生とて、時にふざけることもある。その範囲の行為だったかもしれない。子どもを疑えということではないが、やり方をまちがえると、この種の抗議は、教師と子どもの信頼関係をこなごなに砕いてしまう。

私はAさんのうしろ姿を見送りながら、むしろそちらのほうを心配した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ミラー反応 ミラー現象 先生の悪口を言う子ども 教師の悪口を言う子ども)

Monday, March 24, 2008

*March 25, 2008 (3300 accesses and Prof. Tamaru)

【今日・あれこれ】(March 25th)
3300 accesses to one of my blogs were counted yesterday. It is a great thing for me.

●3300件!

昨日、G・Blog、ひとつだけで、アクセス数、3300件を記録した。
1日の記録しては、今までの中でも、最高。
もちろん3300件イコール、3300人というわけではない。
重複閲覧も、その中に含まれる。
しかし、これはものすごいことだと思う。

月間ベースでみれば、3300x30=10万件となる。

ほかに私は、毎日、5つのBLOGを発行している。
そちらのほうも、平均して、毎日、300~500件のアクセスがある。

もちろんHPへのアクセスもある。
しかしこちらのほうは、実数は、わからない。
アクセス・カウンターをつけているのもあるし、ないのもある。

またメインのHPと、ハイパーリンクでつないでいるHPが、6~7つある。
ページ数だけでも、数百ページ以上。
合計で、500MB前後。

その中でも、最近、人気があるのが、「音楽と私」。
このコーナーだけでも、毎日、300~600件ものアクセスがある。(毎日だぞ!)
この1月に開設したばかりのコーナーなのだが……。

が、何といっても、私にとって重要なのが、電子マガジン。
こちらのほうは、読者数が、合計で、3000人になった。
毎月、12~13回、発行しているから、延べにして、約4万人。

毎回、20~30枚分(40x36)の原稿を載せているから、
原稿枚数(400枚詰め)に換算すると、1回分が90枚。
1か月で、1125枚。
それに読者数の3000を掛けて、340万枚。
つまり340万枚の原稿を、毎月、配信していることになる。

「ものすごいことだと思う」というのは、数字ばかりではない。
こんなことが、浜松という地方都市に住んでいて、できるということ。
しかもそういうことが、東京を通り越して、全世界に向けてできる。

が、おかしなことに、本当におかしなことに、その(実感)が、ほとんどない。
私の目の前にあるのは、パソコンの画面だけ。

今、その画面をながめながら、「この画面の向こうにねエ~」と、思った。
この画面の向こうに、この地球と同じくらい広い、世界がある?


●TK先生(My Friend, Prof. TK)

TK先生の体の具合が、あまりよくないらしい。
昨夜も、メールが届いた。
「憂うつです」と、それにはあった。
私も、先生のメールを読んで、憂うつになった。

TK先生との出会いは、1970年。
ちょうどあの三島由紀夫が割腹自殺を遂げた前後のころのことだった。
ラジオか何かのニュースでそれを知り、TK先生にそれを告げたのを覚えている。

以来、今年で、38年目になる。
近くもなく、遠くもなく、それでいて、たがいに言いたいことを、言いあっている。
実のところ、TK先生は、「先生」というよりは、「友」。
身分も立場も、まるでちがうのに、そんな関係でつきあってきた。

こんなことがあった。

いつものように東大の理学部へ遊びに行くと、こう言った。
「5時まで、遊んでいきなさいよ」と。

そのときは、へんに時刻にこだわる人だなあと思った。
が、その5時になって、理由がわかった。
TK先生、専用の黒塗りの乗用車が、理学部の玄関の前に横付けになった。
今は知らないが、東大の副総長(早朝特別補佐)になると、そういう車があてがわれる。
それがちょうど5時にやってきた。

TK先生は、それに私を乗せたかったらしい。
TK先生も私も、車の中では、一言も話さなかった。
が、車を出ると、たがいにゲラゲラと笑いあった。
笑いながら、東京駅の下にあったレストランで、食事をした。
あのとき私は、生まれてはじめて、マンゴーなる果物を口にした。

私がまだ、30歳になる前のことではなかったか?

……こうして書き始めると、思い出はつきない。
しかしそのTK先生が、私の生き方を決めた。
私はTK先生に会ったのがきっかけで、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で
生きてやる」と決めた。
その経緯を話せば長くなるが、ともかくも、TK先生との出会いは、それほどまでに
大きな影響を、私に与えた。

そのことを昨夜もワイフに話すと、こう言った。

「TK先生と出会ったのが、あなたにとってよかったのか、悪かったのか、
わからないわね」と。

TK先生の父親の、TS氏は、日本学士院の院長まで務めている。
「親子2代、つづけて、日本化学会の会長をしました」と、いつだったか、
TK先生が話してくれたのも覚えている。

TK先生のばあい、地位や肩書きだけでも、今では数百以上になるのでは……?
上は国際触媒学会の前会長に始まって、下は鎌倉テニスクラブの会長まで。
ときどき天皇陛下も、そのクラブにやってきて、テニスをする。

それで私は、TK先生に反発した。
反発して、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で生きてやる」と。

……以来、38年。

先生との出会いが、遠い昔のことのようにも思われるし、つい先日のことのようにも、
思われる。

昨夜の返事に、こう書いた。

「一度、そちらへ行きますよ」と。

私はいつもTK先生を追いかけてきた。
今も追いかけている。
だから今度ばかりは、どうしても会わなければならない。

「ひとりで行きます。そうればパジャマ姿でも、先生は気になさらないでしょうから」と、
メールには書いた。

+++++++++++++++

こんな原稿を書いたことがある。
(中日新聞、発表済み。
「世に無不思議な留学記」より。

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処刑になったT君【12】

●日本人にまちがえられたT君

 私の一番仲のよかった友人に、T君というのがいた。マレ-シアン中国人で、経済学部に籍をおいていた。

 最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。そのT君。ある日私にこう言った。

 「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、「じゃ、お前の名前を、日本語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中国語じゃないか」と笑った。

 そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、マレー人そのものを、どこか「下」に見ていた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にまちがえられると、もっと怒る。T君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。街を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、T君は、地面を足で蹴飛ばしながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのT君には一人のガ-ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとしなかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。が、やがて卒業式が近づいてきた。

 T君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そのT君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニ-は……」と。喉の奥から絞り出すような声だった。「ジェニ-は42歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、夫から訴えられている」と。

 そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのT君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教授の部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。

 田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。教授はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、T君がマレ-シアで処刑されたと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

 この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでT君が生きているとしたら、それはそれですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、T君は、マレ-シアで、1980年ごろ処刑されている。T君は大学を卒業すると同時に、ジェニ-とクアラルンプ-ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。

 しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をしてみたが、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、見つけた新聞記事によるものだ。

 その後、T君は、マレ-シアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポ-ルの墓地に埋葬されているという。

 田丸教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼に出会ってからというもの、「私は日本人だ」と言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きている。

*Maternal Infant Bond

●スキンシップ

+++++++++++++++++

とんでもない育児論が、
堂々とまかり通っている!

赤ちゃんを抱くと、抱き癖がつくから、
抱いてはダメだ、と!

さらに「抱き癖がつくと、子どもに
依存性がつく」と教える育児書もある。

「抱き癖」と「依存性」は、まったく
別のもの。

そんな区別もつかない人が、
空想だけでモノを書いている?

????

+++++++++++++++++

 母子間のスキンシップが、いかに重要なものであるかは、今さら、言うまでもない。このスキンシップが、子どもの豊かな心を育てる基礎になる。

 が、中に、「抱き癖がつくから、ダメ」「依存性がつくから、ダメ」というような、「?」な理由により、子どもを抱かない親がいる。とんでもない誤解である。

 スキンシップには、未解明の不思議な力がある。魔法のパワーと言ってもよい。「未解明」というのは、経験的にはわかっているが、科学的には、まだ証明されていないという意味である。そのことは、反対に、そのスキンシップが不足している子どもを見れば、わかる。

 もう20年ほど前になるだろうか。大阪に住む小児科医の柳沢医師が、「サイレント・ベイビー」という言葉を使った。

 (1)笑わない、(2)泣かない、(3)目を合わせない、(4)赤ちゃんらしさがない子どものことを、サイレント・ベイビーという(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 幼児教育の世界にも、表情のない子どもが、目立ち始めている。喜怒哀楽という「情」の表現ができない子どもである。特徴としては、顔に膜がかかったようになる。中には能面のように無表情な子どもさえいる。

 軽重もあるが、私の印象では、約20%前後の子どもが、そうではないか。

 印象に残っている女児に、Sさん(年長児)がいた。Sさんは、いつも、ここでいう能面のように無表情な子どもだった。うれしいときも、悲しいときも、表情は、そのまま。そのままというより、こわばったまま。涙がスーッと流れているのを見てはじめて、私はSさんが、泣いていることがわかったこともある。

 Sさんの両親に会って話を聞くと、こう教えてくれた。

 「うちは、水商売(市内でバーを経営)でしょ。だから、生まれたときからすぐ、保育園へ預けました。夜も相手をしてやることができませんでした」と。

 わかりやすく言えば、スキンシップらしいスキンシップなしで、Sさんは、育てられたということになる。

 子ども、とくに乳児は、泣くことによって、自分の意思を表現する。その泣くことすらしないとしたら、乳児は、どうやって、自分の意思を表現することができるというのか。それだけではない。

 母子間の濃密なスキンシップが、乳児の免疫機能を高めることも、最近の研究でわかってきた。これを「免疫応答」というが、それによって、乳児の血中の、TおよびBリンパ球、大食細胞を活性化させるという。 

さらに乳児のみならず、母親にも大きな影響を与えることがわかってきた。たとえば乳児が、母親に甘えたり、泣いたりすることによって、母親の乳を出すホルモン(プロラクチンなど)が刺激され、より乳が出るようになるという。

 こうした一連の相互作用を、「母子相互作用(Maternal infant bond)」という。

 まだ、ある。

 私も経験しているが、子どもを抱いているとき、しばらくすると、子どもの呼吸と心拍数が、自分のそれと同調(シンクロナイズ)することがある。呼吸のほうは無意識に親のほうが、子どもに合わせているのかもしれないが、心拍数となると、そうはいかない。何か別の作用が働いていると考えるのが、妥当である。

が、そこまで極端ではなくても、母子の間では、体や心の動きが、同調するという現象が、よく見られる。母子が、同じように体を動かしたり、同じように思ったりする。たとえば母親が体を丸めて、右を向いて眠っていたりすると、乳児のほうも、体を丸めて、右を向いて眠っていたりする。こうした現象を、「体動同期現象」という言葉を使って説明する学者もいる。

 こうした人間が、生物としてもっている性質というのは、あるべき関係の中で、あるべきように育てたとき、子どもの中から、引き出される。たとえば赤ちゃんが泣いたとする。するとそのとき、そのかわいさに心を動かされ、母親は、赤ちゃんを抱いたりする。それがスキンシップである。

 もちろん抱き癖の問題もある。しかしそういうときは、こう覚えておくとよい。『求めてきたときが、与えどき』『求めてきたら、すかさず応ずる』と。親のほうからベタベタとするのはよくないが(※)、しかし子どものほうから求めてきたら、すかさず、それに応じてやる。間を置かない。そしてぐいと力を入れて抱く。

 しばらくすると、子どものほうから体を離すしぐさを見せる。そうしたら、水の中に小魚を放す要領で、そっと体を離す。

 なお母乳を与えるという行為は、そのスキンシップの第一と考えてよい。いろいろと事情がある母親もいるだろうが、できるだけ母乳で、子どもは育てる。それが子どもの豊かな心をはぐくむ。
(はやし浩司 抱き癖 抱きグセ サイレント・ベイビー 子どもの表情 無表情な子供 母子相互作用 免疫応答 プロラクチン はやし浩司 体動同調 子供の抱き方 スキンシップ)

【補記※】

 母親のほうが、自分の情緒不安を解消する手だてとして、子どもにベタベタするケースもある。でき愛ママと言われる母親が、よく、そうする。そういうのは、ここでいうスキンシップとは、分けて考える。

*To Lose is to get Something

【金銭的価値観】

●損の哲学

++++++++++++++++++

私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。

私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。

が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。

つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!

+++++++++++++++++++

●失った鑑賞能力

 ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべきことである。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよんだら、さらに悲しむべきことである。

 テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、それぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという番組である。

 ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作品から、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござれ! が、私には、苦い経験がある。

 私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だった。そのころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもないが、おとなになると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるようになった。それはある意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。

 最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、カトラン、ピカソ……とつづいた。

 が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。このリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラフ)ほど、よい絵であり、価値があると思いこむようになった。

 しかしこれはとんでもないまちがいだった。

 だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって決まる。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、ほとんど知られていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、この日本でのみ通用する、作られた価値であることを知った。

 つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、うまく宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」とか、何とか宣伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、ごく当たり前のようになされている。

 が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!

 そういううらみがある。そのうらみは、大きい。

 その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心というのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、値段を見て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段が安かったりすると、その絵画から目をそらしてしまう。

 私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。

●損をすることの重要さ 

 お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお金では、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。

 それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。

 そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということは、それ自体が、人生、最大の命題といってもよい。

 そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。もちろん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重ねていくと、やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるようになる。ときに、その人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。

 損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかしそのボランティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。

 反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お金……」と生きている人たちである。

 そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。

●お金に毒された社会

 話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってしまっている。とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまった。

 その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、ものにおよばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてその幸福感も、相対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小さな車に乗っているから、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするようになってしまった。

 それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。反対に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ幸福感まで、金銭的な尺度で判断してしまう。

 そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわけではない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組となる。

 が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組によって、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうして日本人の心は、ますます毒されていく。

司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。

 ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はどうなるか? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレビ番組が嫌いな理由でもある。

 今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言われている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、そのときでさえも、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。

 それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして何ら恥じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになってしまった。意識というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒されると、自分がもっている意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そして本来、価値のないものを価値あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるものと思いこむ。そして結局は、自分の感性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にする。

 だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこの世界では、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。

 損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 金権教 金万能主義 カルト)

*Believers in Money

●「金権教」というカルト(Money is Everything.)
Most of us believe that money is everything, some consciously and some unconsciously. But it is a kind of cult (or sect), or we would know it when we are involved in it. So I call it “Money-ism”, or “Money Cult”.

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私はカルト(狂信的な信仰)とは無縁と
思っている人でも、ちょっと、待ってほしい。
そういう人でも、無数のカルトを信仰している。

学歴信仰に始まって、親絶対教、学校神話、男尊女卑思想、
家父長意識、民族主義に国粋主義などなど。

人は、ひとつのことを信仰することによって、思考を放棄することができる。
それは同時に、たいへん甘美な世界でもある。

思考、つまり(考えること)には、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。
カルトを信仰することによって、その苦痛から、自らを解放することができる。
過去や世俗的習慣を踏襲するのも、そのひとつ。
「昔はこうだった」「みなは、こうしている」と。

金権教について、考えてみたい。
……といっても、どんなカルトでもそうだが、
その中にいる人には、自分のおかしさがわからない。

そのおかしさを知るためには、一度、そのカルトの外に出てみなければならない。
あるいは、やめてみる。
長い間、カルト信仰をしてきたある女性(当時、45歳くらい)は、こう言った。

「退会してみて、はじめて、おかしさがわかった」と。

金権教もそうである。

たまたま現在、隣の中国が、20年前、30年前の日本を再現している。
何もかも、マネー、マネー、一色。
少し前だが、こんな話を、何かの雑誌で読んだことがある。

あるところで、1人の少年が川に落ちて、溺れた。
少年の母親は、まわりの人に、助けを求めた。
狂乱状態だったという。
それを見ていた一人の男性が、こう言ったという。
「~~元、出せ。そしたら助けてやる」と。
金額は、忘れた。

戦後の日本も、ひどかった。
が、しかしそこまでは、ひどくなかった。
(……と信じたい。似たような話はあるが……。)
それにしても、溺れる子どもを横目に、金額交渉とは!

心もマネーに毒されると、人は、そこまで言うようになる。
そのおかしさは、日本人の私たちには、よくわかる。
しかし当の中国の人たちには、わからない。

こうした「金と権力がすべて」という世界を、金権教という。
かなり宗教的な色彩が濃いから、「金権教」と呼ぶ。

その金権教の信者は、少なくない。

医師、弁護士に始まって、教師、役人、職人、はては牧師に僧侶にいたるまで。
職種に、関係ない。

しかし自分が金権教の信者であることに気づいている人は、少ない。
が、それを知る方法が、ないわけではない。

(1) 金銭的な利益のある仕事だけをする。利益第一主義。
(2) 金銭的に損な仕事はしない。ボランティア活動をしない。
(3) 貧しい人を、いつも(下)に見る。人の価値を財産で決める。
(4) 損得勘定に敏感である。計算高い。
(5) とくに損をしたとき、過剰なまでに反応する。落胆する。
(6) 「信じられるのは、金だけ」を、よく口にする。
(7) 仕事(=金儲け)中心主義で、家族、家庭を犠牲にしても平気。
(8) 周囲の人間を、平気で利用する。その分だけ、いつも孤独。

これらの項目のうち、ほぼすべてが当てはまれば、金権教の信者と考えてよい。
もちろん程度の差もあるが……。

が、その金権教も、やがていつか、行きづまる。
短期的には、事業が失敗したとき。
長期的には、加齢による事業の縮小など。
そういったとき、マネーという本尊が、(イワシの頭)だったことを、思い知らされる。

カルトがこわいのは、ここから。
それを信じている間は、カルトは、その人を側面から支える。
生きる目標になることもある。
しかしそれを疑ったとたん、その人は、その内部から崩壊する。
「自己否定」という言葉があるが、それに近い状態になる。
「私は、何だったのか」と。
それまでの人生が無意味だったことを、思い知らされる。
とたん、大混乱に陥る。

こういうケースのばあい、つぎの2つから、進むべき道を選ぶ。

(1) そのまま金権教に固執する。
(2) 新たな価値観を模索する。

このどちらでもないとなると、そこで待っているのは、「破滅」。
自殺という手段を取る人もいるが、それは論外。

こういうケースがある。

あるところに、手かざしで、病気を治すと教えている教団があった。
「手かざし」というのは、患部に手をかざして、病気を治すことをいう。
N氏夫婦は、その教団の熱心な信者だった。
で、あるとき、N氏の長男が、腹痛を訴えた。
(あとで盲腸炎だったということがわかったが……。)
N氏は、長男を病院へ連れていかなかった。
手かざしで治してみせると、がんばった。
しかし長男は、そのまま死んでしまった。
いや、最後の最後のところで、病院へ運ばれたが、そのときは手遅れだった。

こういうケースのばあい、「私たちの信仰はまちがっていました」と認めることは、
自分の子どもを、自分たちで殺してしまったことを認めることに等しい。

実際、N氏夫婦は、そのあと、ますますその信仰にのめりこんでいった。
またそれしか進むべき道がなかった。

……金権教にも、似たようなケースがある。
これは金権教で破滅した、ある男性の話である。

K氏は、昔からの資産家の二男だった。
長男の兄と2人で、事業を起こした。
建売を専門とする、建築会社だった。
高度成長期の、あの波に乗り、事業はトントン拍子で拡大した。
K氏は、有頂天になった。
毎晩、札束を切りながら、豪遊に豪遊を重ねた。

が、そのころから兄(=長男)との折りあいが悪くなった。
利益の配分をめぐっての、争いがつづいた。

そこで会社を2分することにした。
建設部門を兄が、不動産部門を二男のK氏が引き継いだ。

が、とたん、あのバブル経済がはじけた。
K氏は破産。
無一文になった。

その後、1年ほどの期間があったが、私が再びK氏の消息を聞いたときには、
K氏は、精神病院に長期入院しているということだった。
その1年間に、何があったか、それを想像するのは難しくない。
妻とは離婚。2人の娘がいたが、2人とも兄の家に引き取られていた。
人伝えに聞くところによると、「想像を絶する、家庭内騒動がつづいた」とのこと。

金権教の信者の末路(失礼!)は、あわれ。
マネーの切れ目が、人生の終わり。
そうなる。

が、これは、何も特別な人たちだけの問題ではない。
先にも書いたように、「程度の差」こそあれ、みなの問題と考えてよい。
ほとんどの人が、それを信じている。
「信じている」という意識がないまま、信じている。

私自身もそうだったし、今もそうかもしれない。
いつも心のどこかで、それと戦っている。

しかし金権教は、カルト。
宗教で教えるような教義など、どこにもない。
つまりは、人間が本能的にもつ(欲望)と深く、からみあっている。
欲望そのものかもしれない。
だから余計に、タチが悪い。

しかし、これだけは言える。
マネーで幸福は買えない。
しかしマネーがないと、人は、不幸になる。
それはわかる。
が、その一方で、マネーに毒されると、人生そのものを棒に振る。
仮に金持ちのまま終わったとしても、だ。

一度、勇気を出して、自分の心の中をのぞいてみるとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 金権教 金万能主義 カルト)

Sunday, March 23, 2008

*With Eiichi Hayashi at Takatsuka Station on March 22nd 2008

●浜松市郊外の様子(引佐町にて撮影)March 22nd
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●息子のEと、浜松市高塚駅で、アメリカへ旅立つ前に(3月22日)
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●家族の記念撮影(3月22日)
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*Internet Poisoning

●ネット中毒(Internet poisoning)
According to the newspaper of today, about 210000 young people (6-19 years old) in Korea are under the condition they need some kind of medical treatment for the internet poisoning.

韓国の東亜N報が、こんな記事を載せている(08年3月24日)。

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米オレゴン健康科学大学のジェラルド・ブロック博士は、
米精神科学会誌の3月号のコラムで、「インターネット中毒は、
精神障害診断マニュアル(DSM―V)に含まれるべきだ」
という韓国青少年保護委員会の昨年のシンポジウム資料などを引用して、
韓国の事例を紹介した。

ブロック博士は、「韓国ではインターネットカフェでの10件の
心肺関連死亡事故や、1件のゲーム関連殺人事件が起きた後、
インターネット中毒を最も深刻な公衆保健問題と思うようになった」と述べ、
「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、190の病院や治療センターが
学校と連携をとっている」と紹介した。

同氏はまた、「韓国政府の資料によれば、6~19歳の青少年のうち約21万人が、
(インターネットのため)苦しんでおり、治療が必要だ」と述べ、
「そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20~40%は、
入院や治療が必要かもしれない」と明らかにした。

ブロック博士はまた、「韓国の高校生たちは1週間に平均23時間を
ゲームに費やし、(現在のインターネット中毒者のほか)、120万人ぐらいが
追加で中毒になりかねない危険性をはらんでいるという」と紹介した。

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日本での調査はないが、この日本でも、事態は、同じようなものと思ってよい。
死亡事故や関連殺人事件が、起きてからでは遅い。早急に、日本でも対策を
立てるべきではないのか。

韓国の状況を、もう一度、整理してみる。

(1) 6~19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である。
(2) そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20~40%は、
入院や治療が必要と推定される。
(3)そのため韓国には、「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、
190の病院や治療センターが学校と連携をとっている

あまりよく知られていないが、この日本では、テレビゲームを批判しただけで、
たいへんなことになる。抗議の嵐が殺到する。私自身も、経験している。

テレビゲームそのものが、カルト化している。常識で考えれば、おかしなことだが、
その常識が狂い始めている。テレビゲームといっても、それに没頭している人に
とっては、ただのゲームではない。

だから「6~19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である」と
いっても、その治療を求めているのは、当の青少年たちではない。恐らく、これらの
青少年たちは、治療そのものを、がんこに拒否するはず。

自分がおかしいという認識(=病識)すら、ない。

もちろんインターネット、イコール、ゲームということではない。
反対に、ゲーム、イコール、インターネットということでもない。

さらに言えば、たとえば「検査で正常である」と診断されたからといって、
「問題ない」ということでもない。
テレビゲームを指示する学者たちは、「検査」という言葉をよく使う。
ゲーム脳を否定する学者もいるが、彼らは決まってこう言う。
「検査してみたが、どこにも異常は見られない」と。

しかし教育の現場では、少しちがった見方をする。子どもの微妙な変化をとらえて、
おかしいと言う。様子や行動を観察して、「おかしい」と言う。
それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

子どもの世界では、常に、『疑わしきは、罰する』。
先手、先手で守ってこそ、はじめて、子どもの世界を守ることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳、ネット中毒、インターネット中毒)

Father returns to his Child

●子は父になる(A Child becomes a Father and the Father returns a Child.)

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スーパーマン・リターンズ(最新作)の最後で、スーパーマンは、
こう言う。

『子は父になり、父は、子に還(かえ)る』と。

父親というのが何であるかと問われれば、この一言に尽きる。
私たちは子どもからおとなになり、家庭をもち、子どもをもうける。
その子どもも、やがておとなになり、父親になる。

そのとき、私という(父親)は、父親としての役目を終えるのではない。
私という(父親)は、最後の仕上げとして、子どもたちの中に、
自分の命を伝える。心を伝える。生きざまを伝える。

こうして私は自分の命を、私の父親から引き継いだ命を、子に伝え、
子は、さらにその子へとつなげていく……。

『子は父になり、父は、子に還(かえ)る』。

この言葉については、いろいろな解釈のし方があるだろうが、今の私は、
そう思う。

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目が見える。
音が聞こえる。
春の風を肌で感ずることができる。
私は、今、ここにいて、そして生きている。

その確かな実感こそが、私が今、生きているという証(あかし)。

昨夜、ワイフが布団(ふとん)の中で、こう聞いた。
「あなたは、何のために生きているの?」と。

私は、ある医師の話をした。
その医師は、記者のインタビューに答えて、こう言った。

「私は、どうせ死ぬなら、がんで死にたい。
脳出血や心筋梗塞で死ぬのはいやだ。

がんだったら、死ぬまでに、しばらくの時間的猶予がある。
その間に、最後にやり残した仕事をすべてする」と。

私「どうせ死ぬなら、がんで死ぬ方がいいという意見は、はじめて聞いた」
ワ「自分が、この世界に生きてきたという証(あかし)を残すためにかしら?」
私「どうも、それだけではないような気がする。もしそうなら、墓石を残せばいい」
ワ「じゃあ、何かしら……」と。

話はそれるが、老年期の入り口に立ってみて、ひとつ気がついたことがある。
つまりその入り口というのは、夢や希望に満ちた、明るい通路への入り口ではない。
その先は、細く、暗闇に包まれた通路への入り口である。
夢や希望など、もちようもない。
またもったとしても、そのままつぎの瞬間には消えてしまう。

このスイッチング(転換)をどうするか?

そういう意味で、今、子育てで夢中になっている人は、まだ救われる。
自分が年老いているという(現実)を、忘れることができる。
が、その子育てが終わったとたん、そこに待っているのは、(老後)。
その老後が突然、目の前に、パッと姿を現す。

多くの人は、そこであわてふためく。狼狽(ろうばい)する。取り乱す。
その先に見える世界は、今まで生きてきた世界とは、まるでちがう。
ちがうから、そこでそれまでの自分の生きざまを、変えなければならない。
が、しかしそんな生きざまなど、どこにも用意していない。
変えようにも、変えようがない。
ないから、ここに書いたように、あわてふためく。

そこでほとんどの人は、その時点で、老後のあり方を模索し始める。
「どう、生きたらいいのか」「どう、生きるべきなのか」と。

しかし同時に、それは(空しさ)との闘いでもある。

享楽的な生き方が、その人の心の隙間を埋めるということは、ありえない。
庭いじりも結構。孫の世話も結構。旅行するのも、これまた結構。
しかしそんなことを繰りかえしたところで、かえってみじめになるだけ。
もっとはっきり言えば、時間の無駄。
刻一刻と、砂時計の砂がこぼれ落ちていくように、時間だけは過ぎていく。

そんな中、息子たちのニュースが、私を励ましてくれる。

私「おかしなことだが、息子たちが、私のできなかったことを、つぎつぎとしてくれる」
ワ「私も、それを感じているわ」
私「だろ……。ぼくは中学生のころには、パイロットにあこがれた」
ワ「どうしてパイロットを目指さなかったの?」
私「メガネをかける人は、パイロットになれないと聞かされて、あきらめた」

ワ「若い人は、みな、パイロットという職業に、あこがれるわよ」
私「かもしれない……。でもね、今度デニーズが弁護士になると聞いて、ほんとうに
うれしかった」
ワ「それも、そうね。どこかであなたの(命)が、子どもたちに伝わっているみたい」
私「そうなんだよ。そこが不思議なところなんだよ」
ワ「子どもたちは、いつの間にか、あなたの影響を受けていたのね」

私「うん……。E(三男)も、外国に住みたいと言い出したしね」
ワ「それも、あなたができなかったことよね」
私「……できなかった。勇気がなかったのかな……?」と。

そのとき私は、ふと、私の(命)が、息子たちに伝わっているのを感じた。
肉体は別々だが、私自身が、もっと大きな(命の流れ)というか、
そういうものの中にいるように感じた。

何も、私という(肉体)にこだわることはない。
所詮、この世界は、光と分子の織りなす世界。
実体があるようで、その実、それはどこにもない。

もちろんだからといって、息子たちの人生イコール、私の人生というわけではない。
私は、どこまでいっても、私。
息子たちの人生は、息子たちのもの。

私「ぼくのもつ価値観というのは、あまりにも金銭的な欲得に、毒されすぎている」
ワ「カルトのようなものよ。戦後生まれの人たちは、徹底的にそう洗脳されているから」
私「そう。その人の金銭感覚は、年長児から小学1、2年生ごろには完成する」
ワ「それを、ずっと引きずっているわけね」
私「その価値観を、どうやって、打ち崩したらいいんだろう?」

ワ「へたに崩せば、かえって混乱してしまうわね」
私「そう、仏教はいやだから、今度からキリスト教にしますというわけには、いかない」
ワ「カルト教団から抜け出た人を知っているけど、かえって精神不安になってしまったわ」
私「ハハハ、今のぼくがそうかもしれないよ」
ワ「それも困るわ」と。

……とまあ、今しばらく、この混乱は、つづきそう。
私自身も、この先、どうなるか、よくわからない。
「混乱の最中」とまではいかないにしても、混迷している。
ただもし今、「何をすべきか?」と聞かれたら、私は、こう答えるだろう。

「ともかくも懸命に生きてみる。そこに何があるかわからないが、何かがあると
信じて、懸命に生きてみる。今でもそうしてきたし、これからも、そうする」と。

きっと、その先で、何か答が見つかるだろう。今は、それを信ずるしかない。

……しばらくしてからワイフに声をかけてみたが、返事はなかった。
私もそのまま眠気に、心を任せた。

March 23rd, my son has gone back to Narita

●そして日曜日(3月23日)(Sunday, March 23rd)
Eiichi has gone back to Narita and he is to leave Japan for Napa, Calif. This coming April to have intense training of flight. We saw him off at the near-by station.

三男が、中部国際空港から、成田へ帰った。
ワイフと2人で、近くの駅で見送った。
少し、さみしかった。
つぎに会えるのは、今年の終わり。

「サンフランシスコへ来たら、飛行機に乗せて
あげるよ」と言ってくれた。

三男は、事業者用航空免許をもっている。
アメリカでも、そのまま使えるという。

一度、家に帰ってから、センターの母を見舞う。
今は、個室で、小康状態を保っている。

私たちは、その足で、そのまま山荘へ。

春の匂いが、若葉の上を漂っていた。
「モクレンの匂いだ」と言うと、
ワイフが花の中に、顔を入れた。
「いい匂いね」
「いい匂いだね」と。

昼ご飯を食べて、音楽を聴く。
レモンとキンカンを収穫する。
椅子に寝そべる。また音楽を聴く。

ちょうどそのとき、薄曇りの空を、一機の大型飛行機が、
通過した。
まっすぐな飛行機雲を、うしろに、たなびかせていた。。
飛行機雲は、ほぼ真西から真東に延びていた。
その先端に、白い機影。

時計を見ると、午後2時15分。
三男は、午後2時発の飛行機に乗ったはず。

「あの飛行機、Eが乗っているよ」
「そうね」と。

私は窓際に立って、手を振った。
「Eよ、元気でナ……」と言いかけたが、
最後のところで、のどがつまって、声にならなかった。

しばらく私は、空を見あげていた。

ワイフが、「今日はパソコンショップへ寄らないの?」と。
「今日は、いい」と、私は答えた。

ところで、二男の転居先が決まった。

今度は、ブルーミングトンという町らしい。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「Bloomington is a city in south central Indiana.
Located about 50 miles southwest of Indianapolis,
it is the seat of Monroe County.」
(ブルーミングトンは、インディアナ中央南部の町。
インディアナポリスから。南西に50マイルに位置する。
それはモンロー郡の行政所在地である。)

日本にいる私から見ると、アーカンソー州も、インディアナ州も、
隣り町のようなもの。

インディアナポリスから50マイル(約80キロ)といっても、
向こうの人たちにとっては、ショッピング範囲。

それはわかるが、デニーズは、毎日、その距離を、
大学まで通うことになる。
「だいじょうぶかな?」と、今ふと、そう思った。

Saturday, March 22, 2008

*Good Saturaday!

●よき日、3月22日(土曜日)(Spring has come!)

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今日は、三男とワイフと3人で、
ペンダント作りに挑戦してみた。
舘山寺の温泉街の一角に、それを
体験させてくれる店がある。

そこへ行った。

三男が作るのを見ながら、私は、
ワイフのために、1個作った。

午後からは、家に帰り、長男と、
ビデオ談義。
長男の制作したビデオを見ながら、
ああでもない、こうでもない、と。

夕食は、お好み焼き。それに三男が
料理した、スパゲッティ。
みんなで食べた。

おいしかった。
楽しかった。
久々に、家族の温もりを感じた。

ところで二男夫婦が、今度、
インディアナ州のインディアナポリスへ
引っ越すことになった。

スーパーマンの本拠地は、
インディアナポリス(市)。
関係ないかな?
それとも関係あるのかな?

あとで調べてみる。

インディアナ州へ引っ越すのは、
嫁のデニーズのインディアナ大学への
入学が決まったため。

二男は、しばらく(主夫業)をする
かもしれないという。
妻は大学通い。夫は、子育て。
だから主夫業!

私はそれに賛成した。
「お金は(=生活費は)?」と聞くと、
貯金で何とか、まかなえるとのこと。

ここはLAW SCHOOLへの入学が
決まった、デニーズの勉学が最優先。

とにかくすごいことを、デニーズは、
してくれた!

いつか二男は、デニーズの法律事務所で、
事務員として働くようになるかもしれない。
仕事は、夫婦で力を合わせてするのが、
一番よい。

ふと頭のどこかで、そんなことを考えた。

息子たちよ、嫁と、そして孫たちよ、
いつも私とワイフに、夢をくれてありがとう。
励ましてくれて、ありがとう。

(このところ、何かと落ちこむことが多くて、ね。)

二男は、明日、一度、成田に戻り、
4月7日に、カルフォニア州のNAPAに
転勤することになっている。

しばらく会えないが、しかたない。

……どこか私まで、心がウキウキしてくる。
ああ、もうすぐ春ですねエ~~。

もう春かな?

(追記)

インディアナポリス市(Indianapolis)について、市のHPには、
つぎのようにある。

「アメリカのどの州よりもハイウェーが集中して交差していることから、
『アメリカの十字路(Crossroads of America)』と呼ばれている。
インディアナ州の州都が、インディアナポリス。
世界的に有名なスピード・イベント、『インディー500』で
よく知られているこの街は、プロ&アマチュアスポーツキャピタルと
言っても過言ではないほど。バスケットボール(NBA)のペイサーズや
アメリカンフットボール(NFL)のコルツ等、手に汗にぎるスポーツ
観戦を満喫できます。また、近代的な都市インディアナポリスから
少々車を走らせると、そこはもう別世界。コーン畑や大豆畑が一面に
広がります」と。

やはりスーパーマンの本拠地だった!

こんど「スーパーマン」の映画を、もう一度、見てみよう。

Friday, March 21, 2008

*Diary from March 21st, 2008

【3月21日】

●離婚問題(Divorce for My Case)

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恐る恐る、聞いた。
とうとう、聞いた。

「お前なあ、ぼくと別れたいなら、別れてやってもいいよ。
いろいろ苦労もかけたし……。
ぼくのほうが、この家を出ていっても、いいんだよ」と。

するとワイフは、こう言った。

「何、言っているのよ。
私は、そんなこと、ゼンゼン、考えてないわよ」と。

私「ゼンゼンって?」
ワ「あなた、どうかしてるんじゃない、ない? そういうふうに考えるのは、
うつ病だからじゃ、ない?」
私「でも、お前って、そういう雰囲気をもっているよ」
ワ「ないわよ……」
私「だってさあ、結婚なんて、こりごりとか、そういうふうに言うじゃない」
ワ「そりゃあ、そういうふうに言うこともあるけど、そのときは、そのときよ」と。

ホ~~~ッ! クビがつながった?

熟年離婚というのは、私の年代の男たちにとっては、深刻な問題。
ほとんどのばあい、夫である男たちが気がつかないところで、
妻である女のほうが、先に心の準備を始めてしまう。

で、ある日、突然、妻の方から、別れ話を切り出される。
夫のほうが、狼狽(ろうばい)する。うろたえる。

まあ、夫のほうがビクビクしながら生きるのも、よいのではないか。
つまりワイフの前では、夫たるもの、それくらい謙虚に生きた方がよい。

私「ぼくね、お前に離婚されたら、ひとりぼっちになってしまうよ」
ワ「わかっているわよ。あなたって、かわいそうな人ね」
私「うん」と。

今しばらくは、私の家庭も、安泰なようだ。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●新製品(iPod Touch)

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S社のW-マンを買って、数か月になる。
で、たまたまパソコンショップへ足を運んでみると、
そこにA社の、iPod Touchというのが目にとまった。

何となくすごいとは思っていたが、これほど、すごいものだとは、
思っていなかった。

三男がたまたま帰省していたので、「買ってあげようか?」と
声をかけると、英語式に、「Thank you」と。

それでそれを買ってやった。
メモリーは、(8GB)のでよいと言ったので、それにした。

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いったい、この世界は、どこまで進歩するのだ!

こんどのiPod Touch は、YOU TUBEをそのまま
ダンロードできる。インターネットの端末機としても、
もちろんそのまま使える。

驚いたことに、世界の地図が、まるごと、そのまま入っている。
1時間ほど、さわらせてもらったが、驚きの連続。

フ~~ン、ヘ~~エ、と。

大きな画面で、タッチ操作できるところも、すばらしい。
軽くトントンと2度たたくと、画面が拡大されたり、
あるいは2本の指で、画面をはさむようにこすると、
縮小したりする。

S社には悪いが、これでは勝ち目はない。
デザインも、劣る。
改めて、自分のW―マンをながめる。
そしてこう思った。

「かつての日本は、こういうヒット作を、つぎつぎと売り出し、
現在の地位を確立した。その元気は、どこへ消えたのか」と。

タッチパネルにしても、もとはといえば、日本の技術者の
発明である。

「ぼくもほしいなあ」と思ったところで、おしまい。
今しばらくは、W-マンを使うしかない。

心のどこかで引け目を感じながら……。


●若い人たちのBLOG

このところよく若い人たちのBLOGを読む。
参考になる。おもしろい。

「そういうものでもないんだがなあ」と思う半面、
同時に、「私も若いころは、そうだったなあ」と思う。

若い人たちは若い人たちなりに、懸命に模索している。
そこにある何かをつかもうと、がんばっている。

一方、私について書いているBLOGも、ある。
数年前までは、そういうのを読むのが、こわかった。
できるだけ読まないようにしていた。

が、最近は、一歩退いて、醒(さ)めた目で読むことが
できるようになった。

もちろん中には、私のことをボロクサに書いているのもある。
「まだ、あのオッサン、がんばっているようだな」とか、何とか。
私が書いた「ポケモン・カルト」が、よほど気にくわなかったらしい。

しかしそれも、一面。
そういう一面が無数に集まって、今の私がある。
そこは謙虚に反省しよう。

ところでその「ポケモン・カルト」だが、あの本は、ポケモンという
ゲームを通して、人間がもつカルト性を問題にしたもの。
ポケモンそのものは、コミック雑誌の主人公にすぎない。

その本の冒頭の部分を紹介しよう。

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●はびこるカルト信仰

 ある有名なロックバンドのHという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を中心に、3~4名の若者があと追い自殺をした。家族によって闇から闇へと隠された自殺者は、もっと多い。自殺をする人にはそれなりの人生観があり、また理由があってそうするのだろうから、私のような部外者がとやかく言っても始まらない。しかしそれがもし、あなたの子どもだとしたら……。

 1997年の3月、ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件がアメリカで起きた。「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。結果、39人の若者が犠牲になった。

この種の事件でよく知られている事件に、1978年にガイアナで起きた人民寺院信徒による集団自殺事件がある。

この事件では、何と914名もの信者が犠牲になっている。なぜこんな忌まわしい事件が起きたのか。また起きるのか。「日本ではこんな事件は起きない」と考えるのは早計である。子どもたちの世界にも大きな異変が起きつつある。現実と空想の混濁が、それである。

あの「たまごっち」にしても、あれはただのゲームではない。あの不可解な生きもの(?)が死んだだけで、大泣きする子どもはいくらでもいた。そして驚くなかれ、当時は、あのたまごっちを供養するための専門の寺まであった。ウソや冗談で供養しているのではない。本気だ。本気で供養していた。中には手を合わせて、涙を流しているおとなもいた(NHK『電脳の果て』)。

さらに最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。今はまだ娯楽の範囲だからよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもったらどうなるか。

仮にポケモンのサトシが、「子どもたちよ、21世紀は暗い。一緒に死のう」と言えば、それに従ってしまう子どもが続出するかもしれない。そうなれば、言論の自由だ、表現の自由だなどと、のんきなことを言ってはおれない。あと追い自殺した若者たちは、その延長線上にいるにすぎない。

 さて世紀末。旧ソ連崩壊のときロシアで。旧東ドイツ崩壊のときドイツで、それぞれカルト教団が急速に勢力を伸ばした。社会情勢が不安定になり、人々が心のよりどころをなくしたとき、こうしたカルト教団が急速に勢力を伸ばす。終戦直後の日本がそうだったが、最近でも、経済危機や環境問題、食糧問題にかこつけて、急速に勢力を拡大しているカルト教団がある。

あやしげなパワーや念力、超能力を売りものにしている。「金持ちになれる」とか「地球が滅亡するときには、天国へ入れる」とか教えるカルト教団もある。

フランスやベルギーでは、国をあげてこうしたカルト教団への監視を強めているが、この日本ではまったくの野放し。果たしてこのままでよいのか。子どもたちの未来は、本当に安全なのか。あるいはあなた自身はだいじょうぶなのか。あなたの子どもが犠牲者になってからでは遅い。このあたりで一度、腰を落ちつけて、子どもの世界をじっくりとながめてみてほしい。

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これだけ読んでもらっても、「ポケモン・カルト」の本旨というか、
書いた目的がわかってもらえるはず。

が、その読解力もない(?)。

この種の読者は、(ポケモンを批判された)ことを、そのまま(自分が
否定された)と勘違いしてしまうらしい。
あるいはタイトルしか、読んでいない?
もう少し中身までじっくりと読んで、その上で、批評してほしかった。

ともかくも、先ほども、いくつかのBLOGをのぞいてみた。
おもしろかったのは、ある女性の書いている料理レシピのBLOG。

「なかなかおいしそうだな」と感心して、そのBLOGを閉じようとして、
そのとき気づいた。

表題に、「ワンちゃんのレシピ」と書いてあった。
何と、ペットの犬の料理法について書いたBLOGだった!

「みんな、一生懸命なんだなあ」と思って、今度はほんとうにそのまま
そのBLOGを閉じた。

*What is Family to each Man?

【家族】(Spellbinding of Family)
Family works as a home base for each man, but also it works as a burden for each man in case its relationship is collapsed.

●家族がもつ二面性

常に「家族」には、二面性がともなう。
「家族のためにがんばる」というのが、正の自我群。
「家族であるがゆえに、追いつめられる」というのが、負の自我群。
発達心理学的に言えば、正の自我群というのは、その人を前向きに
引っ張る。
そういう意味で、強化の自我群と表現できる。

一方、負の自我群というのは、それ自体が大きなストレスとなって、
その人を後ろ向きに引っ張る。
そういう意味で、弱化の自我群と表現できる。

「正の自我群」「負の自我群」「強化の自我群」「弱化の自我群」という名称は
私が考えた。どこかで同じ文句を見られた人は、はやし浩司からのパクリと
思ってほしい。(ついでに連絡もしてほしい。)

ところで、どうして「群」という文字をつけるのか?
つまりそれだけ親子の関係が、複雑であることによる。
もろもろの要素が複雑にかみあって、「群」を形成する。
その群、つまりかたまりが、その人の心に影響を与える。
けっして、単純ではない。

同じ自我群でも、正になったり、負になったりする。
そのポイントは、つまるところ、人間関係によって決まる。
良好な人間関係が成立していれば、同じ自我群でも、「正の自我群」となる。
家族の犠牲になりながらも、むしろそれを楽しむことができる。

反対に、ひとたびその人間関係が崩れると、
同じ自我群でも、「負の自我群」となる。
ささいなことでも、大きなストレスとなって、その人を苦しめる。

夫婦関係、親子関係、兄弟関係、親戚関係、すべてについて、そうである。

●ある騒動

正の自我群はともかくも、負の自我群については、どうするか?

私のばあい、「時間」という視点から、こう考えるようにしている。
つまり楽しく過ごすのも、人生。
いやな思いをして過ごすのも、人生。
その人生には、時間という限りがある。
言うなれば、時間というのは、金の砂時計のようなもの。
お金に換算するのは正しくないかもしれないが、へたな遺産より、
はるかに価値がある。それに尊い。

どうせ過ごすなら、楽しく過ごしたほうがよい。
もっと言えば、お金の問題ではない。
いや、負の自我群というのは、たいていのばあい、何らかの形で、その底流で、
金銭問題がからんでいる。物欲がからんでいる。
私の知人の中には、親の遺産問題で、兄弟姉妹で、三つ巴(どもえ)、四つ巴の喧嘩を
くり返した人がいる。
「近所中に聞こえるほどの怒号が、毎晩のように聞こえた」という。
そういった状態が1年近くも、つづいた。

で、その結果だが、うち2人の人は、それから2年足らずの間に、
がんと、脳卒中で他界している。
もう1人は、現在、心臓の動脈硬化症で手術を受けている。

ワイフはその話をしながら、こう言った。
「きっとそのときのストレスが原因で、そうなったのよ」と。

言い忘れたが、その知人の「家族」では、長女が実家と土地を引き継ぎ、
長男と二女、三女が、金銭を受け取った。
受け取った金額は、1人あたり、7000万円だったという。

私「しかしね、7000万円受け取っても、そのあと死んでしまったのでは
意味ないね」
ワ「そうね」と。
私「でもさ、その人たち、7000万円も、どう使ったんだろうね」
ワ「そうね。1人は、家を新築したそうよ」と。

7000万円といえば、はんぱな額ではない。
しかしたとえ小銭でも、騒動の原因となることもある。
汲々(きゅうきゅう)としている人はいくらでもいる。
それが自我群の問題とからむと、とたんに負の自我群に変身する。
人間関係そのものを破壊することも珍しくない。

先の知人にしても、遺産分けがすんだあと、たがいの行き来は、
まったくなくなってしまったという。

兄弟姉妹でも、一度リズムが狂うと、兄弟姉妹であるが故に、憎しみあう。
他人以上の他人になる。そういう例は、ゴマンとある。

●割り切る

では、どうするか?

親子や兄弟はともかくも、親類については、はなから他人と思えばよい。
私の親類にしても、口を出してくる人は多いが、いまだかって
金銭的な援助をしてくれた人は、ひとりもいない。
そういう人たちは、最初から、自我群の(外)置けばよい。
つまり相手にしない。
相手が何を言っても、「ああ、そうですか」と、ヘラヘラと笑っていればよい。

ずいぶんと辛らつな言い方に聞こえるかもしれないが、
そうでもしないと、この自我群による幻惑(=呪縛感)から解放されることはない。
言いかえると、自我群による幻惑は、それほどまでに強力であるということ。
本能に近い部分にまで、情報がインプットされているから、
少しぐらい抵抗したところで、ビクともしない。

ともかくも、よき人間関係は、それ自体が、すばらしい財産である。
それを維持するには、コツがある。
(失敗ばかりしている私が、こういうことを言うのも、おかしなことだが……。)

(1) 家庭問題には、干渉しない。
(2) 金銭問題については、いつも明確にしておく。
(3) グチ、悪口は、タブー中のタブー。

なおこれは余談だが、加えて、加齢とともに、脳みそそのものが硬直する。
硬直した頭で、ぶつかりあうから、たがいに譲らない。
結果として、大騒動に発展する。……発展しやすい。

私も似たようなケースに遭遇しているが、ときどき、その相手との間に、
どうしようもないほど、遠い距離感を覚えることがある。
「この人に説明して、わからせるためには、数年かかるかもしれないな」とか、
「不可能に近いだろうな」とか。

とくに冠婚葬祭の問題がからんでくると、そうである。
「それは迷信だと思います」とでも言おうものなら、
狂ったように、反発してくる。

「お前は、ご先祖様を、どう考えているのかア!」と。

価値観というより、人生観。人生観というより、哲学そのものがちがう。
いや、そういう人には、もとから哲学など、ない。
過去を踏襲しているだけ。

だから私のばあい、適当に合わせて、それですますようにしている。
この世の中、角を立てれば、何かと、やりにくい。住みにくい。

●子育ての中で……

仲がよく見える兄弟・姉妹でも、そこに利害関係がからむと、とたんに様子が一変する。
それが兄弟・姉妹と考えてよい。

一般論から言うと、名前で呼びあう兄弟、姉妹は、仲がよい。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん」ではなく、「太郎くん」「花子さん」と呼びあう。
上下関係をつくらない、あるいは上下意識をもたせない。

たとえばアメリカやオーストラリアなどでは、こうした上下関係は、いっさい、ない。
親子でも、ない。夫婦でも、ない。先生と生徒、社長と社員にしても、
学校や会社を一歩離れたら、(対等)となる。

しかしこの日本では、そうはいかない。
とくに権威主義的なものの考え方をする人ほど、そうである。
「ぼくは長男だから」「あなたは男だから」と。
安易な『ダカラ論』をもちだして、自分の立場を正当化しようとする。

このダカラ論が、その関係をより複雑にする。
「私は二男なのに、両親のめんどうをみた」
「私は、嫁で出た身分なので、関係ない」とか、など。

話がそれたが、子どもが複数いるときは、「常に平等」を心がける。
ただ農村地域については、(農業を、後継者に伝えていく)という立場から、
何もかも平等というわけにはいかないかもしれない。
そのため昔ながらの長子存続という習慣も、残っている。
が、その一方で、その習慣にしばられ、もがき苦しんでいる人が多いのも事実。

親類、縁者の目。
近所のつきあい。
年老いていく両親の問題、などなど。
そうした自我群の中で、がんじがらめになっている。
自我群の中で犠牲になった人の苦悩も、これまた大きい。

が、親としては、こうした苦しみを子どもに残すことは、最小限にしたい。
その準備というか、努力は、怠ってはいけない。
とくに今、(財産)と言えるものをもっている人ほど、そうではないか。
「子育て」というと、えてして、(親子関係)を中心に考える。
しかしそれ以上に大切なのは、(兄弟関係)ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 家族 家族論 家族という自我群 正の自我 正の自我群 幻惑)

*Photochemical Oxidant

●地上オゾンの恐怖(Photochemical Oxidant)
Photochemical Oxidant is to affect the growth of plants and vegetables on earth. According to the recent research done by Agricultural Environment Technical Center of Japan, in China the production of cereals would be dropped abt . 40%~60% by the year of 2020.

+++++++++++++++

TK先生から、地上オゾンの話を
聞いてから、もう7、8年になる。

中国から流れてきた排気ガスが、
光化学オキシダントとなって、植物の
光合成に影響を与えるというのだ。

TK先生は、当時、すでに沖縄などでは、
20%近く収穫量が落ちているという
ような話をしてくれた。
(聞き覚えなので、この数字は不正確。)

しかしそれがますます現実味を帯びてきた。

読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞++++++++++

 中国大陸からの大気によって、光化学オキシダントの濃度が上昇する
「越境汚染」問題で、日本海沿岸部のある地点のコメの収量を調べたところ、
内陸部との比較で、約1割少なくなっているとする研究結果を、
農業環境技術研究所(茨城県つくば市)が、20日、山口県で
開かれた日本農業気象学会で発表した。

 光化学オキシダントは近年、日本海の離島などで、高濃度で観測され、
昨年は新潟、大分県で注意報が発令された。
農作物の収量減少は実験から推測されてはいたが、部分的とはいえ、
実際に濃度と収量の関連が裏付けられたのは初めて。

 研究は、長谷川利拡主任研究員によるもの。品種と肥料水準は、
同一の日本海沿岸部の1地点と約30キロ内陸に入った1地点を選び、
1980年からの収量データを比較した。両地点の近くで測定された
光化学オキシダントの5~9月の平均濃度は、2001~05年の
平均では沿岸地点が0・045ppmで、内陸地点の0・031ppm
より高かった。

 濃度は沿岸、内陸ともに上昇していたが、沿岸では96~05年にかけて、
毎年、内陸部の2倍にあたる0・001ppm高くなっていた。

 両地点の玄米の1平方メートル当たりの収量は、
沿岸は80~96年は平均588グラムだったのが、
97~05年は560グラムに減った。逆に内陸では、
577グラムから609グラムに増えた。
80年代は沿岸の方が内陸よりも多かった収量が、
90年代半ばから逆転し始め、2000年以降は内陸が沿岸を常に上回った。

 沿岸では、内陸と異なり、夜になっても光化学オキシダント濃度が下がらなかった。
夜間に海からオゾンが流れ込み、昼間の高濃度を保ったとみられる。

 小林和彦東大教授(農学)によると、収量が減るのは、
光化学オキシダントの主成分であるオゾンが植物の葉の中に入り、
光合成作用を妨げるため。農作物への影響について、
中国では研究者らが「2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40~60%減少する」と推定している。

+++++++++以上、読売新聞(3月20日)+++++++++++++

とくに気になるのは、最後の部分。そこには、こうある。

「中国では研究者らが、2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40~60%減少すると推定している」と。

わかりやすく言えば、光化学オキシダント濃度(地上オゾン)がふえるため、
中国では、2020年には、大豆、トウモロコシ、小麦の収穫量が、半減する
というのだ。

しかしこれは何も、中国だけの話ではない。

読売新聞によると、すでに新潟県、大分県では、「注意報」まで発令
される状態になっているという。

今では酸性雨による木々の立ち枯れなど、珍しくも何ともない。
この日本でも、ごくふつうの景色になってしまった。

そこへ今度は、光化学オキシダント!

さらにそれに加えて隣の韓国では、中国からの黄砂による健康被害まで
報告されるようになっている。
黄砂は、大気汚染とは、直接には関係ない。
しかし(大気汚染)→(温暖化)→(砂漠化)→(黄砂の大量発生)と
つなげてみると、元凶は、やはり大気汚染ということがわかる。

不測の事態が、また別の不測の事態を生み出す。
このドミノ倒しによって、地球環境は、爆発的に悪化する。
ほんの7、8年前には、科学者の間では、ほんのうわさ話にしか過ぎなかった。
「地上オゾン」という名前すら、世間ではほとんど知られていなかった。

私が5年前に書いた原稿を載せる。日付は、03年の4月になっている。

+++++++++++++++++

●異常気象

 このところ、SARS(新型肺炎)だとか、北朝鮮問題とか、何かと世相が、騒がしい。で、そういう騒がしさにまぎれて、おととい(4月17日)、静岡県のS町で、31・5度という、観測史上はじまって以来という、気温を記録した。たしか昨年(02年)は、5月末に、30度を超えたと思う。そのときも、「観測史上はじめて」という言葉を聞いたような気がする。(あいまいな記憶で、申し訳ありません。)それが今年は、去年より、約40日も、早まったことになる!

 私が子どものころは、30度を超えるのは、毎年梅雨あけの、7月に入ってからだった。それがふつうだった(岐阜県)。30度を超えると、「真夏日」ということになり、川で泳ぐのが許された。しかしそれとて、梅雨があけてからのこと。だいたい7月10~15日過ぎのことだった。しかし今では、4月の中旬に、30度を超える!? ゾーッ!

 気象庁には、「平年並み」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんな言葉はない。気象庁がいう平年並みというのは、過去30年間の平均気温をいう。だからもし30年ごとに5度ずつ気温が上昇したとしても、平年並は、平年並になってしまう? 「今年の気温は平年並みです」と。

 しかし地球温暖化は、確実に進行している。しかも予想より、はるかに早いペースで進行している。数字の上では、この半世紀で、1度前後しか上昇していないというが、実感は、とてもそんなものではない。気象庁は、ひょっとしたら、世界の指導者と申しあわせて、ウソを言っているのではないのか? ……つまりそう思ってもおかしくないほど、実感気温とかけ離れている。

 たとえば気象庁の記録によれば、2000~02年度においてさえ、この浜松市での最高気温は、31度前後(8月)ということになっている。しかしこんなのは、まっかなウソ。昨年は、わりと涼しかったほうだが、それでも浜松市内では、連日、40度近くは、あった。「今日の最高気温は、32度でした」などと報道されるたびに、私は温度計を見ながら、「どこの気温のことを言っているのか?」と思った。

 しかしそれにしても、深刻な話である。地球温暖化が進めば、やがて地球は火星のようになると言う人もいる。今のまま温暖化が進めば、その可能性は、きわめて高い。そこまでいかなくても、あと10年もすれば、2~3月期に、30度を超えるようになるかもしれない。そうなれば日本の気象状態は、完全に狂う。

……と、まあ、地球温暖化の問題を考えていると、SARSや北朝鮮の問題が、小さく見えてくるから不思議である。それにSARSや北朝鮮の問題は、まだ人間の力で何とかなる。が、地球温暖化はそうではない。人類滅亡どころか、すべての生物が死滅する。

だから、地球温暖化を考えていると、「どう解決するか」ということよりも、「どう静かに滅亡するか」という問題になってしまう。いや、滅亡するなら滅亡するで、かまわない。問題は、それまでのプロセス。人間は、決して静かには滅亡しないだろう。恐らく(というより、確実に)、まさに地獄を経験するに違いない。秩序やモラルは崩壊し、殺人や暴力が、日常的に横行するようになる。略奪や殺人が、日常的に横行するようになるかもしれない。知能が高い分だけ、「末期」は、悲惨(ひさん)なものになる。

 そこで人類には希望がないのかというと、方法がないわけではない。一つは宇宙へ飛び出すという方法。もう一つは、人類がたくわえた知識や知恵を、コンピュータの形で後世に残すという方法。地球の周辺に、何かのガスをまいて、それで太陽光線をさえぎるという方法。あるいは太平洋のど真ん中で、数千発の核兵器を爆発させて、地球の大気に「穴」をあけるという方法などがある。

どこかSF的だが、しかしすでにそういう方向で考えている科学者もいるという。いざとなれば、方法はいくらでもある?

 しかしまあ、人間も、好き勝手なことをしたものだ。もっとも、私たちおとなは、自業自得としての結果だから、あきらめることができるが、かわいそうなのは、子どもたちである。これから先、どういう未来を経験することやら? 申し訳ないことをしたと思うのと同時に、考えれば考えるほど、気が重くなる。たいへん悲観的なことを言うが、この問題だけは、もうくるべきところまできたような感じがする。単純な問題ではないだけに、どこから手をつけてよいのかさえわからない。たとえばこんなこともある。

 ところで「地上オゾン(対流圏オゾン)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。種々の排気ガスや煙が化学的に反応して、それが地上オゾンになるという。温室効果ガスの一つだが、その地上オゾンが、5%ふえると、農作物が約20%減少するという※。そこであの北朝鮮だが、近年、農業生産が慢性的に不振状態にあるという。その原因のひとつが、地上オゾンではないかと言われている。

もちろん韓国も影響を受けているらしい。もちろんその発生源は、中国、ロシア。日本も、沖縄あたりに影響が出始めているという。農作物だけではない。森林も影響を受ける。そしてその結果として、ますます地球の温暖化は進む……。あああ。
(030419……この原稿は、去る、4月19日に書いたものです。)

※……この数値は、ある科学者から直接、会話の中で聞いたもので、確たる根拠があるわけではありません。ただ沖縄地方における地上オゾン濃度の上昇率と、農作物の減少率が根拠になっていると、その科学者は言っていました。(了解をもらっていないので、名前を出すことができません。)

(注)ここでいうTK先生というのは、光合成、触媒の世界ではよく知られた、田丸謙二先生をいいます。

+++++++++++++++++

最後に、昨日、こんなニュースが新聞に載っていた。
何でもあの火星から、塩のかたまりが、見つかったという。
しかもその塩のかたまりが、何百か所から見つかったという。

つまりかつては、火星にも海があったということ。

このことが何を意味するか?
一説によれば、火星にも人間のような知的生物がいたという。
その知的生物たちが、現在の地球人と同じように、発展とともの(?)、
火星温暖化を招いてしまったという。

もちろんこれはSF的な話でしかない。

……とまあ、いろいろ考えられるが、そこでどうだろう。
このあたりで、名前を変えてみたら……?

「地球温暖化」ではなく、「地球火星化」と。
そうすれば、もう少し、ことの深刻さを、より多くの人にわかって
もらえるようになるかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地球温暖化 地球火星化 光化学オキシダント 地上オゾン はやし浩司)

Thursday, March 20, 2008

Divorce at the retirement age

●熟年(定年)離婚(The Retirement age divorce)
More and more wives are to state divorce upon her husband’s meet the retirement at age limit in Japan.

++++++++++++++++

熟年(定年)離婚がふえている。
ふえているというより、多い。

一般的には、妻の方が、それまで
ためこんできた欲求不満を、そこで
爆発させる。そのために、離婚に至るケース
が多いと説明される。

しかしどうもそれだけでも、ないように
思う。
私自身が、その年齢になって、わかった
ことがある。

その第一は、夫側の情緒がたいへん
不安定になるということ。
(仕事)を失った夫というのは、
いわば糸の切れた凧のような状態になる。

その状態で、精神的な安定を保てと
言われても、そうは簡単にできない。
そのままうつ病になる人だって、いる。

そういう夫と四六時中、顔をつきあわせる。
日経新聞にこんな記事が載っていた(05年
12月4日付)。

++++++++++++++

いわく、「定年退職した男性の8割は、『何もしない人』に
なってしまう。いつも家にいる引きこもりの夫が、
妻の最大の不満原因になる」という。企業戦士だった夫が
くたびれ果て、家庭に戻ってきた時から、妻の日常は激変する。
夫が定年を迎える時、妻の平均年齢は54、5歳だ。
老いはまだ遠く、エネルギーに満ちあふれている。

仕事をもっていたり、地域や福祉・文化活動で忙しい。
夫の方は妻の進化を知らず「めし」「風呂」「寝る」しかいわない、
「三語族」になる。「妻が外出する日は、何時に帰るのか、
とくに食事がどうなるのか心配でたまらない。
そのため妻の外出を禁止する夫もいる」(西田氏)と。

++++++++++++++

そして「引き続いて、夫が家にいることのストレスが、
妻の病気を引き起こすこともあるという」(心療内科医、
黒川順夫氏、「主人在宅ストレス症候群」)と。

++++++++++++++(以上、日経新聞)

「主人在宅ストレス症候群」ねエ……?

で、その結果、夫婦の間のキレツも深くなる。
衝突もする。
その結果として、妻の、それまでの
欲求不満に火がつく。

「仕事、仕事って、あなたの頭の中には、
仕事しかないの!」と。

残念ながら、この段階で、夫の精神状態の
変化に、寛大な妻というのは、そうはいない。
「夫は、うつ病だから……」と、一歩、退いて
夫を客観的に見ることができる妻となると、
さらに少ない?

その場だけの夫を見て、自分の将来の
あり方を、考えてしまう。
「こんな夫と、これから先、いっしょに
生活することは、できない。だから離婚!」と。

つまり私が言いたいのは、熟年(定年)離婚と
いうのは、妻側の欲求不満だけが、原因では
ないということ。

定年で生ずる夫側の混乱が、離婚の引き金を引く。
そういうケースも多いのではないか?
わかりやすく言えば、夫たるもの、安易に、
うつ病にもなれないということ。

寅さんではないが、「男もつらいよ」となる。
ホント!

ちなみに、厚生労働省の人口動態統計03年版によれば、
離婚件数は28万9838組で、前年の28万5911組より、
3927組増加し、離婚率(人口千対)は2・30、
前年の2・27を上回り、離婚件数とともに、明治32年以降、
最高となった。結婚が42秒に1組なのに対して、1分49秒に
1組が離婚していることになるという(All about セカンドライフHPより)。

また、02年は、結婚20年以上の熟年世代、約45500組が離婚。
熟年離婚は、この27年で約3倍にふえたという(同HP)。

(付記)

よくわからないが、私のワイフも、私の知らないところで、
懸命に離婚を模索している(?)。
最近、そんな感じがする。
まあ、もともと私と、好きで結婚した人ではないから、
それもしかたない。

私がワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に
離婚していただろう。
それがよくわかるから、私も、強く言うことはできない。
今まで、私のような夫に、よく堪え忍んでくれたと思う。ホント!

まだワイフの気持ちを確かめたわけではないが、
もうそろそろ、ワイフを自由にしてあげるのも、
私の努めかもしれない。

と、同時に、私も、心の準備をしておかねばならない。
何も離婚は悪と、決めつける必要はない。

この先、離婚問題について、いろいろ書いてみたい。